今回は、サンタ・クローチェ聖堂 Basilica Minore di Santa Croceです。
広場はもう直ぐです。
サンタ・クローチェ広場にやって来ました。
土産物屋が広場に面して軒を連ねてます。サヴォナローラの神権政治中、この広場は異端者の処刑場でした。主の犬と蔑まれ、恐れもされていたドメニコ会は異端審問を主導したことで知られてますが、フィレンツェでも同様で、異端者追求に最も熱心だったのがドメニコ会のサン・マルコ修道院でした。異端者処刑をサン・マルコ広場で行うなら可愛いものですが、サン・フランチェスコ修道会の牙城であるサンタ・クローチェ聖堂の広場で行うあたりに、その勢力誇示と運命の皮肉を感じます。サヴォナローラは、サン・フランチェスコ修道会からの火の試練の挑戦に対して、その対応に失敗して処刑されたのですから。
広場に面して建つのがサンタ・クローチェ聖堂です。サン・フランチェスコ会の最大の教会です。
1211年、城壁外のアルノ川の湿地帯だったこの地に、聖フランチェスコ自身によって建てられた教会と言われてます。
13世紀後半、規模を拡大することになり、当時の富裕層数家の資金負担によって、アルノルフォ・ディ・カンピオの設計で1294年創建、1385年にゴシック様式の建物が完成しました。
奉献は、教皇エウジェニオ4世によって1443年に執り行われました。
ところがファサードは未完成のまま、何百年も放置されたままでした。15世紀後半に当時の建築家イル・クロナーカによってファサードの設計が行われましたが、工事着工に至らず、結局、現在のサン・ロレンツォ聖堂に見られる粗レンガ積みのファサードだったと言われてます。
現在のファサードは、15世紀後半のイル・クロナーカの設計を元に、建築家Niccolo Matasの設計によって、1853年から1863年にかけて築かれた比較的新しいものです。
完成後150年以上経ってます。
イタリア統一の昂揚感が影響したファサードと言われてます。
比較的新しいものと知ってから、ドゥオーモと違ってやや有難味が薄れる私です。
ついつい見てしまうファサードです。
ポルティコ・ラテラーレが特徴です。
ポルティコは聖堂身廊の両側にあります。
修道院の建物です。
ファサードの前に立っているのは、エンリコ・パッツィ制作の「ダンテ像」です。
ダンテの生誕600年を記念して建てられました。
鐘楼は78.45mあります。
ゴシック様式の壮大な鐘楼は19世紀前半に落雷によって損傷を受けてしまいました。
現在の鐘楼は、ガエターノ・バッカーニの設計によって1840年から1865年に建設されたものです。
では、聖堂内部の拝観に移ります。
三廊式の非常に広い空間の聖堂内部です。
聖堂の構造図
礼拝堂が全部で16あります。
これを一応頭の中に入れて拝観しました。
付属美術館もありますが、聖堂自体も実質的に美術館と言っても過言ではありません。
大変な数の傑作や秀作があるので、目移りしてしまって、何処から見始めようかと迷います。
創設時は石のヴォルートでしたが、荷重を考えて木製のトラスに切り替えられました。
縦115m
右側廊の礼拝堂の紹介から始めることにします。
ピオ・フェーデ作の「ジョヴァンニ・バッティスタ・ニッコリーニのモニュメント」
サンティ・ディ・ティートの「磔刑」(1568)
ミケランジェロの墓
有名な墓ですが、芸術作品として見るには少々抵抗感がある私です。
アントニオ・ロッセッリ—ノの「アントニオとフランチェスコのノ—リ兄弟へのモニュメント」(1478c)
ヴァザーリの「カルヴァリオへの道」
右側廊
ダンテのモニュメント
ダンテの墓として作られたようです。ラヴェンナで客死したダンテですが、ラヴェンナのサン・フランチェスコ教会近くに小さな霊廟があります。ダンテの遺体の引き取りをラヴェンナに申し入れたフィレンツェですが、拒否されてしまいました。
ヤコポ・コッピ・ダル・メーリオの「この人を見よ」
説教壇
アルフィエーリの墓
アレッサンドロ・フェイの「キリストの鞭打ち」
マキャベッリの墓
アンドレア・デル・ミンガの「ゲッセマネ園の祈り」
ドナテッロの「受胎告知」
レオナルド・ブルーニの墓
ロッシーニの墓
チゴリの「キリストのエルサレム入城」(1603‐04)
(つづく)
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