イタリア芸術を楽しむ

イタリアの魅力を味わい尽くすには、一生に何度旅をすれば足りるだろう。芸術の宝庫にして、歴史の生きた証であるイタリア。 惹き付けて止まない絵画、彫刻、歴史的建造物、オペラなど、芸術の宝庫であるイタリアを楽しむブログです。 記事は一日に一つアップしています。記事の見方ですが、例えば「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その4)」は2017年10月20日にアップしました。各記事にカレンダーが表示されてますが、カレンダー上の2017年10月21日をクリックして頂ければ「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その5)」になります。(その3)は2017年10月20日となります。 BY:シニョレッリ

2020年04月

144
サン・セヴェリーノの塔です。


163
サン・セヴェリーノ教会付近の城壁は要塞化されてます。


145
カプチン会のサン・セヴェリーノ教会です。
創建は560年に遡ると考えられており、スペッロで最古の教会の一つです。


147
1180年に修道院が拡張され、現在の姿の原形はその拡張後のものです。


146
17世紀に修復されました。
19世紀初めに修道院が活動を停止しました。


162
ファサード前の柱廊


148
扉が開いていたので拝観しました。


149
単廊式、ラテン十字形の内部です。


150
ウンブリアの逸名画家作「大天使聖ミケーレ」(15世紀)


158
主祭壇画


151
主祭壇画中央の「キリストの復活」(詳細不知)


153
向かって左の「聖母の誕生」(詳細不知)


160
向かって右の「幼きキリストへの崇拝」(詳細不知)


156
「玉座の聖母子と聖フランチェスコと聖ジローラモ」(詳細不知)


157
「天上の聖母子と聖人たち」(詳細不知)



164
作品の制作者などの詳細が分からないのが残念です。


165
サン・セヴェリーノ教会横にあるPorta dell'Arceです。


166
この町角の聖母は新しいものでしょう。


167
Via Cappucciniを通って、町の西端にある教会に向かいます。


178
直ぐに教会の建物が見えてきます。


168
サンタ・マリア・ディ・ヴァッレグローリア修道院です。


177
560年に遡る女子修道院が前身です。
1236年、フランチェスコ会の修道院になりました。


169
修道院は農地などに転換され、縮小されてます。


170
町の西端の城壁と修道院の壁が共通になってます。


176
建物は崩壊の危機にあり、修復するにしても莫大な費用が見込まれてます。
その費用の捻出は困難な見通しで、活動停止は時間の問題とされてます。


171
修道院の城壁からの景観


172
サンタ・マリア・ディ・ヴァッレグローリア修道院の横に旧サンタ・バルバラ教会があります。


173
サンタ・バルバラ教会は、16世紀中頃に建設され、1571年に奉献式が執り行われました。


174
旧サンタ・バルバラ教会の後に塔があります。1239年頃に建設されたCassero del Pianelloの一部として建てられた塔です。


175
サンタ・マリア・ディ・ヴァッレグローリア修道院と旧サンタ・バルバラ教会の間にある、Porta Montanaraです。


179
旧市街の中心に向かう道を少し下ると、サン・ビアージョ祈祷所(オラトリオ)があります。


180
この辺に1430年から1460年に建設された病院がありましたが、病院の礼拝堂として併せて建設されました。


181
現在はサン・ロレンツォ教会の管理下に置かれてます。15世紀に描かれた、かなり痛みがあるフレスコ画があるようです。


182
写真左の建物は旧病院です。
旧市街の中心に向かって道を下ります。


183
Palazzo Preziosi


184
更に道を下ります。


185
町角のフレスコ画


186
ウンブリアらしい建物が並んでます。


189
Palazzo Comunaleのロッジャに戻りました。


188
ロッジャの中に入りました。


187



191
次はPorta Venereです。


192
Porta Venereは、町の南端にあります。


196
二本の塔の間にあるPorta Venereです。


198
紀元前1世紀のローマ時代に築かれた門です。ローマ時代に築かれた門がこれを含めて6つありました。


199
こちらのローマ時代のオリジナルの門のようです。


197
12角形の2本の塔は、Torri di Properzioと呼ばれてます。


200
門の城壁からの景観


201
風情がある建物です。


203
この後、市立絵画館、サンタ・マリア・マッジョーレ参事会教会などに行きましたが、重複するので、この辺で終わりにしましょう。


204
(おわり)

098
カヴール通りです。イタリア統一以前の通りの名称は?


100
町の中心、共和国広場です。


099
1270年に建設されたPalazzo Comunale 市庁舎です。町役場というべき?


101
詳細不知の「受胎告知」のフレスコ画


103
Fontana di Palazzo Comunale


102
Palazzo Comunaleのロッジャに入ります。


104
ロッジャにスペッロの遺跡からの発掘物が展示されてます。


105
説明板などがないので、展示物の具体的なことが分かりません。


106


107
旧フェリーチェ神学校だったPalazzo Rosiです。


108
Palazzo Rosiにオラトリオがあります。


126
目立たないので見逃すかも知れません。


125
Oratorio di San Giovanni Battistaの入り口です。


124
13世紀前半、サン・ジョヴァンニ・バッティスタ女子修道院の礼拝堂だったとされてます。1348年の文書に礼拝堂の存在が最初に記載されました。
1643年、フェリーチェ神学校内に再建されました。


119
中に入りました。
単廊式、バロック様式です。スタッコ彫刻が目立ちます。


115
主祭壇は、逸名スタッコ彫刻家による「キリストの洗礼」(17世紀後半‐18世紀初め)です。


116
逸名彫刻家作「聖アンブロージョ」


117
逸名彫刻家作「聖アゴスティーノ」


118
詳細不知


120
説教壇


123


122
アンドレア・カマッセイ(ベヴァーニャ、1602‐ローマ、1649)の「アレッサンドリアの聖カテリーナとその生涯の物語」(17世紀前半)


121
マルカントニオ・グレッキ(スペッロ、17世紀前半活動)の「天上の聖母子と3聖人(聖ジョヴァンニ・バッティスタ、聖アポッロニア、聖カルロ・ボッロメオ)」(1613)


109
オラトリオの斜め前にサン・ロレンツォ教会があります。


110
この日は扉が閉まっていました。
1438年、シエナの聖ベルナルディーノがこの教会で説教をしたと伝えられてます。


111
それにしてもユニークなファサードです。


127
静かで誰もいない所が実に良い。


128
2月の町歩きは最高です。


129
サン・マルティーノ教会に向かってます。


130
花祭りの頃になれば、花一杯の小道になって観光客が訪れることでしょう。


131
ウンブリアらしい建物です。


132
緩い坂道を上り、更に坂を下れば目指す教会があります。


133
サン・マルティーノ教会が見えてきました。


134
13世紀に建設されたサン・マルティーノ教会です。


135
予想通り扉が閉まっていました。
15世紀初めに描かれたフレスコ画があるそうですが、見たことがありません。
所謂”貧しい教会”の範疇に入ってます。


136
サン・マルティーノ教会から少し進むと城壁沿いの道に出ます。そこからの景観です。


137
丘の上に築かれた町と実感できる光景です。


139
アウグストクスのアーチ通りを進みます。この先にアウグストクスのアーチがあります。


142
Arco di Augustusです。アウグストクスの時代よりも前に築かれた門です。


501
この付近は町の最高地点だそうです。


143
雪を抱いた山が見えます。
(つづく)

055
サンタンドレア教会です。
教会に関する最初の言及文書は1025年に遡ると言われてます。
1253年、教会はフランチェスコ会の所有となり、その後すぐに修道院の建設が始まったとされてます。


092
16世紀、17世紀、20世紀に改修工事が行われました。
併設の修道院は、1810年、ナポレオンによって閉鎖されました。その後、宗教活動を再開されることなく、建物は女児孤児院として使用されるようになりました。


093
教会の身廊と旧修道院だった建物


094
教会の後陣


095
教会ですが、一部要塞のような造りです。


056
この日、扉が開いてました。


057
中に入りましたが、点灯されておらず暗くて困りました。


060
それでも暗い中を目を凝らして拝観しました。


064
主祭壇と後陣


086
太陽が出てきたようで、多少明るくなりました。


069
Maestro Umbro-Giotescoの「彩色磔刑像」(13世紀末‐14世紀初め)
ジョッテスキ画家の作品です。


081
少し明るくなってきました。


083
単廊式、ラテン十字形の内部です。


084
左右の側壁に壁龕礼拝堂が設けられてます。


085
身廊天井


087
後陣のフレスコ画は20世紀初めに描かれた新しいものです。


072
後陣のフレスコ画は、べンヴェヌート・クリスポルディ(スペッロ、1886‐1923)の「12使徒」(1913)です。


073
後陣天井


074


088
聖体容器(15世紀後半)


058
Maestro di Santa Giuliana (?)のフレスコ画(14世紀)


059
コーラ・ペトルッチョーリ(オルヴィエート、1360‐ペルージャ、1401)周辺の逸名画かによるフレスコ画(14世紀後半)


061
トンマーゾ・コルボ(ウンブリア、1507‐1532活動記録)の「聖母子と聖アンナとバーリの聖二コラと聖ロッコ」(1532)


062
アッシェンスィドーニオ・スパッカ通称イル・ファンティーノ・ダ・ベヴァーニャ(ベヴァーニャ、1557‐1646)の追随者による「天上の聖母子とアレッサンドリアの聖カテリーナと聖ルチア」(16世紀後半)


063
ドーノ・ドーニ(アッシジ、1500c‐1575)の「聖ジョアッキーノと聖アンナの出会い」(1565)


065
ピントゥリッキオの祭壇画は暗くてよく見えません。


066
これには困りました。


067
パドヴァの聖アントニオ礼拝堂(17世紀)


076
急に点灯されました。嬉しかった!


070
早速見に行きます。


071
ベルナルディーノ・ディ・ベット通称ピントゥリッキオ(ペルージャ、1454‐シエナ、1513)と協力者による「玉座の聖母子と聖アンドレア(左から)、聖ルドヴィーコ、聖フランチェスコ、聖ロレンツォと聖ジョヴァンニーノ」(1507‐08)
協力者としては、エウセビオ・ダ・サン・ジョルジョ(ペルージャ、1507から記録‐1550没)とジョヴァンニ・ディ・フランチェスコ・チャンベッラ通称イル・ファンタジア(ペルージャ、15世紀末‐16世紀前半活動)2人が明らかになってます。
エウセビオ・ダ・サン・ジョルジョはペルジーノの弟子です。


075
チェーザレ・セルメイ(チッタ・デッラ・ピエーヴェ、1581‐アッシジ、1668)の「ベアート・アンドレア・カッチョ―リのレッジョ・エミリアでの奇跡」(1610)


079
左翼廊


080
スポレートの逸名画家作「聖母子」(14世紀前半)


089
クーポラ


090


091


077
もう一度ピントゥリッキオの祭壇画を見ます。


078
隣のサンタ・マリア・マッジョーレ参事会教会のピントゥリッキオのフレスコ画は写真不可ですが、非常に不可思議に思います。


096
中々良かった!


097
(つづく)

001
時は遡って、2013年2月のスペッロです。


002
建物などの写真を撮ったり、芸術作品などをゆっくり鑑賞するには、観光オフシーズンの2月が最適です。何せ空いてますから。


003
スペッロ駅の駅舎
しかし、中国人がイタリアに押し掛けるようになってからは、例え2月であっても旧正月の前後は彼らで席捲されることがあって、要注意です。
この日、スペッロ駅で下車したのは私を含めて3人でした。


004
写真右端に写っているワンちゃんが愛嬌良しで、暫し遊びました。


005
朝靄に煙る旧市街


007
丘上に築かれた町が多いウンブリア州です。
町の先、遠くに見える山頂は雪を抱いてました。


011
旧市街に向かう道路は工事中でした。


012
城壁


013
旧市街の入り口となっている、紀元前1世紀に建てられたPorta Consolareです。スペッロは、古代ローマの植民地として発展しました。


014
てっぺんに木が生えている塔は、Torri di Borgoと呼ばれてます。中世に建設されました。


015
門の下にローマ時代の遺跡があります。


018
ローマ時代の遺跡は、現在の地表よりも約2m低い位置にあります。


016
Porta Consolareの横に建つPalazzo Feliceです。


017
Porta Consolareの前の広場はケネディ広場と呼ばれてます。ケネディと名付けられている橋、通りなどがイタリアにありますが、アメリカ大統領のJ.F.ケネディとどのような関係があるのでしょうか?


019
自動車はPorta Consolareを通れないので、少し迂回して、この門から城壁内に入ります。
Porta Consolare近くにもう一つ門があります。


500
Portanaccioです。


P2360832
城壁内から見たPortanaccioです。


020
Porta Consolareを潜って城壁内に入りました。


021
花祭りと違って邪魔なものがありません。


023
Via Borgo San Sistoに寄り道します。


025
春になると花一杯になる通りです。


024
私以外の観光客がいなかった。


026
坂を上るにしたがって鐘楼が見えてきました。


027
咲いていたのはシクラメン、ゼラニウムくらいでした。


028
Oratorio di San Bernardinoだった建物です。


029
民家に転用されているそうですが、毎日後陣のフレスコ画を見ながら生活できて羨ましい。


030
旧サン・ミケーレ・アルカンジェロ教会です。


031
Cappella Tegaについては、(その4)で触れましたので省略します。


041
ドゥオーモに向かいます。


042
町一番の目抜き通りVia Consolareです。


043
ドゥオーモ、サンタ・マリア・マッジョーレ参事会教会にやってきました。


044
残念ながらドゥオーモの扉が閉まっていました。


046
気になるコリント式柱2本


047
旧修道院だった建物


048
ドゥオーモのファサード前のマッテオッティ広場


049
市立絵画館の開館は午前10時半からですが、もう扉が開いていました。


051
静かなものです。


050
参事会教会の鐘楼


053


052
参事会教会向かいにあるサンタ・マッダレーナ教会です。


054
この通りは後で行きます。
(つづく)

P2360988
サンタンドレア教会の扉は閉まったままです。


P2360989
この町で2泊の予定でしたが、市立絵画館を見てしまうと、やることがないのを知って愕然。


P2370216
まだ1日半あります。


P2370217
花祭りの準備状況を見る以外にありません。


P2370218
残るはテガ礼拝堂くらいです。


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写真右は、Cappella Tega またはサンタンナ礼拝堂と呼ばれている礼拝堂です。


P2370220
この付近に聖アンナ友愛同信会の病院がありましたが、その病院付属の礼拝堂です。
建設された年は特定されてませんが、15世紀の公証書にこの礼拝堂の記載があります。
1895年から20世紀初頭にかけて、礼拝堂の建物は店として使用されていましたが、店の主人の一人である仕立屋ピエトロ・テガがフレスコ画を発見したことで、Cappella Tegaの呼称となりました。


036
礼拝堂の壁に描かれたフレスコ画が有名です。


037
今は閉じられているが、2017年の修復以前には側壁のガラス窓の一か所が開けられていて、そこから中を覗くことが出来ました。


P2370221
ガラス窓越しではフレスコ画が良く見えません。また、写真の方もガラスに向かいの景色が映ってしまって、良く撮れません。


032
2人の画家によってフレスコ画が描かれたことが分かってます。
天井部分のフレスコ画は、ピエトロ・ディ・ジョヴァンニ・マッツァフォルテ(フォリーニョ、1404‐1463)に帰属します。


035
フレスコ画は、逐次修復が行われているようで、撮った時期によってフレスコ画の状態が違います。


8
ピエトロ・ディ・ジョヴァンニ・マッツァフォルテ(フォリーニョ、1404‐1463)に帰属する「聖母子と聖アンナ」


038
保存状態があまり良くないと思います。


039
ニッコロ・ディ・リベラトーレ通称ニッコロ・アルンノ(フォリーニョ、1430‐1502)の「磔刑」(1461)


9
最近の修復後の磔刑


10
この部分はニッコロ・アルンノの作品と特定されてます。


11


034


033


040
Cappella Tegaの番地です。


P2370222
道の突き当りに教会の建物があります。


P2370223
1444年に奉献式が執り行われた旧Oratorio di San Bernardinoです。
現在は民家となってます。


P2370224
ファサードのフレスコ画「聖ベルナルディーノ」


P2370226
このまま、この町にいても面白くないので、午後は何処に行こうかと考えていました。


P2370227



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花祭りの準備が着々と進んでます。


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ここはかなり具体的に準備してました。


P2370230
花で埋め尽くす設計図が用意されてます。


P2370232
成程こうやってやるのか、と感心しました。


P2370233
Porta Consolare


P2370234


P2370236
ここの準備はどうでしょうか。


P2370239
設計図が用意されてます。


P2370237
ケネディ広場


P2370238
まだ11時半です。昼食には少し早すぎます。


P2370240
詰まらないので、隣のフォリーニョに行くことにしました。


P2370241
駅に向かいました。


P2370242
駅は静かでした。


P2370243フォリーニョ行きの列車に乗りました。
(つづく)

P2360950
サンタ・マリア・マッジョーレ参事会教会に戻ります。


P2360951
共和国広場


P2360956
徐々に観光客が増えてきました。この町の宿泊施設は非常に限られていますが、何処からやってきたのか不思議です。


P2360957
花祭りの準備が中々進みません。


P2360958
教会のファサード前に観光客が沢山いたのを見て、バールで一息入れながら空くのを待機。


P2360959
Pinacoteca CivicaがあるPalazzo dei Canonici


P2360961
少し空いてきました。
ジュノーネとヴェスタに捧げられた神殿がこの地にありましたが、、その上に建てられた教会です。創建された年が明らかになっていませんが、11世紀初めとされてます。1025年に奉献された記録が残されており、カマルドレ会のサン・シルヴェストロ・ディ・コレピーノ修道院の一部として建設された教会です。


P2360964
1159年、教区の所有教会となりました。13世紀後半に完成したロマネスク様式の教会です。


P2360962
ファサードの彫刻はベヴァーニャの彫刻家によって12世紀に制作されたものです。


P2360963
ファサードは、1644年に改修されており、改修後の姿を見ていることになります。


P2360965
サンタ・マリア・マッジョーレ参事会教会の中に入りました。


P2360966
単廊式、ラテン十字形の内部です。


P2360967
1580年の火災によって内部の大部分が大きな被害を受けたので、古いものはあまり残ってません。


P2360969
フェリーチェ・リナルディの「聖母の誕生」(17世紀)


P2360970
バルトロメオ・ダ・ミランダ(ウンブリア、15世紀活動)の「聖母子」


7
ピエトロ・バンヌッチ通称ピエトロ・ペルジーノ(チッタ・デッラ・ピエーヴェ、1446‐フォンティニャーノ、1523)の「ピエタ」(1521)


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マルカントニオ・グレッキ(?‐1650)の「聖母被昇天」(17世紀)


P2360975
アンドレア・カマッセイの追随者作「聖母の結婚」(1671)


P2360977
詳細不知


P2360981
ピントゥリッキオのフレスコ画で有名なバリオーニ礼拝堂です。1580年の火災でも奇跡的に無傷でした。
礼拝堂は拝見有料で写真不可です。
仕方がないので、外部サイトから拝借したフレスコ画の作品画像を掲載します。


2
ベルナルディーノ・ディ・ベット通称ピントゥリッキオ(ペルージャ、1454‐シエナ、1513)の「ご誕生」(1501)
「マギの行列」も描かれてます。


3
ベルナルディーノ・ディ・ベット通称ピントゥリッキオ(ペルージャ、1454‐シエナ、1513)の「キリストと教会博士たちとの問答」(1501)
写真不可なのに、何故このような写真があるのか?


4
ベルナルディーノ・ディ・ベット通称ピントゥリッキオ(ペルージャ、1454‐シエナ、1513)の「受胎告知」(1501)
多分、その理由は「差別」でしょうね。


5
ピントゥリッキオによる礼拝堂天井のフレスコ画


6
ピントゥリッキオの自画像です。自負の現れで自画像を描いたのでしょう。


P2360976
出たり入ったりの人が多くて、とてもゆっくりと見てられない。


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外に出ました。


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美術鑑賞にはお祭り当日は不適です。


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次は絵画館です。


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市立絵画館があるPalazzo dei Canonici外壁入口上ルネッタのフレスコ画の痕跡


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市立絵画館の入り口


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コモ出身の建築家ドナート・ダ・コモによって1542年に建設されたPalazzo dei Canonici


P2360990
絵画館は1階(日本の2階)にあります。


P2360991
1994年に開館したスペッロ市立絵画館には、スペッロとその周囲の教会などから集められた作品や個人からの寄付作品が展示されてます。


P2360993
展示室は8室から成ってます。


P2370043
市立絵画館については、項を改めて詳しく触れることにします。


P2370073
入館者はちらほら。


P2370116
町の規模を考えると、出来の良い作品が並んでいると思います。


P2370130
美術ファンにとって、ここは必訪です。


P2370159
しかし、美術ファンは少ないのです。


P2370178
(つづく)

P2360865
絵画館は未だ開いていません。


P2360866
この辺はカヴール通り? 一本の道ですが、場所によって通りの名称が違います。


P2360867
マッテオッティ広場


P2360868
サンタンドレア教会は閉まっていました。


P2360873
拝観は後程


P2360869
Via Torri di Properzio


P2360870
案内標識が完備されてます。


P2360875
写真右がサンタンドレア教会です。


P2360876
城壁の方に行ってみます。


P2360877
サンタンドレア広場


P2360878
ウンブリアらしい建物が並んでます。


1
Rocca Baglioni


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サンタ・マリア・マッジョーレ参事会教会の後陣


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サンタ・マリア・マッジョーレ参事会教会の鐘楼


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城壁下の景観


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霞がかかった空


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次は共和国広場です。


P2360886
一旦カヴール通りに出ました。


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共和国広場にやってきました。


P2360889
時計がある建物はPalazzo Comunale 町役場です。


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時計の下に受胎告知のフレスコ画があります。


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Palazzo Comunaleの受胎告知


P2360891
Palazzo Comunaleにある、スペッロの紋章


P2360893
次はサン・ロレンツォ・マルティレ教会です。通りの左側に教会のファサードが写ってます。


P2360946
サン・ロレンツォ・マルティレ教会です。
教会建設の経緯や教会が建設された日時が諸説あって明確になっていないようです。
1120年創建、1127年創建、1191年から1198年に建設されたなど、諸説ありますが、12世紀に建設されたことは確かとされてます。
しかし、1228年に教皇グレゴリオ9世によって奉献されたという確実な記録が残されてます。


P2360948
ロマネスク様式のユニークなファサードが特徴です。


P2360947
ファサードの入り口周囲の装飾


P2360899
17世紀に大掛かりな修復が行われました。


P2360907
教会内に入りました。


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三廊式です。


P2360911
創建以来、修復改修が数度行われたので、創建時のロマネスク様式のものは殆ど残されていません。


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身廊天井


P2360900
左側廊の礼拝堂から見て行きます。


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ドーノ・ドーニ(アッシジ、1500c‐1575)の「聖母子と聖ジュゼッペと聖マルコ」(1530)


P2360903
左側廊


P2360904


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ペルージャの逸名画家作「キリストの洗礼」(16世紀後半)


P2360914
詳細不知


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詳細不知


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サン・フェリーチェ礼拝堂


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ジョヴァンニ・バッティスタ・バソッティの「聖フェリーチェの殉教」(1637)


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主祭壇


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フェーボ・ダ・モンテファルコ(ウンブリア、16世紀活動)とポンぺオ・ディ・ピエルジェンティーレ・コッキ(コルチャ―の、1490‐1552)の「聖ロレンツォの尋問」


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フェーボ・ダ・モンテファルコとポンぺオ・ディ・ピエルジェンティーレ・コッキの「聖ロレンツォの判決」


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フランチェスコ・ダ・カステッロ(ブリュッセル、1540‐ローマ、1621)の「キリストと聖母の煉獄の魂の栄光」(1599)


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マルカントニオ・グレッキ(?‐1650)の「聖フランチェスコと2天使」


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フランチェスコ・ダ・カステッロ(ブリュッセル、1540‐ローマ、1621)の「アレッサンドリアの聖カテリーナの殉教」(1601)


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詳細不知


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三位一体礼拝堂(1874)


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フォリーニョの逸名画家作「聖ベルナルディーノ」(15世紀)


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入り口近くの右壁ニッチに描かれたフレスコ画


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マニエリスム逸名画家作「2天使」(16世紀)


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バルトロメオ・ダ・ミランダ(ウンブリア、15世紀活動)に帰属する「アレッサンドリアの聖カテリーナの神秘な結婚」(1435)


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詳細不知


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右側廊


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外に出た。
(つづく)

スペッロは、人口8,562人(2018年10月31日現在)のウンブリア州ペルージャ県にあるコムーネです。
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ペルージャ駅からフォリーニョ行きの普通列車に乗ってスペッロに向かいました。


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スペッロ駅に到着しました。


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止せば良いのに、わざわざ花祭り Infiorataが行われる週末にやってきました。


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駅舎 
無人駅です。


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駅から旧市街に向かう道です。
先ず、この日のお宿に向かいました。


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高速道路の下を潜ります。


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グリエルモ・マルコーニ通り


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旧市街が見えてきました。


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近くのコムーネと同じく丘上に築かれた町ですが、丘の高さが若干低いように思います。


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この日のお宿は、城壁外にありますが、城壁内に通じる門の直ぐ傍にあります。


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花祭りということで、青空市は専ら花屋さんの店。


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祭りの準備が進んでます。


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ケネディ広場


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Palazzo Felice


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門の向こうのアルベルゴに大きな荷物を預けて、身軽になって町歩きに出発しました。


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花祭りが開催される週末の土日2泊したのですが、花祭りの喧騒は趣味に合わないので、土曜の午後はフォリーニョへの日帰り遠足、日曜日はアンコーナへの日帰り遠足をしました。


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テントの下に下絵があって、それを色の異なる花で一杯にします。


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城壁内に入ります。


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Torri di Borgo


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Porta Consolare


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Via Consolareを進みます。


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車が通過できるように城壁を刳り抜いて出来たアーチ?


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花祭り前の土曜日の午前中ですが、既に観光客の人出が多い。


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坊や、何を見てるの? 


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サンタンジェロ通り


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塔の上に木が生えている!


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花祭り開催日は、古い建物や教会を巡るのは不向きと確信しました。
実は、アルベルゴを予約した時、花祭りの週末とは知りませんでした。


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緩い坂道です。


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今歩いた道を振り返って撮った写真。下絵がまだありません。


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この町に来たのは、これで3度目です。


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ボルゴ・サン・シスト通り


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次の目的地はサンタ・マリア・マッジョーレ参事会教会、この町のドゥオーモです。


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突き当りに見える教会はサン・ミケーレ・アルカンジェロ教会です。


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既に機能を停止した旧教会で、民有となってます。コムーネ発行の地図には教会名が記載されてません。それどころか教会の存在自体も書かれてません。


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私が秘かに命名したウンブリア様式(石積み)の建物に惹かれます。


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Largo San Veronica


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参事会教会はもう直ぐです。


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サンタ・マリア・マッジョーレ参事会教会のファサード前の観光客


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中に入りました。


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ピントゥリッキオのフレスコ画がある礼拝堂は、拝観有料となって方、すっかり博物館化しました。


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この時、団体客の一行が2組来たので、拝観を遠慮しました。


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早々に退散しました。
(つづく)

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1518年に建設されたVilla Pallavicinoです。
ヤコポ・バロッツィ・ダ・ヴィニョーラ通称イル・ヴィニョーラ(ヴィニョーラ、1507‐ローマ、1573)、またはドナート・ブラマンテ(フェルミニャーノ、1444‐ローマ、1514)の設計と言われてますが、私としては、この説に疑問を持ってます。イル・ヴィニョーラは、このヴィッラの完成した1518年にはわずか11歳ですから設計者としては有り得ないと思います。ブラマンテが最晩年に設計し、死後にヴィッラが完成したことは有り得ますが、晩年のブラマンテの活動を考えると、設計者の確率は極めて低いと思います。


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1530年、神聖ローマ帝国皇帝カルロ5世の宿泊所として、パッラヴィチーノ家がこの建物を購入しました。それ以降、ヴィッラ・パッラヴィチーノと呼ばれることになりました。
1543年、このヴィッラでカルロ5世と教皇パオロ3世の面会が実現します。


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国立ヴェルディ博物館に入館しました。


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カルロ5世と教皇パオロ3世の邂逅を描いた絵画


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この時は館内写真不可でした。


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ヴィッラの門


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ヴィッラは堀に囲まれて建ってます。


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イタリア・オペラ好きには必訪と言える博物館でしょう。


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次は、Villa Pallavicinoの向かいに建っているサンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会修道院です。


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15世紀中頃、パッラヴィチーノ州を作り、その支配者だったロランド・パッラヴィチーノ(ブッセート、1393‐1457)が、この地に教会を建設することを決めましたが、その生前には実現せず、教会建設を遺言しました。その遺言に基づき、ロランドの息子兄弟によって1470年から1474年に建設された後期ゴシック様式の教会です。
併設の修道院は1472年から1474年に建設されました。


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ファサード前の庭に白鳥の置物があります。


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1475年、教会と修道院はフランチェスコ会修道士に引き渡されました。


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幾つかの芸術作品がある教会修道院として知られてます。
その一つが入口扉上ルネッタのフレスコ画です。アントニオ・カンピ(クレモナ、1522‐1587)の「聖母被昇天とフランチェスコ会修道士たち」(1580c)


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もう一つの扉上のフレスコ画もアントニオ・カンピの作品です。


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扉が開いていました。


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中に入りました。


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四廊式、ゴシック様式の内部です。


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左側に2つの側廊があります。


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左側に修道院への通路がありますが、この日は閉鎖されていました。


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右側壁


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右側廊


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16世紀の逸名彫刻家作「Madonna delle Grazie」(16世紀)


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Cappella di Sant'Antonio


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制作者情報不知の「聖アントニオの祭壇」(19世紀)


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一部がモザイク


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ゴシック様式逸名画家作「Madonna del Canale」(15世紀)


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詳細不知


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詳細不知


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グイド・マッツォーニ(モデナ、1450‐1518)の「嘆き」(1475‐76c)


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グイド・マッツォーニの代表作の一つです。


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中央礼拝堂後陣の磔刑像


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詳細不知の主祭壇画


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ニコロ・デッラバーテ(モデナ、1510c‐フォンテーヌブロー、1571)の「十字架を担ぐキリスト」(1543‐44c)


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アントニオ・カンピ(クレモナ、1522‐1587)の「聖母子と聖フランチェスコ」(1580)


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主祭壇前から見た出入口方向


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外に出ました。


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立ち去る前に、もう一度ファサードを見ました。


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道の両側に低い城壁があります。


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(おわり)

P1080375ヴェルディ広場です。


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先ほど一息入れたカフェです。


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町歩きを続けます。


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小さな町なので、どうしても同じ場所に何度も来てしまいます。


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時間が経ちません。


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この町には苛烈な歴史がありますが、それに触れずにさらっとやりましょう。


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この日、ここに泊まってオペラを楽しむ予定でした。


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残念ながら、それを果たせずに終わりました。


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次はヴェルディ博物館ですが、当時、午後の開館は午後3時からなので時間潰しが必要でした。


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ヴェルディ博物館は、ブッセート郊外、旧城壁外の駅近くにあります。


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博物館の開館時間に合わせるために、あちこち歩いて時間潰しです。


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何処を歩いても人通りが少ない。


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元々人口が少ないので、人通りが少ないのは当たり前です。


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ローマ通りの柱廊


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道を間違えるはずがないと高を括って歩いていました。


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どうやら道に迷ったみたい。


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東洋風の門?


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電柱がありません。


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電線を地下に埋設するにはコスト高となるので難しいと言っている我が国ですが、イタリアで出来て我が国に出来ないのは不可思議です。


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地上部分の電線


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電柱頼りは、何時も電力会社側に立つ政府施策の一環でしょう。


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電線が地上に出ている部分


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経済状態が日本より悪いイタリアに出来て、日本で出来ない電柱問題です。


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Rocca Pallavicinoに戻ってきました。


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午後3時を過ぎました。


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ここで一休みしました。


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道を間違えないように、素直にローマ通りを通ってヴェルディ博物館に向かいました。


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柱廊を進みました。


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監視カメラが結構あります。


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どうせ道草しても見どころがない。


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博物館はもう直ぐです。


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ヴェルディ博物館があるVilla Pallavicinoに着きました。
(つづく)

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ヴェルディ像の後方に建っているのは、985年着工のRocca Pallavicinoです。


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1216年、ピアチェンツァ・ミラノ連合軍によってRoccaは破壊されましたが、1249年、神聖ローマ帝国皇帝フレデリック4世によって再建されました。


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Rocca Pallavicinoは、1543年、カルロ5世と教皇パオロ3世が邂逅した地として有名です。
時計塔下のアーチを潜って一旦中庭に出ます。


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中庭の南側の建物


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中庭からヴェルディ広場の反対側に出ます。向こう側は普通の住宅地となってます。


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Rocca Pallavicinoの裏側
1856年、Rocca Pallavicinoは、パルマ公爵からブッセートのコムーネに売却されました。当時のRoccaは非常に荒廃していたので、そのままでは使用不可でした。荒廃していた部分を取り壊して、一部を除いて再建されることになり、1857年から1868年にかけて現存する大部分が新古典様式で再建されたものが現在の姿です。


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広場に面した時計塔と狭間のある塔の部分は16世紀のものです。


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ヴェルディ広場側に出ます。


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Rocca Pallavicinoのファサードに向かって時計塔の左側はPalazzo Comunale、時計塔の右側がTeatro Giuseppe Verdiです。


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1857年から1868年に建設されたTeatro Giuseppe Verdiです。


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公演がない日は一般公開されてます。この日は公演日でした。


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客席数が僅か307席の小さな劇場ですが、オペラが上演されてます。毎年10月にパルマとその近郊で開催されるヴェルディ・フェスティヴァルの会場になってます。


1
劇場内部


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この日の演目はヴェルディの「ファルスタッフ」でした。


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オペラ上演の実態は、パルマ・オペラ座の出張公演です。


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ヴェルディ広場近くの教会を見に行きます。


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広場の端に教会が建ってます。


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ローマ通りを越えます。


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サン・バルトロメオ参事会教会 Collegiata di San Bartolomeoです。


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1437年に着工されたゴシック様式の教会です。


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ファサードのフレスコ画の痕跡


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後陣と鐘楼


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ブッセートのドゥオーモに相当しますが、地元ではドゥオーモと呼ばれていないようです。


2
1767年、ロココ式に改修された内部です。


3
ミケランジェロ・アンセルミ(ルッカ、1491/1492-パルマ、1556)によって1538年から1539年にかけて制作されたフレスコ画


4
ミケランジェロ・アンセルミのフレスコ画


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サン・バルトロメオ参事会教会の右奥に、14世紀から15世紀に建設されたOratorio della Santissima Trinitaがあります。


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1836年、ジュゼッペ・ヴェルディとヴェルディの最初の妻マルゲリータ・パレッツィと結婚式を挙げた祈祷所として有名です。


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ローマ通りの突き当りにも教会があります。


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サンタ・マリア広場に面して建つサンタ・マリア・アンヌンツィアータ教会です。


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前身は、1472年から1518年に建設された病院付属の礼拝堂です。病院は後に取り壊され、独立した礼拝堂になりました。
新古典様式の現在の建物は、1804年に再建された二代目のものです。


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1805年、ジュゼッペ・ヴェルディの両親がこの教会で挙式しました。


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サンタ・マリア広場にあるメルカト


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この辺がブッセートの中心地となります。


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サンタ・マリア広場から見えるサン・バルトロメオ参事会教会の鐘楼


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(つづく)

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ブッセート駅に到着しました。


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ブッセートは、人口6,939人(2018年1月1日)のエミリア・ロマーニャ州パルマ県にあるコムーネです。
駅名が入った写真がないと様にならないので、列車が発車するのを待って、向かいのホームから写真を撮りました。


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無人の小さな駅ですが、駅のトイレが使用可能です。
無人駅でもトイレがあるのが普通ですが、そのトイレは施錠されていて使用できないことが殆どです。折角なので利用させて頂きましたが、ブッセートのトイレは非常に清潔でした。


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駅舎です。
ブッセートは、ジュゼッペ・ヴェルディ所縁の町として有名です。ジュゼッペ・ヴェルディ(レ・ロンコーレ、1813‐ミラノ、1901)は、ブッセートの分離集落 Frazioneのレ・ロンコーレで生まれ、1824年にブッセートに移住してきました。


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田舎の佇まいの駅前広場


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旧市街に向かいます。


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Cappella della Madonna Rossaを通り過ぎます。


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駅から旧市街の入り口までは徒歩数分の僅かな距離です。


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頃合はブッセートで最も賑わいを見せる、ヴェルディ・フェスティヴァルが開催される10月です。


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緑豊かで、長閑な町です。


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住宅地


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Istituto Compresivo Busseto


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小学校です。


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この辺が旧市街の入り口になります。


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町の目抜き通りであるローマ通り


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この日、快晴、気温20℃くらいで絶好の町歩き日和でした。


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Busseto Terra di Verdiの横断幕が掲げられてます。


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この日はヴェルディ・オペラの上演日でした。


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ローマ通りと交差する道は静寂に包まれていました。


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尤もローマ通りも人通りが少なく、静かでした。


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この日のことは思い出したくないので、適当に書いておきます。


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柱廊が完備されてます。


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イエズス会の旧大学です。


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1617年から1682年に建設されたサンティグナツィオ・ディ・ロヨラ教会です。


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1613年、ラヌッチョ1世ファルネーゼ(パルマ、1569‐1622)がイエズス会に対して、ブッセートを活動拠点にして良いとの許可を与えたことにより、大学と教会が建設されました。
しかし、イエズス会の勢力はそれだけに留まらず、この町の多くを勢力下に置きました。
ヴェルディもこの大学で学びました。


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ローマ通りは全長500mくらい?でしょうか。


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1679年から1682年に建設された、バロック様式のPalazzo del Monte di Pietaです。


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ローマ通りを更に進みます。


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柱廊が続いてます。


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通りの突き当りにある教会が見えてます。


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Palazzo Orlandi


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19世紀初頭に建設された新古典様式のPalazzo Orlandiです。
1845年、ヴェルディは、22,000リラの大金で、このPalazzoを買いました。1849年、ソプラノ歌手で、ヴェルディの後妻ジュゼッピーナ・ストレプトニと一緒にこのPalazzoで住むようになりました。


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ヴェルディとストレプトニがここで住むには色々と問題が生じました。その辺の詳細はここでは触れませんが、やがて、このPalazzoはストレプトニの所有となりました。


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現在はSIAEが所有しています。


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ヴェルディ広場は直ぐ傍です。


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広場にやってきました。


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ヴェルディ広場です。


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広場に面したカフェで一休み。


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広場にあるのは勿論ヴェルディ像です。


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(つづく)

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聖杯(13世紀)


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ヴェルチェッリの金工家作「聖杯」(1879)


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ヴェルチェッリの金工家作「聖杯」(1854)


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イタリア製「聖杯」(20世紀)


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次の展示室です。


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意味不明な剥離フレスコ


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次の部屋です。


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柱頭(3‐4世紀)


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柱頭(2‐3世紀)


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聖人たち


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聖パオロ


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聖ジョヴァンニ・バッティスタ


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聖カルロ・ボッロメオの襟着


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ヴェルチェッリの金工家作「聖フィリッポ・ネリ像」(18世紀末)


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階上に向かいました。


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階上の部屋


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大司教のベッド


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ジョヴァンニ・バッティスタ・チェリドーネ(ヴェルチェッリ、17世紀初め活動)の「玉座の聖母子と聖人たち」


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ロンバルドの逸名画家作「マギの礼拝」(17世紀)


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作品がありません。


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フランドルのタペストリ工房作「キリストの洗礼」(16世紀第2四半世紀)


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ジローラモ・ジョヴェノーネ(ヴェルチェッリ、1490‐1555)の「マギの礼拝」


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詳細不知


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絵画館部門は閉鎖されていました。


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外に出ました。
(おわり)

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ヴェルチェッリ大聖堂です。


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大聖堂の鐘楼です。


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鐘楼の後方に大司教館があります。


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大司教館にヴェルチェッリ大聖堂の宝物博物館 Museo del Tesoro del Duomo di Vercelliがあります。2000年に一般公開されるようになりました。


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大司教館の中庭を経由して博物館に入館します。


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3世紀から現在に至る宝石、家具、典礼品、タペストリ、絵画、本などが展示されてます。


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最初は本の展示です。


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十字架の展示です。


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磔刑の十字架(13世紀)


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絵巻物(12世紀末‐13世紀初め)


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ボウルの数々


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次の展示室です。


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部屋のフレスコ画


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(つづく)

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サン・パオロ教会から外に出ました。


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18世紀に建設されたPalazzo Avogadro della Motta e di Villanova


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18世紀に建設されたサン・ロレンツォ教会です。


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写真左はPalazzo Borgognaです。


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写真左はサンタ・マルゲリータ修道院です。


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サンタ・マルゲリータ修道院の入り口


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17‐18世紀に建設されました。


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緑地が多い街です。


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Torre Vialardi


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修復の必要がある建物です。


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中に入ったことがありません。


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小礼拝堂を見ておきます。


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小礼拝堂の祭壇


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聖母子の浮彫


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次はサンタ・アンナ教会です。


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サンタ・アンナ教会に行く前に写真のバールで一休み


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サンタ・アンナ教会です。


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15世紀に建設されたルネサンス様式の教会です。


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中に15世紀に描かれたフレスコ画があるらしい。


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土曜日の夕方だけ開くようです。


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傷みが激しいファサードのフレスコ画


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Corso Liberta


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次はサント・スプリト教会です。


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17‐18世紀に建設されたサント・スプリト教会です。


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土曜日と日曜日だけ開くようで、この日は閉まっていました。


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教会巡りは効率が悪いのです。


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次はサン・ベルナルド教会です。


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今度は中の扉も開いていました。
1164年頃に建設されたロマネスク様式の教会です。


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中に入りました。


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三廊式、ロマネスク様式の内部です。


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資料が乏しく、祭壇画等の詳細が全く分かりません。


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詳細不知の聖母子


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詳細不知のフレスコ画


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主祭壇


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19世紀の後陣装飾


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後陣天井の装飾(19世紀)


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詳細不知のオルガン


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詳細不明の三位一体と聖ベルナルド


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左側廊


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後陣


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ドゥオーモのクーポラが見えてます。


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街歩きを切り上げて次の目的地に向かいました。
(おわり)

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サンタ・カテリーナ教会です。


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1350年、サンタ・マリア・デッラ・ミゼリコルディア同信会によって建設された教会で、創建当時の名称はサンタ・マリア・デッラ・ミゼリコルディア教会でしたが、1382年にサンタ・カテリーナ教会と改称されました。


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左身廊側壁
現在の建物は18世紀前半に再建された二代目となるものです。


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ファサードの扉上に判別できないほど痛みがあるフレスコ画があります。


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ファサードのフレスコ画は初代の建物にあったもので、グリエルモ・カッチャ通称イル・モンカルヴォ(モンカルヴォ、1568‐1625)によって描かれたそうです。


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中に入りました。


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主祭壇と後陣


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ピエル・フランチェスコ・グアーラ(カザーレ・モンフェッラート、1698‐ミラノ、1757)の「聖母子と光悦のアレッサンドリアの聖カテリーナ」(1743)


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詳細不知


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ピエル・フランチェスコ・グアーラ(カザーレ・モンフェッラート、1698‐ミラノ、1757)の「聖ジョヴァンニ・バッティスタの説教」(1743)


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ピエル・フランチェスコ・グアーラ(カザーレ・モンフェッラート、1698‐ミラノ、1757)の「天国のカギを聖ピエトロに託すキリスト」(1743)


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ファサード裏に聖歌隊席があります。


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外に出ました。


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Piazza Palazzo Vecchio


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柱廊付きの建物は、14世紀に建設されたブロレットです。


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広場の中心にある噴水


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市の塔


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市の塔は修復中でした。


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次はドメニコ会の教会と旧修道院です。


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市庁舎近くとなると流石に人通りが多くなってきました。


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市庁舎


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ドメニコ会の旧サン・パオロ修道院だった建物が市役所として使用されてます。
次はサン・パオロ教会です。


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市庁舎に隣接して建っているサン・パオロ教会です。


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1229年、ドメニコ会によって、現在地に小さな教会が建てられ、後にその周囲に修道院が建設されました。
1420年に再建された二代目の建物がほぼ現在の姿となってます。


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1802年、サン・パオロ教会修道院はナポレオンによって活動が停止されてしまいました。


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1813年、ヴェルチェッリ市当局は、フランスから修道院だった建物を買収し、市庁舎に転用しました。
教会活動は、1820年に再開され現在に至ってます。


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中に入りました。


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1792年、建築家ジャコモ・ヴィンチェンツォ・カナヴァッリの設計によってバロック様式に改修されました。


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三廊式、ラテン十字形、一部バロック様式の内部です。
この教会は美術作品の宝庫とされていましたが、ナポレオンの占領時代にフランスに持ち去られた傑作がかなりあるそうです。しかし、一つも戻されていないようです。


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詳細不知


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詳細不知


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ベルナルディーノ・ラニーノ(モルタラ、1512‐ヴェルチェッリ、1578)の「十字架降下」


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ベルナルディーノ・ラニーノ(モルタラ、1512‐ヴェルチェッリ、1578)の「幼きリストへの崇拝」


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無原罪の御宿リ礼拝堂


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制作者情報不詳の「聖トンマーゾの不信」


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主祭壇と後陣


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ロレートの聖母礼拝堂


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詳細不知


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サンタ・リータ礼拝堂


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ベルナルディーノ・ラニーノ(モルタラ、1512‐ヴェルチェッリ、1578)の「サン・パオロのポリッティコ」


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詳細不知


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詳細不知


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ベルナルディーノ・ラニーノ(モルタラ、1512‐ヴェルチェッリ、1578)の「グラツィエの聖母」


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詳細不知


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詳細不知


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主祭壇前から見た出入口方向
(つづく)

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サン・ベルナルディーノ教会の奥に、もう一つ教会があります。
17世紀に建設された旧・サン・ピエトロ・マルティーレ教会です。


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旧サン・ピエトロ・マルティーレ教会ファサードに描かれたフレスコ画


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写真右奥のTeatro Civicoに行きます。


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Teatro Civico
オペラ上演は暫時なしでした。


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劇場が面している道を更に進みます。


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観光客が余り足を運ばない街ですが、見所がそこそこあります。


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次はサンタ・マリア・マッジョーレ教会です。


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目指す教会の建物が見えてきました。


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イエズス会のサンタ・マリア・マッジョーレ教会です。


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10世紀に建設された、初代のサンタ・マリア・マッジョーレ教会は別の場所にありました。


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1578年、建物の荒廃が進み、大修復しても最早使用が難しいと判断され、再建が決まりました。しかし、中々実行に移されませんでした。
サンタ・マリア・マッジョーレ教会とは全く関係なく、現在地にフィリッポ・ユヴァラ(メッシーナ、1678‐マドリッド、1736)の設計によって、イエズス会によって1734年から1741年に完成した新古典様式の教会がありました。


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1775年、イエズス会はサンタ・マリア・マッジョーレ教会を所有することになりましたが、古い建物を取り壊して、現在地にある教会に移転する形(実際は交換した形態)にして、現称となったのです。
取り壊された旧サンタ・マリア・マッジョーレ教会はConcattedraleでBasilica Minoreでしたが、現在の教会がその格式を引き継いでいるかについては、私には分かりません。


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内部に入りました。


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左側壁


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右側壁


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天井の装飾


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詳細不知


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詳細不知


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ロレートの聖母


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主祭壇


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後陣の装飾


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詳細不知


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サンタ・マリア・マッジョーレ教会から外に出ると、カステッロが直ぐ傍にあります。


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カステッロについては既に触れました。


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城としての役目はナポレオン占領時代に終わりました。


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堅固な歴史的建造物は刑務所に転用されることが良くありますが、ここもその例外ではありません。


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ヴェルチェッリは秀逸な美術館がある街として、もっと有名である筈と思います。


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市の塔


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塔の前に広場は青空市が開市でした。


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次はカヴール広場です。


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カヴール広場に来ました。


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広場の中心に立つカヴール像


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広場の裏手にサン・ミケーレ教会があります。


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サン・ミケーレ教会です。


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広場から見える鐘楼はこの教会のもので、13世紀建設の以前の教会の鐘楼です。


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(つづく)

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駅前広場を通り過ぎてホテルに戻ります。


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駅前広場の噴水


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未だ気温32℃


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ホテルに戻りました。


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ホテルのレストランで夕食です。


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レストランの方が本業で、ホテルはそのついでに営業と言った感じです。


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ホテル自家製の生ハムが秀逸です。


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街歩きに出発です。


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Via Galileo Ferrariaです。
写真左はサンタンドレア聖堂です。


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15世紀中頃に建設されたSalone Dugentescoです。


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道路を挟んでSalone Dugentescoの向かいにあるのがサンタンドレア聖堂です。


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この建物は旧病院です。


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建物の地上階に柱廊が設けられてます。


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柱廊の扉上ルネッタに描かれたフレスコ画


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旧病院付属の教会でしょう。


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旧サンタ・クローチェ教会です。


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16世紀末に建設されました。


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旧サンタ・クローチェ教会の外壁に聖人の絵がありました。


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通りを更に進みます。


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Palazzo Cantono di Ceva


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18世紀から19世紀にかけて建設されたPalazzo Cantono di Cevaです。


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一見古そうに見える教会です。


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1894年から1896年に建設されたSantuario della Madonna degli Infermiです。


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道路を挟んで、Santuario della Madonna degli Infermiの向かいにあるのがPalazzo Cantono di Cevaです。


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この辺一帯は昔も今も賑わいを見せる一角です。


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これも歴史的建造物です。


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15‐16世紀に建設されたPalazzo Arborio Biaminoは旧教会でもありました。


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写真左手前が後陣になります。


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現在、メルカトになっている建物です。


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メルカトの建物は、14世紀から15世紀に建設されたサン・マルコ教会でした。


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次はサン・ベルナルディーノ教会です。


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12世紀のサン・ベルナルディーノ教会です。


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扉が開いているように見えましたが、中扉が閉まっていました。


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P1000075
(つづく)

P1000274
ドゥオーモのファサード前から駅前まで広い公園があります。


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次はドゥオーモ宝物博物館です。


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鐘楼の後方に大司教館があります。


P2860051
12世紀に建設された鐘楼


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大司教館の宝物博物館への入り口です。


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大司教館の中庭から宝物博物館に入ります。


P2860054展示物は、最古のものは3世紀、最新のものは21世紀と約1800年間にわたる宝物、家具、タペストリ、絵画などです。


P2860059
宝物博物館については、項を改めて詳しく触れます。


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ジローラモ・ジョヴェノーネの「マギの礼拝」(1515)


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外に出ました。


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次はサンタンドレア聖堂です。


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入口があるファサード側に回ります。


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1219年創建、1227年に完成したゴシック様式のサンタンドレア聖堂 Basilica di Sant'Andreaです。Basilica Minoreに格付けされてます。


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シトー会建築様式の影響を受けていると言われてます、ファサード左右の2本の鐘楼が目立ちます。
1227年の完成以降、大きな修復改修が行われなかったので、ほぼ原形を保っているそうです。


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灰緑色の石を使ったファサード


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中央扉上ルネッタ上の浮彫は、ベネデット・アンテラミ(ヴァルデルテヴィ、1150c‐1230c)またはベネデット・アンテラミ派逸名彫刻家作の「磔刑の聖アンドレア」
ベネデット・アンテラミの作品ではないとする説が有力とされてます。


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ファサードに向かって左扉上ルネッタ上の浮彫は、「玉座の聖アンドレアに教会を捧げるグアーラ・ビッキエーリ」


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ファサードのバラ窓


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聖堂内に入りました。


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三廊式、ラテン十字形、ゴシック様式の内部です。


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装飾が少なく、すっきり感がします。


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交差ヴォールト


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左側廊


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右側廊


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礼拝堂を見て行きます。


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トンマーゾ・ガッロ修道院長の墓碑(14世紀前半)


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Maestro della Tomba di Tommaso Galloの「聖母戴冠と音楽天使たち」(14世紀中頃)


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Maestro della Tomba di Tommaso Galloの「玉座のトンマーゾ・ガッロ修道院長」(14世紀中頃)


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制作者不詳の彫刻
左からディオニージ・ロ・プセウド・アエロパギータ、アレッサンドリアの聖カテリーナ、聖母子、トンマーゾ・ガッロ修道院長、聖アンドレア


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詳細不知


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詳細不知


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礼拝堂天井


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主祭壇と後陣


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後陣のフレスコ


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クーポラ


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詳細不知


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パオロ・ザッカの「聖職者席」(1511)


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ミサが始まりました。


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ミサの邪魔になるので、キオストロに出ることに。


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聖堂と修道院の全体模型


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キオストロを回廊が囲んでます。


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回廊の壁にフレスコ画があったと思いますが、それが残されていません。


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堂内に再び入りました。


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主祭壇前から見た出入口方向です。

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外に出ました。
(つづく)

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夕方の主な予定は、ドゥオーモの拝観とドゥオーモ博物館に入館すること、そしてサンタンドレア聖堂の拝観です。


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鉄道駅近くは金融機関が多いと思いました。


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「お好み焼き」と書かれた提灯がぶら下がっている店がありました。日本人がやっているとは限りません、日本語が分からない中国人や韓国人の店がイタリアでは多いようです。


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鐘楼はサン・ピエトロ・マルティーレ教会のものですが、写真右に顔を覗かせている教会に先ず行きます。


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サン・ベルナルド教会は閉まっていました。


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開いていれば、中々のフレスコ画があるので、拝観したかったのですが、淡い期待に終わりました。


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先ほど、鐘楼が見えていた教会です。


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機能を停止した旧教会なので、閉まっていて当然です。


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ファサードのフレスコ画


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15世紀に建設されたPalazzo Arborio Biamino


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サン・ベルナルド教会の後陣


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メルカト


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駅近くですが、この辺は歴史的建造物が多い。


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18世紀に建設されたPalazzo Cantono di Ceva


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サンタンドレア聖堂に向かいます。


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2本の鐘楼が目印です。


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サンタンドレア聖堂は扉が閉まっていました。この日は午後4時から開くことを確認してから、ドゥオーモを先に拝観することにしました。


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ドゥオーモは駅近くにあります。


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ドゥオーモにやってきました。


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サンテウセビオ大司教座聖堂 Basilica Cattedrale Metropolitana di Sant'Eusebioです。
1834年、教皇グレゴリオ16世によってBasilica Minoreに格付けされました。街の規模からすると格式が高い聖堂です。


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ヴェルチェッリの最初の司教である聖エウセビオ(サルデーニャ、283‐ヴェルチェッリ、371)の墓近くに、4世紀に建設された初期キリスト教会が前身です。
現在の建物は、ペッレグリーノ・ティバルディ(ピューリア、1527‐ミラノ、1596)の設計によって、1570年から1582年に建設されたルネサンス様式の建物が原形です。
18世紀初めに拡張改修されました。


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新古典様式のファサードは、18世紀から19世紀に再建されました。


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鐘楼は12世紀後半に建設されたもので、再建以前の建物で唯一現存しています。


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16世紀に建設された部分と18‐19世紀に建設された部分が混在していて、調和に欠ける感じがする外観です。


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1860年に建設されたクーポラ


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左翼廊


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ファサード側に戻ります。


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先ずファサード下の柱廊に入ります。


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芸術作品らしきものが見当たらない柱廊です。


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聖堂内に入りました。


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2012年に大改修された内部です。


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三廊式で、天井を支える2本組の列柱が特徴です。


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右側廊


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美術的な見所は主祭壇の十字架だけと言っても過言ではありません。


1
オットー美術の傑作「オットーの十字架」(10世紀末)


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詳細不知


P1000248
詳細不知


P1000249
詳細不知


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ピエル・フランチェスコ・グアーラ(カザーレ・モンフェッラート、1698‐ミラノ、1757)の「栄光の聖エウセビオ」


P1000252


P1000253
お宝芸術品は、付属博物館で見ることが出来ます。


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詳細不知


P1000255


P1000256
詳細不知


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フランチェスコ・グランディ(ローマ、1831‐1891)の「キリストの洗礼」


P1000259
詳細不知


P1000264
外に出ました。
(つづく)

P2850948
アントニオ・ボルゴーニャ通りに入りました。
写真手前右はこの街のシンボルというべき天使の塔 Torre dell'Angeloです。写真右端にサンタグネス・イン・フランチェスコ教会の鐘楼が建ってますが、その鐘楼下に写っている赤っぽい建物が美術館です。


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Epaminonda Ferreroが1836年に建設した新古典様式のPalazzo Ferreroです。


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1882年、アントニオ・ボルゴーニャが購入したので、Palazzo Borgognaと呼ばれてます。


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アントニオ・ジャコモ・フランチェスコ・ボルゴーニャ通称アントニオ・ボルゴーニャ(ストロッピアーナ、1822‐ヴェルチェッリ、1906)は、裕福な家に生まれた政治家で、活動的な慈善家でもありました。
1870年、若くして引退したアントニオは、予てから美術品収集に熱心でしたが、それにより一層拍車がかかって、イタリア国内は固よりヨーロッパ、アフリカ、東洋に旅をしながら、美術品の収集に努め、更にオークションで競り落とした美術品が収集品に加わりました。
アントニオの収集したコレクションは有名となり、その展示場所を探していましたが、1882年、現在美術館となっているパラッツォを購入しました。


P2850951
1899年、アントニオは、美術収集品全てを建物ごとヴェルチェッリ市に寄贈しましたが、その際、美術館を父であるフランチェスコ・ボルゴーニャ(1797‐1877)に捧げて、美術館をフランチェスコ・ボルゴーニャ美術館と命名すると共に、美術館を運営するための財団を作って財政基盤の安定に努めました。


P2850950
美術館の入り口です。
一般公開は1908年からで、1908年時点で約2000点の美術品が展示されていました。その後、財団によってピエモンテ各地の美術品が購入され、展示は更に充実したものになってます。
現在、ピエモンテ州ではサバウダ美術館に次いで2番目の美術館となってます。


3
中は写真不可です。
私の写真は一枚もありません。
しかし、それでは美術館紹介にならないので、美術館HPから作品画像を拝借して、紹介することにします。写真の版権等は美術館側が保持していることを承知の上で連載するので、作品画像はごく一部にします。それでも権利侵害であることは明らかですが。
質の高い作品が多数展示されているので、美術ファンがもっと訪問するべき美術館と思います。


4
Pittore della Passione di Cristoの「磔刑」(1450c)


5
ベルナルディーノ・ラニーノ(モルタラ、1512c‐ヴェルチェッリ、1583/1584c)の「最後の晩餐」


1
ベルナルディーノ・ラニーノ(モルタラ、1512c-ヴェルチェッリ、1583/1584c)の「聖会話」


2
ソドマ(ヴェルチェッリ、1477-シエナ、1549)の「聖家族と聖ジョヴァンニーノと天使」


9
ジローラモ・ジョヴェノーネ(バレンゴ、1490c‐ヴェルチェッリ、1555)の「幼きキリストへの崇拝」(1510‐13c)


6
デフェンデンテ・フェッラーリ(キヴァッソ、1509-1535c活動)の「聖母子と聖人たちのポリッティコ」(1520-25)


7
ジョヴァンニ・バッティスタ・ナルディーニ(フィレンツェ、1535-1591)の「アポロとミューズ」(1580-85)


10
ルドヴィーコ・カラッチ(ボローニャ、1555‐1619)の「アリアンナとバッカス」


8
アンジェリカ・カウフマン(スイス、1741-ローマ、1807)の「ドメニカ・ヴァルパートの肖像」(1791)


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外に出ました。
最初から最後まで入館者は私1人でした。勿体ないことです。
写真OKにすれば、各種媒体でのPRがされて、入館者がもっと多くなることでしょう。


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おわり

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Castello Viscoteoです。


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ミラノの君主で、ヴェルチェッリ領主であったマッテオ・ディ・ヴィスコンティ(インヴォーリオ、1250‐ミラノ、1322)によって1290年頃から工事が着工された城です。


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現在は裁判所など司法関係部署が使用してます。


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ナポレオンのイタリア侵攻時には、ナポレオン軍の司令部が置かれていました。


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裁判所の前は刑務所でした。


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暑い日だったので早々に退散します。


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Torre dell'Angeloが目立ちます。


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マッシモ・ダツェーリオ広場です。


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写真右の赤っぽい建物が刑務所だったとは信じられません。


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刑務所にしては普通の建物なので、重罪犯用ではないと思います。


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クローチェ・ディ・マルタ館


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カヴール広場に戻りました。


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カヴール広場で簡単な昼食を食べました。


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昼食後のこの時間ですから、サン・ミケーレ教会は閉まっていました。


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この通りの先にある、有名な塔を見に行きます。


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Torre degli Avogadro


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ヴェルチェッリ領主だったアヴォガドロ家によって、1266年8月19日から建設された塔です。


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この辺の一帯にアヴォガドロ家の屋敷がありました。


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ジュゼッペ・ヴェルディ通りです。


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通りの名称の由来は、通りの突き当りにオペラ劇場があるからです。


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1815年に開場した市立劇場です。伝統的な馬蹄形をしています。


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1923年、最初の建物は放火によって倒壊してしまいました。現在の建物は焼失後に再建されたもので、1929年に再開場されたそうです。


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ヴェルチェッリで最も大きな教会であるサンタンドレア聖堂に向かいます。


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サンタンドレア聖堂の鐘楼が見えてきました。


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サンタンドレア聖堂です。


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昼過ぎなので、当然扉が閉まっていました。


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夕方に再び来ることにしました。


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サンタンドレア聖堂のファサード前から見た駅前広場です。


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ガリレオ・フェッラーリス通り


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アヴォガドロの塔とサン・ピエトロ・マルティーレ教会の鐘楼


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何の建物でしょうか?


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一旦ホテルに戻って昼寝することにしました。


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ホテルに戻りました。


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窓が閉まっている部屋ばかりで、殆ど空室?


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1時間ほど昼寝をしてから、再び出発しました。


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桜並木です。


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サクランボ


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こちらの木のサクランボは美味しそう!


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採って食べる人がいないようですが、私は採って数粒食べました。甘くておいしかった。


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(つづく)

ヴェルチェッリは、人口46,035人(2018年12月31日現在)のピエモンテ州ヴェルチェッリ県の県都です。街の歴史は古く、紀元前600年頃、リグーリア人の一部族Libiciの首都でした。
1120年、都市国家として独立しましたが、その後、ミラノ、フランス、スペインの支配下に置かれました。18世紀にサヴォイア家に属し、イタリア統一を迎えました。
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駅に到着しました。
ミラノ~トリノを結ぶ幹線上にあり、RVが停車します。


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観光客をあまり見かけない街です。


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駅舎


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駅前広場から見えるサンタンドレア聖堂の鐘楼


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この日のお宿に向かいます。


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ホテルは、駅から徒歩5分の住宅街にあります。
ヴェルチェッリの宿泊先はかなり限られる上に郊外に点在しているので、交通の便を考えると選択肢は一つしかありません。


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この日のお宿です。レストランが併設されてます。


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朝の早い時間でしたが、部屋に入ることが出来ました。荷物を部屋に置いて身軽になったので、早速外出しました。


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チェントロ・ストーリコに向かう大通りは緑が一杯です。


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この街に来るのは4回目ですが、身の安全という点では心配不要と思います。


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旧市街の入り口というべき広場にやってきました。この場所に城門があったそうです。


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Piazza Pajetta


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広場の中心に立つ「将軍の制服のヴィットリオ・エマヌエーレ2世像」(1887)


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ヴェルチェッリに来た目的はMuseo Francesco Borgognaです。あまり知られていない絵画館ですが、所蔵作品は傑作揃いです。


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Corso Liberta


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913年創建のサンティッシモ・サルヴァトーレ教会です。現在の外観は18世紀に再建された二代目の建物です。扉が開いていましたが、美術的に魅力に欠けるので素通りしました。


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この辺から道幅が少し狭くなります。


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自転車が多い。


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用事がないけれど、街の中心の広場に寄り道します。


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次の交差点を左折すれば、直ぐに広場です。


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カヴール広場です。
この街のシンボルLa Torre dell'Angeloが見えます。


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イタリア統一後、現称に改称されましたが、それ以前はマッジョーレ広場、またはメルカンティ広場と呼ばれていたそうです。


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広場の四方は歴史的建造物に囲まれてます。


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17世紀に建設されたサン・ロレンツォ教会です。


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目指すMuseoは直ぐ傍にあります。


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写真左に塔が見えますが、塔の下に見える赤い建物がMuseo Francesco Borgognaです。


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とうとうやってきました。


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入館しました。中は写真不可で、残念ながら私の写真は一枚もありません。


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MuseoのHP掲載の作品画像を拝借して、この美術館の紹介を項を改めてやることにしましょう。


1
Museoの所蔵作品です。
ベルナルディーノ・ラニーノ(モルタラ、1512‐ヴェルチェッリ、1578)の「聖会話」


2
ソドマ(ヴェルチェッリ、1477‐シエナ、1549)の「聖家族と聖ジョヴァンニーノと天使」


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写真を撮ることが出来ませんでしたが、大満足で外に出ました。


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ここに再び来ることはもうあるまい、と思いながらMuseoを後にしました。


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サンタグネス・イン・サン・フランチェスコ教会です。


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拝観したかった教会ですが、Museoでたっぷり時間を使ったので、扉が閉まる時間になってしまいました。


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Palazzo Arborio di Gattinara


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カステッロに向かいます。


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カステッロ
(つづく)

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テヴェレ川に架かるファブリチョ橋を渡ってティベリーナ島に向かいます。


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ティベリーナ島からチェスティオ橋を渡ります。


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チェスティオ橋の上から振り返ってティベリーナ島を見たところです。


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チェスティオ橋を渡れば、直ぐにトラステヴェレのピシヌーラ広場に出ます。広場の突き当りに小さな教会の建物が見えますが、それがサン・ベネデット・イン・ピシヌーラ教会です。


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ピシヌーラ広場です。写真右は、14世紀に建設されたPalazzo Matteiです。


17
Palazzo Mattei
マッテイ家は、中世の頃、この教会の守護者でしたが、17世紀になると相続人がいなくなってしまい、教会の財政面が困難となりました。


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piscinulaは、ラテン語のpiscinaから派生した単語で、piscinaとは「魚がいる池」という意味だそうです。
広場は、魚市場があった場所で、生きた魚ための池があったのが広場の名称の由来されてます。また、18世紀に、この場所から発掘された遺跡からローマ時代の浴場が発見され、浴場の遺跡の上に魚市場があったことが明らかになりました。


18
教会の起源について、文書化されていないので不明とされてます。しかし、幾つかの有力説があるようですが、定説とされるものは一つもないようです。
伝説に拠れば、聖ベネデット・ダ・ノルチャ(ノルチャ、480c‐モンテカッシーノ、547)は、5世紀末にローマに到着し、現在、教会が建っている場所に居を構えて修行に励んだと言われてます。聖ベネデットの死後、間もなくして教会が設立されたとされてます。現教会が発行している資料には、この説が教会の起源として書かれてます。
しかし、聖ベネデットの宗教的評価を高めたいとの意図から、中世の頃に作られたフィクションであるというのが定説になってます。


19
教会の建物の基礎部分は8世紀のものであるという確実な証拠があるそうですが、その建物が教会であったかについては不明のようです。
鐘楼の小さな鐘に1069年と刻印されているので、1069年以前に教会が建設されたという説がある一方、他の教会の鐘を転用したという別説があるようです。
1192年の記録に、この教会の存在が初めて記されているそうです。
1386年、教区教会になりました。


21
小さな鐘楼は、数あるローマの教会の中で最小と言われてます。


20
トラステヴェレのこの地区には貧しい人々が多く住んでおり、教会は絶えず財政面で問題を抱えていましたが、マッテイ家の援助が途絶えると、急速に荒廃が進みました。18世紀前半、機能が停止され廃教会となりました。
19世紀に修復されたものの、機能回復は一時的で、直ぐに宗教活動は停止され、再び忘れられた存在になってしまいました。漸く2007年になって復元されたのです。


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中世のアトリウムだった入口ホールに入りました。


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入口ホール壁の剥離フレスコ「聖母子」(14世紀)


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入口ホール壁の剥離フレスコ



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教会内に入りました。


22
教会の構造図
かなり複雑な構造です。


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新しく見える部分は2007年に復元されたからです。


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右側廊方向


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2007年に復元された天井


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主祭壇と後陣


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19世紀初頭に修復されました。
聖母子の下の聖ベネデットは中世のものです。
その左右のフレスコ画は、フランチェスコ・ジャンジャコモ(ローマ、1783‐1864)の「バーリの聖二コラ(左)」、「セバステの聖ビアージョ(右)」(19世紀初頭)


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「聖母子」(14世紀)


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フランチェスコ・ジャンジャコモ(ローマ、1783‐1864)の「聖母戴冠」(19世紀初頭)


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逸名彫刻家作「ジョヴァンニ・デ・プレディス・ディ・タヴェルナの記念碑」(1691)
「聖母子と聖アンナ」(15世紀)


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逸名彫刻家作「司祭アントニオ・ピアペナンジの記念碑」(1720‐30)
フレスコ画は「聖エレーナ(フラヴィア・ジュリア・エレーナ)」(1500c)


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詳細不知


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レオポルド・アンシリオーニ(トリノ、1832‐ローマ、1894)の「玉座の聖母子と聖ベネデットと聖ロレンツォ」(19世紀)


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祭壇画の下に置かれている、逸名彫刻家作「聖ロレンツォ像」(19世紀)


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逸名画家作「カンタベリーの聖アンセルム」(19世紀)
逸名彫刻家作「パドヴァの聖アントニオ」(19世紀)


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13世紀末のフレスコ画


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12世紀のフレスコ画


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13世紀に造られたCappella della Vergine


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礼拝堂の建物は8世紀に建設されたそうです。


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礼拝堂祭壇の「慈悲の聖母」(14世紀)


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ノルチャの聖ベネデットが修行したとされる部屋です。


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コスマテスク様式の床


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コスマテスク様式の床部分は、この教会の創建時のオリジナルとされてます。


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伝説では、聖ベネデットがこの床を歩き回って瞑想に耽ったとされてます。


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床の石ですが、古代ローマ人がエジプト、ギリシャなどから持ってきた石が使用されているそうです。


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柱頭は新しい?


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主祭壇前から見た教会入り口


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外に出ました。


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(この項、おわり)
キリがないのでローマの教会巡りはこれで終わりにします。

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チェンチ川岸通りからサン・パオロ・アッラ・レゴラ通りに入ります。


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この一帯は、アグリッパによって整備されたそうです。


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ローマ時代の家、パラッツォ・スペッキです。


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この時は中に入りませんでしたが、共和制ローマ時代に建てられた、古い構造を持つ建物です。現存する建物の基本構造は3世紀初頭のものです。


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パラッツォ・スペッキを通り過ぎると、直ぐに教会の建物が見えてきます。
写真左の赤茶色の建物は、巡礼者をサポートするために建てられたホスピスです。
この通りの先にスパーダ宮殿、ファルネーゼ宮殿があります。


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サンティッシマ・トリニータ・デイ・ペッレグリーニ教区教会です。
この場所に、14世紀に建設されたサン・ベネデット・デ・アレヌラ教区教会がありました。


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1548年、貧者と病人に救済するための組織「L'Arciconfraternita dell Pellegrini e Convalescenti della Santissima Trinita」が聖フィリッポ・ネリによって設立されました。
その大信心会(Arciconfraternita)の活動拠点は別の場所にありましたが、直ぐに民衆の圧倒的な支持を集めました。
1558年、第223代教皇パオロ4世(在位:1555‐1559)は、大信心会に対して、その活動拠点としてサン・ベネデット・デ・アレヌラ教区教会の永久使用を認めました。それを機に、教会の名称が現称に改称されました。
1559年、大信心会は教会近くの土地を購入して病院ホスピスを建設しました。
1575年の聖年には、18万人の巡礼者がその病院ホスピスを利用しました。


1
ファサードに向かって左側にある赤茶色の建物が旧病院ホスピスの一部です。
大勢の巡礼者が病院ホスピスを訪れるようになると、古くて狭い教会の建物では対応が困難になったので、16世紀後半、大信心会は教会の建物の再建を決めました。
建築家マルティーノ・ロンギ・イル・ヴェッキオ(ヴィッジュ1534‐ローマ、1591)の設計によって、1587年創建、1612年に完成し、1616年に奉献された二代目の建物が現在の姿の原形です。この時、ファサードは工事未着工でした。


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建築家ジュゼッペ・サルディ(サンタンジェロ・イン・ヴァード、1680‐ローマ、1753)の設計によって、1722年に完成したファサードです。


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ファサードに、彫刻家ベルナルディーノ・ルドヴィージ(ボローニャ、1693c‐ローマ、1749)の「4福音書記者」の彫刻(1723‐24c)があります。


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下段左の「聖ルカ」


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下段右の「聖マルコ」


2
ファサード上段の彫刻は、左から「聖ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ」、「聖マッテオ」


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毎日開く教会なので、拝観が容易です。


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単廊式、ラテン十字形の内部です。


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コリント式列柱が目立ちます。


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1847年から1853年にかけて復元された内部です。


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クーポラは1612年頃に完成しました。


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ジョヴァンニ・バッティスタ・リッチ(ノヴァーラ、1537‐ローマ、1627)によって描かれたクーポラのフレスコ画「4福音書記者」


3
クーポラの装飾は19世紀に修復されたものです。


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クーポラ突端の「永遠なる父」は、グイド・レーニの作品ではなく、レーニに触発された逸名画家によって制作されました。


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主祭壇を見ます。


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主祭壇画は、グイド・レーニ(ボローニャ、1575‐1642)の「三位一体」(1625‐26)


4
外部サイトから拝借した作品画像


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ヤコブ・コルネリス・コバール(ベルギー、1535?‐ローマ、1615)の「聖マッテオと天使」


6


5
天井画(外部サイトから拝借した作品画像)


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ギョーム・コートイス通称イル・ボルゴニョーネ(フランス、1628‐ローマ、1679)の「幼きキリストを聖フィリッポ・ネリに差し出す聖母」


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バルダッサーレ・クローチェ(ボローニャ、1558‐ローマ、1628)の「煉獄で魂を介抱される教皇グレゴリオ1世」


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逸名彫刻家作「磔刑像」(18世紀)


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Cappella dei Santi Agostino e Francesco


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ジュゼッペ・チェーザリ通称カヴァリエール・ダルピーノ(アルピーノ、1568‐ローマ、1640)の「聖母子と聖アゴスティーノと聖フランチェスコ」


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ジョヴァンニ・バッティスタ・リッチ(ノヴァーラ、1537‐ローマ、1627)の「聖母子と聖ベネデットと聖ジュゼッペ」


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アントニオ・ビアンキ―ニ(ローマ、1803‐1884)の「聖母子と聖人たち」


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バルダッサーレ・クローチェ(ボローニャ、1558‐ローマ、1628)の「グレゴリオ1世」


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主祭壇前から見た出入口方向


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外に出る前に、もう一度主祭壇を見ました。


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グイド・レーニとカヴァリエール・ダルピーノの作品が秀逸です。


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外に出ました。


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(この項、おわり)

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Cappella dei Vignaroliの祭壇画です。
17世紀の逸名画家作「聖母子と聖ジョヴァンニ・バッティスタ」


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アントニオ・チルチニャーニ通称イル・ポマランチョ(ポマランチェ、1560‐ローマ、1620)の「カナの結婚」
通称がイル・ポマランチョと呼ばれた画家は3人いたので、通称だけではなく本名を併記しないと区別できません。


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アントニオ・チルチニャーニ通称イル・ポマランチョ(ポマランチェ、1560‐ローマ、1620)の「ラザロの蘇生」


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後陣左の礼拝堂


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中央礼拝堂(主祭壇)


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この主祭壇画が有名です。


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アントニアッツォ・ロマーノ(ローマ、1430c‐1508c)の「慰めの聖母」


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後陣天井の装飾


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中央礼拝堂左壁にある作品です。  
クリストフォロ・ロンカッリ通称イル・ポマランチョ(ポマランチェ、1552‐ローマ、1626)の「聖母被昇天」


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中央礼拝堂右側壁です。


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クリストフォロ・ロンカッリ通称イル・ポマランチョ(ポマランチェ、1552‐ローマ、1626)の「聖母の誕生」


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後陣右の礼拝堂


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「聖母のイコン」(13世紀)


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パオロ・ガッリナーロの「受胎告知」(2016)
パオロの宗教画は高く評価されているそうです。(事実ですが、私見ではホンマカイナ?)


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ジョヴァンニ・バリオーネ(ローマ、1566‐1643)の「貧者に施す聖パオロ」


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ジョヴァンニ・バリオーネ(ローマ、1566‐1643)の「聖母の神殿奉献」


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「最後の晩餐」だそうです。


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定型的で陳腐な宗教画を脱して、個性的で新しい宗教画の境地を開く傑作だそうです。うーん、そうですか。


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詳細不知


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右の礼拝堂に行きます。


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リヴィオ・アグレスティ通称イル・リッチゥチィーノ(フォルリ、1505‐ローマ、1579)の「聖母子と聖人たち」


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Cappella dei Pastori


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リヴィオ・アグレスティ通称イル・リッチゥチィーノ(フォルリ、1505‐ローマ、1579)の「聖母子」


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Cappella Mattei


3
フェデリーコ・ズッカリ(サンタンジェロ・イン・ヴァード、1539‐アンコーナ、1609)の「磔刑」


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フェデリーコ・ズッカリ(サンタンジェロ・イン・ヴァード、1539‐アンコーナ、1609)の「キリストの鞭打ち」


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フェデリーコ・ズッカリ(サンタンジェロ・イン・ヴァード、1539‐アンコーナ、1609)の「ピラトの前のキリスト」


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右側廊


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この礼拝堂は不知です。


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中央礼拝堂前から見た出入口方向です。


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外に出ます。


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教会設立の経緯を知らないと理解が難しい拝観になりそうです。


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(この項、おわり)


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今回はカンピテッリ地区にあるサンタ・マリア・デッラ・コンソラツィオーネ教会を取り上げます。


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ローマ市庁舎です。


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カンピドーリオ広場から崖下の道に下ります。


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モンテ・タルぺオ通りに下りると直ぐにサンタ・マリア・デッラ・コンソラツィオーネ教会の建物が見えます。


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アーチを潜ると、写真右は崖下になります。


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Rupe Tarpeo、タルペーイアの岩です。


1
タルぺーイアの岩は、共和制ローマ時代から1550年まで処刑場でした。


184
岩のことに触れているのは、教会の歴史と関係があるからです。
タルペーイアの岩の麓に教会があります。


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1385年、ローマ貴族ジョルダネッロ・デリ・アルベリーニは死刑判決を受け、タルペーイアの岩から突き落とされることになりました。
死刑に臨んで、ジョルダネッロは金貨2枚を払って、現在教会が建っている場所に聖母像を置いてもらい、生前の最後を慰めました。
また、当時、聖母像を置いてもらった場所に隣接して病院が建っていました。
15世紀中頃、死刑囚を慰めるためと病院に関係する人々のための信仰の場所として教会が建設されることになり、15世紀後半に工事着工、1506年に完成した慰めの聖母教会です。1470年に奉献されました。
病院とタルペーイアの岩と関係なさそうですが、精神を病んだ病人や回復の見込みがない重病人や伝染力が高い病気に罹患した病人も時に崖上から突き落とされたという忌まわしい事実があるのです。


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1505年、ローマの有力貴族のマッテイ家、コロンナ家、サンタクローチェ家、フランジパネ家によって慈善事業団体「Compagnia di Gentiluomini」が設立され、貧しい人々の救済と病院への資金援助を行いました。
その慈善事業団体は財政が豊かだったので、完成してから年月が経っていない教会の再建を決めました。建築家マルティーノ・ロンギ・イル・ヴェッキオ(ヴィッジ、1534‐ローマ、1591)に建設が委嘱され、マルティーノの設計、工事監督によって1583年から1606年にかけて、バロック様式の建物が再建されました。


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パスクゥアーレ・ベッリ(ローマ、1752‐1833)によって1827年に完成したファサードです。


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預言者イザヤとゼカリアの彫像


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ファサード前の階段は20世紀になって追加されました。
聖ルイージ・ゴンザーガは、教会に隣接する病院(現在は市役所となっています)でペスト患者を救済中に死んだのです。
財政的に豊かな教会だったので、制作費用が高い画家などに祭壇画などを注文した経緯から美術ファンにとっては嬉しい教会です。


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観光客はあまりいません。


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この教会に展示されるようになったのだ!
現代の宗教画が得意な画家パオロ・ガッリナーロです。


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中に入りました。


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三廊式、バロック様式の内部です。


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左右に5つづつの礼拝堂、主祭壇を含めて後陣に3つの礼拝堂があります。


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天井は地味です。


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後陣の装飾


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左側廊


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左側廊の礼拝堂から見て行きます。


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ラッファエッロ・ダ・モンテルーポ(モンテルーポ、1505‐オルヴィエート、1566)の「アレッサンドリアの聖カテリーナの神秘な結婚」(1530)


2
ルイージ・カッポーニ(ミラノ、1450c‐1506)の「磔刑」


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パオロ・ガッリナーロの作品を見るのは初めてですが、ビックリしました。


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「大天使聖ミケーレ」ですと!


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詳細不知


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詳細不知


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17世紀の逸名画家作「聖痕を受ける聖フランチェスコ」


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Cappella Sacchiのプレセピオ
「聖痕を受ける聖フランチェスコ」の下にあります。


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Cappella dei Carzoni degli Osti
祭壇画の下半分が切り取られてます。


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フランチェスコ・ナッピ(ミラノ、1565c‐ローマ、1630)の「聖母被昇天」(1620)


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フランチェスコ・ナッピ(ミラノ、1565c‐ローマ、1630)の天井フレスコ画


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フランチェスコ・ナッピ(ミラノ、1565c‐ローマ、1630)の「幼きキリストへの崇拝」


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Cappella dei Pescatori
逸名彫刻家作「この人を見よ」(17世紀)


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マルツィオ・ディ・コラントニオ・ガナッシーニ(ローマ、1560‐1623以降没)の「聖アンドレア」


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マッティア・プレティ(タベルナ、1613‐マルタ、ヴァレッタ、1699)の「聖アンドレアの殉教」


P2220169
マルツィオ・ディ・コラントニオ・ガナッシーニ(ローマ、1560‐1623以降没)の「聖ピエトロの逆さ磔」
(つづく)

010
ナツィオナーレ通りです。


494
通りに面して建っているサン・ヴィターレ聖堂です。


496
ナツィオナーレ通りよりも低い場所に建ってます。長年に渡る土砂の堆積に拠るのか、初期キリスト教会を前身とする教会は現在の地表の高さよりも低い場所に建っていると思います。


011
正式名称は、Basilica dei Santi Vitale e Compagni Martiri in Foveaとなってます。
4世紀、現在聖堂がある場所に聖ヴィターレの二人の息子聖ゲルヴァシオと聖プロタシオに捧げる礼拝堂が建設されましたが、その礼拝堂が前身です。
4世紀後半、礼拝堂は取り壊され、三身廊のバジリカが再建され、402年、第40代教皇インノチェンツォ1世(在位:401‐417)によって奉献式が執り行われました。


495
三身廊のバジリカ様式の二代目の建物は、8世紀終わりから9世紀初めにかけてと中世の時代(具体的な世紀は不明)に修復されました。
1475年、第212代教皇シスト4世(在位:1471‐1484)によって再建され、更に1595年、第231代教皇クレメンテ8世(在位:1592‐1602)によって再建されました。修復、再建を繰り返しましたが、二代目の建物の基本部分の一部は今も留めているそうです。
1859年、第255代教皇ピウス9世(在位:1846‐1878)によって、道路から聖堂に下りる階段が追加されると共に内部が大修復されました。
1937年から1938年にかけて入り口などが修復されましたが、現在の姿は、この修復後のものです。


012
ファサードの柱廊


013
柱廊の出入り口


497
初期キリスト教時代の柱廊が今でも残ってます。


504
柱廊から見た階段


498
17世紀に制作された木彫りの扉


499
柱廊の柱の柱頭


014
この部分は古い造りです。


015
聖堂内に入ります。


049
バジリカ様式風ですが、何処となく新しい感じがします。


050


016
後陣の構造は初期キリスト教会風で、当初はモザイクがあったと思われます。


023
1859年に1595年の再建時の姿に復元された内部です。


022
木の床は1934年のものです。


503
木の天井も1934年のものです。


036
主祭壇と後陣


500
後陣にはモザイクがあったと思います。


039
後陣のフレスコ画は、アゴスティーノ・チャンペリ(フィレンツェ、1565‐ローマ、1630)の「聖ヴィターレの殉教」


035
タルクイニオ・リグスティ(ヴィテルボ、1564‐1621)とアンドレア・コモディ(フィレンツェ、1560‐1638)によって描かれたフレスコ画


037
タルクイニオ・リグスティ(ヴィテルボ、1564‐1621)とアントニオ・コモディ(フィレンツェ、1560‐1638)のフレスコ画


043
アゴスティーノ・チャンペリ(フィレンツェ、1565‐ローマ、1630)のフレスコ画


045
アゴスティーノ・チャンペッリ(フィレンツェ、1565‐ローマ、1630)のフレスコ画


046
タルクイニオ・リグスティ(ヴィテルボ、1564‐1621)のフレスコ画


047
タルクイニオ・リグスティ(ヴィテルボ、1564‐1621)のフレスコ画


048
不知の紋章
祭壇画を見て行きます。


018
ジョヴァンニ・バッティスタ・フィアッメーリ(フィレンツェ、1530‐ローマ、1606)の「聖人たちの告解」


501



020
アンドレア・コモディ(フィレンツェ、1560‐1638)のフレスコ画


021
タルクイニオ・リグスティ(ヴィテルボ、1564‐1621)のフレスコ画


026
ジョヴァンニ・バッティスタ・フィアッメーリ(フィレンツェ、1530‐ローマ、1606)の「殉教聖女たち」


502


028
タルクイニオ・リグスティ(ヴィテルボ、1564‐1621)のフレスコ画


029
タルクイニオ・リグスティ(ヴィテルボ、1564‐1621)のフレスコ画


031
ジョヴァンニ・バッティスタ・フィアッメーリ(フィレンツェ、1530‐ローマ、1606)の「無原罪の聖母」


032
礼拝堂の祭壇


033
タルクイニオ・リグスティ(ヴィテルボ、1564‐1621)のフレスコ画


034
主祭壇と後陣をもう一度見てから外に出ました。


055
(この項、おわり)

051
サン・ベルナルド広場にやってきました。
写真左がサンタ・マリア・デッラ・ヴィットリア広場、写真右がモーゼの噴水です。


242
写真左がサンタ・スザンナ聖堂、右がサンタ・マリア・デッラ・ヴィットリア教会になります。



243
ドメニコ・フォンターナ(スイス、メリデ、1543‐ナポリ、1607)の「モーゼの噴水」(1587)


033
折角来たので、素通りしないで噴水を見ます。


034
巨大なモーゼ像


035
ライオン像を見ながら教会へと進みました。


036
9月20日通りに面して建っているサンタ・マリア・デッラ・ヴィットリア教会です。
1605年、カルメル会がこの場所に教会を新設することを決め、建築家カルロ・マデルノ(カポラーゴ、1556‐ローマ、1629)に設計と建築工事を委嘱して、1608年から1620年に建設されたバロック様式の教会です。当初、聖パオロに捧げる教会で、サン・パオロ教会と呼称されていました。1620年時点では、ファサードは工事着工されていませんでした。
カルロ・マデルノが起用された理由ですが、道を挟んで隣接するサンタ・スザンナ聖堂のファサードをカルロが1597年から1603年にかけて改修したからだという説があります。


037
30年戦争における白山の戦いで、敗色濃厚だったカトリック教徒でしたが、皇帝軍総司令官が首にかけていた「キリストを崇拝する聖母」像が敵を幻惑させる鮮やかな光線が出て、勝利したという伝説から、1622年に改称され、勝利を導いた聖母に奉献する教会になったのです。


241
ファサードは、建築家ジョヴァンニ・バッティスタ・ソリア(ローマ、1581‐1651)の設計によって、1624年から1626年にかけて建設されました。
隣接するサンタ・スザンナ聖堂のファサードから強い影響を受けていると言われてます。


213
ファサードの建設費用を負担したのは、美術品収集で有名なシピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿(アルテーナ、1577‐ローマ、1633)でした。
この教会の建設工事中に古代の大理石彫刻が出土したのですが、それが欲しくなったボルゲーゼ枢機卿はカルメル会と交渉して、大理石彫刻と引き換えにファサードの資金負担をするという条件を出したのです。条件が受け入れられ、ボルゲーゼ家お抱えの建築家ソリアが起用されたという訳です。
ファサードの建築費用は相当高額だった筈ですから驚きです。


038
教会扉横にいる物乞いの縄張りが凄いと聞いたことがあります。


049
最近、観光客に大人気のようで、何時も混雑しています。


039
中に入りました。


217
単廊式、バロック様式の内部です。


041
主祭壇


240
カトリックの優位性を示すために造られた豪華な祭壇です。


220
後陣のフレスコ画ですが、教会内部は1833年の火災によって被害を受けたので、19世紀後半に改めて描かれました。
ルイージ・セッラ(ボローニャ、1846‐1888)の「白山の戦いで勝利したカトリック軍のプラハ入城」(1885)


215
天井のフレスコ画です。
ジョヴァンニ・ドメニコ・チェッリ―ニ(ペルージャ、1609‐ローマ、1681)の「聖母の勝利とプロテスタントの追放」(1675)


244
ジョヴァンニ・ドメニコ・チェッリ―ニ(ペルージャ、1609‐ローマ、1681)の「地獄に追放されるプロテスタント」(1675)


046
クーポラのフレスコ画は、ジョヴァンニ・ドメニコ・チェッリ―ニ(ペルージャ、1609‐ローマ、1681)の「駄天使の落下」(1654‐55)


225
Cappella Cornaro


040
この彫刻だけでも見る価値があります。


218
ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ(ナポリ、1598‐ローマ、1680)の「聖テレーザの法悦」(1651)


245
ベルニーニの最盛期の作品の一つです。傑作です。


214
ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ(ナポリ、1598‐ローマ、1680)の「Parchetti」(1644‐52)


226
Cappella di San Giuseppe
この彫刻をベルニーニの作品と間違える人が多いとか・・・・・


228
ドメニコ・グイディ(とラーノ、1625‐ローマ、1701)の「聖ジュゼッペの夢」


239
見所が多いので目移りしてしまいます。


224
詳細不知


221
オルガン


246
祭壇画を見て回ります。


229
ジョヴァンニ・フランチェスコ・バルビエーリ通称グエルチーノ(チェント、1591‐ボローニャ、1666)の「三位一体」(1642c)


233
グイド・レーニの作品です。


234
グイド・レーニ(ボローニャ、1575‐1642)の「ベルリンギエロ・ゲッシ枢機卿の肖像」(1641)


048
ドメニキーノの作品です。


227
ドメニコ・ザンピエーリ通称ドメニキーノ(ボローニャ、1581‐ナポリ、1641)の「聖母子と聖フランチェスコ」(1630)


230
ドメニコ・ザンピエーリ通称ドメニキーノ(ボローニャ、1581‐ナポリ、1641)の「光悦の聖フランチェスコ」(1630)


231
ドメニコ・ザンピエーリ通称ドメニキーノ(ボローニャ、1581‐ナポリ、1641)の「聖痕を受ける聖フランチェスコ」(1630)


232
ヘラルト・ファン・ホントホルスト(ゲラルド・デッレ・ノッティ)(ユトレヒト、1592‐1656)の「聖パオロの恍惚」(1620)


236
ニコラス・ロライン(シャルマーニュ、1600‐ローマ、1682)の「クローチェの聖ジョヴァンニに顕現するキリスト」(1667c)


237
ニコラス・ロライン(シャルマーニュ、1600‐ローマ、1682)の「クローチェの聖ジョヴァンニの魂を救う聖母」(1667)


238
ニコラス・ロライン(シャルマーニュ、1600‐ローマ、1682)の「クローチェの聖ジョヴァンニの死」(1667)


053
外に出ました。
(この項、おわり)

097
サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂からサンタ・プデンツィアーナ聖堂に向かいました。


100
大聖堂と聖堂は直線距離で約300mくらいなので、徒歩5分ほどで行けます。


101
鐘楼が見えてきましたが、目指すサンタ・プデンツィアーナ聖堂のものです。


102
道路よりも低い場所に聖堂が建ってます。


103
ローマの教会巡り17でサンタ・プラッセ―デ聖堂を取り上げましたが、この聖堂が献堂する聖プデンツィアーナと先に取り上げた聖プラッセ―デは姉妹で、聖プラッセ―デが姉、聖プデンツィアーナは妹と言われてます。
フィリピン人の国立教会となってます。


266
プデンテ元老院議員(聖プデンテ)(ローマ、1世紀‐2世紀)は、現在、この聖堂が建っている場所にドムスを所有していましたが、キリスト教に改宗するとドムス内の目立たぬ場所に教会を建設しました。キリスト教が禁じられていた時代なので、知れは仕方がなかったと思います。
2世紀、伝説に拠れば、プデンテ議員の娘プラッセ―デとプデンツィアーナは、聖ピエトロによって洗礼を受け、キリスト教に改宗しました。


280
マルクス・アウレリウス帝とアントニウス・ピウス帝から出されたキリスト教禁止令に背いて、姉妹は殉教しました。
4世紀頃、聖プデンテのドムスだった場所に建設されたのが、この聖堂です。ローマで最古の初期キリスト教会の一つとされてます。


104
創建された時期ですが、5世紀説など数説あって、起源と創建年について、今なお議論されているようです。


107
4世紀頃、または5世紀頃に創建された建物が、現在の建物の基本構造になってますが、その後に行われた改修や修復によって、外観と聖堂内部は創建時のものとは大きく異なります。
聖堂外観はかなりアンバランスに見えます。ファサードは一見古そうですが、よく見ると新しいものであることが分かります。
現在の外観は、1588年に大きく改修され、1870年に修復復元されたものです。


268
聖プラッセ―デの彫刻


105
ファサードのフレスコ画は色褪せて落剝も認められますが、長年、太陽と風雨にさらされた結果です。実は、ピエトロ・ガリアルディ(ローマ、1809‐フラスカーティ、1890)によって19世紀に修復されたものです。修復と言っても修復前には、フレスコ画の痕跡があるだけだったので、ガリアルディの作品と言っても過言ではないでしょう。


106
彫刻は、11世紀のもので、19世紀に修復されました。


269
ロマネスク様式の鐘楼は13世紀に建設されました。


113
中に入りました。


270
単廊式、バロック様式の聖堂内部です。
元々は三身廊、バジリカ様式の内部でしたが、1588年、柱廊を取り除き、聖歌隊席を撤去し、柱を増加させて強度を増加するために改造したのです。


114
祭壇画を見て行きました。
ジョヴァンニ・パオロ・ロッセッティ(1519‐1586)の「殉教者を悼む聖プデンツィアーナと聖プラッセ―デ」


115
ローマの逸名画家作「聖プデンテを洗礼する聖ピエトロ」(17世紀)


116
アントニオ・タナーリ(ローマ、17世紀中頃活動)の「シエナの聖カテリーナ」


117
アントニオ・タナーリ(ローマ、17世紀中頃活動)の「シエナの聖カテリーナ」


118
制作者情報不知の「大天使ラッファエーレとトビアス」


119
礼拝堂の名称が分かりません。


271
ローマの逸名画家作「クレメンツァの聖母」(1590c)


120
ラッザロ・バルディ(ピストイア、1624c‐ローマ、1703)の「聖母の誕生」


272


133
ラッザロ・バルディ(ピストイア、1624c‐ローマ、1703)の「ご誕生」


273



121
後陣と主祭壇


122
後陣のモザイク(390c)
ローマで最古のモザイクと言われてます。


127
修復の際、修復されなかった聖人の下半身がありません。


274


275
左の女性が聖プデンツィアーナです。


276
聖プラッセ―デ


124
主祭壇後方の3点の作品は、ベルナルディーノ・ノッキ(ルッカ、1741‐ローマ、1812)によって、1807年に制作されました。
左から、「聖ティモテウス」、「聖プデンツィアーナの栄光」、「聖ノヴァトゥス」


123
ニッコロ・チルチニャーニ通称イル・ポマランチョ(ポマランチェ、1530c‐1597c)の後陣フレスコ画


126


130
詳細不知


131
詳細不知


277


278


128
ピエタのモザイク


125
Cappella Caetani


129


112
外に出ました。


135
(この項、おわり)

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