足跡を辿って 6.マダマ宮殿以前Ⅰ
さて、カラヴァッジョがローマに来た理由ですが、当時のカトリックが置かれた状況にあると思います。
宗教改革の波に飲まれて苦境にあったカトリックは、1545年から1563年に開催されたトレント公会議によって、宗教改革に対抗するカトリック側の改革を進めることになりました。プロテスタント側の聖人や聖遺物の崇敬排撃に対抗する一環として、教会の新造や教会の装飾が行われるようになりました。
その上、区切りの聖年1600年はを目指して、教会の改造や修復が行われていました。
つまり、カラヴァッジョにとって、ローマは自分の作品需要が見込めそうだったのです。
ローマへの到着前に、各地の教会や修道院を回る旅をしながら、実際に油彩画の祭壇画を観て、このぐらいの出来ならば俺の方が上手く描けそうと自信を抱いたのではないかと思います。

ローマのジェズ教会です。

イエズス会のジェズ教会は、反宗教改革のシンボル的存在です。1568年から1580年に建設され、1584年に奉献されました。

1590年から1650年に建設されたサンタンドレア・ヴァッレ教会です。

1518年から1589年に建設され、1589年に奉献されたサン・ルイージ・フランチェージ教会です。カラヴァッジョがローマに到着した当時、絵画などによる装飾が進んでいました。

オラトリオ会のサンタ・マリア・イン・ヴァリチェッラ教会(Chiesa Nuova)は、1575年から1614年に建設されました。

カラヴァッジョのローマ到着は、1595年の年末だったと書きましたが、実はそれを否定する資料があったので、1595年末説を確定させるには、その資料の問題を解決する必要がありました。
写真は、画家の同業者組合サン・ルカ・アカデミー(アッカデミア・ディ・サン・ルカ、画家のギルド)の建物です。

写真はサン・ルカ・アカデミー内に展示されている会員たちの肖像画です。
さて、カラヴァッジョも画家ギルドの会員になったのですが、1594年10月に行われたにサンタ・マリア・アル・フォロ・ボアーリオ教会(現在のサンティ・ルカ・エ・マルティーノ教会)で行われた画家ギルドの祝福された秘跡の40時間の崇拝(Qurantore)に参加した105人の画家のリストにカラヴァッジョの名前が記載されていました。
これが事実ならば、カラヴァッジョがローマに到着したのが1595年末説に矛盾することになります。

アッカデミア・ディ・サン・ルカのQuarantoreが行われた、現在のサンティ・ルカ・エ・マルティーノ教会です。
しかし、最近の研究で、カラヴァッジョの名前が記載されたQuarantoreに参加した画家リストには日付の記載がなく、1597年10月18日に行われたQuarantoreの画家リストであることが確認されました。これによってカラヴァッジョのローマ到着が1595年末であることを追認する形になりました。

写真はマダーマ宮です。
カラヴァッジョの最初のパトロンだったデル・モンテ枢機卿が当時住んでいたマダーマ宮にカラヴァッジョが住むようになったのは、1597年7月だったとの記録が残されてます。
カラヴァッジョのローマにおける空白期間は、これまでよりも大きく狭まって1595年末から1597年7月までの約1年半ということになりました。
僅か約1年半の短い間に、初期に描かれた作品、ロレンツォ・カルリ工房、アンティヴェデュート・グラマティカ、プロスぺロ・オルシなどとの交流、カヴァリエール・ダルピーノ工房などの出来事を全部詰め込む必要があることになりました。

1595年末にローマに到着したカラヴァッジョは、1596年3月にロレンツォ・カルリ工房に雇用されるようになりましたが、到着からそれまでの間、何をしていたのか、明確なことは全く分からないようです。
カラヴァッジョと面識があり、カラヴァッジョの伝記を書いたジュリオ・マンチーニ(シエナ、1559‐ローマ、1630)によれば、レカナーティ出身のモンシニョーレ・パンドルフォ・プッチの家に寄宿したそうです。

パンドルフォ・プッチは、困窮したカラヴァッジョに対して、食料不足の代わりにサラダばかりを食べさせたそうです。
嫌気がさしたカラヴァッジョは、プッチの家を飛び出し、ロレンツォ・カルリ工房に入ります。
ロレンツォ・カルリ工房で、生涯の友人マリオ・ミンニティと知り合ったようです。後にカラヴァッジョがローマで殺人を犯し、その逃亡先のマルタ島ヴァレッタで傷害事件を犯して、マルタ島から脱獄逃亡して、シチリアに逃げてきたカラヴァッジョを支援したのがミンニティです。

ロレンツォ・カルリの工房も長続きせず、アンティヴェデュート・グラマティカ(?、1571‐ローマ、1626)の工房に入ったようです。
グラマティカの両親はシエナ出身でしたが、シエナからローマへの旅の途中で、アンティヴェデュートが生まれたので、その生地が分かっていないようです。

1591年に独立して親方になったアンティヴェデュート・グラマティカは、Vicolo San Trifoneに工房を構えたようです。

1593年、アンティヴェデュート・グラマティカは、アッカデミア・ディ・サン・ルカに入会しました。
グラマティカはカラヴァッジョと同じ年齢だったので、弟子ではなく協力者としてカラヴァッジョを遇したようです。

ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)に帰属する「果物の皮をむく少年」
この作品の真作は、グラマティカ工房時代に描かれたかも知れません。カラヴァッジョ自身による複製画が数点あるほか、他の画家によるコピー画など、全部で10点以上の複製画があるようです。

Vicolo San Trifoneにある旧サン・ジャコモ病院の建物です。

カヴァリエール・ダルピーノ(アルピーノ、1568-ローマ、1640)の「自画像」(1640)
アッカデミア・ディ・サン・ルカにあります。
カラヴァッジョは、ダルピーノ工房に入りました。その時期は不明ですが、1596年春にダルピーノ工房に入り、その期間は約8か月でした。
ダルピーノはカラヴァッジョよりも3歳年長でしたが、当時のローマにあって大活躍していました。多くの注文を抱えて、多忙を極めており、一部の注文に対して応じきれない状況でした。

ダルピーノ工房は、カンポ・マルツィオ地区のVicolo della Torettaにありました。

カヴァリエール・ダルピーノは、フレスコ画が得意な画家でした。カラヴァッジョは、漆喰が乾かないうちに一気に描きあげるフレスコ画が苦手だったので、工房ではフレスコ画よりも油彩画を担当した可能性があります。

写真はVicolo della Torettaです。
ダルピーノ工房では、兄のジュゼッペ・チェーザリ通称カヴァリエール・ダルピーノ(アルピーノ1568‐ローマ、1640)の弟ベルナルディーノ・チェーザリ(アルピーノ,1571-ローマ、1622)と親しかったようです。
画家としてのベルナルディーノは凡庸で、兄の助手に留まりましたが、素行が悪く、1592年11月9日、盗賊と共謀して犯罪を犯し、死刑宣告を受けてナポリに逃亡した過去がありました。1593年5月13日、赦免されてナポリからローマに戻り、ダルピーノ工房に戻りましたが、ローマの暗黒街に顔が利く男でした。このような行状のベルナルディーノとの交遊は、元々素行が宜しくなかったカラヴァッジョが悪の道にさらに踏み込む切っ掛けとなったとされてます。
また、ベルナルディーノとはダルピーノ工房に入る前に既に交遊があって、ベルナルディーノの勧めによってカラヴァッジョがダルピーノ工房に入ったという説もあります。

この作品はダルピーノが所持していました。そのため、カラヴァッジョがダルピーノ工房で働いていた時期に描かれたとするのが自然でしょう。

カラヴァッジョがダルピーノ工房にいた時代に描かれたと思われる作品です。

写真は、サンタ・マリア・デッラ・コンソラツィオーネ病院です。

カラヴァッジョは、馬に蹴られた、またはマラリアが原因で、サンタ・マリア・デッラ・コンソラツィオーネ病院に入院しました。
入院中、カラヴァッジョは数点の作品を入院費の代わりとして描き、病院長に渡したという説があります。
入院中、ダルピーノは一度も見舞いに訪れず、それを不満に思ったカラヴァッジョはダルピーノ工房に戻らなかったようです。
作品巡り 6.ローマ、国立古典絵画館(バルベリーニ宮)

ローマのバルベリーニ宮殿です。

バルベリーニ宮の国立古典絵画館には、カラヴァッジョの作品が3点あります。

第20展示室でカラヴァッジョ作品が展示されてます。

カラヴァッジョを敵視していたジョヴァンニ・バリオーネの作品がカラヴァッジョの作品と並んで展示されてます。

ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「ホロフェルネスを斬首するユディト」(1600-02c)

銀行家でコンセンテ伯爵のオッタヴィオ・コスタ(コンセンテ、1554-ローマ、1639)によって注文された作品です。
オッタヴィオ・コスタは美術愛好家で、カラヴァッジョのパトロンでした。グイド・レーニ、カヴァリエール・ダルピーノ、ジョヴァンニ・ランフランコなどに注文しました。
幾つかの作品をカラヴァッジョに注文しましたが、現在、ハートフォードの「光悦のフランチェスコ」、カンザスシティの「砂漠の聖ジョヴァンニ・バッティスタ」とバルベリーニのこの作品の3点が確実にコスタ伯爵の注文によるものです。

生々しい凄惨な斬首場面は一度見たら忘れられない!

1599年9月11日、サンタンジェロ城広場で公開処刑されたベアトリーチェ・チェンチ(ローマ、1577-1599)とベアトリーチェの継母ルクレツィアの斬首を参考に描かれたとされてます。
その公開処刑には、友人のオラツィオ・ジェンティレスキ、オラツィオの娘で最高のカラヴァッジェスキ画家となったアルテミジア・ジェンティレスキがカラヴァッジョと一緒だったそうです。

鮮烈な印象を与える表情




ユディトのモデルは、娼婦のフィリデ・メランドーニ(シエナ,1581-ローマ、1618)と言われていました。

しかし、近年の研究によって、メランドーニ説が否定され、ロレンツォ・カルリの妻だったマッダレーナ・アントネッティ(ローマ、1579-?)説が有力とされているようです。


カラヴァッジョは同じ主題の作品をもう1点描いたそうです。
写真は、2014年にフランス・トゥールーズの屋根裏部屋で発見された「ホロフェルネスを斬首するユディト」です。
発見された当初、カラヴァッジョの真作の可能性が高いとされていました。後にオークションにかけられる予定でしたが、突然取りやめになり、2019年にアメリカ人コレクターに販売されたそうです。カラヴァッジョ作品説に対して、多くの批評家が否定しており、他画家によるカラヴァッジョ作品の複製画の可能性が高いようです。
屋根裏部屋で発見された作品の鑑定に用いられたルイ・フィンソンによるカラヴァッジョ作品の複製画がある(ナポリのGalleria d’Italiaの所蔵)があるのですが、屋根裏部屋で発見された作品もルイ・フィンソンの複製画説も有力です。

ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「ナルキッソス](1597-99)

美術史家のロベルト・ロンギ(アルバ、1890-フィレンツェ、1970)によってカラヴァッジョの作品説が唱えられ、それが定説となって現在に至ってます。
オラツィオ・ジェンティレスキ、ニッコロ・トルオーニ、スパダリーノの作品説もありました。

依然として、スパダリーノ作品説を唱える美術史家がいます。



ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「瞑想の聖フランチェスコ」(1605)

ローマ近郊のカルピネート・ロマーノのサン・ピエトロ教会が写ってます。
ピエトロ・アルドブランディーニ枢機卿(ローマ、1571-1621)が1606年頃に、ローマで殺人を犯したカラヴァッジョの逃亡中に注文して制作された作品です。
アルドブランディーニ枢機卿は、1609年にカルピネートのサン・ピエトロ教会に寄贈しました。

この作品は、1967年にカルピネート・ロマーノのサン・ピエトロ教会聖具室で発見されました。
(つづく)