今回からGalleria d'Arte Modernaです。
美術館を巡っていくうちに、イタリアの近代美術も徐々に好きなっていきました。ブログの対象を13世紀頃から17世紀頃までにしていましたが、今回、初めて近代美術を取り上げることにしました。
近代美術館は、ピッティ宮の2階(日本の3階)にあります。
18世紀末から20世紀前半までのトスカーナの絵画、彫刻が展示の中心です。展示されている作品の多くが好きという訳ではないので、主に私が好きな制作者の作品に絞って紹介することにしましょう。
美術館の入り口です。
第1室です。
展示作品はほぼ年代順に並べられています。
ポンぺオ・ジローラモ・バトーニ(ルッカ、1708‐ローマ、1787)の「岐路のヘラクレス」
ポンぺオ・バトーニですが、普通は近代の画家としない場合が殆どと思います。
ポンぺオ・ジローラモ・バトーニの「ヘラクレスと子供」
ルイージ・ビエナイメ(カッラーラ、1795‐ローマ、1878)の「ゼピュロス(西風の神)」(1841)
ガスパーレ・ランディ(ピアチェンツァ、1756‐1830)の「Le Marie al sepolcro」
第2室です。
ロープが張られて、作品の前に立って鑑賞できないようになってます。
アントニオ・カノーヴァ(1757‐1822)の「カリオペ(雄弁の女神)」
第3室もロープが邪魔して、少し遠くから作品を見ることになってます。
第4室もロープが張られています。ロープを張って入館者を阻止したい場所を設ける理由がよく分かりません。見せたくないならば、倉庫にでも保管すれば良いと思うのですが・・・・
この部屋からロープ無しの普通の展示になります。
第5室
フランチェスコ・アイエツ(ヴェネツィア、1791‐ミラノ、1882)の「サムソン」
フランチェスコ・アイエツの「Due Foscari」
フランチェスコ・サバテッリ(フィレンツェ、1803‐ミラノ、1830)の「オイレオの息子アイアース」
アイアースはトロイア戦争で活躍した人です。
エンリコ・ポッラストリーニ(リヴォルノ、1817‐フィレンツェ、1876)の「洪水の人命救助」
サルヴィーノ・サルヴィーニ(リヴォルノ、1824‐アレッツォ、1899)の「La Ehma」
フランチェスコ・コゲッティ(ベルガモ、1802‐ローマ、1875)の「十字架降下」
次の部屋です。
第6室
オドアルド・ボッラーニ(ピサ、1833‐フィレンツェ、1905)の「中世」
フィリッポ・パリッツィ(ヴァスト、1818‐ナポリ、1899)の「La famiglia reale di Napoli a caccia」
オドアルド・ボッラーニの「聖テレーザの光悦」
ジョヴァンニ・バスティアニーニ(1830‐1868)の「若い女性の胸像」
次の部屋です。
第7室
アントニオ・チゼーリ(スイス、1821‐フィレンツェ、1891)の「ジョヴァンニ・ドゥプレの肖像」(1882‐86)
次の部屋です。
アリストデモ・コストーリ(フィレンツェ、1803‐1871)の「Meneceo」
ピオ・フェーディ(ヴィテルボ、1816‐フィレンツェ、1892)の「聖セバスティアーノ」
ソーニ・ジュゼッペ(クレモナ、1795‐ミラノ、1874)の「エリザベート皇后の肖像」
次の部屋は肖像画だけの展示です。
第8室
見覚えがある顔はこれだけです。
ヴィトー・ダンコーナ(ダ・アンコーナ)(ペーザロ、1825‐フィレンツェ、1884)の「ロッシーニの肖像」
次の部屋です。
第9室
エミリオ・ドンニーニ(1809‐1886)の「川が流れている村」
アントニオ・フォンタネージ(レッジョ・エミリア、1818‐トリノ、1882)の「フィレンツェ、アルノ川の風景」
西洋絵画に興味を持つ日本人で、アントニオをご存じない方はいらっしゃらないと思います。まあ老婆心ながら少し触れてみましょう。
明治9年(1876年)、アントニオは日本人に西洋絵画を教授すべく明治政府から招聘を受け来日しました。その後間もなく勃発した西南戦争による明治政府の資金難とアントニオ自身の健康問題もあって、明治11年には帰国するのですが、その短い滞在にも拘らず明治初期の西洋画に大きな影響を与え、アントニオの指導を受けた画学生の中から有能な西洋画家が育ったのです。
次の部屋です。
第10室
クリスティアーノ・バンティ(サンタ・クローチェ・スッラルノ、1824‐モンテムルロ、1904)の「Tre Contadine」
私には都会の娘たちが郊外に散歩に出たように見えます。
クリスティアーノ・バンティの「Tre Contadine」
(つづく)
美術館を巡っていくうちに、イタリアの近代美術も徐々に好きなっていきました。ブログの対象を13世紀頃から17世紀頃までにしていましたが、今回、初めて近代美術を取り上げることにしました。
近代美術館は、ピッティ宮の2階(日本の3階)にあります。
18世紀末から20世紀前半までのトスカーナの絵画、彫刻が展示の中心です。展示されている作品の多くが好きという訳ではないので、主に私が好きな制作者の作品に絞って紹介することにしましょう。
美術館の入り口です。
第1室です。
展示作品はほぼ年代順に並べられています。
ポンぺオ・ジローラモ・バトーニ(ルッカ、1708‐ローマ、1787)の「岐路のヘラクレス」
ポンぺオ・バトーニですが、普通は近代の画家としない場合が殆どと思います。
ポンぺオ・ジローラモ・バトーニの「ヘラクレスと子供」
ルイージ・ビエナイメ(カッラーラ、1795‐ローマ、1878)の「ゼピュロス(西風の神)」(1841)
ガスパーレ・ランディ(ピアチェンツァ、1756‐1830)の「Le Marie al sepolcro」
第2室です。
ロープが張られて、作品の前に立って鑑賞できないようになってます。
アントニオ・カノーヴァ(1757‐1822)の「カリオペ(雄弁の女神)」
第3室もロープが邪魔して、少し遠くから作品を見ることになってます。
第4室もロープが張られています。ロープを張って入館者を阻止したい場所を設ける理由がよく分かりません。見せたくないならば、倉庫にでも保管すれば良いと思うのですが・・・・
この部屋からロープ無しの普通の展示になります。
第5室
フランチェスコ・アイエツ(ヴェネツィア、1791‐ミラノ、1882)の「サムソン」
フランチェスコ・アイエツの「Due Foscari」
フランチェスコ・サバテッリ(フィレンツェ、1803‐ミラノ、1830)の「オイレオの息子アイアース」
アイアースはトロイア戦争で活躍した人です。
エンリコ・ポッラストリーニ(リヴォルノ、1817‐フィレンツェ、1876)の「洪水の人命救助」
サルヴィーノ・サルヴィーニ(リヴォルノ、1824‐アレッツォ、1899)の「La Ehma」
フランチェスコ・コゲッティ(ベルガモ、1802‐ローマ、1875)の「十字架降下」
次の部屋です。
第6室
オドアルド・ボッラーニ(ピサ、1833‐フィレンツェ、1905)の「中世」
フィリッポ・パリッツィ(ヴァスト、1818‐ナポリ、1899)の「La famiglia reale di Napoli a caccia」
オドアルド・ボッラーニの「聖テレーザの光悦」
ジョヴァンニ・バスティアニーニ(1830‐1868)の「若い女性の胸像」
次の部屋です。
第7室
アントニオ・チゼーリ(スイス、1821‐フィレンツェ、1891)の「ジョヴァンニ・ドゥプレの肖像」(1882‐86)
次の部屋です。
アリストデモ・コストーリ(フィレンツェ、1803‐1871)の「Meneceo」
ピオ・フェーディ(ヴィテルボ、1816‐フィレンツェ、1892)の「聖セバスティアーノ」
ソーニ・ジュゼッペ(クレモナ、1795‐ミラノ、1874)の「エリザベート皇后の肖像」
次の部屋は肖像画だけの展示です。
第8室
見覚えがある顔はこれだけです。
ヴィトー・ダンコーナ(ダ・アンコーナ)(ペーザロ、1825‐フィレンツェ、1884)の「ロッシーニの肖像」
次の部屋です。
第9室
エミリオ・ドンニーニ(1809‐1886)の「川が流れている村」
アントニオ・フォンタネージ(レッジョ・エミリア、1818‐トリノ、1882)の「フィレンツェ、アルノ川の風景」
西洋絵画に興味を持つ日本人で、アントニオをご存じない方はいらっしゃらないと思います。まあ老婆心ながら少し触れてみましょう。
明治9年(1876年)、アントニオは日本人に西洋絵画を教授すべく明治政府から招聘を受け来日しました。その後間もなく勃発した西南戦争による明治政府の資金難とアントニオ自身の健康問題もあって、明治11年には帰国するのですが、その短い滞在にも拘らず明治初期の西洋画に大きな影響を与え、アントニオの指導を受けた画学生の中から有能な西洋画家が育ったのです。
次の部屋です。
第10室
クリスティアーノ・バンティ(サンタ・クローチェ・スッラルノ、1824‐モンテムルロ、1904)の「Tre Contadine」
私には都会の娘たちが郊外に散歩に出たように見えます。
クリスティアーノ・バンティの「Tre Contadine」
(つづく)
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