ホテルを出て、先ずファエンツァ通りを通ります。
フリーニョの最後の晩餐美術館は開いているでしょうか?普段ならば開く日になってますが、近頃閉まっていることが多いのです。
小さなホテルがファエンツァ通りに沢山あります。
旧フリーニョ修道院だった建物です。
この日も最後の晩餐美術館は閉まっていました。尚、フリーニョの最後の晩餐美術館に付いては既に取り上げました。
毎日の行き来に見るジョヴァンニ・ディ・サン・ジョヴァンニの「聖母子のタベルナコロ」
少し進むと、もう一つ「聖母子のタベルナコロ」があります。
これです。
聖母子のタベルナコロ
14世紀のフィレンツェの逸名画家の作品です。
次の交差点を左折します。
メディチ家礼拝堂の前に出ました。
サン・ロレンツォ聖堂身廊横を進みます。
サン・ロレンツォ聖堂は拝観しないで先を急ぎます。
メディチ・リカルディ宮殿を通り過ぎます。
適当に歩いても何とかなります。
写真右はPalazzo Incontriです。
サン・ミケーレ教会(サン・ミケリーノ・ヴィスドミニ教会)です。
ちょっとだけ拝観しました。
外に出ます。
メディチ家の紋章の玉が一つしかありません。
街角の聖母子です。
19世紀中頃のフィレンツェの逸名画家の作品です。
バイクの駐車場です。
イタリアにしては整然と行儀良く駐車しているので、驚きでした。
次はサンタ・マリア・ヌオーヴァ病院です。
サンタ・マリア・ヌオーヴァ病院にやってきました。
ダンテの最愛の人ながら結ばれることがなかったベアトリーチェ・ポルティナーリ(フィレンツェ、1266c‐1290)の父フォルコ・ポルティナーリ(ポルティコ・ディ・ロマーニャ、1222?‐1289)によって1288年に建設されたサンタ・マリア・ヌオーヴァ病院です。
高利貸しで財を成したフォルコ・ポルティナーリが、贖罪のために財産の大部分を寄付して建設されたのです。
道路を挟んで病院の向かいにある建物です。
女子修道院だった建物です。
この修道院の修道女たちが向かいの病院で看護などをしていました。
フィレンツェにおける最古の福祉施設ながら、今なお現役の病院です。
芸術品の宝庫です。美術館に移された作品が幾つかありますが、今でも必見の作品が残されてます。
しかし、病院なので観光客の立ち入りは自制すべきであり、見ることが出来る作品は限られてます。
病院の建物にサンテジーディオ教会があります。教会の拝観は後回しにしました。
入口の柱廊です。病院には柱廊、回廊があります。
入口の柱廊のフレスコ画から見て行きます。
東端の壁に描かれたフレスコ画です。
タッデオ・ズッカリ(サンタンジェロ・イン・ヴァード、1529‐ローマ、1566)の「受胎告知」(1560c)
アントニオ・チルチニャーニ通称イル・ポマランチョ(ポマランチェ、1560‐ローマ、1620)の「キリストと教会博士たち」(1614)
単にイル・ポマランチョというと数人の画家がいるので、区別することが肝要です。
アントニオ・チルチニャーニ通称イル・ポマランチョ(ポマランチェ、1560‐ローマ、1620)の「嬰児虐殺」(1614)
アントニオ・チルチニャーニ通称イル・ポマランチョ(ポマランチェ、1560‐ローマ、1620)の「マギの礼拝」(1614)
アントニオ・チルチニャーニ通称イル・ポマランチョ(ポマランチェ、1560‐ローマ、1620)の「ご誕生」(1614)
メディチ家とポルティナーリ家の紋章
(つづく)
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