オルヴィエート大聖堂です。
オルヴィエート・トーディ司教区の司教座教会で、正式名称はCattedrale di Santa Maria Assunta です。
1889年、教皇レオーネ3世によってBasilica Minoreに格付けされました。
1290年、「ボルセーナの奇跡」の聖遺物を奉るために、教皇ニッコロ4世の指示によって創建されました。
最初、恐らくアルノルフォ・ディ・カンビオによってロマネスク様式の建物が設計されたと考えられてます。
13世紀末、フラ・べヴィ—ニャ・ダ・ペルージャの主導によって、当時の有能な建築家ジョヴァンニ・ダ・ウグッチョーネが起用され、ジョヴァンニによってゴシック様式に設計が変更されました。
アルノルフォ・ディ・カンビオの設計が採用されなかった理由は不明のようです。
創建から約300年後の1591年に、建築家イッポリート・スカルツァによって漸く完成したゴシック様式の建物です。
技術の粋を集めたファサードです。
ドゥオーモの建設に携わった建築家、美術家は数十人に上り、当時の一流だった人ばかりでした。
左側の身廊、後陣
左側
ファサードが大きな見どころです。
左側の身廊
ファサードの建設は13世紀末に開始され、何世紀にもわたって、20人以上の芸術家が参加しました。最後は、1571年から1591年に建築を監督したイッポリート・スカルツァによって、1591年に完成しました。
20人以上の芸術家のうち、最も貢献したのは、ロレンツォ・マイターニです。その他に、ニーノ・ピサーノ(1347‐1348年に参加)、アンドレア・ピサーノ(1349年)、オルカーニャ(1354‐1380年参加)、ペトルッチョ・ディ・ベネデット・ダ・オルヴィエート(1372‐1388年参加)、アントニオ・フェデリーギ(1451‐1456年参加)、ミケーレ・サンミケーリ(ヴェローナ、1484‐1559)(1513年参加)、アントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ジョーヴァネ(フィレンツェ、1484‐テルに、1546)(1546年参加)などがいました。
ロレンツォ・マイターニの彫刻
禁断の木の実を食べるアダムとイヴ
楽園追放
付け柱の彫刻もマイターニの作品です。
青銅の扉は、現代彫刻家エミリオ・グレコの作品(1965‐1970)です。
オリジナルの青銅扉は腐食のため現存してません。
柱の装飾
エジプトへの逃避
マギの礼拝
ご訪問
受胎告知
現在、ファサードに置かれている聖母子は複製品です。
こちらが本物です。
Maestro Sottile とウンブリア・シエナの無名彫刻家の作品です。ロレンツォ・マイターニ作説もあります。
隣のドゥオーモ付属美術館にあります。
ブロンズの「予言者たちの像」
マイターニ作説が有力とされてます。
精巧な造りのバラ窓
バラ窓はオルカーニャの作品です。
黄金色のモザイクが見事です。
モザイクの制作は、1321年に開始され、16世紀に完成しました。
17世紀に落雷による被害を受け、17‐18世紀に修復されましたが、現在、見ることが出来るモザイクは修復後のものです。
中央先端の聖母戴冠とその下にある「聖母誕生」は、19世紀末に落雷の被害を受けたので、1891年に制作された新しいものです。
聖母戴冠(1891)
聖母誕生(1891)
まばゆい黄金色のモザイクが最も映えるのは、夕陽に当たったときです。
写真では、キラキラ感が出ませんね。
晴れた日の夕方に是非見て頂きたいファサードです。
陽が落ちました。
後編は聖堂内部です。
(つづく)
コメント
コメント一覧 (2)
ご一緒した時を思い出し、懐かしく読みました。
ブログの引っ越しは成功でしたね。
イタリアの空と酷似した青い空を見ている今日この頃です。一滴の雨も落ちてきませんが、梅雨中だそうで事実認識の違いを感じます。
小生は、ご一緒どころか、ツアーで行かせて貰うイタリアへの旅さえも難しくなりました。
元気なうちで、出来るだけ行っておくべし、これが小生の助言です。
コメント、有難うございます。
梅雨明け宣言は、近々の天気がどうであれ、気象庁の専管事項ですから、お上の言うことに従います。
元気のうちに行っておく👈私もまったく同感です。