イタリア芸術を楽しむ

イタリアの魅力を味わい尽くすには、一生に何度旅をすれば足りるだろう。芸術の宝庫にして、歴史の生きた証であるイタリア。 惹き付けて止まない絵画、彫刻、歴史的建造物、オペラなど、芸術の宝庫であるイタリアを楽しむブログです。 記事は一日に一つアップしています。記事の見方ですが、例えば「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その4)」は2017年10月20日にアップしました。各記事にカレンダーが表示されてますが、カレンダー上の2017年10月21日をクリックして頂ければ「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その5)」になります。(その3)は2017年10月20日となります。 BY:シニョレッリ

2021年08月

065
大満足のバルデスキ美術館でした。


066
プリオーリ宮です。


067
国立ウンブリア美術館に入館します。


068
メインポータル上の彫刻はコピーです。


069
ライオン像


070
柱の彫刻


071


102
プリオーリ宮の中に入りました。


103
国立ウンブリア美術館に入館しました。


104
展示作品については既に取り上げました。


108
これは何でしょうか?


107
美術館や博物館の展示作品は何時も同じとは限りません。特に展示作品が多い所は、行く度に展示作品が微妙に変わります。
国立ウンブリア美術館に付いては既に取り上げましたが、改めて取り上げるのは展示作品が変わっていたからです。
展示作品の差し替えが行われる理由ですが、限られた展示スペースに比べて所蔵作品が多いこと、修復が必要、長く展示していると作品が劣化する等の理由が挙げられます。
ここで取り上げるのは2013年4月時点の展示作品です。


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作品画像と美術館の作品プレートの写真を掲載します。余計と思われる私自身の解釈を排除するのが目的です。


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作品プレートがありません。


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第一室に入室します。


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(つづく)

1107
次はドゥオーモです。


1109
ドゥオーモを拝観しましたが、写真不可でした。


1108
ドゥオーモのファサード


1116
ルネサンスの特別ツアーで撮ったドゥオーモ内部の写真があるので、何れ紹介させて頂きます。


1110
この建物を見ると、何時も危険ではないの?と思います。


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ペルージャは何度も地震に見舞われて、大きな被害を受けたことがあります。大きなお世話か?


1111
Chiesa della Compagnia dell’Orazione e della Buona Morte


1112
ペルージャは非常に見所が豊富です。


1114
ほぼ毎年訪れてました。


1115
鉄道駅から旧市街まで、バスターミナルから旧市街まで、行くのが結構大変です。


1117
夏休み前にも拘らず混雑していました。


1118


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Corso Pietro Vannucci


1120
写真左のお店で軽食を食べました。


1157
同じ年の11月です。


1149
薄暗いですが、午前11時頃です。


1150
雨が降り続く寒い日でした。


1151
観光客が殆どいません。


1152
大司教館


1153
Fontana Maggiore


1154
風雨が強くなる一方でした。


1155
美術館を楽しむには全く問題なかった。


1156
傘が役に立たない天候だったので、レストランで食事してから直ぐにホテルに戻って寝ました。このような日もあります。


053
2013年4月です。この時のお宿です。何時も利用するホテルは修復工事のため臨時休館中、もう一つのホテルは恐らく大学関係の会合があるらしく満室でした。ペルージャは観光客に人気ですが、便利な旧市街にあるホテルの収容力が少なく困ることがあります。


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ホテル自室ベランダからの眺め


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ウンブリア特有の特徴ある屋根の家


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部屋で暫く寛いでから外出しました。


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エブルネア門です。


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階段を上ってイタリア広場に出ました。


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イタリア広場に立つヴィットリオ・エマヌエーレ2世像


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Palazzo Cesaroni


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Palazzo della Provincia


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1716年から1726年に貴族の館として建設されたPalazzo Doniniです。現在、ウンブリア地方議会が置かれてます。


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Corso Pietro Vannucciです。


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この日の最初の目的はバルデスキ美術館です。


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Palazzo Baldeschiです。


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ご存知の方が少ないように思いますが、Palazzo Baldeschiに美術館があります。
この当時、中は写真不可でした。


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Palazzo Baldeschiは、現在Fondazione Cassa di Risparmio di Perugiaが所有してます。Palazzo Baldeschiの一部が美術館になっており、Fondazione Cassa di Risparmio di Perugiaが保有する約200点の作品が展示されてます。


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Fondazione Cassa di Risparmio di PerugiaのHPから拝借した美術館の写真を載せてます。


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この美術館の展示作品は非常に充実してます。


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ルカ・シニョレッリ、ペルジーノ、ニッコロ・ラルンノ,ピントゥリッキオ、グエルチーノ、ジョヴァンニ・バリオーネ、フェデリーコ・ツッカリ、クリストフォロ・ロンカリなどの作品があります。


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美術ファンなら必訪でしょう。


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近代画、現代画も展示されてます。
(つづく)

コロナ禍に加えて、私自身の老いがあって、2019年4月を最後にイタリアへの旅が出来ない状態が続いてます。そのため、未発表の写真が残り少なくなってきました。(日当たり平均40枚の写真をアップすると、一年で14,600枚の写真が必要となります)
また、皆様があまりご興味を抱かないと思われるコムーネばかりを取り上げることに正直躊躇いがあります。
その様な状況を勘案して、ブログを書くなんて夢想だにしなかった時に撮った写真を載せて、暫く時間稼ぎをしようと思いました。

ペルージャは、人口164,417人(2020年8月31日現在)のウンブリア州ペルージャ県の州都であり、県都です。
1065
ピエロ・デッラ・フランチェスカ、ルカ・シニョレッリ、ペルジーノ、ラッファエッロ・サンツィオ、ピントゥリッキオなどが活動した街ペルージャが大好きです。


1066
強烈な日差しの初夏の日でした。


1067
バスターミナルのパルティジャーニ広場からイタリア広場に向かいます。


1068
エスカレーターを数度乗り継いで地上のイタリア広場に向かいます。


1069
イタリア広場です。広場に面したホテルがこの日のお宿でしたが、当時、ホテルの写真を撮ろうと考えたことがなかったので写真がありません。


1070
1895年から1898年に建設された、新古典様式のPalazzo Cesaroniです。ウンブリア州議会が置かれてます。


1071
澄み切った、いかにもイタリアらしい青空です。


1072
イタリア広場から見たサン・エルコラーノ教会です。


1073
サン・ドメニコ教会が見えます。


1074
イタリア広場に面して建つPalazzo della Provincia 県庁舎です。パオリーナ要塞の跡上に1867年から1873年に建設されました。


1075
Corso Pietro Vannucciをドゥオーモ方向に進みます。


1076
お目当ての国立ウンブリア美術館です。


1078
入館しました。


1079
2010年当時、美術館や博物館の殆どが写真不可だったので、作品写真は一枚もありません。


1077
ドゥオーモに向かいます。


1080
旧市街の中心、11月4日広場です。
ドゥオーモは、当時も今も写真不可です。


1081
広場にあるFontana Maggioreです。


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ニコラ・ピサーノ(ピサ、1220c-1284c)と二コラの息子ジョヴァンニ・ピサーノ(ピサ、1248c-シエナ、1315c)によって1275年から1278年に制作されました。


1082
見所豊富なプリオーリ宮です。


1083
コッレージョ・デル・カンビオは見ませんでした。


1086
大司教館です。


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Via Antonio Fratti


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ピエトロ・アンジェリーニ(フォルリ、1888-ローマ、1977)のFontana di Via Maesta delle Volte(1928)です。


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1102
ジェズ教会です。


1096
ドゥオーモのキオストロです。


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ここに大聖堂付属美術館があります。


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入館しました。


1098
ドゥオーモです。


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観光案内所に行きました。


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一休みしました。


1105


1106
人出が多い日でした。
(つづく)

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サン・フランチェスコ教会です。


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Via Real Collegio


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アーチを潜ってジェズ教会に出ます。


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ジェズ教会の扉は固く閉じられたままでした。


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ヴィットリオ・エマヌエーレ2世広場に来ました。先ほどの小雨が止みました。


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サン・フランチェスコ教会の扉も閉まっていました。


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カルロ・アルベルト通りです。


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沢山の鳥が広場の上を旋回していました。


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Palazzo Duch


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フレスコの日時計があります。


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Via Martino


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Vicolo Carlo Botta


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Via Vittorio Alfieriに出ました。


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Via Vittorio Alfieriを城方向に進みます。


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直ぐにモンカリエーリ城が見えてきました。


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小高い場所に上ります。


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モンカリエーリ城が見えます。


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家の先下にポー川が流れてます。


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サンタ・マリア・デッラ・スカラ参事会教区教会の鐘楼です。


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Via Vittorio Alfieriを更に進みます。


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モンカリエーリ城の城壁です。


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アーチを潜ります。


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トリノが見えます。


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サンタ・マリア・デッラ・スカラ参事会教区教会です。


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モンカリエーリ城の前に出ました。


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バーデン・バーデン広場です。城の博物館はもう閉館しました。


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市庁舎分庁舎を通り過ぎます。


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振り返ってモンカリエーリ城に別れを告げました。


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ヴィットリオ・エマヌエーレ2世広場に戻りました。


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サンタ・マリア・デッラ・スカラ参事会教区教会も閉まっていました。


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夕方にも拘らず広場の人出が少なかった。


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見所が少ないと思いました。


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市庁舎


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ホテルに戻ることにしました。


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Salita Padre Denza


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道を下って旧市街の外に出ます。


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ホテルに戻りました。


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翌朝です。サンテジーディオ・アバーテ教会はこの日も閉まっていました。


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Piazza Caduti per la Libertaに青空市が立っていました。


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モンカリ―エリ駅から次の目的地に向かいました。


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(おわり)

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サンテジーディオ・アバーテ教会です。


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11世紀頃、モンカリエーリを流れるポー川に架かる四本の橋は、テンプル騎士団によって管理されていましたが、騎士団はこの場所に住んでいたそうです。


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この場所にあった教会は、1196年の文書に初めて記録されたそうです。


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最初の建物が経時劣化したので、16世紀に再建されました。18世紀と19世紀に改装され、現在の姿になりました。


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残念ながら教会の扉は閉まっていました。


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鐘楼は、1196年の文書に記載されている最初の建物のものです。


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トリノに向かう列車の時間が迫ってきたので、クリストフォロ・コロンボ通りの先には進まず。


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駅に向かいます。


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Piazza Caduti per la Libertaです。


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発車まで、あと3分。焦りました。


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車内は非常に空いてました。


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トリノ・ポルタ・スーザ駅に到着しました。


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地下駅なので、地上に上がるまで多少時間がかかります。


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本題から外れるので、この日のトリノは省略します。


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復路の列車も空いてました。


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トリノからモンカリエーリ駅に戻りました。


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切りピザ1つの昼食だったので、お腹が空いてましたが頑張ります。


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もう一度サンテジーディオ・アバーテ教会に行ってみます。


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扉が開いているかも知れないと淡い期待を抱いてました。


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残念! やはり扉は閉まっていました。


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ミロッコ、ユグラリスなどの作品があります。


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この当時、サンテジーディオ・アバーテ教会の扉が開くのは土曜の夕方と日曜の朝だけだったことを後で知りました。


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見上げるとPalazzo Alfieri di Sostegnoがありました。


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クリストフォロ・コロンボ通りを進みます。


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トリノのベッドタウンらしい佇まいです。


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このまま進めばサンタ・クローチェ病院に出ます。


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同じ場所を見ても詰まらないので左折します。


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Vicolo Ferrucciに入りました。


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Collegio Carlo Albertoの建物です。


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この辺に城壁があったそうです。


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サン・フランチェスコ教会の鐘楼です。


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Via Torquato Tasso


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ヴィットリオ・エマヌエーレ2世広場に行っても詰まらないので、違う道を選びます。


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小雨が降ってきました。


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天気予報は快晴でした。


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イタリアの天気予報は日本よりも簡単です。


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旧城壁です。


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(つづく)

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次はジェズ教会です。


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古くてバロック、ロココの作品ばかりで気合が入りません。


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Palazzo Duchも見どころがあまりなさそうです。


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カルロ・アルベルト通りを下ります。


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突き当りの、一見教会のような建物は、1838年に設立されたFondazione Collegio Carlo Alberto(学校)です。突き当りを右に進めばジェズ教会があります。


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ジェズ教会です。


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Confraternita del Santissimo Nome di Gesuによって1619年に建設されました。


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ファサードの壁龕に聖ロッコと聖シルヴェストロの彫刻があったそうですが、経時劣化のため、20世紀初めに失われたそうです。


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中にミロッコ、ボーモントのフレスコ画があります。


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鐘楼


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扉が閉まっていて拝観出来ず。


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教会巡りは、美術鑑賞の手段としては効率が悪いのです。


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レアル・コッレジョ通りです。


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一旦ヴィットリオ・エマヌエーレ2世広場に足を踏み入れます。


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サン・マルティーノ通りに入りました。


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緩い下り坂になってます。


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サン・マルティーノ通りを駅方向に向かいます。


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道と思うのですが、通りの名称は何故かウンベルト1世広場です。


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ワインを飲みながら昼食を楽しむか、それともトリノに出てサバウダ美術館に行こうか、迷っていました。


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モンカリエーリだけでは、日がな一日が持ちません。


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無原罪の聖母のタベルナコロ


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振り返ってヴィットリオ・エマヌエーレ2世広場を見ました。


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トリノに数泊して、モンカリエーリへの日帰り遠足をするのが正解だった、と後悔しきりです。


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街一番の目抜き通りです。


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昼食を楽しもうと思っても適当な店が見つかりません。


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Vicolo Muratoriです。


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午後はトリノに行くことにしました。


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電車で数分もすればトリノです。


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マルティーノ通りを進みます。


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バスの便も非常に良いのですが、何処を経由するのか分からないので、鉄道が無難です。


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門が見えてきました。


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Porta Navinaです。門の内側が旧市街です。


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Via Adolfo Arduino


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Porta Navinaを潜ります。


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門を潜って城壁外に出ました。


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Piazza Caduti per la Libertaです。


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駅前広場になります。広場の先にポー川が流れており、この広場だった場所に河岸がありました。


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鐘楼が見えてます。


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トリノは急ぎではなく単なる暇潰しなので、サン・エジーディオ教会に道草です。


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クリストフォロ・コロンボ通りです。
(つづく)

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ヴィットリオ・エマヌエーレ2世広場に面して、もう一つ教会があります。


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ヴィットリオ・エマヌエーレ2世広場の左下部に教会があります。


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サン・フランチェスコ教会です。カルロ・アルベルト通りの角にあります。


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サン・フランチェスコ教会の歴史は古く、7,8世紀頃にこの場所にあった初期キリスト教会が前身とされてますが、確実な記録がなく初期キリスト教会は伝説という説もあります。


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1210年、フランスへの旅の途中で、聖フランチェスコはモンカリエーリに立ち寄ったそうです。その直後に聖フランチェスコに捧げる礼拝堂がこの場所に建設されました。その礼拝堂を組み込んで、13世紀前半にゴシック様式の教会が建設されました。
18世紀前半、ゴシック様式の建物が老朽したので、建物の再建が決まりました。建築家フィリッポ・カステッリ(サン・ダミアーノ・ダスティ、1738-トリノ、1,820?)が起用され、1755年に最初の建物が取り壊され、その上に1756年から1788年にかけて建設された建物が現在の姿です。


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18世紀末、ナポレオンのイタリア侵攻に伴い、サン・フランチェスコ修道院教会はフランス軍に接収され、軍事用途に転用されました。ナポレオンの失脚後も宗教活動を再開されることはなく、サヴォイア家、イタリア王国の軍用施設として使用されました。
教会機能を再開したのは20世紀になってからでした。


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中に入りました。


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単廊式、ラテン十字形、バロック様式の内部です。


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華美な装飾が目立ちます。


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天井


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天井のフレスコ画


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浮彫とスタッコの天井


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ピエモンテの逸名画家作「幼きキリストを抱く聖ジュゼッペ」(19世紀)


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カルヴァリオへの上りがあります。


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リグーリアの逸名彫刻家作「無原罪の御宿リ」(18世紀)


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トンマーゾ・ユグラリス(モンカリエーリ、1844-1925)の「聖フランチェスコに顕現する聖母子」


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トンマーゾ・ユグラリスは、地元で生まれ、地元で没しましたが、画家としてはその生涯の殆どをアメリカで活動しました。


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エルコーレ・ルスピ(ローマ、1845-1868活動)の「聖母子」(1848)


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主祭壇


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Presbiterio天井


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フェリーチェ・バルッコ(トリノ、1830-ヴァルペルガ、1906)の「聖母子」(1860)


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主祭壇画は、ジュゼッペ・ピアッティ―ニ(スイス、1814-1885)の「祈る聖フランチェスコ」(1860)


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エンリコ・レッフォ(トリノ、1831-1917)の「キリストの聖心」


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エンリコ・レッフォ(トリノ、1831-1917)の「聖アントニオ・マリア・ザッカリア」
聖アントニオ・マリア・ザッカリア(クレモナ、1502-1539)は、初期宗教改革の指導者です。


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エンリコ・レッフォ(トリノ、1831-1917)の「聖アントニオ・マリア・ザッカリア」


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詳細不知


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トンマーゾ・ユグラリス(モンカリエーリ、1844-1925)の「コルトーナの聖マルゲリータ」(1906)


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主祭壇前から見た出入り口方向


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カウンターファサード


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カウンターファサードにオルガンがあります。


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外に出る前に、もう一度教会内を眺めました。


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旧修道院には行けないようになっていました。


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古い作品が全くありません。


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外に出ました。
(つづく)

引き続きサンタ・マリア・デッラ・スカラ参事会教区教会です。
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左側廊です。


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ミケーレ・アントニオ・ミロッコ(トリノ、1690-1772)の「アヴィーラの聖テレーザに聖心を授けるキリスト」


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「嘆き」(15世紀前半)


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ステファノ・マリア・クレメンテ(トリノ、1719-1794)の「パドヴァの聖アントニオ」


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詳細不知


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左翼廊にある礼拝堂です。


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ネオ・ゴシック様式のサンティッシモ・サクラメント礼拝堂です。


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ジャコモ・アンドレア・カセッラ(カローナ、1619-1685)の「聖フィリッポ・ネリに顕現する聖母子」(1663c)


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アンジェロ・モハ(ミラノ、1828-ドーロ、1885)のサンティッシモ・サクラメント礼拝堂天井装飾


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フランチェスコ・ラダッテ(1706-1787)の「銀製聖遺物容れ」(1749)


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グリエルモ・カッチャ通称イル・モンカルヴォ(モンタボーネ、1568-モンカルヴォ、1625)の「天上の聖母子とバーデンのベアート・ベルナルドと聖ロッコと聖セバスティアーノと聖グラート」


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ミケーレ・アントニオ・ミロッコ(トリノ、1690-1772)の「聖母マリアの神殿奉献」


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ミケーレ・アントニオ・ミロッコ(トリノ、1690-1772)の「聖母マリアの誕生」


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急に明かりが消えました。


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写真写りが良くありません。


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2€コインを入れました。
ミケーレ・アントニオ・ミロッコ(トリノ、1690-1772)の「キリストの神殿奉献」


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主祭壇画上の装飾


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クラウディオ・フランチェスコ・ボーモント(トリノ、1694-1766)の「聖母被昇天」(1766)


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カウンターファサード方向


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カウンターファサードにオルガンがあります。


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外に出ました。


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バロック期、ロココ期の作品が多い教会です。


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ヴィットリオ・エマヌエーレ2世広場です。


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1615年に建設されたPalazzo Comunaleです。


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1786年に改築されたファサードです。


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バッチョ・ポンテッリ(フィレンツェ、1450-ウルビーノ、1492)派建築家によって16世紀に建設されたPalazzo Duchです。


P1320833
古い建物が建ち並んでいる広場です。


P1320954
Palazzo Accorsiです。


P1320960
イタリア統一前はマッジョーレ広場と呼ばれていたそうです。


P1320963
これは何でしょうか?


P1320966
(つづく)

P1320825
Via Principessa Maria Clotildeを進みます。


P1320827
次は、サンタ・マリア・デッラ・スカラ参事会教区教会です。写真右の建物が参事会教区教会です。


P1320829
Via Principessa Maria Clotildeからヴィットリオ・エマヌエーレ2世広場に入ります。


P1320830
旧市街の中心ヴィットリオ・エマヌエーレ2世広場に入りました。


P1320966
振り返ってVia Principessa Maria Clotilde方向を見ました。


P1320956
サンタ・マリア・デッラ・スカラ参事会教区教会と市庁舎(写真右の建物)です。


P1320957
Fontana del Saturnio(1773)です。


P1320835
教会存在の最初の記録が1232年の文書に記載されてます。


P1320837
創建は13世紀第1四半世紀と思われますが、資金難のため、建設工事は中々進捗しませんでした。


P1320952
1312年、当時のトリノ司教による多額の寄付があり、建設工事が進んで1330年頃に完成しました。


P1320948
18世紀以降、何度も改装、修復工事が行われました。現在のファサードは、1857年に行われた改造工事後の姿となってます。


P1320828
鐘楼は15世紀に建設されました。


P1320959
鐘楼の時計が1730年に追加されました。


P1320949
ファサード前に階段があります。


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階段を上って入口扉に出ます。


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ファサードの横ニッチにある「キリストの聖心」


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教会内に入りました。


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四廊式、ラテン十字形、ゴシック様式の内部です。


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左側に2つの側廊があります。


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交差ヴォールト


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Presbiterioを見ます。


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1330年頃に完成した建物のPresbiterioは、1745年に取り壊されました。現在のPresbiterioは、18世紀中頃に再構築されたものです。


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16世紀の磔刑像


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主祭壇画は、クラウディオ・フランチェスコ・ボーモント(トリノ、1694-1766)の「聖母被昇天」(1766)です。


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主祭壇画上の紋章


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右後陣の礼拝堂


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左後陣の礼拝堂


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グリエルモ・カッチャ通称イル・モンカルヴォ(モンタボーネ、1568-モンカルヴォ、1625)の「聖母子と聖アガタと聖ルチア」


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ミケーレ・アントニオ・ミロッコ(トリノ、1690-1772)の「ご誕生」


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チャールズ・クロード・ドーフィン(ナンシー、1615-トリノ、1677)の「受胎告知」


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詳細不知


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チャールズ・クロード・ドーフィン(ナンシー、1615-トリノ、1677)の「コスタンティーノ帝を洗礼する聖シルヴェストロ」(1668)


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右側廊


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右側廊からの眺め


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古いフレスコ画が残されてます。


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14世紀末から15世紀初めに制作されたフレスコ画です。


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フレスコ画の制作者は不明とされてます。


P1320881
(つづく)

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塀の向こうにカステッロが建ってます。


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カステッロに向かいます。


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モンカリエーリ城です。


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トリノの南、ポー川の丘陵にあるモンカリエーリは、陸上と河川交通の要衝でした。


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トリノ防衛の前線基地として、10世紀以前に築かれた砦が前身のようですが、砦に関する記録が残されていません。


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城に関する確実な記録によれば、モンカリエーリ伯爵だったトンマーゾ1世・サヴォイア(カステッロ・ジャンボニエール、1178-モンカリエーリ、1233)がトリノへの南防衛基地として、1200年頃に建設した要塞が前身とされてます。


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15世紀後半、トリノ公爵アメデオ9世・ディ・サヴォイア(トノンレバン、1435-ヴェルチェッリ、1472)は、要塞をサヴォイア家の別荘に増築改装することにしましたが、アメデオ9世の妻イオランダ・ディ・ヴァロア公爵夫人(イオランダ公爵夫人)(トゥール、1434-モンクリヴェッロ、1478)が自身の住居として使用することを欲しました。
イオランダ公爵夫人は、フランス王シャルル7世の娘であり、ルイ11世の姉でした。そのため、城は防御よりも華美な宮殿として増築改装されました。


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17世紀前半、サヴォイア家は、モンカリエーリ城の拡大整備を図るために建築家カルロ・ディ・カステッラモンテ(トリノ、1571-1640)を起用して、1633年から1660年にかけて拡大整備させた建物が現在の姿となってます。


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1798年、ナポレオンのフランス軍によって城は占領され、フランス軍基地となりました。ナポレオンの敗退後の1814年、モンカリエーリ城は、サルデーニャ王ヴィットリオ・エマヌエーレ1世・ディ・サヴォイア(トリノ、1759-モンカリエーリ、1824)に返還されました。


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1921年、城は警察署に転用されると共に、建物の一部はMuseoとして一般公開されるようになりました。


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1997年、サヴォイア家の他の宮殿と共に、モンカリエーリ城はユネスコの世界遺産になりました。


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2008年4月8日、火災が発生し、鎮火まで3日要しました。そのため、Museoは長らく閉鎖されました。


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城の壁に碑時計があります。


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表庭に入りました。


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バラの庭 Giardino delle Roseと呼ばれてます。


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中庭です。


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城の内部


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城の礼拝堂


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バーデン・バーデン広場から見たモンカリエーリ城です。


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カルメロ・サン・ジュゼッペ修道院教会です。


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バーデン・バーデン広場は、モンカリエーリの高所にあるので、絶景ポイントになってます。


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バーデン・バーデン広場です。


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バーデン・バーデン広場から見たモンカリエーリ城です。


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Via Principessa Maria Clotilde


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Vicolo Silvio Pellico


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市庁舎の分庁舎です。出生届や婚姻届などを担当する部署があります。


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Via Principessa Maria Clotildeに入りました。


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振り返って撮ったモンカリエーリ城の写真です。


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市庁舎分庁舎の門があります。


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ここに観光案内所があります。


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モンカリエーリの地図を頂戴しました。


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分庁舎から外に出ます。
(つづく)

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前泊地はブラでした。写真はブラ駅の駅舎です。


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ブラ駅から鉄道でモンカリエーリ駅に向かいます。


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列車内は空いてました。


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モンカリエーリ駅に到着しました。


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モンカリエーリ駅の駅舎です。


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この日のお宿に向かいます。


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モンカリエーリは、人口56,506人(2020年8月31日現在)のピエモンテ州トリノ県にあるコムーネです。


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駅前広場です。


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この日のお宿です。トリノに近いモンカリエーリなので、トリノに泊まる人が殆どのようで、この街の宿泊設備は非常に限られてます。


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ホテルに大きな荷物を預けてから街歩きに出発しました。


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モンカリエーリに来る切っ掛けは、ジェノヴァ~トリノを鉄道で何度も往復するうちに、車窓から見えた、丘上に聳える城に興味を持つようになったことです。


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モンカリエーリを囲むようにポー川が流れており、川横の丘陵に街が築かれてます。


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中世の頃、モンカリエーリに四本の橋がありましたが、それらの橋はテンプル騎士団によって管理されていました。


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旧市街は丘陵にあり、丘陵下に新市街が広がってます。


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トリノの南東8キロメートルにあるので、現在はトリノのベッドタウンになってます。


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ホテルは新市街にあります。緩やかな坂を上って旧市街に向かいます。


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トリノのベッドタウンだけあって、アパートが沢山あります。


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クリストフォロ・コロンボ通りです。


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フェルディナンド広場に出ました。


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広場の先の建物はサンタ・クローチェ病院です。


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サンタ・クローチェ通りです。


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サンタ・クローチェ通りを西に向かって進みます。


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通りの突き当り(実際は突き当りではありません)にサンタ・クローチェ教会があります。


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写真左下に城壁がありました。


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この辺は城壁外に当たります。


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18世紀に建設された建物が多い通りです。


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サンタ・クローチェ教会です。


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教会がある場所にPorta di Piacentinaがありました。門近くにエルサレム騎士団によって1452年に建設された病院と礼拝堂がありました。16世紀後半、礼拝堂ではなく教会の建設計画が持ち上がりました。


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Porta di Piacentinaを取り壊し、門跡に1602年に創建され、1691年に完成したサンタ・クローチェ教会です。ここでは、礼拝堂の名称のままになってます。


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サンタ・クローチェ教会の内部です。


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教会の横を右折します。


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サンタ・クローチェ通りの先は後で見ます。


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通りの先に鉄道駅があります。


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サンタ・クローチェ通りを右折してVicolo Girolamo Savonarolaに入りました。


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Vicolo Girolamo Savonarolaの上に修道院があります。


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写真左が修道院教会です。


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カルメロ・サン・ジュゼッペ修道院教会です。


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跣足カルメル会修道女の修道院教会です。


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聖ルイージ・ゴンザーガ一族の貴族の娘であるベアータ・マリア―ナ・デリ・アンジェリ本名マリアンナ・フォンタネッラ(トリノ、1661-1717)によって1703年に建設された女子修道院です。


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現在も修道女が寝起きしています。


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建設された当初は、大変裕福な修道院として知られていました。


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Vicolo Girolamo Savonarolaを上り切ります。


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観光客を受け入れていないようです。


P1320788
(つづく)

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ドゥオーモがこれではどうにもなりません。


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ファサードが修復されたものの、聖堂内部への立ち入りが禁止されていた時の写真。


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修復工事が完了して、その祝福のミサが行われた2017年4月25日の写真です。


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修復工事完了後の姿


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カルピのドゥオーモ、サンタ・マリア・アッスンタ司教座聖堂です。カルピ司教区の司教座が置かれてます。


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聖堂内部


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カルピ領主アルベルト3世・ピオ(カルピ、1474-パリ、1531)に指示によって、1514年に創建され、18世紀末に完成したバロック様式の教会です。1791年に奉献式が執り行われました。


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1979年、Basilica Minoreに格付けされました。


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2012年の地震ではマントヴァも大被害を受けました。


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Corso Sandro Cabassi


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次は教区美術館です。


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地震の影響を受けて、教区美術館は多分休館だろうと予想していましたが、ダメ元で行ってみることにしました。


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教区美術館は、サンティグナツィオ・デ・ロヨラ教会だった建物にあります。


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サンティグナツィオ・デ・ロヨラ教会は直ぐ傍です。


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Corso Manfredo Fantiです。


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サンティグナツィオ・デ・ロヨラ教会です。


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イエズス会によって1670年から1682年に建設されたバロック様式の教会です。


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既に宗教活動を停止して、教会だった建物に2008年から教区美術館が置かれてます。


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地震のため、建物が危険とされて立ち入り禁止となってました。休館は予想通りだったので、残念とは思わず。


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この時の旅で、エミリア地方を回りましたが、地震の被害が大きかったのはカルピ、グアスタッラでした。


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教会巡りをしようと思いましたが、教会は多分開いてない。


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次はサンタ・キアーラ修道院教会です。


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カルピ領主の庇護を受けた裕福な修道院として知られているサンタ・キアーラ修道院です。


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サンタ・キアーラ修道院教会は予想通り閉まっていました。


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カルピ領主のピオ・ディ・サヴォイア家のカミラ・ピオ・ディ・サヴォイア(カルピ、1440-1504)によって、1490年に創建され、15世紀初めに完成したサンタ・キアーラ女子修道院です。初代院長にカミラが就任しました。


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女子修道院は、今でも現役で10人の尼僧が生活しているそうです。


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サンタ・キアーラ教会の後陣


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サンタ・キアーラ修道院の建物


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旧市街の教会には大体行ったようです。


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フレスコ装飾がある建物


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これ以上にカルピにいても見どころが無さそうです。


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泊まらなくて良かったと思いました。


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泊まったならば、時間が余って大変でした。


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ドゥオーモのクーポラ


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マルティーリ広場です。


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モデナに戻ることにしました。


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Corso Sandro Cabassiです。


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復路も鉄道利用です。


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柱廊天井のフレスコ装飾を見ます。


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これです。


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駅に向かいました。


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駅前広場です。


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駅に戻りました。
(おわり)

引き続きピオ城の市立博物館です。
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ジョヴァンニ・マルコ・バルツェッリ(カルピ、1637-モデナ、1693)に帰属する「祭壇前飾り」(1660-90c)
雪花石膏製です。


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ジョヴァンニ・マルコ・バルツェッリ(カルピ、1637-モデナ、1693)に帰属する「祭壇前飾り」(1660-90c)


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ジョヴァンニ・バッティスタ・マッサ(1680-1730)の「祭壇前飾り」


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ジョヴァンニ・バッティスタ・マッサ(1680-1730)の「祭壇前飾り」


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ジョヴァンニ・バッティスタ・マッサ(1680-1730)の「祭壇前飾り」


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ジョヴァンニ・バッティスタ・マッサ(1680-1730)の「祭壇前飾り」


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エミリアの職人作「祭壇前飾り」(18世紀)


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カルピの職人作「祭壇前飾り」(17世紀後半)


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カルピの職人作「祭壇前飾り」(17世紀後半)


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カルピの職人作「祭壇前飾り」(17世紀後半)


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カルピの職人作「祭壇前飾り」(17世紀後半)


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カルピの職人作「祭壇前飾り」(17世紀後半)


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カルピの職人作「祭壇前飾り」(1690c)


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印刷機(19世紀末)
カルピ市立博物館を終わります。


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ピオ城前のマルティーリ広場です。


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長い柱廊がある建物が広場に面してます。


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Cassa Risparmioが入居してます。


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文化的、経済的な発展をサポートする非営利団体です。


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日差しが強い日でしたが、意外にも暑くなく湿度も低くて快適でした。


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柱廊の壁にフレスコ画があったそうです。


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市庁舎です。


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17世紀に建設されたPalazzo Scacchettiです。18世紀後半に市庁舎として使用されることになり、現在に至ってます。


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市庁舎でカルピの観光地図を頂戴しました。


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市立劇場は、大修復工事が行われていました。


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修復工事後の市立劇場です。
1857年から1861年に建設された新古典様式の市立劇場です。


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市立劇場ファサードの装飾


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いたるところで修復工事が行われていました。


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柱廊のバールで一休みしました。


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実は、この時、強制収容所に行こうか、随分迷いました。


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バスがあるのですが、バスが不便(帰りの便が夕方)でした。


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タクシー利用が無難でしたが、タクシー乗り場が見当たらない。


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それ程の熱意がなかったので、強制収容所行きは止めました。


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次はドゥオーモです。


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2012年のエミリア地震と、その後に2年ほど続いた余震によって、大きな被害を受けたドゥオーモは修復工事のために長らく閉鎖されていました。


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ポー―川の堆積によって出来たモデナ低地の中で、地盤が弱いカルピは、地震による被害が大きかったそうです。


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ドゥオーモのクーポラ


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(つづく)

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ベルナルディーノ・ロスキ(パルマ、1460-カルピ、1540)の「トレンティーノの聖二コラ」(1495)


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ベルナルディーノ・ロスキ(パルマ、1460-カルピ、1540)の「栄光のトレンティーノの聖二コラ」(1495)


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アントニオ・モンタナーリ通称イル・ポステッタ(カルピ,1747/1749生まれ、1773-1796活動記録)の「ウーゴ・ダ・カルピの肖像」(18世紀)
ウーゴ・ダ・カルピ(カルピ、1480-ボローニャ、1523)は版画家です。


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アントニオ・モンタナーリ通称イル・ポステッタ(カルピ、1747/1749生まれ、1773-1796活動記録)の「ニコロ・ビオンドの肖像」(18世紀)
二コラ・ビオンド(カルピ、1456-1516)は、中世におけるカルピの主要産業だった麦藁帽子製造に於いて画期的な製造法を考案した人です。


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アントニオ・アルベルティ(フェッラーラ、1390/1400-ウルビーノ、1442/1449)の「聖母子と聖人たち」(15世紀)


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ウーゴ・ダ・カルピ(カルピ、1480-ボローニャ、1523)の「シモーネ邸のキリスト」(1500-23c)
ラッファエッロ作品の複製木版画です。


p130429
ウーゴ・ダ・カルピ(カルピ、1480-ボローニャ、1523)の「ダヴィデとゴリアテ」(1500-23c)
ラッファエッロ作品の複製木版画です。


p130430
ウーゴ・ダ・カルピ(カルピ、1480-ボローニャ、1523)の「十字架降下」
ラッファエッロ作品の複製木版画です。


p130431
ウーゴ・ダ・カルピ(カルピ、1480-ボローニャ、1523)の「ディオゲネス」(1523c)
パルミジャニーノ作品の複製木版画です。


p130432
ウーゴ・ダ・カルピ(カルピ、1480-ボローニャ、1523)の「アナニアの死」(1518)
ラッファエッロ作品の複製木版画です。


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ウーゴ・ダ・カルピ(カルピ、1480-ボローニャ、1523)の「イサクの犠牲」(1515)
ティツィアーノ作品の複製木版画です。


p130434
ウーゴ・ダ・カルピ(カルピ、1480-ボローニャ、1523)の「Sigilla Che Legge」
ラッファエッロ作品の複製木版画です。


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エミリアの逸名版画家作「アルベルト3世・ピオの肖像」(17世紀)


p130436
エミリアの逸名彫刻家作「聖アントニオ・アバーテ」(1450c)


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エミリアの逸名彫刻家作「聖母子」(16世紀)


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カルピの逸名彫刻家作「聖母子」(16世紀)


p130439
エミリアの逸名彫刻家作「聖母子」(15世紀後半)


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ロマーニャの逸名彫刻家作「聖母子」(1610c)


p130441
カルピの陶器職人作「壺」(1590c)


p130442
カルピの陶器職人作「絵皿」(1510c)


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カルピの陶器職人作「聖母被昇天」(16世紀)


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城内は広い。


p130445
ヴェネツィア製の本(1588)


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教皇ニッコロ5世(第208代教皇 サルザーナ、1397-ローマ、1455 在位:1447-1455)による修道院建設の認可状(1449)


p130447
カルピのサン・ニッコロ修道院の交唱聖歌集(16世紀)


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プロイセンの交唱聖歌集(15世紀)


p130449
ヴェネツィア製の本(1502)


p130450
カルピの遺跡からの出土品「厄払いの男根」(紀元前2世紀)


p130451
カルピの遺跡からの出土品「厄払いの悪魔」(紀元前2世紀)


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カルピの遺跡からの出土品「ブロンズ像」(紀元前6世紀-紀元前5世紀)


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カルピの遺跡からの出土品「ブロンズ像」(紀元前6世紀-紀元前5世紀)


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カルピの遺跡からの出土品「青銅製の鐘」(紀元前2世紀-紀元前1世紀)


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アントナン・メルシエ(トゥールーズ、1845-パリ、1916)の「ダヴィデ」(1874-80c)


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アルベルト3世・ピオのメダル


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アルベルト3世・ピオのメダル


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戦車の装飾とハーネス(19-20世紀)


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戦車の矢(19-20世紀)


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戦車の矢(19-20世紀)


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Giogo(19-20世紀)


p130462
Giogo(19-20世紀)
(つづく)

p130383
引き続き、ピオ城内部です。


p130384
次はSalone dei Moriです。


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壁の全面がフレスコ画で覆われてます。


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保存状態が良いフレスコ画は少ない。


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Salone dei Moriのフレスコ画は、ジョヴァンニ・デル・セガ(フォルリ、1450-1527)によって1506年に制作されました。


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ジョヴァンニ・デル・セガは、主にカルピで活動した画家ですが、メロッツォ・ダ・フォルリ(フォルリ、1438c-1494)の弟子でした。1472年、メロッツォはローマへと旅立ちますが、ジョヴァンニはそれ以前にフォルリでメロッツォに師事したようです。


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ジョヴァンニ・デル・セガ(フォルリ、1450-1527)によるフレスコ画(1506)


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次は、愛の部屋 Stanza dell’Amoreです。


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愛の部屋の壁のフレスコ画も保存状態が良くありません。


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Stanza dell’Amoreのフレスコ画は、エミリアの逸名画家によって、1490年から1510年頃に制作されました。


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Stanza dell’Amoreのフレスコ画


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Stanza dell’Amoreのフレスコ画


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Stanza dell’Amoreのフレスコ画


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Stanza dell’Amoreのフレスコ画


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次は、装飾の部屋 Stanza Ornata です。


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Stanza Ornata の天井です。


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16世紀前半のスタッコ彫刻


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Stanza Ornata のフレスコ画は、ベルナルディーノ・ロスキ(パルマ、1460-カルピ、1540)の作品です。


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スペインの塔への入り口上ルネッタのフレスコ画「ライオン」は、エミリアの逸名画家によって1490年に制作されました。
次は、市立博物館の絵画部門です。


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ヴィンチェンツォ・カテーナ(ヴェネツィア、1470/1480c-1531)の「受胎告知」(1500-10c)


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「受胎告知」の大天使下半身


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エミリアの逸名画家作「聖母子と聖人たち」(1500-10c)


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ロンバルドの逸名画家作「老人の頭」(1550c)


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ピオ城ファサードのニッチです。ピオ城ファサードは解体されました。


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ジョヴァンニ・デル・セガ(フォルリ、1450-1527)に帰属する「ローマ皇帝」(1506-18)
ピオ城ファサードのニッチです。


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エミリアの逸名画家によるスペイン塔ニッチのフレスコ画(1450以前)


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ベルナルディーノ・ロスキ(パルマ、1460-カルピ、1540)の「聖母子」(1490c)


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ベルナルディーノ・ロスキ(パルマ、1460-カルピ、1540)の「玉座の聖母子と聖人たち」(1520c)


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ベルナルディーノ・ロスキ(パルマ、1460-カルピ、1540)の「ご誕生」(1510以前)


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ベルナルディーノ・ロスキ(パルマ、1460-カルピ、1540)の「幼きキリストへの崇拝」(1500-10c)


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ベルナルディーノ・ロスキ(パルマ、1460-カルピ、1540)の「幼きキリストへの崇拝」(1510以前)


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寄進者
(つづく)

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次は、ピオ城 Castello dei Pioです。


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カルピの中心であるマルティリ広場です。マルティリ広場は、イタリアで最大の広場の一つです。


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広場に面してピオ城(写真右)が建ってます。
写真正面の工事中の建物は、カルピのドゥオーモです。2012年に起きたエミリア大地震とその後に起きた余震によって大きな被害を受けたので、長らく修復工事が行われていたドゥオーモです。


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ピオ城は、建設された時代が異なる幾つかの建物から成る複合施設です。


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ピオ城は、11世紀から17世紀の約600年に渡る長期間に建設されました。


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11世紀、当時のカルピは、トスカーナ辺境伯の支配下にありましたが、モデナ平原の防衛力強化のために、トスカーナ辺境伯によって建設された要塞がピオ城の前身です。平原に築かれた要塞だったので、要塞の四方は深い堀に囲まれていました。


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1288年、カルピは、モデナのエステ家の支配を受けるようになりましたが、要塞はエステ家によって拡大整備されました。


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1329年からモデナで摂政を務めていたマンフレード1世・ピオ(?、?-カルピ、1,348)は、1336年、エステ家からカルピ領主に任じられました。マンフレード1世は、ピオ・ディ・サヴォイア家の当主でした。
新たに領主となったマンフレード1世は、要塞から城へと更に建物を増築しました。


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建物は中世の武骨な城でしたが、15世紀前半、アルベルト3世・ピオ(カルピ、1,475-パリ、1,531)によってルネサンス様式の邸宅へと改造されました。


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1527年、イタリアに進軍してきたハプスブルグのカルロ5世(1500-1558)によって、アルベルト3世・ピオは、パヴィア戦争で敗走すると共にカルピから追放されてしまいました。


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城の入り口です。その前には堀を渡る跳ね橋があったそうです。
1530年、カルピは、モデナ公国領となり再びエステ家の支配下に置かれることになりました。時計塔が17世紀に追加されました。


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時計塔の側面


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ドゥオーモは、その後修復工事が完了しました。


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Piazzale Re Astolfoに面した側のピオ城です。


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18世紀末、ナポレオンのイタリア侵攻に伴い、ピオ城はフランス軍に接収され、フランス軍の駐屯地となりました。


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中庭です。


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ナポレオンの失脚後、カルピは、1815年から1860年までハプスブルグのオーストリア・エステ家領となり、ピオ城は、その政庁として使用されました。


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1860年、カルピはイタリア王国に組み込まれ、ピオ城は軍事施設に転用されました。


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1936年、ピオ城は、カルピ市所有となり、修復改装工事を経て、博物館、図書館として一般公開されるようになりました。


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現在、ピオ城は、市立図書館、市の歴史博物館、市立博物館となってます。
カルピ観光の唯一無二の見所がピオ城でしょう。
市立博物館は、城、美術部門、政治的部門の3部門からなってます。政治的部門は、分離集落フォッソーリのユダヤ人強制収容所関係となってます。


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入館します。


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Museo dei Palazzoの部分です。


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礼拝堂です。


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壁全面がフレスコ画で覆われてます。


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礼拝堂のフレスコ画は、ベルナルディーノ・ロスキ(パルマ、1460-カルピ、1540)によって制作されました。


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ベルナルディーノ・ロスキは、1500年頃からアルベルト3世・ピオに仕える画家ですが、マンテーニャの影響を受けた画風でした。


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礼拝堂天井


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復活したキリスト


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アンドレア・デッラ・ロッビア(フィレンツェ、1435-1525)の彩釉テラコッタ


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礼拝堂の床


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城内の部屋にフレスコ画が残されてます。


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次は、凱旋の間 Sala dei Trionfiのフレスコ画です。


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凱旋の間のフレスコ画もベルナルディーノ・ロスキ(パルマ、1460-カルピ、1540)によって制作されました。


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(つづく)

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モデナ駅の駅舎です。
モデナに2泊してましたが、その中日にカルピへの日帰り遠足をすることにしました。


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モデナ駅から普通列車でカルピに向かいます。


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カルピ駅に到着しました。


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カルピは、人口72,510人(2020年8月31日現在)のエミリア・ロマーニャ州モデナ県にあるコムーネで、モデナの北西約20キロメートルにあります。


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カルピ駅の駅舎です。


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駅前広場です。


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駅からViale Darfo Dallaiを200メートルほど歩けば旧市街の入り口に出ます。


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旧市街の先端がもう見えてます。


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ニコロ・ビオンド通りを渡れば旧市街の入り口です。


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ニコロ・ビオンド通りです。


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モデナ方向のニコロ・ビオンド通りです。


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ニコロ・ビオンド通りを渡ります。


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旧市街に入りました。


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旧市街に入ると通りの名称が変わります。


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カルピには暗い歴史があります。
カルピ郊外に、カルピの分離集落 Frazioniの一つにフォッソーリ Fossoliがありますが、1942年、フォッソーリの刑務所が拡大整備され、新たに強制収容所が設けられました。イタリアに居住していたユダヤ人はフォッソーリ強制収容所に収容され、そこからドイツへと強制送還されたのです。イタリア居住のユダヤ人犠牲者は約8千人と推定されてます。フォッソーリ強制収容所がホロコースト直接の舞台になったという証拠はないようです。
現在、フォッソーリ強制収容所はMuseoとして一般公開されてます。観光気分で行く場所ではないので、私は訪れたことがありません。


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アルド・マヌツィオ通りです。


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コドルフォ・ピオ通りに入りました。


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マルチメディアの図書館です。


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1902年に建設された麦藁帽子工場だった建物がマルチメディア図書館に使用されてます。


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振り返ると、Festa del Raccontoを見落としたことに気付きました。


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Castello del Pioです。


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ピオ城は、Museoとして一般公開されてます。


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ピオ城博物館の入り口です。広場側の入り口から入館する人が殆どです。


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Piazzale Re Astolfoです。


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モデナ裁判所カルピ支所です。


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サンタ・マリア・イン・カステッロ教区教会です。


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ロンゴバルドによって、752年に建設されたカルピ最古の教会です。


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12世紀後半に拡大され、ロマネスク様式の建物になりました。1184年に奉献式が執り行われました。


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1515年、建築家バルダッサッレ・トンマーゾ・ペルッツィ(ソヴィチッレ、1481-ローマ、1536)の設計によって、ルネサンス様式のファサードが建設されました。


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1886年から1887年にかけて改装工事が行われました。現在の外観は、この工事後のものです。


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高さ49.5メートルの鐘楼が目立ちます。


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鐘楼の先端


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説教壇


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入口扉上ルネッタの彫刻が必見です。


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ベネデット・アンテラミ(ヴァル・ディンテルヴィ、1150c-1230c)派逸名彫刻家の作品です。


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ロマネスク様式の彫刻です。


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中はフレスコ画が沢山あります。


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15世紀のフレスコ画


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15世紀のフレスコ画


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マギの礼拝(15世紀)


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マンフレード1世・ピオ(?、?-カルピ、1348)の石棺(1351)
マンフレード1世・ピオは、最初のカルピ領主です。


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(つづく)

引き続きサン・ドメニコ教区教会です。
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フランチェスコ・ボッティチーニ(フィレンツェ、1446-1497)の「無原罪の御宿リ」


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戦後に行われた修復工事の際に発見されたフレスコ画です。


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トスカーナの逸名画家作「授乳の聖母」(14世紀)


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この祭壇画の詳細が分かりません。


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支払い記録が教会の方で残っていれば、制作者や制作年が分かると思います。


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ネーリ・ディ・ビッチ(フィレンツェ、1419-1491)の「トレンティーノの聖二コラ」


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詳細不知


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詳細不知


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外に出ました。


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鉄道線路の先のスタッジャ地区に向かいます。


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Piazza Imre Nagy


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ヴィットリオ・ヴェネト通りを進みます。


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鉄道線路の下を潜ってスタッジャ地区に向かいます。


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Largo Dino Bellucciにある磔刑像です。


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スタッジャは、現在ポッジボンシに組み入れられてますが、10世紀から11世紀に建設されたスタッジャ要塞を囲んで、13世紀に城壁が築かれた町です。


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城壁、要塞、古い教会などが取り壊され、殆ど見どころが無いスタッジャ地区です。


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トスカーナ名物の糸杉


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Confraternita di Misericordiaの建物です。


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教会の機能も兼ねてます。


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サンタ・マリア・アッスンタ参事会教会の鐘楼が見えてます。


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スタッジャ地区からポッジボンシの旧市街に戻ります。


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トレント通りです。


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トレント通りを真直ぐ進めば駅に出ます。


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Via Giovanni Montorsoliです。


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ホテルに戻りました。


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この日は、これで終わりです。


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翌朝です。


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朝の散歩に出ました。


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そろそろサン・ジミニャーノ行きのバスの出発時間です。


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駅前のバスターミナルに向かいました。


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バスターミナルでバスを待ちました。
(おわり)

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サヴォナローラ広場です。


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広場の名称は、勿論フィレンツェで神権政治を行い、刑死したジローラモ・サヴォナローラに因んでます。


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フィレンツェのサン・マルコ修道院の院長だったジローラモ・サヴォナローラ(フェッラーラ、1452-フィレンツェ、1498)は、フランス軍の侵攻を予想していましたが、1494年、実際にフランス王シャルル8世(アンボワーズ、1470-1498)によって率いられたフランス軍がイタリアに侵攻したことによって、サヴォナローラの権威が確立され、フィレンツェでサヴォナローラによる神権政治が始まりました。


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前置きが長くなりましたが、サン・ロレンツォ教区教会がサヴォナローラ広場に面して建ってますが、広場の名称は、1495年、サン・ロレンツォ教区教会でフランス王シャルル8世とサヴォーナローラが面会したことに由来してます。


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扉が未だ閉まってます。
イギリス・カンタベリーからローマを結ぶVia Fracigenaが、カステルフィオレンティーノ、チェルタルド、ポッジボンシ、シエナに到達するようになった12世紀頃に初代の建物が建設され、直ぐに教区教会になりました。Via Fracigenaは一本の道路ではなく、幾つかのルートがありました。


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現在の建物は、14世紀初頭に再建された二代目となるものです。


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しかし、700年に時を経るうちに幾度となく改装、修復が繰り返さされ、14世紀初頭の創建時の姿とはかなり異なるようです。


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これは第二次世界大戦で爆撃される以前に撮られた写真です。


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扉が開きました。


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戦後に部分的に再建された建物が現在の姿になってます。


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後陣


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鐘楼


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鐘楼は後陣右に立ってます。


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右側壁


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外から見えるステンドグラス


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中に入りました。


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三廊式です。建築様式は、改装を経ているので、部分部分で異なります。ロマネスク、ゴシック、バロック、ネオ・ゴシック様式が混在しています。


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木組みの梁天井


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左側廊


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右側廊


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後陣を見ます。


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左後陣の礼拝堂です。


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木製磔刑像が有名です。


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ジョヴァンニ・ディ・アゴスティーノ(シエナ、1310c-1348)の「磔刑像」(14世紀前半)


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磔刑像の横にある碑文


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次にPresbiterioを見ます。


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Presbiterio


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Presbiterioの磔刑像(詳細不知)


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後陣の聖ロレンツォのステンドグラス


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詳細不知のステンドグラス


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聖水盤


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次は右後陣の礼拝堂です。


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右後陣の礼拝堂


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16世紀のトスカーナの逸名画家作「グラツィエの聖母」(16世紀)


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詳細不知


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フランチェスコ・ボッティチーニ(フィレンツェ、1446-1497)の「キリストの復活」(1496c)


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(つづく)

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Poggio Marturiの丘から下ります。


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2つの丘の間にある駐車場です。


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更に丘を下ります。


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旧城壁東端至近の城壁外に当たります。


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イタリアに限らずヨーロッパのリンゴは総じて実が小さい。


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イタリアに行くのは当分ダメですね。写真の在庫が残り少なくなってきたので、このままでは、あと1年ほどでブログの継続が難しくなりそうです。


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僅かに残されている城壁の先に参事会教会の時計塔(鐘楼)が見えます。


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次は参事会教会の拝観ですが、少し遠回りをして向かいます。


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道を一旦上ります。


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道は下りに転じます。


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道の突き当りがカヴール広場になります。


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シエナがフィレンツェの支配下に入るまで、ポッジボンシはシエナとフィレンツェ間の係争の地でした。


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写真正面の建物はサン・ロレンツォ教会です。


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カヴール広場(写真右)に戻りました。


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サンタ・マリア・アッスンタ参事会教区教会、ポッジボンシのドゥオーモです。


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カヴール広場のFontana Mancataです。


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第155代教皇ニッコラ2世(ニコラウス2世)(ブルゴーニュ、980c-フィレンツェ、1,061 在位:1058-1061)に拠る教会建設の認可に基づき、1075年頃に建設されました。


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1155年、第169代教皇アドリアーノ4世(1100c-1159 在位:1154-1159)によって教区教会となりました。


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1314年に拡大されると共に改装されました。
18世紀末、建物の劣化が進み危険と判断されて、1787年に大規模な修復工事が行われましたが、1806年の地震によって被害を受けて、更に改装修復が行われました。


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ところが1863年の大地震によって屋根が崩落したので、最初の建物を取り壊して、その上に新しい建物が建設されることになりました。
そうして、1863年から1870年にかけて再建された新古典様式の建物が現在の姿となってます。


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鐘楼は、14世紀に建設されたものです。


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鐘楼の時計は、1896年に追加されました。


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中に入りました。


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三廊式、ラテン十字形、新古典様式の内部です。


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2003年から2012年にかけて、内部の大改装工事が行われました。


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装飾が殆どなく、スッキリした天井です。


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左側廊


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見どころに乏しい教会です。


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右側廊


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右側廊からの眺め


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詳細不知


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ジュゼッペ・コリニャーニの礼拝堂天井のフレスコ装飾(19世紀後半)


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右側壁


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左側壁


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Presbiterioを見ます。


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主祭壇


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後陣のステンドグラス


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フランチェスコ・ボッティチーニ(フィレンツェ、1446-1497)の「聖心」


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アレッサンドロ・フランキ(プラート、1838-シエナ、1914)の「光悦の聖フランチェスコ」


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詳細不知


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アウレリオ・ローミ(ピサ、1556-1624)の「嘆きの聖母」


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詳細不知


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ジュゼッペ・コリニャーニのフレスコ画(19世紀後半)


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カウンターファサード


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カウンターファサードにオルガンがあります。
(つづく)

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ポッジョ・インぺリアーレのメディチ要塞から下ります。


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Fonte delle Fateです。


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メディチ要塞守備兵の兵舎でした。


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現在は民営となってます。


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向かいの丘 Poggio Marturiの上にバディア城が見えてます。


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Via San Luccheseです。


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道を下ります。


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かなりの急坂です。


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一旦道を下って、Poggio Marturiの丘に向かいます。


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バディア城は見る価値がないと思います。


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バディア城を無視しても良いのですが、単なる暇潰しのために一応見ることに。


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時計塔はサンタ・マリア・アッスンタ参事会教会の鐘楼です。


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左折してバディア城に向かいます。


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Poggio Marturiの丘上にあるバディア城です。


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この場所に、10世紀頃に建設されたサン・ミケーレ・アルカンジェロ修道院がありました。
10世紀末、スポレート公爵ウゴリーノ・ディ・トスカーナ(?、951/953-ピストイア、1001)が修道院の防衛力を増強すると共に城を築きましたが、その全体がバディア城です。


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1478年、フィレンツェのドゥオーモで、パッツィ家陰謀事件が起き、それに続いてフィレンツェと教皇庁・ナポリ王国の間でパッツィ家戦争が起きました。


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それに乗じて、シエナがフィレンツェに対して攻撃をはじめ、1479年、バディア城はシエナ軍に占領されてしまいました。


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それに対して、フィレンツェ軍は、向かいのポッジョ・インぺリアーレの丘からバディア城に爆撃を行い、シエナ軍は撤退しました。その爆撃によって城と修道院の大部分が破壊されました。


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シエナ、フィレンツェ間の戦争によって修道士全員が去り、修道院と城はそのまま放置されました。
その後、個人が城と修道院の遺跡を保有していましたが、遺跡の一部を取り壊し、1886年、その上にネオ・ゴシック様式で城のような建物が再建されました。それが現在の「バディア城」となってます。


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バディア城からサン・ジミニャーノが見えます。


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現在、「バディア城」の建物はホテルとアパートになってます。


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10世紀末に建設され、その後に増築されたパッツィ戦争以前の破壊される前の城の姿は分からないようです。
19世紀第4四半期に再建された城は、文化遺産としては、あまり評価されていないようです。それは当然ですが。


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次はバディア城の東先にあるサン・ルッケージ修道院聖堂です。


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サン・ルッケージ修道院聖堂の入り口です。


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修道院聖堂はスタッジョ川の丘上にあります。


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1010年、フィレンツェの攻撃によってフィエーゾレは莫大な被害を受けましたが、フィエーゾレを逃れてポッジョ・インぺリアーレの丘に定住したフィエーゾレ難民がいました。直ぐにフィエーゾレ難民によって、現在地に建設されたサンタ・マリア・デ・ヴィーコ・カマルドゥーリ教会が前身です。


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1220年、サンタ・マリア・デ・ヴィーコ・カマルドゥーリ教会は、ベアート・ルッケージ・ダ・ポッジボンシ(ガッジャーノ、1180/1182-ポッジボンシ、1251)に引率されたフランチェスコ兄弟会に与えられました。
1236年から1268年にかけて、教会は拡大されると共に修道院が建設されました。ベアート・ルッケージ・ダ・ポッジボンシの死後、何時しかサン・ルッケージ修道院教会と呼ばれるようになりました。
14世紀から16世紀にかけて修道院教会は更に拡大されましたが、フィレンツェ軍とシエナ軍の戦争によって度々被害を受け、修復と改装が繰り返されました。
1810年、抑圧令によって修道院が閉鎖され、1817年に民有不動産となりました。
1930年に大掛かりな改修、改装工事が行われました。


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第二次世界大戦中に爆撃され被害を受けたので、1948年に修復されました。現在の教会の姿は1987年に行われた改装後のものです。
1938年、第259代教皇ピオ11世(1857-1939 在位:1922-1939)によってBasilica Minoreに格付けされました。


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修道院だった建物です。


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キオストロ


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キオストロ回廊


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聖堂内です。


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単廊式、ラテン十字形、ゴシック様式の内部です。


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Presbiterio


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主祭壇


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オルガン


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バルトロ・ディ・フレディ(シエナ、1330c-1410)の「聖アントニオの殉教」


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バルトロ・ディ・フレディ(シエナ、1330c-1410)の「バーリの聖二コラと三人の少女」


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ジョヴァンニ・デッラ・ロッビア(フィレンツェ、1469-1529/1530)の「聖母子と聖人たち」(1517)


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シエナ派?の逸名画家作「ベアート・ルッケージ・ダ・ポッジボンシ」
(つづく)

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要塞の外壁です。


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要塞守備兵舎を通り過ぎます。現在は民家となっているようです。


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聞こえるのは鳥の鳴き声だけでした。


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人の気配が全くありません。


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修復工事中でした。


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工事が終わったという情報があったのですが、がさネタでした。


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鳥の鳴き声が聞こえるだけで、人の気配が全くありません。


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工事が中断されていたと思います。


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工事中断の理由が分かりません。


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要塞に近付くことが出来ません。


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予定では、1年前に修復工事が終了している筈でした。


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折角来たからには、要塞の周りを一周してみることにしました。


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しかし、これでは見る価値がないな、と思いながら歩きました。


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道が通行止めとなっていました。


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仕方がないので、戻ることにしました。
以下は修復工事後の姿です。


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城から見た要塞 Fortezza Medicea di Poggio Imperialeです。


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ポッジョ・インぺリアーレのメディチ要塞です。


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要塞の外壁です。


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ルクセンブルグのエンリコ7世(1275-1313)は、1312年、ローマ皇帝に戴冠しましたが、ポッジボンシの丘上に街と要塞の建設を考えていましたが、その翌年の1313年に没してしまい、その計画は実現しないで終わりました。


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1293年以降、ポッジボンシはフィレンツェの支配下にありました。


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要塞の建設を決めたのは、ロレンツォ・ディ・ピエロ・デ・メディチ通称ロレンツォ・イル・マニーフィコ(フィレンツェ、1449-カレッジ、1492)でした。


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1478年、パッツィ家の陰謀事件によって、フィレンツェのドゥオーモで暗殺されそうになり、弟ジュリアーノを失ったロレンツォ・イル・マニーフィコでしたが、それに続く対教皇庁・ナポリ王国との戦争、所謂パッツィ戦争に懲りたことから、フィレンツェ領土防衛強化策を採りました。


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その一環として、ポッジョ・インぺリアーレと呼ばれた丘上に要塞の建設が下命されました。ポッジョはポッジボンシ、インぺリアーレはエンリコ7世に因んでます。


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そうして、建築家ジュリアーノ・ダ・サンガッロ(フィレンツェ、1445-1516)が起用されました。


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ジュリアーノ・ダ・サンガッロの設計と共にジュリアーノの弟アントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ヴェッキオ(フィレンツェ、1455-1534)が参画して、1488年から1511年に建設された要塞です。


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難攻不落の要塞として有名でしたが、トスカーナ大公国の衰退とともに徐々に軍事的な重要性が失われました。


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Porta Calcinaiaです。


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要塞内から見たPorta Calcinaiaです。


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次の門です。


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Porta del Giglioです。


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要塞内から見たPorta del Giglioです。


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Porta della Fonteです。


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要塞内から見たPorta della Fonteです。


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要塞内のPorta della Fonte付近です。


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名無しの小さな門


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Porta San Francescoです。


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Porta San Francescoの内側です。


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城壁内のCasseroです。


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Casseroとは、天守閣、格間、本丸という意味です。
(つづく)

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街の中心をぶらぶら歩きをします。


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バールのテーブルと椅子


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共和国通りです。


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Via Sandro Pertini


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フラテッリ・ロッセッリ広場です。建物は警察署です。


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パスポートと運転免許の警察署です。


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ジョヴァンニ・モントルソリ通りです。


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未だ駅の近くです。


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城壁が残されていませんが、この辺は城壁内の西に当たります。


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Largo Antonio Gramsci


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旧市街を横断する共和国通りです。


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ドン・ミンツォーニ広場にやってきました。


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見所が多いとは言えないポッジボンシです。


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古い建物が残っている一角です。


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空襲を免れた区域は僅かです。


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アメンドーラ広場です。


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アントニオ・フリッリ通りです。


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見所は、3つの教会と要塞の四か所でしょう。


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アントニオ・フリッリ通りを更に進みました。


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マッテオッティ広場です。


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イタリア統一の英傑が通りや広場の名称になってます。


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この辺は旧市街の西端に当たります。


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見どころが無さそうなので、カヴール広場に一旦戻ります。


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サンドロ・ぺルティーニ通りです。


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写真右の、手前から二番目の建物は17世紀に建設されたペーロ邸です。


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ガッルーリ通りを右折します。


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カヴール広場に出ます。


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市庁舎 Palazzo Comunaleです。


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Palazzo Pretorioです。


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要塞に向かいます。


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要塞は、城壁外東方のスタッジョ川の丘上にあります。


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通りの先が旧市街の東端に当たります。


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Via di San Lucchse


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道は緩い上り坂になってます。


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緑が深くなってきました。


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写真左の丘上にカステッロがあります。


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更に道を上ります。


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物悲しく鳴いているニャーゴがいたので遊んでやりました。


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(つづく)

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前泊地はチェルタルドでした。


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中々良いホテルで快適に過ごすことが出来ました。


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濃霧の中での出発でした。


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フニコラーレに乗って下の町に下ります。


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下の町が霧の中に隠れていました。


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ドゥオーモの扉が閉まっていました。


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駅に向かいます。


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チェルタルド駅です。


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鉄道でポッジボンシに向かいます。


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車内は非常に空いていました。


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ポッジボンシ駅に到着しました。
S.G.は、サン・ジミニャーノの略です。駅名がポッジポンシ単独から何時しかサン・ジミニャーノが付け加えられました。この駅がサン・ジミニャーノの最寄り駅であることは事実ですが、この駅からサン・ジミニャーノまでバスで20分ほどかかります。


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駅近くのホテルに行きます。


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この日のお宿です。


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チェックインを済ませて、街歩きに出発しました。


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サン・ロレンツォ教会です。


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美術的に必見の教会ですが、扉が閉まっていました。毎日扉が開くので、後程拝観することにしました。


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ヴィットリオ・ヴェネト通りです。


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カヴール広場に出ました。


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カヴール広場が街の中心です。


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カヴール広場にあるFontana Mancataです。


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サンタ・マリア・アッスンタ参事会教会です。


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ポッジボンシのドゥオーモです。


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Via della Repubblica


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ポッジボンシは、人口28,959人(2019年12月31日現在)のトスカーナ州シエナ県にあるコムーネです。


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Palazzo Pretorioです。


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13世紀後半から14世紀初頭に建設されたPalazzo Pretorioです。1862年に新市庁舎で業務が開始されるまで、この街の政治の中心でした。


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写真左手前がドゥオーモ、写真右の建物が現市庁舎です。


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1818年から1871年に建設されたPalazzo Comunaleです。


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カヴール広場に面して建ってます。


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現代アートが展示されている部屋もあります。


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Via della Repubblicaを少し東に進みました。


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Vicolo delle Chiavi


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振り返って撮った写真です。


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ポッジボンシは、陸上交通の要衝だったことから第二次世界大戦における攻撃拠点と見做され、何度も爆撃を受けたので、古い建物があまり残っていません。


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写真左はプレトリオ宮です。


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街の中心の古い建物の多くは戦後に修復されました。


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掲げられている旗は夏祭りのものです。


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(つづく)

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サン・セバスティアーノ修道院教会近くにある建物です。


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この写真で修道院教会と、この建物(写真右手前)との距離感が分かると思います。


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子供用の市立図書館です。


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建物の詳しいことが分かりません。


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建物のフレスコ装飾


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サン・セバスティアーノ修道院教会の前を通り過ぎます。


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日が高いですが、夏時間なので、もう夕方です。


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ジュゼッペ・アルヌルフォ通りです。


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セミナリ通りとの交差点を越えます。


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姿を見せた鐘楼はサンタ・クローチェ教会のものです。


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ヴェスコヴァド通りに入りました。


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まだ暑いので、人通りが極端に少ない夕方です。


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ヴェスコヴァド通りを右折してイタリア通りに入ります。


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イタリア通りです。


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一本の通りでも場所によって通りの名称が変わるイタリアですが、ビエッラのイタリア通りは何処に行っても呼称が変わりません。


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この辺がリオーネ・ボルゴ地区の中心地です。


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木製扉の面白い浮彫


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イタリア通りとアントニオ・グランシ通りとの交差点です。


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交差点に建つ建物


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イタリア通りを更に進みます。


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ホテルに向かってます。


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ホテルは駅前にあります。駅前には殆どレストランがないので、夕食に困りそうです。


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高級アパートでしょうか?


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夕食のレストランを探しながら駅方向に向かいました。


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Fons Vitae


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適当なレストランが見つからない。


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Villa Redaが見えてます。


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こうなってみると、やはりリオーネ・ボルゴ地区のホテルに泊まれば良かったと後悔。


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サン・パオロ地区に戻りました。


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外食を止めて部屋飲みを考えるようになりつつありました。


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スーパーも見つからず、ホテルに戻りました。


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この日はこれで終わりです。


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翌朝です。


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この日も快晴でした。


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駅に向かいました。


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(おわり)

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写真左の建物は、サン・セバスティアーノ修道院です。


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修道院の壁が続きます。


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サン・セバスティアーノ修道院だった建物にビエッラ・テリトリー博物館 Museo del Territorio Bielleseが置かれてます。


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通りを左折します。


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Palazzo La Marmolaの塔が見えます。


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修道院を一周すると、大規模な修道院だったことが分かります。


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ビエッラ領主ラ・マルモラ家は、ドゥオーモよりもサン・セバスティアーノ修道院教会の方に重要性を認めたのでしょう。


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塀がない所は、頑丈な鉄柵に囲まれてます。


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突き当りを左折して、Via Quintino Sellaを進みます。


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この建物も修道院の一部です。


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旗があるので、初めて来たとしても迷うことはないと思います。


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時々旗がないこともあります。


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キオストロ回廊への入り口です。博物館の入り口はキオストロ回廊にあります。


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サン・セバスティアーノ修道院のキオストロ回廊です。


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夏の間、キオストロはコンサート会場になります。


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修道院は1500年から1505年に建設されました。


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ビエッラの支配者ラ・マルモラ家の庇護を受け、興成を極めた修道院でした。


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1797年、ナポレオンの抑圧政策によって修道院は閉鎖され、フランス軍の兵舎に転用されました。


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フランス軍が撤退すると、サヴォイア家の兵舎として使用されるようになりました。イタリアが統一されると修道院だった建物は、民間に払い下げられ、倉庫として使用されるようになりました。


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2001年、修道院だった建物に博物館を置くことが決定され、建物の大規模修復工事が始まりました。工事終了と博物館オープンのための準備期間を経て、2011年に考古学部門が開館しました。2016年に芸術部門が開館しました。現在、博物館は考古学部門と芸術部門の2つから成ってます。


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中は写真不可でした。(今はどうなっているのか、その辺が分かりません)
仕方がないので、博物館HPから作品画像を拝借して作品紹介することにします。


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ロンバルドの逸名彫刻家作「ライオン像」(12-13世紀)


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ベルナルディーノ・ラニーノ(モルタラ、1512-ヴェルチェッリ、1578)の「磔刑」(1550c)


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ジローラモ・ジョヴェノーネ(ヴェルチェッリ、1490-1565)の「嘆き」(1520c)


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ジローラモ・アラシナ(1585-1650)の「聖母子と聖セバスティアーノと聖ロッコ」(1611)


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ピエモンテの逸名画家作「聖母」(18世紀前半)


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17世紀のロンバルドの逸名画家作「光悦の聖フランチェスコ」


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ジュゼッペ・マッフェイ(グラーリア、1821-1901)の「移民の出発と帰還」(1878c)


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ロレンツォ・デッレアーニ(ビエッラ、1840-トリノ、1908)の「ビエルス山脈の放牧」(1886)


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ジーノ・ピッチョ―ニ(フォリーニョ、1873-ビエッラ、1941)の「母と娘」(1926)


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シルヴェストロ・レーガ(モディリアーナ、1840-フィレンツェ、1895)の「音楽のレッスン」(1864c)
これは本当にシルヴェストロ・レーガの作品でしょうか?レーガは私の大好きな画家なので、多くの作品を観ています。題材はレーガの良く取り上げるものですが、筆使い、筆致が見慣れたレーガのものとはかなり違います。
比較のために、レーガの作品画像を幾つか載せておきましょう。


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シルヴェストロ・レーガの「労働の教育」(1863)
これは傑作です。


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シルヴェストロ・レーガ(モディリアーナ、1826-フィレンツェ、1895)の「ぺルゴラ」(1868)
ブレラ絵画館にあります。


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フィレンツェの近代美術館にある作品です。


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かなり脱線してしまいました。


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外に出ました。
(つづく)

引き続きサン・セバスティアーノ聖堂です。
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ベルナルディーノ・ラニーノの多翼祭壇画を詳しく見ます。
ベルナルディーノ・ラニーノ(モルタラ、1512-ヴェルチェッリ、1578)の「聖母被昇天の多翼祭壇画」(1543)
制作者と制作された年が画面に描かれてます。


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昇天する聖母を見る聖人たち


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受胎告知する大天使ガブリエーレ


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受胎告知される聖母


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プレデッラの聖母の誕生


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マギの礼拝


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1543年と記されてます。


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聖母の聖人との別れ


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聖母の遺体の移送


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ボニフォルテ・オルドーニ(ミラノ、1412-ヴェルチェッリ、1477)の「聖バルトロメオ」


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ボニフォルテ・オルドーニ(ミラノ、1412-ヴェルチェッリ、1477)の「聖ドメニコ」


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オドアルド・タバッキ(ヴァルガンナ、1831-ミラノ、1905)の「Giovanna Berthie Mathew(1808-1876)像」(1877c)
ジョヴァンナは、アルフォンゾ・ラ・マルモラ将軍(1804-1878)の妻です。


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ジョヴァンナ像の顔


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ラッファエーレ・ジョヴェノーネ(ピエモンテ、1572-1604消息)の「受胎告知」(1579)


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受胎告知する大天使ガブリエーレ


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受胎告知される聖母


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16世紀のロンバルドの逸名画家作「磔刑」


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磔刑の細部を見ます。


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聖マリア・マッダレーナ


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磔刑のキリスト


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16世紀のロンバルドの逸名画家作「ピエタのキリスト」


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詳細不知の碑文


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ヴィンチェンツォ・ヴェーラ(スイス、リゴルネット、1820-1891)の「アルベルト・ラ・マルモラの胸像」


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詳細不知のモニュメント


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クーポラ


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聖堂内はこれで終わりです。


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次はサン・セバスティアーノ修道院です。



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修道院だった建物にMuseoがあります。


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サン・セバスティアーノ聖堂前の交差点です。


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Costa San Sebastianoです。


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(つづく)

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引き続きサン・セバスティアーノ聖堂です。


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アーキトレーヴ(台輪)


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右翼廊の礼拝堂です。


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右翼廊礼拝堂の祭壇画です。


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ベルナルディーノ・ラニーノ(モルタラ、1512-ヴェルチェッリ、1578)の「聖母被昇天」(1543)


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右翼廊のモニュメントです。


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オドアルド・タバッキ(ヴァルガンナ、1831-ミラノ、1905)の彫刻


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左側廊第一礼拝堂です。


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左側廊第二礼拝堂です。


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左側廊第三礼拝堂です。


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詳細不知


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デフェンデンテ・フェッラーリ(キヴァッソ、1490-トリノ、1540)の「聖母子と四聖人」(1520-30c)


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中央礼拝堂前から見た出入口方向


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ジローラモ・デ・トルニエッリの内陣天井のフレスコ画(1519)


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逸名画家作「三位一体と音楽天使たち」


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詳細不知


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アレッサンドロ・フェッレ―ロ・ラ・マルモーラ(トリノ、1799-クリミア、1855)のモニュメント


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右側廊第四礼拝堂です。


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逸名画家作「聖家族」


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セバスティアーノ・ノヴェッリ(ヴェネツィア、1853-ペルージャ、1916)の「聖フランチェスコと修道士たち」


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セバスティアーノ・ノヴェッリ(ヴェネツィア、1853-ペルージャ、1916)の「聖アゴスティーノ」


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右側廊のロレート聖母礼拝堂です。


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制作者情報不知の「ロレートの聖母」


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ベルナルディーノ・ラニーノ(モルタラ、1512-ヴェルチェッリ、1578)による礼拝堂天井のフレスコ画


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聖堂内に幾つかの紋章があります。


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私には紋章の詳細が分かりません。


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右側廊第三礼拝堂です。


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磔刑の礼拝堂とも呼ばれてます。


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ロンバルドの逸名画家作「嘆き」(17世紀)


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ロンバルドの逸名画家作「嘆き」(17世紀)


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ロンバルドの逸名画家作「十字架降下」(17世紀)


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右側廊第三礼拝堂の天井


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右側廊第二礼拝堂の天井


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右側廊第一礼拝堂の天井


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ベルナルディーノ・ラニーノ(モルタラ、1512-ヴェルチェッリ、1578)に帰属する「聖ピエトロ」


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ベルナルディーノ・ラニーノ(モルタラ、1512-ヴェルチェッリ、1578)に帰属する「聖セバスティアーノ」


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ベルナルディーノ・ラニーノ(モルタラ、1512-ヴェルチェッリ、1578)に帰属する「聖アゴスティーノ」
(つづく)

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Costa San Sebastianoです。


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通称サン・セバスティアーノ礼拝堂です。


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ピアッツォの城壁外村人のための祠が前身です。現在の礼拝堂は1997年に修復されたものです。


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ギアーラ門の先にPalazzo La Marmolaの塔が写ってます。


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道を下ります。


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写真では急坂には見えません。上るのは大変です。


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丘上のピアッツォと丘下のリオーネ・ボルゴ地区とは高低差が60メートルあります。


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ピアッツォに上るときはフニコラーレ、下るときは徒歩がお勧めです。


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リオーネ・ボルゴ地区に下ります。


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振り返って撮った写真です。
写真左に続く壁はピアッツォの城壁です。


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Costa San Sebastianoの終わりにサン・セバスティアーノ聖堂があります。


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写真左奥にサン・セバスティアーノ聖堂が写ってます。


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Via Agostino de FangoとVia Quintino Sellaの交差点に建つ建物です。


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サン・セバスティアーノ聖堂です。


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1498年から1499年にビエッラに移されたCanonici Lateranensi(オーストリアのサンタゴスティーノ会分派)のために、ピアッツォの領主セバスティアーノ・フェッレロ(ビエッラ、1438-ガリアニコ、1519)が建設した修道院教会です。


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エウセビオ・フェッラーリまたは”Magistro Eusebio”の指導によって、1500年から1504年に建設されたブラマンテ様式の建物です。


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現在のファサードは、初代のファサードが劣化したので、建築家アンドレア・ボーノ・ディ・ヴェルチェッリの設計によって、1885年に建設されました。


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右側壁です。


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規模の大きな修道院教会です。修道院は1550年に完成しました。


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高さ51メートルの鐘楼です。


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美術的には、その重要性に於いてビエッラでは見逃せない教会です。


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クーポラ


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ファサードを見ます。


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ファサードの紋章


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この紋章については、私は全然分かりません。


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ファサードの中央扉


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中央扉上ルネッタに描かれた「聖セバスティアーノ」のフレスコ画(詳細不知)


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ファサードに向かって右の扉


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右扉上ルネッタの「聖ピエトロ」のフレスコ画(詳細不知)


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ファサードに向かって左の扉です。


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左扉上ルネッタに描かれた「聖アゴスティーノ」のフレスコ画(詳細不知)


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ファサードの丸窓


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ファサードのFregio


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三廊式、ラテン十字形、ルネサンス様式の内部です。


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ピエモンテの画家たちの作品が充実しています。


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クーポラ


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クーポラの天使たちのフレスコ画は、ロドルフォ・モルガーリ(トリノ、1827-1909)によって1866年から1867年に描かれました。


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クーポラ四隅に預言者たちのフレスコ画があります。
ロドルフォ・モルガーリ(トリノ、1827-1909)の「預言者ダニエーレ」(1866)


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ロドルフォ・モルガーリ(トリノ、1827-1909)の「預言者エゼキエル」(1866)


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ロドルフォ・モルガーリ(トリノ、1827-1909)の「預言者ジェレミア」(1866)


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ロドルフォ・モルガーリ(トリノ、1827-1909)の「預言者イザヤ」(1866)
(つづく)

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サン・ロッコ祈祷所です。


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この祈祷所の坂下に、食用肉動物の屠殺場がありましたが、そこで働く人たちの家族の信仰の場として16世紀に建設されました。


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ファサードの柱廊が特徴です。


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柱廊にフレスコ画の痕跡が認められます。


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柱は修復されたようですが、フレスコ画の方は保存状態が最悪です。


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フレスコ画は一度も修復されてない?


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ただ建物が危険という訳ではありません。


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今でも地元の人たちの信仰の場となってます。


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祈祷所内部(外部サイトから拝借した写真です)


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鐘楼


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外壁も殆ど修復されていないようです。


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人通りが全くありません。


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Strada delle Moleです。


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Strada delle Moleを下ると、行き止まりになっていました。


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仕方がありません、引き返します。


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チステルナ広場方向に戻ります。


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サン・ロッコ祈祷所まで戻りました。


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Costa Vernatoに戻りましたが、サン・ロッコ祈祷所からの下り側は見どころが無さそうです。


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チステルナ広場方向に戻ります。


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ピアッツォの支配階級が住んでいた一画です。


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Palazzo Ferreroの八角形の塔です。


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Palazzo Ferrero前を通り過ぎます。


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Corso del Piazzoです。


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写真左は、Palazzo Gromo Losa di Praroloです。


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修復工事中のPalazzo La Marmolaの前を通り過ぎます。


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ピアッツォの城壁外に出ます。


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右折します。


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Corso del Piazzoを右折してCosta San Sebastianoに入ります。


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塔はPalazzo La Marmolaのものです。


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Palazzo La Marmolaの下を進みます。


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La Marmola家使用人の住居が並ぶ一画です。


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Casa Ferreroです。


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Palazzo La Marmolaです。


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直ぐに門に出ます。


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14世紀に建設されたギアーラ門です。


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ギアーラ門を潜ります。


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ギアーラ門の存在を知っている観光客は非常に少ないそうです。


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ピアッツォから城壁外に出ました。


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道を下ります。


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(つづく)

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Corso del Piazzoを進みます。


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振り返ってチステルナ広場方向を見ました。


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ガックリです。お目当ての建物が修復工事中です。これでは多分立ち入り禁止になっていると思いました。


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Palazzo La Mormolaです。


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1160年、ピアッツォ地区の領有権を保持していた、当時のヴェルチェッリ司教が司法権、肉用動物の屠殺権、市場の開市権の三権を認めて、ピアッツォ地区への入植が始まりましたが、入植者の有力家だったフェッレロ・デッラ・マルモラ家が1165年頃に建設した住居が前身です。
14世紀に再建されましたが、16世紀にフェッレッロ・デッラ・マルモラ家の一族ラ・マルモラ家の所有となりました。
16-18世紀に拡張、改造されて現在の姿になりました。


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修復工事後のPalazzo La Marmolaのファサード


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Palazzo La Marmolaの庭園


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入口には近付けそうでした。


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鉄扉は閉まったままでしたが、中庭を覗くことが出来ました。


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Palazzo La Marmolaですが、約半分は今もラ・マルモラ家が所有しており、ラ・マルモラ家が住んでます。ラ・マルモラ家所有部分の一部はMuseoとして一般公開されている他、大広間などは結婚式会場になってます。
Palazzo La Marmolaの約半分は、ビエッラ州当局が所有しており、州立公文書館になってます。


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この日は、修復工事のため、一般非公開となっていました。


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写真左は、Palazzo La Marmolaの一部です。写真右は、ラ・マルモラ家の使用人の居住部分です。


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ラ・マルモラ家の使用人の住居です。


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次は煉瓦造りの建物です。


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道を挟んで、Palazzo La Marmolaの向かいにあるPalazzo Gromo Losa di Praroloです。


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グロモ・ローザ伯爵が、自己の邸宅として15世紀に建設したPalazzo Gromo Losa di Praroloです。


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19世紀末までグロモ・ローザ伯爵の末裔が住んでいましたが、1896年に売却されて寄宿学校になり、さらに普通の学校と変わりました。
2004年からBeata Vergine d’Oropa(福祉団体)の本拠地となってます。


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Palazzo Gromo Losa di Praroloの庭園です。


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道を挟んで、Palazzo Gromo Losa di Praroloの教会のような建物があります。


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この建物です。恐らく教会の建物と思いますが、調べても分かりません。ビエッラの教会リストに記載がないので、機能を停止していると思います。


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この建物の直ぐ傍にサンタ・カテリーナ女子修道院があったので、サンタ・カテリーナ教会でしょうか?


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次は、写真左奥の建物です。


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Palazzo Ferreroです。


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フェッレ―ロ家の住居として15世紀から16世紀に建設されたPalazzo Ferreroです。後にラ・マルモラ家に売却されました。


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1900年、ビエッラ市当局に売却され、1945年まで兵舎などに転用されました。
依然として市保有の物件ですが、2017年からビエッラ文化協会が管理しており、展示会など様々な用途に使用されてます。


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Palazzo Ferreroの入り口です。


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Palazzo Ferreroの中庭に入ると、この建物のシンボルである八角形の塔が見えます。


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八角形の塔は、近くでは中々見ることが出来ません。


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少し離れないと、よく見えない塔です。


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見所が多いCorso del Piazzoです。次はサンタ・カテリーナ女子修道院です。


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16世紀に建設されたサンタ・カテリーナ女子修道院だった建物です。


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修道女が孤児となった女児の養育をしていましたが、1802年に抑圧令によって修道院が閉鎖されると、建物は孤児院に転用され、その状態が1970年頃まで続きました。


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孤児院が丘下に移転すると、この建物は女子寄宿学校となりましたが、現在は経営状態が悪化して、その存続が危機に瀕しているようです。


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更に道を下ります。


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振り返って撮った写真です。


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この付近から通りの名称がCosta Vernatoと変わります。


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この道の先に門があります。


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門に行く途中に教会があります。


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滅多に開かない教会、或いは既に機能を停止した教会なので、期待薄です。


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サン・ロッコ祈祷所です。
(つづく)

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