イタリア芸術を楽しむ

イタリアの魅力を味わい尽くすには、一生に何度旅をすれば足りるだろう。芸術の宝庫にして、歴史の生きた証であるイタリア。 惹き付けて止まない絵画、彫刻、歴史的建造物、オペラなど、芸術の宝庫であるイタリアを楽しむブログです。 記事は一日に一つアップしています。記事の見方ですが、例えば「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その4)」は2017年10月20日にアップしました。各記事にカレンダーが表示されてますが、カレンダー上の2017年10月21日をクリックして頂ければ「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その5)」になります。(その3)は2017年10月20日となります。 BY:シニョレッリ

カテゴリ: ピエモンテ州

P1350085大体見終わって、乗車予定の列車の時間になったので、駅に向かいました。


P1350086
街角のフレスコ画


P1350087
突き当りがドゥオーモです。


P1350088


P1350211
サンティッシマ・トリニタ教会を通り過ぎます。


P1350213
街角のフレスコが多いと思います。


P1350214


P1350215
写真左の建物にもフレスコ画があります。


P1350216
フレスコ画ではなく、浮彫でした。


P1350217
写真左が町役場です。


P1350218
この道の先に駅があります。


P1350219
修復されたばかりの奇麗な道です。


P1350220
塔が見えますが、その詳細が分かりません。


P1350221


P1350222
道幅が広い方でしょう。


P1350224


P1350225


P1350226


P1350227


P1350228


P1350229
駅まで意外に遠かった。


P1350230
突き当りが鉄道駅です。


P1350231


P1350233
駅前広場

P1350232
駅に着きました。


P1350234


P1350235
ノヴァーラ行きの列車を待ちます。


P1350236
車内はガラガラでした。


P1350237
ノヴァーラ駅に到着しました。


P1350240
サンティア編終わり

P1350070修道院だった建物です。


P1350072
現在、この建物は町営の催事場として使用されているようです。


P1350074
私には、この建物の詳細が分かりません。


P1350075


P1350076
このような表示があるのですが、そのような様子が全くなく、扉が閉まったままでした。


P1350079
例え開館していても、入館者は殆どいないでしょう。


P1350078
時間は十分あったので、町歩きを続けました。


1
塔のフレスコ画


2
何の建物なのか、全く分かりません。


3


4


5
町外れの少し古い建物です。


6
壁龕のフレスコ画


7
城壁でしょうか?


8
町外れに行くと、第二次世界大戦の影響が少なかったようで古い建物が残っているようです。


9


10
お腹が空いてきました。


11
この横で道路の修復が行われていました。


12


13
この町では賑やかな通りです。


14


15
レストランに入店します。


16


17
張り切って食べました。


18


P1350080
ビール、ワインを飲んだのでトイレが心配。


P1350081


P1350082
この町ともそろそろお別れです。


P1350083
駅に向かいました。


P1350084
(つづく)

P1350056サンティッシマ・トリニタ教会の見学ツアーの時間待ちのブラブラ歩きです。


P1350057
見えている鐘楼はサンティッシマ・トリニタ教会のものです。


P1350060
サンティッシマ・トリニタ教会に出てしまいました。


P1350062
待っている人が誰もいません。


P1350064
見学会なんて本当にあるの? 不安になりました。


P1350058
病院の建物です。


19
ドゥオーモにもう一度入りました。


20
もう一度ジローラモ・ジョヴェノーネの多翼祭壇画を観ます。


21
満足しました。


P1350059
ドゥオーモから外に出ました。


P1350061
教会の前には相変わらず誰もいませんでした。


P1350031
不安になって町役場に行きました。見学会のことは町役場で聞いたからでした。


P1350063
そうしたらビックリ。係員が外に出て、教会の方を見たら誰もいなかったので、今日は見学会なしと判断したとのこと。こんなことに驚いてはいけません、何せイタリアですから。例のイタリア流です。


P1350065
結局、係員に案内されて私一人の見学会となりました。


P1350066
この教会は宗教活動を停止したEx-chiesaです。


P1350067
修復されましたが、教会としての機能は戻されず、町所有の建物になりました。


P1350068
鐘楼


9


10


11


16
修復前の主祭壇画


12
主祭壇


13
修復後の主祭壇画


14


15


P1350071
係員からサンティアに来る奇特な人と思われたようです。


P1350073
係員に大いに感謝して別れました。


P1350077


P1350069


P1340383
(つづく)

P1350025未だサンティアのドゥオーモです。


P1350170
右側廊


P1350185
教会内のフレスコ画を見ます。


P1350188
詳細不知


P1350191


P1350194


P1350196
外に出ました。


6
ジローラモ・ジョヴェノーネの多翼祭壇画以外に見所があまりないドゥオーモでしたが、彼の作品に圧倒されました。それだけで、この町に来た甲斐があったというものです。


P1350197
ドゥオーモ広場です。


P1350198
ドゥオーモのミサが終わったので、広場に駐車している車が少なくなりました。


P1350199
ドゥオーモの後陣の方に進みます。


P1350200


P1350202


P1350203
ドゥオーモの鐘楼


P1350204
ドゥオーモの後陣です。


P1350208


P1350210
後陣の外観を見る限りかなり古そうに思えます。


P1350212


P1350049
更にぶらぶら歩きを続けました。


P1350050


P1350051
病院です。


P1350052
ドゥオーモの周囲をあちこち歩きました。


P1350205
ローマ広場です。


P1350206
ローマ広場に面して建つサンティッシマ・トリニタ教会です。


P1350207
サンティッシマ・トリニタ教会の見学会があるので、その時間まで暇潰し。


P1350053
暇潰しが大変でした。


P1350054
町役場の近くです。


P1350055
町外れに進みます。


18
サン・ジョルジョ教会です。


17
(つづく)

P1350048引き続きサンティアのドゥオーモ、サンタガタ参事会教会です。


P1350122
左第三礼拝堂です。
この礼拝堂の祭壇を飾る作品が見たくて、わざわざサンティアに途中下車したのです。


P1350125
ジローラモ・ジョヴェノーネ(ヴェルチェッリ、1490c-1555)の「サンティアのサンタガタの多翼祭壇画」(1531)
10枚のパネルから成るポリッティコですが、上段右端のパネルが19世紀に盗まれて欠損しています。盗まれたパネルには「アレッサンドリアの聖カテリーナ」が描かれていたそうです。


P1350124
ジローラモ・ジョヴェノーネの代表作とされている多翼祭壇画です。しかしながら、サンティアという目立たぬ町にあることから、実際に観たことがある美術史家が少なく、埋もれた存在の作品です。


P1350127
多翼祭壇画は上下二段に分かれてますが、この写真はその上段です。


P1350142
上段左から聖ルチア、聖ステファノです。アトリビュートが描かれているので、聖人を特定することができます。


P1350140
左から聖アガタ、聖イシドーロ


P1350128
下段です。


P1350132
下段中央の「聖母子」


P1350133
下段左から聖ロッコ、聖ジョルジョ


P1350149
左から聖ジョヴァンニ・バッティスタ、聖セバスティアーノ


P1350126
ジローラモ・ジョヴェノーネの多翼祭壇画上ルネッタに描かれたフレスコ画です。


P1350138
このフレスコ画もジローラモ・ジョヴェノーネの作品説がありますが、私は全く違うと思います。


P1350139


P1350130


P1350144


P1350148


P1350136


P1350150
左第三礼拝堂のイコン


P1350152


P1350154
カルロ・コスタの「受胎告知」(19世紀中頃)


P1350158
右翼廊礼拝堂


P1350159
右翼廊礼拝堂天井


P1350161
右翼廊礼拝堂の祭壇画(詳細不知)


P1350164
「聖ジョヴァンニ・バッティスタ」(詳細不知)


P1350165


P1350166
詳細不知


P1350167
右第三礼拝堂


P1350168
「ロレートの聖母」(詳細不知)


P1350169
サン・ジュゼッペ礼拝堂
(つづく)

P1350111引き続きサンティアのドゥオーモ、サンタガタ参事会教会です。


P1350097
パオロ・エミリオ・モルガーリ(トリノ、1815-1882)の「栄光の聖アガタ」(1862)


P1350098


P1350101
詳細不知


P1350104
パオロ・エミリオ・モルガーリ(トリノ、1815-1882)の「聖アガタ」


P1350106
パオロ・エミリオ・モルガーリの作品


P1350108
パオロ・エミリオ・モルガーリの作品


P1350110
パオロ・エミリオ・モルガーリの作品


P1350112
詳細不知の「聖心」


P1350113
カウンターファサードに置かれている、1861年に制作されたオルガン


P1350114
コリント式列柱


P1350115
この礼拝堂の右にクリプタに向かう階段があります。


7
聖ステファノに捧げられたクリプタ


8
12世紀に建設されたクリプタです。


P1350116
サンティアの聖イグナツィオ礼拝堂


P1350117


P1350119
詳細不知の「聖心」


P1350121


P1350155
左側廊


P1350156
左側廊から見た身廊中央方向


P1350157


P1350171
右側廊


P1350172
右側廊から見た身廊中央


P1350177
右第二礼拝堂です。


P1350174
ロレンツォ・ハートマンの「キリストの洗礼」


P1350176
パオロ・エミリオ・モルガーリの「父なる神」


P1350179
ロレンツォ・ハートマンの「聖霊降臨」


P1350181


P1350182


P1350183
(つづく)

P1350026サンティアのドゥオーモ、サンタガタ参事会教会 Collegiata di Sant'Agataです。


P1350047
教会の起源は不明とされてますが、10世紀の記録に、現在の場所に聖アガタに捧げられた教区教会の存在が記載されているそうです。そのため、10世紀以前に最初の建物が建設されたことは明白ですが、11世紀にヴェルチェッリ大司教がサンティア村に大司教区に属する教会建設を決め、最初の建物が取り壊され、11世紀に創建され、12世紀に完成したロマネスク様式の建物が二番目です。


1
教会の建物と鐘楼がアンバランスに見えます。それは当然で、教会の建物は新古典様式で19世紀に再建された三番目となるものです。ロマネスク様式の鐘楼は二番目の建物の鐘楼として12世紀に建設されました。


2
1377年、サンティアはヴェルチェッリ司教とミラノのヴィスコンティ家からサヴォイア家に引き渡されました。ところがサヴォイア家は、軍事的重要性があって屡々戦いの場となるサンティアの防衛に対して消極的に終始したことから、サンティアはフランスとスペインの抗争の戦場となってしまいました。サンタガタ教区教会も二強国間の争いに巻き込まれ、教会の歴史は破壊と修復の繰り返しとなりましたが、19世紀に二番目の建物は最早修復では危険と判断されて、再建が決まりました。
そうして、建築家ジュゼッペ・マリア・タルッキ(トリノ、1782-1863)が起用され、タルッキの設計によって1836年に再建された新古典様式の三番目となる建物が現在の教会本体の外観となってます。
 美術ファンにとってのサンティアのドゥオーモは、ジローラモ・ジョヴェノーネの多翼祭壇画(1531)の傑作に尽きると思います。勿論、私はジョヴェノーネの傑作目当てでサンティアに来たわけです。


3
鐘楼を見ます。


P1350035
鐘楼は12世紀に建設されました。
12世紀に建設されたサント・ステファノに捧げられたクリプタも現存しています。


4


P1350034
煉瓦造りの鐘楼


P1350036
柱廊付きのファサードです。


P1350037
ファサード柱廊に置かれた彫刻


P1350038


P1350039
ファサード柱廊のフレスコ画


P1350041


P1350040


P1350041


P1350042


P1350043


P1350044


P1350045


P1350046


P1350090
柱廊天井


P1350089


P1350047
拝観します。


P1350091
中に入りました。


P1350093
三廊式、ラテン十字形、新古典様式の内部です。


P1350092


P1350094
パオロ・エミリオ・モルガリ(トリノ、1815-1882)の「栄光の聖アガタ」(1862)


P1350095
中央礼拝堂


P1350099
主祭壇


P1350096
(つづく)

P1350012エドモンド・デ・アミーチス通りです。


P1350013


P1350014
町役場はもう直ぐです。


P1350015
特徴がない普通の建物ばかりです。


P1350016
エドモンド・デ・アミーチス通りを進みます。


P1350017


P1350018


P1350019
左の建物の壁にフレスコ画があります。


P1350020
ローマ通りとの交差点です。


P1350021
突き当りが町役場ですが、修復工事中でした。


35
修復工事後の町役場


36
町役場で地図を頂戴しました。


43


P1350031
ローマ広場です。


P1350032
ローマ広場に面して教会が建ってます。(写真右)


P1350024
サンティアのドゥオーモ、サンタガタ(聖アガタ)参事会教会です。


P1350023
扉が開いていたので、中に入るとミサ中でした。ミサが終わることを見計らって拝観することにしました。それまで別の場所に行きます。


P1350027
ローマ広場が町の中心です。


P1350028
この日、広場は駐車場になっていました。


P1350029


P1350049
町外れにある城に行くことにしました。


P1350050
狭い町なので、町外れと言っても直ぐ傍になります。


44
橋を渡ります。


41
町外れの建物は朽ちてます。


40
城が見えてます。


42
Castello di Vettigneです。


37
15世紀に建設されました。


38
長らく放置されていたため、中に入るのは危険です。


39
城の入り口です。


P1350033
ローマ広場に戻ります。


P1350030
ローマ広場です。


P1350025
ミサが終わったようです。
(つづく)

P1340714前泊地はピエモンテ州のビエッラでした。


P1340979
駅に向かいました。


P1340978
ビエッラ駅です。


P1340980
鉄道でサンティアに向かいます。


P1340981
ビエッラからサンティアまでは一時間に一本の列車があります。


P1340982


P1340983
車中から見えた山々。


P1340984
サンティア駅に到着しました。


P1340985
サンティア駅舎


P1340986
サンティアは、人口8,109人(2022年12月31日現在)のピエモンテ州ヴェルチェッリ県にあるコムーネです。


P1340987
この日、目的地はオルタだったのですが、鉄道利用でオルタに行くには一日1本しかない列車に乗車する必要がありましたが、その列車待ちのためにサンティアで途中下車しての町歩きでした。
それはその通りでしたが、サンティアに来た目的は、ジローラモ・ジョヴェノーネの傑作「サンティア・ドゥオーモの多翼祭壇画」を観るためでした。


P1340988
サンティアの旧市街に向かいます。


P1340989
サンティアは古い歴史を持つ町で、青銅器時代には集落があったと考えられてます。紀元前2世紀末にローマの支配下に入ったそうです。


P1340990
町並みが新しいのは、第二次世界大戦直後にドイツ軍残党によって攻撃され、略奪されたからと言われてます。


P1340991
第二次世界大戦中の住民の犠牲とパルチザン闘争の活動で有名です。


P1340992
古い建物は一部を除いて殆ど残っていないようです。


P1340993


P1340994
町役場と参事会教会がある広場へと進みました。


P1340995


P1340996
左折しました。


P1340997
この先に城がありますが、城は後回し。


P1340998


P1340999
タベルナコロを発見!


P1350001
誰が描いたのか?


P1350002
特徴があまり見られない町のようです。


P1350003


P1350004
戦後に都市計画に基づき再開発されたので、道幅が広い町です。


P1350005
見知らぬ町を歩くのが結構好みです。


P1350006
観光客が滅多に訪れないのか、珍しそうに私を見ている視線が気になりました。


P1350007
じろじろ見ている婆さんが警察に連絡することも珍しくないようです。


P1350008
地図を持っていないので只管勘を頼りに歩きました。


P1350009
左折すれば市庁舎と参事会教会があるようです。道案内があって良かった!


P1350010
地図がないときに限って道に迷うことが少ない私です。


P1350011
(つづく)

P1290020次は市立博物館です。


P1290021
市立博物館と音楽学校が置かれているPalazzo Cutticaです。


P1290022
入館します。


P1290023
この時は写真不可でした。


P1290024
Palazzo Cutticaの中庭


P1290025
リベルタ広場に戻ります。


P1290029
お馴染みのPalazo Ghiliniです。


P1290026


P1290027
Palazo Ghiliniの正面ファサードです。


P1290028


P1290030
リベルタ広場です。


P1290031
広場に面して建つPalazo Ghiliniです。


P1290032
市庁舎


P1290033


P1290034
午後5時過ぎですが、日差しが強烈です。


P1290035
日曜日の夕方なので人出が多い。


P1290036


P1290037


P1290038
流石に疲れてきました。


P1290040


P1290041
ローマ大通りです。


P1290042
銀座通りが何処にでもあるようにイタリアではローマ通りがそれに相当します。


P1290043


P1290044


P1290045
突き当りはサン・ロレンツォ教会です。


P1290046
ガリバルディ広場近くです。


P1290047
駅前の公園が見えてきました。


P1290048
ガリバルディ広場です。


P1290049
ホテルに戻りました。


P1290050
翌朝です。


P1290051
鉄道で次の目的地に向かいました。


P1290052
(アレッサンドリア編おわり)

P1290007観光客が殆ど訪れないアレッサンドリアです。


P1290008
アレッサンドリア市当局も観光に力を入れていない気がします。


P1290009
リベルタ広場に向かいます。


P1290010
ドゥオーモの鐘楼が見えてます。


P1290011
県庁舎として使用されているギリーニ宮殿です。18世紀に建設されたピエモンテ・バロック様式の建物で、1869年にアレッサンドリア県議会によって購入されたそうです。


14
アレッサンドリアの有力貴族ギリーニ侯爵家の邸宅として建設されました。


15
Palazzo Ghiliniの入り口


16


17
ドゥオーモの直ぐ傍にギリーニ宮殿が建ってます。


18
ドゥオーモに向かいます。


19
見所が乏しいドゥオーモですが、ここまで来たからには外せません。


P1290012
ギリーニ宮殿を通り抜けます。


P1290013
パルマ通りです。


P1290014
市立博物館の入館を後回しにしてドゥオーモの拝観を先にします。


P1290019
ドゥオーモにやってきました。


P1290015
サンティ・ピエトロ・エ・マルコ司教座教会です。


P1290016
扉が開いていました。


20
中に入りました。


21


22
中央礼拝堂


23
Presebiterio天井


24
フレスコ画の帰属は分かってます。


25


26
クーポラ


27


28


29


30
アレサンドロ3世と縁が深いアレッサンドリアです。


31


32
身廊天井の装飾


33


34


P1290017
外に出ました。


P1290018
(つづく)

P1280973サン・ジョヴァンニーノ教会です。


P1280974
後陣天井のフレスコ画


P1280975


P1280976


P1280977


P1280978


P1280979


P1280981


P1280983


P1280984


P1280986


P1280987


P1280989
外に出ました。


P1280988


P1280990


P1280991
外に出ましたが、特に見たいところがありませんでした。


P1280992
この日は日曜日だったので、夕方前でも人出がかなりありました。


P1280993
ピエモンテの夏は、晴天でも涼しく過ごしやすいのが特徴です。


P1280994


P1280995
サン・ロレンツォ通りです。


P1280996
サン・ロレンツォ通りとモデナ通りとの交差点です。


P1280997
Via Luigi Testore


P1280998


P1280999
Via Giuseppe Verdiにあるレストランはかなり美味でした。


P1290001


P1290002


P1290003
石畳の道が続きます。


P1290004
何処を歩いても同じ感じがします。


P1290005


P1290006
(つづく)

P1270229翌朝です。


P1270231
この日は、他のコムーネへの日帰り遠足をしました。


P1280155
アレッサンドリアに帰ってきました。


P1280156
一旦ホテルに戻ります。


P1280157
一日中歩いたので、足が棒のよう。


P1280158
駅前公園にある戦勝のモニュメント


P1280159
天気が良い暑い日でした。


P1280160
ガリバルディ広場は駐車場になっていました。


P1280161
青空市の開市日は一般車の駐車禁止です。


P1280162


P1280163


P1280164
この後ですが、夕食のためにホテルを出ただけで終わりました。


P1280165
翌日です。この日も日帰り遠足でした。


P1280955
夕方、アレッサンドリア駅に到着したら国際列車が停車中でした。


P1280954


P1280956


P1280957
ホテルに戻ります。


P1280958
ホテルに戻りました。


P1280959
疲れていましたが、頑張って外出しました。


P1280960
見所が乏しい街ですが、折角来たからには街歩きをすることに。


P1280961
何か新しい発見があるかも知れないと思いました。


P1280962
この街に来るのは、これが最後ですから。


P1280963
サン・ジョヴァンニーノ教会が開いていました。


P1280964
拝観します。


P1280965
中に入りました。


P1280966


P1280967


P1280968


P1280969


P1280971


P1280972
(つづく)

P1270200ジュゼッペ・アントニオ・チェンナ通りの先に教会があります。


P1270201
サンタ・ルチア教会です。昼下がりのこの時間帯には扉が閉まってます。


P1270202
この場所には、13世紀に建設されたサン・ジョヴァンニ・デッレ・レーン教会が建っており、15世紀には約50人の修道士が住む修道院教会となっていました。16世紀末から17世紀初めにかけて、修道院教会はサンタ・カテリーナ、サンタ・ルチア、サン・パオロ、サン・ウルバーノ同信会の本拠地になりましたが、18世紀になると建物の経時劣化が進み、危険となったので、建物の再建が決まりました。しかし、資金難によって修道院教会としての複合施設の建設は難しいと判断されました。そうして、1751年に最初の建物の取り壊し工事が開始され、1759年に完成した二代目の建物が現在の姿となってます。
1759年11月1日に再建された教会の奉献式が執り行われましたが、それを機に教会の名称がサンタ・ルチア教会となりました。


P1270203
サンタ・ルチア小広場に面してファサードがあります。


P1270204
ミラノ通りです。


P1270205


P1270206
Via Migliara


P1270207
Via dei Martiriになります。


P1270208
この先にあるタベルナコロを見ます。


P1270209
タベルナコロ


P1270210
人通りが少なくなりました。


P1270211
Via Vochieriです。


P1270212


P1270213
この先に教会があります。


P1270214
受胎告知教会 Chiesa dell'Annunziataです。


P1270215
14世紀にアゴスティーノ会修道士によって建設された修道院教会が前身です。


P1270216
最初の建物が経時劣化によって危険になったので、1759年から1761年に再建された二代目の建物が現在の姿となってます。


12
現在の外観は相当劣化していると思われ、恐らく宗教活動を停止した廃教会になっているように見えます。


P1270217
受胎告知教会から直ぐの場所に、もう一つ教会があります。


P1270218
サンティ・アレッサンドロ・エ・カルロ教会です。


P1270220
1742年9月9日創建、1758年5月7日に奉献されたバロック様式の教会です。


P1270219
中に取り壊された古いドゥオーモの祭壇画があるようです。


13
ファサードの聖ルイージの彫刻


P1270221


P1270223
教会の後陣は修復工事中でした。


P1270224
鉄道駅近くの公園です。


P1270225


P1270226
市立劇場です。


P1270227


P1270228
(つづく)

P1270189引き続きサン・ジョヴァンニーノ教会です。


P1270177
Presebiterio天井のフレスコ画


P1270178


3


P1270180
礼拝堂を見て回ります。


P1270181


4


P1270182


P1270183


5


P1270185


6
聖ジョヴァンニーノ


P1270186


P1270187
聖カルロ・ボッロメーオ


7


P1270188


8


9


P1270189


10


11
カウンターファサードにあるオルガン


P1270184
外に出ます。


P1270190
外に出ました。帰属が分からない作品ばかりでした。


P1270191
酔い覚ましのブラブラ歩きを続けます。


P1270192
先ずはトイレ休憩です。


P1270193
ワイン、ビール、ミネラルウオーターを飲めば、トイレが近くなるのは当然です。


P1270194
お昼過ぎは教会の扉が閉まってます。


P1270195
映画館がありました。


P1270196
教会らしき建物が見えてきました。


P1270197
ローマ通りです。


P1270198
写真右の教会の建物はベネトンです。


P1270199
(つづく)

P1270150経済的にアレッサンドリアは裕福とされている人たちが多いとされてます。


P1270151
我が家近くのこの店があればバジルの鉢を買いたかった。


P1270152
お馴染みのガリバルディ広場です。


P1270157
この店で昼食です。


P1270159
この店の営業時間です。


P1270153
昼の開店直後だったので、空席ばかりでしたが、直ぐに満席になりました。


P1270155
ワインを飲みながらフルコースで食べたと思いますが、写真を撮ったのが二枚だけ。


P1270154
お腹が空いていたので、食べることに夢中で、写真に気が回らなかったようでした。


P1270158
お腹一杯になりました。


P1270156
酔い覚ましの散歩です。


P1270160
グリエルモ広場です。


P1270161
青空市は間もなく閉市時間を迎えます。


P1270162
サン・ジョヴァンニーノ教会に向かいました。


P1270163
レニャーノ通りです。


P1270165
サン・ジョヴァンニーノ教会にやってきました。


P1270170
奉献する聖人は、幼き洗礼者ヨハネです。余計ですが、サン・ジョヴァンニ・バッティスタ教会とどう違うのか、私にはよく分かりません。


P1270166
13世紀に懺悔運動の一環としてアレッサンドリアに設立された最も神聖な十字架同胞団 Veneranda Confraternita del Santissimo Crocifissoの本拠地です。
同同胞団によって、1484年に教会の建設が決定され、1524年創建、1529年に完成しました。ところが、1706年10月14回、近隣にあった倉庫の爆発と火災によって、建物は深刻な被害を受けてしまい、修復不能と判定されました。建物の再建が決まりましたが、資金難によって着工の目途が立たない状況が数年続いたそうです。同胞団の資金集めと当時のアレッサンドリア司教の支持によって、再建が具体化しました。1709年8月29日の聖ジョヴァンニ・バッティスタ斬首の日、最初の建物の取り壊し工事が開始され、その上に新しい建物が建設され、1731年に完成しました。その再建されたバロック様式の建物が現在の姿となってます。


P1270167
ファサードの彫刻


P1270168
ファサードの壁龕に置かれた彫像


P1270169


P1270164
拝観します。


P1270171
中に入りました。


P1270173
翼廊がない単廊式、バロック様式の内部です。


P1270172
右側壁


P1270176
主祭壇


1


P1270179
主祭壇の「磔刑」


2


P1270174
バロック様式とあって、壁の殆どが装飾されてます。


P1270175
(つづく)

P1270120折角来たからには、頑張って歩くよりありません。


P1270121


P1270122
古い修道院だった建物です。


P1270123
この辺が何処だったのか、思い出せません。


P1270124
鐘楼が見えてますが、何処のものか、分かりません。


P1270125


P1270126


P1270127
雨がかなり降ってきました。


P1270128
このまま進むとドゥオーモに出ます。


P1270129


P1270130
右折すればドゥオーモ広場です。


P1270131
ドゥオーモに出ました。


P1270132


P1270133


P1270134


P1270135


P1270136
昼食のトラットリアの開店時間が未だなので、ブラブラ歩いて時間潰しをしました。


P1270137
雨が小降りになりました。


P1270138


P1270139
特徴がない建物ばかりです。


P1270140
サン・ロレンツォ通りです。


P1270141


P1270142
ローマ大通りです。


P1270143
ここもローマ大通りになります。


P1270144
ローマ大通りを進みます。


P1270145
モデナ通りとの交差点です。


P1270146


P1270147
カリオ・カニッジャ通りです。


P1270148
ガリバルディ広場に戻ってきました。


P1270149
(つづく)

P1270102サン・ジャコモ通りです。


P1270101
サン・ジャコモ通りに面して教会が建ってます。


P1270100
サン・ジャコモ・デッラ・ヴィットリア教会です。


P1270104
1391年7月25日、ヴェローナの指導者で傭兵隊長ヤコポ・ダル・ヴェルメ(ヴェローナ、1350-1409)に率いられたアレッサンドリア市とヴィスコンティの連合国軍は、ジョヴァンニ3世・アルマニャック(フランス語読みではジャン3世・アルマニャック)(アルマニャック、1359c-アレッサンドリア、1391)の率いるフランス軍に勝利しました。ジョヴァンニ3世・アルマニャックはその戦いで戦死しました。また、ヤコポ・ダル・ヴェルメはヴィスコンティ家に雇われた傭兵隊長を務めていました。
7月25日は、聖ジャコモ(聖ヤコブ)の日に当たります。
その勝利の感謝のために、傭兵隊長ヤコポ・ダル・ヴェルメは、アレッサンドリア市に新しい教会建設の建議を行いました。そうして、1392年に創建され、1405年に完成したのがサン・ジャコモ・デッラ・ヴィットリア教会です。完成と同時にサンタゴスティーノ修道会に引き渡されました。1814年までサンタゴスティーノ修道会の修道士所有の教会でした。


P1270106
奉献は15世紀初頭に行われました。


P1270103
1405年に完成した教会は、時間の経過とともに多くの改造、改修工事が行われ、オリジナルの姿は失われてしまいましたが、再建されたものではありません。ファサードはルネサンス様式です。


P1270105
1814年、教会活動は停止され、建物は病院として使用されました。その後、警察署の倉庫、宿舎として使用されるようになりましたが、1871年に教会として機能が復活され現在に至ってます。


34
単廊式、ラテン十字形、ルネサンス様式の内部です。


33
Maestro di Ada Negriに帰属する「授乳の聖母」(1395)


42
主祭壇の贖いの聖母


35


36


37


38


39


40


41


P1270107
例によって地図を見ないで適当に歩きました。


P1270108
適当に歩いていては、元々見所が乏しいアレッサンドリアなので、地図を見ました。


P1270109
サン・ジョヴァンニーノ教会に向かいます。


P1270110
サン・ジョヴァンニーノ教会はローマ大通りに建ってます。


P1270111
ここでペッタンコの桃を買いました。この桃は美味なので、この季節に来る時の楽しみの一つです。


P1270112
お腹が空きました。


P1270113
サン・ジョヴァンニーノ教会は午後も開いているので、拝観を後回しにしました。


P1270114
疲れたので、一旦ホテルに戻って一休みしてから昼食に出ることに。


P1270115
早朝から動いてばかりだったので、少し疲れました。


P1270116
昼近くなって人出が多くなってきました。


P1270117
イタリア人は傘が嫌いと思ってますが、雨がポツリポツリと落ちてきた途端、傘をさした人がいたのでビックリ。


P1270118
ホテルに戻りました。


P1270119
(つづく)

P1270042ドゥオーモから外に出ました。


P1270050
この辺は、第二次世界大戦で爆撃を受けたので、戦後に再建された建物が多いそうです。


P1270051
サン・ロレンツォ教会に向かいました。


P1270052
3時ごろに起床したので、少し眠くなってきました。


P1270053
サン・ロレンツォ通りを進みます。


P1270054
路上駐車している車列を見ると、戦災を受けた街なので、もう少し都市計画に基づいて復興すれば良かったと勝手に思います。


P1270055


P1270056
サン・ロレンツォ教会にやってきました。


P1270057
扉が開いていました。


P1260897
13世紀頃に、この場所に既に存在していたサンティ・ロレンツォ・エ・クレメンテ教区教会がありましたが、それが前身です。
1347年から1350年にかけて、教区教会の近くにあったサンタ・マリア・デッラ・コルテ教会と合併され、それを機に修道院教会の複合施設として増築されましたが、それ以降、単にサン・ロレンツォ教会と呼称されるようになりました。合併後、程なくして参事会教会に格上げされました。


P1260900
1565年、建物の構造に致命的な欠陥があることが判明し、直ちに大規模な改造工事が着手され、1580年までに工事完了となりました。また、修道院教会の建物は改造によって縮小されました。


P1270058
18世紀中頃になると、経時劣化によって建物に危険な箇所が幾つも出てきたことから、最初の建物を取り壊して、その上に新しい建物の建設が決まりました。
地元アレッサンドリア出身の建築家ジュゼッペ・ドメニコ・トロッリが起用され、トロッリの設計によって1770年から1772年にかけて建設された二代目の建物が現在の姿となってます。


P1270059
19世紀末に修復されました。


P1270060
拝観します。


P1270061
中に入りました。


P1270063
右側壁


P1270064
左側壁


P1270062
天井の装飾


P1270065
楕円形の単身廊、バロック様式の内部です。


P1270085
中央礼拝堂


P1270086
後陣とクーポラのフレスコ画は、ピエトロ・アントニオ・ポッツォ(1727-1788)によって1770年に制作されました。


P1270082


P1270098


P1270069


P1270073


P1270098


P1270068
詳細不知


P1270072
詳細不知


P1270078
主祭壇画(詳細不知)


P1270075
ピエトロ・アントニオ・ポッツォ(1727-1788)の「受胎告知」


P1270081
ピエトロ・アントニオ・ポッツォ(1727-1788)の「ご訪問」


P1270083
カウンターファサード方向


P1270084
カウンターファサードにあるオルガン


P1270085


P1270087


P1270088


P1270089


P1270090
「磔刑像」(詳細不知)


P1270091


P1270093
詳細不知


P1270095
詳細不知


P1270097
祈るキリストのイコン(詳細不知)


P1270099
外に出ました。
(つづく)

P1260998引き続きドゥオーモです。


26
主祭壇


P1260999
中央扉は普通閉まってます。


P1270001
市の名称は、教皇アレッサンドリア3世に因んでいます。


P1270003


P1270004
「聖家族」(詳細不知)


P1270007
「聖ジュゼッペ?」(詳細不知)


P1270008
サン・ジュゼッペ礼拝堂です。


27
フィリッポ・パロディ(ジェノヴァ、1630-1702)の「幼きキリストを抱く聖ジュゼッペ」(1702)


P1270009
サン・ジュゼッペ礼拝堂のフレスコ画


P1270010


P1270011
聖バウドリーノの墓です。


28
聖バウドリーノという聖人については初めて知りました。


P1270012
Antico altare della Madonna della Salve(18世紀)


29
1803年、ナポレオン率いるフランス軍によって破壊された、以前の大聖堂にあった礼拝堂です。


P1270013


P1270015
詳細不知


P1270016


P1270018


30


31


P1270020
かなり多くの作品がありますが、それらの殆どが分かりません。


P1270021
贖いの聖母礼拝堂


32


P1270022


P1270023


P1270024


P1270025


P1270026


P1270027


P1270028


P1270029
拝観を終わります。


P1270040
外に出ました。


P1270039
ドゥオーモ広場に面して建っている司教館です。今は神学校になってます。
(つづく)

P1260950引き続きアレッサンドリアのドゥオーモ、サン・ピエトロ司教座教会です。


P1260951
磔刑の礼拝堂


13
木製の磔刑像(15世紀後半)


P1260952
グリエルモ・カッチャ通称イル・モンカルヴォ(モンタボーネ、1568-モンカルヴォ、1625)に帰属する「聖母子と聖人たち」


P1260955
グリエルモ・カッチャ通称イル・モンカルヴォ(モンタボーネ、1568-モンカルヴォ、1625)に帰属する「キリストの神殿奉献」


P1260958
詳細不知の「幼きキリストへの崇拝」


P1260960
詳細不知の「マギの礼拝」


P1260961
次は左第二礼拝堂です。


P1260968
左第二礼拝堂の主祭壇画


P1260969
詳細不知


P1260962
この「聖母子」は有名です。


P1260964
逸名画家作「Madonna dell’Uscetto」(14世紀初頭)


P1260966


14


P1260971
サンタ・カテリーナ礼拝堂です。


P1260976
サンタ・カテリーナ礼拝堂の左側壁にある作品(詳細不知)


P1260978
次の礼拝堂です。


P1260980
礼拝堂左側壁にある祭壇画(詳細不知)


P1260981
木製磔刑像(16世紀後半)


P1260982
天井に描かれたフレスコ画「我に触れるな」(詳細不知)


P1260983


15


16


17


19


18


20


21


P1260984
マドンナ・デッラ・サルヴィ礼拝堂です。


22


23
「聖母と聖ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ」(詳細不知)


P1260985
マドンナ・デッラ・サルヴィ礼拝堂の天井


24


P1260986


P1260989


P1260990


P1260992


P1260994


P1260995


P1260996


25


P1260997
(つづく)

P1260928ドゥオーモ広場です。


P1270030
アレッサンドリアのドゥオーモです。アレッサンドリア司教区の司教座が置かれてます。


P1260926
正式名称は、サンティ・ピエトロ・エ・マルコ司教座教会 Cattedrale dei Santi Pietro e Marcoとなってます。しかし、サン・ピエトロ大聖堂が前身だったことから、一般的にサン・ピエトロ大聖堂と呼ばれてます。


P1270033
アレッサンドリア市の創立日は、1168年5月3日とされ、神聖ローマ帝国に対するロンバルディア同盟を支持した第170代教皇アレッサンドロ3世(1100c‐1181 教皇在位:1159‐1181)に敬意を表して、市の名称をアレッサンドリアと命名したとされてます。アレッサンドリアはロンバルディア同盟に加盟していました。
サン・ピエトロ教会は、アレッサンドリア市の創立以前に既にその地域の中心教会として存在していました。恐らく8世紀頃に建設されたとされてます。
市の創立を機に、宗教的だけでなく、市民のため、政治的、戦略的な意味から、大きな教会を建設する必要性が高まり、その建設が決定されました。
そうして、1170年に最初の建物が取り壊され、その上に2番目のロマネスク様式の建物が1175年に完成し、1175年に奉献式が執り行われました。


7
2番目の建物の寓意図(13世紀)
左側に2番目の建物のファサードが描かれてます。


8
18世紀半ばに描かれたサン・ピエトロ大聖堂
13世紀後半、サン・ピエトロ教会に司教座が置かれることになり、2番目の建物は一部を除いて取り壊され、1288年から1297年にかけて殆ど再建に近い形態で大改造、増築工事が行われました。
18世紀半ばに描かれたサン・ピエトロ大聖堂の姿は、1288年から1297年にかけて行われた大改造、増築後の姿を留めていると言われてます。


9
18世紀半ばに描かれたサン・ピエトロ大聖堂


P1260927
1797年、ナポレオンのイタリア侵攻によって、サン・ピエトロ大聖堂はフランス軍の本部として接収されてしまいました。そして、1803年、フランスの軍事的理由からサン・ピエトロ大聖堂は破壊されてしまいました。
フランス軍の撤退後、アレッサンドリアの司教座教会の再建が決定され、1807年から1810年に建設された新古典様式の建物が現在の外観の原形となってます。1810年に新大聖堂の奉献式が執り行われましたが、それを機に奉献する聖人が聖ピエトロに加えて聖マルコの二人となって大聖堂の正式名称が前述のように変わりましたが、それにも拘らず依然としてサン・ピエトロ大聖堂と呼ばれるのが普通となってます。


P1270034
現在の外観は、1874年から1879年に行われた大改修後の姿となってます。
聖堂内部は、1925年の火災によって大きな被害を受けましたが、その後、直ちに大修復工事が行われ、1929年に完成した新しいものです。
第二次世界大戦で、大聖堂の周囲は激しい爆撃を受けましたが、大聖堂自体の被害は幸いにも非常に軽微にとどまったそうです。
ファサードは1820年から1822年に建設されました。


P1270032
クーポラは1875年から1879年にかけて建設されました。


P1260925
1889年に建設された鐘楼です。


P1270035
ファサードのフレスコ画は、1889年と1922年に制作されました。


P1270036
ファサードのフレスコ画


P1270037
ファサードのフレスコ画ですが、私には分かりません。


P1270038


P1270041
中央扉上ルネッタに描かれたフレスコ画


10
ファサードに置かれた彫刻は、1803年に取り壊された建物にありました。


11
1803年に取り壊された建物のファサードにあった彫刻


P1260930
聖堂内に入りました。


P1260932
三廊式、ラテン十字形、新古典様式の内部です。


P1260931
右側廊方向


P1270027
身廊天井の装飾


P1260933
クーポラ


P1260940
クーポラ


P1260935
Presebiterio


P1260934
Presebiterio前から見たカウンターファサード方向


P1260936
後陣天井


P1260938


P1260937


12
主祭壇


P1260939


P1260942
詳細不知


P1260944
詳細不知


P1260945
右側廊


P1260946


P1260947


P1260948
比較的新しい建物なので、若干見所に欠けます。


P1260949
取り壊された建物にあった作品が注目に値します。
(つづく)

P1260903アレッサンドリアは観光客が滅多に行かない街と思います。


P1260904
ギリシャ美術館です。この時間は開いていません。


P1260906
1931年から1932年に建設されたPalazo della Camera di Commercioにギリシャ美術館が置かれてます。


P1260905
Palazo della Camera di Commercioは第二次世界大戦で爆撃を受けましたが、戦後に修復されました。


P1260907
この辺は新しい建物が多い地区です。


P1260908
カルドゥッチ広場です。


P1260910
北に向かって進んでます。


P1260911
右折すると直ぐに大きな広場が見えてきました。


P1260912
早朝にボローニャを出発したので、未だ9時前でした。早い時間にアレッサンドリアに到着する必要は全くありませんでしたが、その後になると列車の接続が悪くなるばかりか、大回りしないとアレッサンドリアに来ることが出来なかったのです。
街の中心リベルタ広場に来ました。


P1260913
この建物は市庁舎です。


P1260914
市庁舎は1772年に創建され、途中、工事が中断されましたが、1830年に完成しました。ファサードの色からPalazzo Rossoとも呼ばれてます。3連時計が特徴です。
1944年、連合国軍によって爆撃され、大きな被害を受け、戦後に殆ど再建に近い形で大修復されました。


P1260916
かって宮殿内に市立劇場が設けられ、オペラが上演されていました。1944年、爆撃された宮殿内の市立劇場は壊滅的に破壊されてしまい、戦後になって復興計画が立案されたものの、実行されることはなく現在に至ってます。


P1260918
リベルタ広場


P1260919
リベルタ広場に面して建つ市立劇場です。


P1260915
市立劇場


P1260917
リベルタ広場は駐車場になってます。


P1260920
1732年に創建され、19世紀半ばに完成したPalazzo Ghiliniです。


P1260921
アレッサンドリアのギリーニ侯爵家の住居でしたが、19世紀にサヴォイア家の宮殿になりました。1869年に州議会が買収され、アレッサンドリア県の県庁舎として使用されるようになりました。


P1260922
県庁舎近くのドゥオーモに向かいます。


P1260923
この通りの突き当りにドゥオーモがあります。


P1260924
アレッサンドリア司教区の司教座が置かれているサン・ピエトロ大聖堂です。


P1270033
アレッサンドリア大聖堂については、(その3)で詳しく触れることにします。


P1270040
ナポレオンの命令によって建物が破壊されてしまったので、ナポレオンの失脚後に再建されました。そのため、現在の外観は新しく見えます。


P1270044
次は市立美術館です。


P1270045
18世紀に建設されたPalazzo Cutticaです。


P1270046
Palazzo Cutticaに市立美術館が置かれてます。


P1270047
ファサード柱の彫刻


P1270048
入館します。
この時、館内が写真禁止だったので、私の写真がありません。以下は外部サイトから拝借した作品等の写真です。


5
ガンドルフィーノ・ダ・ロレートの「聖母戴冠」


6
ガンドルフィーノ・ダ・ロレートの「受胎告知」


4
天井の装飾


3


1


2


P1270049
外に出ました。
(つづく)

P1260867
朝早い時間の旅立ちだったので、ボローニャ駅前のホテルに泊まっていました。


P1260866
時刻は4時31分、季節は夏でした。


P1260869
ボローニャ駅です。


P1260870
車内は非常に空いてました。


P1260871
途中駅でアレッサンドリア行きの列車に乗り換えました。


P1260872
アレッサンドリア駅に到着しました。


P1270231
アレッサンドリアは、人口91,257人(2023年8月31日現在)のピエモンテ州アレッサンドリア県の県都です。


P1260873
アレッサンドリア駅の駅舎です。


P1260874
駅前の公園を通り抜けて、この日のお宿に向かいました。


P1260875
ガリバルディ広場です。


P1260876
ガリバルディ広場は青空市の開市日でした。


P1260877
この日のお宿はガリバルディ広場の裏手にあります。


P1260878
北イタリアの3つの主要都市であるトリノ、ジェノヴァ、ミラノの三角形のほぼ中心に位置しているアレッサンドリアは、鉄道と高速道路のハブとして重要です。


P1260879
この日のお宿です。


P1260880
大きな荷物をホテルに預けて身軽になって、街歩きに出発しました。


P1260881
ガリバルディ広場の柱廊


P1260882
ガリバルディ広場全体の写真は青空市の撤去後に撮った方が良いようです。


P1260883
時計がある建物は郵便局です。


P1260884
交通の要衝のアレッサンドリアは、第二次世界大戦中に徹底的に爆撃されました。ムッソリーニ時代には米英軍に、そして連合国側となった第二次世界大戦後期にはドイツ軍によって爆撃されたのです。


P1260885
そのため、多くの建物は大戦後に建設された、比較的新しいものが多いのです。


P1260886


P1260887
街の中心部に向かいます。


P1260888
アレッサンドリアの中心はドゥオーモがあるリベルタ広場でしょう。


P1260889
サン・ロレンツォ通りです。


P1260890
この通りの先にサン・ロレンツォ教会があります。


P1260891


P1260892
平日の朝でした。


P1260893
アレッサンドリアに来た目的は、鉄道が便利なのでアレッサンドリアを起点にピエモンテの各地に行くためのベースにするためでした。


P1260894
サン・ロレンツォ教会が見えてきました。


P1260895
サン・ロレンツォ教区教会はサン・ロレンツォ通りとモデナ通りとの交差点にあります。


P1260896
13世紀頃に、この地に既に存在していたサンティ・ロレンツォ・エ・クレメンテ教区教会が前身です。1347年から1350年にかけてサンタ・マリア・デッラ・コルテ教会との合併を機に修道院教会の複合施設として増築され、それと共に参事会教会に格付けされました。
この時は扉が閉まっていたので、後で拝観することにしました。


P1260898
1565年、建物の構造に致命的な欠陥があることが分かり、1580年まで大規模な改造工事が行われ、修道院教会の規模が縮小されました。


P1260899


P1260901


P1260902
街角のタベルナコロ
(つづく)

1突き当りはサンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会です。


2
コッレッジョ通りです。


3
再びトリノ通りに。


4
ドゥオーモのファサードをもう一度見ます。


5
雨が降って、一旦薄日が出たものの、またまた雲が厚くなってきました。


6


7
キヴァッソのドゥオーモ、サンタ・マリア・アッスンタ参事会教会です。


8
ファサードのテラコッタ彫刻を見ます。


9


10


11


12


13


14


15


16


17


18


19
トリノ通りを東方向に進みます。


20
サンティ・サン・ジョヴァンニ・バッティスタ・エ・マルタ教会です。


21
教会の扉は閉まったままでした。


22
教会の前を通り過ぎました。


23


24
昼食の時間でしたが食欲無し。


25
前日深夜までオペラを観て、それから深夜の食事を摂ったので胃が重かった。


26
サン・マルコ通りです。


29
Presepiのお店です。


28
ショーウィンドウを覗き込みました。


27
クリスマス・シーズン以外にも売れるのでしょうか?


30
ポポロ広場


31
ローマ通りです。


32
この日ですが写真右のHotel Ritzも満室でした。


33
少し食べないと夕食まで持たないと考えて、入ったジャンク・フード店が最悪でした。


34
ホテルに戻ります。


38
ホテルに戻りました。


35
ホテル内のフレスコ画


36
ホテルの壁のあちこちにフレスコ画があって暇つぶしになりました。


37
自室からの眺め


39
翌朝、次の目的地ビエッラに鉄道で向かいました。
(キヴァッソ編 おわり)

1雨が完全に止みました。


2
雨宿りをしていた人たちが外に出てきたようです。


3
キヴァッソの見どころの一つになっているフレスコ画を探しました。


4
どうやら写真左の建物が目的のフレスコのようです。


5
聖母の結婚? 痛みが激しいフレスコ画です。


6
トリノ通りです。


P1340301
日陰では乾きが遅い。


8
ローマ通りとトリノ通りの交差点。


9
ローマ通りです。


10
同じ通りでも場所によって通りの名称が良く変わるのがイタリアです。


10
トリノ通りを西方向に進みました。


12
薄日が漏れてきました。


13
先ほどのフレスコ画の前を通り過ぎました。


14
この先にドゥオーモがありますが、違う道を通ってドゥオーモのファサード前に出る予定でした。


15
ジュゼッペ・ポルラ通りです。


16
サン・フランチェスコ修道院に向かいました。


17
18世紀に建設されたサン・フランチェスコ修道院の建物です。


19
ナポレオンのイタリア侵攻によって、活動が抑圧され、19世紀初頭にサン・フランチェスコ修道院は閉鎖されてしまい、修道士が追放されました。


18
サン・フランチェスコ修道院だった建物は、1888年からベアート・アンジェロ・カルレッティ幼稚園として使用されるようになり、現在に至ってます。


20
この先には見所がなさそうです。


21
Via Caduti per la Libertaです。


22
ポー川の近くになります。


23
共和国広場に戻りました。


24
この先に緑がありますが、緑地の下にポー川が流れてます。


25
ポー川に行かないことにしました。


26
違う道を通って旧市街を歩きました。


27


28
旧市街域が狭いので、同じところに来てしまいます。


29


30
街外れに出てしまいました。


31


32
旧市街を一周したようです。


33
Via Caduti per la Liberta


34
(つづく)

1引き続きサンタ・キアラ女子修道院だった建物です。


2
アントニオ・ファレッティ(バローロ、1671-1760)によって1739年に創建され、18世紀中頃まで建設が行われましたが、当初計画があまりにも大きくて費用が予算オーバーとなったので、未完のまま工事が中断され、現在に至ってます。イタリア統一後に市庁舎に転用されるようになりました。


3
1739年に創建された建物は、実はサンタ・キアラ女子修道院としての二代目となるものです。
キヴァッソのサンタ・キアラ女子修道院の初代の建物は、修道女ベアータ・バルトロメア・ガルレッティ(キヴァッソ、1425/1435-1508c)によって1486年から1505年に建設されました。


4
修道女たちの僧房です。


5
旧修道院の中庭です。


6
建物の端に修道院に付属するクラレス教会だった建物があります。


7
現在見ることが出来る旧クラレス教会は1702年に再建されたもので、ナポレオンのイタリア侵攻によって教会と修道院は閉鎖されてしまいました。


8
サンタ・キアラ女子修道院だった区域から外に出ました。


9
Piazza Carita


15
Piazza Caritaは広大な駐車場になってます。


11
駐車場の入り口です。


10
この辺はもう街外れに相当します。


12
写真左中央の茶色の建物が有名です。


13
18世紀に建設された後期バロック様式のPalazzo Tesioです。


14
現代イタリアの自治と連邦主義の基礎となった「キヴァッソ憲章」が1943年12月19日に、このPalazzo Tesioで締結されました。


16
トリノ通りをドゥオーモ方向に戻ります。


17
写真左は先ほどトイレ休憩したバールです。


18
サンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会のファサード前を通過しました。


19
ドゥオーモの鐘楼


20
とうとう雨が落ちてきました。


21
天気予報が当たりました。


22
アルプスから寒気が入ってきたそうです。


23
雨が強くなったので柱廊に避難。


24
柱廊で雨宿りをする人がいました。


25
ドゥオーモで雨宿りしました。


26
雨脚が弱くなったので、ドゥオーモから外に出ました。


27
イタリアでは雨男です。


28
傘を持っていても差さない人がかなりいます。


29


30
雨が降ったので、人通りが減りました。


31
夏のピエモンテは天気が急変することがあります。


32


33
この辺ではローマ通りになります。


34
(つづく)

1引き続きドゥオーモの内部です。


2
詳細不知の天使の彫刻


3
詳細不知の天使の彫刻


4
「聖母子と四聖人」を再見


5
「三位一体と聖人たち」を再見


6
天井のフレスコ画


7
身廊天井


8
デフェンデンテ・フェッラーリの作品を再見


9
後陣天井


10
詳細不知の聖母子


11
外に出ます。


12
外に出たら、先ほどよりも雲が低く垂れ込めていました。雨の気配です。


13
7月初旬でしたが、少し寒くなってきました。


14
アルプスから寒気が入ってきたようです。


15
教会が見えてますが、事前調査した限りでは拝観する価値がないようです。


16


17
ドゥオーモ以外に観る価値がある教会がなさそうです。


18
トリノに早く行けば良かったと後悔。


19
ベアート・アンジェロ・ガルレッティ像
ベアート・アンジェロ・ガルレッティ・ダ・キヴァッソ(キヴァッソ、1411-クーネオ、1495)は、ボローニャ大学で学び、同大学で博士号を取得した神学者で、多くの著作を著すと共に、フランチェスコ会修道士として幅広い慈善事業に従事しました。


20


21
教会がありますが、どうせ開いていないと思いました。


22
サンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会です。


23
1584年に創建され、1607年に奉献された教会です。


24
現在の外観(主にファサード)と教会内部は1737年から1741年に改造されたもので、オリジナルではありません。


25
ファサードのフレスコ画


26


27
この時は予想通り開いていませんでした。


29
土曜日の夕べのミサと日曜日朝のミサの時に開くようです。


28
時間潰しに街歩きを続けました。


P1330607
この道を進んでも見所がなさそうだったので、引き返しました。


P1330609
煉瓦積みの立派なポルティコです。


32


33
トイレ休憩の必要性を感じました。


34
市庁舎横のバールで一休みです。


35
市庁舎です。小さな市庁舎に見えますが、実はそうではありません。


36
トリノ通りです。


37
市庁舎の入り口からサンタ・キアラ修道院だった建物に向かいました。


38
サンタ・キアラ女子修道院だった建物です。


P1330617
1739年に創建されたサンタ・キアラ女子修道院の建物は未完成です。


40
現在、市庁舎として使用されている旧サンタ・キアラ女子修道院です。


41
市庁舎の建物の銘板


42
(つづく)

1さて、キヴァッソのドゥオーモ、サンタ・マリア・アッスンタ参事会教会 Collegiata di Santa Maria Assuntaの拝観です。


2
教会内部に入りました。


3
三廊式ですが、様々な建築様式が混在しています。


4
オリジナルの後期ゴシック様式が基本構造になってますが、17世紀にバロック様式に改造されたものの、19世紀初頭に新古典様式に改造されたので、新古典様式の内部と言ってよいでしょう。


5
新古典様式の柱が目立ちます。


6
1843年にフェリーチェ・ポッシ(ベルガモ、1795-1873)によって制作されたオルガンです。ポッシ家は、代々オルガン制作を家業としていましたが、中でもフェリーチェ・ポッシはオルガン制作者として有名でした。


7
右側廊


8
右側廊から見た身廊中央方向


9
左側廊


10
左側廊から見た身廊中央方向


P1330657
洗礼盤上の、17世紀の逸名彫刻家による「キリストの洗礼」


12
詳細不知の「ベアータ・ヴェルジネ」


13
左第二礼拝堂


14
詳細不知の「三位一体と聖人たち」


15


16
ピエモンテの逸名画家作「聖母子と四聖人」(18世紀)


40


17


18
この教会における最大の見どころは、この作品です。


19
デフェンデンテ・フェッラーリ(キヴァッソ、1480/1485‐トリノ、1540c)の「嘆き」(16世紀第1四半世紀)


20
生まれ故郷のキヴァッソに残るデフェンデンテ・フェッラーリ唯一の作品です。


21
18世紀中頃には。デフェンデンテ・フェッラーリの作品がこの他にも数点あったとされてます。


22
額縁は制作された時のオリジナルのものと言われてます。


23
詳細不知


24
詳細不知


25
詳細不知


26
右第一礼拝堂です。


27
ピエモンテの逸名彫刻家による「死せるキリストへの哀悼」(15世紀後半)
貴重な作品と言われてます。


28
説教壇


29
1930年から1940年代にかけて、大修復された身廊天井のフレスコ画


30
左後陣礼拝堂


31
左後陣礼拝堂天井のフレスコ画(1930-40c)


32
この部分のオリジナルのフレスコ画はすべて失われていたので、改めて描き直された新作を言うべきフレスコ画です。


33
詳細不知


34


35


36
主祭壇(中央礼拝堂)


37
後陣のフレスコ画(1930-40c)


38


39
詳細不知
(つづく)

1カラヴァッジョについて書くことをゴールとしていたので、それが終わって、これからは「おまけ付きグリコ」のようなものです。


2
塔は、ドゥオーモの鐘楼です。


3
トリノ通りに面して建っている、ごく普通の建物です。


4
この街では、テラコッタ彫刻が目立ちます。


5
Piazza della Repubblicaです。


6
広場に面してドゥオーモが建ってます。ドゥオーモ前からPiazza della Repubblicaを撮った写真です。


7
Piazza della Repubblicaがキヴァッソの旧市街の中心になります。


11
広場の先に進みます。


12
八角形の塔があります。


13
12世紀、キヴァッソはモンフェッラートのアレラミーチ家の領地でした。11世紀、フォンフェッラート侯爵グリエルモ4世・デル・モンフェッラート(1030/1035-1100)は、キヴァッソ城の建設を始めました。城は、グリエルモ4世死後の1178年に完成しました。


14
キヴァッソ城は取り壊されて現存しませんが、その城にあった塔の一つがTorre Ottagonaleです。


15
城の存在を今に伝える唯一の建物がこの塔です。


16
この通りの先にポー川が流れてます。


17
先に進んでも見所がなさそうだったので、戻ることにしました。


18
今来た道を引き返すことにしました。


19
突き当りに建っている教会に向かいます。


20
先ほどまで時々日差しがありましたが、雲が厚くなってきました。


21
青空が僅かになりました。


22
さて、ドゥオーモです。


10
キヴァッソのドゥオーモであるサンタ・マリア・アッスンタ参事会教会です。


8
キヴァッソは、イヴレア司教区に所属しており、司教座はイヴレアのドゥオーモに置かれてます。


9
15世紀前半、キヴァッソを領地にしていたモンフェッラート侯爵ジャン・ジャコモ・パレオローゴ(トリノ、1395-カザーレ・モンフェッラート、1445)の指示によって、1415年に創建された後期ゴシック様式の教会です。


23
ジャン・ジャコモ・パレオローゴ侯爵の死後の1480年に完成しました。


24
本堂が完成した1429年に奉献式が執り行われました。


25
長い間、単なる教区教会の地位でしたが、1996年に参事会教会に昇格しました。


26
鐘楼にある日時計


27
この教会の見どころはファサードのテラコッタ彫刻です。


28
入口扉上ルネッタの聖母子のテラコッタとフレスコ画断片


29
ファサードのテラコッタ彫刻は、ピエモンテの無名彫刻家によって1450年から1460年頃に制作されました。


30


31


32


33


34


35
(つづく)

P1330518
前泊地はミラノでした。


P1330519
トリノ・ポルタ・スーザ駅に到着しました。


P1330516
ポルタ・スーザ駅の地上駅に出ます。


P1330517
普通列車に乗り換えてキヴァッソ駅に向かいました。


P1330520
キヴァッソ駅に到着しました。


P1330523
キヴァッソ駅の駅舎です。


P1330521
駅前広場です。


P1330522
駅前にある、このホテルがこの日のお宿です。


P1330525
ミラノ出発が早い時間で、朝食なしだったので、駅横のバールで一息入れました。


P1330526
街歩きに出発です。


P1330524
駅横にちぐはぐな感じがする建物がありました。


P1330527
ローマ通りです。ローマ通りがないコムーネは希少価値がありますね。ローマ通りは、日本の銀座通りに相当しそうです。


P1330528
トリノに泊まる予定でしたが、この週のホテル料金が異常に高くなっていたので、予約しないで様子見をしていました。ところが、宿泊日の一週間前にはトリノのホテルが全部満室となっていたので、已む無くトリノの代わりにキヴァッソに泊まることにしたという訳です。


P1330529
キヴァッソは、人口26,908人(2018年12月31日現在)のピエモンテ州トリノ県にあるコムーネです。


p1362
紀元前1000年頃に集落があったとされる古い町ですが、紀元前2世紀にローマの植民地となり、ガリカ街道の宿場町として発展したそうです。


P1330530
ポー川とオルコ川の合流点に位置することから、河港の町としても栄えました。


P1330531
ポポロ広場に出ます。


P1330532
ポポロ広場です。


P1330533
ポポロ広場にあるモニュメント


p1361
Monumento ai Bersaglieri(狙撃兵の記念碑)


P1330534
キヴァッソにはかって自動車工場があって、一時期、人口が二倍になるなど、非常に栄えましたが、1993年に自動車工場が閉鎖されると、急速に寂れました。


P1330535
大きな火力発電所があって、ある程度まで自動車工場閉鎖の受け皿になっていましたが、環境問題の深刻化によって、近い将来、火力発電所の閉鎖は確実とされているので、苦境の中にある街と言えるでしょう。。


P1330536
トリノに近いので、トリノのベッドタウンとしての性格も併せ持つ街です。


P1330537
キヴァッソに来たのは、この時が初めてでした。


P1330538
旅の目的は飽く迄もトリノでした。トリノの代わりに泊まるのであれば、トリノの近くならば何処でも良かったのですが、どうせなら初めての街が良いと思ったのでキヴァッソを選んだという訳です。


P1330539
シャッター通りの面が無きにしも非ず。


P1330540
事前調査を殆どしなかったので、見所が良く分からず、適当に歩き回ることにしました。


P1330541
トリノ通りです。


P1330542
鐘楼が見えてますが、ドゥオーモのものです。


P1330543
トリノ通りが、この街で最も賑わいを見せる通りです。この時は、それを知らず、後で知りました。


P1330544
閉まっている店がやはり多いように思います。


P1330545
サンティ・ジョヴァンニ・バッティスタ・エ・マルタ教会です。


P1330547
処刑された人々やその家族、困窮に苦しむ人たちを支援する慈悲の同信会 Confraternita della Misericordiaがありましたが、17世紀後半、処刑された人々やその家族の安寧を願う教会の建設が発起されました。


P1330551
慈悲の同信会によって、1707年から1751年に建設されたサンティ・ジョヴァンニ・バッティスタ・エ・マルタ教会です。


P1330550
バロック様式の教会です。


p1363
美術的な見所はあまりなさそうな教会です。


P1330548
ファサードの壁龕にある聖マルタ像


P1330549
聖ジョヴァンニ・バッティスタ像


P1330546
鐘楼とクーポラ


p1364
主祭壇


p1365


P1330552
(つづく)

1洗礼堂のフレスコ画です。


2
ジョヴァンニ・デ・カンポ(ノヴァーラなどで1440-1483活動記録)の「最後の審判」(1450c)


3


4


5


6
落剝している箇所


7


8
モラッツォーネの追随者によるフレスコ画


9


10
騎馬の男の下の女性だけは違う画家の作品です。


11
騎馬の男の女性は、ピエル・フランチェスコ・ジャノーリ(カンペルトーニョ、1624-ミラノ、1692)によって1665年頃描かれました。


14


12


13


15
モラッツォーネの追随者によって描かれたフレスコ画


16


17
次は博物館です。


18
こちらから入ります。


19
中庭に出ました。


20
中庭を囲む柱廊


21
この先に司教館があります。


22
司教館の一部と回廊が博物館になってます。


23


24
初期キリスト教会だったころの浮彫


25


26


27
ドゥオーモは、これで終わりです。


28
外に出ました。


29
サン・ジョヴァンニ・バッティスタ教会です。


30
1635年から1643年に建設されました。


31
主に死刑判決を受けた人たちのための教会です。


32
ブロレットにやってきました。


33
ブロレットは幾つかの建物の集合体です。


34
アレンゴ宮です。


35
ブロレットは主に刑務所でした。今は近代美術館があります。


36
近代美術館の館内のフレスコ画


37
近代美術館の展示


38


39
Palazzo del Governoです。


40
Palazzo del Governoに時計塔があります。


41
見所が豊富な街です。


42
(おわり)

1引き続きノヴァーラのドゥオーモです。


2
フィリッポ・アッビアーティ(ミラノ、1640-1715)とメルキオッレ・ゲラルディーニ(ミラノ、1607-1668)によって1684年から1692年に描かれた「キリストの物語」が左右のコリント式列柱の間に掲げられてます。


3
右側


4
右側廊


5
左側廊


20
アダムとイヴのモザイクは最初の建物にあったものです。


22
二代目の建物の礼拝堂が残されてます。


23


24
この礼拝堂は通常公開されていないようです。必見の祭壇画があります。


6
ジュゼッペ・ルスナティ(ガララーテ、1650-ミラノ、1713)の「ノヴァーラ司教」


7


8


9
聖堂内は大体見終わりました。


10


11
聖堂内からファサード前に出ます。


12
ファサード前に出ました。


13
ファサード側の中央扉


14
次は洗礼堂です。


15
洗礼堂はファサードに向かって右側の柱廊奥にあります。


21
ファサード前から洗礼堂の全体を見ることが出来ません。


40
煉瓦積みの洗礼堂です。


25
初期キリスト教会の洗礼堂は、4世紀後半から5世紀前半に建設されたそうです。その土台が現存しています。


26
ティブリオとクーポラが11世紀に増設されて現在の姿の原形となったそうです。


27
柱廊途中に設けられた洗礼堂の入り口です。


28
洗礼堂の中に入ります。


29
初期キリスト教会時代の洗礼堂土台


30


31


32
ローマ時代の骨壺が置かれてます。


33
内部は八角形になってます。


34
35


36
フレスコ画が残されてます。


37
クーポラのフレスコ画の痕跡


38


39


16


17


18


19
(つづく)

1引き続きノヴァーラのドゥオーモです。


2
次の礼拝堂です。


3
サン・ガエターノ礼拝堂です。


4
ガウデンツィオ・フェッラーリ(ヴァルドゥッジャ、1475/1480-ミラノ、1546)の「最後の晩餐」(1525c)


5


6
一部にスぺリンド・カニョーラの作品、またはスぺリンド・カニョーラがガウデンツィオ・フェッラーリに協力したという説があるようです。


7
次の礼拝堂です。


8
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエの祭壇です。
礼拝堂ではなく、一般的に祭壇と呼ばれてます。


9
ノヴァーラの逸名画家作「聖母子」(15世紀末‐16世紀初頭)


10


11
ルネッタの「父なる神」の制作者情報等の詳細が不明です。


12
聖ジローラモ?


13
詳細不知


14
カッリスト・ピアッツァ(ローディ、1500-1561)の「磔刑」


38
この作品の帰属については別説が幾つかあるようです。


15
後陣の磔刑像


18
詳細不知


16


17
ヴィターレ・サーラ通称イル・サレッタ(チェルヌスコ・ロンバルドーネ,1803-ミラノ、1835)の「聖母戴冠」


20


21
Presbiterio


22
制作者情報等不知の「チントラの聖母」


23
フィリッポ・アッビアーティ(ミラノ、1640-1715)とメルキオッレ・ゲラルディーニ(ミラノ、1607-1668)によって、1684年から1692年に制作された「キリストの物語」が聖堂内に掲げられてます。
場面毎にアッビアーティかゲラルディーニのどちらかによって描かれたようで、二人によって描かれた場面はないと言われてます。
これは「最後の晩餐」です。


24
フィリッポ・アッビアーティ(ミラノ、1640-1715)またはメルキオッレ・ゲラルディーニ(ミラノ、1607-1692)の「キリストのエルサレム入城](1684-92)


25
説教壇


26
説教壇


27
説教壇


28
説教壇


29
サン・アガビオ礼拝堂です。


30
イグナツィオ・コッリーノ(トリノ、1724-1793)の彫刻


31
ベルナルディーノ・ラニーノ(モルタラ、1512-ヴェルチェッリ,1578)の「磔刑」


32


33


19
フィリッポ・アッビアーティとメルキオッレ・ゲラルディーニの「キリストの物語」


34


35


36


37


39


40
(つづく)

1写真左がドゥオーモです。


2
ノヴァーラ司教区のサンタ・マリア・アッスンタ司教座教会です。


3
この場所には、ローマ時代に建設された、ローマ神話の主神ユピテルを祀る神殿がありましたが、4世紀後半にその神殿の建物の一部を利用して建設された初期キリスト教会のサンタ・マリア教会が前身です。5世紀に何度か改造され拡大されました。


4
最初の建物が経時劣化したので、11世紀から12世紀に取り壊され、ロマネスク様式の建物が建設されました。1132年、再建された二代目の建物の奉献式が執り行われたそうです。


5
二代目の建物の教会は、15世紀に大改修され、さらに16世紀に改造増築されました。18世紀にバロック様式に改修されましたが、改修工事中に建物の経時劣化がかなり進んでいることが判明したそうです。


6
それを受けて、バロック様式への改修工事が中断され、再建計画が持ち上がりました。再建計画は、建築家ベネデット・アルフィエーリ(ローマ、1699-トリノ,1767)に委嘱され、1754年にアルフィエーリから設計書が提示されたのですが、何故か工事が着手されず、計画が頓挫してしまいました。


7
しかし、再建の必要性が変わることはなく、19世紀中頃、建築家アレッサンドロ・アントネッリ(ゲンメ、1798-トリノ、1888)が起用され、1854年にアントネッリから建設計画書が提出されました。
その計画に基づき、1857年から1869年に建設された新古典様式の三代目の建物が現在の姿の原形となってます。1869年、三代目の建物の奉献式が執り行われたそうです。


8
ロマネスク様式の鐘楼は、2009年にその上部が完成しました。


9
新古典様式のファサード


10
左側壁の柱廊が特徴です。


11
聖堂内に入りました。


12
三廊式、ラテン十字形、新古典様式の内部です。


13
コリント式列柱が目立ちます。


14
美術的な見所が豊富です。


15
ルネサンス期の作品が残されてます。


16
Presbiterioの左右にオルガンが設置されてます。


17
建物は新しいですが、多くの礼拝堂祭壇は二代目の建物のものが残されてます。


18
ティツィアーノの祭壇画の傑作があったのですが、失火のために焼失したそうです。


19
各礼拝堂の祭壇画などを見て回ります。


20
ノヴァーラ司教にドゥオーモ建設を認可する教皇


21
制作者情報不知


22
左側廊礼拝堂


23
祭壇画不知


24
アレッサンドリアの聖カテリーナ礼拝堂です。


25
ガウデンツィオ・フェッラーリ(ヴァルドゥッジャ、1475/1480-ミラノ、1546)の「アレッサンドリアの聖カテリーナの神秘な結婚」(1527c)


26


27


28


29
磔刑礼拝堂です。


31
ベルナルディーノ・ラニーノ(モルタラ、1512-ヴェルチェッリ、1578)の「磔刑と聖人たち(聖マリア・マッダレーナ、聖ガウデンツィオ、聖ベネデット)」


32


39


33
ボケ写真ですいません。


34
グエルチーノ(チェント、1591-ボローニャ、1666)の「聖痕を受ける聖フランチェスコ」


35
次の礼拝堂です。


36
サン・ジュゼッペ礼拝堂です。


37
ジュゼッペ・ヌヴォローネ(サン・ジミニャーノ、1619-ミラノ、1703)の「聖母子と聖人たち」


38
パンフィーロ・ヌヴォローネの息子がジュゼッペ・ヌヴォローネです。


40
(つづく)

1次はサン・マルコ教会です。


2
聖カルロ・ボッロメーオの弟子で、ノヴァーラ司教のカルロ・バスケ(メレニャーノ、1550-ノヴァーラ,1615)の要請によってサン・マルコ教会建設計画が具現化することになったそうです。


3
ミラノの建築家ロレンツォ・ビナーゴ(ミラノ、1554-1629)に委嘱され、ビナーゴの設計と建設工事監督によって1607年から1691年に建設されたバロック様式のサン・マルコ教会です。


4
現在、教会が建っている場所には小さなサン・マルキーノ祈祷所(オラトリオ)があったそうです。


5
サン・マルコ教会の建設資材は、城壁外にあってカルロ5世の命令によって破壊されたサン・ロレンツォ修道院教会の残骸が使用されたそうです。


6
1634年に教会に併設して修道院が建設されましたが、サン・マルコ修道院だった建物はイタリア銀行になってます。


7
途中、資金難のために工事が進まず、完成したのは創建から80年以上あとの1691年でした。同年、奉献式が執り行われました。


8
中央扉だけが開きます。


9
単廊式、バロック様式の内部です。


10
左側壁です。
中堅画家の作品があるので、美術的に楽しめます。


11
Presbiterio


12
後陣天井フレスコ画は、グリエルモ・カッチャ通称モンカルヴォ(モンタボーネ、1568-モンカルヴォ、1625)によって描かれました。


13
グリエルモ・カッチャ通称モンカルヴォ(モンタボーネ、1568-モンカルヴォ、1625)の「父なる神」


14


15
主祭壇の彫刻


16
詳細不知の「聖心」


17
カミッロ・プロカッチーニ(パルマ、1561-ミラノ、1629)の「十字架の提示」


18
ダニエーレ・クレスピ(ブスト・アルシツィオ、1597/1600-ミラノ,1630)の「聖マルコの殉教](1626)


19
ダニエーレ・クレスピ(ブスト・アルシツィオ、1597/1600-ミラノ、1630)の「馬に乗った兵士に引きずられる聖マルコ](1626)


20
カウンターファサードにあるオルガン


21
ノヴァーラ城横にあるマルティーリ・デッラ・リベルタ広場です。


22
ヴィスコンティ城(ノヴァーラ城)にやってきました。


23
城が建てられた場所には古代ローマに築かれた城壁があり、城壁を利用して砦が築かれたそうです。砦が築かれた時期は不明とされてます。


24
951年からイタリア王だったザクセン王オットー1世(ヴァルハウゼン,912-メムレーベン,971)の969年の文書にノヴァーラ城の存在が記されているそうですが、その城がヴィスコンティ城の前身かどうかは不明とされているそうです。


25
1272年、ノヴァーラの支配者だったフランチェスコ・デッラ・トーレが古代ローマ時代の城壁を利用して城塞を築きましたが、これがノヴァーラ城の最初の確実な記録とされてます。


26
1293年、城はヴィスコンティ家に譲渡され、当時のヴィスコンティ家の当主マッテオ1世・ヴィスコンティ(1250-1322)は、要塞の拡大整備に乗り出したそうです。
マッテオ1世の末息子のジョヴァンニ・ヴィスコンティによって城が完成しました。


27
ヴィスコンティ家最後のミラノ公フィリッポ・マリア・ヴィスコンティ(ミラノ,1392-1447)が1447年に没すると、ミラノ公爵はスフォルツァ家に引き継がれました。ガレアッツォ・マリア・スフォルツァ公爵、さらにイル・モーロによって重要な軍事拠点としての城の強化が図られました。


28
17世紀まで、ノヴァーラを支配したスペイン人はヴィスコンティ城の軍事的重要性を継続しましたが、サヴォイア家が支配する18世紀になると、軍事的な重要性の低下によって城は公共の公園として開放されるようになりました。


35
城の入り口です。


29
19世紀になると、堅固な城は刑務所として最適な建物と見做されて改造されました。1973年に他の場所に移転するまで刑務所でした。


30
公園になっている場所


31
公園にある乗り物


32


33


34
公園からの景観


36
マルティーリ・デッラ・リベルタ広場です。


37


38
写真右の建物はオペラ劇場です。


39


40
(つづく)

1次の礼拝堂です。


2
ロレートの聖母礼拝堂です。


3


4


5
ロレートの聖母礼拝堂の天井のフレスコ画は、ステファノ・マリア・レニャーノ(ミラノ、1661-1713)によって描かれました。


6
ロレートの聖母礼拝堂の左右の側壁に描かれたフレスコ画は、ベルナルディーノ・ラニーノ(モルタラ、1512-ヴェルチェッリ、1578)によって制作されました。


7
ベルナルディーノ・ラニーノのフレスコ画


8
Presbiterio


9


10
天蓋


11


12
主祭壇


13



14
左翼廊の礼拝堂です。


15
左翼廊の祭壇画は、ペラージョ・パラージ(ボローニャ、1775-トリノ、1860)の「正教会に寄付するノヴァーラ司教聖アダルジソ」(1825)


16


17
右翼廊礼拝堂


18


19
次はサンティッシモ・サクラメント礼拝堂です。


20
絵画があります。


21
ジョヴァンニ・マウロ・デッラ・ローヴェレ(1575-1640)の「聖ガウデンツィオの生涯のエピソード」


22
「聖ガウデンツィオの生涯のエピソード」は全部で8点あります。


23
これら8点の作品は、ジョヴァンニ・マウロ・デッラ・ローヴェレ単独によって描かれたそうです。


24


25


26


27


28
サン・ジョルジョ礼拝堂です。


29
サン・ジョルジョ礼拝堂のフレスコ画(詳細不知)


30


31


32


33
カウンターファサード方向


34
大体見終わりました。


35
外に出ます。


36
外に出ました。


37
オペラ劇場です。


38
1886年から1888年に建設されたTeatro Cocciaです。


39
ピエモンテのオペラ劇場は伝統的な馬蹄形のものは少ないのですが、ノヴァーラのオペラ座は違います。


40
(つづく)

1引き続きサン・ガウデンツィオ聖堂です。


2
Cappella della Buona Morteです。


3
Cappella della Buona Morteはモラッツォーネのフレスコ画によって装飾されてます。


4
グリエルモ・カッチャ通称モンカルヴォ(モンタボーネ、1568-モンカルヴォ、1625)の「十字架降下」


5
ピエル・フランチェスコ・マッツゥッケッリ通称イル・モラッツォーネ(モラッツォーネ、1573-ピアチェンツァ、1626)の「最後の審判」


6
モラッツォーネの「最後の審判」


7
モラッツォーネのフレスコ画


8
モラッツォーネの天井フレスコ画


9
次の礼拝堂です。


10
Cappella della Nativitaです。


11
この多翼祭壇画で有名な礼拝堂です。


12


15
ガウデンツィオ・フェッラーリ(ヴァルドゥッジャ、1475/1480-ミラノ、1546)の「サン・ガウデンツィオ聖堂の多翼祭壇画」(1516)


13
この多翼祭壇画は、城壁外にあったサン・ガウデンツィオ聖堂の主祭壇を飾るために制作されましたが、カルロ5世の命令によって、1552年に聖堂の建物が取り壊されたので、パネル毎に分解されて保存されていたそうです。


14
現在の場所に再建されたサン・ガウデンツィオ聖堂の最初に行われた奉献式が行われた1590年に戻されたそうです。


16
裾絵が良く見えません。


17


18


19


20
受胎告知とご誕生


21
聖ピエトロと聖ジョヴァンニ・バッティスタ、聖母子と聖人たち、聖エウセビオと聖パオロ


22
玉座の聖母子と聖人たち


23
聖ピエトロと聖ジョヴァンニ・バッティスタ


24
聖エウセビオと聖パオロ


25
受胎告知する大天使ガブリエーレ


26
受胎告知される聖母


27
Cappella della Nativitaの左側壁


28
Cappella della Nativitaの天井フレスコ画は、パオロ・カミッロ・ランドリアーニ通称イル・ドゥキーノ(1562-1618)の作品です。


29
次の礼拝堂です。


30
割礼礼拝堂です。


31
ジョヴァンニ・バッティスタ・デッラ・ローヴェレ(1560-1627)の「割礼」
ジョヴァンニ・バッティスタ・デッラ・ローヴェレは、弟ジョヴァンニ・マウロ・デッラ・ローヴェレと一緒に仕事することが殆どで、兄弟でフィアメンギーニと呼ばれています。
この「割礼」は珍しく兄単独で制作されたようです。
しかし、割礼礼拝堂のフレスコ画は兄弟で制作されたそうです。


32
フィアメンギーニのフレスコ画


33
フィアメンギーニのフレスコ画


34
「玉座の聖母子」(詳細不知)


35
次は磔刑礼拝堂です。


36
ガウデンツィオ・フェッラーリ(ヴァルドゥッジャ、1475/1480-ミラノ、1546)に帰属する「磔刑」


37


38


39
クーポラの先端に置かれていた「救世主」(1873)


40
「救世主」の本物は聖堂内に置かれてます。落雷や風化があるので、クーポラの先端には現在、これのコピーに差し替えられたそうです。
(つづく)

1サン・ガウデンツィオ聖堂のクーポラは非常に目立ちます。


2
見る場所によって、このように鐘楼とクーポラが重なって、丸で一本の塔のように見えます。


3
サン・ガウデンツィオ聖堂です。Basilica Minoreに格付けされてます。


4
ノヴァーラ司教で街の守護聖人聖ガウデンツィオ(イヴレア、327-ノヴァーラ,418)の遺骨を納めるサン・ガウデンツィオ教会は、841年に現在の場所とは別の、城壁外に建設されました。最初の建物が荒廃したので、1298年に再建されたそうです。


5
1552年から1554年にかけて、ノヴァーラは神聖ローマ帝国の皇帝でスペイン王のカルロ5世(1500-1558)の支配下に置かれましたが、ノヴァーラをスペインの重要な軍事拠点にするべく、要塞化、城壁の拡大整備乗り出し、城壁外の既存建物全ての破壊が命令され、サン・ガウデンツィオ聖堂も完全に破壊されたのです。


6
現在、サン・ガウデンツィオ聖堂が建っている場所は、城壁内の北西の端に当たりますが、その場所には1019年に建設されたサン・ヴィンチェンツォ・マルティーレ教会がありました。
スペインの支配が弱まると、反スペインの象徴としてサン・ガウデンツィオ聖堂の再建が計画されるようになりました。
そうして、1576年、サン・ヴィンチェンツォ・マルティーレ教会を取り壊して、その上にサン・ガウデンツィオ聖堂の再建が決定されたのです。


7
そうして、画家で、建築家でもあったペッレグリーノ・ティバルディ(プーリア、1527-ミラノ、1596)の設計によって、1577年に創建されました。建物の一部が完成した1590年に奉献式が執り行われました。


8
左側壁です。
1590年の奉献後、ペストの流行や戦争による経済低迷によって、工事が中断してしまいました。
経済が回復した1626年に建設工事が再開され、1656年に完成した建物が現在の姿の原形となってます。


9
写真左がクーポラで、写真右が鐘楼です。建物が完成した1656年当時、写真のクーポラと鐘楼は存在していませんでした。


10
鐘楼の土台部分


11
高さ約75mの鐘楼です。


12
18世紀中頃、ノヴァーラはサヴォイア家の支配下にありましたが、聖堂に相応しい鐘楼の建設が計画され、サヴォイア家のお抱え建築士ベネデット・アルフィエーリ(ローマ、1699-トリノ,1767)が起用され、1753年に鐘楼の建設が始まりました。


13
しかし、資金不足のため、1773年に工事中断の已む無きに至りました、1780年に漸く工事が再開され、1786年に完成したのです。


14
鐘楼の先端に天使像と十字架があります。


15
次はクーポラです。


16
クーポラ自体の高さは121mですが、先端に5mの救世主像があるので、全体の高さは126mあるそうです。


17
1840年、豊富な食肉税収入を裏付けに壮大なクーポラ建設が決定されました。


18
建築家アレッサンドロ・アントネッリ(ゲンマ、1798-トリノ、1888)に委嘱され、1841年にアントネッリから設計書が出されました。


19
1844年に建設工事が開始されましたが、1846年に土台部分の強度不足が判明して、工事が中止されてしまいました。
1848年に第一次イタリア独立戦争が勃発してしまい、戦費負担のため資金不足となり、クーポラ建設は無期延期となってしまいました。


21
1855年、アントネッリは設計変更の計画書を提出しました。独立戦争が終わり、資金不足が解消した1858年に漸く工事が再開されました。その後、工事はイタリア独立戦争の激化などにより度々中断され、1888年に漸く完成しました。


20
クーポラの先端に救世主像(1873)があります。


25
拝観します。


22
聖堂内に入りました。


23
単廊式、ラテン十字形、バロック様式の内部です。


24
右側壁


26
光が聖堂内部に入り込んで、明るい。


27
私的には美術的な見所が豊富な教会です。


28
礼拝堂を見ます。


29
守護聖人礼拝堂です。


30
守護聖人礼拝堂は、タンツィオ・ダ・ヴァラッロ(アラーニャ・ヴァルセージャ、1582-ヴァラッロ、1633)によって1629年から1630年に装飾されました。


31
この「センナケリブの戦い」が有名です。


32
タンツィオ・ダ・ヴァラッロ(アラーニャ・ヴァルセージャ,1582-ヴァラッロ、1633)の「センナケリブの戦い](1629-30)


33


34


35
タンツィオ・ダ・ヴァラッロによるフレスコ画


36
タンツィオ・ダ・ヴァラッロによる天井フレスコ画


37
タンツィオ・ダ・ヴァラッロ(アラーニャ・ヴァルセージャ、1582-ヴァラッロ、1633)の「守護天使」(1629)


38
クーポラ


40


41
(つづく)

2前泊地はミラノでした。


1
ミラノ中央駅からノヴァーラに向かいました。


3
トリノに向かう列車はかなり混雑していました。


4
ノヴァーラに到着しました。


9
乗降客が多い駅として知られてます。


5
ノヴァーラ駅の駅舎です。


6
駅前広場です。


10
ノヴァーラは、人口101,599人(2022年7月31日現在)のピエモンテ州ノヴァーラ県の県都です。工業都市です。


40
駅前公園に立っているガリバルディ像


7
塔が目立ちます。


8
塔のように見えますが、教会の鐘楼とクーポラです。サン;・ガウデンツィオ聖堂のものですが、どこからでも見えるのでノヴァーラの街のシンボルとなってます。


11
駅前のホテル荷物を預けました。


17
街歩きに出発しました。


18
街のシンボルがある聖堂に向かいました。


19
ガウデンツィオ・フェッラーリ通りです。


20
ガウデンツィオ・フェッラーリ(ヴァルドゥッジャ、1475/1480-ミラノ,1546)は、ルネサンス期にロンバルディア、ピエモンテで活動した画家です。1514年から1521年頃にノヴァーラに滞在して、サン・ガウデンツィオ聖堂やノヴァーラ大聖堂などに作品を残しました。


12
ガウデンツィオ・フェッラーリ通りに面して教会が建ってます。


13
サンティッシマ・トリニタ教会です。


14
17世紀にスペイン人によって建設されたサンティッシマ・トリニタ教会です。


15
教会が建設された17世紀は、ノヴァーラはスペインの支配下にありました。


16


21
道幅が狭くなります。


22
サン・ガウデンツィオ聖堂はガウデンツィオ・フェッラーリ通りにあります。


23
聖堂の手前にMuseoがあります。


24
旗が掲げられている建物がMuseoです。


25
自然史博物館 Museo di Storia Naturaleです。


26


27
19世紀に建設されたPalazzo Faragginaに博物館があります。


29
美術ファンの私にとっては、重要性が薄い博物館です。


28
お暇ならば、どうぞ、と言った感じでしょうか?


30
この後、サン・ガウデンツィオ聖堂を拝観しましたが、今から始めると中途半端になるので、その2で纏めて触れることにします。


31
これは何でしょうか?


32
サン・ガウデンツィオ聖堂の拝観を終えて、街の中心に向かいます。


33
銀行の建物です。


34


35
中心街にやってきました。


36


37
バールでトイレ休憩しました。


38
未だ午前10時前でした。


39
(つづく)

1合同の建物です。同じ形の建物が3棟あったような。


2
公団住宅ような感じです。


3
同じ建物を幾つか建てるという事がイタリアでもあるんですね。


4
個性が感じられない柱廊。


5
ガリンベルティ広場の入り口です。


6
何のオブジェでしょうか?


7
涼しい風が吹き抜けていました。


8
先ほど歩いてきたCorso Nizzaです。


9


10


11
やれやれホテルが見えてきた。


12
無理に時間潰しをして疲れました。


13


14
後ろから見たGiuseppe Barbarouxのモニュメント


15


16
振り返って撮った写真です。


17


18
ホテルに戻っても特にやることがありません。


19
ドゥオーモをもう一度拝観することにしました。


20
聖堂内に入りました。


21


22


23


24
この日は、これで終わりです。


25
翌朝です。


26
朝の散歩に出ました。


27
この日も好天に恵まれました。


28
メルカトです。


29
青空市が開市されていました。


30
朝は冷えて寒いくらいでした。


31


32
朝の散歩を切り上げました。


33
ホテルをチェックアウトして駅に向かいます。


34
バスで駅に向かう予定でしたが、青空市のため、バスの乗車地が分かりません。


35
地元の人に尋ねても、バスの乗車地が良く分からない。人によって違う場所を教えるのです。


36
徒歩で駅に向かいました。


37
最初で最後のクーネオとなりました。


38
駅前広場


39
青空市開市日のバスには、何時も戸惑います。


40
開市日のバスについては、地元の人でも分かり難いのですから、旅行者がバスの停留所が分からないのはごく自然です。


41
駅に到着しました。


42
次の目的地アルバに向かいました。


43
(クーネオ編 おわり)

1夏至のころ、イタリアに限らずヨーロッパの街では。お祭りが行われるようです。


2
クーネオもその例外ではなく、この前週の週末はお祭りだったそうです。お祭り前後の週、博物館、美術館は休館でした。現在はどうなっているのでしょうか。


3
夏至の頃は、日が長いので夜遅くまで観光が楽しめます。


4
その反面、どうしても寝不足になりがちです。零時を回っても辺りは賑わっています。


5
鉄道駅の方に行ってみます。特に用事があるわけではありません。


7
駅前広場


8
クーネオに到着時、大きな荷物があったので、取り敢えずホテルに急ぐことを考えていて、駅周辺を殆ど見ていなかったからです。


9
駅周辺も見所なし。


10
駅周辺は、街の中心地よりも一段と新しい建物ばかり。


11
駅前広場のベンチで一休み。


12
クーネオ駅の駅舎です。


13
駅前広場から見えた山の頂。


14
駅のホームにも行ってみました。当然、何もなし!


15
中心街に戻ることにしました。


16
違った道を選びました。


17
カルフールで果物を買いました。


18
影が長くなってきました。


19
共同住宅ばかりで退屈です。


20
シンガポール料理も出す不思議な日本料理店。得体が知れない店。


21
戸建ての住宅がありません。


22
私には共同住宅が合いません。


23
アパートばかり。


24
口が裂けてもアパートをマンションなんて呼べません。


25
それにしても見所が皆無。


26
日が陰って、夕涼みをする人がいました。


27
日本と違って、クーネオの夏は涼しいのです。


28
観光に訪れては、いけない街です。


29
退屈でした。


30
夕方になって、人出が多くなってきました。


31
共同住宅ばかり。


32


33


34


35


36


37


38


39


40
(つづく)

1これからどうしようか。


2
足の赴くままのブラブラ歩きです。


3
これだけ見所が乏しいとは全くの想定外でした。


4
私の場合、失敗の旅が少なからずあります。この当時、今のようにインターネットで多くの情報が得られる訳ではなかったので、情報不足で無駄足を踏んだ経験が少なからずありました。


5
サン・フランチェスコ修道院教会に来てしまいました。


6
メルカト横のポルティコです。


7
夏至を過ぎたばかりの強烈な日差しにも拘らず涼しかったので、ブラブラ歩きが苦にならない日でした。


8
それにしても新しい建物ばかりで、ウンザリ。


9
ここで水の補給です。


10


11
時間が全然潰れません。


12
この日は水曜日でした。クーネオの博物館、美術館は毎週月曜日が定休日の筈で、水曜日は開館と思っていました。


14
ホテルに戻った時、フロントで聞いたら、この週と次の週は博物館と美術館が夏休みということでした。


15
博物館、美術館でも夏休みがあるんですね。


16
職員が交代で夏休みを取れば、夏休み休館が避けられる筈ですが、ここはイタリアですから。日本とは違うのです。行ってみて初めて分かるのがイタリアです。


17
同じ場所に何度も来てしまいます。


18
クーネオとほぼ同じ規模の街で、博物館や美術館に行っても入館者の姿を見ることは滅多にありません。という事は、クーネオの博物館、美術館でも開館していても閑古鳥が鳴くばかりですから、臨時休館しても実質あまり変わらないのでしょう。


19
開館すれば、照明費、冷房費などが必要ですからね。


20
面白い店がありました。


22


23
一旦ホテルに戻って暫し休憩。


21
再び外へ。


24
ガリンベルティ広場です。


25
非常に広い広場です。


26
広さが約24,000㎡あるそうです。


28
1797年、クーネオはナポレオンのイタリア侵攻に伴い、フランス軍の占領下に置かれました。進駐してきたフランス軍は、クーネオの城壁を取り壊して、1800年にこの広場を作ったそうです。


29
Giuseppe Barbarouxのモニュメント


30
広場に面した建物の殆どは、広場が造られてから建設されたそうです。


31


32


33


34


35
味気ない広場ですが、写真を撮ったのは単なる暇つぶしからでした。


36
やることがありません。


37
住宅地に行ってみました。


38
見所なし!


39


40
小学校です。


41
小学校の入り口です。


42
(つづく)

引き続きサンタンブロージョ教区教会です。
3
Presbiterio


4


5
Presbiterioのフレスコ画


6


1
祭壇画を見て回ります。


2
聖母子と聖人たち


7


8
次の礼拝堂


9
聖バルトロメオの殉教


10


11
次の礼拝堂です。


12
カウンターファサード上部にオルガンがあります。


13
オルガン上のニッチに描かれたフレスコ画


14


15
次の礼拝堂です。


16
幼き聖母と聖アンナ


17


18
洗礼盤


19
クーポラのフレスコ画


20
Presbiterioのフレスコ画


21
聖母の神殿奉献


22


24
磔刑の礼拝堂


23


25


26
プレセーペ


27


28


29
大体見終わりました。


30
外に出ました。


31
県庁舎の建物です。


32


33


34
県庁舎の向かいにあるのは、警察本部の建物です。


35
パトカーが駐車していました。


36


37


38
ローマ通り


39
ガリンベルティ広場の方に進みました。


40
(つづく)

1ローマ通りです。


2
市の塔です。


3
市の塔を支えるPalazzo Torreです。


4
Palazzo Torreの外壁に描かれたフレスコ画です。


6
Palazzo Torreに隣接して市庁舎が建ってます。


5
市庁舎の建物は、イエズス会によって1711年に建設された神学校でした。


7
しかし、1773年、イエズス会の解散によって神学校は閉鎖されてしまったので、1775年から旧神学校の建物は市庁舎に転用されることになり、現在に至ってます。


8
市庁舎のファサード入り口の左右に噴水がありますが、1837年にクーネオの市営水道が敷設された記念に造られたそうです。


9
市庁舎内に観光案内所があります。


10
ローマ通りのポルティコ


11
市庁舎辺りが街の中心でしょう。


12


13


14
市の塔です。


15
澄んだ空にアルプスの山々が良く見えます。


16


17
Palazzo Torreのフレスコ画を見ながら、サンタンブロージョ教区教会に向かいました。


18


19
サンタンブロージョ教区教会は、ローマ通りに面した小さな広場に建ってます。


20


21
サンタンブロージョ教区教会です。


22
13世紀初めに建設されたロマネスク様式のサンタンブロージョ教会は、現在地よりも後陣の奥20mほどの場所にあったそうです。建設当初は、サン・ダルマッツォ・ディ・ペドーナ修道院の修道士たちによって運営管理されていたそうです。


23
度重なる戦争によって教会の建物は大きな被害を受けましたが、初代の建物があった場所に城壁が築かれることになり、16世紀後半に最初の建物は取り壊され、現在地に再建されることになりました。
そうして、1599年に二代目の建物が完成しました。
しかし、二代目の建物は強度不足のため危険となったので、18世紀初めに解体され、再建されることになりました。
建築家フランチェスコ・ガッロ(モンドビ、1672‐1750)が起用され、ガッロの設計によって1703年に創建され、1710年に完成した三代目の建物が現在の姿の原形です。


24
クーポラは1733年から1736年に建設されました。1743年に建設された鐘楼です。


25
ファサードの装飾


26
バロック様式のファサードは19世紀に漸く完成したそうです。


27
ポータル上の彫刻「聖心」は、カルロ・ポンゾ(クーネオ、1847‐1902)によって1890年に制作されました。


28
柱頭


29


30
フランチェスコ・ビアンキーニのファサード壁龕の彫刻「聖ヴィンチェンツォ・フェッレール」(1814)


31
フランチェスコ・ビアンキーニの「聖アンブロージョ」(1814)


32


33
教会内に入りました。


34
単廊式、ギリシャ十字形、バロック様式の内部です。


35
右側壁


36
クーポラのフレスコ画は、ミケーレ・アントニオ・ミロッコ(トリノ、1690-1772)の「栄光の聖アンブロージョ](1765)です。


37
Presbiterio天井のフレスコ画は、カルロ・ビアンコによって1765年に制作されました。


38


39
主祭壇


40
(つづく)

1次はサン・フランチェスコ修道院教会の複合建物です。


20
退屈!!!!


21
今回の旅程にクーネオを入れた自分が悪いのです。


22
気を取り直して教区教会に向かいました。


23
昼下がりなので、教会は閉まっているに違いない。


24
ダメ元です。


25
この道は先ほど通りましたが、突き当りに教会があります。


26
教会のファサードが見えました。

2
サン・フランチェスコ教会です。
13世紀末、フランチェスコ修道会によって建設された礼拝堂が前身です。その後、14世紀、15世紀に拡大され、1470年に完成したそうです。


3
ファサードのポータル上のルネッタです。ルネッタにはフレスコ画があったと思いますが、その痕跡すら見ることが出来ません。


4
1797年、ナポレオンのイタリア侵攻によって、修道士は追放され、修道院教会の建物はフランス軍に接収されて兵舎、倉庫などに転用されたそうです。


5
ナポレオン失脚後、建物は放置されていましたが、1821年、修道士が戻り活動が再開されました。


6
19世紀末に修道士の多くが去り、修道院は閉鎖状態になったものの、教会としての活動は継続されました。


7
第二次世界大戦後、教会の活動が停止されました。
1960年、修道院教会だった建物はクーネオ市当局の所有となり、修復後、建物の一部は市立博物館や各種催事場に転用されるようになりました。


8
後陣


9
鐘楼


13
市立博物館に行きました。


11
休館でした。


12
ここには入館したかった!


14
この日、開館日でしたが何故か休館でした。イタリアでは、このようなことは頻繁に起きますが、遠路はるばる折角訪れたクーネオですから、ガックリ度は半端ではなかった!


15
Museo自体の展示は冴えないのがせめてもの慰めです。


16
Museoで1時間ほど過ごす予定だったので、時間潰しが必要となりました。


17
ぶらぶら歩きで時間潰しでしたが、時間が潰れない!


19
写真左はメルカトです。


27
サンタ・マリア・デッラ・ピエーヴェ教区教会です。


28
ローマ時代末期の5世紀頃に創建されたサンタ・マリア・デイ・パドーナ教区教会が前身です。


29
1557年、クーネオ包囲戦に際に完全に破壊されたので、1578年から1600年にかけて再建されました。


30
しかし、2代目の建物が構造上の問題があったようで、1656年から1664年に三代目の建物がイエズス会によって再建されると共に、教会の名称が現在名に改称されました。


31
1773年、イエズス会に解散によって、司教区の一般教会となりました。


32
ファサード壁龕の彫刻


33


34
鐘楼


35
教区教会の扉は予想通り閉まっていました。


36
サン・フランチェスコ教会が見えます。


37
市の塔です。


38
市の塔は1317年に建設されたという説がありますが、実際は16世紀のもののようです。


39
高さ52mの市の塔です。


40
市の塔のフレスコ画


41
(つづく)

1次はサンティッシマ・アンヌンツィアータ教会です。


2
鐘楼が見えてきました。


3
15世紀から16世紀にかけて設立されたサンティッシマ・アンヌンツィアータ修道院の教会として建設されました。


4
現在の建物は1689年から1701年に再建された2代目となるものです。
長らく孤児院の教会でした。


5
教会としての機能は1960年に停止されました。旧教会の建物は、現在シアター・アカデミーの本拠地となっており、俳優養成が行われているそうです。


6
中はギリシャ十字形になっているそうです。


7
鐘楼


8
旧サンティッシマ・アンヌンツィアータ教会の扉が閉まっていたのは予想通りでした。


9
例え、扉が開いていたとしても、拝観する価値があるとは到底思えないサンティッシマ・アンヌンツィアータ教会です。


10
次はサンタ・クローチェ教会です。


11
サンタ・クローチェ教会も扉が開いているとは思えませんでしたが、ここまで来たからにはダメ元でも行ってみます。


12


13
この日は6月30日でした。日差しは強烈でしたが、涼しかったのを覚えてます。


14
アルプスに近いクーネオなので、夏でも涼しいのでしょう。


15
通りの突き当りに教会のような建物が見えてます。


17


16
やはり教会ですね。サンタ・クローチェ教会でしょう。


18
こちらはサンタ・クローチェ修道院だった建物です。


20
修道院だった建物は、病院として使用されてます。


19
病院は2018年に近代的な建物に移転したそうです。現在、修道院だった建物は修復改造工事中で、工事完成後、クーネオ市立博物館がオープン予定となっているようです。


21
写真右端がサンタ・クローチェ教会です。


22
サンタ・クローチェ教会です。


28
最初の建物は14世紀に建設されたそうです。
現在のバロック様式の建物は、1709年から1715年に再建された2代目です。


23
ファサード上部


24


25
ファサードのフレスコ画(詳細不知)


26
詳細不知のフレスコ画


27
詳細不知のフレスコ画


29
扉が閉まっていました。


30
ファサードに向かって左側にある広場に進みます。


31
サンタ・クローチェ教会の左側壁です。


32
サンタ・クローチェ教会の鐘楼とクーポラ


33


34
サンタ・クローチェ教会横にある広場です。


35
広場は駐車場になってます。


36


37


38
この時、サンタ・クローチェ教会の内部は修復工事が行われていたようです。


39


40
(つづく)

引き続きドゥオーモです。
59
制作者等詳細不知の「聖ジュゼッペの死」


41
サンタンドレア礼拝堂です。


42
制作者等詳細不知の「聖アンドレア」


43


44


45


46


47
暗くてよく見えません。


48


49
磔刑礼拝堂


50


51
ジュゼッペ・ディーニの「聖ミケーレ」(1860)


52


53
これで大体見終わりました。


54


55


56


57
カウンターファサード


58
外に出ました。


61
ガリンベルティ広場です。


60
広場の先に雪を抱いている山が見えました。


62
ローマ通りを進みます。


63
振り返るとドゥオーモが見えました。


64
この先は何もなさそうです。


65
先ほど昼食を食べたレストランです。


66
裏通りをぶらぶら歩き。


67
Via Seminario


68
見所がなさそうな。


69


70
元々期待していなかったけれど、もう少し古い建物があってもよさそうです。


71


72
新開地ではないと思いましたが、歴史的建造物はゼロのようです。


73


74
空振りに終わりそうなクーネオです。


75


76
もう少し見所があっても、と思いながら歩き続けました。


77


78
これは参りました。


79
もう少し事前調査すれば良かったと思っても後の祭りです。


80
(つづく)

1ローマ通りです。


2
ローマ通りに面して教会が建ってます。


3
クーネオのドゥオーモです。


4
クーネオ司教区の司教座が置かれている教会で、正式名称はサンタ・マリア・デル・ボスコ司教座教会となってます。


5
この場所は非常に深い緑地になっていました。8世紀頃、現在のクーネオから10㎞程離れた場所にあったベネデット会のサン・ダルマッツォ・ディ・ペドーナ修道院の修道士の支援を受けて、緑地を切り開いて小さなサンタ・マリア教会が建設されましたが、それが前身です。


6
創建時の経緯から、サンタ・マリア教会は、13世紀頃までサン・ダルマッツォ・ディ・ペドーナ修道院に依存していました。
クーネオの経済発展によって人口が増えるに従って、教会の周囲にも建物が建つようになり、それに伴って教会は拡大を重ねて、15世紀頃にはほぼ現在の規模の教会になったそうです。


7
初代の建物は、1470年と1560年の2度にわたる大修復工事が行われて、維持されていましたが、1656年、部分的に屋根が崩落して危険になったので、建物が再建されることになりました。
そうして、建築家ジョヴェナーレ・ボエット・ダ・フォッサーノ(フォッサーノ、1604‐1678)が起用され、ジョヴェナーレの設計と工事監督によって17世紀に再建された2代目の建物が現在の姿の原形になってます。
18世紀と19世紀に行われた改造工事を経て現在の姿になりました。
1774年のクーネオ包囲戦の戦闘によって被害を受け、修復と改造が行われたそうです。
1817年、クーネオは独立した単独の司教区になりましたが、その際、司教座教会となって現在に至ってます。


8
ファサード下に柱廊が設けられてます。1863年から1866年に、ローマ通りの柱廊との一体化工事が行われ、通行が可能になりました。


9
4本のコリント式柱が目立つファサードです。


10
ファサード下柱廊に置かれたアントニオ・ボーノ作「聖マッテオ像」


11
アントニオ・ボーノの「聖アンドレア」


12
ファサード・ポータル上部の装飾


13
聖堂内に入りました。


14
単廊式、ラテン十字形、新古典様式の内部です。


15
右翼廊方向


16
礼拝堂などを見て回ります。


17
クーポラ


18
クーポラのフレスコ画は、ジュゼッペ・トセッリの「聖母被昇天」(1834)
この画家については全く知りません。


19
サンタ・ツィーテ礼拝堂です。


20
ドメニコ・グイドボーノ(サヴォーナ、1668‐ナポリ、1746)の「天上の聖母子と聖ツィータ」


21


22
詳細不知


23
制作者等詳細不知の「聖母の教育」


24
制作者等詳細不知の「キリストの鞭打ち」


25
詳細不知


26


27


28
ルイージ・モルガリ(トリノ、1857‐1935)の「マリアの聖心」


29
ルイージ・モルガリ(トリノ、1857‐1935)の「マリアの献心」


30


31
右翼廊礼拝堂


32
詳細不知


33


34
制作者等詳細不知の「磔刑像」(18世紀初頭)


36
主祭壇


35
主祭壇画は、アンドレア・ポッツォ(トレント、1642‐ウィーン、1709)の「聖母子と2聖人」
この聖堂で観るべき作品を選ぶとすれば、これⅠ点になるでしょう。


37


38


39
詳細不知


40
詳細不知
(つづく)

1前泊地はアスティでした。


2
アスティ駅から鉄道でクーネオに行きます。


3
トリノ・ポルタ・ヌオーヴァ行普通列車に乗車します。


4
車内は非常に空いてました。


5
車内から撮った写真


6
アスティからクーネオ行の直通列車はありません。Torino Lingotto駅で乗り換えます。


7
クーネオ行の列車が入線してきました。


8
クーネオ行列車の車内から雪を抱いたアルプスの山々が見えました。


9
クーネオ駅に到着しました。


10
クーネオ駅の駅舎です。


11
街の規模にしては、立派な駅舎です。


12
駅前にある緑地の噴水です。


13
この日のお宿まで徒歩で行きます。


14
クーネオは、人口55,859人(2022年5月31日現在)のピエモンテ州クーネオ県の県都です。


15
アルプスの麓に大きく広がる平地の街があります。街の所々にある広場からはアルプス山脈が見えるのです。


16
ローマ時代起源ではない、比較的新しい街と言われてきましたが、近年に行われた歴史的中心部の建築工事において、ローマ時代の遺跡が発見されたことにより、中世に新しく築かれた街という説が覆され、ローマ時代、またはそれ以前にできた街ということになったそうです。


17
街の中心にあるPiazza Galimbertiにやってきました。


18
かなり広い広場です。


19
広場の端にある、このホテルがこの日のお宿です。


20
チェックインを済ませて、荷物を自室に置いてから外出しました。


21
Piazza Galimbertiに面して建つPalazzo Osascoです。ここにMuseoがあります。


22
喉が渇いたので、Piazza Galimbertiに面した、このカフェで一休みしました。


23
適当にぶらぶら歩きを始めました。


24
クーネオは、緑多い街として知られてます。


25
クーネオに訪れる観光客の多くは、アルプスへの入り口として訪れるとされてます。


26
川の方に行ってみることに。


27
登山には全く興味がなく、山に登れば疲れるだけ、と思ってます。冬山で遭難のニュースを聞くと、家の炬燵に入ってごろ寝していなかった愚者、と思います。


28
街の横を流れる川です。


29
川に行っても特に見所がなさそうです。


30
川沿いの道に戻りました。


31
昼食の時間は過ぎつつありました。食欲があまりなかったけれど、昼食抜きでは体がもちません。


32
メルカト近くに行けば、食べるところがあるだろう。


34
この店に入りました。


33
先ずビールを注文。


35
簡単に食べるならピザが良い、と思って注文したら、大きなピザだったので食欲不振の私には稍々ウンザリでした。


36
やっとの思いでピザを半分食べて、外に出ました。


37
少し歩いた感じでは見所があまりなさそうです。


38
新しい建物が多い。


39
ホテル近くの歴史的中心部に戻ります。


40
(つづく)

↑このページのトップヘ