メディチ家の庇護を受けてフィレンツェ、ヴォルテッラなどで活動していたルカ・シニョレッリでしたが、1492年のロレンツォ・イル・マニーフィコの死、1494年のロレンツォの息子ピエル・イル・ファトゥオのフィレンツェからの追放があっては最早メディチ家の庇護が期待できないと判断してフィレンツェ領を離れました。
その後、一旦ロレートに赴き、聖なる家の聖堂の聖具室のフレスコ画制作を完成させました。
11.アシャーノ

アシャーノ Ascianoは、人口6,786人(2025年3月31日現在)のトスカーナ州シエナ兼にあるコムーネです。

シエナ派作品を始めとして美術的に見どころ豊富なアシャーノです。

この日の予定は、モンテ・オリヴェート・マッジョーレ修道院に行くことでした。

FSの駅名アシャーノ、モンテ・オリヴェート・マッジョーレに騙されてはいけません。

騙されたのは私で、止せば良いのに徒歩でモンテ・オリヴェート・マッジョーレ修道院に行くことにしました。

モンテ・オリヴェート・マッジョーレ修道院は、行政的にはアシャーノにあるのですが、アシャーノの分離集落 Frazioneであるキウスレ Chiusureの郊外にあるのです。

うんざりするぐらいの遠くに修道院があるのです。

キウスレを通り過ぎます。
モンテ・オリヴェート・マッジョーレ修道院:

ここから中に入ります。

こちらはモンテ・オリヴェート・マッジョーレ修道院教会複合施設のCattedrale della Nativita di Maria di Monte Oliveto Maggioreです。

複合施設のキオストロです。キオストロを囲んで回廊が設けられてます。

回廊の壁にフレスコ画の装飾が施されてます。
1496年頃、ルカ・シニョレッリは、サン・ベネデット修道会のサリヴェターナ会の当時の総長(アイロルディ修道院長)からフレスコ画制作を注文されたのです。
1497年から1498年にかけて、工房の弟子(特にジローラモ・ジェンガ)と共に滞在してフレスコ画制作に励みました。しかし、シニョレッリの有能で迅速な仕事ぶりと、画料に比べて優れた出来栄えの作品が高く評価されて、オルヴィエート大聖堂サン・ブリツィオ礼拝堂の制作を依頼されたのです。
そのため、シニョレッリはモンテ・オリヴェート・マッジョーレ修道院回廊のフレスコ画制作を途中で放棄して、オルヴィエートへと去ったのです。
修道院回廊のフレスコ画のテーマは、「聖ベネデットの生涯の物語」で、全部で38場面から成ります。(生涯の物語原作は35場面)
ルカ・シニョレッリが制作したのは、回廊西側の壁に描かれた「物語」の第21場面から第29場面の9つの場面になります。第29場面は、後に入り口ドアを拡大するために、現存する部分を除き破壊されてしまいました。
シニョレッリが放棄した後、フレスコ画制作はソドマ(ヴェルチェッリ、1477-シエナ、1549)に引き継がれ、1505年に回廊フレスコ画が完成しました。
回廊西側のフレスコ画は、第20場面から第30場面となってます。第20場面は例外で、バルトロメオ・ネローニ通称イル・リッチョ(シエナ,1505-1571)によって、1536年のカール5世の当修道院訪問後に追加制作されました。(第20場面にカール5世が描かれてます)
回廊のフレスコ画鑑賞は東の入り口から物語の第1場面から場面の順番通りに南側の壁、西側の壁、北側の壁へと進むのが良いと思います。
最初に制作に着手したシニョレッリが第1場面からではなく途中の21場面から第29場面の制作を手掛けた理由が私には分かりません。

第21場面:フィオレンツォが悪魔に破壊された家の下で死亡したことを聖ベネデットに告げる修道士



第22場面:モンテカッシーノの住民に福音を伝える聖ベネデット



第23場面:崖の上から敵を追いかける聖ベネデット



第24場面:壁が崩壊して転落した小さな修道士を蘇生させる聖ベネデット



第25場面:修道院外で食事したことを修道士たちに伝える聖ベネデット



第26場面:断食の誓いを破った修道士兄弟を叱る聖ベネデット



第27場面:トティラの虚構を暴く聖ベネデット



第28場面:トティラを認め、歓迎する聖ベネデット



第29場面:子供を蘇生させる聖ベネデット
ドア拡大によって、フレスコ画下部が破壊されてしまいました。現存する部分はこれだけ。
後を引き継いだソドマのフレスコ画はどれも秀作です。
(つづく)