イタリア芸術を楽しむ

イタリアの魅力を味わい尽くすには、一生に何度旅をすれば足りるだろう。芸術の宝庫にして、歴史の生きた証であるイタリア。 惹き付けて止まない絵画、彫刻、歴史的建造物、オペラなど、芸術の宝庫であるイタリアを楽しむブログです。 記事は一日に一つアップしています。記事の見方ですが、例えば「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その4)」は2017年10月20日にアップしました。各記事にカレンダーが表示されてますが、カレンダー上の2017年10月21日をクリックして頂ければ「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その5)」になります。(その3)は2017年10月20日となります。 BY:シニョレッリ

2021年10月

275
ドゥオーモから外に出ました。


274
教区美術館 Museo Diocesanoが開いてました。安心です。


277
教区美術館はジェズ教会だった建物にあります。


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ジェズ教会は、1498年から1505年に建設されましたが、1740年頃に拡大増築されて、現在の姿になりました。上部教会と下部教会の二重構造です。下部教会の一部がMuseo Diocesanoとして公開されてます。


276
1945年、当時のコルトーナ司教によってMuseo Diocesanoが設立されオープンしました。


279
入口です。
ルカ・シニョレッリ、ベアート・アンジェリコ、ピエトロ・ロレンツェッティ、サセッタ、バルトロメオ・デッラ・ガッタなどの代表作が並び、質の高い展示が特徴です。コルトーナ観光における最重要な訪問地と言えるでしょう。


281
ルカ・シニョレッリ工房作「羊飼いの礼拝」(1522c)


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ルカ・シニョレッリは律儀な性格だったので、工房の作品であっても手を抜かずに加筆したと伝えられてます。


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282
ルカ・シニョレッリ(コルトーナ、1450c-1523)と弟子による「聖母子と聖人たち」(1510-15c)


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284
ルカ・シニョレッリ(コルトーナ、1450c-1523)の「嘆き」(1501-02)


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287
ルカ・シニョレッリ工房作「聖母子と聖人たち」(1515c)


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288
ルカ・シニョレッリ工房作「羊飼いの礼拝」(1521-24)


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290
ルカ・シニョレッリ(コルトーナ、1450c-1523)の「使徒たち聖体拝領」


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292
ルカ・シニョレッリ(コルトーナ、1450c-1523)と協力者による「無原罪の御宿リの寓意」(1521-23)


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293
ルカ・シニョレッリ(コルトーナ、1450c-1523)とシニョレッリ工房による「聖母被昇天」(1519-20)


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297
ルカ・シニョレッリ工房作「キリストの神殿奉献」(1521c)


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299
ルカ・シニョレッリの「聖ベネデットの生涯の裾絵」(1515-16c)


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301
フェデリーコ・ツッカリ(サンタンジェロ・イン・ヴァード、1540/1541-アンコーナ、1609)に帰属する「聖母被昇天と聖ジョヴァンニ・バッティスタとアレッサンドリアの聖カテリーナ」


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302
フランチェスコ・カッペッラ通称ダッジュー(ヴェネツィア、1711-ベルガモ、1774)の「パオラの聖フランチェスコの奇跡」(1750)


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(つづく)

233
急に曇ってきたようで、中が薄暗くなってきました。


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トンマーゾ・ベルナベイ通称マーゾ・パパチェッロ(コルトーナ、1505-1559)の「聖母を囲む聖人たち」
トンマーゾ・ベルナベイはルカ・シニョレッリの弟子です。


234
ルカ・シニョレッリ(コルトーナ、1450c-1523)の「磔刑」


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教会の作品紹介板と教会で買い求めた本にルカ・シニョレッリの作品と書かれています。私にはルカの作品には見えないのですが・・・・・
作品帰属は専門家に任せるしかないと思いますが、私の見方が正しかったことが稀にあります。


235
クリストファノ・アッローリ(フィレンツェ、1557-1621)の「チントラの聖母」


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クリストファノ・アッローリは、アレッサンドロ・アッローリの息子です。


236
ジョヴァンニ・グラディの「聖母子と守護聖人」(17世紀)


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ジョヴァンニ・グラディという画家は全く知りません。


237
アンドレア・デル・サルト(フィレンツェ、1486-1530)の「聖母被昇天」


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コピー画ではなく、アンドレアの真作と教会発行の冊子に出ています。


244
Presbiterio


240
後陣の壁に祭壇画が幾つか掲げられてます。


238
さながら美術館のような展示です。


239
Presbiterio天井


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241
サルヴィ・カステッルッチ(アレッツォ、1608-1672)の「聖マリア・マッダレーナの聖体拝領」


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サルヴィ・カステッルッチはピエトロ・ベッレッティーニの弟子です。


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246
ロレンツォ・ベッレッティーニ(コルトーナ、1620-1672)の「聖母子と聖人たち」


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これがあるのは有り難いですが、時々間違っていることがあるので要注意です。


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248


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詳細不知


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アンドレア・セッラーリ(コルトーナ、1600-1672)の「磔刑」


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250
ピエトロ・ベッレッティーニ(コルトーナ、1597-1669)の「ご誕生」


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254
ロレンツォ・バルディ(ピストイア、1624-1730)の「聖セバスティアーノ」


255


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264
説教壇


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ミーノ・ダ・フィエゾレ(ポッピ、1429-フィレンツェ、1484)の「聖体容器」


P2160916
詳細不知


p1019
ジョヴァンニ・アルベルティ司教(1540-1596)の墓


265
拝観が終わりました。


273
外に出ました。
(つづく)

201
カザーリ宮から外に出ます。


202
コルトーナの最大の見所である教区美術館は昼休み中なので、時間潰しのために、左折してギベッリーナ門に向かいました。


p1012
ギベッリーナ・ビフォーラ門です。


p1013
門を潜って城壁外に出ました。コルトーナの旧市街を囲む城壁に設けられた7つの門の一つ、ギベッリーナ・ビフォーラ門です。


p1011
城壁沿いの道を歩いてサンタ・マリア門に向かいます。


p1014
サンタ・マリア門です。


p1015
サンタ・マリア門を潜って城壁内に入りました。


203
次はドゥオーモです。


204
ドゥオーモ広場です。


205
ドゥオーモの向かいにお目当ての教区美術館がありますが、未だ昼休み中なので、ドゥオーモの拝観を先に行います。


206
コルトーナのドゥオーモ、Concattedrale di Santa Maria Assuntaです。1507年から1986年まで司教座教会でした。
1986年に行われた司教区再編によって、それまで独立した司教区だったコルトーナはアレッツォ₌コルトーナ₌サンセポルクロ司教区に合区されました。その結果、Concattedraleに格下げされたのです。


272
この場所には異教の寺院がありましたが、その遺跡の上に5世紀から6世紀に建設された初期キリスト教会が前身です。11世紀に教区教会となりました。
最初の建物が経時劣化したので、1262年にニコラ・ピサーノ(ピサ、1220-1284)の設計によって再建された建物が現在の原形です。アレッツォ司教区に属していたコルトーナですが、それを不満に思っていました。アレッツォ司教区の管理を離れ、コルトーナ司教区を新設して、その司教座教会にするとの意図のもとに建設されました。


p1016
写真はコルトーナ郊外カルチナイオにあるサン・ヴィンチェンツォ・イン・サンタ・マリア・アル・カルチナイオ教会です。
1325年、コルトーナ司教区が新設されましたが、予てからコルトーナと軋轢があったアレッツォ司教は、積年の恨みを晴らすべく、コルトーナ司教座をこの教会に置く妨害行為に成功したのです。


p1017
コルトーナ城壁内の居住者にとっては、郊外にある司教座教会は不便極まりないことでした。


207
再建された建物は司教座教会としては若干小さかったので、1481年から1507年に増築され、司教座教会として相応しい、現在の規模になりました。
その増築完成を待って、コルトーナは教皇庁に対して司教座の移転を願い出たのです。
1507年、当時の教皇ジュリオ2世(第216代教皇 在位:1503-1513)の裁定によって、サン・ヴィンチェンツォ教会から司教座が移され、この教会に司教座が置かれるようになりました。


209
入口扉横の浮彫


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210
中に入りました。


212
三廊式、ルネサンス様式の内部です。


211
コリント式列柱が目立ちます。


P2160876
美術的には見所が豊富な教会と言えるでしょう。


213
作品を見て回ります。


214
ラッファエッロ・ヴァンニ(シエナ、1587/1590c-1673)の「キリストの変容」


216
ラッファエッロ・ヴァンニはピエトロ・ダ・コルトーナの追随者でした。


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逸名画家作「聖母子と聖ジョヴァンニーノ」(16世紀)


220


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222
ロレンツォ・ベッレッティーニ(コルトーナ、1620-1672)の「聖ジュゼッペの死」


223


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右後陣の礼拝堂です。


224
「ピエタのテラコッタ」


226


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229
フランチェスコ・シニョレッリ(コルトーナ、1495c-1553)の「聖トンマーゾの不信」


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フランチェスコ・シニョレッリは、ルカ・シニョレッリの甥です。


231
ルドヴィーコ・カルディ通称イル・チゴリ(チゴリ、1559-ローマ、1613)の「ロザリオの聖母」


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232
アンドレア・コッモディ(フィレンツェ、1560-1648)の「サン・サルヴァトーレ聖堂の献堂式」(1559)


P2160845
(つづく)

036
サンタゴスティーノ修道院だった建物から外に出ました。


040
町の中心、レプッブリカ広場にやってきました。


041
観光客が多い日でした。


045
時間の有効利用のため、少し早いですが写真右の店で軽い昼食を食べました。


046
市庁舎です。


048
12世紀に建築され、16世紀に改築、拡大された市庁舎です。鐘楼は、その改築拡大の際、追加されました。


043
市庁舎ファサード前の階段から撮った写真です。


042


044


050
広場に留まって、おしゃべりをする人たちが多くいました。


051
カザーリ宮前は青空市が開市されていました。


052
衣料品関係の出店が多かったようです。


053
ルカ・シニョレッリ広場です。建物はシニョレッリ劇場です。


057
建築デザイナーのカルロ・ガッテスキの設計によって1854年に建設された劇場です。


056
シニョレッリ劇場の隣にあるカザーリ宮に戻ります。


054
プレトリオ宮とも呼ばれるカザーリ宮は13世紀に建築され、18世紀に現在の形に改修されました。
19世紀にイタリア王国の州庁舎になりました。


055
現在は、エトルリア・アカデミー博物館が置かれると共に、エトルリア・アカデミーの本拠地となってます。また、市立博物館の併設されてます。


063
入館しました。
エトルリア時代の遺跡からの発掘物が展示の中心ですが、絵画など幅広い展示が特徴です。有名画家による作品があるので、美術ファンにとって必訪の博物館と言えると思います。


072
エトルリア・アカデミー博物館については既に紹介しました、ご興味のある方は、そちらをご参照願います。
展示物は行く度に異なることはありません。
ジーノ・セヴェリーニ(コルトーナ、1883-パリ、1966)の「受胎告知」
主な作品を再度紹介します。


080
アントニアッツォ・ロマーノ(コロンナ、1430c-ローマ、1510c)の「聖母子」


084
マリオット・ディ・ナルド(フィレンツェ、1365c-1424)の「玉座の聖母子と二天使」


086
ビッチ・ディ・ロレンツォ(フィレンツェ、1373-1452)の「聖母子と四聖人のトリッティコ」


093
ルカ・シニョレッリ(コルトーナ、1450c-1523)の「聖母子と聖人たちのトンド」(1512)


095
ルカ・シニョレッリ(コルトーナ、1450c-1523)の「羊飼いの礼拝」


097
バルトロメオ・デッラ・ガッタ(フィレンツェ、1448-アレッツォ、1502)の「聖母子」


099
ピントゥリッキオ(ペルージャ、1454-シエナ、1513)の「聖母子と聖ジョヴァンニーノ」


103
ルドヴィーコ・カルディ通称イル・チゴリ(チゴリ、1559-ローマ、1613)の「荊刑のキリスト」


106
ヤコポ・ディ・ジョヴァンニ・ディ・フランチェスコ(フィレンツェ、1495-1554)の「聖マリア・マッダレーナ」


107
ミケーレ・ディ・リドルフォ・デル・ギルランダイオ(バディア・ディ・パッシニャーノ、1503-フィレンツェ、1577)の「受胎告知」


110
ルドヴィーコ・カルディ通称イル・チゴリ(チゴリ、1559-ローマ、1613)の「ご訪問」


112
ルドヴィーコ・カルディ通称イル・チゴリ(チゴリ、1559-ローマ、1613)の「二人の男の肖像」


162
カザーリ宮のベランダからの景観


179
ベランダを渡り市立博物館に入りました。


180
詳細不知の紋章


184


185


191
武具の展示


192


193


194
コルトーナの聖職者トップだった人たちの肖像画


197
図書館


198


200
シニョレッリの作品をもう一度見てから外に出ました。
(つづく)

p1007
コルトーナは、人口21,404人(2020年8月31日現在)のトスカーナ州アレッツォ県にあるコムーネで、丘上に旧市街があります。
私が大好きなルカ・シニョレッリ(コルトーナ、1450c-1523)所縁の地なので、殆ど毎年のように訪れてます。


002
前泊地はペルージャでした。


005
ペルージャ駅に到着しました。


006
ペルージャ駅前の噴水
ペルージャの旧市街からコルトーナの旧市街に行くのは、結構大変です。


004
ペルージャからカムーチャ・コルトーナまで列車で向かいました。


001
理由不明の遅れ30分でカムーチャ駅に到着しました。


002
旧市街の入り口にある広場に行くバスがあり、多少の列車遅れならば接続を待ってくれることがありますが、30分遅れでは流石に無理というもの。
幸運にもタクシーが駅前にいたので、タクシーでホテルに向かいました。


037
この日のお宿です。旧市街の中心にあって便利なので、このホテルに泊まることにしてます。


038
チェックインを済ませて早速外に出ました。
バスで来るはずだったので、バス停があるサンタゴスティーノ門まで戻ります。


p1008
サンタゴスティーノ門です。


p1009
サンタゴスティーノ門を潜ってグエルファ通りに入りました。


007
門を入った所に土産物屋が出てました。


008
先ず、サンタゴスティーノ修道院です。


035
サンタゴスティーノ修道院の入り口です。


110
こちらはサンタゴスティーノ教会です。


034
1273年に遡るサンタゴスティーノ教会です。1481年と1681年の2回の改造を経て、現在の姿になりました。
教会は活動を停止して市の所有となり、建物は修復されて市のコンベンションセンターとして使用されてます。


009
修道院に入ります。


010
サンタゴスティーノ修道院は、14世紀に建設されて、17世紀に大規模な改造を受けました。


011
キオストロ


020
修道院だった建物は学校として使用されてます。


030
キオストロにある古井戸(14世紀)


024
キオストロ回廊の壁のルネッタに描かれたフレスコ画が見所です。


012
フレスコ画のテーマは「聖アゴスティーノの生涯の物語」です。


013
既に15世紀に描かれたフレスコ画があったようですが、劣化したので、17世紀に行われた修道院の大規模改造の際に改めて描き直されたようです。


014
フレスコ画の制作者は、ジュゼッペ・グゥアスパリーニ・ディ・ウンベルティデで、1669年に制作されました。


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制作者のジュゼッペ・グゥアスパリーニ・ディ・ウンベルティデについては全く分からないようで、残されている作品も、この修道院のフレスコ画だけです。


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外に出ます。


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サンタゴスティーノ教会修道院の鐘楼
(つづく)

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フィレンツェ派逸名画家作「ご訪問」(17世紀)


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ジュリアーノ・ビアージ(フィレンツェ、16世紀末活動)の「聖母の誕生」
フランチェスコ・ボルドーニ(フィレンツェ、1580c-パリ、1654)の「コジモ1世の胸像」


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右翼廊礼拝堂


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制作者情報不知の「聖母子」


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右側廊


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左側廊


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アッタヴァンティ家礼拝堂


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ロレンツォ・ガンベライ(コッレ・ディ・ヴァル・デルザ、17世紀初頭活動)の「アレッサンドリアの聖カテリーナの神秘な結婚」


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制作者情報不知の「磔刑像」


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制作者情報不知の「聖ロッコ」


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制作者情報不知の「聖セバスティアーノ」


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15世紀のフレスコ断片


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大天使聖ミケーレ礼拝堂


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ジョヴァンニ・マリア・トロサーニ(コッレ・ディ・ヴァル・デルザ、16世紀前半活動)の「聖モニカ」


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16世紀の逸名画家作「聖アゴスティーノ」


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16世紀の逸名画家作「聖人のフレスコ画断片」


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トロサ―ニ家礼拝堂


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左翼廊第二礼拝堂


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ジョヴァンニ・バッティスタ・パッジ(ジェノヴァ、1554-1627)の「受胎告知」


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ジョヴァンニ・バッティスタ・パッジ(ジェノヴァ、1554-1627)の「聖人たち」


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左側廊


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ボロニーニ家礼拝堂


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逸名画家作「ピエタ」(1515)


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洗礼盤


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制作者情報不知の「聖ジョヴァンニ・バッティスタ」


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詳細不知


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リドルフォ・デル・ギルランダイオ(フィレンツェ、1483-1561)の「ピエタ」


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外に出ます。


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拝観中に日が沈みました。


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黄昏時です。


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明かりが殆ど見られない丘上の家々


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一泊二食のホテルなので、夕食まで時間がたっぷりありました。


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丘下の教会はサンタゴスティーノ教会以外に見どころがありません。


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果物を少し買いました。


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この日は、これで終わりです。


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翌朝です。


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この日も天気に恵まれました。


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アルノルフォ・ディ・カンビオ広場


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バスターミナルに向かいます。


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次の目的地はサン・ジミニャーノでした。


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バスを待ちます。


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(コッレ・ディ・ヴァル・デルザの項はこれで終わりです。)
写真は、サン・ジミニャーノの城壁前

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広場を経由してサンタゴスティーノ教会に向かいます。


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アルノルフォ・ディ・カンビオ広場に戻りました。


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広場の噴水


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日が沈むまでには時間がまだ少しあります。明るいうちにサンタゴスティーノ教会に行きたかったのです。


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第一次世界大戦の戦争記念碑(1925)


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サンタゴスティーノ教会の扉が開いてました。


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1305年に建設されたゴシック様式の教会でした。
16世紀前半、建物をルネサンス様式に改造することになり、建築家アントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ヴェッキオ’フィレンツェ、1453c-1534)に委嘱されました。
アントニオの設計によって、1531年に改造工事が着工されました。アントニオの死後の16世紀後半に完成しました。


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ファサードは未完成のまま現在に至ってます。


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後陣

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鐘楼が少し新しく見えます。


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従来の鐘楼が経時劣化して19世紀に崩落したので、地元の建築家アントニオ・サルヴェッティ(コッレ・ディ・ヴァル・デルザ、1854-1931)の設計によって、20世紀前半に建設されたネオ・ゴシック様式の新鐘楼です。


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美術的に見所豊富な教会です。


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中に入りました。


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三廊式、ラテン十字形、ルネサンス様式の内部です。


P1160514
一見新しそうに見えるのは、20世紀前半の修復の際、壁、天井、柱などが塗り直されたからです。


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天井


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左側廊


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右側廊


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サンタ・マリア・デッレ・グラツィエの祭壇


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タッデオ・ディ・バルトロ(シエナ、1362-1422)の「聖母子」


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これがあるので助かります。


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明かりが灯されました。


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頭頂部の聖人を見ます。


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逸名画家作「カルロ・ドルチ(フィレンツェ、1616-1686)作『聖人』のコピー画」


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逸名画家作「アレッサンドロ・カソラーニ(カーゾレ・デルザ、1552-シエナ、1606)の『聖バルトロメオの殉教(1604)』のコピー画」


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14世紀のフレスコ断片


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トンマージ家礼拝堂


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祭壇の天使たちの彫刻(詳細不明)


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逸名画家作「ブオン・コンジーリオの聖母のコピー画」(18世紀)
1467年に発見された「ブオン・コンジーリオの聖母」のコピー画です。


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詳細不知の「磔刑」


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アレッサンドリアの聖カテリーナ礼拝堂


P1160538
ジョヴァン・バッティスタ・ポッツォ(ヴァルソルダ・ラーゴ・ディ・コモ、1561-ローマ、1589)の「アレッサンドリアの聖カテリーナの殉教」


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Presbiterio


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詳細不知


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サンティッシモ・サクラメント礼拝堂


P1160546
ルドヴィーコ・カルディ通称イル・チゴリ(サン・ミニアート、1559-ローマ、1613)の「ピエタと聖人たち」


P1160547
(つづく)

P2310198
Porta Nuovaを潜って城壁外に出ます。


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城壁内と城壁外の門の雰囲気がかなり異なります。


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城壁外に出ました。


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写真右の建物については、全く分かりません。


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Porta Nuovaの名称とは異なり、要塞のような造りです。


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実際は要塞でした。その理由ですが、この街の歴史を知れば分かります。


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15世紀後半、コッレ・ディ・ヴァル・デルザは、フィレンツェの統治下にありました。
当時、フィレンツェは、ロレンツォ・イル・マニフィコ(フィレンツェ、1449-1492)の実質的支配下にありました。


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Porta Volterranaとも呼ばれてます。


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ロレンツォ・イル・マニフィコの権力の源泉たるメディチ銀行は衰退の途にありました。ロレンツォ自身が銀行業にあまり熱心ではなかったのが原因とも言われてます。
1478年4月26日、フィレンツェのドゥオーモで、所謂パッツイ家の陰謀事件によってロレンツォと弟ジュリアーノが襲われ、ロレンツォは傷を負いながらも辛くも難を逃れましたが、弟ジュリアーノは暗殺されてしまいました。
陰謀事件については、このブログで何度も触れたので、改めて触れることはしませんが、事件後のロレンツォのパッツィ家など関係者への報復は凄まじく、過度な報復に激怒した教皇シスト4世(シクストゥス4世)(在位:1471-1484)は、ロレンツォ・イル・マニフィコとフィレンツェ政庁を破門すると共にフィレンツェに対して宣戦布告したのです。
所謂パッツィ戦争が勃発しました。
教皇庁は、ナポリ王国とシエナ共和国と同盟関係にありました。
コッレ・ディ・ヴァル・デルザは、ナポリのアルフォンソ2世(ナポリ、1448-メッシーナ、1495)に包囲され、現在、Porta Nuovaがある場所にあったPorta Selvaとその周囲の城壁が攻撃を受け、破壊されてしまいました。
ナポリ王国軍がコッレ・ディ・ヴァル・デルザから撤退すると、ロレンツォ・イル・マニフィコは要塞風の新門の建設を、お抱えの建築家ジュリアーノ・ダ・サンガッロ(フィレンツェ、1445-1516)に命じたのです。
ジュリアーノ・ダ・サンガッロが多忙だったため、ジュリアーノの師匠フランチェスコ・ディ・ジョヴァンニ通称イル・フランチョーネやジュリアーノの友人フランチェスコ・ダンジェロ通称イル・チェッカ(フィレンツェ、1446-1488)、パオロ・ディ・フランチェスコの協力を仰いで、1481年に完成したPorta Volterrana o Porta Nuovaです。


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城壁内に戻ります。


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門を潜り、Via Gracco del Seccoに出ました。


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写真左は四つ星ホテル、写真右は旧サン・ピエトロ修道院です。


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サン・ピエトロ教会です。


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1606年から1610年に建設されました。


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ファサードの碑文


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来た道をそのまま戻るのは詰まらないですが、城壁内を貫く道はこれしかないので仕方がないのです。


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すっかり夕方になりました。


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夕方になると人出が増えるイタリアですが、この街では例外のようです。


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Piazza Baiosに戻りました。


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共同洗濯場(写真左奥)を通り過ぎます。


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道草をしないでアルタに戻ります。


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市庁舎(写真左)を通り過ぎ、Palazzo Campanaのアーチを潜ります。


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Palazzo Campanaのアーチを潜り、カステッロに入りました。


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Via del Castelloです。


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カステッロ内も人出が殆どありません。


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歴史的建造物に挟まれた道を歩くのは実に楽しいひと時でした。


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ドゥオーモにも寄り道しないで、先を急ぎます。


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サンタ・マリア・イン・カノーニカ教会にも寄り道しません。


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写真右がサンタ・マリア・イン・カノーニカ教会です。


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エレベーターに乗ります。


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地上階に下りました。
(つづく)

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サンタ・カテリーナ教会のファサード側に回ります。


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サンタ・カテリーナ教会のファサードです。


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13世紀に建設されたロマネスク様式のサンタ・カテリーナ教会です。13世紀終わりの文書に、サンタ・カテリーナ教会の存在が初記載されているそうです。
18世紀に改造されて現在の姿になりました。


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鐘楼


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ファサード側の入り口扉は大体閉まってます。
ファサードに向かって左横が開いている時が多いと思いますが、教会内には、こちらから入ることになります。


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サンタ・カテリーナ教会左横はOratorio della Compagnia della Croceです。


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Oratorio della Compagnia della Croceの入り口です。


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オラトリオの中に入りました。
オラトリオの「嘆き」が有名ですが、後で見ることにして、サンタ・カテリーナ教会に入ります。


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サンタ・カテリーナ教会の中に入りました。


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18世紀に行われた改造のため、創建時のロマネスク様式の趣は全くありません。


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祭壇画が四点あります。


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詳細不知の彩色磔刑像


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熱心に祈りを捧げていた人が立ち去り、中は私一人になりました。


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Presbiterio


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詳細不知


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ベルナルディーノ・メイ(シエナ、1612-ローマ、1676)の「聖母子の絵画を崇める四聖人」(17世紀中頃)


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詳細不知


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18世紀のフィレンツェの逸名画家作「玉座の聖母子と四聖人」(18世紀)


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カウンターファサード


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オラトリオに戻りました。


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ザッカリア・ザッキ(アレッツォ、1473-ローマ、1544)の「嘆き」(1510c)


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見事なテラコッタです。


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テラコッタが置かれている後陣は、立体感があるように描かれた騙し絵です。


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クーポラに見えるように天井に描かれた騙し絵


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外に出ます。


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この教会にあった古い祭壇画は市立美術館で見ることが出来ます。


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日が低くなって、通りは建物の影の中です。


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通りの名称がVia Gracco del Seccoと変わりました。


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同じ通りが場所が違うとその名称が変わることがあるので、私にとっては困ることがあります。


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小さな広場が見えてきました。


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Piazza Baiosです。


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Via Gracco del Seccoは写真左に続いてます。


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街角のタベルナコロ


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サン・ピエトロ教会です。


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写真左は、サン・ピエトロ修道院だった建物で、ここに市立美術館が移転することになっていました。既に移転が完了し、開館しました。その展示作品については既掲載ですので、ご興味のある方は参照願います。


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Porta Nuovaです。
拡張された市域はこの門までということになります。
(つづく)

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カステッロ通りを進みます。


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城壁の先にサン・フランチェスコ修道院教会が見えました。


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城壁の下にブドウ園が広がってます。


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Palazzo Campanaの下にアーチが設けられてます。


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Palazzo Campanaの手前を右折すれば、城壁沿いの道に出ることが出来ます。


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Palazzo Campanaまでがカステッロ地区になります。


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アーチを潜って、陸橋の前に出ました。


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建築家バッチョ・ダーニョロ(フィレンツェ、1462-1543)の設計によって、1536年に建設されたPalazzo Campanaです。
建物の先に跳ね橋がありましたが、16世紀初めに崩壊したので、陸橋に改められました。


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城壁の下に下りてからサン・フランチェスコ修道院教会に向かいました。


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13世紀初め、フランチェスコ会修道士がコッレ・ディ・ヴァル・デルザに来訪し、やがて定住するようになりました。


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1229年、市当局から現在地に修道院建設が認められました。


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そうして、13世紀から17世紀に建設されたのがサン・フランチェスコ複合施設です。


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1866年、抑圧令によって複合施設は閉鎖されました。その後、複合施設は病院、軍施設、倉庫などに転用されました。修道院は一度も再開されることなく現在に至ってます。
教会は1992年に修復されて、活動が再開されました。


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教会の内部


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修道院だった建物


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Palazzo Campanaの前に戻りました。


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カンパーナ通りです。


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歴史的建造物が並んでますが、カステッロ内の建物よりは新しいものが殆どです。


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Palazzo Renieri di Sottoです。


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現在は市庁舎になってます。


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中世の頃は、Palazzo Comunaleはカステッロ内にありました。


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入口の上にメディチ家の紋章があります。


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市庁舎の壁にあるコッレ・ディ・ヴァル・デルザの紋章


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Palazzo Lupardiです。


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ホテルになっていた気がします。


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カンパーナ通りを西方向に進みます。


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小さな広場が見えてます。


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小さな広場にやってきました。


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共同洗濯場です。


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中世の頃に造られ、19世紀中頃に改造されて現在の形になったそうです。洗濯機が一般的になるまで、女性たちの交流の場だったそうです。


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共同洗濯場から城壁沿いのVia Dietro Le Muraに出ました。


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サンタ・カテリーナ教会です。
サンタ・カテリーナ教会のファサードはカンパーナ通りに面してます。


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Via Dietro Le Muraからの景観が楽しめます。


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サン・フランチェスコ修道院教会です。


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ドゥオーモが見えます。


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(つづく)

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プレトリオ宮は、市立考古学博物館として一般公開されてます。


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正式名は、ラヌッチョ・ビアンキ・バンディネッリ考古学博物館と言います。
ラヌッチョ・ビアンキ・バンディネッリ(シエナ、1900-ローマ、1975)は、シエナの名門貴族ビアンキ・バンディネッリ家出身の考古学者、美術史家で政治家でもありました。


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考古学博物館の入り口です。
プレトリオ宮が博物館として一般公開されるようになったのは、1970年からで当時は宝物館でした。考古学博物館としての開館は、1990年からでした。旧サン・ピエトロ修道院の建物に美術館がオープンするまで、ここで美術品の展示が行われていました。


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現在は、これらの美術品は旧サン・ピエトロ修道院の市立美術館に移され、展示されてます。


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考古学博物館の展示は、何処の博物館でも似たり寄ったりで、その区別がつきません。石棺、遺跡からの発掘物が主な展示物となってます。


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展示物よりも部屋の壁に描かれたフレスコ画の方に興味があります。フレスコ画といっても、外壁と同じく紋章のフレスコ画が殆どです。


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刑務所だった部屋も見学可能です。


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コッレ・ディ・ヴァル・デルザの丘から出土した石棺の蓋


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石碑断片(紀元前510c-紀元前490c)


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サン・サルヴァトーレ教区教会(ドゥオーモの前身)の柱頭(12世紀)


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壺(紀元前325c-紀元前300c)


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壺(紀元前300c-紀元前280c)


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ブロンズ製の壺(紀元前250-紀元前100c)


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金属製骨壺(紀元前250c-紀元前100c)


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ブロンズ製の容器(紀元前3世紀)


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火口(紀元前320c-紀元前300c)


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石棺(紀元前4世紀)


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Fontana(14世紀)


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エトルリア時代の鏡(紀元前3世紀)


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エトルリア時代の鏡(紀元前3世紀)


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刑務所の階段


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刑務所の囚人部屋


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囚人によって独房の壁に書かれた落書き


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囚人によって書かれた落書き


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メディチ家の紋章


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描かれているのは大半が紋章です。


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ジョヴァンニ・マリア・トロサーニ(コッレ・ディ・ヴァル・デルザ、1471c-1549)の「受胎告知」(1514)


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リドルフィの紋章


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紋章の数々


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Trigramma


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アルドブランディ家の紋章


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アレマンニ家の紋章(写真左)


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リドルフィ家の紋章


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パッツィ家の紋章


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コルシーニ家の紋章


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バルトリーニ家の紋章


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ドゥオーモ広場に戻りました。


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小礼拝堂です。


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彩釉テラコッタの聖母子がありました。


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(つづく)

引き続きドゥオーモです。
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クリプタから内陣に戻りました。


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外に出る前にもう一度聖堂内を見て回ります。


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右側廊


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右第一礼拝堂


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右第二礼拝堂


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右第三礼拝堂


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右第四礼拝堂


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右翼廊礼拝堂


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左翼廊礼拝堂


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左第四礼拝堂


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左第三礼拝堂


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左第二礼拝堂


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左第一礼拝堂


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カウンターファサード


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外に出ました。


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ドゥオーモのクリプタは、破壊された初代の建物の地下墓地だったので、外から直接入ることが出来ます。


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ドゥオーモ広場です。


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広場の、プレトリオ宮の前にFontanaがあります。


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14世紀、またはそれ以前に造られました。


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この水は飲むことが出来ます。


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次は、ドゥオーモの隣に建つプレトリオ宮です。


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14世紀に建設されました。


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コッレ・ディ・ヴァル・デルザの政治の中心として使用されてきました。主に司法、警察の機能を担いました。
裁判所と刑務所が置かれていましたが、後に刑務所専用となり、それが1920年代まで続きました。
1990年に修復され、元の姿に戻されました。


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取り壊されたドゥオーモの初代の建物の一部がプレトリオ宮に組み入れられました。


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プレトリオ宮の裏側です。


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この場所は、中世の頃、処刑場でもありました。


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中庭の塀で囲まれた部分は囚人たちの運動場でした。


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プレトリオ宮左隣の建物の中に重罪人独房がありました。
プレトリオ宮に壁に沢山の紋章がありますが、それは執政長官や警察署長の紋章です。


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ベンチ家の紋章


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カルネセッキ家の紋章


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マッツォ―ニ家の紋章


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ユリはフィレンツェの紋章です。


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(つづく)

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左第四礼拝堂です。


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左第四礼拝堂の天井装飾


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左第三礼拝堂


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詳細不明


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見所が多い聖堂です。


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ジョヴァンニ・パオロ・メルキオッリ(ローマ、1664-1745)の「人々の安寧を祈る聖アルベルト」


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左第三礼拝堂右側壁の祭壇画です。


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ジョヴァンニ・パオロ・メルキオッリ(ローマ、1664-1745)の「聖家族と聖アルベルト」


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左第三礼拝堂の左側壁の祭壇画です。


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ジョヴァンニ・パオロ・メルキオッリ(ローマ、1664-1745)の「聖人たち」


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ジョヴァンニ・パオロ・メルキオッリ(ローマ、1664-1745)の「聖母子」


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ジョヴァンニ・パオロ・メルキオッリ(ローマ、1664-1745)による左第三礼拝堂天井の装飾


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左第二礼拝堂です。


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こちらの方の祭壇画はキリストの昇天になります。


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キリストの昇天とキリストの復活は似てるようでも表現が違います。


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ジュゼッペ・バルトロメオ・キアーリ(ローマ、1654-1727)の「キリストの昇天」


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左第二礼拝堂の右側壁にある祭壇画です。


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デイフェボ・バルベリーニの「我に触れるな」(1673)
この画家は全く知りません。


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左第二礼拝堂の左側壁にある祭壇画です。


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デイフェボ・バルベリーニの「聖トンマーゾの不信」(1673)


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左第一礼拝堂です。


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左第一礼拝堂の祭壇画


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ジョヴァンニ・オダッツィ(ローマ、1663-1731)の「聖母の結婚」


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左第一礼拝堂の天井装飾


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アストルフォ・ペトラッツィ(シエナ、1583-1665)による左第二礼拝堂の天井装飾


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左第一礼拝堂の右側壁にある祭壇画です。


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アストルフォ・ペトラッツィ(シエナ、1583-1665)の「エジプトへの逃避途中の休息」


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左第一礼拝堂の左側壁にある祭壇画です。


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アストルフォ・ペトラッツィ(シエナ、1583-1665)の「エジプトへの逃避」


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左側廊です。


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次はクリプタです。


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Cripta della Misericordia、ドゥオーモのクリプタです。


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この場所は、取り壊された建物の下にあった墓地でした。コッレ・ディ・ヴァル・デルザが独立した司教区になった時、司教座教会に相応しい建物(現在のもの)を建てる際、墓地だった土地の地盤強化のために、墓を掘り起こし地盤強化工事と土地を平坦化してから、17世紀末から18世紀初頭にかけて改めてクリプタが建築されました。


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クリプタの壁がフレスコ画で覆われてます。


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フレスコ画の制作者は、一応ジョヴァンニ・ドメニコ・フェレッティ(フィレンツェ、1692-1768)とされてますが、帰属は不確実とされてます。


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クリプタの主祭壇


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主祭壇画は、アンニーバレ・マッツゥオーリ(シエナ、1658-ローマ、1743)の「聖母子と聖アルベルトと聖ロッコと聖ルチアと聖ジュゼッペ」


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祭壇がもう一つあります。


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ピエトロ・アルデルリーニ(フィレンツェ、1687-1755)の「聖マルゲリータ」
(つづく)

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右第四礼拝堂の右側壁にある祭壇画です。


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フランチェスコ・ナシーニ(ピアンカスタニャ―ロ、1621-カステル・デル・ピアーノ、1695)の「聖パオロの回心」(1690)


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右第四礼拝堂の左側壁にある祭壇画です。


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フランチェスコ・ナシーニ(ピアンカスタニャーロ、1621-カステル・デル・ピアーノ、1695)の「聖ピエトロの逆さ磔」(1690)


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右第四礼拝堂の天井装飾


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アストルフォ・ペトラッツィ(シエナ、1583-1653)によって制作されたフレスコ画


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右翼廊のCappella del Sacro Chiodoです。


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閉まっていることが多い礼拝堂です。


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聖体容器のタベルナコロです。


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聖体容器とタベルナコロはミーノ・ダ・フィエゾレ(ポッピ、1429-フィレンツェ、1484)の帰属作品と言われてます。


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右翼廊の側壁にある祭壇画です。


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フランチェスコ・モランディ―ニ通称イル・ポッピ(ポッピ、1544-フィレンツェ、1597)の「ご誕生」(1567)


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右側廊の突き当りに聖歌隊席があります。


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聖歌隊席


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聖歌隊席の下に洗礼盤があります。


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1465年に制作されました。


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聖ジョヴァンニ・バッティスタの制作者は不祥のようです。


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左側廊


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次は左側の礼拝堂です。


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左翼廊にある「授乳の聖母」(15世紀)


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制作者不詳のようです。


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左翼廊の礼拝堂です。


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この礼拝堂は必見です。


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「最後の晩餐」があります。


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オッタヴィオ・ヴァンニーニ(フィレンツェ、1585-1643)の「最後の晩餐」(1636)


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左翼廊礼拝堂の天井


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オッタヴィオ・ヴァンニーニ(フィレンツェ、1585-1643)によって制作されたフレスコ画(1636)


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左翼廊礼拝堂は洗礼堂に繋がってます。


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洗礼堂です。洗礼堂に二点の祭壇画があります。


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洗礼堂にある、コジモ・ガンベルッチ(フィレンツェ、1562-1621)の「受胎告知」(1619)


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洗礼堂にある、コジモ・ガンベルッチ(フィレンツェ、1562-1621)の「二聖人」(1619)


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左第四礼拝堂です。


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フィリッポ・タルキアーニ(フィレンツェ、1576-1645)の「キリストの復活」


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「キリストの復活」が左第二礼拝堂にもあるので混同しそうです。


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左第四礼拝堂天井


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左第四礼拝堂右側壁の祭壇画


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制作者不詳の「天上の聖母子と二聖人」


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左第四礼拝堂左側壁の祭壇画は、制作者不詳の「無原罪の聖母」


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(つづく)

P1160171
ドゥオーモ内部です。


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三廊式、ラテン十字形、新古典様式の内部です。


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取り壊された最初の建物にあった作品が一部残されています。


P1160174
装飾がなくスッキリした天井


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ドゥオーモの構造図


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礼拝堂、翼廊、後陣の見所が示されてます。


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これ以外にも見所があります。


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これがあると後で助かります。


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クーポラ


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17世紀に施されたクーポラの装飾


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Presbiterioと主祭壇


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後陣は無装飾です。


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鋳造ブロンズの磔刑像があります。


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ピエトロ・タッカ(カッラーラ、1577-フィレンツェ、1640)の「ジャンボローニャ作『磔刑像』の鋳造ブロンズ複製」


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ピエトロ・タッカは、ジャンボローニャ(フランス、ドゥエ、1529-フィレンツェ、1608)の弟子です。


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14世紀に造られた説教壇


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説教壇外壁に浮彫が施されてます。


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浮彫は1465年に制作されましたが、制作者が不詳のようです。


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説教壇の天蓋


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右側廊です。右側廊の礼拝堂から見て回ります。


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右第一礼拝堂(サン・マルツィア―レ礼拝堂)です。


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右第一礼拝堂の祭壇画


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ジョヴァンニ・パオロ・メルキオッリ(ローマ、1664-1745)の「聖マルツィア―レの奇跡」


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フィリッポ・タルキアーニ(フィレンツェ、1576-1645)の「聖マルツィア―レと聖アルベルト」


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フィリッポ・タルキアーニ(フィレンツェ、1576-1645)の「聖アルベルト」


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ジョヴァンニ・パオロ・メルキオッリ(ローマ、1664-1745)の右第一礼拝堂天井のフレスコ画


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右第二礼拝堂です。


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右第二礼拝堂の祭壇画は、ヴィンチェンツォ・ダンディーニ(フィレンツェ、1607-1675)の「マギの礼拝」


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右第二礼拝堂右側画は、ディフェーボ・ブルバリーニ(シエナ、1619-1680)の「銭を洗う聖ピエトロ」


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右第二礼拝堂左側画は、ディフェーボ・ブルバリーニ(シエナ、1619-1680)の「キリストの洗礼」


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ディフェーボ・ブルバリーニ(シエナ、1619-1680)の右第二礼拝堂天井のフレスコ画


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右第三礼拝堂です。


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右第四礼拝堂です。


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右第四礼拝堂の祭壇画は、ルティリオ・マネッティ(シエナ、1571-1639)の「ご誕生」(1635)


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P1160216
(つづく)

P1160145
Via del Castelloです。


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旧市街を縦貫するメイン道路です。


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鐘楼はドゥオーモのものです。


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メッツォ通りに下る階段は閉鎖されてました。


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振り返って撮った写真です。


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次はドゥオーモですが、その前に劇場を見ておきます。


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Teatro dei Variiです。


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この場所に、中世の頃(具体的な時期は不明のようです)に建てられた病院がありましたが、経時劣化のため廃墟になってました。


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18世紀中頃、元病院だった土地をアカデミア・デイ・ヴァリイが購入して、1762年に完成した劇場です。


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小規模なコンサートや前衛的な演劇が上演されてます。


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来場するのが大変そうな劇場に思えました。


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プリオーリ宮です。


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13世紀に建設され、14世紀にほぼ現在の形に改造されたプリオーリ宮です。


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プリオーリ宮の外壁にフレスコ画が描かれてます。


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以前は、プリオーリ宮に市立美術館が置かれていましたが、現在は他の場所に移転しました。この時は、移転のために休館中でした。


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プリオーリ宮に観光案内所があります。


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この時は、市立美術館の移転に伴って観光案内所も閉鎖されていました。


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現在は市庁舎の分庁舎兼博物館になってます。


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プリオーリ宮の隣の建物にタベルナコロがあります。


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聖母子のタベルナコロ


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プリオーリ宮の斜め向かいにドゥオーモがあります。


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Concattedrale dei Santi Alberto e Marzialeです。


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1592年、コッレ・ディ・ヴァル・デルザは、独立した単独の司教区となり、それ以降、この教会は司教座教会でしたが、1986年の司教区見直しによって、シエナ₌コッレ・ディ・ヴァル・デルザ₌モンタルチーノ大司教区の再編合区に伴い、Concattedraleに格下げされました。大司教座教会はシエナのドゥオーモとなってます。


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ドゥオーモ前にあるドゥオーモ広場です。


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10世紀から11世紀に、この地に建設されたサン・サルヴァトーレ教区教会が前身です。


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サン・サルヴァトーレ教区教会の存在は、1115年の文書に初めて記載されました。
その後、奉献する聖人として聖アルベルトが追加され、教会の名称がPieve dei Santi Salvatore e Albertoに改称されました。


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1592年、コッレ・ディ・ヴァル・デルザは、単独の司教区になりました。1602年、司教座教会に相応しい建物の建設が決定され、Pieve dei Santi Salvatore e Alberto(一時的にCattedraleでした)だった建物を取り壊し、その上に新築することになりました。


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そうして、1603年に創建され、1623年に一応の完成を見た建物が現在のドゥオーモの原形となってます。
1623年、奉献式が執り行われましたが、それを機に奉献する聖人が聖アルベルトと聖マルツィア―レに変更されました。


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教区教会の鐘楼は、1623年に取り壊され、新鐘楼の建設が開始されましたが中々進捗せず、1833年になって漸く完成しました。


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砂岩を使って新築されたファサードは荒廃してしまいました。現在のファサードは、1833年に再建されたものです。


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ドゥオーモの隣にプレトリオ宮が建ってます。


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14世紀に建設されたプレトリオ宮には、現在市立考古学博物館が置かれてます。


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プレトリオ宮の背後に取り壊された教区教会だった建物が残されてます。


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教区教会だった建物の一部は、プレトリオ宮に組み入れられてます。


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ドゥオーモの洗礼堂


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ファサードの入り口扉


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入口扉上ルネッタ


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入口扉の彫刻


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聖堂内に入ります。


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中に入りました。
(つづく)

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四階建ての建物は、アルノルフォ・ディ・カンビオ(コッレ・ディ。ヴァル・デルザ,1245c-フィレンツェ,1302/1310c)の生家です。


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建物の前にアルノルフォ・ディ・カンビオの胸像があります。(制作者不知)


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次はロマネスク様式のサンタ・マリア・イン・カノーニカ教会です。


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かなり古い起源を持つ教会と言われてます。


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初期キリスト教会が前身説がありますが、それを裏付ける文書記録がなく、今では伝説とされてます。


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確実な記録として、1183年の文書に、この教会の存在が初めて記載されているそうです。
丘上の城壁で囲まれた、この場所は要塞化されてカステッロ地区と呼ばれてますが、この教会はドゥオーモが建設される前はカステッロ地区の教区教会でした。


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身廊外観


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鐘楼


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ファサードの丸窓


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入口扉上のルネッタ
ルネッタ上にフレスコ画があったかも知れませんが、その痕跡すらもありません。


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教会内に入りました。


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単廊式、ロマネスク様式の内部です。


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簡素な造りです。


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木組みの梁天井


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主祭壇画を見ます。


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ピエル・フランチェスコ・フィオレンティーノ(フィレンツェ、1444/1445-1497以降没)の「聖母子と四聖人」(15世紀)です。


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裾絵と端絵がついてます。


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四聖人とは、聖ジョヴァンニ・バッティスタ、聖ロレンツォ、聖マルコ、バーリの聖二コラです。


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裾絵


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三個の金の玉を娘たちに与えるバーリの聖二コラ


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福音書を記す聖マルコ


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キリスト教徒への迫害


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マギの礼拝


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聖ジョヴァンニ・バッティスタの説教、聖ロレンツォの殉教


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端絵


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詳細不明の聖母子


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保存状態があまり良くないフレスコ画があります。


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ピエル・フランチェスコ・フィオレンティーノ(フィレンツェ、1444/1445-1497以降没)の「聖なる父なる神」(15世紀)


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こちらも古いフレスコ画です。


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アレッソ・ディ・ベノッツォ(フィレンツェ、1473-1528)の「聖アントニオ・アバーテ」(15世紀)


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アレッソ・ディ・ベノッツォは、ベノッツォ・ゴッツォーリ(スカンディッチ、1420-ピストイア、1497)の息子です。アレッソは、父と仕事をすることが多く、父の死後、単独で仕事をするようになりました。


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詳細不明の聖心


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詳細不明


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祭壇前から見たカウンターファサード


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外に出る前に、もう一教会内を眺めました。


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左側壁


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右側壁


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外に出ました。
(つづく)

コッレ・ディ・ヴァル・デルザは、人口21,833人(2020年1月1日現在)のトスカーナ州シエナ県にあるコムーネで、その歴史は古く、遺跡発掘調査の結果から紀元前400万年頃には既に人々が居住していたと推定されてます。
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前泊地はヴォルテッラでした。


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ヴォルテッラからバスでコッレ・ディ・ヴァル・デルザに向かいました。
(写真は、ヴォルテッラのバスターミナルです)


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コッレ・ディ・ヴァル・デルザのバスターミナルに到着しました。


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コッレ・ディ・ヴァル・デルザは、丘上に築かれた旧市街と、丘下に広がる新市街に分かれてますが、新市街の中心アルノルフォ・ディ・カンビオ広場です。


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アルノルフォ・ディ・カンビオ広場至近にある、この日のお宿です。この町にある真面なホテルはここくらいです。旧市街に趣のある良いホテルがありますが、大きな荷物を持って旧市街に行くのは容易ではないので、避けた方が無難という訳です。
お気に入りのレストランが定休日なので、ハーフボード(一泊二食)にしました。(コロナ禍以後、このホテルのレストランは休業中のようです。)


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チェックインを済ませてから外出しました。


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Via dei Fossiです。


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サンタゴスティーノ教会の後陣です。


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ファサード側に回ります。


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創建時の鐘楼は幾度か修復されて19世紀まで健在でしたが、経時劣化が進んだので、取り壊され、20世紀に再建されたのが現在の鐘楼です。


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ファサードが面しているサンタゴスティーノ広場に入ります。


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サンタゴスティーノ広場は駐車場になってます。


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サンタゴスティーノ教会です。


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毎日開く教会です。拝観は夕方にすることにして先を急ぎます。


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先ず丘上の旧市街を目指します。


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エレベーターがあるので簡単に丘上に行くことが出来ますが、肝心のエレベーターが時々運転休止するので、気が気ではありません。


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サンタゴスティーノ教会を後にしました。


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Via Pieve in Pianoです。


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アーチを潜ります。


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アーチを潜り、二本の道路を横切った先にエレベーターの入り口があります。


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ジュゼッペ・ガリバルディ通りを横切ります。


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更にヴィットリオ・メオーニ通りを横断します。


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トンネルの先にエレベーターがあります。


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エレベーターが運転休止の時は、遠回りして急坂の道を上る必要があります。


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エレベーターが点灯されていたので、どうやら運転しているようです。


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無料のエレベーターです。


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無事に丘上の旧市街の入り口に着きました。
ここから丘下の新市街が一望できます。


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この日のお宿、サンタゴスティーノ教会が見えてます。写真手前は丘上と丘下を結ぶ道路です。


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木がある所にエルザ川が流れてます。写真手前にバスが写ってますが、そこにバスターミナルがあります。


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写真左にアルノルフォ・ディ・カンビオ広場が写ってます。


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旧市街は写真左方向の横長になってます。


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Torre di Arnolfo di Cambioです。


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セバスティアーノ通りを進みます。


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旧市街を貫くメイン道路に出ました。


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サンタ・マリア・イン・カノーニカ教会です。


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旧市街には古い建物ばかりが建ち並んでます。


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(つづく)

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アーチの上はチェーザレ・バッティスティ通りです。


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アッピア通りをモルラッキ広場に向かって進みます。


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通りの突き当りがモルラッキ広場です。


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モルラッキ広場に出ました。


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丁度一周したことになります。


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11月4日広場に向かいます。


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サンタ・スザンナ門です。


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聖母子と二聖人のタベルナコロ


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プリオーリ宮


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11月4日広場です。


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大聖堂付属美術館の入り口


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ドゥオーモが開いていたので拝観しました。


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サンタガタ教会は閉まっていました。


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サンタゴスティーノ教会です。


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ペルージャ最古の教会の一つですが、確実な存在記録によれば、12世紀に既に存在していたことが裏付けされてます。


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現在のファサード装飾は、1473年に施されたものです。


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中は単廊式で、バロック様式に改造されてます。


1006
古いフレスコ画が僅かに残されてます。ペッリーノ・ディ・ヴァンヌッチョの「磔刑」(1377)


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ジャン二コラ・ディ・パオロ(チッタ・デッラ・ピエーヴェ、1478-ペルージャ、1544)に帰属する「グラツィエの聖母」(16世紀初頭)


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エトルリア時代の城壁に隣接して10世紀に建設されたサン・ベネデット・ヴェッキオ教会です。


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荒廃が進むエトルリア時代の城壁と共に、18世紀に危険とされて放棄された教会です。


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これで大体見終わりました。


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意外にも昼食代わりの軽食が胃にもたれて困りました。


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教会だった建物です。


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旧サン・イシドーロ教会です。


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中にフレスコ画の痕跡があるそうです。


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すっかり夕方になりました。


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ホテル前のイタリア広場に戻りました。


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お腹が空くのは午後9時過ぎになりそうでした。


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午後9時過ぎに夕食のために外出するのは億劫だし、ホテル併設のレストランも気が進まない。


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自室の簡易キッチンで簡単に料理して、お腹が空いたら食べることにしました。


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善は急げとばかりに食料品の買い出しに。


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何故かサンタンナ駅に来てしまいました。


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夕食分の食料を買って部屋に戻ります。


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早朝のイタリア広場です。


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朝一番のバスでペルージャ駅に向かいました。


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FS駅前の広場です。


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ペルージャ駅の駅舎です。


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フォリーニョ行きの普通列車を待ちます。


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次の目的地はスペッロでしたが、フォリーニョで乗り換えます。


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車内は空いてました。
(おわり)

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引き続きVia dell’Acquedottoです。


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写真左下はアッピア通りです。


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道の左右の建物は、水道橋の使用が廃止されてから建設されたように思います。


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このような状態なので、そう思うのです。


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Palazzo Gallenga Stuartです。


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水源地の方に進みます。


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Arco Etrusco o di Augustoが見えます。


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Via dell’Acquedotto沿いの家の庭


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橋のような通りはそろそろ終わりです。


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普通の道路になりました。


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通りの名前も変わりません。


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この辺も水路になっていました。


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馬車の車輪除けがついている普通の道です。


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これ以上普通の道路を歩いても面白くなさそうです。


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引き返すことにしました。


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ドゥオーモです。


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エトルリア時代の城壁だった所です。


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写真右の階段はアッピア通りになります。


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振り返って撮った写真です。


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水路は暗渠の中を進みます。


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アッピア通りの階段を上ります。


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(つづく)

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モルラッキ広場を通り過ぎます。


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チェーザレ・バッティスティ通りです。


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チェーザレ・バッティスティ通りを進みます。


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道は、丘の縁を縫うように走り、眼下に風景が広がります。


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Via dell’Acquedottoが見えました。


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水源地のモンテパッチャーノから11月4日広場のFontana Maggioreまで水を導くために、約4キロメートルにわたって、1225年から1280年に築かれた水道橋です。


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1835年まで水道橋と使用されていました。その後、修復工事が行われ歩道となりました。
暇なので、Via dell’Acquedottoを歩くことにしました。


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ベアータ・コロンバ修道院の鐘楼が見えてます。


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Via dell’Acquedottoには、ペルージャ外国人大学の方からは入ることにしました。


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丘の縁に沿ってエトルリア時代に築かれた城壁がありました。


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チェーザレ・バッティスティ通りです。


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通りの突き当りにサン・フォルトゥナート教会があります。


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Arco Etrusco o di Augustoです。


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ペルージャ外国人大学です。


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18世紀に建設されたPalazzo Gallenga Stuartに大学が置かれてます。


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ここはペルージャの代表的景観の一つです。


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ペルージャ外国人大学横の階段を下ります。


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アーチの先に水道橋が見えてます。


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アーチを潜ります。


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水道橋です。


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保存状態が良さそうに見えます。


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振り返ってペルージャ外国人大学の方を見ました。


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ドゥオーモの鐘楼が見えます。


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Via dell’Acquedottoを歩くことにしました。


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写真左の階段を上ります。


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階段の先でVia dell’Acquedottoに合流します。


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Via dell’Acquedotto上に来ました。


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ペルージャ外国人大学の方に向かって歩きます。


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(つづく)

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何か食べなくては。


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写真左の店で軽食です。


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暑かったので、屋外ではなく冷房が効いた店内で食べました。


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40℃近い猛暑にも拘らず、ヨーロッパ人は屋外で食べるのが好きなようです。


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熱中症が気になりますが、コロナ流行下では、暑くても屋外食事の方がベター?


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午前中に一服した店が人気でした。


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軽食にも拘らず、ワインを一本空けてしまい、眠くなったので一旦ホテルに戻ることにしました。


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Corso Pietro Vannucci


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軽食でデザートを食べ忘れたので、代わりにジェラートを。


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イタリア広場に戻りました。


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このような場合、旧市街に宿を取ると何かと便利です。


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30分程小休止してから、ホテルを出ました。


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Corso Pietro Vannucciを何回往復したことか。


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ホテルで小休止している間に、気のせいか、多少気温が下がったと思いました。


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本屋が入っている建物です。


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建物の詳細が分からないのですが、ファサードの浮彫が見事です。


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ベルマーレの中田選手が移籍したことで、ペルージャが日本で知られることになりました。


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夕方になって人出が多くなってきました。


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ファーニ通りです。


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変なオブジェが置かれる場所です。


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プリオーリ宮


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次は大聖堂付属美術館です。


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開いている筈のドゥオーモでしたが、扉が閉まっていました。


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入館する前にFontana Maggioreにご挨拶。


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ペルージャに来たからには一度はじっくりと見ます。


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大聖堂付属美術館は問題無く開館してました。


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この時の展示は、貸出、差し替え、修復などがなかったようで、前回と全く同じでした。


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アンドレア・ヴァンニの作品


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メオ・ディ・グイド・ダ・シエナの作品


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ペルジーノの作品


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ルカ・シニョレッリの作品


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ジローラモ・ダンティの作品


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外に出ました。


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次はサンタ・スザンナ門です。


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この辺は13世紀に築かれた城壁に当たります。


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サンタ・スザンナ門です。写真左端にPorta Coliという有名なお店です。教会だった建物で、店内にフレスコ画があります。


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サンタ・スザンナ門のタベルナコロです。


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地震で崩落しない限り、数百年後でも変わらない光景でしょう。


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アーチを潜りました。


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(つづく)

024
ペルージャのバスターミナルです。


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イタリア広場に向かいます。


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エスカレーターを乗り継ぎます。


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イタリア広場に出ました。この時のお宿が写ってます。


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チェックインを済ませて自室に入りました。


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通りに面していない部屋だったので静かでした。


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外に出ました。


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Palazzo Cesaroniです。


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夏休み中だったので、人出が多かった。


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初日にやることは何時も同じです。


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美術作品を見たいがために何度も足を運びます。見慣れた所ばかりですが、飽きることがありません。


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MuseoがあるPalazzo Baldeschiです。


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Fondazione Cassa Risparmio Perugiaが所有する作品を見ることが出来て幸せでした。相変わらず写真不可でした。


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早くも、ここで一休みしました。


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プリオーリ宮に向かいます。


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国立ウンブリア美術館に入館する前にファサードの彫刻を見ました。


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ふと振り返って通りを確認すると、変なオブジェが撤去されていたので変に安心しました。


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入館しました。


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ピエロ・デッラ・フランチェスカの作品


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ルカ・シニョレッリの作品


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ペルジーノの作品


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コッレージョ・デル・カンビオにも入りました。


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この日は鑑賞日でしたが、外に出ると疲れていることが分かりました。


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11月4日広場です。


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気温が急上昇した影響でしょうか、観光客の姿が少なくなりました。


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Fontana Maggiore


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イタリアでは、夏至の頃が最も暑いように思います。


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ドゥオーモの階段にも人が殆どいなかった。


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大学生に大人気のプリオーリ宮の階段ですが、この日は不人気でした。


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次はドゥオーモの拝観です。


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説教壇


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聖堂内に入ります。


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堂内は相変わらずの写真不可でした。


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外に出ました。


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(つづく)

P1720231
次はサン・フィリッポ・ネリ教会です。


p1128
サン・フィリッポ・ネリ教会です。


437
この場所に、初期キリスト教会のサン・ジョヴァンニ・ロトンド教会がありましたが、11世紀に解体されて荒地になっていました。


434
17世紀初め、Padri Filippiniは、反宗教改革のための教会建設を決め、ローマの売れっ子建築家パオロ・マルチェッリ(ローマ、1594-1649)に建設を委嘱しました。


436
当時、パオロ・マルチェッリは、ローマでのマダーマ宮建設などで多忙でした。ファサードの設計と工事途中までは関与したようですが、地元の建築家が後を継いだようです。


p1130
1627年から1665年に建設されたバロック様式のサン・フィリッポ・ネリ教会です。


p1129
ファサード前の手すり付き階段は1647年から1665年に建設されました。
美術品が多い教会として知られてます。
他のペルージャの教会と同じく、ナポレオン軍のイタリア侵攻に際して、この教会にあった幾つかの作品がフランスに持ち去られました。


p1131
持ちされた作品の代表的なものが、グイド・レーニのこの作品です。現在、フランス、リオンのMusee de Beaux di Lioneにあります。
グイド・レーニ(ボローニャ、1575-1642)の「聖母被昇天」(1637)


p1132
単廊式、ラテン十字形、バロック様式の内部です。


p1136
主祭壇画は、ピエトロ・ダ・コルトーナ(コルトーナ、1596-ローマ、1669)の「無原罪の御宿リ」(1662)


p1133
クーポラのフレスコ画は、フランチェスコ・マンチーニ(サンタンジェロ・イン・ヴァード、1678-ローマ、1758)の「聖母戴冠」(1728)です。
クーポラ四隅のフレスコ画は、ジョヴァンニ・アンドレア・カルロ―ネ(ジェノヴァ、1639-1697)の「四福音書記者」(1668)です。


p1135
身廊天井のフレスコ画は、フランチェスコ・アッピア―ニ(アンコーナ、1704-ペルージャ、1792)によって1762年に制作されました。


p1134
身廊天井の格子装飾は、二コラ・ジュリによって1762年に施されました。



p1137
制作者情報不知の「グイド・レーニ作『聖母子を崇める聖フィリッポ・ネリ』のコピー画」です。


p1138
こちらは、グイド・レーニの作品写真です。
本物は、ローマのサンタ・マリア・イン・ヴァッリチェッラ教会にあります。


p1139
シモーネ・チブッリ(ペルージャ、1591から活動記録-1624没)の「聖痕を受ける聖フランチェスコ」(17世紀)


p1140
ジョヴァンニ・フランチェスコ・ロマネッリ(ヴィテルボ、1610c-1662)の「チントラの聖母」


p1141
フランチェスコ・トレヴィサーニ(カポディストリア、1656-ローマ、1746)の「受胎告知」(1710)


p1142
ジュゼッペ・パッセリ(ローマ、1654-1714)の「ご訪問」(1709)


p1143
ジョヴァンニ・バッティスタ・ガウッリ通称イル・バチッチョ(ジェノヴァ、1639-1709)の「聖母子の勝利」


p1144
セバスティアーノ・チェッカリーニ(ファーノ、1701-1783)の「聖母戴冠」


435
沢山の作品がありますが、そのうち多くの作品帰属がよく分かりません。


438
Corso Pietro Vannucciに戻りました。


440
ホテルに戻ることにしました。


001
出発する日の朝です。


002
この日の目的地はチッタ・ディ・カステッロです。鉄道で向かいます。


001
ここで切符を買いました。


007
ウンブリア中央鉄道のサンタンナ駅です。


003
サンセポルクロが終点です。


008
古い気動車が使用されてます。


009
この時の旅はこれで終わりです。


P1700762
次のペルージャの旅です。
この時の前泊地はアッシジでした。


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アッシジからペルージャ行きの直通バスがあります。


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アッシジのバスターミナルに向かいます。


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季節は、夏至に旬日に迫った暑い日でした。


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天気に恵まれ快晴でした。


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道の突き当りがバスターミナルの広場です。


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広場に出ました。


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ペルージャ行きのバスがいます。


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始発のバスターミナルからの乗客はどうやら私一人のようです。


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ローマから直通バスでペルージャに行ったこともあります。


P1700778
(つづく)

384
次はサン・フランチェスコ・アル・プラート聖堂です。


p1109
聖堂は谷に建てられてます。この場所は、ペルージャ旧市街の丘下に位置し、農地と埋葬地でした。


p1110
12世紀、農地だった、この場所にサンタ・スザンナ教会が建設されました。アッシジのサン・フランチェスコ聖堂と同じ構造の上教会と下教会にするため、サンタ・スザンナ教会の上に1251年から1253年に建設されたのがロマネスク様式のサン・フランチェスコ・アル・プラート聖堂の上教会です。サンタ・スザンナ教会は聖堂の下教会となって、呼称されなくなりました。
同時に聖堂の横に広大な修道院が建設されました。


412
丘下の谷のこの場所は、地盤が弱い上に地下を流れる川があったようで、地滑りや地震によって建物は大きな被害を受けました。活動を停止して、大掛かりな改造、修復工事が何度も行われました。


p1111
聖堂のファサードは、18世紀以前に崩落していました。
現在のファサードは、建築家ピエトロ・アンジェリーニ(リピ、1892-ペルージャ、1985)の設計によって、1926年に完成した再建されたものです。


p1108
再建の設計に際して、ピエトロ・アンジェリーニは、ベネデット・ボンフィーリ(ペルージャ、1420-1496)によって描かれた「慈悲の聖母のゴンファローネ」(1464)から崩落したファサードの形状を知ったとされてます。


p1113
ファサードが描かれてないような気がしますが・・・・・


p1115
ピエトロ・アンジェリーニによる大修復工事にも拘らず、1968年に屋根が崩落してしまいました。
この写真は1980年頃に撮られましたが、ご覧のように聖堂内部は荒廃する一方だったそうです。


413
1990年に漸く修復工事が開始され、徐々に修復が進みましたが、それの束の間の1997年の大地震によって、またもや大被害を受けてしまいました。
21世紀になって、修復作業がさらに本格化されて、2015年頃から文化イベント会場として建物が使用されてます。


p1114
修復工事完了後の後陣だった場所


p1112
コンサートが行われていた時の写真


p1116
サン・フランチェスコ・アル・プラート聖堂は美術品の宝庫でした。
ナポレオンのイタリア侵攻の際、ウンブリアで没収された美術品の三分の一がサン・フランチェスコ・アル・プラート聖堂からだったとされてます。
ラッファエッロ、ペルジーノ、ピントゥリッキオなど多くの作品が失われました。フランスに持ち去られた作品の返還交渉が行われましたが、多くは戻されず、今なおフランスの美術館で展示されてます。返還交渉でペルージャに戻されず、何とヴァティカンの所有になった傑作があります。
このラッファエッロの「オッティの祭壇画」もそのうちの一つです。


p1117
ペルジーノの「キリストの復活」
サン・フランチェスコ・アル・プラート聖堂にありましたが、ナポレオン軍によって没収されました。その後の返還交渉で、ヴァティカン絵画館所蔵となりました。
また、国立ウンブリア美術館でサン・フランチェスコ・アル・プラート聖堂にあった作品が幾つか展示されてます。


417
こちらは、サン・フランチェスコ・アル・プラート修道院だった所で、20世紀初頭からピエトロ・ヴァンヌッチ美術アカデミーとなってます。


418
ピエトロ・ヴァンヌッチ美術アカデミーが所有する作品が美術館として一般公開されてますが、この日は休館日でした。


419
サン・フランチェスコ・アル・プラート修道院の鐘楼です。


416
広大なサン・フランチェスコ・アル・プラート修道院聖堂でした。


420
サン・ルカ教会です。


422
1320年頃、マルタ騎士団によって建設されました。


p1118
現在の建物は16世紀に再建された二代目となるものです。


421
しかし、経時劣化したので、1973年に復元修復されました。今なおマルタ騎士団によって管理されてますが、扉が開くことは年に数回のようです。


423
サン・ルカ教会の隣にマドンナ・デッラ・ルーチェ教会があります。


426
2つの教会は、サン・フランチェスコ・アル・プラート聖堂から近い距離にあります。


p1119
1513年から1519年に建設されたマドンナ・デッラ・ルーチェ教会は、今も現役?の教会です。


424
マドンナ・デッラ・ルーチェ教会の横にあるアーチは、エトルリア時代のPorta Trasimenaの名残だそうです。


425
この辺は教会が多い場所です。


427
サンタ・テレーザ・デリ・スカルツィ教会です。


428
14世紀、洗足カラメル会によって創建され、1718年に完成したサンタ・テレーザ・デリ・スカルツィ教会です。


429
現在は、ヤハフェの僕が所有してます。


p1120
教会としては一般公開されていないようです。
美術品の見所が数点あります。


p1121
アントン・マリア・ガルビの「アンニーバレ・カッラッチ作『十字架降下』の複製画」


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ジョヴァンニ・フランチェスコ・バッソッティ(ペルージャ、1600-1665)の「受胎告知」(17世紀)


p1122
カルロ・ランパレッリ・ダ・スペッロ(ウンブリア、1716-1727消息)の「聖テレーザに顕現する聖母子」(18世紀)


p1124
それにしても見所が多いペルージャです。


430
旧サンタ・テレーザ・デリ・スカルツィ教会は修復工事中でした。


p1125
次はサンティ・ステファノ・エ・ヴェレンティーノ教会です。


431
ちょっと見ただけでは、教会とは分からない建物です。


p1126
1163年に建設され、14世紀に拡大されたサンティ・ステファノ・エ・ヴァレンティーノ教会です。


432
私の知る限り、扉が開いていたことがありません。


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サンティ・ステファノ・エ・ヴァレンティーノ教会の鐘楼


433
(つづく)

p1081
引き続きサン・ベルナルディーノ礼拝堂ファサードの浮彫です。


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アゴスティーノ・ディ・ドゥッチョ(フィレンツェ、1418-ペルージャ、1481c)によって、1457年から1462年にかけて制作されたファサードの装飾です。


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ファサードはこれで終わりです。


396
サン・ベルナルディーノ礼拝堂の中に入りました。


p1106
交差ヴォールトの簡素な造りです。


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4世紀中頃の祭壇です。


397
オラツィオ・アルファーニ(ペルージャ、1510-ローマ、1583)の「慈悲の聖母」(1464)


p1108
ゴンファローネなので、裏面にも描かれていると思います。


399
オラツィオ・アルファーニ(ペルージャ、1510-ローマ、1583)の「ラッファエッロ作『バリオーニの祭壇画(1507)』のコピー画」
この作品がここにある理由がよく分かりません。
ラッファエッロの「バリオーニの祭壇画」は、サン・フランチェスコ・アル・プラート聖堂バリオーニ礼拝堂にありましたが、1607年、第233代教皇パオロ5世(本名カミッロ・ボルゲーゼ)(ローマ、1552-1621)の命によって、秘かにローマに運ばれました。そうして、甥で美術収集家で名高いシピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿(ローマ、1577-1633)に秘かに与えて、ボルゲーゼ家の収集物となったのです。シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿は、美術品の収集に熱心になる余り悪辣な方法を用いたことが知られてます。
オラツィオ・アルファーニは、ラッファエッロ作品がサン・フランチェスコ・アル・プラート聖堂にあった時にコピー画を制作したのでしょう。
なお、バリオーニ家は、ペルージャの有力貴族で、サン・フランチェスコ・アル・プラート聖堂に家族礼拝堂を所持していました。


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ラッファエッロの「バリオーニの祭壇画」は、現在、ボルゲーゼ美術館で展示されてます。


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何処にあったのか、については触れてません。教皇がローマに移送することを命令し、秘かに甥に与えた後ろめたさがあるのでしょう。


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このような背景を知ると、美術鑑賞がより一層楽しくなります。
少し脱線しました。


401
次の礼拝堂は、サン・ベルナルディーノ礼拝堂とは関係がありません。


402
Oratorio dei Santi Andrea e Bernardino o della Giustiziaです。
残念ながら中に入ることが出来ません。


403
主祭壇画は、ガエターノ・ラピス通称イル・カッラッチェット(カーリ、1706-ローマ、1773)の「聖母子と聖ジョヴァンニ・バッティスタと聖アンドレアと聖ベルナルディーノ」


405
沢山の作品があります。


410
展示されている作品の案内板が完備されてますが、中に入れない。


407


409
マルチェッロ・レオパルディ(ポテンツァ・ピチェ―ナ、1750-ローマ、1795)の「聖ジョヴァンニ・バッティスタの斬首」(1787)


408
外に出ます。
(つづく)

002
この日の朝もホテル前で放送してました。


366
やることは毎日大体同じです。美術館、博物館、教会に行くと共に歴史的建造物を見て回ります。


367
違うのは、この日は鑑賞日だったことです。私の場合、美術館などで作品写真を撮ることと、作品鑑賞は両立しないのです。小規模なMuseo Civicoなどでは、両立しますが、ペルージャの美術館は展示作品が多くて、全展示作品の写真を撮ることで精一杯、疲れてしまうので鑑賞どころではなくなるのです。


368


369
このオブジェには参りました。


373
前日も、この日も普通の平日でしたが、混雑してました。


374
前日よりも混んでました。


375
この日もドゥオーモの中に入りました。


376
何も敷かないで座るのは、土足で家の中に入る習慣があるからでしょうか。


377
ヨーロッパは日本よりも不潔ですね。近世まで、ホテルにトイレがないので、宿泊客はオマルにしたり、ホテル前で大小便したのですから。宮殿にもトイレがないので、貴婦人は裾が地面を引きずるドレスを着たまま庭で大小便してから、宮殿に出入りしていたそうです。ドレスの裾は大小便でぐちゃぐちゃ。


378
コロナがヨーロッパで大流行するのは、土足で家の中に入るからと思ってます。


379
11月4日広場です。広場や通りの名称に〇月〇日というのがありますが、覚えるのが難しいし、混同してしまうので非常に困ってます。


380
モリアッキ広場です。


381
次の予定は、サン・ベルナルディーノ礼拝堂です。道を下ってサン・フランチェスコ・アル・プラート聖堂に向かいます。


382
サン・フランチェスコ・アル・プラート聖堂が見えてきました。


383
サン・フランチェスコ・アル・プラート聖堂の横、写真左にある建物が、目的のサン・ベルナルディーノ礼拝堂 Oratorio di San Bernardinoです。
オラトリオは、祈祷所とか小礼拝堂という意味ですが、隣接するサン・フランチェスコ・アル・プラート聖堂の一部なので、この場合、礼拝堂と訳すのが良いと思いました。


385
シエナの聖ベルナルディーノに捧げる礼拝堂です。


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シエナの聖ベルナルディーノ(マッサ・マリッティマ、1380-ラクイラ、1444)は、Ordine dei Frati Minori(フランチェスコ修道会)所属のシエナ司教でしたが、15世紀前半、度々ペルージャに来て、サン・フランチェスコ・アル・プラート聖堂前の広場で説教を行いました。
その説教は、ペルージャ市と市民に大きな影響を与え、市当局の法令改革に資することが大でした。


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聖ベルナルディーノの死後6年の1450年、第208代教皇ニッコロ5世(サルザーナ、1397-ローマ、1455 在位:1447-1455)によって、聖ベルナルディーノは列聖されました。
それを機に、ペルージャのOrdine dei Frati Minoriは、聖ベルナルディーノに捧げる礼拝堂建設を決めました。
建物の設計に際して、レオン・バッティスタ・アルベルティ(ジェノヴァ、1404-ローマ、1472)の設計によって建設されたマントヴァのサンタンドレア聖堂を模したと言われてます。
そうして、1451年に創建され、1452年に完成したサン・ベルナルディーノ礼拝堂です。1452年に奉献式が執り行われました。


P2730612
ご参考までにマントヴァのサンタンドレア聖堂ファサードの写真を載せておきます。


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サン・ベルナルディーノ礼拝堂の最大の見所はファサードの装飾です。


386
ファサードの装飾は、アゴスティーノ・ディ・ドゥッチョ(フィレンツェ、1418-ペルージャ、1481c)
によって、1457年から1462年に行われました。これは、アゴスティーノ・ディ・ドゥッチョの代表作の一つです。


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ルネッタ上の聖ベルナルディーノ


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浮彫の詳細を見ます。


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祈るキリストと2天使


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聖ベルナルディーノと音楽天使


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入口扉上の浮彫を見ます。


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(つづく)

引き続きサン・ドメニコ聖堂です。
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1476年に制作された聖歌隊席です。


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1498年に制作された交唱聖歌集を置く台


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アゴスティーノ・ディ・ドゥッチョ(フィレンツェ、1418-ペルージャ、1481c)の「誓いの聖母の祭壇 Altar della Madonna del Voto」(1459)


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テラコッタ彫刻は、アゴスティーノ・ディ・ドゥッチョの作品です。聖母子がありますが、誓いの聖母と呼ばれてます。


p1043
誓いの聖母のテラコッタ彫刻の背後にフレスコ画があります。この部分には、ベルナルド・ディ・ジローラモ・ロッセッリ(1530-1560c活動)によって1534年に制作されたフレスコ画があったそうです。経時劣化が酷く全て塗り潰されて、その上に1869年にドメニコ・ブルスキ(ペルージャ、1840-ローマ、1910)によって描き直された「音楽天使たちと天使たち」です。


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彫刻は、アゴスティーノ・ディ・ドゥッチョ(フィレンツェ、1418-ペルージャ、1481c)の「大天使ガブリエーレ」(1459)
フレスコ画は、ベルナルド・ディ・ジローラモ・ロッセッリ(1530-1560c活動)の「ダヴィデ」


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アゴスティーノ・ディ・ドゥッチョ(フィレンツェ、1418-ペルージャ、1481c)の「大天使ガブリエーレ」(1459)


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アゴスティーノ・ディ・ドゥッチョ(フィレンツェ、1418-ペルージャ、1481c)の「聖母」(1459)
ベルナルド・ディ・ジローラモ・ロッセッリ(1530-1560c活動)の「預言者イザヤ」


p1047
アゴスティーノ・ディ・ドゥッチョ(フィレンツェ、1418-ペルージャ、1481c)の「聖母」(1459)


p1048
アゴスティーノ・ディ・ドゥッチョ(フィレンツェ、1418-ペルージャ、1481c)の「聖ジョヴァンニ・バッティスタ」(1459)


p1049
アゴスティーノ・ディ・ドゥッチョ(フィレンツェ、1418-ペルージャ、1481c)の「聖ロレンツォ」(1459)


p1050
アレッサンドロ・アルガルディ(ボローニャ、1598-ローマ、1654)の「エリザベッタ・カントゥッチ・デ・コリスの墓」(1648)


p1051
アレッサンドロ・アルガルディ(ボローニャ、1598-ローマ、1654)の「エリザベッタ・カントゥッチ・デ・コリスの胸像」(1648)


p1052
ドメニコ・グイディ(カッラーラ、1625-ローマ、1701)の「アレッサンドロ・ベニンカーザの墓」(1694)


p1053
ドメニコ・グイディ(カッラーラ、1625-ローマ、1701)の「アレッサンドロ・ベニンカーザ(1649-1694)の胸像」(1694)


p1054
ウルバーノ・ダ・コルトーナ(コルトーナ、1426-シエナ、1504)に帰属する「ベネデット・グイダロッティの記念碑」


p1055


p1056
ヴァレリオ・チョーリ(セッティニャーノ、1529-フィレンツェ、1599)の「ダンティ家の墓」


p1057
ヴァレリオ・チョーリ(セッティニャーノ、1529-フィレンツェ、1599)の「彫刻家ヴィンチェンツォ・ダンティの胸像」


p1058
ヴィンチェンツォ・ダンティ(パル―じゃ、1530-1576)の「法律家グリエルモ・ポンターノの記念碑」(1555)


p1059


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ロレンツォ・マイターニ(シエナ、1275以前-オルヴィエート、1330)の「教皇ベネデット11世の墓」


p1062


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p1066
サン・ドメニコ聖堂はこれで終わりです。


834
すっかり夕方になりました。


835
1297年から1326年に建設されたサンテルコラーノ(聖エルコラーノ)教会です。


836
サンテルコラーノ教会の扉が閉まっていました。


837
Arco di Sant’Ercolanoです。紀元前3世紀後半に築かれたエトルリアの城壁にあった7つの出入口のうちの一つです。


838
Arco di Sant’Ercolanoの上にイタリア広場があります。


P1720325
急に雨が降り始めました。


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大した降りではなく、夕日が差してました。


P1720338
虹が出てきました。


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先ほどまで拝観していたサン・ドメニコ聖堂です。


P1720332


P1720328
サン・ピエトロ修道院聖堂の鐘楼


P1720343
この日はこれで終わりです。
(つづく)

814
ジャン二コラ・ディ・パオロの作品です。


p1016
ジャン二コラ・ディ・パオロ(チッタ・デッラ・ピエーヴェ、1478-ペルージャ、1544)の「1494年のゴンファローネ」


815
詳細不知


816
制作者不詳の「ピエタ」


817
制作者不詳のフレスコ画(18世紀)


p1017
次は礼拝堂に描かれたフレスコ画です。


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Presbiterio天井のフレスコ画です。


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逸名画家によって1410年頃に制作されたフレスコ画です。描かれているのはドメニコ会の聖人たちです。


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ドメニコ会聖人(1410c)


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ドメニコ会聖人(1410c)


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ベネデット・ディ・ビンドのフレスコ画がある礼拝堂です。


810
保存状態が良くありません。


809
ベネデット・ディ・ビンド(カスティリオーネ・ディ・ヴァルドルチャ、1380/1385-ペルージャ、1417)に帰属フレスコ画で、1415年頃に制作されました。


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次の礼拝堂です。


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14世紀から15世紀にかけて描かれたフレスコ画です。聖母子が3つあります。


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明らかに制作者が異なります。


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礼拝堂天井のフレスコ画は、アッレグレット・ヌーツィ(ファブリアーノ、1315-1373)によって描かれた四福音書記者です。


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(つづく)

011
次はサン・ドメニコ聖堂です。


p1001
聖堂の歴史については、(その34 国立博物館)に既に触れましたが、幾つか補足しておきます。


832
聖堂はジョヴァンニ・ピサーノ(ピサ、1248c-シエナ、1315c)の設計と言われてます。


606
ドメニコ会出身の第194代教皇ベネデット11世(トレヴィーゾ?、1240-ペルージャ、1304 教皇在位:1303-1304)は、コロンナ家との確執を避けて、教皇選出直後にペルージャに避難しました。
ペルージャに到着すると、サン・ドメニコ聖堂の建設を強く推進し、1304年に創建されました。
しかし、教皇は直ぐに急死してしまいました。毒殺説もあります。


767
ベネデット11世の墓はサン・ドメニコ聖堂にあります。墓のある右翼廊にベネデット11世博物館が2019年にオープンしたそうですが、博物館に未だ行ったことがありません。


833
ファサード前の階段が17世紀に追加されました。


p1002
1961年、第261代教皇ジョヴァンニ23世(ソット・イル・モンテ、1881-ヴェティカン、1963)によってBasilica Minoreに格付けされました。


769
聖堂内に入りました。


771
三廊式、バロック様式の内部です。建設された当初は、外観と同じくゴシック様式の内部でした。


770
1862年から1879年と、1999年から2009年に行われた二度の改修を経て、すっかり新しく見えるようになった内部です。


772
最初にPresbiterioを見ます。


795
主祭壇と後陣


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ピエトロ・カラット―リ(ペルージャ、1703-1762)によって、1740年頃に制作された主祭壇


794
15世紀の見事なステンドグラスが見所です。頭頂部は1759年に制作されたもので重要性が薄れます。


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高さ23メートル、横8.5メートルのステンドグラスです。


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ステンドグラスの原画は、マリオット・ディ・ナルド(フィレンツェ、1365c-1424)とバルトロメオ・ディ・ピエトロ(1410から活動記録-1437没)によるものです。


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ステンドグラスは1411年(確定)に制作されました。


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次に祭壇画を見て回ります。
この聖堂はかって美術品の宝庫でしたが、ナポレオンのイタリア侵攻に伴い、多くの傑作がフランスに持ち去られ、ナポレオンの失脚後の返還交渉にも拘らず、奪われた作品の殆どが戻されずに現在に至ってます。
それでも、サン・ドメニコ聖堂には多くの見るべき作品があります。


774
プラウティッリ・ネッリ(フィレンツェ、1524-1588)の「無原罪の聖母」


776
ジュゼッペ・ラウダ―ティ(ペルージャ、1672-1718以降没)の「シエナの聖カテリーナの神秘な結婚」


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ジュゼッペ・ラウダ―ティはカルロ・マラッタの弟子です。


777
ジュゼッペ・ラウダ―ティ(ペルージャ、1672-1718以降没)の「象徴的にキリストと結婚するリマの聖ローザ」


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リマの聖ローザはドメニコ会の修道女です。


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詳細不知


781
詳細不知


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詳細不知


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オルガンとその下にある祭壇画が見所です。


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1638年から1641年に製造されたオルガン


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オルガンの下にある祭壇画


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ジョヴァンニ・ランフランコ(パルマ、1582-ローマ、1647)の「天上の聖母子と聖ドメニコとシエナの聖カテリーナ」(1647)


784
詳細不知


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詳細不知


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詳細不知


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詳細不知


805
プラウティッリ・ネッリ(フィレンツェ、1524-1588)の「聖霊降臨」


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807
詳細不知
(つづく)

768
サン・ドメニコ聖堂の拝観を後回しにして、ウンブリア国立考古学博物館に入館します。


819
国立考古学博物館は、サン・ドメニコ修道院だった建物にあります。


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博物館の前に、サン・ドメニコ修道院教会について触れておきましょう。


820
門を潜りキオストロに出ました。


821
この場所には、5世紀に建設されたサント・ステファノ・デル・カステッラーレ教区教会がありました。
一方、13世紀前半に建設されたペルージャのサン・ドメニコ教会は、別の場所にありました。
しかし、既に13世紀前半には宗教活動と政治の両面で、サン・ドメニコ修道会がペルージャにおける重要性が増大しており、、修道会とペルージャ当局の双方から、サン・ドメニコ修道院教会のより大きな建物の必要性が高まり、その場所としてサント・ステファノ・デル・カステッラーレ教区教会が建っている場所が選ばれました。


823
そうして、1304年、サント・ステファノ・デル・カステッラーレ教区教会の建物が取り壊され、その上にゴシック様式のサン・ドメニコ聖堂の建設が始まりました。1632年に完成しました。


824
修道院の建物は、1233年に創建され、1700年まで拡張されました。修道院が先に建設され、聖堂はその後に建設されたのです。


831
キオストロ回廊は、1455年から1579年に建設されました。


826
鐘楼は、1464年から1500年に建設されました。


825
建設された当初、高さ126メートルあった鐘楼ですが、現在の高さは60メートルです。


831
1797年、ナポレオンの抑圧令によって、修道院は閉鎖され、修道士が追放されました。その後、一度も再開されることなく現在に至ってます。


828
ナポレオンによって閉鎖された後、建物はフランス軍に接収され、軍用に使用されました。フランス軍の撤退後、サヴォイア家の所有となり、軍基地と軍用倉庫に転用されるようになりました。イタリア王国成立後は、イタリア国軍の本拠地になりました。
第二次世界大戦後、建物は修復され、1952年にウンブリア国立考古学博物館とウンブリア州立公文書がオープンしました。


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回廊に遺跡からの発掘物が展示されてます。


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回廊の壁ルネッタ上にジョヴァンニ・バッティスタ・ロンバルデッリ(オストラ・ヴェ―テル、1532-ペルージャ、1587)によって、1579年から1582年に制作された「サン・ドメニコの物語」のフレスコ画がありましたが、軍用に転用されている間に劣化が進み、第二次世界大戦後に行われた修復の際に、修復不能と断定され、全て塗り潰されてしまいました。


827
キオストロの古井戸
入館します。


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考古学博物館の展示は、何処も大体同じで区別がつきません。例外は、ポンペイからの発掘物を展示するナポリの国立考古学博物館と思います。


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骨壺です。考古学博物館の定番というべき展示物です。


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石棺


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人間の死に関する展示が多い考古学博物館です。


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古代ギリシャ時代の壺(紀元前600-575)


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古代ギリシャ時代の壺(紀元前600-575)


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古代ギリシャ時代の壺(紀元前425-400)


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ローマ時代の彫像(140-150)


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ローマ時代の彫像(54-69)


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石器


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石器


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金属製品


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ローマ時代のコイン


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エトルリア時代の彫刻(紀元前350-300)


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骨壺の蓋(紀元前2世紀-紀元前1世紀)


p110077
骨壺の蓋(紀元前150)


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浮彫


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石棺(紀元前510)


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石棺


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石碑(紀元前3世紀-紀元前2世紀)


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石碑
国立考古学博物館はこの辺で終わりにします。


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(つづく)

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