イタリア芸術を楽しむ

イタリアの魅力を味わい尽くすには、一生に何度旅をすれば足りるだろう。芸術の宝庫にして、歴史の生きた証であるイタリア。 惹き付けて止まない絵画、彫刻、歴史的建造物、オペラなど、芸術の宝庫であるイタリアを楽しむブログです。 記事は一日に一つアップしています。記事の見方ですが、例えば「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その4)」は2017年10月20日にアップしました。各記事にカレンダーが表示されてますが、カレンダー上の2017年10月21日をクリックして頂ければ「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その5)」になります。(その3)は2017年10月20日となります。 BY:シニョレッリ

2023年04月

1引き続き旧称マッジョーレ広場、現称ヴィットリオ・エマヌエーレ2世広場に面した建物です。


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次はPalazzo Bosiです。


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18世紀に建設されました。


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薬屋がPalazzo Bosiを使用していました。


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薬屋は閉店となりました。


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現在はAccademia dei Concordiが所有する美術品の美術館になってます。それに伴って薬屋が閉店となったようです。


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Palazzo Cezzaです。


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旧マッジョーレ広場に面する建物は柱廊で繋がってます。


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次はサン・マルコの柱の後方に映っている建物です。


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Palazzo del Corpo di Guardiです。


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ロヴィーゴがオーストリアの支配下にあった時代、オーストリア軍の兵士がロヴィーゴに駐屯していました。兵士は各地に分散していましたが、それらを一か所に纏めて兵士を駐留すべきの考えのもとに建設されたのが、この建物です。


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建築家ジョヴァンニ・バッティスタ・メデューナ(ヴェネツィア、1800-1886)の設計によって、1853年から1854年に建設されたPalazzo del Corpo di Guardiです。
メデューナはヴェネツィアのフェニーチェ劇場を設計したことで有名です。


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現在、Palazzo del Corpo di Guardiは会議室や展示会など多目的に使用されてます。


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Palazzo del Corpo di Guardiの装飾です。


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Palazzo内のあちこちに、このPalazzoに関する銘板や胸像などが置かれてます。


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次は城門です。


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ロヴィーゴの市域を囲む城壁(市壁)は、12世紀から14世紀に築かれましたが、ロヴィーゴに通じる主要道路に城壁を管理する門が設けられました。サンタゴスティーノ門も、その内の一つです。


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現在のサンタゴスティーノ門は1713年に再建されたものです。


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サンタゴスティーノ門の横に城壁が残されてます。


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(つづく)

1引き続き旧マッジョーレ広場、現称ヴィットリオ・エマヌエーレ2世広場です。
この辺では、Piazza Omonimaと呼ばれているようです。


2
広場にジュゼッペ・ガリバルディのモニュメントがあります。


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彫刻家エットーレ・フェッラーリ(ローマ、1845-1887)の「ジュゼッペ・ガリバルディのモニュメント」(1887)


4
エットーレ・フェッラーリは、政治家でもありましたが、イタリア統一を強く支持してガリバルディ将軍に心酔していたそうです。


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モニュメントの土台


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ロヴィーゴのこの騎馬像は、エットーレ・フェッラーリの代表作です。


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次はPalazzo Roverellaです。


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エステ時代の代表的な建物です。


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エステ家がロヴィーゴを支配していた時代の1474年、フェッラーラの帰属ロヴェレッラ家出身のバルトロメオ・ロヴェレッラ枢機卿(ロヴィーゴ、1406‐ローマ、1476)(次に彼の肖像画を載せておきます)に建設されました。


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ジョヴァンニ・バッティスタ・ピットーニ(ヴェネツィア、1687-1767)の「バルトロメオ・ロヴェレッラ枢機卿の肖像」


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Palazzo Roverellaは、絵画館になってます。「バルトロメオ・ロヴェレッラ枢機卿の肖像」はこの美術館で展示されてます。


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絵画館については、項を改めて触れることにします。


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旧マッジョーレ広場に面して建つ建物を続けます。


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Palazzo dell Accademia dei Concordiです。


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ガスパーレ・カンポ伯爵が自宅として1580年に建設しました。


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ガスパーレ・カンポ伯爵は、人文学に通じた文化人でしたが、この邸宅に地元や近隣の学者や文化人を集めて、文学、音楽、美術などについて話し合ったそうです。


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ガスパーレ・カンポ伯爵の死後もカンポ家は文化を愛し、カンポ家は17世紀後半まで地元と近隣の文化的活動の中心を担ったそうです。
カンポ家がロヴィーゴを去ると、その文化的活動はヴェネツィア共和国に引き継がれ、旧カンポ家邸宅はその活動の本拠地となりました。


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Palazzo dell Accademia dei Concordiの銘板
ヴェネツィア共和国がナポレオンによって滅亡すると、この場所における活動が衰退しましたが、1814年、遂に活動停止、終了してしまいました。


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しかし、1836年、ロヴィーゴ市主導のもとにAccademia dei Concordiが設立され、その本拠地がこの場所に置かれるようになりました。


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Palazzo dell Accademia dei Concordiの入り口
現在、この建物は29万点の文書を有する図書館でもあり、400点強の美術品を保有する美術館として一般公開されてます。


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図書館と美術館の入り口


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カンポ家の紋章


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美術部門の展示作品


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作品帰属が全く分かりません。


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詳細不知の肖像画


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詳細不知の胸像


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広場の名称の境界が良く分かりません。


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ロヴィーゴは、あまり知られていないようですが、見所豊富な街です。


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(つづく)

1
ポポロ大通りです。


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街角のタベルナコロ


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ポポロ大通りを左折して広場に向かいます。


4
ヴィットリオ・エマヌエーレ2世広場です。


5
長らくマッジョーレ広場と呼ばれていましたが、イタリア統一後に名称が改められました。


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広場にヴィットリオ・エマヌエーレ2世のモニュメントがあります。


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ジュリオ・モンテヴェルデ(ビスターニョ、1837‐ローマ、1917)の「ヴィットリオ・エマヌエーレ2世のモニュメント」(1881)


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ジュリオ・モンテヴェルデの「ヴィットリオ・エマヌエーレ2世のモニュメント」はイタリア各地にありますが、ロヴィーゴのものはその最初に制作されたものです。


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「サン・マルコの柱」です。


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ヴェネツィアのシンボル「有翼のライオン像」


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1482年、ロヴィーゴはヴェネツィア征服され、ヴェネツィア領に編入されました。


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有翼のライオン像の土台


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土台の紋章


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1519年、ヴェネツィア領を示す「有翼のライオン像」がこの場所に造られました。


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18世紀末にナポレオンのイタリア侵攻まで、ロヴィーゴはベネツィア領でした。


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広場に面して塔が建ってます。


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市の塔 Torre Civicaです。


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時計塔にもなってます。


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ピエトロ・プッティーニの設計によって1763年から1769年に建設されたそうです。


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鐘楼


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1790年に時計が追加されました。


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Torre Civicaの銘板


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市の塔がある建物が市庁舎です。


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1428年から1429年に建設されたPalazzo Nodariが市庁舎になってます。


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聖母子像があります。


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ジュリオ・マウロの「聖母子」(16世紀)


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Palazzo Nodariを見ます。


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ダンテの浮彫があります。


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Palazzo Nodariの壁にある紋章


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Palazzo Nodariのロッジャ


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市庁舎内に小美術館?があります。


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これらの作品については全く知りません。


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(つづく)

1引き続きロヴィーゴのドゥオーモです。


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聖堂内に入りました。


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単廊式、ラテン十字形、新古典様式の内部です。


4
礼拝堂を結ぶ通路が左右にあるので、三廊式の変形と言ってもおかしくないと思います。


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礼拝堂を見て回ります。


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「マドンナ・デッレ・グラツィエ」(15世紀)


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ロレンツォ・マスゥッチ(ヴェネツィア?、1726-ローマ、1785)の「磔刑」(1772)


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Fra Santo de Venezia(ヴェネツィア派領域の逸名画家)の「パドヴァの聖アントニオ」(1651)


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次の礼拝堂です。


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パルマ・イル・ジョーヴァネ(ヴェネツィア、1549-1628)の「贖いのキリストと二聖人」


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Presbiterio


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1858年制作のオルガン


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詳細不知


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アンドレア・ミキエーリ通称アンドレア・ヴィチェンティーノ(ヴェネツィア、1542c-1618)の「カルメロの聖母」(16世紀)


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フランスの逸目画家作「聖会話」(17世紀)


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「アンドレア・アヴェッリーノに顕現する聖母」


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パルマ・イル・ジョーヴァネの作品をもう一度見ました。


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次の礼拝堂です。


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パルマ・イル・ジョーヴァネ(ヴェネツィア、1549-1628)の「マギの礼拝」


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詳細不知


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カウンターファサード


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外に出ました。
(つづく)

1次はドゥオーモです。


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通りの突き当りの建物がドゥオーモです。


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ロヴィーゴのドゥオーモ Basilica Concattedrale di Santo Stefano Papa e Martireです。
アドリア・ロヴィーゴ司教区の司教座教会ですが、何故かConcattedraleです。


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8世紀から9世紀に建てられたサント・ステファノ教区教会が前身ですが、964年の文書に初めてサント・ステファノ教区教会の存在が記されたそうです。


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1067年から1073年に再建されロマネスク様式の建物になりました。


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ロヴィーゴの直ぐ傍に流れるポー川の度重なる洪水と洪水に伴う土砂の堆積によって建物が劣化したので、15世紀半ばに再建され三番目の建物となりました。1461年に三番目の建物の奉献式が執り行われたそうです。
1630年頃に5つの礼拝堂が追加増築され、教会の規模が大きくなりました。


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しかし、17世紀末にはポー川の洪水などによって、建物が劣化して深刻な状態となりました。
1691年、当時の司教が市当局に再建の提議を行い、それを受けて四番目の建物が建設されることになりました。


P1960072
貴族で伯爵位を持つ建築家ジェロラーモ・フリギメリカ(パドヴァ,1653-モデナ、1732)の設計によって、1696年から1791年に建設された四番目の建物が現在の姿の原形となってます。
建物の一応の完成を見た1711年に奉献式が執り行われました。


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ファサードは1825年に設計されましたが、工事未着工のまま放置され、煉瓦積みのまま現在に至ってます。


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入口扉上のキリストの彫刻


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入口扉上


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クーポラと鐘楼


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鐘楼


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鐘楼


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鐘楼の窓


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鐘楼に接して映画館があります。


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後陣


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後陣の窓


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右側壁


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左側壁


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ファサード側に回ります。


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毎日開くので、拝観し易いと思います。


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聖堂内に入ります。
(つづく)

1前泊地はモンタニャーナでした。


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モンタニャーナのドゥオーモにあるジョルジョーネのフレスコ画を楽しみました。


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ジョルジョーネにはいつも圧倒されます。


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モンタニャーナから鉄道で次の目的地ロヴィーゴに向かいました。


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途中のモンセリーチェ駅が乗り換えました。


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モンセリーチェ駅からロヴィーゴ駅に向かう列車は非常に空いてました。


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ロヴィーゴ駅に到着しました。


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ロヴィーゴは、人口49,976人(2022年10月31日現在)のヴェネト州ロヴィーゴ県の県都です。


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ロヴィーゴ駅の駅舎


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駅前広場


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この日のお宿は駅近くのこのホテルです。


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ホテル前にあるマドンナ・ペッレグリーナ・エ・サンティラリオ聖域教区教会です。


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教会前にバスターミナルがあります。


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この場所には、マルタ騎士団の古い病院がありましたが、1860年に取り壊されたそうです。


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1949年、当時のロヴィーゴ司教は、古い病院の跡地を聖域と定め、新教会の建設を決めました。


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そうして1951年に創建され、1957年に完成したのがマドンナ・ペッレグリーナ・エ・サンティラリオ聖域教区教会です。


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中に入りました。


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単廊式の現代的な内部です。


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装飾が殆どなく簡素です。


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右側壁


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天井


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注目すべき作品はこの一点だけ。


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チェントロ・ストーリコに向かいました。


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旧市街の入り口の目印となっている塔の先端が見えてきました。


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城壁(市壁)内に入りました。この街の市壁はその殆どが取り壊されました。


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城壁に築かれた監視塔、砦が僅かに残されてます。
写真左がTorre Dona、右がTorre Mozza(Torre Grimani)です。


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Torre Mozza


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高さ21.26mです。元々はTorre Donaと同じ高さだったと言われてます。


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ロヴィーゴの城壁は、1139年から1160年に築かれましたが、13世紀から14世紀にかけてエステ家によって拡張整備されました。


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Torre Dona


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高さが51.26mあります。


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Torre Donaの土台


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Torre Donaの入り口


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Torre Donaの窓


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エステ家支配の後、ロヴィーゴはヴェネツィア共和国領となりました。ヴェネツィア領時代になると、城壁の必要性は薄れていきました。


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(つづく)

1サン・フランチェスコ教会から外に出ました。


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サン・フランチェスコ教会の前にある病院です。


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15世紀に建設されたサント・スピリト修道院教会の複合施設です。修道院活動の一環として病院が設けられており、その病院が現在の病院の前身なので、ヴェッキオ病院と呼ばれてます。


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今なお現役?の病院ですが、建物の一部に博物館が設けられてます。


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病院の中庭です。元々は修道院のキオストロでした。


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キオストロ回廊に薬局があります。


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回廊にある銘板


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薬局の天井や壁にフレスコ画があります。


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これらのフレスコ画は、19世紀にジュリオ・チェーザレ・フェッラーリ(ボローニャ、1818-1899)によって描かれました。


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ヴェッキオ病院の博物館


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個人的には不気味な展示ばかりで、お勧めしません。


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サント・スピリト教会です。


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宗教活動はやっていないと思います。


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教会の入り口


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城壁(市壁)


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聖母子のテラコッタがある建物


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サン・ロレンツォ教会に向かいます。


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サン・ロレンツォ教会です。


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ファサード


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鐘楼


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入口扉上ルネッタにあるフレスコ画


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教会内に入りました。


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ローディでは最古の教会の一つです。


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城に向かいます。


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有名な門です。


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Castello Visconteo


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城の中には入れません。


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サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会


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この辺にしておきます。
(ローディ編 終わり)

1引き続きサン・フランチェスコ教会です。


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礼拝堂を回りながら、フレスコ画、祭壇画などを見ます。


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主祭壇


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贖いの聖母礼拝堂


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磔刑礼拝堂


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エネア・サルメッジャ通称イル・タルピーノ(ネンブロ、1565/1570‐ベルガモ、1626)の「聖痕を受ける聖フランチェスコ」


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ジョヴァンニ・バッティスタ・トロッティ通称イル・マロッゾ(クレモナ、1555-パルマ、1619)の「パドヴァの聖アントニオとエゼリーノ・ダ・ロマーノの邂逅」


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エネア・サルメッジャ通称タルピーノ(ネンブロ、1565/1570-ベルガモ、1626)の「聖母子」


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次の礼拝堂


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詳細不知


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フランチェスコ・ソンチーニ(ローディ、16世紀後半活動)


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聖フランチェスコ


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聖ボナヴェントゥーラ


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パドヴァの聖アントニオ


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聖バルトロメオ


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聖母子と聖ボナヴェントゥーラと信者


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聖母子


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聖母子


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聖母子


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聖母子


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聖母子


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聖痕を受ける聖フランチェスコ


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(つづく)

1市立博物館に入館する前に、サン・フィリッポ・ネリ教会を拝観としたときの続きです。


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セバスティアーノ・アレオッティ(フィレンツェ、1675-モンドヴィ、1741)の作品でしょうか?


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セバスティアーノ・アレオッティの作品がある筈ですが・・・・


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見つかりません。


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カルロ・インノチェンツォ・カルローニ(スカリア・ディンテルヴィ,1687-1775)によって描かれた後陣天井のフレスコ画


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カルロ・インノチェンツォ・カルローニのフレスコ画


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カルロ・インノチェンツォ・カルローニのフレスコ画


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カルロ・インノチェンツォ・カルローニのフレスコ画


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一旦外に出ました。


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市立博物館に入館しました。
この当時、写真禁止だったので作品写真がありません。今でも写真不可?


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フランチェスコ・アイエツ(ヴェネツィア、1791-ミラノ、1882)の自画像があるようですが、覚えていません。


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市立博物館から外に出ました。


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次はサン・フランチェスコ教会ですが、写真に写っている教会のような建物ではありません。


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修道院教会だった建物を利用した劇場です。こちらの方は外観は劇場に見えます。


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こちらは完全に教会の建物です。


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Teatro alle Vigneです。
サン・ジョヴァンニ・エ・オーニッサンティ・アッレ・ヴィンニェ修道院教会の複合施設が前身です。


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サン・ジョヴァンニ・エ・オーニッサンティ・アッレ・ヴィンニェ修道院教会は、1810年に閉鎖され、その建物は倉庫、体育館として活用されました。
一方、ローディの劇場は別の場所にありましたが、建物が劣化したので、1939年に取り壊されたそうです。その後、小さな演奏会場が市庁舎内に設けられたまでした。ローディ市民はミラノに行けば、高品質の演劇やオペラを楽しむことが出来たので、地元の劇場に対する関心が低かったようです。
1975年、修道院教会だった建物を改造して劇場を造ることが決定され、1976年に改造工事が開始され、1985年から公演が開始されたそうです。


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サン・フランチェスコ修道院だった建物にあるColleggio San Francescoです。保育園、幼稚園、小中学校、高校がある学校の複合施設です。学生のための寄宿舎もあるそうです。


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サン・フランチェスコ教会にやってきました。


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13世紀後半のローディ司教ボンジョヴァンニ・フィッシラガ(?、?‐ローディ、1289 ローディ司教の在位:1252-1289)の主導によって、1280年から1307年に建設されたゴシックロマネスク様式のサン・ニコロ教会が前身です。
ボンジョヴァンニ・フィッシラガ司教はローディの名門貴族フィッシラガ家出身だったことから、サン・ニコロ教会の建設と教会運営に当たって、フィッシラガ家が多大な寄付を行ったそうです。


21
1527年、フランチェスコ修道士会にサン・ニコロ教会の管理が委ねられ、教会名称がサン・フランチェスコ教会と変更されました。


22
しかし、教会の所有権はローディ司教が所有していました。今なお、ローディ司教が所有権を有する教会となってます。


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ファサード下に柱廊付きの入口扉があります。


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柱廊天井のフレスコ画


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ローディのサン・フランチェスコ教会は、イタリアの国定記念物に指定されてます。


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鐘楼


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鐘楼は、現在のColleggio San Francesco(修道院だった建物)の方に立ってます。


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翼廊外観


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拝観します。


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教会内に入りました。


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三廊式、ラテン十字形、ゴシックロマネスク様式の内部です。


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右側廊方向


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美術的な見所はフレスコ画でしょう。


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欠落しているフレスコ画が多いが、それでも、数多くのフレスコ画が残されてます。


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各フレスコ画断片毎の作品帰属はよく分かっていないようです。


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毎日開く教会なので、拝観しやいと思います。


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40
(つづく)

41引き続きインコロナータ教会です。


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次はオルガンです。


43
ルネサンス期の有名なオルガン師ドメニコ・ダ・ルッカによって1507年に制作されたオルガンがオリジナルです。


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オリジナルのオルガンは経時劣化してしまったので、1775年にオリジナルのリメイクされたオルガンが制作されました。現在はこのリメイクされたものが使用されてます。


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次の礼拝堂です。


46
ファルヴィオ・ピアッツァの「十字架降下」


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次の礼拝堂です。


48
有名な多翼祭壇画があります。


49
マルティーノ・ピアッツァ(ローディ、1475/1480-1533)とアルベルティーノ・ピアッツァ(ローディ、1490-1529)のピアッツァ兄弟による「Polittico Berrinzaghi」


50
先に紹介させて頂いたファルヴィオ・ピアッツァもピアッツァ兄弟の一人です。


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61
次は聖具室です。


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聖具室です。


55
内陣に戻りました。「聖パオロの召命」は既に紹介済みです。


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サン・ジョヴァンニ・バッティスタ礼拝堂です。


57
カッリスト・ピアッツァ(ローディ、1500-1561)の「聖ジョヴァンニ・バッティスタの斬首」


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59
カッリスト・ピアッツァ(ローディ、1500-1561)の「サロメ」


60
カッリスト・ピアッツァ(ローディ、1500-1561)の「キリストの十字架への釘打ち」


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フルヴィオ・ピアッツァの作品


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沢山の祭壇画があります。


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大体見終わりました。


65
美術ファンにとって必見の教会です。


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外に出ました。


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次は市立博物館です。


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アーチを潜ります。


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サン・フィリッポ・ネリ教会にやってきました。


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ここで良いのです。
市立博物館と図書館はフィリッポ・ネリ修道院だった建物にあるからです。博物館に入館する前に教会の拝観をします。


71
この場所には、サンタ・マリア・アッスンタ教区教会がありましたが、荒廃してしまったので、17世紀後半には放置された廃教会になっていました。
廃教会を取り壊して、建築家ジョヴァンニ・アントニオ・ヴェネローニ(パヴィア、1683/1686‐ブローニ,1749)の設計によって、1740年から1758年に建設されたロココ様式のサン・フィリッポ・ネリ修道院教会の複合施設です。


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しかし、ナポレオンのイタリア侵攻によって複合施設は抑圧閉鎖されてしまいました。ナポレオンの失脚後、教会のほうだけ活動が再開されましたが、修道院は閉鎖されたまま、倉庫などに転用されました。


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ファサードは、2008年に復元されました。


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ポータルの装飾


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教会内に入りました。


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単廊式、ギリシャ十字形、ロココ様式の内部です。


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壁がフレスコ画で覆われてます。


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ジュゼッペ・コドゥーリ通称イル・ヴィニョーリ(コモ、1720-1802)の「天上の聖母子と聖フィリッポ・ネリ」


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79
(つづく)

1次は鐘楼が見える教会です。


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Via Solferinoを進みます。


3


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聖母子のテラコッタ


5
インコロナータ教会にやってきました。


6
正式名称はTempio Civico della Beata Vergine Incoronataとなってます。インコロナータ聖域と呼ばれることもあります。


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ファサードが面している道幅が狭いので、ファサード全体の写真がうまく撮れません。


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教会の全景です。


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この場所には、ローディの売春婦たちに人気の酒場があり、酒場の壁に14世紀に描かれた戴冠した聖母に抱かれる幼きキリストとアレッサンドリアの聖カテリーナのフレスコ画がありました。
1487年10月7日の夜、大勢の売春婦を含む常連客が酒場で楽しんでいると、聖母が泣き始める奇跡が起きました。
それを目にした信者は聖母マリアに捧げられた新教会ッ建設を呼びかけました。


10
それを受けて、市当局と市の有力者は酒場だった場所に新教会建設を決定し、ベラマン手の弟子で地元の建築家ジョヴァンニ・バッタージョ・ダ・ローディ(ローディ、15世紀第4四半世紀‐15世紀初頭活動)が起用され、1488年5月29日に着工されました。奇跡を起こしたフレスコ画は新教会の主祭壇画として保存されることになりました。


11
当時のローディ司教は教会建設費用捻出に尽力したが、司教区管理下には拘泥せず、市当局所有の教会と言う立場を是認したそうです。


12
1494年に完成した八角形、ルネサンス様式の建物です。
1501年に奉献式が執り行われました。


13
ファサードの完成は遅くなり、1879年に完成しました。


14
鐘楼は1503年に完成しました。


16
ローディの建築家ロレンツォ・マッジの設計による鐘楼ですが、この建築家についての記録が殆ど残されていないようです。


15
ファサードの左横に入り口があります。


17
教会内に入りました。


18
主祭壇


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主祭壇画は、教会設立の切っ掛けとなった、奇跡を起こしたフレスコ画が残されてます。


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「聖母子とアレッサンドリアの聖カテリーナ」(14世紀)


21
奇跡を起こしたフレスコ画の制作者は不明とされてます。


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後陣のフレスコ画


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クーポラ


26
クーポラのフレスコ画は、エンリコ・カルロ・アウグスト・スクゥーリ(ベルガモ、1806-1884)によって、1840年に制作された「ローディの聖人たちの勝利」です。


27
スクゥーリのフレスコ画がクーポラに初めて描かれたものとは思えないのですが、如何でしょうか。


28
16世紀までにはクーポラのフレスコ画があって、落剝したので描き直されたような気がするのですが。


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美術的な見所豊富な教会として有名です。


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アンブロージョ・ダ・フォッサーノ通称イル・ベルゴニョーネ(フォッサーノ、1453-ミラノ、1522/1523)の「マギの礼拝」


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アンブロージョ・ダ・フォッサーノ通称イル・ベルゴニョーネ(フォッサーノ,1453-ミラノ、1522/1523)の「キリストの神殿奉献」


37
アンブロージョ・ダ・フォッサーノ通称イル・ベルゴニョーネ(フォッサーノ,1453-ミラノ、1522/1523)の「ご訪問」


38
サン・パオロ礼拝堂です。


39
カッリスト・ピアッツァ(ローディ、1500-1561)の「聖パオロの召命」


40
(つづく)

1ローディの中心であるヴィットリオ広場にある建物を見ます。


2
先ずは、ドゥオーモのファサードに向かって左側に隣接している建物です。


3
市庁舎です。


4
市庁舎の建物は、ブロレットと呼ばれてますが、1284年に建設されました。


13
幾度となく改修改造されましたが、1778年に改造された後の姿が現在の外観となってます。


5
ブロレットの上に紋章があります。


6
ローディの紋章です。


7
ブロレットの壁龕に置かれた胸像


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ブロレットの中庭


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銀行の建物です。


11
16世紀に建設されました。


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銀行の建物壁にある聖母子


12
広場に面した建物の殆どに柱廊が設けられてます。


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1922年から1923年に建設されたCasa Presazziです。


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建物の名前が分かりません(私が、です)。


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次はPalazzo Vistariniです。


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14世紀に建設されたPalazzo Vistariniです。


27
1698年に改造されて、従来の約半分の大きさになりました。現在の姿は、1698年の改造後のものです。


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Palazzo Vistariniの壁にあるものです。


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36
(つづく)

1引き続きローディのドゥオーモです。


2
「最後の審判」のフレスコ画(15世紀)


3
「嘆き」(16世紀)


4
「タルチショ・ヴィンチェンツォ・ベネデッティ司教の胸像」
ベネデッティ司教は、1952年から1979年までローディ司教を務めました。


5
ベネデッティ司教の銘板


6


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主祭壇


8
浮彫の一部


9
身廊の柱の彫刻


10
アダムとイヴ(身廊柱の彫刻)


11
靴職人ギルドの彫刻(身廊柱)


12
聖パシアーノ像


13
次はクリプタです。クリプタ入り口の壁にある「最後の晩餐」


14
クリプタ


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墓が多数あります。


16
クリプタに代々のローディ司教の墓があります。


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カノンの中庭の回廊に出ました。


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回廊天井


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回廊は1484年に建設されたそうです。


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回廊に置かれた墓石


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詳細不知


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中庭


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回廊の壁


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後陣


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ブロレットの通路


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ドゥオーモの右側壁に当たります。


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40
(つづく)

1引き続きドゥオーモです。


12
柱廊付きの入口扉です。


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入口扉上ルネッタの彫刻


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2
入口扉横の彫刻


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入口扉の柱頭


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扉の大理石彫刻


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柱頭


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入口扉の柱


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柱頭


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ライオン像


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聖堂内に入ります。


6
三廊式、ロマネスク様式の内部です。


7
右側廊方向


8
見所が多いと思います。


11
Presbiterio


9
Presbiterioのフレスコ画


10
カウンターファサード


40
(つづく)

1前泊地はミラノでした。


2
前夜、スカラ座でトスカを見たので、起床するのが辛かったのを覚えてます。


3
ローディは、人口44,692人(2022年9月30日現在)のロンバルディア州ローディ県の県都です。


4
ミラノ中央駅からローディに向かいます。


5
列車は頻発してます。


6
ローディは、イタリア史上、2つの出来事で有名です。
1454年、この地で結ばれた「ローディの和」が特に有名です。
中世の時代、イタリアは都市国家間で絶えず戦争に明け暮れていました。しかし、長く続いていた東ローマ帝国がオスマン帝国によって滅亡されると、オスマン帝国が都市国家共通の脅威と見做されるようになりました。最早都市国家間で争う時代ではなく、共同してオスマン帝国の脅威に対抗すべきと言う認識のもとに「ローディの和」が結ばれたのです。
ローディの和に参加したのは、フィレンツェのメディチ家、ヴェネツィア共和国、ヴァティカン、ミラノのスフォルツァ家、ナポリ王国の5か国でした。


8
車内は非常に空いてました。


9
ローディ駅に到着しました。


10
1796年5月10日、ナポレオン将軍に率いられたフランス軍がこの地でオーストリア軍を破った「ローディの戦い」でも有名です。


7
ローディの戦いを描いた絵画
フランス軍とオーストリア軍がローディで戦ったわけで、今なら相当な違和感がありますが当時では普通です。


11
ローディ駅の駅舎です。


12
この日のお宿は駅前のここです。


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大きな荷物をホテルに預けて、身軽になって街歩きに出発しました。


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ローディはチーズの名産地です。


15
カステッロ広場です。


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カステッロ広場の端に立つヴィットリオ・エマヌエーレ2世のモニュメント


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ヴィットリオ広場に向かいます。


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Corso Vittorio Emanuele 2


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街角の「聖母子と聖ジョヴァンニーノ」


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ヴィットリオ広場の入り口にやってきました。


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ヴィットリオ広場です。


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ローディのドゥオーモです。


23
正式名称は、Basilica Minore e Cattedrale della Vergine Assuntaとなってます。ローディ司教区の司教座教会です。
1970年、第262代教皇パオロ6世(1897-1978 在位:1963-1978)によってBasilica Minoreに格付けされました。


24
ローディのドゥオーモは、城壁外にありました。市域が拡大すると共に、街の中心が現在のドゥオーモが建っている場所に移動したので、新しいドゥオーモ建設が具体化したのです。


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城壁外にあった古いドゥオーモの残骸です。


28
古いドゥオーモ、サンタ・マリア・ヴェッキオ聖堂は5世紀に建設されました。司教座が現ドゥオーモに移転するまで司教座教会でした。
移転後も城壁外の最大教会として存続しましたが、1811年に活動が停止されました。建物が危険になったので、旧教会は1879年にダイナマイトで爆破されたそうです。


23
共和制ローマ時代の紀元前3世紀頃に建設された神殿の遺跡の上に、1158年から1284年に建設されたロマネスク様式の教会です。


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1284年に完成したファサードです。


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画家カッリスト・ピアッツァ(ローディ、1500-1554)の設計によって1538年から1554年に建設された鐘楼です。


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鐘楼の先端


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鐘楼の時計


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ファサードを見ます。


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中央扉


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中央扉上ルネッタの彫刻


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左右のライオン像


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バラ窓


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柱頭


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ファサードの彫刻


40
(つづく)

1チェントロ・ストーリコに戻りました。


2
市壁が撤去されたので、厳密には旧市街が分かりません。


3
カステッロに戻りました。


4


5
Piazza Castello


6
ピエタのキリストのタベルナコロがあります。


7
同じ道を歩いても詰まらないと思いますが、同じ道を歩いてしまいます。


8
煉瓦積みの建物はカステッロです。


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10
この道は既に通りました。


11
サンタ・マリア・ヌオーヴァ聖堂の鐘楼


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Corso Italia


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Corso Italiaの柱廊


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市庁舎に来てしまいました。


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駐車場とバスターミナルになっている広場です。


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アンノーニ通りに向かいます。


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Palazzo Annoniです。


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Palazzo Annoniは17世紀に建設されました。


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Palazzo Annoniの横を進みます。


24
晴れたり曇ったりの日でした。


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サン・ベルナルディーノ教会の鐘楼


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アーチの道を通りますが、その前にフレスコ画を見ます。


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アーチの前にある建物の壁にあるフレスコ画


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アーチを潜ります。


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市庁舎の前に出ました。


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大体見たようです。


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聖母子があります。


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日帰り遠足が終わりに近づいたようです。


34
カステッロを経由して鉄道駅に向かいます。


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カステッロです。


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カステッロ広場にスケートリンクが設けられてます。


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滑っている人はいないようです。


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写真左端にスケート場が写ってます。


40
尋ねたいことがあったので、もう一度観光案内所に行きました。


41
古いフレスコ画があります。


42
これです。


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駅に戻りました。


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(アッビアテグラッソ編 終わり)

1橋にやってきました。


2
橋の下には、中世の堀の名残の小さな川が流れてます。


3
Corso San Pietroです。


7
これを撮っておくと後で参考になります。


4
学校です。


5
「ベツレヘムの娘たち」と言う私立学校のようです。


6
通りの突き当りにサン・ピエトロ・アポストロ教会が建ってます。


8
ロンバルド時代の8世紀頃に建設された礼拝堂が前身のようです。


9
13世紀に礼拝堂が取り壊され、教会として再建されました。


28
現在の建物は、教会としての二代目となるもので、建築家フランチェスコ・クローチェ(ミラノ、1696-1773)の設計によって1753年に創建され、1763年に完成しました。


10
バロック様式の建物です。


11
修道院が併設されていましたが、18世紀に抑圧され閉鎖となりました。


12
簡素な造りと言えるでしょう。


12
修道院が併設されていました。


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鐘楼


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バロック様式の内部です。


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クーポラ


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チントラの聖母


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修道院だった建物?が映画館に転用されている?


21
街歩きを続けます。


22
サンタ・マリア・ヴェッキア教会です。


23
機能を停止した旧教会です。


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Corso XX Settembre


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Piazza Guglielmo Marconi


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ピザの遅い昼食を食べました。


30
昼食には遅い時間だったので、客は私一人だけでした。


31
履いている靴の防水機能がダメなので、運動靴を買わねばなりません。


32
堀だった場所は公園になってます。


33
こんな所に靴屋があるわけがない!


34
靴屋がようやく見つかりました。


35
運動靴を買いました。


36
靴に慣れるまで大変でした。


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街角のタベルナコロ


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適当に歩き続けました。


40
地図を見ないので市壁外に出てしまったようです。


39
(つづく)

1引き続きサンタ・マリア・ヌオーヴァ聖堂です。


2
ファサード柱廊天井のフレスコ画


3


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5
ファサード前に庭が広がり、回廊が庭を囲んでます。


6
銘板


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回廊の入り口


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聖堂内部


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三廊式、ラテン十字形、ルネサンス様式の内部です。


10
身廊天井の装飾


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回廊の壁にフレスコ画が残されてます。


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ユニークな構造をしているサンタ・マリア・ヌオーヴァ聖堂です。


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市庁舎手前に外壁にフレスコ画がある建物があります。


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18世紀に建設された建物ですが、特に名前がないようです。


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街歩きを続けます。


21
次は受胎告知修道院教会の複合施設です。


22
受胎告知教会です。


23
ミラノ公爵ガレアッツォ・マリア・スフォルツァ(フェルモ、1444-ミラノ、1,476)の命によって建設されました。修道院は1469年に創建され、1472年に完成したそうです。教会の方は1477年に完成し、同年に奉献式が執り行われました。


24
1810年に抑圧され、その後、宗教活動が再開されることがありませんでした。
抑圧後、修道院だった建物は病院に改造されました。
複合施設は、1997年にアッビアテグラッソ当局の所有となり、修復工事が行われ2007年に完成しました。現在、展示会、コンサート会場など多目的施設として使用されてます。


25
フレスコ画が残されてます。


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レオナルドスキ逸名画家によるフレスコ画(1519)


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かなり見所が豊富な街です。


30
この街で最古の柱廊と言われてます。


31
天井が木でできてます。20世紀に修復されたので、「最古」感がありません。


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Corso Italia


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市の塔が見えます。


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Corso Italiaを進みます。


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サンタ・マリア・ヴェッキア教会に向かいます。


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40
(つづく)

1ミラノ郊外には興味深い街が散らばっており見逃せませんが、アッビアテグラッソもそのうちの一つです。


2
売れるのでしょうか?


3
街の中心では柱廊が多くなります。


4
この通りの先にアッビアテグラッソの地下鉄駅があります。


5
グリエルモ・マルコーニ広場にやってきました。この広場が街の中心になります。


6
グリエルモ・マルコーニ(ボローニャ、1872‐ローマ、1,937)は、無線電話などを開発した発明家で、ノーベル物理学賞を受賞しています。この街とは無関係のようです。


7
単にイタリアの偉人ということで広場の名称になったもので、イタリアでは、このようなことはごく普通です。


8
マルコーニ広場に面して建つPalazzo Comunaleです。


9
市庁舎は17世紀に建設されました。


10
現在のファサードは18世紀に建設されたそうです。


11
市庁舎に立っている塔は、Torre del Comuneと呼ばれてます。


16
Torre del Comuneは、古い中世の塔を17世紀に市庁舎に組み入れられたそうです。


12
市庁舎の建物と塔の境目に1623と刻まれているそうです。1623年に中世の塔が市庁舎に一体化されたそうです。


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市庁舎のファサード下の柱廊


13
市庁舎近くに2つの教会があります。


18
サン・ベルナルディーノ教会に向かいます。


19
Chiesa di San Bernardino da Sienaです。


20
シエナの聖ベルナルディーノ(マッサマリッティマ、1380‐ラクイラ,1444)は、1431年にアッビアテグラッソに来て、説教をこないましたが、それに感銘を受けた信者などによって15世紀に建設された教会です。


21
現在の建物は、17世紀前半に再建された二代目となるものです。


22
再建は、当初、建築家アレッサンドロ・マゼンタ(ミラノ、1566-1630)の設計によって1614年に創建されましたが、多忙のためにフランチェスコ・マリア・リチーニに引き継がれ、1631年に完成したそうです。


27
ファサードは、フランチェスコ・マリア・リチーニの設計によるものです。


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ファサードの彫刻


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1717年に建設された鐘楼です。


29
扉が閉まっていることが多い教会です。


30
写真右に別の教会が写ってます。


31
サンタ・マリア・ヌオーヴァ聖堂です。


32
1962年、第261代教皇ジョヴァンニ23世(ヨハネ23世)(ベルガモ、1881‐ローマ、1963 教皇在位:1958-1963)によってBasilica Minoreに格付けされた、この街で最も格式が高い教会です。地元の人はドゥオーモと呼んでいないようです。


33
ミラノ公爵ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ(パヴィア、1351‐メレニャーノ、1402)の指示によって1388年に建設されました。


34
ファサード上部は、ドナート・ブラマンテ(ウルバニア、1444‐ローマ、1514)の設計によると言われてます。


35
ファサードの左右にある柱廊が特徴です。


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鐘楼


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後陣


38
写真左がサンタ・マリア・ヌオーヴァ聖堂、道路を挟んで右側の建物がサン・ベルナルディーノ教会。道路の突き当りが市役所です。
(つづく)

1この時、ミラノに泊まっていました。ミラノからアッビアテグラッソへの日帰り遠足です。


2
ミラノ中央駅からアッビアテグラッソへのFS直通列車はありません。


3
地下鉄でミラノ・ポルタ・ジェノヴァ駅に到着しました。


4
ミラノ・ポルタ・ジェノヴァ駅出発の列車は汚いことで有名です。


34
意外にも車内は改装されて新しくなっていました。


5
アッビアテグラッソ駅に到着しました。


6
アッビアテグラッソは、人口32,681人(2021年12月31日現在)のロンバルディア州ミラノ県にあるコムーネです。


7
アッビアテグラッソ鉄道駅の駅舎です。


8
駅前広場


9
駅前横に立つガリバルディ将軍像


10
大部分埋め立てられた城を囲む堀があります。


11
先ずカステッロを見ます。


12
写真右にカステッロの入り口があります。


13
Castello Visconteoです。


14
11世紀にミラノ大司教アリベルト・ダ・インティミアーノ(インティミアーノ、970/980-ミラノ、1045)が築いた城が前身と言われてます。


15
1167年、アッビアテグラッソに攻撃を加えた神聖ローマ皇帝フェデリーコ・バルバロッサ(フリードリヒ1世)(ハーゲナウ、1122-キリキア、アルメニア、1190)によって城は破壊され、アッビアテグラッソは征服されてしまいました。


16
フェデリーコ・バルバロッサ皇帝の死後、アッビアテグラッソはコルベッタ教区教会(ミラノ公国)領となりました。
1339年、ヴィスコンティ家の当主ジョヴァンニ・ヴィスコンティ(ミラノ、1290c-1354)がミラノ大司教になると、アッビアテグラッソはヴィスコンティ家の領地となり、同家によって城が修復されました。
1381年、ミラノ公ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ(パヴィア、1351‐メレニャーノ、1402)は軍事要塞の城から住居用に転用することにして、改造修復工事に着手しました。
1438年、ミラノ公フィリッポ・マリア・ヴィスコンティ(ミラノ、1392‐1447)によって城の装飾が開始されたそうです。


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城の入り口


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中に入りました。


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市立図書館と観光案内所があります。


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キオストロの外壁に残されたフレスコ画


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1523年、ミラノ公フランチェスコ2世・スフォルツァ(ミラノ、1495‐ヴィジェーヴァノ、1535)は自分の忠臣でミラノ貴族のピエトロ・プステリアに対してアッビアテグラッソの半分の領地と城を与えたのです。


27
しかし、その10年後の1533年、イタリアに攻め入ってきたカール5世(1500‐1558)率いるスペイン軍によってアッビアテグラッソは占領され、以後、スペイン領となりました。


30
1668年、ミラノに侵攻してきたフランス軍によって城が占拠され、フランス軍の駐屯地になることを恐れた当局によって城は破壊されてしまいました。


31
破壊された城の遺跡は個人の住居に転用されていましたが、1865年に当時の持ち主がアッビアテグラッソ市に寄贈しました。
1995年から本格的な修復工事が始まり、今の姿になりました。


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アーチのフレスコ画


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中世時代の姿とは、かなりかけ離れていると言われてます。


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カステッロから外に出ました。


36
ミラノのベッドタウンなので、日中の人通りが少ない街です。


37


38
城壁は残されていないようです。


39
街の中心に向かいます。


40
(つづく)

1丘の下に下ります。


2
ヴェネツィアの統治下に置かれるようになると、住民は次第に安全性を謳歌するようになって町の中心が丘上から丘下に移ったそうです。


3
丘下です。


4
サン・ルイージ教会だった建物です。


5
現在、Cinema Coralloと言う映画館になってます。教会だった建物が映画館に転用されているのを、イタリアではよく見かけます。


6
トルトリーニ通りです。


7
トルトリーニ通りに面して、サント・ステファノ教会が建ってます。


8
13世紀から14世紀に建設されたサント・ステファノ修道院教会の教会です。修道院はナポレオンのイタリア侵攻に伴って抑圧され閉鎖されてしまいました。教会の方は細々と活動が続けられていましたが、1810年に閉鎖されました。


9
教会としての機能停止後、兵舎として使用されていました。その後、モンセリーチェの自治体の所有となり、倉庫として使用されていました。


10
2017年になって漸く修復工事が行われるようになりました。教会閉鎖から200年間、ほとんど放置されていたので、痛みが相当あると言われてます。


11


12
次はサンタ・ローザ教会です。


13
門の手前にサンタ・ローザ教会があります。


14
1683年、ドメニコ会によって建設されたサンタ・ローザ教会です。


15
通りを挟んでファサード前に、ヴェネツィア貴族のベンボ家の別荘が建っていました。そのため、ベンボ家が教会に対して多額の寄付を行ったそうです。


16
中に入りました。


17
単廊式、バロック様式の内部です。


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翼廊がなく、単純な構造をしています。


19
この教会の祭壇画などについては全く知りません。


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主祭壇画


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Porta di Sacro Riposoです。


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門を潜りました。


25
次は新ドゥオーモ Duomo Nuovoです。


26
ドゥオーモに行く前にサン・マルコ広場にあるBar Sportで一休みしました。


27
サン・ジュゼッペ・オペライオ教区教会、モンセリーチェの新ドゥオーモです。


28
1950年から1957年に建設された新しい教会です。


29
建物は新しいドゥオーモですが、モンセリーチェの古い教会から集められた作品が祭壇画として使用されており、さながらMuseo Diocesanoのようです。美術的な見所が多い教会です。


30
ローマ通りです。


31
次は市の塔です。


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33
振り返ると新ドゥオーモが見えました。


34
市の塔です。


35
市の塔は1239年に建設されました。


36
大体見終わったようです。


37
市壁(城壁)を見ながら運河沿いの道を進みます。


38
鉄道駅に向かいました。


39
日帰り遠足に最適なモンセリーチェでした。


40
結構歩き疲れました。


41
(おわり)

1引き続きドゥオーモ・ヴェッキオです。


2
17世紀のヴェネツィア派逸名画家作「十字架降下」


3
この作品はヤコポ・バッサーノ作品のコピー画です。


4
マッティア・ボルトローニ(カンダ・ディ・ロヴィーゴ、1696-モンドヴィ、1750)の「磔刑」


5


6
後陣


7
ジャンバッティスタ・クロサート(トレヴィーゾ、1697-ヴェネツィア、1758)の「聖ジュゼッペの死」


8


9


10
フランチェスコ・ブリオーニ(ヴェネトで18世紀活動)の「聖ピエトロ](1730c)


11


12
フランチェスコ・ブリオーニ(ヴェネトで18世紀活動)の「聖パオロ](1730c)


13


14
16世紀のヴェネトの逸名画家作「永遠なる父」


15


16
17世紀のヴェネツィアの逸名画家作「聖ジュゼッペとファラオの夢」


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カウンターファサード


19
外に出ました。


20
次は聖域です。


21
聖域はドゥオーモ・ヴェッキオよりも少し高い場所にあります。


22
ドゥオーモ・ヴェッキオ後陣の左を進みます。


23
聖域の入り口です。


24
Santuario Giubilare della Sette Chieseが正式名称です。


25
聖域の入り口前から見たモンセリーチェの町です。


26
聖域内に入りました。写真左に小さな礼拝堂が6つ建ってます。6番目の礼拝堂が7番目の礼拝堂を兼ねており、7つの教会と称します。
6つの礼拝堂が建っている場所は、ロッカの丘の斜面に当たります。写真の道路の先にヴィッラと教会がありますが、その場所には古いサン・ジョルジョ教会がありました。
16世紀第4四半世紀、ヴェネツィア貴族デュオド家のフランチェスコとドメニコの兄弟がロッカの丘斜面と荒廃したサン・ジョルジョ教会を購入しました。その場所に別荘と私有教会を建設するためとされてます。
土地を購入した直後から、ヴィッラの建設が建築家ヴィンチェンツォ・スカモッツィ(ヴィチェンツァ、1548-ヴェネツィア、1616)の設計によって始まったそうです。
1592年、第231代教皇クレメンテ8世(ファーノ、1536-ローマ、1605 教皇在位:1592-1605)は荒廃したサン・ジョルジョ教会を取り壊し、その上にデュオド家の私立教会建設を許可しました。


27
ヴィッラと私立のサン・ジョルジョ・マルティーレ教会です。
サン・ジョルジョ・マルティーレ教会は、建築家ヴィンチェンツォ・スカモッツィの設計によって1592年に創建され、1597年に完成しました。


28
6つの礼拝堂は、ヴィンチェンツォ・スカモッツィの設計によって、1605年から1615年に建設されました。6つの礼拝堂の祭壇画を見ます。


29
サンタ・マリア・マッジョーレ礼拝堂の祭壇画


30
サン・ジョヴァンニ・バッティスタ礼拝堂の祭壇画


31
聖十字架礼拝堂の祭壇画


32
サン・ロレンツォ礼拝堂の祭壇画


33
サン・セバスティアーノ礼拝堂の祭壇画


34
サンティ・ピエトロ・エ・パオロ礼拝堂の祭壇画
この礼拝堂が6番目と7番目を兼ねてます。


35
ヴィッラと私立教会に向かいます。


36
サン・ジョルジョ・マルティーレ教会です。今も私立教会のようで、簡単に中に入ることが出来ないようです。


37
デュオド家のヴィッラ


38
聖域には巡礼路が設けられてますが、巡礼路の扉が閉まっていました。


39
巡礼路です。


40
道を下ります。
(つづく)

40次はサンタ・ジュスティーナ教区教会です。


2
1957年、モンセリーチェの新しいドゥオーモとしてサン・ジュゼッペ・オペライオ教区教会が建設され、奉献されましたが、それまでは、このサンタ・ジュスティーナ教区教会がモンセリーチェのドゥオーモでした。


3
そのため、ドゥオーモ・ヴェッキオと呼ばれてます。


4
先史時代に遡るモンセリーチェですが、6世紀から8世紀にかけて、侵略や洪水の脅威から逃れるために、丘の斜面に定住するようになった住民によって建設された小さな教会が前身です。


5
人口の増加と建物の経時劣化に対応するために、1122年に建物の再建が決定され、二番目の建物が1155年に完成し、奉献式が執り行われたそうです。最初の建物と二番目の建物は現在地よりも少し下にあったようです。


6
1239年、イタリア王を兼ねる神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世(イエージ、1194-トッレ・マッジョーレ、1250)がモンセリーチェにやってきて、要塞と町の中心を堅固な城壁で囲むことを決めました。それに伴い二番目の教区教会は取り壊され、現在地に新しいサンタ・ジュスティーナ教区教会が建設されることになりました。
1256年に完成したロマネスク様式の建物が現在の姿の原形となってます。


9
後陣


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11


12
後陣前にライオン像があります。


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14


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左右のライオン像


15
鐘楼


7
ファサードの入り口上ルネッタに描かれたフレスコ画「聖母子と聖サビーノと聖ジュスティーナ」(詳細不明)
聖サビーノはモンセリーチェの守護聖人です。


8
ファサードの柱廊


17
中に入りました。


18
左側壁
単廊式、ロマネスク様式の内部です。


19
右側壁


20
翼廊はありません。


21
Domenico Finaciの「十字架降下」(18世紀)


22
Domenico Finaciと言う画家については全く知りません。


23
バルトロメオ・リッテリーニ(ヴェネツィア、1669-1731)の「キリストの神殿奉献」(1774)


24
バルトロメオ・リッテリーニの署名と制作年が記されてます。


25
Lodovico Vernasal(パドヴァで1713-1729活動記録)の「マギの礼拝」


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27
Lodovico Vernasal(パドヴァで1713-1729活動記録)の「羊飼いの礼拝」


28


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制作者情報等詳細不知の「チントラの聖母」


30
Presbiterio


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後陣右の礼拝堂


32
Presbiterioの多翼祭壇画


33
15世紀のヴェネツィア派逸名画家作「サンタ・ジュスティーナの多翼祭壇画」


34
14世紀前半にヴェネツィア派逸名画家によって描かれた中央礼拝堂左側壁に残るフレスコ画


35
中央礼拝堂右側壁のフレスコ画


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40
後陣左の礼拝堂
15世紀のヴェネツィア派逸名画家作「授乳の聖母」


38
17世紀のヴェネツィア逸名画家作「聖ジョヴァンニ・バッティスタの誕生」


39
(つづく)

1マッツィーニ広場です。


2
旧サン・パオロ教会が広場の端に建ってます。


3
ロッカの丘は雲の中でした。


4
マッツィーニ広場に立つ時計塔です。


5
マッツィーニ広場が町の中心に当たります。


6
次はカステッロです。


7
モンセリーチェ城 Castello da Monseliceです。


8
11世紀から14世紀に建設されたモンセリーチェ城です。


9
城は主な四つの建物と要塞から成ってます。


10
モンセリーチェは、1405年にヴェネツィア共和国領になりました。ヴェネツィア領になってから間もなく、城はヴェネツィア貴族のマルチェッロ家の所有となりました。


11
15世紀末、マルチェッロ家は住宅への改造工事を行い、現在の姿の原形になりました。


12
エゼリーノの塔と呼ばれている建物です。


13
第一次大戦において、城はイギリス軍に接収され、1919年に破壊されてしまいました。


14
エゼリーノの塔にある紋章の浮彫


20
城の前に置かれたライオン像


32
1933年、モンセリーチェ伯爵でイタリア王国上院議員で大臣を務めたヴィットリオ・チーニ伯爵は、破壊された城を買収したのです。破壊された城を復元して元の姿に戻す計画を持っていました。


33
1935年から復元工事が行われ、1942年に完成した複合施設が現在の姿です。


34
ほぼ元の姿に戻されたと言われてます。
チーニ伯爵に因んで、別名チーニ城と呼ばれてます。


15
写真左の建物は、城を構成する四つの建物のうちの一つです。


16
現在、この建物は図書館と博物館になってます。


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Museo della Raritaです。


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城内にある礼拝堂です。


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城らしく見える場所から撮った写真です。


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この辺は高い城壁に囲まれてます。


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道を下ります。


27
下り道から振り返って撮った写真です。


31
邸宅に改造されたので、堅固な城とは異なる雰囲気があります。


35
下り道の途中で近代的なドゥオーモが見えました。


36
さらに道を下ります。


37
ツタが絡まった家


38
下り道の左に階段があります。


39
階段の先に聖域 Santuarioがありますが、そこに行くのは後回しにして重要な教会の拝観を先にします。


40
写真の教会の拝観を先にします。
(つづく)

1この日はパドヴァに泊まっていました。


2
パドヴァからモンセリーチェへの日帰り遠足です。


3
鉄道でモンセリーチェ駅に向かいました。車内は非常に空いてました。


4
モンセリーチェ駅に到着しました。


5
モンセリーチェ駅の駅舎です。


6
モンセリーチェは、人口17,330人(2021年8月31日現在)のヴェネト州パドヴァ県にあるコムーネです。


7
鉄道駅からトレント・トリエステ通りを少し進むと、直ぐに教会が見えてきます。


8
この辺は城壁(市壁)外に当たります。


9
マドンナ・デル・カルミネ教会です。単にカルミネ教会と呼ばれることが多いようです。


10
建設された年が明らかになっていませんが、1421年の司教区の文書にこの教会の存在が初めて記載されたそうです。1421年以前に存在したカルメル会修道院の隣に建設された教会と記されているそうです。


11
鐘楼


12
ファサード側のメイン扉


13
サイドポータルだった場所。


14
1652年、隣接するカルメル会修道院が閉鎖されましたが、その数年後、教会は火災に遭い消失sh他ので、再建され1791年に完成した新古典様式の二代目の建物が現在の姿の原形となってます。


15
1953年に宗教活動が停止された旧教会となってます。


16
町の中心を目指して進みます。


17
ビサット運河 Canale Bisattoです。


18
運河の横に城壁(市壁)があります。


19
ビサット運河は、1175年から1318年に存在していたパドヴァ共和国によって、1209年から1314年に掘削されて完成したそうです。


20
商業面と軍事面で重要な運河でした。


21
モンセリーチェは、五重の城壁に囲まれた堅固な要塞都市として知られていました。


22
運河沿いの城壁は、五重の城壁のうち、もっとも外側に当たります。


23
カステッロがロッカの丘上にあります。


24
市壁内に入りました。この辺はチェントロ・ストーリコの入り口に当たります。


25
モンセリーチェの歴史は古く、既に先史時代に集落があったそうです。


26
この町が要塞都市になったのは、ビザンチン帝国がロッカの丘に初めて要塞を築いた5,6世紀と言われてます。


27
1405年、モンセリーチェはヴェネツィア共和国領になりましたが、それ以降、軍事的重要性が薄められ、ヴェネツィア貴族のヴィッラが建設される保養的色彩が強い町に転じました。


28
旧サン・パオロ教会です。


29
7世紀頃に建設された町で最古の教会の一つでした。


30
その後、幾度となく改築、改修が繰り返されたそうです。


31
町の中心にあったので、信者が多い教会でした。


32
鐘楼は三代目となるものです。


33
現在の鐘楼は、三代目となるのもので、19世紀末に再建されました。


34
1836年、サン・パオロ教会に隣接して市庁舎が建設されました。市庁舎の隣にある教会だったので、増築してドゥオーモにする計画が持ち上がりましたが、ドゥオーモは別の場所に新築されることになり、サン・パオロ教会の地位は急速に衰えました。


35
1965年から1966年に隣にあった市庁舎の建物が取り壊されましたが、それと共に教会は活動が停止されてしまいました。1956年、サン・パオロ教会だった建物はモンセリーチェ自治体の売却されました。


36
建物は暫く放置されましたが、20世紀末に建物が博物館として再出発することが決定され、大掛かりな改造工事を経て、Museo San Paoloが2001年にオープンしたのです。
写真はMuseoの入り口です。


37
Museo San Paoloの実態は考古学博物館です。


38
先史時代、ローマ時代の遺跡からの出土品が展示の中心です。


39
考古学博物館の展示はどこでも似たり寄ったりです。


40
(つづく)

1洗礼堂のフレスコ画です。


2
ジョヴァンニ・デ・カンポ(ノヴァーラなどで1440-1483活動記録)の「最後の審判」(1450c)


3


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6
落剝している箇所


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モラッツォーネの追随者によるフレスコ画


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騎馬の男の下の女性だけは違う画家の作品です。


11
騎馬の男の女性は、ピエル・フランチェスコ・ジャノーリ(カンペルトーニョ、1624-ミラノ、1692)によって1665年頃描かれました。


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モラッツォーネの追随者によって描かれたフレスコ画


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次は博物館です。


18
こちらから入ります。


19
中庭に出ました。


20
中庭を囲む柱廊


21
この先に司教館があります。


22
司教館の一部と回廊が博物館になってます。


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初期キリスト教会だったころの浮彫


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27
ドゥオーモは、これで終わりです。


28
外に出ました。


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サン・ジョヴァンニ・バッティスタ教会です。


30
1635年から1643年に建設されました。


31
主に死刑判決を受けた人たちのための教会です。


32
ブロレットにやってきました。


33
ブロレットは幾つかの建物の集合体です。


34
アレンゴ宮です。


35
ブロレットは主に刑務所でした。今は近代美術館があります。


36
近代美術館の館内のフレスコ画


37
近代美術館の展示


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39
Palazzo del Governoです。


40
Palazzo del Governoに時計塔があります。


41
見所が豊富な街です。


42
(おわり)

1引き続きノヴァーラのドゥオーモです。


2
フィリッポ・アッビアーティ(ミラノ、1640-1715)とメルキオッレ・ゲラルディーニ(ミラノ、1607-1668)によって1684年から1692年に描かれた「キリストの物語」が左右のコリント式列柱の間に掲げられてます。


3
右側


4
右側廊


5
左側廊


20
アダムとイヴのモザイクは最初の建物にあったものです。


22
二代目の建物の礼拝堂が残されてます。


23


24
この礼拝堂は通常公開されていないようです。必見の祭壇画があります。


6
ジュゼッペ・ルスナティ(ガララーテ、1650-ミラノ、1713)の「ノヴァーラ司教」


7


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聖堂内は大体見終わりました。


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聖堂内からファサード前に出ます。


12
ファサード前に出ました。


13
ファサード側の中央扉


14
次は洗礼堂です。


15
洗礼堂はファサードに向かって右側の柱廊奥にあります。


21
ファサード前から洗礼堂の全体を見ることが出来ません。


40
煉瓦積みの洗礼堂です。


25
初期キリスト教会の洗礼堂は、4世紀後半から5世紀前半に建設されたそうです。その土台が現存しています。


26
ティブリオとクーポラが11世紀に増設されて現在の姿の原形となったそうです。


27
柱廊途中に設けられた洗礼堂の入り口です。


28
洗礼堂の中に入ります。


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初期キリスト教会時代の洗礼堂土台


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ローマ時代の骨壺が置かれてます。


33
内部は八角形になってます。


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フレスコ画が残されてます。


37
クーポラのフレスコ画の痕跡


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19
(つづく)

1引き続きノヴァーラのドゥオーモです。


2
次の礼拝堂です。


3
サン・ガエターノ礼拝堂です。


4
ガウデンツィオ・フェッラーリ(ヴァルドゥッジャ、1475/1480-ミラノ、1546)の「最後の晩餐」(1525c)


5


6
一部にスぺリンド・カニョーラの作品、またはスぺリンド・カニョーラがガウデンツィオ・フェッラーリに協力したという説があるようです。


7
次の礼拝堂です。


8
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエの祭壇です。
礼拝堂ではなく、一般的に祭壇と呼ばれてます。


9
ノヴァーラの逸名画家作「聖母子」(15世紀末‐16世紀初頭)


10


11
ルネッタの「父なる神」の制作者情報等の詳細が不明です。


12
聖ジローラモ?


13
詳細不知


14
カッリスト・ピアッツァ(ローディ、1500-1561)の「磔刑」


38
この作品の帰属については別説が幾つかあるようです。


15
後陣の磔刑像


18
詳細不知


16


17
ヴィターレ・サーラ通称イル・サレッタ(チェルヌスコ・ロンバルドーネ,1803-ミラノ、1835)の「聖母戴冠」


20


21
Presbiterio


22
制作者情報等不知の「チントラの聖母」


23
フィリッポ・アッビアーティ(ミラノ、1640-1715)とメルキオッレ・ゲラルディーニ(ミラノ、1607-1668)によって、1684年から1692年に制作された「キリストの物語」が聖堂内に掲げられてます。
場面毎にアッビアーティかゲラルディーニのどちらかによって描かれたようで、二人によって描かれた場面はないと言われてます。
これは「最後の晩餐」です。


24
フィリッポ・アッビアーティ(ミラノ、1640-1715)またはメルキオッレ・ゲラルディーニ(ミラノ、1607-1692)の「キリストのエルサレム入城](1684-92)


25
説教壇


26
説教壇


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説教壇


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説教壇


29
サン・アガビオ礼拝堂です。


30
イグナツィオ・コッリーノ(トリノ、1724-1793)の彫刻


31
ベルナルディーノ・ラニーノ(モルタラ、1512-ヴェルチェッリ,1578)の「磔刑」


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19
フィリッポ・アッビアーティとメルキオッレ・ゲラルディーニの「キリストの物語」


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40
(つづく)

1写真左がドゥオーモです。


2
ノヴァーラ司教区のサンタ・マリア・アッスンタ司教座教会です。


3
この場所には、ローマ時代に建設された、ローマ神話の主神ユピテルを祀る神殿がありましたが、4世紀後半にその神殿の建物の一部を利用して建設された初期キリスト教会のサンタ・マリア教会が前身です。5世紀に何度か改造され拡大されました。


4
最初の建物が経時劣化したので、11世紀から12世紀に取り壊され、ロマネスク様式の建物が建設されました。1132年、再建された二代目の建物の奉献式が執り行われたそうです。


5
二代目の建物の教会は、15世紀に大改修され、さらに16世紀に改造増築されました。18世紀にバロック様式に改修されましたが、改修工事中に建物の経時劣化がかなり進んでいることが判明したそうです。


6
それを受けて、バロック様式への改修工事が中断され、再建計画が持ち上がりました。再建計画は、建築家ベネデット・アルフィエーリ(ローマ、1699-トリノ,1767)に委嘱され、1754年にアルフィエーリから設計書が提示されたのですが、何故か工事が着手されず、計画が頓挫してしまいました。


7
しかし、再建の必要性が変わることはなく、19世紀中頃、建築家アレッサンドロ・アントネッリ(ゲンメ、1798-トリノ、1888)が起用され、1854年にアントネッリから建設計画書が提出されました。
その計画に基づき、1857年から1869年に建設された新古典様式の三代目の建物が現在の姿の原形となってます。1869年、三代目の建物の奉献式が執り行われたそうです。


8
ロマネスク様式の鐘楼は、2009年にその上部が完成しました。


9
新古典様式のファサード


10
左側壁の柱廊が特徴です。


11
聖堂内に入りました。


12
三廊式、ラテン十字形、新古典様式の内部です。


13
コリント式列柱が目立ちます。


14
美術的な見所が豊富です。


15
ルネサンス期の作品が残されてます。


16
Presbiterioの左右にオルガンが設置されてます。


17
建物は新しいですが、多くの礼拝堂祭壇は二代目の建物のものが残されてます。


18
ティツィアーノの祭壇画の傑作があったのですが、失火のために焼失したそうです。


19
各礼拝堂の祭壇画などを見て回ります。


20
ノヴァーラ司教にドゥオーモ建設を認可する教皇


21
制作者情報不知


22
左側廊礼拝堂


23
祭壇画不知


24
アレッサンドリアの聖カテリーナ礼拝堂です。


25
ガウデンツィオ・フェッラーリ(ヴァルドゥッジャ、1475/1480-ミラノ、1546)の「アレッサンドリアの聖カテリーナの神秘な結婚」(1527c)


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28


29
磔刑礼拝堂です。


31
ベルナルディーノ・ラニーノ(モルタラ、1512-ヴェルチェッリ、1578)の「磔刑と聖人たち(聖マリア・マッダレーナ、聖ガウデンツィオ、聖ベネデット)」


32


39


33
ボケ写真ですいません。


34
グエルチーノ(チェント、1591-ボローニャ、1666)の「聖痕を受ける聖フランチェスコ」


35
次の礼拝堂です。


36
サン・ジュゼッペ礼拝堂です。


37
ジュゼッペ・ヌヴォローネ(サン・ジミニャーノ、1619-ミラノ、1703)の「聖母子と聖人たち」


38
パンフィーロ・ヌヴォローネの息子がジュゼッペ・ヌヴォローネです。


40
(つづく)

1次はサン・マルコ教会です。


2
聖カルロ・ボッロメーオの弟子で、ノヴァーラ司教のカルロ・バスケ(メレニャーノ、1550-ノヴァーラ,1615)の要請によってサン・マルコ教会建設計画が具現化することになったそうです。


3
ミラノの建築家ロレンツォ・ビナーゴ(ミラノ、1554-1629)に委嘱され、ビナーゴの設計と建設工事監督によって1607年から1691年に建設されたバロック様式のサン・マルコ教会です。


4
現在、教会が建っている場所には小さなサン・マルキーノ祈祷所(オラトリオ)があったそうです。


5
サン・マルコ教会の建設資材は、城壁外にあってカルロ5世の命令によって破壊されたサン・ロレンツォ修道院教会の残骸が使用されたそうです。


6
1634年に教会に併設して修道院が建設されましたが、サン・マルコ修道院だった建物はイタリア銀行になってます。


7
途中、資金難のために工事が進まず、完成したのは創建から80年以上あとの1691年でした。同年、奉献式が執り行われました。


8
中央扉だけが開きます。


9
単廊式、バロック様式の内部です。


10
左側壁です。
中堅画家の作品があるので、美術的に楽しめます。


11
Presbiterio


12
後陣天井フレスコ画は、グリエルモ・カッチャ通称モンカルヴォ(モンタボーネ、1568-モンカルヴォ、1625)によって描かれました。


13
グリエルモ・カッチャ通称モンカルヴォ(モンタボーネ、1568-モンカルヴォ、1625)の「父なる神」


14


15
主祭壇の彫刻


16
詳細不知の「聖心」


17
カミッロ・プロカッチーニ(パルマ、1561-ミラノ、1629)の「十字架の提示」


18
ダニエーレ・クレスピ(ブスト・アルシツィオ、1597/1600-ミラノ,1630)の「聖マルコの殉教](1626)


19
ダニエーレ・クレスピ(ブスト・アルシツィオ、1597/1600-ミラノ、1630)の「馬に乗った兵士に引きずられる聖マルコ](1626)


20
カウンターファサードにあるオルガン


21
ノヴァーラ城横にあるマルティーリ・デッラ・リベルタ広場です。


22
ヴィスコンティ城(ノヴァーラ城)にやってきました。


23
城が建てられた場所には古代ローマに築かれた城壁があり、城壁を利用して砦が築かれたそうです。砦が築かれた時期は不明とされてます。


24
951年からイタリア王だったザクセン王オットー1世(ヴァルハウゼン,912-メムレーベン,971)の969年の文書にノヴァーラ城の存在が記されているそうですが、その城がヴィスコンティ城の前身かどうかは不明とされているそうです。


25
1272年、ノヴァーラの支配者だったフランチェスコ・デッラ・トーレが古代ローマ時代の城壁を利用して城塞を築きましたが、これがノヴァーラ城の最初の確実な記録とされてます。


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1293年、城はヴィスコンティ家に譲渡され、当時のヴィスコンティ家の当主マッテオ1世・ヴィスコンティ(1250-1322)は、要塞の拡大整備に乗り出したそうです。
マッテオ1世の末息子のジョヴァンニ・ヴィスコンティによって城が完成しました。


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ヴィスコンティ家最後のミラノ公フィリッポ・マリア・ヴィスコンティ(ミラノ,1392-1447)が1447年に没すると、ミラノ公爵はスフォルツァ家に引き継がれました。ガレアッツォ・マリア・スフォルツァ公爵、さらにイル・モーロによって重要な軍事拠点としての城の強化が図られました。


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17世紀まで、ノヴァーラを支配したスペイン人はヴィスコンティ城の軍事的重要性を継続しましたが、サヴォイア家が支配する18世紀になると、軍事的な重要性の低下によって城は公共の公園として開放されるようになりました。


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城の入り口です。


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19世紀になると、堅固な城は刑務所として最適な建物と見做されて改造されました。1973年に他の場所に移転するまで刑務所でした。


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公園になっている場所


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公園にある乗り物


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公園からの景観


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マルティーリ・デッラ・リベルタ広場です。


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写真右の建物はオペラ劇場です。


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40
(つづく)

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