イタリア芸術を楽しむ

イタリアの魅力を味わい尽くすには、一生に何度旅をすれば足りるだろう。芸術の宝庫にして、歴史の生きた証であるイタリア。 惹き付けて止まない絵画、彫刻、歴史的建造物、オペラなど、芸術の宝庫であるイタリアを楽しむブログです。 記事は一日に一つアップしています。記事の見方ですが、例えば「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その4)」は2017年10月20日にアップしました。各記事にカレンダーが表示されてますが、カレンダー上の2017年10月21日をクリックして頂ければ「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その5)」になります。(その3)は2017年10月20日となります。 BY:シニョレッリ

2022年05月

P1450631ピアネータ(祭服)の展示です。


1068


1069


1070


1071


1072


1073


1074


1075


P1450630
クリストファノ・デル・アルティッシモ(フィレンツェ、1525-1605)の領域(Ambito)の「ピエトロ・ベンボ枢機卿の肖像」


1076


P1450632


P1450633


P1450634


P1450635


P1450637


P1450640


1077


P1450643


P1450645


P1450647


P1450650


1078


P1450652


P1450654


P1450657


P1450658


P1450661


1080


P1450662


P1450665


1081


1082


1083


P1450667


P1450671


1084


1085


P1450686
(つづく)

P1450585この作品は、メインパネルと裾絵の制作者が異なります。制作された時代も大きく異なります。


P1450597
メインパネルは、フランチェスコ・グラナッチの作品です。


P1450598
裾絵は、アンニーバレ・ガッティによって描かれました。


P1450588
「玉座の聖母子と聖セバスティアーノとアッシジの聖フランチェスコ」


P1450589
聖セバスティアーノ


P1450591
受胎告知


P1450595
聖フランチェスコ


1050


1051


1052


P1450600
ご訪問と二聖人


P1450604
アレッソ・ディ・ベノッツォ別称アレッソ・ゴッツォーリは、ベノッツォ・ゴッツォーリの息子です。


1054
聖ヤコポ(左)と聖ステファノ(右)


1055


P1450606


P1450610


1056


1057


P1450613


P1450615


1058


1059
「受胎告知」です。


P1450618


P1450619


1060


P1450616


P1450617


1061


P1450621


P1450623


1062


P1450625
詳細不明(作品説明板がありません)


P1450626


P1450627
祭服の展示です。


P1450628
この種の展示は、Museo Diocesanoの定番です。


1063


1064
ピアネータ(祭服)(1730-50c)


1065


1066
ピアネータ(祭服)(1750-60c)


1067
(つづく)

P1450538聖母子の彫刻


P1450540


1037


P1450541
ベネデット・ダ・マイアーノ作品のコピー彫刻です。


P1450543


1038


P1450545
ビッチ・ディ・ロレンツォの領域の逸名画家による作品です。


P1450548
作品の説明表示板の写真を掲載するのは、私が主観的に作品帰属を言っていないという証拠を示すためです。
また、説明表示板の写真は、私が現地に行っていることの証明になります。何故なら、美術館のこのような説明板を掲載しているサイトを見たことがないので。
実際に作品の前に立って、作品を見ていないにも拘らず、あれこれ美術論を言っている人がいるように思います。


P1450546


1039


P1450549
ロッゼッロ・ディ・ヤコポ・フランキの作品


P1450552


P1450550


1040


1041


1042


1043


P1450555


P1450557


P1450559


P1450562


P1450561


P1450564


P1450565
画面が光るので、別角度から撮ってみました。


P1450566
余り変わりません。


P1450567


1044


P1450569


P1450571


P1450570


1045


P1450573


P1450575


1046


P1450577


P1450580


P1450576


1047


P1450581


P1450584


P1450583


1048


1049
(つづく)

P1450493次は交唱聖歌集です。


P1450495
全部手描きです。


P1450507


P1450508


P1450509
14世紀前半に制作されました。


1016
Antifonario


1015


1017


1018


1019


1020


1021


P1450500
シエナ派逸名画家作「聖母子」


P1450499


1023


P1450501
チマブーエの傑作


P1450504
これを見るためにカステルフィオレンティーノに来ると言っても過言ではありません。


P1450505


1024


1025


1026


1027


1028


1029


1030


P1450511
ヤコポ・デル・カゼンティーノの「三聖人」


P1450521


1031


P1450522
アレッサンドリアの聖カテリーナ


1032


P1450523
聖ヤコポ


1033


P1450524
聖ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ


1034


P1450525
チェンニ・ディ・フランチェスコのフレスコ画


P1450528


P1450527


1035


1036
(つづく)

P1450467次はサンタ・ヴェルディアーナ美術館です。


P1450468
ボーとして歩いていたら、美術館の方角と逆方向に進んでいました。


P1450469
ポポロ広場に出てしまいました。


P1450470
ポポロ広場の上に旧市街があります。


P1450471
先ほど歩いてきた道を逆戻りします。


P1450472
サン・フランチェスコ教会の方に進みます。


P1450473
この町の美術的な見所は、日曜日の午前中が勝負なので、道を間違えて焦りました。


P1450474
サン・フランチェスコ教会です。


P1450477
サン・フランチェスコ教会の拝観は後回しにします。


P1450475
サン・フランチェスコ教会を左に見ながら、進みます。


P1450476
秋の好天気の日曜日


P1450478
サンタ・ヴェルディアーナ教会の鐘楼が見えてます。


P1450479
サンタ・ヴェルディアーナ広場です。広場の先に建っているのはサンタ・ヴェルディアーナ教会です。


P1450480
Santuarioになってます。


P1450703
教会の拝観は後回し。


P1450697
聖域の建物の一部が美術館になってます。


P1450687
ファサード下に柱廊がありますが、柱廊の右端に美術館の入り口があります。


P1450698
1999年に開館した美術館では、カステルフィオレンティーノとその周辺の教会から集められた作品が展示されてます。その実態はMuseo Diocesanoです。
この美術館に付いては既に取り上げました。


1005
入館しました。


P1450481
タッデオ・ガッディ(フィレンツェ、1290c-1366)の「聖母子と四聖人」


P1450482


P1450484


P1450529


P1450531
聖母子


P1450532


P1450533
聖ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタと聖ジョヴァンニ・バッティスタ


P1450535
聖ザノービと聖ヤコポ


1006


1007


1008


1009


P1450485
「聖ヴェルディアーナ」


P1450487
アトリビュートは蛇です。


P1450488


1011


1012


P1450490
彩色磔刑像


P1450492


1013


1014
(つづく)

P1450418引き続きMuseo Benozzo Gozzoliです。


P1450437
次はTabernacolo della Vsitazioneです。


P1450440
タベルナコロの高さが高いことが分かります。


P1450438
聖ジョアッキーノと聖アンナの邂逅


P1450439
聖ジョアッキーノの追放


P1450419
聖ジョアッキーノの追放


P1450421
受胎告知する大天使ガブリエーレ


P1450422
父なる神


P1450424
受胎告知を受ける聖母


P1450425


P1450426


P1450429


P1450431


P1450432


P1450433


P1450434


P1450436


P1450442
聖ジョアッキーノと聖アンナの邂逅


P1450443


P1450444


P1450445


P1450446


P1450447


P1450448
シノピエ


P1450449


P1450450


P1450451


P1450452
聖母の誕生


P1450454


P1450455


P1450456


P1450457


P1450459


P1450460


1000


1001


1002


1003


1004


P1450463
外に出ました。


P1450466
(つづく)

P1450386Porta Fiorentinaを潜って城壁外に出ました。


P1450389
Porta Fiorentinaの時計が故障中でした。この時の時刻は午前10時頃でした。


P1450388
Porta Fiorentinaに描かれたカステルフィオレンティーノの紋章


P1450390
Museo BEGOに向かいます。


P1450391
左折すると教会がありますが、その後ろにMuseo BEGOがあります。


P1450465
写真左端にMuseo BEGOの建物が写ってます。
教会は、Oratorio di San Carlo Borromeoです。別の場所にありましたが、19世紀末に建物が建てられ、1885年に移転してきました。
現在は、宗教活動が停止され、Propositura di Santa Verdianaが所有する展示場になってます。美術関係の展示が良く開催されているようです。


P1450393
Museo Benozzo Gozzoli、略してMuseo BEGOです。


P1450392
この町の郊外に、2つのタベルナコロがあります。その内部の壁にベノッツォ・ゴッツォーリ、その息子などによって描かれたフレスコ画があったのですが、経時劣化を防ぎながら、それらのフレスコ画を安全に収容し保存して、一般展示するために20世紀に初頭に建設された建物です。


P1450394
Museoは、2009年1月30日に開館されました。
この美術館に付いては、既に取り上げました。そちらを併せてご参照頂けると幸いです。


1009
Tabernacolo della Vsitazioneです。
この内部の壁に「ご訪問」のフレスコ画がありました。剥離されて、現在はこの美術館に移転、展示されてます。


1010
Tabernacolo della della Tosseです。


P1450464
入館します。


P1450462
ロビーにあるベノッツォ・ゴッツォーリの彫像です。
ベノッツォ・ゴッツォーリ(スカンディッチ、1420-ピストイア、1497)は、ヴァザーリに拠ればベアート・アンジェリコの弟子とされて、弟子説が流布してますが、ベアート・アンジェリコに多くを学んだものの、ベアート・アンジェリコの協力者だったという説が有力視されているようです。


P1450409



P1450395
初めは、Tabernacolo della della Tosseのフレスコ画です。


P1450396
聖母子と四聖人


P1450397
聖母の死


P1450399


P1450400


P1450401


P1450402
聖母被昇天


P1450403


P1450404


P1450405


P1450406


P1450407


P1450410


P1450411


P1450412


P1450413


P1450414


P1450415


P1450416


P1450417
人間の人形が置かれ、タベルナコロの大体の大きさが分かるようになってます。


1011


1012


1013


1014


1015


1016
(つづく)

P1450340前泊地はチェルタルドでした。


P1450346
この日の朝のチェルタルドは濃霧でした。フニコラーレに乗り下に向かいました。


P1450347
下はそれ程の霧ではなかった。


P1450349
宿泊したホテルは霧の中でした。


P1450351
チェルタルドの鉄道駅に向かいます。


P1450354
駅舎


P1450355
チェルタルドの次の停車駅がカステルフィオレンティーノです。


P1460046
わずか数分でカステルフィオレンティーノ駅に到着しました。


P1450829
カステルフィオレンティーノの駅舎


P1460044
駅前広場です。この日のお宿に向かいます。


P1450356
この日のお宿です。
城壁外の町はずれの高い場所にあります。重い大きな荷物を引っ張って、ここまで登るのが大変で、途中の写真がありません。着いた時には汗だらけ。
このお宿は、レストランが主なので、一泊三食のフルボードにしました。この日は日曜日だったので、昼食がメインで、夕食が簡単と予め伝えられていました。


P1450357
町歩きに出発しました。
カステルフィオレンティーノは、人口17,437人(2021年7月31日現在)のトスカーナ州フィレンツェ県にあるコムーネです。
美術好きにとっては、見逃せない町です。


P1450358
写真右下に旧市街があります。


P1450359
丘下に新市街があります。


P1450360
教区教会に向かいます。


P1450361
サンティ・イッポリート・エ・ビアージョ教区教会です。


P1450363
この場所の横に、今は廃墟となった城がありました。その城を囲んで町が造成され、この町で最古の教区教会として建設されました。


P1450362
ファサードのフレスコ画


P1450366
日曜日のミサが行われていたので、拝観は午後にすることにしました。


P1450364
参事会教会の鐘楼です。


P1450367
辺りを見下ろす丘上にある教会なので、サン・ピエトロ・ア・ピサンゴリ教会が見えました。


P1450368
遠く見えるのは、Chiesa e Monastero della Marcaでしょうか?


P1450365
現在の旧市街に向かいます。


P1450369
道を下ります。


P1450370
先ほど、重い大きな荷物を引っ張りながら登った坂道です。


P1450371
この道を歩いてホテルに向かうのが大変だったので、ホテルに向かう時の写真は一枚もありません。


P1450372
道の突き当りが広場になります。


P1450373
町の中心、ポポロ広場です。


P1450374
写真左が参事会教会です。


P1450377
Palazzo Comunale、Municipioです。


P1450376
Collegiata dei Santi Lorenzo e Leonardoです。


P1450379
現在、この町で最上位の教会ですが、ドゥオーモと呼ばれていないようです。


P1450378
日曜日の午前中にも拘らず、扉が閉まっていました。


P1450375
日曜日の朝は、ミサが行われるのが普通です。


P1450380
先を急ぎます。


P1450381
道を下ります。


P1450382
Porta Fiorentina


P1450383
門のフレスコ画


P1450385
振り返ってポポロ広場方向の写真を撮りました。


P1450387
門を潜りました。
(つづく)

P1480201大体見終わりました。


P1480202
時間潰しのブラブラ歩きを続けます。


P1480203
Via Edmondo de Amicis


P1480204
Roccaに向かって歩きます。


P1480205


P1480206
Via Edmondo de Amicisは緩い上り坂になってます。


P1480207


P1480208


P1480209
ムラーレスがない方が遥かに良いですね。


P1480210


P1480211
写真右は教区教会の後陣です。


P1480212
アーチを境に通りの名称が変わります。


P1480213
アーチを潜ります。


P1480214
ロッカ広場に入りました。


P1480215
要塞の入り口が見えてます。


P1480216


P1480217


P1480218


P1480220
ロッカ広場です。


P1480221


P1480222


P1480223


P1480224


P1480225
Vicolo Lorenzo Campeggi


P1480226


P1480227
突き当りを右折します。


P1480228
この道の突き当りはVia XX Settembreです。


P1480229
道を戻り、Vicolo Lorenzo Campeggiをカステッロ方向に進みます。


P1480230


P1480231
Via XX Settembreです。


P1480232
教区教会方向に進みます。


P1480233


P1480234


P1480236
教区教会の中に入りました。


P1480244


P1480278
教区教会から外に出たら、大雨でした。


P1480279
雨を避けるためにロッジャに入りました。


P1480280
ホテルに戻って昼寝をすることにしました。


P1480281
結局、暇を持て余すことになりました。


P1480282
ドッツァ編を終わります。

P1480177城壁内のムラーレスを見て回ります。


P1480175


P1480176


P1480178
日本人によって描かれたムラーレスです。


P1480180


1000


P1480181


1001


1002


P1480182
Via Edmondo de Amicis


1003


P1480183


1004


1008


1005


P1480184


P1480186


P1480187


1006


P1480188


P1480189


P1480193


P1480195


P1480191


1007


P1480192


P1480196
これで城壁内を一周したようです。


P1480197
予想よりも早く終わってしまいました。


P1470919
ホテルに戻って寛ぐには早過ぎます。


P1470920
ブラブラ歩いて時間潰しです。


P1470921


P1470922


P1470923


P1470924


P1470925


P1470926


P1470927


P1480198


P1480199


P1480200
(つづく)

P1480146要塞博物館から外に出ました。


P1480147
休養日にしていたので、ホテルに戻っても良いのですが、城壁内を一周することにしました。


P1480148
歩き回れば、ムラーレスが目に入ることになります。


1006


P1480149


P1480150


P1480152
要塞の入り口門上の紋章


P1480151


P1480153
要塞から見て右の通りを歩きます。


P1480154
通りの名称は、ロッカ広場となってます。


1008


P1480155


1006


P1480156
アーチを潜ると通りの名称が変わります。


P1480157


1007


1009


1010


P1480158
アーチを潜ります。


P1480159
教区教会の身廊が二本の通りを結んでます。


1011


P1480160
写真左の建物は教区教会の後陣です。


P1480161
Via Edmondo de Amicis


P1480162


P1480163
振り返って撮った写真です。


P1480164


P1480165
ムラーレスが村おこしになってるの?


P1480166


P1480167


P1480168


P1480169


P1480170


P1480171


1012


P1480172


P1480173


1013


P1480174


1014


1015
(つづく)

P1480093引き続き要塞博物館です。
塔からの景色です。


P1480091


P1480094


P1480095


P1480100


P1480103


P1480107
霧が出てきました。


P1480108


P1480109


P1480112


P1480113


P1480115


P1480117


P1480118


P1480119


P1480120
塔から屋内に戻りました。


P1480122


P1480121


P1480123
竈?


P1480124
暖炉


P1480125
下に下ります。


P1480126
見落とした部屋は無さそうです。


P1480127


P1480128


P1480129
先ほどまでいた塔です。


P1480130


P1480131
地上階に下りました。


P1480132
ロッジャのフレスコ画


P1480133


P1480134
残念ながら見所が豊富とは言い難い要塞です。


P1480135


P1480136
厨房です。


P1480137
中世の頃は、火災を警戒して厨房は最上階辺りに設けられるのが普通でした。(火は上に向かって燃え広がるので)


P1480138
この要塞の厨房は半地下にあるので、昔に設けられた厨房ではないと思います。


P1480139


P1480140


P1480141


P1480142


P1480143


P1480144


P1480145
外に出ます。
(つづく)

P1480051引き続きドッツァの要塞博物館です。


P1480050
一階(日本の二階)の展示室からの景観です。


P1480052


P1480054


P1480055


P1480056


P1480057


P1480058


P1480059
この日のお宿です。


P1480061


P1480062


P1480064


P1480065


P1480066


P1480067
教区教会の鐘楼です。


P1480071


P1480068


P1480069
塔に向かいます。


P1480073
フレスコ画があった?


P1480072
牢獄の入り口


1000
牢獄


P1480075
階段を上ります。


P1480081
塔に出ました。


P1480076
塔からの景色です。


P1480077


P1480078


P1480079


P1480080


P1480082


P1480083


P1480085


P1480086


1001


1002


1003


1004


P1480087


P1480088


P1480089


P1480090


P1480092
(つづく)

P1480016引き続きドッツァの要塞博物館です。


P1480017


1013


1014


P1480018
展示室の多くは階上にあります。


1015


P1480019
一階(日本の二階)のロッジャです。


P1480020
ロッジャの壁のフレスコ装飾です。


P1480022


P1480023


P1480024


P1480025


P1480021
屋内に入ります。


P1480026
小階段を上ります。


P1480027
絵画の展示室です。


P1480028
現代画ばかりです。


P1480029


P1480030


P1480031


P1480033


P1480032


P1480034


P1480035


P1480036


P1480037


1016
次の部屋です。家族の食堂でしょうか?


1017
ルドヴィーコ・ラーナ(コディゴーロ、1597-モデナ、1646)の「女性の肖像」(1630-35)


1018
アレッサンドロ・ティアリーニ(ボローニャ、1577-1668)の「聖母子と聖ベニートと聖スコラスティカ」


1019
武具の部屋です。


P1480042
次の部屋です。


P1480041
博物館の展示室ではなく、貸出会場でしょうか?


P1480040
展示物の趣が明らかに違います。


P1480039


P1480043


P1480044
部屋の窓からの景色です。


P1480045


P1480046


P1480048


P1480049
(つづく)

P1470982ムラーレスを見ます。


1000
凧あげ


1001
人気があるムラーレス


1002
ムラーレスの人気投票が行われたそうです。


1003


P1470977
要塞に向かいます。


P1470980
今後ムラーレス大会を開催しても十分なスペースがあります。


P1470983


P1470984


P1470985


1004


P1470986
次はロッカです。


P1470987
ドッツァの要塞です。


P1470988
Rocca SforzescaまたはRocca di Malvezzi Campeggiです。


1005
現在に要塞が始めて建設されたのは13世紀と言われてます。
その後、戦争によって何度も破壊、再建を繰り返しました。


1006
15世紀初頭、ドッツァはミラノ領に組み入れられました。
1473年、ミラノ公爵ガレアッツォ・マリア・スフォルツァの娘カテリーナ・スフォルツァ(・デ・メディチ)(ミラノ、1463-フィレンツェ、1509)は、ジローラモ・リア―リオ(サヴォーナ、1443-フォルリ、1488)と結婚することになり、フォルリ、イーモラと共にドッツァはカテリーナの持参金としてジローラモ・リア―リオ伯爵の領地になりました。


P1470993
1488年、ジローラモ・リア―リオはフォルリの宮殿で暗殺されてしまいました。代わって女領主となったカテリーナは、フォルリ、イーモラと共にドッツァの各要塞の整備拡張を行いました。
現在のドッツァ要塞の外観は、カテリーナによる整備拡張後のものです。
Rocca Sforzescaの名称は、スフォルツァ家出身のカテリーナに由来します。


P1470996
ドッツァは、チェーザレ・ボルジアの教皇軍に敗れ、後に教皇領となりました。
第219代教皇クレメンテ7世デ・メディチ(フィレンツェ、1478-ローマ、1534 教皇在位:1523-1534)は、1524年、セニガッリア司教のロレンツォ・カンペッジ枢機卿(ミラノ、1474-ローマ、1539)にRocca Sforzescaを与えたのです。
ロレンツォは、堅固な要塞の一部を住居に改造しました。以後、要塞はカンペッジ家の住居になりました。


P1480001
1728年、カンペッジ家の男性相続人が途絶えてしまいましたが、カンペッジ家直系相続人の娘フランチェスカ・マリア・カンペッジはマッテオ・マルヴェッツィと結婚し、それを機にマルヴェッツィ・カンペッジ家と称することになり、引き続きドッツァ要塞に居住したのです。
それがRocca di Malvezzi Campeggiの由来です。


P1480002
1798年、Roccaはナポレオン軍に接収され、フランス兵の駐屯地になりましたが、ナポレオンの失脚後、マルヴェッツィ・カンペッジ家に返還され、1960年まで同家が居住していました。


1007
1960年、ドッツァのコムーネが要塞を買収しました。


P1470997
この日のお宿の前を通り過ぎ、Roccaの入り口に向かいます。


P1480004



P1470999
現在は、要塞博物館として一般公開されてます。また、要塞の一部はコムーネの様々な用途に使用されてます。


1008


P1480005
中に入ります。


P1480007
中に入りました。


P1480006


P1480008
要塞内から見た塔


P1480009
中庭


P1480010


P1480013
中庭の古井戸


P1480014


P1480012
ロッジャのフレスコ画を見ます。


P1480011
フレスコ画の詳細が分かりません。


1009


1010


1011


1012


P1480015
(つづく)

P1470899引き続きChiesa dell’Assunzione della Vergine Mariaです。


P1470887
マルコ・パルメッツァーノ(フォルリ、1460-1539)の「玉座の聖母子と聖ジョヴァンニ・バッティスタと聖マルゲリータ」(1492)


1000
この教会での最大の見所です。


P1470870
暗くて分かりませんが「割礼」の祭壇画があります。


1001
制作者情報不知の「割礼」(16世紀)


1002


P1470880
制作者情報等詳細不知の「聖母子と二聖人」


P1470884
16世紀のエミリアの逸名画家作「チントラの聖母」


1003


P1470890
16世紀のエミリアの逸名画家作「聖トンマーゾの不信」


1004


P1470892
制作者情報等不知の「聖母の教育」


P1470893
16世紀のエミリアの逸名画家作「聖セバスティアーノの介抱」


1005


P1470896
詳細不知の「磔刑と二天使」


1006


P1470898
詳細不知


1007


P1470901
ボローニャ派逸名画家作「聖フランチェスコと聖ドメニコと天使」(17世紀)


P1470905
ボローニャ派逸名画家作「玉座の聖母子と二聖人」(15世紀末)


P1470906
制作者情報等不知の「ピエタ」


P1470882
カウンターファサード


1008
聖水盤


1009
聖水盤


1010
洗礼盤


P1480245
初代の建物にあった浮彫です。


1011
ロマネスクの浮彫(12世紀)


1012


1013


P1480246
詳細不知


1014


1015


1016


P1470916
聖歌隊席


P1470917
外に出ました。


P1470918
教区教会の前はMunicipioです。


P1470974
Municipioの入り口


P1470975


P1470976
(つづく)

P14709529月20日通りです。


P1470954
ムラーレス


P1470955
ムラーレスの良さが全然分かりません。


1008


P1470956
Rocca Sforzesca方向に進みます。


P1470957
ムラーレスが描かれていない壁が沢山あるので、これからコンペをやっても問題ないでしょう。


P1470958


P1470959


1009


P1470960


P1470961


1010


P1470962
このレストランはお勧めです。


P1470963
城壁内の中心にやってきました。


P1470964
教区教会の鐘楼


P1470966
Piazza Zotti


1011


P1470968
Municipio


1012


P1470965
振り返って撮った写真です。


P1470969
Porta dell’Orologicoの時計が故障中でした。


P1470860
ドッツアの城壁内の教区教会 Chiesa dell'Assunzione della Vergine Mariaです。


P1470859
道幅が狭いので、ファサードの全景写真が撮れません。


P1470858
12世紀前半に建設されたロマネスク様式の教会でした。1141年の文書にこの教会の存在が初めて記載されたそうです。


P1470978
15世紀にルネサンス様式で再建され、18世紀に改造されました。現在の姿は、その二代目の建物ですが、1940年代に15世紀の再建後のオリジナルの建物になるように復元されたものだそうです。


P1470979
身廊


P1470982
鐘楼


P1470972
ファサードの「聖母被昇天」の浮彫


P1470973
ファサードの「聖カッシアーノ」


P1470861
中に入りました。


P1480238
単廊式、ルネサンス様式の内部です。


P1470862
右側壁


P1470864
天井装飾


P1470900


P1470865
後陣


P1480270
主祭壇画


P1470876
エミリアの逸名画家作「聖母被昇天」(17世紀)


P1470914
「チントラの聖母」(詳細不知)


P1480275
18世紀に制作された「磔刑像」


P1480235
洗礼盤
(つづく)

P1470853ドッツァは、人口6,629人(2019年12月31日現在)のエミリア・ロマーニャ州ボローニャ県にあるコムーネです。


P1470855
この日は、晴れたり、曇ったり、激しい雨が降ったりと、非常に変わりやすい天気でした。


P1470854
Palazzo Comunaleです。壁に描かれたムラーレスが目立ちます。


P1470856
前泊地はイーモラでした。イーモラのホテルからタクシーで到着しました。


P1470857
この日のお宿に向かいます。


P1470991
この日のお宿です。


P1470995
お宿の前にRocca Sforzescaが聳えています。


P1470992
一泊するには見所が限られているので、退屈することは予め分かっていましたが、連日の強行軍で疲れていたので、体を休めるためにドッツァ泊を選びました。


P1470933
タクシーで来てしまったので、ホテルに来る途中に撮った写真がありません。
要塞の入り口まで戻って、写真を撮ることにしました。


P1470930
Via Calancoです。この道の先に門があって、門の前でタクシーを降りました。


P1470934
旧市街の入り口です。


P1470931
公共交通機関でドッツァに来るには、イーモラの鉄道駅からバスに乗車することになりますが、直通バスがないようで、途中で乗り換える必要があります。


P1470932
Porta di Ingresso al Paese、日本語では小さな村の入り口門となります。


P1470935
ドッツァは、「最も美しい村」にリストアップされてます。


P1470936
入り口門を潜ると、小さな公園があり、その先に門があります。


P1470937
ドッツァの旧市街に住んでいる人は少なく、ドッツァの多くの住民は分離集落 FrazioneのToscanella(トスカネッラ)に住んでます。トスカネッラは、ここから東に約2キロメートル離れた場所のイーモラの隣にあります。イーモラの直通バスは、トスカネッラまで運行されてます。


P1470938
Porta del Rivellino


P1470940


P1470939
Porta del Rivellinoの聖母子


P1470941
Porta del Rivellinoを潜って城壁内に入りました。ムラーレスが目につきます。


P1470942
道路際の古井戸


1000
要塞と古い建物が特徴のドッツァですが、そのようなコムーネはイタリアでは普通に存在し、差別化できないと考えた自治体首脳が、村おこしとしてムラーレスを考えたそうです。


1001
2年ごとにコンペが行われ、その上位入賞者が壁に描くことが出来るそうです。


1002
プロ・アマを問わず、イタリアだけではなく、世界各地の画家がコンペに参加しているそうです。


P1470943
私は、ドッツァの古い家並みには現代的なムラーレスは相応しくないと思ってます。


P1470944
全てのムラーレスに、制作者名、制作者の居住地、題名が明記されてます。


P1470948


1003


P1470946
Rocca側のPorata del Rivellino


P1470947
日時計のムラーレス


1004


P1470949


P1470950
城壁内を回ってムラーレスを見ます。


1005


P1470951
時間が有り余っているので、ムラーレスを見ないでは時間がつぶれません。


1006
ムラーレスが増えているようです。二年毎にコンペがあるので、当然です。


1007
村おこしになってるの?


P1470953
(つづく)

189引き続きイエージの城壁です。


190


191


193
ドゥオーモの鐘楼が見えます。


192
次はヴァッレ門です。


194
Ports Valle


196
鉄道駅に最も近い門です。


195


197


198


1011
Ports Valle近くの城壁がかなり低いようです。


1012
稜堡


1013
1920年代に道路拡張のために城壁が取り壊された部分


1014
西側の城壁


1015


1016


1017
城壁が低い部分


1018


1019
次はガリバルディ門です。


1020


1021
ガリバルディ門です。


1022
イタリア統一以前は、サン・フロリアーノ門と呼ばれていました。


1023
城壁内から見たガリバルディ門


1024


206
ヴァッレ門から城壁内に戻りました。


207
ヴァッレ門の内側は一部破壊されてます。


208
サン・ピエトロ・アポストロ教会に向かいます。


209
夕刻を迎えて、人出が増えてきました。


210
階段を上ればサン・ピエトロ・アポストロ教会に出ます。


211
サン・ピエトロ・アポストロ教会です。


213
ロンゴバルド時代に建設された、この街で最古の教会の一つです。13世紀頃、ゴシック様式で再建されましたが、1720年に火事のため、天井が崩落してしまいました。


214
碑文
現在の後期バロック様式の建物は、1746年から1784年に建設された三代目となるものです。


212
扉が閉まっていました。


215
これで大体見終わったようです。


216
一旦ホテルに戻ります。


319
夕食を食べるために外出しました。


318
この日の公演はありません。


321


320


323


322


324


024
翌朝です。駅に向かいました。


025
列車で次の目的地に向かいました。
(イエージ編 おわり)

164
Porta Bersaglieriから城壁外に出ました。


1000
イエージの城壁は、マルケ州で最も保存状態が良いものの一つです。


1001
Porta Bersaglieri


1002
Porta Bersaglieriの碑文


1003
城壁外から見たPorta Bersaglieri


165
台形の旧市街を囲む城壁は、周囲約1.5キロメートルあります。


166
先ほど潜ってきたPorta Bersaglieriです。


167
イエージは、ローマ時代に築かれたCastrum(ローマ軍の駐屯地)が前身です。
大半のCastrumと同じように、イエージのCastrumは長方形の形をしていて、その周囲に堀が巡らされ、城壁で囲まれていました。


168
イエージの街の発展に伴い、人口が増えると共に、市域が拡大され、城壁も少しづつ広がりました。


169
13世紀から14世紀にかけて、街の防衛力向上のために、城壁内を拡大して城壁が要塞化され、整備されました。


170
15世紀になると、さらなる防衛力向上の必要性が高まり、建築家で特に軍事要塞を得意にしていたバッチョ・ポンテッリ(フィレンツェ、1450-ウルビーノ、1492)に城壁整備が委嘱されました。
バッチョは、ヴァティカンのシスティーナ礼拝堂を設計したことで有名です。


171
防衛塔と角塔が点在してます。


1004
バッチョ・ポンテッリが多忙のため、要塞整備が中々進捗しませんでした。
そのため、同時期に活躍していた建築家フランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニ(シエナ、1439-1501)にも城壁建設が委嘱されました。


1006
後にイエージは教皇領となりましたが、17世紀以降、徐々にその軍事的な重要性が薄まりました。それに従って、城壁や砦などの軍事的重要性を薄めるための改竄や、城壁を利用した高架住宅の建設が行わるようになりました。


1007
防衛上の中心だったRoccaは、1890年に取り壊されました。


172
モンティロッツォの塔です。


173
バッチョ・ポンテッリ(フィレンツェ、1450-ウルビーノ、1492)の設計と工事監督によって、1454年に建設されたモンティロッツォの塔です。


1008
街のシンボルとなっているモンティロッツォの塔です。


1009


174
道路整備のために、1920年代に城壁の一部が取り壊されました。


175
城壁内の最高点が海抜96メートル、最低部が海抜66メートルあります。


176
旧市街は、高低差が30メートルある台形なので、防衛上の理由から、城壁の形状と高さが土地の高低によって異なります。


177
防御力がありそうな高い壁


178
ロトンドの塔に向かいます。


179
城壁が保存されているので、城壁内外との行き来が制限されてしまいます。


182
この辺の壁を取り壊して出入口を造っても良さそうに思えます。


180


181


183
ロトンドの塔です。


185


184


1010


187


186


188
(つづく)

221
よく見えませんが「聖母子」の祭壇画があります。


1022
マルケの逸名画家作「聖母子」(15世紀)


222

フィリッポ・ベッリーニ(ウルビーノ、1550c-マチェラータ、1603)の「聖ジョヴァンニ・バッティスタの説教」(1590c)


1023


1024


1025


1026


224
セバスティアーノ・コンカ(ガエータ、1680-ナポリ、1764)または、コンカ周辺の画家による「聖母子と二聖人」


227
クリストフォロ・ウンターペルガー(カヴァレーゼ、1732-ローマ、1798)の「聖体拝領」(1782)


1027


228


1028


1029
次はサン・ロレンツォ礼拝堂です。


229
ガエターノ・ラピス通称イル・カッラッチェット(カーリ、1706-ローマ、1773)の「聖ロレンツォの殉教」(1745c)


232


1030


233
ジョヴァンニ・オダッツィ(ローマ、1663-1731)に帰属する「聖ビアージョ」


1031
オダッツィはエッチングが得意でした。


1032
洗礼盤


1033
アンジェロ・リパンティの墓


1034
聖書置台


230
クーポラの四隅にフレスコ画が描かれてます。


231
1750年頃にプラチド・ラッザリーニ(ペーザロ、18世紀活動)によって描かれた「四福音書記者」です。


1035
「聖ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ」


1036
「聖ルカ」


1037
聖マルコ


1038
聖マッテオ


1039
ビアージョ・ビアゲッティ(ポルト・レカナーティ、1877-マチェラータ、1948)の「聖セッティミオ」(1937)


238
外に出ました。


155
Porta Bersaglieriに向かいます。


156
城壁外に出て、城壁を見る予定です。


157


158
Palazzo Marcelliです。


160
18世紀半ばに建設されました。


159
後期バロック様式のPalazzo Marcelliです。


161
Porta Bersaglieriです。


162
15世紀に建設されました。


1040
門を潜って城壁外に出ました。


163
(つづく)

154引き続きフェデリーコ2世広場です。


135
Palazzo Ripanti Vecchioです。
フェデリーコ2世広場に面して、リパンティ家の所有する建物が2つありました。区別するために古い方のPalazzo Ripanti はPalazzo Ripanti Vecchioと呼ばれてます。Museo Diocesanoが置かれている建物がPalazzo Ripanti Nuovoです。


1001
Palazzo Ripanti Vecchioは、15世紀に建設されたサンタ・ルチア病院でした。


1002
18世紀前半、サンタ・ルチア病院は他の建物に引っ越すことになりました。1724年、エミリオ・リパンティ伯爵は空き家となった旧病院を購入し、同家の住居にしました。それ以降、建物名称が減少に改められました。


136
19世紀初めに後期バロック様式に改造され、現在の外見となりました。


1003
19世紀後半、リパンティ家の直系子孫が途絶えてしまい、同家が所有していた2つのPalazzo Ripanti が空き家となりましたが、イエージ司教によって買収されました。


1004
Palazzo Ripanti Vecchioは司教館になりました。


1005
司教館の入り口


1006
中庭があります。


1007
司教館の階段


1008


1009


134
次はイエージのドゥオーモです。


146
イエージのサン・セッティミオ司教座聖堂です。


1010
1969年にBasilica Minoreに格付けされました。ということで正式名称は、Basilica Minore e Cattedrale di San Settimioと呼ばれます。


149
現在地には、ローマ時代の異教の寺院があり、キリスト教がイエージで広まりを見せると、やがて初期キリスト教会に転用されるようになりました。
4世紀初頭、サン・セッティミオ・ディ・イエージ(ドイツ、3世紀後半-イエージ、307)が初代イエージ司教に任じられると、聖セッティミオは司教座を一時的にその初期キリスト教会に置くことにし、Cattedrale di Santissimo Salvatoreと命名しました。初期キリスト教会だった建物を取り壊し、その上に新しい建物を建設することを考えていたからです。


147
新しい建物の建設が始まりましたが、307年9月5日、サン・セッティミオ・ディ・イエージは、斬首され、殉教しました。キリスト教が禁教だった時代だったので、新しい建物の建設時期は分からないようです。
Basilica di Santtisimo Salvatoreの存在が初めて公式文書に記録されたのが1119年のことでした。
1469年、聖セッティミオの遺体が発見されました。


1011
1208年、三廊式、ロマネスク・ゴシック折衷様式の三代目の建物が建設されました。
1227年、ジョルジョ・ダ・コモ(コモ、13世紀活動)の設計によってファサードが完成しました。
1469年、大改造工事が行われ、単廊式、ルネサンス様式の建物に変わりました。


1012
現在の後期バロック様式の建物は、フィリッポ・バッリジョーニ(ローマ、1672-1753)の設計によって1732年に創建され、1741年に完成した四代目となるものです。


217
ファサードは19世紀に完成しました。


1013
ルイージ・ヴァンヴィテッリ(ナポリ、1700-カゼルタ、1773)の設計によって、1782年から1784年に建設された鐘楼です。


148
ファサードを見ます。


150
入口扉


153


151


152
拝観します。


220
聖堂内に入りました。


235
単廊式、ラテン十字形、後期バロック様式の内部です。


234
三代目の建物にあった作品が一部残されてます。


237
聖水盤が三代目の建物にありました。


1014
ヴェローナ産の赤大理石が使われてます。


1015
ジョルジョ・ダ・コモ(コモ、13世紀活動)によって制作された、向かって左側の聖水盤(1227c)


1016
ジョルジョ・ダ・コモ(コモ、13世紀活動)によって制作された、向かって右の聖水盤(1227c)


1017
派手とは言えない天井装飾


1018
祭壇画などを見て回ります。


1019
Presbiterio


223


226
ビアージョ・ビアゲッティ(ポルト・レカナーティ、1877-マチェラータ、1948)の「贖い主」(1937)


225


1020
主祭壇の浮彫は、逸名彫刻家によって17世紀に制作された「ロレートの聖母」です。


1021
後陣左右のオルガンは、17-18世紀に制作されました。
(つづく)

117Piazza Colocciに面して建っている建物です。


1001
Palazzo Bisaccioniです。


118
1992年からCassa di Risparmio di Jesiの建物となってます。


1002
同財団が所有する美術品を展示する部屋があります。


119
この日は休館でした。


1003
ヴァザーリ、グエルチーノなどの作品が展示されてます。


120
この建物右に門があります。


122
写真右が門です。


121
Palazzo Chislieri Scalamontiの門です。


124


123
Palazzo Chislieriはフェデリーコ2世広場から見た方が分かりやすいと思います。


125
Palazzo Honoratiです。


127
16世紀に建設されました。


126
フェデリーコ2世広場に入ります。


128
フェデリーコ2世広場に来ました。


132
先ほどの門を潜って中に入ると、この建物に出ます。


133
Palazzo Chislieriです。


138
フェデリーコ2世広場に面して建っているPalazzo Ripanti Nuovoです。


140
扉が閉まっていました。


141
教区美術館が置かれているPalazzo Ripanti Nuovoです。


1004
開いていればなあ。落胆しました。


1005
展示されている作品が充実しています。


1006
教区美術館は開いていたり、閉まっていたり。


1007


129
写真左の教会に向かいます。


143
サン・フロリアーノ教会です。


1008
12世紀に建設されたロマネスク様式の建物が初代です。


1009
1512年から1532年に再建されました。再建された時は、ルネサンス様式でしたが、1743年に改造され、現在のバロック様式のたてものになりました。


137
未完成のファサードです。
1860年に宗教活動が停止され、イエージ市当局の所有不動産になりました。市立図書館、市立絵画館として建物が利用されましたが、図書館と絵画館は別の建物に移り、現在は劇場になってます。


144
劇場の入り口


1010
鐘楼


1011
旧サン・フロリアーノ教会のファサード前にオベリスクがあります。


130
オベリスクの噴水です。


131
元々ここにあったものではなく、他の場所から移設されたのです。


1012
1844年に完成したオベリスクは共和国広場に設置されました。1949年に現在の場所に移設されました。


1014
旧サン・フロリアーノ教会の斜め横に立っている建物です。


142
Palazzo Balleaniです。


145
12世紀頃からイエージに定住するようになったバッレアーニ家が住居として、1720年から1722年に建設させたロココ様式のPalazzo Balleaniです。


1013
ファサードの彫刻が特徴です。


1015
(つづく)

100スポンティ―ナ広場です。


101
スポンティ―ナ広場に面して建つ古そうな建物です。賃貸物件になっているようです。


102
フェデリーコ2世広場の方向に進みます。


103
Arco della Casa dei Verroni


106


104
ジョヴァンニ・ディ・ガブリエーレ・ダ・コモによって1513年に制作されました。


1001
勿論、通ることが出来ます。


107
Arco della Casa dei Verroniの隣にある建物


108
Piazza Colocciに向かいます。


1002
Piazza Colocciです。


1003
広場に面して歴史的建造物が建ってます。


113
サンタゴスティーノ教会、その隣(写真右端)の建物がPalazzo Colocciです。


1004
先ずサンタゴスティーノ教会です。


114
サン・ルカ教会とも呼ばれてます。


115
12世紀にベネデット会によって建設されたサン・ルカ教会(修道院の教会)です。


116
1400年、アゴスティーノ会の所有になり、程なく名称が変更されました。


1005
18世紀に行われた改造の際、ファサードが煉瓦造りとなりました。
現在は活動を停止た旧教会になってます。


1006
サンタゴスティーノ修道院教会のキオストロ


1007
次はサンタゴスティーノ教会に隣接するPalazzo Colocciです。


1008
広場の名称は、Piazza Colocciを所有していたColocci家に由来します。


1009
1435年の文書に、現在地にColocci家の邸宅があったことが記されているそうです。


1010
1513年、当時のColocci家の当主で、教皇レオ10世の秘書アンジェロ・コロッチ(イエージ、1474-ローマ、1549)がイエージ当局に対して、邸宅の拡大工事申請を提出しました。直ちに申請が認められ、拡大工事が開始され、1596年に完成したルネサンス様式の建物が現在の姿の原形になってます。


1011
1735年、ローマの建築家ピエル・パオロ・アルフィエーリの設計によってバロック様式に改修されました。現在の姿はその改修後のものです。


1012
Piazza Colocciの入り口


1013
コロッチ家の紋章


1014
現在はMuseo di Palazzo Colocciとして一般公開されてます。


1015
邸宅内の階段


1016
バロック様式の装飾


1017
家族の食堂


1018
コロッチ家の収集物


109
次はPiazza Colocciに面して建っている、この建物です。


112
Palazzo della Signoriaです。


111
この場所は、ローマ時代に建てられたローマ劇場の跡地でした。


110
13世紀頃には、政庁舎のプリオーリ宮がありました。


1019
15世紀後半、当時イエージを支配下に置いていたウルビーノ公フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ(グッビオ、1422-フェッラーラ、1482)によって、プリオーリ宮を取り壊し、新しい行政庁の建物建設の指示が出され、それに基き1486年から1498年に建設されたルネサンス様式の建物が現在の姿の原形となってます。


1020
1586年にイエージは教皇領となり、教皇庁から派遣されたMagistrato Pontificioの政庁舎となり、その状態がイタリア統一まで続きました。


1021
1616年に建物の一部が改造されました。


1022
1860年、イエージはイタリア王国に併合され、それ以降、この建物は裁判所、刑務所として使用されるようになりました。
1930年から1939年に復元工事が行われました。
現在は市立図書館として使用されてます。


1023
ファサードのイエージ市の紋章


1024
鐘楼


1027
中庭から見た鐘楼


1026
中庭にある井戸


1025
(つづく)

066共和国広場近くに門があります。


067
Porta Mazziniです。


068
16世紀に造られた門です。


069
門を潜って城壁外に出ました。


070
城壁の下の景観。この先に鉄道駅があります。


071
Museo Diocesanoに向かいます。


072
昼下がりは人通りが少ない時間です。


073
Palazzo Bettiniです。


075
17世紀末から18世紀初頭にかけて建設されました。


074
Palazzo Bettiniの一部はB&Bになってます。


077
Palazzo Bettiniの中庭


076
B&Bになっている一角


078
9月15日通り
私は〇月〇日通りが苦手です。9月でも日にちが異なる通りやら広場があるので、覚えていませんから。


079
城壁の下の景観


080
城壁


081
要塞化された城の外壁になります。


083
監視塔


082
門を潜ります。


084
共和国広場に戻りました。


087
Palazzo Magagniniです。


086


085


088
Arco del Magistrato


089
アーチを潜ってPiazza Indipendenzaに出ました。


090
Palazzo Comunaleです。


098


096
Piazza Indipendenzaは、イエージの最高地に当たります。


097
ファサードにガリバルディ像があります。


1005
最高地なので、1282年に要塞が建設されましたが、防御力増強のため、1423年に破壊されて再建されることになり、新要塞が1433年に建設されました。


1007
しかし、イエージの防衛上の重要性が薄れてきたので、新要塞は1527年に解体されたのです。


1006
その解体された要塞の跡地に、16世紀終わりに建てられたのがPalazzo Comunaleです。


092
Palazzo Comunaleのアーチ


091
Palazzo Comunaleの隣に建っている建物です。


093
Palazzo Ricciです。


094
リッチ家の邸宅として、1544年から1547年に建設されました。


1002
1773年に大改修を受けましたが、現在の姿は、この大改修工事後のものです。


1003
外壁の形状からPalazzo Diamantiとも呼ばれてます。


1004


099
Piazza Indipendenzaに記念碑があります。


095
戦争犠牲者記念碑のライオン像


1000
(つづく)

045共和国広場に面して建つPalazzo Magagniniです。(写真右端の建物)


1001
建築家マッティア・カッポーニ(イエージ、1720-1803)の設計によって、1787年に建設されたPalazzo Magagniniです。


044
共和国広場の模様


061
Corso Giacomo Matteottiに戻りました。次はサン・ジョヴァンニ・バッティスタ教会です。


062
サン・ジョヴァンニ・バッティスタ教会です。サン・フィリッポ教会とも呼ばれてますが、その理由は後述します。


063
神聖ローマ帝国皇帝フェデリーコ2世(イエージ、1194-フィオレンティーナ・ディ・プーリア、1250)の命によって、現在サン・ジョヴァンニ・バッティスタ教会が建っている場所に建設されたフォンテ・アヴェッラ―ナ修道院が前身です。同修道院は、1221年の文書に、その存在が初めて記載されたそうです。


020
聖アゴスティーノ騎士団の修道士たちによって、1590年、現在地に教会の建物が再建され、サン・ジョヴァンニ・バッティスタ教会と命名されました。


021
1659年、聖アゴスティーノ騎士団は教会から去ることになり、当時のイエージ司教が聖フィリッポ・ネリ修道士会に教会の管理を委嘱しました。


064
現在のバロック様式の建物は、Frati Filippiniによって1694年に建設された三代目となるものです。


1002
そのため、サン・フィリッポ・ネリ教会とも呼ばれてます。寧ろ、サン・フィリッポ教会と呼ばれることが通常のようです。


065
ファサードの「キリストの洗礼」(16世紀)(制作者不詳)


023
「キリストの洗礼」の下に、Frati Filippiniの紋章があります。


022
扉が開いたので拝観します。


002
中に入りました。


1003
単廊式、ラテン十字形、バロック様式の内部です。


018
左側壁


019
右側壁


1004
説教壇


1005
裕福なFrati Filippiniだったので、装飾に金をかけました。


013
スタッコ彫刻とサン・フィリッポ・ネリ礼拝堂の装飾は、トンマーゾ・アマンティーニ(アルバニア、1625-ローマ、1675)の作品です。


014
フレスコ画は、アルカンジェロ・アクィリーニ(イエージ、1562-スポレート、1552)の作品です。


1006


1007


1008


1009


017
祭壇画を見て回ります。


003
逸名画家作「天上の聖母子と聖人たち」(16世紀前半)


006
ジャチント・ブランディ(ポーリ、1621-ローマ、1691)の「無原罪の御宿リ」(1679)


005
ローマの逸名画家作「グイド・レーニ作『聖フィリッポ・ネリの幻視』(1614-15)のコピー画」(1666)


1010
サン・フィリッポ・ネリ礼拝堂の彫刻は、トンマーゾ・アマンティーニ(アルバニア、1625-ローマ、1675)の作品です。


007
リミニの逸名画家作「Sange Giusto」(14世紀)


1011


008
ジャンジャコモ・ドゥーティの「我に触れるな」(1602)


009
ジャンジャコモ・ドゥーティの「キリストとサマリア女」


010
ジャンジャコモ・ドゥーティの「最後の晩餐」


1012
主祭壇画


012
ジョヴァンニ・ペルッツィーニ(アンコーナ、1629-ミラノ、1687)の「天上の聖母子と聖ジョヴァンニ・バッティスタ」(1687)


1013


015
詳細不知


1014
1887年制作のオルガン


001
外に出ました。
(つづく)

025Corso Giacomo Matteottiに面して建っている建物です。


026
病院と教会の建物です。


028
Ospedale Fatebenefratelli e Chiesa di San Giovanni di Dio


027
18世紀に建設されました。現在は市民病院となってます。


029
Arco Clementino


1019
バロック様式の凱旋門です。


030
建築家で画家でもあったドメニコ・ルイージ・ヴァレーリ(イエージ、1701-カメリーノ、1770)の設計によって1734年に建設されました。


031
Arco Clementinoの手前に歴史的建造物があります。


033
旧孤児院の建物です。


034
サン・ウバルド教会もありました。


032
この場所には古い修道院がありましたが、それを取り壊して、その上に孤児院が建設されました。


035
この近くにある門に行きます。


1020
Porta Farina


1021
市域が拡大され、1524年に建設されたPorta Farinaです。


036
Corso Giacomo Matteottiに戻りました。


037
この道を真直ぐ進めば、教区博物館に行けます。


038
教区博物館はフェデリーコ2世広場にありますが、その前に見逃せない広場があるので、その広場を経由します。


039
先ず共和国広場に向かいます。


041
共和国広場にやってきました。


042
共和国広場に面して建つペルゴレージ劇場です。


1023
1790年に建設された市立劇場です。


043
この日の公演はなし


1024
共和国広場に面して教会が建ってます。


060
Chiesa dell’Adorazione Eucaristica Perpetura(永遠の聖体崇拝教会)、略してChiesa dell’Adorazione(崇拝の教会)とも呼ばれてますが、Chiesa della Morteとも呼ばれてます。


046
初代の建物はConfraternita dei Poveriによって1585年に建設されました。


1025
1744年、Collegiata(参事会教会)に昇格したので、それを機に拡大再建されることになり、1755年に完成した後期バロック様式の二代目の建物です。


1028
鐘楼


040
拝観します。


048
中に入りました。


1026
単廊式、後期バロック様式の内部です。


057
左側壁


058
右側壁


049
祭壇画、彫刻を見ます。


1027
ドメニコ・ルイージ・ヴァレーリ(イエージ、1701-カメリーノ、1770)の「聖家族と聖アンナとパドヴァの聖アントニオ」(1742)


056
「ピエタ」(詳細不知)


052
後陣


054
主祭壇画は、ドメニコ・ルイージ・ヴァレーリ(イエージ、1701-カメリーノ、1770)の「聖母誕生」(1742)


050


055
詳細不知


051
ドメニコ・ルイージ・ヴァレーリ(イエージ、1701-カメリーノ、1770)の「羊飼いの礼拝」


059
外に出ました。
(つづく)

239
外に出ました。


240
ロレンツォ・ロットの作品4点が素晴らしかった。


024
次はマドンナ・デッレ・グラツィエ聖域です。


016
マドンナ・デッレ・グラツィエ聖域です。


015
マドンナ・デッレ・グラツィエ聖域のファサード前に広場がありますが、その広場に「ジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージ記念碑」があります。
ジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージ(イエージ、1710-ポッツォ―リ、1736)は、「奥様女中」などのオペラ作曲家です。有望なオペラ作家として将来が嘱望されていましたが、僅か26歳の若さで夭逝してしまいました。


019
ペルゴレージ生誕200年を記念して、アレッサンドロ・ラッツェリーニ(カッラーラ、1860-1942)に制作依頼された作品(1910)です。


017
この建物の直ぐ近くにサン・ニコロ教会があります。サン・ニコロ教会近くに農家がありましたが、14世紀末、その農家の壁にリッポ・ディ・ダルマシオ(ボローニャ、1360-1410)が「聖母」のフレスコ画を描きました。リッポの「聖母」は次第に近隣の人々の信仰を集めるようになりました。
1448年、「聖母」を収容するために小さな礼拝堂が建設され、Oratorio di Santa Maria Assuntaと名付けられました。


1001
オラトリオが完成した当時、ペストが流行してましたが、1456年頃に流行がようやく終息しました。


018
ペスト流行の終息を記念して、オラトリオを収容して新たに聖域を建設することになりました。そうして、1456年に創建され、1509年に完成したのがマドンナ・デッレ・グラツィエ聖域です。
1486年、Frati Carmelitaniの所有となりました。
カルメル会によって、修道院が1550年から1621年に建設されました。



014
リッポ・ディ・ダルマシオによって描かれた「聖母」は、農家の外壁にあったため、経時劣化が顕著でした。そのため、地元の画家アンドレア・ディ・バルトロによって1470年に制作された「慈悲の聖母」が「聖母」の代わりにされました。
同名のシエナ派の有名な画家がいますが、「慈悲の聖母」の制作者は全くの別人です。


302
18世紀前半、初代の建物は地震と経時劣化によって危険になったため、破壊して、その上に新しい建物の建設が決まりました。
地元の建築家Nicola Maiolatesiに設計、建築が委嘱され、1751年から1756年に再建された後期バロック様式の建物が現在の姿になってます。


304
中に入りました。


1002
単廊式、ラテン十字形、バロック様式の内部です。


308
主祭壇画を見ます。


313
主祭壇画は、二コラ・べルトゥッチ(アンコーナ、1710-1777)の「聖母子と聖人たち」(1759)です。


317
ルイージ・ランチ(ファブリアーノ、1769-イエージ、?)の「天井フレスコ画」(1795-98)


310
暗くてよく見えません。


306
マドンナ・デッレ・グラツィエ礼拝堂です。


1003
Oratorio di Santa Maria Assuntaが前身とされてます。


1004
元々は、リッポ・ディ・ダルマシオの「聖母」があったとされてます。


1005
アンドレア・ディ・バルトロ(イエージ、15世紀後半活動)の「慈悲の聖母」(1470)
リッポ・ディ・ダルマシオの「聖母」は痛みが激しかったので、1470年にこの作品に差し替えられたそうです。


1006
他の作品を見ます。


305
アンジェロ・ソーナの「磔刑像」(1843)


314
ルイージ・マンチーニ(イエージ、1819-1881)の「我に触れるな」(1850)


316
二コラ・べルトゥッチ(アンコーナ、1710-1777)の「受胎告知」(1759)


303
外に出ました。


020
次はサン・ニコロ教会です。写真左端に写っている建物がサン・ニコロ教会です。


1008
サン・ニコロ教会は、ペルゴレージの記念碑近くにあります。


021
サン・ニコロ教会のファサードです。イエージ最古の教会の一つとされてます。


022
12世紀後半に建設されたロマネスク様式のサン・ニコロ教会です。
1219年の文書に、その存在の記録が初めて記載されたそうです。14世紀に一部ゴシック様式に改造されました。


1007
テンプル騎士団の教会でしたが、後にカラメル会の教会になりました。


1009
1798年、ナポレオンの抑圧令によって閉鎖され、フランス軍の倉庫に転用されました。
ナポレオン軍の撤退後、一時期宗教活動が再開されましたが、間もなく閉鎖され、軍関係の倉庫として使用されました。


1010
第二次世界大戦後、荒廃した建物が修復され、イエージ市の所有物件になりました。現在は、展示会、会議室などに使用されてます。


023
身廊外壁


1011
後陣


1012
第二次世界大戦後に修復された後陣


1014


1013


1015
サン・二コラ教会の内部


1016
フレスコ画が僅かに残されてます。


1017


1018
(つづく)

292アレッサンドロ・ティアリーニ(ボローニャ、1577-1668)の「磔刑」(17世紀前半)


1001


294
フィリッポ・リッチ(フェルモ、1679-1764)の「天上の聖母子と聖アポロニアと聖ルイージ」


287
展示室天井の装飾


288
プラチード・ラッザリーニ(ペーザロ、1746-1820)によって1781年から1786年に制作されたフレスコ画


289
私には彫刻の制作者が分かりません。


290
ロココ様式の建物はイタリアでは少ないと思います。


1002


1003
カルロ・マラッタ(カメラーノ、1625-ローマ、1713)の「羊飼いの礼拝」


1004
ジャコモ・デル・ポー(パレルモ、1654-ナポリ、1726)の「聖母子と聖人たち」(1710)


1005
ジャコモ・デル・ポー(パレルモ、1654-ナポリ、1726)の「三位一体」(1710)


1010
ピエトロ・パオロ・アガビティ(サッソフェッラート、1470-クプラモンターナ、1540c)の「聖痕を受ける聖フランチェスコの祭壇画」(1528)
裾絵が付いてます。


1011
聖痕を受ける聖フランチェスコ


1012
裾絵の砂漠の聖ジローラモ


1007
裾絵のご誕生


1006
裾絵のマギの礼拝


1008
裾絵の聖セバスティアーノと聖ロッコ


1009
ピエトロ・パオロ・アガビティ(サッソフェッラート、1470-クプラモンターナ、1540c)の「三聖人(聖フランチェスコ、パドヴァの聖アントニオ、シエナの聖ベルナルディーノ)」


1013
17世紀前半のマルケの逸名画家作「磔刑と聖フランチェスコと聖ドメニコ」(1610c)


1014
逸名画家作「火刑される聖ルチア」(1800-10c)


1015
エミリアの逸名画家作「授乳の聖母と聖ジョヴァンニーノ」(17世紀後半)


1016
フィレンツェの逸名画家作「光悦の聖フランチェスコ」(17世紀)


1017
ドメニコ・グイディ(カッラーラ、1625-ローマ、1701)の「十字架降下」(17世紀後半)
彫刻家として名高いドメニコですが、大変珍しい絵画です。


1018
フランチェスコ・トレヴィサーニ(スロベニア、1656-ローマ、1746)の「洗礼を施す聖フィリッポと聖ピエトロ」


1019
フランチェスコ・トレヴィサーニ(スロベニア、1656-ローマ、1746)の「イリ―デとモーゼ」


1020
ジョヴァンニ・バッティスタ・ランゲッティ(ジェノヴァ、1625-ヴェネツィア、1676)の「聖アグネスの殉教」


1021
アントニオ・グアルディ(グアスタッラ、1796-1865)の「騎馬戦」(1840c)


1022
アントニオ・グアルディ(グアスタッラ、1796-1865)の「砲撃」


1023
アントニオ・ヴィヴィアーニ通称イル・ソルド・ディ・ウルビーノ(ウルビーノ、1560-1620)の「聖フランチェスコ」


1024
二コラ・ディ・マエストロ・アントニオ・ディ・アンコーナ(アンコーナ、1465-1511)の「死せるキリストを支える二天使」(1490c)


1025


1026


1027


1028
ベネデット・テーセイ(イエージ、1898-1953)の「自画像」(1935)


1029
フランチェスコ・ポデスティ(アンコーナ、1800-ローマ、1895)の「四つの肖像画」(1863)


1030
ルイージ・マンチーニ(イエージ、1819-1881)の「自画像」(1837)


1031
ジョヴァンニ・ファツィ(クプラモンターナ、1838-ローマ、1926)の「幼児の肖像」(1890c)


1032
レオポルド・バッティスティーニ(イエージ、1865-リスボン、1936)の「ファーティマ」(1888)
ファーティマはムーア人の姫です。


1033
レオポルド・バッティスティーニ(イエージ、1865-リスボン、1936)の「アラブの戦士」(1887)


1034
レオポルド・バッティスティーニ(イエージ、1865-リスボン、1936)の「静物画」
(つづく)

272ロレンツォ・ロット(ヴェネツィア、1480c-ロレート、1556/1557)の「ご訪問と受胎告知の祭壇画」(1531-32)


1001
イエージのサン・フランチェスコ・アル・モンテ教会のロッキ家礼拝堂にありました。


1002
受胎告知


1003
ご訪問


1004
聖ザッカリア


1005
聖エリザベッタ
聖ザッカリアと聖エリザべッタの子供が聖ジョヴァンニ・バッティスタ(洗礼者聖ヨハネ)です。


1006
聖母マリア


1007


1013


1008
聖母マリアの姉妹


1010


1011


1009


1012


274
ロット作品がある展示室の天井装飾を見ます。


265
フレスコ画が描かれてます。


266
カルロ・パオルッチ(ウルビーノ、1738-ペーザロ、1803)によって1781年から1786年に制作されたフレスコ画です。


267


276
ジョヴァンニ・フランチェスコ・バルビエーリ通称グエルチーノ(チェント、1591-ボローニャ、1666)またはグエルチーノ工房による「聖マリア・マッダレーナと二天使」(17世紀)


1014
グエルチーノ工房作が定説となってます。


278
ジョヴァンニ・バッティスタ・サルヴィ通称イル・サッソフェッラート(サッソフェッラート、1609-ローマ、1685)の「祈る聖母」


1015


283
フランチェスコ・アルバーニ(ボローニャ、1578-1660)の「Teodora Passeri Griziに顕現するパドヴァの聖アントニオ」(1611)


1016
イエージのサン・フロリアーノ教会のグリツィ家礼拝堂にありました。
テオドーラ・パッセリは、詩人アンニーバレ・グリツィ(イエージ、1550-1612)の妻です。


284
ピエル・シモーネ・ファネッリ(アンコーナ、1641-チンゴリ、1708)の「天上の聖母子とアンティオキアの聖マルゲリータ」


286
ミケーレ・ロッカ通称イル・パルミジャニーノ・イル・ジョーヴァネ(パルマ、1670c-ヴェネツィア、1751)の「アレッサンドリアの聖カテリーナ」(18世紀後半)


1017


279
展示室天井の装飾


280
フレスコ画は、プラチード・ラッザリーニ(ペーザロ、1746-1820)によって1781年から1786年に制作されました。


281
私には彫刻の制作者が分かりません。


282


1018
ピーテル・パウル・ルーベンス(ジーゲン、1577-アントウェルペン、1640)の「ヘラクレスとネッサス」(1636c)


1019
カルロ・チニャ―リ(ボローニャ、1628-フォルリ、1719)の「慈愛」


1020


1021


1022


1023
クリストフォロ・ロンカッリ通称イル・ポマランチョ(ポマランチェ、1552-ローマ、1626)の「聖家族と聖ジョヴァンニーノ」(1609)


1024
アントニーノ・サルティ(イエージ、1580-1647)の「聖母子と三聖人(聖アンナ、アレッサンドリアの聖カテリーナ、司教聖人)」


1025
アントニーノ・サルティ(イエージ、1580-1647)の「天上の聖母子と三聖人(聖セバスティアーノ、トレンティーノの聖二コラ、聖ロッコ)」(1628)


1026
(つづく)

260ロレンツォ・ロット(ヴェネツィア、1480c-ロレート、1556/1557)の「聖ルチアの祭壇画」(1523-32)


262
プレデッラ


263
異時同図法によって描かれている珍しいプレデッラです。


264


1001
イエージのサンタ・ルチア同信会がロレンツォ・ロットに注文した作品です。同信会とロットの間で、1523年12月11日に制作契約が結ばれたそうです。契約書が残っているようです。
サン・フロリアーノ教会のサンタ・ルチア礼拝堂に置かれていました。サン・フロリアーノ教会は、1870年に閉鎖され、この作品はマルケ州の所有となりました。1981年のイエージ市立博物館のオープンに合わせて、現在の場所で展示されるようになりました。


1002
執政官(裁判官)の前の聖ルチア


1003
執政官(裁判官)


1004
反駁する聖ルチア


1005
聖ルチア


1006
子供を抑えようとするメイド


1007
聖ルチアを引き留める男たち


1008
聖ルチアを引き留める男たち


1010



1009
主画面とプレデッラがほぼ同じ主題となってます。


1013
向かって左のプレデッラ


1011
母の平癒を祈る聖ルチア


1012
聖アガタの墓に祈る聖ルチア


1014



1015


1016


1018
執政官の前の聖ルチア


1017
刑(売春宿に連行)の宣告をする執政官


1019
売春宿に連行される聖ルチア


1020
牛の力による聖ルチアの連行


1021


1022


1023


1024
ロレンツォ・ロット(ヴェネツィア、1480c-ロレート、1556/1557)の「イエージの受胎告知」(1525)


1025
受胎告知する大天使ガブリエーレ


1026


1027


1028
受胎告知される聖母


1029


270
ロレンツォ・ロット(ヴェネツィア、1480c-ロレート、1556/1557)の「サン・フランチェスコ・アル・モンテの祭壇画」(1525-27)


1030
イエージのミノリ・リフォルマーティ教会(Chiesa di Minori Riformati)にありました。同教会は、1866年に閉鎖され、この作品はマルケ州の財産となりました。
本市立博物館のオープンに伴い、1981年から展示されてます。


1031
聖フランチェスコと聖キアラ


1032
聖ジュゼッペ


1033
聖母


1034
聖ジローラモ


1035
制作年の1526年と記されてます。


269
(つづく)

↑このページのトップヘ