イタリア芸術を楽しむ

イタリアの魅力を味わい尽くすには、一生に何度旅をすれば足りるだろう。芸術の宝庫にして、歴史の生きた証であるイタリア。 惹き付けて止まない絵画、彫刻、歴史的建造物、オペラなど、芸術の宝庫であるイタリアを楽しむブログです。 記事は一日に一つアップしています。記事の見方ですが、例えば「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その4)」は2017年10月20日にアップしました。各記事にカレンダーが表示されてますが、カレンダー上の2017年10月21日をクリックして頂ければ「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その5)」になります。(その3)は2017年10月20日となります。 BY:シニョレッリ

2023年07月

足跡を辿って 9.サン・ビアージョ小路のアパート居住時代Ⅱ
200
カラヴァッジョの素行が改まることはなく、犯罪記録が続きます。彼の確実な行動を知る手段が警察や裁判所の記録ですから恐れ入るほかありません。


201
スペイン広場からポポロ広場に通じるバブイーノ通りがあります。


202
1604年10月19日から20日にかけての深夜、バブイーノ通りで事件が起こります。


203
バブイーノ通りです。

カラヴァッジョは、教皇の使者ピエトロ・パオロ・マルテッリ、香水屋アレッサンドロ・トンティ、本屋のオッタヴィアーノ・ガブリエッリなどと一緒にバブイーノ通りを歩いていましたが、警官から剣の携帯許可証を持っているか、と職務質問を受けました。その際尋問した警官に投石して暴言を吐いたとして逮捕されました。


204
逮捕後の聴取で、カラヴァッジョは、「建築家オノリオ・ロンギと通りを歩いていて、知り合いの娼婦と出会って立ち話をしている時に、石の音が聞こえたけれど、警官に対しては何も言っていない」と否認しました。
オノリオ・ロンギがカラヴァッジョの一行と一緒だったかは不明のようで、この時のロンギの逮捕記録は残されていません。


212
逮捕された四人の供述は少しづつニュアンスが異なっていて、口裏合わせが出来なかったようです。


205
写真は、トル・ディ・ノーナ監獄です。トル・ディ・ノーナは15世紀からローマの主要監獄でした。

カラヴァッジョ、ピエトロ・パオロ・マルテッリ、アレッサンドロ・トンティ、オッタヴィアーノ・ガブリエッリの四人は、逮捕後、トル・ディ・ノーナ監獄に拘留されました。罪状は四人とも否認しました。この時の刑罰に関する記録が残されていないようです。


207
バブイーノ通りの事件から、僅か3週間後の1604年11月18日に、キアヴィカ・デル・ブッファロ通り(当時の通りの名称で、現在は単にブッファロ通りと呼ばれてます)で事件が起こります。


209
1604年11月18日の恐らく未明、キアヴィカ・デル・ブッファロ通りで剣と短剣を持って歩いていたカラヴァッジョは警官から呼び止められ、剣の携帯許可証の提示を求められました。
カラヴァッジョが許可証を提示すると、警官が了解して「おやすみ」と言って別れようとしたのですが、カラヴァッジョはなぜか逆上して、警官に対して酷い侮蔑する言葉を浴びせたので、逮捕されてしまいました。


210
疑いが晴れ、そのまま警官と別れれば問題ないのですが、ここで敢えて問題を起こすのがカラヴァッジョなんですね。


211
写真はPalazzo del Buffaloです。

これだけ事件を起こしたとなると、カンポ・マルツィオ地区の警官の間では、カラヴァッジョは面が割れ?のかなり有名な男と見做されていたかもしれません。


206
今回も逮捕後にトル・ディ・ノーナ監獄に収監されました。


213
今度は、カラヴァッジョは法を犯す側ではなく、被害者となって当局にお願いに行ったのです。


214
年が変わって、自分(カラヴァッジョ)の名前が使われて、教皇庁の下士官が騙されて40scudiのマントが取られた事件の加害者アレッサンドロ・リッチを釈放しないようにと、1605年2月16日に当局に出向いて要請しました。名前を騙られて詐欺事件が起きるほど、カラヴァッジョが有名だったことがこの事件で分かります。


215
カラヴァッジョの女とみなされていたマッダレーナ・アントネッティ通称レーナ(ローマ、1579-?)の家がコルソ通りのサンティ・アンブロージョ・カルロ教会の傍にありました。


216
レーナは、娼婦でしたが、度々カラヴァッジョのモデルを務めました。


219
レーナがモデルと言われている「アレッサンドリアの聖カテリーナ」


221
「ロレートの聖母」の聖母もレーナがモデルと言われてます。
これら2つの作品を含めて、レーナがモデルとなったカラヴァッジョ作品が7点あるそうです。

次はまたしてもカラヴァッジョの警察沙汰となりますが、前回が1604年11月で今回が1605年5月ですから、約7か月間空いたことになります。しかし、カラヴァッジョの行状から察すると、その間、警察沙汰が全くなかったとは考え難い訳で、デル・モンテ枢機卿など有力パトロンが介入して事件をもみ消した可能性があると思います。


217
写真はコルソ通りです。

1605年5月28日、レーナの家の傍で、剣を帯びてコルソ通りを歩いていたカラヴァッジョは、警官から剣の携帯許可証の提示を求められましたが、この時は許可証を持っていなかったので、武器の不法所持によって逮捕収監されてしまいました。


218
写真は、コルソ通りに面したサンティ・アンブロージョ・エ・コルソ教会です。

逮捕された翌日に行われた取り調べで、カラヴァッジョは、武器の携帯許可は当該する役所から口頭で得ていると主張し、それが認められたようで、この時は刑罰なしで釈放されました。


220
逮捕された際、ピーノ警察署長によってカラヴァッジョが持っていた剣と短剣が没収されたのですが、没収された剣と短剣のスケッチが取り調べ書の左下に描かれてます。(写真は取り調べ書で、左下に剣と短剣のスケッチが描かれてます)


222
写真はサンティ・アンブロージョ・エ・カルロ教会です。

1605年7月19日、マッダレーナ・アントネッティ通称レーナの家の隣に住むラウラ・デッラ・ヴェッキアとラウラの娘イサベッラ・デッラ・ヴェッキアの二人がレーナを中傷したことを聞き付けたカラヴァッジョが、レーナに対する悪口の仕返しとばかりに、デッラ・ヴェッキア母娘が住む家の扉とファサードを壊した廉で、逮捕され、またしてもトル・ディ・ノーナ監獄に収監されました。
この時は、画家兼彫刻家のケルビーノ・アルベルティ、画家兼画商のプロスぺーロ・オルシ、本屋のオッタヴィアーノ・ガブリエッリなどが保証人となって保釈金を立て替え払いして、カラヴァッジョは釈放されました。


16
この頃、カラヴァッジョは、警察沙汰の合間?に、サン・ビアージョ小路のアパートで「この人を見よ」を制作していました。


225
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「Ecce Homo(この人を見よ)」


224
ジェノヴァのストラーダ美術館のPalazzo Biancoにあります。


226
ローマの貴族マッシモ・マッシミが1605年7月に注文した作品です。
この作品の前に、マッシミは「荊刑のキリスト」をカラヴァッジョに注文しましたが、それに対になるように「この人を見よ」を注文しました。
この時、マッシミはカラヴァッジョだけではなく、チゴリ、パッシニャーノにも「Ecce Homo」を注文しました。


227
チゴリの「Ecce Homo」はフィレンツェのパラティーナ美術館にありますが、2016年に上野の国立西洋美術館で行われた「カラヴァッジョ展」に出展されていました。


228
写真はナヴォーナ広場です。

この広場でカラヴァッジョが事件を起こします。


229
1605年7月29日の夜9時ころ、公証人Mariano Pasqualoneが教皇庁の役人と一緒にナヴォーナ広場を歩いていると、後方から剣で斬り付けられて頭を負傷して転倒したが、襲撃した者が誰からは判別できなかったものの、襲撃したのはカラヴァッジョ以外には考えられないとして、カラヴァッジョはパスクゥアローネから訴えられました。
カラヴァッジョの女であるマッダレーナ・アントネッティ通称レーナと数日前に口論したので、カラヴァッジョがそれを根に持ってレーナの仕返しとして襲撃したのに間違いないと訴えました。


230
この襲撃後、カラヴァッジョがデル・モンテ枢機卿が住んでいたマダマ宮殿に逃げ込んでいたのを目撃されていました。
目撃者がいたことを知ったカラヴァッジョは、観念したのかローマから逃亡しました。


231
逃亡先にカラヴァッジョが選んだのは、ジェノヴァでした。


232
ジェノヴァのドーリア・トゥルシ宮です。現在、ジェノヴァ市の市庁舎として使用されてます。


233
当時、この宮殿には海軍提督のジョヴァンニ・アンドレア1世・ドーリア侯爵(1539-1606)が住んでいました。カラヴァッジョは、有力なパトロンだったジェノヴァ出身の銀行家ジュスティアーニ侯爵家を頼ってジェノヴァを選んだとされており、ドーリア侯爵を頼ってジェノヴァに逃亡したのです。カラヴァッジョ侯爵夫人コスタンツァ・コロンナの援助によってジェノヴァに逃亡したとの有力説もあります。
1605年8月6日、カラヴァッジョがジェノヴァにいたことを示す記録が残されてます。


234
写真はVilla Principeです。現在は美術館として一般公開されてます。

このVillaもジョヴァンニ・アンドレア1世・ドーリアが所有しており、ジェノヴァ逃亡中のカラヴァッジョは主に、このVillaに滞在していました。
有名なアンドレア・ドーリア海軍提督(1466-1560)はジェノヴァの支配者でしたが、海軍提督はジョヴァンニ・アンドレアの大叔父に当たります。ジョヴァンニ・アンドレアの父が早世したことにより、ジョヴァンニ・アンドレアは海軍提督アンドレア・ドーリアの後継者となりました。
カラヴァッジョの父が仕えたカラヴァッジョ侯爵の夫人コスタンツァ・コロンナは、コロンナ家出身でしたが、アンドレア・ドーリアの妻がコロンナ家の出身だったので、その縁でカラヴァッジョがジョヴァンニ・アンドレア1世・ドーリアを頼ったとされてます。


235
Villa Principeのロッジャです。

カラヴァッジョがこのヴィッラに滞在中、ジョヴァンニ・アンドレア1世が6000scudiの大金でカラヴァッジョにフレスコ画制作を依頼しましたが、拒否された話が残されてます。フレスコ画が苦手なカラヴァッジョなので、大金でもフレスコ画制作の注文を受けなかったのでしょう。


236
写真はローマのボルゲーゼ広場です。

シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿の尽力によって、カラヴァッジョの襲撃事件の和解に向けた調停進捗の話を受けて、1605年8月24日、カラヴァッジョはジェノヴァからローマに戻りました。


237
写真はPalazzo Quirinaleです。

1605年8月26日、この宮殿内のボルゲーゼ枢機卿の部屋で、カラヴァッジョは誓約書に署名して、マリアーノ・パスクゥワローネの殺人未遂の訴えが取り下げられ、和解調停の運びとなりました。


238
オッタヴィオ・レオーニ(ローマ、1578-1630)の「シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿の肖像」


239
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)に帰属する「男(シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿とされる)の肖像」

この和解調停後、ボルゲーゼ枢機卿はカラヴァッジョのパトロンになりました。


240
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「執筆する聖ジローラモ」

カラヴァッジョが、和解調停のお礼としてボルゲーゼ枢機卿に贈ったとされる作品です。


241
ボルゲーゼ美術館で展示されてます。
(つづく)



足跡を辿って 9.サン・ビアージョ小路のアパート居住時代Ⅰ
200
1604年5月頃、カラヴァッジョは、マッテイ宮を出て、Vicolo San Biagioのアパートに転居するのですが、その前に、カレル・ファン・マンデルが書いたカラヴァッジョに関する記述と料理屋でのトラブルに触れておきます。


206
カレル・ファン・マンデル(1548-1606)は、ドイツの画家、詩人、伝記作家です。この肖像画は、マンデルが著作した本に挿入されているマンデル自身のものです。


205
カレル・ファン・マンデル著の本の表紙

マンデルは、イタリアに旅行して、ヴァザーリの「列伝」を知り、同じような内容の本を書きたいとして、1604年に「画家列伝」を出版しました。イタリア旅行中にカラヴァッジョのことを知り、この本の中で次のように叙述しています。
「ローマで素晴らしいものを描いたミケランジェロ・ダ・カラヴァッジョもいる。良い小麦には雑草が生えるものだ。事実、ミケランジェロは仕事をし続けることはなく、二週間ほど仕事をしたと思えば、剣を携え、従者を伴って、勇んで一、二か月気晴らしに出かけるのである。そして、球戯場を渡り歩き、議論を吹っかけては、大喧嘩を引き起こすのを常とした。だから、彼と付き合うことのできる者は極めて稀だった。にもかかわらず、彼の絵には議論の余地がない。」
居酒屋、賭場、売春宿などにも出入りしたことでしょう。画家ですが、売られた喧嘩は必ず買う、喧嘩を売るのが好きという喧嘩好きの凶暴なヤクザもんと同じでしたね。


210
写真は、Carciofi alla romana ローマ風アーティチョークです。
ローマの春の典型的な料理です。

次はカラヴァッジョの有名な「カルチョーフィ事件」です。カラヴァッジョが注文した料理が写真のものであるか、どうか分かりませんが、写真の料理に似たり寄ったりだったと思います。


207-1
事件はマッダレーナ通りのオステリア・デル・モーロで起きました。


207
マッダレーナ広場付近には食堂が幾つかありました。


208
現在のマッダレーナ広場とマッダレーナ通りの写真です。

1604年4月24日から25日にまたがる深夜、カラヴァッジョは、オステリア・デル・モーロに仲間二人と一緒に訪れ、カルチョーフィ料理を8皿(8個?)注文しました。給仕が料理を運んでいくと、カラヴァッジョが「カルチョーフィをバターで炒めたものか、油で炒めたものか」と聞いたので、給仕は「匂いを嗅げば分かります」と答えたところ、カラヴァッジョが激怒して、何も言わずにカルチョーフィの皿を給仕に投げつけ、給仕に傷を負わせた事件が起きました。
カラヴァッジョの直ぐに頭に血が上って激高する性格がよく表れてます。
オステリア・デル・モーロがあった場所は特定されてません。


209
この時の事件記録がローマ国立古文書館に残されてます。以下がその時の記録です。

1604年4月24日
コモ湖地方出身の故ジョヴァンニ・アントニオ・デ・フォザッチャの息子で、マッダレーナ聖堂付近のモーロという食堂をしているピエトロがローマの画家ミケランジェロ・カラヴァッジョを告訴し、検察局も起訴したため、法廷にて尋問が行わなければならない。その供述内容は以下の通り。
被告人(カラヴァッジョ)は17時(正午 注:原文で17時と記してあり、括弧して正午と書かれてます))頃、ほかに二人連れ立って、私(ピエトロ・デ・フォザッチャ)が給仕をしているマッダレーナ聖堂近くのオステリア・デル・モーロにやってきました。私は、彼らのテーブルにカルチョーフィを8つ、つまりバターで炒めたものと油で炒めたものをそれぞれ4つ、持っていきました。被告人は私に、これはバターで炒めたものか油で炒めたものかを聞いてきたので、においを嗅げばすぐわかるでしょう、と答えました。すると被告人は激昂して、何も言わずに陶器の皿を取って私の顔めがけて投げつけてきたのです。皿は左の頬に当たって、軽い怪我を負いました。ー(ピエトロの)左頬の目元近くには軽い切り傷があり、流血しているのを書記官も確認した。事実に基づきこれを付記するーそれから、あの男は立ち上がって、テーブルにいた仲間の剣を手に取ったのです。きっと私を斬り付けるためだったのでしょう。しかし、私はそこから逃げ出し、この裁判所にやってきて、こうして訴えを起こしたのです。そこには、クルツィオ・マルティーリ氏、孤児院長ルティーリオ氏らがいました。

この事件でカラヴァッジョは有罪となりましたが、量刑の詳細は不明となってます。


211
事件の舞台となった店と同名の店がVicolo del Cinque 36にありますが、トラステヴェレ地区なのでカラヴァッジョの事件とは全くの無関係です。
この店をカラヴァッジョの事件が起きた店と書いてあるブログを見たことがあるので、ご参考までに載せておきます。


201
カルチョーフィ事件から間もなくの1604年5月頃、カラヴァッジョはマッテイ宮を離れて転居します。


214
転居先は、カンポ・マルツィオ地区のサン・ビアージョ小路の賃貸アパートでした。


213
サン・ビアージョ小路は改称されて、現在はVicolo del Divino Amore ディヴィーノ・アモーレ小路となってます。


6
この小路に面して建っている教会の名称に由来して、通りの名称が変更されました。


203
カラヴァッジョが借りたアパートは、ディヴィーノ・アモーレ小路の19番地に現存しています。


204
アパートの入り口です。
1601年6月14日、ノルチャ出身の法律家ラエルツィオ・ケルビーニ(ノルチャ、1556c-ローマ、1626)、翌年までに作品を引き渡すという条件で「聖母の死」を注文したものの、注文後約3年を経ても「聖母の死」が完成しなかったので、カラヴァッジョが制作に専念できるように部屋を借りるように取り計らったようです。


212
カラヴァッジョが住んでいたことを示す銘板などがありませんが、現在、それを示すものはこれだけのようです。

この建物は、「聖母の死」を注文したラエルツィオ・ケルビーニの所有でしたが、皮革商人だったボニファチョ・シニバルディの未亡人プルデンツィア・ブリーニという女性が、その建物の用益権を1593年以降所有していました。ブリーニとカラヴァッジョとの間で1604年5月8日付で賃貸契約が締結されました。その契約書の中で、部屋をより広く、採光をよくするために天井の一部を壊して改造することを許可するとなっていて、退去の際、カラヴァッジョの費用負担で現状に復帰させるという条項が付け加えられました。


7
カラヴァッジョが借りた一階(日本の二階)の部屋です。

契約後の1604年5月頃、カラヴァッジョと従者の二人はアパートに引っ越しました。カラヴァッジョは一人ではなく、従者と一緒に転居したのですが、その従者はチェッコ・デル・カラヴァッジョ(1580-1630)だったという説が有力です。チェッコは、カラヴァッジョに師事し、カラヴァッジョのモデルを務めるとともにカラヴァッジョの恋人でした。


202
カラヴァッジョが転居したアパートの中庭

借りたアパートで「聖母の死」の制作に励みましたと書きたいところですが、居酒屋、売春宿、賭博場、球戯場など風紀が悪い場所に出入りしていたようです。
サン・ビアージョ小路を少し進めば、ローマの売春婦7千人を閉じ込めたゲットーの入り口があり、この小路界隈は快楽を求めてゲットーに行き来する人たちが通る風紀の悪い場所でした。そのゲットーを縄張りにするのがトマッソーニ一家で、後にカラヴァッジョによって斬られるラヌッチョ・トマッソーニは一家のポン引きをしてました。


215
時間経過通りに話を進めるべきですが、「聖母の死」に触れたので、「聖母の死」を先にしましょう。
1593年から1610年に建設されたバロック様式のサンタ・マリア・デッラ・スカラ教会です。


216
1601年6月14日、カラヴァッジョは、法律家ラエルツィオ・ケルビーニから左第二礼拝堂の祭壇画として「聖母の死」の注文を受けました。


214
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「聖母の死」

1602年末までに作品を引き渡すという契約でしたが、完成は非常に遅れて1605年5月から1606年6月の間にずれ込みました。
縦369cm、横245cmの巨大な作品でした。そのため、サン・ビアージョ小路に借りた部屋の天井を高くする必要があったのでしょう。


218
注文主であるラエルツィオ・ケルビーニは、作品を受け取りましたが、サンタ・マリア・デッラ・スカラ教会を管理するOrdine dei Carmelitani Scalzi(跣足カルメル会)から受け取りを拒否されてしまいました。


219
聖マリア・マッダレーナ

弛緩して腹が膨らみ、剥き出しの裸足の聖母を死体そのものに、あまりにも写実的に描き、カルメル会の理想とする聖母とかけ離れた表現に加えて、死亡した娼婦をモデルにしたことが大変なスキャンダルになったので、教会側が受け取りを拒否したとされてます。


220


221
カラヴァッジョ作品によく登場する、おなじみの顔が描かれてます。


222
教会側が希望する「聖母の死」が制作されて、今でも、その作品が礼拝堂祭壇を飾ってます。


217
カルロ・サラチェーニ(ヴェネツィア、1579c-1620)の「聖母の死」

物議を醸しだして教会側から拒否されたカラヴァッジョの「聖母の死」にとって代わって制作された「聖母の死」です。
目を開き祈っている聖母が死んでいるのです。これが教会側が考えていた「聖母の死」だったのです。見ただけでは「祈りの聖母」にしか見えません。
カルロ・サラチェーニは、カラヴァッジェスキ画家の第一世代の画家というべき存在でした。


213
さて、カラヴァッジョの「聖母の死」は、現在、ルーブル美術館にありますが、ルーブル所蔵となった経緯について触れておきましょう。

教会側から受け取りを拒否されてから暫くは注文主であるラエルツィオ・ケルビーニが所有してましたが、ケルビーニの財政悪化によって売りに出されました。ルーベンスが当時仕えていたマントヴァのヴィンチェンツォ・ゴンザーガ公爵に購入を強く勧めたことからゴンザーガ家の所有となりました。
17世紀、ゴンザーガ家直系の最後の子孫チャールズ1世・ゴンザーガ公爵(1580-1637 公爵位:1627-1637)の時代、衰退して厳しい財政状況改善の一助としてゴンザーガ家コレクションが売りに出され、カラヴァッジョの「聖母の死」はイギリスのチャールズ1世(1600‐1649 王位在位:1626-1649)が購入しました。
清教徒革命によってチャールズ1世が処刑されると、「聖母の死」はイギリス政府の所有となりました。その後、パリの銀行家に売られ、その銀行家がルイ14世に献じて、ヴェルサイユ宮殿のコレクションに加えられました。


5
さて、話をカラヴァッジョが居住した、現在のディヴィーノ・アモーレ小路に話を戻します。


8
サン・ビアージョ小路からディヴィーノ・アモーレ小路二通りの名称変更の由来となった、サンタ・マリア・デル・ディヴィーノ・アモーレ教会が小路に面して建ってます。


11
1131年に遡る歴史を持つ教会なので、カラヴァッジョが住んでいた時にも、この教会は存在していました。


9
鐘楼


10
教会の銘板


12
カラヴァッジョがこの教会のミサに出た記録はありません。しかし、この教会の前を毎日行き来していたと思われます。


15
単廊式の小さな教会です。


14
サンタ・マリア・デル・ディヴィーノ・アモーレ教会の主祭壇画


13
(つづく)

足跡を辿って 8.「ロレートの聖母」の旅
200
ジョヴァンニ・バリオーネから起こされた、所謂「バリオーネ裁判」が決着しました。


201
カラヴァッジョは、バリオーネ裁判後もマッテイ宮に寄寓していました。


202
カヴァッレッティ家のローマにおける邸宅 Palazzo Cavallettiです。

この邸宅の主エレメーテ・カヴァッレッティ侯爵(ボローニャ、?-ローマ、1602)は、教皇庁のCamera Apostolicaの公証人兼会計士を務めていました。死の三か月前にロレートに巡礼の旅をして、ロレートへの信仰心を揺るぎないものにしてローマに帰りました。


203
ローマのサンタゴスティーノ聖堂です。


204
エレメーテ・カヴァッレッティ侯爵は、サンタゴスティーノ聖堂に礼拝堂を購入し、その礼拝堂をカヴァッレッティ家の礼拝堂にするとともに、その祭壇画を「ロレートの聖母」にするようにとの遺言と莫大な金を残して1602年7月21日に没しました。


205
残された遺族と遺言執行人は、1603年9月4日、サンタゴスティーノ聖堂の左第一礼拝堂を購入するとともに、1603年9月にその礼拝堂の祭壇画としてカラヴァッジョに「ロレートの聖母」を注文しました。


213
「ロレートの聖母」の注文を受けて、1603年秋ごろからカラヴァッジョはマルケ地方への旅に出ました。
残された記録から、アスコリ・ピチェーノで祭壇画を制作したこと、1604年1月にトレンティーノで祭壇画を描いたことが分かっていますが、それ以外のことは不明です。
しかし、「ロレートの聖母」を受注してマルケへの旅に立たからには、トレンティーノから僅かな距離にあるロレートに向かったのは当然でしょう。


206
往復の旅程が全く分かりませんが、往路と復路とも同じ道を通ったと仮定すれば、当時の街道から推察して、ローマからテルニを経由してアスコリ・ピチェーノに入り、更に足を延ばしてトレンティーノ、マチェラータ、レカナーティを経由してロレートに到着したと考えても不自然ではありません。


215
テルニのPalazzo Spedaです。


216
アスコリ・ピチェーノです。


217
アスコリ・ピチェーノに来たからには、ドゥオーモの有名な多翼祭壇画を観たことでしょう。


218
アスコリ・ピチェーノのドゥオーモにあるカルロ・クリヴェッリの多翼祭壇画


219
アスコリ・ピチェーノでカラヴァッジョが祭壇画を描いた教会に向かいます。写真正面に、その教会がありました。


220
18世紀に建設されたPalazzo del Governo、別名Palazzo San Filippoです。現在はマルケ州アスコリ・ピチェーノ県の県庁舎となってます。


221
18世紀に建設されたPalazzo del Governoに隣接してサン・フィリッポ教会と言う小さなバロック様式の教会がありましたが、Palazzo del Governoを増築することになり、サン・フィリッポ教会は1902年に取り壊されました。それがこの建物の別称Palazzo San Filippoの由来です。
写真右端にサン・フィリッポ教会がありましたが、その教会の祭壇画をカラヴァッジョが制作したのです。


214
逸名画家による「カラヴァッジョ作『聖イシドーロ・アグリコーラの奇跡』のコピー画」

出来が宜しくないコピー画ですが、これがあるお陰でカラヴァッジョの作品の概要が分かります。
カラヴァッジョの作品は、18世紀末までサン・フィリッポ教会の祭壇にありましたが、ナポレオンのイタリア侵攻の際、この作品はフランスに持ち去られてしまいました。現在、行方不明となってます。


222
逸名画家によるカラヴァッジョ作品のコピー画はアスコリ・ピチェーノ市立美術館にあります。(現在、常設展示されていない?)


212
トレンティーノのCastello della Ranciaです。
1604年1月に、カラヴァッジョはトレンティーノにいました。


211
トレンティーノの市庁舎です。


207
トレンティーノのポルチェッリ広場にある、カプチン会のParrocchia di Santissimo Crocifissoです。


210
この教区教会は既に活動を停止して、トレンティーノの市当局の所有となってます。
カラヴァッジョが描いたとされる祭壇画については何も分かってません。


208
この教区教会は崩落してしまいました。


209
この祭壇画は無事だったようです。


223
次はマチェラータです。


224
マチェラータのドゥオーモです。
カラヴァッジョがマチェラータに行ったかどうかは不明です。しかし、トレンティーノから足を延ばしてロレートに向かったとすれば、街道の途中にあるマチェラータを経由したと考えるのが自然です。


225
マチェラータの城壁(市壁)です。チェントロ・ストーリコに入らず、城壁に沿って通過しただけかも知れません。


226
次はレカナーティです。


227
ロレートに市境を接するレカナーティなので、カラヴァッジョがロレートに行ったとすればレカナーティを必ず通ったに違いないと思います。


124
レカナーティでは、ロレンツォ・ロットのユニークな「受胎告知」を観たかも知れません。


228
ロレートからレカナーティ、トレンティーノに向かう道です。今も昔もロレートの聖なる家の聖堂は巡礼地でした。この道路はマルケ各地からロレートに向かう巡礼路でした。


229
門を潜ってロレートのチェントロ・ストーリコに入ります。


230
中世の頃、膝行して聖なる聖堂に向かう信者が大勢いたそうです。


231
聖なる家の聖堂です。


232
身廊中央通路の突き当りに聖なる家があります。


233
聖なる家です。


234
聖なる家の内部は写真不可です。


235
聖なる家の聖堂は傑作美術品の宝庫です。


236
カラヴァッジョが聖なる家の聖堂に来たとすれば、多くの美術品を観たことでしょう。


237


238
ロレートの城壁です。


239
マルケへの旅がどのぐらいの期間だったのか、全く分かりません。


240
マルケへの旅の結果、制作されたのが「ロレートの聖母、または巡礼の聖母」です。
(つづく)

足跡を辿って 8.マッテイ宮寄寓時代Ⅲ、バリオーネ裁判
200
カラヴァッジョについてアップするのに、最も苦労しているのが自分が撮った写真を探すことでした。イタリアの美術館で写真解禁になったのは確か2014年頃だったので、作品写真を探すのは比較的簡単ですが、カラヴァッジョがローマで主に生活していたカンポ・マルツィオ地区の写真となると、探すのが非常に大変で、フィルムに収めた写真がかなりあって、そうなるとお手上げです。デジタル化するほどの価値がありませんから。


201
(その18)は、有名なバリオーネ裁判についてです。バリオーネ裁判が起きた1603年8月から9月には、カラヴァッジョはマッテイ宮に住んでいたと思われます。


206
オッタヴィオ・レオーニ(ローマ、1571-1640)の「ジョヴァンニ・バリオーネの肖像」(1625)

1603年8月28日、ジョヴァンニ・バリオーネは、自分と忠実な弟分のトンマーゾ・サリーニ通称マオ(ローマ、1575c-1625)を揶揄する卑猥な詩二編を回覧されて、自分の名誉を棄損されたとして、カラヴァッジョ、画家のオラツィオ・ジェンティレスキ、建築家オノリオ・ロンギ、画家フィリッポ・トリゼーニの四人を訴えましたが、名誉棄損の首謀者をカラヴァッジョにしてました。
その際、提出された訴状が残されており、その中でバリオーネがジェズ教会に描いた「キリストの復活」が公開されると、バリオーネの受注に羨望を抱いていた四人の嫉妬心から自分を貶めるために、二編の詩を作り回覧したと書かれていました。
カラヴァッジョは逮捕されましたが、フランス大使の尽力(デル・モンテ枢機卿の根回しがあったと思います)によって、逮捕から二週間後に、10月25日までの二か月間、許可なく自宅を出ないで謹慎するという条件で釈放されました。また、オノリオ・ロンギは、この時、ローマにいなかったので逮捕を免れました。

この裁判記録は、当時の画壇やカラヴァッジョの考え方を知る上で、第一級の資料になってます。

二編の詩自体はたわいのないものでしたが、画家の誰しもが受注して已まなかったジェス教会の祭壇画を制作して、当時の画壇の注目を集めたバリオーネが詩を柳の風と無視しなかったのは、バリオーネの性格によるところが大であるものの、その背景を知ると分かります。


208
アンソニー・ヴァン・ダイク(アルトウェルペン、1599-ロンドン、1641)の「オラツィオ・ジェンティレスキ(ピサ,1563-ロンドン、1641)の肖像」(1627-35c)

オラツィオ・ジェンティレスキは、カラヴァッジョの友人で、カラヴァッジョから大きな影響を受けた画家です。バリオーネを誹謗した二編の詩の作成に関与したかもしれないとされてますが、模倣されるのが嫌いなカラヴァッジョと疎遠になった可能性もありそうです。
カラヴァッジェスキ画家として近年非常に評価が高まっているアルテミジア・ジェンティレスキはオラツィオの娘です。ロンドンに旅立つにあたって、信頼する画家アゴスティーノ・タッシに娘アルテミジアを託しましたが、見事に裏切られてタッシによって娘がレイプされる事件が起きました。(これは余談です)


222
ジョヴァンニ・バリオーネ(ローマ、1573c-1643)の「光悦の聖フランチェスコ」(1601)(個人蔵)

バリオーネは、後期マニエリスム様式の画家でしたが、時代の潮流に即応して次々と画風を変え、自分独自の画風を持てない画家でした。しかし、機を見るに敏で、画家仲間からはあまり評価されていない一方、上流社会や工期聖職者からは高く評価されました。

サン・ルイージ・デイ・フランチェージ聖堂のカラヴァッジョの「聖マッテオ」が掲げられると、口では評価しなかったにも拘らず、カラヴァッジョの写実主義と明暗表現に感銘を受けたのか、直ぐに画風を変えてカラヴァッジョ・スタイルを模倣するようになり、最初のカラヴァッジェスキ画家の一人となったのです。


221
ジョヴァンニ・バリオーネ(ローマ、1573c-1643)の「天使に癒される聖セバスティアーノ」(1603c)

カラヴァッジョは自分のスタイルが模倣されるのを好まず、バリオーネに対して憤激しました。この作品は、カラヴァッジョの模倣の典型的な例として知られてます。


215
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「勝ち誇るアモール」(1602-03)

銀行家ヴィンチェンツォ・ジュスティニアーニ侯爵の注文によって制作された作品です。ベルリンの国立美術館にあります。


216
カラヴァッジョのこの作品を見ると、バリオーネは、カラヴァッジョに対抗するために、ヴィンチェンツォ・ジュスティニアーニ侯爵に献じるために作品制作に取り掛かりました。


217
ジョヴァンニ・バリオーネ(ローマ、1573c-1643)の「聖なる愛と俗なる愛」(1602)(ベルリン国立美術館蔵)

カラヴァッジョの明暗表現と写実描写を模倣して制作されましたが、カラヴァッジョに及ばぬことは明らかです。この作品をジュスティニアーニ侯爵に献じると、金の首飾りが与えられましたが、バリオーネ裁判の問題となった詩の中で、その金の首飾りが揶揄されてます。
悪魔の顔が向こうに向いて見えませんが、悪魔の顔をこちらに向けさせて、カラヴァッジョの顔を悪魔にした別バージョンの作品があります。


218
ジョヴァンニ・バリオーネ(ローマ、1573c-1643)の「聖なる愛と俗なる愛」(1602)
ローマ、バルベリーニ宮の国立絵画館にあります。


219
カラヴァッジョの怒りを買うために、わざわざカラヴァッジョの似顔絵を描いた別バージョンの作品を制作したところに、バリオーネの深い対抗心と敵愾心、悪意が表れてます。
しかし、バリオーネの二作品とカラヴァッジョの作品の優劣は明らかです。それが分かるように、バルベリーニ宮では展示されてます。


220
カラヴァッジョは「勝ち誇るアモール」ではなく「ユディト」ですが、バリオーネの作品が明らかにカラヴァッジョよりも下であることは明白です。バルベリーニ宮も粋な展示をしますね、感心します。
ともあれ、対抗心剥き出しの作品を描かれて、しかも自分のパトロンに献上されては、どの画家でも頭に血が上ってしまいます。喧嘩早いカラヴァッジョですから猶更です。

次にバリオーネの忠実な弟分であるトンマーゾ・サリーニ通称マオの話に移ります。


209
オッタヴィオ・レオーニ(ローマ、1578-1630)の「トンマーゾ・サリーニの肖像」

トンマーゾ・サリーニ通称マオは、ジョヴァンニ・バリオーネの忠実な部下という存在の静物画専門の画家でした。カラヴァッジョが描いた静物画から影響を受けて、カラヴァッジョ・スタイルの模倣者となりました。性格は乱暴で喧嘩早く、剣を持って外出していました。この点ではカラヴァッジョと同じでした。


212
トンマーゾ・サリーニ通称マオ(ローマ、1575c-1625)の「静物画」

カラヴァッジョが描いた「果物籠」に遠く及ばない凡作です。模倣されるのが大嫌いなカラヴァッジョですから、マオを嫌悪していました。


213
1601年10月1日の午後7時ころ、事件が起きました。
トンマーゾ・サリーニ通称マオと、バリオーネの従者がカンポ・マルツィオ広場近くの通りを歩いていると、4,5人の男たちとすれ違いましたが、その中にカラヴァッジョがいました。すれ違いざま、マオの背後にカラヴァッジョから剣で斬り付けられ、マオもすぐに剣を抜いて応戦。
しかし、近くにいた人たちが集まってきて、仲裁に入り事なきを得ましたが、事件後、直ぐにマオはカラヴァッジョから背後に斬り付けられたとして訴えました。


214
事件があったとされる通りです。
双方とも剣で戦ったものの、大事に至らずに終わったようです。
事件の訴訟に関する記録が残されていないので、結末が分かりませんが、カラヴァッジョにしてもバリオーネ側も互いに深い恨みを抱いていたことでしょう。


210
写真はイエズス会の本拠地ジェズ教会です。
話をバリオーネ裁判に戻します。


223
右翼廊の聖フランシスコ・ザビエル礼拝堂です。
この礼拝堂の祭壇画は、高さ8m、幅4.5mの大きなもので、当時ローマにいた画家の多くが受注したいと切望したに違いないものでした。


211
ジョヴァンニ・バリオーネの「キリストの復活」が聖フランシスコ・ザビエル礼拝堂祭壇に設置されると、それを見ようと多くの画家が集まったとされてます。
注目された作品でしたが、羨望と嫉妬から見た画家たちの目には、大作にも拘わらず出来がイマイチの凡作に映ったようです。
この作品がイマイチだったのか、バリオーネの作品は17世紀末に取り外され、カルロ・マラッタの作品に差し替えられました。今でもカルロ・マラッタの作品が祭壇を飾ってます。
取り外されたバリオーネの作品はその後行方不明となり、現存していないようです。しかし、大作の制作前に描いたバリオーネの習作が残されているので、その習作から、どのような作品であったのかが類推できます。


207
ジョヴァンニ・バリオーネ(ローマ、1573c-1643)の「キリストの復活」
ルーブル美術館にあります。

この作品がジェズ聖堂の準備として描いた習作とされてます。

カラヴァッジョの写実主義と明暗表現が色濃く感じられます。自分の画風を模倣されて、バリオーネに対するカラヴァッジョの嫌悪感、侮蔑感が一層募ったことと思われます。
1603年9月13日に取り調べが行われ、カラヴァッジョは非常に興味深いことを話しました。
以下はその裁判記録です。

2016年3月1日から6月12日に国立西洋美術館で開催された「カラヴァッジョ展」で購入した「CARAVAGGIO」という325頁の展覧会説明本のうち、242頁から243頁に記載されている史料のdoc.3バリオーネ裁判(1603年9月13日) ローマ国立古文書館の記述をそのまま転載しておきます。

〔カラヴァッジョにとって、有能な人物を意味する「ヴァレントゥオーモ」とはどのような意味かという尋問を受け〕
答弁:私にとって「ヴァレントゥオーモ」とは上手に事をなす者、すなわち十分にその腕を振るうことができる者のことです。ですから画家で言うならば、上手に絵を描くことができ、自然を見事に模倣できる者がヴァレントゥオーモです。

証人〔カラヴァッジョ〕の友人は誰か、または敵対者は誰かという尋問を受け、
答弁:先ほど挙げた者のうち、ジョゼッフェ〔カヴァリエーレ・ダルピーノ〕、ジョヴァンニ・バリオーネ、〔オラツィオ・〕ジェンティレスキ、ジョルジョ・トデスコは私に話しかけてきませんから、みな友人ではありません。ほかの者はみな私に話しかけてきますし、付き合いもあります。

先ほど挙げた者のなかで、俗語で言うとところのヴァレントゥオーモだと考えるのは誰か、また誰がそうではないと考えるのかという尋問を受け、
答弁:先ほど挙げた画家のうち、ジョゼッフェ〔カヴァリエール・ダルピーノ〕、ツッカロ〔フェデリーコ・ズッカリ〕、ポマランチョ〔クリストファノ・ロンカッリ〕、アンニーバレ・カラッチは優れt画家です。それ以外はヴァレントゥオーモだとは思いません。

先ほど挙げた者のなかから優れた画家と悪しき画家について証人の考えを聞いたが、ほかの画家たちも同意見なのかという尋問を受け、
答弁:ヴァレントゥオーモは絵画に精通しているので、私が優れていると判断した者を優れた画家と判断するでしょうし、悪しき者についても同様に判断するでしょう。一方、悪しき画家は無知なので、自分と同じように無知な者を優れた画家だと判断してしまうでしょう。

裁判の結果ですが、それに関する一切の資料が残されていないので、結末がどうなったのか、分かる術がありません。
被告人にされたカラヴァッジョ側は、バリオーネとマオに対する恨みが一層強まったようで、さらなる事件発生の、この訴訟の後日談が残されてます。


224
サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ聖堂です。


225
1603年11月16日、ミネルヴァ聖堂内で行われていたミサ中に、オノリオ・ロンギは、ジョヴァンニ・バリオーネとトンマーゾ・サリーニ通称マオの姿を見かけます。


227
バリオーネ裁判の時、偶々ローマを離れていて逮捕を免れて家宅捜索だけで終わったオノリオ・ロンギでしたが、バリオーネとマオの姿を認めると、直ぐに憤怒にかられたようです。


228
ミサ中に因縁をつけたものの、流石に聖堂内で事を構えるのは良くないと考えたロンギは、二人が聖堂の外に出るのを待ちました。


226
二人が聖堂の外に出ると、ロンギは二人に向かって煉瓦を投げつけ、バリオーネが転倒しました。この時、ロンギ、バリオーネ、マオの三人はミサに出席するということで剣を持っていなかったようです。


229
バリオーネとマオは自宅に逃げ帰りました。


230
ロンギは、剣を持ってバリオーネ宅に押しかけ、家の入り口で剣を抜き脅したとして逮捕されました。


231
ロンギは、拘留され取り調べを受け、有罪となって自宅謹慎となったようです。
カラヴァッジョの意を受けた襲撃と脅迫だったようです。この事件でカラヴァッジョとロンギの結束が固かったことが分かります。

次に、このころに制作された作品に移ります。


205
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「瞑想の聖ジローラモ」
モンセラートのサンタ・マリア修道院の付属美術館にあります。

1638年に作成されたジュスティニアーニ・コレクション目録にある、カラヴァッジョ作品15点のうちの一つです。
その後の経過が不明ですが、1915年、モンセラート修道院によって購入されましたが、その際、この作品はリベラの帰属作品とされていたそうです。
1943年、ロベルト・ロンギがカラヴァッジョの真作としました。


232
サンタ・マリア・イン・ヴァッリチェッラ教会です。キエーザ・ヌオーヴァと呼ばれるが一般的です。


233
1575年、第226代教皇グレゴリオ13世(ボローニャ、1502-ローマ、1585 教皇在位:1572-1585)は、オラトリオ会を公認するとともに、サンタ・マリア・イン・ヴァッリチェッラ教会を同会に与える教書を発布しました。その後、建物の再建が行われ、新教会(Chiesa Nuova)と呼ばれるようになりました。


234
右側壁第二礼拝堂はピエタ礼拝堂と呼ばれてます。
ピエタ礼拝堂の祭壇画としてカラヴァッジョに注文されました。
カラヴァッジョの作品については、作品巡りの2.ヴァティカン絵画館で詳しく触れました。


238
カラヴァッジョ作品が展示されているヴァティカン絵画館の展示室です。


236
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「キリストの埋葬」

ナポレオンによってキエーザ・ヌオーヴァからパリに持ち去られ、一時ルーブル美術館で展示されましたが、ナポレオンの没落後、返還交渉が行われました。元のキエーザ・ヌオーヴァが返還を希望したものの、受け入れられずヴァティカンの所有となって現在に至ってます。


239
キエーザ・ヌオーヴァで公開されるや、多くの画家から賞賛された傑作です。因縁のバリオーネでさえもカラヴァッジョの作品の中で最高と評価しました。


240


241
マグダラのマリア


242


243
聖母


237
作品の前はいつも混雑しています。


235
Michael Koeckの「カラヴァッジョ作『キリストの埋葬』の複製画」(1797)

カラヴァッジョ作品がナポレオンによってパリに持ち去られると、空いた祭壇を埋めるために複製画が制作され設置されました。今でも、その時に制作されたカラヴァッジョ作品のコピー画がピエタ礼拝堂に置かれてます。残念ながら、私は凡作と思います。

(つづく)

補遺
200
先ず、触れるのを忘れてしまった作品を取り上げます。


201
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「ご誕生」(1600c)


203
この作品は、パレルモのサン・ロレンツォ祈禱所(Oratorio)にありました。


204
1969年10月17日から18日の深夜から未明にかけて、盗まれてしまいました。


202
現在はSkyテレビの尽力によって作成された写真が祈祷所の祭壇に置かれてます。


205
カラヴァッジョがマルタからシチリアに逃亡してきた1609年頃に制作されたと長らく信じられてきましたが、新資料の発見によってカラヴァッジョがデル・モンテ枢機卿の庇護を受けたマダマ宮殿寄宿時代の1600年に制作されたという説が定説になりました。
サン・ロレンツォ祈禱所は、現在Museoの扱いとなってますが、そこに常駐している係員も1600年に制作されたと言ってました。


226
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「ダヴィデとゴリアテ」

デル・モンテ枢機卿のマダマ宮殿に居住時代に描かれました。ゴリアテの顔はカラヴァッジョの自画像です。


227
スペインのプラド美術館にあります。

次は、カラヴァッジョの作品説があるものの、その帰属が疑わしいとされている作品の紹介です。
展示されている美術館に行くと、帰属が疑わしいとされている作品でも堂々とカラヴァッジョの作品として展示されていることがあって、ビックリすることがあります。
233
一時はミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョの作品されていましたが、今では否定されている「本を持つ預言者」です。ドイツのカールスルーエ美術館にあります。
こんなのがあるんだと思い、驚きました。


232
「キリストの鞭打ち」(1606-07c)

フランスのルーアン美術館にある作品で、1955年にルーアン美術館が買収した時にはマッティア・プレティの作品とされていたそうです。1959年にロベルト・ロンギがカラヴァッジョの帰属作品としましたが、今でもその帰属について議論が絶えません。


231
「聖ジローラモの幻視」

アメリア、マサチューセッツ州のウースター美術館にある作品です。一時期カラヴァッジョの作品説が出されましたが、カラヴァッジョ作品説は否定されて、17世紀の逸名画家による作品というのが定説になりつつあるようです。


229
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)?の「キリストの鞭打ち」(1598c)

地元ではカラヴァッジョ作品としてますが?
ラツィオ州リエーティ県のカンタルーポ・イン・サビーナ(人口1,641人の村)のPalazzo Camucciniにあります。


234
カンタルーポ・イン・サビーナのPalazzo Camuccini


210
「イサクの犠牲」(1598c)

アメリア、ニュージャージー州プリンストンのPiasecka-Johnson Collection蔵
カラヴァッジョの作品説が出されましたが、今ではバルトロメオ・カヴァロッツィ(ヴィテルボ、1587-ローマ、1625)の作品である可能性が高いとされてます。


211
『聖ジョヴァンニ・バッティスタ」(1598c)

トレド大聖堂美術館にあります。カラヴァッジョ作品説があったものの、現在ではバルトロメオ・カヴァロッツィ作品説が定説のようです。


207
「高位聖職者の肖像」(1595-99)

カラヴァッジョの作品説がある肖像画です。私が持っている信頼できる本のカラヴァッジョの作品一覧には一切記載されていない作品です。


212
これにはビックリです。
勿論、カラヴァッジョの真作「聖マッテオと天使」の第1バージョンです。第二次世界大戦のソ連軍のベルリン制圧戦で焼失して、その白黒写真しか残されていないと思っていたら、何とカラー写真がありました。
種明かしをすれば、焼失前に鑑賞した人たちの印象を基に白黒写真に色付けしたそうです。


214
「花と果物のある静物画」(1595-99c)

ボルゲーゼ・コレクションの作品です。全体の構成がカラヴァッジョらしくなく、調和を欠いているので別人の作品の可能性が高いとされてます。近頃、ボルゲーゼ美術館で観たことがありません。


213
「果物のある静物画」(1601-55)

アメリカのデンバー美術館にあります。デル・モンテ枢機卿のコレクションにあったとされ、1671年のアントニオ・バルベリーニ枢機卿のコレクション目録で初めて記載された作品です。
私が持っているカラヴァッジョ関係の本にあるカラヴァッジョの作品リストに記載されてません。


219
「教皇パオロ5世の肖像」

ボルゲーゼ美術館にあります。第233代教皇パオロ5世(在位:1605-1621)は、俗名カミッロ・ボルゲーゼ(ローマ、1552-1621)と言い、ボルゲーゼ家出身の教皇の肖像画がボルゲーゼ美術館にあるのは当然ですが、カラヴァッジョがパオロ5世の肖像画を描いたと書かれたのはベッローリの伝記しかありません。他のカラヴァッジョの伝記では、パオロ5世の肖像画についての言及がありません。
この肖像画は、パドヴァニーノ作品説やオッタヴィオ・コスタ作品説があって、カラヴァッジョ作品説は今では少数意見になっているようです。


222
「ホロフェルネスの首を斬るユディト」


2014年、トゥールーズの屋根裏部屋から発見された作品です。
発見された当初、フランスは本作品の国外移転を禁止しました。ルイス・フィンソンの作品を参考にして帰属問題が検討されました。
ルーブル美術館がこの作品の購入を止めたと伝えられるや、直ぐにこの作品がフランス国外のあちこちに移動されるようになりました。
ブレラ絵画館で屋根裏部屋の作品とナポリのフィンソンの複製画が並べて展示されている時に、私は両作品をじっくりと観たことがあるのですが、屋根裏部屋で発見された作品もフィンソンの作品ではないかと思いました。
屋根裏部屋で発見された作品は、オークションにかけられる予定でしたが、オークション直前に某個人と取引が成立しました。その個人はメトロポリタン美術館の理事を務める人と分かりました。
屋根裏部屋で発見された作品もルイス・フィンソンの作品であるという説がかなり有力のようで、カラヴァッジョの作品説は少数意見のように思えます。


225
ナポリのパラッツォ・ゼヴァロス・スティリアーノ美術館は、カラヴァッジョの作品があることで有名ですが、カラヴァッジョの「ホロフェルネスを斬るユディト」のコピー画があります。


223
ルイス・フィンソンが描いたカラヴァッジョ作品の複製画です。


224
ルイス・フィンソンがカラヴァッジョ作品のコピー画を制作したことは、フィンソンの遺言状などで確認されてます。

フィンソンのコピー画が屋根裏部屋で発見された作品の帰属についての重要資料としてナポリの美術館から取り外されフランスに送られました。


215
「子羊と戯れる聖ジョヴァンニ・バッティスタ」

スイス、バーゼルのOffentiche Kunstsammulungにあります。発見された当初はカラヴァッジョ作品説が一部出されましたが、17世紀の逸名画家による作品説が定説になっているようです。


218
「聖家族と聖ジョヴァンニーノ」(1605-06)

同じような作品が、個人蔵でメトロポリタン美術館で寄託展示されている作品があります。その作品については後述しますが、こちらはベルリンのGemaldegalerieにあります。メトロポリタンで展示されている作品の複製画説があります。
今では、この作品は17世紀の逸名画家によって制作されたという説が定説になっており、カラヴァッジョ作品説は完全に否定されたようです。


217
「聖家族と聖ジョヴァンニーノ」(1603c)

個人蔵でニューヨークのメトロポリタン美術館で寄託展示されている作品ですが、意外にも公開されることが少ないように思います。
1928年、ロベルト・ロンギがカラヴァッジョ作品としましたが、異論が出されました。カラヴァッジョの真作説の一方、その帰属について色々な意見が絶えないようです。


216
「歯抜き」(1607-08c)

フィレンツェ、ピッティ宮のパラティーナ美術館にある作品です。カラヴァッジョ作品に登場した、お馴染みの顔の人たちが描かれてます。マルタ時代のスタイルで描かれてます。
作品帰属について、当初からいろいろな議論がなされています。メディチ家コレクションを管理する美術館側がカラヴァッジョ作品としている以上、私はカラヴァッジョ作品で良いと思います。

次はカラヴァッジョに帰属する作品や真作とされている作品です。


235
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)に帰属する「子羊の世話をする聖ジョヴァンニ・バッティスタ」

1958年頃にローマのコルシーニ美術館で展示されていたそうです。現在はローマの個人蔵で、2016年に上野の国立西洋美術館で開催されたカラヴァッジョ展で出展されていたと思います。
ロ・スパダリーノの作品説も未だに根強いです。
X線照射によって、カラヴァッジョ作品特有の画面の下に描かれた画影が発見され、カラヴァッジョに帰属する作品とされました。


230
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)に帰属する「紳士(シピオーネ・ボルゲーゼ?)の肖像」

トスカーナ州モンテプルチャーノの市立美術館にあります。2012年頃、作品を所有するモンテプルチャーノ市当局がカラヴァッジョの帰属作品としましたが、それ以降、作品帰属に関する異論が出されてません。


228
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「聖ピエトロと聖アンドレアの召命」(1604c)

ロンドンのハンプトン・コート宮殿にある作品です。
1943年、ロベルト・ロンギがカラヴァッジョの真作としましたが、作品の帰属を巡って、それ以前も、それ以後も、そして今なお議論が絶えません。
2006年11月10日、所有するイギリス王室当局からカラヴァッジョの真作宣言が出されました。作品帰属を巡る議論を終わらせようとして宣言したという観測がありました。その効果はなかったようで、カラヴァッジョの作品に含めない専門家も多いのが現実です。


220
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「井戸の聖ジョヴァンニ・バッティスタ」(1607-08)

マルタの個人蔵の作品です。カラヴァッジョの真作説を唱えているのは美術史家の一人だけのようですが、この作品を目にした専門家が他にいないようなので、作品帰属は議論になっていないようです。


221
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「横たわる聖ジョヴァンニ・バッティスタ」(1610c)

アルゼンチンで発見された作品で、カラヴァッジョの最後の作品の一つと考えられてます。ミュンヘンの個人蔵で、外部展示されたことがないそうです。マルタにある上記の作品と同じく、実際に観た美術史家が少なく、帰属を巡る議論には至っていないようです。


208
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「果物を剥く少年」

イギリスのロイヤルコレクションで、バッキンガム宮殿にあります。カラヴァッジョ自身による複製画と言われてます。


209
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「果物を剥く少年」

かって東京の個人蔵でしたが、現在はスイスの個人が所有する、カラヴァッジョ自身による複製画です。


333
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「聖アガピートの斬首」

ローマから逃亡して、ラツィオ山中のコロンナ家領地に潜伏中に描かれたとされてます。1967年、カラヴァッジョが潜伏した村の一つであるパレストリーナのサンタントニオ・アバーテ教会から発見された作品です。地元のパレストリーナではカラヴァッジョの作品としていますが、この作品の帰属についての定説確立には至っていないようです。

補遺はこれで終わりです。

(つづく)



記事の更新が不定期になります。

足跡を辿って 8.マッテイ宮寄寓時代Ⅱ
200
注文が次々と入る人気画家となってカラヴァッジョですが、制作に励む一方、素行は悪いままでした。


201
マッテイ宮にいてもスクロファ通りでたむろしていました。剣を携えて夜中のカンポ・マルツィオ地区を歩き回り、賭場、売春宿、居酒屋、遊技場などに出入りし、ヤクザや剣客のようでした。


204
1600年10月、カラヴァッジョは、悪友オノリオ・ロンギ(ヴィッジュ、1568-ローマ、1619)と画家マルコ・トゥッリオの喧嘩の仲裁を行った記録が残されています。オノリオ・ロンギの従弟のステファノ・ロンギもいました。この時、カラヴァッジョは病気だったそうです。


203
カンポ・マルツィオ通りです。
オノリオ・ロンギはカラヴァッジョの親友であり。悪友でした。カラヴァッジョの警察沙汰の多くにロンギがいました。
カラヴァッジョは、ロンギと、ロンギの妻の肖像画を描いたとされてますが、どちらも現存していません。


205
1601年2月、カラヴァッジョとオノリオ・ロンギは、サンタンジェロ城守備隊の兵士フラヴィオ・カノーニコを剣で斬りつけたとして警察沙汰となりました。しかし、後に和解したので罪を免れました。


206
カラヴァッジョは、好んで喧嘩や争いごとを求める凶暴な性格の持ち主だったことが分かります。


207
当時、ローマでは許可のないものは剣を所持して外出してはいけないことになっていました。


202
1601年10月2日、カラヴァッジョと友人たち(オノリオ・ロンギもいた)は、男を侮辱するとともに剣で攻撃したとして、男から訴えられた記録が残されてます。


232
1601年10月11日、剣の不法所持で逮捕されました。


234
犯罪記録が相次いでいたことから、この時は放免されず、Tor di Nonaの監獄に収監されてしまいました。


233
Tor di Nona刑務所は、1660年に取り壊されて、その上にトルディノーナ劇場が建設されました。劇場の一部が現存しています。
カラヴァッジョの画業に話を移します。


208
銀行家でカラヴァッジョのパトロンだったオッタヴィオ・コスタ伯爵(コンシェンテ、1554-ローマ、1639)が「聖ジョヴァンニ・バッティスタ」の画料として200scudi支払った時の1602年5月21日付のカラヴァッジョの領収書です。


209
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「聖ジョヴァンニ・バッティスタ」(アメリカ、カンザスシティのネルソン・アトキンス美術館蔵)

オッタヴィオ・コスタはコンシェンテ伯爵でしたが、コンシェンテに所有するコスタ家礼拝堂の祭壇画としてカラヴァッジョに注文して制作された作品です。しかし、作品の出来に大満足したコスタは、カラヴァッジョの作品を手元に置くことにして、コスタ家礼拝堂にはコピー画を飾ることにしました。そうして制作されたコピー画がアルベンガのMuseo Diocesanoにあります。


210
アルベンガのドゥオーモ


212
アルベンガのMuseo Diocesanoの入り口です。


211
17世紀初めの逸名画家作「カラヴァッジョ作『聖ジョヴァンニ・バッティスタ』のコピー画」

カラヴァッジョ自身による複製画説がありましたが、近年ではそれを否定する説が定説になっているようです。ロンリープラネットの旅行ガイド「イタリア」にはカラヴァッジョの作品と書かれていました。

ほぼ同時期に制作された、別バージョンとされる「聖ジョヴァンニ・バッティスタ」がトレド大聖堂にあります。


213
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ?の「聖ジョヴァンニ・バッティスタ」(トレド大聖堂)


214
カラヴァッジョの作品説がある一方で、バルトロメオ・カヴァロッツィ(ヴィテルボ、1587-ローマ、1625)の作品説もあります。


215
バルトロメオ・カヴァロッツィ作品説は17世紀中頃に既にあったそうです。


216
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「聖トンマーゾの不信」(ポツダム、サンスーシ美術館蔵)

カラヴァッジョのパトロンだったヴィンチェンツォ・ジュスティニアーニ侯爵(ギリシャ・キオス、1564-ローマ、1637)の注文によって制作された作品です。


217
ジュスティニアーニ侯爵の死後、1638年に作成されたジュスティニアーニ家のコレクション目録に記載された15点のカラヴァッジョ作品の一つです。


218
ジュスティニアーニ家困窮のため、1812年から1815年にかけてパリでジュスティニアーニ家コレクションが売りに出されましたが、その際、プロイセン王のために買収され、1816年にプロイセンに到着しました。


219
「聖トンマーゾの不信」のコピー画がフィレンツェのウフィッツィ美術館にあります。


220
17世紀前半に活動した逸名画家によるコピー画です。


221
かなり出来の良いコピー画と思います。


222
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「勝ち誇るアモール」

ベルリンの国立美術館にあります。


223
ヴィンチェンツォ・ジュスティニアーニ侯爵の注文によって制作された作品です。制作された当初から高い評価を受けました。


224
ジュスティニアーニ侯爵死後の1638年に作成されたジュスティニアーニ家のコレクション目録に記載された15点のカラヴァッジョ作品のうちの一つです。
コレクションは、1812年に売りに出されましたが、1812年、画商のフェレオル・ボンネメゾンに売却され、1815年にボンネメゾンがプロイセン王に転売したのです。


225
ジュスティニアーニ家のコレクション目録に記載された15点のカラヴァッジョ作品のうち、現存するのは僅かになりました。


226
プロイセンに入ったカラヴァッジョ作品ですが、第二次世界大戦におけるソ連軍のベルリン制圧戦で焼失した作品が幾つかあります。


228
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「荊刑のキリスト」(1602)


227
ウィーンの美術史美術館にあります。


229
「荊刑のキリスト」は、ヴィンチェンツォ・ジュスティニアーニ侯爵の注文によって制作されたもので、1638年作成のジュスティニアーニ家のコレクション目録に記載されてます。1809年、在ローマのオーストリア帝国大使がジュスティニアーニ家から直接買い入れました。ウィーン到着はなぜか1816年になりました。
「荊刑のキリスト」には、1602年に制作された説のほか、1604年制作説や1607年制作説もあります。


230
Palazzo Mattei Caetaniです。マッテイ宮です。
1602年または1603年頃までマッテイ宮に寄寓していました。


231
トラステヴェレにあるサンタ・マリア・デッラ・スカラ教会です。
この教会にある礼拝堂の祭壇画として、法律家ラエルツィオ・ケルビーニ Laerzio Cherubini(ノルチャ、1556c-ローマ、1626)から「聖母の死」の注文を受けました。1601年6月14日付の契約書が残されていますが、その注文書において、カラヴァッジョはマッテイ宮の住人と書かれてます。



作品巡り 13.ウーディネ、市立カステッロ美術館
235
ウーディネのカステッロです。


236
1866年に開館した市立美術館があります。


237
カラヴァッジョの作品が1点あります。


238
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「法悦の聖フランチェスコ」


239
銀行家でカラヴァッジョのパトロンだったオッタヴィオ・コスタが重病に罹っていたウーディネ出身の修道院長ルッジェーロ・トリトニオ伯爵に病気見舞いとして寄贈した、カラヴァッジョ自身による複製画と言われてます。


240
「法悦の聖フランチェスコ」のオリジナルは、アメリカ・コネチカット州ハートフォードのワズワース・アテニウムにあるものとされてます。


241
しかし、ハートフォード版もカラヴァッジョ自身による複製画説もあり、オリジナルは既に失われているという説もあります。


242
ハートフォード版のミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「法悦の聖フランチェスコ」
(つづく)

足跡を辿って 8.ローマ、マッテイ宮寄寓時代Ⅰ
200
1601年6月頃、カラヴァッジョはマッテイ宮に入りました。
1601年6月14日午前3時、スクロファ通りで男を棒で殴り、男が着ていたマントを剣で引き裂いたとしてカラヴァッジョが訴えられますが、その時の尋問でマッテイ宮の住人とカラヴァッジョが答えていた記録が残されてます。


201
話が前後しますが、マダマ宮居住時代にあったかも知れないことに触れておきましょう。
写真は、ウンブリア州ペルージャ県にあるモンテ・サンタ・マリア・ティベリーナと言う人口1,095人(2022年6月30日現在)の小さな村です。


202
この村は、ブルボン・デル・モンテ・サンタ・マリア侯爵家の領地でした。


203
モンテ・サンタ・マリア・ティベリーナ村にあるPalazzo Bourbon del Monte Santa Mariaです。


204
デル・モンテ枢機卿は、領地である、この村に度々訪れていました。


205
1978年に出版されたAngelo Ascani著「Monte Santa Maria e i soul marchesi」の中で、カラヴァッジョがPalazzo Bourbon del Monte Santa Mariaに訪れたことがあると述べられてます。
その時期が分からないものの、デル・モンテ枢機卿の領地に訪れた可能性はかなり高いと思ってます。


248
マダマ宮殿からマッテイ宮に転居する時に制作されたのがサンタ・マリア・デル・ポポロ聖堂チェラージ礼拝堂の2点の作品です。


249
1600年9月に注文を受け、1601年11月にカラヴァッジョに二枚の制作料を支払ったという記録が残されてます。


250
ポポロ聖堂チェラージ礼拝堂のカラヴァッジョの作品については、作品巡りの8で既に詳しく触れたので、ここでは詳細を割愛させて頂きます。

マッテイ家のチリアーコ・マッテイ伯爵(ローマ、1545-1614)、ジローラモ・マッテイ枢機卿(ローマ、1547-1603)、アスドルバーレ・マッテイ伯爵(ローマ、1556-1638)の三兄弟は、美術に造詣が深かったのですが、折しもマッテイ家が保有する幾つかの宮殿の装飾が行われていて、その装飾にプロスぺロ・オルシが携わっていました。三兄弟はやがて熱心なカラヴァッジョのパトロンになります。
プロスぺロ・オルシは、画家でしたが画商も兼ねていました。予てからカラヴァッジョの友人であり、カラヴァッジョの作品を扱う画商でもありました。マッテイ家が保有する宮殿装飾に携わる画家として、マッテイ家に紹介したのはプロスぺロ・オルシでしょう。
チリアーコ・マッテイは、銀行家でカラヴァッジョのパトロンのオッタヴィオ・コスタ、ヴィンチェンツォ・ジュスティニアーニと同じ同信会(サンティッシマ・トリニタ・デイ・ペッレグリー二同信会)のメンバーだったので、二人の銀行家からカラヴァッジョの評判を聞いていた可能性が高いと思われます。


206
制作者情報不詳の「チリアーコ・マッテイ伯爵の肖像」


207
ピエトロ・ファケッティ(マントヴァ、1539-ローマ、1613)の「ジローラモ・マッテイ枢機卿の肖像」


208
ルドヴィーコ・カラッチの作品説がある「アスドルバーレ・マッテイ伯爵の肖像」


209
カラヴァッジョが移住したマッテイ宮は、ラルゴ・アルジェンティーナの傍にあります。


210


211
Via delle Botteghe Oscure


212
マッテイ宮はVia delle Botteghe Oscureに面して建ってます。


213
Palazzo Mattei Caetaniです。現在は単にカエターニ宮と呼ばれることが多いようです。
カラヴァッジョが1601年から住むようになった宮殿です。


214
カエターニ宮と呼ばれるのは、1776年、セルモネータ公爵フランチェスコ・カエターニ(ローマ、1738‐1810)がマッテイ家から買収したことに由来します。


215
マッテイ広場


216
マッテイ広場にある「亀の噴水」

マッテイ宮でカラヴァッジョが制作した作品に移ります。


217
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「エマオの晩餐」(1601)
ロンドンのナショナル・ギャラリーにあります。


218
チリアーコ・マッテイ伯爵の注文によって制作され、1602年1月7日にその画料として150scudi
の支払記録が残ってます。


219
チリアーコ・マッテイ伯爵の死後の1616年、チリアーノの後を継いだチリアーノの息子ジョヴァンニ・バッティスタ・マッテイによって「エマオの晩餐」はシピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿に売却されました。長らくボルゲーゼ・コレクションの一部でしたが、1801年、カミッロ・ボルゲーゼ侯爵によって売却され、ロンドンの個人所有となりました。その所有していた個人が、1839年にロンドンのナショナル・ギャラリーに譲渡して、現在に至ってます。


221
カラヴァッジョは、後に同じ主題の「エマオの晩餐」を描きました。その別バージョンの「エマオの晩餐」が現在ミラノのブレラ絵画館にあります。


222
カピトリーナ絵画館です。


223
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「聖ジョヴァンニ・バッティスタ又は解放されたイサク」(1601-02)


224
チリアーコ・マッテイ伯爵の注文によって制作され、その画料として85scudiの支払い記録が残されてます。


225
画題ですが、チリアーコの息子ジョヴァンニ・バッティスタのために聖ジョヴァンニ・バッティスタ(洗礼者聖ヨハネ)を注文したとされていましたが、聖ジョヴァンニ・バッティスタを示すアトリビュートが描かれていないことから、犠牲にされるイサクの代わりに犠牲となった子羊が描かれていることから「解放されたイサク」説が近年唱えられ、「解放されたイサク」の方が有力となりつつあるようです。
チリアーコの死後、デル・モンテ枢機卿のコレクションに加わりました。デル・モンテ枢機卿の死後の1628年に教皇ベネデット14世に売却されました。その後、行方不明となっていた時代があるようですが、20世紀初頭にカピトリーニ美術館所有となりましたが、再び行方不明となりました。1950年にローマ市長室で再発見され、カピトリーニ美術館に返却されました。


226
カラヴァッジョ自身による複製画が存在しますが、カピトリーナ絵画館にある作品がオリジナルとされてます。


227
ドーリア・パンフィーリ美術館におけるカラヴァッジョ作品の展示


228
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「聖ジョヴァンニ・バッティスタ又は解放されたイサク」(ドーリア・パンフィーリ美術館版)


229
全部で11のコピー作品が存在するそうです。
こちらは、ドーリア・パンフィーリ美術館にある逸名画家によるコピー画です。


230
daの表記はコピー画の意味です。


231
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「キリストの逮捕」(1602)
アイルランド、ダブリンのナショナル・ギャラリーにあります。


232
カラヴァッジョの自画像が含まれてます。


233
チリアーコ・マッテイ伯爵の注文によって制作され、1603年1月2日にその制作料として125scudiの支払いがなされました。
どのような主題を描くかについては、ジローラモ・マッテイ枢機卿の助言があったとされてます。


234
ダブリンにある「キリストの逮捕」ですが、チリアーコの死後に作成されたマッテイ家コレクション目録に誤ってヘラルト・フォン・ホントホルスト(イタリアではゲラールド・デッラ・ノッテと呼ばれている)(ユトレヒト、1592-1656)の作品とされていました。1802年にヘラルト・フォン・ホントホルストの作品としてスコットランドの個人に売却されました。1802年に所有した個人の末裔が、1921年にアイルランドの個人に本作品を売却しましたが、そのアイルランドの個人が1930年代にダブリンのイエズス会に寄贈したそうです。1990年にアイルランド・ナショナル・ギャラリーの学芸員が本作品を発見し、他の研究者と調査の結果、カラヴァッジョの作品とされました。作品はイエズス会の所有のまま、ナショナル・ギャラリーで寄託展示されてます。
「キリストの逮捕」では、カラヴァッジョ自身によるとされている複製画が存在します。


235
ウクライナ、オデッサの西洋東洋美術館にある「キリストの逮捕」

この作品はフィレンツェのサンニーニ家が所有していましたが、1943年にロベルト・ロンギがカラヴァッジョ自身による複製画であるとしました。
しかし、それに対する色々な異論が出ています。作品帰属については、専門家に任せるよりありません。



作品巡り 12.クレモナ、アラ・ポンツォーネ市立博物館
236
クレモナのアラ・ポンツォーネ市立博物館です。


237
カラヴァッジョの作品が1点あります。


238
何時も閑古鳥が鳴いてます。殆ど毎年来てますが、小中学生などのグループがいたのを一回見ただけで、それ以外の時は私一人で独占できました。


239
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「瞑想の聖フランチェスコ」


240
1606年5月29日、ローマでラヌッチョ・トマッソーニを殺してお尋ね者となったカラヴァッジョが逃亡先のナポリで最初に制作された作品の一つとされてます。また、ローマから逃亡したラツィオ山中のコロンナ家で制作された「エマオの晩餐(ブレラ絵画館)」に制作様式が似ていることから、ラツィオのザガローロにあるコロンナ家宮殿で制作されたという説も有力です。この作品は、ローマまたはナポリの聖フランチェスコを祀る教会のために制作されたと言われてます。


241
この作品は、未知の理由によってピアチェンツァに到着し、ピアチェンツァ近くのカステッラルクゥアートの参事会教会に置かれていましたが、コピー画に置き換えられてクレモナのアラ・ポンツォーネ侯爵家の所有となりました。
1836年、フィリッポ・アラ・ポンツォーネ侯爵が本作品をクレモナ市に寄贈しました。


242
1943年、美術史家のロベルト・ロンギが、本作品はカラヴァッジョの真作としました。多くの美術史家がロンギ説を支持するようになりましたが、それでも異論が出されていました。
ところが、1986年に行われた修復の際、クリーニング工程でカラヴァッジョ特有の痕跡が発見されて、作品帰属の問題が解消され、カラヴァッジョの真作が結論となりました。


243
それにしても、私にはアラ・ポンツォーネ侯爵家所有になった経緯が良く理解出来てません。


246
という事で、事の発端となったカステッラルクァートの参事会教会に行ってみました。


247
参事会教会横に付属美術館があります。


244
これが本物と置き換えるために制作されたコピー画と思われます。


245
ここでは、モンテオリヴェートのサンタ・マリア修道院にあったとされてます。
このコピー画がカラヴァッジョ自身による複製画であるという説が出されたことがあるそうです。
(つづく)

足跡を辿って 7.ローマ、マダマ宮殿居住時代Ⅳ
200
カラヴァッジョの足跡を辿るための確実な記録の一つは、カラヴァッジョの品行の悪さを示す警察の逮捕記録です。


201
マダマ宮殿に寄宿することによって、成功への一歩を踏み出したカラヴァッジョですが、それに慣れてくると警察のご厄介になることになります。


214
1598年5月4日午前2時から3時に、ナヴォーナ広場で剣の不法所持によって夜警に逮捕されました。これがローマにおけるカラヴァッジョの最初の逮捕記録となりますが、これから次々と警察沙汰を起こします。


216
カラヴァッジョの逮捕記録です。
このような記録が今でも残っていることに驚きます。江戸幕府の開府以前の逮捕記録は、日本では殆ど残っていないでしょう。


215
警察官の尋問に対して、カラヴァッジョは、職業はデル・モンテ枢機卿の画家をしている、デル・モンテ枢機卿のマダマ宮殿に住んでいて枢機卿に仕えていると答えました。


217
今度は、1600年11月19日午前3時、スクロファ通りで、男を棒で殴り、持っていた剣で男が着ていたマントを切り裂いたとして、カラヴァッジョは訴えられました。


218
人定質問に対して、カラヴァッジョは前回のナヴォーナ広場での逮捕の時と同じく、デル・モンテ枢機卿の宮殿に住み、枢機卿に仕えていると陳述しました。


46
この事件まで、カラヴァッジョは確実にマダマ宮殿に住んでいたことが分かります。
カラヴァッジョは、やがてマダマ宮殿から出て、マッテイ家の住人になるのですが、1601年6月14日付のサンタ・マリア・デル・スカラ聖堂の「聖母の死」(現在、ルーブル美術館にあります)の制作契約書において、カラヴァッジョはマッテイ家の住人と書かれているので、1600年11月19日から翌年6月4日までにマダマ宮殿からマッテイ宮に引っ越したことになります。


202
次はカラヴァッジョが大きく飛躍する切っ掛けとなったサン・ルイージ・デイ・フランチェージ聖堂コンタレッリ礼拝堂です。


203
デル・モンテ枢機卿、カラヴァッジョの友人で画商を兼ねる画家プロスぺロ・オルシ二人の尽力によって、1599年7月23日にコンタレッリ礼拝堂の左右の側壁に聖マッテオの物語を1年以内に制作するという注文を受けました。主祭壇を除く礼拝堂全てを装飾するという注文を受けたカヴァリエール・ダルピーノでしたが、当時ダルピーノは非常に多忙である上に、一説ではコンタレッリ家と疎遠になったことで、天井画を一部制作しただけで、礼拝堂装飾の仕事は中断されたままになっていました。


204
主祭壇には、フランドル出身の彫刻家ジャック・コバールト(フランドル、1535-ローマ、1615)に既に注文済で、コバールトが制作中という事で、主祭壇画の注文はカラヴァッジョにされませんでした。


205
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ローマ、1610)の「聖マッテオの召命」
私は、イタリア好きなので、聖マタイとは言わず聖マッテオで通します。


206
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)「聖マッテオの殉教」


207
1600年7月に完成して、カラヴァッジョの2つの作品が礼拝堂に設置されると、大勢の人たちが押しかけて、斬新なカラヴァッジョの表現は大変な評判になりました。


208
コンタレッリ礼拝堂の2つの作品によって、カラヴァッジョは一躍ローマの有名画家の一人となりました。


209
ローマのサンティッシマ・トリニタ・デイ・ペッレグリーノ教会にあるジャック・コバールト(フランドル、1535-ローマ、1615)の「聖マッテオと天使」

1602年1月、遅れに遅れていたコバールトの彫刻「聖マッテオと天使」が完成して、漸くコンタレッリ礼拝堂の主祭壇に設置されました。
しかし、遺族のコンタレッリ家は、この彫刻が気に入らず、直ぐに取り外されてサンティッシマ・トリニタ・デイ・ペッレグリーノ教会に移されてしまい、1602年2月7日、改めてカラヴァッジョに対して主祭壇画を注文したのです。
この時、カラヴァッジョは既にデル・モンテ枢機卿の元を離れていました。


211
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「聖マッテオと天使」(第一作)

第一作が短期間で制作されましたが、直ぐに取り外されて、カラヴァッジョは第二作の制作に取り掛かりました。取り外された理由ですが、聖マッテオが裸足がその足裏が汚れていること、天使と聖マッテオが接近し過ぎてエロチックに見えたからと言われてますが、カラヴァッジョ自身が第一作の出来に満足していなかったという説もあるようです。
なお、第一作は、ベルリンのカイザー・フリードリッヒ美術館にありましたが、第二次世界大戦のソ連軍のベルリン攻撃によって消失してしまいました。第一作の白黒写真が残っているだけです。


210
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「聖マッテオと天使」(第二作)


212
第二作は、天使が聖マッテオの聖書執筆を補助する場面を描くという制作契約に反する内容となりましたが、受け入れられました。


213
なお、第一作は、ジェノヴァ出身の銀行家でカラヴァッジョの最大のパトロンだったヴィンチェンツォ・ジュスティニアーニ侯爵(ギリシャ、キオス島,1564-ローマ、1637)に売却されましたが、後にジュスティニアーニ家の没落によって、同家のコレクションが売りに出され、世界中の美術館に散ってしまいました。


219
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「ユディト」

銀行家でカラヴァッジョのパトロンだったオッタヴィオ・コスタ(コンシェンテ、1554-ローマ、1639)の注文によって制作された作品です。
ローマのバルベリーニ宮、国立古典絵画館にあります。


220
1599年頃に注文された作品なので、マダマ宮寄寓時代の作品に含めました。


241
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「フィリーデ・メランドローニの肖像」(1598c)

フィリーデ・メランドローニ(シエナ、1581-ローマ、1618)は娼婦でした。1598年頃、フィレンツェの名門貴族ストロッツィ家出身の詩人で台本作家のジュリオ・ストロッツィ(ヴェネツィア、1583-1652)がローマに来て、メランドーニを寵愛しました。ジュリオの注文によってメランドーニの肖像画が制作されました。
メランドーニが死去した時、この肖像画を所持していたと思われ、彼女の遺言書に肖像画をジュリオ・ストロッツィに返却して欲しいと書かれていたそうです。
前述の「ユディト」のモデルは彼女と言われてます。また、後に殺人を犯し、逃亡生活に入るカラヴァッジョですが、その殺人の一因が彼女とされている説があり、それについては後で触れることにします。
1638年に作成されたジュスティニアーニ家のコレクション目録に含まれていました。同家の困窮によって1813年にコレクションの大半が売りに出され、1815年にプロイセン王に買収されました。
第二次世界大戦のソ連軍のベルリン制圧戦で焼失してしまい、このカラー写真だけが残ってます。



作品巡り 11.フィレンツェ、ウフィッツィ美術館
221
何時も混雑しています。


222
展示室や展示作品の再配置が頻繁に行われていましたが、2018年頃に完了したようです。


223
カラヴァッジョの作品が3つあります。


224
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「メドゥーサ」(1598c)


225
デル・モンテ枢機卿からトスカーナ大公フェルディナンド1世・デ・メディチに贈られた作品です。


226
ウフィッツィ美術館にある「メドゥーサ」は第二作に当たります。


227
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「メドゥーサ」(1597‐98c)

こちらは第一作です。フィレンツェの個人が所有してます。


228
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「バッカス」


232
デル・モンテ枢機卿からトスカーナ大公フェルディナンド1世・デ・メディチに贈られた作品です。


229
ウフィッツィ美術館内で長らく行方不明になっていましたが、1913年に再発見されたそうです。


233


234


235


236


230
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「イサクの犠牲」


231
マッフェオ・バルベリーニ枢機卿(後の教皇ウルバーノ8世)が注文した作品です。


237
1608年のバルベリーニ家コレクション目録に記載されました。
1917年、この作品を保有していたSciarra家からウフィッツィ美術館に寄贈されました。


239
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)?の「イサクの犠牲」

カラヴァッジョの「イサクの犠牲」には、別の作品が残されているとされてますが、この作品はバルトロメオ・カヴァロッツィの作品であるとの説も有力です。
(つづく)

足跡を辿って 7.マダマ宮殿居住時代Ⅲ
229
カラヴァッジョがローマに住んでいた時、殆どの時間をカンポ・マルツィオ地区で過ごしていました。


230
マダマ宮殿


232
画家の工房が集まっていたスクロファ通りです。


231
スクロファ通りに建っているPalazzo Aragona Gonzagaです。
マダマ宮殿居住時代のカラヴァッジョが制作した作品に触れておきましょう。


233
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「ナルキッソス」(1597-99)


234
作品の帰属と制作された経緯について、様々な意見があった作品ですが、現在はカラヴァッジョの作品とされてます。


235
ローマからサヴォーナへの、1645年の美術品輸出許可書にカラヴァッジョの「ナルキッソス」と記されていたのが本作品であるとされてます。


236
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「バッカス」(1596-97)


237
フィレンツェのウフィッツィ美術館にあります。


238
トスカーナ大公フェルディナンド1世・デ・メディチに贈るためにデル・モンテ枢機卿が注文した作品です。


239
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「ユピテル、ネプトゥヌス、プルート」(1599)

多趣味なデル・モンテ枢機卿ですが、そのうちの一つが錬金術で、ローマのカジーノ・ルドヴィージに小さな錬金術実験室を持っていました。その実験室の天井に描かれた油彩の寓意画です。
新発見の資料によって、1599年春に制作されたことが確定されました。
カラヴァッジョはフレスコ画が苦手だったので、壁に直接油彩で描きました。


240
ネプトゥヌスは、カラヴァッジョの自画像になってます。


241
カジーノ・ルドヴィージは、オークションにかけられましたが、入札不調に終わりました。カラヴァッジョとグエルチーノの作品保存が入札条件となっていました。
入札の最新情報が分かりません。


245
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「法悦の聖フランチェスコ」


246
アメリアのコネチカット州、ハートフォードのワーズワース・アテニウムにあります。

デル・モンテ枢機卿のコレクション目録にあった作品です。現在、4点の作品が確認されているそうです。ハートフォード版がオリジナルとされてますが、オリジナルは既に失われたという説も有力です。


242
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「法悦の聖フランチェスコ」

こちらは、イタリアのウーディネのカステッロ市立美術館にある作品です。


243
ウーディネ版は、ジェノヴァの銀行家でカラヴァッジョのパトロンだったオッタヴィオ・コスタが保有していましたが、1606年8月に友人で重病に陥ったルッジェロ・トリトニオ伯爵(ウーディネ、1543-スピリンベルゴ、1612)に病気見舞いとして贈りました。ウーディネ出身のトリトニオ伯爵は、ローマで高位聖職者の地位にありましたが、ウーディネに戻り修道院長を務めていました。


244
19世紀末、トリトニオ伯爵の末裔がウーディネ市当局に本作品を寄贈しました。
由緒がはっきりしているので、間違いなくカラヴァッジョの真作とされてますが、殆ど知られていないようで、鑑賞している人を見たことがありません。


247
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「マッフェオ・バルベリーニ枢機卿の肖像」(1596c)


249
フィレンツェのアルノ川沿いに建つPalazzo Corsiniにあります。


248
作品の帰属について異論が出されていましたが、最近になってカラヴァッジョの真作説が有力となりつつあるようです。
マッフェオ・バルベリーニ枢機卿はデル・モンテ枢機卿の友人でしたが、後の教皇ウルバーノ8世です。
2016年に上野の国立西洋美術館で開催されたカラヴァッジョ展に出品されていました。


250
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「マッフェオ・バルベリーニ枢機卿の肖像」(1598c)(フィレンツェの個人蔵)

こちらの作品は、1963年、ロベルト・ロンギ(1890-1970)が発見したもので、ロンギによって発見当初からカラヴァッジョの真作説が唱えられました。真作と言う点では、こちらのロンギによって発見された肖像画の方が真作度が高いと言われてます。


251
モンテプルチャーノの市立美術館です。


252
カラヴァッジョの肖像画(帰属作品)があります。


253
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)に帰属する「シピオーネ・カッファレッリ・ボルゲーゼ?の肖像」(1598c)

カラヴァッジョ作品収集に非常に熱心だったシピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿はデル・モンテ枢機卿の友人でした。


253
カラヴァッジョの真作説が有力とされてますが、ボルゲーゼ枢機卿の肖像と言う点では定説になっていないようです。



作品巡り 10.フィレンツェ、パラティーナ美術館(ピッティ宮)
255
ピッティ宮殿です。


256
ウフィッツィ美術館、アッカデミア美術館と比べれば、入館者が少ないパラティーナ美術館です。
カラヴァッジョの作品が3点ありますが、目立たない場所にさりげなく展示されているので、注意しないと見逃す可能性があります。


257
カラヴァッジョの「マルタ騎士の肖像」が次の部屋に向かう通路の右横にあるのですが、大半の人が目を向けることなく次の部屋に移動していきました。
それを見ていた私は、カラヴァッジョは人気がないと痛感しました。


258
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「マルタ騎士の肖像」(1608c)


259
逃亡中にマルタ島で制作された肖像画です。マルタ島で騎士団幹部を務めたアントニオ・マルテッリ(フィレンツェ、1534-1618)がフィレンツェのマルテッリ家に自分の肖像画を送ったとされてます。


262
この作品は、2016年に上野の国立西洋美術館で開催された「カラヴァッジョ展」に来ていました。


260
「眠るキューピッド」もあまり目立たなく展示されてます。


261
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「眠るキューピッド」(1608)


263
カラヴァッジョにある程度関心がある人でも、これを見ないと分からない人が多いと思います。


264
逃亡先のマルタ島で制作された作品です。
フィレンツェ出身の騎士フランチェスコ・デッランテッラ Francesco dell'Antellaはマルタ島に渡り、聖ヨハネ騎士団の司令官を務めていましたが、カラヴァッジョに本作の制作を依頼し、フィレンツェの実家の贈りました。
フランチェスコの子孫が美術品コレクターだったレオポルド・デ・メディチ枢機卿に売却、1667年にメディチのコレクションとなりました。


265


266
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「歯医者」(1607-09)


267
絵画展示室ではなく、寝室や玉座などがある宮殿の各部屋部分に展示されているので、殆どの人がこの作品に気付かないようです。


268
マルタ島が逃げてきたメッシーナで制作された作品で、マルタ騎士団のアントニオ・マルテッリの従者によってフィレンツェに持ち込まれました。
1638年のピッティ宮作品目録に「カラヴァッジョ作『Il Cavadenti』」と記載されてました。


269
右端に描かれた老婆はバルベリーニ美術館の「ユディト」の同一人物でしょう。
(つづく)

足跡を辿って 7.マダマ宮殿居住時代Ⅱ
189カラヴァッジョは、最初のパトロンとなるデル・モンテ枢機卿と出会うことによって、成功の一歩を踏み出したと言えるでしょう。


190
マダマ宮です。
マッテイ枢機卿の邸館に移住するまで、カラヴァッジョはマダマ宮殿に住んでいました。


149
オッタヴィオ・レオーニ(ローマ、1578-1630)の「フランチェスコ・マリア・ブルボン・デル・モンテ枢機卿の肖像」(1616)

デル・モンテ枢機卿は、ガリレオ・ガリレイを援助するなど芸術と科学の保護に熱心で、古代グラスのポートランド花瓶を含む大規模コレクションを収集しました。絵画のコレクターとしても知られ、遺産目録によればカラヴァッジョ作品を含む約600点以上の絵画が残されたそうです。音楽を愛し、マダマ宮殿で演奏会を開くほか、枢機卿自身でリュートを弾くなど、多趣味でした。
芸術と科学を通して、マダマ宮殿に多くの高貴な人々や音楽家、画家、学者などが訪れました。そうしたデル・モンテ枢機卿の人脈を通して、カラヴァッジョは、将来のパトロンになる人たち知られるようになるのでした。

ガスパーレ・チェリオの伝記によれば、デル・モンテ枢機卿が複製画を描く画家を探していることを聞きつけたプロスぺロ・オルシがカラヴァッジョを探してデル・モンテ枢機卿に紹介した、とされてますが、カラヴァッジョがマダマ宮殿で制作した複製画は残されていないようです。
カラヴァッジョは、デル・モンテ枢機卿のために制作するようになりました。


191
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「果物かごを持つ少年」

マダマ宮殿でカラヴァッジョがデル・モンテ枢機卿のために最初に制作した作品であるとの説があります。モデルは、カラヴァッジョと一緒にマダマ宮殿に住むようになったマリオ・ミンニティ(シラクーザ、1577-1640)と言われてます。マリオは、この時、16歳でした。
マダマ宮殿には、カラヴァッジョ、マリオを含めて多くの少年が住んでいました。カラヴァッジョはこれらの少年をモデルに数点の作品を描きました。
多くの少年を集めてマダマ宮殿に住まわせた理由ですが、建前上は女人禁制の聖職者だったので、デル・モンテ枢機卿は同性愛傾向があったからという有力説があります。


192
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「女占い師(カピトリーノ美術館)」
デル・モンテ枢機卿が持っていた作品です。


193
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「合奏」(1597c)
ニューヨークのメトロポリタン美術館にあります。


194
カラヴァッジョの自画像が描かれてます。マダマ宮殿に住んでいた少年をモデルに、宮殿で行われた演奏会を描いたものでしょう。

ここで非常に重要なのは、カラヴァッジョのパトロンとしてのデル・モンテ枢機卿のことです。枢機卿が所持していたカラヴァッジョ作品は、一部のカラヴァッジョ自身による複製画を除いて、すべて
1598年頃以前に描かれたものでした。カラヴァッジョをマダマ宮殿に住み続けさせながらも、1598年頃を境に枢機卿がカラヴァッジョに注文することは殆どなくなったのです。
カラヴァッジョは他のパトロンからの注文や教会などからの公的な注文に従事しながらも、依然、マダマ宮殿に寄寓していたのです。
その理由ですが、カラヴァッジョの名声が高くなるにつれて画料が高くなりましたが、カラヴァッジョの他のパトロンと比べて、デル・モンテ枢機卿の財布の具合がどうも限られていたからと考えられると思います。


195
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「リュート奏者」(1597c)
ニューヨークのメトロポリタン美術館にあります。


196
「リュート奏者」ですが、メトロポリタン美術館にある作品がオリジナルです。1627年のデル・モンテ枢機卿のコレクション目録に記載されてます。
楽譜はこの時代に流行していた曲で、特定されてます。


197
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「リュート奏者」(1600)
サンクトペテルブルクのエルミタージュ美術館にあります。


198
エルミタージュ美術館にある作品は、1638年のジュスティアーニ家の作品目録に記載されてます。
第一作をマダマ宮殿で観たヴィンチェンツォ・ジュスティアーニ侯爵がカラヴァッジョに注文して制作された作品です。


152
道路を挟んで、マダマ宮殿の向かいに建つPalazzo Giustianiです。


153
逸名画家作「ヴィンチェンツォ・ジュスティアーニ侯爵の肖像」

ヴィンチェンツォ・ジュスティアーニ侯爵(ギリシャ、キオス島(ヒオス)、1564-ローマ,1637)は、財力のあるカラヴァッジョのパトロンでした。


199
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「リュート奏者」(1597c)(個人蔵)

第一作に引き続き制作されたカラヴァッジョの真筆とされてます。2001年1月のサザビーズ・オークションで出品された作品です。他の画家によるコピー画とする美術史家が数人いますが、カラヴァッジョの真筆説が有力とされてます。


200
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「改悛の聖マリア・マッダレーナ」
ローマのドーリア・パンフィーリ美術館にあります。


201
デル・モンテ枢機卿のために描かれましたが、デル・モンテ枢機卿の友人ピエトロ・アルドブランディーニ枢機卿に贈られた作品です。1627年のアルドブランディーニ枢機卿のコレクション目録に記載されてます。


202
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「メドゥーサ」(1597-98c)(個人蔵)
こちらが第一作です。2016年、国立西洋美術館で開催された「カラヴァッジョ展」に出品されていました。見る機会が限られ、中々見ることが出来ない作品のなので、上野で観ることが出来たのは非常に幸運でした。


203
第二作となる「メドゥーサ」はフィレンツェのウフィッツィ美術館で展示されてます。


204
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「メドゥーサ(第二作)」(1598c)


205
デル・モンテ枢機卿が、トスカーナ大公フェルディナンド1世・デ・メディチ枢機卿に贈るためにカラヴァッジョに注文して制作された作品です。1598年7月25日にフィレンツェに到着した記録が残されてます。当時、デル・モンテ枢機卿は、教皇庁におけるトスカーナ大公国大使を務めていました。


214
シピオーネ・プルツォーネ(ガエータ、1540/1542c-ローマ、1598)の「トスカーナ大公フェルディナンド1世・デ・メディチの肖像」(1590)


206
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「アレッサンドリアの聖カテリーナ」(1598-99)
マドリッドのティッセン・ボルネミッサ美術館にあります。


207
1627年のデル・モンテ枢機卿のコレクション目録に記載されている作品です。
モデルは、次の作品と同じく売春婦マッダレーナ・アントネッティ通称レーナ(ローマ、1579-?)と言われてます。


208
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「マルタとマグダラのマリア」(1598c)
アメリカのデトロイト美術館にあります。


209


210


211
ミラノのアンブロジアーナ美術館(図書館)にある「果物かご」の展示


212
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「果物かご」
ミラノのアンブロジアーナ美術館(図書館)にあります。
アンブロジアーナ図書館を作ったフェデリーコ・ボッロメーオ枢機卿に贈るためにデル・モンテ枢機卿がカラヴァッジョに注文して制作された作品です。カラヴァッジョがこの作品を制作する前に、ローマを旅行していたフェデリーコ・ボッロメーオ枢機卿が友人のデル・モンテ枢機卿のマダマ宮殿に訪れた際に直接カラヴァッジョに注文した別説があります。


213
逸名画家作「フェデリーコ・ボッロメーオ枢機卿の肖像」(17世紀)



作品巡り 8.ローマ、サンタゴスティーノ・イン・カンポ・マルツィオ聖堂カヴァッレッティ礼拝堂
215
サンタゴスティーノ・イン・カンポ・マルツィオ聖堂です。


216
Basilica dei Santi Trifone e Agostinoが正式名称です。Basilica Minoreに格付けされてます。


217
カラヴァッジョの作品が1点あります。


218
カラヴァッジョの作品だけではなく、重要な作品があるので、美術ファンにとっては必訪です。


219
カラヴァッジョ作品があるカヴァッレッティ礼拝堂は左側廊の第一礼拝堂の位置にあります。


220
カヴァッレッティ礼拝堂です。

教皇庁のCamera Apostolicaの公証人兼会計士を務めるエレメーテ・カヴァッレッティ侯爵(ボローニャ,?-ローマ、1602)は、没する3か月前にロレートの聖なる聖堂の家を訪れて深い感銘を受けたそうです。自分の死が近いことを悟ったカヴァッレッティ侯爵は、大金を残して、サンタゴスティーノ・イン・カンポ・マルツィオ聖堂のピエタ礼拝堂(現在のカヴァッレッティ礼拝堂)を買い、その祭壇に「ロレートの聖母」を飾るようにとの遺言を残して1602年7月21日に死去しました。
遺族と遺言執行人は、1603年9月4日にピエタ礼拝堂を買収するとともに、カラヴァッジョに「ロレートの聖母」を注文したのです。


221
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「ロレートの聖母」(1604-06c)


222
「ロレートの聖母」を制作するにあたり、カラヴァッジョはマルケ地方に旅に出て、ロレートまで行ったと推察されてます。トレンティーノまで行ったのは確実で、1604年1月にトレンティーノで祭壇画を描いたという記録が残されてます。アスコリ・ピチェーノでもカラヴァッジョが描いたという祭壇画が18世紀まで残っていたと言われてます。


223
裸足の聖母、汚らしい貧しい農民の巡礼者、泥で汚れた足裏の写実的な表現は、当時の聖職者に衝撃を与えたことに違いありません。しかし、サンタゴスティーノ聖堂はサン・ピエトロ大聖堂に向かう巡礼路にあたり、大勢の巡礼者が訪れ、カラヴァッジョの作品を見て自分の巡礼姿を対比させて、その現実感に共感したと伝えられてます。


224
礼拝堂の左側壁


225
礼拝堂の右側壁


141
礼拝堂の天井


227
観光客の姿は比較的少ないようです。


228
(つづく)

足跡を辿って 7.マダマ宮殿居住時代Ⅰ
145
1597年6月頃、遅くとも同年7月11日までに、カラヴァッジョは、当時デル・モンテ枢機卿が使用していたマダマ宮殿に移住しました。
1601年夏にマダマ宮殿を出て、マッテイ家の邸宅に移住しました。カラヴァッジョは、約4年間、マダマ宮殿に居住したことになります。


146
さて、マダマ宮殿ですが、15世紀末に創建され、1505年に完成しました。1505年にジョヴァンニ・デ・メディチ枢機卿(後の教皇レオ10世)が分割払いで購入し、メディチ家の所有となりました。


147
神聖ローマ帝国皇帝カルロ5世(1500-1558)の娘マルゲリータ・ダスブルゴ(オーストリアのマルゲリータ)(1522-1586)は、アレッサンドロ・デ・メディチ公爵(フィレンツェ、1510-1537)と結婚しましたが、未亡人となり、パルマ、ピアチェンツァの公爵オッタビオ・ファルネーゼ(1524-1586)と再婚しました。
マダマ・マルゲリータは、最初の結婚後、更に再婚後もマダマ宮殿に居住していました。宮殿の名称はそのマルゲリータ公爵夫人のMadama=令夫人の意味に由来します。
なお、マルゲリータ公爵夫人は、やがてローマを離れ、ファルネーゼ家の本拠地パルマ、ピアチェンツァに移りました。


148
オーストリアのマルゲリータがローマから去ると、宮殿は様々な枢機卿に貸し出されて荒廃しましたが、やがてメディチ家に返却され、フェルディナンド・デ・メディチ枢機卿(フィレンツェ、1549-1609)の住居として使用されるようになりました。1587年、フェルディナンド枢機卿は、トスカーナ大公フェルディナンド1世としてローマを離れることになり、フィレンツェに向かいました。


149
オッタヴィオ・レオーニ(ローマ、1578-1630)の「フランチェスコ・マリア・ブルボン・デル・モンテ枢機卿の肖像」(1616)

1588年12月14日、フランチェスコ・マリア・ブルボン・デル・モンテ(ヴェネツィア、1549-ローマ、1626)は、時の教皇シスト5世によって枢機卿に任じられました。
トスカーナ大公となったフェルディナンド・デ・メディチは、ハプスブルク家からの影響を脱し、フランスに頼る方針にかじを取りました。(後にフランスと同盟を結びます)
フェルディナンド1世は、トスカーナ大公になってからも枢機卿でしたが、予てからデル・モンテ枢機卿とは親友同士であり、ブルボン家の血を引くデル・モンテ枢機卿は、フランス派であり、トスカーナ大公国の親フランス政策を教皇庁に影響させようと、デル・モンテ枢機卿をトスカーナ大公国の教皇庁大使に任じ、マダマ宮殿をデル・モンテ枢機卿の大使公邸にしました。
しかし、マダマ宮殿は荒廃していたので、デル・モンテ枢機卿が住むようになるのは、修復工事後の1589年10月となりました。


151
Via della Dogana Vecchia


150
オッタヴィオ・レオーニ(ローマ、1578-1630)の「カラヴァッジョの肖像」(1621c)
カラヴァッジョの死後に制作された肖像画です。

さて、カラヴァッジョですが、デル・モンテ枢機卿の庇護を受けて、安心して制作する環境のもとに、多くの傑作を生み出すことになりますが、デル・モンテ枢機卿の知遇を得る切っ掛けは何だったのでしょうか。


155
オッタヴィオ・レオーニ(ローマ、1578-1630)の「ジョヴァンニ・バリオーネの肖像」

17世紀に書かれた、幾つかのカラヴァッジョの伝記があるのですが、バリオーネ裁判でカラヴァッジョと争った画家のバリオーネもカラヴァッジョの伝記を残しました。敵対関係にあったので、バリオーネが書いたカラヴァッジョの伝記は辛辣です。
他にジュリオ・マンチーニ、ジョヴァンニ・ピエトロ・ベッローリが書いたカラヴァッジョの伝記が良く知られてます。
それらの従来の伝記によれば、ダルピーノ工房などで過ごした余暇に風俗画を描いていたカラヴァッジョは、退院後、遂に極貧生活に陥り、描き貯めていた風俗画を画商コスタンティーノ・スパーダに預けて、作品を売ってもらって僅かばかりの金を入手して生活していました。サンタ・マリア・デイ・フランチェージ聖堂近くにあったスパーダの店にあったカラヴァッジョの「いかさま師」が、店に立ち寄ったデル・モンテ枢機卿の目に留まったことがマダマ宮殿に居住する切っ掛けになったということでした。


156
カルロ・マラッタ(カメラーノ、1625-ローマ、1713)の「ジョヴァンニ・ピエトロ・ベッローリ(ローマ、1613-1696)
ベッローリは、作家、古物収集家、美術史家でした。


157
ベッローリ著「当代の画家、彫刻家、建築家の生涯」


158
ベッローリ著の「当代の画家、彫刻家、建築家の生涯」のカラヴァッジョ編で挿入されたカラヴァッジョの肖像


159
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「いかさま師」(1594c)
アメリカのフォートワースのキンベル美術館にあります。

デル・モンテ枢機卿の目に留まった作品と言われてます。


160


161


162
熱心な美術愛好家で「いかさま師」に注目したデル・モンテ枢機卿は、カラヴァッジョを自分の住んでいるマダマ宮に住み込ませて制作させることにした、というのが、伝記作家によって多少の違いがあるものの、これまでの定説でした。

しかし、ガスパーレ・チェリオ(ローマ、1571-1640)が著した「芸術家たちの生涯」によれば、複製画を必要としていたデル・モンテ枢機卿は、複製画制作に従事する画家を探していましたが、それを聞きつけたプロスぺロ・オルシがカラヴァッジョを枢機卿に紹介して、カラヴァッジョは複製画制作のためにマダマ宮殿に住むことになったそうです。
チェリオの「芸術家たちの生涯」のカラヴァッジョ編の中で、枢機卿のもとにカラヴァッジョを紹介するためにオルシは一日中カラヴァッジョを探し回り、服を着ずに寝ていたカラヴァッジョを見つけて漸くカラヴァッジョを枢機卿のもとに連れていくことが出来たと記してます。
枢機卿はカラヴァッジョの服を着せ、住む部屋を与えると、ほどなくしてカラヴァッジョは女占い師やそれに類するものを描いたと記してます。
当時、有名な作品の複製画の需要がかなりあったそうです。


154
オッタヴィオ・レオーニ(ローマ、1578-1630)の「ガスパーレ・チェリオの肖像」


103
プロスぺロ・オルシ(ローマ、1560-1633)の「自画像」

プロスぺロ・オルシは、画商を兼ねていて美術愛好家のデル・モンテ枢機卿とは密接なコンタクトがあったと思われます。また、高貴な家に生まれたオルシは、ローマの上層階級にコネがあったと思われます。
オルシの助けにより、カラヴァッジョはマダマ宮殿内に安住の地を得て、数々の傑作を描くことになるのです。



作品巡り 8.ローマ、サンタ・マリア・デル・ポポロ聖堂チェラージ礼拝堂
163
サンタ・マリア・デル・ポポロ聖堂です。Basilica Minoreの格式を持つ教区教会 Parrocchialeです。
Basilica PapaleとBasilica Minoreの教会は必ず聖堂と訳すべきでしょう。なお、Basilica Papaleはローマに4つ、アッシジに2つの全部で6つあります。カトリック教界で最も各式が高い教会がBasilica Papaleです。


164
カラヴァッジョの作品が2つあります。


165
サンタ・マリア・デル・ポポロ聖堂は、美術ファンにとって見所が多い教会と言えるでしょう。


166
左側廊奥に、カラヴァッジョの作品があるチェラージ礼拝堂があります。


167
チェラージ礼拝堂です。礼拝堂正面にアンニーバレ・カラッチの「聖母被昇天」、左側壁にカラヴァッジョの「聖ピエトロの磔刑」、右側壁にカラヴァッジョの「聖パオロの回心」があります。


168
観光客が多いと思われるでしょうが、意外に少ないことがあると思います。


169
左側壁にティベリオ・チェラージ(ローマ、1544-フラスカーティ、1601)の墓のモニュメントがあります。


170
墓のモニュメント上部に「ティベリオ・チェラージの頭像」があります。
ローマ大学の「La Sapienza」学長であり、銀行家でもあり、教皇の財政機関Camera Apostolicaの総会計を務めるティベリオ・チェラージは、1600年6月8日付けでチェラージ礼拝堂を買収しました。
買収が完了すると、直ぐにアンニーバレ・カラッチに礼拝堂装飾を注文しました。正面の祭壇画、左右の側壁のテーマはチェラージから具体的に出され、決まっていたそうです。


171
アンニーバレ・カラッチは、協力者であるインノチェンツォ・タッコーニ(ボローニャ、1575-ローマ、1625)と共に、注文の制作に取り掛かりました。


172
当時、アンニーバレ・カラッチは非常に有能な画家として既に有名で、相次ぐ注文をさばくためにボローニャから弟子を呼び寄せていました。


173
アンニーバレ・カラッチ(ボローニャ、1560-ローマ、1609)の「聖母被昇天」(1600)


174
当時、アンニーバレ・カラッチは、ファルネーゼ家の宮廷画家のような立場にありました。ファルネーゼ家からファルネーゼ宮殿装飾に従事せよとの指示を受けていたので、「聖母被昇天」が完成すると直ぐに立ち去ってしまいました。左右の側壁の祭壇画は宙に浮いてしまう格好になってしまいました。


175
インノチェンツォ・タッコーニ(ボローニャ、1575-ローマ、1625)の「チェラージ礼拝堂天井のフレスコ画」(1600)


176
ティベリオ・チェラージは、1601年に別荘があるフラスカーティで没しますが、アンニーバレが去ったとき、死期を悟ったのか、チェラージ礼拝堂装飾を急ぎ、礼拝堂左右の側壁の「聖ピエトロの磔刑」と「聖パオロの回心」をカラヴァッジョに依頼したのです。
1600年9月24日以降に締結された、モンシニョール・ティベリオ・チェラージとカラヴァッジョの契約書が残されてます。
カラヴァッジョは、アンニーバレ・カラッチを評価しており、注文を受けた際にカラッチの「聖母被昇天」を見た可能性があり、それに負けない作品を制作しようと意気込んだと思われます。


177
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「聖パオロの回心」(1600‐01c)

第一作となる、この作品と「聖ピエトロの磔刑(現存しない)」は、1601年11月頃までに完成したとされてますが、チェラージ家から受け取りを拒否されてしまいました。カラヴァッジョは直ぐに描き直しの制作に着手しました。
なお、ティベリオ・チェラージは、1601年5月に没したので、受け取りを拒否したのはティベリオの遺族と思われます。
しかし、差し替えたのはカラヴァッジョ自身の意思によるとの説があります。
第二作と比べると、第二作の方が画題に相応しい表現と思います。

なお、第一作の「聖パオロの回心」は、ローマのオデスカルキ・バルビ・コレクションで一般公開されてます。中は写真不可だったので、私の作品写真はありません。


178
約束の期限まで間に合わせて急いで制作されたと思われますが、完成度は第二作の方が勝ります。


179
第一作の制作と並行して第二作もある程度用意されていたような気がします。


180
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「聖パオロの回心」(第二作) (1600-01c)


181


182


183
「聖ピエトロの磔刑」も第二作に当たります。


184
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「聖ピエトロの磔刑」(1600-01c)


185


186


187
祭壇画は実際に教会で観なければ、その良さが分からないと思います。
教会の祭壇画として制作された作品の多くが美術館でしか見ることが出来ないのが残念です。


188
(つづく)

足跡を辿って 6.マダマ宮殿以前Ⅱ
101
マダマ宮殿以前のカラヴァッジョの続きです。


100
スクロファ通りにある噴水


102
カラヴァッジョは、ダルピーノ工房で、自分の将来を左右する重要人物と巡り会います。


103
プロスぺロ・オルシ(ローマ、1560-1633)の「自画像」

カラヴァッジョにとって、プロスペロ・オルシとの交友は非常に重要な意味を持っていました。
以下については、木村太郎氏の「カラヴァッジョの画商(トゥルチマンノ)プロスぺロ・オルシに関する17世紀の2つの伝記(翻訳と解題)」を参考にさせていただきました。

プロスぺロは、グロテスク装飾が得意な画家でしたが、協力者のような立場でダルピーノ工房で働くことがありました。1595年春から年末にかけてのある時期に、プロスぺㇿはカラヴァッジョと出会ったと考えられます。
プロスぺㇿがダルピーノの弟子との表記が一部でありますが、プロスぺロの方がダルピーノよりも10歳以上年長だったことを考えれば、弟子ではなくダルピーノの友人であり、協力者だったと考えるのが至当と思います。
プロスぺㇿは、画業の傍ら画商を兼ねていましたが、それにはプロスぺㇿの人脈、何よりも兄の存在が大きかったと思います。
オルシ家は由緒ある名家でした。プロスぺㇿの長兄アウレリオ・オルシ(ローマ、1550-1591)は、著名な詩人でした。ファルネーゼ家の宮廷詩人に迎えられ、後にファルネーゼ家の秘書になります。また、詩が趣味だったマッフェイ・ヴィンチェンツォ・バルベリーニ枢機卿(フィレンツェ、1568-ローマ、1664)、後の教皇ウルバーノ8世の詩の先生でした。ベルベリーニ枢機卿からアウレリオに宛てた5通の手紙が残されてます。
プロスぺㇿの次兄ジョルダーノ・オルシは、レパントの海戦で負傷して、その傷がもとで死んだ高位軍人でした。
プロスぺㇿの画業には、兄たちの人脈が大いに役立ったと考えれます。

プロスぺㇿは、カラヴァッジョと会うと、直ぐに気に入り、ダルピーノの模倣者だった画風を変えて、カラヴァッジョの模倣者になりました。プロスぺㇿは最初のカラヴァッジェスキ画家になりました。また、私生活でも夕食を共にしたり、他の画家の祭壇画を一緒にしたりと非常に仲が良かったのです。
そして、画商として、カラヴァッジョの作品を熱心に売り込んだり、有力者に紹介したようです。

2017年にミラノの王宮で開催されたデントロ・カラヴァッジョ展におけるS. Ebert-Schfferer氏の資料によれば、プロスぺロ・オルシが画商として初めてカラヴァッジョの作品3点をローマのヴィットリーチェ家に売ったとされてます。プロスぺㇿの姉か妹のオリンツィアがヴィットリーチェ家に嫁いでいたので、ローマのヴィットリーチェ家はプロスぺㇿの親戚でした。
その3点のカラヴァッジョ作品は、「女占い師」、「エジプト逃避途中の休息」、「悔悛のマグダラのマリア」でした。
プロスぺㇿの姉か妹のオリンツィアは、ジローラモ・ヴィットリーチェと結婚しましたが、夫のジローラモは、オラトリオ会のサンタ・マリア・イン・ヴァッリチェラ教会のヴィットリーチェ家礼拝堂のために、カラヴァッジョに「キリストの埋葬」(現在、ヴァティカン絵画館蔵)を注文しました。


110
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「女占い師(ルーブル美術館蔵)」


111
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「エジプトへの逃避途中の休息」


112
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「改悛のマグダラのマリア」


104
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)に帰属する「マッフェイ・ヴィンチェンツォ・バルベリーニ(後の教皇ウルバーノ8世)の肖像」(1596c)(個人蔵)
この肖像画は、1596年頃に制作されたとすれば、デル・モンテ枢機卿のマダマ宮殿に入る以前ということになり、プロスぺㇿが兄アウレリオの伝手によって、枢機卿にカラヴァッジョを紹介して制作されたと見るべきでしょう。

後に、バルベリーニ枢機卿はカラヴァッジョに「イサクの犠牲」(フィレンツェ、ウフィッツィ美術館)を注文しました。(作品写真は下)


113
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ,1610)の「イサクの犠牲」


109
馬に蹴られた、またはマラリアに罹ったことでサンタ・マリア・コンソラツィオーネ病院に入院していたカラヴァッジョは、退院後、プロスぺロ・オルシの家に転がり込みました。
当時、オルシは、サン・サルヴァトーレ・イン・カンポ広場近くで母と一緒に暮らしていたそうです。


106
現在、サン・サルヴァトーレ・イン・カンポ広場です。


105
当時、サン・サルヴァトーレ・イン・カンポ広場近くには、大司教モンシニョール・ファンティン・ペトリニャーニ(アメリア、1539-ローマ、1600)の家がありました。


271
マンチーニの伝記によれば、カラヴァッジョは一時期大司教ファンティーノ・ペトロニャーニのPalazzo Petrignaniに寄宿したと記されてます。その時期はマダマ宮殿に移住する前なのか、マダマ宮殿に寄宿しながら、その途中で一時期滞在したのか、よく分からないとされてます。
この建物は、現在のPalazzo del Monte di Pietaですが、1588年に建設され、1591年にペトリニャーニ家に買収されました。後に、教皇になる前のマッフェオ・バルベリーニ枢機卿がこの建物に住んでいました。


270
Palazzo del Monte di PietaはRione VII Regolaに面してます。


272
カラヴァッジョは、後にファンティーノ・ペトリニャーニ大司教の出身地カメリアのPalazzo Petrignaniに滞在したとの記録がカメリアに残されているそうです。


107
広場に面して建つサン・サルヴァトーレ教会です。


108
カラヴァッジョが見ていたサン・サルヴァトーレ教会の建物は取り壊されてました。


114
ガスパーレ・チェリオ著「美術家列伝所収の『カラヴァッジョ伝』」によれば、退院後、滞在したプロスぺロ・オルシの家で、「リュートを弾く少年」を描いたと言われてます。



作品巡り 7.ローマ、サン・ルイージ・デイ・フランチェージ聖堂コンタレッリ礼拝堂
115
サン・ルイージ・デイ・フランチェージ聖堂です。ローマにあるフランスの国立教会です。


116
カラヴァッジョの出世作となった聖マッテオの物語の三部作があります。
近年、カラヴァッジョの作品を見る観光客で混雑しています。


117
制作者情報不知の「マッテオ・コンタレッリ枢機卿の肖像」

1565年、マッテオ・コンタレッリ枢機卿(フランス・モランヌ、1519-ローマ、1585)はサン・ルイージ・デイ・フランチェージ聖堂に礼拝堂を買収しました。その礼拝堂は、コンタレッリ礼拝堂と呼ばれてます。


144
コンタレッリ礼拝堂は、左側廊の最奥にあります。


119
コンタレッリ礼拝堂です。


118
ピエル・レオーネ・ゲッツィ(ローマ、1674-1755)の「ジローラモ・ムツィアーノの肖像」(1695)
ムツィアーノの死後100年以上経ってから制作された肖像画です。

礼拝堂を購入したマッテオ・コンタレッリ枢機卿は、礼拝堂の装飾をジローラモ・ムツィアーノに注文しました。その装飾主題を自分の名前に因んで「聖マッテオの物語」をするように決めました。
ところが、注文したものの一向に作品制作の話がないうちに、1585年に礼拝堂装飾を必ず実行するようにとの遺言を残して枢機卿が没しました。


36
カヴァリエール・ダルピーノ(アルピーノ,1568-ローマ、1640)の「自画像」(1640)

コンタレッリ枢機卿の遺言執行人Virglio Crescenziは、ダルピーノに礼拝堂の装飾を依頼しました。また、礼拝堂の主祭壇には「聖マッテオと天使」の彫刻を設置することにし、彫刻家Jacques Cobaertに注文しました。


120
カヴァリエール・ダルピーノによって描かれたコンタレッリ礼拝堂の天井(1591-93)


121
当時、ダルピーノは超売れっ子の画家で多忙でした。天井部分を仕上げたものの、礼拝堂左右の側壁の「聖マッテオの物語」の制作に取り掛かれないままに時間だけが経過してしまいました。
主祭壇の彫刻の制作も予定よりも大幅に遅れていました。


125
1599年7月23日、カラヴァッジョは、遺言執行人から礼拝堂の左右の側壁用の祭壇画注文を受けたのです。ガスパーレ・チェリオの「カラヴァッジョ伝」によれば、遺言執行人と親交があったデル・モンテ枢機卿がカラヴァッジョを推薦して受注したものですが、デル・モンテ枢機卿にカラヴァッジョを頼んだのは、プロスぺロ・オルシでした。


126
ガスパーレ・チェリオの著作によれば、完成してコンタレッリ礼拝堂の左右の側壁に設置されると、プロスぺロ・オルシは画家たちや友人など大勢の人たちを礼拝堂に連れてきて、みな、カラヴァッジョの作品を絶賛したとのことです。


127
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「聖マッテオの召命」


128
税金を数えているのが聖マッテオでしょう。


141
集税人は卑賎な職業とされ、軽蔑の対象でした。


129
実際に作品に光が当たって、より一層カラヴァッジョの特徴である明暗効果が印象深く心に刻まれます。


130


131
正面の「聖マッテオと天使」は後回しにして、右側壁に移ります。


132
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「聖マッテオの殉教」


133
カラヴァッジョが全力で仕上げたことが分かります。


134
従来の動きの少ない宗教画と比べて、人物が躍動する斬新な表現に感動します。


135
「聖マッテオの召命」と「聖マッテオの殉教」の二作によって、カラヴァッジョの名声が確立されました。


142
カラヴァッジョの自画像が描かれてます。


136
次は正面の「聖マッテオと天使」に移ります。


123
ジャック・コバールト(フランドル、1535-ローマ、1615)の「聖マッテオと天使」(1602)

1602年1月、漸く完成した「聖マッテオと天使」の彫刻が礼拝堂正面に設置されました。サン・ルイージ・デイ・フランチェージ聖堂の司祭を務めていた、コンタレッリ枢機卿の甥フランチェスコ・コンタレッリは、この彫刻がカラヴァッジョの左右の油彩画と比べると凡作で冴えないとして、直ぐに礼拝堂から撤去させました。


124
撤去されたコバールトの彫刻は、サンティッシマ・トリニタ・デイ・ペッレグリーノ教会サン・マッテオ礼拝堂に移されました。


122
現在もサンティッシマ・トリニタ・デイ・ペッレグリーノ教会サン・マッテオ礼拝堂にジャック・コバールトの彫刻が置かれてます。


137
1602年2月7日、カラヴァッジョはコンタレッリ礼拝堂正面の「聖マッテオと天使」の注文を受けました。
そうして完成したのが、写真の「聖マッテオと天使」でした。しかし、この作品は受け取りを拒否されてしまいました。その理由は定かではありませんが、聖マッテオの左足裏が汚すぎる、聖マッテオと天使がくっついて描かれていてエロ的であるとの説があります。

すぐにカラヴァッジョは第二作の制作に取り掛かりましたが、受け取りを拒否された第一作は、ジョヴァンニ・バリオーネのカラヴァッジョの伝記によれば、プロスぺロ・オルシの仲介によってカラヴァッジョのパトロンであるヴィンチェンツォ・ジュスティアーニ侯爵によって買い取られました。
後に、この作品は、ベルリンのカイザー・フリードリヒ国立美術館の所蔵となりましたが、第二次世界大戦で焼失してしまいました。カラー写真は残さされておらず、白黒写真だけとなってます。


138
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「聖マッテオと天使」(第二作)


139
契約期間内に完成して、無事設置されました。


140
聖マッテオ三部作の成功によって、カラヴァッジョは人気画家となりました。


143
私が初めてコンタレッリ礼拝堂のカラヴァッジョ作品を見たのは、1980年代の中頃だったと思いますが、その当時は観光客の姿がなくて、ゆっくりと鑑賞できたのを覚えています。
(つづく)

↑このページのトップヘ