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エミリア通りです。


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写真左はPalazzo Sassatelliです。


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自転車利用者が非常に多いイーモラです。


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エミリア通りを左折してVia Don Bughettiに入りました。


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ヴェネツィア海軍総督タッデオ・デッラ・ヴォルぺによって15世紀に建設されたCasa della Volpeです。


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ドゥオーモの扉が閉まっていました。


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ドゥオーモの向かいに建つ司教館です。


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司教館内に教区美術館があります。


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司教館の扉が開いていたので、中に入ってみました。教区美術館は当然のことながら閉まっていました。


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ガリバルディ通りです。


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写真左は18世紀に建てられた神学校だった建物です。


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ガリバルディ通りの先にRocca Sforzescaがあります。


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スフォルツェスカ城塞 Rocca Sforzescaです。


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14世紀前半、イーモラは教皇領でした。
第197代教皇ベネデット12世(1285-1342 在位:1335-1342)は、イーモラの領有権をリッポ2世アリドージ(?、?-イーモラ、1350)に与えました。
要塞の現在地には、11世紀に建設された塔がありましたが、1334年、領有権を与えられたリッポ2世アリドージが塔の残骸の上に要塞の建設を開始しました。建設工事は、リッポ2世の死後は息子のロベルト・アリドージ(?、?-イーモラ、1362)に引き継がれ、ロベルトの存命中に一応の完成を見ました。


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アリドージ家のイーモラ支配は1424年まで続きましたが、同年、イーモラはミラノのヴィスコンティ家の支配下に置かれるようになりました。
その後、イーモラは、15世紀前半まで教皇領、ヴィスコンティ家、教皇領、ヴィスコンティ家と度々支配者が変わりました。
ミラノのヴィスコンティ家にとって、イーモラは飛地であり、その戦略的重要性(ボローニャとリミニを結ぶ交通の要衝)から、要塞はヴィスコンティ家によって拡大増強されました。


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1470年、イーモラは、ミラノ公爵スフォルツァ家の支配下に置かれるようになりました。


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1471年、第212代教皇に選出されたシスト4世(チェッレ・リーグレ、1414-ローマ、1484 教皇在位:1471-1484)は、実子と言われるジローラモ・リア―リオ(サヴォーナ、1443-フォルリ、1488)に領地を与えようとしました。
シスト4世は、貧しい家の生まれだったので、その一族郎党の繁栄に特に留意した教皇と言われてます。


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ジローラモ・リアーリオの領地としてミラノの飛地イーモラをターゲットに定めたシスト4世は、ミラノ公爵ガレアッツォ・マリア・スフォルツァ(フェルモ、1444-ミラノ、1476)に対して、ガレアッツォの娘カテリーナ・スフォルツァ(・デ・メディチ)(ミラノ、1463-フィレンツェ、1509)をジローラモ・リア―リオに持参金なしで嫁がせる代わりに、イーモラの領地代として4万ドゥカートをミラノ公に支払うとの提案を行いました。
当時、持参金は法外な金額でしたから、持参金なしで娘を嫁がせ、逆に領地代が入金するという絶好の条件だったので、ミラノ公はその提案を受け入れ、ジローラモ・リア―リオとカテリーナ・スフォルツァとの婚約が調ったのです。4万ドゥカートという領地代も巨額法外なものでした。


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1473年、ジローラモ・リア―リオとカテリーナ・スフォルツァは結婚しましたが、その際、フォルリはカテリーナの持参金代わりとされて、ジローラモ・リア―リオの領地となりました。


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要塞の周りを一周します。


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ジローラモとカテリーナの結婚前、ミラノの飛地イーモラの割譲を願っていたフィレンツェは、ミラノとの間にイーモラの割譲とフィレンツェ在住芸術家のミラノへの派遣の合意があったとされてます。


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ところが、1474年、教皇シスト4世から4万ドゥカートの支払い命令がメディチ銀行にあったのです。メディチ銀行ローマ支店は、教皇庁の銀行代理業務を行っていました。1474年当時、教皇庁には4万ドゥカートの金がなかったので、代理業務を行っていたメディチ銀行に支払い命令が下ったのです。


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4万ドゥカートがイーモラの領地代と知った、当時のメディチ家の当主ロレンツォ・イル・マニーフィコはミラノの合意違約を悟りました。また、ロレンツォの時代、既にメディチ銀行は破綻寸前で業務遂行の問題が出ていたので、巨額の4万ドゥカートのミラノへの支払いを渋りました。


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11世紀に建設された塔の残骸の一部です。


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メディチ銀行の支払いを渋る姿勢に業を煮やしたシスト4世は、教皇庁の銀行代理業務からメディチ銀行を外し、パッツイ銀行のローマ支店を起用して、4万ドゥカートの支払いを行ったのです。以後、メディチ銀行はドル箱だった教皇庁業務から完全に外され、破綻への道を進むことになりました。
このことは、1478年4月26日にフィレンツェ大聖堂で起きたパッツィ家陰謀事件の発端となりました。
脱線して関係者の肖像画をアップしておきましょう。


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巷間、カテリーナ・スフォルツァの肖像と言われてます。


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フォルリのサン・ドメニコ市立美術館で展示されてますが、そこではカテリーナの肖像画とは表示されてません。何故でしょうか?


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ミラノ公爵ガレアッツォ・マリア・スフォルツァの肖像です。


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フィレンツェのウッフィツィ美術館にあります。


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座っているのがシスト4世です。


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左から2番目、シスト4世にやや背を向けて立っているのがジローラモ・リア―リオです。


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ローマのヴァティカン絵画館にあります。


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ロレンツォ・イル・マニーフィコの肖像(ウッフィツィ美術館蔵)


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イーモラは、パッツィ家の陰謀事件の中心地です。


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フォルリとイーモラの伯爵ジローラモ・リア―リオはパッツイ家の陰謀事件の首謀者です。その辺の詳しい事情は「パッツィ家の反乱」とか「パッツィ家の陰謀事件」と検索すれば、幾つかの記事が出てきますので、そちらをご参照願います。


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ともあれ、パッツィ家の陰謀事件の首謀者ジローラモ・リア―リオは、1488年4月14日、ロレンツォ・イル・マニーフィコの後ろ盾を得た5人によってフォルリで暗殺されました。


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暗殺者たちの軍は、急を知ってフォルリ要塞に籠ったカテリーナ・スフォルツァに押し寄せて、有名な「ルネサンスの女傑」と言われる逸話が生まれたのです。


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夫の事件後、フォルリとイーモラの領主となったカテリーナ・スフォルツァは、2つの要塞を更に整備に努めました。


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1499年、チェーザレ・ボルジア軍がイーモラに攻め入りましたが、イーモラに苛政を布いていたカテリーナ・スフォルツァはイーモラ領民から嫌われ、イーモラのスフォルツェスコ城塞は無血開城されました。


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イーモラは教皇領となりましたが、イーモラ周囲も教皇領だったので、その戦略的重要性を失い、イーモラの防御は不要と判断されるようになりました。


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要塞は、1524年から教皇領の刑務所に転用されるようになりました。


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1958年まで刑務所でした。


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その後、修復整備されて、現在は陶器と武器の博物館として一般公開されてます。


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しかし、開館することは少ないような気がします。


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これで一周しました。
(つづく)