イタリア芸術を楽しむ

イタリアの魅力を味わい尽くすには、一生に何度旅をすれば足りるだろう。芸術の宝庫にして、歴史の生きた証であるイタリア。 惹き付けて止まない絵画、彫刻、歴史的建造物、オペラなど、芸術の宝庫であるイタリアを楽しむブログです。 記事は一日に一つアップしています。記事の見方ですが、例えば「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その4)」は2017年10月20日にアップしました。各記事にカレンダーが表示されてますが、カレンダー上の2017年10月21日をクリックして頂ければ「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その5)」になります。(その3)は2017年10月20日となります。 BY:シニョレッリ

2021年04月

458
次の部屋です。


459
Sala dell' Eneideです。


392
絵画が展示されてます。


386
天井のフレスコ画を見ます。


387
フレスコ画のテーマは「バッカスとアリアドネの結婚」です。


388
制作したのは、ミケランジェロ・リッチョリーニ(ローマ、1654-フラスカーティ、1715)とその息子ニッコロ・リッチョリーニ(ローマ、1687-1772)の二人です。1700年から1710年頃に制作されたフレスコ画です。


389


390


464
細部を見ます。


465
メルクリオ


466


467
クロノス


468
ジュピターとユピテル


469
ガニメデ


470
バッカスの法廷と巫女


471


472
へーべー(ゼウスとエラの娘)


473
ファーマ


474
サティーロたちと巫女


475


476


477


478


479
天井のフレスコ画を終わります。


393
壁に展示されている作品を見ます。


363
ジョヴァンニ・ジョゼッフォ・ダル・ソーレ(ボローニャ、1654-1719)の「エネアとアスカニオの邂逅」


480


366
マルカントニオ・フランチェスキーニ(ボローニャ、1648-1729)の「メルクリオとエネア」


481



368
ニッコロ・リッチョリーニ(ローマ、1687-1772)の「プットたち」


482



370
グレゴリオ・ラッザリーニ(ヴェネツィア、1657-バディア・ポレージネ、1730)の「ディドーネ(Tiroの王女)の死」


483


372
ニッコロ・リッチョリーニ(ローマ、1687-1772)の「プットたち」


484


374
グレゴリオ・ラッザリーニ(ヴェネツィア、1657-バディア・ポレージネ、1730)の「エネアのメセンツィオの戦い」


485



375
ジョヴァンニ・ジョルジの「トロイからのエネアの逃亡」


486


377
アントニオ・バレストラ(ヴェローナ、1666-1740)の「エネアとアカーテ(エネアの親友)とヴィーナス」


493
(つづく)

323
ドン・ミンツォーニ通りに面して建つブオナッコルシ宮です。


324
ブオナッコルシ宮が建っている場所は、中世の頃の城壁間近の城壁内でした。


454
1652年、ブオナッコルシ家はマチェラータの有力者として公式に認められましたが、1701年、当時の同家当主シモーネ・ブオナッコルシ(?、?-マチェラータ、1708)は、第243代教皇クレメンテ11世(ウルビーノ、1649-ローマ、1721 教皇在位:1700-1721)から伯爵に叙せられました。シモーネは、伯爵として相応しい住居を建設することにしたのです。


325
シモーネは、ベルニーニの弟子ジョヴァン・バッティスタ・コンティ―ニ(ローマ、1642-1723)に対して、この場所にあった古い家を合体させた新しい住居の建設を注文して、1718年に完成したのがブオナッコルシ宮です。シモーネは、新しい住居の完成を見ずに没してしまいましたが、住居建設はシモーネの子供たちに引き継がれ、無事に完成を迎えました。


326
ブオナッコルシ宮は市立博物館として一般公開されてます。


327
毎週月曜日が休館日となってます。
1967年、パラッツォの維持管理に費用が掛かり、家族が使用するには広大過ぎたので、ブオナッコルシ家は、パラッツォを市当局に売却しました。
マチェラータ市は、宮殿の修復後、美術アカデミーの本拠地として使用を開始して、それが1997年まで続きました。
現在は、馬事博物館と古代と現代美術品を展示する市立博物館として一般公開されてます。


328
先ず中庭に向かいます。


329
中庭とそれに続く建物は、1718年にルドヴィーコ・グレゴリーニ(ローマ、1661-1723)によって建設されました。


330
中庭の彫刻は、ジョヴァンニ・ボナッツァ(ヴェネツィア、1654-パドヴァ、1736)の作品です。


331


332
中庭から見たパラッツォです。


333


334
植木鉢は、アントニオ・ベルッチ(ピエーヴェ・ディ・ソリーゴ、1654-1726)の作品です。


455
博物館に入館します。


335
最初は馬事博物館です。


336
馬事博物館というと、まず頭に浮かぶのはピアチェンツァ・ファルネーゼ宮のピアチェンツァ市立美術館でしょう。


337


338


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340


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343


344


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346


347


348


349


350
詳細不明です。
パラッツォ内の各部屋の装飾やフレスコ画を見て行きます。


456
バロック調、ロココ調の部屋の装飾が続きます。部屋によって装飾のトーンが異なります。


351
天井の装飾です。


352
華美なスタッコ彫刻


353
フレスコによる装飾


356
カルロ・アントニオ・ランバルディ(ボローニャ、1680-1717)の「聖ドメニコと聖フランチェスコ」(1716)


462


463
逸名彫刻家作「聖母子」(17世紀)


357
天井のフレスコ画「永遠の父なる神」


461


457
次の部屋です。


358
天井の装飾


359
(つづく)

321
サン・ヴィンチェンツォ・マリア・ストランビ広場に面して、ドゥオーモと共に建っているのがサンタ・マリア・デッラ・ミゼリコルディア聖堂です。


320
10世紀頃、既に、この地に聖母信仰の小さな祠がありました。後世に造られた、その祠が聖堂横にあります。


145
これが祠です。壁の横に「慈悲の聖母」のテラコッタがあります。


146
慈悲の聖母のテラコッタ


318
15世紀中頃、マチェラータを荒廃させたペスト禍の平癒を願う市の投票が行われ、教会の建設が決まり、祠があった場所に1447年に小さな教会が建設されましたが、それが前身です。
しかし、最初の建物は小さ過ぎたので、1497年に拡大再建されました。


319
18世紀になると、1497年に再建された建物は老朽化が顕著となったので、それを取り壊し、その上に新しい建物が再建されることになりました。そうして、建築家ルイージ・ヴァンヴィテッリ(ナポリ、1700-カゼルタ、1773)に建設が委嘱され、ルイージの設計によって1736年から1741年に建設された建物が現在の姿の原形となってます。


230
1799年7月、イタリアに侵攻してきたフランス軍兵士によって、教会にあった宝物が略奪されるとともに、機関銃で建物、彫刻などが破壊されるなど大きな被害を受けました。その後、大修復工事が行われました。


138
現在のファサードは、ジュゼッペ・ロッシ(フェルモ、1851-マチェラータ、1933)の設計によって1893年に改築されたものです。


143


231
聖堂内に入りました。


256
祭壇画の「慈悲の聖母」が違うようです。この時は、どうも複製画が入っていた?


287
お分かりになりますか?


288
これが本物、従来の祭壇画です。
16世紀の逸名画家の作品です。


232
主祭壇の左右の壁に、それぞれ2枚の楕円形の作品があります。全部で4点ありますが、全てフランチェスコ・マンチーニ(サンタンジェロ・イン・ヴァード、1679-ローマ、1758)によって、1735年頃に制作されました。
これは受胎告知です。


289
フランチェスコ・マンチーニ(サンタンジェロ・イン・ヴァード、1679-ローマ、1758)の「受胎告知」(1735c)


233
聖母の神殿奉献


290
フランチェスコ・マンチーニ(サンタンジェロ・イン・ヴァード、1679-ローマ、1758)の「聖母の神殿奉献」(1735c)


237
ご訪問


291
フランチェスコ・マンチーニ(サンタンジェロ・イン・ヴァード、1679-ローマ、1758)の「ご訪問」(1735c)


238
キリストの神殿奉献


292
フランチェスコ・マンチーニ(サンタンジェロ・イン・ヴァード、1679-ローマ、1758)の「キリストの神殿奉献」(1735c)


234
天井のフレスコ画もフランチェスコ・マンチーニによって制作されました。


293
フランチェスコ・マンチーニ(サンタンジェロ・イン・ヴァード、1679-ローマ、1758)の聖母被昇天」


259
左右の側壁上部にセバスティアーノ・コンカの作品があります。
こちらは聖母の誕生です。


294
セバスティアーノ・コンカ(ガエータ、1680-ナポリ、1764)の「聖母の誕生」(1741)


258
こちらは無原罪の御宿リです。


295
セバスティアーノ・コンカ(ガエータ、1680-ナポリ、1764)の「無原罪の御宿リ」(1741)


296
クーポラ


243
祭壇横に通路があり、進めるようになってます。


244
クリプタのように見えますが、主祭壇と同じフロア、同じ高さにあります。


245
こちらの方が主祭壇よりも大きい。


246
しかし、祭壇には行けないようになっていました。


247
主祭壇裏の礼拝堂のステンドグラス


248


249
さらに先に行くことが出来ます。側壁に絵画があります。


250
磔刑


251
一周して主祭壇に戻るようになっていました。


252
主祭壇に戻ってきました。


253
見所は、フランチェスコ・マンチーニとセバスティアーノ・コンカの作品でしょう。


136
外に出ました。


322
次はMuseo Civicoです。
(つづく)

144
旧市街東端にあるストランビ広場です。広場に面してサンタ・マリア・デッラ・ミゼリコルディア聖堂(写真左)とドゥオーモが建ってます。


198
マチェラータのドゥオーモ、サン・ジュリアーノ大聖堂です。
マチェラータ₌トレンティーノ₌レカナーティ₌チンゴリ₌トレイア合区司教区の司教座が置かれてます。


199
現在、ドゥオーモが建っている場所に、10世紀末に創建され、1022年に完成したロマネスク様式の小さなサン・ジュリアーノ教会が前身です。


314
翌日は快晴になりましたが、快晴の日に撮った写真です。


316
11世紀には教区教会となり、1320年に司教座教会に格上げされました。
ロマネスク様式の最初の建物は、司教座教会としては手狭だったので、再建されることになりました。
14世紀にゴシック様式の二代目の建物が再建されました。1459年から1464年にルネサンス様式に改造されました。1478年に鐘楼が完成しましたが、それを以って二代目の建物が完成しました。


279
16世紀、17世紀、18世紀に起きた地震によって建物が徐々に劣化したので、18世紀に三代目となる建物が建設されることになり、建築家コジモ・モレッリ(イーモラ、1732-1812)の設計によって1771年から1790年に完成した新古典様式の建物が現在の姿です。
資金難のため、ファサードは未完成のまま現在に至ってます。


317
ヴェネツィア出身の建築家マリーノ・ディ・マルコ・チェドリーノ別称マリーノ・チェドリーニの設計によって1467年から1478年に建設された鐘楼は、二代目の建物のもので、現在もそのまま使用されてます。
なお、マリーノは、リミニ出身の建築家マルコ・チェリーノの弟子でした。


394
聖堂内に入りました。


419
三廊式、ラテン十字形、新古典様式の内部です。


203
コリント式円柱が印象に残ります。


418
左右の側廊に5つづつの礼拝堂が設けられてます。


282
中央通路


421
天井フレスコ装飾は、チーロ・パヴィーザ(モンバロッチョ、1890-ペーザロ、1972)によるものです。


413
チーロ・パヴィーザの前にはカヴァリエール・ダルピーノのフレスコ画があったという説があります。


422
クーポラとPresbiterioにもフレスコ画があります。


412
チーロ・パヴィーザ(モンバロッチョ、1890-ペーザロ、1972)の「聖母被昇天」(1924-37)


211
クーポラのフレスコ画は、シルヴィオ・ガリンベルティ(ローマ、1869-1956)の「神学的美徳と宗教の人格化」(1938)
礼拝堂の祭壇画を見て回ります。


395
ジョヴァンニ・バリオーネ(ローマ、1566-1643)の「天国のカギを聖ピエトロに託すキリスト」


396
アンドレア・ボスコーリ(フィレンツェ、1560-1607)の「天上の聖母子と聖アンドレアと聖セバスティアーノ」


397
二番目の建物にあった作品です。


281
外部サイトから拝借した鮮明な作品画像


401
ヴィンチェンツォ・マルティーニの「聖カルロ・ボッロメオ」(1790)


403
ジョヴァンニ・バッティスタ・カランドラ(ヴェルチェッリ、1568-ローマ、1644)の「大天使聖ミケーレのモザイク」(1628)


219
大天使聖ミケーレのモザイクは、ヴァティカンのサン・ピエトロ大聖堂にありましたが、1771年にマチェラータに寄贈されたものです。


405
16世紀の逸名画家作「天上の聖母子と聖ジュリアーノとパドヴァの聖アントニオ」


212


213
アレグレット・ヌーツィ・ダ・ファブリアーノ(ファブリアーノ、1315c-1373)の「玉座の聖母子と聖ジュリアーノと聖アントニオ・アバーテ」(1369)


280
ドゥオーモの祭壇画の中では、最高の傑作と思います。


285
トリッティコの中央パネル


284
聖アントニオ・アバーテ


286
聖ジュリアーノ


409
フィリッポ・ベッリーニ(ウルビーノ、1550-マチェラータ、1604)の「最後の晩餐」(1604)


410
フィリッポ・ベッリーニ(ウルビーノ、1550-マチェラータ、1604)の「エマオの晩餐」(1602)


411
クリストフォロ・ウンターベルガー(カヴァレーゼ、1732-ローマ、1798)の「聖母子にマチェラータの守護を祈願する聖ジュリアーノ」(1786)


414
18世紀の逸名画家作「無原罪の御宿リ」


206
ピエトロ・テデスキ(ペーザロ、1750?-ローマ、1808以降没)の「三位一体と聖ベルナルディーノとサレスの聖フランチェスコ」


210
チーロ・パヴィーザの作品


229
左側廊


228
右側廊


200
もう一度聖堂内を見てから外に出ました。
(つづく)(ドゥオーモは終わりです)

157
城壁に向こうにサン・ミケーレ教会が見えました。


161
平日に開かないサン・ミケーレ教会なので、近付くのを止めました。


162
小雨模様で寒いので、城壁外を早々に切り上げます。


163
城壁内に戻りました。


164
幸いにも雨が止みました。


165
アントニオ・グラムシ通りです。


166
ジョヴァンニ・マリア・クレシンベーニ通りです。


168
Palazzo Floriani Carradoriです。


170
サン・セヴェリーノ・マルケの大商人アレッサンドロ・フロリア―ニが1531年から1539年に建設した邸宅です。


169
ペッレグリーノ・ペッレグリーニ通称ペッレグリーノ・ティバルディ(ヴァルソルダ1527-ミラノ、1596)が設計したとされてます。
若し、そうだとすれば、創建年とされている1531年には、ペッレグリーノ・ティバルディは僅か4歳であり、完成した1539年には12歳ですから、何となく辻褄が合わない気がします。


171
1640年に改装され、18世紀後半に現在の姿に改造されました。


172
1811年、フロリア―ニ家がこの邸宅を売却しました。その後、所有者が三度変わりました。


173
20世紀初め、Palazzo Floriani Carradoriを解体して、現在、建っている場所に郵便局を新築する計画が出されました。
1913年、郵便局は他の場所に建設されることになり、解体案が放棄されました。その後、大掛かりな修復作業が行われました。


174
ここは街の西に当たります。


175
道を下って、西側の城壁に向かいました。


176旧市街の西側の入り口モンターナ門を目指しました。


177
コンベット通りです。


178
人通りがなく静寂に包まれていました。


179
モンターナ門です。


180
モンターナ門の前に学校があります。


181
モンターナ門を潜って城壁外に出ました。城壁外から見たモンターナ門です。


182
モンターナ門は、コンベット門とも呼ばれてます。門が築かれた当初は、Porta di Santa Maddalenaと名付けられていました。


183
モンターナ門付近は城壁が残されてます。


184
城壁と一体化した建物が建ち並んでます。


185
城壁沿いのトリエステ通りです。


186
トリエステ通りから見えた景観です。


187
教会の建物です。


189
展示場となっている教会だった建物のようです。


188
旧教会の名称が分かりません。


190
遠くサンティッシモ・サクラメント参事会教会が見えました。


191
再び城壁内に戻りました。


192
サン・フィリッポ教会の扉が開く時間です。


193
扉が開いてました。中に入ると、葬儀の準備中でした。葬儀を邪魔するわけにはいかないので、拝観は後程。


194
次はMuseo Civicoです。


266
マッツィーニ広場に来てしまいました。どうやら道を間違えたようです。


265
市立美術館はドゥオーモの手前にあります。


264
適当に見当を付けて歩いても大丈夫と楽観視してました。


263
道を下ります。


195
ガックリ、何故か扉が閉まっています。


197
18世紀初めに建設されたPalazzo Buonaccorsiです。


196
翌日には必ず開館することが分かったので、一安心でした。
(つづく)

109
雨が強くなってきたので、柱廊で雨宿り。しかし、幸いにも直ぐに小降りになりました。


108
サン・フィリッポ教会です。


110
ファサードは未完成で、粗壁のままになってます。


115
サン・フィリッポ教会の拝観は後程。


114
観光案内所で、この街で平日に開く教会は3つと確認しましたが、サン・フィリッポ教会はそのうちの一つです。


112
振り返るとサン・ジョヴァンニ参事会教会が見えました。


111
Corso della Repubblica


113
サン・フィリッポ教会の左側の側壁を通り過ぎ、共和国大通りを進みます。


116
写真右は県庁舎です。


117
Palazzo degli Studiです。


118
この建物は2つの通りに面して建ってます。


119
Vicolo della Rota


120
Corso della Repubblica


121
観光案内所で入手出来る地図は大変詳しいもので、街歩きに大いに役立ちます。


122
裏通りを進みます。


123
次はマチェラータ大学です。


124
マチェラータ大学の学舎は、市内数か所に分散してますが、これから行くのは、そのオリジナルとされている学舎です。


125
マチェラータ大学です。


127
マチェラータ大学は、ヨーロッパで最古の大学の一つで、1290年に遡ります。


126
学舎のロッジャに入りました。


128


129


130
ロッジャから外に出ます。


131
外に出ると旧サン・パオロ修道院の建物が聳えてます。


132
次はドゥオーモですが、この時間は閉まってます。通りの突き当りにに姿を現している建物がドゥオーモです。


134
通りの両端に古い建物が建ち並んでます。


135
ドゥオーモです。この時間は昼休みなので、後で拝観します。


136
ドゥオーモと同じ広場に面して建つサンタ・マリア・デッラ・ミゼリコルディア教会です。この街で平日に開く教会3つのうちの一つです。あとで拝観します。


141
Palazzo Buonaccorsi


147
司教館の入り口です。


148
城壁に向かいます。


149
道を下ります。この辺は街の東端に当たります。


151
サン・ジュリアーノ門です。


152
門は閉鎖されて使用されてません。城壁が取り壊され、車通行のため道路が造られました。


156
城壁外に出ました。


153
城壁を出た所に街の案内板があります。


150
城壁が取り囲む旧市街は高台にあります。


154
天気が良ければ、景観が楽しめます。


155
風が少しあって寒さが気になりました。


158


159
(つづく)

048
県庁舎 Palazzo del Covernoです。


050
Palazzo del Covernoはリベルタ広場の北側にあります。


051
13世紀終わりに建設されたプリオリ宮とポデスタ宮の2つの建物を15世紀終わりに統合させて一つの建物にしたものです。


049
15世紀終わりに出来たPalazzo del Covernoは、教皇庁の住居として使用され、枢機卿が住んでいました。20世紀から県庁舎になってます。


069
アントニオ・グラムシ通りです。


070
20世紀前半に建設された、ネオ・ルネサンス様式のPalazzo degli Studiです。


072
この場所には古い修道院がありましたが、それが取り壊されて新たに建設されました。


071
建設の目的は、県内学校の本拠地でしたが、第二次世界大戦後県庁舎になり、一部は県知事公邸になっているようです。


073
Palazzo De Vicoです。


074
地元出身の著名な法学者マッテオ・デ・ヴィーコが16世紀初めに建設しました。1795年に現在の姿に改造されました。


075
この近辺では新しい建物です。


076
チェーザレ・バッティスティ広場です。


077
塔のような建物です。


078
16世紀に建設されたCasa Ulissiです。


079
Play Boyの建物?(入り口扉に書いてありました)


080
狭い通りの建物を丹念に見て歩きました。


081
ジャコモ・マッテオッティ通りの柱廊です。


082
ディアマンティ宮です。フェッラーラの国立絵画館となっているディアマンティ宮にそっくりです。


083
フェッラーラのシジスモンド・デステ侯爵(フェッラーラ、1433-ローマ、1507)(ニッコロ3世・デステ公爵の息子)が、フェッラーラのディアマンティ宮をモデルにして、1493年から1503年に建設させました。


084
ディアマンティ宮の中に入ってみました。


085


086
何の紋章でしょうか?


087
ディアマンティ宮は売りに出されて、5つ星ホテルになるという話がありましたが、コロナ禍の影響で、その計画は進んでいないようです。


088
小道のアーチを潜ります。


089
壁に書かれた数字は番地のようです?


090
Palazzo Costaです。


092
地元の貴族ベネデット・コスタが1754年に建設したPalazzo Costaです。


091
新古典様式のファサードのPalazzo Costaです。


093
16世紀中頃に建設されたPalazzo Ciccoliniです。


094
Palazzo Ciccoliniの設計者は、ペッレグリーノ・ペッレグリーニ通称ペッレグリーノ・ティバルディ(ヴァルソルダ、1527-ミラノ、1596)に帰属すると言われてます。


096
グリエルモ・オベルダ広場です。写真右の建物はPalazzo Ciccoliniです。


095
郵便局の建物です。


100
絵画館があります。


098
絵画館が置かれているPalazzo Ricciです。


099
この場所に16世紀後半に建設されたリッチ家邸宅がありましたが、アントニオ・リッチ侯爵が1764年から1772年に再建した建物が現在の姿です。


097
19世紀の絵画作品を展示する絵画館となってます。


102
ヴィットリオ・ヴェネト広場に面して建つサン・ジョヴァンニ参事会教会です。


103
1625年、イエズス会によって建設されたバロック様式の教会です。


107
ファサードにイエズス会の紋章があります。


106
2016年の地震によって大きな被害を受け、立ち入りが危険と判断され閉鎖中です。


101
修復工事が2021年完了とされてますが、工事が遅れ気味なので、どうでしょうか?


104
ヴィットリ・ヴェネト広場です。


105
(つづく)

026
普通列車に乗車してマチェラータ駅に向かいます。
コロナ禍プラス体調のせいで、大好きなイタリアとご無沙汰が続いてますが、このところ急速にイタリア熱が冷めているのを実感してます。


008
マチェラータ駅に到着しました。


275
マチェラータは、人口41,010人(2020年4月30日現在)のマルケ州マチェラータ県の県都です。


277
駅のホームからサンティッシモ・サクラメント教区教会が見えます。カプチン会によって1540年に建設されました。


274
マチェラータ駅の駅舎です。


272
駅前から旧市街が見えます。この日のお宿は城壁内にあります。


273
駅前にタクシーが常駐しています。疲れ気味だったので、タクシーでホテルに向かいました。


027
この日のお宿です。


028
チェックインを済ませてから直ぐに外出しました。
城壁内のPorta Mercatoが写ってます。


029
マッツイーニ広場です。


031
広い広場です。中世の頃から市場広場です。


030
青空市が立たない日は、広場は閑散としてます。


032
写真左の建物は、Ufficio del Territorioです。


033
現在、建物は売りに出されているようです。


034
この日の夕食をここで食べることにして、予約しました。


035
ラウロ・ロッシ通りです。


036
先ずサンタ・マリア・デッラ・ポルタ教会に向かいます。


037
上り下りがある道です。


039
マチェラータは、ルネサンス、バロックの建物で溢れてます。


038
ラウロ・ロッシ広場です。


040
サンタ・マリア・デッラ・ポルタ教会です。その歴史は古く10世紀に遡るゴシック様式、ルネサンス様式の建物です。


041
その後、修復、改造されました。


042
2016年と2017年に起きた地震によって被害を受け、現在は閉鎖されてます。


043
坂道を上ってリベルタ広場に向かいます。


044
リベルタ広場です。広場に面して、街の重要な建物が建ってます。


045
市の塔です。高さが62メートルあります。
1492年に創建され、17世紀後半に完成しました。


047
リベルタ広場が街の中心でしょう。


046
市庁舎 Palazzo del Comuneです。
大学本部の建物として1606年に建設されましたが、1665年に市庁舎となり、現在に至ってます。


058
1810年に一部再建されました。


060


059
ロッジャから中庭に入ります。


061
市庁舎の中庭です。


062
噴水


063


064


065
ローマ時代の発掘物があります。


066


067


068
市庁舎からリベルタ広場に出ました。


052
リベルタ広場に面して建つサン・パオロ教会です。


053
1623年から1655年に建設されました。


054
19世紀に宗教活動を停止した旧教会です。
教会の建物は、第一次世界大戦では穀物倉庫、第二次世界大戦中には金庫として使用されましたが。1960年から大学となってます。


055
教会横の大学の入り口です。


057
(つづく)

039
教区美術館が休館だったので、時間が余りました。


040
交通の便が良いとは言えないので、時間が余っても予定変更は容易ではありません。


041
仕方がないので、ぶらぶら歩きで時間潰しです。教会巡りをしても扉が開いている所は少ないでしょう。


042
写真右はサン・ジュリアーノ教会です。


043
1000年に建設されたロマネスク様式のサン・ジュリアーノ教会です。


044
長年に渡って改修、改造が行われましたが、1950年頃から時間をかけて復元工事が行われてます。


046
何の建物でしょうか?


047
外壁がフレスコ画で装飾されてます。


048
階段を上って、少し高い所から眺望を楽しみます。


049


050


051


052


055
ドゥオーモに行って、もう一度カルロ・クリヴェッリの傑作を楽しむことにしました。


056
ガエターノ・オルソリーニ(1884-1954)の「ミネルヴァ女神の『ラ・ヴィットリア』」(1927)です。アスコリ・ピチェーノの堕落の記念碑となってます。


060
アッリンゴ広場


058
ジョルジョ・パーチのブロンズ製フォンターナ


107
心残りの教区美術館


059
ドゥオーモの拝観です。


068
聖堂内に入りました。


069
カルロ・クリヴェッリの多翼祭壇画があるサクラメント礼拝堂です。


077
これが見納めです。


096
馬車の車輪除け


097
アスコリ・ピチェーノの紋章


098
聖母子と二聖人


099
ポポロ広場に戻ってきました。


131
中々時間がつぶれません。


129
サン・フランチェスコ修道院教会を再び訪れます。


134
中に入りました。


135


136


137
主祭壇


138


139


120
サン・クリストフォロ教会です。


121
サン・クリストフォロ教会横にあるのは、12世紀に遡るFontana di Cani(犬の噴水)です。


122
元々サンタ・ゴスティーノ教会にありましたが、後に移設されました。


124
疲れてきました。


125
あちこち歩くのが嫌になってきました。


126
予定よりも1時間半ほど早いですが、ホテルに戻ることにしました。


114
ホテルに預かって貰った荷物を受け取り、駅に向かいました。


117
(アスコリ・ピチェーノの項、おわり)

001
ホテルの自室内に植物画がありました。


002
イギリスでは植物画が盛んです。


003
イタリアでは、ホテルで植物画を目にします。ミラノのミケランジェロ・ホテルにも植物画が多かったと思います。


017
翌朝です。


018
その日の主な目的は教区美術館に行くことでしたが、その開館時間までロマネスク様式の教会巡りです。


020
道の突き当りに教会が建ってます。


021
サン・グレゴリオ・マーニョ教会です。


272
この場所に、紀元前1世紀に建設された女神イシスに捧げられた神殿がありましたが、キリスト教が解禁されると何時しか神殿は初期キリスト教会として転用されました。


024
13世紀、既存の旧イシス神殿の空間を利用にして、ロマネスク様式の建物が建設されましたが、それが今の姿の原形です。


022
18世紀に、建物は修復と改造を受けましたが、1935年から1940年に行われた修復工事の際、元のロマネスク様式に復元されました。


023
14世紀に追加された鐘楼です。


025
次はサン・ジャコモ・アポストロ教会です。


273
1250年に創建され、14世紀初頭に完成したロマネスク様式のサン・ジャコモ・アポストロ教会です。


274
後陣です。
数度修復と改造を受けましたが、19世紀に元の姿の戻されたそうです。


275
入口扉上ルネッタの彫刻が見物とされてます。


276
13世紀末の彫刻


026
一旦、城壁外に出ました。


027
次はサンティラリオ教会です。


277
サンティラリオ教会です。


278
10世紀に建設されたロマネスク様式のサンティラリオ教会です。幾度となく改造と修復を受けてます。


280
ナポレオンの抑圧令によって、19世紀に教会活動を停止した旧教会です。
建物は近隣の人たちの集会場に転用されましたが、1872年、オークションで個人に転売され民家となりました。この階段は、その所有者によって追加されたものです。


279
壁の装飾


281
現在の旧サンティラリオ教会のファサードで、改造されたままです。
現在、旧サンティラリオ教会の建物はEmygdius Museumになってます。
そろそろ教区美術館の開館時間です。


029
教区美術館がある司教館にやってきました。ドゥオーモの鐘楼が写ってます。


031
カルロ・クリヴェッリの作品が美術館のシンボルになってます。


030
ピエトロ・アレマンノの作品もシンボルとなっているようです。


032
教区美術館の入り口です。


033
ここでゆっくり鑑賞するために午前中の時間をたっぷりと充てていました。


034
開館時間を10分ほど過ぎても扉が開きません。
美術館の事務所に行ったら、3人いましたが、今日の担当者が急遽休暇を取ったので、美術館は臨時休館にしたとのこと。
バカバカ、やってられるか、憤慨!
美術館の展示作品を3点載せておきます。


282
カルロ・クリヴェッリ(ヴェネツィア、1430-アスコリ・ピチェーノ、1495)の「ポッジョ・ブレッタの聖母」(1470以降)


283
コーラ・デッラマトリーチェ(アマトリーチェ、1480/1489-アスコリ・ピチェーノ、1495/1496)の「玉座の聖母子と聖人たち」


284
ピエトロ・ヴァンニーニ(マルケ、1413/1414-1495/1496)の「聖エミディオ像」


035
その後に起きた地震のため、教区博物館は休館が続いてます。


036
次は城壁外にあるサンタ・マリア・デッレ・ドンネ教会です。


288
サンタ・マリア・デッレ・ドンネ教会です。


286
1230年から1232年に建設されたロマネスク様式のサンタ・マリア・デッレ・ドンネ教会です。


285
地震によって危険と判断されて閉鎖されているようです。


287
ファサードのバラ窓
中に古いフレスコ画が残されてます。


291
磔刑(13世紀)


289
聖母子と聖人たち


290
聖母子(13世紀)


037
(つづく)

238
次はサン・トンマーゾ・アポストロ教会です。


241
サン・トンマーゾ・アポストロ教会にやってきました。
1064年、当時の司教ベルナルド2世の主導によって、サンタゴスティーノ修道会 Ordine di Sant' Agostinoのために建設されたロマネスク様式の教会です。


240
現在の外観は、13世紀に行われた改造後の姿です。


242
鐘楼の、1283年の年号が入った鐘は、アスコリ・ピチェーノ最古の鐘と言われてます。


239
ファサード右は、サン・トンマーゾ・アポストロ修道院だった建物で、市立セラミック美術館となってます。


243


244
次は、サンティ・ヴィンチェンツォ・エ・アナスタージオ教会です。


246
アーチの道の先にヴェンティ―ディオ・バッソ広場があり、広場に面して2つの教会があります。


249
サンティ・ヴィンチェンツォ・エ・アナスタージオ教会です。
4世紀から6世紀に、この場所の半地下にあった小礼拝堂が起源とされてます。現在の建物は、9世紀に建設されたロマネスク様式が、その後拡大改修され、改造工事が完了した1389年の姿です。


1097
鐘楼


1098
後陣


1099
ファサード側の入り口


1100
扉上ルネッタの彫刻(14世紀)


1101
1389年の碑文


1102
ライオン像


1103
次はサン・ピエトロ・マルティーレ教会です。


273
ヴェンティ―ディオ・バッソ広場を挟んで、サンティ・ヴィンチェンツォ・エ・アナスタージオ教会の向かいにサン・ピエトロ・マルティーレ教会があります。


247
サン・ピエトロ・マルティーレ教会の右側外壁です。


248
ヴェンティ―ディオ・バッソ広場は大駐車場になってます。
サン・ピエトロ・マルティーレ教会のファサード側に回ります。


272
サン・ピエトロ・マルティーレ教会のファサードです。


270
1250年、ドメニコ会修道士のパドヴァのフラ・ピエトロがアスコリ・ピチェーノに到着しました。アスコリに定住して多くの信者を集めました。
それを記念して1280年に創建され、15世紀前半に完成したドメニコ会の教会です。


271
ファサードは、コーラ・デッラマトリーチェ(アマトリーチェ、1480/1489-アスコリ・ピチェーノ,1547/1559)の設計によって、1523年に建設されました。


1104
後陣
完成時はゴシック様式でしたが、16世紀後半から改造工事が行われ、ゴシック様式とバロック様式の折衷となってます。


250
ファサード側の入り口は大体閉まっていて、身廊側の扉から中に入ります。


251
中に入りました。


256
三廊式で翼廊がありません。


267
16世紀に行われた改造によって、10本の円柱が追加されました。


268
長さ62メートル、幅26メートルの、この街で最大の教会です。
所々に残るフレスコ画を見て行きます。


1105
制作者情報不知の「聖人たち」(15世紀初め)


254
Maestro di Offida (マルケ、14世紀中頃-15世紀初頭活動)の「我に触れるな」(14世紀中頃)


1106
柱のフレスコ画


262
Maestro di Offida (マルケ、14世紀中頃-15世紀初頭活動)の「聖母子」(14世紀中頃)


263
14世紀初めの逸名画家作「聖母子」


269
二コラ・ディ・ウリッセ・ダ・シエナ(シエナ、1442-1470活動)の「聖アントニオ・アバーテ」


1107
15世紀のフレスコ画


1108
15世紀のフレスコ断片


260
Presbiterio
祭壇画を見て回ります。


252
ロドヴィーコ・トラージ(アスコリ・ピチェーノ、1634-1694)の「法悦のシエナの聖カテリーナ」


257
ロドヴィーコ・トラージ(アスコリ・ピチェーノ、1634-1694)の「三位一体と聖ドメニコ」


258
ブオノコーレ・カンブリの「聖家族と聖ジョヴァンニーノとドメニコ会士たち」


259
詳細不知


261
ルイージ・デ―ヴォの「ロザリオの聖母」


264
詳細不知


265
ジュゼッペ・アンジェリ―ニ(アスコリ・ピチェーノ、1675-1751)の「聖母子とシエナの聖カテリーナと聖人たち」


266
トンマーゾ・ナルディーニ(アスコリ・ピチェーノ、1658-1718)の「天上の聖母と聖人たち」
17世紀の作品ばかりのようです。


016
外に出ました。
初日はこれで終わりです。
(つづく)

218
ポポロ広場です。


219
Palazzo del Capitano


221
写真左に写っているのは有名なカフェです。


222
Palazzo del Capitanoの中に入りました。


223


224


225
先ほど拝観したサン・フランチェスコ教会修道院です。


220
中世の空間をゆっくり散策します。


226
自治都市の時代から栄えていたポポロ広場です。


227
次はサンタゴスティーノ教会です。


228
ジュゼッペ・マッツィーニ通りからサンタゴスティーノ広場に向かいました。


233
サンタゴスティーノ広場にやってきました。


232
面白い建物があります。


1074
よく見るとアンバランスな感じがする二本の塔とパラッツォが目立ちます。


230
Palazzo Merli e Torre Gemelle
メルリ家が自宅として、1927年から1929年に建設した新古典様式のPalazzo Merliです。


235
12世紀に建設された高さ25メートルの二本の塔です。


236
1885年、二本の塔はメルリ家によって購入されました。Palazzo Merliを建設するに当たって二本の塔を組み込むことにしたそうです。


229
サンタゴスティーノ教会です。


231
1239年にアスコリ・ピチェーノにサンタゴスティーノ修道会 Ordine di Sant' Agostinoが到着しましたが、1242年、この場所に同会修道士によってロマネスク様式の教会が建設されました。
1317年から1381年にかけてゴシック様式に拡大されました。1483年にルネサンス様式に内部が改造されました。
1547年にファサードが完成しました。
残念ながら扉が閉まっていました。


1075
この作品が観たかったのですが・・・・・
フランチェスクィッチョ・ギッシ・ダ・ファブリアーノ(マルケ、1345-1374活動)の「Madonna della Pace」(1350)


237
次はサンティッシマ・アンヌンツィアータ修道院教会です。


1081
サンティッシマ・アンヌンツィアータ修道院教会の全景です。


1080
修道院教会の前はサンティッシマ・アンヌンツィアータ公園です。


1076
サンタゴスティーノ女子修道会によって1250年に建設された女子修道院が前身です。


1077
現在の建物は1485年から1514年に再建されたものです。


1078
修道院だった建物は学校として使用されてますが、教会の方は今なお宗教活動が行われてます。


1079
鐘楼


1090
ファサードの丸窓


1082
壁龕があります。


1083
多分フレスコ画があったと思います。


1084
ここにもフレスコ画があったと思います。


1085
ファサードの下にある柱廊です。


1086
柱廊


1087
柱頭


1088
柱頭


1091
柱廊にあるメイン扉です。


1089
メイン扉上ルネッタのフレスコ画は、コーラ・デッラマトリーチェ(アマトリーチェ、1480/1489-アスコリピチェーノ,1547/1559)の「受胎告知」
この修道院教会には、カルロ・クリヴェッリの最高傑作がありました。


1096
カルロ・クリヴェッリ(ヴェネツィア、1430-アスコリ・ピチェーノ、1495)の「受胎告知」(1486)です。
1486年から1790年まで、この教会の主祭壇を飾っていました。


1093
1790年、ナポレオン軍によって接収されてしまいましたが、1811年からミラノのブレラ絵画館で展示されるようになりました。
フランスへの流失が避けられ、このままならば問題がなかったのですが、1820年、他の絵画と共に古文書と交換され、イタリアから流失してしまいました。


1092
1830年、この作品は何故か骨董品市場に出され、個人蔵となりました。この作品の所有者は数回変わったそうですが、1864年にイギリスのナショナル・ギャラリーが購入し、修復後、ナショナル・ギャラリーで展示されるようになり現在に至ってます。
この経緯を知ると、カルロ・クリヴェッリとこの作品の評価が今とは考えられないほど低かったことが分かります。


1095
キオストロ回廊の入り口です。


1094
キオストロ回廊
(つづく)

182
見所が多いので、泊まっても時間が余ることはないと思います。


184
アスコリ・ピチェーノからのバス便が充実しています。この街に数泊してバス利用の日帰り遠足するのも良いでしょう。


185
突き当りがジュゼッペ・マッツィーニ通りです。


188
Palazzo della Cassa di Risparmioです。


186
銀行の建物です。


192
現在はBanca dell' Adriaticoが使用してます。


189
ジュゼッペ・マッツィーニ通りです。


190
銀行の建物です。


191


193
銀行本部の建物


194
次はサンタ・マリア・インテルヴィネアス教会です。


195
Arco di Carlo Magnoです。
12世紀から13世紀に建設されたPalazzo Senatorialeがありましたが、取り壊され、このアーチ部分だけが残されてます。


196
サンタ・マリア・インテルヴィネアス教会です。


199
996年の文書に、この教会の存在が初めて記載されているそうです。


197
12世紀末に再建工事が開始され、13世紀に完成した後期ロマネスクとゴシックの折衷様式の建物です。


198
サイド・ポータルのルネッタ上の浮彫


1068
サンタ・マリア・インテルヴィネアス教会のファサード


1069
12世紀から13世紀に建設された鐘楼です。


200
次はサン・フランチェスコ教会修道院です。


201
サン・フランチェスコ修道院のキオストロ回廊です。


203
Ordine dei Frati Minori Conventualiによって13世紀に建設された修道院です。


202
1861年に修道院は閉鎖され、その後、事務所、学校、兵舎に使用されました。現在は公の市場として使用されてます。また、旧修道院の一階(日本の二階)は聖職者の住居になってます。


205
キオストロの井戸


204
次はサン・フランチェスコ教会です。


063
ポポロ広場に面してます。


078
1215年、アッシジの聖フランチェスコがアスコリ・ピチェーノに訪れました。直ぐに教会の建設が決まりましたが、工事が着工したのは1258年でした。建物は未完成でしたが、13世紀後半には活動が開始されました。


083
1371年に奉献式が執り行われましたが、献堂する聖人は聖フランチェスコではなく、聖ジョヴァンニ・バッティスタになったのです。しかし、名称はサン・フランチェスコ教会修道院のままでした。
1547年から1549年にクーポラが建設されましたが、クーポラの工事が完成した1549年を以って教会修道院の完成となりました。


080
ポポロ広場に面した、ゴシック様式のサイド・ポータル(左側)です。


081
ベルナルディーノ・ディ・ピエトロ・ダ・カローナの「教皇ジュリオ2世のモニュメント」(1506-10)


209


082
サイドポータル上ルネッタの紋章


1071
鐘楼


1070
ファサード


208
ファサードの向かって右側の側壁です。


207
右側壁にある入り口がメイン・ポータルとされてます。


1072
メイン・ポータル


206
メイン・ポータル上ルネッタのフレスコ画


1073
Loggia dei Mercanti


210
中に入りました。


213
説教壇


214
質素、質実剛健です。


215
美術的な見所ですが、強いて言えばステンドグラスでしょうか?


216


211


212
洗礼者ヨハネを祀る教会とは意外でした。


217
(つづく)

135
次はクリプタです。


136
カンポ・パリニャーノのカタコンベに街の守護聖人聖エミディオ・ディ・アスコリ(トレヴィリ、273-アスコリ・ピチェーノ、303/309)の聖遺物(遺体)がありました。11世紀中頃のアスコリ・ピチェーノ司教アスコリ・ベルナルド2世は、聖エミディオの聖遺物をアスコリ・ピチェーノに安置して祀るために11世紀中頃に建設されたクリプタです。


139
11世紀中頃に建設されたクリプタは荒廃が進んだので、1703年に修復改造されました。現在の姿は、この修復改造後のものです。


140
ヴェローナ産赤大理石の柱が印象的です。


152
クリプタ主祭壇の彫刻は、ラッザロ・ジョサファッティの「ポリシアを洗礼する聖エミディオ」(1728-30)


153
この部分は16世紀に改修されたものの、1703年に改造されませんでした。


1067
ここに聖エミディオ、殉教者たちの遺骨が納められています。


137
クリプタ天井のフレスコ装飾


138


151


141
クリプタにモザイクがあります。一見して新しいモザイクであることが分かります。


142
ピエトロ・ガウデンツィ(ジェノヴァ、1880-アスコリ・ピチェーノ、1955)のデザインに基づき1950年から1954年に制作されたモザイクです。


143
モザイクのテーマは、第二次世界大戦においてアスコリ・ピチェーノで起きた出来事です。


144


145


146


147


148


149


150


154


117
外に出る前に、もう一度サクラメント礼拝堂に行きました。


118
カルロ・クリヴェッリの多翼祭壇画を再び鑑賞。


180
外に出ました。


181
次は、この日のお宿向かいにあるサン・ヴェナンツィオ教会に向かいました。


043
この日のお宿のフロントで、サン・ヴェナンツィオ教会の開く時間を教えて頂きましたが、その通り、扉が開いてました。


024
中に入りました。


025
単廊式です。ロマネスク様式の外観と異なり、感じが随分違う内部です。


026
感じが異なるのは、エミディオ・フェレッティの設計によって、1667年から1671年にバロック様式に改造されたからでしょう。


037
多くの祭壇画などがありますが、作品帰属など、それらの詳細が分かりません。


036
慈悲の聖母


035
聖マルティーレ(1290-1310)


034


033
受胎告知


032
聖母戴冠


031
磔刑


030
聖母被昇天


029


028


027


038


183
外に出ました。
(つづく)

1059
本堂に戻りました。


1060
Presbiterioのチボリオがあります。


158
ジュゼッペ・サッコーニ(モンタルト・デッレ・マルケ、1854-ピストイア、1905)のチボリオ(1895)


176


159
クーポラ、後陣、内陣天井などフレスコ画が沢山あります。


175
一見して新しいフレスコ画であることが分かります。


177
19世紀のフレスコ画家チェーザレ・マリア―ニ(ローマ、1826-1901)とチェーザレの協力者だったガエターノ・ヴァン二コラ(オフィダ、1859-グロッタンマーレ、1923)によって1884年から1894年に制作されたフレスコ画です。


178


070
古いフレスコ画が落剝など劣化したので、殆どが塗り潰されて、その上に制作されたフレスコ画です。


071


072


074
クーポラ


075


076


086


087
マドンナ・デッレ・グラツィエ礼拝堂です。


1065
1567年に建設されたマドンナ・デッレ・グラツィエ礼拝堂ですが、荒廃したので1958年に復元されました。
礼拝堂のモザイクは、ラヴェンナのモザイク工房によって1961年に制作されました。


1064
オルガンが礼拝堂に設置されています。


167
Presbiterio


166


164


165


163


1066
制作者情報不知の「聖エミーディオ像」


160
右側廊天井


161


115


162
クリストフォロ・カッファレッリの「聖エミーディオの物語」


114
クリストフォロ・カッファレッリの「聖エミーディオの物語」


172


173
磔刑の礼拝堂です。


174
聖具室への入り口扉


1061
説教壇


088
制作者情報不知の「カルヴァリオへの上り」


089
制作者情報不知の「カルヴァリオへの上り」


090
制作者情報不知の「カルヴァリオへの上り」


1062
左側廊の鐘楼に隣接する礼拝堂です。


093
古いフレスコ画が残されてます。


092
Maestro del Polittico di Ascoliに帰属するフレスコ画(14世紀)


091
「磔刑」の部分が比較的良い状態で残されてます。


1063


171


170


169
(つづく)

018
アッリンゴ広場に建つドゥオーモ Basilica Minore Cattedrale di Santa Maria Madre di Dio e Sant' Emidioです。通常、サンテエミーディオ大聖堂と呼ばれてます。
アスコリ・ピチェーノ司教区の司教座教会です。


020
現在のドゥオーモの土地に4世紀以前頃に建設されたミューズに捧げられた神殿がありました。4世紀から5世紀頃、その神殿を初期キリスト教会に転用しましたが、それが前身です。


059
5世紀から6世紀にかけてNavataが追加され、746年から780年にクーポラ、翼廊、後陣が増築されました。
9世紀初め頃の建物の大きさは、縦32m、横13m、高さ9mだったそうです。
11世紀に拡張工事が行われ、その際、ロマネスク様式の建物となりましたが、15世紀第4四半世紀まで、そのロマネスク様式の姿が続きました。


1050
1481年、古いファサードの解体と再建、三廊式への増築改造が決定され、工事が開始されました。
ファサードは、コーラ・デッラマトリーチェ(アマトリーチェ、1480-アスコリ・ピチェーノ、1547・1559)の設計によって、1529年から1539年に建設されました。
ゴシック・ルネサンス様式の現在の姿は、1539年に完成したものがその原型となってます。


061
ファサードに向かって左側にサン・ジョヴァンニ洗礼堂があります。


108
9世紀頃に建設され、11世紀に今の姿のロマネスク様式になりました。


1051
鐘楼


028


062
ファサードに向かって右側の外壁です。


063
1857年、第255代教皇ピオ9世(セニガッリア、1792-ローマ、1878 教皇在位:1846-1878)によってBasilica Minoreに格付けされました。


064
ミューズの入り口と言われてます。


015
旧市街に入ってくると、後陣が目に飛び込んでます。


108
8世紀頃に建設された後陣です。


109
ファサード側の入り口です。


113
聖堂内に入りました。


168
三廊式、ラテン十字形、ロマネスクとゴシックの折衷様式の内部です。


116
先ずサクラメント礼拝堂に向かいました。


157
主祭壇、後陣のすぐ右にサクラメント礼拝堂があります。


132
礼拝堂の中に入りました。


134
1795年から1838年に建設されたサクラメント礼拝堂です。


133
礼拝堂の天井


125
サクラメント礼拝堂の祭壇画は、カルロ・クリヴェッリ(ヴェネツィア、1430-アスコリ・ピチェーノ、1495)の「サンテミ―ディオの多翼祭壇画」(1472-73)です。


1052
全パネルが完全な形で残されてます。しかし、向かって右の裾絵の一部は、20世紀末の盗難事件の際、損傷を受けて複製に置き換えられということです。


1053
多翼祭壇画の台として使用されている銀製の祭壇前飾り(14世紀)


079
木製聖体容器(16世紀後半)


078
1472年、当時の司教プロスペロ・カッファレッリがドゥオーモの主祭壇に飾るべく、カルロ・クリヴェッリに注文したもので、1473年に完成しました。


119
完成後、この多翼祭壇画は、ドゥオーモの主祭壇に置かれました。この礼拝堂に移設されたのは1894年のことで、それまで主祭壇に置かれていました。


1054


120


122


1055
聖母子


124


126


1056
ピエタ


1057
聖ジローラモ


1058
聖ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ?


130
クリストフォロ・カッファレッリの「聖エミーディオの殉教」


131
クリストフォロ・カッファレッリの「信者を洗礼する聖エミーディオ」


179
サクラメント礼拝堂でカルロ・クリヴェッリの作品を観れば、ドゥオーモの拝観は終わりにしても良いかも知れません。
(つづく)

023
ドゥオーモのファサードに向かって右側にアッリンゴ宮があります。


1011
1183年、アスコリがコムーネになったことを機に建設されたアッリンゴ宮です。


022
現在のファサードなどの建物は、1679年から1745年に改造されたものです。


021
アッリンゴ宮前のGiovanni Jeciniデザインの噴水(1882)


1030
アッリンゴ宮は、市庁舎として使用されてますが、その一部に絵画館が置かれてます。


1014
絵画館の入り口です。


095
絵画館は、アッリンゴ宮の1階(日本の2階)と2階(日本の3階)にあります。


097
アスコリ・ピチェーノ市立絵画館の展示ですが、人口五万人弱規模の市立絵画館としては質と量において、イタリアでも特筆される存在でしょう。
現在は写真可となってますが、長らく写真不可でした。実は、アスコリ・ピチェーノに行ったのは三回あり、その都度絵画館に入館しましたが、写真可となってからは一度も訪れたことがないのです。行こう、行こうと思いながらも、ロレンツォ・ロット熱が若干醒めてからは、マルケ州に足を向けることが少なくなっているので、勢いアスコリ・ピチェーノには足が遠のいている次第です。
絵画館の紹介では作品画像等がないと話になりません。仕方がないので、外部サイトから写真を拝借することにしました。


1012
ピエトロ・アレマンノ(オーストリア、1430/1440-アスコリ・ピチェーノ、1498)の「慈悲の聖母のポリッティコ(多翼祭壇画)」(1489)


1013
この絵画館の代表的な作品の一つです。


1015
素晴らしい絵画館です。


1016
展示は14世紀から20世紀の幅広い作品が並んでます。


1017
カルロ・クリヴェッリ(ヴェネツィア、1430-アスコリ・ピチェーノ、1495)の「Secondo Trittico di Valle Castellano」


1018
保存状態があまり良くありませんが、クリヴェッリの傑作の一つでしょう。


1019
この絵画館のシンボルとなってます。


1029


1020
カルロ・クリヴェッリ(ヴェネツィア、1430-アスコリ・ピチェーノ、1495)の「Primo Trittico di Valle Castellano」


1021
詳細不知


1022
詳細不知


1023
詳細不知


1024
グイド・レーニ(ボローニャ、1575-1542)の「受胎告知」(1629)


1025


1026


1028


1027


1448
ルドヴィーコ・トラージ(アスコリ・ピチェーノ、1634-1694)に帰属する「聖母子」(1650-90c)


1034
コーラ・デッラマトリーチェ(アマトリーチェ、1480-アスコリ・ピチェーノ,1547/1559)の「玉座の聖母子と四聖人とピエタの多翼祭壇画」


1035
コーラ・デッラマトリーチェ(アマトリーチェ、1480-アスコリ・ピチェーノ、1547/1559)の「祝福を与えるキリスト」


1037
ピエトロ・アレマンノ(オーストリア,1430/1440-アスコリ・ピチェーノ、1498)の「受胎告知」


1038
ティツィアーノ・ヴェッチェリオ(ピエーヴェ・ディ・カドーレ、1488/1490-ヴェネツィア、1576)の「聖痕を受ける聖フランチェスコ」(1570c)


1042



1039
ジュゼッペ・カンタラメッサ(アスコリ・ピチェーノ、1846-ローマ、1924)の「Cecco d' Ascoli che tiene una lezioe a Firenze」(1875)


1041
詳細不知


1043
ヴェネト=クレタの逸名画家作「授乳の聖母」


1044
オラツィオ・ディ・フェッラーリ(ヴォルトリ、1606-ジェノヴァ、1657)の「サムソンの捕縛」(1640c)


1045
コーラ・デッラマトリーチェ(アマトリーチェ、1480-アスコリ・ピチェーノ、1547/1559)工房作「慈悲の聖母」(1530-50c)


1046
コーラ・デッラマトリーチェ(アマトリーチェ、1480-アスコリ・ピチェーノ、1547/1559)の「聖母子と四聖人」(1520-30c)


1047
ジョヴァンニ・アントニオ・ダ・ルーコリ(1491-1539)の「幼きキリストを崇拝する聖母」(1529-32)


1049
オラツィオ・ディ・フェッラーリ(ヴォルトリ、1606-ジェノヴァ、1657)の「イサクの犠牲」(1650-57)


098
外に出ました。


102
アッリンゴ宮の中庭です。


100
この他にもグイド・レーニの「聖セバスティアーノ」、グエルチーノの「キリストの逮捕」、ルカ・ジョルダーノの「聖ジュゼッペの死」、カルロ・マラッタの「クレメンテ9世の肖像」などの傑作があります。


101
少し疲れました。


099
(つづく)

071
ポポロ広場の建物を見て回ります。


085
優美で華やかな広場としてイタリア屈指と言われてます。


070
1513年に創建されたメルカンティ館です。ギベリーニ党(皇帝派)の狭間が目立ちます。


068
ポポロ広場に面してサン・フランチェスコ教会が建ってます。


065
天井下の外壁にフレスコ画があります。


066
描かれているのは紋章でしょうか?


067
13世紀以前に建設され、1518年から1546年にルネサンス様式で改修拡大されたPalazzo dei Capitanoです。現在、文科省所有となっており、市議会の議場として使用されている他、展示会などの会場になってます。


1004
Palazzo dei Capitanoのファサードの彫刻を見ます。
ラッザロ・ディ・フランチェスコの「教皇パオロ3世のモニュメント」


1005


1006


1007
ロッジャの内壁に描かれたフレスコ画です。
ピエトロ・アレマンノ(オーストリア?、1430/1440c-アスコリ・ピチェーノ、1498)の「マルカの聖ジャコモ」(1490)


069
中に入ることが出来ます。


074
中庭です。


073


072
三階建てです。


075
14世紀のアスコリ・ピチェーノの紋章


076
上の階に行きます。


1008
部屋の扉が閉まっていました。フレスコ断片があるくらいです。


079
外に出ました。昼過ぎのこの時間はサン・フランチェスコ教会は閉まっています。


084
サン・フランチェスコ教会の拝観は夕方にします。


086
中世の頃、行商の人たちや雨天の市場として賑わっていたロッジャ・ディ・メルカンティです。


087
ポポロ広場に何度も来るようになります。


088
路地を通って、ファウスト・シモネッティ広場に向かいます。


089
ファウスト・シモネッティ広場に建つのは、18世紀初頭から1797年に建設されたPalazzo San Filippoです。


090
現在、Palazzo San Filippoは県庁舎 Palazzo del Governoになってます。


091
17世紀から18世紀の建物が建ち並んでます。


092
トレント・エ・トリエステ通りです。


093
州立考古学博物館、ドゥオーモの拝観、市立絵画館に入館するためにアッリンゴ広場に向かいます。


094
アッリンゴ広場にやってきました。


111
旗が掲げられている建物が州立考古学博物館です。


105
16世紀に建設されたPalazzo Panichiが考古学博物館になってます。


016
何処の考古学博物館でもその展示内容は似たり寄ったりです。


1009
考古学博物館の入り口


1010
展示は予想通りでした。


104
ドゥオーモの扉が開いていたので、拝観しました。ドゥオーモについては後程纏めてアップします。


107
洗礼堂


118
カルロ・クリヴェッリの多翼祭壇画が秀逸です。


106
次は市立絵画館です。


096
入館しました。


023
市立絵画館には大満足です。その内容については、後程纏めて掲載します。


017
市立博物館で唯一残念だったことは、写真不可だったことです。
(つづく)

002
前泊地はマチェラータでした。マチェラータから普通列車でアスコリ・ピチェーノに向かいました。


005
車窓から雪を抱く山々が見えました。


006
15分遅れでアスコリ・ピチェーノ駅に到着しました。


007
アスコリ・ピチェーノは、人口47,555人(2019年12月31日現在)のマルケ州アスコリ・ピチェーノ県の県都です。中世は、教皇領の時代が長かった街です。
私にとって、恐らく美術的にも、アスコリ・ピチェーノはカルロ・クリヴェッリ(ヴェネツィア、1430-アスコリ・ピチェーノ、1495)に尽きます。
1457年、船員の妻との姦通罪によってヴェネツィアを追われたカルロ・クリヴェッリは、流浪の旅に出て、1469年に初めてアスコリ・ピチェーノに訪れました。やがて1473年からアスコリ・ピチェーノに定住することになり、1495年に没っしました。
その間、数多くの作品をアスコリ・ピチェーノで制作しました。アスコリ・ピチェーノで制作された作品の多くは他の街からの注文でしたが、この街のために制作された作品もかなりあったようです。
18世紀末までは、この街にあったカルロの作品は完全な形で残っていましたが、ナポレオンの侵攻によって奪われたり、イタリア統一の混乱によって、カルロの作品は持ち去られたり、多翼祭壇画はパネルに分解、散逸されてしまいました。それでも今なおカルロ・クリヴェッリの作品が残されているので、それを見るためにアスコリ・ピチェーノに来たという訳です。


141
アスコリ・ピチェーノ駅の駅舎です。


008
旧市街にある、この日のお宿に向かいます。


009
右折してViale Indipendenzaに入りました。この通りの先にアッリンゴ広場があります。


010
マッジョーレ橋のフォンターナです。


011
カステッラーノ川に架かるマッジョーレ橋を渡ります。


012
マッジョーレ橋から見た北に広がる山々の景観


013
マッジョーレ橋を渡ると旧市街です。


014
カステッラーノ川を渡ると、通りの名称がヴィットリオ・エマヌエーレ通りに変わりました。


015
ドゥオーモの後陣です。


017
アッリンゴ広場です。


019
大きな荷物があっては、ドゥオーモの拝観どころではないので、この日のお宿へと急ぎました。


042
この日のお宿です。


041
中庭です。
アスコリ・ピチェーノを支配していたグイデロッキ家が15世紀後半に建設したPalazzo Guiderocchiを改造してホテルにしたものです。


039
柱廊など中世を実感できるホテルです。


040
ホテル内にフレスコ画はありません。


047
アントニオ広場に面した方のPalazzo Guiderocchiの入り口です。
自室に荷物を置いて、街歩きに出発しました。


043
アントニオ広場を挟んで、ホテルのPalazzo Guiderocchiの向かいに教会があります。


044
12世紀から13世紀に建設された、ロマネスク様式のサン・ヴェナンツィオ教会です。


045
平日は大体閉まってます。


046
左側の外壁です。
開いていれば拝観しますが、無理をして拝観する必要はあまりないように思います。


1001
1667年から1671年にバロック様式に改修された内部です。
(外部サイトから拝借した写真)


1002
古い作品は残されていないようです。


1003
有名画家の作品はこれくらいのようです。
ジョヴァンニ・バッティスタ・ガウッリ通称バチッチョ(ジェノヴァ、1639-ローマ、1709)の「光悦の聖フランチェスコ・ザビエル」


048
サンタ・マリア・デッラ・カリタ教会を経由してポポロ広場に行こうと思いました。


049
古い建物が建ち並ぶ一画です。


050
Via Ottaviano Lanneliaです。


051
写真右の建物は16世紀に建設されました。


052
トリヴィオ通りからローマ広場に出ます。


055
サンタ・マリア・デッラ・カリタ教会です。


053
Chiesa della Scopaとも呼ばれてます。


054
現在の教会の右横にConfraternita dei Disciplinatiによって、14世紀に建設された小礼拝堂がありましたが、Confraternita dei Disciplinatiは本格的な教会建設を決め、コーラ・デッラマトリーチェ(アマトリーチェ、1480-アスコリ・ピチェーノ、1547/1559)の設計によって、1532年から1583年に建設されました。
扉が開いているように見えましたが、中扉が閉まってました。


056
教会横の銀行の建物です。


057
ローマ広場です。


058
ローマ広場至近のポポロ広場に向かいます。


059
アルチヴィオ通りを経由しました。


060
突き当りにポポロ広場があります。


063
ポポロ広場です。


064
写真右の柱廊がある建物で一休みです。


061


062
ポポロ広場に面して建つPalazzo dei Capitaniです。
(つづく)

P1370576
時間を持て余し気味です。


P1370578
サンタ・マリア・ノヴェッラ修道院教会の横を通りました。


P1370580
サンタ・マリア・ノヴェッラ修道院教会の向かいに、1632年に建設されたChiesa della Misericordiaがあります。


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ドゥオーモの拝観とドゥオーモ隣にあるMuseo Diocesanoの入館が残ってます。


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湖畔に下りてもやることが無さそうです。


P1370585
1泊するには、時間を持て余します。


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チェントロ・ストーリコ東端の道です。


P1370587
澄み切った快晴だったので、写真を撮るには絶好でした。


P1370588
アントニアッツォ・ロマーノの作品を見ることが出来て満足としよう、と思いました。


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オルシーニ家の美術品が残されていれば、美術ファンには必訪の町だったことでしょう。


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対岸の町はトレヴィニャーノ・ロマーノです。


P1370593
町役場が二番目に推奨している絶景ポイントからの眺めです。


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観光案内所で貰った地図に絶景ポイントが2箇所推奨されてます。


P1370597
湖畔の方に道を下ります。


P1370598
残念ながら何もなさそうです。


P1370602
湖畔に行くのを断念して、ドゥオーモに向かいました。


P1370605
ドゥオーモの鐘楼です。


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この家の前に来たのは、これで三回目です。


P1370610
写真左手前にニャーゴが写ってます。


P1370611
お腹をナデナデしたら喜んでいましたが、カメラを取り出すと起き上がってスタコラサッソと立ち去りました。急に不愛想になったのでビックリ。


P1370615
道の突き当りにドゥオーモがあります。


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ドゥオーモは相変わらず閉まったまま。


P1370623
Museo Diocesanoも閉まったまま。


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これでやることがなくなりました。


P1370620
仕方がないので、ドゥオーモの周りを一周します。


P1370626
教会巡りは効率が悪いのです。美術を堪能するには、フィレンツェ、ローマ、ミラノなどの有名美術館に行けば良いのです。


P1370628


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直ぐに一周出来ました。


P1370630
オルシーニ₌オデスカルキ城の城壁です。


P1370634
残るは1番目の絶景ポイントです。


P1370638
新市街の坂下に絶景ポイントがあります。


P1370639


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Piazza Saminiati


P1370656
町立病院です。


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病院ファサードの入り口扉上ルネッタの浮彫


P1370679
病院の下に推奨第1位の絶景ポイントがあります。


P1370658
確かに絶景です。


P1370660
チェントロ・ストーリコの建物が一望できます。


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P1370690
絶景ポイント近くに教会があります。


P1370692
何と言う教会でしょうか?


P1370693


P1370701
これで見終わりました。


P1370707
翌朝です。ホテルの部屋からの眺めです。


P1370712
この日も晴れでした。


P1370716
次の目的地ヴィテルボに向かいました。
(おわり)

P1370516
ブラッチャーノのチェントロ・ストーリコを巡ります。


P1370517
オルシーニ₌オデスカルキ城がブラッチャーノ湖の南端丘上にありますが、チェントロ・ストーリコは城の南側と東側にあります。城の西側は旧城壁外の新たに出来た集落となってます。


P1370517
この辺はチェントロ・ストーリコの東側に当たります。


P1370518
城壁が見当たりません。城壁を取り壊したという感じではないので、ブラッチャーノには城壁がなかったかもしれません。


P1370520
塔のような家が続いてます。これらの家が城壁の代わりだったかも知れません。


P1370521
ブラッチャーノ湖の北端にトレヴィニャーノ・ロマーノがあります。非常の美しい町なので行きたいと考えてましたが、バスの便が悪いので諦めました。タクシーなら簡単に行けます。


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チェントロ・ストーリコの東端にやってきました。


P1370523
振り返って撮った写真です。


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列車とバスでローマから簡単に日帰りできます。


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チェントロ・ストーリコ外に当たります。


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独特な色の壁です。


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チェントロ・ストーリコ東端からの景観です。


P1370527
飲料用貯水池なので、汚染防止のため、湖の船や遊びは厳しく制限されてます。


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オルシーニ₌オデスカルキ城とドゥオーモの鐘楼です。


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湖で遊泳することは可能です。


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P1370536
チェントロ・ストーリコの東端に来たことで満足して、城の方に戻ります。


P1370538
違う道を通ります。


P1370540
暫くイタリアに行っていないので、ブログを書く気力が薄れてます。


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扉の壁にタイルが張られている家がありました。その意味は?


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この狭い道幅では自動車が入れません。


P1370544
道の上が微妙な建て方になってます。


P1370545
無原罪の聖母


P1370547
ドゥオーモは多分開いていないと思いながらも、未練でドゥオーモに向かいます。


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狭い道を隔てる2つの建物の上部を見て感心しました。


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この道の左側にドゥオーモがあります。


P1370550
14世紀から16世紀に建設された建物がそっくり残ってます。


P1370552
予想通りドゥオーモは閉まっていました。


P1370553
ジュゼッペ・マッツィーニ広場です。


P1370554
サンタ・マリア・ノヴェッラ修道院教会を通り過ぎます。


P1370555
日差しが強い快晴の日でしたが、26℃だったのはラッキーでした。


P1370557
鉄道駅に向かいます。


P1370558
雲一つない快晴の中で、城が目立ちます。


P1370559


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駅は少し高い場所にあります。


P1370561
公演を横切ります。


P1370562
駅に着きました。


P1370563
次の目的地がヴィテルボでした。ヴィテルボに2つの駅がありますが、その2つの駅を結ぶ列車の時刻が分からなかったので、その確認が目的でした。


P1370570
駅の西方に行ってみました。


P1370571
しかし、西の方には特に見所がなさそうでした。


P1370573


P1370574
チェントロ・ストーリコに戻ることにしました。


P1370575
(つづく)

P1370454
大広間です。


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結婚式などが行われます。有名な俳優の結婚式が行われましたが、離婚、結婚を繰り返しているので、ここで改めて触れるのが馬鹿らしくなります。


P1370457
井戸


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博物館として公開されている城内は大体見たので、順路とは逆に進んで出口に向かうことにしました。トリッティコの間です。


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アントニアッツォ・ロマーノ(ローマ、1430/1435c-1508)のトリッティコです。


P1370459
「磔刑」


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磔刑されたキリストと聖母と聖マリア・マッダレーナと聖ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ


P1370464
受胎告知する大天使ガブリエーレ


P1370461
受胎告知される聖母


P1370466
逸名画家作「聖アントニオ・アバーテ」(16世紀)
これらの絵画は、美術品収集家だったバルダッサッレ・オデスカルキ(ローマ、1844-チヴィタヴェッキア、1909)によって収集されたものです。


P1370468
逸名画家作「聖マリア・マッダレーナ」(16世紀)


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トリッティコの間の天井装飾


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ウンブリアの工芸家による作品(17世紀)


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ウンブリアの逸名画家作「聖セバスティアーノ」(16世紀)


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トリッティコをもう一度見ました。


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中庭に出ました。


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下の階に向かいます。


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城の出口は、城の本体部分よりも下の階にあります。


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階段を下ります。


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下の階の入り口です。


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中に入りましたが、特筆すべきものがありません。


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聖母子があります。


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下の階にも井戸があります。


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庭に出ました。


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庭から見たブラッチャーノ湖


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サンタ・マリア・ノヴェッラ修道院教会の鐘楼です。


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ジュゼッペ・マッツィーニ広場


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外に出ます。


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(つづく)

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屋外に出ました。


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居住部分と異なり、荒々しい造りの軍事要塞と実感します。


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屋外の一般公開部分はかなり限定されてます。


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ブラッチャーノ湖です。


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横9.3㎞、縦8.7㎞、広さ56.5㎢、最新160mあります。


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ドゥオーモ


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60万年前から4万年前まで、ローマの北西に位置するこの地方は激しい火山活動がありましたが、活動の結果出来た窪地に水が貯まり、湖になったとされてます。
ブラッチャーノ湖が出来た時から、水の流入は地下からの泉なので、水質が大変良いことで知られてます。現在、ブラッチャーノ湖はローマの飲料用貯水池となってます。


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厨房です。


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ダクト


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(つづく)

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次の部屋です。


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Sala di Isabellaです。
パオロ・ジョルダーノ1世オルシーニ(ブラッチャーノ、1541-サロー、1585)と1558年に結婚したイサベッラ・デ・メディチ(フィレンツェ、1542-1576)の寝室です。


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イサベッラ・デ・メディチのベッド


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アントニアッツォ・ロマーノ(ローマ、1430/1435c-1508)?の「聖ジョヴァンニ・バッティスタ」


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ポッライオーロ?の作品


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一旦ベランダに出ます。


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11月4日広場、サンタ・マリア・ノヴェッラ修道院教会が見えました。


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上の階に向かいます。


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次の部屋です。


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シチリア・スタイルのベッドが置かれているので、Sala dei Letto Sicilianoと呼ばれてます。


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トスカーナ・ラツィオの逸名画家作「聖ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタと聖ジョヴァンニ・バッティスタと聖ジュゼッペ」(17世紀)


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トスカーナ・ラツィオの逸名画家作「善きサマリア人」(17世紀)


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Sala Goticaです。
バルダッサッレ・オデスカルキ(ローマ、1844-チヴィタヴェッキア、1909)の指示によって、15世紀のゴシック様式を模倣したネオ・ゴシック様式で統一された部屋です。


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ヘラクレスの間です。


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武器が展示されてます。


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ピサネッロ派の逸名画家によるフレスコ画


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次の部屋です。


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武器庫です。


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武器庫のフレスコ画


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次の部屋です。


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Sala della Scienceです。


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フレスコ画一杯のSala delle Scienceです。


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フレスコ画のテーマは一般教養、ミューズ、惑星の寓意画です。


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天井の装飾


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次の部屋です。


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Sala del Bobolaccio


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Sala del Bobolaccio天井の装飾


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次の部屋です。


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Sala Etrusca


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Sala Etrusca天井の装飾


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詳細不知


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(つづく)

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次はSala del Tritticoです。


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部屋の名称の由来は、アントニアッツォ・ロマーノ(ローマ、1430/1435c-1508)のトリッティコがあるからです。
このトリッティコは、オルガンの蓋に描かれた受胎告知と内側に描かれた磔刑から成ってます。


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最近の研究によって、アントニアッツォ・ロマーノの作品と、その帰属が確定されました。


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部屋の天井の装飾


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アントニアッツォ・ロマーノ(ローマ、1430/1435c-1508)の「磔刑」


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アントニアッツォ・ロマーノ(ローマ、1430/1435c-1508)の「受胎告知される聖母」


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アントニアッツォ・ロマーノ(ローマ、1430/1435c-1508)の「受胎告知する大天使ガブリエーレ」


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バルダッサッレ・オデスカルキ(ローマ、1844-チヴィタヴェッキア、1909)がトリッティコをこの部屋に置くことを決めたそうです。


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ウンブリアの逸名画家作「聖セバスティアーノ」(16世紀)


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逸名画家作「聖アントニオ・アバーテ」(16世紀)


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次の部屋です。


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ピサネッロの帰属作品があるので、Sala del Pisanelloと呼ばれてます。


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ピサネッロ(ピサ又はヴェローナ、390c-ナポリ、1455c)に帰属するフレスコ画


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ピサネッロのフレスコ画(帰属)


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ピサネッロのフレスコ画(帰属)


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ピサネッロのフレスコ画(帰属)


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フランドルの逸名画家作「オデスカルキ家の男の肖像」


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フランドルの逸名画家作「オデスカルキ家の女の肖像」


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制作者情報不知の「第240代教皇インノチェンツォ11世・オデスカルキ(コモ、1611-ローマ、1689 教皇在位:1676-1689)の肖像」


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詳細不知


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詳細不知


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次はSale del Cesariです。


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部屋の名称の由来は、ユリウス・カエサルの彫像があるからです。


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ローマ皇帝の彫像が置かれてます。


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カエサルの間に、アントニアッツォ・ロマーノの長大なフレスコ画(横約12m)があります。


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アントニアッツォ・ロマーノ(ローマ、1430/1435c-1508)の「ジェンティーレ・ヴィルジニオ・オルシーニとピエロ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチの1487年の邂逅」


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ジェンティーレ・ヴィルジニオ・オルシーニ(ブラッチャーノ、1445c-ナポリ、1497)は、この城を拡大整備増強をした傭兵隊長です。
ピエロ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ(愚昧なピエロ)(フィレンツェ、1472-カステルフォルテ、1503)は、ロレンツォ・イル・マニーフィコの長男でしたが、その綽名の通り愚か者で有名です。


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次の部屋です。


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Sala Orsiniです。


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部屋の壁にオルシーニ家の人々の肖像画がありましたが、現在は何故か肖像画が撤去されています。(天井下の壁が空欄になってます)


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オルシーニ家の紋章


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オルシーニ・メディチの紋章
1558年、パオロ・ジョルダーノ1世・オルシーニ(ブラッチャーノ、1541-サロー、1585)とイサベッラ・デ・メディチ(フィレンツェ、1542-1576)が結婚してから、この紋章が使用されることになりました。


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制作者情報不知の「パオロ・ジョルダーノ1世・オルシーニの肖像」


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制作者情報不知の「イサベッラ・デ・メディチの肖像」


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制作者情報不知の「パドヴァの聖アントニオ」


P1370334
詳細不知


P1370339
次の部屋です。


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Sala del Leone


P1370340
(つづく)

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次はオデスカルキ城博物館です。


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少し遠回りして11月4日広場経由で城に行きます。


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11月4日広場に面して建つPalazzo Comunaleです。


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11月4日広場からCastello Orsini- Odescalchiがよく見えます。


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Castello Orsini- Odescalchiの塔の下に来ました。


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オデスカルキ城博物館の開館時間になりました。


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聖母の目の周囲の描き方に違和感があるタベルナコロです。


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ブラッチャーノの見所は、何といってもCastello Orsini- Odescalchiでしょう。保存状態が良いことで知られています。


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ジュゼッペ・マッツィーニ広場です。城の入り口は、この広場の端にあります。


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サラセン人の攻撃に対する防御として、ブラッチャーノ湖畔の高台に多くの塔が10世紀に建設されました。現在の城の塔は、10世紀に建設された塔が利用されてます。


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11世紀には、現在の城がある場所と城に隣接する広大な土地がPrefetti di Vico家に売却されました。
同家は、ドイツ出身の貴族で、ローマに住み、ヴィーコ湖とその周囲の土地を所有していました。ブラッチャーノの土地を買収した同家は、10世紀に建設された防御用の塔を組み入れた城を建設しましたが、その城が現在の城の前身です。


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1234年、Prefetti di Vico家はブラッチャーノの領有権をオルシーニ家に売却しました。1375年からブラッチャーノは教皇の領有地となりました。


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1419年、ローマの名門コロンナ家出身の第206代教皇マルティーノ5世(ジェナッツァーノ、1368-ローマ、1431 教皇在位:1417-1431)は、ブラッチャーノの領有権がローマの名門貴族オルシーニ家の分家にあることを確認したのです。
現在の城は、傭兵隊長のナポレオーネ・オルシーニ(1420c-1480)とその息子で傭兵隊長のジェンティーレ・ヴィルジニオ・オルシーニ(ブラッチャーノ、1445c-ナポリ、1497)が、万能の芸術家・建築家フランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニ(シエナ、1439-1501)などを起用して、従来の城を1470年から1485年にかけて拡大整備増強させましたが、現在のルネサンス様式の城は、この増強後の姿となってます。
1696年、オルシーニ家は、コモ出身の貴族リヴィオ・オデスカルキ(コモ、1652-ローマ、1713)に城を売却しました。
1952年から城は博物館として一般公開されるようになりましたが、城を所有するオデスカルキ家は今でも城に居住しています。オデスカルキ家居住部分は非公開となってます。


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ジュゼッペ・マッツィーニ広場に切符売り場があります。


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切符売り場


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城の入り口扉です。切符を買った人が扉の前に立つと、扉が開くようになってます。それ以外の場合、扉が閉まっているので、休館と誤解する人がいるそうです。


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城の敷地内に入りました。


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城には五本の塔があります。


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城門です。


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イタリアにあるルネサンス様式軍事建築物の代表作の一つとされてます。


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1797年、ナポレオン軍の侵攻によって城は接収され、城にあった多くの芸術作品や宝物がフランスに持ち去られ、その殆どが戻されていません。
また、フランス軍は、城をマリーノ・トリオニア伯爵に譲渡しましたが、同伯爵は、1848年、リヴィオ3世・オデスカルキに城を売却し、元の持ち主であるオデスカルキ家に戻ったのです。オデスカルキ家は、自己が所有していた城をフランス軍に無償接収され、金を出して自己所有にしたという、非常に損な取引をしたので、同家の財政状態は悪化してしまいました。


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庭からのブラッチャーノ湖の景観


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建物の入り口です。


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こちらは建物の出口となってます。


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建物の先でロープが張られていますが、ロープの先はオデスカルキ家の居住部分となっており、非公開、立ち入り禁止となってます。


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入口の天井のフレスコ画があります。


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1470年から1485年に、城が増強整備されましたが、その時に描かれたフレスコ画です。


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最初の部屋に入りました。


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一般公開される前は書斎として使用されていた部屋です。


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ペストが流行していたローマから逃れて、1481年、教皇シスト4世・デッラ・ローヴェレがこの城に一時的に滞在したそうです。


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部屋のフレスコ画は、フェデリーコ・ズッカリ(サンタンジェロ・イン・ヴァード、1539-アンコーナ、1609)とタッデオ・ズッカリ(サンタンジェロ・イン・ヴァード、1529-ローマ、1566)のズッカリ兄弟によって16世紀第3四半世紀に制作されました。


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次の部屋です。


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少し小さなベッドが置かれてます。この当時、高貴な人はベッドに完全に横臥するのではなく、頭と背中上部を壁にもたれて寝たそうで、そのためにサイズが小さなベッドが使用されていました。


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男女の肖像画があります。この部屋を使用していた夫婦の肖像画と思いますが、その詳細が分かりません。


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(つづく)

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サント・ステファノ・プロトマルティーレ参事会教区教会の最初の建物は1200年頃建設されたと言われてます。


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ドゥオーモが一日中閉まっていることはない筈と思い、後で来ることにしました。


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ドゥオーモの横の建物に聖母子のタベルナコロがあります。


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ドゥオーモはカステッロの城壁外の、コムーネの城壁内に建設されました。


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カステッロの城壁沿いの道を進みます。


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こちらの道もロトンダ通りです。


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ロトンダ通りは、ドゥオーモの前を一周するのです。


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堅固な造りの建物が建ち並んでます。


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Piazza Saminiatiです。


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ロトンダ通りを一周しました。


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市立博物館の開館時間になりました。


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サンタ・マリア・ノヴェッラ修道院の入り口です。


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扉が開いてます。


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キオストロ回廊への入り口です。


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サンタ・マリア・ノヴェッラ修道院の中庭です。


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中庭にある井戸


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市立博物館の入り口です。


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入館しました。入館無料でした。


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クリストフォロ・スタティ(ブラッチャーノ、1556-ローマ、1619)の「ヴィーナスとアドーネ」(1600-10)


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この作品はクリストフォロの代表作の一つです。


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噴水の口


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クリストフォロ・スタティ工房作「Mostra di Fontana」


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トスカーナの彩釉テラコッタ制作者作「受胎告知」(20世紀)


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アンドレア・デッラ・ロッビア作品の複製のようです。


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ジローラモ・トロッパ(ロッケッテ、1636-ローマ、1710)の「ヴィッラノーヴァの聖トンマーゾの施し」(17世紀後半)


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アウレリオ・テンペローニの「ダンテの肖像」(1873)


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アウレリオ・テンペローニという彫刻家については全く知りません。


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市立博物館は2006年4月1日に開館しました。


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展示室は全部で5室あります。


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ローマ時代の彫刻


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キリストの頭像


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ソフィア・ローザ・カテリーナ・ブラニカ・オデスカルキの肖像(19世紀後半)
制作者は不明のようです。


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ソフィア・ローザは、ヨーロッパ有数の富裕者だったローザ・ポルカの娘であり、ロシア女帝カテリーナ二世の孫でした。1841年、リヴィオ3世オデスカルキと結婚しましたが、当時豊かでなかったオデスカルキ家は、ソフィア・ローザが持参した莫大な資産によって財政状態が回復したと言われてます。


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キオストロ回廊から見た旧修道院の建物


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外に出ました。
(つづく)

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ジョルダーノ・オルシーニ枢機卿(ローマ、1360/1370-1438)の指示によって、1436年から1450年に建設されたルネサンス様式のサンタ・マリア・ノヴェッラ修道院教会です。
建物が完成間近になると、第207代教皇エウジェニオ4世(ヴェネツィア、1383-ローマ、1447 教皇在位:1431-1447)はサンタゴスティーノ修道会に建物を与えることを決めました。建物が完成すると同会修道士が定住し、サンタゴスティーノ会の修道院教会となりました。


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鐘楼は、16世紀に創建され17世紀初頭に完成しました。


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1628年から1630年に、建築家オラツィオ・トゥッリアーニ(ブラッチャーノ、1578-ローマ、1657)の設計によって増築されましたが、現在の姿はこの増築後のものです。


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内部は1998年から2003年に大掛かりな修復工事が行われました。
修道院は閉鎖されて、その建物は、現在、市立博物館として使用されてます。


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中に入りました。


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単廊式、ラテン十字形、ルネサンス様式の内部です。


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1998年から2003年に行われた修復によって、塗装し直された壁です。


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天井の装飾


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ジョヴァンニ・フランチェスコ・トッリアーニ(1625-1699)の「聖母子」(1692-96)


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主祭壇と後陣


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ジョヴァンニ・フランチェスコ・トッリアーニ(1625-1699)による装飾(1692-96)


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ジョヴァンニ・フランチェスコ・トッリアーニ(1625-1699)の「聖アゴスティーノ」と「聖モニカ」(1692-96)


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ポーランド出身の画家タッデオ・クンツェ(ポーランド、1727-ローマ、1793)の主祭壇画「聖母被昇天」(18世紀第4四半世紀)


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制作者情報不知の「磔刑」


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ジュゼッペ・トーリの「聖ジュゼッペの死」
ジュゼッペ・トーリは、アゴスティーノ会修道士で、タッデオ・クンツェの弟子でした。


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ジュゼッペ・トーリの「聖モニカに顕現するキリスト」


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ジュゼッペ・トーリの「聖母子と聖アゴスティーノと聖モニカ」


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ジュゼッペ・トーリの「聖体拝領を授ける聖母」


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制作者情報不知の「貧者に施しをする聖アゴスティーノ」


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主祭壇前から見た出入口方向


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外に出ました。


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見所が多そうな通りです。


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隣にある市立博物館に入館したいと思いましたが、開館時間まで15分ほどありました。


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15分ほどの時間潰しに出発しました。


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城は博物館として一般公開されてますが、この時間は開いていません。


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多分開いている筈のドゥオーモに行くことにしました。


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城の下の道を行きます。


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見上げると塔が聳えているのを目にしました。


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ジュゼッペ・マッツィーニ広場です。


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ロトンダ通りです。


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この辺の堅固な家は、オルシーニ家が町の防御を考えて造らせたそうです。


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ロトンダ通りを進みます。


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アーチの先にドゥオーモがあります。


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ブラッチャーノのドゥオーモです。


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ドゥオーモの扉が閉まっているとは予想外でした。


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サント・ステファノ・プロトマルティーレ参事会教会です。


P1370209
(つづく)

P1370114
前泊地はローマでした。普通列車に乗車してブラッチャーノに向かいました。


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ブラッチャーノ駅に到着しました。


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ローマ~カプラニカ~ヴィテルボを結ぶ鉄道を利用すれば、簡単にブラッチャーノに行くことが出来ます。


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ブラッチャーノ駅の駅舎です。


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この日のお宿に向かいます。


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ブラッチャーノは、人口18,897人(2020年1月1日現在)のラツィオ州ローマ県にあるコムーネです。


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ブラッチャーノ湖を見下ろす丘上と湖畔にある町で、その丘上に、ローマの大貴族オルシーニ家の城塞があることで知られてます。


P1370116
写真左がAlbergo della Postaで、この日のお宿です。


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午前中の到着にも拘らず、部屋に入ることが出来ました。
部屋の中に植物画が数点ありました。


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イギリスで盛んな植物画です。


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全部バラを描いたものです。


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このお宿のオーナーがバラ好きということが分かりました。


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部屋で一服してから外に出ました。マッジョ広場です。


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サンタ・マリア・ノヴェッラ修道院教会の拝観は後程にしました。


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プリンチペ・デ・ナポリ通りです。


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町の中心、11月4日広場です。


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11月4日広場にある、17世紀に造られた噴水です。


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町役場です。


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町役場の前にあるのは、二度の世界大戦で戦死した、町出身兵士の慰霊碑です。


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1619年から1636年に建設されたPalazzo Comunaleです。
Palazzo Comunaleの左右の建物は、教皇インノチェンツォ11世の甥で、ブラッチャーノ公爵、Principe del Sacro Romano Imperoのリヴィオ・オデスカルキ(コモ、1652-ローマ、1713)が学校、穀倉、劇場として建てさせたものです。


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11月4日広場に面して教会があります。


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Chiesa della Visitazioneです。オルシーニ公爵が建築家オラツィオ・トゥッリアーニ(ブラッチャーノ、1578-ローマ、1657)を起用して1641年に建設された教会修道院です。
貧しいクレア修道会の女子修道院の一部として使用されましたが、ナポレオンの抑圧令によって1800年に修道院が閉鎖されました。


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ファサードの装飾


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中に入りました。


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単廊式の単純な構造の内部です。


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右側壁


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19世紀中頃に行われた改修の際に描かれた天井のフレスコ画


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主祭壇


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主祭壇画の「ご訪問」(19世紀中頃)
私には制作者などの詳細が分かりません。


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創建時に描かれたフレスコ画(17世紀中頃)が僅かに残されてます。


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外に出ました。


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11月4日広場の先に、Castello Orsini- Odescalchiとサンタ・マリア・ノヴェッラ教会が見えます。


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写真右奥に売店のような建物は観光案内所です。観光案内所で地図を頂戴しました。


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ご訪問教会が面している9月20日通りを進みます。


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9月20日通りを左折してVia Principe di Napoliに入りました。


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通りを真直ぐ進めば城の下に出ます。


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ブラッチャーノは欧米人に人気がある観光地ですが、日本人観光客を見かけたことがありません。


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今度はサンタ・マリア・ノヴェッラ修道院教会の拝観です。


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(つづく)

230
16世紀の逸名画家作「悔悛の聖ジローラモ」


231
16世紀の逸名画家作「磔刑」


232
ペッレグリーノ・ティバルディ(ヴァルソルダ、1527-ミラノ、1596)の「聖ジョヴァンニ・バッティスタの説教」


238
ペッレグリーノ・ティバルディ(ヴァルソルダ、1527-ミラノ、1596)の「聖ジョヴァンニ・バッティスタの斬首」


234
ピエトロ・ボナッコルシ通称ぺリン・デル・ヴァーガ(フィレンツェ、1501-ローマ、1547)の「聖家族と聖ジョヴァンニーノ」


235
グイド・レーニ(ボローニャ、1575-1642)の「キリスト」


240
グイド・レーニ(ボローニャ、1575-1642)に帰属する「聖ジョヴァンニ・バッティスタ」


241
アレッサンドロ・マッツォーラ・べドリ(パルマ、1533-1608)に帰属する「聖母子」


243
ジローラモ・ムツィアーノ(ブレーシャ、1532-ローマ、1592)の「聖ザッカリア」


245
ジローラモ・ムツィアーノ(ブレーシャ、1532-ローマ、1592)の「聖ジョアッキーノ」


246
ビザンチン様式の逸名画家作「聖母子と聖人たち」(15世紀)


247
フラ・カルネヴァーレ俗名バルトロメオ・ディ・ジョヴァンニ・コッラディーニ(ウルビーノ、1420/1425c-1484)の「聖ジョヴァンニ・バッティスタ」


248
フェリーチェ・ダミアーノ(グッビオ、1530-1608)の「聖ルチア」


249


251
フェリーチェ・ダミアーノ(グッビオ、1530-1608)の「聖テクラ」


254
フィリッポ・ベッリーニ(ウルビーノ、1550c-1603)の「割礼」


255
フィリッポ・ベッリーニ(ウルビーノ、1550c-1603)の「無原罪の御宿リ」


257
クラウディオ・リドルフィ(ヴェローナ、1560-アンコーナ、1644)の「無原罪の聖母」


260
ピエル・パオロ・メンゾッキ(フォルリ、1532-1589)の「ロレートに巡礼するジョルジョ・イヴァノヴィッチ」


262
シモン・ヴーエ(パリ、1590-1649)の「最後の晩餐」(1616-20)


264
セバスティアーノ・コンカ(ガエータ、1680-ナポリ、1764)の「バーリの聖二コラ」


265
アントニオ・ザンキ(エステ、1631-ヴェネツィア、1722)の「煉獄の魂を助く教会」


266


267
ジュゼッペ・マリア・クレスピ通称ロ・スパーニョレット(ボローニャ、1665-1747)の「無原罪の御宿リと聖ガエターノ」


274
17世紀の逸名画家作「天上の聖母子と聖人たち」


275
大司教の寝室?


276
詳細不知


277
日本のものらしい。


278
宝物聖具類


280
クリストフォロ・ロンカッリ通称イル・ポマランチョ(ポマランチェ、1553c-ローマ、1626)の「聖ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ」


281
クリストフォロ・ロンカッリ通称イル・ポマランチョ(ポマランチェ、1553c-ローマ、1626)の「福音書記者聖ルカ」


327
ロレンツォ・ロット(ヴェネツィア、1480-ロレート、1556/1557)の「男の肖像」
個人蔵のこの作品は博物館で寄託展示されてます。


328
ロレンツォ・ロット(ヴェネツィア、1480-ロレート,1556/1557)の「キリストの洗礼」(1551-55c)


335
ロレンツォ・ロット(ヴェネツィア、1480-ロレート,1556/1557)の「マギの礼拝」(1554-55)


329
ロレンツォ・ロット(ヴェネツィア、1480-ロレート、1556/1557)の「キリストと姦通女」(1546-55c)


330
ロレンツォ・ロット(ヴェネツィア、1480-ロレート、1556/1557)の「フォルテッツァとフォルトゥーナの戦い」(1550以前)


332
ロレンツォ・ロット(ヴェネツィア、1480-ロレート、1556/1557)の「メルキゼデクの犠牲」(1551-55)


333
ロレンツォ・ロット(ヴェネツィア、1480-ロレート、1556/1557)の「ルシファーの墜落」(1551-55)


334
ロレンツォ・ロット(ヴェネツィア、1480-ロレート、1556/1557)の「聖クリストフォロと聖ロッコと聖セバスティアーノ」(1532-34)


331
ロレンツォ・ロット(ヴェネツィア、1480-ロレート、1556/1557)の「キリストの神殿奉献」(1552-56)
未完に終わった、この作品が遺作とされてます。


187
博物館入り口直ぐにあった、この作品をもう一度見ました。


285
外に出ました。


287
聖堂と博物館を見て大満足でした。


289
しかし、他に行きたいところがありません。


291
レカナーティに戻ることにしました。


292
(ロレートの項 おわり)

032
次は、Museo Pontificio della Santa Casa o Museo  Antico Tesoro聖なる家の教皇庁博物館です。


178
博物館は、アポーストリコ宮の一階(日本の二階)にあります。階段を上ってアポーストリコ宮の一階に向かいます。


179
アポーストリコ宮の一階のロッジャを進みます。博物館は西翼にあります。


180
一階ロッジャから見た聖なる家の聖堂です。


181
マドンナ広場


182
フォンターナ・マッジョーレ


183
1862年に開館した博物館は、聖なる聖堂にあった芸術作品などを展示してます。


184
聖なる家にあった芸術作品や宝物の一部は、1797年、ナポレオン軍によって強奪されました。また、1974年に盗難に遭ったので、1979年から盗難品の複製復元が行われたものがあります。


185
博物館の入り口です。
この博物館の特徴は何といってもロレンツォ・ロット(ヴェネツィア、1480-ロレート、1556/1557)の作品が9点あることでしょう。
困窮したロレンツォ・ロットは、1552年、ロレートにやってきてFrate Conversoになり、1554年には聖なる家の聖堂のOblateになりました。1556年末、または1557年初頭にロレートで没しました。
それがロット最晩年の作品がこの博物館にある理由です。


186
中に入ると、ロレンツォ・ロットの作品が真っ先に目に飛び込んできます。


283
ロレンツォ・ロット(ヴェネツィア、1470c-ロレート、1556/1557)の「幼きキリストへの崇拝」(1546-55)


321


189
アンジョリッロ・アルクゥッチョ(ナポリ、1396?-1492 ナポリ、1440-1492記録)に帰属する「ロレートの聖母」(1470c)


322


323


324


192
ヨーゼフ・ハインツ・イル・ジョーヴァネ(アウグスタ、1600c-ヴェネツィア、1678)の「聖なる家の移転」


195
ジョヴァンニ・バリオーネ(ローマ、1566-1643)の「受胎告知」


193
カラヴァッジョとの「バリオーネ裁判」で有名なジョヴァンニ・バリオーネですが、聖なる家の聖堂に作品があることから、当時はかなり評価が高かったことが分かります。


197
ジョヴァンニ・バリオーネ(ローマ、1566-1643)の「聖母の誕生」


198
展示室天井の装飾


199
展示室天井の装飾


200
フランチェスコ・メンゾッキ(フォルリ、1502-1574)の「天使たちによって運ばれる聖なる家」(1548)


325


203
ジョヴァンニ・フランチェスコ・バルビエーリ通称イル・グエルチーノ(チェント、1591-ボローニャ、1666)の「トレンティーノの聖二コラ」


204
現代の宗教画が展示されてます。


207
フランチェスコ・フォスキ(アンコーナ、1710-ローマ、1780)の「3教皇とロレートの景観」


208
アントニオ・マッツォ―ネ・デイ・ドメニキ・ディ・ファエンツァ通称アントニオ・ダ・ファエンツァ(ファエンツァ、1456/1457-1534/1535)の「受胎告知する大天使」(1513)


211
アントニオ・ダ・ファエンツァ(ファエンツァ、1456/1457-1534/1535)の「受胎告知を受ける聖母」(1513)
聖なる家の聖堂のオルガン扉に描かれていたものです。


213
フランチェスコ・フォスキ(アンコーナ、1710-ローマ、1780)の「聖なる家の移転」


326
Sala degli Arazzi


214
フランドル地方で織られたタペストリが展示されてます。


217
ポマランチョの「アントニオ・マリア・ガッリ枢機卿の肖像」が写真を撮れそうない位置にてんじされていました。


219
ルーチョ・マッサーリ(ボローニャ、1569-1633)の「天上の聖家族と天使たち」


220
現代宗教画


221


222


224
ジローラモ・ムツィアーノ(アクゥアフレッダ、1532-ローマ、1592)の「信者を洗礼する聖ジョヴァンニ・バッティスタ」


226
ジローラモ・ムツィアーノ(アクゥアフレッダ、1532-ローマ、1592)の「信者を洗礼するキリスト」


228
フェリーチェ・ダミアーノ(グッビオ、1530-1608)の「最後の晩餐」
(つづく)

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