ドゥオーモを通り過ぎます。
ツア―客に大人気のドゥオーモです。
閑散期の2月中旬でしたが、かなりの混雑です。
クーポラからの絶景を楽しむには絶好の天気です。
並んでいる人は一人もいません。これが5,6月となると長蛇の列になります。
次は、サン・マルティーノ同信会祈祷所 Oratorio della Confraternita di San Martino dei Buonomini o Oratorio dei Buonomini di San Martinoです。
画材店のゼッキを通り過ぎます。祈祷所は、ダンテの家から至近の場所にあります。
ダンテ通りの街角の受胎告知です。
フィレンツェの逸名画家によるフレスコ画です。
ダンテの家の博物館については、そのうちに触れることにします。
祈祷所は直ぐ傍です。
ここです。以前は閉まっていることが多かったと思います。
この日、サン・マルティーノ同信会祈祷所は開いていました。
10世紀頃、この場所にサン・マルティーノ・アル・ヴェスコーヴォ教会がありました。
中世後期になると、フィレンツェの人口が増えるに従って、小さな教区が増えて乱立するようになりました。そのため、小さな教区の統廃合の一環として、教会の再編が必要とされました。
1441年、当時のフィレンツェ司教で聖アントニーノ・ピエロッツィ(フィレンツェ、1389‐1459)によって、La Comoagnia di San Martinoが設立され、サン・マルティーノ・アル・ヴェスコーヴォ教会は新たに設立された福祉組織に委ねられました。
1479年、祈祷所が再建整備されたのです。
ファサードの入り口扉上の「フィレンツェ司教聖アントニーノ」
コジモ・ウリヴェッリ(フィレンツェ、1625‐1705)のタベルナコロ
祈祷所の中に入りました。
祭壇に向かって左横に説明板があります。
贔屓の引き倒しのような記述があるので要注意です。
見所が豊富な祈祷所です。
フレスコ画は、ドメニコ・ギルランダイオ工房によって描かれたのは記録から明らかですが、工房にいた画家の誰によって描かれたのか、が議論になってます。
ここでは、多分フィリッピーノ・リッピとなってますが、現在ではフランチェスコ・ダントニオ・ザッキ通称イル・バレッタ(ヴィテルボ、1407c‐1476以降没)に描かれたという説が有力とされてます。他にドメニコ・ディ・ジョヴァンニの名前が挙げられました。
アンドレア・デル・ヴェロッキオ(フィレンツェ、1435‐ヴェネツィア、1488)の「聖アントニーノ司教」
「聖マルティーノの夢に現れたキリスト」(1478‐81)
フレスコ画は10点あって、聖マルティーノに関するもの2点、福祉組織の慈悲の業が6点、公証人の活動が2点となってます。
ビザンチン様式の逸名画家作「聖母子」(11世紀)
「貧者のマントを与える聖マルティーノ」(1478‐81)
「慈悲の業:死者の埋葬」(1478‐81)
「慈悲の業:巡礼者を迎える」(1478‐81)
ロッビア工房作「聖母子」
「慈悲の業:囚人への訪問」(1478‐81)
「慈悲の業:病人への訪問」(1478‐81)
「慈悲の業:衣服を与える」(1478‐81)
「慈悲の業:喉の渇きを癒すために水を与える」
「公証人の活動:結婚」
「公証人の活動:在庫調査」(1478‐81)
ニッコロ・ソッジ(アレッツォ、1480‐1552)、またはペルジーノ派逸名画家の「聖母子と聖ジョヴァンニーノ」
ニッコロ・ソッジはペルジーノの弟子でした。
詳細不知
外に出ます。
外に出たら、直ぐに扉が閉められました。
美術ファンにとっては中々興味深い祈祷所です。
(つづく)
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