イタリア芸術を楽しむ

イタリアの魅力を味わい尽くすには、一生に何度旅をすれば足りるだろう。芸術の宝庫にして、歴史の生きた証であるイタリア。 惹き付けて止まない絵画、彫刻、歴史的建造物、オペラなど、芸術の宝庫であるイタリアを楽しむブログです。 記事は一日に一つアップしています。記事の見方ですが、例えば「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その4)」は2017年10月20日にアップしました。各記事にカレンダーが表示されてますが、カレンダー上の2017年10月21日をクリックして頂ければ「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その5)」になります。(その3)は2017年10月20日となります。 BY:シニョレッリ

2021年06月

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カルロ・アルベルト通りの突き当りにサンタ・カテリーナ教会修道院があります。


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サンタ・カテリーナ教会です。1772年に閉鎖されてから宗教活動が再開されることがない旧教会です。


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こちらはサンタ・カテリーナ修道院だった建物です。


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サンタ・カテリーナ教会修道院が建っている場所に、1283年からトレヴィーゾのシニョーリを務めるダ・カミーノ家の宮殿が建っていました。


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1306年、ダ・カミーノ家当主がその長男に宮殿内で殺害され、その長男も宮殿のロッジャで反乱軍によって暗殺され、ダ・カミ―ロ家はトレヴィーゾから追放されました。
追放後、ダ・カミ―ロ宮殿は放置され、荒廃しましました。


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1346年、マリアの下僕托鉢修道会が修道院建設を当時のポデスタに願い出ました。ポデスタは、荒廃したダ・カミーノ宮殿の土地と建物を与えました。
宮殿だった建物の一部を利用して、1346年、修道院と教会の建設が開始されました。


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1348年、ペスト禍によって建設工事が中断しましたが。ペストの流行が落ち着くと工事が再開され、15世紀初頭に完成しました。
当初は、サンタ・マリア修道院教会と呼ばれていましたが、後にサンタ・カテリーナ教会修道院と改称されました。


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1772年、修道院抑圧政策によってサンタ・カテリーナ教会修道院は閉鎖され、ヴェネツィア共和国の国有財産となりました。同年、競売が行われ、ベルフィオーレのフランチェスコ会三次尼僧の所有となりました。修道院抑圧政策で修道士を追放したにも拘らず、尼僧に落札させたのは矛盾のように思えます。


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1806年、ナポレオンの抑圧令によって、サンタ・カテリーナ教会修道院の建物はフランス軍に接収されて、軍事施設に転用されました。フランス軍の撤退後も国有の軍事施設として継続使用され、その状態は第二次世界大戦の終戦まで続きました。


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1944年4月7日と1945年3月10日の、ドイツ軍によるトレヴィーゾ空爆の際、修道院教会の建物は爆撃を受けて大きな被害を受けました。
戦後になっても建物の修復は未着手のまま放置されました。


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1974年、サンタ・カテリーナ修道院教会の建物に市立美術館の設置が決定されましたが、資金難のために建物の修復が中々進捗しませんでした。


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修復が済んだ建物の一部を使用して、市立美術館が2003年に部分開館しました。本格的な開館は2015年のことでした。
現在も建物の修復工事が継続されており、美術館は更に拡大されることになってます。


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修道院のファサード


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市立美術館の入り口です。


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月曜日が休館ですが、月曜以外は開館するものの毎日昼休みがあります。


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サンタ・カテリーナ修道院教会の鐘楼です。


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後陣


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修復が少し進んだ後陣


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サンタ・カテリーナ教会ファサードの隣にあるCappella degli Innocentiのファサードです。


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Cappella degli Innocentiファサード上部にあるモノグラム


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サンタ・カテリーナ教会の構造図


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美術館の扉が開きました。


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入館します。


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美術館は、考古学部門、絵画彫刻部門、サンタ・カテリーナ教会の三部門構成です。


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入館すると先ずキオストロ回廊に出ます。


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長期間、軍事用に転用され、第二次世界大戦における二度の爆撃を受けたので、20世紀後半に復元された回廊です。


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それでもフレスコ画が僅かに残されてます。


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回廊の壁のフレスコ画断片


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回廊を経由して展示室に向かいます。


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現代抽象画が回廊にありました。


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現代抽象画は特別展示であって、常設ではないと思います。


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この日は階上で展示されていました。


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考古学部門から見て回りました。


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石器時代の展示


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青銅器


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鉄器


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(つづく)

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Palazzo dei Trecentoです。


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この日、食のフェスタが開催中でした。


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ヴェネツィア領だったことを示す「有翼の獅子像」


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次はサン・フランチェスコ修道院教会です。


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サン・フランチェスコ修道院教会の鐘楼です。


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サン・フランチェスコ修道院教会です。


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1216年、聖フランチェスコ(アッシジ、1182-1226)から派遣された修道士たちがトレヴィーゾに到着しました。すぐに定住して修道院を建てることが許され、聖母に捧げられた小さな修道院と礼拝堂が、現在の場所に建設されました。


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しかし、信者や修道士希望者が増える一方になり、建設されたばかりの聖母に捧げられた修道院と礼拝堂は手狭になってしまいました。


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教会のファサード
従来の建物が取り壊され、1231年から修道院と教会の建設が始まり、1270年完成した建物が現在の姿の原形となってます。


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1797年、フランス軍によって修道士が追放され、建物は接収されて兵舎に転用されました。


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フランス軍の撤退後、1806年、今度はイタリア王国の所有となり、イタリア王国軍の軍馬の厩舎として使用されることになりました。その際、修道院の回廊が半分破壊されたそうです。


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1920年頃から修復工事が行われ、1926年の工事完了を待って再び宗教活動が再開されました。少し新しく見える箇所は、修復された部分です。


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聖フランチェスコのブロンズ像が置かれてます。


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聖フランチェスコのブロンズ像は、ロベルト・クレメシーニ(ロヴィーゴ、1944-)の作品です。


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キオストロ


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キオストロ回廊


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1920年台に修復されました。


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回廊の壁は綺麗に塗装されてます。


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フレスコ画の痕跡すらもないようです。


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美術的な見所は全くないキオストロ回廊です。


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二廊式、ゴシック様式の内部です。


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美術的な見所が多い教会です。


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T字形の後陣、二廊式の珍しい構造をしています。


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制作者不明の「パドヴァの聖アントニオ」


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ピエトロ・アリギエーリの墓
ピエトロはダンテの弟です。


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アルヴィーゼ・ヴィヴァリーニ(ヴェネツィア、1446-1502)の「聖会話」(1480)


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ヴィットーレ・カルパッチョ(ヴェネツィア、1465-1520)の「聖ジョアッキーノと聖アンナの邂逅」


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次は市立美術館です。


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サン・レオナルド教会を通り過ぎます。


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この日、水量が多く、流れが急でした。


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水車が動いていました。


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水車の目的が分かりません。


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動いていないことが多かったと思います。


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魚市場が営業中でした。


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写真右の道を進みます。


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突き当りが市立美術館が置かれているサンタ・カテリーナ教会修道院です。


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美術館の入り口です。


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入館しました。


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キリがないので、この辺で終わりにしましょう。
(トレヴィ―ゾの街歩き おわり)

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サンタ・マリア・マッジョーレ広場にやってきました。


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サンタ・マリア・マッジョーレ教会です。


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この場所に1世紀から3世紀に建設されたエジプトの女神イシスを祀る異教の寺院がありましたが、キリスト教が国教となるに伴い、初期キリスト教会に転用されました。


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899年、マジャール人の侵攻によって初期キリスト教会は、破壊されてので、11世紀に再建されました。


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15世紀中頃、二代目の建物は経時劣化のため破壊され、三代目の建物が1473年に創建され、16世紀に完成しました。そのヴェネツィア式ゴシック様式の三代目の建物が現在の姿です。


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左側壁です。


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後陣


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19世紀の制作されたエッチングです。鐘楼が低いことが分かります。


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ファサードよりもかなり高い現在の鐘楼です。時計塔にするために20世紀に鐘楼が改造されたのです。


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20世紀に追加された時計


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美術的な見所は、トンマーゾ・ダ・モデナに帰属するフレスコ画でしょう。


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三廊式、ゴシック様式の内部です。


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マドンナ・グランデ礼拝堂です。


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礼拝堂の祭壇


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トンマーゾ・ダ・モデナ(モデナ、1326-1379)に帰属する「マドンナ・グランデ」


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マドンナ・グランデ礼拝堂の上にもフレスコ画があります。


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15世紀のフレスコ画


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他にも見所が沢山あります。


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古そうな建物にフレスコ画があります。


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かなり出来が良い「聖母子」ですが、制作者や制作された時期などが分かりません。


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洪水の心配がありそうですが・・・・・


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水位が低い場所が大部分です。


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ホテルに戻りました。


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トレヴィーゾの城壁です。


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ホテルの部屋からの眺めです。


002


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この日は快晴でした。


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トレヴィーゾの紋章が壁にあります。


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非常に心地よい日でした。


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見慣れた光景です。


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サン・マルティーノ・ウルバーノ教会です。ラ・スペツィア大聖堂の小型版の建物に見えます。


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街の中心に向かいます。


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ポポロ通りです。


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マリオ・デル・モナコ像を見ます。


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イタリアの名オペラ歌手マリオ・デル・モナコ(ガエータ、1915-メストレ、1982)像です。


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フィレンツェ生まれとされていたマリオですが、後にマリオ自身がガエータ生まれと言ったそうです。晩年、腎臓を患ったモナコはトレヴィーゾ郊外の別荘で腎透析などの治療を受けていましたが、心臓発作を起こし、メストレの病院に運ばれて、そこで没したのです。


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トレヴィーゾのシンボル、時計塔です。


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(つづく)

127
次は市立美術館です。


133
カルロ・アルベルト通りを進みます。


134
通りの突き当りがトレヴィーゾ市立美術館です。


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サンタ・カテリーナ教会修道院だった建物が市立美術館になってます。


153
入館しました。


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旧修道院のキオストロ


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美術館は、考古学部門、絵画・彫刻部門、教会のフレスコ画の三部門構成です。


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ジョヴァンニ・ベッリーニの「聖母子」


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サンタ・カテリーナ教会の建物です。


156
キオストロ回廊
市立美術館については、項を改めて詳しく取り上げます。


136
外に出ました。


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市立美術館の周囲を見て回ります。


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旧サンタ・カテリーナ教会の後陣です。


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サンタ・カテリーナ教会後陣前は広場になってます。


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ジャコモ・マッテオッティ広場です。


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街の中心に向かう通りです。


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写っている鐘楼は、サンタ・カテリーナ教会修道院のものです。


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サン・トンマーゾ門です。


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1516年、市域の拡大によって新たに築かれた城壁の門として建てられました。


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門の名称は、門の直ぐ傍にあった、今は破壊されて存在しないサン・トンマーゾ・ベケット教会に因んでます。


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サンタ・マリ・マッダレーナ教会です。


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13世紀に建設された元の建物は城壁外にありましたが、16世紀初頭、市域の拡大に伴って新しい城壁が築かれることになりました。元の建物は、新城壁に当たる場所にあったので、破壊されることになりました。


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その代わりに城壁内の現在の場所に新しい建物が建設されることになりました。


148
1576年に完成した二代目の建物が現在の外観です。1588年に奉献式が執り行われました。16世紀末に修道院が併設されました。
1772年、教会修道院はウルスリン(尼僧)の所有となりました。修道院は1810年に閉鎖され、修道院だった建物は2012年まで養老院として使用されていました。
1925年、教区教会になりました。


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ファサードの聖マリア・マッダレーナのフレスコ画(17世紀)


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単廊式、ラテン十字形の内部です。


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後陣左の祭壇画は、カルレット・カリアーリ(ヴェネツィア、1570-1596)の「磔刑」
カルレット・カリアーリは、パオロ・カリアーリ通称パオロ・ヴェロネーゼの息子です。


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Presbiterio


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左側壁


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ファサード裏にオルガンがあります。


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夕方になってきました。


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古い建物が建ち並んでいる一角です。


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一旦、川に出ました。


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次はサン・ガエターノ教会です。


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サン・ガエターノ教会です。


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13世紀に創建されたロマネスク様式の教会でしたが、1509年に再建されました。


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現在は、宗教活動を休止しているようです。コンサートや展示会などの会場に転用されてます。


167
(つづく)

引き続きドゥオーモです。
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美術的に必見のCappella del Malchiostroです。


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ティツィアーノの祭壇画とポルデノーネのフレスコ画で有名です。


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トゥッリオ・ロンバルド(ヴェネツィア、?-1532)とアントニオ・ロンバルド(ヴェネツィア、1458-フェッラーラ、1516)兄弟(トゥッリオが兄です)によって1520年に造られた礼拝堂です。


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祭壇画は、ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(ピエーヴェ・ディ・カードレ、1488/1490-ヴェネツィア、1576)の「受胎告知」(1519-20)です。


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後ろで顔を見せているのは礼拝堂の発注者でしょうか?


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「聖リベラーレ」を除いて、Cappella del Malchiostroのフレスコ画はポルデノーネの作品(1519)です。


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ジョヴァンニ・アントニオ・デ・サッキス通称イル・ポルデノーネ(ポルデノーネ、1483-フェッラーラ、1539)の「アウグストゥスの夢」(1519)
クーポラの、この部分のフレスコ画は、1944年4月7日のドイツ軍の爆撃によって被害を受けました。


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写真右が「聖リベラーレ」のフレスコ画です。ポルデノーネの作品ではありません。


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ポンポニオ・アマルテオ(モッタ・ディ・リヴェンツァ、1505‐サン・ヴィトー・アル・タリアメント、1588)の「聖リベラーレ」
ポンポニオの妻は、ポルデノーネの娘です。その関係で、ポンポニオによって描かれたのでしょう。
そうは言っても、ポンポニオ・アマルテオは、生涯に5人の女性を妻帯したと言われ、相当な浮気者だったようです。なお、ポルデノーネの娘は、ポンポニオの二番目の妻でした。


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ジョヴァンニ・アントニオ・デ・サッキス通称イル・ポルデノーネ(ポルデノーネ、1483‐フェッラーラ、1539)の「聖パオロ」(1519)


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ジョヴァンニ・アントニオ・デ・サッキス通称イル・ポルデノーネ(ポルデノーネ、1483‐フェッラーラ、1539)の「マギの礼拝」(1519)


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ジョヴァンニ・アントニオ・デ・サッキス通称イル・ポルデノーネ(ポルデノーネ、1483‐フェッラーラ、1539)の「ご訪問」(1519)


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ジョヴァンニ・アントニオ・デ・サッキス通称イル・ポルデノーネ(ポルデノーネ、1483‐フェッラーラ、1539)の「聖ピエトロ」(1519)


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サンティッシモ・サクラメント礼拝堂です。


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ドゥオーモ広場に面して建っている建物です。


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面白い形をした南瓜が並んでます。


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ロマネスク様式の歴史的建造物です。


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1276年から1277年に建設されたLoggia del Cavalieriです。


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1944年4月7日、ドイツ軍の爆撃を受けたので、戦後に修復されました。


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ロッジャの中に入ります。


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展示場、コンサート会場などに利用されてます。


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中に入っても特に見所がなさそうです。


119
次はサン・レオナルド教会です。


121
サン・レオナルド広場です。


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サン・レオナルド広場に面して建つサン・レオナルド教会です。サンタ・リータ教会とも呼ばれてます。


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現在地には、サン・レオナルド病院がありましたが、病院付属の礼拝堂が前身です。礼拝堂から規模拡大されてサン・レオナルド教会になりました。サン・レオナルド教会は、1330年の文書に初めてその存在が記載されました。


122
1657年に再建された建物が現在の姿の原形となってますが、ファサードは20世紀に新造された新しいものです。


124
「水の都」、「小さなヴェネツィア」と呼ばれているトレヴィーゾです。


125
水車があります。


126
魚市場です。


128
閉店時間が早い魚市場です。


129
流れが速く、水量が多い川です。


130


132


131
(つづく)

引き続きドゥオーモです。
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クリプタから本堂に戻ります。


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新しい建物ですが、美術的に見所が多い大聖堂です。


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クーポラ


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左側壁にオルガンがあります。


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1915年に制作された比較的新しいオルガンです。


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現在のオルガンは四代目となるものです。


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扉があります。


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扉がありますが、使用されていないようです。


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ロマネスク様式の二代目の建物時代の入り口扉で、15世紀に制作されたものが聖堂内に保存されてます。


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入口扉上のルネッタが見所です。


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ルネッタの「ピエタのキリスト」(13世紀)


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Altare del Beato Enrico da Bolzano


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ベアート・エンリコ・ダ・ボルツァーノの墓


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祭壇画の詳細が分かりません。


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Cappella della Madonnaを見ます。


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制作された時代が異なる彫刻があります。


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フェルディナンド・ストゥフレッサー(ドイツ、1855-1926)の「聖母子」(19世紀)


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ヴェネツィア派逸名彫刻家作「聖リベラーレ」(16世紀後半)


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アレッサンドロ・ヴィットリア(トレント、1525-ヴェネツィア、1608)の「聖ジョヴァンニ・バッティスタ」(1570)


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ロレンツォ・ブレーニョ(オステノ、1475/1485-ヴェネツィア、1523)の「ご訪問」


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Altare dei Santi della Diocesi di Treviso


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ピオ10世のブロンズ像(1954)


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Pala d'Altare di Safet Zec
祭壇画の詳細が分かりません。


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Altare del Beato Andrea Giacinto Longhin


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詳細不知


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Cappella Santa Guistina


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サンタ・ジュスティーナ礼拝堂の祭壇画


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フランチェスコ・ビッソロ(トレヴィーゾ、1470/1472-ヴェネツィア、1554)の「聖ジュスティ―ナと聖ジョヴァンニ・バッティスタとアレッサンドリアの聖カテリーナ」(1530)


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Cappella dell'AnnunziataにあるMonumento di Vescovo Castellano Salomone(1322)
この礼拝堂に4点の祭壇画があります。


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パリス・ボルドン(トレヴィーゾ、1500-ヴェネツィア、1571)の「羊飼いの礼拝」(1550c)


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パリス・ボルドン(トレヴィーゾ、1500-ヴェネツィア、1571)の「聖ロレンツォと四聖人」(1562)


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ジローラモ・ダ・トレヴィーゾ・イル・ヴェッキオ(トレヴィーゾ、1451-1497)の「花の聖母」(1487)


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ドメニコ・カプリオーロ(ヴェネツィア、1494-トレヴィーゾ、1528)の「聖母被昇天」


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フランチェスコ・ドミニーチの「トレヴィーゾのドゥオーモ(ロマネスク様式の建物時代)」


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パリス・ボルドン(トレヴィーゾ、1500-ヴェネツィア、1571)の「キリストの物語」


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(つづく)

020
次はドゥオーモです。


071
ドゥオーモにやってきましたが、ファサード側に回ります。


044
ドゥオーモ広場です。


042
広場に面して建つサン・ピエトロ・アポストロ大聖堂 Cattedrale di San Pietro Apostolo、トレヴィーゾ司教区の司教座教会です。


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現在、ドゥオーモが建っている場所は、ローマ時代、寺院、劇場、幾つかの浴場があった街の中心地でした。


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6世紀頃、現在地に建てられた初期キリスト教会が前身です。


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初期キリスト教会は、11世紀初めに取り壊され、11世紀から12世紀にかけてロマネスク様式の二代目の建物が再建されました。
しかし、18世紀初め、経時劣化が進み建物が荒廃したので、18世紀中頃に作家で政治家であり外交官だったアンドレア・メンモ(ヴェネツィア、1729-1793)などを中心とする人々からドゥオーモ再建が建議され、物理学者、建築、数学者、音楽理論家だったジョルダーノ・リッカティ(カステルフランコ・ヴェネト、1709-トレヴィーゾ、1790)の企画立案に基づき、新古典様式建築家ジャンアントニオ・セルヴァ(ヴェネツィア、1751-1819)によって、1760年から1782年にかけて建設された新古典様式の三代目の建物が現在の姿の原形となってます。
現在のファサードは、建築家フランチェスコ・ボンベン(トレヴィーゾ、1801-1875)とガスパーレ・ペトロヴィチによって1836年に建設されました。


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1944年4月7日、ドイツ軍の爆撃を受け大きな被害を受けたので、戦後に大修復されました。


046
ファサードに向かって左に教会のような古い建物があります。


023
このロマネスク様式の建物は、ドゥオーモの洗礼堂です。サン・ジョヴァンニ洗礼堂は13世紀に建設されました。


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サン・ジョヴァンニ洗礼堂の後方に鐘楼があります。


022
鐘楼は時計塔を兼ねてます。


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トレヴィーゾは長らくヴェネツィア領でしたが、ヴェネツィア支配下の時代、この鐘楼はヴェネツィアのサン・マルコ寺院の鐘楼よりも、規模や装飾の点で、下にしないといけないという規制を受けていました。


024
左外壁です。


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クーポラ


021
二代目の建物の一部が現存しています。


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ファサードの左右にライオン像があります。


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ファサードに向かって左側のライオン像


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ファサードに向かって右側のライオン像


045
拝観します。


025
聖堂内に入りました。


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三廊式、ラテン十字形、新古典様式の内部です。


026
主祭壇とPresbiterio


p1320494
ピエトロ・ロンバルド(カローナ、1435c-ヴェネツィア、1515)の「祭壇」


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p1320496
アッリンゴ・ダ・ボルツァーノの墓(14世紀)


p1320498
Presbiterioは立ち入り禁止でした。


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マリオ・ルデッリ(チニセッロ・バルサモ、1938-)の「聖書台」(1999)


p1320499
Presbiterio左側壁にあるビアージョ・ビアゲッティ(ポルト・レカナーティ、1897-マチェラータ、1948)の「ピオ10世の黙示録」(1914-15)


038
クリプタに入りました。


039
現存する大聖堂の中で、最古の部分がクリプタと言われてます。


040
11世紀から12世紀に建設されたクリプタです。


041
現在のクリプタは、15世紀に行われた改造後のものです。


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聖リベラーレの聖遺物(1403)


p132050505
ミストロリゴ司教の墓


p1320501
クリプタの所々にフレスコ画の断片が残されてます。


p1320502
フレスコ画の最古のものは13世紀から14世紀に遡ります。


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比較的新しいフレスコ画は、ヴェネツィア派逸名画家によって16世紀に制作されました。


p1320504
(つづく)

引き続き旧サン・ニコロ修道院の聖堂参事会室に描かれたドメニコ会修道士たちの肖像画です。
トンマーゾ・ダ・モデナ(モデナ、1326-1379)と、トンマーゾの弟子と協力者によって1352年に描かれました。
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Matteo Orsini


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Guglielmo Anglico


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Tommaso Anglico


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Nicolo di Rouen


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Gualtiero Winterbourne


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Nicolo Alberti


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Nicolo Boccasino


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Ugo di Billom


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Latino Malabranca


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Roberto Kilwardby


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Pietro di Tarantasia


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Annibaldo Annibaldi


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Ugo da San Caro


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Benedetto XI


p1320478
Innocenzo V


094
旧サン・ニコロ修道院の建物にIstituto Diocesano di Musicaがあります。


019
何か食べなくては。


P2490199
時間的に昼食を食べないと夕食まで持ちませんが、それ程お腹が空いていなかった。


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手軽に食べるため、日本語が通じない奇妙なお店に入りました。


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トレヴィーゾで初めて寿司もどきを食べました。


083
ビールで流し込んだ昼食でした。


084
柱廊を歩きました。


082
日差しが出てきました。


081
古い建物ですが、特に名前がないようです。


080
Monumento Ai Caduti di Tutte Le Guerre 戦争記念碑です。


p1320479
コンペで制作者が選ばれ、1926年から1931年に造られました。
第一次世界大戦の戦争記念碑です。


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第二次世界大戦の爆撃によって大被害を受けたので、戦後の復元されました。


079
シーレ川とソーレ川の合流点です。


078
Piazza Tretin


077
Piazza San Vito


076
Palazzo dei Trecento


074
再び街の中心にやってきました。


073


075


072
ベネトンの事務所です。


109
先ほどと同じ場所に来てしまいました。


110
サント・ステファノ教会です。


p1320481
サント・ステファノ教会の存在は、1000年頃の記録に初めて記載されたそうです。


115
二代目の建物が16世紀に倒壊してしまいました。


114
現在の建物は、1738年から1744年に建設されたものですが、第二次世界大戦の爆撃によって甚大な被害を受け、戦後に修復され、更に2011年から2012年にかけて行われた修復後のものです。


113
ファサードの聖ジョヴァンニ・バッティスタ像
(つづく)

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トンマーゾ・ダ・モデナ(モデナ、1326-1379)の「聖ジローラモ」


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トンマーゾ・ダ・モデナ派逸名画家作「大天使聖ミケーレ」(14世紀中頃)


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トンマーゾ・ダ・モデナ(モデナ、1326-1379)の「聖アグネス」


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制作者情報不知の「子供」


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オルガン


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ベアータ・ヴェルジネ礼拝堂


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ダニエル・ヴァン・デン・ダイク(アントワープ、1610-マントヴァ、1670)の「十字架を持つ聖ドメニコとシモン・デ・モントフォルト」


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教会から外に出て、隣の旧修道院に行きます。


092
修道院の入り口です。
1221年創建の修道院は、1810年にナポレオンの抑圧令によって閉鎖されました。修道院だった建物は、1812年から神学校に転用され現在に至ってます。


095
神学校 Seminario Vescovile Maggioreの入り口です。


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旧修道院に入ります。


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入口扉上の紋章


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修道院のキオストロ回廊


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キオストロ回廊の壁にある日時計
修道院の聖堂参事会室のフレスコ画が必見です。


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聖堂参事会室 Sala del Capitoloです。


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部屋の壁にフレスコ画が描かれてます。


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修道士たちが描かれてます。


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トンマーゾ・ダ・モデナ(モデナ、1326-1379)と、トンマーゾの弟子や協力者によって、1352年に制作された40人のドメニコ会修道士の肖像画です。
肖像画の下に名前が書かれているので、誰の肖像画なのか、全て分かってます。


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Giordano di Sassonia


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Raimondo de Penafort


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Giovanni di Sassonia


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Alberto Magno


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Giovanni da Schio


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Isnardo da Chiampo


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Gualtiero d'Alemagna


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Pietro Sendre


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Pelagio di Spagna


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Bernardo di Traversers


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Vincenzo da Beauvais


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Ambrogio da Siena


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Giacomo da Venezia


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Agostino di Trau


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Pietro de la Palude


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Maurizio d'Ungheria


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Guido Maramaldi


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Giovanni de Molendini


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Gerardo da Limoges


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Tommaso de Molendini


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Bonifacio da Pisa


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Guglielmo di Bayonne
(つづく)

101
この小川はボッテニガと呼ばれているようです。


102
この辺は街の西方に当たります。


103
小魚が泳ぎ、鳥が沢山います。


104
Via Lungo Sileに面して建つ、非常に目立つ建物です。民家のようです。


096
次はサン・ニコロ教区教会です。


105
サン・ニコロ教区教会です。


085
ファサード側に回ります。


087
1221年、Frati Domenicaniの修道士たちがトレヴィーゾに現れ、街の南西部に当たる城壁内の土地(現在の場所)が与えられました。


091
与えられた土地に聖二コラに捧げられた礼拝堂がありましたが、その礼拝堂が修道士たちの活動拠点になりました。


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直ぐに修道院と教会の建設が決まりました。
13世紀第2四半世紀に創建され、1282年奉献式が執り行われたので、それ以前に一応の完成を見たようです。


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ニッコロ・ディ・ボッカッショ、後の第194代教皇ベネデット11世(トレヴィーゾ、1240-ペルージャ、1304 教皇在位:1303-1304)が1257年から7年間、このサン・ニコロ修道院で修業した記録が残されているので、1257年頃にはゴシック様式の建物は一応完成したとされてます。


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奉献式時点の建物は、縦49メートル、横14メートルの大きなものでした。


106
後陣です。


107
13世紀末まで拡張工事が行われ、ほぼ現在の規模の大きさになりました。


108
鐘楼


093
現在の建物の大きさは、長さ88メートル、高さ33.35メートル、幅27.5メートル、左右の翼廊全長38.32メートルです。


086
よく見ると新しそうに見える外観です。


090
1944年、ドイツ軍の爆撃を受け、大部分が崩落するなど大きな被害を受けてしまいました。そのため、戦後に修復、復元されたので新しく見えるのです。


089
美術的な見所が豊富です。


p1320403
ファサード側の扉は閉まっていることが多いようです。


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通常、左側壁の入り口が開きます。


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三廊式、ラテン十字形、ゴシック様式の内部です。


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ゴシック様式の天井は、戦後に復元されたものです。


p1320408Presbiterio


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主祭壇画です。


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ジョヴァンニ・ジローラモ・サヴォルド(ブレーシャ、1480-ヴェネツィア、1548)の「聖会話」(1521)


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オルガンよりも、その下にあるフレスコ画の方に興味があります。


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作品帰属が分かりません(私が分からないという意味です)。


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その横に大きな聖クリストフォロのフレスコがあります。


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アントニオ・ダ・トレヴィーゾの「聖クリストフォロ」(1410)


p1320415
アンドレア・ダ・ムラーノ(ムラーノ、1462-カステルフランコ・ヴェネト、1512)の「聖母子と聖ピエトロと聖パオロ」(1510)


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ロザリオ礼拝堂


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p1320418
トンマーゾ・ダ・モデナ(モデナ、1326-1379)の「聖ジローラモ」


p1320419
トンマーゾ・ダ・モデナ(モデナ、1326-1379)の「聖アグネスと聖ジョヴァンニ・バッティスタ」


p1320420
トンマーゾ・ダ・モデナ(モデナ、1326-1379)の「聖ニコロ」


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右側廊


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制作者情報不知の「聖痕を受ける聖フランチェスコ」
(つづく)

サンタグネス教区教会の続きです。
061
単廊式、ラテン十字形、新古典様式の内部です。


060
1729年に施されたスタッコ彫刻による装飾が目立ちます。


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Presbiterio左


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Presbiterio右


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主祭壇画と聖歌隊席


063
主祭壇画は、オッタヴィオ・コッキ(トスカーナ、17世紀中頃活動)の「四十聖人の殉教」


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左側壁の礼拝堂です。


064
逸名画家作「救世主」(20世紀)


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右側壁の礼拝堂です。


065
ジュリオ・エットーレ・エルラー(オデルツォ、1876-トレヴィーゾ、1964)の「聖母子」


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右側壁の礼拝堂です。


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ジョヴァンニ・アントニオ・デ・ピエリ通称ロ・ゾッポ(ヴェネツィア、1671-1751)の「聖アグネスの殉教」


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左側壁の礼拝堂の祭壇画は、フランチェスコ・フェデーリ通称イル・マッジョット(ヴェネツィア、1738-1805)の「女性を解放する聖ウバルド」


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詳細不知


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外に出て、道路を挟んで教会の向かいにあるMuseoに行きます。


057
Musei Luigi Bailoです。


055
この時は、大改修工事待ちで長期休館中でした。


056
現在は、大改修されて近代美術館になってます。


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このように一新されました。


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Museo Civico Luigi Bailoです。綺麗に改修されたのは、建物の半分だけです。資金不足のため、完成の目途が立たないようです。


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近代美術館(Museo Civico Luigi Bailo)の中庭


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修道院だった建物です。


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19世紀の作品が展示の中心です。


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ルイージ・セレーナ(モンテベッル―ナ、1855-トレヴィーゾ、1911)の「花市場」(1880-82)


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ルイージ・セレーナ(モンテベッル―ナ、1855-トレヴィーゾ、1911)の「禁じられた果実の物語」(1897)
ルイージ・セレーナは、ヴェネツィア・リアリズムの画家です。


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ルイージ・セレーナ(モンテベッル―ナ、1855-トレヴィーゾ、1911)の「農家の日常」


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ルイージ・セレーナ(モンテベッル―ナ、1855-トレヴィーゾ、1911)の「幸福な時代」(1884-86)


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ルイージ・セレーナ(モンテベッル―ナ、1855-トレヴィーゾ、1911)の「自画像」


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彫刻の展示です。


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古そうに見えますが、19世紀の作品です。


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トレヴィーゾは、美術館や博物館の整備拡充に注力しています。


066
城壁上の遊歩道に出ます。


067
写真左が城壁です。


068
遊歩道が設けられてます。


069
城壁は高くありません。


070
街のあちこちに水が流れてます。


097
城壁外に出ました。


098
綺麗な水です。


100


099
(つづく)

002
前泊地はブレーシャでした。


004
ヴェネツィア・メストレで乗り換えます。


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トリエステ行きRVは空いてました。


002
トレヴィーゾ駅に到着しました。


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トレヴィーゾ駅の駅舎です。
トレヴィーゾは、人口85,760人(2019年12月31日現在)のヴェネト州トレヴィーゾ県の県都です。ベネトンを始めとしてイタリア主要企業数社が本社を置く、財政豊かで安全な街として知られてます。また、ティラミス発祥の地として有名です。


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駅前のホテルにチェックインしました。


005
ホテル前に置かれた石造りの椅子です。


006
街歩きに出発しました。


007
トレヴィーゾは、Fontanassiと呼ばれる多くの泉が湧く水資源が豊富なことで知られてます。


008
旧市街をシーレ川と、その支流ソーレ川が流れ、運河もあって、風光明媚な街です。


009
シーレ川に架かるサン・マルティーノ橋を渡って旧市街に入ります。実は、この旅のお宿も城壁の外にあるように見えますが城壁内にあります。


010
サン・マルティーノ・ウルバーノ教会です。
6世紀半ばに創建された、トレヴィーゾで最古の教会の一つでした。現在の建物は1960年から1970年に建設された三代目となるものです。


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外観と同様に、内部も斬新的でついていけません。


011
駅から延びるローマ通りです。


012
ローマ通りの突き当りを右折してポポロ大通りに出ました。


013
広場に見えないのですが、ボルサ広場と呼ばれてます。旧市街の中心シニョーリ広場に向かいます。


014
ポポロ大通りを左折して、9月20日通りに入りました。


015
旧市街の中心シニョーリ広場です。


016
Palazzo dei Trecentoです。


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Palazzo della Ragioneとも呼ばれてます。


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市の様々な会議を行うために1185年頃に建設されました。


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Palazzo dei Trecentoに隣接した建物は、刑務所として1268年に建設されました。


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その後、裁判所や市民のための集会所として使用されました。


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20世紀初頭に時計塔が追加されました。


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1944年4月7日、ドイツ軍の爆撃を受け、大きな被害を受けました。


018
戦後に大修復工事が行われ蘇りました。現在は市議会の議場になっている他、市の様々な用途に使用されてます。


017
この日はシニョーリ広場で青空市が開市されていました。


047
市立博物館に向かいました。


048
市立博物館です。この時は休館中でした。


049
フレスコ装飾された歴史的建造物です。この建物ですが、最近、やる気が失せているので調べる気がありません。ブログを書くのは自己満足感からですから。


050
ベアート・エンリコ教会です。この日も開いていませんでした。


051
サン・○○教会は普通ですが、ベアート・○○教会は珍しいと思います。


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1835年に建設されました。


052
サン・リベラーレ通りです。


053
サンタグネス教会(聖アグネス教会)にやってきました。


058
1268年の記録に、この教会の存在が初めて記載されました。


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アンドレア・パニョッシン(トレヴィーゾ、1576c-1642c)によって1613年に二代目の建物が完成しました。


054
19世紀に教区教会になりました。


059
中に入りました。


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(つづく)

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サンタントニオ・アバーテ教会が見える店で昼食を食べます。


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お腹一杯になりました。酔い覚ましのブラブラ歩きです。


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サン・トンマーゾ・アポストロ教会前で大道芸人が演技中でした。


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サン・トンマーゾ・アポストロ教会の存在が1178年に記録に初めて記載されたそうです。


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ネオ・ゴシック様式のファサードは1897年に再建されたものです。


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浮彫下の碑文は創建時のオリジナルです。


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浮彫は19世紀末の新しいものです。


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中に入りました。


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「磔刑」のフレスコ画(16世紀)


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ビール一杯とワイン一本飲んだだけでしたが、かなり効いてます。


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直ぐにトイレに行きたくなって困りました。


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サン・ぺテルニアーノ聖堂の鐘楼です。


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トイレ休憩のため、バールを探します。


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トイレを済ませて、ホッとしながら酔い覚ましの散歩です。


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比較的見所が多いと思うファーノですが、日本人には全く人気がないようです。


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美味しい魚料理に美味しいワインがあるので、もう少し人気が出ても良いと思います。


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ウルビーノに簡単に行き来できるファーノです。


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ファーノではブランド品は売ってません。


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サンガッロ要塞に向かいます。


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年を取るということは、友人たちの訃報に接することだ、と痛感してます。


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サンガッロ要塞にやってきました。


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13世紀末からマラテスタ家の支配を受けるようになったファーノですが、街の防衛力強化を企図したマラテスタ家によって城壁の拡大整備が行われました。


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サンガッロ要塞の中に入りました。


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マラテスタ家のファーノ支配は、1463年に終わりを告げました。
最後のファーノ候シジスモンド・マラテスタ(ブレーシャ、1417-リミニ、1468)は、ウルビーノ公フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ(グッビオ、1422-フェッラーラ、1482)とフェデリーコ率いる教皇軍に敗れてファーノを放棄したのです。


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ファーノは、教皇領となりましたが、フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ公の生存中はフェデリーコの治世下に置かれましたが、フェデリーコ公が没すると教皇庁の支配下になりました。


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第219代教皇クレメンテ7世・デ・メディチ(フィレンツェ、1478-ローマ、1534 教皇在位:1513-1534)は、1532年、マルケ地方の防衛構造強化を打ち出し、その一環として新要塞の建設が決定されました。
マルケ地方の防衛力強化について、教皇お抱えの建築家アントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ジョーヴァネ(フィレンツェ、1483-テルニ、1546)が起用され、ファーノ新要塞の設計がアントニオによって行われました。


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しかし、アントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ジョーヴァネはアンコーナ要塞などで多忙であり、ファーノ要塞の建設には中々着手出来ませんでした。


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新たにルカ・サンガッロが起用され、アントニオ設計に基づき、要塞の建設が開始されました。


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1550年の聖年に教皇となった第221代教皇ジュリオ3世(モンテ・サン・サヴィーノ、1487-ローマ、1555 教皇在位:1550-1555)は、要塞の完成を急がせ、ようやく1552年にサンガッロ要塞が完成しました。


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サンガッロ要塞の名称は、設計と建設工事を担当した二人のサンガッロに因んでます。


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1910年に始まった都市計画によって、城壁と要塞が破壊されるようになりました。


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城壁と要塞の破壊は徐々に進められましたが、1970年頃から歴史遺産保存運動が高まりと共に破壊作業が中断され、やがて修復、復元されるようになりました。
2007年にサンガッロ要塞の復元工事が完了しました。


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ファーノ駅の駅舎が見えてます。


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サンガッロ要塞は駅前にあるのです。


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海水浴場として有名なファーノ海岸に向かいます。
駅の直ぐ向こうが海岸です。


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ファーノ海岸です。


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海に入る人がいたので驚きました。


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そうは言っても海水浴客は誰もいませんでした。
(おわり)

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次は、Arco d'Augusto アウグストゥス門を詳しく見ます。


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紀元前220年、監察官ガイオ・フラミニオ(ガイウス・フラミニウス)(ローマ、紀元前265-トラジメノ、紀元前217)によって、ローマからリミニを結ぶフラミニウス街道(フラミニア街道)が敷設されました。


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ファーノは、フラミニウス街道の重要な拠点の港町でした。
起点であるローマのポポロ広場からアペニン山脈を越え、ここファーノでアドリア海に達し、更にペーザロ、リミニへと向かう、北に向かう重要な街道における交易においても、軍事的にも重要な拠点だったのです。


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ガイウス・フラミニウスがフラミニウス街道を敷設した際に、門を築いたとされてますが、ファーノのフラミニウス街道上の具体的な場所は不明のようです。


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ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスの治世下の時代、各街道の整備が行われましたが、フラミニウス街道(フラミニア街道)だけは皇帝アウグストゥス自ら整備を指揮しました。
当時、ファーノは、アドリア海に入ってから上陸してローマに向かう外敵に対する軍事拠点と、アドリア海における重要な貿易拠点とされており、街道だけではなく、街全体が特に念入りに整備されました。
その記念として、西暦9年頃に建設されたのがアウグストゥスの門です。


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凱旋門だったという説が有力です。


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門の構造図


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20世紀初頭のアウグストゥスの門です。
かなり荒廃していたことが分かります。


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1931年の写真


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1940年の写真
アウグストゥスの門は辛うじて第二次世界大戦の爆撃被害がなかったようです。


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サン・ミケーレのロッジャ側から見たアウグストゥスの門です。


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サン・ミケーレ教会ファサードの右側にあるアウグストゥスの門の浮彫です。


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Porta Maggioreを見ます。


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市域の拡大によって、14世紀から15世紀にマラテスタ家によって、アウグストゥスの門の先に新たな城壁が築かれましたが、その際、フラミニウス街道(フラミニア街道)からファーノの市域に入る門がPorta Maggioreです。


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軍事的色彩が強い門です。


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城壁外は見所があまりないので、元に戻ります。


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アウグストゥスの門を潜って旧市街に入ります。


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マルティーノ通りです。通りに面して教会があります。


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サンタ・マリア・デル・スッフラージョ教会です。


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1592年に建設されたサンタ・トリニータ教会が前身です。1618年、所有者が変わって、サンタ・マリア・デッル・スッフラージョ教会に改称されました。


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入口扉上の紋章


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鐘楼(1692c)


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教会の内部


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スタッコ彫刻による装飾が多いと思います。


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ジュゼッペ・マリア・マッツァ(1653-1741)の「永遠なる父」(1710)


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主祭壇画の「磔刑」(16世紀)


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モンテヴェッキオ通りを進みます。


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振り返るとサンタ・マリア・デル・スッフラージョ教会の鐘楼が見えました。


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旧サンタゴスティーノ修道院の壁です。


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サンタゴスティーノ教会のファサードです。


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修道院は閉鎖されましたが、教会の方は現役です。


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キオストロ回廊のフレスコ画が見物とされてますが、劣化が著しく感心しません。


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教会の方も閉鎖されたと思います。


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裏通りから賑やかな所に出ます。


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昼食を食べなくては。


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(つづく)

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次はアウグストゥス門とサン・ミケーレ教会です。


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アウグストゥス門です。門に向かって左側にロッジャがあります。


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サン・ミケーレ修道院教会のロッジャです。


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アウグストゥス門を潜って、門の左側、門に向かって右にサン・ミケーレ教会があります。


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ロッジャ、修道院、門、教会が一体化されて建ってます。


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比較的新しく見えるのは、1926年に殆ど再建に近いような大修復をされたからです。


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ロッジャに入ってみましたが、特に見所がないようです。アウグストゥス門を潜って城壁外に出ます。


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アウグストゥス門を潜って城壁外に出ました。


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アウグストゥス門に向かって右側にサン・ミケーレ教会があります。


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15世紀中頃、サン・ミケーレ同信会は新教会の建設を決めましたが、当時、ファーノはシジスモンド・マラテスタの支配下にありましたが、ウルビーノ公フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロが率いる教皇軍に包囲されて身動きできない状況にありました。
1463年、シジスモンドは敗れて、ファーノはフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ公の支配下に置かれました。サン・ミケーレ同信会は、新領主のフェデリーコに願い出て、アウグストゥス門と、その近くの破壊された城壁とローマ時代の遺跡の石などを利用して、現在の場所に教会を建てることが許されました。


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そうして、サン・ミケーレ修道院教会が1469年から1490年頃に建設されました。


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1797年、ナポレオンの抑圧令によって、修道院教会は閉鎖され、その後、倉庫などの転用されましたが、1870年頃に放棄され、建物は荒廃する一方になりました。


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これらの写真は、修復工事が着工される前の20世紀初め頃に撮られたものです。


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現在の建物は、修復工事が完了した1926年後のものです。


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ファサードの入り口上の彫刻が有名です。


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ベルナルディーノ・ディ・ピエトロ・ダ・コロナの「大天使聖ミケーレと受胎告知」(1511-12)


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ファサードの、向かって左にあるアウグストゥスの碑文


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ファーサードの、向かって右側


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大天使聖ミケーレのシンボル


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サン・ミケーレ修道院教会は、普段開いていないのですが、この日は特別に中に入ることが出来ました。
現在はMuseo della Via Flaminiaとして一般公開されてます。


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宗教施設ではないので、信者席などは設けられておらず簡素です。


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左側壁


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主祭壇


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後陣にフレスコ画断片があります。
逸名画家作「聖セバスティアーノ」(15世紀末)


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主祭壇画は、ラッファエッリーノ・デル・コッレ(ボルゴ・サン・セポルクロ、1495-1566)の「受胎告知と聖ピエトロ・マルティーレと聖バルバラ」


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ローマ時代の遺跡が教会内にあります。


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遺跡を見て回ります。


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修道院です。


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キオストロです。


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ロッジャからキオストロに行けますが、この日はロッジャの扉が閉まったままでした。


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キオストロ回廊の一階(日本の二階)に上りました。


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キオストロを見下ろしました。


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復元された柱廊です。


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フレスコ画の痕跡


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教会から見たアウグストゥス門です。
(つづく)

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次はドゥオーモです。


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ドゥオーモは、Via Arco D'Augustpのアウグスト門近くになります。


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ファーノのドゥオーモ、Basilica Minore e Cattedrale di Santa Maria Assunta、ファーノ₌フォッソンブローネ₌カーリ₌ぺルゴラ司教区の司教座教会です。
1953年、第260代教皇ピオ12世(ローマ、1876-カステル・ガンドルフォ、1958 在位:1939-1958)によってBasilica Minoreに格付けされました。


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8世紀半ばに建設されたサンタ・マリア・マッジョーレ教会が前身です。そのため、別名サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂と呼ばれてます。


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8世紀半ばに建設された最初の建物は、1124年の火災によって消失してしまいました。
二代目のロマネスク様式の建物が1135年に創建され、1159年に完成しました。屋根が欠けられた1140年に奉献式が執り行われました。


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煉瓦と砂岩で出来た現在のファサードは、1928年に行われた修復工事の際に、元のロマネスク様式に復元された新しいものです。二代目の建物のファサードは、数度改造されていたのです。


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1944年8月に第二次世界大戦のドイツ軍の爆撃によって破壊されたので、戦後に再建された現在の鐘楼です。


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爆撃前の鐘楼です。


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爆撃で破壊された鐘楼の土台部分が残されてます。土台部分は8世紀半ばに創建された教会の洗礼堂だったそうです。


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左外壁


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ファサードの柱頭


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ファサードの柱頭


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入口扉上の装飾


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ロマネスク様式の彫刻


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入口扉


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改造、修復の結果、かなり新しく見える聖堂内部です。


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美術的には幾つかの見所があります。


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アンドレア・リッリ(アンコーナ、1570-ローマ、1631)の「聖母被昇天」(1606)


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Cappella dei Santi Protettoriの祭壇画は、ルドヴィーコ・カッラッチ(ボローニャ、1555-1619)の「天上の聖母と聖オルソと聖エウセビオ」


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Cappella Nolfiです。


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Cappella Nolfiは、ドメニキーノ(ボローニャ、1581-ナポリ、1641)のフレスコ画「聖母の物語」(1618-19)があるので必見です。


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ドメニキーノ(ボローニャ、1581-ナポリ、1641)の「聖母の誕生」(1618-19)


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ドメニキーノ(ボローニャ、1581-ナポリ、1641)の「聖母の神殿奉献」(1618-19)


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ドメニキーノ(ボローニャ、1581-ナポリ、1641)の「聖母の結婚」(1618-19)


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ドメニキーノ(ボローニャ、1581-ナポリ、1641)の「受胎告知」(1618-19)


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ドメニキーノ(ボローニャ、1581-ナポリ、1641)の「ご訪問」(1618-19)


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ドメニキーノ(ボローニャ、1581-ナポリ、1641)の「ご誕生」(1618-19)


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ドメニキーノ(ボローニャ、1581-ナポリ、1641)の「神の母性」(1618-19)


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ドメニキーノ(ボローニャ、1581-ナポリ、1641)の「マギの礼拝」(1618-19)


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ドメニキーノ(ボローニャ、1581-ナポリ、1641)の「キリストの神殿奉献」(1618-19)


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ドメニキーノ(ボローニャ、1581-ナポリ、1641)の「割礼」(1618-19)


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ドメニキーノ(ボローニャ、1581-ナポリ、1641)の「エジプトへの逃避」(1618-19)


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ドメニキーノ(ボローニャ、1581-ナポリ、1641)の「聖母の死」(1618-19)


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ドメニキーノ(ボローニャ、1581-ナポリ、1641)の「聖母被昇天」(1618-19)


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ドメニキーノ(ボローニャ、1581-ナポリ、1641)の「聖母戴冠」(1618-19)


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ドメニキーノ(ボローニャ、1581-ナポリ、1641)の「悲しみの聖母」(1618-19)


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説教壇


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説教壇の彫刻


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聖母の礼拝堂


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セバスティアーノ・チェッカリーニ(ファーノ、1703-1783)の「天上の聖母子とファーノを守護する四聖人」(1750)
(つづく)

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旧市街の中心9月20日広場に向かいました。


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9月20日広場は青空市の真っ最中でした。


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これでは広場に面して建つ歴史的建造物の写真が撮れません。


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テントの後方に写っているのはサン・シルヴェストロ教会です。


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12世紀に遡るサン・シルヴェストロ教会は、1606年に現在の姿に改造されました。


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中に現代のフレスコ画があります。


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美術的な見所としては、主祭壇画だけと思います。


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主祭壇画です。


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ジョヴァンニ・バリオーネ(ローマ、1566-1643)の「Madonna del Ponte」


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現代のフレスコ画


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9月20日広場のFontana della Fortuna


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Fontana della Fortunaの上にあるブロンズ像は、ドンニーノ・アンブロージ(ウルビーノ、16世紀後半-17世紀初頭活動)の「フォルトゥーナの女神」(1593)


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非常に賑わっている青空市でした。


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1299年に建設されたPalazzo del Podestaです。


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鐘楼がありましたが、第二次世界大戦後に市民の塔と呼ばれる時計塔にとってかわられたそうです。


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Palazzo del Podestaを見ます。ファサードの有名な三聖人のトリッティコがあります。


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三聖人(聖パテミアーノ、聖フォルトゥナート、聖エウセビオ)のトリッティコ


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Palazzo del Podestaファサードの下に柱廊があります。


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その柱廊に劇場の入り口があります。
19世紀、建築家ルイージ・ポレッティ’モデナ、1792-ミラノ、1869)の設計によって、Palazzo del Podestaは劇場に改造されました。


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9月20日広場からPalazzo Malastianaに入ります。


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Palazzo Malastianaは市立美術館になってます。


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Palazzo Malastianaです。


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ファーノのマラテスタ家支配は、ガレオット1世・マラテスタ(リミニ、1300c-チェゼーナ、1385)がマラテスタ家当主だった1357年に始まりましたが、ファーノ領主に相応しい宮殿として1357年にPalazzo Malastianaの建設が開始されました。
ガレオット1世の息子パンドルフォ3世・マラテスタ(ファーノ、1370-1427)は、父が建設した宮殿が気に入らず、一部を改造するとともに増築しました。
パンドルフォ3世の息子シジスモンド・マラテスタ(ブレーシャ、1417-リミニ、1468)は、1440年頃に建築家マッテオ・ヌーティ通称マッテオ・ダ・ファーノ(コルフィオリート、1405-ファーノ,1470)に対して、Palazzo Malastianaの改修とさらなる増築が命じられ、1463年に完成しました。
1463年、ファーノは、ウルビーノ公フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ(グッビオ、1422-フェッラーラ、1482)の支配下に置かれるようになりました。
ファーノの領有権が変わる毎にPalazzo Malastianaの所有者が変わりました。


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Palazzo Malastianaは、一時期Municipioとして使用されました。


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Museo Civicoとして使用されるようになったのは、1898年からです。


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Palazzo Malastianaの柱廊にも展示物が置かれてます。


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入館します。


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モザイクの展示


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この時は、写真不可でした。


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Maestro di Roncaietteの「Polittico Chiesa di Roncaiette di Ponte San Nicolo」


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ミケーレ・ジャンボノ(ヴェネツィア、1400-1462)の「聖母子と聖人たちのポリッティコ」


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シモーネ・カンタリーニ(ペーザロ、1612-ヴェローナ、1648)の「エジプトへの逃避途中の休息」


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シモーネ・カンタリーニ(ペーザロ、1612-ヴェローナ、1648)の「帯の聖母」


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シモーネ・カンタリーニ(ペーザロ、1612-ヴェローナ、1648)の「病人を治す聖ピエトロ」


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シモーネ・カンタリーニ(ペーザロ、1612-ヴェローナ、1648)の「ヴィッラノーヴァの聖トンマーゾに顕現する聖母子」
(つづく)

先ずサン・ぺテルニアーノ教会の続きです。
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ジュスト・チェスピ(ファーノ、1867-1954)の「グエルチーノ作『聖母の結婚』のコピー画」


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主祭壇


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バルトロメオ・モルガンティ(ファーノ、1493-1538)の「天上の聖母子とアレッサンドリアの聖カテリーナと聖ルチアと聖アガタと聖アグネス」(1530c)


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クラウディオ・リドルフィ通称クラウディオ・ヴェロネーゼ(ヴェローナ、1570c-コリナルド、1644)の「聖母子と聖セバスティアーノと聖カルロ・ボッロメオ」(1620c)


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外に出ました。


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Via del Lecciにある学校 Liceo Artistico Apolloni Adolfoです。


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サン・ピエトロ・イン・ヴァッレ教会にやってきました。


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778年に建設されましたが、何度も地震の被害を受けて荒廃してしまい、12世紀頃に放棄され廃教会となってしまいました。


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16世紀末、Congregazione dei Padri dell' Oratorio di San Filippo Neriによって、廃墟の上に教会の再建が決定され、17世紀初めに建築家ジョヴァンニ・バッティスタ・カヴァーニャ(ローマ、1545c-ロレート、1613)に建築が委嘱されました。


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ジョヴァンニ・バッティスタ・カヴァーニャの設計によって、1610年に創建されましたが、工事途中の1613年、カヴァーニャが没してしまいました。1617年にマルケ・バロック様式の建物が完成し、同年、奉献式が執り行われました。


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この教会には有名画家の作品が数点ありましたが、フランス軍によって強奪されてから戻されていません。


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中に入りました。一見して現役?の教会ではないと思いました。


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教会の構造図です。


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主祭壇です。
グイド・レーニの主祭壇画「天国のカギを聖ピエトロに託すキリスト」がありましたが、1797年、ナポレオンのイタリア侵攻の際、フランス軍によって強奪されフランスに持ち去られてしまいました。
現在は、グイド・レーニ作品のコピー画が主祭壇に置かれてます。


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グイド・レーニ(ボローニャ、1575-1642)の「天国のカギを聖ピエトロに託すキリスト」(1626)
本物は、フランスからイタリアに戻されることなく、ルーブル美術館で展示されてます。


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マルコリーニ礼拝堂です。


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ピエトロ・リベリ(パドヴァ、1605-ヴェネツィア、1687)の「磔刑像」


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クーポラ


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アントニオ・ヴィヴァリーニ(ウルビーノ、1560-1620)による天井フレスコ画(1618-20)


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説教壇


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華美で派手な装飾が自慢のようです。


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オルガン


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ファサードの裏です。


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外に出ます。


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サン・ピエトロ・イン・ヴァッレ教会の右側壁を通り過ぎ、旧サン・フランチェスコ教会に向かいます。


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サン・フランチェスコ修道院教会です。


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この日は施錠されていて、中に入ることが出来ません。


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1255年に創建され、1323年に完成した最初の建物は、度重なる地震によって荒廃してしまいましたが、1696年に火災に遭い、建物が危険になったものの、それでも修道院活動が行われていました。
しかし、18世紀半ばを過ぎると非常に危険になったので、最初の建物を取り壊し、その上に再建が決まり、建築家フランチェスコ・マリア・チャラッフォーニ(ファーノ、1,720-アンコーナ、1802)の設計、建築工事監督によって1763年から1774年に再建されました。
しかし、ナポレオンの抑圧令によって活動が停止され、倉庫、厩舎、兵舎などに転用されました。1912年、建物の老朽化によって放棄されることになりました。
1916年と1924年に地震によって大きな被害を受けたものの、修復工事は行われないまま、非常に危険な建物と判断され、1930年に屋根が破壊されました。
1950年、貴重な文化遺産と判定され、立ち入りが可能になるように修復されることになりました。


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柱廊に幾つかの墓があります。


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柱廊にあるパオラ・ビアンカの墓


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マッダレーナ・フェッロ―ニの墓


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ボッカッチ家の紋章


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礼拝堂に残されている天使像


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夏季は野外劇場などに使用されてます。
(つづく)

ファーノは、人口60,728人(2019年12月31日現在)のマルケ州ペーザロ₌ウルビーノ県にあるコムーネです。ローマ時代に重要な役割を果たした歴史ある街です。
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前泊地は、マルケ州のセニガッリアでした。


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セニガッリアからファーノに向かいます。


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朝の通勤通学時間帯で混雑が予想される上に、大きな荷物があったので、一等車に乗りました。流石に空いてました。


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ファーノ駅に到着しました。


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ファーノ駅の駅舎です。
ファーノ海岸は白砂の海水浴場で有名です。夏場は海をとずれるヴァカンス客で大混雑します。ホテルは一週間以上止まらないと予約を受け付けない所が多いので、一泊しか止まらない私は夏場を避ける一手です。この時、季節は中秋、10月でした。


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駅前に高い城壁が聳えてます。


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サンガッロ要塞とファーノの城壁です。


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サンガッロ要塞の見学は後にして、この日のお宿に向かいます。


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城壁の高さは4メートル以上あります。


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要塞と城壁沿いのVia Mura Malastianaをホテル方向(リミニ方向)に進みます。
ファーノのホテルは海水浴向けの海岸沿いに数多くありますが、旧市街には良いホテルがありません。已む無く城壁沿いの道を歩いて城壁外のホテルにしました。


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直ぐにマラテスタ要塞が見えてきます。要塞の先に、この日のお宿があります。


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ファーノ領主だったシジスモンド・マラテスタ(ブレーシャ、1417-リミニ、1468)の命によって、建築家マッテオ・ヌーティ通称マッテオ・ダ・ファーノ(コルフィオリート、1405c-ファーノ、1470)が起用され、マッテオの設計によって1438年から1452年に建設されたマラテスタ要塞です。


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1463年まで拡張工事が続きました。


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さらに16世紀前半、建築家アントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ジョーヴァネ(フィレンツェ、1484-テルニ、1546)によって増強改修されました。


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長年の風化劣化と第二次世界大戦の爆撃によって、マラテスタ要塞は荒廃してしまいました。1972年になって漸く復元工事が行われるようになり、2017年に現在の姿に蘇りました。


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この日のお宿です。
チェックインを済ませてから街歩きに出発しました。


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城壁内に入り、Piazza Fratelli Rosselliから街歩き開始です。


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サンタントニオ・アバーテ教会です。


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9世紀頃にこの場所にあった地元の人が祈りを捧げる祠が前身です。


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15世紀に教会の建物が建設され、現在の姿は18世紀に再建された二代目のものです。


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6つの礼拝堂に区切られた、ほぼ円形の内部です。


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この教会の作品については全く知りません。


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次は、サン・ぺテルニアーノ修道院教区教会です。


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サン・ぺテルニアーノ教区教会です。


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5世紀半ばにガッラ・プラチディアによって建設された修道院が前身です。


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修道院に礼拝堂がありましたが、付属教会を建てることになり、12世紀に最初の建物が建設されました。現在の建物は1566年に再建された二代目のものです。


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サン・ぺテルニアーノ修道院のキオストロです。


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キオストロ回廊


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回廊の壁にフレスコ画があったと思われますが、残されていません。


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教会内に入りました。


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主祭壇


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「父なる神」(フレスコ画)(詳細不知)


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ジョヴァンニ・バッティスタ・ラガッツィーニ(ラヴェンナ、1520-1591)の「天国」


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バーリの聖二コラ礼拝堂


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Cappella del Santo


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(つづく)

引き続きポリローネ修道院です。
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聖堂の礼拝堂の一つです。祭壇画は詳細不知です。


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礼拝堂天井の装飾


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これで聖堂の見学は終わりです。


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聖堂の見所を記したガイド板がありました。


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オルガンがある場所は修復工事のため立ち入り禁止になっていました。


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身廊隔壁はジュリオ・ロマーノと工房の作品ですが、殆ど見ることが出来ませんでした。


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外に出ました。


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この日の夕方に開くレストランがなさそうだったので、村歩きを続けながら食料調達です。


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ジャコモ・マッテオッティ広場です。


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Porta di Ingresso all' Abbazia del Polirone


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小さな村に泊まる場合、昼食のレストランは簡単に見つかりますが、夕食の食べる所に苦労することが結構あります。特に日帰り観光客が多い村では。


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村一番の通りであるエンリコ・フェッリ通りです。


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Palazzo Comunaleも修復工事中でした。


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旧サン・フロリアーノ教会の鐘楼です。


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修道院付近は人出が途絶えました。


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この日はこれで終わりです。
B&Bに戻り、調達した食料を食べながらワインとビールを飲み、飲んだくれて寝ました。


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翌朝です。


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この日も快晴でした。


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駅に向かいます。


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見所が修道院だけの村なので、同じような写真になってしまいます。


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駅が見えてきました。


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次の目的地に向かいました。
(サン・ベネデット・ポー編 終わり)

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アントニオ・ベガレッリ(モデナ、1499-1565)の「聖アンドレア」


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アントニオ・ベガレッリ(モデナ、1499-1565)の「聖ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ(福音書記者聖ヨハネ)」


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詳細不知


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マティルデ・ディ・カノッサの墓(18世紀)
これは問題の墓です。1632年、サンタ・マリア礼拝堂に埋葬されていたマティルデの遺体が掘り起こされ、ヴァティカンに高額で売却したポリローネ修道院ですが、その罪滅ぼしのためでしょうか、18世紀にこの墓を造ったのです。中に遺体はありません。


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詳細不知


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詳細不知


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ジュリオ・ロマーノ(ローマ、1499-マントヴァ、1546)の「聖ピエトロ」


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次の礼拝堂です。礼拝堂の名前を知りません。


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礼拝堂天井の装飾


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詳細不知


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本堂に戻りました。


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ジュリオ・ロマーノと工房の作品


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詳細不知


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詳細不知


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詳細不知


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詳細不知


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アントニオ・ベガレッリ(モデナ、1499-1565)と工房の「聖ジョヴァンニ・バッティスタ(洗礼者聖ヨハネ)」


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(つづく)

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引き続きサンタ・マリア礼拝堂です。


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壁にフレスコ画が残されてます。


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12世紀に描かれたフレスコ画です。


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サンタ・マリア礼拝堂の天井装飾です。


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修復された柱頭でしょうか?


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磔刑像(詳細不知)


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アントニオ・ベガレッリ(モデナ、1499-1565)と工房の「聖ラウレンティウス」


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アントニオ・ベガレッリ(モデナ、1499-1565)の「聖ベネデット」


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アントニオ・ベガレッリ(モデナ、1499-1565)と工房の「聖パオロ」


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アントニオ・ベガレッリ(モデナ、1499-1565)と工房の「聖マルティーノ」


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聖歌隊席の上にも彫刻があります。


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詳細不知の祭壇画


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聖歌隊席は、ヴィンチェンツォ・ロヴェッタと彼が率いる工房によって16世紀に制作されました。


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聖歌隊席の一部はジュリオ・ロマーノのデザインと言われてます。


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聖歌隊席天井の装飾


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アントニオ・ベガレッリ(モデナ、1499-1565)と工房の「聖フロリアーノ」


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アントニオ・ベガレッリ(モデナ、1499-1565)と工房の「聖ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ(福音書記者聖ヨハネ)」


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詳細不知


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アントニオ・ベガレッリ(モデナ、1499-1565)と工房の「聖マウルス」
(つづく)

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ガイドさんが入り口扉を開錠して、ガイドさんと共に聖堂内に入りました。


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1797年、ナポレオンの抑圧令によって修道院が閉鎖されました。それ以来、聖堂の方は公的な宗教施設ではないとされてます。


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しかし、地元の村人は祈りを捧げるために訪れることが出来るようです。


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2012年5月29日に発生したマントヴァ付近の大地震によって大きな被害を受け、修復工事が行われていましたが、2014年、2015年に起きた、さほど大きくはなかった地震によって被害が拡大してしまいました。
ポー川とリローネ川に囲まれた島と、島周囲の河原を埋め立てて出来た、元々地盤が弱い土地の上に建設されたので、小地震でも被害を受けることが多く、修復工事が追い付かないそうです。
聖堂内に入ったものの、聖堂内の大部分が修復工事中で見学できないようになっていました。


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祭壇画は、逸名画家作「信仰の寓意」(16世紀)


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礼拝堂の祭壇


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アントニオ・ベガレッリ(モデナ、1499-1565)の「聖シモーネ」


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アントニオ・ベガレッリ(モデナ、1499-1565)の「聖マリア・マッダレーナ」


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礼拝堂天井の装飾


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この礼拝堂は危険ではないので、拝観出来ますが、修復工事が必要との事でした。建物の危険度によって、修復の優先順位を付けているそうです。


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磔刑の礼拝堂


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磔刑礼拝堂天井


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サン・ベネデット礼拝堂


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通路の左右は修復工事中です。


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クーポラ


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ジュリオ・ロマーノ(ローマ、1499-マントヴァ、1546)と工房の作品


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次はサンタ・マリア礼拝堂です。
ボニファチョ・ディ・カノッサ(985-1052)によって、11世紀に再建された修道院ですが、その時にサンタ・マリア礼拝堂も建設されました。


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トスカーナ女伯爵マティルデ・ディ・カノッサ(マントヴァ、1046-ローマ、1115)は、ポリローネ修道院に多大な寄付を行いましたが、ローマで没した彼女の遺体はポリローネ修道院に運ばれ、サンタ・マリア礼拝堂に埋葬されました。


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サンタ・マリア礼拝堂の祭壇画(詳細不知)


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サンタ・マリア礼拝堂の床のモザイク


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11世紀-12世紀のモザイク


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モザイクの所にマティルデ・ディ・カノッサの墓がありました。


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マティルデの墓の跡です。
1632年、マティルデの遺体が掘り起こされ、ヴァティカンに運ばれました。当時の修道院長が教皇に対して、非常な高額でマティルデの遺体を売却したのです。売る方も売る方であり、買う方も買う方です。


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古そうな柱です。


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(つづく)

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引き続きワイン醸造所の荷車です。


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修道院と村人の関係は必ずしも良かったとは言えない時期が続いたそうです。


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関係が悪かったのは、無給、或いは非常な薄給で村人を徴用したからだそうです。


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前述のように、カノッサの屈辱で有名なトスカーナ女伯爵マティルデ・ディ・カノッサ(マントヴァ、1046-ローマ、1115)はこの修道院で埋葬され、1632年にローマのサン・ピエトロ大寺院に移されました。
その理由を知ると嫌になります。


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当時の修道院長が、第235代教皇ウルバーノ8世(フィレンツェ、1568-ローマ、1644 在位:1623-1644)にマティルデの遺体を売ったのです。


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しかも非常な高額での取引だったと伝えられてます。
キリスト教の初期には、聖人の聖遺物が祭壇の下にないと、教会建設できなかったので、聖遺物の最たるものである聖人の遺体は高額で取引されることがありましたが、マティルデ・ディ・カノッサは聖人ではありません。


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修道院の荷車に描かれる図柄では異質になります。


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この半地下の場所は洪水の時にはどうしたのでしょうか?


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彫刻も見どころです。


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絞り器


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外に出ました。


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次は聖堂です。


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前述のように修道院教会はジュリオ・ロマーノ聖堂とも呼ばれてます。12世紀に再建された教会はロマネスク様式でしたが、後に一部改造されてロマネスコ・ゴシック様式の建物になりました。
そのロマネスク・ゴシック様式を出来るだけ生かして、ジュリオ・ロマーノによって1540年から1545年に拡大改造されて現在の姿になりましたが、ジュリオ・ロマーノの功績をたたえるために1547年にジュリオ・ロマーノ聖堂と呼ばれるようになったのです。


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聖堂ファサードに向かって右側に塀と門が設けられてます。


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塀の上に聖人たちの彫像が置かれてます。


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彫像の制作者等の情報を知りません。


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ファサード下部に柱廊が設けられてます。


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柱廊天井


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中央入り口扉上ルネッタにフレスコ画があります。


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ルネッタのフレスコ画は、ジュリオ・ロマーノ(ローマ、1499-マントヴァ、1546)によって制作されました。


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ファサードの左右の壁龕にアダムとエヴァ(イヴ)の彫刻があります。


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制作者は不明のようです。


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次は木製の入り口扉です。


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ガイドが熱心に説明してくれたので、芸術性の高い貴重な扉なのでしょう。


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いくら見ても傑作には思えなかったので、ガイドさんの説明は馬の耳に念仏でした。


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ジュリオ・ロマーノのデザインによって1547年に制作された扉です。


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制作したのは、ヴィンチェンツォ・ロヴェッタ工房だそうです。


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熱心な説明をフンフンと頷きながら、さも興味があるように撮った写真です。


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ガイドさんと一対一は、かなり気を使います。


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(つづく)

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サン・ベネデットのキオストロに戻りました。


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サン・ベネデットのキオストロから見た聖堂


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次は修道院食堂です。


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現存する食堂は、1478年に建設されました。


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食堂入り口壁の案内標識


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食堂の中に入りました。
修道院食堂の定番とも言える最後の晩餐があります。ただ、有り難がって見るべき最後の晩餐ではありません。


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「最後の晩餐」とそれを取り囲むフレスコ画の制作者が異なります。


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ジローラモ・ボンシニョーリ(ヴェローナ、1472-マントヴァ、1529)の「最後の晩餐」(1514c)
実は、ここにあるのは本物の精巧な写真です。本物のキャンバス画はロヴィーゴの市立美術館にあります。


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ジローラモ・ボンシニョーリは、フラ・ボンシニョーリとも呼ばれたドメニコ会の修道士画家で、レオナルド・ダ・ヴィンチの強い影響を受けた画風でした。
この「最後の晩餐」もレオナルドの「最後の晩餐」に酷似しています。


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トリノ大聖堂にレオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」のコピー画がありますが、技量の点ではトリノの方が勝るように思います。


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ここの見所としては、「最後の晩餐」を取り囲むフレスコ画です。こちらは本物です。


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礼拝堂を模した騙し絵です。


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フレスコ画(1514c)は、アントニオ・アッレグリ通称イル・コッレッジョ(コッレッジョ、1489c-1534)に帰属します。


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壁龕、そこに置かれた彫刻などは騙し絵のフレスコ画です。制作者等の情報が分かりません。


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天井のフレスコ画


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修復工事が行われていたので、立ち入り禁止になってました。


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写真ですが、敬意を表して最後の晩餐をもう一度見てから先に進みます。


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食堂からワイン醸造所に続く通路です。ここは、ワインの熟成所だった場所です。


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碑文が展示されてます。
1585年、天正遣欧少年使節の一行がポリローネ修道院に訪れましたが、その記念碑も展示されています。


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修道院の柱、柱頭、彫刻などが展示されてます。


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聖ロムアルド(制作者情報不知)


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アントニオ・ベガレッリ(モデナ、1499-1565)の「聖母子」


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ワイン醸造所です。ワイン醸造は修道院の主要事業の一つでした。


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ブドウの摘み取り、ワインの移送など様々な用途に使用された荷車が展示されてます。


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修道院の荷車らしく聖職者が描かれてます。


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(つづく)

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サン・シメオーネのキオストロ回廊です。


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現存するサン・シメオーネのキオストロ回廊は1458年から1480年に建設されました。


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後期ゴシック様式の柱廊です。


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柱廊の壁ルネッタにフレスコ画があります。


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15世紀後半にフランドルの画家数名によって制作されたと帰属されてます。


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ルネッタのフレスコ画のテーマは、聖シメオーネの生涯の物語となってます。


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天井に修道士、司教が描かれてます。
これもフランドルの画家数名の作品です。


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色褪せてはっきり見えない所は、当初、教皇が描かれていたそうです。


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暇そうに立っている人は、この日のガイドさんです。客が私一人で、私が熱心に見て回るので、その間、暇を持て余したようでした。


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サン・シメオーネのキオストロ


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サン・シメオーネの柱廊から修道院修士会堂 Sala del Capitoloに入りました。


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1007年、テダルド・ディ・カノッサ伯爵(?-1012)によって創建された修道院の一部が残されてます。


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最初に建設された建物の土台


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ロマネスク様式の建物でした。


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20世紀に修復された柱頭


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1458年から1459年に改造されたクロスヴォールトです。


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(つづく)

次は、民族学博物館 Museo Civico Polironianoです。
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修道院の僧房が展示室になってます。


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展示室は10室から成ってますが、同じ僧房でも数室になっている場合があって、僧房が10室ある訳ではありません。
第1室の「穀物の栽培」です。


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第2室の「馬小屋と牛乳の供給」


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中世の村人は人形で表現されてます。


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第3室の「チーズの製造」


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第4室の「サラミ製造」


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第5室の「農村社会」


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僧房のフレスコ画


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第6室の「村人の生活」


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第6室です。


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部屋の装飾


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第7室の「村人の生活」


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馬車の装飾


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フレスコ画の詳細等については、私は全然分かりません。


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第8室の「交易と職業」
展示は特産品のようです。


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第9室の「農村社会」


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機織り機?


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女性の生活


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農機具


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第10室の「学校の教室」


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部屋のフレスコ画断片(詳細不知)


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個人用の祈りを捧げるもの


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部屋のフレスコ画


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民族学博物館を出ます。


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柱廊に出ました。


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聖堂のクーポラ


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サン・シメオーネのキオストロです。
(つづく)

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次は、ポリローネ修道院 Abbazia di San Benedetto in Polironeです。
修道院聖堂の複合施設であり、またMuseo Civicoなので、カテゴリーをどうするか迷う所ですが、全部を含めて一枚の切符で見学できることから敢えて「美術館」のカテゴリーに入れました。


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複合施設の全体像は、航空写真で分かると思います。


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切符は観光案内所で買うことが出来ます。見学は原則としてガイド付きツアーになってます。
建物の概略図 1は修道院聖堂、教会です。2.修道院食堂 3.サン・シメオーネの中庭 4.サン・ベネデットの中庭 5.在家の中庭 6.ワイン醸造所(修道院の主要産業がワイン醸造でした) 7.修道院修士会堂 8.Museo Civoco Polironiano


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広大な面積に加えて見所が沢山あるので、全部を見ようとすると、相当な時間と労力が必要となります。


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ブレーシャ、モデナ、フェッラーラ、レッジョ、マントヴァの伯爵テダルド・ディ・カノッサ(10世紀後半生まれ-1012没)によって1007年に創建された修道院です。
テダルド・ディ・カノッサは、カノッサの屈辱で有名なトスカーナ女伯爵マティルデ・ディ・カノッサ(マントヴァ、1046-ローマ、1115)の祖父です。
修道院は7人の修道士がいるだけの小さなものだったそうです。やがて小さな教会も建設されました。


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ポー川とその支流リローネ川に囲まれた修道院は、創建以来洪水被害に悩まされていました。
11世紀、テダルドの息子で、マティルデの父ボニファチョ・ディ・カノッサ(985-1052)によって修道院は拡大されると共に教会が再建されました。
教会は、12世紀にさらに再建され、1130年に奉献式が執り行われました。
修道院内に現存するサンタ・マリア礼拝堂はボニファチョ・ディ・カノッサによって建設されました。


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1077年、修道院はベネデット会に渡されました。


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トスカーナ女伯爵マティルデ・ディ・カノッサ(マントヴァ、1046-ローマ、1115)は、修道院に対して多大な寄付を行いました。その寄付のお陰で裕福な修道院になりました。
ローマで没したマティルデの遺体は、運ばれてポリローネ修道院のサンタ・マリア礼拝堂に安置されました。現在、マティルデの墓はヴァティカンのサン・ピエトロ大聖堂にありますが、1632年に彼女の遺体がポリローネ修道院から移されました。


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サンタ・マリア礼拝堂にあるマティルデ・ディ・カノッサの墓跡です。


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サン・ベネデット・イン・ポリローネ聖堂は、別名ジュリオ・ロマーノ聖堂と呼ばれてます。
1540年、修道院と教会の修復がジュリオ・ロマーノ(ローマ、1499-マントヴァ、1546)に委嘱されましたが、1547年に完成した聖堂です。


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1797年、ナポレオンの抑圧令によって修道院が閉鎖されてしまいました。
その間、ポリローネ修道院は、政治的にも、文化的にも、宗教的にも、そして経済的にも、この地方一帯における歴史の中で重要な役割を果たしました。


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修道院は、困窮者の救済に当たるとともに、彼らの一時的な住居となりました。


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観光案内所兼切符売り場で、ガイドと待ち合わせて見学に出発しました。この日の客は、私一人でした。
最初はサン・ベネデットのキオストロです。


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写真左が聖堂(教会)、写真右が修道院食堂ですが、その間にあるのがサン・ベネデットの中庭です。


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中庭を囲んで回廊が設けられてます。


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サン・ベネデットのキオストロ回廊です。


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回廊の壁のルネッタ上にフレスコ画があります。


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フレスコ画のテーマは、聖ベネデットの生涯の物語です。


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1475年頃に描かれたフレスコ画です。
フレスコ画の制作者は不明とされてますが、絵画を描く修道士の可能性があるそうです。この当時、修道士画家がいる修道士会は珍しくありませんでした。


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2012年5月29日、マントヴァ地方を襲った大地震によって建物は大きな被害を受けました。また、その2年後の2014年、さらに2016年にも地震に見舞われて、修復工事が追い付かない状況になってます。


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2つの川の川中島に、その周囲を埋め立てた土地に建設されたので、元々地盤が悪く建物の強度に問題があるとされてます。


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また、度々洪水に見舞われたので、その影響によって地震に弱いそうです。


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次は在家のキオストロです。


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キオストロ回廊があります。回廊にはフレスコ画がありません。


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中庭を囲む建物L'Infermeria Nuovaの彫刻


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在家の回廊です。


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修復工事中の回廊の彫刻


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柱によって建物を支えてます。これから本格的な修復工事が行われるようです。


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(つづく)

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Via Eugenio Dugoni


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村の案内地図が村の入り口にありました。


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ポリローネ修道院聖堂の案内地図です。


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修道院だった建物です。ここにサン・ベネデット・ポーの民族博物館 Museo Civico Polironianoがあります。物質文化、農村社会、修道院の歴史や産業などが展示されてます。


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Museo Civoco Polironianoは、修道院だった建物の地下と一階(日本の二階)に主に設けられてます。


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切符売り場は、観光案内所を兼ねる場所にあるので、旧サン・フロリアーノ教会近くのこちらから入館する人は滅多にいないようです。
私は修道院、聖堂の一環として入館したので、こちらの出入口とは無縁でした。


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博物館前から旧サン・フロリアーノ教会を撮った写真です。


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修道院の周りは閑静な住宅地になってます。


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城壁は築かれたことがなかったようです。


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荒廃した教会のような建物は、16世紀初頭、当時の修道院長ジョヴァンニ・コルサーロ・ダ・ヴェネツィアによって建設された修道院図書館です。
1797年、ナポレオンの抑圧令によって修道院が閉鎖されてしまいました。図書館の所蔵図書はマントヴァ市図書館に運ばれて、現在でも所蔵されてます。
図書館だった建物はボタン工場に転用されました。建物の隣の煙突は、ボタン工場時代のものです。


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修道院図書館だった建物の保存計画があるようですが、資金難のため先行き不明のようです。


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観光客にとっては、この辺は無視しても良さそうです。


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ポー川とリローネ川の繰り返される洪水によって、疲弊した村でした。


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この辺は修道院の農園でした。


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戦争、略奪、洪水によって貧しい修道院として有名だったそうです。


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この村の見所は、やはり修道院と聖堂だけと痛感できました。


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幹線道路に囲まれている村です。


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ポー川の堤防にやってきました。


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ポー川です。


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流れが速く、水量が多い川でした。


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ポー川を見ていても詰まらないので、村の中心に戻ることにしました。


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村を一周して、観光客にとってのサン・ベネデット・ポーはポリローネ修道院と聖堂に尽きます。


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グループ・ツアーのご一行様が来ていました。グループの場合、Museoの休館時間でも修道院、聖堂、博物館巡りが可能のようです。


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観光案内所に向かいます。


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観光案内所がMuseo(修道院と聖堂を含みます)の切符売り場を兼ねてます。また、ガイドとの待ち合わせ場所になっており、見学はここから出発します。


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切符を買いましたが、ガイドとの待ち合わせまで時間があったので、それまで適当に歩き回りました。


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修道院のサン・ベネデットのキオストロです。


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キオストロは綺麗に整備されてます。


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キオストロの柱廊


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サン・ベネデットのキオストロと聖堂の間に建っている建物が分かりません。


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写真左の建物です。


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トレント通りです。


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Piazza Matilde di Canossaです。


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Basilica Minoreに格付けされてます。


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Basilica Polironiana


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(つづく)

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スッザーラは、マントヴァ、モデナなどを結ぶ鉄道支線のターミナル駅です。


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スッザーラからサン・ベネデット・ポーに向かいます。


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この辺は、Trenitalia子会社が運行しています。


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Ferrovie Emilia Romagnaの車両に乗車しました。


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車内は空気を運ぶような状況でした。


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電車ではなく、気動車です。


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サン・ベネデット・ポー駅に到着しました。


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サン・ベネデット・ポー駅の駅舎です。勿論、無人駅です。


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村の入り口に通じるアントニオ・グランシ通りです。


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サン・ベネデット・ポーは、人口6,890人(2019年12月31日現在)のロンバルディア州マントヴァ県にあるコムーネです。


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ポー川とその支流リローネ川との間の島を基に、その河原を埋め立てて拡張した土地に建設されたポリローネ修道院がありましたが、修道院そのものが村と言っても過言ではありません。
ポリローネの名称は、ポー川とリローネ川に由来します。


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ローマ通りとの交差点を通り過ぎます。


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カヴァッロッティ通りとの交差点を通り過ぎます。


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村の中心入り口の目印となっている旧教会の鐘楼です。


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ポリローネ修道院教会にやってきました。


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Piazza Folengo Teofiloは青空市の真っ最中でしたが、人口が少ないので、店の数もそれに比例して少なかった。


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写真左が修道院で、写真中央が聖堂です。


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こちらは食堂で、中に最後の晩餐があります。


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Piazza Matilde di Canossa


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この日のお宿に向かいます。


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聖堂と修道院はMuseoになっています。


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後でゆっくりと見る予定です。


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この日のお宿はB&Bでしたが、鍵の受け渡し、鍵が開かない、所有者との電話がつながらないのトラブルがあって散々な旅となってしまいました。


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観光案内所がありますが、B&Bのトラブルに際して、その係員に大変お世話になりました。


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某社ネット予約サイトでB&Bを予約したのですが、その際、予定到着時間連絡必須だったので、ネット予約で予定時間を連絡しました。日本を出発前に、念のために予約サイトとB&Bのメールアドレスに予定到着時間をメール送信しました。予約サイトからは、B&Bにメール連絡したが、確認の連絡を受けていないとのメールがありました。私のB&Bへの直接連絡に対しても、返答がありませんでした。
でも現地に行けば、何とかなるだろうと高を括って、この村に来たのですが、結果、最悪だったのです。


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B&Bに行ったら無人、施錠されたまま。扉の前に連絡先として固定電話と携帯電話の番号が書いてあったので、電話したら、固定電話の方は室内から呼び出し音がなっているので、どうにもなりません。携帯電話の方は、電源が入っていない(イタリア語でしかも焦っていたので多分ですが)と言うのみ、通じません。


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仕方がないので、レストランに行き、ゆっくり食事をしていると、レストランのオーナーから観光案内所に行けば必ずB&Bと連絡がつくとの助言がありました。


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観光案内所が開く時間を待ってレストランから出て、観光案内所に行くと、レストラン・オーナーの助言通り、B&Bと連絡がついてチェックインできました。
B&Bの携帯電話はいたずら電話とスパムメールの標的になっているので、使用していないとの仰せ。


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赤っぽい塗装の家がこの日のお宿です。
宿泊者は私一人。不便をかけたことに対し、詫びるでもなしの冷たい対応。この分では、何かあるだろうの予感がありましたが、見事予感が当たりました。来たのが、単なるアルバイト(私の想像ですが)の若者だったので、その辺は仕方がないと思いました。
これで問題解決の筈でしたが、外出して戻ったら鍵が開かないのです。蝶のような形をした芸術的な鍵をご存知ですか?渡された鍵が3つあって、ゲート、家、部屋の3つでしたが、ゲートと家の鍵が蝶型で、ゲートの鍵は開きましたが、家の鍵がどうしても開かないのです。
チェックインの際、問題があったら、携帯電話に連絡して欲しいとの仰せだったので、電話を架けると電源が入っていないの音声が聞こえるのみでした。話になりません。
ところが、観光案内所に行った時、案内所の女性が女性の携帯電話番号を教えてくれていたのです。多分、このような種々の問題を生じる常習犯とも言えるB&Bと認識していたのでしょう。(勝手な私の憶測です)
その女性に電話したら解決に向かいました。無事B&B側と連絡が付き、別の係員がやってきて部屋に戻ることが出来ました。表扉は慣れないと空けるのが難しいので、裏の勝手口を使うように鍵を渡されていないかった?と聞くのです。勿論、勝手口の鍵は渡されていないし、そんな話は聞いていないのです。
キッチン付きB&Bがお気に入りでよく利用してましたが、チェックイン、チェックアウト、鍵、電源、自動ロック(ベランダの自動ロックには本当に呆れました。洗濯物を干しにベランダに出たら、部屋に戻れなくなりました)等々の問題に懲りて、近頃ではフロント常駐のホテルに泊まることにしてます。


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村歩きに出発しました。


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修道院と聖堂は、Museoになってますが、ガイド付きツアーのみ可能になってます。


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エンリコ・フェッリ通り沿いの家並みです。


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ガイド付きツアーは、観光案内所出発ですが、出発まで時間があるので、それまで村歩きです。


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ゆっくり昼食を食べた店です。B&Bと連絡がつかなくて焦っていたのか、昼食時の写真を撮り忘れました。


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鐘楼右の建物は、聖堂の聖職者館です。


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青空市のトラックが広場から一台残らず立ち去りました。


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旧サン・フロリアーノ教会です。


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村の中心入り口にある旧教会の鐘楼は、村の目印になってます。2012年の地震によって被害を受け解体の危機にありましたが、修復工事資金調達が可能になって近く工事着工になるようです。


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旧サン・フロリアーノ教会前の水飲み場


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(つづく)

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