イタリア芸術を楽しむ

イタリアの魅力を味わい尽くすには、一生に何度旅をすれば足りるだろう。芸術の宝庫にして、歴史の生きた証であるイタリア。 惹き付けて止まない絵画、彫刻、歴史的建造物、オペラなど、芸術の宝庫であるイタリアを楽しむブログです。 記事は一日に一つアップしています。記事の見方ですが、例えば「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その4)」は2017年10月20日にアップしました。各記事にカレンダーが表示されてますが、カレンダー上の2017年10月21日をクリックして頂ければ「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その5)」になります。(その3)は2017年10月20日となります。 BY:シニョレッリ

2022年09月

P1040584「羊飼いの礼拝」


P1040585


1184


P1040586


P1040587
「聖母子と聖人たちのトリッティコ」


P1040588


P1040589
「聖コズマと聖ダミアーノの殉教」


P1040590


P1040591
「四福音書記者」


P1040592


P1040593
「彩色磔刑像」


P1040595


1176


1177


P1040596
「玉座の聖母子と二聖人」


P1040597


P1040598
「アレッサンドリアの聖カテリーナの神秘な結婚」


P1040599


P1040600
パラッツォの礼拝堂


P1040601


P1040602
「受胎告知する大天使」


P1040603


P1040604
「シエナの聖ベルナルディーノ」


P1040605


P1040606
「聖母子と二聖人」


P1040608


1178
聖フランチェスコ


1179
ウンゲリアの聖エリザベッタ


1180
第12室です。


P1040609
「聖ジャコモ・マッジョーレ」


P1040610


P1040611
「スタッジャの祭壇画」


P1040613


P1040612


1181


P1040614
「聖アンドレア」


P1040615


1182


P1040616
「サンタンサーノのトリッティコ」


P1040617


1183
(つづく)

P1040558「サン・ジュストの多翼祭壇画」


P1040559


1162


1163
聖ジュリアーナ、聖ピエトロ


1164
聖母子


1165
聖パオロ、聖ジュスト


1166
聖人たち、予言者たち


1167
聖人たち、予言者たち


1168
受胎告知


1169
第8室です。


P1040560
「聖母子と聖人たちの多翼祭壇画」


P1040561


P1040562
「三聖人」


P1040563


1170
第11室です。


1171
第9室、第10室はなかったような?


P1040564
「磔刑」


P1040565


1172


P1040566
「磔刑」


P1040567


1173


P1040569
「聖母子と聖アンナと聖人たちの多翼祭壇画」


P1040570


P1040568


P1040571
「アクイーノの聖トンマーゾ」


P1040572


P1040573
「アレッサンドリアの聖カテリーナの神秘な結婚」


P1040574


P1040575
「受胎告知」


P1040576


P1040577


1174


P1040578
「聖母子と二聖人」


P1040579


P1040580
「聖母子と四聖人」


P1040581


P1040582
「マギの礼拝」


P1040583


1175
(つづく)

P1040537「磔刑像」


P1040538


1133


P1040539
「玉座の聖母子と天使たち」


P1040540


1134


P1040541
「贖罪の寓意」


P1040542


1135


1136


1137


1138


1139


1140


1141


P1040543
「聖母子」


P1040544


1142


P1040545
「聖パオロ」


P1040546
「聖ジョヴァンニ・バッティスタ」


P1040547


1143


1144


P1040548
「磔刑」


P1040549


1145


P1040550
「二聖人」


P1040551


1146
聖マッシミーノ司教


1148
聖アントニオ・アバーテ


P1040552
「聖ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ」


P1040553


1149


P1040556
「聖ジョヴァンニ・バッティスタ」


P1040557


1150


P1040554
「聖母子と二聖人」


P1040555


1151


1152
聖マリア・マッダレーナ


1153
聖母子


1154
聖マルタ


1155
十字架降下


1156


1157


1158


1159


1160


1161
(つづく)

P1040521「聖母子と二聖人」


P1040522
多翼祭壇画です。


P1040510
「カルミネの祭壇画」


P1040511
欠落したパネルがあります。


P1040512
玉座の聖母子とバーリの聖二コラと予言者エリア


P1040513
聖アグネス


P1040514
アレッサンドリアの聖カテリーナ


1115


1116


1117
メインパネル


1118
聖タッデオと聖バルトロメオ


1119
聖トンマーゾと聖ヤコポ


1120
聖アグネス


1121
アレッサンドリアの聖カテリーナ


1122
プレデッラ(裾絵)


1123


1124


1125


1126


1127


1128


1129


P1040523
「聖母子と二聖人」


P1040524


P1040525
「玉座の聖母子と四聖人」


P1040526


1130


P1040527
「新約聖書の物語」


P1040528


P1040529
「アレッサンドリアの聖カテリーナの戴冠と聖人たち」


P1040530


P1040531
「彩色磔刑像」


P1040532


1131


P1040533
「磔刑」


P1040534


P1040535
「聖母の誕生と聖人たち」


P1040536


1132
(つづく)

P1040490ルカ・ディ・トンメの作品です。


P1040492
聖パオロの説教


P1040493
聖パオロの殉教判決


P1040491


1092


P1040494
「聖母被昇天」


P1040495


1093


1097


P1040496
「トルフェの多翼祭壇画」


P1040497


1094


P1040498
「聖母子と四聖人」


P1040500


P1040499


P1040501
「聖母子と四聖人」


P1040502


1095


1096
バルトロ・ディ・フレディ(シエナ、1330c‐1410)の「聖母の死」


1098
第7室です。


1099
第7室付近に第8室、第9室、第10室などがありますが、展示室の区分がよく分かりません。


P1040505
「三聖人」


P1040506


P1040507


1100


1101
聖バルトロメオ


1102
聖チェチリア


1103
聖ジョヴァンニ・バッティスタ


1104


P1040508
「玉座の聖ピエトロと二聖人」


P1040509


1105


P1040515
「受胎告知」


P1040516


P1040517


1106


P1040518
「小マエスタ」


P1040519


P1040520


1107


1108


1109


1110


1111


1112


1113
(つづく)

P1040464「聖母子」


P1040465


P1040466


1079


P1040467
「聖母子」


P1040468


1080


P1040469
「アレッサンドリアの聖カテリーナの神秘な結婚」


P1040470


1081


P1040471
「べアート・アンドレア・ガッレラーニ」


P1040472


1082


P1040473
「べアート・アゴスティーノ・ノヴェッロとその物語」


P1040475


P1040474


P1040476


P1040477


P1040478


P1040479


P1040480


1083


1084


1085


1086


1087


1089
「トロサの聖ルドヴィーコ」、「アッシジの聖フランチェスコ」


P1040481


P1040482


P1040483


P1040484


1090
第6室です。


P1040485
「マギの礼拝」


P1040486


P1040487


P1040488
「トリッティコ」


P1040489


P1040503
「聖母戴冠」


P1040504


1091
(つづく)

P1040433「嘆きの聖母」


P1040434


P1040437
「聖母子」


P1040438


P1040441
「聖マリア・マッダレーナ」


P1040442


1070
第4室です。


P1040443
「聖母子と四聖人」


P1040444


P1040445
「聖母子」


P1040446


P1040447
「四聖人」


P1040448


1071


P1040449


P1040450


P1040451
フレスコ断片


P1040452


P1040453


P1040454


1072
Maestro della Maesta Gondiの「トリッティコ」


1073


1074
第5室です。


P1040407
「慈悲の聖母」


P1040408


P1040409


1075


P1040419
「聖母子」


P1040418


P1040417


P1040455
「聖母子」


P1040457


P1040458


1078



1076


P1040459
「聖母子と聖人たちの多翼祭壇画」


P1040460


P1040461


P1040462


P1040463


1077
(つづく)

P1040403「彩色磔刑像」


P1040404


1055


1056


P1040415
セーニャ・ディ・ボナヴェントゥーラの作品です。


P1040416


1057


P1040435
逸名画家の作品です。


P1040436


P1040399
「聖母子と四聖人」


P1040400


1058


P1040401
「聖ベネデットと大天使聖ミケーレ」


P1040402


1059


P1040405
「聖バルトロメオとバーリの聖二コラ」


P1040406


1060


P1040410
「聖母子と聖人たちの多翼祭壇画」


P1040411
聖母子と聖ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタと聖ジョヴァンニ・バッティスタ


P1040412
聖アグネスと聖ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ


P1040413
聖ジョヴァンニ・バッティスタと聖マリア・マッダレーナ


P1040414


1061


1062
聖アグネス


1063
聖ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ


1064
聖母子


1065
聖ジョヴァンニ・バッティスタ


1066
聖マリア・マッダレーナ


P1040431
「磔刑」


P1040432


1067


P1040420
「アレッサンドリアの聖カテリーナ」


P1040422


P1040423
「磔刑」


P1040424


P1040427
「聖母子」


P1040430
聖母子の裏面


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1068


1069
(つづく)

P1040381グイド・ディ・グラツィアーノ別称グイド・ダ・シエナ(シエナ、1230c‐1290c)の「聖ピエトロの祭壇前飾り」


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1041


1042


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1044


1045


1046


P1040390
この作品は裏面にも描かれてます。


P1040391


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P1040392
裏面です。


1049


P1040359


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1048


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P1040355


P1040356


P1040357
ジーリオ・ディ・ピエトロ(シエナ、?‐1261)の「聖母子」


P1040358


1050
次は第3室です。


P1040393
「聖母子」


P1040394


P1040395
ドゥッチョ・ディ・ブオンニンセーニャの「聖母子と四聖人」


P1040396


1051


1052


P1040397


P1040398


1053


1054
(つづく)

P1040350「聖クレメンテ?」


P1040351
展示作品の入れ替えが激しい第1室です。


1023
古い作品ばかりで、そのため修復が必要なので、差し替えが多いのでしょう。


1024
第2室になります。


P1040364
グイド・ダ・シエナ(シエナ、1230c‐1290c)の「聖母子と四聖人」


P1040365


1025


P1040369
グイド・ダ・シエナ(シエナ、1230c‐1290c)の「聖母子と四聖人」がもう一つあります。


P1040370


1026


P1040366


P1040367


P1040368
グイド・ダ・シエナの帰属作品という有力説もあるようです。


1027


P1040371
「聖フランチェスコとその生涯の物語」


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P1040372


1028


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1030


1031


1032


P1040374
「聖ジョヴァンニ・バッティスタとその生涯の物語」


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P1040376


P1040377


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1033


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1037


1038


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P1040341
「聖フランチェスコ」


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1040


P1040362


P1040363
(つづく)

817今までに2回取り上げたシエナの国立絵画館です。


P1400390
ブオンシニョーリ館に国立絵画館があります。


815
シエナに来る目的の一つがここに入館することです。


P1400404
切符売り場


1000
展示室は、日本でいうところの2階、3階、4階の3フロアーにあります。


1001
地上階の小さな中庭


P1400399
中庭の古井戸


1002
「死せるキリスト」のフレスコ画


P1400400
作品帰属が明示されていません。


P1040841


P1400394
アンドレア・ディ・バルトロの「聖母子」


P1400397


P1040844


1003
展示室に上る階段があります。


1004
階段横に石棺などが置かれてます。


1005
石棺(詳細不知)


1006


1007


P1400402
階段を上って展示室に向かいました。


P1400406
ジローラモ・ダ・クレモナの「受胎告知」です。


P1040052


P2270832
やはり部屋番号の順に見ていくのが良いでしょう。


1008
第1室です。展示作品がいつも異なる部屋だと思います。


P1400899
「彩色磔刑像」


P1400901


1009


1010


P1400903
「祈るキリスト」


P1400904


P1400890
「祈りキリストと磔刑と聖エレーナの生涯」


P1400891


1011


1012


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1019
グイド・ダ・シエナ(シエナ、1230c‐1290c)の「三連画」


1020


1021


1022
(つづく)

P1010787引き続きドゥオーモの祭壇画です。


P1010788
私には作品帰属が全く分からないものばかりです。


P1010790


P1010791


P1010792


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P1010794
ドゥオーモはこれで終わりです。


P1010766
ドゥオーモから外に出ました。


P1010797
サン・フランチェスコ門です。


P1010798
南から町の中心に入る入口として、1581年に建設されました。門を潜れば、直ぐに運河の上に出ます。


P1010799
門の外に出ずにVia Massimo d’Azeglioを進みました。


P1010800
突き当りにサン・ロッコ教会があります。


P1010801
写真右にヴぇッキア門があります。


P1010802
この店で果物を買いました。


P1010824


P1010825


P1010803
サン・ロッコ教会です。


P1010814
最初の建物は1480年に建設されました。現在の建物は1767年に再建された二代目となるものです。


P1010815
1751年に建設された鐘楼です。


P1010812
20世紀初めに宗教活動が停止され、その後、コムーネ所有の建物になりました。


P1010813
中に入るとパーティーをやっていました。


P1010804
Porta Vecchiaです。市の塔、時計塔とも呼ばれてます。


P1010805
エステに城壁が築かれると同時に、この場所に入口門が設けられたとされてますが、具体的な時期が分からないようです。
1238年の文書に、門についての記述があるそうです。


P1010806
門を潜ると、直ぐに橋があります。橋の下にパドヴァからの運河が流れてます。


P1010807
城壁外から見たPorta Vecchiaです。


P1010809
1238年の文書に記載された石造りの門は、1688年の地震によって倒壊してしまいました。その門の残骸土台を利用して、1690年に再建された門が現在の姿になってます。


P1010810
門を潜ります。


P1010808
城壁内に戻ります。


P1010811


P1010816
マッジョーレ広場へと進みました。


P1010817


P1010818
Palazzo Municipale(写真右端の建物)


P1010819
エステ家がフェラーラに去ってから、何処となく寂れたような気がしました。


P1010760


P1010759
ドゥオーモが見えました。


P1010761
大体見終わったようです。


P1010820
写真右奥にサン・マルティーノ教会があります。


P1010821
サン・マルティーノ教会の後陣


P1010822
サン・マルティーノ教会の鐘楼


P1010823
ヴェネツィア領だった筈ですが、有翼のライオン像が見当たりませんでした。


P1010832
(おわり)

P1010762次はドゥオーモです。


P1010763
エステのドゥオーモ、サンタ・テクラ教区教会です。


P1010796
2012年のエミリア地震によって被害を受け、修復工事中でしたが、拝観ができました。


1536
4世紀または5世紀頃に、異教の建物、恐らく異教の寺院だった建物の残骸を一部利用して建設された初期キリスト教会が前身とされており、エステの最古の教会でした。


P1010764
1034年の文書に、この教会の存在が初めて記録されたそうです。


P1010765
12世紀に二番目の建物が再建されました。


P1010795
三番目の建物が、建築家ヴィンチェンツォ・スカモッティ(ヴィチェンツァ、1548‐ヴェネツィア、1616)の設計によって、1583年から1592年に建設されました。


1535
現在、地震による被害に対する修復工事が完了したようです。


1537
さて、地震による被害ですが、1688年に地震によって三番目の建物は瓦礫になってしまいました。修復は不可能と判断されて、四番目となる建物が再建されることになりました。


1538
そうして、建築家アントニオ・ドメニコ・ガスパーリ(アントニオ・ガスパーリと呼ばれることもある)(ヴェネツィア?、1660c‐トレヴィーゾ、マゼール、1723)が起用され、彼の設計によって1690年から1720年に四番目の建物が建設されました。1748年に四番目の建物の奉献式が執り行われたそうです。
四番目の建物が現在の姿になってます。
ファサードは未完成のまま現在に至ってます。


1539
1896年、第256代教皇レオーネ13世(1810‐1903 教皇在位:1878‐1903)によってArcipretale di Este a Chiesa Abbazialeに格付けされました。


1540
8世紀に建設された鐘楼を一部使用して、1724年から1730年に建設された鐘楼です。


P1010767
中に入りました。
この時は後陣が修復工事中でした。


1541
後陣修復後の写真です。


P1010769
楕円形、バロック様式の内部です。


P1010768
右側壁


1543
Presbiterio


1542
後陣に置かれた祭壇画がこの教会の最大の見どころです。


1544
ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロ(ヴェネツィア、1696‐マドリッド、1770)の「ペスト禍のエステを解放する聖テクラ」(1759)


P1010783
修復工事のため、後陣左側壁の祭壇画がよく見えませんでした。


P1010784
後陣右側壁の祭壇画


P1010785
磔刑の礼拝堂


1545
フランチェスコ・テリッリ(フェルトレ、1584‐1635)の「磔刑像」
ベルナルド・ファルコーニ(ビッソーネ、1620‐1696c)の「嘆きの聖母と聖マリア・マッダレーナ」


P1010770
天井


1546
楕円形の天井


P1010771
天井のフレスコ画(詳細不知)


P1010773
パドヴァの聖アントニオ礼拝堂


P1010774
詳細不知の祭壇画


P1010775
ベアトリーチェ・デステの礼拝堂です。


P1010776
ミケランジェロ・グリゴレッティ(ポルデノーネ、1801‐ヴェネツィア、1870)の「ベアータ・ヴェルジネと聖ジョヴァンニ・バッティスタとベアータ・ベアトリーチェ・デステ」


1547
ミケランジェロ・グリゴレッティは、宗教画も制作しましたが、肖像画家として非常に有名です。


1548


P1010777
詳細不知


P1010778


P1010779
サンティッシモ・サクラメント礼拝堂です。


P1010780
アントニオ・コッラディーニ(エステ、1688‐ナポリ、1752)の「聖体の勝利」


1549


P1010781
詳細不知


P1010782
詳細不知


P1010786
(つづく)

P1010741市の塔の見学は後回しにしました。


P1010740
城の方に向かいました。


P1010744
Villa Mocenigoです。
ヴェネツィア貴族のモチェニーゴ家がエステ城の一部を組み入れて16世紀末に建設したヴィッラです。


1514
18世紀に火災で破壊してしまったので、ヴィッラの建物の大部分が再建されました。


P1010743
エステの考古学博物館と思われてますが、正式名はMuseo Nazionale Atetinoと言い、国立の博物館です。当初、エステのコムーネの博物館として開館しましたが、後に国立の博物館になりました。


1515
エステ周辺の遺跡は13‐14世紀に発見され、19世紀以降を中心に発掘調査が行われましたが、その際に出土した発掘物が展示の中心です。


1517
考古博物館の展示は、どこの博物館でも似たり寄ったりです。


1516
私にとって、興味ある作品が一つだけありました。


1518
チーマ・ダ・コネリアーノ(コネリアーノ、1459c‐1517c)の「聖母子」
モチェニーゴ家が所有していた作品でしょうか?


P1010745
Castello Carrarese di Esteと呼ばれる城の中に入りました。


P1010746
Colli Euganeiの南端に当たり、周囲を見渡す絶好の地にあったことから、何時しか壁に囲まれた住居が建てられたと考えられてます。壁に囲まれた住居は589年の洪水によって流されましたが、その後、同じような建物が建設されました。しかし、その建物は次第に砦に強化されたようです。


P1010747
最初の城は、オベルテンギ家の一員で、エステ家最初の当主で、ミラノ侯爵アルベルト・アッツォ2世・デステ(ヴァンガディッツァ、1009‐1096)によって、1056年頃に築城されました。
エステ領主は、アルベルト・アッツォ2世・デステの三男であるフォルコ1世・デステに引き継がれましたが、フォルコ1世によって城は拡大整備されました。


P1010750
13世紀の度重なる戦争によって、城は深刻な被害を受けました。


P1010752
エステはエステ家の支配下にありましたが、1239年、エステ家はその本拠地をフェラーラに決め、フェラーラに宮殿を移しました。


P1010754
現在の城は、パドヴァ領主のウンベルティーノ・ダ・カッラーラによって1339年から1340年に建設されました。


P1010755


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P1010748


1519


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1529


P1010751
庭園に出ます。


P1010756


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P1010758


1530


1531


1532


1534
城は、これで終わりです。


1533
(つづく)

引き続き、エステ家発祥の地エステです。
P1010723
Via Principe Umbertoです。


P1010724
この辺は、13世紀頃には城壁外でしたが、16世紀に城壁内に組み入れられました。


P1010725
サン・マルティーノ教会です。


P1010727
6世紀頃に建設された、エステで最古の教会とされてます。
日曜日しか開きません。


1493 (2)
11世紀初めの文書に、この教会の存在が初めて記載されたそうです。


1494
高さ23mの鐘楼は、1293年に建設されました。
14世紀初め、隣接していたサン・ロレンツォ礼拝堂を組み込んで拡大されました。



1495
1600年、ファサードが西側に4mほど移動して、ファサードが左右非対称となりました。


1496
クーポラ


1502
後陣


1497 (2)
三廊式、ロマネスク様式の内部です。
教会内部の写真は外部サイトから拝借しました。


1498 (2)
主祭壇


1499 (2)
制作者情報不知の「聖母子と聖ジョヴァンニ・バッティスタと聖ジュゼッペ」(1680‐90)


1500 (2)
Maestro di Ispirazione Giottescaの「磔刑」(14世紀中ごろ)


1501 (2)
Maestro di Ispirazione Giottescaの「聖アガタの殉教」(14世紀中頃)


P1010726
拝観するのが大変な教会です。


P1010728
町の中心の広場に向かいました。


P1010729
修道院だった建物のようですが、すでに解体されたかもしれません。


P1010730
アーチを潜って、町の中心である広場に出ます。


P1010731
エステの中心、マッジョーレ広場に出ました。


P1010734
11世紀には、この広場の原形が存在していたそうです。


P1010735
マッジョーレ広場のライオン像


1503
このライオン像の詳細が分かりません。


1504


P1010736


P1010737
町役場 Palazzo Municipaleです。


1505
17世紀に建設されたPalazzo Municipaleです。


1506
18世紀に改造され、現在の姿の原形になったそうです。


1507
20世紀末に復元されて18世紀の姿に戻ったそうです。


P1010732
Palazzo Scaligero del Capitanoです。


1509
Palazzo Scaligero del Capitanoは、14世紀にスカラ家によって建設されました。


1510
スカラ家が退去すると、フェラーラのエステ家から派遣された代官の宿舎兼事務所として使用されました。


1511
Palazzo Scaligero del Capitanoの碑文


1512
ロッジャ


1513
現在、Palazzo Scaligero del Capitanoは文書館として使用されてます。


P1010739


P1010738


P1010733
(つづく)

P1010706エステ駅に到着しました。


P1010707
エステは、人口15,980人(2021年11月30日現在)のヴェネト州パドヴァ県にあるコムーネです。


P1010708
エステ駅の駅舎です。


P1010709
チェントロ・ストーリコに向かいました。


P1010710
鉄器時代の紀元前10世紀には、この地に村が形成されていたとされてます。紀元前3世紀から紀元前2世紀頃にローマの植民地になりました。


P1010711
中世初めの5,6世紀、エステは東ゴート王国の支配下にありましたが、後にビザンチン帝国領に組み入れられました。
10世紀頃、ロンゴバルドのオベルテンギ家の支配下に置かれるようになりましたが、11世紀になるとオベルテンギ家の一族であるエステ家が支配するようになりました。
ミラノ侯爵のアルベルト・アッツォ2世・デステ(1009‐1097)がエステに城を築き、エステ家の本拠地になりました。
1240年、エステ家はフェラーラに遷都しました。それを機に、エステはエステ家にとっての重要性が急速に薄らぐようになり、徐々に繁栄から取り残されるようになりました。
写真左の建物はサン・ジュゼッペ教会です。


P1010713
パドヴァからの運河であるFiume Frassineです。


P1010712
川を渡った先にサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ聖堂があります。


P1010714
フェラーラ侯爵の次男で傭兵隊長だったタッデオ・デステ(エステ、1390c‐モッツァーニカ、1448)の遺言によって1478年に建設されたドメニコ会の修道院教会が前身です。初代の建物は現在の建物に隣接して建っていました。


P1010716
現在のバロック様式の建物は、1717年に創建され、1745年に完成しました。初代の建物は1736年に取り壊されました。
この場所は、エステの分離集落サン・マルティーノに当たりますが、1776年にサン・マルティーノ分離集落の教区教会となり、奉献式が執り行われました。


P1010826
未完成のファサードです。


P1010717
鐘楼


1489
初代の建物の土台の上に建設された鐘楼です。


1490


P1010715
1924年、第259代教皇ピオ11世(デージョ、1857‐ローマ、1939 教皇在位:1922‐1939)によってBasilica Minoreに格付けされました。


1482
クーポラ


1483
再建の完成時にはクーポラはなく、1889年に追加されました。


P1010718
ファサードを見ます。


1484


1485


1486


1487
拝観します。


P1010827
聖堂内に入りました。


P1010828
単廊式、ラテン十字形、バロック様式の内部です。


P1010829
右側壁


P1010830
天井の装飾


1491


P1010831
主祭壇画の「グラツィエの聖母」は初代の建物にあったものです。


1492
作品帰属が分からない聖堂でした。


1488
外に出ました。


P1010720
Via Principe Umberto


P1010719
旧市街に向かいました。


P1010721
この辺は城壁外に当たります。


P1010722
(つづく)

P1020638イタリアの春と秋は雨期のようで、雨男の私は雨に恵まれてます。


P1020639
エステンセ城にはあとで行きます。


P1020640


P1020641


P1020642


P1020643
土産を何か買わなくては。


P1020644
ドゥオーモの右側壁下のアーケードに行きました。


P1020645


P1020647


P1020648
このお店で土産を買いました。


P1020649
エステンセ城に向かいました。


P1020650
怪僧サヴォナローラ


P1020651


P1020652


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P1020654


P1020655
城内のフレスコ画


P1020656


P1020657


P1020658


P1020659
サン・カルロ・ボッロメオ教会です。


P1020675
フェラーラでは珍しいバロック様式の教会です。


P1020674
写真右端にサン・カルロ・ボッロメオ教会が写ってます。この写真で教会の位置関係がお分かりになると思います。


P1020662
この場所には、14世紀頃に建てられたサンティ・フィリッポ・エ・ジャコモ祈祷所がありました。サヴォイアのカルロ・エマヌエーレ・ピオ枢機卿の指示によって、祈祷所を取り壊して教会が建てられることになりました。
建築家ジョヴァンニ・バッティスタ・アレオッティ(アルジェンタ、1546‐フェラーラ、1636)が起用され、アレオッティの設計によって1612年から1623年に建設されました。


P1020660
2012年のエミリア地震によって被害を受け、今なお立ち入り禁止となっているようです。


P1020661


P1020673
道を挟んで、サン・カルロ・ボッロメオ教会の斜め向かいにも教会があります。


P1020670
サンタ・マリア・デッラ・ピエタ教会です。


P1020668
建築家ルカ・ダネーゼ(ラヴェンナ、1598‐チェント、1672)の設計によって1619年に創建され、1653年に完成した教会です。


P1020671
ファサードは未完成のまま現在に至ってます。


P1020665
2012年のエミリア地震によって被害を受け、立ち入り禁止措置が続いているようです。


P1020666
この教会のミサは別の場所で行われているようです。


P1020667
グエルチーノの作品がありますが、暫く見たことがありません。


P1020669
Palazzo Magnaniniです。


P1020672
ロヴェッラ宮とも呼ばれてます。


P1020664
アルフォンゾ1世・デステ公爵の秘書だったグリエルモ・マニャニーニが自分の邸宅として1508年に建設しました。


P1020663
ビアージョ・ロセッティ(フェラーラ、1447c‐1516)が設計したと言われてます。


P1020676
大体見終わりました。


P1020677
ホテルを経由して駅に向かいました。


P1020678


P1020680
(おわり)

P1020602道の突き当りに写っている建物はサン・フランチェスコ教会です。


P1020603
サン・フランチェスコ教会のサイド・ポータル


P1020604
写真右は中世期の節税対策がされた建物です。


P1020605
サン・フランチェスコ教会のファサード側に回ります。


P1020606
サン・フランチェスコ教会のファサード


P1020607
2012年のエミリア地震によって被害を受けて、この時は立ち入り禁止でした。


P1020608
現在でも修復工事が行われていると思います。中の大部分が拝観できないと思います。


P1020609
旧市街の中心に向かいました。


P1020610


P1020611
街角のタベルナコロ


P1020612
また雨が落ちてきました。


P1020613
写真右に教会風の建物が写ってます。


P1020614
教会のファサード風の造りの建物です。


P1020615
教会とすれば、この教会のことは全く分かりません。


P1020616


P1020617
宗教関係の建物でしょうか?


P1020618
キリストのモノグラムがあります。


P1020619
Palazzo Bevilacqua-Costabiliです。


P1020624
べヴィラクゥア家が邸宅として1430年に建設しました。


P1020620
1830年、コスタビリ・コンタイニ家の所有となりました。
1916年、フランチェスコ・マッツァ伯爵(リヴァナッツァーノ、1841‐トリノ、1924)が買収して女子寄宿学校として使用されるようになりました。


P1020621
1930年から1979年まで、様々な用途に分割賃貸されましたが、1988年にフェラーラ市当局が買収して、修復工事を行いました。
1997年、フェラーラ市は、フェラーラ大学に対して建物の99年間無料提供を開始しました。現在はフェラーラ大学の経済経営学部が置かれてます。


P1020623
ポータルの装飾


1478
アリストテレス


1479
ヘラクレイトス(古代ギリシャの哲学者)


1480
詳細不知


1481
ファサードの装飾


P1020622


P1020625
突き当りの建物はドゥオーモです。


P1020626
聖母子のタベルナコロ


P1020627


P1020628


P1020629


P1020630
ドゥオーモの左側壁です。


P1020631
ドゥオーモ広場に出ます。


P1020632
アーチを潜ればドゥオーモのファサードです。


P1020633
ドゥオーモのファサード前から見たPalazzo Comunaleです。


P1020634


P1020635


P1020636


P1020637
(つづく)

P10205829月20日通りです。


P1020583
サンタ・フランチェスカ・ロマーナ教区教会にやってきました。


P1020584
聖ベネデット会修道院の会衆であるCongrezione Olivetanaが1569年に建設したサン・ジョルジーノ修道院と教会の複合施設が前身です。


P1020585
1608年、第233代教皇パオロ5世(ローマ、1552‐1621 教皇在位1605‐1621)によってフランチェスカ・ロマーナ(ローマ、1384‐1440)に列聖されましたが、それを機に1建物を拡大して聖フランチェスカ・ローマに捧げる教会とするべく、1619年にアルベルト・スキアッティ(フェラーラ、?‐1622)の設計によって再建工事が着工されましたが、スキアッティの体調が悪くなったので、ジョヴァンニ・バッティスタ・アレオッティ(アルジェンタ、1546‐フェラーラ、1636)に引き継がれ、1622年に完成しました。


P1020587
1872年から1874年にかけてさらに拡大拡張工事が行われました。


P1020586
現在のファサードは1929年から1931年に改造されたものです。


1458
現在は毎日開く教会です。
しかし、2012年のエミリア地震で被害を受けて、その修復工事のため長らく閉鎖されていました。


1459
修道院だった建物


1460
鐘楼


1461
ファサードの装飾


1462


1463
メインポータル
この教会の美術的見所は2点の祭壇画です。


1465
ルドヴィーコ・カラッチ(ボローニャ、1555‐1619)の「磔刑とリンボの長老たち」


1464
カミッロ・リッチ(フェラーラ、1580‐1618)の「聖母子の文書を受け取る聖フランチェスカ・ロマーナ」


P1020588
9月20日通りを進みます。


P1020589


P1020590
かなり有名な映画館に向かいました。


P1020591
ポルタ・サン・ピエトロ通りに入りました。


P1020592
チーネマ・ミニョン Cinema Mignon(小さな映画館という意味)です。


P1020593
教会の建物のように見えますが、その通りで、サン・ピエトロ教会、別称サンティ・ピエトロ・エ・パオロ教会だった建物が映画館として利用されてます。


P1020595
前述のようにフェラーラの古い旧市街は、現在のPo di Valanoの対岸のボルゴ・サン・ジョルジョにありましたが、経済の発展と人口増によってPo di Valanoの北側に街の中心が移動して現在の旧市街が形成されました。
それに伴って新しい旧市街における最古の教会の一つが980年頃に創建されたサン・ピエトロ教区教会でした。


1474
1010年の文書に、この教会の存在が記録されたそうです。


1475
創建以来、建物は何度か改造改修されました。


1473
創建以来1530年頃までは、ファサードは現在と反対側の西向きでしたが、1530年頃に現在の東向きのファサードに改造されたそうです。


1467
サン・ピエトロ教会の右側壁です。


1468
教会の碑文


1466
1797年、ナポレオンによって抑圧され、教会は閉鎖されましたが、フランス軍の撤退後、活動が再開されました。
この教会の隣には、食肉処理場がありましたが、その臭気と喧騒のため、次第に信者が減少して19世紀初頭に活動を停止しました。


1469
その後、建物は売却されて、倉庫、体育館、ダンスホール、売春宿に使用されました。その間、食肉処理場は市郊外に移転しました。


P1020594
1941年に映画館として使用されることになり、改造改修工事が行われました。


1470


1477
中は完全な映画館使用になっており、教会の面影は全くありません。


1476
この教会の中にガロファロの傑作がありました。


1472
ベンヴェヌート・ティージ通称イル・ガロファロ(カナーロ、1476/1481‐フェラーラ、1559)の「聖ピエトロ」
1912年にこの教会からドゥオーモに移されました。


1471
ガロファロの「聖パオロ」
1912年にドゥオーモに移されました。


P1020596
教会だった建物が映画館に転用されるのは、イタリアでは珍しくありません。


P1020597
傑作映画Nuovo Cinema Paradiso ニュー・シネマ・パラダイスでも教会の建物で映画が上映されていました。


P1020598
あの映画はパラッツォ・アドリアーノのマリア・サンティッシマ・デル・カルメロ教会で撮影されたそうです。


P1020599
教会だった建物を破壊して、新しい映画館を建てる発想がないイタリアが羨ましいと思います。


P1020600
街角のタベルナコロ


P1020601
(つづく)

P1020559城壁にやってきました。


P1020560
フェラーラの城壁は、ポー川の河岸と寄港する船を防御するために6世紀頃にビザンチン帝国によって建設されたと言われてます。
野蛮人の侵攻を避けるために街の中心は現在のボルゴ・サン・ジョルジョ付近(Basilica di San Giorgio fuori le muraが建っている場所)に移っていきましたが、ブレーシャの伯爵で、後にモデナ、フェラーラ、マントヴァの伯爵を兼ねたテダルド・ディ・カノッサ(?‐1012)によって、10世紀にボルゴ・サン・ジョルジョを取り囲む城壁が追加されました。


P1020561
ボルゴ・サン・ジョルジョ付近は、ポー川の低地であり湿地でもあったので、度重なるポー川の洪水に苦しんでいました。また、街の繁栄に伴い、人口が増大しましたが、次第にポー川の対岸の北方向に街の中心が移っていきました。
それに従って、現在の司教座教会が建設されました。新しく築かれた街、現在のフェラーラを取り囲む城壁が12世紀に建設されました。
1314年には、城壁はPo di Valanoの対岸だけとなり、さらに拡張されました。
ボルゴ・サン・ジョルジョ付近は城壁外となったのです。


1457
フェラーラの城壁図です。
15世紀から16世紀に改造された城壁が現存しています。当時の要塞は周囲約13kmでしたが、都市計画や道路敷設などによって要塞の一部が取り壊され、現在は約9kmの城壁が残されてます。


1440
サン・ジョヴァンニの塔です。


1441


1442


1443


P1020562


P1020563


P1020564


P1020565


P1020566


1444
南に位置するパオラ門です。


1445
こちらは門の裏側です。


1446
パオラ門のファサード
パオラ門付近の城壁の一部は19世紀末に取り壊されました。


1447
ジョヴァンニ・バッティスタ・アレオッティ(アルジェンタ、1546‐フェラーラ、1636)の設計によって1612年に建設されたパオラ門です。


1448
城壁の北にあるPorta degli Angeli


1449
16世紀に築かれた見張り塔です。


1450
Torrione del Barco


1451


1452


1453


1454


1455


1456


P1020567
城壁内に戻りました。


P1020568
フェラーラの城壁をすべて回るのは大変です。


P1020569
友人とPalazzo Costabiliで待ち合わせしているので、それまでに軽食を食べておく必要があります。


P1020570
この辺は食べるところがありません。


P1020572
なんとか見つけて、腹に押し込みました。


P1020571
不味かったが、その辺は仕方がない。


P1020573
この付近は街はずれなので、そもそも適当な店がありません。


P1020574
Palazzo Costabiliにやってきました。


P1020575
彼は専門家なので、じっくりと話を聞くことが出来ました。


P1020576


P1020577


P1020578


P1020579


P1020580
外に出ます。


P1020581
(つづく)

P1020543引き続き城壁外のサン・ジョルジョ聖堂の聖堂内部です。


P1020532
サン・ベネデット礼拝堂の左側壁です。


1423
フランチェスコ・フェッラーリ(フェラーラ、1634‐1708)の「聖ベネデットの生涯の物語」です。


P1020533
サン・ベネデット礼拝堂の右側壁です。


1424
フランチェスコ・フェッラーリ(フェラーラ、1634‐1708)の「聖ベネデットの生涯の物語」


P1020534
フランチェスコ・フェッラーリ(フェラーラ、1634‐1708)の「聖ベネデットの生涯の物語」


1425


P1020535
フランチェスコ・フェッラーリ(フェラーラ、1634‐1708)の「聖ベネデットの生涯の物語」


1426


P1020536
サン・ベネデット礼拝堂の天井フレスコ画もフランチェスコ・フェッラーリ(フェラーラ、1634‐1708)によって描かれました。


P1020541
Presbiterio


1427


P1020516
Presbiterioの左側壁にロレンツォ・ロヴェレッラのモニュメントがあります。


1428
ロレンツォ・ロヴェレッラのモニュメントです。
ロレンツォ・ロヴェレッラ(?、?‐フェラーラ、1474)は、1460年にフェラーラ司教に任じられ、1474年に没するまで、その任にありました。


1429
アンブロージョ・バロッチ通称アンブロージョ・ダ・ミラノ(ミラノ、15世紀前半‐ウルビーノ、15世紀後半)と、おそらくアントニオ・ロセッリーノ(セッティニャーノ、1427‐フィレンツェ、1479)によって1475年に制作されたモニュメントです。


1430
上部の聖母子


1431
聖人たち


1432


1433


1434
ロレンツォ・ロヴェレッラ司教の墓


1435


1436


P1020517
主祭壇画(詳細不知)


P1020518
フランチェスコ・フェッラーリの後陣フレスコ画


P1020519
フランチェスコ・フェッラーリの後陣フレスコ画


1437
後陣右側壁にフランチェスコ・ナセッリ(フェラーラ、1570‐1630)の2つの作品があります。


P1020520
フランチェスコ・ナセッリ(フェラーラ、1570‐1630)の「マギの礼拝」


P1020521
フランチェスコ・ナセッリ(フェラーラ、1570‐1630)の「割礼」


P1020522
フランチェスコ・フェッラーリ(フェラーラ、1634‐1708)の「べアート・ベルナルド・トロメイに顕現する聖母子」


1438


P1020542


1439


1444
最後にコズメ・トゥーラ(フェラーラ、1433c‐1495)の「ロヴェレッラの多翼祭壇画」について触れておきましょう。
ロレンツォ・ロヴェレッラがフェラーラ司教に任じられたことを祝し、兄のバルトロメオ・ロヴェレッラ枢機卿がコズメ・トゥーラに注文して、1470年から1474年に制作された多翼祭壇画です。
完成後、聖堂の主祭壇に置かれていましたが、1709年に起きた聖堂内の爆発によって損傷を受け、主祭壇から撤去されました。損傷を受けなったパネルは取り外され、後に恐らく売却されて、各パネルは世界中の美術館で展示されてます。
上の写真は、多翼祭壇画の完成直後の記述をもとに作られた全体図です。


1445
メインパネルの「玉座の聖母子と音楽天使たち」
ロンドンのナショナル・ギャラリーにあります。


1446
上部にあった「ピエタ」
ルーブル美術館にあります。


1448
「聖マウレリオと聖パオロと注文主バルトロメオ・ロヴェレッラ枢機卿」
ローマのコロンナ宮にあります。


1449
裾絵の「エジプトへの逃避」
ニューヨークのメトロポリタン美術館にあります。


1450
裾絵の「聖マウレリオの逮捕」
フェラーラのディアマンティ宮の国立美術館にあります。


1451
裾絵の「聖マウレリオの殉教」
フェラーラの国立美術館にあります。


P1020558
外に出ました。
(つづく)

P1020553拝観します。


P1020499
聖堂内に入りました。


P1020501
三廊式、ラテン十字形、ルネサンス様式の内部です。


P1020500
右側廊方向


P1020502
交差ヴォールト


P1020527
壁の殆どがフレスコ画によって埋められてます。


P1020528
フレスコ画は、フランチェスコ・フェッラーリ(フェラーラ、1634‐1708)によって1682年から数年かかって制作されました。


P1020529


P1020539


P1020540


1408


P1020503
フランチェスコ・コスタンツォ・カターニオ別称フランチェスコ・コスタンツォ・カッタネオ(フェラーラ、1602‐1665)の「荊刑のキリスト」(1636)
フランチェスコ・コスタンツォ・カターニオは画家ジュリオ・チェーザレ・カターニオの息子です。フランチェスコ・コスタンツォは、幼少期に父から手ほどきを受けた後、スカルセッリーノに師事しましたが、父によってボローニャに送られ、グイド・レーニに師事しました。1627年、フェラーラに戻ると、カルロ・ボノーニの作品に感銘を受け、やがてカルロ・ボノーニ工房に入ってカルロから学びましたが、ルドヴィーコ・カラッチとカラヴァッジョの影響を受けた画風になりました。


1409
「荊刑のキリスト」はフランチェスコ・コスタンツォ・カターニオの代表作です。


P1020504
磔刑の礼拝堂


1410
制作者情報等不知の「磔刑と聖母と聖ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ」


P1020505
フランチェスコ・コスタンツォ・カターニオ別称フランチェスコ・コスタンツォ・カッタネオ(フェラーラ、1602‐1665)の「キリストの鞭打ち」(1636以前)


1411


P1020506
ベネデット・ジェンナーリ・イル・ジョーヴァネ(チェント、1633‐ボローニャ、1715)の「聖マウレリオと天使」
この作品はグエルチーノ作品の複製です。


1412
ベネデット・ジェンナーリ・イル・ジョーヴァネは、ベネデット・ジェンナーリ・イル・ヴェッキオ(チェント、1633‐1610)の孫です。イル・ヴェッキオはグエルチーノの最初の師匠でした。


P1020508
フランチェスコ・フェッラーリのフレスコ画


1414


1413


1415
サン・マウレリオ礼拝堂です。


P1020509
サン・マウレリオ礼拝堂の祭壇画は、フランチェスコ・フェッラーリ(フェラーラ、1634‐1708)の「聖マウレリオの殉教」です。


P1020510
サン・マウレリオ礼拝堂のフレスコ画もフランチェスコ・フェッラーリによって描かれました。


P1020511


P1020512
サン・マウレリオ礼拝堂の天井フレスコ画もフランチェスコ・フェッラーリによって描かれました。


P1020513
フランチェスコ・フェッラーリ(フェラーラ、1634‐1708)の「聖体を授ける聖マウレリオ」


P1020514


P1020523
フランチェスコ・ナセッリ(フェラーラ、1570c‐1630c)の「聖ベネデットの施し」


1418
これはグイド・レーニ作品のコピー画です。


P1020524
聖母礼拝堂です。


1419
「聖母子」(詳細不知)


P1020525
フランチェスコ・ナセッリ(フェラーラ、1570c‐1630c)の「悪魔を追放する聖ベネデット」


1420
この作品はルドヴィーコ・カラッチ作品のコピー画です。


P1020526
洗礼盤


P1020530
カウンターファサード


P1020531
サン・ベネデット礼拝堂です。


P1020537
サン・ベネデット礼拝堂の祭壇画は、ドメニコ・マリア・カヌーティ(ボローニャ、1625‐1684)の「聖ベネデットと天使」


1421
ドメニコ・マリア・カヌーティは、グイド・レーニ工房にいましたが、後にグエルチーノに師事しました。


1422
(つづく)

P1020491フェラーラの城壁です。


P1020492
城壁外のボルゴ・サン・ジョルジョにやってきました。
サン・ジョルジョ橋の四隅に四体の聖人像があります。


1389
ガエターノ・チニャローリ(トリノ、1730‐1800)の「聖マウレリオ」


1390
ガエターノ・チニャローリ(トリノ、1730‐1800)の「聖人」
聖人は特定出来ないようです。


1391
ガエターノ・チニャローリ(トリノ、1730‐1800)の「聖ロッコ」


1392
ガエターノ・チニャローリ(トリノ、1730‐1800)の「聖ジョルジョ」


P1020493
サン・ジョルジョ橋の下を流れるPo di Valanoです。


P1020494
Po di Valanoは、ポー川のデルタ支流です。
中世以前はポー川の本流でしたが、度重なる氾濫によってポー川の流れが変わり、現在は支流となってます。


P1020495
城壁外のサン・ジョルジョ聖堂 Basilica di San Giorgio fuori le muraの鐘楼です。


P1020496
城壁外のサン・ジョルジョ聖堂はボルゴ・サン・ジョルジョに建ってます。
フェラーラの起源は、今日のフェラーラの南東約10km離れたVoghenzaでしたが、4世紀にヴォゲンツァは司教区に昇格しました。


P1020555
7世紀から8世紀にかけてヴォゲンツァは異教徒の野蛮人の侵略を受けて荒廃してしまいました。ヴォゲンツァの住民は、城壁外のサン・ジョルジョ聖堂が建っているボルゴ・サン・ジョルジョに移住しましたが、それと共に司教座も移され、7世紀に創建されたサン・ジョルジョ教会が司教座教会となりました。


P1020497
ところがポー川右岸にあるボルゴ・サン・ジョルジョは、湿地であり、しかも度重なる洪水によって経済的な発展には限界がありました。経済発展によって増大した人口はやがてポー川左岸の現在のフェラーラに移り、城壁が築かれました。
それに伴って新サン・ジョルジョ司教座教会が建設されました。


P1020636
現在のサン・ジョルジョ司教座教会です。市域の中心の移動によって建設されました。1135年に司教座がこの教会に移されました。


P1020498
現在の姿は、ビアージョ・ロセッティ(フェラーラ、1447c‐1516)の設計によって15世紀に再建された建物がその原形となってます。


P1020552
1581年、建築家Alberto Schiatti(フェラーラ、?‐1586)によってファサードが改造されましたが、現在のバロック様式のファサードは建築家Andrea Ferreri(ミラノ、1673‐フェラーラ、1744)によって18世紀前半の建設されました。


1393
鐘楼はビアージョ・ロセッティ(フェラーラ、1447c‐1516)の設計によって1485年に建設されました。


1407
鐘楼のモニュメント


1394
フェラーラ戦争(1482‐1484)の平和のモニュメント


1395
平和のモニュメント上の彫像


1402
後陣


P1020554
毎日開く教会です。


P1020554
ファサードを見ます。ファサード上部左右に彫像があります。


1397
フェラーラ司教の聖マウレリオ


1398
聖ロレンツォ


1399
竜を退治する聖ジョルジョ


1400


1401
ファサードに向かって右側に修道院だった建物があります。


P1020544


P1020545
サン・ジョルジョ修道院の入り口です。


1403


1404


P1020546
修道院の入り口から中に入りました。


P1020547
キオストロ回廊に出ます。


P1020548


P1020549
回廊壁にある浮彫


P1020550
中庭に井戸があります。


1405


1406


P1020556
キオストロ回廊から外に出ました。


P1020551
ファサード側に回ります。


P1020557
(つづく)

P1020481引き続きPalazzo Costabiliです。


1357
Sala Dei Tesoroのフレスコ画です。


1358
ガロファロの傑作です。


1359
考古学の展示よりも、こちらのフレスコ画の方が断然良いと思います。


1360
考古学博物館の展示は、どこも同じような展示ですから。


1361
Sala delle Storie di Giuseppeです。


1362
Sala delle Storie di Giuseppeの天井にフレスコ画があります。


1363
Sala delle Storie di Giuseppeのフレスコ画はガロファロの弟子によって制作されました。


1364


1365


1366


1367


1368


1369
部屋の調度品


1370


1371


1372
休憩室


1373


1374
礼拝堂


1375


1376
次は考古学博物館の展示です。


1377
考古学博物館の展示品は、どこの博物館でも大体同じです。


1379
副葬品(紀元前300‐紀元前250)


1378
副葬品(紀元前300‐紀元前250)


1380
古代ギリシャの壺(紀元前450‐紀元前250)


1381


1382


1383


1384


1385


1386


1387


1388


P1020483
宮殿から外に出ました。


P1020485
展示物よりもPalazzo Costabiliのフレスコ画などの方が印象深いものがありました。


P1020484
道の突き当りに門があります。


P1020486
18世紀に建設されたPorta Romanaです。


P1020487
市域が拡大されるとともに城壁が外へと広がりましたが、フェラーラ最後の城壁に設けられた門です。


P1020490
Porta Romanaを潜りました。


P1020489
城壁外に出ました。


P1020488
(つづく)

P1020479引き続きPalazzo Costabiliです。


1317
庭園です。


1318


1319


1320


1321


1322


1323


1324


1325
宮殿の建物内に入ります。


1330
階段の装飾


1327
振り返って庭園の方を見る。


1328
階段踊り場の柱


1329
階段踊り場の柱の柱頭


1326
更に階段を上ります。


1331
階上の廊下


1332
展示室


1333
遺跡の発掘場所を示した地図


1334
天井の装飾


1335
ガロファロの弟子たちによるフレスコ画


1336
次はSala dei Profetiの装飾です。


1337
Sala dei Profetiのフレスコ画はガロファロの弟子たちによって描かれました。


1338


1339
モーゼ


1340


1341


1342
次はSala Dei Tesoroの装飾です。


1343
Sala Dei Tesoroはフレスコ画によって装飾されてます。


1344
フレスコ画は、ベンヴェヌート・ティシ・ダ・ガロファロ通称イル・ガロファロ(カナーロ、1476/1481‐フェラーラ、1559)によって制作されました。
Sala Dei Tesoroのフレスコ画はガロファロの代表作の一つです。


1345
Sala Dei Tesoroのフレスコ画は、2度渡って描かれました。


1346
色彩鮮やかに描かれている部分は、マントヴァのサン・ジョルジョ城のCamera degli Sposiに描かれたアンドレア・マンテーニャ(イーゾラ・ディ・カルトゥーロ、1431‐マントヴァ、1506)のフレスコ画(1465‐1474)を参考にして、1503年から1506年に制作されました。


1347


1348


1349
モノクロの部分は、ガロファロがフェラーラに戻った1517年頃に制作されたとされてます。


1350
モノクロ部分のテーマは「エロスとアンテロースの物語」です。


1351


1352


1353
写真上部が1503年から1506年に制作されたもので、写真下部は1517年頃に制作されたものです。


1354


1355


1356
(つづく)

P1020481次は旧サンタ・アポッロニア教会に隣接するPalazzo Costabiliです。


P1020482
コスタビリ宮殿、またはイル・モーロ宮殿と呼ばれてます。


1280
1491年、ミラノ公爵ルドヴィーコ・マリア・スフォルツァ別称ルドヴィーコ・イル・モーロ通称イル・モーロ(ヴィジェーヴァノ、1452‐フランス、ロシュ、1508)は、ベアトリーチェ・デステ(フェラーラ、1475‐ミラノ、1497)と結婚しました。
ベアトリーチェ・デステは、エルコーレ1世・デステ公爵の娘で、イサベッラ・デステの妹です。


1281
予てから休息の地を求めていたイル・モーロは、妻の生まれ故郷フェラーラに休息のための宮殿建設を決めました。
宮殿建設の責任者としてイル・モーロの秘書アントニオ・コスタビリ(?、1450?‐フェラーラ、1527)を起用しました。アントニオ・コスタビリは、エステ家と親密であり、エルコーレ1世・デステの友人でした。


1282
アントニオ・コスタビリは、エステ家お抱えの建築家ビアージョ・ロセッティ(フェラーラ、1447c‐1516)に宮殿建築を委嘱しました。
そうして、ビアージョ・ロセッティの設計によって1495年に創建され、1504年に完成したのがPalazzo Costabiliです。
しかし、イル・モーロは、1499年にミラノを去り、ルイ12世に敗れて、やがて捕らわれの身となり、獄中で没しました。
Palazzo Costabiliは完成したものの、注文主であるイル・モーロは訪れることがなかったのです。
どのような経緯があったのか、私には詳しい事情が分からないのですが、完成した宮殿はアントニオ・コスタビリが所有することになりました。
その後、約200年間はコスタビリ家の邸宅として使用されましたが、売却され、所有者が何度も変わりました。所有者が何度も変わるうちに宮殿は劣化が進みました。


1289
フェラーラ県にコマッキオというコムーネがありますが、19世紀末、コマッキオ近郊で行われた土木工事の際、紀元前2世紀に放棄されたスピーナという街の遺跡が発見されました。スピーナは、ポー川が流れ、アドリア海に近い湿地にありましたが、度重なる洪水と夥しい蚊の発生に苦しみ、放棄されたそうです。
スピーナ遺跡からの発掘物を展示するために場所としてPalazzo Costabiliが選択され、1920年に国が買収しました。1932年から博物館としての改修工事が行われ、1935年にフェラーラの国立考古学博物館がオープンしました。


P1020480
国立考古学博物館の入り口です。


1283
国立考古学博物館の展示よりも宮殿自体の方が見所豊富に思えます。


1284
中に入ります。


1290


1285
中庭から見た宮殿


1286


1287
ロッジャがあります。


1288


1291
ロッジャの上部


1292
ロッジャの柱頭


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1299


1300
宮殿装飾断片


1301


1309
コートヤードに入ります。


1302
Corte d’Onore


1303
Corte d’Onoreから隣接する旧サンタ・アポッロニア教会が見えます。


1304


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1307
Corte d’Onoreの柱頭


1308


1310


1311


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1313


1314


1315


1316
(つづく)

P1020455とうとう雨が降ってきました。
イタリアのゴミ出しは、家毎に出すのが普通です。


P1020456
南の方に進みました。


P1020459
廃墟となったサンタンドレア教区教会だった建物です。


P1020458
1000年頃に創建されたサンタンドレア教区教会でした。1177年の文書にその存在が詳しく記載されたそうです。


P1020457
13世紀後半、サンタンドレア教区教会(修道院が併設されていた複合施設でした)はFrati Eremitani di Sant’Agostinoによって運営されていましたが、フェラーラ、モデナ、レッジョのシニョーレ(支配者)だったアッツィ7世・デステ(フェラーラ、1263‐エステ、1308)の娘ベアトリーチェはFrati Eremitani di Sant’Agostinoの修道女になりました。それを機に、アッツィ7世・デステはサンタンドレア教区教会の拡張を命令しました。それ以降、サンタンドレア教区教会はエステ家の庇護のもとにおかれ、1501年までにさらに拡張されました。


P1020460
1796年、ナポレオンによって抑圧され、修道士は追放され、建物は没収され、フランス軍の兵舎に転用されました。


1265
1806年、サンタンドレア教区教会は再開されましたが、併設の修道院は閉鎖されたままでした。


1266
1823年、第252代教皇レオ12世(1760‐1829 在位:1823‐1829)は、イエズス会修道院をフェラーラに建設すること命じましたが、その資材をサンタンドレア教区教会の修道院から調達するように指示しました。そうして修道院だった建物は資材調達のため破壊されたのです。


1267
1866年、教区教会は閉鎖されました。閉鎖後、建物は放置して、1938年に屋根の一部が崩落、1969年に屋根の殆どが崩落したので、建物は破壊されることになりました。


P1020462
サンタンドレア教区教会の建物はそのごく一部が残されているにすぎません。


P1020461
南を流れるポー川に向かって進みました。


P1020463
道の左奥に城壁があります。


P1020464
次はサンタ・テレーザ教会です。


P1020465
サンタ・テレーザ・トラスヴェルベラータ教会にやってきました。


P1020466
この場所に地元の人たちが詣でる信仰の小さな祠がありましたが、1739年頃から跣足カルメル会のサン・ジローラモ修道院の修道女5人が小さな祠に毎日通って信仰を捧げました。


1269
やがて信仰の輪が広がり、18世紀後半になると教会建設の話が持ち上がり、具体化の運びとなりました。


1268
フェラーラの建築家ガエターノ・バルビエーリ(フェラーラ、1711‐1797)の設計によって、1781年から1788年に建設されました。


1272
しかし、建設されてから9年後の1797年にナポレオンによって抑圧され、閉鎖されてしまいました。
1821年に活動が再開されました。


1270
修道院だった建物の外壁


1271
サンタ・テレーザ・トラスヴェルベラータ教会の左側壁


P1020467
毎日開く教会です。


P1020469
Via Carlo Mayr


P1020470
Via Borgovadoを通ってサンタ・アポッロニア教会に向かいました。


P1020471
Via XX Setembreに入りました。サンタ・アポッロニア教会はこの通りに面して建ってます。


P1020472
サンタ・アポッロニア教会です。


P1020477
Confraternita della Morte(死の同信会)によって15世紀に建設された小さな教会が前身です。


P1020474
15世紀末には手狭になったので、フランチェスコ・マッツァレッリの設計によって1612年から1668年に再建された八角形の建物が現在の姿の原型です。


P1020476
1975年に教会は閉鎖されました。つまり旧サンタ・アポッロニア教会というわけです。


P1020473
閉鎖されて数年後に建物の一部が解体されたそうです。


P1020479
旧サンタ・アポッロニア教会に隣接して、フェラーラの国立考古学博物館があります。


P1020475
今世紀になると、国立考古学博物館の一部として旧サンタ・アポッロニア教会の建物を転用する計画が具体化しました。
そのための修復工事が行われていましたが、2012年のエミリア地震によって被害を受けたようで、その後、計画が進捗した話が聞こえてこなくなりました。
コロナ禍以降、イタリアに行ったことがないので現在の最新状況については知らないのです。


1275


1274
ポータル


1276
ポータルの彫刻


1273
サンタ・アポッロニア修道院だった建物


1277


1278
城壁近くに閉鎖された旧教会が多いように思います。


1279


P1020478
(つづく)

P1020432スキファノイア宮殿からMuseo Lapidarioに向かいました。
ラピダーリオとは、碑文、碑銘、石に刻んだ、という意味です。


P1020433
1470年に建設されたサンタ・リベラ教会です。サンタ・マリア・でっれ・グラツィエに捧げられた教会です。


P1020444
1796年、ナポレオンの抑圧によって聖職者が追放されるとともに宗教活動が禁じられました。その後、サンタ・リベラ教会だった建物は、倉庫、厩舎、工房などに転用されました。


P1020434
旧サンタ・リベラ教会の建物を博物館に転用する計画が具体化し、1979年、フェラーラ市が建物を買収しました。
建物は改装され、1984年に市立博物館がオープンしました。


1239
中は完全に改装されて、教会だった面影は後陣の構造に僅かに認められるだけです。


P1020451
後陣の天井


P1020453


P1020450


P1020449


P1020446
石棺、石碑、土器などが展示の中心です。


P1020447
この博物館の見どころは、アウレリオの石棺と新生児の石棺と言われてます。


P1020452


P1020454


1240
博物館は、通りを挟んでスキファノイア宮殿の斜め後方向かいにあります。スキファノイア宮殿の切符で入館可能だったと思いますが、近年無料公開という情報がありますが、どうでしょうか?


1241
碑文(1世紀後半)


1242
石碑(1世紀)


1243
アウレリオの石棺(3世紀)


1244
ラヴェンナで造られたアウレリオの石棺


1245


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1248


1249
アウレリオの石棺は、この博物館で最重要の作品とされてます。


1250
碑文(2世紀)


1251
キリスト教徒の石棺(13世紀)


1252


1253


1255
アンニア・ファウスティーナの石棺(225‐250c)


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1257


1258
アンニア・ファウスティーナの石棺の裏面


1259
新生児の石棺(190‐220c)


1260
石碑(50)


1261
石碑(1-2世紀)


1262
石碑(紀元前27‐紀元後68)


1263
石碑(190‐210)


1264
石碑(1世紀)


P1020445
外に出ました。
(つづく)

P2520905次の部屋です。Sala della VirtuまたはSala degli Stucchiと呼ばれてます。


1211
スタッコ彫刻とテラコッタによる装飾で有名です。


1212
スタッコ彫刻とテラコッタによる装飾は、彫刻家ドメニコ・ディ・パリス通称ドメニコ・ディ・カヴァッロ(パドヴァ、1456‐1503記録)と画家ブオンジョヴァンニ・ダ・ジェミニアーノ(フェラーラ、1446‐1476記録)によって1516年頃に行われました。


1213
フレスコ画断片が残されてます。


1214
壁一面にフレスコ画があったと言われてます。


1215
フレスコ画は、フェラーラ派画家たちによって1468年頃に描かれたとされてますが、それ以上の具体的なことは分からないようです。


1216


1217


1218


1219


1220


1221


1222


1223
Fortiduto


1224
Temperanza


1225
Spes


1226
Fides


1227


1228


1229


1230


1231


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外に出ました。
(つづく スキファノイア宮殿の項はこれで終わりです)

P2520771次は9月です。


1183
9月のフレスコ画は、エルコーレ・デ・ロベルティ(フェラーラ、1451‐1496)によって1468年から1470年頃に描かれました。


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9月の上段です。


1184
上段のテーマは「ウルカヌスの勝利」です。


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9月の中段です。


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中段は「9月の寓意」です。


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次は下段です。


1195


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1201


1202


1203


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次は10月です。


1206
落剝、退職が著しい10月です。


P2520767
11月です。


1207
11月もダメです。


P2520766
12月です。


1208
上段だけが何とか見るに値するでしょうか?


1209
12月の上段です。


1210
12月の横に色鮮やかなフレスコ画があります。


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これです。


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(つづく)

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