アレッツォの9月20日通りです。
通りの55番地にあるのがヴァザーリの家です。
ジョルジョ・ヴァザーリ(アレッツォ、1511フィレンツェ、1574)がこの建物を買ったのが、30歳だった1541年でした。
当時、ヴァザーリはフィレンツェに居を構え、フィレンツェ、ローマを何度も往復して仕事をしていたので、非常に多忙でしたが、生まれ故郷のアレッツォの屋敷を買い、部屋内部の装飾に努めたのです。
暇を見つけては、アレッツォに戻りました。部屋の装飾は1542年に始められ、1568年に終わったとされてます。
ヴァザーリの死後、子孫たちがこの屋敷に居住していましたが、1687年子孫が途絶え空家となってしまいました。
その後、フラテルニータ・デイ・ライチ(世俗の修道会会員の組織)が買い取り、その活動のために使用されていましたが、1897年にプロッツィ家の屋敷となりました。
写真はヴァザーリの家の入り口です。
1911年、建物は市当局の所有となり、同年美術館として一般公開されるようになりました。
2015年の入館者は11,443人だったそうです。この数字はチョット意外な感じがします。私が行った時、10人程度の入館者を何時も見かけますから。
部屋上部にヴァザーリの描いたフレスコ画があります。その肖像画は彼の友人たちのものです。
また、壁の絵画は彼の作品や彼が収集したものです。
仕事ではなく、ヴァザーリの好みと趣味で描いたそうです。
暇を見つけてはフィレンツェ、ローマからこの屋敷に戻り、フレスコ画や絵画の制作に没頭したそうです。よほど絵を描くのが好きだったのでしょう。
マーゾ・ダ・サン・フリアーノ(フィレンツェ、1531‐1571)の「受胎告知とバーリの聖二コラ」(1560‐70c)
ジョヴァンニ・バルドゥッチ通称イル・コスチ(フィレンツェ、1560c‐ナポリ、1631以降没)の「聖アントニオ・アバーテの奇跡」(1580‐90c)
ジョヴァンニ・マリア・ブッテ—リ(フィレンツェ、1540c‐1606)の「聖セバスティアーノの殉教」(1570‐80c)
ロレンツォ・サバティーニ(ボローニャ、1530c‐ローマ、1577)に帰属する「墓地のマグダラのマリア」(16世紀第3四半世紀)
ジョヴァンニ・ストラダーノ(ブルージュ、1523‐フィレンツェ、1605)の「磔刑」(1581)
ミラベッロ・カヴァローリ(フィレンツェ、1535‐1572)の「聖バルバラ」(16世紀第3四半世紀)
ヤコポ・リゴッツィ(ヴェローナ、1547‐フィレンツェ、1627)の「悔悛の聖ジローラモ」(1580‐90c)
アレッサンドロ・アッローリ(フィレンツェ、1535‐1607)の「祈る聖フランチェスコ」)1606)
ジローラモ・マッツォーラ・ベドリ(ヴィアダーナ、1500c‐パルマ。1569)に帰属する「聖ジローラモ」(1540‐50c)
フィレンツェの無名画家の「アンドレア・デル・サルト作『洗礼者聖ジョヴァンニ』の複製画」(16世紀後半)
フィレンツェの無名画家の「聖エレーナ」(1590‐1600c)
フィレンツェの無名画家の「聖ジローラモ」(1590‐1600c)
フィレンツェの無名画家の「コルトーナの聖マルゲリータ?」(1590‐1600c)
ヴァザーリ自身制作のヴァザーリの家の模型(1572)
ヴァザーリの「Guida」(1542c)
ヴァザーリの「砂漠のエリア」(1563‐64)
ヴァザーリの「アベルの犠牲」(1563‐64)
ヴァザーリの「最後の晩餐」(1563‐64)
アンドレア・サンソヴィーノ(モンテ・サン・サヴィーノ、1470c‐1529)の「ガルバ帝」(1510‐15)
次はアポロとミューズの部屋です。
この部屋の壁にも絵画が掲げられてます。
ヤコポ・ズッキ(フィレンツェ、1541c‐ローマ、1596)の「マルシアの皮を剥ぐアポロ」(1570‐80c)
ヤコポ・リゴッツィ(ヴェローナ、1547‐フィレンツェ、1627)の「ミケランジェロ作『フォルトゥーナの寓意』の複製画」(1570‐80c)
カルロ・ポルテッリ(1538‐1574活動記録)の「慈愛の寓意」(1555c)
ペリン・デル・ヴァーガ(フィレンツェ、1501‐ローマ、1547)の「ノアの洪水」(1530‐40c)
ヴァザーリの追随者の「賢明の寓意」(16世紀第3四半世紀)
ヤコポ・ズッキの「アドーネの死」(1577以降)
イタリアの無名画家の「パリス(注:ギリシャ神話)の判決」(16世紀後半)
トスカーナの無名画家の「アポロとダフネ」(16世紀第4四半世紀)
詳細不明
(つづく)
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