2022年09月
シエナ国立絵画館再び (その10)
シエナ国立絵画館再び (その9)
シエナ国立絵画館再び (その8)
シエナ国立絵画館再び (その7)
シエナ国立絵画館再び (その6)
「聖母子」
「聖母子」
「アレッサンドリアの聖カテリーナの神秘な結婚」
「べアート・アンドレア・ガッレラーニ」
「べアート・アゴスティーノ・ノヴェッロとその物語」
「トロサの聖ルドヴィーコ」、「アッシジの聖フランチェスコ」
第6室です。
「マギの礼拝」
「トリッティコ」
「聖母戴冠」
(つづく)
シエナ国立絵画館再び (その5)
シエナ国立絵画館再び (その4)
シエナ国立絵画館再び (その3)
シエナ国立絵画館再び (その2)
シエナ国立絵画館再び (その1)
今までに2回取り上げたシエナの国立絵画館です。
ブオンシニョーリ館に国立絵画館があります。
シエナに来る目的の一つがここに入館することです。
切符売り場
展示室は、日本でいうところの2階、3階、4階の3フロアーにあります。
地上階の小さな中庭
中庭の古井戸
「死せるキリスト」のフレスコ画
作品帰属が明示されていません。
アンドレア・ディ・バルトロの「聖母子」
展示室に上る階段があります。
階段横に石棺などが置かれてます。
石棺(詳細不知)
階段を上って展示室に向かいました。
ジローラモ・ダ・クレモナの「受胎告知」です。
やはり部屋番号の順に見ていくのが良いでしょう。
第1室です。展示作品がいつも異なる部屋だと思います。
「彩色磔刑像」
「祈るキリスト」
「祈りキリストと磔刑と聖エレーナの生涯」
(つづく)
エステの町歩き (その5 最終回)
引き続きドゥオーモの祭壇画です。
私には作品帰属が全く分からないものばかりです。
ドゥオーモはこれで終わりです。
ドゥオーモから外に出ました。
サン・フランチェスコ門です。
南から町の中心に入る入口として、1581年に建設されました。門を潜れば、直ぐに運河の上に出ます。
門の外に出ずにVia Massimo d’Azeglioを進みました。
突き当りにサン・ロッコ教会があります。
写真右にヴぇッキア門があります。
この店で果物を買いました。
サン・ロッコ教会です。
最初の建物は1480年に建設されました。現在の建物は1767年に再建された二代目となるものです。
1751年に建設された鐘楼です。
20世紀初めに宗教活動が停止され、その後、コムーネ所有の建物になりました。
中に入るとパーティーをやっていました。
Porta Vecchiaです。市の塔、時計塔とも呼ばれてます。
エステに城壁が築かれると同時に、この場所に入口門が設けられたとされてますが、具体的な時期が分からないようです。
1238年の文書に、門についての記述があるそうです。
門を潜ると、直ぐに橋があります。橋の下にパドヴァからの運河が流れてます。
城壁外から見たPorta Vecchiaです。
1238年の文書に記載された石造りの門は、1688年の地震によって倒壊してしまいました。その門の残骸土台を利用して、1690年に再建された門が現在の姿になってます。
門を潜ります。
城壁内に戻ります。
マッジョーレ広場へと進みました。
Palazzo Municipale(写真右端の建物)
エステ家がフェラーラに去ってから、何処となく寂れたような気がしました。
ドゥオーモが見えました。
大体見終わったようです。
写真右奥にサン・マルティーノ教会があります。
サン・マルティーノ教会の後陣
サン・マルティーノ教会の鐘楼
ヴェネツィア領だった筈ですが、有翼のライオン像が見当たりませんでした。
(おわり)
エステの町歩き (その4 ドゥオーモ)
次はドゥオーモです。
エステのドゥオーモ、サンタ・テクラ教区教会です。
2012年のエミリア地震によって被害を受け、修復工事中でしたが、拝観ができました。
4世紀または5世紀頃に、異教の建物、恐らく異教の寺院だった建物の残骸を一部利用して建設された初期キリスト教会が前身とされており、エステの最古の教会でした。
1034年の文書に、この教会の存在が初めて記録されたそうです。
12世紀に二番目の建物が再建されました。
三番目の建物が、建築家ヴィンチェンツォ・スカモッティ(ヴィチェンツァ、1548‐ヴェネツィア、1616)の設計によって、1583年から1592年に建設されました。
現在、地震による被害に対する修復工事が完了したようです。
さて、地震による被害ですが、1688年に地震によって三番目の建物は瓦礫になってしまいました。修復は不可能と判断されて、四番目となる建物が再建されることになりました。
そうして、建築家アントニオ・ドメニコ・ガスパーリ(アントニオ・ガスパーリと呼ばれることもある)(ヴェネツィア?、1660c‐トレヴィーゾ、マゼール、1723)が起用され、彼の設計によって1690年から1720年に四番目の建物が建設されました。1748年に四番目の建物の奉献式が執り行われたそうです。
四番目の建物が現在の姿になってます。
ファサードは未完成のまま現在に至ってます。
1896年、第256代教皇レオーネ13世(1810‐1903 教皇在位:1878‐1903)によってArcipretale di Este a Chiesa Abbazialeに格付けされました。
8世紀に建設された鐘楼を一部使用して、1724年から1730年に建設された鐘楼です。
中に入りました。
この時は後陣が修復工事中でした。
後陣修復後の写真です。
楕円形、バロック様式の内部です。
右側壁
Presbiterio
後陣に置かれた祭壇画がこの教会の最大の見どころです。
ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロ(ヴェネツィア、1696‐マドリッド、1770)の「ペスト禍のエステを解放する聖テクラ」(1759)
修復工事のため、後陣左側壁の祭壇画がよく見えませんでした。
後陣右側壁の祭壇画
磔刑の礼拝堂
フランチェスコ・テリッリ(フェルトレ、1584‐1635)の「磔刑像」
ベルナルド・ファルコーニ(ビッソーネ、1620‐1696c)の「嘆きの聖母と聖マリア・マッダレーナ」
天井
楕円形の天井
天井のフレスコ画(詳細不知)
パドヴァの聖アントニオ礼拝堂
詳細不知の祭壇画
ベアトリーチェ・デステの礼拝堂です。
ミケランジェロ・グリゴレッティ(ポルデノーネ、1801‐ヴェネツィア、1870)の「ベアータ・ヴェルジネと聖ジョヴァンニ・バッティスタとベアータ・ベアトリーチェ・デステ」
ミケランジェロ・グリゴレッティは、宗教画も制作しましたが、肖像画家として非常に有名です。
詳細不知
サンティッシモ・サクラメント礼拝堂です。
アントニオ・コッラディーニ(エステ、1688‐ナポリ、1752)の「聖体の勝利」
詳細不知
詳細不知
(つづく)
エステの町歩き (その3)
市の塔の見学は後回しにしました。
城の方に向かいました。
Villa Mocenigoです。
ヴェネツィア貴族のモチェニーゴ家がエステ城の一部を組み入れて16世紀末に建設したヴィッラです。
18世紀に火災で破壊してしまったので、ヴィッラの建物の大部分が再建されました。
エステの考古学博物館と思われてますが、正式名はMuseo Nazionale Atetinoと言い、国立の博物館です。当初、エステのコムーネの博物館として開館しましたが、後に国立の博物館になりました。
エステ周辺の遺跡は13‐14世紀に発見され、19世紀以降を中心に発掘調査が行われましたが、その際に出土した発掘物が展示の中心です。
考古博物館の展示は、どこの博物館でも似たり寄ったりです。
私にとって、興味ある作品が一つだけありました。
チーマ・ダ・コネリアーノ(コネリアーノ、1459c‐1517c)の「聖母子」
モチェニーゴ家が所有していた作品でしょうか?
Castello Carrarese di Esteと呼ばれる城の中に入りました。
Colli Euganeiの南端に当たり、周囲を見渡す絶好の地にあったことから、何時しか壁に囲まれた住居が建てられたと考えられてます。壁に囲まれた住居は589年の洪水によって流されましたが、その後、同じような建物が建設されました。しかし、その建物は次第に砦に強化されたようです。
最初の城は、オベルテンギ家の一員で、エステ家最初の当主で、ミラノ侯爵アルベルト・アッツォ2世・デステ(ヴァンガディッツァ、1009‐1096)によって、1056年頃に築城されました。
エステ領主は、アルベルト・アッツォ2世・デステの三男であるフォルコ1世・デステに引き継がれましたが、フォルコ1世によって城は拡大整備されました。
13世紀の度重なる戦争によって、城は深刻な被害を受けました。
エステはエステ家の支配下にありましたが、1239年、エステ家はその本拠地をフェラーラに決め、フェラーラに宮殿を移しました。
現在の城は、パドヴァ領主のウンベルティーノ・ダ・カッラーラによって1339年から1340年に建設されました。
庭園に出ます。
城は、これで終わりです。
(つづく)
エステの町歩き (その2)
引き続き、エステ家発祥の地エステです。
Via Principe Umbertoです。
この辺は、13世紀頃には城壁外でしたが、16世紀に城壁内に組み入れられました。
サン・マルティーノ教会です。
6世紀頃に建設された、エステで最古の教会とされてます。
日曜日しか開きません。
11世紀初めの文書に、この教会の存在が初めて記載されたそうです。
高さ23mの鐘楼は、1293年に建設されました。
14世紀初め、隣接していたサン・ロレンツォ礼拝堂を組み込んで拡大されました。
1600年、ファサードが西側に4mほど移動して、ファサードが左右非対称となりました。
クーポラ
後陣
三廊式、ロマネスク様式の内部です。
教会内部の写真は外部サイトから拝借しました。
主祭壇
制作者情報不知の「聖母子と聖ジョヴァンニ・バッティスタと聖ジュゼッペ」(1680‐90)
Maestro di Ispirazione Giottescaの「磔刑」(14世紀中ごろ)
Maestro di Ispirazione Giottescaの「聖アガタの殉教」(14世紀中頃)
拝観するのが大変な教会です。
町の中心の広場に向かいました。
修道院だった建物のようですが、すでに解体されたかもしれません。
アーチを潜って、町の中心である広場に出ます。
エステの中心、マッジョーレ広場に出ました。
11世紀には、この広場の原形が存在していたそうです。
マッジョーレ広場のライオン像
このライオン像の詳細が分かりません。
町役場 Palazzo Municipaleです。
17世紀に建設されたPalazzo Municipaleです。
18世紀に改造され、現在の姿の原形になったそうです。
Palazzo Scaligero del Capitanoです。
Palazzo Scaligero del Capitanoは、14世紀にスカラ家によって建設されました。
スカラ家が退去すると、フェラーラのエステ家から派遣された代官の宿舎兼事務所として使用されました。
Palazzo Scaligero del Capitanoの碑文
ロッジャ
現在、Palazzo Scaligero del Capitanoは文書館として使用されてます。
(つづく)
エステの町歩き (その1)
エステ駅に到着しました。
エステは、人口15,980人(2021年11月30日現在)のヴェネト州パドヴァ県にあるコムーネです。
エステ駅の駅舎です。
チェントロ・ストーリコに向かいました。
鉄器時代の紀元前10世紀には、この地に村が形成されていたとされてます。紀元前3世紀から紀元前2世紀頃にローマの植民地になりました。
中世初めの5,6世紀、エステは東ゴート王国の支配下にありましたが、後にビザンチン帝国領に組み入れられました。
10世紀頃、ロンゴバルドのオベルテンギ家の支配下に置かれるようになりましたが、11世紀になるとオベルテンギ家の一族であるエステ家が支配するようになりました。
ミラノ侯爵のアルベルト・アッツォ2世・デステ(1009‐1097)がエステに城を築き、エステ家の本拠地になりました。
1240年、エステ家はフェラーラに遷都しました。それを機に、エステはエステ家にとっての重要性が急速に薄らぐようになり、徐々に繁栄から取り残されるようになりました。
写真左の建物はサン・ジュゼッペ教会です。
パドヴァからの運河であるFiume Frassineです。
川を渡った先にサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ聖堂があります。
フェラーラ侯爵の次男で傭兵隊長だったタッデオ・デステ(エステ、1390c‐モッツァーニカ、1448)の遺言によって1478年に建設されたドメニコ会の修道院教会が前身です。初代の建物は現在の建物に隣接して建っていました。
現在のバロック様式の建物は、1717年に創建され、1745年に完成しました。初代の建物は1736年に取り壊されました。
この場所は、エステの分離集落サン・マルティーノに当たりますが、1776年にサン・マルティーノ分離集落の教区教会となり、奉献式が執り行われました。
未完成のファサードです。
鐘楼
初代の建物の土台の上に建設された鐘楼です。
1924年、第259代教皇ピオ11世(デージョ、1857‐ローマ、1939 教皇在位:1922‐1939)によってBasilica Minoreに格付けされました。
クーポラ
再建の完成時にはクーポラはなく、1889年に追加されました。
ファサードを見ます。
拝観します。
聖堂内に入りました。
単廊式、ラテン十字形、バロック様式の内部です。
右側壁
天井の装飾
主祭壇画の「グラツィエの聖母」は初代の建物にあったものです。
作品帰属が分からない聖堂でした。
外に出ました。
Via Principe Umberto
旧市街に向かいました。
この辺は城壁外に当たります。
(つづく)
フェラーラ再び (その76 最終回)
イタリアの春と秋は雨期のようで、雨男の私は雨に恵まれてます。
エステンセ城にはあとで行きます。
土産を何か買わなくては。
ドゥオーモの右側壁下のアーケードに行きました。
このお店で土産を買いました。
エステンセ城に向かいました。
怪僧サヴォナローラ
城内のフレスコ画
サン・カルロ・ボッロメオ教会です。
フェラーラでは珍しいバロック様式の教会です。
写真右端にサン・カルロ・ボッロメオ教会が写ってます。この写真で教会の位置関係がお分かりになると思います。
この場所には、14世紀頃に建てられたサンティ・フィリッポ・エ・ジャコモ祈祷所がありました。サヴォイアのカルロ・エマヌエーレ・ピオ枢機卿の指示によって、祈祷所を取り壊して教会が建てられることになりました。
建築家ジョヴァンニ・バッティスタ・アレオッティ(アルジェンタ、1546‐フェラーラ、1636)が起用され、アレオッティの設計によって1612年から1623年に建設されました。
2012年のエミリア地震によって被害を受け、今なお立ち入り禁止となっているようです。
道を挟んで、サン・カルロ・ボッロメオ教会の斜め向かいにも教会があります。
サンタ・マリア・デッラ・ピエタ教会です。
建築家ルカ・ダネーゼ(ラヴェンナ、1598‐チェント、1672)の設計によって1619年に創建され、1653年に完成した教会です。
ファサードは未完成のまま現在に至ってます。
2012年のエミリア地震によって被害を受け、立ち入り禁止措置が続いているようです。
この教会のミサは別の場所で行われているようです。
グエルチーノの作品がありますが、暫く見たことがありません。
Palazzo Magnaniniです。
ロヴェッラ宮とも呼ばれてます。
アルフォンゾ1世・デステ公爵の秘書だったグリエルモ・マニャニーニが自分の邸宅として1508年に建設しました。
ビアージョ・ロセッティ(フェラーラ、1447c‐1516)が設計したと言われてます。
大体見終わりました。
ホテルを経由して駅に向かいました。
(おわり)
フェラーラ再び (その75)
道の突き当りに写っている建物はサン・フランチェスコ教会です。
サン・フランチェスコ教会のサイド・ポータル
写真右は中世期の節税対策がされた建物です。
サン・フランチェスコ教会のファサード側に回ります。
サン・フランチェスコ教会のファサード
2012年のエミリア地震によって被害を受けて、この時は立ち入り禁止でした。
現在でも修復工事が行われていると思います。中の大部分が拝観できないと思います。
旧市街の中心に向かいました。
街角のタベルナコロ
また雨が落ちてきました。
写真右に教会風の建物が写ってます。
教会のファサード風の造りの建物です。
教会とすれば、この教会のことは全く分かりません。
宗教関係の建物でしょうか?
キリストのモノグラムがあります。
Palazzo Bevilacqua-Costabiliです。
べヴィラクゥア家が邸宅として1430年に建設しました。
1830年、コスタビリ・コンタイニ家の所有となりました。
1916年、フランチェスコ・マッツァ伯爵(リヴァナッツァーノ、1841‐トリノ、1924)が買収して女子寄宿学校として使用されるようになりました。
1930年から1979年まで、様々な用途に分割賃貸されましたが、1988年にフェラーラ市当局が買収して、修復工事を行いました。
1997年、フェラーラ市は、フェラーラ大学に対して建物の99年間無料提供を開始しました。現在はフェラーラ大学の経済経営学部が置かれてます。
ポータルの装飾
アリストテレス
ヘラクレイトス(古代ギリシャの哲学者)
詳細不知
ファサードの装飾
突き当りの建物はドゥオーモです。
聖母子のタベルナコロ
ドゥオーモの左側壁です。
ドゥオーモ広場に出ます。
アーチを潜ればドゥオーモのファサードです。
ドゥオーモのファサード前から見たPalazzo Comunaleです。
(つづく)
フェラーラ再び (その74)
9月20日通りです。
サンタ・フランチェスカ・ロマーナ教区教会にやってきました。
聖ベネデット会修道院の会衆であるCongrezione Olivetanaが1569年に建設したサン・ジョルジーノ修道院と教会の複合施設が前身です。
1608年、第233代教皇パオロ5世(ローマ、1552‐1621 教皇在位1605‐1621)によってフランチェスカ・ロマーナ(ローマ、1384‐1440)に列聖されましたが、それを機に1建物を拡大して聖フランチェスカ・ローマに捧げる教会とするべく、1619年にアルベルト・スキアッティ(フェラーラ、?‐1622)の設計によって再建工事が着工されましたが、スキアッティの体調が悪くなったので、ジョヴァンニ・バッティスタ・アレオッティ(アルジェンタ、1546‐フェラーラ、1636)に引き継がれ、1622年に完成しました。
1872年から1874年にかけてさらに拡大拡張工事が行われました。
現在のファサードは1929年から1931年に改造されたものです。
現在は毎日開く教会です。
しかし、2012年のエミリア地震で被害を受けて、その修復工事のため長らく閉鎖されていました。
修道院だった建物
鐘楼
ファサードの装飾
メインポータル
この教会の美術的見所は2点の祭壇画です。
ルドヴィーコ・カラッチ(ボローニャ、1555‐1619)の「磔刑とリンボの長老たち」
カミッロ・リッチ(フェラーラ、1580‐1618)の「聖母子の文書を受け取る聖フランチェスカ・ロマーナ」
9月20日通りを進みます。
かなり有名な映画館に向かいました。
ポルタ・サン・ピエトロ通りに入りました。
チーネマ・ミニョン Cinema Mignon(小さな映画館という意味)です。
教会の建物のように見えますが、その通りで、サン・ピエトロ教会、別称サンティ・ピエトロ・エ・パオロ教会だった建物が映画館として利用されてます。
前述のようにフェラーラの古い旧市街は、現在のPo di Valanoの対岸のボルゴ・サン・ジョルジョにありましたが、経済の発展と人口増によってPo di Valanoの北側に街の中心が移動して現在の旧市街が形成されました。
それに伴って新しい旧市街における最古の教会の一つが980年頃に創建されたサン・ピエトロ教区教会でした。
1010年の文書に、この教会の存在が記録されたそうです。
創建以来、建物は何度か改造改修されました。
創建以来1530年頃までは、ファサードは現在と反対側の西向きでしたが、1530年頃に現在の東向きのファサードに改造されたそうです。
サン・ピエトロ教会の右側壁です。
教会の碑文
1797年、ナポレオンによって抑圧され、教会は閉鎖されましたが、フランス軍の撤退後、活動が再開されました。
この教会の隣には、食肉処理場がありましたが、その臭気と喧騒のため、次第に信者が減少して19世紀初頭に活動を停止しました。
その後、建物は売却されて、倉庫、体育館、ダンスホール、売春宿に使用されました。その間、食肉処理場は市郊外に移転しました。
1941年に映画館として使用されることになり、改造改修工事が行われました。
中は完全な映画館使用になっており、教会の面影は全くありません。
この教会の中にガロファロの傑作がありました。
ベンヴェヌート・ティージ通称イル・ガロファロ(カナーロ、1476/1481‐フェラーラ、1559)の「聖ピエトロ」
1912年にこの教会からドゥオーモに移されました。
ガロファロの「聖パオロ」
1912年にドゥオーモに移されました。
教会だった建物が映画館に転用されるのは、イタリアでは珍しくありません。
傑作映画Nuovo Cinema Paradiso ニュー・シネマ・パラダイスでも教会の建物で映画が上映されていました。
あの映画はパラッツォ・アドリアーノのマリア・サンティッシマ・デル・カルメロ教会で撮影されたそうです。
教会だった建物を破壊して、新しい映画館を建てる発想がないイタリアが羨ましいと思います。
街角のタベルナコロ
(つづく)
フェラーラ再び (その73 城壁)
城壁にやってきました。
フェラーラの城壁は、ポー川の河岸と寄港する船を防御するために6世紀頃にビザンチン帝国によって建設されたと言われてます。
野蛮人の侵攻を避けるために街の中心は現在のボルゴ・サン・ジョルジョ付近(Basilica di San Giorgio fuori le muraが建っている場所)に移っていきましたが、ブレーシャの伯爵で、後にモデナ、フェラーラ、マントヴァの伯爵を兼ねたテダルド・ディ・カノッサ(?‐1012)によって、10世紀にボルゴ・サン・ジョルジョを取り囲む城壁が追加されました。
ボルゴ・サン・ジョルジョ付近は、ポー川の低地であり湿地でもあったので、度重なるポー川の洪水に苦しんでいました。また、街の繁栄に伴い、人口が増大しましたが、次第にポー川の対岸の北方向に街の中心が移っていきました。
それに従って、現在の司教座教会が建設されました。新しく築かれた街、現在のフェラーラを取り囲む城壁が12世紀に建設されました。
1314年には、城壁はPo di Valanoの対岸だけとなり、さらに拡張されました。
ボルゴ・サン・ジョルジョ付近は城壁外となったのです。
フェラーラの城壁図です。
15世紀から16世紀に改造された城壁が現存しています。当時の要塞は周囲約13kmでしたが、都市計画や道路敷設などによって要塞の一部が取り壊され、現在は約9kmの城壁が残されてます。
サン・ジョヴァンニの塔です。
南に位置するパオラ門です。
こちらは門の裏側です。
パオラ門のファサード
パオラ門付近の城壁の一部は19世紀末に取り壊されました。
ジョヴァンニ・バッティスタ・アレオッティ(アルジェンタ、1546‐フェラーラ、1636)の設計によって1612年に建設されたパオラ門です。
城壁の北にあるPorta degli Angeli
16世紀に築かれた見張り塔です。
Torrione del Barco
城壁内に戻りました。
フェラーラの城壁をすべて回るのは大変です。
友人とPalazzo Costabiliで待ち合わせしているので、それまでに軽食を食べておく必要があります。
この辺は食べるところがありません。
なんとか見つけて、腹に押し込みました。
不味かったが、その辺は仕方がない。
この付近は街はずれなので、そもそも適当な店がありません。
Palazzo Costabiliにやってきました。
彼は専門家なので、じっくりと話を聞くことが出来ました。
外に出ます。
(つづく)
フェラーラ再び (その72 城壁外のサン・ジョルジョ聖堂Ⅲ)
引き続き城壁外のサン・ジョルジョ聖堂の聖堂内部です。
サン・ベネデット礼拝堂の左側壁です。
フランチェスコ・フェッラーリ(フェラーラ、1634‐1708)の「聖ベネデットの生涯の物語」です。
サン・ベネデット礼拝堂の右側壁です。
フランチェスコ・フェッラーリ(フェラーラ、1634‐1708)の「聖ベネデットの生涯の物語」
フランチェスコ・フェッラーリ(フェラーラ、1634‐1708)の「聖ベネデットの生涯の物語」
フランチェスコ・フェッラーリ(フェラーラ、1634‐1708)の「聖ベネデットの生涯の物語」
サン・ベネデット礼拝堂の天井フレスコ画もフランチェスコ・フェッラーリ(フェラーラ、1634‐1708)によって描かれました。
Presbiterio
Presbiterioの左側壁にロレンツォ・ロヴェレッラのモニュメントがあります。
ロレンツォ・ロヴェレッラのモニュメントです。
ロレンツォ・ロヴェレッラ(?、?‐フェラーラ、1474)は、1460年にフェラーラ司教に任じられ、1474年に没するまで、その任にありました。
アンブロージョ・バロッチ通称アンブロージョ・ダ・ミラノ(ミラノ、15世紀前半‐ウルビーノ、15世紀後半)と、おそらくアントニオ・ロセッリーノ(セッティニャーノ、1427‐フィレンツェ、1479)によって1475年に制作されたモニュメントです。
上部の聖母子
聖人たち
ロレンツォ・ロヴェレッラ司教の墓
主祭壇画(詳細不知)
フランチェスコ・フェッラーリの後陣フレスコ画
フランチェスコ・フェッラーリの後陣フレスコ画
後陣右側壁にフランチェスコ・ナセッリ(フェラーラ、1570‐1630)の2つの作品があります。
フランチェスコ・ナセッリ(フェラーラ、1570‐1630)の「マギの礼拝」
フランチェスコ・ナセッリ(フェラーラ、1570‐1630)の「割礼」
フランチェスコ・フェッラーリ(フェラーラ、1634‐1708)の「べアート・ベルナルド・トロメイに顕現する聖母子」
最後にコズメ・トゥーラ(フェラーラ、1433c‐1495)の「ロヴェレッラの多翼祭壇画」について触れておきましょう。
ロレンツォ・ロヴェレッラがフェラーラ司教に任じられたことを祝し、兄のバルトロメオ・ロヴェレッラ枢機卿がコズメ・トゥーラに注文して、1470年から1474年に制作された多翼祭壇画です。
完成後、聖堂の主祭壇に置かれていましたが、1709年に起きた聖堂内の爆発によって損傷を受け、主祭壇から撤去されました。損傷を受けなったパネルは取り外され、後に恐らく売却されて、各パネルは世界中の美術館で展示されてます。
上の写真は、多翼祭壇画の完成直後の記述をもとに作られた全体図です。
メインパネルの「玉座の聖母子と音楽天使たち」
ロンドンのナショナル・ギャラリーにあります。
ルーブル美術館にあります。
「聖マウレリオと聖パオロと注文主バルトロメオ・ロヴェレッラ枢機卿」
ローマのコロンナ宮にあります。
裾絵の「エジプトへの逃避」
ニューヨークのメトロポリタン美術館にあります。
裾絵の「聖マウレリオの逮捕」
フェラーラのディアマンティ宮の国立美術館にあります。
裾絵の「聖マウレリオの殉教」
フェラーラの国立美術館にあります。
外に出ました。
(つづく)
フェラーラ再び (その71 城壁外のサン・ジョルジョ聖堂Ⅱ)
拝観します。
聖堂内に入りました。
三廊式、ラテン十字形、ルネサンス様式の内部です。
右側廊方向
交差ヴォールト
壁の殆どがフレスコ画によって埋められてます。
フレスコ画は、フランチェスコ・フェッラーリ(フェラーラ、1634‐1708)によって1682年から数年かかって制作されました。
フランチェスコ・コスタンツォ・カターニオ別称フランチェスコ・コスタンツォ・カッタネオ(フェラーラ、1602‐1665)の「荊刑のキリスト」(1636)
フランチェスコ・コスタンツォ・カターニオは画家ジュリオ・チェーザレ・カターニオの息子です。フランチェスコ・コスタンツォは、幼少期に父から手ほどきを受けた後、スカルセッリーノに師事しましたが、父によってボローニャに送られ、グイド・レーニに師事しました。1627年、フェラーラに戻ると、カルロ・ボノーニの作品に感銘を受け、やがてカルロ・ボノーニ工房に入ってカルロから学びましたが、ルドヴィーコ・カラッチとカラヴァッジョの影響を受けた画風になりました。
「荊刑のキリスト」はフランチェスコ・コスタンツォ・カターニオの代表作です。
磔刑の礼拝堂
制作者情報等不知の「磔刑と聖母と聖ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ」
フランチェスコ・コスタンツォ・カターニオ別称フランチェスコ・コスタンツォ・カッタネオ(フェラーラ、1602‐1665)の「キリストの鞭打ち」(1636以前)
ベネデット・ジェンナーリ・イル・ジョーヴァネ(チェント、1633‐ボローニャ、1715)の「聖マウレリオと天使」
この作品はグエルチーノ作品の複製です。
ベネデット・ジェンナーリ・イル・ジョーヴァネは、ベネデット・ジェンナーリ・イル・ヴェッキオ(チェント、1633‐1610)の孫です。イル・ヴェッキオはグエルチーノの最初の師匠でした。
フランチェスコ・フェッラーリのフレスコ画
サン・マウレリオ礼拝堂です。
サン・マウレリオ礼拝堂の祭壇画は、フランチェスコ・フェッラーリ(フェラーラ、1634‐1708)の「聖マウレリオの殉教」です。
サン・マウレリオ礼拝堂のフレスコ画もフランチェスコ・フェッラーリによって描かれました。
サン・マウレリオ礼拝堂の天井フレスコ画もフランチェスコ・フェッラーリによって描かれました。
フランチェスコ・フェッラーリ(フェラーラ、1634‐1708)の「聖体を授ける聖マウレリオ」
フランチェスコ・ナセッリ(フェラーラ、1570c‐1630c)の「聖ベネデットの施し」
これはグイド・レーニ作品のコピー画です。
聖母礼拝堂です。
「聖母子」(詳細不知)
フランチェスコ・ナセッリ(フェラーラ、1570c‐1630c)の「悪魔を追放する聖ベネデット」
この作品はルドヴィーコ・カラッチ作品のコピー画です。
洗礼盤
カウンターファサード
サン・ベネデット礼拝堂です。
サン・ベネデット礼拝堂の祭壇画は、ドメニコ・マリア・カヌーティ(ボローニャ、1625‐1684)の「聖ベネデットと天使」
ドメニコ・マリア・カヌーティは、グイド・レーニ工房にいましたが、後にグエルチーノに師事しました。
(つづく)
フェラーラ再び (その70 城壁外のサン・ジョルジョ聖堂Ⅰ)
フェラーラの城壁です。
城壁外のボルゴ・サン・ジョルジョにやってきました。
サン・ジョルジョ橋の四隅に四体の聖人像があります。
聖人は特定出来ないようです。
サン・ジョルジョ橋の下を流れるPo di Valanoです。
Po di Valanoは、ポー川のデルタ支流です。
中世以前はポー川の本流でしたが、度重なる氾濫によってポー川の流れが変わり、現在は支流となってます。
城壁外のサン・ジョルジョ聖堂 Basilica di San Giorgio fuori le muraの鐘楼です。
城壁外のサン・ジョルジョ聖堂はボルゴ・サン・ジョルジョに建ってます。
フェラーラの起源は、今日のフェラーラの南東約10km離れたVoghenzaでしたが、4世紀にヴォゲンツァは司教区に昇格しました。
7世紀から8世紀にかけてヴォゲンツァは異教徒の野蛮人の侵略を受けて荒廃してしまいました。ヴォゲンツァの住民は、城壁外のサン・ジョルジョ聖堂が建っているボルゴ・サン・ジョルジョに移住しましたが、それと共に司教座も移され、7世紀に創建されたサン・ジョルジョ教会が司教座教会となりました。
ところがポー川右岸にあるボルゴ・サン・ジョルジョは、湿地であり、しかも度重なる洪水によって経済的な発展には限界がありました。経済発展によって増大した人口はやがてポー川左岸の現在のフェラーラに移り、城壁が築かれました。
それに伴って新サン・ジョルジョ司教座教会が建設されました。
現在のサン・ジョルジョ司教座教会です。市域の中心の移動によって建設されました。1135年に司教座がこの教会に移されました。
現在の姿は、ビアージョ・ロセッティ(フェラーラ、1447c‐1516)の設計によって15世紀に再建された建物がその原形となってます。
1581年、建築家Alberto Schiatti(フェラーラ、?‐1586)によってファサードが改造されましたが、現在のバロック様式のファサードは建築家Andrea Ferreri(ミラノ、1673‐フェラーラ、1744)によって18世紀前半の建設されました。
鐘楼のモニュメント
フェラーラ戦争(1482‐1484)の平和のモニュメント
平和のモニュメント上の彫像
後陣
毎日開く教会です。
ファサードを見ます。ファサード上部左右に彫像があります。
フェラーラ司教の聖マウレリオ
竜を退治する聖ジョルジョ
ファサードに向かって右側に修道院だった建物があります。
サン・ジョルジョ修道院の入り口です。
修道院の入り口から中に入りました。
キオストロ回廊に出ます。
回廊壁にある浮彫
中庭に井戸があります。
キオストロ回廊から外に出ました。
ファサード側に回ります。
(つづく)
フェラーラ再び (その69 Palazzo CostabiliⅢ)
引き続きPalazzo Costabiliです。
Sala Dei Tesoroのフレスコ画です。
ガロファロの傑作です。
考古学の展示よりも、こちらのフレスコ画の方が断然良いと思います。
考古学博物館の展示は、どこも同じような展示ですから。
Sala delle Storie di Giuseppeです。
Sala delle Storie di Giuseppeの天井にフレスコ画があります。
Sala delle Storie di Giuseppeのフレスコ画はガロファロの弟子によって制作されました。
部屋の調度品
休憩室
礼拝堂
次は考古学博物館の展示です。
考古学博物館の展示品は、どこの博物館でも大体同じです。
副葬品(紀元前300‐紀元前250)
古代ギリシャの壺(紀元前450‐紀元前250)
宮殿から外に出ました。
展示物よりもPalazzo Costabiliのフレスコ画などの方が印象深いものがありました。
道の突き当りに門があります。
18世紀に建設されたPorta Romanaです。
市域が拡大されるとともに城壁が外へと広がりましたが、フェラーラ最後の城壁に設けられた門です。
Porta Romanaを潜りました。
城壁外に出ました。
(つづく)
フェラーラ再び (その68 Palazzo CostabiliⅡ)
引き続きPalazzo Costabiliです。
庭園です。
宮殿の建物内に入ります。
階段の装飾
振り返って庭園の方を見る。
階段踊り場の柱
階段踊り場の柱の柱頭
更に階段を上ります。
階上の廊下
展示室
遺跡の発掘場所を示した地図
天井の装飾
ガロファロの弟子たちによるフレスコ画
次はSala dei Profetiの装飾です。
Sala dei Profetiのフレスコ画はガロファロの弟子たちによって描かれました。
モーゼ
次はSala Dei Tesoroの装飾です。
Sala Dei Tesoroはフレスコ画によって装飾されてます。
フレスコ画は、ベンヴェヌート・ティシ・ダ・ガロファロ通称イル・ガロファロ(カナーロ、1476/1481‐フェラーラ、1559)によって制作されました。
Sala Dei Tesoroのフレスコ画はガロファロの代表作の一つです。
Sala Dei Tesoroのフレスコ画は、2度渡って描かれました。
色彩鮮やかに描かれている部分は、マントヴァのサン・ジョルジョ城のCamera degli Sposiに描かれたアンドレア・マンテーニャ(イーゾラ・ディ・カルトゥーロ、1431‐マントヴァ、1506)のフレスコ画(1465‐1474)を参考にして、1503年から1506年に制作されました。
モノクロの部分は、ガロファロがフェラーラに戻った1517年頃に制作されたとされてます。
モノクロ部分のテーマは「エロスとアンテロースの物語」です。
写真上部が1503年から1506年に制作されたもので、写真下部は1517年頃に制作されたものです。
(つづく)
フェラーラ再び (その67 Palazzo CostabiliⅠ)
次は旧サンタ・アポッロニア教会に隣接するPalazzo Costabiliです。
コスタビリ宮殿、またはイル・モーロ宮殿と呼ばれてます。
1491年、ミラノ公爵ルドヴィーコ・マリア・スフォルツァ別称ルドヴィーコ・イル・モーロ通称イル・モーロ(ヴィジェーヴァノ、1452‐フランス、ロシュ、1508)は、ベアトリーチェ・デステ(フェラーラ、1475‐ミラノ、1497)と結婚しました。
ベアトリーチェ・デステは、エルコーレ1世・デステ公爵の娘で、イサベッラ・デステの妹です。
予てから休息の地を求めていたイル・モーロは、妻の生まれ故郷フェラーラに休息のための宮殿建設を決めました。
宮殿建設の責任者としてイル・モーロの秘書アントニオ・コスタビリ(?、1450?‐フェラーラ、1527)を起用しました。アントニオ・コスタビリは、エステ家と親密であり、エルコーレ1世・デステの友人でした。
アントニオ・コスタビリは、エステ家お抱えの建築家ビアージョ・ロセッティ(フェラーラ、1447c‐1516)に宮殿建築を委嘱しました。
そうして、ビアージョ・ロセッティの設計によって1495年に創建され、1504年に完成したのがPalazzo Costabiliです。
しかし、イル・モーロは、1499年にミラノを去り、ルイ12世に敗れて、やがて捕らわれの身となり、獄中で没しました。
Palazzo Costabiliは完成したものの、注文主であるイル・モーロは訪れることがなかったのです。
どのような経緯があったのか、私には詳しい事情が分からないのですが、完成した宮殿はアントニオ・コスタビリが所有することになりました。
その後、約200年間はコスタビリ家の邸宅として使用されましたが、売却され、所有者が何度も変わりました。所有者が何度も変わるうちに宮殿は劣化が進みました。
フェラーラ県にコマッキオというコムーネがありますが、19世紀末、コマッキオ近郊で行われた土木工事の際、紀元前2世紀に放棄されたスピーナという街の遺跡が発見されました。スピーナは、ポー川が流れ、アドリア海に近い湿地にありましたが、度重なる洪水と夥しい蚊の発生に苦しみ、放棄されたそうです。
スピーナ遺跡からの発掘物を展示するために場所としてPalazzo Costabiliが選択され、1920年に国が買収しました。1932年から博物館としての改修工事が行われ、1935年にフェラーラの国立考古学博物館がオープンしました。
国立考古学博物館の入り口です。
国立考古学博物館の展示よりも宮殿自体の方が見所豊富に思えます。
中に入ります。
中庭から見た宮殿
ロッジャがあります。
ロッジャの上部
ロッジャの柱頭
宮殿装飾断片
コートヤードに入ります。
Corte d’Onore
Corte d’Onoreから隣接する旧サンタ・アポッロニア教会が見えます。
Corte d’Onoreの柱頭
(つづく)
フェラーラ再び (その66)
とうとう雨が降ってきました。
イタリアのゴミ出しは、家毎に出すのが普通です。
南の方に進みました。
廃墟となったサンタンドレア教区教会だった建物です。
1000年頃に創建されたサンタンドレア教区教会でした。1177年の文書にその存在が詳しく記載されたそうです。
13世紀後半、サンタンドレア教区教会(修道院が併設されていた複合施設でした)はFrati Eremitani di Sant’Agostinoによって運営されていましたが、フェラーラ、モデナ、レッジョのシニョーレ(支配者)だったアッツィ7世・デステ(フェラーラ、1263‐エステ、1308)の娘ベアトリーチェはFrati Eremitani di Sant’Agostinoの修道女になりました。それを機に、アッツィ7世・デステはサンタンドレア教区教会の拡張を命令しました。それ以降、サンタンドレア教区教会はエステ家の庇護のもとにおかれ、1501年までにさらに拡張されました。
1796年、ナポレオンによって抑圧され、修道士は追放され、建物は没収され、フランス軍の兵舎に転用されました。
1806年、サンタンドレア教区教会は再開されましたが、併設の修道院は閉鎖されたままでした。
1823年、第252代教皇レオ12世(1760‐1829 在位:1823‐1829)は、イエズス会修道院をフェラーラに建設すること命じましたが、その資材をサンタンドレア教区教会の修道院から調達するように指示しました。そうして修道院だった建物は資材調達のため破壊されたのです。
1866年、教区教会は閉鎖されました。閉鎖後、建物は放置して、1938年に屋根の一部が崩落、1969年に屋根の殆どが崩落したので、建物は破壊されることになりました。
サンタンドレア教区教会の建物はそのごく一部が残されているにすぎません。
南を流れるポー川に向かって進みました。
道の左奥に城壁があります。
次はサンタ・テレーザ教会です。
サンタ・テレーザ・トラスヴェルベラータ教会にやってきました。
この場所に地元の人たちが詣でる信仰の小さな祠がありましたが、1739年頃から跣足カルメル会のサン・ジローラモ修道院の修道女5人が小さな祠に毎日通って信仰を捧げました。
やがて信仰の輪が広がり、18世紀後半になると教会建設の話が持ち上がり、具体化の運びとなりました。
フェラーラの建築家ガエターノ・バルビエーリ(フェラーラ、1711‐1797)の設計によって、1781年から1788年に建設されました。
しかし、建設されてから9年後の1797年にナポレオンによって抑圧され、閉鎖されてしまいました。
1821年に活動が再開されました。
修道院だった建物の外壁
サンタ・テレーザ・トラスヴェルベラータ教会の左側壁
毎日開く教会です。
Via Carlo Mayr
Via Borgovadoを通ってサンタ・アポッロニア教会に向かいました。
Via XX Setembreに入りました。サンタ・アポッロニア教会はこの通りに面して建ってます。
サンタ・アポッロニア教会です。
Confraternita della Morte(死の同信会)によって15世紀に建設された小さな教会が前身です。
15世紀末には手狭になったので、フランチェスコ・マッツァレッリの設計によって1612年から1668年に再建された八角形の建物が現在の姿の原型です。
1975年に教会は閉鎖されました。つまり旧サンタ・アポッロニア教会というわけです。
閉鎖されて数年後に建物の一部が解体されたそうです。
旧サンタ・アポッロニア教会に隣接して、フェラーラの国立考古学博物館があります。
今世紀になると、国立考古学博物館の一部として旧サンタ・アポッロニア教会の建物を転用する計画が具体化しました。
そのための修復工事が行われていましたが、2012年のエミリア地震によって被害を受けたようで、その後、計画が進捗した話が聞こえてこなくなりました。
コロナ禍以降、イタリアに行ったことがないので現在の最新状況については知らないのです。
ポータル
ポータルの彫刻
サンタ・アポッロニア修道院だった建物
城壁近くに閉鎖された旧教会が多いように思います。
(つづく)
フェラーラ再び (その65 Museo Lapidario)
スキファノイア宮殿からMuseo Lapidarioに向かいました。
ラピダーリオとは、碑文、碑銘、石に刻んだ、という意味です。
1470年に建設されたサンタ・リベラ教会です。サンタ・マリア・でっれ・グラツィエに捧げられた教会です。
1796年、ナポレオンの抑圧によって聖職者が追放されるとともに宗教活動が禁じられました。その後、サンタ・リベラ教会だった建物は、倉庫、厩舎、工房などに転用されました。
旧サンタ・リベラ教会の建物を博物館に転用する計画が具体化し、1979年、フェラーラ市が建物を買収しました。
建物は改装され、1984年に市立博物館がオープンしました。
中は完全に改装されて、教会だった面影は後陣の構造に僅かに認められるだけです。
後陣の天井
石棺、石碑、土器などが展示の中心です。
この博物館の見どころは、アウレリオの石棺と新生児の石棺と言われてます。
博物館は、通りを挟んでスキファノイア宮殿の斜め後方向かいにあります。スキファノイア宮殿の切符で入館可能だったと思いますが、近年無料公開という情報がありますが、どうでしょうか?
碑文(1世紀後半)
石碑(1世紀)
アウレリオの石棺(3世紀)
ラヴェンナで造られたアウレリオの石棺
アウレリオの石棺は、この博物館で最重要の作品とされてます。
碑文(2世紀)
キリスト教徒の石棺(13世紀)
アンニア・ファウスティーナの石棺(225‐250c)
アンニア・ファウスティーナの石棺の裏面
新生児の石棺(190‐220c)
石碑(50)
石碑(1-2世紀)
石碑(紀元前27‐紀元後68)
石碑(190‐210)
石碑(1世紀)
外に出ました。
(つづく)
フェラーラ再び (その64 スキファノイア宮殿Ⅶ)
次の部屋です。Sala della VirtuまたはSala degli Stucchiと呼ばれてます。
スタッコ彫刻とテラコッタによる装飾で有名です。
スタッコ彫刻とテラコッタによる装飾は、彫刻家ドメニコ・ディ・パリス通称ドメニコ・ディ・カヴァッロ(パドヴァ、1456‐1503記録)と画家ブオンジョヴァンニ・ダ・ジェミニアーノ(フェラーラ、1446‐1476記録)によって1516年頃に行われました。
フレスコ画断片が残されてます。
壁一面にフレスコ画があったと言われてます。
フレスコ画は、フェラーラ派画家たちによって1468年頃に描かれたとされてますが、それ以上の具体的なことは分からないようです。
Fortiduto
Temperanza
Spes
Fides
外に出ました。
(つづく スキファノイア宮殿の項はこれで終わりです)
フェラーラ再び (その63 スキファノイア宮殿Ⅵ)
次は9月です。
9月のフレスコ画は、エルコーレ・デ・ロベルティ(フェラーラ、1451‐1496)によって1468年から1470年頃に描かれました。
9月の上段です。
上段のテーマは「ウルカヌスの勝利」です。
9月の中段です。
中段は「9月の寓意」です。
次は下段です。
次は10月です。
落剝、退職が著しい10月です。
11月です。
11月もダメです。
12月です。
上段だけが何とか見るに値するでしょうか?
12月の上段です。
12月の横に色鮮やかなフレスコ画があります。
これです。
(つづく)