イタリア芸術を楽しむ

イタリアの魅力を味わい尽くすには、一生に何度旅をすれば足りるだろう。芸術の宝庫にして、歴史の生きた証であるイタリア。 惹き付けて止まない絵画、彫刻、歴史的建造物、オペラなど、芸術の宝庫であるイタリアを楽しむブログです。 記事は一日に一つアップしています。記事の見方ですが、例えば「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その4)」は2017年10月20日にアップしました。各記事にカレンダーが表示されてますが、カレンダー上の2017年10月21日をクリックして頂ければ「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その5)」になります。(その3)は2017年10月20日となります。 BY:シニョレッリ

2023年06月

足跡を辿って 6.マダマ宮殿以前Ⅰ

さて、カラヴァッジョがローマに来た理由ですが、当時のカトリックが置かれた状況にあると思います。
宗教改革の波に飲まれて苦境にあったカトリックは、1545年から1563年に開催されたトレント公会議によって、宗教改革に対抗するカトリック側の改革を進めることになりました。プロテスタント側の聖人や聖遺物の崇敬排撃に対抗する一環として、教会の新造や教会の装飾が行われるようになりました。
その上、区切りの聖年1600年はを目指して、教会の改造や修復が行われていました。
つまり、カラヴァッジョにとって、ローマは自分の作品需要が見込めそうだったのです。

ローマへの到着前に、各地の教会や修道院を回る旅をしながら、実際に油彩画の祭壇画を観て、このぐらいの出来ならば俺の方が上手く描けそうと自信を抱いたのではないかと思います。
58
ローマのジェズ教会です。


59
イエズス会のジェズ教会は、反宗教改革のシンボル的存在です。1568年から1580年に建設され、1584年に奉献されました。


60
1590年から1650年に建設されたサンタンドレア・ヴァッレ教会です。


61
1518年から1589年に建設され、1589年に奉献されたサン・ルイージ・フランチェージ教会です。カラヴァッジョがローマに到着した当時、絵画などによる装飾が進んでいました。


62
オラトリオ会のサンタ・マリア・イン・ヴァリチェッラ教会(Chiesa Nuova)は、1575年から1614年に建設されました。


63
カラヴァッジョのローマ到着は、1595年の年末だったと書きましたが、実はそれを否定する資料があったので、1595年末説を確定させるには、その資料の問題を解決する必要がありました。
写真は、画家の同業者組合サン・ルカ・アカデミー(アッカデミア・ディ・サン・ルカ、画家のギルド)の建物です。


64
写真はサン・ルカ・アカデミー内に展示されている会員たちの肖像画です。
さて、カラヴァッジョも画家ギルドの会員になったのですが、1594年10月に行われたにサンタ・マリア・アル・フォロ・ボアーリオ教会(現在のサンティ・ルカ・エ・マルティーノ教会)で行われた画家ギルドの祝福された秘跡の40時間の崇拝(Qurantore)に参加した105人の画家のリストにカラヴァッジョの名前が記載されていました。
これが事実ならば、カラヴァッジョがローマに到着したのが1595年末説に矛盾することになります。


65
アッカデミア・ディ・サン・ルカのQuarantoreが行われた、現在のサンティ・ルカ・エ・マルティーノ教会です。
しかし、最近の研究で、カラヴァッジョの名前が記載されたQuarantoreに参加した画家リストには日付の記載がなく、1597年10月18日に行われたQuarantoreの画家リストであることが確認されました。これによってカラヴァッジョのローマ到着が1595年末であることを追認する形になりました。


66
写真はマダーマ宮です。
カラヴァッジョの最初のパトロンだったデル・モンテ枢機卿が当時住んでいたマダーマ宮にカラヴァッジョが住むようになったのは、1597年7月だったとの記録が残されてます。
カラヴァッジョのローマにおける空白期間は、これまでよりも大きく狭まって1595年末から1597年7月までの約1年半ということになりました。
僅か約1年半の短い間に、初期に描かれた作品、ロレンツォ・カルリ工房、アンティヴェデュート・グラマティカ、プロスぺロ・オルシなどとの交流、カヴァリエール・ダルピーノ工房などの出来事を全部詰め込む必要があることになりました。


100
1595年末にローマに到着したカラヴァッジョは、1596年3月にロレンツォ・カルリ工房に雇用されるようになりましたが、到着からそれまでの間、何をしていたのか、明確なことは全く分からないようです。
カラヴァッジョと面識があり、カラヴァッジョの伝記を書いたジュリオ・マンチーニ(シエナ、1559‐ローマ、1630)によれば、レカナーティ出身のモンシニョーレ・パンドルフォ・プッチの家に寄宿したそうです。


37
パンドルフォ・プッチは、困窮したカラヴァッジョに対して、食料不足の代わりにサラダばかりを食べさせたそうです。
嫌気がさしたカラヴァッジョは、プッチの家を飛び出し、ロレンツォ・カルリ工房に入ります。
ロレンツォ・カルリ工房で、生涯の友人マリオ・ミンニティと知り合ったようです。後にカラヴァッジョがローマで殺人を犯し、その逃亡先のマルタ島ヴァレッタで傷害事件を犯して、マルタ島から脱獄逃亡して、シチリアに逃げてきたカラヴァッジョを支援したのがミンニティです。


67
ロレンツォ・カルリの工房も長続きせず、アンティヴェデュート・グラマティカ(?、1571‐ローマ、1626)の工房に入ったようです。
グラマティカの両親はシエナ出身でしたが、シエナからローマへの旅の途中で、アンティヴェデュートが生まれたので、その生地が分かっていないようです。


68
1591年に独立して親方になったアンティヴェデュート・グラマティカは、Vicolo San Trifoneに工房を構えたようです。


69
1593年、アンティヴェデュート・グラマティカは、アッカデミア・ディ・サン・ルカに入会しました。
グラマティカはカラヴァッジョと同じ年齢だったので、弟子ではなく協力者としてカラヴァッジョを遇したようです。


76
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)に帰属する「果物の皮をむく少年」
この作品の真作は、グラマティカ工房時代に描かれたかも知れません。カラヴァッジョ自身による複製画が数点あるほか、他の画家によるコピー画など、全部で10点以上の複製画があるようです。


70
Vicolo San Trifoneにある旧サン・ジャコモ病院の建物です。


36
カヴァリエール・ダルピーノ(アルピーノ、1568-ローマ、1640)の「自画像」(1640)
アッカデミア・ディ・サン・ルカにあります。

カラヴァッジョは、ダルピーノ工房に入りました。その時期は不明ですが、1596年春にダルピーノ工房に入り、その期間は約8か月でした。
ダルピーノはカラヴァッジョよりも3歳年長でしたが、当時のローマにあって大活躍していました。多くの注文を抱えて、多忙を極めており、一部の注文に対して応じきれない状況でした。


72
ダルピーノ工房は、カンポ・マルツィオ地区のVicolo della Torettaにありました。


71
カヴァリエール・ダルピーノは、フレスコ画が得意な画家でした。カラヴァッジョは、漆喰が乾かないうちに一気に描きあげるフレスコ画が苦手だったので、工房ではフレスコ画よりも油彩画を担当した可能性があります。


73
写真はVicolo della Torettaです。

ダルピーノ工房では、兄のジュゼッペ・チェーザリ通称カヴァリエール・ダルピーノ(アルピーノ1568‐ローマ、1640)の弟ベルナルディーノ・チェーザリ(アルピーノ,1571-ローマ、1622)と親しかったようです。
画家としてのベルナルディーノは凡庸で、兄の助手に留まりましたが、素行が悪く、1592年11月9日、盗賊と共謀して犯罪を犯し、死刑宣告を受けてナポリに逃亡した過去がありました。1593年5月13日、赦免されてナポリからローマに戻り、ダルピーノ工房に戻りましたが、ローマの暗黒街に顔が利く男でした。このような行状のベルナルディーノとの交遊は、元々素行が宜しくなかったカラヴァッジョが悪の道にさらに踏み込む切っ掛けとなったとされてます。
また、ベルナルディーノとはダルピーノ工房に入る前に既に交遊があって、ベルナルディーノの勧めによってカラヴァッジョがダルピーノ工房に入ったという説もあります。


52
この作品はダルピーノが所持していました。そのため、カラヴァッジョがダルピーノ工房で働いていた時期に描かれたとするのが自然でしょう。


54
カラヴァッジョがダルピーノ工房にいた時代に描かれたと思われる作品です。


74
写真は、サンタ・マリア・デッラ・コンソラツィオーネ病院です。


75
カラヴァッジョは、馬に蹴られた、またはマラリアが原因で、サンタ・マリア・デッラ・コンソラツィオーネ病院に入院しました。
入院中、カラヴァッジョは数点の作品を入院費の代わりとして描き、病院長に渡したという説があります。
入院中、ダルピーノは一度も見舞いに訪れず、それを不満に思ったカラヴァッジョはダルピーノ工房に戻らなかったようです。



作品巡り 6.ローマ、国立古典絵画館(バルベリーニ宮)
77
ローマのバルベリーニ宮殿です。


79
バルベリーニ宮の国立古典絵画館には、カラヴァッジョの作品が3点あります。


85
第20展示室でカラヴァッジョ作品が展示されてます。


78
カラヴァッジョを敵視していたジョヴァンニ・バリオーネの作品がカラヴァッジョの作品と並んで展示されてます。


80
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「ホロフェルネスを斬首するユディト」(1600-02c)


86
銀行家でコンセンテ伯爵のオッタヴィオ・コスタ(コンセンテ、1554-ローマ、1639)によって注文された作品です。
オッタヴィオ・コスタは美術愛好家で、カラヴァッジョのパトロンでした。グイド・レーニ、カヴァリエール・ダルピーノ、ジョヴァンニ・ランフランコなどに注文しました。
幾つかの作品をカラヴァッジョに注文しましたが、現在、ハートフォードの「光悦のフランチェスコ」、カンザスシティの「砂漠の聖ジョヴァンニ・バッティスタ」とバルベリーニのこの作品の3点が確実にコスタ伯爵の注文によるものです。


82
生々しい凄惨な斬首場面は一度見たら忘れられない!


84
1599年9月11日、サンタンジェロ城広場で公開処刑されたベアトリーチェ・チェンチ(ローマ、1577-1599)とベアトリーチェの継母ルクレツィアの斬首を参考に描かれたとされてます。
その公開処刑には、友人のオラツィオ・ジェンティレスキ、オラツィオの娘で最高のカラヴァッジェスキ画家となったアルテミジア・ジェンティレスキがカラヴァッジョと一緒だったそうです。


83
鮮烈な印象を与える表情


93


94


97


95
ユディトのモデルは、娼婦のフィリデ・メランドーニ(シエナ,1581-ローマ、1618)と言われていました。


96
しかし、近年の研究によって、メランドーニ説が否定され、ロレンツォ・カルリの妻だったマッダレーナ・アントネッティ(ローマ、1579-?)説が有力とされているようです。


98


99
カラヴァッジョは同じ主題の作品をもう1点描いたそうです。
写真は、2014年にフランス・トゥールーズの屋根裏部屋で発見された「ホロフェルネスを斬首するユディト」です。
発見された当初、カラヴァッジョの真作の可能性が高いとされていました。後にオークションにかけられる予定でしたが、突然取りやめになり、2019年にアメリカ人コレクターに販売されたそうです。カラヴァッジョ作品説に対して、多くの批評家が否定しており、他画家によるカラヴァッジョ作品の複製画の可能性が高いようです。
屋根裏部屋で発見された作品の鑑定に用いられたルイ・フィンソンによるカラヴァッジョ作品の複製画がある(ナポリのGalleria d’Italiaの所蔵)があるのですが、屋根裏部屋で発見された作品もルイ・フィンソンの複製画説も有力です。


81
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「ナルキッソス](1597-99)


88
美術史家のロベルト・ロンギ(アルバ、1890-フィレンツェ、1970)によってカラヴァッジョの作品説が唱えられ、それが定説となって現在に至ってます。
オラツィオ・ジェンティレスキ、ニッコロ・トルオーニ、スパダリーノの作品説もありました。


89
依然として、スパダリーノ作品説を唱える美術史家がいます。


90


91


87
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「瞑想の聖フランチェスコ」(1605)


101
ローマ近郊のカルピネート・ロマーノのサン・ピエトロ教会が写ってます。
ピエトロ・アルドブランディーニ枢機卿(ローマ、1571-1621)が1606年頃に、ローマで殺人を犯したカラヴァッジョの逃亡中に注文して制作された作品です。
アルドブランディーニ枢機卿は、1609年にカルピネートのサン・ピエトロ教会に寄贈しました。


92
この作品は、1967年にカルピネート・ロマーノのサン・ピエトロ教会聖具室で発見されました。

(つづく)

足跡を辿って 5.ローマ到着
1
カラヴァッジョがミラノにいたことを示す最後の記録は,1592年7月1日の文書でした。それ以降、ローマ到着までのことは一切分かりません。
しかしながら、従来、カラヴァッジョは最後の記録が残されたミラノから程なくしてローマに向かい、ローマに到着したのは、1592年秋から1593年頃と考えられてきました。


2
ところが、カラヴァッジョの没後400年を機に、カラヴァッジョの記録をもう一度見直すための調査が行われました。
その結果、ローマ国立公文書館で2つの文書が発見されました。その2つの文書によって、カラヴァッジョがローマに到着したのは、1595年末であることが明確になったのです。
それによって、ローマ到着までのカラヴァッジョの足跡の空白期間が延長されることになり、1595年とそれ以前に描かれたとされていた作品の制作年が疑わしくなったのです。


3
ローマに到着するまで何をしていたか、ですが、各地(その具体的な場所が一切不明です)を巡りながら、教会の祭壇画を見ていて勉強に励んだ一方で、何らかの犯罪を犯して収監されていた可能性も大いにあり得ると私は思います。


48
1595年末、カラヴァッジョはカンポ・マルツィオ地区にやってきました。
カラヴァッジョの伝記が幾つかあり、伝記の作者によって違いがありますが、モンシニョール・パンドルフォ・プッチの家にまず行ったようです。


47
1596年3月、カラヴァッジョは、シチリア出身の画家ロレンツォ・カルリ(シチリア、?-ローマ、1597)の工房で働き始めました。


37
ロレンツォ・カルリの工房はスクロファ通りにありました。当時、この通りには画家の工房が密集していたそうです。


38
写真はスクロファ通りに建っているPalazzo Aragona Gonzagaです。
ロレンツォ・カルリは、1597年春に死去しました。
1597年4月10日付で作成されたロレンツォ・カルリの資産目録が、ローマ国立公文書館の公証書の中から発見されました。
発見された資産目録には、聖母や聖人を描いた宗教画や肖像画を含む27点の絵画が記載され、その中の一部がローマに到着したカラヴァッジョと一緒に、或いはカラヴァッジョが制作したとの記載がされていました。


39
Campo Marzo


40
ロレンツォ・カルリの遺産目録には、カラヴァッジョを雇った時期、カラヴァッジョがローマに来た時期なども記されていました。


41
ロレンツォ・カルリの妻Faustino Juvarraは美人として有名でした。


32
後にカラヴァッジョが描いた2点の作品のモデルがロレンツォ・カルリの妻だったそうです。しかし、カラヴァッジョの女で、売春婦マッダレーナ・アントネッティ通称レーナがモデルだった説が有力です。


33
アレッサンドリアの聖カテリーナ


44
ホロフェルネスを斬首するユディト


45
ユディトのモデルがファウスティーナらしいです。


46
スクロファ通りにあるモニュメント


42
ナヴォーナ広場はカラヴァッジョの生活圏にありました。


43
もう一つの資料もローマ国立公文書館で発見されました。


56
1597年7月11日付で作成された音楽家アンジェロ・ザンコーニへの暴行事件の調書です。
1597年7月9日午後10時半頃、帰宅したザンコーニは、襲撃され、棒で殴打されましたが、逃げるザンコーニを他の男が剣を持ちながら追いかけました。逃げる時にザンコーニは、被っていた帽子と着ていたマントを失います。
その夜、カラヴァッジョは画商のコスタンティーノ・スパーダと画家のプロスぺーロ・オルシとオステリア・デッラ・ルーパで飲食していましたが、店を出てから暴行現場に通りかかり、カラヴァッジョは道路に落ちていたマントを拾い上げ、この場にいた床屋のピエトロ・パオロ・ペッレグリー二に渡しました。


57
1597年7月11日付で作成された床屋ピエトロ・パオロ・ペッレグリー二の尋問記録
この証言の中で、マントを手渡されたカラヴァッジョのことについて述べていて、「カラヴァッジョはロンバルド訛りで話すミラノ出身の男で、1596年春から知っていて、亡くなった画家のロレンツォ・カルリの工房にいた」と言及しました。


50
カラヴァッジョの性格と行状から考えると、ザンコーニへの襲撃にカラヴァッジョが参加していた可能性がないとは言えないと思いますが、カラヴァッジョに対する尋問は行われなかったようです。


49
サン・ルイージ・フランチェージ教会もカラヴァッジョの生活圏にありました。


52
「病めるバッカスの自画像」はダルピーノ工房にいた時に描かれたのは明らかです。


53
カラヴァッジョのローマ到着が1595年末になったことで、この作品の制作された年も修正されるべきと思います。


54
同様のことは、この作品にも言えると思います。


55




作品巡り 5.ローマ、ボルゲーゼ美術館Ⅲ
17
どのように見て回るか、予め決めておかないと2時間の制限時間内では見落とす作品が出てきます。


18
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「書斎の聖ジローラモ」(1605/1606)


19
ジョヴァンニ・ピエトロ・ベッローリ(ローマ、1613-1696)が1672年に出版した「当代の画家、彫刻家、建築家の生涯」によれば、シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿がカラヴァッジョに初めて注文した作品だそうです。


20
初めて注文した作品であることは事実ですが、それには裏があるようです。


21
1605年7月29日夜、カラヴァッジョは、ナヴォーナ広場で公証人を襲撃したことにより、警察の追跡を逃れるためにジェノヴァに逃亡しました。
襲撃の理由は、売春婦で、カラヴァッジョ作品に度々モデルになったマッダレーナ・アントネッティ(ローマ、1579-?)を巡る争いとされてます。


22
ところが、カラヴァッジョ作品を好む有力者の取りなしによって、公証人は訴訟を取り下げ和解に応じたのです。その和解調印がシピオーネ・ボルゲーゼ邸で行われたそうです。


23
その縁でボルゲーゼ枢機卿はカラヴァッジョの有力パトロンとなり、ボルゲーゼ枢機卿の和解調停に感謝する意味でカラヴァッジョが制作したようです。
聖ジローラモの着衣の赤は、枢機卿の法衣の赤に通じるので、画題として選択されたそうです。


24
カラヴァッジョは、別バージョンの聖ジローラモを描いてます。
この作品は、マルタのヴァレッタ大聖堂にあります。


25
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「教皇庁厩舎管理人(Palafreeri)の聖母」(1606/1606)


26
「蛇の聖母」とも呼ばれてます。


27
サン・ピエトロ大聖堂のサンタ・アンナ同信会礼拝堂の祭壇を飾るために、マスカニオ・コロンナ枢機卿(マリーノ、1560-パレストリーナ、1608)がカラヴァッジョに注文して制作された作品です。コロンナ枢機卿は、当時、教皇厩舎の管理人を務めていました。
この作品は、同信会礼拝堂の祭壇に設置されましたが、直ぐに取り外されてしまいました。


28
聖母が胸をはだけてセクシーに描かれている上に、同信会のシンボルである聖アンナがあまりにもみすぼらしい老婆に描かれていたことなどの理由によるものとされてます。


29
サン・ピエトロ大聖堂から取り外された後、一旦はサンタンナ教会に移されましたが、直ぐにボルゲーゼ枢機卿が安値で買収し、枢機卿のコレクションに加わりました。


31
聖母のモデルは、売春婦のマッダレーナ・アントネッティ(ローマ、1579-?)だったとされてます。


34
このカラヴァッジョの作品のモデルも同一人物とされてます。


35
(つづく)

足跡を辿って 4.ローマに行くまでの空白の時代Ⅱ
16
ミラノに居住していた画家の確実な記録が,1591年に残されてます。画家は、カラヴァッジョ(コムーネ)出身の男を告訴した記録があるそうです。後に告訴は取り下げられたそうです。


17
医師で美術収集家、且つ作家であったジュリオ・マンチーニ(シエナ,1559-ローマ、1630)ですが、デル・モンテ枢機卿が住んでいたマダマ宮殿に滞在していたカラヴァッジョの病気を診たという証拠があるそうですが、マンチーニが出版したConsiderazione sulla Pittura(1617-21)という本(今でもアマゾンで買うことが出来ます)の中で、カラヴァッジョは1591年末にミラノで犯罪を犯して、1年間投獄されたと書いているようです。その犯罪と言うのは、警官を殺したとなっているそうです。
警官殺しは通常重罪ですから、1年間の投獄では刑が軽すぎます。
マンチーニは、カラヴァッジョのことを知っていた訳で、ベッローリの記述よりも信用できそうです。


18
カラヴァッジョがミラノにいたことを示す、公文書における最後の記録は1592年7月だそうです。
2010年のカラヴァッジョ没後400年を機に行われた公文書の調査研究によって、ローマに初めていたのが1596年と確認されましたが、1592年からローマ到着までカラヴァッジョは何をしていたのでしょうか。


19
ロンバルディアやヴェネト各地を回って、多くの作品を観て勉強に励んだと考えるのが自然だと思います。特に16世紀の作品を研究したことでしょう。
現在、美術館で展示されている殆どの宗教画は、教会や修道院の礼拝堂祭壇などにありました。
これからは私の想像になります。


20
ベルガモに行った可能性があるかも知れません。


21
ベルガモに行ったとすれば、サンティ・バルトロメオ・エ・ステファノ教会に行ったことでしょう。


22
同教会の主祭壇画は必見です。


23
ロレンツォ・ロットの作品が主祭壇を飾ってます。


24
ベルガモでは、旧市街のサンタンドレア教区教会に行ったかも知れません。


25
モレットの作品が勉強になったかもしれません。


26


27
勉強すべき多くの作品があるブレーシャにも行った可能性がありそうです。


28
ブレーシャでは、サンタ・マリア・デイ・ミラコーリ教会に行った可能性がありそうです。


29


30
現在、教会にある作品はオリジナルの複製画です。これはモレット作品の複製画です。


35
本物はこちら。


36
現在は、ブレーシャのトージオ・マルティネンゴ美術館にあります。


31
モレットの作品


32


33
ロマニーノの作品


34


37
クレモナに行ったかも知れません。


38
クレモナ大聖堂にあるポルデノーネの作品


39


40
クレモナ市立美術館で展示されているボッカッチョ・ボッカッチーノの作品


41


42
クレモナ市立美術館にあるルドヴィーコ・マッゾリーニの作品


43


44
クレモナ市立美術館にあるベルナルディーノ・カンピの作品


45
ミラノにおける最後の確実な記録がある時から、ローマ到着までの空白期間に、カラヴァッジョは傭兵としてハンガリー戦争に参戦したのではないかと言う説が、近年提案されました。ハプスブルク帝国とトルコの間で、長い期間に渡って戦争が行われましたが、その戦争に多くのイタリア人の傭兵が参戦しました。
カラヴァッジョの喧嘩早い性格、武装して剣や短剣の使い方の精通していたこと、逮捕された時に作成された取り調べ調書に図示された、カラヴァッジョが所持していたとされる剣と短剣が傭兵が保持していたそれらと似ていることから、ハンガリー戦争参戦説が出されたようです。


354
ピーノ署長が描いたとされるカラヴァッジョが保持していた剣と短剣のイラスト

傭兵だった可能性はあると思いますが、それを裏付ける記録が残されてません。
しかし、ラヌッチョ・トマッソーニ事件の関係者(ジョヴァン・フランチェスコ・トマッソーニ、ペトローニオ隊長、パオロ・アルダートはハンガリー戦争に参戦した退役軍人)から憶測すれば、カラヴァッジョのハンガリー戦争の傭兵説は大いにあり得ると思います。


作品巡り 5.ローマ、ボルゲーゼ美術館Ⅱ
15
二時間毎の総入れ替え制の入館となってます。


1
二時間ではすべての作品を観るのは至難の業です。


2
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「聖ジョヴァンニ・バッティスタ(洗礼者聖ヨハネ)」(1609/1610)


3


4
聖ジョヴァンニ・バッティスタを示すアトリビュートが描かれてません。子羊ではなく、牡羊が背を向けて葡萄の葉を食べてます。放心した聖人は贖罪を願うかのように描かれてます。


5
この作品は、カラヴァッジョの最後のナポリ滞在中の1609年末頃から1610年に制作されました。
1606年5月29日夜、殺人を犯し、誰でも殺してよいとの死刑判決受けて、逃亡していたカラヴァッジョに対して、恩赦の可能性があるとの知らせがナポリにいたカラヴァッジョに齎されました。
当時の教皇は、ボルゲーゼ家出身のパオロ5世(第233代教皇 ローマ、1552‐1621 教皇在位:1605-1621)でした。カラヴァッジョのパトロンであるシピオーネ・カッファレッリ⁼ボルゲーゼ枢機卿は、教皇の甥でした。
この作品は、恩赦の実現に向けて事を進めて欲しいとしてボルゲーゼ枢機卿のために制作されました。


6
1610年7月、この作品を含めて3点の作品を携えて、カラヴァッジョはナポリから海路でローマへと向かいました。
途中のパロ港で、カラヴァッジョは誤認逮捕され、二日間投獄されてしまいました。しかし、3点の作品は乗船した船の目的地ポルト・エルコレに行ってしまいました。
3点の作品を求めて、カラヴァッジョはパロからポルト・エルコレまで死出の徒歩旅行を敢行したのです。
最終的に、この作品はボルゲーゼ枢機卿の所有となりました。


7
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ,1610)の「ゴリアテの首を持つダヴィデ」(1609-1610)


8


9
ジョヴァンニ・ピエトロ・ベッローリ(ローマ、1613-1696)によれば、1606年にボルゲーゼ枢機卿から作品の制作依頼があったとされてます。しかし、殺人を犯して逃亡生活に入ったカラヴァッジョには時間がなかったと思われます。
恩赦の実現を期待して、1609年末から1610年にナポリで制作され、ボルゲーゼ枢機卿に贈られたもので、ナポリからの乗船時には携えられていなかったとされてます。


10
ゴリアテは、明らかにカラヴァッジョの自画像でしょう。


11
そして、敵を殺したダヴィデは誇らしさは微塵もなく、悲しげな表情をしています。


12
カラヴァッジョの悔恨、贖罪を示したゴリアテです。


13
ダヴィデが持つ剣には、H-AS OSと描かれており、謙虚さはプライドを殺したとの意味だそうです。


14
同じ主題のカラヴァッジョの作品がもう一つあります。
ウィーンの美術史美術館にあるミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1591-ポルト・エルコレ,1610)の「ゴリアテの首を持つダヴィデ」(1607c)

(つづく)

足跡を辿って 4.ローマに行くまでの空白の時代Ⅰ
1
シモーネ・ペテルツァーノとの修行契約は、1584年から1588年の4年間でした。契約期間満了の1588年からローマに行くまでの期間、画家カラヴァッジョに関することは殆ど分からないとされてます。


2
少し前までは、カラヴァッジョがローマに到着したのは、1592年秋と言うのが定説でした。
しかし、カラヴァッジョの没後400年の2010年に、没後400年の新企画として各地に残る古文書の体系的調査が行われ、カラヴァッジョがローマに到着したのは1596年3月との資料が見つかったのです。


3
従来の定説ならば、カラヴァッジョの空白期間は、1588年から1592年までの約4年間でしたが、新発見の資料によれば、空白期間は1596年までの約8年間となったのです。
その空白期間における、画家の消息を伝えるものは、カラヴァッジョ(コムーネ)の土地取引などの記録、美術史家二人による画家の伝記とメモくらいしかありません。


4
カルロ・マラッタ(カメラーノ、1625-ローマ、1713)の「ジョヴァンニ・ピエトロ・ベッローリの肖像」
ジョヴァンニ・ピエトロ・ベッローリ(ローマ、1613-1696)は、作家、古物収集家、美術史家でした。


5
ジョヴァンニ・ピエトロ・ベッローリ著「当代の画家、彫刻家、建築家の生涯」(1672)
ベッローリが出版した本の表紙です。


6
この本の中でカラヴァッジョについての伝記が描かれてます。
カラヴァッジョ編の挿絵です。


7
アンニーバレ・カラッチ編の挿絵


8
ルーベンス編の挿絵

この本の中で、ベッローリは古典主義を称賛しました。カラヴァッジョについては、現実を単に機械的に写実しただけと非難しました。


9
カラヴァッジョの死から62年後に出版された本なので、カラヴァッジョの伝記がどの程度信頼できるのか、不明ですが、ほぼ同世代のベッローリなので、ある程度信頼に足るのではないでしょうか。
カラヴァッジョ編の中で、ミラノでトラブルを起こしたので、ミラノからヴェネツィアに逃亡したと書かれてます。


10
後に、カラヴァッジョはローマで殺人を筆頭に数々の警察沙汰を犯しますが、その行状から考えるとミラノのトラブルは大いにあり得ると思います。


11
では、逃亡先のヴェネツィアで何をしていたのでしょうか。


12
画家を志して修業したカラヴァッジョなので、ティツィアーノ、ベッリーニ一族などの作品を観るために教会や宮殿を回ったことでしょう。
ベッローリによれば、ジョルジョーネの色彩に感銘を受けて影響を受けたそうです。


13
ジョルジョーネの傑作の一つ


14
カステルフランコ・ヴェネトのドゥオーモにあるジョルジョーネの作品


15
空白時代に、画家は度々カラヴァッジョに戻っていたようです。


16
1589年、画家は、メリージ家所有の土地の一部を売却した記録が残されてます。その後、数回にわたって土地の売り買いを行った記録も残されてます。


17
1590年、母ルチアが死去しました。イタリアでは母好きの息子が大半ですから、母の死の前後にカラヴァッジョに戻った可能性があります。


18
1592年、母が違う姉カテリーナ、実弟のジョヴァンニ・バッティスタの3人との間に、母ルチアの遺産分配が行われました。


19
1592年以降、画家はカラヴァッジョに戻ることは二度となかったようです。
遺産相続が終わると、画家はローマに向かったというのが、従来説でした。



作品巡り 5.ローマ、ボルゲーゼ美術館Ⅰ
20
ローマのボルゲーゼ美術館です。


21
カラヴァッジョの真作6点が展示されてます。この他に帰属が疑わしい1点の静物画があります。


22
カラヴァッジョの作品として、その帰属が疑わしい「静物画」です。
この作品は近頃展示されていないようです。


23
カラヴァッジョの作品が展示されているのは、第8展示室です。


24
第8展示室です。この日は、真作6点が揃っていました。


25
カラヴァッジョ作品を最も多く展示しているのは、このボルゲーゼ美術館です。それは、カラヴァッジョのパトロンであり、美術品の収集に熱心で、特にカラヴァッジョ作品に異常とも思える執念で収集したシピオーネ・カッファレッリ⁼ボルゲーゼ枢機卿(ローマ、1577-1633)によります。


26
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「病めるバッカスの自画像」


27
ここでは、制作された年として、従来の1592/1595となってますが、2010年の古文書調査結果を踏まえると1596/1597年制作説が有力とされてます。


28
この作品は、カラヴァッジョがカヴァリエール・ダルピーノ(アルピーノ、1568-ローマ,1640)の工房にいた時に描かれました。


29
カラヴァッジョが馬に蹴られて、その治療のため入院したのですが、退院後の本調子ではない顔色が優れない自分を鏡に映して描いたと言われてます。
ダルピーノは、カラヴァッジョよりも僅か3歳年長ですが、この当時、飛ぶ鳥も落とすほどの画家として有名でした。
入院期間中、ダルピーノは一度も見舞いに来なかったとカラヴァッジョが愚痴ってます。


30
ダルピーノがこの作品を所有していたのですが、どうしても欲しいとボルゲーゼ枢機卿は、一計を案じて取り上げたのです。


31
ダルピーノが銃を不法所持していたことを知ったボルゲーゼ枢機卿は、教皇庁に指示してダルピーノを逮捕させ、有罪判決を出させ、ダルピーノの収監中にダルピーノの財産を差し押さえて、その財産に含まれていたカラヴァッジョの作品を押収して自分のコレクションに加えたのです。
凄いですね、詐取ですね。


32
当時、カラヴァッジョは金欠だったので、モデルを雇う金がなく自分や友人をモデルにしていました。


33
カラヴァッジョの静物画は秀逸です。


34
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「果物籠を持つ少年」(1593/1595c)


35
この作品もダルピーノ工房にいる時に制作されました。
2010年の古文書調査結果によって、1596/1597年頃の制作説が有力となってきてます。


36
果物の描写技術が一段と向上したことが分かります。


37
この作品もカヴァリエール・ダルピーノが所持していました。


38
ボルゲーゼ枢機卿のコレクションに加えられた経緯は「病めるバッカスの自画像」と全く同じです。


39
警察権を悪用してはいけませんね。


40
(つづく)

足跡を辿って 3.ミラノ修業時代
1
絵画に関心を持っていたミケランジェロ少年は,1584年にカラヴァッジョを離れミラノに向かいました。


2
先妻の子を含めて、5人の子供がいた母ルチアにとっては、長男ミケランジェロのミラノ行きは口減らしの意味もあったと思われます。


3
フェルモ・メリージが仕えていた主家カラヴァッジョ侯爵の援助は限定的だったことでしょう。
ともあれ、長男ミケランジェロの旅立ちに当たって、母ルチアは僅かばかりあった土地の一部を売って、ミケランジェロの画家修業の足しにしたそうです。
出発に先立って、当然のことながら画家修業をする師匠が決まっていたと思われます。


4
ミケランジェロ少年が師事した画家はシモーネ・ペテルツァーノ(ベルガモまたはヴェネツィア、1535/1540-ミラノ、1599)でした。


5
シモーネ・ペテルツァーノの「自画像」(個人蔵、作品写真は外部サイトからの拝借)
ペテルツァーノを師匠に選んだ理由は、分からないとされてます。想像でしかありませんが、画家になると決心した時から、ロンバルディア各地の教会や修道院を訪れて、祭壇画、フレスコ画を見て回り、自分に相応しい師匠を選んだと思います。


6
師弟関係を結ぶに当たって、取り交わされた契約書が残されています。これは非常に驚くべきことの様に思えます。
1584年4月6日付でペテルツァーノとカラヴァッジョ間で締結された契約書によれば、4年間ペテルツァーノ工房に住み込みで修業し、その対価として24スクーディ支払うというものでした。1スクードは31.25グラムの銀貨。


7
1584年から1588年までの4年間、ペテルツァーノ工房で修業したと思いますが、その間のカラヴァッジョについては何一つ分からないとされてます。
私には、ペテルツァーノ工房があった場所さえも分かりません。


8
師匠のペテルツァーノは、油彩画よりもフレスコ画が得意にしていた画家でした。カラヴァッジョは、フレスコ画が不得意でしたから、ペテルツァーノを師匠に選んだのは不本意だったかも知れません。
カラヴァッジョの修行時代にペテルツァーノの制作に際して、下働きをした可能性があるとされてます。


9
ミラノ・スカラ座前からレオナルド・ダ・ヴィンチ像を望んだ後方にクポーラが見えます。


10
そのクーポラがあるのがサン・フェデーレ教会です。


11
サン・フェデーレ教会はカラヴァッジョ所縁と言われていました。


12
ミラノでも古い教会の一つです。


13
教会構造図における9番のCappella delle Deposizioneの祭壇画がシモーネ・ペテルツァーノの作品です。


14
Cappella delle Deposizioneです。


15
シモーネ・ペテルツァーノの「キリストの埋葬」


16
カラヴァッジョがペテルツァーノに弟子入りした直後に制作されたとされていました。そのため、師匠が制作する際に、カラヴァッジョが下働きした可能性があるとされてきました。


17
ところが、近年になって1573年から1578年頃に制作されたという説が有力とされるようになりました。そうなるとミケランジェロ少年は未だカラヴァッジョにいたので、下働き説はその根拠を失います。
これは教会の説明書の写真です。ここでも1573年から1578年頃に制作されたと書かれています。


18
入門した際の契約書以外に、カラヴァッジョの修行時代の記録は一切残されていません。


19
2012年7月5日、イタリアの通信社から「カラヴァッジョの修行時代の素描や習作約100点が発見された」との驚くべきニュースが発表されました。


20
発見された場所が何とスフォルツェスコ城だったということでした。ビックリでした。ここにあったとは、夢思わざりきでした。


21
城内にペテルツァーノの作品保管庫があって(初耳でした)、美術史家2名が調査と検討を行った結果、保管されていたペテルツァーノの作品の中から、カラヴァッジョの素描などが発見されたという事でした。


22
新発見の素描、調査・検討のプロセスは、アマゾンから電子書籍で発売されるとアナウンスがありました。
この発表後、暫くして電子書籍を買おうとしたのですが、全然見つからず不思議に思ってました。


23
かなり後から知ったのですが、通信社からのニュースは、ミラノ市にも予め全く知らされずに発表されたそうです。
このニュースに接して驚いたミラノ市は、世界中の素描専門の大家に対して、「発見された素描」についての意見を求めたそうです。


24
素描の大家たちの意見は、私は知らないのですが、2013年2月から3月にスフォルツェスコ城で開催されたペテルツァーノの素描展では、それに関して一切の言及がないままに、「新発見のカラヴァッジョの素描」の一部がペテルツァーノの素描作品として展示されていたのが、このニュースの全面的否定だったことを示したと思います。



作品巡り 4.ローマ、カピトリーニ美術館
25
ローマのカピトリーニ美術館です。


26
カピトリーニ美術館には、カラヴァッジョ作品が2点あります。


30
この日は、2点ともありました。
カラヴァッジョは人気が高く、世界のどこかでカラヴァッジョ展が開催されていることが多く、そのために貸し出されることが結構あって、2点とも揃っているのはラッキーでした。


31
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「聖ジョヴァンニ・バッティスタ(洗礼者ヨハネ)または解放されたイサク」(1602)


32
聖ジョヴァンニ・バッティスタ(洗礼者聖ヨハネ)にしては、それを示すアトリビュートが全く描かれていないので、「解放されたイサク」説がやや優勢になっているようです。


33
カラヴァッジョの熱心なパトロンの一人だったチリアーコ・マッテイが注文して制作されました。


27
カラヴァッジョ自身による複製画が残されてますが、カピトリーニ美術館にある作品がオリジナルの第一作です。それだけ出来が良いとされてます。


28
顔の明暗表現と質感に注目です。


29
右足下に描かれた、これは、この作品を制作していたマッテイ宮殿が面するマッテイ広場にあった噴水がモチーフとされてます。


44
オリジナルのカピトリーニ版の複製がドーリア・パンフィーリ美術館にあります。


34
ドーリア・パンフィーリ美術館所蔵のミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ,1571-ポルト・エルコレ、1610)の「聖ジョヴァンニ・バッティスタ(洗礼者聖ヨハネ)または解放されたイサク」(1602)


35
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「女占い師」(1595c)


36
制作の経緯が良く分かっていないそうです。
カピトリーノ美術館に所蔵されて公開されたのは、1750年でしたが、当時はカラヴァッジョの真作とはされておらず、その真贋については長い年月を経た多くの議論がありました。


37
ジプシー女と若者のモデルが異なるだけの同じ主題の作品がルーブル美術館にありますが、ルーブル美術館にある「女占い師」の方が出来が良かったことも、カピトリーニ美術館にある作品の真贋にも影響したようです。


38
カラヴァッジョの真作と認められるようになったのは20世紀になってからだそうです。


39
この主題は多くの画家に刺激を与えました。「女占い師」はシモン・ヴーエなどに描かれました。


40


41
パリ、ルーブル美術館にあるミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「女占い師」(1595cまたは1596/1597)


42
モデルが違います。


43
ルーブル美術館の若者のモデルは、カラヴァッジョの盟友マリオ・ミンニティの可能性が高いと言われてます。シチリア出身のミンニティは故郷に帰り画家として活動していましたが、後にカラヴァッジョがローマで殺人(過失致死説あり)を犯し、逃亡先のマルタから逃げてきたシチリアでカラヴァッジョに仕事を斡旋するなど色々と力になったのがミンニティでした。
(つづく)

足跡を辿って 2.カラヴァッジョ(コムーネ)Ⅳ
1
ローマ通りを戻ります。


2
カラヴァッジョは巡礼地として有名ですが、その巡礼地は駅を挟んでコムーネの旧市街の反対側にあります。


3
ローマ通りに面して建つサン・ジョヴァンニ・バッティスタ教会です。修道院が併設された複合施設です。


4
複合施設は、その宗教機能が停止されてます。
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョにとっては、重要な教会です。
1571年1月14日に、この教会で、画家の父フェルモ・メリージと母ルチア・アラトーリが結婚式を挙げたことで知られてます。
この結婚式にカラヴァッジョ侯爵フランチェスコ・スフォルツァが証人を務めていたようです。ルチア・アラトーリの父ジョヴァン・ジャコモ・アラトーリが侯爵家の土地測量官、行政管理者、管財人を務めていたからのようです。16歳の侯爵夫人コスタンツァ・コロンナも結婚式に出席していたことでしょう。
フェルモは二度目の結婚、ルチアは初婚でした。


101
シピオーネ・プルツォーネ(ガエータ、1544-ローマ、1598)の「カラヴァッジョ侯爵夫人コスタンツァ・コロンナの肖像」

カラヴァッジョ侯爵フランチェスコ・スフォルツァは、1583年に死去してしまったので、カラヴァッジョ侯爵夫人は侯爵家の財産を管理することになりました。コスタンツァは、粘り強く機知に富んだ若い未亡人でした。
画家カラヴァッジョの叔母マルゲリータ・アラトーリは、侯爵家の子供たちの乳母でした。コスタンツァは、幼いミケランジェロをよく見かけたと思われます。ミケランジェロはコスタンツァの子供たちの遊び相手だったでしょう。
このことが、カラヴァッジョ侯爵夫人コスタンツァ・コロンナが画家カラヴァッジョに対して終生変わらない支援を行うことになったと思われます。


5
駅方向に進みます。


6
鉄道駅です。


7
駅を通り越し、カラヴァッジョの旧市街から駅に向かう同じ道をさらに進みます。


8
突き当りに大きな教会が見えてきます。


9
教会に行く前にここで一休みしました。


10
巡礼地となっている聖母の聖域聖堂 Basilica Minore e Santuario di Santa Maria del Fonte presso Caravaggioです。


11
1432年5月26日、若い農婦ジャネッタ・デ・ヴェッキの前に聖母マリアが顕現し、顕現した場所に泉が湧き出す奇跡が起きました。
その日以来、奇跡が起きた泉が湧き出ている場所が聖母信仰の巡礼地となりました。
科学的にそのような事象が起きるわけがないのですが、それが信仰と言うもので、目くじらを立てては宗教にはなりません。

奇跡が起きてから、多くの信者が泉が湧き出す場所に詣でましたが、それから間もなくの同年の1432年にクレモナ司教(カラヴァッジョはクレモナ司教区に属してます)によって泉の上に礼拝堂が建設されました。
1516年、当時の教皇レオ10世によって聖域に指定されました。
ところが、16世紀半ばになると巡礼者が減少すると共に、礼拝堂の建物は荒廃してしまい、やがて取り壊されてしまいました。
1575年、当時のミラノ大司教の聖カルロ・ボッロメーオは、教会の再建を希望し、それに基づき1575年に創建、17世紀初めに完成したバロック様式に建物が現在の姿になってます。


12
現在でも泉は聖堂の下に湧き出していますが、その水は「カラヴァッジョの水」と言われ、写真手前の場所に地上に出るようにされており、巡礼者が訪れます。


13
クーポラ


14
ファサード


15
毎日、多くの巡礼者が訪れており、賑わってます。


16
ミケランジェロ少年は、叔父や親戚の働き手が工事に従事していたので、度々建設現場に訪れて工事を見ていたと思います。後に卓越した宗教画を描くための素地として、この奇跡は大いに資することになったことでしょう。


17
中に入ると、聖母顕現の奇跡を再現した彫刻が直ぐに目に入ります。


18
1932年に制作された「農婦に顕現する聖母」です。巡礼者が祈りを捧げてます。


19
聖堂内にはかなりの数の祭壇画があります。それらの大半が、ミケランジェロ少年がカラヴァッジョを離れてから制作されたものです。


20
カミッロ・プロカッチーニ(パルマ、1551-ミラノ、1629)の天井フレスコ画


21
カミッロ・プロカッチーニ(パルマ、1551-ミラノ、1629)の「農婦の前に顕現する聖母と聖カルロ・ボッロメーオと聖フェルモ」


22
多くの作品がこのような表示がされてます。


23
ジョヴァンニ・ステファノ・ダネーディ通称イル・モンタルト(トレヴィーリオ,1612-ミラノ、1640)の「農婦の前に顕現する聖母」


24
アンブロージョ・ダ・フォッサーノ通称イル・ベルゴニョーネ(フォッサーノ、1453c-ミラノ,1523)の「キリストの埋葬」
ミケランジェロ少年が見た可能性が高い作品です。


25
クーポラ


26
ジャコモ・カヴェドーニ(サッスオーロ,1577-ボローニャ、1660)の「十字架降下」


27


28
ジョヴァンニ・バッティスタ・セッコ通称カラヴァッジーノ(カラヴァッジョ、1572-1625)の「聖アントニオ・アバーテ」


29
グイド・レーニ作品のコピー画


30
1710年に制作された作品です。


31
19世紀の作品


32
19世紀の作品


33
確実にミケランジェロ少年が見たと言えるのは、ベルゴニョーネの作品だけでしょう。


作品巡り 3.ローマ、コルシーニ美術館
34
ローマのコルシーニ宮です。


35
コルシーニ美術館の入り口です。中に入って直ぐ左手に切符売り場があります。


36
コルシーニ美術館には、カラヴァッジョの作品が1点あります。


37
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「聖ジョヴァンニ・バッティスタ(洗礼者聖ヨハネ)」(1602)
1604年に制作された説もあります。


38
コルシーニ・コレクションの作品リストに、この作品が初めて記載されたのは、1784年版の作品目録と言われてます。所蔵された経緯は不明とされてますが、購入説が有力です。購入した当初からカラヴァッジョの作品とされていました。


39
この作品をカラヴァッジョの真作と美術界に意見を発表したのは、美術史家のロベルト・ロンギで、1927年のことでしたが、異説が出されたものの、美術界がそれを是認し、現在ではカラヴァッジョの真筆とされてます。
2016年に国立西洋美術館で開催された「カラヴァッジョ展」に出張展示されていました。


40


41
静謐で憂いを帯びた表現に魅かれます。


42
カラヴァッジョの作品が展示されている部屋の天井装飾


43
(つづく)

足跡を辿って 2.カラヴァッジョ(コムーネ)Ⅲ
17
銀行です。


18
地元出身画家の作品写真が銀行の窓にありました。


19
画家所縁のものと言えば、これぐらいです。


20
教区教会に向かいます。


21
サンティ・フェルモ・エ・ルスティコ教区教会です。


22
創建は1000年頃の、この町で最古の教会です。1200年頃に再建された建物が現在の外観の原形となってます。メリージ家から僅か300mくらいの距離に建ってます。


23
高さ71mの鐘楼


24
ファサードの中央扉上ルネッタのフレスコ画は、ジョヴァンニ・バッティスタ・モリッジャ(カラヴァッジョ、1796-1876)の「聖母子と聖フェルモと聖ルスティコ」(1835)です。
画家カラヴァッジョの死後、225年後に制作されたフレスコ画です。


25
後に画家になる少年カラヴァッジョは、ミサなどに度々中に入っていたことでしょう。


26
17世紀に造られた主祭壇です。
後陣のフレスコ画は、ジュリオ・チェーザレ・プロカッチーニ(ボローニャ、1574-ミラノ,1625)によるものです。
1584年にカラヴァッジョを離れ、ミラノで画家修業を始めたミケランジェロが後陣のフレスコ画を見たとは考えられません。


42
身廊天井のフレスコ画は、ベルナルディーノ・カンピ(レッジョ・ネレッミア、1522-1591)が1571年に制作したものです。ミケランジェロ少年は見たと思います。


27
サンティ・ピエトロ・エ・アンドレア礼拝堂です。


28
このような説明書が各礼拝堂にあります。


29
クリストフォロ・フェッラーリ・デ・ジュキス(カラヴァッジョ、?-1506)の「聖母子と聖アンドレアと聖ピエトロ」(1504)


32
ミケランジェロ少年が見た作品です。


30
フランチェスコ・プラータ(カラヴァッジョ、1485-1528?)の「十字架降下」(16世紀前半)


31
ミケランジェロ少年が観たことでしょう。


33
二コラ・モイエッタ(カラヴァッジョ、16世紀前半活動)の「ご誕生」(1529)


34
ミケランジェロ少年が目にしたことでしょう。


35
サンティ・ロッコ・エ・セバスティアーノ礼拝堂です。


36
フェルモ・ギソーニ(カラヴァッジョ、1505-マントヴァ、1575)の「聖母子と聖フランチェスコと聖セバスティアーノ」


37
ベルナルディーノ・カンピ(レッジョ・ネレッミア、1522-1591)の「最後の晩餐」(1571)


38
ベルナルディーノ・カンピ(レッジョ・ネレッミア、1522-1591)の「弟子の足を洗うキリスト」(1571)


39
この他にも、画家カラヴァッジョの死後に制作された作品がかなりあります。


40
これら目にした作品に感銘を受けて画家を志したとは、私には到底思えません。後年のカラヴァッジョの言動から考えて、この程度で画家になれるのであれば、俺ならば簡単に画家で活躍できると寧ろ自信を深めたと思いたい。


350
カラヴァッジョ(コムーネ)に隣接してトレヴィーリオと言う町があります。


351
トレヴィーリオの市庁舎です。
ルネサンス期にトレヴィーリオ出身の画家がいたので、ミケランジェロ少年はトレヴィーリオに来て、それら画家たちの作品を観て、画家を志したのかも知れません。


353
例えば、ベルナルド・ゼナーレ(トレヴィーリオ、1463/1468‐ミラノ、1526)やベルナルディーノ・ブティノーネ(トレヴィーリオ、1450c-1510c)などです。
祭壇画の質と言う点では、トレヴィーリオにある祭壇画の方がカラヴァッジョにあるそれらよりも遥かに勝るので、勉強になったと思われます。



41
カラヴァッジョは巡礼地として有名です。次回は、その巡礼地を紹介します。



作品巡り 2.ローマ、ヴァティカン絵画館
3
ヴァティカン絵画館に入館します。


4
ヴァティカン絵画館には、カラヴァッジョの作品が1点だけあります。


5
制作された当初から傑作と呼び声高かった作品です。


6
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「キリストの埋葬」(1604)


7
この作品は、元々ヴァティカンにあったものではありません。


16
通称ヌオーヴァ教会と言われる、オラトリオ会のサンタ・マリア・イン・ヴァリチェッラ聖堂です。


1
サンタ・マリア・イン・ヴァリチェッラ聖堂内のヴィットリーチェ礼拝堂、通称ピエタ礼拝堂です。(礼拝堂の祭壇画はカラヴァッジョ作品のコピー画です)

1600年、この礼拝堂の所有者だったピエトロ・ヴィットリーチェが死去して、この礼拝堂に葬られました。1602年頃に、この礼拝堂の主祭壇画として、ピエトロの甥がカラヴァッジョに注文したのです。
1604年9月6日に、カラヴァッジョの作品が祭壇に設置されると直ぐに傑作と高評価されました。
ナポレオンのイタリア侵攻の際、戦利品簒奪の格好の目的とされて、フランスに持ち去られました。一時はルーブル美術館で展示されていたそうです。
ナポレオンの没落後、返還されることになりましたが、元に戻すことを強く希望したサンタ・マリア・イン・ヴァリチェッラ聖堂の力及ばず、ヴェティカンの所有となりました。実はヴァティカンには傑作が多いとは言えないのです。


2
現在、ピエタ礼拝堂にはオーストリアの画家Michele Koeck(1760-1825)のコピー画が置かれてます。
出来が宜しくないと思います。


8
こちらはカラヴァッジョの作品の写真です。
信者だけではなく、多くの画家を魅了しました。「バリオーネ裁判」など、何かと確執があったジョヴァンニ・バリオーネでさえも、この作品を「カラヴァッジョ作品の中で最高の出来」と言ったそうです。


9


10


11


12


13
こちらは、カラヴァッジョの作品に感銘を受けたルーベンスが制作した作品です。


15
余談になりますが、ミラノのサン・マルコ教会にもカラヴァッジョ作品の複製画が置かれてます。


2
ミラノのサン・マルコ教会ピエタ礼拝堂にあるカラヴァッジョ作品のコピー画です。
私には、この複製画の帰属等の詳細が分かりません。

(つづく)

足跡を辿って 2.カラヴァッジョ(コムーネ)Ⅱ
2
カラヴァッジョには、画家カラヴァッジョに関する博物館などがありませんが、将来的には旧サンタ・マリア・デリ・アンジェリ修道院の建物にオープンさせる計画があるようです。


3
ジョヴァンニ23世通りです。


4
モンタニェッタ庭園です。


5
カラヴァッジョ町の旧城壁の門が見えてきました。


6
Porta Nuovaと呼ばれてます。


7
門の前に川が流れてます。堀の役目をしていた川?


8
門を潜ります。


12



9
門を潜って旧町域内に入りました。


10
ペスト禍のミラノを避けて、カラヴァッジョに移住してきたメリージ一家ですが、父フェルモと祖父がその年(1577年)の秋に避難の甲斐もなくペストで死去してしまいました。フェルモ・メリージは、1577年10月20日に亡くなったようです。
働き手を失った母と、異母姉、ミケランジェロを含む5人の子供は困窮したに違いないと思います。父フェルモが仕えてきた主家のカラヴァッジョ侯爵家が未亡人と残された子供たちを援助したようですが、十分ではなかったようです。
しかし、コロンナ家出身のカラヴァッジョ侯爵夫人コスタンツァ・コロンナの画家カラヴァッジョに対する支持と支援は、終生変わりませんでした。
1584年、13歳になったミケランジェロは、画家を志してカラヴァッジョを離れミラノに行くことになります。


11
ミケランジェロは、6歳から13歳までの約7年間、カラヴァッジョで生活したのです。


13
画家を志したからには、カラヴァッジョの教会などを巡りながら、宗教画を見て、それらに啓発されたに違いないと思います。


14
メリージ一家が住んでいた家が分かりましたが、画家カラヴァッジョに関する具体的なことは一切分かりませんでした。


15
町役場に行けば、少しは分かるかもしれないと思いました。


16
旧町域内の目抜き通りのローマ通りです。


20


17
サンティ・フェルモ・エ・ルスティーチ教区教会の鐘楼が見えました。


18
左折して町役場に向かいました。


19
カラヴァッジョの町役場 Palazzo Comunaleです。


43
13世紀後半に建設されたPalazzo Gallavresiは、カラヴァッジョ侯爵家の宮殿でした。第二次世界大戦後、個人所有の不動産だった宮殿をコムーネが買収して、修復改造を経て町役場として使用するようになりました。


21
町役場内に非常に小さな絵画館が設けられてます。


22
Palazzo Gallavresiの柱廊


23
Museo Civicoです。


24
二コラ・モイエッタ(カラヴァッジョ、16世紀前半活動)の「玉座の聖母子と聖人たち」(1521)
カラヴァッジョのサン・ベルナルディーノ教会にあった祭壇画です。
恐らく画家となるミケランジェロは、この作品を観たことでしょう。


25
ジュリオ・チェーザレ・プロカッチーニ(ボローニャ、1574-ミラノ,1625)の「聖人たちに顕現するキリスト」(1624-25)
画家カラヴァッジョの死後に制作された作品です。


26
アンドレア・ランツァーニ(ミラノ、1641-1712)の「イサクの犠牲」
画家カラヴァッジョとは全く世代が異なる作品です。
二コラ・モイエッタの作品以外はミケランジェロが見るはずがない作品ばかりです。


27
町役場の人から教えられた「メリージ一家の家」に向かいます。


28
ローマ通りの外れにあります。


29
タバッキの先にある建物がそうです。


30
画家カラヴァッジョの肖像画があるので、直ぐに分かります。


31
かなり朽ち果ててます。


32
今はどうなっているでしょうか。



作品巡り 1.ローマ、ドーリア・パンフィーリ美術館
33
ドーリア・パンフィーリ宮殿です。


42
宮殿の中庭


34
カラヴァッジョの作品が3点あります。


35
このように3点の作品が展示されてます。


38
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ,1610)の「悔悛のマグダラのマリア」(1593)

カラヴァッジョが没した地について、取り敢えず従来の定説であるポルト・エルコレと表示することにします。
ナポリのフェデリーコ2世大学の教授で、定年後に同大学の名誉教授を務めたヴィンチェンツォ・パチェッリ氏を中心とした研究グループの調査研究によって、教皇庁の暗黙の了解のもとに、マルタ騎士団によってパロ・ラツィアーレの要塞でカラヴァッジョが斬首されたことが明らかにされました。この辺の詳細については、(その33)で触れることにします。
カラヴァッジョが没した地は、パロ・ラツィアーレ(現在の自治区分ではラディスポリのコムーネに属する)です。


39
注文主が不明で作品制作の経緯が分からないとされてます。足元に置かれた宝石類の静物画が描かれていて、果物籠に見られる卓越した技量に感嘆です。宝石類の横にある液体が入ったボトルが聖マリア・マッダレーナのアトリビュートである香油壺を示すのでしょう。
この作品は、ピエトロ・アルドブランディーニ枢機卿(ローマ、1571-1621)の死後の1627年に同枢機卿の遺産にあったことが確認されてます。
作品左上の斜光がカラヴァッジョ独特のものと思います。
なお、モデルは、カラヴァッジョが楽しんだ売春婦のアンナ・ビアンキーニ(ローマ、1579c-1604)だったことが知られてます。
1640年、アルドブランディーニ家のオリンピア・アルドブランディーニ(ローマ、1623-1681)がカミッロ・フランチェスコ・マリア・パンフィーリ枢機卿(ナポリ、1622-ローマ、1666)と結婚する際、この作品を持参したことで、パンフィーリ家の所有となり現在に至ってます。


37
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「エジプトへの逃避途中の休息」(1597c)


40
「エジプトへの逃避途中の休息」は、宗教画の定番ともいうべき画題ですが、聖ジュゼッペが掲げる楽譜を見ながら天使がヴァイオリン(多分)を演奏しており、このような着想の作品を観たことがない、非常に斬新な場面構成と思います。演奏している曲は、聖母への讃美歌と言われてます。
聖母マリアのモデルは、前述の売春婦アンナ・ビアンキーニだったと言われてます。
邸宅の壁に飾るために注文されたと思いますが、制作の経緯については諸説あり、その中の一つがピエトロ・アルドブランディーニ枢機卿の注文による説です。しかし、同枢機卿の遺産目録には、この作品が無いので、同枢機卿の依頼主説は否定されています。
17世紀初めにパンフィーリ家がこの作品を買収しました。


36
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「聖ジョヴァンニ・バッティスタ(洗礼者聖ヨハネ)」(1602)


41
この作品は、カピトリーノ美術館にある「聖ジョヴァンニ・バッティスタ」の複製と言われてます。
カピトリーニ美術館にある作品は、ローマ貴族チリアーコ・マッテイ(ローマ、1545-1614)が息子ジョヴァンニ・バッティスタの名前に因んで注文したと言われてます。当時、カラヴァッジョは最初のパトロンであるデル・モンテ枢機卿の屋敷を出て、マッテイ家の邸宅に移っていました。
洗礼者ヨハネを示すアトリビュートが一切描かれていないため、近年、この作品の画題は「聖ジョヴァンニ・バッティスタ」ではなく。「解放されたイサク」説が出されています。
ドーリア・パンフィーリ版は、カピトリーノ作品のカラヴァッジョ自身による複製ですが、その制作された経緯は分からないようです。また、ドーリア・パンフィーリ版以外にも10点の複製画の存在が確認されているそうです。

(つづく)

1私が初めてカラヴァッジョ作品を観たのは、1981年、ローマのバルベリーニ宮の絵画館でした。
当時、私は3か月間のヨーロッパ出張中でした。出張の相手先が色々と気を使ってくれて、週末にも各地を案内してくれて楽しかったのを覚えています。しかし、彼らは週末を犠牲にして、私の相手をしてくれた訳で、甘えてばかりではいけないと思い、自分一人で週末を過ごすことにしたのです。
そうして週末に訪れた都市の一つがローマでした。出張の相手先が予約していたホテルに宿泊したのですが、そのホテルはバルベリーニ広場を見下ろす場所に建っていました。
観光客が良く訪れる所にあちこち行き、歩き疲れてホテルに戻りました。ホテルで小休止していたのですが、折角来たからには有意義に過ごしたいと思い、ホテルのフロントに行き、近くでお勧めの場所を教えて欲しいと尋ねました。そうしたら、バルベリーニ宮の絵画館を勧められたのです。


2
当時の私は、美術品が特に好きと言うわけでもなく、偶に訪れる美術館でも印象派の作品ばかりを見ていました。
イタリアの芸術家では、ルネサンスの三巨人くらいしか知りませんでした。日本の美術教育の欠陥を諸に受けていた訳です。ましてカラヴァッジョと言う画家については。


6
第20室に入って、この作品を一目見るなり、衝撃を受けました。(当時、第20室にあったかどうかは定かではありません)


12
カラヴァッジョと言う画家の作品であることが分かりました。


7
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「ホロフェルネスを斬首するユディト」(1602c)


8
斬首されようとするホロフェルネス、眉間に皺を寄せて嫌悪感丸出しで斬首しようとするユディト、その横で首を入れる袋を持ちながら惨劇を目にする老婆の強烈な写実描写に衝撃を受けました。


10
刃が首の半分まで入っているので、ビー玉のような眼は瞬殺されたことを示しているように見えます。


13


9


11
画面から目を離すことが出来ませんでした。作品を凝視すること、30分ほど。
多少は目にしていた普通の宗教画とは全く違っていました。


5
「ユディト」が強烈過ぎて、この時は「聖フランチェスコ」については、よく覚えてません。


4
「ナルキッソス」は、実像と水辺に映る姿の完璧なシンメトリーに驚かされました。
かくして、カラヴァッジョへの興味が掻き立てられることになったのです。


14
三か月の出張で、この後、ロンドンのナショナル・ギャラリーに行きました。カラヴァッジョ作品を求めて。


17
ロンドンでは、3点のカラヴァッジョ作品を観ることが出来ました。
「エマオの晩餐」


18
「トカゲに噛まれた少年」


19
「サロメ」


16
その時の三か月出張では、ウィーンにも行きました。この時の演目はモーツアルトの「ドン・ジョヴァンニ」でした。


15
ウィーンでは、美術史美術館にも行きました。カラヴァッジョ作品があるとは確実なことは分かりませんでしたが、多分あるだろうと期待していました。
4点のカラヴァッジョ作品がありました。今では真作が3点とされてます。


20
「荊刑のキリスト」


21
「ダヴィデ」


22
「ロザリオの聖母」

その後、数多くのアメリカ、ヨーロッパ出張の折には、機会を見つけてはカラヴァッジョ作品を求めて各地の美術館を回りました。
今と違って、得られる情報には限度があったので、それこそ手探り状態で作品巡りを行ったのです。
私の現役生活が終わりに近づくにつれ、カラヴァッジョの足跡を辿る旅がしたいと思うようになりました。



足跡を辿って 1.ミラノ
23
ミラノのサント・ステファノ聖堂です。


24
以前から度々訪れていた教会ですが、カラヴァッジョの洗礼記録が発見されてからは、カラヴァッジョの足跡を辿る旅に置いて、最初に訪れるべき場所になりました。
私がカラヴァッジョ・ファンになった頃、カラヴァッジョの生地はカラヴァッジョ説が有力で、ミラノかも知れないとされていました。
しかし、この教会で1571年9月30日に洗礼を受けた記録が発見され、ミラノ生まれが確定したのです。乳児の死亡率が高かったので、生まれてから直ぐに洗礼を受ける習慣があったそうです。聖ミケーレの日の9月29日生まれが有力とされてます。
画家カラヴァッジョは、長男でしたが、その母は後妻であり、前妻が産んだ姉がいました。


25
カラヴァッジョとは関係ありませんが、サント・ステファノ聖堂は、ミラノ公爵ガレアッツォ・マリア・スフォルツァ(フェルモ、1444‐ミラノ、1476)が1476年12月26日に暗殺されたことで有名です。


26
サント・ステファノ聖堂の内部で暗殺されたのです。


27
ガレアッツォ・マリア・スフォルツァ公爵は、ルネサンスの女傑カテリーナ・スフォルツァ(ミラノ、1463c-フィレンツェ、1509)の父(父と言っても強姦しての父親です!)としても有名です。


28
洗礼を受けたからには、聖堂近くでカラヴァッジョが生まれたことは確実です。


29
という事で、教区付近をあちこち歩いてカラヴァッジョの生地を探しました。


30
これは徒労に終わりました。全く見つからず、痕跡すらも分からない。
メリージ一家がカラヴァッジョに移住する1577年まで、ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョはミラノで生活しました。
画家カラヴァッジョがミラノを離れるまでに、弟二人と妹が生まれました。メリージ家は、画家となるミケランジェロ、異母姉を含めて5人の子供がいたことになります。


31
1577年、ミラノではペストが大流行してました。当時のミラノ大司教カルロ・ボッロメーオがペスト罹患者を支援、介護したことから、「サン・カルロのペスト」と呼ばれてます。



足跡を辿って 2.カラヴァッジョ(コムーネ)Ⅰ
32
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョの父フェルモ・メリージは、カラヴァッジョ侯爵フランチェスコ1世・スフォルツァ・ディ・カラヴァッジョに仕える執事でしたが、建築家でもあり石工(煉瓦職人)も兼ねていたとされてます。
1577年、ペスト禍のミラノを避けて、フェルモ・メリージ一家はカラヴァッジョに避難、移住したそうです。
カラヴァッジョ駅に到着しました。カラヴァッジョには3回行きました。


34
カラヴァッジョ駅の駅舎


35
駅からカラヴァッジョの中心に向かう道


36
中心に向かう途中にサン・ベルネルディーノ教会があります。


37
修道院が併設されていました。


38
別称サンタ・マリア・デリ・アンジェリ修道院でした。


39
修道院だった建物は地元警察署として使用されてます。


40
キオストロ
(つづく)

1この日は、2015年2月26日でした。


2


3


4


5


6


7
ジャン・フランチェスコ・ペンニ(フィレンツェ、1490‐ナポリ、1528)の「聖母子と聖エリザベッタと聖ジョヴァンニーノ」のコピー画


8


9


10


11


12


13


14


15


16


17


18


19


20


21


22


23


24


25


26


27


28


29


30


31


32


33


34


35


36


37
私にとっての絵画館は、やはりカラヴァッジョの二作品に尽きます。


38


39


40
(おわり)

1この日は、2015年2月26日でした。


2
パオロ・ヴェロネーゼ(ヴェローナ、1528-ヴェネツィア、1588)の「善き政府の寓意」


3


4


5
パオロ・ヴェロネーゼ(ヴェローナ、1528-ヴェネツィア、1588)の「キリストの昇天」


6


8


7


9
パオロ・ヴェロネーゼ(ヴェローナ、1528-ヴェネツィア、1588)の「エウロパの強奪」


10


11


12


13


14
ジョヴァンニ・ボナーティ(フェッラーラ、1635c-ローマ、1681)の「聖母子と聖人たち」


15


16


17
浮彫


18


19
天井の装飾


20
アントニアッツォ・ロマーノ工房作「玉座の聖母子」(15世紀末‐16世紀初頭)


21


22


23


24


25


26


27


28


29


30


32


31


33


34


35


36


37


38


39


40
(つづく)

1この日は、2015年2月26日でした。


2
パルマ・イル・ヴェッキオ(ヴェネツィア、1480-1528)の「キリストと姦通女」


3


5


4


6
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(ピエーヴェ・ディ・カドーレ、1490c-ヴェネツィア、1576)の「キリストの洗礼」


7


8


9
ジョヴァンニ・ジローラモ・サヴォルド(ブレーシャ、1480c-ヴェネツィア?、1548以降没)の「女の肖像」


10


11


12
バッサーノ工房作「天上のキリスト」


13


14


15
バッサーノ工房作「マギの礼拝」


16
工房作のようです。


18


17


19
ドメニコ・ティントレット(ヴェネツィア、1560-1635)の「荊刑のキリスト」


20


22


21


23
ドメニコ・ティントレット(ヴェネツィア、1560-1635)の「キリストの鞭打ち」


24


25


26
ドメニコ・ティントレット(ヴェネツィア、1560-1635)の「キリストの洗礼」


27


28


29
ポリドーロ・ランチャーノ(ランチャーノ、1515c-ヴェネツィア、1565)の「聖家族と聖人たち」


30


31


32
ヤコポ・バッサーノ(バッサーノ・デル・グラッパ、1510c-1592)の「善きサマリア人」


33


34


35
ドメニコ・ティントレット(ヴェネツィア、1560-1635)の「聖マリア・マッダレーナ」


36


37


38
パオロ・ヴェロネーゼ(ヴェローナ、1528-ヴェネツィア、1588)の「平和の寓意」


39


40
(つづく)

1この日は、2015年2月26日でした。


2
ガロファロ(カナーロ、1476c-フェッラーラ、1555)の「聖会話」


3


4


5
ガロファロ(カナーロ、1476c-フェッラーラ、1555)の「受胎告知」


6


8


7


9
ガロファロ工房作「羊飼いの礼拝」


10


11


12
ガロファロ(カナーロ、1476c-フェッラーラ、1555)の「天上の聖母子」


13


15


14


16
ガロファロ工房作「アレッサンドリアの聖カテリーナの神秘な結婚」


17


18


19
ガロファロ工房作「マギの礼拝」


20


21


22
マッゾリーノの模倣者作「聖母の結婚」


23


24
ルドヴィーコ・マッゾリーノ(フェッラーラ、1480c-1528)の「ご誕生」


41


42



27
ガロファロ工房作「聖母子と聖ジョヴァンニーノ」


28
工房作のようです。


29


30


31
オルトラーノ(フェッラーラ、1487c-1527)の「バーリの聖二コラ」


32


33


34


35
オルトラーノ(フェッラーラ、1487c-1527)の「聖セバスティアーノ」


36


37


38
16世紀前半のフェッラーラの逸名画家作「若い女性の肖像」


39


40
(つづく)

1この日は、2015年2月26日でした。


2
バルトロメオ・ブルガリーニ(シエナ、1337-1378消息)の「聖マリア・マッダレーナ」


3


4


5
ジョヴァンニ・アントニオ・ソリアーニ(フィレンツェ、1492-1544)の「聖母子と二天使」


6


7


8
スカルセッリーノ(フェッラーラ、1550c-1620)の「マギの礼拝」


9


10


11
スカルセッリーノ(フェッラーラ、1550c-1620)の「寺院からの商人たちの追放」


12


13


14
スカルセッリーノ(フェッラーラ、1550c-1620)の「エジプトへの逃避」


15


16


17
スカルセッリーノ(フェッラーラ、1550c-1620)の「キリストの洗礼」


18


19


20
スカルセッリーノ(フェッラーラ、1550c-1620)の「マギの礼拝」


21


22


23
ガロファロ工房作「聖母と二聖人」


24


25


26
ガロファロ工房作「天上の聖母と聖人たち」


27


28


29
ドッソ・ドッシ(ジョヴァンニ・デル・ドッソ、1489-フェッラーラ、1542)の「聖家族」


30


31


32
ニッコロ・ピサーノ(ピサ、1470-1538消息)の「聖母子と聖ジョヴァンニ・バッティスタと聖ジローラモ」


33


36


37
16世紀前半のフェッラーラの逸名画家作「聖母子と聖人たち」


38


39


40
ガロファロ(カナーロ、1476c-フェッラーラ、1555)の「聖母子」


41


42
(つづく)

1この日は、2015年2月26日でした。


2
15世紀のフィレンツェの逸名画家作「聖ビアージョ」


3


4


5
コーラ・デッラマトリーチェ(アマトリーチェ、1480c-アスコリ・ピチェーノ、1547c)の「聖母の死」


6


7


8
14世紀のイタリア中部の逸名画家作「幼きキリストのエピソード」


9


10


11
15世紀のフィレンツェ派逸名画家作「聖母戴冠」


12


13


14
マルケ?の逸名画家(14世紀‐15世紀)の「玉座の聖母子と四聖人」


15


16


17
ビッチ・ディ・ロレンツォ(フィレンツェ、1373-1452)の「キリストの洗礼」


18
ビッチ・ディ・ロレンツォ(フィレンツェ、1373-1452)の「聖痕を受ける聖フランチェスコ」


19


20


21


22
Maestro della Dormitio di Terni(ウンブリア、14‐15世紀活動)の「聖バルトロメオ」


23


24


25
バルナーバ・ダ・モデナ(14世紀後半活動)の「キリストの昇天」


26


27


28
ニッコロ・ディ・ピエトロ・ジェリー二(フィレンツェ、1368-1416消息)の「三位一体」


29


30


31
アゴスティーノ・マルティ(ルッカ、1482-1540c)の「聖母子と聖人たち」


32


33


34
マクリーノ・ダルバ(アルバ、1470c-1520/1528)の「聖母子とバーリの聖二コラとトゥールの聖マルティーノ」


35


37


36


38
バルトロメオ・ブルガリーニ(シエナ、1337-1378消息)の「聖バルトロメオ」


39


40
(つづく)

1この日は、2015年2月26日でした。


2
アントニオ・カラッチ(ボローニャ、1589-ローマ、1618)の「聖母子と聖フランチェスコ」


3


4
グイド・レーニ(ボローニャ、1575-1642)の「祝福された魂」


5


6


7
カルロ・マラッタ(カメラーノ、1625-ローマ、1717)の「グイド・レーニ作『ユディト』の複製画」


8


9


10
ガロファロ工房作「聖母子と聖ジョヴァンニーノ」


11


12


13
ガロファロ工房作「アレッサンドリアの聖カテリーナの戴冠」


14


15


16
ドメニキーノ追随者作「聖バルバラ」


17


18


19
ピエトロ・ファッチーニ(ボローニャ、1575/1576-1602)の「アレッサンドリアの聖カテリーナの神秘な結婚」


20


21


22
16世紀のエミリアの逸名画家作「コレッジョの『この人を見よ』のコピー画」


23


24
ガロファロ工房作「聖家族と聖ジローラモ」


25


26


27
16世紀のイタリアの逸名画家作「コレッジョの『聖母子と聖マリア・マッダレーナと聖ルチア』のコピー画」


28


29


30
16世紀のイタリア中部の逸名画家作「ユディト」


31


32


33
カヴァリエール・ダルピーノ(アルピーノ、1568-ローマ、1640)の「聖アントニオ・アバーテ」


34


35


36
カヴァリエール・ダルピーノ(アルピーノ、1568-ローマ、1640)の「狩りのディアナ」


37


38


39
フランチェスコ・フランチャ(ボローニャ、1447-1517)の「キリストの神殿奉献」


40


41
(つづく)

1この日は、2015年2月26日でした。


2
フランチェスコ・アルバーニ(ボローニャ、1578-1660)の「聖母子」


3


4


5
ルドヴィーコ・カラッチ(ボローニャ、1555-1619)の「慈愛」


6


8


7


9
ルドヴィーコ・カラッチ(ボローニャ、1555-1619)の「聖チェチリア」


10


11


12
ロレンツォ・ガブリエーリ(ボローニャ、1580-1654)の「聖母子と聖人たち」


13


14


15
ルチオ・マッサーリ(ボローニャ、1569-1633)の「ベセスダの池」


16


17


18
ルドヴィーコ・カラッチ(ボローニャ、1555-1619)の「聖フランチェスコ」


19


20


21
グイド・レーニ(ボローニャ、1575-1642)の「聖ジローラモ」


22


23


24
グイド・レーニ(ボローニャ、1575-1642)の「幼きキリストと聖ジョヴァンニーノ」


25


27


26


28
グイド・レーニ(ボローニャ、1575-1642)の「冠を持つ若い女性」


29


30


31


32
グイド・レーニ(ボローニャ、1575-1642)の「聖心」


33


35


34


36
グイド・レーニ(ボローニャ、1575-1642)の「ルクレツィア」


37


38


39


40
グイド・レーニ(ボローニャ、1575-1642)の「クレオパトラ」


41


42
(つづく)

1この日は、2015年2月26日でした。


2
グエルチーノ(チェント、1591-ボローニャ、1666)の「聖ジョヴァンニ・バッティスタ」


3


4


5
グエルチーノ(チェント、1591-ボローニャ、1666)の「聖家族」


6


7


8


9
グエルチーノ(チェント、1591-ボローニャ、1666)の「聖ジョヴァンニ・バッティスタ」


10


11


12
ジョヴァンニ・バリオーネ(ローマ、1566-1644)の「天上の聖母」


13


14


15
グエルチーノ工房作「聖マリア・マッダレーナ」


16


17


18
グイド・レーニ(ボローニャ、1575-1642)の「聖セバスティアーノ」


19


20


21
グイド・レーニ(ボローニャ、1575-1642)の「聖マリア・マッダレーナ」


22


23


24
グイド・レーニ(ボローニャ、1575-1642)の「聖マリア・マッダレーナ」


25


26


27
デニス・カルヴァート(アンヴェルサ、1540c-ボローニャ、1619)の「アレッサンドリアの聖カテリーナの神秘な結婚」


28


30


29


31
アンニーバレ・カラッチ(ボローニャ、1560-ローマ、1609)の「聖フランチェスコ」


32


33


34
ルドヴィーコ・カラッチ(ボローニャ、1555-1619)の「若い男の肖像」


35


36


37
ルドヴィーコ・カラッチ(ボローニャ、1555-1619)の「聖家族」


38


40


39
(つづく)

1この日は、2015年2月26日でした。


2
カラヴァッジョの「聖ジョヴァンニ・バッティスタ」は貸し出し中で観ることが出来ませんでした。
このまま、進めては面白くないので、作品写真を載せておきましょう。


3
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ,1610)の「聖ジョヴァンニ・バッティスタ」


4


5
フランチェスコ・アルバーニ(ボローニャ、1578-1660)の「聖母の誕生」


6


7


8
フランチェスコ・アルバーニ(ボローニャ、1576-1660)の「聖マリア・マッダレーナ」


9


10


11
フランチェスコ・アルバーニ(ボローニャ、1578-1660)の「聖母子と二天使」


12


13


14
カルロ・サラチェーニ(ヴェネツィア、1579-1620)の「ラザロと富裕な人」


15


16


17
バルトロメオ・マンフレディ(オスティアーノ、1582-ローマ、1622/1623)の「ダヴィデ」


18


19


20
ピーテル・パウル・ルーベンス(1577‐1640)の「ロムルスとレムス」


21


22


23
ドメニキーノ(ボローニャ、1581-ナポリ、1641)の「シビッラ・クマナ」


24


25


26
グエルチーノ(チェント、1591-ボローニャ、1666)の「ペルシャのシビッラ」


27


28


29
ジョヴァンニ・アンドレア・シラーニ(ボローニャ、1610-1670)の「ウリッセ(ユリシーズ)とキルケ」


30


31


32
グエルチーノ(チェント、1591-ボローニャ、1666)の「聖ペトロニッラの埋葬」


33


34


35
グエルチーノ(チェント、1591-ボローニャ、1666)の「オッタヴィアーノとクレオパトラ」


36


37


38


39
ジョヴァンニ・バリオーネ(ローマ、1566-1644)の「足を洗う」


40


41
(つづく)

1この日は、2015年2月26日でした。


2
ピエトロ・ダ・コルトーナ(コルトーナ、1596-ローマ、1669)の「サビーネ女の強奪」


3


4


5
ジョヴァンニ・フランチェスコ・ロマネッリ(ヴィテルボ、1610-1662)の「無垢」


6


7


8
グリエルモ・コルテーゼ(フランス、1628-ローマ,1679)の「ダヴィデとゴリアテ」


9


10


11
エミリオ・サヴォナンツィ(ボローニャ、1580-カメリーノ、1660)の「アドニスの死」


12


13


14
ジョヴァンニ・フランチェスコ・ロマネッリ(ヴィテルボ、1610-1662)の「聖チェチリア」


15


16


17
ピエル・フランチェスコ・モーラ(コルドレリオ,1612-ローマ、1666)の「ディアナとエンディミオン」


18


19


20
フランソワ・ペリエ(フランス、1590-1649)の「黄金の子羊の崇拝」


21


22


23
ジョヴァンニ・ランフランコ(パルマ、1582-ローマ、1647)の「羊飼いの中のエルミニア」


24


25


26
ジョヴァンニ・バッティスタ・ヴィオラ(ボローニャ、1570/1576-ローマ、1622)の「聖セバスティアーノがいる風景」


27


28


29
ジョヴァンニ・バッティスタ・ヴィオラ(ボローニャ、1570/1576-ローマ、1622)の「聖マリア・マッダレーナがいる風景」


30


31


32
ピエトロ・パオロ・ボンツィ(コルトーナ、1576c-ローマ、1636)の「動物の群れがいる風景」


33


34


35
作品の左下に・・・・・


36
残念ながら貸し出し中でした。


37
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ,1571-ポルト・エルコレ,1610)の「女占い師」


39


38


40
(つづく)

1この日は、2015年2月26日でした。


2


3
ハブリエル・メツー(オランダ、1629-1667)の「磔刑」


4


5


6
ジョヴァンニ・マリア・ボッタッラ(サヴォーナ、1613-1644)の「兄弟たちによって売られるジュゼッペ」


7


8


9
ピエトロ・ダ・コルトーナ(コルトーナ、1596-ローマ、1669)の「ティツィアーノ作『聖母子と聖人たち』のコピー画」


10


11


12
ピエトロ・ダ・コルトーナ(コルトーナ、1596-ローマ、1669)の「ヴィーナスの車」


13


14


15
ジョヴァンニ・マリア・ボッタッラ(サヴォーナ、1613-1644)の「エサウとヤコブの邂逅」


16


17


18
ピエトロ・ダ・コルトーナ(コルトーナ、1596-ローマ、1669)の「教皇ウルバーノ8世の肖像」


19


20


21
ピエトロ・ダ・コルトーナ(コルトーナ、1596-ローマ、1669)の「バッカスの勝利」


22


23


24
ピエトロ・ダ・コルトーナ(コルトーナ、1596-ローマ、1669)の「マッテオ・サッケッティ?の肖像」


25


26


27
ピエトロ・ダ・コルトーナ(コルトーナ、1596-ローマ、1669)の「ポリッセーナの犠牲」


28


29


30
ピエトロ・ダ・コルトーナ(コルトーナ、1596-ローマ、1669)の「聖母子と天使たち」


31


32


33
ピエトロ・ダ・コルトーナ(コルトーナ、1596-ローマ、1669)の「トルファ山地のアッルミエーレ」
アッルミエーレの街は、この当時、ミョウバン鉱山で大いに繁栄していました。


34


35


36
ジョヴァンニ・フランチェスコ・ロマネッリ(ヴィテルボ、1610-1662)の「ダヴィデ」


37


38


39
ジョヴァンニ・フランチェスコ・ロマネッリ(ヴィテルボ、1610-1662)の「エレーナの誘拐」


40


41
(つづく)

↑このページのトップヘ