イタリア芸術を楽しむ

イタリアの魅力を味わい尽くすには、一生に何度旅をすれば足りるだろう。芸術の宝庫にして、歴史の生きた証であるイタリア。 惹き付けて止まない絵画、彫刻、歴史的建造物、オペラなど、芸術の宝庫であるイタリアを楽しむブログです。 記事は一日に一つアップしています。記事の見方ですが、例えば「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その4)」は2017年10月20日にアップしました。各記事にカレンダーが表示されてますが、カレンダー上の2017年10月21日をクリックして頂ければ「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その5)」になります。(その3)は2017年10月20日となります。 BY:シニョレッリ

2023年02月

1これ以上進んでも見所はなさそうです。引き返して城の遺跡を見ることにしました。


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トイレ休憩が必要でしたが、村壁内にバールがありそうもないので、林の中で用を足しました。


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来るときには気付きませんでしたが、道は坂になっていたんだ、と思いました。


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車が通れそうもないローマ通りですが、ここを通るのがイタリアです。


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「最も美しい村」にリストアップされてくらいですから、観光を意識した村造りがされていると思いきや、そんな素振りが全くない!


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全員が城壁外の畑に出ていることはなく、家に残っている人がいると思いましたが、それにしても静かでした。


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観光客なんて本当に来るんでしょうか?


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村一番の目ぬき通りであるローマ通りです。


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写真右にアーチがあります。


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アーチの先から城壁外に出て、畑に行けるようになってます。


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ウンベルト1世広場の入り口です。


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写真右は城の城壁です。この村には村域を囲む村壁があります。市壁を城壁と訳すことが普通なので、この辺の区別が必要です。


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ローマ通りからの景観です。


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別の村が見えます。


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ウンベルト1世広場から城に向かいます。


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ウンベルト1世広場に戻りました。


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小さな広場の奥にある旧サンティ・ファビアーノ・エ・セバスティアーノ教会です。


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モンバルドーネ城の遺跡に向かいます。写真右の壁が城の城壁です。


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城の説明版


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村の起源はローマ時代に遡ると言われてますが、具体的な世紀は不明ですが、中世初期には、この場所に村を守る砦が築かれたとされてます。
11世紀頃、モンバルドーネはサヴォーナ侯爵のデル・ガレット家の領地となり、オットーネ・デル・ガレット侯爵の時代に、城を築きましたが、それが現在の城の遺跡の前身です。


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14世紀初頭に城は拡大されました。


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城の城壁です。


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写真左は城の城壁です。


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城の一部だった建物です。


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城の塔


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サン・二コラオ教区教会の後陣です。


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写真左が城になります。


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城の一部だった建物です。


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ウンベルト1世広場に戻ります。


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城壁上からの景観


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監視塔です。


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監視塔横の城壁上からの景観


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鉄道駅が見えました。
(つづく)

1村の中心ウンベルト1世広場にやってきました。


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広場に面して2つの教会が建ってます。


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人口約200人に村にしては、その中心に2つの教会はそぐわないと思っていたら、写真左の教会は既に宗教活動を停止したそうです。


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サン・二コラオ教区教会です。


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これがあるので助かります。


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建築家ジョヴァンニ・マッテオ・ズッキ(ピエモンテとリグーリアで1790-1798活動記録)のせっけいによって1790年に建設されたバロック様式のサン・二コラオ教区教会です。


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日曜日朝のミサ以外には扉が開かないようです。


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内部の様子


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ジョヴァンニ・バッティスタ・モネーヴィ(ヴィソーネ、1637-1714)の「聖母子と聖セバスティアーノと聖ファビアーノ」


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もう一つの教会です。


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サンティ・ファビアーノ・エ・セバスティアーノ教会です。


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16世紀末に、この場所にサンティ・ファビアーノ・エ・セバスティアーノ祈祷所が存在していたそうです。1764年に拡大改造されて現在の姿になりました。
現在はその活動を停止した旧教会で、その建物はコンサート会場や文化的催事場などとして使用されています。


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鐘楼


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ウンベルト1世広場に面して建っている建物


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ローマ通りを進みます。


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静かすぎて不気味な感じです。


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写真左の壁は、かって城がありましたが、その城の城壁です。


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後で村役場の職員に聞いたところ、城壁内の住民は農業を営んでおり、天気が良い日中は城壁街の畑で働いているそうです。だから、日中は城壁内に住民が殆どいないそうです。


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住民が住んでいる証である洗濯物が外にありました。


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鶏がいました。


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扉のこれは何でしょうか?


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ローマ通りをさらに北に進みます。


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13世紀のもののようです。


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道幅が狭いローマ通りです。


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この辺は比較的新しい建物が並んでます。


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この先にトラットリアがある筈です。そこで昼食を食べる予定でした。


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トラットリアがあったにしても、観光客の姿は皆無、それに人気が全くないので、トラットリアは絶対に開店していないと確信しました。


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「最も美しい村」にリストアップされてますが、本当に観光客が来るの?と呟きました。


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鳥のさえずり以外はまったく静か。


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この先に進んでも見所は皆無でしょう。


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緑深い林が広がってます。


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困った、困った。これでは有意義な日帰り遠足にはなりません。


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(つづく)

1この時はアクゥイ・テルメに泊まっていました。


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アクゥイ・テルメに2泊していたのですが、温泉に飽きて退屈するかもしれないとの懸念がありました。退屈したら、2泊の中日にどこかに行こうと思いました。調べたら「イタリアの最も美しい村」の一つであるモンバルドーネ村が近くにあることが分かりました。


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懸念通りに退屈したので、モンバルドーネに行くことにしました。サヴォーナ行の普通列車の車内は非常に空いてました。


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乗車20分ほどで、Mombaldone-Roccaverano駅に到着しました。


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乗車した列車がサヴォーナに向けて去っていきました。


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モンバルドーネ村は、駅周囲のBorgo Stazioneと中世に築かれた城壁内の2つの地区から成ってます。


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モンバルドーネは、人口204人(2020年10月31日現在)のピエモンテ州アスティ県にあるコムーネです。人口が僅か204人ではコムーネ(独立した自治体)としてやっていくのが大変だと思いますが、人口30人のコムーネがイタリアでは最小規模だそうで、モンバルドーネは人口が少ないコムーネのベスト10にも入れないそうです。


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先ず中世に築かれた城壁内に行きます。


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鉄道駅を後にしました。


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道を直進します。


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緩い上り坂の道を進みます。


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人通りがありません。


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歩いていた私を見つけた犬が警戒して盛んに吠えていました。


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犬が吠えるのを止めると辺りは静寂に包まれていました。


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鐘楼が見えてますが、それがある場所が村の中心です。


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丘下に林が広がってます。


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坂道を上ってきましたが、振り返って撮った写真です。


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村の起源はローマ時代に遡るそうです。


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村の存在の初めての記録は、鉄道駅近くに存在したサン・クゥインティーノ・ディ・スピニョーラ修道院の文書に、モンバルドーネの村民から修道院に対して土地の寄付があったとの記載だそうです。


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Palazzo Comunale 村役場です。


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村役場の駐車場に車がありました。


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地図でも頂戴しようと建物に近づきましたが、物音が全く聞こえません。


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平日の午前11時頃だったので、当然村役場は執務中と思ったいたのですが、扉が施錠されていました。あとで駅近くの万事屋で聞いたら、住民が少ないので、村役場に職員が不在の時があるとの事でした。


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城壁に囲まれている中世時代の村です。


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村役場の横は牧草地になっています。


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村の入り口の門です。


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門に特別な名称がないようです。


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門を潜って城壁(村壁)内に入ります。


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村の中心を貫くローマ通りです。


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ローマ通り沿いの家々は中世に建設されたそうです。


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人の気配が全くしません。


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建物を貫いて下の道に出ることが出来ます。


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振り返って入り口方向を撮った写真です。


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「最も美しい村」なので、観光客が歩いていると思ったのですが。


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観光客は勿論のこと、村民の姿さえありません。


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人の姿どころか、物音が全く聞こえないので、不気味でした。


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(つづく)

1橋を渡ります。


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岸壁に出ました。


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リヴォルノ港の灯台


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バーリのScintu号


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海岸沿いに築かれた市壁です。


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ヨットハーバーの横にも市壁があります。


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橋を渡ってホテル前に戻ります。


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古要塞


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Hotel Gran Duca


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見所が少ないリヴォルノでした。


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フォンターナがあります。


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ピエトロ・タッカ(カッラーラ、1577-フィレンツェ、1640)によって制作されたフォンターナです。


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フォンターン前にあるレストランがお勧めです。


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第二次世界大戦後の復興した中心街です。


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日曜日でも開店しているスーパーで果物を買いました。


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大体見終わりました。


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鉄道駅前にある、この日のお宿に一旦戻ることにしました。


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ドゥオーモ


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街の中心の広場


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パドヴァのマックには、大変お世話になりました。(暴風雨の夜に外に出られず食事に困りましたが、ホテルの一階にマックがあったので、飢えずに済みました)


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ドゥオーモの後陣を通り過ぎてプロテスタントの教会に向かいます。


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この辺は歩いていても退屈なだけです。


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この写真を見てもリヴォルノとは絶対に分からないと思います。無個性な街並みですから。


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左折して運河に出ます。


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運河沿いの道を進みます。


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オランダ会衆の教会です。


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16世紀後半、自由港のリヴォルノに多くの外国商人が定住するようになりました。リヴォルノに定住したオランダ人によって1632年頃に建設されたプロテスタントの教会です。


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時代を経るうちにリヴォルノのオランダ人は少なくなり、20世紀初頭にはオランダ会衆は大幅に縮小され、教会所有の財産が次々と売られるようになりました。遂に20世紀後半にオランダ人会が解散されました。それに伴い、教会は放棄され、荒廃しました。
1997年、オランダ会衆の子孫によってリヴォルノのオランダ会が再結成され、教会のファサードだけが2014年に修復され保存されるようになりました。


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ドゥオーモの後陣に戻りました。


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バスターミナル


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道草しないでホテルへの近道を通ります。


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共和国広場


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(リヴォルノ編 おわり)

1サン・フェルディナンド教会が見えます。


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港へと続く運河は、レジャーボートの係留地になってます。


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運河の先の海に古い要塞があります。


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ヴェッキア要塞(古要塞)Fortezza Vecchiaです。


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古要塞は三つの核から成ってます。


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古要塞の最初は、1103年、トスカーナ辺境伯マティルデ・ディ・カノッサ(1046-1115)によって建設されたとされてますが、それを記録した文書が残されていません。


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しかし、12世紀頃には海岸からすぐ近くリヴォルノ港内に防御用の海中砦が存在したとされてます。


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Quadratura dei Pisaniと呼ばれる要塞の核の一つは、1377年頃にピサ共和国によって建設されました。当時のリヴォルノはピサ共和国領でした。


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1405年、リヴォルノは、ピサに代わってジェノヴァ共和国の支配下に置かれるようになりましたが、ジェノヴァ共和国によって古要塞は拡大整備されたのです。


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今日見ることが出来る古要塞の原形は、ジェノヴァに代わってリヴォルノを支配するようになったメディチ家が、建築家アントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ヴェッキオ(フィレンツェ、1455‐1534)に命じて、1519年に工事着工され、1534年に完成した海上要塞です。


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完成時、フィレンツェはアレッサンドロ・デ・メディチ(フィレンツェ、1510‐1537)の時代でしたが、アレッサンドロはリヴォルノに興味がない上に直ぐに一族のロレンザッチョに暗殺されてしまいました。


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古要塞横にヨットハーバーがあります。


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アレッサンドロの暗殺後、メディチ家の後継者となった後のトスカーナ大公コジモ1世・デ・メディチ(フィレンツェ、1519‐1574)は、門戸となるリヴォルノに多大な興味を抱き、度々訪れるようになり、その居住地として古要塞内に宮殿建設を図り、1546年にメディチ宮殿が完成しました。


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やがて、地中海に平和が訪れるようになると、古要塞は無用となり、18世紀には刑務所として使用されるようになりました。


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第二次世界大戦の爆撃によって多くの個所が破壊されました。 


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この辺は危険と判断されて立ち入りが禁止されてます。


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客船が発着する港の方に向かいます。


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税関など公的機関がある一角です。


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海岸沿いの道を進みます。


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このホテルはお勧めです。


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ミケーレ広場に有名なモニュメントがあります。


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サント・ステファノ騎士団が海賊に勝利したことを記念して作られたモニュメントです。


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四人のムーア人 Monumennto di Quattro Moriと呼ばれてます。


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モニュメントは、トスカーナ大公フェルディナンド1世・デ・メディチ(フィレンツェ、1549-1609)像の上部と台座と下部の四人のムーア人像から成っており、制作者が異なります。


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ジョヴァンニ・バンディーニ(フィレンツェ、1540c-1609)の「フェルディナンド1世・デ・メディチ像」(1595c)
ジョヴァンニ・バンディーニの作品はカッラーラで制作され、1601年にリヴォルノに到着しましたが、そのまま放置されていました。


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台座と下部の四人のムーア人


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1621年、彫刻家ピエトロ・タッカにモニュメント完成が依頼されたのです。


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それを受けて、ピエトロ・タッカ(カッラーラ、1577-フィレンツェ、1640)によって「四人のムーア人」が制作されて、台座の上にフェルディナンド1世大公像が置かれてモニュメントが完成したのです。
台座は、ピエトロ・タッカの弟子マッテオ・ディ・ミケーレによって作られたそうです。


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台座


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ミケーレ広場から見た古要塞


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(つづく)

1ルオーゴ・ピオ教会の前に出ました。


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ルオーゴ・ピオ教会を通り過ぎて直ぐの場所に別の教会が建ってます。


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サン・フェルディナンド教会です。


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一般的にクロチェッタと呼ばれてます。


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トスカーナ大公コジモ3世の長子で、大公子のフェルディナンド・デ・メディチ(フィレンツェ、1663-1713)は政治的に無関心でしたが、その反面、華麗なパトロン活動で知られていました。その一環として、リヴォルノの三位一体同心会の新教会建設を熱心に推進することになります。


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建築家ジョヴァンニ・バッティスタ・フォッジーニ(フィレンツェ、1652-1725)の設計によって、1707年に創建され、1714年に完成したバロック様式の教会です。
フェルディナンド1世・デ・メディチのパトロネージに感謝するために、その名前に因んで聖フェルディナンドに奉献する教会とすることなり、サン・フェルディナンド教会と命名されました。


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第二次世界大戦の爆撃によって大きな被害を受けたので、戦後に大修復工事が行われました。


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創建時の鐘楼は第二次世界大戦の爆撃によって破壊されてしまいました。


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現在の鐘楼は戦後に再建されたものです。


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ファサード側のメイン扉は閉まっていることが多いようです。


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サイドポータルが開くことがあります。


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単廊式、ラテン十字形、バロック様式の内部です。


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この教会の美術的な見所はジョヴァンニ・バラッタ(カッラーラ、1670-1747)の彫刻でしょう。


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主祭壇はジョヴァンニ・バラッタ(カッラーラ、1670-1747)の彫刻で装飾されてます。


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主祭壇の彫刻:ジョヴァンニ・バラッタ(カッラーラ、1670-1747)の「解放された奴隷](1710-17)


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こちらの礼拝堂祭壇もジョヴァンニ・バラッタの彫刻があります。


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ジョヴァンニ・バラッタ(カッラーラ、1670-1747)の「天国のカギを聖ピエトロに託すキリスト」(1720-30)


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「天国のカギを聖ピエトロに託すキリスト」上部の「聖ピエトロの逆さ磔」のジョヴァンニ・バラッタ(カッラーラ、1670-1747)の作品(1720‐30)です。


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ジョヴァンニ・バラッタの彫刻が教会内のあちこちに置かれてます。
これはジョヴァンニ・バラッタ(カッラーラ、1670-1747)の「Virtu」(1720-30)


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ジョヴァンニ・バラッタ(カッラーラ、1670-1747)の「Obbedienza」(1720-30)
ジョヴァンニ・バラッタの彫刻の製作費は、フランチェスコ・テッリージ(フィレンツェ、1635-リヴォルノ、1715)のパトロネージによるものです。
フランチェスコはこの時代の有名人ですから、ご存知の方が多いことでしょう。


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ジョヴァンニ・バラッタ(カッラーラ、1670-1747)の「Prudenza」(1720-30)


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ジョヴァンニ・バラッタ(カッラーラ、1670-1747)の「Speranza」(1720-30)


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クーポラ


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こちらの礼拝堂祭壇の彫刻は、ジョヴァンニ・バラッタの作品ではないようです。


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制作者等詳細不知の「三位一体」


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詳細不知


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詳細不知


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詳細不知


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制作者等詳細不知の「アンニーバレ・カラッチ作『聖母被昇天』のコピー画」
本物はローマのサンタ・マリア・デル・ポポロ教会にあります。


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墓の数々


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カウンターファサード


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フェリーターミナルに向かいます。


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(つづく)

1サンティッシモ・サクラメント礼拝堂です。


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逸名画家作「天上の聖母子と聖ドメニコとシエナの聖カテリーナ」(18世紀末)


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サンティッシモ・サクラメント礼拝堂の左側壁にあるジュゼッペ・マリア・テッリーニ(リヴォルノ、1739-1811)の「天上の聖母子にレパントの海戦を報告するピオ5世」


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サンティッシモ・サクラメント礼拝堂の右側壁にあるジュゼッペ・マリア・テッリーニ(リヴォルノ、1739-1811)の「天上の聖母子と聖トマス・アクィナス」


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これはジュゼッペ・マリア・テッリーニの作品で、だまし絵で彫刻に見えるように描かれてます。


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ジュゼッペ・マリア・テッリーニ(リヴォルノ,1739-1811)の作品


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ジュゼッペ・マリア・テッリーニ(リヴォルノ、1739-1811)によるサンティッシモ・サクラメント礼拝堂の天井装飾


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ジュゼッペ・マリア・テッリーニ(リヴォルノ、1739-1811)の「天使に導かれるシエナの聖カテリーナ」


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説教壇


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次の礼拝堂です。


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モンテローネの聖母礼拝堂


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製作者情報不知の「モンテローネの聖母」


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モンテローネの聖母礼拝堂の左側壁の祭壇画(詳細不知)


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モンテローネの聖母礼拝堂の右側壁にある祭壇画(詳細不知)


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モンテローネの聖母礼拝堂の天井装飾


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「聖母子」(詳細不知)


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次はサンタ・カテリーナ礼拝堂です。


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ジュゼッペ・マリア・テッリーニ(リヴォルノ、1739-1811)のフレスコ画


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チェーザレ・タッリーニ(ピサ、1885-リヴォルノ、1953)のフレスコ画


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チェーザレ・タッリーニ(ピサ、1885-リヴォルノ,1953)のフレスコ画


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チェーザレ・タッリーニ(ピサ、1885-リヴォルノ、1953)のフレスコ画


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次の礼拝堂です。


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次はサン・ジュゼッペ礼拝堂です。


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ドメニコ・クレスティ通称イル・パッシニャーノ(パッシニャーノ、1559-フィレンツェ、1638)派逸名画家作「エジプトへの逃避途中の休息」


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一時期、ヤコポ・キメンティ・ダ・エンポリの作品とされていたことがあるようです。


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ヤコポ・テッリーニとアントニオ・テッリーニ兄弟によるフレスコ画


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ヤコポとアントニオのテッリーニ兄弟によるフレスコ画


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ヤコポとアントニオのテッリーニ兄弟の「聖母の結婚」


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詳細不知


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詳細不知


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詳細不知


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大体見終わりました。


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外に出ます。
(つづく)

1サンタ・カテリーナ教会に戻りました。


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扉が開いていました。ホッとしました。


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ドメニコ広場に面して建ってます。
なお、シエナの聖カテリーナを奉献する教会です。


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写真右手前の建物がサンタ・カテリーナ教会です。教会に隣接して建っている白い建物は、ドメニコ会のサンタ・カテリーナ修道院でした。


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17世紀後半、サンタ・カテリーナ修道院が建設されましたが、修道院に隣接して建設された小さな教会が前身です。
小さな教会はヴェネツィア・ヌオーヴァ地区の住民の信仰を集めたので、本格的な教会建設計画が具体化しました。


6
そうして、建築家ジョヴァンニ・デル・ファンタジア(フィレンツェ、1670-リヴォルノ,1743)が起用され、ジョヴァンニの設計によって、1720年に創建されました。ファサードが未完成なものの、建物の一応の完成を見た1753年に奉献式が執り行われました。


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八角形のクーポラが目立ちます。


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クーポラの上にLanternaがあります。


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ナポレオンのイタリア侵攻に伴って、サンタ・カテリーナ修道院教会の複合施設は抑圧され、宗教活動が禁止されてしまいました。建物はフランス軍に接収されました。


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フランス軍の撤退後、修道院だった建物は刑務所に転用されました。刑務所は1871年に拡充されました。1980年台に刑務所がサルヴィアーノに移転するまで刑務所でした。
刑務所に隣接していた教会の方は一般信者の足が遠のいて寂れていました。


11
フェルディナンド・フーガ(フィレンツェ、1699-ナポリ、1782)の設計による鐘楼


12
旧修道院で刑務所だった建物は内部が改造され、2005年からリヴォルノ国立公文書館となってます。
教会の方は、刑務所がサルヴィアーノに移転してから、修復が行われました。


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ファサードに向かって左側にサイドポータルが設けられてます。


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拝観します。


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中に入りました。


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内部は八角形で、その上に八角形のクーポラがあるバロック様式の教会です。


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メインポータルを除き、八角形の各辺に当たる場所に礼拝堂が設けられてます。


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八角形のクーポラ


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クーポラにフレスコ画が描かれてますが、保存状態があまり良くない。


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クーポラのフレスコ画は、チェーザレ・マッフェイ(シエナ、1805-?、1876)によって1855年から1858年に制作されました。


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チェーザレ・マッフェイの「聖母戴冠」


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まず中央礼拝堂に足を向けましょう。


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中央礼拝堂です。


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主祭壇画を見ます。


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主祭壇画は、ジョルジョ・ヴァザーリ(アレッツォ、1511-フィレンツェ、1574)の「聖母戴冠](1571)です。


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ヴァザーリの作品は元々この教会にあったものではありません。


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ヴァティカンのサン・ミケーレ礼拝堂の祭壇を飾るために制作され、18世紀末まで同礼拝堂にありました。
1797年、ナポレオンのイタリア侵攻の際、戦利品として持ち去られ、一時はルーヴル美術館で展示されていました。
ナポレオンの失脚後、ヴァティカンに返還されるはずでしたが、何故か所有者が変わりました。
1818年、リヴォルノの資産家であるフィリッキ家の当主アントニオ・フィリッキ(1764‐1847)が競売でこの作品を手に入れ、リヴォルノのサンタ・カテリーナ教会に寄贈し、それ以降、この教会の主祭壇を飾ってます。


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主祭壇は彫刻家バルトロメオ・カッザリーニの作品です。


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バルトロメオ・カッザリーニという彫刻家はまったく知りません。(私が)


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バルトロメオ・カッザリーニの彫刻


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(つづく)

1新要塞 Fortezza Nuovaです。


2
16世紀後半、メディチ家のトスカーナ大公国はリヴォルノの拡大整備を進めることになり、建築家ベルナルド・ブオンタレンティ(フィレンツェ、1531-1608)に計画立案が委嘱されました。


3
1576年、ベルナルド・ブオンタレンティは、五角形の要塞に囲まれた居住エリアを有する新都市計画を立案しました。これがベルナルドの立案した原図のコピーと言われてます。


4
1577年、リヴォルノの新街区とその防御システムの建設工事が着工されました。しかし、当初計画では防衛機能が十分ではありませんでした。


5
1589年、防衛機能強化のためにFortezza Nuovaと呼ばれる要塞建設が決定されました。


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それを受けてベルナルド・ブオンタレンティ、ドン・ジョヴァンニ・デ・メディチ(フィレンツェ、1567-ムラーノ、1621)、クラウディオ・コゴラーノ(パルマ、?-リヴォルノ,1618)、アレッサンドロ・ピエロニ(インプルネータ、1550-リヴォルノ、1607)の設計によって、1590年から1604年に建設された新要塞です。


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17世紀後半、リヴォルノの軍事機能の重要性が薄れたため、新要塞の3分の2が解体されることになりましたが、それとともに要塞に隣接するヴェネツィア・ヌオーヴァ地区の経済的重要性が高まったことから、同地区の防衛力強化のために第二の防御システムとしてサン・ピエトロ要塞が建築されることになりました。現在の姿は、この強化工事完了後の姿が原型となってます。


8
第二次世界大戦の爆撃によって新要塞内部の殆どの建物が破壊されてしまいました。破壊された建物は戦後の解体されて、僅かにその残骸が残されているだけです。


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爆撃を受けて破壊された建物ですが、戦災を受けた他地区の住民たちの避難所となったそうです。
現在、内部は公園として一般公開されてます。


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16世紀初めにッ建設された当初は、この橋は跳ね橋だったそうです。


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ヴェネツィア・ヌオーヴァ地区


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サンタ・カテリーナ教会に向かいます。


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サンタ・カテリーナ教会はヴェネツィア・ヌオーヴァ地区にあります。


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サンタ・カテリーナ教会です。拝観するには少し早すぎたようです。


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サンタ・カテリーナ教会の拝観は後ですることにして、サン・フレディナンド教会の方に進むことにしました。


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サンタ・カテリーナ教会横の運河です。


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運河沿いの道を進みます。


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サン・フレディナンド教会の手前にも教会があります。


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ルオーゴ・ピオ教会です。
ジョヴァンニ・デル・ファンタジア(フィレンツェ、1670-リヴォルノ,1743)の設計によって1713年から1715年に建設されました。
第二次世界大戦の爆撃によって破壊されましたが、その後、修復工事が行われず荒廃してしまいました。1980年台になってリヴォルノ市の所有となり、漸く修復工事が行われ、1990年に工事が完了しました。
2012年から旧教会の建物はリヴォルノ市立博物館となってます。


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旧教会の修復後の内部


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サンタ・カテリーナ教会の扉が開く時間になりました。サンタ・カテリーナ教会に戻ります。
(つづく)

1お腹が空いてました。


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リヴォルノに来た最大の目的は、この料理をワインとともにゆっくりと食べながら食事を楽しむことでした。


3
Cacciuccoと呼ばれる料理は通常四人前からの注文が普通です。


4
レストランの予約なしでリヴォルノに来てしまったので、先ず食堂を探します。


5
この日は日曜日とあって、開店しているレストランが少ないうえに、新鮮な魚介類の入手困難なので、Cacciuccoを楽しむには悪条件であることは承知していました。


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リヴォルノの市場です。


7
日曜日休業は当然の市場ですが、市場周辺ならば、開店している食堂があるだろうとの淡い期待がありました。


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読みが甘かった! 開店している所は一つもありません。


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変なものがありました。


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開店しているどころか、人通りが途絶えていました。


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港の方に行けば何とかなるだろうと思ってました。


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人通りが多い場所がねらい目です。


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この通りは望み薄です。


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第二次世界大戦の戦災後に整備された一角は味気ない。


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写真を撮るのを止めてレストラン探しに注力しました。


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ここで食べました。何とか二人前のオーダーを受けてもらいました。
手で食べたので、食事中の写真は無理でした。


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お腹一杯になりました。夕食は無理な感じです。


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結局、この日の夕食はスキップとなりました。


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新要塞に向かいます。


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運河に出ました。


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運河の横は、共和国広場です。


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新要塞は中に入ることが出来ます。


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新要塞の入り口はどこでしょうか?貰った地図を見ればよいのですが、よぱらっているので適当にぶらぶら歩きを続けます。


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Via de Larderelを進みました。


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裁判所の建物です。


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修復工事が行われていました。但し、日曜日は休工です。


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ファサードの装飾


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サンタンドレア教会に出てしまいました。道を戻ります。


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トイレ休憩しました。


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共和国広場に戻りました。どうやら無駄に道を一周したようです。


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新要塞です。


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運河です。


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運河が新要塞の堀のような役目を担えるように設計されてます。


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(つづく)

1ドゥオーモの後陣に向かって右側にサンタ・ジュリア教会があります。


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写真右がドゥオーモです。ドゥオーモのファサードに向かって、道を挟んだ左側にサンタ・ジュリア教会が建ってます。


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リヴォルノの守護聖人聖ジュリアを祀る教会です。


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9世紀頃、ピサ寄りの市壁外にサンタ・ジュリア教会があったとされてます。


5
13世紀後半、サンタ・ジュリア教会が市壁内に移されることになり、13世紀末から14世紀初めにかけてリヴォルノ旧要塞近くに建設されました。16世紀初めまで教区教会でした。


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しかし、16世紀後半になると、メディチ家のリヴォルノ整備計画が立案され、新たに運河が造られることになりました。運河建設計画にサンタ・ジュリア教区教会が建っている場所が含まれていたので、教区教会は取り壊され、その代わりに運河横に小さなサンタ・ジュリア礼拝堂が建設されました。
しかし、取り壊されたサンタ・ジュリア教区教会の有力信者だったサンティッシモ・サクラメント同心会は、新礼拝堂に満足せず、教会建設を強く希望したのです。


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それを受けて、大公国は現在地に教会新造を認可しました。そうして、建築家アレッサンドロ・ピエロニ(インプルネータ、1550-リヴォルノ、1607)が起用され、アレッサンドロの設計によって1602年に建設されたサンティッシモ・サクラメント同心会の教会です。
第二次世界大戦の爆撃によって破壊されたので、戦後著しく荒廃しましたが、20世紀末からようやく修復工事が本格的に行われ、2008年に漸く工事完了したのです。


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ファサードの碑文


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ファサードにあるサンティッシモ・サクラメント同心会の紋章


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ファサードの浮彫


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鐘楼です。写真左はドゥオーモの後陣です。


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毎日ミサが行われている教会です。


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中に入ったらミサ中でした。


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翼廊がない単廊式、バロック様式の内部です。


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天井の装飾


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新しい「磔刑」の祭壇画があります。


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エンリコ・コラッツィ(リヴォルノ、1887-1952)の「磔刑」(1952)


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制作者等詳細不知の「聖母子」


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「Madonna di Montenero」と呼ばれてます。


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落剝したフレスコ画が残されてます。


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主祭壇
ここにある主祭壇画はコピー画です。本物の主祭壇画は教会内のMuseoに置かれてます。


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「無原罪の聖母」


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制作者等詳細不知


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サンティッシモ・サクラメント同心会の紋章


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フランチェスコ・クゥッラディ(フィレンツェ、1570-1661)の「聖家族と聖アンナと聖ジョヴァンニーノ」


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ジョヴァンニ・マリア・モランディ(フィレンツェ、1622-ローマ、1717)に帰属する『聖ジュリアの殉教」


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Museoとなっている部屋です。


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Maestro di San Torpeの「聖ジュリアとその生涯の物語](1300-20c)
この作品のコピー画が主祭壇画になってます。


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詳細不知


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カウンターファサード方向


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外に出ました。
(つづく)

1引き続きドゥオーモの内部です。


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「聖母子」(詳細不知)


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トンマーゾ・ガッツァリーニ(リヴォルノ、1790-フィレンツェ、1853)の「エジプトへの逃避途中の休息」


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トンマーゾ・ガッツァリーニ(リヴォルノ、1790-フィレンツェ、1853)の「聖体拝領の制定」


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「聖母子」(詳細不知)


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「キリストの洗礼」(詳細不知)


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洗礼盤


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トンマーゾ・ガッツァリーニ(リヴォルノ、1790-フィレンツェ、1853)の「聖マルゲリータ・アラコクゥエの顕現する聖心」


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詳細不知


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Presbiterioの左側壁にある祭壇画を見ます。


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ジュゼッペ・ペッツォーリ(フィレンツェ、1784-1855)の「溺死した男を復活させる聖フランチェスコ」


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Presbiterioの右側壁の祭壇画です。


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トンマーゾ・ガッツァリーニ(リヴォルノ、1790-フィレンツェ、1853)の「聖ジュリアの遺体の搬送」


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ジュゼッペ・マリア・テッレーニ(リヴォルノ、1739-1811)の「聖ジローラモ」
ジュゼッペ・マリア・テッレーニが描いた沢山の聖人を描いた作品がありましたが、第二次世界大戦の爆撃によって破壊されたものが多く、現存しているのは4点だけだそうです。


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ジュゼッペ・マリア・テッレーニ(リヴォルノ、1739-1811)の「聖アンブロージョ」


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ジュゼッペ・マリア・テッレーニ(リヴォルノ、1739-1811)の「聖アゴスティーノ」


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ジュゼッペ・マリア・テッレーニ(リヴォルノ、1739-1811)の「聖グレゴリオ」


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中央通路床の紋章


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ベアート・アンジェリコ(フラ・アンジェリコ)の作品をもう一度見ます。


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カウンターファサード方向


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外に出ました。


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(つづく)

42引き続きドゥオーモの内部です。


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次は天井の小絵画です。


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天井の小絵画は全部で4つあります。


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天井の四つの小絵画は、1610年から1614年にかけてフィレンツェ派の逸名画家によって制作されたそうです。


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後陣


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主祭壇


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ジョヴァンニ・バッティスタ・フォッジーニ(フィレンツェ、1652-1725)の「マルコ・アレッサンドロ・デル・ボッロの葬儀記念碑」


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マルコ・アレッサンドロ・デル・ボッロ(アレッツォ、1626-リヴォルノ、1701)は、1678年から1701年に没するまでリヴォルノ総督を務めました。


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フランチェスコ・クゥッラディ(フィレンツェ、1570-1661)の「磔刑」


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ピエトロ・ソッリ(サン・グズメ、1556-シエナ、1622)の「聖母被昇天](1605)


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二点とも詳細不知です。


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トンマーゾ・ガッザッリーニ(リヴォルノ、1790-フィレンツェ、1853)の「キリストの変容」


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ジュゼッペ・ボッターニ(クレモナ、1717-マントヴァ、1784)の「無原罪の御宿り」


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ピエトロ・ソッリ(サン・グズメ、1556-シエナ、1622)の「天上の聖母子と聖人たち」(1605c)


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右翼廊です。


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サンティッシモ・サクラメント礼拝堂です。


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この礼拝堂に有名な作品があります。


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ベアート・アンジェリコ(ヴィッキオ、1395c-ローマ、1455)の「荊刑のキリスト」


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天使の彫刻も見逃せません。


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ジョヴァンニ・バラッタ(カッラーラ、1670-1747)工房作「天使」


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(つづく)

1グランデ広場に面して建つドゥオーモです。


2
リヴォルノは、ピサ共和国の重要な港でしたが、アルノ川の土砂堆積によって河口のピサ港はその繁栄を失い、さらに重要性を増すことになりました。
ピサ共和国の衰退によって、リヴォルノはミラノの支配下に置かれ、さらにジェノヴァ領となりましたが、1421年、ジェノヴァはフィレンツェにリヴォルノを売却し、リヴォルノはフィレンツェの海への主要な出入り口とされるようになりました。
16世紀後半、トスカーナ大公のメディチ家によってリヴォルノの整備要塞化が進められることになり、その一環としてドゥオーモ建設が計画されました。


3
リヴォルノの整備拡張計画は、建築家ベルナルド・ブオンタレンティ(フィレンツェ、1531-1608)に委ねられ、ドゥオーモ建設もブオンタレンティの設計によって、1594年に着工の運びとなりました。


5
しかし、ブオンタレンティが設計したドゥオーモは1596年に一応の完成を見ましたが、当時のトスカーナ大公フェルディナンド1世・デ・メディチ(フィレンツェ、1549-1609)はその規模が小さいことに不満を抱き、フェルディナンド1世の指示によって拡大されることになりました。
新たに建築家アレッサンドロ・ピエロニ(インプルネータ,1550-リヴォルノ、1607)が起用され、ピエロニの設計によって、1596年から1606年に完成したルネサンス様式の教会は、サン・フランチェスコ参事会教会と命名されました。
ファサード下のポルティコは、アントニオ・カンタガッリーナ(ボルゴ・サン・セポルクロ、?‐リヴォルノ、1616)の設計によって、1606年に完成後に新たに付け加えられました。


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20世紀前半に撮影されたグランデ広場の写真です、広場の先にドゥオーモが写ってます。


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ファサード下の柱廊


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1716年から1727年に拡大工事が行われました。
また、1806年にリヴォルノは独立した司教区に昇格され、それに伴って司教座教会に格上げされました。


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大公家のメディチ家、ロレーヌ家の庇護を受け、両家からの高価が寄贈品があることで知られていました。


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第二次世界大戦中の1943年に爆撃を受け、大きな被害を受けましたが、迅速な修復工事が行われ、一時、教会活動が再開されたものの、1944年に再び爆撃を受けて建物は修復不能なまでに崩壊してしまい、荒廃が進むだけの建物になってしまいました。


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1953年に奉献された現在の建物は、戦後に再建されたものですが、戦災前の元の姿に戻す努力がされたものの完全ではなく、依然として未完成のままとなってます。


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写真右の建物はサンタ・ジュリア教会です。


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後陣横の広場にバスターミナルがあります。


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後陣


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後陣横に鐘楼があります。


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鐘楼


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高さ約50メートルの鐘楼


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1856年、鐘楼に時計が追加されました。


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左翼廊にロッジャが設けられ、聖堂への出入り口が設けられてます。


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洗礼堂


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ファサードにメディチ家の紋章があります。


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カイローリ通りから見た後陣と鐘楼


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爆撃されたにも拘らず、貴重な美術品が残されています。


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拝観します。


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聖堂内に入りました。


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毎日開くので拝観しやすいと思います。


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単廊式、ラテン十字形、ネオ・ルネサンス様式の内部です。


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戦後に再建された建物なので、やはり新しく見えます。


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爆撃される前の天井は木製で、Vincenzo Rememberによって1604年から1614年に制作された彫刻がありましたが、それらの彫刻は全て失われてしまいました。


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しかし、天井の絵画は初代の建物にあったオリジナルの作品です。


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ヤコポ・キメンティ・ダ・エンポリ別称ヤコポ・ダ・エンポリ(フィレンツェ、1551-1640)の「聖母から幼きキリストを受け取る聖フランチェスコ」(1610-14)


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天井の作品は必見です。


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ドメニコ・クレスティ(またはクレスピ)通称イル・パッシニャーノ(パッシニャーノ、1559-フィレンツェ、1638)の「聖母被昇天」(1610-14)


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ヤコポ・リゴッツィ(ヴェローナ、1547-フィレンツェ、1627)の「聖ジュリアの勝利」(1619-23)


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(つづく)

1サン・グレゴリオ・デリ・アルメーニ教会です。


2
17世紀、交易のためにリヴォルノに定住するようになったアルメニア人は信仰の場として教会の建設を希望していましたが、アルメニア人の日常的に使用しているグレゴリオ暦に対する警戒感から、リヴォルノの市壁内における教会建設の話は中々進捗しませんでした。
しかし、トスカーナ大公コジモ3世の長子で、大公子のフェルディナンド・マリア・デ・メディチ(フィレンツェ、1663‐1713)のパトロネージの一環としてグレゴリオ暦に興味を抱き、アルメニア人のための国立教会建設の許可に向けて力を貸し、教会建設が実現することになりました。


3
そうして、ジョヴァンニ・バッティスタ・フォッジーニ(フィレンツェ、1652-1725)の設計によって1701年から1714年に建設されたバロック様式の教会です。


5
ファサードの銘板
第二次世界大戦の爆撃を受け、大きな被害を受けましたが、修復工事の話が進まず、その間、盗難、襲撃、破壊行為が続きました。
その一方、リヴォルノのアルメニア人コミュニティの縮小、更には消滅によって、結局、教会の修復工事断念が決まり、ファサードだけを残して、残りの建物はすべて破壊、撤去されて現在に至ってます。
残されたファサードは、アルメニアの総主教庁によって維持管理されてます。


4
ファサードとファサードの敷地内に彫刻などが残されてます。


6
ジョヴァンニ・バラッタ(カッラーラ、1670-1747)の「美徳」


7
ジョヴァンニ・バラッタ(カッラーラ、1670-1747)の「美徳」


9
パオロ・エミリオ・デーミ(リヴォルノ、1798-1863)の「聖ジョヴァンニ・バッティスタ](1825-50c)


9
パオロ・エミリオ・デーミ(リヴォルノ、1798-1863)の「聖マリア・マッダレーナ」(1825-50c)


10
ヴェネツィア地区にやってきました。


11
港へと続く運河です。


12
この付近の佇まいがヴェネツィアに似ているので、ヴェネツィア街と呼ばれてます。


13
ピサとリヴォルノ港を結ぶために、1563年から1575年に造られた運河です。


14
運河に架かる橋に置かれたモニュメントです。


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Monumennto di San Giovanni Nepomuceno


16
市庁舎広場にやってきました。


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市庁舎広場に面して建っているPalazzo Grandeです。


18
1950年から1952年にかけて建設された映画館の建物です。映画館は2013年に廃業となりました。


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現在は、色々な店舗が入居してます。


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旧映画館のカフェテリアはマックが入居しているようです。観光案内所もこの建物の一角にあります。


21
この場所には第二次世界大戦の爆撃によって破壊された教会があったようです。


22
市庁舎広場に面して建つPalazzo Granducaです。


23
Palazzo Granducaは、トスカーナ大公フェルディナンド1世・デ・メディチ(フィレンツェ、1549-1609)がリヴォルノにおける大公の宮殿として建設されたものです。1605年に建設工事が着工され、1612年に一応の完成となりましたが、1629年に大拡張されたそうです。


24
1796年のナポレオンのイタリア侵攻の際には、フランスの公邸として使用されましたが、後にフランス軍の兵舎に転用されるようになりました。


25
Palazzo Granducaは、1871年から学校の校舎として使用されるようになりましたが、1931年からトスカーナ州リヴォルノ県の県庁舎に転用され、現在も県庁舎です。
現在の建物は旧Palazzo Granducaというべきもので、初代の建物は第二次世界大戦の爆撃によって完全に破壊されたしまったので、1950年に殆ど新造という形態で再建された建物です。
Palazzo Granducaには、リヴォルノ出身の画家Plinio Nomellini(リヴォルノ、1866-フィレンツェ、1943)の作品があることで知られてます。


26
プリーニオ・ノメッリーニ(リヴォルノ、1866-フィレンツェ、1943)の「Saluto alla Bandiera」(1927)


27
Plinio Nomelliniの「La Glorificazione」(1911)


28
Plinio Nomelliniの「Il Cannone dei Lupi」(1911)


29
Plinio Nomelliniの「La Liberta」(1911)


30
市庁舎広場です。


31
市庁舎です。


32
オリジナルの市庁舎は、ジョヴァンニ・マリア・デル・ファンタジア(フィレンツェ、1670‐リヴォルノ、1743)の設計によって1720年頃に建設されました。


33
1742年の地震によってジョヴァンニ・マリア・デル・ファンタジアが設計した建物は大被害を受けてしまい、一部の建物が残される形で、ベルナルディーノ・チウリーニ(カステルフィオレンティーノ、1695‐フィレンツェ、1752)の設計によって再建された建物が現在の姿の原型です。


34
第二次世界大戦の爆撃によって壊滅的に被害を受けてしまい、1949年に大修復された建物が現在の姿となってます。


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鐘楼


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広場に面した建物は第二次世界大戦の爆撃によって徹底的に破壊されたことが分かります。


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市庁舎の碑文


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正門


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リヴォルノの紋章


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歴史ある建物が新しい建物に置き換わってます。


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(つづく)

1マドンナ修道院教会です。大きく写っている建物は旧修道院です。


2
フランチェスコ会の修道院です。修道院だった建物は学校などに転用されてます。キオストロとキオストロ回廊を見ることが出来ます。


3
マドンナ修道院教会の複合施設の中庭です。


9
回廊の壁にフレスコ画が残されていたそうですが、現在はすべて塗りつぶされて残されていません。


11
第二次世界戦中にイギリス軍の爆撃によって、破壊された回廊です。その際、フレスコ画も粉々に砕けると共に崩落して修復断念となりました。


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回廊に墓石が残されてます。


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回廊から出てマドンナ教会に向かいます。


4
マドンナ通りに出ました。


5
この場所には元々サンティ・コジモ・エ・ダミアーノ祈祷所がありましたが、それが前身です。同祈祷所は、16世紀後半に火事に遭い、焼失してしまいました。


6
建物が再建されることになりましたが、それを機に教会への格上げすることが決まりました。
建築家で画家でもあるアレッサンドロ・ピエロニ(インプルネータ,1550-リヴォルノ、1607)が起用され、アレッサンドロの設計によって、1607年から1611年に建設されたバロック様式の教会です。


16
1611年の完成時には、サンティ・マドンナ・フランチェスコ・コジモ・エ・ダミアーノ教会と呼ばれていました。
1638年までに修道院の建物が完成すると共に教会の建物が拡張されましたが、それを機にマドンナ修道院教会と改称されました。


7
1860年の修復では建物の一部が改造されたものの、1638年の姿を保っていたそうです。


8
第二次世界大戦の爆撃によって、建物が崩落してしまったので、戦後に再建された建物です。2013年に漸く完成したファサードは元の姿とは非常に異なるそうです。


43
マドンナ教会の鐘楼です。


17
教会内に入りました。


18
単廊式のシンプルな構造の内部です。


19
建物は新しいのですが、祭壇画や彫刻などは爆撃にも拘らず修復が可能な状態で残されて、幸運にも今なお見ることが出来ます。


21
磔刑の礼拝堂です。


29
磔刑礼拝堂の「磔刑像」はフェルディナンド・タッカ(フィレンツェ、1619-1686)の帰属作品です。


22
1620年頃に制作された主祭壇


23
主祭壇のタベルナコロ(1620c)


24
フランス国民の礼拝堂です。


25
フランス国民礼拝堂の祭壇画です。


26
マッテオ・ロッセッリ(フィレンツェ、1578-1650)の「聖ルイージ」(1613-14)
聖ルイージは、フランス王ルイ9世(1214-1270)のことです。この作品はトスカーナ大公コジモ2世から1615年に寄贈されたものです。


27
オランダのマレマン礼拝堂です。


28
マレマン礼拝堂の祭壇画は、ドメニコ・プリアーニ(ヴァーリア、1589-フィレンツェ、1658)の「聖アンドレアの殉教」


30
マドンナ・ディ・モンテローネ礼拝堂です。


20
マドンナ・ディ・モンテローネ礼拝堂の「聖母子」(詳細不知)


31
マドンナ・ディ・モンテローネ礼拝堂側壁に置かれた、逸名画家作「アヴィーラの聖テレーザ」(18世紀)


32
マドンナ・ディ・モンテローネ礼拝堂側壁に置かれた、逸名画家作「無原罪の御宿り」


33
ブイエーリ礼拝堂です。


34
ブイエーリ礼拝堂の祭壇画は、トスカーナの逸名画家による「ピエタ](1733)です。


35
コルシカ礼拝堂の祭壇画:フランチェスコ・クッラディ(フィレンツェ、1570-1661)の「天上の聖母子と聖ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ(福音書記者聖ヨハネ)」(1629)


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シチリア・スペイン礼拝堂


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「聖母子」(詳細不知)


40
Alberto Carliniの「フランチェスコ会衆の奇跡](1750-75c)
Alberto Carliniという画家についてはまったく知りません。


41
外に出ます。


42
(つづく)

1引き続き後陣祭壇のイコンです。


2
祭壇ドアにもイコンがあります。


3
逸名画家による「受胎告知」(1750)


4


5


6
Antimos Kolasの「祈るキリスト」(1610)


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Antimos Kolasの「聖母子](1610)


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プレデッラ


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15
Porta


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逸名画家による「羊飼いの礼拝](1750)


18
Porta


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21
逸名画家による「マギの礼拝](1750)


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23
左右の側壁に置かれたイコンを見ます。


24
「聖母子と聖ジョヴァンニ・バッティスタ」(制作者等詳細不知)


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26
「受胎告知」(制作者等詳細不知)


27


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29
「聖母子」(制作者等詳細不知)


31
「聖人」(制作者等詳細不知)


32
聖人は特定されていません。


33
「聖スピリドーネ」(制作者等詳細不知)


34


35
アンドレア・ヴァッカ(カッラーラ、1660-1745)の彫刻(1708-10)
アンドレア・ヴァッカの彫刻数点が教会内に置かれてます。これらの彫刻は第二次世界大戦の爆撃によって破壊されたファサードにありました。戦後、ファサードが新造再建されたことに伴い、崩落した元のファサードにあった彫刻が教会内に置かれるようになりました。


36
アンドレア・ヴァッカ(カッラーラ、1660-1745)の彫刻(1708-10)


37
アンドレア・ヴァッカ(カッラーラ、1660-1745)の彫刻(1708-10)


38


40
「聖母子」(詳細不知)


39
外に出ます。


41
(つづく)

1マドンナ通りです。


2
マドンナ通りに面して教会が建ってます。


3
統一ギリシャ教会、またはサンティッシマ・アンヌンツィアータ教会と呼ばれてます。


4
16世紀後半、多くのギリシャ人がリヴォルノに定住するようになり、市壁外にギリシャ人集落を作るようになりました。集落の信仰の場として、直ぐにギリシャ正教の小さなサン・ヤコポ礼拝堂が建設されましたが、それが前身です。


5
16世紀末、当時のトスカーナ大公フェルディナンド1世・デ・メディチ(フィレンツェ、1549-1609)は、市壁内のマドンナ通りにギリシャ人のための教会建設を認めると共に、現在、教会が建っている場所を与えました。


6
そうして、建築家であり画家でもあったアレッサンドロ・ピエロニ(インプルネータ、1550‐リヴォルノ、1607)の設計によって、1601年から1606年に建設されたバロック様式の教会です。
ファサードは、教会の建物の完成後の18世紀前半に建設されました。


11
しかし、第二次世界大戦中に爆撃を受け、建物の一部を除き崩壊してしまったので、戦後に元の姿を模して再建されました。


7
ファサードの再建工事が2012年に漸く終わりました。現在の教会の外観は、2012年のファサード完成後の姿となってます。


8
ファサードの受胎告知の浮彫


10
メディチ家の紋章


12
こちらの鐘楼は、直ぐ傍にあるマドンナ教会のものです。


9
この街の教会の中で、必見の教会の一つでしょう。


13
中に入りました。


14
単廊式、バロック様式の内部です。


15
一部を除き、戦後に再建された内部です。


16
イコンの宝庫です。第二次世界大戦の爆撃で損傷を受けましたが、戦後に大掛かりな修復を受けて、再生されたイコンです。


17
木製の天井と天井装飾


18


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「キリストの神殿奉献」の祭壇画


20
制作者、制作された時代などの詳細が不明です。


21
主祭壇は、ギリシャ人画家Antimos Kolasによって1610年頃に制作されました。


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磔刑の下段にイコンが左右に並んでます。


33
磔刑下のイコンは、ギリシャの逸名画家?によって1640年から1643年に制作されました。


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40
(つづく)

1第二次世界大戦後、都市計画に基づいて復興された街並みです。


2
共和国広場に向かいます。


3
共和国広場にやってきました。


4
中心部と19世紀に造成された地区を結ぶ広場として、19世紀前半に作られました。市内の主要道路を結んでます。


5
リヴォルノは、かってトラム路線が充実していましたが、現在、トラムが残されてません。トラム・システムの中心が共和国広場で、大きなターミナルがありました。


6
共和国広場の場所は、かって港の一部でした。


7
共和国広場は埋め立てではなく、実は巨大な橋というべきもので、広場の下は海水です。


8
共和国広場に2つのモニュメントがあります。


9
「トスカーナ大公フェルディナンド3世・ハプスブルク=ロレーヌ(フィレンツェ、1769-1824)のモニュメント」


11
フェルディナンド3世のモニュメントは、フランチェスコ・ポッツォ(ポルトフェッライオ、1790-フィレンツェ,1844)によって、1847年に制作されました。


18
フェルディナンド3世のモニュメント台座の浮彫


10
フェルディナンド3世の台座


12
もう一つは、「レオポルド2世(フィレンツェ、1797-ローマ、1870)のモニュメント」です。
レオポルド2世は、フェルディナンド3世の息子です。


13



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17
共和国広場の先に要塞(新要塞)があります。


19
新要塞 Fortezza Nuovaには午後に行きました。


20
共和国広場の直ぐ傍に水道タンクがあります。


21
市壁(城壁)外にある水道タンク Cisternoneと区別するためにCisternino (di Citta)と呼ばれてます。


22
パスクゥアーレ・ポッチャンティ(ビビエーナ、1774-フィレンツェ、1858)によって、1837年に創建され、1848年に完成しました。


23
折角完成した水道タンクですが、一度も使用されずに現在に至ってます。


24
水道タンクの後部


25
1840年頃、新要塞の一部解体と共和国広場の造成が決まりましたが、それに伴って、Cisternino di Cittaに通す水道化の敷設が技術的に困難になったので、使用が断念されたそうです。


26
現在は、市当局所有の建物として、様々な用途に使用されてます。


29
リヴォルノ出身の画家ジョヴァンニ・ファットーリ(リヴォルノ、1825‐フィレンツェ、1908)のモニュメントが水道タンクの前にあります。


27
映画館だったTeatoro Lazzeriの建物です。2008年、本屋さんが買収しましたが、イタリアでも本屋さんの経営が難しいようで、2015年に閉店となり、現在はレストランなどになっているようです。


28
新しい建物が続きます。


30
Palazzo del Picchettoです。


31
リヴォルノ港の貿易と軍事の重要門だったピサ門を警護する兵士のための兵舎として建設されました。


32
ピサ門は、19世紀半ばに破壊されて現存しません。これはピサ門のエッチングです。


33
第二次世界大戦で破壊を免れた、数少ない建物の一つです。


34
Palazzo del Picchettoの碑文


35
メディチ家の紋章があります。


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扉上の装飾


38
建物内部に崩落があって、危険と判断されて使用が中止されていたPalazzo del Picchettoですが、2016年に不法占拠されていました。2019年に不法占拠者が警察によって退去させられました。
大掛かりな修復工事が必要とされていますが、資金難のため工事が具体的になっておらず、先行きが悲観視されているようです。


39
この通りには面白い建物がありません。


40
(つづく)

2前泊地はグロッセートでした。


1
グロッセート駅から列車でリヴォルノに向かいます。


3
ピサ中央駅行普通列車に乗り込みます。


43
車内は非常に空いてました。


4
リヴォルノ駅に到着しました。


5
リヴォルノ駅の駅舎です。


6
先ず、この日のお宿に向かいました。


7
この日のお宿です。コロナのせいなのか、現在は廃業?


8
大きな荷物を、この日のお宿に預かってもらい、身軽になったので、早速外出しました。


9
チェントロ・ストーリコに向かいます。


10
鉄道駅から旧市街まで、約1㎞の距離でしょうか。何時ものように徒歩です。


11
リヴォルノは、人口153,443人(2022年4月30日現在)のトスカーナ州リヴォルノ県の県都です。フィレンツェ、プラートに次いで、トスカーナ州で三番目に人口が多い街です。
アルノ川河口のピサは海洋都市として栄えましたが、アルノ川の土砂堆積によって港としての機能が衰退すると共に、その重要性が増していったのがリヴォルノ港でした。トスカーナ大公国の貿易港としてメディチ家、その後を継いだロレーヌ家によって港は整備されました。
イタリア統一後、リヴォルノ港は海軍司令部が置かれ、最重要の軍事都市の一つとしてリヴォルノは発展を遂げました。
第二次世界大戦では、ドイツ海軍の重要港でしたから、連合国から徹底的に爆撃を受け、破壊されてしまいました。そのため、貴重な古い建物、美術品なども失われてしまい、美術的な見所には欠ける街となってます。


12
ペルティー二公園にやってきました。


13
建築家パスクゥアーレ・ポンチャンティ(ビビエーナ、1774-フィレンツェ、1858)の設計によって1830年から1854年に造園された公園です。


14
パスクゥアーレ・ポンチャンティ(ビビエーナ、1774-フィレンツェ、1858)の「女神ヒュギエイア像](1838c)


15
ペルティー二公園の近くに建っている建物です。


16
パスクゥアーレ・ポンチャンティ(ビビエーナ、1774‐フィレンツェ、1856)の設計によって、1829年から1842年に建設された新古典様式の水道タンクです。Cisternoneと呼ばれてます。


17
リヴォルノから18㎞離れた場所にコロニョーレというコムーネがありますが、コロニョーレは綺麗で豊富な水量の泉が湧いていました。その水をリヴォルノの水道水として利用するべく、1816年から水道橋の建設が開始されましたが、それに伴う水道タンクがこの建物になります。


18
水道橋は、1912年まで使用されました。


19
水道タンクは現在も使用されてます。


20
道路を挟んで水道タンクの向かいに教会があります。


21
サンタンドレア教会です。


22
市壁外にリヴォルノの墓地がありましたが、その場所にあったサンタンドレア教区教会が前身です。しかし、18世紀後半に新たに市営墓地が別の場所に開設されると、サンタンドレア教区教会は次第に廃れて、やがて放棄されてしまいました。


23
1806年に現在地の一角に小さな礼拝堂が建設されました。1840年、その礼拝堂の隣に神学校が創建されましたが、それを機に教会が建設されることになり、建築家ガエターノ・ゲラルディ(フィレンツェ、1799-1891)が起用され、ガエターノの設計によって、1850年に完成したのが新古典様式のサンタンドレア教会です。1887年に奉献式が執り行われたそうです。


24
私が中に入ったらミサ中でした。


25
単廊式の比較的新しい教会です。


26
美術的な見所はありません。


27
神学校だった建物に行きます。


28
神学校だっ建物で、現在は大司教館となってます。


29
大司教館の一部が教区博物館 Museo Diocesanoになってます。


30
この街では、唯一の見るべき場所なので、暇つぶしにどうぞ。


31
ジョッテスキ(ジョットの影響を受けた追随者)逸名画家による「二聖人」(1310c)


32
聖ヤコポ?


33
アゴスティーノ会殉教聖人?


34
トスカーナの逸名画家作「聖アガタ」(17世紀)


35
トスカーナの逸名画家作「磔刑」(1770-90c)


36
トスカーナの逸名画家作「無原罪の聖母と聖ピエトロと聖カテリーナ」(1770-90c)


37
交唱唱歌集


38


39
トスカーナの逸名画家作「聖ジローラモ」(17世紀後半)


40
式服


41


42
(つづく)

1
1ピエトロ・テスタ(ルッカ、1612-ローマ、1650)の「生贄のイフィゲニア」


2
88番の作品です。


3


4


5


6
アントニオ・アモロージ(コムナンツァ、1660-1738)の「老女にサクランボをかざす少女」


7


8


9


10
逸名画家作「アルテミジア・ジェンティレスキ作『ユディト』のコピー画」


11


12


13
アルテミジア・ジェンティレスキの「ユディト」は、2点現存しています。それらは非常に似ていて、区別が困難です。
念のため、2点の作品写真を掲載しておきましょう。


14
アルテミジア・ジェンティレスキ(ローマ、1593‐ナポリ、1652/1653)の「ユディト](1612-13)
ナポリのカポディモンテ美術館にあります。


15
アルテミジア・ジェンティレスキ(ローマ、1593-ナポリ、1652/1653)の「ユディト](1620-21)


16
フィレンツェのウフィッツィ美術館にあります。
違いがお分かりになりますか。
さて、別館にあるコピー画ですが、サロメの服の色と構図からカポディモンテ美術館にある第1作のコピー画であると考えられてます。


17
リオネッロ・スパーダ(ボローニャ、1576‐パルマ、1622)に帰属する「サロメ」


18
アントニオ・マリーニ(ヴェネツィア、1668-1725)の「時化」
同姓同名の画家がもう一人いるので、区別するために、こちらのアントニオ・マリーニを「ヴェネツィアのアントニオ・マリーニ」と称するのが普通です。


19
フランチェスコ・シモニーニ(パルマ、1686‐フィレンツェ、1753)の「戦闘」


20
マリヌス・ファン・レイメルスワーレ(オランダ、1490c-1546c)の「収税人」


21
有名な画家そっくりの画風です。その「有名な画家」とは誰でしょうか?


22
有名な画家とは、クエンティン・マサイスです。マリヌス・ファン・レイメルスワーレはクエンティン・マサイスの追随者でした。


23


24
次の部屋の天井です。


25
天井にフレスコ画が描かれてます。


27
この部屋の天井フレスコ画も有名です。


26
Sala di Felsinaです。


28
Sala di Felsinaの天井フレスコ画は、ジュゼッペ・ロッリとアントニオ・ロッリの兄弟によって1690年頃に描かれました。


29


30


31
ジョヴァン・フランチェスコ・ゲッシ(ボローニャ、1588-1649)の「聖家族と二天使」


32
ジョヴァン・フランチェスコ・ゲッシ(ボローニャ、1588-1649)の「聖ボナヴェントゥーラの奇跡」


33


34


35


36
ジョヴァン・フランチェスコ・ゲッシ(ボローニャ、1588-1649)の「聖根を受ける聖フランチェスコ」


37
ピエル・フランチェスコ・チッタディーニ(ミラノ、1616-ボローニャ、1681)の「聖アグネス」


38


39
外に出ました。


40
(おわり)

1ニコロ・カッサーナ(ヴェネツィア、1659‐フィレンツェ、1713)の「老兵」


2
80番の作品です。


3


4
この作品を収集した理由は何でしょうか。


5


6
ヨハン・ゲルスミュター(パルマ、1606-1607活動記録)の「男の肖像」


7
81番の作品です。


8
ヨハン・ゲルスミュターは、フランダース人画家で、パルマ宮廷で1606年から1607年に3点の作品を制作しました。


9
この男の姓名、役職など全て判明しています。


10
ニコロ・カッサーナ(ヴェネツィア、1659-フィレンツェ、1713)の「老女の肖像」


11
82番の作品です。


12


13


14


15
アレッサンドロ・ゲラルディーニ(フィレンツェ、1655-リヴォルノ,1726)の「磔刑像を崇める聖ジローラモ」


16
83番の作品です。


17


18


19


20


21
パオロ・ファリナーティ(ヴェローナ、1524-1606)に帰属する「十字架降下」


22
84番の作品です。


23


24


25


26
17世紀のヴェネトの逸名画家作「オリュンポス山の神々」


27
85番の作品です。


28


29


30


31
イグナツィオ・フゴフォルド(フィレンツェ、1703-1778)の「磔刑」


32
86番の作品です。


33


34


35


36


37
ジョヴァンニ・バッティスタ・ピアツェッタ(ヴェネツィア、1682-1754)の「キリストの復活」


38
87番の作品です。


39


40


41


42
(つづく)

1逸名画家作(恐らくベルナルド・ストロッツィ工房で働いていた画家)「ベルナルド・ストロッツィ作『べレニーチェ』のコピー画」


2
72番の作品です。


3


4


5


6
ジョヴァン・フランチェスコ・カッサーナ(カッサーナ、1620c-ミランドラ、1690)に帰属する「聖マルティーノの施し」


7
73番の作品です。


8


9


10


11


12
ベルナルド・ストロッツィ(ジェノヴァ、1581-ヴェネツィア、1644)の「聖セバスティアーノと聖ロッコ」


13
74番の作品です。


14


15


16


17
昔、フェデリーコ・バロッチの帰属作品とされていた「少女の肖像」


18
75番の作品です。


19
フェデリーコ・バロッチ工房で働いていた逸名画家の作品説もあります。


20


21


22
ピエトロ・ベッロッティ(サロ、1625-ガルニャーノ、1700)の「本を手にする薄汚い男の肖像」


23
76番の作品です。


24


25


26


27
ピエトロ・ベッロッティ(サロ、1625-ガルニャーノ、1700)の「老女の肖像」


28
77番の作品です。


29


30


31


32
セバスティアーノ・リッチ(ベッルーノ、1659-ヴェネツィア、1734)の「聖ジローラモの誘惑」


33
78番の作品です。


34


35


36


37
パルマ・イル・ジョーヴァネ(ヴェネツィア、1544-1628)の「磔刑」


38
79番の作品です。


39


40


41


42


45
(つづく)

1次の部屋の天井に描かれたフレスコ画です。


2
Sala di Alessandroと呼ばれている部屋です。


3
天井のフレスコ画は、ドナート・クレティ(クレモナ、1671-ボローニャ、1749)によって、1708年から1710年に描かれました。


4
フレスコ画のテーマは、「ゴーディアン・ノットを斬るアレクサンダー大王」です。


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19
バルトロメオ・マンフレディ(オスティアーノ、1582-ローマ、1662)の「ダイダロスとイカロス父子」


20
68番の作品です。


21


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24
ジュゼッペ・リベラ工房作「Tizio」


25
69番の作品です。


26


27


28


29
ルカ・ジョルダーノ(ナポリ、1634-1705)の「死せるキリストへの哀悼」


30
70番の作品です。


31


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34


35


36
マッティア・プレティー(タヴェルナ、1613-マルタ、ヴァレッタ、1699)の「イサクの犠牲」


37
71番の作品です。


38


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40


41


42


43
(つづく)

1
ペッレグリーノ・ティバルディ(プーリア・ディ・ヴァルソルダ、1527-ミラノ、1596)に帰属する「カナの晩餐」


2
60番の作品です。


3


4


5


6
カルロ・ボノーニ(フェラーラ、1569-1632)の「天使」


7
61番の作品です。


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9


10


11
カルロ・ボノーニ(フェラーラ、1569-1632)の「天使」


12
62番の作品です。


13


14


15


16
逸名画家による「ルドヴィーコ・カラッチ作『聖母被昇天』のコピー画」


17
65番の作品です。


18


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20


21


22


23
ルドヴィーコ・カラッチ(ボローニャ、1555-1619)の「ヤコブの階段」


24
63番の作品です。


25


26


27


28


29
ルドヴィーコ・カラッチ(ボローニャ、1555-1619)に帰属する「聖母の誕生」


30
66番の作品です。


31


32


33


34
ヌンツィオ・ロッシ(ナポリ、1626-シチリア、1651)の「聖グリエルモ」


35


36
ヌンツィオ・ロッシ(ナポリ、1626‐シチリア、1651)の「聖トンマーゾ」


37
ジョヴァンニ・アンドレア・シラーニ(ボローニャ、1610-1670)の「聖アガタ」


38
グイド・カニャッチ(サンタルカンジェロ・ディ・ロマーニャ、1601‐ウィーン,1663)の「ルクレツィア」


39


40
エリザベッタ・シラーニ(ボローニャ、1638-1665)の「シビッラ](1660)


41
エリザベッタ・シラーニ(ボローニャ、1638-1665)の「シビッラ」(1660)
(つづく)

1ガスパーレ・サッキ(イーモラ、1517-1536活動記録)の「若い男の肖像」


2
51番の作品です。


3


4


5


6
プロスぺーロ・フォンターナ(ボローニャ、1512-1597)の「男の肖像」


7
52番の作品です。


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9


10


11
バルトロメオ・パッセロッティ(ボローニャ、1529-1592)の「聖フランチェスコ」


12
53番の作品です。


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15


16


17
ティブルツィオ・パッセロッティ(ボローニャ、1553-1612)に帰属する「カササギから白蝶への変化」


18
54番の作品です。


19


20


21


22
バルトロメオ・パッセロッティ(ボローニャ、1529-1592)の「ルクレツィア」


23
55番の作品です。


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27


28


29
デニス・カルヴァート(アンヴェルサ,1540c‐ボローニャ、1619)の「警戒」


30
56番の作品です。


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32


33


34
バルトロメオ・パッセロッティ(ボローニャ、1529-1592)の「聖母の神殿奉献」


35
57番の作品です。


36


37


38


39
ジャコモ・フランチャ(ボローニャ、1484c-1557)の「アレッサンドリアの聖カテリーナの神秘な結婚と聖人たち」


40


41
58番の作品です。


42


43


44
(つづく)

1逸名画家作「アンニーバレ・カラッチ作『キリストの復活』のコピー画」


2
48番の作品です。


3


4


5


6
次の部屋です。


7
天上界の間 Sala dell'Olimpoです。


8
Sala della’Olimpoの天井にフレスコ画が描かれてます。


9
Sala della’Olimpoの天井フレスコ画は、ジュゼッペ・マリア・クレスピ(ボローニャ、1665-1747)によって描かれました。


10


11
フレスコ画の説明版


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29
ドメニキーノ(ボローニャ、1582-ナポリ、1747)に帰属する「聖フランチェスコ」


30
49番の作品です。


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34


35
フランチェスコ・カラッチ(ボローニャ、1595-ローマ、1622)の「聖会話」


36
50番の作品です。


37


38


39


40


41
(つづく)

引き続きQuadreria Zambeccariです。
1
ドメニキーノ?の「フェルディナンド1世・ゴンザーガ枢機卿の肖像」


2
39番の作品です。


3


4


5


6
カルロ・チニャーニ(ボローニャ、1628-フォルリ、1719)の「サムソンとデリラ」


7
40番の作品です。


8


9


10


11
エリザベッタ・シラーニ(ボローニャ、1638-1665)の「聖マリア・マッダレーナ」


12
41番の作品です。


13


14


15


16
エリザベッタ・シラーニ(ボローニャ、1638-1665)の「聖ジローラモ」


17
42番の作品です。


18


19


20


21
ルドヴィーコ・ラーナ(ゴティゴーロ、1597-モデナ、1646)に帰属する「年輩の男の肖像」


22
43番の作品です。


23


24


25


26
ロレンツォ・ガルビエーリ(ボローニャ、1580-1654)の「カノーニコ・ラテラネンセの肖像」


27
44番の作品です。


28


29


30


31
エルコーレ・グラツィアーニ・イル・ジョーヴァネ(ボローニャ、1688-1765)の「スザンナの水浴」


32
45番の作品です。


33


34


35
シモーネ・カンタリーニ(ペーザロ、1612-ヴェローナ、1648)の「聖ジュゼッペと聖ドメニコ](1640-45c)


38


36
シモーネ・カンタリーニ(ペーザロ、1612-ヴェローナ、1648)の「パドヴァの聖アントニオとパオラの聖フランチェスコ」(1640-45c)


37


39
シモーネ・カンタリーニ(ペーザロ、1612-ヴェローナ、1648)の「アポロ」(1648)


40
ピエッレ・エティエンネ・モンノート((フランス、1657-ローマ、1733)の「ピエタのキリストと天使」


41
46番の作品です。


42


43


44


45
(つづく)

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