足跡を辿って 9.サン・ビアージョ小路のアパート居住時代Ⅱ

カラヴァッジョの素行が改まることはなく、犯罪記録が続きます。彼の確実な行動を知る手段が警察や裁判所の記録ですから恐れ入るほかありません。

スペイン広場からポポロ広場に通じるバブイーノ通りがあります。

1604年10月19日から20日にかけての深夜、バブイーノ通りで事件が起こります。

バブイーノ通りです。
カラヴァッジョは、教皇の使者ピエトロ・パオロ・マルテッリ、香水屋アレッサンドロ・トンティ、本屋のオッタヴィアーノ・ガブリエッリなどと一緒にバブイーノ通りを歩いていましたが、警官から剣の携帯許可証を持っているか、と職務質問を受けました。その際尋問した警官に投石して暴言を吐いたとして逮捕されました。

逮捕後の聴取で、カラヴァッジョは、「建築家オノリオ・ロンギと通りを歩いていて、知り合いの娼婦と出会って立ち話をしている時に、石の音が聞こえたけれど、警官に対しては何も言っていない」と否認しました。
オノリオ・ロンギがカラヴァッジョの一行と一緒だったかは不明のようで、この時のロンギの逮捕記録は残されていません。

逮捕された四人の供述は少しづつニュアンスが異なっていて、口裏合わせが出来なかったようです。

写真は、トル・ディ・ノーナ監獄です。トル・ディ・ノーナは15世紀からローマの主要監獄でした。
カラヴァッジョ、ピエトロ・パオロ・マルテッリ、アレッサンドロ・トンティ、オッタヴィアーノ・ガブリエッリの四人は、逮捕後、トル・ディ・ノーナ監獄に拘留されました。罪状は四人とも否認しました。この時の刑罰に関する記録が残されていないようです。

バブイーノ通りの事件から、僅か3週間後の1604年11月18日に、キアヴィカ・デル・ブッファロ通り(当時の通りの名称で、現在は単にブッファロ通りと呼ばれてます)で事件が起こります。

1604年11月18日の恐らく未明、キアヴィカ・デル・ブッファロ通りで剣と短剣を持って歩いていたカラヴァッジョは警官から呼び止められ、剣の携帯許可証の提示を求められました。
カラヴァッジョが許可証を提示すると、警官が了解して「おやすみ」と言って別れようとしたのですが、カラヴァッジョはなぜか逆上して、警官に対して酷い侮蔑する言葉を浴びせたので、逮捕されてしまいました。

疑いが晴れ、そのまま警官と別れれば問題ないのですが、ここで敢えて問題を起こすのがカラヴァッジョなんですね。

写真はPalazzo del Buffaloです。
これだけ事件を起こしたとなると、カンポ・マルツィオ地区の警官の間では、カラヴァッジョは面が割れ?のかなり有名な男と見做されていたかもしれません。

今回も逮捕後にトル・ディ・ノーナ監獄に収監されました。

今度は、カラヴァッジョは法を犯す側ではなく、被害者となって当局にお願いに行ったのです。

年が変わって、自分(カラヴァッジョ)の名前が使われて、教皇庁の下士官が騙されて40scudiのマントが取られた事件の加害者アレッサンドロ・リッチを釈放しないようにと、1605年2月16日に当局に出向いて要請しました。名前を騙られて詐欺事件が起きるほど、カラヴァッジョが有名だったことがこの事件で分かります。

カラヴァッジョの女とみなされていたマッダレーナ・アントネッティ通称レーナ(ローマ、1579-?)の家がコルソ通りのサンティ・アンブロージョ・カルロ教会の傍にありました。

レーナは、娼婦でしたが、度々カラヴァッジョのモデルを務めました。

レーナがモデルと言われている「アレッサンドリアの聖カテリーナ」

「ロレートの聖母」の聖母もレーナがモデルと言われてます。
これら2つの作品を含めて、レーナがモデルとなったカラヴァッジョ作品が7点あるそうです。
次はまたしてもカラヴァッジョの警察沙汰となりますが、前回が1604年11月で今回が1605年5月ですから、約7か月間空いたことになります。しかし、カラヴァッジョの行状から察すると、その間、警察沙汰が全くなかったとは考え難い訳で、デル・モンテ枢機卿など有力パトロンが介入して事件をもみ消した可能性があると思います。

写真はコルソ通りです。
1605年5月28日、レーナの家の傍で、剣を帯びてコルソ通りを歩いていたカラヴァッジョは、警官から剣の携帯許可証の提示を求められましたが、この時は許可証を持っていなかったので、武器の不法所持によって逮捕収監されてしまいました。

写真は、コルソ通りに面したサンティ・アンブロージョ・エ・コルソ教会です。
逮捕された翌日に行われた取り調べで、カラヴァッジョは、武器の携帯許可は当該する役所から口頭で得ていると主張し、それが認められたようで、この時は刑罰なしで釈放されました。

逮捕された際、ピーノ警察署長によってカラヴァッジョが持っていた剣と短剣が没収されたのですが、没収された剣と短剣のスケッチが取り調べ書の左下に描かれてます。(写真は取り調べ書で、左下に剣と短剣のスケッチが描かれてます)

写真はサンティ・アンブロージョ・エ・カルロ教会です。
1605年7月19日、マッダレーナ・アントネッティ通称レーナの家の隣に住むラウラ・デッラ・ヴェッキアとラウラの娘イサベッラ・デッラ・ヴェッキアの二人がレーナを中傷したことを聞き付けたカラヴァッジョが、レーナに対する悪口の仕返しとばかりに、デッラ・ヴェッキア母娘が住む家の扉とファサードを壊した廉で、逮捕され、またしてもトル・ディ・ノーナ監獄に収監されました。
この時は、画家兼彫刻家のケルビーノ・アルベルティ、画家兼画商のプロスぺーロ・オルシ、本屋のオッタヴィアーノ・ガブリエッリなどが保証人となって保釈金を立て替え払いして、カラヴァッジョは釈放されました。

この頃、カラヴァッジョは、警察沙汰の合間?に、サン・ビアージョ小路のアパートで「この人を見よ」を制作していました。

ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「Ecce Homo(この人を見よ)」

ジェノヴァのストラーダ美術館のPalazzo Biancoにあります。

ローマの貴族マッシモ・マッシミが1605年7月に注文した作品です。
この作品の前に、マッシミは「荊刑のキリスト」をカラヴァッジョに注文しましたが、それに対になるように「この人を見よ」を注文しました。
この時、マッシミはカラヴァッジョだけではなく、チゴリ、パッシニャーノにも「Ecce Homo」を注文しました。

チゴリの「Ecce Homo」はフィレンツェのパラティーナ美術館にありますが、2016年に上野の国立西洋美術館で行われた「カラヴァッジョ展」に出展されていました。

写真はナヴォーナ広場です。
この広場でカラヴァッジョが事件を起こします。

1605年7月29日の夜9時ころ、公証人Mariano Pasqualoneが教皇庁の役人と一緒にナヴォーナ広場を歩いていると、後方から剣で斬り付けられて頭を負傷して転倒したが、襲撃した者が誰からは判別できなかったものの、襲撃したのはカラヴァッジョ以外には考えられないとして、カラヴァッジョはパスクゥアローネから訴えられました。
カラヴァッジョの女であるマッダレーナ・アントネッティ通称レーナと数日前に口論したので、カラヴァッジョがそれを根に持ってレーナの仕返しとして襲撃したのに間違いないと訴えました。

この襲撃後、カラヴァッジョがデル・モンテ枢機卿が住んでいたマダマ宮殿に逃げ込んでいたのを目撃されていました。
目撃者がいたことを知ったカラヴァッジョは、観念したのかローマから逃亡しました。

逃亡先にカラヴァッジョが選んだのは、ジェノヴァでした。

ジェノヴァのドーリア・トゥルシ宮です。現在、ジェノヴァ市の市庁舎として使用されてます。

当時、この宮殿には海軍提督のジョヴァンニ・アンドレア1世・ドーリア侯爵(1539-1606)が住んでいました。カラヴァッジョは、有力なパトロンだったジェノヴァ出身の銀行家ジュスティアーニ侯爵家を頼ってジェノヴァを選んだとされており、ドーリア侯爵を頼ってジェノヴァに逃亡したのです。カラヴァッジョ侯爵夫人コスタンツァ・コロンナの援助によってジェノヴァに逃亡したとの有力説もあります。
1605年8月6日、カラヴァッジョがジェノヴァにいたことを示す記録が残されてます。

写真はVilla Principeです。現在は美術館として一般公開されてます。
このVillaもジョヴァンニ・アンドレア1世・ドーリアが所有しており、ジェノヴァ逃亡中のカラヴァッジョは主に、このVillaに滞在していました。
有名なアンドレア・ドーリア海軍提督(1466-1560)はジェノヴァの支配者でしたが、海軍提督はジョヴァンニ・アンドレアの大叔父に当たります。ジョヴァンニ・アンドレアの父が早世したことにより、ジョヴァンニ・アンドレアは海軍提督アンドレア・ドーリアの後継者となりました。
カラヴァッジョの父が仕えたカラヴァッジョ侯爵の夫人コスタンツァ・コロンナは、コロンナ家出身でしたが、アンドレア・ドーリアの妻がコロンナ家の出身だったので、その縁でカラヴァッジョがジョヴァンニ・アンドレア1世・ドーリアを頼ったとされてます。

Villa Principeのロッジャです。
カラヴァッジョがこのヴィッラに滞在中、ジョヴァンニ・アンドレア1世が6000scudiの大金でカラヴァッジョにフレスコ画制作を依頼しましたが、拒否された話が残されてます。フレスコ画が苦手なカラヴァッジョなので、大金でもフレスコ画制作の注文を受けなかったのでしょう。

写真はローマのボルゲーゼ広場です。
シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿の尽力によって、カラヴァッジョの襲撃事件の和解に向けた調停進捗の話を受けて、1605年8月24日、カラヴァッジョはジェノヴァからローマに戻りました。

写真はPalazzo Quirinaleです。
1605年8月26日、この宮殿内のボルゲーゼ枢機卿の部屋で、カラヴァッジョは誓約書に署名して、マリアーノ・パスクゥワローネの殺人未遂の訴えが取り下げられ、和解調停の運びとなりました。

オッタヴィオ・レオーニ(ローマ、1578-1630)の「シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿の肖像」

ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)に帰属する「男(シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿とされる)の肖像」
この和解調停後、ボルゲーゼ枢機卿はカラヴァッジョのパトロンになりました。

ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「執筆する聖ジローラモ」
カラヴァッジョが、和解調停のお礼としてボルゲーゼ枢機卿に贈ったとされる作品です。

ボルゲーゼ美術館で展示されてます。
(つづく)