イタリア芸術を楽しむ

イタリアの魅力を味わい尽くすには、一生に何度旅をすれば足りるだろう。芸術の宝庫にして、歴史の生きた証であるイタリア。 惹き付けて止まない絵画、彫刻、歴史的建造物、オペラなど、芸術の宝庫であるイタリアを楽しむブログです。 記事は一日に一つアップしています。記事の見方ですが、例えば「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その4)」は2017年10月20日にアップしました。各記事にカレンダーが表示されてますが、カレンダー上の2017年10月21日をクリックして頂ければ「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その5)」になります。(その3)は2017年10月20日となります。 BY:シニョレッリ

カテゴリ:ローマの教会巡り > サン・ルイージ・デイ・フランチェージ聖堂

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中央礼拝堂を見ます。


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カラヴァッジョの作品以外にも見るべき作品が幾つかあります。


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主祭壇画は、フランチェスコ・バッサーノ・イル・ジョーヴァネ(バッサーノ、1549‐ヴェネツィア、1592)の「聖母被昇天」(1589)です。


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Cappella San Sebastianoの祭壇画は、ヌーマ・ブコイラン(フランス、ニーム、1805‐1875)の「聖セバスティアーノの殉教」


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Cappella San Dionigioの祭壇画は、レイノー・ルヴェー(フランス、ニーム、1613‐ローマ、1699)の「聖ディオニージョ」
レイノー・ルヴェーは二コラ・プッサンの弟子でした。


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サンタ・チェチリア礼拝堂の祭壇画は、グイド・レーニ(ボローニャ、1575‐1642)の「ラファエッロ・サンツィオ作『聖チェチリア』の複製画」


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サンタ・チェチリア礼拝堂のフレスコ画は、ドメニコ・ザンピエーリ通称ドメニキーノ(ボローニャ、1581‐ナポリ、1641)の「聖チェチリアの物語」


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サンタ・チェチリア礼拝堂の天井のフレスコ画もドメニキーノによって描かれました。


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Cappella Santa Giovanna di Franciaの祭壇画は、エティエンヌ・パロセル(フランス・アヴィニョン、1696‐ローマ、1775)の「天上の聖ジョヴァンナ」(1742)


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Cappella San Remigioの祭壇画は、ヤコピーノ・デル・コンテ(フィレンツェ、1510‐ローマ、1598)の「クロヴィス1世と聖レミージョ」


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Cappella San Remigioの右側壁の、ジローラモ・シチョランテ・ダ・セルモネータ(セルモネータ、1521‐ローマ、1598)の「クロヴィス1世の戦闘」


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Cappella San Remigioの左側壁の、ジローラモ・シチョランテ・ダ・セルモネータ(セルモネータ、1521‐ローマ、1580)の「クロヴィス1世の洗礼」


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Cappella San Remigioの天井フレスコ画もジローラモ・シチョランテ・ダ・セルモネータ(セルモネータ、1521‐ローマ、1580)によって描かれました。


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Cappella della Santa Vergine


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チャールズ・メリン(フランス、ナンシー、1597‐ローマ、1649)の「幼きキリストへの崇拝」


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Cappella della Santa Vergineの左側壁の、ジョヴァンニ・バリオーネ(ローマ、1566‐1643)の「マギの礼拝」


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Cappella della Santa Vergineの右側壁の、チャールズ・メリン(フランス、ナンシー、1597‐ローマ、1649)の「受胎告知」


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Cappella San Luigiの祭壇画は、プラウティッラ・ブリッチ(ローマ、1616‐1705)の「フランスの聖ルイージ」


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Cappella San Luigiの左側壁の、ジャチント・ジミニャーニ(ピストイア、1606‐ローマ、1681)の「天上の聖ルイージ」


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Cappella San Luigiの右側壁の、二コラ・プッサン(フランス、レ=ザンドリ、1594‐ローマ、1665)の「十字軍の指揮権を授かる聖ルイージ」


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Cappella San Nicolaの祭壇画は、ジローラモ・ムツィアーノ(ブレーシャ、1522‐ローマ、1592)の「バーリの聖二コラ」
その左右は、ジローラモ・マッセイ(ルッカ、1540‐1620)の「アレッサンドリアの聖カテリーナ」、「聖バルバラ」


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Cappella San Nicolaの左側壁の、バルダッサレ・クローチェ(ボローニャ、1558‐ローマ、1628)の「バーリの聖二コラの誕生」


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Cappella San Nicolaの天井フレスコ画は、バルダッサレ・クローチェ(ボローニャ、1558‐ローマ、1628)の「栄光のバーリの聖二コラ」


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Cappella San Nicolaの右側壁の、バルダッサレ・クローチェ(ボローニャ、1558‐ローマ、1628)の「無実の人の死に際して神の加護を授けるバーリの聖二コラ」


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外に出ました。
(この項、終わり)

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マダーマ宮近くにサン・ルイージ・デイ・フランチェージ聖堂があります。
カラヴァッジョの作品があるので、サン・ルイージ・デイ・フランチェージ聖堂によく立ち寄ります。しかし、普通のイタリアの教会とはどことなく異なる雰囲気が醸し出されているので、ある種の戸惑いを感じてしまいます。
勿論、聖堂はローマにあるのですが、その名称の通り、イタリア在住のフランス人のためのフランス国有教会なのです。カラヴァッジョ作品目当ての大勢の観光客や美術ファンが訪れますが、本来の宗教目的の訪問者はフランス人が殆どなので、ちょっと違う感じが否めません。


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サン・ルイージ・デイ・フランチェージ聖堂です。聖堂に隣接して建っている建物は、サン・ルイージ・デイ・フランチェージ宮です。


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ローマから60㎞離れた場所に有名なファルファ修道院がありましたが、898年、侵入してきたサラセン人によって焼き打ちされてしまいました。難を逃れてローマに避難してきたファルファ修道院修道士が、10世紀頃、現在の聖堂がある場所にサンタ・マリア教会を建設しましたが、その教会がサン・ルイージ・デイ・フランチェージ聖堂の前身とされてます。


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創建以来、サンタ・マリア教会はファルファ修道院の所有でしたが、1480年、メディチ家に譲渡されました。譲渡の際、教会の名称がフランスの守護聖人聖ルイ(ルイージ)を奉献するサン・ルイージ教会と変更されました。
聖ルイ(フランス、ポワシー、1214‐チュニス、1270)は、第7回十字軍の指揮を執ったフランス王ルイ9世(在位:1226‐1270)のことで、1297年、第193代教皇ボニファチョ8世(在位:1294‐1303)によって列聖されました。


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1518年、ジュリオ・デ・メディチ枢機卿(フィレンツェ、1478‐ローマ、1534)は、サン・ルイージ教会を取り壊して、その上にフランス人のための新しい教会の建設を決めました。ジュリオ・デ・メディチ枢機卿は、後の219代教皇クレメンテ7世(在位:1523‐1534)です。


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ジャコモ・デッラ・ポルタの設計、建築家ドメニコ・フォンターナの工事監督によって、1518年創建、1589年に完成したルネサンス様式のサン・ルイージ・デイ・フランチェージ教会です。献堂式は1589年10月8日に執り行われました。


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メディチ家からフランス王家に嫁いだカテリーナ・デ・メディチが、この教会の建設に際して財政面を含む多大な援助を行ったとされてます。


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Basilica Minoreに格付けされたので、Basilica di San Luigi dei Francesiと呼ばれてます。


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ファサードの彫刻を見ます。
ジャコモ・デッラ・ポルタ(ポルレッツァ、1532‐ローマ、1602)の「フランス王ルイ9世」


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ジャコモ・デッラ・ポルタ(ポルレッツァ、1532‐ローマ、1602)の「カール大帝」


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この教会の見所は何といってもカラヴァッジョの作品でしょう。


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混雑していることが多いと思います。


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堂内に入りました。


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三廊式、バロック様式の内部です。


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建設当初はルネサンス様式の内部でしたが、フランス人建築家Antoine Derizetによって1749年から1756年にかけて修復工事が行われ、その際バロック様式に改築されました。


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身廊天井のフレスコ画は、フランス人画家シャルル=ジョゼフ・ナトワール(フランス、ニーム、1700‐カステル・ガンドルフォ、1777)の「聖ルイージの栄光」(1754‐56)です。


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先ずカラヴァッジョ作品があるコンタレッリ礼拝堂です。誰もいません。


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混雑を避けて、ゆっくりと鑑賞するには、1月から3月の朝に行くと、誰もいないことが多いと思います。ただし、中国人がイタリアに押し掛ける旧正月の時期は避けた方が無難です。


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1565年、フランス人マッテオ・コンタレッリ枢機卿は、左側廊奥にある礼拝堂を買収しました。自分の名前に因む聖マッテオ主題の絵画、彫刻で礼拝堂を装飾することにしました。


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当初、画家ジローラモ・ムツィアーノ(ブレーシャ、1532‐ローマ、1592)に制作委嘱されましたが、多忙のために仕事に取り掛かることが出来ずに断念となりました。
ところが、1585年、マッテオ・コッタレッリは死去したのですが、礼拝堂装飾を切望する遺言を残しました。マッテオの遺言執行人は、カヴァリエール・ダルピーノに礼拝堂装飾を委嘱したのです。


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ジュゼッペ・チェーザリ通称カヴァリエール・ダルピーノ(アルピーノ、1568‐ローマ、1640)によって描かれたコッタレッリ礼拝堂天井のフレスコ画


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しかし、当時の売れっ子画家カヴァリエール・ダルピーノは、天井画を制作したものの、多忙過ぎて祭壇画の制作に取り掛かることが出来ませんでした。
代わって選ばれたのが、ベルギーの彫刻家ヤコブ・コルネリス・コバートとカラヴァッジョでした。コンタレッリ礼拝堂の正面に彫刻、左右の側壁に絵画の配置が決まり、2点の絵画がカラヴァッジョに注文されたのです。
当時、無名だったカラヴァッジョが選ばれたのは、カラヴァッジョの最初で最大のパトロンだったフランチェスコ・マリア・ブルボン・デル・モンテ枢機卿(デル・モンテ枢機卿)がフランス大使をしていて、この教会に対する発言力があったからとされてます。


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コンタレッリ礼拝堂左側壁の、ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571‐ポルト・エルコレ、1610)の「聖マッテオの召命」(1600)


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外部サイトから拝借した作品画像


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この作品で聖マッテオが誰か、という点が議論の的になってますが、私は、この作品写真左端の金を数えてる若者が聖マッテオであると思います。


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右側壁の、ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571‐ポルト・エルコレ、1610)の「聖マッテオの殉教」(1600)


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外部サイトから拝借した「聖マッテオの殉教」


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さて、礼拝堂正面の「聖マッテオと天使」に触れるのを後にしたのは理由があるのです。
「聖マッテオと天使」は、ヤコブ・コルネリス・コバートに注文され、納品され、コッタレッリ礼拝堂に召命を飾った彫刻がありました。


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これがヤコブ・コルネリス・コバート(ベルギー、アンギャン、1530?‐ローマ、1615)の「聖マッテオと天使」(1602)です。
死去したマッテオ・コッタレッリ枢機卿の甥で、この教会の司祭を務めていたフランチェスコ・コッタレッリは、この作品が愚作として気に入らず、礼拝堂から外すことを決め、礼拝堂正面も絵画にすることにして、改めてカラヴァッジョに注文したのです。
取り外されたコバートの彫刻は、現在、ローマのサンティッシマ・トリニータ・デイ・ペッレグリーニ教会のサン・マッテオ礼拝堂にあります。


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ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571‐ポルト・エルコレ、1610)の「聖マッテオと天使」


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しかし、これは第二作なのです。


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外部サイトから拝借した作品画像


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これがカラヴァッジョの「聖マッテオと天使」の第1作です。
この第1作は不評で取り外されて、直ぐに第2作が制作されて差し替えされたのです。
第1作は、ベルリンのカイザー・フリードリッヒ美術館にありましたが、第二次世界大戦の爆撃によって消失してしまいました。残念ながら、第1作のカラー写真はありません。


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(つづく)

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