イタリア芸術を楽しむ

イタリアの魅力を味わい尽くすには、一生に何度旅をすれば足りるだろう。芸術の宝庫にして、歴史の生きた証であるイタリア。 惹き付けて止まない絵画、彫刻、歴史的建造物、オペラなど、芸術の宝庫であるイタリアを楽しむブログです。 記事は一日に一つアップしています。記事の見方ですが、例えば「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その4)」は2017年10月20日にアップしました。各記事にカレンダーが表示されてますが、カレンダー上の2017年10月21日をクリックして頂ければ「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その5)」になります。(その3)は2017年10月20日となります。 BY:シニョレッリ

2023年03月

1次の礼拝堂です。


2
ロレートの聖母礼拝堂です。


3


4


5
ロレートの聖母礼拝堂の天井のフレスコ画は、ステファノ・マリア・レニャーノ(ミラノ、1661-1713)によって描かれました。


6
ロレートの聖母礼拝堂の左右の側壁に描かれたフレスコ画は、ベルナルディーノ・ラニーノ(モルタラ、1512-ヴェルチェッリ、1578)によって制作されました。


7
ベルナルディーノ・ラニーノのフレスコ画


8
Presbiterio


9


10
天蓋


11


12
主祭壇


13



14
左翼廊の礼拝堂です。


15
左翼廊の祭壇画は、ペラージョ・パラージ(ボローニャ、1775-トリノ、1860)の「正教会に寄付するノヴァーラ司教聖アダルジソ」(1825)


16


17
右翼廊礼拝堂


18


19
次はサンティッシモ・サクラメント礼拝堂です。


20
絵画があります。


21
ジョヴァンニ・マウロ・デッラ・ローヴェレ(1575-1640)の「聖ガウデンツィオの生涯のエピソード」


22
「聖ガウデンツィオの生涯のエピソード」は全部で8点あります。


23
これら8点の作品は、ジョヴァンニ・マウロ・デッラ・ローヴェレ単独によって描かれたそうです。


24


25


26


27


28
サン・ジョルジョ礼拝堂です。


29
サン・ジョルジョ礼拝堂のフレスコ画(詳細不知)


30


31


32


33
カウンターファサード方向


34
大体見終わりました。


35
外に出ます。


36
外に出ました。


37
オペラ劇場です。


38
1886年から1888年に建設されたTeatro Cocciaです。


39
ピエモンテのオペラ劇場は伝統的な馬蹄形のものは少ないのですが、ノヴァーラのオペラ座は違います。


40
(つづく)

1引き続きサン・ガウデンツィオ聖堂です。


2
Cappella della Buona Morteです。


3
Cappella della Buona Morteはモラッツォーネのフレスコ画によって装飾されてます。


4
グリエルモ・カッチャ通称モンカルヴォ(モンタボーネ、1568-モンカルヴォ、1625)の「十字架降下」


5
ピエル・フランチェスコ・マッツゥッケッリ通称イル・モラッツォーネ(モラッツォーネ、1573-ピアチェンツァ、1626)の「最後の審判」


6
モラッツォーネの「最後の審判」


7
モラッツォーネのフレスコ画


8
モラッツォーネの天井フレスコ画


9
次の礼拝堂です。


10
Cappella della Nativitaです。


11
この多翼祭壇画で有名な礼拝堂です。


12


15
ガウデンツィオ・フェッラーリ(ヴァルドゥッジャ、1475/1480-ミラノ、1546)の「サン・ガウデンツィオ聖堂の多翼祭壇画」(1516)


13
この多翼祭壇画は、城壁外にあったサン・ガウデンツィオ聖堂の主祭壇を飾るために制作されましたが、カルロ5世の命令によって、1552年に聖堂の建物が取り壊されたので、パネル毎に分解されて保存されていたそうです。


14
現在の場所に再建されたサン・ガウデンツィオ聖堂の最初に行われた奉献式が行われた1590年に戻されたそうです。


16
裾絵が良く見えません。


17


18


19


20
受胎告知とご誕生


21
聖ピエトロと聖ジョヴァンニ・バッティスタ、聖母子と聖人たち、聖エウセビオと聖パオロ


22
玉座の聖母子と聖人たち


23
聖ピエトロと聖ジョヴァンニ・バッティスタ


24
聖エウセビオと聖パオロ


25
受胎告知する大天使ガブリエーレ


26
受胎告知される聖母


27
Cappella della Nativitaの左側壁


28
Cappella della Nativitaの天井フレスコ画は、パオロ・カミッロ・ランドリアーニ通称イル・ドゥキーノ(1562-1618)の作品です。


29
次の礼拝堂です。


30
割礼礼拝堂です。


31
ジョヴァンニ・バッティスタ・デッラ・ローヴェレ(1560-1627)の「割礼」
ジョヴァンニ・バッティスタ・デッラ・ローヴェレは、弟ジョヴァンニ・マウロ・デッラ・ローヴェレと一緒に仕事することが殆どで、兄弟でフィアメンギーニと呼ばれています。
この「割礼」は珍しく兄単独で制作されたようです。
しかし、割礼礼拝堂のフレスコ画は兄弟で制作されたそうです。


32
フィアメンギーニのフレスコ画


33
フィアメンギーニのフレスコ画


34
「玉座の聖母子」(詳細不知)


35
次は磔刑礼拝堂です。


36
ガウデンツィオ・フェッラーリ(ヴァルドゥッジャ、1475/1480-ミラノ、1546)に帰属する「磔刑」


37


38


39
クーポラの先端に置かれていた「救世主」(1873)


40
「救世主」の本物は聖堂内に置かれてます。落雷や風化があるので、クーポラの先端には現在、これのコピーに差し替えられたそうです。
(つづく)

1サン・ガウデンツィオ聖堂のクーポラは非常に目立ちます。


2
見る場所によって、このように鐘楼とクーポラが重なって、丸で一本の塔のように見えます。


3
サン・ガウデンツィオ聖堂です。Basilica Minoreに格付けされてます。


4
ノヴァーラ司教で街の守護聖人聖ガウデンツィオ(イヴレア、327-ノヴァーラ,418)の遺骨を納めるサン・ガウデンツィオ教会は、841年に現在の場所とは別の、城壁外に建設されました。最初の建物が荒廃したので、1298年に再建されたそうです。


5
1552年から1554年にかけて、ノヴァーラは神聖ローマ帝国の皇帝でスペイン王のカルロ5世(1500-1558)の支配下に置かれましたが、ノヴァーラをスペインの重要な軍事拠点にするべく、要塞化、城壁の拡大整備乗り出し、城壁外の既存建物全ての破壊が命令され、サン・ガウデンツィオ聖堂も完全に破壊されたのです。


6
現在、サン・ガウデンツィオ聖堂が建っている場所は、城壁内の北西の端に当たりますが、その場所には1019年に建設されたサン・ヴィンチェンツォ・マルティーレ教会がありました。
スペインの支配が弱まると、反スペインの象徴としてサン・ガウデンツィオ聖堂の再建が計画されるようになりました。
そうして、1576年、サン・ヴィンチェンツォ・マルティーレ教会を取り壊して、その上にサン・ガウデンツィオ聖堂の再建が決定されたのです。


7
そうして、画家で、建築家でもあったペッレグリーノ・ティバルディ(プーリア、1527-ミラノ、1596)の設計によって、1577年に創建されました。建物の一部が完成した1590年に奉献式が執り行われました。


8
左側壁です。
1590年の奉献後、ペストの流行や戦争による経済低迷によって、工事が中断してしまいました。
経済が回復した1626年に建設工事が再開され、1656年に完成した建物が現在の姿の原形となってます。


9
写真左がクーポラで、写真右が鐘楼です。建物が完成した1656年当時、写真のクーポラと鐘楼は存在していませんでした。


10
鐘楼の土台部分


11
高さ約75mの鐘楼です。


12
18世紀中頃、ノヴァーラはサヴォイア家の支配下にありましたが、聖堂に相応しい鐘楼の建設が計画され、サヴォイア家のお抱え建築士ベネデット・アルフィエーリ(ローマ、1699-トリノ,1767)が起用され、1753年に鐘楼の建設が始まりました。


13
しかし、資金不足のため、1773年に工事中断の已む無きに至りました、1780年に漸く工事が再開され、1786年に完成したのです。


14
鐘楼の先端に天使像と十字架があります。


15
次はクーポラです。


16
クーポラ自体の高さは121mですが、先端に5mの救世主像があるので、全体の高さは126mあるそうです。


17
1840年、豊富な食肉税収入を裏付けに壮大なクーポラ建設が決定されました。


18
建築家アレッサンドロ・アントネッリ(ゲンマ、1798-トリノ、1888)に委嘱され、1841年にアントネッリから設計書が出されました。


19
1844年に建設工事が開始されましたが、1846年に土台部分の強度不足が判明して、工事が中止されてしまいました。
1848年に第一次イタリア独立戦争が勃発してしまい、戦費負担のため資金不足となり、クーポラ建設は無期延期となってしまいました。


21
1855年、アントネッリは設計変更の計画書を提出しました。独立戦争が終わり、資金不足が解消した1858年に漸く工事が再開されました。その後、工事はイタリア独立戦争の激化などにより度々中断され、1888年に漸く完成しました。


20
クーポラの先端に救世主像(1873)があります。


25
拝観します。


22
聖堂内に入りました。


23
単廊式、ラテン十字形、バロック様式の内部です。


24
右側壁


26
光が聖堂内部に入り込んで、明るい。


27
私的には美術的な見所が豊富な教会です。


28
礼拝堂を見ます。


29
守護聖人礼拝堂です。


30
守護聖人礼拝堂は、タンツィオ・ダ・ヴァラッロ(アラーニャ・ヴァルセージャ、1582-ヴァラッロ、1633)によって1629年から1630年に装飾されました。


31
この「センナケリブの戦い」が有名です。


32
タンツィオ・ダ・ヴァラッロ(アラーニャ・ヴァルセージャ,1582-ヴァラッロ、1633)の「センナケリブの戦い](1629-30)


33


34


35
タンツィオ・ダ・ヴァラッロによるフレスコ画


36
タンツィオ・ダ・ヴァラッロによる天井フレスコ画


37
タンツィオ・ダ・ヴァラッロ(アラーニャ・ヴァルセージャ、1582-ヴァラッロ、1633)の「守護天使」(1629)


38
クーポラ


40


41
(つづく)

2前泊地はミラノでした。


1
ミラノ中央駅からノヴァーラに向かいました。


3
トリノに向かう列車はかなり混雑していました。


4
ノヴァーラに到着しました。


9
乗降客が多い駅として知られてます。


5
ノヴァーラ駅の駅舎です。


6
駅前広場です。


10
ノヴァーラは、人口101,599人(2022年7月31日現在)のピエモンテ州ノヴァーラ県の県都です。工業都市です。


40
駅前公園に立っているガリバルディ像


7
塔が目立ちます。


8
塔のように見えますが、教会の鐘楼とクーポラです。サン;・ガウデンツィオ聖堂のものですが、どこからでも見えるのでノヴァーラの街のシンボルとなってます。


11
駅前のホテル荷物を預けました。


17
街歩きに出発しました。


18
街のシンボルがある聖堂に向かいました。


19
ガウデンツィオ・フェッラーリ通りです。


20
ガウデンツィオ・フェッラーリ(ヴァルドゥッジャ、1475/1480-ミラノ,1546)は、ルネサンス期にロンバルディア、ピエモンテで活動した画家です。1514年から1521年頃にノヴァーラに滞在して、サン・ガウデンツィオ聖堂やノヴァーラ大聖堂などに作品を残しました。


12
ガウデンツィオ・フェッラーリ通りに面して教会が建ってます。


13
サンティッシマ・トリニタ教会です。


14
17世紀にスペイン人によって建設されたサンティッシマ・トリニタ教会です。


15
教会が建設された17世紀は、ノヴァーラはスペインの支配下にありました。


16


21
道幅が狭くなります。


22
サン・ガウデンツィオ聖堂はガウデンツィオ・フェッラーリ通りにあります。


23
聖堂の手前にMuseoがあります。


24
旗が掲げられている建物がMuseoです。


25
自然史博物館 Museo di Storia Naturaleです。


26


27
19世紀に建設されたPalazzo Faragginaに博物館があります。


29
美術ファンの私にとっては、重要性が薄い博物館です。


28
お暇ならば、どうぞ、と言った感じでしょうか?


30
この後、サン・ガウデンツィオ聖堂を拝観しましたが、今から始めると中途半端になるので、その2で纏めて触れることにします。


31
これは何でしょうか?


32
サン・ガウデンツィオ聖堂の拝観を終えて、街の中心に向かいます。


33
銀行の建物です。


34


35
中心街にやってきました。


36


37
バールでトイレ休憩しました。


38
未だ午前10時前でした。


39
(つづく)

1王宮の修復工事は中断しているように見えました。


2
この先にF-1コースがあります。


3
寒い日だったせいか、人がいません。


4
キノコ。食べると危険?


5
広大な王宮庭園です。


6
小川が流れています。


7
人の姿がようやく見えました。


8
修復工事が遅れるのは、イタリアではよくあることです。


9
王宮博物館がモンツァの見どころの一つですが、この時は、どうせ工事が遅れて休館中と思っていたので、残念とは思いませんでした。


10
王宮の敷地内にいても意味がないので、中心街に戻ることにしました。


11
ジャンニ・チッテリオ広場です。


12
大幅に時間が余りそうです。


13
サンタ・マリア・イン・ストラーダ教会の鐘楼


14
カッロビオーロ広場です。広場に面して建っているのは、サンタ・マリア・アル・カッロビオーロ教会です。


15
ドゥオーモの鐘楼


16
サンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会です。


17
同じ通りを通っていては詰まらないので、違った道を歩きました。


18
裏通りに入っても迷うことはない。


19
人通りが少ない日中です。


20


21
写真右はアレンガリオです。


22
ホテルに戻ってチェックインしてから一休みすることにしました。


23
昼食の時間ですが食欲がありません。


24
ドゥオーモ


25
この日の前日にミラノ・スカラ座でオペラを観てから、零時過ぎに食事したのが響いて、寝不足に加えて胃の調子が今一つでした。


26
Monumento di Caduti


27
オペラを観ると体調が崩れます。


28


29
サンタ・マリア・イン・ストラーダ教会の鐘楼


30
サンタ・マリア・イン・ストラーダ教会です。


31


32
イタリア通り


33
このまま道をまっすぐ進めば鉄道駅に出ます。


34


35


36


39


37


38
振り返って撮った写真


40


41
ホテルに戻りました。
午後にもチェントロ・ストーリコに行きましたが、内容はほぼ同じです。
(モンツァ編 終わり)

1Palazzo di Giustizia 裁判所です。


2
この場所には、16世紀に建設された神学校があったそうです。その後、神学校の建物は再建されましたが、1786年に神学校が移転して、空き家になっていました。1809年に建物は病院に転用されるようになりました。


3
建物が老朽化したので、病院は他の場所に移ることになり、1932年、神学校、さらに病院だった建物を取り壊し、裁判所建設が決定されたそうです。
そうして、1933年から1934年に現在の建物が建設され、裁判所としての機能が1934年に開始され、現在に至ってます。


4
裁判所前に立っているのは、ジュゼッペ・ガリバルディ像です。


5
ヴィットリオ・エマヌエーレ2世通りを進みます。


6
通りの突き当りにアレンガリオがあります。


7
アレンガリオを過ぎるとサン・パオロ広場に出ます。


8
サン・パオロ広場に面して教会が建ってます。


9
サンタ・マルタ祈祷所です。


10
14世紀後半に建設されたサンタ・マルタ修道院教会の複合施設が前身です。


11
サンタ・マルタ修道院教会に隣接してサン・ミケーレ修道院がありました。


12
ファサード下に小さな柱廊があって、ファサードの左右から柱廊に入ることが出来るようになってます。


13
隣接する2つの修道院は、ナポレオンのイタリア侵攻の際に抑圧され、閉鎖されたのです。
1920年代に、都市計画のためにサン・ミケーレ修道院教会の複合施設とサンタ・マルタ修道院が取り壊されました。
サンタ・マルタ教会の建物の一部が取り壊され、現在の姿になりましたが、それを機に教会から祈祷所になったのです。


14
祈祷所の入り口


15
扉が開いているように見えましたが、施錠されていました。


16
美術的な見所はなさそうです。


17
宗教活動は既に停止?


18
サン・パオロ広場


19
サン・パオロ広場に面して建っている建物にフレスコ画があるのを見つけました。


20
Banco Desio、銀行です。


21
銀行の建物に描かれたフレスコ画


22
観光地図です。


23
主な見所のうち、行っていないのは王宮だけのようです。


24
王宮の建物が修復工事中であることは承知していましたが、一応行ってみることに。


25


26
アレンガリオを経由します。


27
モンツァの主な道はアレンガリオに通じているのです。


28
王宮庭園の入り口に出ました。


29
ジャンニ・チッテリオ広場です。


30
F-1開催時には、この広場は大混雑するそうです。


31
広場の交差点の下に地下道があります。


36
地下道を通りました。


32
王宮庭園に入りました。


33
この先は狩場でした。


34
広い庭園です。


35
ここにもジュゼッペ・ガリバルディ像があります。


37
厩舎だった建物です。


38
王宮は修復工事中でした。


39


40
(つづく)

1引き続きモンツァのドゥオーモです。


2
ドゥオーモ博物館の続きです。


3
キオストロとその回廊です。


4
回廊のフレスコ画です。


5
18世紀に描かれたフレスコ画です。


6
私には制作者などの詳細が分かりません。


7


8
回廊のフレスコ画


9


10


11


12
キオストロ回廊に置かれている、ローマ時代の石棺(3世紀)


13
ローマ時代の石棺(4世紀)
次は博物館の展示作品です。写真不可です。


14
有名な鉄の王冠


15
セバスティアーノ・リッチ(ベッルーノ、1659‐ヴェネツィア、1734)の「ドゥオーモの建設開始](1697)


16
象牙彫刻


17
ドゥオーモは以上で終わりです。


18
塔に向かいます。


19
塔にやってきました。


20
テオドリンダの塔と呼ばれてます。13世紀に建設されました。


22
ランブロ通りです。


21
塔の下を潜ります。


23


25
塔を潜りました。


26
振り返るとドゥオーモの鐘楼が見えました。


24


27
少し進むと川に出ます。


28
ランブロ川に架かる橋にライオン像があります。


29
ライオン像は橋の四隅にあります。


35


30
ランブロ川です。


31


32
この道を進めば鉄道駅に出ます。


33
この先にアレンガリオがあります。


34
ランブロ川沿いに建つ共同住宅です。


36
共同住宅は嫌いです。壁の上、下、右横、左横に住んでいる人たちがいると思うとぞっとします。住宅は庭付き一戸建てに限ります。


37
ヴィットリオ・エマヌエーレ2世通りです。


38
分譲共同住宅は、所有していても本当に所有権があるかどうか、非常に疑わしいと思います。建て替えなどの問題が生じたとき、決められないことがあります。


39
一戸建てなら、俺が決めれば決定です。当たり前ですが。


40
(つづく)

1引き続きモンツァのドゥオーモです。


2
絵画、フレスコ画を描いたのは、ジュゼッペ・アルチンボルド(ミラノ、1527-1593)、フィアメンギーニ(ジョヴァンニ・バッティスタ・デッラ・ローヴェレとジョヴァンニ・マウロ・デッラ・ローヴェレ兄弟の通称)、ジョヴァンニ・ステファノ・ダネーティ通称モンタルト(トレヴィリオ,1612-ミラノ、1690)、エルコーレ・プロカッチーニ・イル・ジョーヴァネ(ミラノ、1605-1680)、ジュゼッペ・アントニオ・カステッリ(モンツァ、1655-1724)などとされてますが、作品毎の帰属が私には分かりません。


3
オルガン


4
身廊を挟んで左右にオルガンが設置されてます。


5
Presbiterioに向かって左側のオルガン


6


9
左側のオルガン下の彫刻


7
Presbiterioに向かって右側のオルガン


8


10
右側のオルガン下の彫刻


16
オルガンの近くに有名な説教壇があります。


11
14世紀後半に彫刻家マッテオ・ダ・カンピオーネ(カンピオーネ,1335-モンツァ、1396)によって制作された説教壇です。


12


13


14


15


17
有名な浮彫です。


18
「戴冠の浮彫」と呼ばれてます。
イタリア王の戴冠式が彫られてます。


19
マッテオ・ダ・カンピオーネ工房によって制作されました。


20


21
バラ窓を見ます。


22
バラ窓のステンドグラスが見ものです。


23


24


25
一旦外に出ます。


26
次はドゥオーモ博物館ですが、聖堂内から入ることが出来ません。


27
博物館には、ここから入ります。


28


29
博物館の入り口


30
中に入りました。


31


32
先ずキオストロ回廊に出ます。


33


34
回廊天井のフレスコ画は保存状態が良くない。


35
キオストロ


36


37
キオストロの古井戸


38
回廊の柱に1729を刻まれた柱がありますが、回廊が創建(再建の創建です)された年を示してます。


39
回廊にある墓


40
(つづく)

1引き続きモンツァのドゥオーモです。


2
フレスコ画は多くの画家によって描かれましたが、作品帰属を明らかにするのは大変のようです。


3


4


5


6
カウンターファサード方向


7
テオドリンダ礼拝堂です。


8
テオドリンダ礼拝堂は閉まっていることが多いようです。


9
1444年に描かれたフレスコ画が残されてます。


10
テオドリンダ礼拝堂は写真不可でした。


11


12
十字架の祭壇です。


13
有名な祭壇です。


14
聖ステファノの殉教?


15
エマオの晩餐


16


17
クーポラ


18
クーポラのフレスコ画


19
身廊天井のフレスコ画


20


21


22
フレスコ画の帰属が分かりません。


23


24


25


26
ご訪問


27


28


29
玉座の聖母子


30


31


32
説教壇を見ます。


33


34


35
説教壇の装飾


36
説教壇の周りに聖人像があります。こちらは聖アゴスティーノ


37
聖アンブロージョ


38
聖ジローラモ


39
聖グレゴリオ


40
(つづく)

1引き続きモンツァのドゥオーモです。


2
モンツァのドゥオーモで代々のイタリア王の戴冠式が行われました。


3
贖いの聖母礼拝堂です。


4
「大天使ラッファエーレとトビオーロ」は既に見ました。


5


6
贖いの聖母礼拝堂天井の装飾


7
「聖ジョヴァンニ・バッティスタの斬首」


8


9
詳細不知


10
後陣のフレスコ画


11
多くの絵画、フレスコ画などで装飾されてます。


12
私には作品帰属等詳細が分かりません。


13
ナポレオンのタルガ


14


15
次の礼拝堂


16


17
この祭壇画の詳細が分かりません。


18


19
詳細不知


20
墓の記念碑


21
後陣右の礼拝堂


22
後陣右礼拝堂の左側壁のフレスコ画


23
右側壁のフレスコ画


25


26


27


24


28


29
この辺の作品帰属が全く分かりません。


30
Presbiterio


31
Presbiterioのフレスコ画


32


33
Presbiterioの天井フレスコ画


34


35


36


37
主祭壇


38


39


40
(つづく)

引き続きモンツァのドゥオーモです。
1
後陣です。


2


3


4


5


6


7
後陣の壁にある銘板


10
メイン・ポータル左右のライオン像を見ます。


8
左側のライオン像


12


9
右側のライオン像


11


13
拝観します。


14
聖堂内に入りました。


15
三廊式、ラテン十字形、ゴシック様式の内部です。


16
14世紀に再建されましたが、その後、改造、修復を何度も繰り返したので、各種様式の折衷様式と言うべきでしょうか。


17
右側廊


18
左側廊


19
中央通路


20
何処から見ていくか、迷うところです。


21
カウンターファサード方向


22
イタリア王の戴冠式が行われた聖堂なので、非常に格式が高いと思います。


23
逸名画家作「玉座の聖母子」(15世紀)


24
洗礼堂


25
洗礼堂のフレスコ画


26
洗礼堂のステンドグラス「キリストの洗礼」


27
洗礼盤上部の装飾


28
洗礼盤下部


29
詳細不知の磔刑像


30
右側廊の礼拝堂


31
「大天使ラッファエーレとトビオーロ」


32
カルロ・フランチェスコ・ヌヴォローネ(ミラノ、1609-1662)またはジュゼッペ・ヌヴォローネ(サン・ジミニャーノ、1619-ミラノ、1703)の作品です。
二人は兄弟です。


33
17世紀のエミリアの逸名画家作「ご訪問」


34
グエルチーノの影響を受けた画家のようです。


35
カルロ・フランチェスコ・ヌヴォローネ(ミラノ、1609-1662)の「エマオの晩餐」


36


37
グリエルモ・カッチャ通称イル・モンカルヴォ(モンタボーネ、1568-モンカルヴォ、1625)の「聖ジョヴァンニ・バッティスタの斬首」


38


39


40
詳細不知
(つづく)

1次はドゥオーモです。


2
ドゥオーモ広場です。この広場にドゥオーモが建ってます。


3
モンツァのドゥオーモ Basilica Minore di San Giovanni Battistaです。


4
モンツァは、ミラノ大司教区に属しており、大司教座はミラノのドゥオーモに置かれているので、この聖堂は司教座教会ではありません。


5
しかし、16世紀までは、モンツァは独立した司教区になっており、このドゥオーモは司教座教会でした。16世紀末、司教区再編によってモンツァ司教区が廃止され、ミラノ大司教区に編入され、モンツァのドゥオーモは格下げとなりました。その後、Basilica Minoreに格付けされ、教会の格式面で何とか往年の面目を保ったと言えるでしょう。


6
モンツァのドゥオーモの歴史は古く、6世紀末に遡ります。


7
ローマ時代、蛮族ゲルマニアの一族にロンゴバルド族がいましたが、ゲルマニア大移動の最後に移動したロンゴバルド人は、東ローマ帝国の領土だった北イタリアに入り、568年にロンゴバルド王国を建国しました。ロンゴバルド王国の首都はパヴィアに置かれましたが、モンツァは王国の主要都市の一つでしたが、夏の離宮を現在のドゥオーモが建っている場所の隣に建設しました。


8
ロンゴバルド王アウタリのテオドリンダ王妃(570c-628)は、王宮の隣に聖ジョヴァンニ・バッティスタを奉じる大聖堂を建設しました。テオドリンダ王妃は、金銀を豊富に使った装飾品を数多く与えると共に十分な収入の裏付けを大聖堂に保証しました。これが現在のドゥオーモの起源です。


9
13世紀後半になると、建物が荒廃したので再建計画が持ち上がりました。
そうして、建築家マッテオ・ダ・カンピオーネ(カンピオーネ、1335-モンツァ,1396)が起用され、マッテオの設計によって、1300年に創建され、1345年に完成した二代目の建物が現在の姿の原形になっているそうです。1365年に奉献式が執り行われたそうです。
その後、更に増築、改築工事が行われ、現在の姿になったのは1681年だそうです。


10
クーポラ


11


21
ファサードのポータル


37


38


39
ポータルの柱頭


40


12
ファサードの装飾


22


23


24
木製の入口扉


25


13
バラ窓


34


35


36


14
ポータル上ルネッタの浮彫


15


26


27


28


29


30


31


32


33


16
1592年から1620年に建設された鐘楼が現在のものですが、鐘楼としては二代目だそうです。


17
鐘楼の高さは78mとのことです。


18
鐘楼の銘板です。
二代目となる鐘楼は、ペッレグリーノ・ティバルディ(プーリア、1527-ミラノ、1596)の原案に基づき、エルコーレ・トゥラティの設計によって建設されました。


19
鐘楼の基礎部分に創建された年である1592と刻まれてます。


20
(つづく)

1サンタ・マリア・アル・カッロビオーロ教会を後にします。


2
鐘楼のある建物に向かいます。


3
通りの突き当りを左折します。


4
この通りの次の交差点を右折します。


5
右折すると、鐘楼が直ぐ正面に見えます。


6
中世の頃、鐘楼がある建物がモンツァの中心でした。


7
ローマ広場に面して鐘楼がある建物が建ってます。


8
未だ午前10時前でした。


9
アレンガリオ Arengarioと呼ばれる建物です。モンツァの古い市庁舎で、この建物がモンツァの中心です。


10
1250年頃に建設されたロマネスク様式のアレンガリオです。


11
横30.3m、縦12.4mの長方形の建物です。


12
鐘楼の高さは27mで、その上に尖塔が追加されて、全部で塔の高さは44mとなっているそうです。


13
鐘楼は13世紀後半に追加されました。


14
現在は催事場やコンサート会場などに使用されてます。


15
右に見える鐘楼はドゥオーモのものですが、見る角度によってはアレンガリオの鐘楼に見えることがあります。


16
ローマ広場です。


17


18


19
ガレンガリオのロッジャです。


20


21
ガレンガリオのロッジャに彫刻が置かれてます。


25
モンツァのローマ時代の遺跡から発見されたローマ時代の彫刻です。


22
ロッジャの柱に置かれている絵画です。


24
制作者等詳細不知の「聖母子と聖ジョヴァンニ・バッティスタ」


23
モンツァの主要道路がガレンガリオに通じてます。


26
ガレンガリオの銘板


27


28


29
ガレンガリオの先はヴィットリオ・エマヌエーレ2世通りです。


30
ロッジャ内部


31
ドゥオーモの鐘楼です。


32
ガレンガリオを後にします。


33
カルロ・アルベルティ通りです。


34


35
ドゥオーモの拝観を後回しにします。


36
この時間、ドゥオーモの扉は開いてますが、ドゥオーモ博物館が開くには、もう少し時間がありました。博物館にある「鉄の王冠」を観ないと、ドゥオーモ拝観が画竜点睛を欠くことになってしまいます。


37
ぶらぶら歩きで時間調整。


38
サン・ピエトロ・マルティーレ教会に来ました。


P1100434
写真左の建物に聖母子を発見。


40
(つづく)

1引き続きサン・ピエトロ・マルティーレ教会です。


2
あちこちにフレスコ画が残されてます。


3
十字架の礼拝堂


4
礼拝堂壁のフレスコ画


5
落剝や退色が認められ、保存状態が良くありません。


6
これらのフレスコ画は、14世紀前半に制作されたそうです。


7
フレスコ画の制作者は、「ロンバルドのマエストロ」とされてます。「ロンバルドのマエストロ」は、複数の逸名画家から成ってます。


8
後陣に設置されたオルガン


9
無原罪の聖母礼拝堂


10
制作者情報等不知の「聖ピエトロ・マルティーレの殉教」


11
14世紀前半のジョットの影響を受けたロンバルドの逸名画家によるフレスコ画


12


13


14


15
詳細不知


16


17
詳細不知


18
詳細不知の磔刑像


19
カウンターファサード


20
キオストロ回廊に出ました。


21
修道院だった建物です。


22
教会内に戻りました。


23
身廊中央の天井


24
大体見終わりました。


25
外に出ました。


26
サン・ピエトロ・マルティーレ広場です。


27
教会巡りを続けます。


28


29
次はカッロビオーロ教会です。


30
教会が見えてきました。


31
地元の人は略称のカッロビオーロ教会と呼んでますが、正式名はサンタ・マリア・アル・カッロビオーロ教会です。


32
教会の隣は、カッロビオーロ修道院です。


33
1260年に建設された教会です。18世紀に修復されたファサードなので、少し新しく見えます。


34
中に13世紀のフレスコ画や13世紀から15世紀に制作された祭壇画があります。


35
扉が閉まっていました。美術的に見たい教会だったので、大変残念に思いました。


36
ファサードの彫刻を観ます。


37


38


39
現在でも修道士が常駐している修道院です。修道院の扉も閉まっていました。


40
修道院の扉上の彫刻
(つづく)

1引き続きサンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会です。


2
初代の建物はこれよりも大規模だったそうで、それを個人資産で建設した訳で、その財力に驚かされます。


3
地元の信者が立ち去ったようです。


4
クーポラ


5
説教壇


6


9
カウンターファサード


7
カウンターファサード上部のステンドグラス


8
受胎告知


10
外に出ました。


11
バルトロメオ・ズッキ通りです。


12
次はサン・ピエトロ・マルティーレ教会です。


13
フランチェスコ・クレスピ通りです。


14
フランチェスコ・クレスピ通りをさらに進みます。


15
壁にフレスコ画がある建物を見つけました。フレスコ画の状態が良くなく、感心しませんでした。


18
少し遠回りになったようです。


19
カルロ・アルベルティ通りに入りました。


16
もうすぐ広場に出ます。


17
サン・ピエトロ・マルティーレ広場です。


20
広場に建っているのは、もちろんサン・ピエトロ・マルティーレ教会です。


21
1280年のモンツァの文書にサン・ピエトロ・マルティーレ修道院の存在が初めて記載されたそうです。


22
サン・ピエトロ・マルティーレ教会は、1288年にモンツァの文書に初めて記載されたそうです。しかし、13世紀中頃にサン・ピエトロ・マルティーレ修道院の教会として建設されたという有力説があるそうです。
また、1369年のミラノ司教区の文書に、この教会が初めて記載されたそうです。


23
ドメニコ会は、聖ドメニコによって1206年に設立され、1216年に修道会として教皇の認可を受けました。認可後、ドメニコ会修道院が各地に建設されましたが、モンツァのサン・ピエトロ・マルティーレ修道院はドメニコ会の最古の修道院の一つと考えられてます。


24
ドメニコ会は戒律が厳しく、それ故に異端者に厳しいことで知られ、時に異端裁判で悪名高き修道士会となってます。
ここモンツァのサン・ピエトロ・マルティーレ教会も異端裁判で悪名が轟く、多くの人から恐れられると共に忌み嫌われる存在でした。
宗教上の異端だけに留まらず、ユダヤ教を信じるユダヤ人を異端の名のもとに、ユダヤ人の財産を奪った負の歴史があるのです。実際は、ユダヤ人の財産強奪が目的で、宗教上の異端判決は単に財産簒奪の手段に過ぎなかったそうです。


25
ファサード前に彫像が置かれてます。


26
地元出身の画家モーゼ・ビアンキ(モンツァ、1840-1908)の彫像です。


27
ビアンキ像は、彫刻家ルイージ・セッキ(クレモナ,1853-ミアッツィーナ、1921)によって1927年に制作されました。


28
モーゼ・ビアンキの作品写真を載せておきましょう。クレモナのアラ・ポンツォーネ市立美術館にあります。


29
ファサード側の扉が開くことは滅多になく、教会の出入りは右側壁のサイド・ポータルで行います。


30
サイド・ポータルのルネッタ上のモザイク


31
修道院教会複合施設の概略図が壁にあります。


32
拝観します。


33
中に入りました。


34
三廊式、ロンバルディア・ゴシック様式の内部です。


35
1960年代に大修復工事が行われたそうですが、そのためでしょうか、新しく見えます。


36
右側廊


37
右側廊天井


38
左側廊


39
左側廊からの眺め


40
(つづく)

1次はサンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会です。


2
1576年、ミラノではペストが大流行して多くの犠牲者が出ましたが、当時のミラノ大司教聖カルロ・ボッロメーオはペストで苦しんでいた人たちを助けることに尽力して、後に列聖されました。ミラノだけではなく、ミラノ近隣の町や村に訪れて、ミラノと同様に多くの人々の救出などの尽力しましたが、モンツァにも1578年に訪れました。


3
モンツァの貴族で科学者、歴史家でもあったバルトロメオ・ズッキ(モンツァ,1570-1630)は、幼少の頃、モンツァを訪れた聖カルロ・ボッロメーオの善行を目のあたりにして、深い感銘を覚えました。
そうして、バルトロメオ・ズッキは聖カルロ・ボッロメーオの功徳に報いるために自分の資産で新しい教会の建設に乗り出し、1608年に創建されたのがサンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会です。創建時の建物は、現在地よりも前方にあったそうです。


4
1630年、バルトロメオ・ズッキは没しましたが、全財産をイエズス会に寄進すると共に、この教会に埋葬するとの遺言を残し、遺言通りに実行されました。


5
教会建設の経緯を示すために、教会の前に聖カルロ・ボッロメーオ像が置かれてます。この彫刻は元々大理石像でしたが、経年劣化のために大理石像が取り外され、その複製のブロンズ像が置かれてます。


6
最初の建物は、ファサード前の道路拡幅と交差点設置のために、19世紀終わりによ取り壊されることになりました。
そうして、建築家スピリト・マリア・キアペッタ(ミラノ,1868-トリウッジョ,1948)が起用され、キアペッタの設計によってネオ・ゴシック様式で再建された建物が現在の教会です。
二代目の建物よりも、取り壊された最初の建物方が大規模だったそうです。


7
ファサードの装飾を見ます。


8
扉が三つありますが、扉上ルネッタにモザイクがあります。


9
大天使聖ミケーレ


10
聖ジョヴァンニ・バッティスタ


11
後陣


12
鐘楼


13
中に入りました。


14
三廊式、ラテン十字形、ネオ・ゴシック様式の内部です。


15
裕福な教会として知られてます。


16
中央通路


17
礼拝堂を見ていきます。


18
19世紀末から20世紀第一四半世紀に制作されたものばかりです。


19
古い作品は皆無です。


20


21


22
次の礼拝堂です。


26
右翼廊に設けられた礼拝堂になります。


23
聖母の死


24
古い美術品を見ようとすると落胆するだけです。


25
右側廊


27
サン・カルロ・ボッロメーオ礼拝堂


28
主祭壇


29
祭壇前飾り


30
次の礼拝堂です。


31
左側壁のステンドグラス


32
左側廊


33


34


35
ポンぺオ・マリアーニ(モンツァ、1857-ボルディゲーラ、1927)の「聖母子と二聖人](1911)


36


37


38
パドヴァの聖アントニオ


39
聖心


40
(つづく)

41引き続きサンタ・マリア・マッダレーナ・エ・サンタ・テレーザ教会です。


42
天井


43
左側壁


44
右側壁


45


46


47


48


49


50
外に出ました。


51
県庁舎の建物です。


52
トレント広場に向かいます。


53
ドゥオーモの鐘楼でしょうか?


54
トレント広場にやってきました。
正式にはPiazza Trento e Triesteと呼ばれてますが、トレントとトリエステのモンツァとの関係が良く分かりません。


55
市庁舎です。


56
この広場がモンツァの中心でしょう。


57
前回来た時、この広場で青空市が開市されていて、大変な賑わいでした。


58
広場の中心に、1932年に造られたMonumento di Cadutiがあります。


63
第一次世界大戦の戦没者慰霊碑です。


66
多くの街で見かける戦没者慰霊碑ですが、その大半が第一次世界大戦の戦没者を悼んでおり、第二次世界大戦のものは少ないように思います。


59
イタリア人の犠牲者は、第二次世界大戦よりも第一次世界大戦の方が多かった?


60
平日の朝にしては、人出が少なかった。


61
高等学校の建物 Palazzo degli Studiです。


62
サン・フランチェスコ教会だった建物だそうです。


64
市庁舎に向かいます。


65
市庁舎内にある観光案内所に行きました。王宮の修復状況を聞きましたが、修復完了の時期は不明との事でした。


67
私の経験では、修復工事が予定通りに終わることは、絶対にないと言い切れると思います。


68
教会巡りを続けます。


69


70
CINEMAの看板が出てますが、映画館にはとても見えない建物です。


71
コルテローニャ通りを進みます。


72
これを撮っておくと後で助かります。


73
写真左は女性用下着ショップです。セクシー路線の店です。


74
この建物は映画館ですね。


75


76
あちこち歩きましたが、結局元の場所に戻ってきてしまいました。


77
18世紀に建設された、バロック様式のリアーリオ邸です。


78
全ての窓が閉まっていましたが、この後、修復工事が行われたそうです。


79
突き当りに教会が見えてきました。


80
(つづく)

1サンタ・マリア・マッダレーナ教会です。


2
正式にはサンタ・マリア・マッダレーナ・エ・サンタ・テレーザ教会と言い、奉献する聖人が聖マリア・マッダレーナと聖テレーザの二人となってます。


3
13世紀に建設されたサンタ・マリア・マッダレーナ修道院が前身です。1343年のモンツァの古文書にサンタ・マリア。マッダレーナ修道院の存在が初めて記載されたそうです。その古文書はモンツァ市立図書館に所蔵されているそうです。


4
1584年、ミラノ大司教聖カルロ・ボッロメーオは、死の直前に古い修道院を取り壊し、その上に新しい教会の建設を承認しました。
その承認に基づき、1610年から1620年に建設された建物が現在の姿の原形となってます。


5
ファサードの銘板


6
1856年、1620年に完成した建物のファサードの壁が崩落してしまいました。
現在のファサードは、モンツァの建築家ルイージ・ポルディの設計によって、1861年に再建されたものです。


7
毎日開く教会です。


8
入口扉上ルネッタのフレスコ画


9
ファサードの壁龕に四体の彫刻が置かれてます。これらの聖人の彫刻は、ルイージ・コッキ・ダ・ミラノによって1861年から1863年に制作されました。
こちらは聖テレーザ像です。


10
聖マリア・マッダレーナ


11
聖ジュゼッペ


12



13
大天使聖ミケーレ


14


15
拝観します。


16
中に入りました。


17
単廊式、ラテン十字形の内部です。


18
右側壁


19
天井


20
主祭壇


21
ジュリオ・チェーザレ・プロカッチーニ(ボローニャ、1574‐ミラノ、1625)の「キリストの施し」


22
ジュリオ・チェーザレ・プロカッチーニの作品


23


24
ジュリオ・チェーザレ・プロカッチーニ(ボローニャ、1574‐ミラノ、1625)の「エマオの晩餐」


25


26


27
18世紀のロンバルディアの逸名画家作「聖家族と聖テレーザ」


28
ジュリオ・チェーザレ・プロカッチーニの作品


29
説教壇


30
ジュリオ・チェーザレ・プロカッチーニ(ボローニャ、1574‐ミラノ、1625)の「聖マリア・マッダレーナ」


31


32
詳細不知


33
内部のフレスコ画は、ジュゼッペ・カルサーナによって描かれました。


34


35


36


37


38


39


40
(つづく)

3前泊地はミラノでした。


1
ミラノ中央駅から鉄道に乗ってモンツァに向かいました。


2
車内は非常に空いてました。


4
モンツァ駅に到着しました。


5
モンツァ駅の駅舎です。


6
駅前の小さな公園があります。


7
公園の噴水


8
Monzaをモンザと呼ぶ人がかなりいますが、ここではモンツァと呼ぶことにします。
モンツァは、人口121,692人(2022年8月31日現在)のロンバルディア州モンツァ・エ・ブリアンツァ県にあるコムーネです。


9
Corso Milano


10
先ず、この日のお宿に向かいました。


11
ホテル(写真左手前)に大きな荷物を預かって貰ってから早速外に出ました。
ミラノから近いモンツァなので、ミラノからの日帰り遠足が可能ですが、行った先で泊まる主義を貫きました。


12
Largo Mazzini


13
この辺が旧市街の入り口になるでしょうか?


14
F-1のサーキットコースで有名なモンツァですが、古い歴史ある街として知られてます。


15
この日は、10月下旬の厚い雲に覆われた肌寒い日でした。


16
昔はほぼ二年毎に訪れていたモンツァですが、王宮の修復工事が始まると、行ったのは、この時だけとなりました。王宮の博物館が私のモンツァ観光の中心でしたが、修復中は休館となり、その修復工事が殆ど進捗せず、何年の博物館が休館となるうちに急に興味が薄れてしまいました。


17
イタリア通りに入りました。


18
ミラノの雑踏と喧騒を避けて、静かな生活を楽しむ人たちのハイソな街です。


19
車の侵入が禁止されているイタリア通りです。


20
道はよく手入れされてます。


21


22
二本の鐘楼が目立ちます。


23
サンタ・マリア・イン・ストラーダ教会の鐘楼です。


24
普通の建物の壁にタベルナコロが設けられてます。


25
タベルナコロのフレスコ画(詳細不知)


26
写真右はサンタ・マッダレーナ教会ですが、ミサ中だったので拝観するのは後回し。


27
サンタ・マリア・イン・ストラーダ教会を先に見ます。


28
ゴシック様式の鐘楼が目印です。


29
サンタ・マリア・イン・ストラーダ教会のファサード


30
フランチェスコ会修道士がミラノの建築家Ambrosoliusに委嘱して、彼の設計によって1348年から1357年に建設されたロンバルド・ゴシック様式の教会です。


31
Stradaの呼称はモンツァからミラノに向かう街道に面して建設されたことに由来します。


39
教会の説明板


32
ファサードの聖母子


33
ファサードの装飾


34
バラ窓


35
ポータル上ルネッタにフレスコ画があったと思いますが、その痕跡さえも認められません。


36
ルネッタ下の彫刻


37
残念ながら教会は閉まっていました。


38
鐘楼を見上げました。


40
(つづく)

1合同の建物です。同じ形の建物が3棟あったような。


2
公団住宅ような感じです。


3
同じ建物を幾つか建てるという事がイタリアでもあるんですね。


4
個性が感じられない柱廊。


5
ガリンベルティ広場の入り口です。


6
何のオブジェでしょうか?


7
涼しい風が吹き抜けていました。


8
先ほど歩いてきたCorso Nizzaです。


9


10


11
やれやれホテルが見えてきた。


12
無理に時間潰しをして疲れました。


13


14
後ろから見たGiuseppe Barbarouxのモニュメント


15


16
振り返って撮った写真です。


17


18
ホテルに戻っても特にやることがありません。


19
ドゥオーモをもう一度拝観することにしました。


20
聖堂内に入りました。


21


22


23


24
この日は、これで終わりです。


25
翌朝です。


26
朝の散歩に出ました。


27
この日も好天に恵まれました。


28
メルカトです。


29
青空市が開市されていました。


30
朝は冷えて寒いくらいでした。


31


32
朝の散歩を切り上げました。


33
ホテルをチェックアウトして駅に向かいます。


34
バスで駅に向かう予定でしたが、青空市のため、バスの乗車地が分かりません。


35
地元の人に尋ねても、バスの乗車地が良く分からない。人によって違う場所を教えるのです。


36
徒歩で駅に向かいました。


37
最初で最後のクーネオとなりました。


38
駅前広場


39
青空市開市日のバスには、何時も戸惑います。


40
開市日のバスについては、地元の人でも分かり難いのですから、旅行者がバスの停留所が分からないのはごく自然です。


41
駅に到着しました。


42
次の目的地アルバに向かいました。


43
(クーネオ編 おわり)

1夏至のころ、イタリアに限らずヨーロッパの街では。お祭りが行われるようです。


2
クーネオもその例外ではなく、この前週の週末はお祭りだったそうです。お祭り前後の週、博物館、美術館は休館でした。現在はどうなっているのでしょうか。


3
夏至の頃は、日が長いので夜遅くまで観光が楽しめます。


4
その反面、どうしても寝不足になりがちです。零時を回っても辺りは賑わっています。


5
鉄道駅の方に行ってみます。特に用事があるわけではありません。


7
駅前広場


8
クーネオに到着時、大きな荷物があったので、取り敢えずホテルに急ぐことを考えていて、駅周辺を殆ど見ていなかったからです。


9
駅周辺も見所なし。


10
駅周辺は、街の中心地よりも一段と新しい建物ばかり。


11
駅前広場のベンチで一休み。


12
クーネオ駅の駅舎です。


13
駅前広場から見えた山の頂。


14
駅のホームにも行ってみました。当然、何もなし!


15
中心街に戻ることにしました。


16
違った道を選びました。


17
カルフールで果物を買いました。


18
影が長くなってきました。


19
共同住宅ばかりで退屈です。


20
シンガポール料理も出す不思議な日本料理店。得体が知れない店。


21
戸建ての住宅がありません。


22
私には共同住宅が合いません。


23
アパートばかり。


24
口が裂けてもアパートをマンションなんて呼べません。


25
それにしても見所が皆無。


26
日が陰って、夕涼みをする人がいました。


27
日本と違って、クーネオの夏は涼しいのです。


28
観光に訪れては、いけない街です。


29
退屈でした。


30
夕方になって、人出が多くなってきました。


31
共同住宅ばかり。


32


33


34


35


36


37


38


39


40
(つづく)

1これからどうしようか。


2
足の赴くままのブラブラ歩きです。


3
これだけ見所が乏しいとは全くの想定外でした。


4
私の場合、失敗の旅が少なからずあります。この当時、今のようにインターネットで多くの情報が得られる訳ではなかったので、情報不足で無駄足を踏んだ経験が少なからずありました。


5
サン・フランチェスコ修道院教会に来てしまいました。


6
メルカト横のポルティコです。


7
夏至を過ぎたばかりの強烈な日差しにも拘らず涼しかったので、ブラブラ歩きが苦にならない日でした。


8
それにしても新しい建物ばかりで、ウンザリ。


9
ここで水の補給です。


10


11
時間が全然潰れません。


12
この日は水曜日でした。クーネオの博物館、美術館は毎週月曜日が定休日の筈で、水曜日は開館と思っていました。


14
ホテルに戻った時、フロントで聞いたら、この週と次の週は博物館と美術館が夏休みということでした。


15
博物館、美術館でも夏休みがあるんですね。


16
職員が交代で夏休みを取れば、夏休み休館が避けられる筈ですが、ここはイタリアですから。日本とは違うのです。行ってみて初めて分かるのがイタリアです。


17
同じ場所に何度も来てしまいます。


18
クーネオとほぼ同じ規模の街で、博物館や美術館に行っても入館者の姿を見ることは滅多にありません。という事は、クーネオの博物館、美術館でも開館していても閑古鳥が鳴くばかりですから、臨時休館しても実質あまり変わらないのでしょう。


19
開館すれば、照明費、冷房費などが必要ですからね。


20
面白い店がありました。


22


23
一旦ホテルに戻って暫し休憩。


21
再び外へ。


24
ガリンベルティ広場です。


25
非常に広い広場です。


26
広さが約24,000㎡あるそうです。


28
1797年、クーネオはナポレオンのイタリア侵攻に伴い、フランス軍の占領下に置かれました。進駐してきたフランス軍は、クーネオの城壁を取り壊して、1800年にこの広場を作ったそうです。


29
Giuseppe Barbarouxのモニュメント


30
広場に面した建物の殆どは、広場が造られてから建設されたそうです。


31


32


33


34


35
味気ない広場ですが、写真を撮ったのは単なる暇つぶしからでした。


36
やることがありません。


37
住宅地に行ってみました。


38
見所なし!


39


40
小学校です。


41
小学校の入り口です。


42
(つづく)

引き続きサンタンブロージョ教区教会です。
3
Presbiterio


4


5
Presbiterioのフレスコ画


6


1
祭壇画を見て回ります。


2
聖母子と聖人たち


7


8
次の礼拝堂


9
聖バルトロメオの殉教


10


11
次の礼拝堂です。


12
カウンターファサード上部にオルガンがあります。


13
オルガン上のニッチに描かれたフレスコ画


14


15
次の礼拝堂です。


16
幼き聖母と聖アンナ


17


18
洗礼盤


19
クーポラのフレスコ画


20
Presbiterioのフレスコ画


21
聖母の神殿奉献


22


24
磔刑の礼拝堂


23


25


26
プレセーペ


27


28


29
大体見終わりました。


30
外に出ました。


31
県庁舎の建物です。


32


33


34
県庁舎の向かいにあるのは、警察本部の建物です。


35
パトカーが駐車していました。


36


37


38
ローマ通り


39
ガリンベルティ広場の方に進みました。


40
(つづく)

1ローマ通りです。


2
市の塔です。


3
市の塔を支えるPalazzo Torreです。


4
Palazzo Torreの外壁に描かれたフレスコ画です。


6
Palazzo Torreに隣接して市庁舎が建ってます。


5
市庁舎の建物は、イエズス会によって1711年に建設された神学校でした。


7
しかし、1773年、イエズス会の解散によって神学校は閉鎖されてしまったので、1775年から旧神学校の建物は市庁舎に転用されることになり、現在に至ってます。


8
市庁舎のファサード入り口の左右に噴水がありますが、1837年にクーネオの市営水道が敷設された記念に造られたそうです。


9
市庁舎内に観光案内所があります。


10
ローマ通りのポルティコ


11
市庁舎辺りが街の中心でしょう。


12


13


14
市の塔です。


15
澄んだ空にアルプスの山々が良く見えます。


16


17
Palazzo Torreのフレスコ画を見ながら、サンタンブロージョ教区教会に向かいました。


18


19
サンタンブロージョ教区教会は、ローマ通りに面した小さな広場に建ってます。


20


21
サンタンブロージョ教区教会です。


22
13世紀初めに建設されたロマネスク様式のサンタンブロージョ教会は、現在地よりも後陣の奥20mほどの場所にあったそうです。建設当初は、サン・ダルマッツォ・ディ・ペドーナ修道院の修道士たちによって運営管理されていたそうです。


23
度重なる戦争によって教会の建物は大きな被害を受けましたが、初代の建物があった場所に城壁が築かれることになり、16世紀後半に最初の建物は取り壊され、現在地に再建されることになりました。
そうして、1599年に二代目の建物が完成しました。
しかし、二代目の建物は強度不足のため危険となったので、18世紀初めに解体され、再建されることになりました。
建築家フランチェスコ・ガッロ(モンドビ、1672‐1750)が起用され、ガッロの設計によって1703年に創建され、1710年に完成した三代目の建物が現在の姿の原形です。


24
クーポラは1733年から1736年に建設されました。1743年に建設された鐘楼です。


25
ファサードの装飾


26
バロック様式のファサードは19世紀に漸く完成したそうです。


27
ポータル上の彫刻「聖心」は、カルロ・ポンゾ(クーネオ、1847‐1902)によって1890年に制作されました。


28
柱頭


29


30
フランチェスコ・ビアンキーニのファサード壁龕の彫刻「聖ヴィンチェンツォ・フェッレール」(1814)


31
フランチェスコ・ビアンキーニの「聖アンブロージョ」(1814)


32


33
教会内に入りました。


34
単廊式、ギリシャ十字形、バロック様式の内部です。


35
右側壁


36
クーポラのフレスコ画は、ミケーレ・アントニオ・ミロッコ(トリノ、1690-1772)の「栄光の聖アンブロージョ](1765)です。


37
Presbiterio天井のフレスコ画は、カルロ・ビアンコによって1765年に制作されました。


38


39
主祭壇


40
(つづく)

1次はサン・フランチェスコ修道院教会の複合建物です。


20
退屈!!!!


21
今回の旅程にクーネオを入れた自分が悪いのです。


22
気を取り直して教区教会に向かいました。


23
昼下がりなので、教会は閉まっているに違いない。


24
ダメ元です。


25
この道は先ほど通りましたが、突き当りに教会があります。


26
教会のファサードが見えました。

2
サン・フランチェスコ教会です。
13世紀末、フランチェスコ修道会によって建設された礼拝堂が前身です。その後、14世紀、15世紀に拡大され、1470年に完成したそうです。


3
ファサードのポータル上のルネッタです。ルネッタにはフレスコ画があったと思いますが、その痕跡すら見ることが出来ません。


4
1797年、ナポレオンのイタリア侵攻によって、修道士は追放され、修道院教会の建物はフランス軍に接収されて兵舎、倉庫などに転用されたそうです。


5
ナポレオン失脚後、建物は放置されていましたが、1821年、修道士が戻り活動が再開されました。


6
19世紀末に修道士の多くが去り、修道院は閉鎖状態になったものの、教会としての活動は継続されました。


7
第二次世界大戦後、教会の活動が停止されました。
1960年、修道院教会だった建物はクーネオ市当局の所有となり、修復後、建物の一部は市立博物館や各種催事場に転用されるようになりました。


8
後陣


9
鐘楼


13
市立博物館に行きました。


11
休館でした。


12
ここには入館したかった!


14
この日、開館日でしたが何故か休館でした。イタリアでは、このようなことは頻繁に起きますが、遠路はるばる折角訪れたクーネオですから、ガックリ度は半端ではなかった!


15
Museo自体の展示は冴えないのがせめてもの慰めです。


16
Museoで1時間ほど過ごす予定だったので、時間潰しが必要となりました。


17
ぶらぶら歩きで時間潰しでしたが、時間が潰れない!


19
写真左はメルカトです。


27
サンタ・マリア・デッラ・ピエーヴェ教区教会です。


28
ローマ時代末期の5世紀頃に創建されたサンタ・マリア・デイ・パドーナ教区教会が前身です。


29
1557年、クーネオ包囲戦に際に完全に破壊されたので、1578年から1600年にかけて再建されました。


30
しかし、2代目の建物が構造上の問題があったようで、1656年から1664年に三代目の建物がイエズス会によって再建されると共に、教会の名称が現在名に改称されました。


31
1773年、イエズス会に解散によって、司教区の一般教会となりました。


32
ファサード壁龕の彫刻


33


34
鐘楼


35
教区教会の扉は予想通り閉まっていました。


36
サン・フランチェスコ教会が見えます。


37
市の塔です。


38
市の塔は1317年に建設されたという説がありますが、実際は16世紀のもののようです。


39
高さ52mの市の塔です。


40
市の塔のフレスコ画


41
(つづく)

1次はサンティッシマ・アンヌンツィアータ教会です。


2
鐘楼が見えてきました。


3
15世紀から16世紀にかけて設立されたサンティッシマ・アンヌンツィアータ修道院の教会として建設されました。


4
現在の建物は1689年から1701年に再建された2代目となるものです。
長らく孤児院の教会でした。


5
教会としての機能は1960年に停止されました。旧教会の建物は、現在シアター・アカデミーの本拠地となっており、俳優養成が行われているそうです。


6
中はギリシャ十字形になっているそうです。


7
鐘楼


8
旧サンティッシマ・アンヌンツィアータ教会の扉が閉まっていたのは予想通りでした。


9
例え、扉が開いていたとしても、拝観する価値があるとは到底思えないサンティッシマ・アンヌンツィアータ教会です。


10
次はサンタ・クローチェ教会です。


11
サンタ・クローチェ教会も扉が開いているとは思えませんでしたが、ここまで来たからにはダメ元でも行ってみます。


12


13
この日は6月30日でした。日差しは強烈でしたが、涼しかったのを覚えてます。


14
アルプスに近いクーネオなので、夏でも涼しいのでしょう。


15
通りの突き当りに教会のような建物が見えてます。


17


16
やはり教会ですね。サンタ・クローチェ教会でしょう。


18
こちらはサンタ・クローチェ修道院だった建物です。


20
修道院だった建物は、病院として使用されてます。


19
病院は2018年に近代的な建物に移転したそうです。現在、修道院だった建物は修復改造工事中で、工事完成後、クーネオ市立博物館がオープン予定となっているようです。


21
写真右端がサンタ・クローチェ教会です。


22
サンタ・クローチェ教会です。


28
最初の建物は14世紀に建設されたそうです。
現在のバロック様式の建物は、1709年から1715年に再建された2代目です。


23
ファサード上部


24


25
ファサードのフレスコ画(詳細不知)


26
詳細不知のフレスコ画


27
詳細不知のフレスコ画


29
扉が閉まっていました。


30
ファサードに向かって左側にある広場に進みます。


31
サンタ・クローチェ教会の左側壁です。


32
サンタ・クローチェ教会の鐘楼とクーポラ


33


34
サンタ・クローチェ教会横にある広場です。


35
広場は駐車場になってます。


36


37


38
この時、サンタ・クローチェ教会の内部は修復工事が行われていたようです。


39


40
(つづく)

引き続きドゥオーモです。
59
制作者等詳細不知の「聖ジュゼッペの死」


41
サンタンドレア礼拝堂です。


42
制作者等詳細不知の「聖アンドレア」


43


44


45


46


47
暗くてよく見えません。


48


49
磔刑礼拝堂


50


51
ジュゼッペ・ディーニの「聖ミケーレ」(1860)


52


53
これで大体見終わりました。


54


55


56


57
カウンターファサード


58
外に出ました。


61
ガリンベルティ広場です。


60
広場の先に雪を抱いている山が見えました。


62
ローマ通りを進みます。


63
振り返るとドゥオーモが見えました。


64
この先は何もなさそうです。


65
先ほど昼食を食べたレストランです。


66
裏通りをぶらぶら歩き。


67
Via Seminario


68
見所がなさそうな。


69


70
元々期待していなかったけれど、もう少し古い建物があってもよさそうです。


71


72
新開地ではないと思いましたが、歴史的建造物はゼロのようです。


73


74
空振りに終わりそうなクーネオです。


75


76
もう少し見所があっても、と思いながら歩き続けました。


77


78
これは参りました。


79
もう少し事前調査すれば良かったと思っても後の祭りです。


80
(つづく)

1ローマ通りです。


2
ローマ通りに面して教会が建ってます。


3
クーネオのドゥオーモです。


4
クーネオ司教区の司教座が置かれている教会で、正式名称はサンタ・マリア・デル・ボスコ司教座教会となってます。


5
この場所は非常に深い緑地になっていました。8世紀頃、現在のクーネオから10㎞程離れた場所にあったベネデット会のサン・ダルマッツォ・ディ・ペドーナ修道院の修道士の支援を受けて、緑地を切り開いて小さなサンタ・マリア教会が建設されましたが、それが前身です。


6
創建時の経緯から、サンタ・マリア教会は、13世紀頃までサン・ダルマッツォ・ディ・ペドーナ修道院に依存していました。
クーネオの経済発展によって人口が増えるに従って、教会の周囲にも建物が建つようになり、それに伴って教会は拡大を重ねて、15世紀頃にはほぼ現在の規模の教会になったそうです。


7
初代の建物は、1470年と1560年の2度にわたる大修復工事が行われて、維持されていましたが、1656年、部分的に屋根が崩落して危険になったので、建物が再建されることになりました。
そうして、建築家ジョヴェナーレ・ボエット・ダ・フォッサーノ(フォッサーノ、1604‐1678)が起用され、ジョヴェナーレの設計と工事監督によって17世紀に再建された2代目の建物が現在の姿の原形になってます。
18世紀と19世紀に行われた改造工事を経て現在の姿になりました。
1774年のクーネオ包囲戦の戦闘によって被害を受け、修復と改造が行われたそうです。
1817年、クーネオは独立した単独の司教区になりましたが、その際、司教座教会となって現在に至ってます。


8
ファサード下に柱廊が設けられてます。1863年から1866年に、ローマ通りの柱廊との一体化工事が行われ、通行が可能になりました。


9
4本のコリント式柱が目立つファサードです。


10
ファサード下柱廊に置かれたアントニオ・ボーノ作「聖マッテオ像」


11
アントニオ・ボーノの「聖アンドレア」


12
ファサード・ポータル上部の装飾


13
聖堂内に入りました。


14
単廊式、ラテン十字形、新古典様式の内部です。


15
右翼廊方向


16
礼拝堂などを見て回ります。


17
クーポラ


18
クーポラのフレスコ画は、ジュゼッペ・トセッリの「聖母被昇天」(1834)
この画家については全く知りません。


19
サンタ・ツィーテ礼拝堂です。


20
ドメニコ・グイドボーノ(サヴォーナ、1668‐ナポリ、1746)の「天上の聖母子と聖ツィータ」


21


22
詳細不知


23
制作者等詳細不知の「聖母の教育」


24
制作者等詳細不知の「キリストの鞭打ち」


25
詳細不知


26


27


28
ルイージ・モルガリ(トリノ、1857‐1935)の「マリアの聖心」


29
ルイージ・モルガリ(トリノ、1857‐1935)の「マリアの献心」


30


31
右翼廊礼拝堂


32
詳細不知


33


34
制作者等詳細不知の「磔刑像」(18世紀初頭)


36
主祭壇


35
主祭壇画は、アンドレア・ポッツォ(トレント、1642‐ウィーン、1709)の「聖母子と2聖人」
この聖堂で観るべき作品を選ぶとすれば、これⅠ点になるでしょう。


37


38


39
詳細不知


40
詳細不知
(つづく)

1前泊地はアスティでした。


2
アスティ駅から鉄道でクーネオに行きます。


3
トリノ・ポルタ・ヌオーヴァ行普通列車に乗車します。


4
車内は非常に空いてました。


5
車内から撮った写真


6
アスティからクーネオ行の直通列車はありません。Torino Lingotto駅で乗り換えます。


7
クーネオ行の列車が入線してきました。


8
クーネオ行列車の車内から雪を抱いたアルプスの山々が見えました。


9
クーネオ駅に到着しました。


10
クーネオ駅の駅舎です。


11
街の規模にしては、立派な駅舎です。


12
駅前にある緑地の噴水です。


13
この日のお宿まで徒歩で行きます。


14
クーネオは、人口55,859人(2022年5月31日現在)のピエモンテ州クーネオ県の県都です。


15
アルプスの麓に大きく広がる平地の街があります。街の所々にある広場からはアルプス山脈が見えるのです。


16
ローマ時代起源ではない、比較的新しい街と言われてきましたが、近年に行われた歴史的中心部の建築工事において、ローマ時代の遺跡が発見されたことにより、中世に新しく築かれた街という説が覆され、ローマ時代、またはそれ以前にできた街ということになったそうです。


17
街の中心にあるPiazza Galimbertiにやってきました。


18
かなり広い広場です。


19
広場の端にある、このホテルがこの日のお宿です。


20
チェックインを済ませて、荷物を自室に置いてから外出しました。


21
Piazza Galimbertiに面して建つPalazzo Osascoです。ここにMuseoがあります。


22
喉が渇いたので、Piazza Galimbertiに面した、このカフェで一休みしました。


23
適当にぶらぶら歩きを始めました。


24
クーネオは、緑多い街として知られてます。


25
クーネオに訪れる観光客の多くは、アルプスへの入り口として訪れるとされてます。


26
川の方に行ってみることに。


27
登山には全く興味がなく、山に登れば疲れるだけ、と思ってます。冬山で遭難のニュースを聞くと、家の炬燵に入ってごろ寝していなかった愚者、と思います。


28
街の横を流れる川です。


29
川に行っても特に見所がなさそうです。


30
川沿いの道に戻りました。


31
昼食の時間は過ぎつつありました。食欲があまりなかったけれど、昼食抜きでは体がもちません。


32
メルカト近くに行けば、食べるところがあるだろう。


34
この店に入りました。


33
先ずビールを注文。


35
簡単に食べるならピザが良い、と思って注文したら、大きなピザだったので食欲不振の私には稍々ウンザリでした。


36
やっとの思いでピザを半分食べて、外に出ました。


37
少し歩いた感じでは見所があまりなさそうです。


38
新しい建物が多い。


39
ホテル近くの歴史的中心部に戻ります。


40
(つづく)

1城壁(村壁)とBorgo Medievaleの景観


2
教区教会の鐘楼


3
城壁(村壁)です。


4
することがないので、駅の方に進みます。


5
昼食無しは辛いので、駅近くで食べ物を探します。


6
牧草地が広がってます。


7
Borgo Medievaleのモンバルドーネ城と2つの教会


8
道を下ります。


9
城壁外にも家が数軒建ってます。


10
次の列車までまだ1時間半あります。


11
サヴォーナ行きの列車が通り過ぎていきました。


12
向かいの山の上にある別の村が見えてます。


13
この道を進めば別の村に行けそうでしたが、その気力がありません。


14
駅に戻ってきました。


15
駅前に万事屋がありました。ここで食料を調達しました。ポテトチップ、チョコレート、アイスクリームの昼食?を食べました。


16
万屋前からの景観


17
この辺はBorgo Stazioneと呼ばれてます。


18
駅を経由して畑の方に行くことにしました。


19
無人駅です。扉が開いていて、駅員がいた時代があった?


20
駅舎前から見たBorgo Medievaleの景観


21
見所が全くないので、時間潰しが大変です。


22
駅の畑方向は林が広がってます。


23
この頃の私は足腰が丈夫でした。


24
あちこち歩いても大して疲れません。


25
橋があります。


26
ボルミダ・ディ・スピーニョ Bormida di Spigno川です。


27
ボルミダ・ディ・スピーニョ川に架かる橋の上からの景観


28
急流で数年毎に氾濫する暴れ川だそうです。


29


30


31
橋を渡った先は麦畑がありました。


32


33
農道から見えるBorgo Medievale


34


35


36
散策している間、車が一台も通りませんでした。


37
やることがありません。


38
橋に戻りました。


39


40


41


42


43


44
駅に戻りました。


45
待ちに待って漸く列車に乗車することができました。
(モンバルドーネ編 おわり)

1この辺がモンバルドーネ観光の中心でしょう。


2
そうは言っても観光客はおろか人影さえもないけれど。


3
教区教会の後陣からファサード側に広場に戻ります。


4
ウンベルト1世広場です。


5
古井戸が教区教会のファサード前にあります。


6
ローマ通りです。


7
昼食をどうしようか、と思いました。


8
この村には勿論のこと、鉄道駅に戻っても食べるところがありません。


9
城壁の門の方に進みます。


10
写真左にアーチがあります。このまま村を去っても時間が余ってしまうので、寄り道をすることにしました。


12
潜ってきたアーチです。


11
アーチの先にも道路があり、道路に沿って建物が数軒建っています。


13
この一角も人の気配がありません。


14
このアーチの先もローマ通りです。


15
この先から畑に行けるようです。


16
アクゥイ・テルメに戻ろうにも列車は二時間毎で、アレッサンドリア行きの列車が15分後にありますが、この場所から15分以内に駅に行くのは難しいので、時間潰しが必要です。


17
トラットリアが見つかって営業していれば、そこで昼食を楽しめば上手く行くとの事前の読みでしたが、勝手読みでした。


18
この辺で2時間の時間つぶしはほぼほぼ不可能です。


19
アーチを潜ってローマ通りに出ます。


20
ローマ通りに戻りました。


21
突き当りは城壁(村壁)の入り口門です。


22
入り口門を潜ります。


23
城壁外に出ました。


24
ハイキングコースにもなっている道です。


25
ハイキングコースの案内図


26
村役場です。村役場に行って色々と尋ねることに。


27
扉が開いているの?


28
入口扉は相変わらず閉まったまま。


29
モンバルドーネの紋章の下に矢印があって、矢印の先に別の扉があり、開いていました。


30
村役場の中に入って、地図を頂戴しました。


31


32
城壁沿いの遊歩道です。


33


34


35


36
遊歩道からの景観


37
遊歩道を進んでも見所が無さそうなので、引き返すことにしました。


38


39
村の入り口門の前に戻りました。


40
(つづく)

↑このページのトップヘ