2022年05月
カステルフィオレンティーノ再び (その7 サンタ・ヴェルディアーナ美術館Ⅳ)
この作品は、メインパネルと裾絵の制作者が異なります。制作された時代も大きく異なります。
メインパネルは、フランチェスコ・グラナッチの作品です。
裾絵は、アンニーバレ・ガッティによって描かれました。
「玉座の聖母子と聖セバスティアーノとアッシジの聖フランチェスコ」
聖セバスティアーノ
受胎告知
聖フランチェスコ
ご訪問と二聖人
アレッソ・ディ・ベノッツォ別称アレッソ・ゴッツォーリは、ベノッツォ・ゴッツォーリの息子です。
聖ヤコポ(左)と聖ステファノ(右)
「受胎告知」です。
詳細不明(作品説明板がありません)
鐘
祭服の展示です。
この種の展示は、Museo Diocesanoの定番です。
ピアネータ(祭服)(1730-50c)
ピアネータ(祭服)(1750-60c)
(つづく)
カステルフィオレンティーノ再び (その6 サンタ・ヴェルディアーナ美術館Ⅲ)
聖母子の彫刻
ベネデット・ダ・マイアーノ作品のコピー彫刻です。
ビッチ・ディ・ロレンツォの領域の逸名画家による作品です。
作品の説明表示板の写真を掲載するのは、私が主観的に作品帰属を言っていないという証拠を示すためです。
また、説明表示板の写真は、私が現地に行っていることの証明になります。何故なら、美術館のこのような説明板を掲載しているサイトを見たことがないので。
実際に作品の前に立って、作品を見ていないにも拘らず、あれこれ美術論を言っている人がいるように思います。
ロッゼッロ・ディ・ヤコポ・フランキの作品
画面が光るので、別角度から撮ってみました。
余り変わりません。
(つづく)
カステルフィオレンティーノ再び (その5 サンタ・ヴェルディアーナ美術館Ⅱ)
カステルフィオレンティーノ再び (その4 サンタ・ヴェルディアーナ美術館Ⅰ)
次はサンタ・ヴェルディアーナ美術館です。
ボーとして歩いていたら、美術館の方角と逆方向に進んでいました。
ポポロ広場に出てしまいました。
ポポロ広場の上に旧市街があります。
先ほど歩いてきた道を逆戻りします。
サン・フランチェスコ教会の方に進みます。
この町の美術的な見所は、日曜日の午前中が勝負なので、道を間違えて焦りました。
サン・フランチェスコ教会です。
サン・フランチェスコ教会の拝観は後回しにします。
サン・フランチェスコ教会を左に見ながら、進みます。
秋の好天気の日曜日
サンタ・ヴェルディアーナ教会の鐘楼が見えてます。
サンタ・ヴェルディアーナ広場です。広場の先に建っているのはサンタ・ヴェルディアーナ教会です。
Santuarioになってます。
教会の拝観は後回し。
聖域の建物の一部が美術館になってます。
ファサード下に柱廊がありますが、柱廊の右端に美術館の入り口があります。
1999年に開館した美術館では、カステルフィオレンティーノとその周辺の教会から集められた作品が展示されてます。その実態はMuseo Diocesanoです。
この美術館に付いては既に取り上げました。
入館しました。
タッデオ・ガッディ(フィレンツェ、1290c-1366)の「聖母子と四聖人」
聖母子
聖ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタと聖ジョヴァンニ・バッティスタ
聖ザノービと聖ヤコポ
「聖ヴェルディアーナ」
アトリビュートは蛇です。
彩色磔刑像
(つづく)
カステルフィオレンティーノ再び (その3 Museo BEGOⅡ)
引き続きMuseo Benozzo Gozzoliです。
次はTabernacolo della Vsitazioneです。
タベルナコロの高さが高いことが分かります。
聖ジョアッキーノと聖アンナの邂逅
聖ジョアッキーノの追放
聖ジョアッキーノの追放
受胎告知する大天使ガブリエーレ
父なる神
受胎告知を受ける聖母
聖ジョアッキーノと聖アンナの邂逅
シノピエ
聖母の誕生
外に出ました。
(つづく)
カステルフィオレンティーノ再び (その2 Museo BEGOⅠ)
Porta Fiorentinaを潜って城壁外に出ました。
Porta Fiorentinaの時計が故障中でした。この時の時刻は午前10時頃でした。
Porta Fiorentinaに描かれたカステルフィオレンティーノの紋章
Museo BEGOに向かいます。
左折すると教会がありますが、その後ろにMuseo BEGOがあります。
写真左端にMuseo BEGOの建物が写ってます。
教会は、Oratorio di San Carlo Borromeoです。別の場所にありましたが、19世紀末に建物が建てられ、1885年に移転してきました。
現在は、宗教活動が停止され、Propositura di Santa Verdianaが所有する展示場になってます。美術関係の展示が良く開催されているようです。
Museo Benozzo Gozzoli、略してMuseo BEGOです。
この町の郊外に、2つのタベルナコロがあります。その内部の壁にベノッツォ・ゴッツォーリ、その息子などによって描かれたフレスコ画があったのですが、経時劣化を防ぎながら、それらのフレスコ画を安全に収容し保存して、一般展示するために20世紀に初頭に建設された建物です。
Museoは、2009年1月30日に開館されました。
この美術館に付いては、既に取り上げました。そちらを併せてご参照頂けると幸いです。
Tabernacolo della Vsitazioneです。
この内部の壁に「ご訪問」のフレスコ画がありました。剥離されて、現在はこの美術館に移転、展示されてます。
Tabernacolo della della Tosseです。
入館します。
ロビーにあるベノッツォ・ゴッツォーリの彫像です。
ベノッツォ・ゴッツォーリ(スカンディッチ、1420-ピストイア、1497)は、ヴァザーリに拠ればベアート・アンジェリコの弟子とされて、弟子説が流布してますが、ベアート・アンジェリコに多くを学んだものの、ベアート・アンジェリコの協力者だったという説が有力視されているようです。
初めは、Tabernacolo della della Tosseのフレスコ画です。
聖母子と四聖人
聖母の死
聖母被昇天
人間の人形が置かれ、タベルナコロの大体の大きさが分かるようになってます。
(つづく)
カステルフィオレンティーノ再び (その1)
前泊地はチェルタルドでした。
この日の朝のチェルタルドは濃霧でした。フニコラーレに乗り下に向かいました。
下はそれ程の霧ではなかった。
宿泊したホテルは霧の中でした。
チェルタルドの鉄道駅に向かいます。
駅舎
チェルタルドの次の停車駅がカステルフィオレンティーノです。
わずか数分でカステルフィオレンティーノ駅に到着しました。
カステルフィオレンティーノの駅舎
駅前広場です。この日のお宿に向かいます。
この日のお宿です。
城壁外の町はずれの高い場所にあります。重い大きな荷物を引っ張って、ここまで登るのが大変で、途中の写真がありません。着いた時には汗だらけ。
このお宿は、レストランが主なので、一泊三食のフルボードにしました。この日は日曜日だったので、昼食がメインで、夕食が簡単と予め伝えられていました。
町歩きに出発しました。
カステルフィオレンティーノは、人口17,437人(2021年7月31日現在)のトスカーナ州フィレンツェ県にあるコムーネです。
美術好きにとっては、見逃せない町です。
写真右下に旧市街があります。
丘下に新市街があります。
教区教会に向かいます。
サンティ・イッポリート・エ・ビアージョ教区教会です。
この場所の横に、今は廃墟となった城がありました。その城を囲んで町が造成され、この町で最古の教区教会として建設されました。
ファサードのフレスコ画
日曜日のミサが行われていたので、拝観は午後にすることにしました。
参事会教会の鐘楼です。
辺りを見下ろす丘上にある教会なので、サン・ピエトロ・ア・ピサンゴリ教会が見えました。
遠く見えるのは、Chiesa e Monastero della Marcaでしょうか?
現在の旧市街に向かいます。
道を下ります。
先ほど、重い大きな荷物を引っ張りながら登った坂道です。
この道を歩いてホテルに向かうのが大変だったので、ホテルに向かう時の写真は一枚もありません。
道の突き当りが広場になります。
町の中心、ポポロ広場です。
写真左が参事会教会です。
Palazzo Comunale、Municipioです。
Collegiata dei Santi Lorenzo e Leonardoです。
現在、この町で最上位の教会ですが、ドゥオーモと呼ばれていないようです。
日曜日の午前中にも拘らず、扉が閉まっていました。
日曜日の朝は、ミサが行われるのが普通です。
先を急ぎます。
道を下ります。
Porta Fiorentina
門のフレスコ画
振り返ってポポロ広場方向の写真を撮りました。
門を潜りました。
(つづく)
ドッツァ (その10 最終回)
大体見終わりました。
時間潰しのブラブラ歩きを続けます。
Via Edmondo de Amicis
Roccaに向かって歩きます。
Via Edmondo de Amicisは緩い上り坂になってます。
ムラーレスがない方が遥かに良いですね。
写真右は教区教会の後陣です。
アーチを境に通りの名称が変わります。
アーチを潜ります。
ロッカ広場に入りました。
要塞の入り口が見えてます。
ロッカ広場です。
Vicolo Lorenzo Campeggi
突き当りを右折します。
この道の突き当りはVia XX Settembreです。
道を戻り、Vicolo Lorenzo Campeggiをカステッロ方向に進みます。
Via XX Settembreです。
教区教会方向に進みます。
教区教会の中に入りました。
教区教会から外に出たら、大雨でした。
雨を避けるためにロッジャに入りました。
ホテルに戻って昼寝をすることにしました。
結局、暇を持て余すことになりました。
ドッツァ編を終わります。
ドッツァ (その9)
城壁内のムラーレスを見て回ります。
日本人によって描かれたムラーレスです。
Via Edmondo de Amicis
これで城壁内を一周したようです。
予想よりも早く終わってしまいました。
ホテルに戻って寛ぐには早過ぎます。
ブラブラ歩いて時間潰しです。
(つづく)
ドッツァ (その8)
要塞博物館から外に出ました。
休養日にしていたので、ホテルに戻っても良いのですが、城壁内を一周することにしました。
歩き回れば、ムラーレスが目に入ることになります。
要塞の入り口門上の紋章
要塞から見て右の通りを歩きます。
通りの名称は、ロッカ広場となってます。
アーチを潜ると通りの名称が変わります。
アーチを潜ります。
教区教会の身廊が二本の通りを結んでます。
写真左の建物は教区教会の後陣です。
Via Edmondo de Amicis
振り返って撮った写真です。
ムラーレスが村おこしになってるの?
(つづく)
ドッツァ (その7 要塞博物館Ⅳ)
引き続き要塞博物館です。
塔からの景色です。
霧が出てきました。
塔から屋内に戻りました。
竈?
暖炉
下に下ります。
見落とした部屋は無さそうです。
先ほどまでいた塔です。
地上階に下りました。
ロッジャのフレスコ画
残念ながら見所が豊富とは言い難い要塞です。
厨房です。
中世の頃は、火災を警戒して厨房は最上階辺りに設けられるのが普通でした。(火は上に向かって燃え広がるので)
この要塞の厨房は半地下にあるので、昔に設けられた厨房ではないと思います。
外に出ます。
(つづく)
ドッツァ (その6 要塞博物館Ⅲ)
引き続きドッツァの要塞博物館です。
一階(日本の二階)の展示室からの景観です。
この日のお宿です。
教区教会の鐘楼です。
塔に向かいます。
フレスコ画があった?
牢獄の入り口
牢獄
階段を上ります。
塔に出ました。
塔からの景色です。
(つづく)
ドッツァ (その5 要塞博物館Ⅱ)
引き続きドッツァの要塞博物館です。
展示室の多くは階上にあります。
一階(日本の二階)のロッジャです。
ロッジャの壁のフレスコ装飾です。
屋内に入ります。
小階段を上ります。
絵画の展示室です。
現代画ばかりです。
次の部屋です。家族の食堂でしょうか?
ルドヴィーコ・ラーナ(コディゴーロ、1597-モデナ、1646)の「女性の肖像」(1630-35)
アレッサンドロ・ティアリーニ(ボローニャ、1577-1668)の「聖母子と聖ベニートと聖スコラスティカ」
武具の部屋です。
次の部屋です。
博物館の展示室ではなく、貸出会場でしょうか?
展示物の趣が明らかに違います。
部屋の窓からの景色です。
塔
(つづく)
ドッツァ (その4 要塞博物館Ⅰ)
ムラーレスを見ます。
凧あげ
人気があるムラーレス
ムラーレスの人気投票が行われたそうです。
要塞に向かいます。
今後ムラーレス大会を開催しても十分なスペースがあります。
次はロッカです。
ドッツァの要塞です。
Rocca SforzescaまたはRocca di Malvezzi Campeggiです。
現在に要塞が始めて建設されたのは13世紀と言われてます。
その後、戦争によって何度も破壊、再建を繰り返しました。
15世紀初頭、ドッツァはミラノ領に組み入れられました。
1473年、ミラノ公爵ガレアッツォ・マリア・スフォルツァの娘カテリーナ・スフォルツァ(・デ・メディチ)(ミラノ、1463-フィレンツェ、1509)は、ジローラモ・リア―リオ(サヴォーナ、1443-フォルリ、1488)と結婚することになり、フォルリ、イーモラと共にドッツァはカテリーナの持参金としてジローラモ・リア―リオ伯爵の領地になりました。
1488年、ジローラモ・リア―リオはフォルリの宮殿で暗殺されてしまいました。代わって女領主となったカテリーナは、フォルリ、イーモラと共にドッツァの各要塞の整備拡張を行いました。
現在のドッツァ要塞の外観は、カテリーナによる整備拡張後のものです。
Rocca Sforzescaの名称は、スフォルツァ家出身のカテリーナに由来します。
ドッツァは、チェーザレ・ボルジアの教皇軍に敗れ、後に教皇領となりました。
第219代教皇クレメンテ7世デ・メディチ(フィレンツェ、1478-ローマ、1534 教皇在位:1523-1534)は、1524年、セニガッリア司教のロレンツォ・カンペッジ枢機卿(ミラノ、1474-ローマ、1539)にRocca Sforzescaを与えたのです。
ロレンツォは、堅固な要塞の一部を住居に改造しました。以後、要塞はカンペッジ家の住居になりました。
1728年、カンペッジ家の男性相続人が途絶えてしまいましたが、カンペッジ家直系相続人の娘フランチェスカ・マリア・カンペッジはマッテオ・マルヴェッツィと結婚し、それを機にマルヴェッツィ・カンペッジ家と称することになり、引き続きドッツァ要塞に居住したのです。
それがRocca di Malvezzi Campeggiの由来です。
1798年、Roccaはナポレオン軍に接収され、フランス兵の駐屯地になりましたが、ナポレオンの失脚後、マルヴェッツィ・カンペッジ家に返還され、1960年まで同家が居住していました。
1960年、ドッツァのコムーネが要塞を買収しました。
この日のお宿の前を通り過ぎ、Roccaの入り口に向かいます。
現在は、要塞博物館として一般公開されてます。また、要塞の一部はコムーネの様々な用途に使用されてます。
中に入ります。
中に入りました。
要塞内から見た塔
中庭
中庭の古井戸
ロッジャのフレスコ画を見ます。
フレスコ画の詳細が分かりません。
(つづく)
ドッツァ (その3 教区教会Ⅱ)
引き続きChiesa dell’Assunzione della Vergine Mariaです。
マルコ・パルメッツァーノ(フォルリ、1460-1539)の「玉座の聖母子と聖ジョヴァンニ・バッティスタと聖マルゲリータ」(1492)
この教会での最大の見所です。
暗くて分かりませんが「割礼」の祭壇画があります。
制作者情報不知の「割礼」(16世紀)
制作者情報等詳細不知の「聖母子と二聖人」
16世紀のエミリアの逸名画家作「チントラの聖母」
16世紀のエミリアの逸名画家作「聖トンマーゾの不信」
制作者情報等不知の「聖母の教育」
16世紀のエミリアの逸名画家作「聖セバスティアーノの介抱」
詳細不知の「磔刑と二天使」
詳細不知
ボローニャ派逸名画家作「聖フランチェスコと聖ドメニコと天使」(17世紀)
ボローニャ派逸名画家作「玉座の聖母子と二聖人」(15世紀末)
制作者情報等不知の「ピエタ」
カウンターファサード
聖水盤
聖水盤
洗礼盤
初代の建物にあった浮彫です。
ロマネスクの浮彫(12世紀)
詳細不知
墓
聖歌隊席
外に出ました。
教区教会の前はMunicipioです。
Municipioの入り口
(つづく)
ドッツァ (その2 教区教会Ⅰ)
9月20日通りです。
ムラーレス
ムラーレスの良さが全然分かりません。
Rocca Sforzesca方向に進みます。
ムラーレスが描かれていない壁が沢山あるので、これからコンペをやっても問題ないでしょう。
このレストランはお勧めです。
城壁内の中心にやってきました。
教区教会の鐘楼
Piazza Zotti
Municipio
振り返って撮った写真です。
Porta dell’Orologicoの時計が故障中でした。
ドッツアの城壁内の教区教会 Chiesa dell'Assunzione della Vergine Mariaです。
道幅が狭いので、ファサードの全景写真が撮れません。
12世紀前半に建設されたロマネスク様式の教会でした。1141年の文書にこの教会の存在が初めて記載されたそうです。
15世紀にルネサンス様式で再建され、18世紀に改造されました。現在の姿は、その二代目の建物ですが、1940年代に15世紀の再建後のオリジナルの建物になるように復元されたものだそうです。
身廊
鐘楼
ファサードの「聖母被昇天」の浮彫
ファサードの「聖カッシアーノ」
中に入りました。
単廊式、ルネサンス様式の内部です。
右側壁
天井装飾
後陣
主祭壇画
エミリアの逸名画家作「聖母被昇天」(17世紀)
「チントラの聖母」(詳細不知)
18世紀に制作された「磔刑像」
洗礼盤
(つづく)
ドッツァ (その1)
ドッツァは、人口6,629人(2019年12月31日現在)のエミリア・ロマーニャ州ボローニャ県にあるコムーネです。
この日は、晴れたり、曇ったり、激しい雨が降ったりと、非常に変わりやすい天気でした。
Palazzo Comunaleです。壁に描かれたムラーレスが目立ちます。
前泊地はイーモラでした。イーモラのホテルからタクシーで到着しました。
この日のお宿に向かいます。
この日のお宿です。
お宿の前にRocca Sforzescaが聳えています。
一泊するには見所が限られているので、退屈することは予め分かっていましたが、連日の強行軍で疲れていたので、体を休めるためにドッツァ泊を選びました。
タクシーで来てしまったので、ホテルに来る途中に撮った写真がありません。
要塞の入り口まで戻って、写真を撮ることにしました。
Via Calancoです。この道の先に門があって、門の前でタクシーを降りました。
旧市街の入り口です。
公共交通機関でドッツァに来るには、イーモラの鉄道駅からバスに乗車することになりますが、直通バスがないようで、途中で乗り換える必要があります。
Porta di Ingresso al Paese、日本語では小さな村の入り口門となります。
ドッツァは、「最も美しい村」にリストアップされてます。
入り口門を潜ると、小さな公園があり、その先に門があります。
ドッツァの旧市街に住んでいる人は少なく、ドッツァの多くの住民は分離集落 FrazioneのToscanella(トスカネッラ)に住んでます。トスカネッラは、ここから東に約2キロメートル離れた場所のイーモラの隣にあります。イーモラの直通バスは、トスカネッラまで運行されてます。
Porta del Rivellino
Porta del Rivellinoの聖母子
Porta del Rivellinoを潜って城壁内に入りました。ムラーレスが目につきます。
道路際の古井戸
要塞と古い建物が特徴のドッツァですが、そのようなコムーネはイタリアでは普通に存在し、差別化できないと考えた自治体首脳が、村おこしとしてムラーレスを考えたそうです。
2年ごとにコンペが行われ、その上位入賞者が壁に描くことが出来るそうです。
プロ・アマを問わず、イタリアだけではなく、世界各地の画家がコンペに参加しているそうです。
私は、ドッツァの古い家並みには現代的なムラーレスは相応しくないと思ってます。
全てのムラーレスに、制作者名、制作者の居住地、題名が明記されてます。
Rocca側のPorata del Rivellino
日時計のムラーレス
城壁内を回ってムラーレスを見ます。
時間が有り余っているので、ムラーレスを見ないでは時間がつぶれません。
ムラーレスが増えているようです。二年毎にコンペがあるので、当然です。
村おこしになってるの?
(つづく)
イエージの街歩き (その15 城壁Ⅱ)
引き続きイエージの城壁です。
ドゥオーモの鐘楼が見えます。
次はヴァッレ門です。
Ports Valle
鉄道駅に最も近い門です。
Ports Valle近くの城壁がかなり低いようです。
稜堡
1920年代に道路拡張のために城壁が取り壊された部分
西側の城壁
城壁が低い部分
次はガリバルディ門です。
ガリバルディ門です。
イタリア統一以前は、サン・フロリアーノ門と呼ばれていました。
城壁内から見たガリバルディ門
ヴァッレ門から城壁内に戻りました。
ヴァッレ門の内側は一部破壊されてます。
サン・ピエトロ・アポストロ教会に向かいます。
夕刻を迎えて、人出が増えてきました。
階段を上ればサン・ピエトロ・アポストロ教会に出ます。
サン・ピエトロ・アポストロ教会です。
ロンゴバルド時代に建設された、この街で最古の教会の一つです。13世紀頃、ゴシック様式で再建されましたが、1720年に火事のため、天井が崩落してしまいました。
碑文
現在の後期バロック様式の建物は、1746年から1784年に建設された三代目となるものです。
扉が閉まっていました。
これで大体見終わったようです。
一旦ホテルに戻ります。
夕食を食べるために外出しました。
この日の公演はありません。
翌朝です。駅に向かいました。
列車で次の目的地に向かいました。
(イエージ編 おわり)
イエージの街歩き (その14 城壁Ⅰ)
Porta Bersaglieriから城壁外に出ました。
イエージの城壁は、マルケ州で最も保存状態が良いものの一つです。
Porta Bersaglieri
Porta Bersaglieriの碑文
城壁外から見たPorta Bersaglieri
台形の旧市街を囲む城壁は、周囲約1.5キロメートルあります。
先ほど潜ってきたPorta Bersaglieriです。
イエージは、ローマ時代に築かれたCastrum(ローマ軍の駐屯地)が前身です。
大半のCastrumと同じように、イエージのCastrumは長方形の形をしていて、その周囲に堀が巡らされ、城壁で囲まれていました。
イエージの街の発展に伴い、人口が増えると共に、市域が拡大され、城壁も少しづつ広がりました。
13世紀から14世紀にかけて、街の防衛力向上のために、城壁内を拡大して城壁が要塞化され、整備されました。
15世紀になると、さらなる防衛力向上の必要性が高まり、建築家で特に軍事要塞を得意にしていたバッチョ・ポンテッリ(フィレンツェ、1450-ウルビーノ、1492)に城壁整備が委嘱されました。
バッチョは、ヴァティカンのシスティーナ礼拝堂を設計したことで有名です。
防衛塔と角塔が点在してます。
バッチョ・ポンテッリが多忙のため、要塞整備が中々進捗しませんでした。
そのため、同時期に活躍していた建築家フランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニ(シエナ、1439-1501)にも城壁建設が委嘱されました。
後にイエージは教皇領となりましたが、17世紀以降、徐々にその軍事的な重要性が薄まりました。それに従って、城壁や砦などの軍事的重要性を薄めるための改竄や、城壁を利用した高架住宅の建設が行わるようになりました。
防衛上の中心だったRoccaは、1890年に取り壊されました。
モンティロッツォの塔です。
バッチョ・ポンテッリ(フィレンツェ、1450-ウルビーノ、1492)の設計と工事監督によって、1454年に建設されたモンティロッツォの塔です。
街のシンボルとなっているモンティロッツォの塔です。
道路整備のために、1920年代に城壁の一部が取り壊されました。
城壁内の最高点が海抜96メートル、最低部が海抜66メートルあります。
旧市街は、高低差が30メートルある台形なので、防衛上の理由から、城壁の形状と高さが土地の高低によって異なります。
防御力がありそうな高い壁
ロトンドの塔に向かいます。
城壁が保存されているので、城壁内外との行き来が制限されてしまいます。
この辺の壁を取り壊して出入口を造っても良さそうに思えます。
ロトンドの塔です。
(つづく)
イエージの街歩き (その13 ドゥオーモⅡ)
よく見えませんが「聖母子」の祭壇画があります。
マルケの逸名画家作「聖母子」(15世紀)
フィリッポ・ベッリーニ(ウルビーノ、1550c-マチェラータ、1603)の「聖ジョヴァンニ・バッティスタの説教」(1590c)
セバスティアーノ・コンカ(ガエータ、1680-ナポリ、1764)または、コンカ周辺の画家による「聖母子と二聖人」
クリストフォロ・ウンターペルガー(カヴァレーゼ、1732-ローマ、1798)の「聖体拝領」(1782)
次はサン・ロレンツォ礼拝堂です。
ガエターノ・ラピス通称イル・カッラッチェット(カーリ、1706-ローマ、1773)の「聖ロレンツォの殉教」(1745c)
ジョヴァンニ・オダッツィ(ローマ、1663-1731)に帰属する「聖ビアージョ」
オダッツィはエッチングが得意でした。
洗礼盤
アンジェロ・リパンティの墓
聖書置台
クーポラの四隅にフレスコ画が描かれてます。
1750年頃にプラチド・ラッザリーニ(ペーザロ、18世紀活動)によって描かれた「四福音書記者」です。
「聖ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ」
「聖ルカ」
聖マルコ
聖マッテオ
ビアージョ・ビアゲッティ(ポルト・レカナーティ、1877-マチェラータ、1948)の「聖セッティミオ」(1937)
外に出ました。
Porta Bersaglieriに向かいます。
城壁外に出て、城壁を見る予定です。
Palazzo Marcelliです。
18世紀半ばに建設されました。
後期バロック様式のPalazzo Marcelliです。
Porta Bersaglieriです。
15世紀に建設されました。
門を潜って城壁外に出ました。
(つづく)
イエージの街歩き (その12 ドゥオーモⅠ)
引き続きフェデリーコ2世広場です。
Palazzo Ripanti Vecchioです。
フェデリーコ2世広場に面して、リパンティ家の所有する建物が2つありました。区別するために古い方のPalazzo Ripanti はPalazzo Ripanti Vecchioと呼ばれてます。Museo Diocesanoが置かれている建物がPalazzo Ripanti Nuovoです。
Palazzo Ripanti Vecchioは、15世紀に建設されたサンタ・ルチア病院でした。
18世紀前半、サンタ・ルチア病院は他の建物に引っ越すことになりました。1724年、エミリオ・リパンティ伯爵は空き家となった旧病院を購入し、同家の住居にしました。それ以降、建物名称が減少に改められました。
19世紀初めに後期バロック様式に改造され、現在の外見となりました。
19世紀後半、リパンティ家の直系子孫が途絶えてしまい、同家が所有していた2つのPalazzo Ripanti が空き家となりましたが、イエージ司教によって買収されました。
Palazzo Ripanti Vecchioは司教館になりました。
司教館の入り口
中庭があります。
司教館の階段
次はイエージのドゥオーモです。
イエージのサン・セッティミオ司教座聖堂です。
1969年にBasilica Minoreに格付けされました。ということで正式名称は、Basilica Minore e Cattedrale di San Settimioと呼ばれます。
現在地には、ローマ時代の異教の寺院があり、キリスト教がイエージで広まりを見せると、やがて初期キリスト教会に転用されるようになりました。
4世紀初頭、サン・セッティミオ・ディ・イエージ(ドイツ、3世紀後半-イエージ、307)が初代イエージ司教に任じられると、聖セッティミオは司教座を一時的にその初期キリスト教会に置くことにし、Cattedrale di Santissimo Salvatoreと命名しました。初期キリスト教会だった建物を取り壊し、その上に新しい建物を建設することを考えていたからです。
新しい建物の建設が始まりましたが、307年9月5日、サン・セッティミオ・ディ・イエージは、斬首され、殉教しました。キリスト教が禁教だった時代だったので、新しい建物の建設時期は分からないようです。
Basilica di Santtisimo Salvatoreの存在が初めて公式文書に記録されたのが1119年のことでした。
1469年、聖セッティミオの遺体が発見されました。
1208年、三廊式、ロマネスク・ゴシック折衷様式の三代目の建物が建設されました。
1227年、ジョルジョ・ダ・コモ(コモ、13世紀活動)の設計によってファサードが完成しました。
1469年、大改造工事が行われ、単廊式、ルネサンス様式の建物に変わりました。
現在の後期バロック様式の建物は、フィリッポ・バッリジョーニ(ローマ、1672-1753)の設計によって1732年に創建され、1741年に完成した四代目となるものです。
ファサードは19世紀に完成しました。
ルイージ・ヴァンヴィテッリ(ナポリ、1700-カゼルタ、1773)の設計によって、1782年から1784年に建設された鐘楼です。
ファサードを見ます。
入口扉
拝観します。
聖堂内に入りました。
単廊式、ラテン十字形、後期バロック様式の内部です。
三代目の建物にあった作品が一部残されてます。
聖水盤が三代目の建物にありました。
ヴェローナ産の赤大理石が使われてます。
ジョルジョ・ダ・コモ(コモ、13世紀活動)によって制作された、向かって左側の聖水盤(1227c)
ジョルジョ・ダ・コモ(コモ、13世紀活動)によって制作された、向かって右の聖水盤(1227c)
派手とは言えない天井装飾
祭壇画などを見て回ります。
Presbiterio
ビアージョ・ビアゲッティ(ポルト・レカナーティ、1877-マチェラータ、1948)の「贖い主」(1937)
主祭壇の浮彫は、逸名彫刻家によって17世紀に制作された「ロレートの聖母」です。
後陣左右のオルガンは、17-18世紀に制作されました。
(つづく)
イエージの街歩き (その11)
Piazza Colocciに面して建っている建物です。
Palazzo Bisaccioniです。
1992年からCassa di Risparmio di Jesiの建物となってます。
同財団が所有する美術品を展示する部屋があります。
この日は休館でした。
ヴァザーリ、グエルチーノなどの作品が展示されてます。
この建物右に門があります。
写真右が門です。
Palazzo Chislieri Scalamontiの門です。
Palazzo Chislieriはフェデリーコ2世広場から見た方が分かりやすいと思います。
Palazzo Honoratiです。
16世紀に建設されました。
フェデリーコ2世広場に入ります。
フェデリーコ2世広場に来ました。
先ほどの門を潜って中に入ると、この建物に出ます。
Palazzo Chislieriです。
フェデリーコ2世広場に面して建っているPalazzo Ripanti Nuovoです。
扉が閉まっていました。
教区美術館が置かれているPalazzo Ripanti Nuovoです。
開いていればなあ。落胆しました。
展示されている作品が充実しています。
教区美術館は開いていたり、閉まっていたり。
写真左の教会に向かいます。
サン・フロリアーノ教会です。
12世紀に建設されたロマネスク様式の建物が初代です。
1512年から1532年に再建されました。再建された時は、ルネサンス様式でしたが、1743年に改造され、現在のバロック様式のたてものになりました。
未完成のファサードです。
1860年に宗教活動が停止され、イエージ市当局の所有不動産になりました。市立図書館、市立絵画館として建物が利用されましたが、図書館と絵画館は別の建物に移り、現在は劇場になってます。
劇場の入り口
鐘楼
旧サン・フロリアーノ教会のファサード前にオベリスクがあります。
オベリスクの噴水です。
元々ここにあったものではなく、他の場所から移設されたのです。
1844年に完成したオベリスクは共和国広場に設置されました。1949年に現在の場所に移設されました。
旧サン・フロリアーノ教会の斜め横に立っている建物です。
Palazzo Balleaniです。
12世紀頃からイエージに定住するようになったバッレアーニ家が住居として、1720年から1722年に建設させたロココ様式のPalazzo Balleaniです。
ファサードの彫刻が特徴です。
(つづく)
イエージの街歩き (その10)
スポンティ―ナ広場です。
スポンティ―ナ広場に面して建つ古そうな建物です。賃貸物件になっているようです。
フェデリーコ2世広場の方向に進みます。
Arco della Casa dei Verroni
ジョヴァンニ・ディ・ガブリエーレ・ダ・コモによって1513年に制作されました。
勿論、通ることが出来ます。
Arco della Casa dei Verroniの隣にある建物
Piazza Colocciに向かいます。
Piazza Colocciです。
広場に面して歴史的建造物が建ってます。
サンタゴスティーノ教会、その隣(写真右端)の建物がPalazzo Colocciです。
先ずサンタゴスティーノ教会です。
サン・ルカ教会とも呼ばれてます。
12世紀にベネデット会によって建設されたサン・ルカ教会(修道院の教会)です。
1400年、アゴスティーノ会の所有になり、程なく名称が変更されました。
18世紀に行われた改造の際、ファサードが煉瓦造りとなりました。
現在は活動を停止た旧教会になってます。
サンタゴスティーノ修道院教会のキオストロ
次はサンタゴスティーノ教会に隣接するPalazzo Colocciです。
広場の名称は、Piazza Colocciを所有していたColocci家に由来します。
1435年の文書に、現在地にColocci家の邸宅があったことが記されているそうです。
1513年、当時のColocci家の当主で、教皇レオ10世の秘書アンジェロ・コロッチ(イエージ、1474-ローマ、1549)がイエージ当局に対して、邸宅の拡大工事申請を提出しました。直ちに申請が認められ、拡大工事が開始され、1596年に完成したルネサンス様式の建物が現在の姿の原形になってます。
1735年、ローマの建築家ピエル・パオロ・アルフィエーリの設計によってバロック様式に改修されました。現在の姿はその改修後のものです。
Piazza Colocciの入り口
コロッチ家の紋章
現在はMuseo di Palazzo Colocciとして一般公開されてます。
邸宅内の階段
バロック様式の装飾
家族の食堂
コロッチ家の収集物
次はPiazza Colocciに面して建っている、この建物です。
Palazzo della Signoriaです。
この場所は、ローマ時代に建てられたローマ劇場の跡地でした。
13世紀頃には、政庁舎のプリオーリ宮がありました。
15世紀後半、当時イエージを支配下に置いていたウルビーノ公フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ(グッビオ、1422-フェッラーラ、1482)によって、プリオーリ宮を取り壊し、新しい行政庁の建物建設の指示が出され、それに基き1486年から1498年に建設されたルネサンス様式の建物が現在の姿の原形となってます。
1586年にイエージは教皇領となり、教皇庁から派遣されたMagistrato Pontificioの政庁舎となり、その状態がイタリア統一まで続きました。
1616年に建物の一部が改造されました。
1860年、イエージはイタリア王国に併合され、それ以降、この建物は裁判所、刑務所として使用されるようになりました。
1930年から1939年に復元工事が行われました。
現在は市立図書館として使用されてます。
ファサードのイエージ市の紋章
鐘楼
中庭から見た鐘楼
中庭にある井戸
(つづく)
イエージの街歩き (その9)
共和国広場近くに門があります。
Porta Mazziniです。
16世紀に造られた門です。
門を潜って城壁外に出ました。
城壁の下の景観。この先に鉄道駅があります。
Museo Diocesanoに向かいます。
昼下がりは人通りが少ない時間です。
Palazzo Bettiniです。
17世紀末から18世紀初頭にかけて建設されました。
Palazzo Bettiniの一部はB&Bになってます。
Palazzo Bettiniの中庭
B&Bになっている一角
9月15日通り
私は〇月〇日通りが苦手です。9月でも日にちが異なる通りやら広場があるので、覚えていませんから。
城壁の下の景観
城壁
要塞化された城の外壁になります。
監視塔
門を潜ります。
共和国広場に戻りました。
Palazzo Magagniniです。
Arco del Magistrato
アーチを潜ってPiazza Indipendenzaに出ました。
Palazzo Comunaleです。
Piazza Indipendenzaは、イエージの最高地に当たります。
ファサードにガリバルディ像があります。
最高地なので、1282年に要塞が建設されましたが、防御力増強のため、1423年に破壊されて再建されることになり、新要塞が1433年に建設されました。
しかし、イエージの防衛上の重要性が薄れてきたので、新要塞は1527年に解体されたのです。
その解体された要塞の跡地に、16世紀終わりに建てられたのがPalazzo Comunaleです。
Palazzo Comunaleのアーチ
Palazzo Comunaleの隣に建っている建物です。
Palazzo Ricciです。
リッチ家の邸宅として、1544年から1547年に建設されました。
1773年に大改修を受けましたが、現在の姿は、この大改修工事後のものです。
外壁の形状からPalazzo Diamantiとも呼ばれてます。
Piazza Indipendenzaに記念碑があります。
戦争犠牲者記念碑のライオン像
(つづく)
イエージの街歩き (その8 サン・ジョヴァンニ・バッティスタ教会)
共和国広場に面して建つPalazzo Magagniniです。(写真右端の建物)
建築家マッティア・カッポーニ(イエージ、1720-1803)の設計によって、1787年に建設されたPalazzo Magagniniです。
共和国広場の模様
Corso Giacomo Matteottiに戻りました。次はサン・ジョヴァンニ・バッティスタ教会です。
サン・ジョヴァンニ・バッティスタ教会です。サン・フィリッポ教会とも呼ばれてますが、その理由は後述します。
神聖ローマ帝国皇帝フェデリーコ2世(イエージ、1194-フィオレンティーナ・ディ・プーリア、1250)の命によって、現在サン・ジョヴァンニ・バッティスタ教会が建っている場所に建設されたフォンテ・アヴェッラ―ナ修道院が前身です。同修道院は、1221年の文書に、その存在が初めて記載されたそうです。
聖アゴスティーノ騎士団の修道士たちによって、1590年、現在地に教会の建物が再建され、サン・ジョヴァンニ・バッティスタ教会と命名されました。
1659年、聖アゴスティーノ騎士団は教会から去ることになり、当時のイエージ司教が聖フィリッポ・ネリ修道士会に教会の管理を委嘱しました。
現在のバロック様式の建物は、Frati Filippiniによって1694年に建設された三代目となるものです。
そのため、サン・フィリッポ・ネリ教会とも呼ばれてます。寧ろ、サン・フィリッポ教会と呼ばれることが通常のようです。
ファサードの「キリストの洗礼」(16世紀)(制作者不詳)
「キリストの洗礼」の下に、Frati Filippiniの紋章があります。
扉が開いたので拝観します。
中に入りました。
単廊式、ラテン十字形、バロック様式の内部です。
左側壁
右側壁
説教壇
裕福なFrati Filippiniだったので、装飾に金をかけました。
スタッコ彫刻とサン・フィリッポ・ネリ礼拝堂の装飾は、トンマーゾ・アマンティーニ(アルバニア、1625-ローマ、1675)の作品です。
フレスコ画は、アルカンジェロ・アクィリーニ(イエージ、1562-スポレート、1552)の作品です。
祭壇画を見て回ります。
逸名画家作「天上の聖母子と聖人たち」(16世紀前半)
ジャチント・ブランディ(ポーリ、1621-ローマ、1691)の「無原罪の御宿リ」(1679)
ローマの逸名画家作「グイド・レーニ作『聖フィリッポ・ネリの幻視』(1614-15)のコピー画」(1666)
サン・フィリッポ・ネリ礼拝堂の彫刻は、トンマーゾ・アマンティーニ(アルバニア、1625-ローマ、1675)の作品です。
リミニの逸名画家作「Sange Giusto」(14世紀)
ジャンジャコモ・ドゥーティの「我に触れるな」(1602)
ジャンジャコモ・ドゥーティの「キリストとサマリア女」
ジャンジャコモ・ドゥーティの「最後の晩餐」
主祭壇画
ジョヴァンニ・ペルッツィーニ(アンコーナ、1629-ミラノ、1687)の「天上の聖母子と聖ジョヴァンニ・バッティスタ」(1687)
詳細不知
1887年制作のオルガン
外に出ました。
(つづく)
イエージの街歩き (その7 崇拝の教会)
Corso Giacomo Matteottiに面して建っている建物です。
病院と教会の建物です。
Ospedale Fatebenefratelli e Chiesa di San Giovanni di Dio
18世紀に建設されました。現在は市民病院となってます。
Arco Clementino
バロック様式の凱旋門です。
建築家で画家でもあったドメニコ・ルイージ・ヴァレーリ(イエージ、1701-カメリーノ、1770)の設計によって1734年に建設されました。
Arco Clementinoの手前に歴史的建造物があります。
旧孤児院の建物です。
サン・ウバルド教会もありました。
この場所には古い修道院がありましたが、それを取り壊して、その上に孤児院が建設されました。
この近くにある門に行きます。
Porta Farina
市域が拡大され、1524年に建設されたPorta Farinaです。
Corso Giacomo Matteottiに戻りました。
この道を真直ぐ進めば、教区博物館に行けます。
教区博物館はフェデリーコ2世広場にありますが、その前に見逃せない広場があるので、その広場を経由します。
先ず共和国広場に向かいます。
共和国広場にやってきました。
共和国広場に面して建つペルゴレージ劇場です。
この日の公演はなし
Chiesa dell’Adorazione Eucaristica Perpetura(永遠の聖体崇拝教会)、略してChiesa dell’Adorazione(崇拝の教会)とも呼ばれてますが、Chiesa della Morteとも呼ばれてます。
初代の建物はConfraternita dei Poveriによって1585年に建設されました。
1744年、Collegiata(参事会教会)に昇格したので、それを機に拡大再建されることになり、1755年に完成した後期バロック様式の二代目の建物です。
鐘楼
拝観します。
中に入りました。
単廊式、後期バロック様式の内部です。
左側壁
右側壁
祭壇画、彫刻を見ます。
ドメニコ・ルイージ・ヴァレーリ(イエージ、1701-カメリーノ、1770)の「聖家族と聖アンナとパドヴァの聖アントニオ」(1742)
「ピエタ」(詳細不知)
後陣
主祭壇画は、ドメニコ・ルイージ・ヴァレーリ(イエージ、1701-カメリーノ、1770)の「聖母誕生」(1742)
詳細不知
ドメニコ・ルイージ・ヴァレーリ(イエージ、1701-カメリーノ、1770)の「羊飼いの礼拝」
外に出ました。
(つづく)
イエージの街歩き (その6 マドンナ・デッレ・グラツィエ聖域)
外に出ました。
ロレンツォ・ロットの作品4点が素晴らしかった。
次はマドンナ・デッレ・グラツィエ聖域です。
マドンナ・デッレ・グラツィエ聖域です。
マドンナ・デッレ・グラツィエ聖域のファサード前に広場がありますが、その広場に「ジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージ記念碑」があります。
ジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージ(イエージ、1710-ポッツォ―リ、1736)は、「奥様女中」などのオペラ作曲家です。有望なオペラ作家として将来が嘱望されていましたが、僅か26歳の若さで夭逝してしまいました。
ペルゴレージ生誕200年を記念して、アレッサンドロ・ラッツェリーニ(カッラーラ、1860-1942)に制作依頼された作品(1910)です。
この建物の直ぐ近くにサン・ニコロ教会があります。サン・ニコロ教会近くに農家がありましたが、14世紀末、その農家の壁にリッポ・ディ・ダルマシオ(ボローニャ、1360-1410)が「聖母」のフレスコ画を描きました。リッポの「聖母」は次第に近隣の人々の信仰を集めるようになりました。
1448年、「聖母」を収容するために小さな礼拝堂が建設され、Oratorio di Santa Maria Assuntaと名付けられました。
オラトリオが完成した当時、ペストが流行してましたが、1456年頃に流行がようやく終息しました。
ペスト流行の終息を記念して、オラトリオを収容して新たに聖域を建設することになりました。そうして、1456年に創建され、1509年に完成したのがマドンナ・デッレ・グラツィエ聖域です。
1486年、Frati Carmelitaniの所有となりました。
カルメル会によって、修道院が1550年から1621年に建設されました。
リッポ・ディ・ダルマシオによって描かれた「聖母」は、農家の外壁にあったため、経時劣化が顕著でした。そのため、地元の画家アンドレア・ディ・バルトロによって1470年に制作された「慈悲の聖母」が「聖母」の代わりにされました。
同名のシエナ派の有名な画家がいますが、「慈悲の聖母」の制作者は全くの別人です。
18世紀前半、初代の建物は地震と経時劣化によって危険になったため、破壊して、その上に新しい建物の建設が決まりました。
地元の建築家Nicola Maiolatesiに設計、建築が委嘱され、1751年から1756年に再建された後期バロック様式の建物が現在の姿になってます。
中に入りました。
単廊式、ラテン十字形、バロック様式の内部です。
主祭壇画を見ます。
主祭壇画は、二コラ・べルトゥッチ(アンコーナ、1710-1777)の「聖母子と聖人たち」(1759)です。
ルイージ・ランチ(ファブリアーノ、1769-イエージ、?)の「天井フレスコ画」(1795-98)
暗くてよく見えません。
マドンナ・デッレ・グラツィエ礼拝堂です。
Oratorio di Santa Maria Assuntaが前身とされてます。
元々は、リッポ・ディ・ダルマシオの「聖母」があったとされてます。
アンドレア・ディ・バルトロ(イエージ、15世紀後半活動)の「慈悲の聖母」(1470)
リッポ・ディ・ダルマシオの「聖母」は痛みが激しかったので、1470年にこの作品に差し替えられたそうです。
他の作品を見ます。
アンジェロ・ソーナの「磔刑像」(1843)
ルイージ・マンチーニ(イエージ、1819-1881)の「我に触れるな」(1850)
二コラ・べルトゥッチ(アンコーナ、1710-1777)の「受胎告知」(1759)
外に出ました。
次はサン・ニコロ教会です。写真左端に写っている建物がサン・ニコロ教会です。
サン・ニコロ教会は、ペルゴレージの記念碑近くにあります。
サン・ニコロ教会のファサードです。イエージ最古の教会の一つとされてます。
12世紀後半に建設されたロマネスク様式のサン・ニコロ教会です。
1219年の文書に、その存在の記録が初めて記載されたそうです。14世紀に一部ゴシック様式に改造されました。
テンプル騎士団の教会でしたが、後にカラメル会の教会になりました。
1798年、ナポレオンの抑圧令によって閉鎖され、フランス軍の倉庫に転用されました。
ナポレオン軍の撤退後、一時期宗教活動が再開されましたが、間もなく閉鎖され、軍関係の倉庫として使用されました。
第二次世界大戦後、荒廃した建物が修復され、イエージ市の所有物件になりました。現在は、展示会、会議室などに使用されてます。
身廊外壁
後陣
第二次世界大戦後に修復された後陣
サン・二コラ教会の内部
フレスコ画が僅かに残されてます。
(つづく)
イエージの街歩き (その5 市立博物館Ⅴ)
アレッサンドロ・ティアリーニ(ボローニャ、1577-1668)の「磔刑」(17世紀前半)
フィリッポ・リッチ(フェルモ、1679-1764)の「天上の聖母子と聖アポロニアと聖ルイージ」
展示室天井の装飾
プラチード・ラッザリーニ(ペーザロ、1746-1820)によって1781年から1786年に制作されたフレスコ画
私には彫刻の制作者が分かりません。
ロココ様式の建物はイタリアでは少ないと思います。
カルロ・マラッタ(カメラーノ、1625-ローマ、1713)の「羊飼いの礼拝」
ジャコモ・デル・ポー(パレルモ、1654-ナポリ、1726)の「聖母子と聖人たち」(1710)
ジャコモ・デル・ポー(パレルモ、1654-ナポリ、1726)の「三位一体」(1710)
ピエトロ・パオロ・アガビティ(サッソフェッラート、1470-クプラモンターナ、1540c)の「聖痕を受ける聖フランチェスコの祭壇画」(1528)
裾絵が付いてます。
裾絵の砂漠の聖ジローラモ
裾絵のご誕生
裾絵のマギの礼拝
裾絵の聖セバスティアーノと聖ロッコ
ピエトロ・パオロ・アガビティ(サッソフェッラート、1470-クプラモンターナ、1540c)の「三聖人(聖フランチェスコ、パドヴァの聖アントニオ、シエナの聖ベルナルディーノ)」
17世紀前半のマルケの逸名画家作「磔刑と聖フランチェスコと聖ドメニコ」(1610c)
エミリアの逸名画家作「授乳の聖母と聖ジョヴァンニーノ」(17世紀後半)
フィレンツェの逸名画家作「光悦の聖フランチェスコ」(17世紀)
ドメニコ・グイディ(カッラーラ、1625-ローマ、1701)の「十字架降下」(17世紀後半)
彫刻家として名高いドメニコですが、大変珍しい絵画です。
フランチェスコ・トレヴィサーニ(スロベニア、1656-ローマ、1746)の「洗礼を施す聖フィリッポと聖ピエトロ」
フランチェスコ・トレヴィサーニ(スロベニア、1656-ローマ、1746)の「イリ―デとモーゼ」
ジョヴァンニ・バッティスタ・ランゲッティ(ジェノヴァ、1625-ヴェネツィア、1676)の「聖アグネスの殉教」
アントニオ・グアルディ(グアスタッラ、1796-1865)の「騎馬戦」(1840c)
アントニオ・グアルディ(グアスタッラ、1796-1865)の「砲撃」
アントニオ・ヴィヴィアーニ通称イル・ソルド・ディ・ウルビーノ(ウルビーノ、1560-1620)の「聖フランチェスコ」
二コラ・ディ・マエストロ・アントニオ・ディ・アンコーナ(アンコーナ、1465-1511)の「死せるキリストを支える二天使」(1490c)
ベネデット・テーセイ(イエージ、1898-1953)の「自画像」(1935)
フランチェスコ・ポデスティ(アンコーナ、1800-ローマ、1895)の「四つの肖像画」(1863)
ルイージ・マンチーニ(イエージ、1819-1881)の「自画像」(1837)
ジョヴァンニ・ファツィ(クプラモンターナ、1838-ローマ、1926)の「幼児の肖像」(1890c)
レオポルド・バッティスティーニ(イエージ、1865-リスボン、1936)の「ファーティマ」(1888)
ファーティマはムーア人の姫です。
レオポルド・バッティスティーニ(イエージ、1865-リスボン、1936)の「アラブの戦士」(1887)
レオポルド・バッティスティーニ(イエージ、1865-リスボン、1936)の「静物画」
(つづく)
イエージの街歩き (その4 市立博物館Ⅳ)
ロレンツォ・ロット(ヴェネツィア、1480c-ロレート、1556/1557)の「ご訪問と受胎告知の祭壇画」(1531-32)
イエージのサン・フランチェスコ・アル・モンテ教会のロッキ家礼拝堂にありました。
ご訪問
聖ザッカリア
聖エリザベッタ
聖ザッカリアと聖エリザべッタの子供が聖ジョヴァンニ・バッティスタ(洗礼者聖ヨハネ)です。
聖母マリア
聖母マリアの姉妹
ロット作品がある展示室の天井装飾を見ます。
フレスコ画が描かれてます。
カルロ・パオルッチ(ウルビーノ、1738-ペーザロ、1803)によって1781年から1786年に制作されたフレスコ画です。
ジョヴァンニ・フランチェスコ・バルビエーリ通称グエルチーノ(チェント、1591-ボローニャ、1666)またはグエルチーノ工房による「聖マリア・マッダレーナと二天使」(17世紀)
グエルチーノ工房作が定説となってます。
ジョヴァンニ・バッティスタ・サルヴィ通称イル・サッソフェッラート(サッソフェッラート、1609-ローマ、1685)の「祈る聖母」
フランチェスコ・アルバーニ(ボローニャ、1578-1660)の「Teodora Passeri Griziに顕現するパドヴァの聖アントニオ」(1611)
イエージのサン・フロリアーノ教会のグリツィ家礼拝堂にありました。
テオドーラ・パッセリは、詩人アンニーバレ・グリツィ(イエージ、1550-1612)の妻です。
ピエル・シモーネ・ファネッリ(アンコーナ、1641-チンゴリ、1708)の「天上の聖母子とアンティオキアの聖マルゲリータ」
ミケーレ・ロッカ通称イル・パルミジャニーノ・イル・ジョーヴァネ(パルマ、1670c-ヴェネツィア、1751)の「アレッサンドリアの聖カテリーナ」(18世紀後半)
展示室天井の装飾
フレスコ画は、プラチード・ラッザリーニ(ペーザロ、1746-1820)によって1781年から1786年に制作されました。
私には彫刻の制作者が分かりません。
カルロ・チニャ―リ(ボローニャ、1628-フォルリ、1719)の「慈愛」
クリストフォロ・ロンカッリ通称イル・ポマランチョ(ポマランチェ、1552-ローマ、1626)の「聖家族と聖ジョヴァンニーノ」(1609)
アントニーノ・サルティ(イエージ、1580-1647)の「聖母子と三聖人(聖アンナ、アレッサンドリアの聖カテリーナ、司教聖人)」
アントニーノ・サルティ(イエージ、1580-1647)の「天上の聖母子と三聖人(聖セバスティアーノ、トレンティーノの聖二コラ、聖ロッコ)」(1628)
(つづく)
イエージの街歩き (その3 市立博物館Ⅲ)
ロレンツォ・ロット(ヴェネツィア、1480c-ロレート、1556/1557)の「聖ルチアの祭壇画」(1523-32)
プレデッラ
異時同図法によって描かれている珍しいプレデッラです。
イエージのサンタ・ルチア同信会がロレンツォ・ロットに注文した作品です。同信会とロットの間で、1523年12月11日に制作契約が結ばれたそうです。契約書が残っているようです。
サン・フロリアーノ教会のサンタ・ルチア礼拝堂に置かれていました。サン・フロリアーノ教会は、1870年に閉鎖され、この作品はマルケ州の所有となりました。1981年のイエージ市立博物館のオープンに合わせて、現在の場所で展示されるようになりました。
執政官(裁判官)の前の聖ルチア
執政官(裁判官)
反駁する聖ルチア
聖ルチア
子供を抑えようとするメイド
聖ルチアを引き留める男たち
聖ルチアを引き留める男たち
主画面とプレデッラがほぼ同じ主題となってます。
母の平癒を祈る聖ルチア
聖アガタの墓に祈る聖ルチア
執政官の前の聖ルチア
刑(売春宿に連行)の宣告をする執政官
売春宿に連行される聖ルチア
牛の力による聖ルチアの連行
ロレンツォ・ロット(ヴェネツィア、1480c-ロレート、1556/1557)の「イエージの受胎告知」(1525)
受胎告知する大天使ガブリエーレ
受胎告知される聖母
ロレンツォ・ロット(ヴェネツィア、1480c-ロレート、1556/1557)の「サン・フランチェスコ・アル・モンテの祭壇画」(1525-27)
イエージのミノリ・リフォルマーティ教会(Chiesa di Minori Riformati)にありました。同教会は、1866年に閉鎖され、この作品はマルケ州の財産となりました。
本市立博物館のオープンに伴い、1981年から展示されてます。
聖ジュゼッペ
聖母
聖ジローラモ
制作年の1526年と記されてます。
(つづく)