足跡を辿って 18.シチリアⅠ

1608年10月6日夜、サンタンジェロ要塞地下牢から脱獄したカラヴァッジョは、マルタ島のポルト・グランデから船に乗船してシチリア島に向かいました。

マルタ島とシチリア島の距離は約93kmですから、1608年10月7日か8日頃にはシチリア島に到着したと思われます。

写真はシラクーザ港です。
カラヴァッジョがシチリア島に到着した場所ですが、シラクーザ説が定説になってますが、地元ではテッラノーヴァ(ジェーラ)説も有力です。

シラクーザには、ローマで一緒に生活したことがあるマリオ・ミンニティが住んでいたので、マリオを頼ってシラクーザに行ったのでしょう。

ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「果物籠を持った少年」
カラヴァッジョのこの作品のモデルがマリオ・ミンニティと言われてます。マリオはカラヴァッジョの作品のモデルとして度々登場しました。

シラクーザのオルティージャ島旧市街のVia Mario Minniti 54(地図Aの場所)にマリオの家がありました。

マリオの家は道幅の狭い路地にありました。

マリオ・ミンニティが住んでいた家です。現存しています。

カラヴァッジョは、マリオの家で暫く身を潜めていたようですが、当時のマリオは弟子を何人も抱える繁盛した画家だったので、騎士からの復讐を恐れる身としては身を潜める最適な場所とは言えず、目立たぬ場所に移転したと思われます。

シラクーザにある州立美術館にマリオ・ミンニティの作品があります。
どれも一言でいえば、大したことがない作品ですが、ローマで修業して地元に戻った画家、つまり箔があった訳で繁盛していました。
実は、ローマで活躍するには難しいと判断して、1604年頃にローマで結婚した妻と共に、生まれ故郷に戻ったようです。マリオはカラヴァッジョと同じような性格だったようで、帰郷して間もなく殺人を起こしてしまいましたが、地元の有力者に懇願して何とか罪を免れました。
ローマ帰りの箔付けが功を奏して、やがて注文が次々と舞い込む人気画家になりました。
マリオが地元で人気画家になっていたお陰で、カラヴァッジョに仕事が舞い込むことになりました。と言うよりも、マリオが注文主とカラヴァッジョの仲介をしたのです。
ローマで結婚した、いわば糟糠の妻が死ぬと、地元の名士の娘と再婚してさらに成功して、悠々自適だったと伝えられてます。

マリオ・ミンニティの代表作です。

「聖ルチアの殉教」

表現がやや平板的です。

「聖キアラの奇跡」

こちらは、マリオ・ミンニティの帰属作品です。

話を戻して、カラヴァッジョに逃亡を許したマルタ騎士団のその後です。

写真はマルタ騎士団長の宮殿です。
カラヴァッジョの脱獄を知った騎士団長アロフ・ド・ウィニャクールは激怒し、ヨーロッパ各地にいる全ての騎士団員に向けて、逃亡者の捕獲と拘留を命じる訓令書を送りました。
恐らく騎士団長は前もってカラヴァッジョの脱獄を知っていたと思われます。
この脱獄は、カラヴァッジョが間違いなく罪を認めたに等しいと解釈されました。

1608年12月1日、乱闘に参加した7名の裁判が行われ、逮捕されたカラヴァッジョとサン・ジョヴァンニ大聖堂司祭のフラ・ジョヴァンニ・ピエトロ・デル・ポンテは騎士団から除名、追放処分が出されました。他5名は禁固刑(刑期不明)となりました。カラヴァッジョは勿論欠席裁判となりました。
乱闘の理由など、何も分かっていないにも拘らずカラヴァッジョと大聖堂司祭に二人が逮捕されて、騎士団からの除名という重罪になったことが不可思議です。二人対五人で戦ったのでしょうか。カラヴァッジョは、乱闘の一方の首謀者だったのでしょうか。
高位騎士のベッツァ伯爵は、実戦経験豊富な騎士でした。カラヴァッジョはいつも武装していたにしても所詮は画家で、戦士としてはアマチュアでしょう。重傷を負ったベッツァ伯爵ですが、素人戦士にやられて、これが日本ならば士道不覚悟で切腹でしょうね。士道不覚悟にも拘らずカラヴァッジョに復讐を考えるとは、騎士道に反する馬鹿者としか思えません。
乱闘の理由は不明ですが、女又は男色のトラブル(聖職者には今でも男色の問題が深刻です)だった可能性が高いと思われます。
ともあれ、ベッツァ伯爵は、カラヴァッジョに仕返しをするための刺客を放ちました。

マリオ・ミンニティの家を出たカラヴァッジョがシラクーザの何処に居たのか、全く不明です。シラクーザの滞在中、ずっとマリオの家にいたという可能性もあります。

騎士からの復讐を恐れるカラヴァッジョは、着の身着のまま、剣を抱えながら眠る毎日だったと伝えられます。常時旅立てる用意を崩さなかったようです。
焦燥感にかられた不安定な精神状態を示したようで、狂人と記された記録が残されてます。

写真は、シラクーザのサンタ・ルチア・アル・セポルクロ教会です。
程なくして、マリオ・ミンニティからシラクーザのサンタ・ルチア・アル・セポルクロ教会の祭壇画「聖ルチアの埋葬」の仕事の話が持ち込まれました。
このシラクーザの参議会からの注文は、作品を1608年12月13日までに引き渡す契約になっていました。

写真はサンタ・ルチア・アル・セポルクロ教会の主祭壇です。Presbiterioの祭壇画がカラヴァッジョの作品です。
この作品は素早く仕上げられたそうです。

ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「聖ルチアの埋葬」(1608)

カラヴァッジョは、「聖ルチアの埋葬」の注文を受けると、この石切り場に行ったそうです。

石切り場の内部です。
この石切り場の様子が「聖ルチアの埋葬」に取り入れられました。カラヴァッジョは、この石切り場を「ディオニュシオスの耳」と名付けました。

「ディオニュシオスの耳」はシラクーザの考古学公園にあります。

荒々しい筆使いで描かれてます。

追われていて、いつ殺されるかもしれないとのカラヴァッジョの焦燥感がひしひしと伝わる作品です。

シラクーザのドゥオーモ広場に建っているサンタ・ルチア・アッラ・バディア教会です。

カラヴァッジョの「聖ルチアの埋葬」は2010年頃から、サンタ・ルチア・アッラ・バディア教会に移されていました。

サンタ・ルチア・アッラ・バディア教会の内部です。主祭壇にカラヴァッジョの「聖ルチアの埋葬」が置かれていました。
2020年頃に、元のサンタ・ルチア・アル・セポルクロ教会に戻されました。
この辺の理由がサッパリ分かりません。2008年頃は州立美術館で展示されていました。

さて、話はカラヴァッジョがマルタから脱獄に成功して、初めてシチリア島に到着した場所に戻します。
地図上Aは、テッラノーヴァ(ジェーラ)です。

写真はジェーラです。

ジェーラに到着したカラヴァッジョは、山道を通って途中カルタジローネを経由してシラクーザに向かったという説もあるのです。

カルタジローネです。
カルタジローネ市立図書館に、カラヴァッジョがカルタジローネのサンタ・マリア・デイ・ジェズ教会に立ち寄った記録が残されているそうです。

カルタジローネのサンタ・マリア・デイ・ジェズ教会です。
カラヴァッジョが立ち寄ったとされる教会です。

シラクーザはマルタ島に近い上に、人の行き来がかなりありました。
カラヴァッジョは、シラクーザに留まっていては危険と判断したに違いない。シラクーザを離れる決心をしました。

行先や仕事について恐らくマリオ・ミンニティと相談したと思われます。
親身になって世話をしたマリオにしても、内心ではカラヴァッジョに何時までもシラクーザに留まっていられたら迷惑と思っていたでしょう。刺客に襲われて、巻き添えになってはたまらないからです。

カラヴァッジョは、遅くても1608年11月下旬にはシラクーザを立ってメッシーナに向かいました。
その根拠ですが、メッシーナで制作された「ラザロの蘇生」について交わされた1608年12月6日付の制作契約書が残されており、12月6日以前にカラヴァッジョはメッシーナに到着したことが分かります。
(つづく)