イタリア芸術を楽しむ

イタリアの魅力を味わい尽くすには、一生に何度旅をすれば足りるだろう。芸術の宝庫にして、歴史の生きた証であるイタリア。 惹き付けて止まない絵画、彫刻、歴史的建造物、オペラなど、芸術の宝庫であるイタリアを楽しむブログです。 記事は一日に一つアップしています。記事の見方ですが、例えば「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その4)」は2017年10月20日にアップしました。各記事にカレンダーが表示されてますが、カレンダー上の2017年10月21日をクリックして頂ければ「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その5)」になります。(その3)は2017年10月20日となります。 BY:シニョレッリ

2023年08月

足跡を辿って 18.シチリアⅠ
100
1608年10月6日夜、サンタンジェロ要塞地下牢から脱獄したカラヴァッジョは、マルタ島のポルト・グランデから船に乗船してシチリア島に向かいました。


101
マルタ島とシチリア島の距離は約93kmですから、1608年10月7日か8日頃にはシチリア島に到着したと思われます。


102
写真はシラクーザ港です。
カラヴァッジョがシチリア島に到着した場所ですが、シラクーザ説が定説になってますが、地元ではテッラノーヴァ(ジェーラ)説も有力です。


103
シラクーザには、ローマで一緒に生活したことがあるマリオ・ミンニティが住んでいたので、マリオを頼ってシラクーザに行ったのでしょう。


104
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「果物籠を持った少年」

カラヴァッジョのこの作品のモデルがマリオ・ミンニティと言われてます。マリオはカラヴァッジョの作品のモデルとして度々登場しました。


105
シラクーザのオルティージャ島旧市街のVia Mario Minniti 54(地図Aの場所)にマリオの家がありました。


106
マリオの家は道幅の狭い路地にありました。


107
マリオ・ミンニティが住んでいた家です。現存しています。


108
カラヴァッジョは、マリオの家で暫く身を潜めていたようですが、当時のマリオは弟子を何人も抱える繁盛した画家だったので、騎士からの復讐を恐れる身としては身を潜める最適な場所とは言えず、目立たぬ場所に移転したと思われます。


134
シラクーザにある州立美術館にマリオ・ミンニティの作品があります。
どれも一言でいえば、大したことがない作品ですが、ローマで修業して地元に戻った画家、つまり箔があった訳で繁盛していました。
実は、ローマで活躍するには難しいと判断して、1604年頃にローマで結婚した妻と共に、生まれ故郷に戻ったようです。マリオはカラヴァッジョと同じような性格だったようで、帰郷して間もなく殺人を起こしてしまいましたが、地元の有力者に懇願して何とか罪を免れました。
ローマ帰りの箔付けが功を奏して、やがて注文が次々と舞い込む人気画家になりました。
マリオが地元で人気画家になっていたお陰で、カラヴァッジョに仕事が舞い込むことになりました。と言うよりも、マリオが注文主とカラヴァッジョの仲介をしたのです。
ローマで結婚した、いわば糟糠の妻が死ぬと、地元の名士の娘と再婚してさらに成功して、悠々自適だったと伝えられてます。


130
マリオ・ミンニティの代表作です。


131
「聖ルチアの殉教」


132
表現がやや平板的です。


133
「聖キアラの奇跡」


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こちらは、マリオ・ミンニティの帰属作品です。


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話を戻して、カラヴァッジョに逃亡を許したマルタ騎士団のその後です。


109
写真はマルタ騎士団長の宮殿です。

カラヴァッジョの脱獄を知った騎士団長アロフ・ド・ウィニャクールは激怒し、ヨーロッパ各地にいる全ての騎士団員に向けて、逃亡者の捕獲と拘留を命じる訓令書を送りました。
恐らく騎士団長は前もってカラヴァッジョの脱獄を知っていたと思われます。

この脱獄は、カラヴァッジョが間違いなく罪を認めたに等しいと解釈されました。


110
1608年12月1日、乱闘に参加した7名の裁判が行われ、逮捕されたカラヴァッジョとサン・ジョヴァンニ大聖堂司祭のフラ・ジョヴァンニ・ピエトロ・デル・ポンテは騎士団から除名、追放処分が出されました。他5名は禁固刑(刑期不明)となりました。カラヴァッジョは勿論欠席裁判となりました。

乱闘の理由など、何も分かっていないにも拘らずカラヴァッジョと大聖堂司祭に二人が逮捕されて、騎士団からの除名という重罪になったことが不可思議です。二人対五人で戦ったのでしょうか。カラヴァッジョは、乱闘の一方の首謀者だったのでしょうか。
高位騎士のベッツァ伯爵は、実戦経験豊富な騎士でした。カラヴァッジョはいつも武装していたにしても所詮は画家で、戦士としてはアマチュアでしょう。重傷を負ったベッツァ伯爵ですが、素人戦士にやられて、これが日本ならば士道不覚悟で切腹でしょうね。士道不覚悟にも拘らずカラヴァッジョに復讐を考えるとは、騎士道に反する馬鹿者としか思えません。
乱闘の理由は不明ですが、女又は男色のトラブル(聖職者には今でも男色の問題が深刻です)だった可能性が高いと思われます。
ともあれ、ベッツァ伯爵は、カラヴァッジョに仕返しをするための刺客を放ちました。


113
マリオ・ミンニティの家を出たカラヴァッジョがシラクーザの何処に居たのか、全く不明です。シラクーザの滞在中、ずっとマリオの家にいたという可能性もあります。


115
騎士からの復讐を恐れるカラヴァッジョは、着の身着のまま、剣を抱えながら眠る毎日だったと伝えられます。常時旅立てる用意を崩さなかったようです。
焦燥感にかられた不安定な精神状態を示したようで、狂人と記された記録が残されてます。


119
写真は、シラクーザのサンタ・ルチア・アル・セポルクロ教会です。

程なくして、マリオ・ミンニティからシラクーザのサンタ・ルチア・アル・セポルクロ教会の祭壇画「聖ルチアの埋葬」の仕事の話が持ち込まれました。
このシラクーザの参議会からの注文は、作品を1608年12月13日までに引き渡す契約になっていました。


120
写真はサンタ・ルチア・アル・セポルクロ教会の主祭壇です。Presbiterioの祭壇画がカラヴァッジョの作品です。
この作品は素早く仕上げられたそうです。


121
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「聖ルチアの埋葬」(1608)


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カラヴァッジョは、「聖ルチアの埋葬」の注文を受けると、この石切り場に行ったそうです。


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石切り場の内部です。

この石切り場の様子が「聖ルチアの埋葬」に取り入れられました。カラヴァッジョは、この石切り場を「ディオニュシオスの耳」と名付けました。


175
「ディオニュシオスの耳」はシラクーザの考古学公園にあります。


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荒々しい筆使いで描かれてます。


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追われていて、いつ殺されるかもしれないとのカラヴァッジョの焦燥感がひしひしと伝わる作品です。


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シラクーザのドゥオーモ広場に建っているサンタ・ルチア・アッラ・バディア教会です。


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カラヴァッジョの「聖ルチアの埋葬」は2010年頃から、サンタ・ルチア・アッラ・バディア教会に移されていました。


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サンタ・ルチア・アッラ・バディア教会の内部です。主祭壇にカラヴァッジョの「聖ルチアの埋葬」が置かれていました。
2020年頃に、元のサンタ・ルチア・アル・セポルクロ教会に戻されました。
この辺の理由がサッパリ分かりません。2008年頃は州立美術館で展示されていました。


118
さて、話はカラヴァッジョがマルタから脱獄に成功して、初めてシチリア島に到着した場所に戻します。
地図上Aは、テッラノーヴァ(ジェーラ)です。


116
写真はジェーラです。


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ジェーラに到着したカラヴァッジョは、山道を通って途中カルタジローネを経由してシラクーザに向かったという説もあるのです。


111
カルタジローネです。
カルタジローネ市立図書館に、カラヴァッジョがカルタジローネのサンタ・マリア・デイ・ジェズ教会に立ち寄った記録が残されているそうです。


112
カルタジローネのサンタ・マリア・デイ・ジェズ教会です。

カラヴァッジョが立ち寄ったとされる教会です。


114
シラクーザはマルタ島に近い上に、人の行き来がかなりありました。
カラヴァッジョは、シラクーザに留まっていては危険と判断したに違いない。シラクーザを離れる決心をしました。


129
行先や仕事について恐らくマリオ・ミンニティと相談したと思われます。
親身になって世話をしたマリオにしても、内心ではカラヴァッジョに何時までもシラクーザに留まっていられたら迷惑と思っていたでしょう。刺客に襲われて、巻き添えになってはたまらないからです。


131
カラヴァッジョは、遅くても1608年11月下旬にはシラクーザを立ってメッシーナに向かいました。
その根拠ですが、メッシーナで制作された「ラザロの蘇生」について交わされた1608年12月6日付の制作契約書が残されており、12月6日以前にカラヴァッジョはメッシーナに到着したことが分かります。
(つづく)

足跡を辿って 17.マルタ島から逃亡
100
1607年12月29日付の騎士団長アロフ・ド・ウィニャクールの訓令を受けて、マルタ騎士団駐ローマ大使ロメリーニは、カラヴァッジョともう一人の騎士団入団に向けて、教皇庁と調整を開始しました。


101
オッタヴィオ・レオーニ(ローマ、1578-1620)の「教皇パオロ5世とシピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿の肖像」
シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿は教皇パオロ5世の甥です。

1608年2月7日、マルタ騎士団の駐ローマ大使のロメリーニは、パオロ5世に対して、二人を騎士団に向け入れて欲しい旨、申請しました。
カラヴァッジョについては、直接言及せず、彼(カラヴァッジョ)は、非常に高潔な人物で、非常に名誉ある資質を持ち行動する、我々騎士団が特別な僕として守っている人物としていて、曖昧なままの人物表現でした。


102
写真は、ローマにあるPalazzo Cavalieri di Maltaです。

1608年2月15日、申請があった二名の騎士団入団を認める教皇勅書が出されました。

教皇勅書が出されたことは、マルタ島の騎士団本部にも数日後に伝わったと思われますが、実際にカラヴァッジョが騎士団に入団するのは、1608年7月になります。


103
マルタ騎士団の紋章

マルタ騎士団の規則によれば、入団希望者は修練生としてマルタで修道院に1年間過ごして、訓練に励むことが要求されていました。騎士団長アロフ・ド・ウィニャクールが駐ローマのロメリーニ大使に訓令を送ったのは、カラヴァッジョが既に半年間以上マルタ島にいたときでした。
ここで注意すべきは、教皇勅書によって入団が認められた者は、マルタでの修道院生活が1年未満であっても勅書が出された後、直ぐに騎士に認められたのが大半だったようです。
カラヴァッジョをマルタに留め置きたいという騎士団長の願望は非常に大きかった半面、騎士団長は、カラヴァッジョが唯一資格を得ることが出来たCavalieri di Obbedienza(治安政務服従の騎士位)を授与する気がなかったことを示してます。
騎士団の階級に於いて、Cavalieri di Obbedienzaの騎士位は、何よりも名誉騎士としての任命であり、政治的な重要性は限定的でした。他の騎士位よりも、高貴な騎士位や正義の騎士位よりも重要性は低かったのです。


104
騎士団長アロフ・ド・ウィニャクールが真にカラヴァッジョを評価したのは、「聖ジョヴァンニ・バッティスタの斬首」を見てからだったとされてます。
1608年7月14日、叙階式が執り行われ、カラヴァッジョはCavalieri di Obbedienzaの叙階を受けました。カラヴァッジョは念願である騎士としての武装が出来るようになりました。


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写真は、フィレンツェのパラティーナ美術館(ピッティ宮)の「眠るアモール」の展示です。

ここからは、カラヴァッジョがマルタ島で制作した作品になります。


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ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「眠るアモール」(1608)


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キャンバスの裏側にMM di Caravaggio, 1608と書かれてます。


108
マルタ騎士団長アロフ・ド・ウィニャクールの秘書だったフランチェスコ・デッランテッラ、またはフランチェスコの妻の注文によって制作された作品です。フランチェスコの弟ニッコロ・デッランテッラによって1609年7月にフィレンツェに持ち込まれました。


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逸名画家作「フランチェスコ・デッランテッラの肖像」


109
フィレンツェにあるPalazzo dell’Antellaのファサードに描かれた、逸名画家による「眠るアモール」(1619-20)
カラヴァッジョの作品をもとにアンテッラ家邸宅のファサードに描かれました。


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フィレンツェのパラティーナ美術館です。


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ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「アントニオ・マルテッリの肖像」


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アントニオ・マルテッリ(フィレンツェ、1534-1618)の肖像説がほぼ定説になりつつあるようです。


114
アントニオ・マルテッリは、1558年にマルタ騎士団の騎士になり、様々な役職を歴任した高位騎士でした。


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ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「泉の聖ジョヴァンニ・バッティスタ」(1608)

マルタの個人所有の作品です。マルタにあることから、カラヴァッジョのマルタ時代に制作された作品とされてますが、真贋を含めて調査不十分のため作品帰属が明確になっていないようです。


119
 前述したように、1608年7月14日、騎士団長アロフ・ド・ウィニャクールは、カラヴァッジョが服従の騎士として騎士団に入団したことを認めました。


120
写真はアスティにあるPalazzo Roeroです。

それも束の間、カラヴァッジョの乱暴な性格は長くは抑えれなかったようで、騎士になって安心したのか、いつもの悪い性格があだとなって、刃傷沙汰を起こしてしまいます。


122
ヴァレッタにあるサン・ジョヴァンニ大聖堂のオルガンです。

1608年8月18日、サン・ジョヴァンニ修道院教会のオルガン弾き、フラ・プロスぺㇿ・コピーニの家で問題が発生しました。
問題の原因は分かってませんが、コピーニの家でイタリア人の騎士7名が関与する衝突が起きました。武器が使用され、発砲もありました。
その乱闘で、騎士の一人である、高位騎士のヴェッツァ伯爵フラ・ジョヴァンニ・ロドモンテ・ロエロ・ディ・アスティが重傷を負ってしまいました。銃創だったという説もあります。
コピーニの家も乱闘によって、ドアが壊されました。プロスぺㇿ・コピーニが乱闘に参加した7人の一人だったかどうかは不明です。しかし、コピーニは乱闘には積極的に加わっていなかったようです。


121
ロエロ家の紋章です。


ロエロ家はピエモンテの名家です。ピエモンテ各地の領地がありましたが、重傷を負ったジョヴァンニ・ロドモンテ・ロエロの領地は、現在のピエモンテ州クーネオ県のヴェッツァにありました。


123
事件後、直ちに刑事委員会が設置されました。


124
1608年8月27日、刑事委員会は、カラヴァッジョとフラ・ジョヴァンニ・ピエトロ・デ・ポンテを関係者として特定し、二人を逮捕しました。
何故二人だけが逮捕され、他の5人が不問にされたのか、その辺が全く不明です。


125
サンタンジェロ要塞です。

逮捕されたカラヴァッジョはサンタンジェロ要塞の地下牢に投獄されました。


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サンタンジェロ要塞は堅固に造られ、外部からの侵入は極めて困難と言われてます。


130
地下牢の入り口です。

カラヴァッジョが投獄されたのは地下に4メートルの穴を掘って作られた地下牢でした。


129
地下牢に閉じ込められた囚人によって、地下牢の壁に刻まれた彫刻


131
地下牢からの脱獄は不可能と見られていましたが、1608年10月6日夜、カラヴァッジョは脱獄に成功しました。騎士団の有力者の手助けがあって、カラヴァッジョを地下牢から出したに違いないと思われてます。
騎士団長も脱獄を容認していた可能性があります。艦隊司令官ファブリツィオ・スフォルツァ、またはアントニオ・マルテッリ将軍が手助けをしたと推察されてます。


132
その夜のうちに、カラヴァッジョはポルト・グランデに辿り着きました。


128
カラヴァッジョのために、誰かが船を用意していました。


133
カラヴァッジョは大胆で危険な脱獄を成功させ、手配された船に乗ってシチリアに向かったのでした。
(つづく)



足跡を辿って 16.マルタ島
100
1607年6月24日、カラヴァッジョは、マルタ騎士団のガレー船に乗ってマルタ島に向かいました。


101
この一行には、マルタ騎士団ナポリ修道院長イッポリート・マラスピーナ、カラヴァッジョのパトロンであるオッタヴィオ・コスタの息子アレッサンドロ・コスタ、ジュスティニアーニ家のマルカ・アウレリオ・ジュスティニアーニがいました。


104
ナポリからマルタ島まで、18日かかりましたが、途中の経由地については不明です。


102
写真はメッシーナ海峡です。
メッシーナ海峡を通過したのは確実です。


103
ヴィッラ・サン・ジョヴァンニか、メッシーナに係留したかも知れません。


105
マルタ騎士団艦隊は、1607年7月12日、マルタ島に到着しました。


106
ヴァレッタの景観

マルタ島におけるカラヴァッジョの記録は多くありません。


107
騎士団長アロフ・ド・ウィニャクールは、カラヴァッジョを受け入れるに当たって、報告を受けていて、カラヴァッジョのことについて相当知っていたと思われます。殺人を犯した者は騎士団に入団できない決まりがあるにも拘わらず、カラヴァッジョが人を殺したことも当然知っていて受け入れた訳です。


108
マルタの主要港があるヴィットリオローザ、またはビルグです。


109
ヴィットリオーザにあるPalazzo dell' Inquisizioneです。異端審問官の公邸であり、中に異端審問裁判所が設けられていました。
騎士団に入団を希望する者は、先ず異端審問裁判所に出頭して、証人席で証言する必要がありました。


110
カラヴァッジョは、マルタ島に到着すると、直ぐに異端審問裁判所に出頭を命じられたことでしょう。
異端審問でOKが出ないと、即刻退去命令が出されます。


113
1607年7月14日、カラヴァッジョのマルタ島における最初の記録が残されました。
その日、カラヴァッジョは、シチリア出身の騎士ジャコモ・マルケーゼの家でギリシャ出身の画家と出会いました。
そのギリシャ人画家に対する重婚についての裁判が1607年7月26日に行われましたが、カラヴァッジョは証人として出廷して証言した記録が残されています。


111
他の騎士団入団希望者と同様に、カラヴァッジョは連日軍用ガレー船に乗船しての訓練に明け暮れていたと思われます。


112
剣術修行も必修でした。


114
マルタ島時代に制作されたカラヴァッジョの作品が多くないのは、騎士への見習い訓練が重点とされていて、絵画制作に十分な時間が取れなかったからとされてます。


145
マルタ騎士団の紋章です。

カラヴァッジョが訪れた時代のマルタ島の状況を知ることは、カラヴァッジョの足跡と作品を訪ねる上で、非常に重要なので、ここで触れておきます。
1048年頃または1080年頃にエルサレムで設立されたエルサレム聖ヨハネ主権軍事病院騎士団が前身で、第一回十字軍の際には負傷した騎士などの看護に当たりましたが、第一回十字軍後の1113年2月15日、第160代教皇パスカル2世(教皇在位:1099-1118)の教皇勅書によって軍事修道会になりました。その後、数多の変遷を経て、1530年にマルタ島に本拠地を移したことから、マルタ騎士団と呼ばれるようになりました。


141
ロードス島の要塞です。

正式な承認を経て、1291年にはエルサレムを離れ、キプロスに本拠地を構えましたが、1309年にロードス島をイスラム勢力から占領し、対イスラム勢力の代表的な軍事組織として、ロードス島の要塞化を推進するとともに海軍艦隊の整備増強を図りました。
1480年、オスマン帝国との戦争が初めて起きました。


142
1522年の最後のロードス島包囲戦を描いた絵

1522年、スレイマン大帝(在位:1520-1566)によって率いられた10万人の兵士と3百隻の艦隊によって、ロードス島は包囲されました。島の住民7千人と騎兵500人からなる騎士団は良く戦いましたが、激しい包囲戦は、1522年7月28日から12月22日まで続いたものの、遂に城砦はオスマン帝国側に堕ち、ロードス島はイスラム側に占領されました。
生き残った騎士300名は、すべての動産を船に積み込むことを許されて、1523年1月1日、ロードス島を後にしました。
その後、数年間、騎士団には領土がありませんでした。


144
ティツィアーノの「皇帝カール5世の肖像」(1554)

ロードス島を追われた騎士団は、一時的にヴィテルボ、ニース、シチリア島に滞在しましたが、1530年3月24日、皇帝カール5世は、騎士団にマルタ島を与えました。以後、マルタ島が騎士団の本拠地となり、マルタ騎士団と呼ばれるようになりました。
当時のマルタ島は、不毛で荒涼とした人口の少ない島でしたが、オスマン帝国の脅威は増すばかりだったので、騎士団はマルタ島の防衛力向上と艦隊整備に努めました。
騎士団は、ヨーロッパの貴族出身の騎士が多く、キリスト教国の対イスラム勢力の前線基地としての存在として、出身家、出身国からの多額の資金援助がありました。


140
「マルタ騎士団長フラ・ジャン・パリゾ・ド・ラ・ヴァレットの肖像」

1557年、フラ・ジャン・パリゾ・ド・ラ・ヴァレットが第49代騎士団長に選出されると、ただちに非キリスト教徒の船に対する攻撃を奨励し、大きな戦果を挙げました。トルコ人の被害は増えていきました。
1565年、騎士団をマルタ島から放逐するために、スレイマン大帝は193隻の船と4万8千人の兵士からなる大軍を擁してマルタ島の包囲攻撃に着手しました。


143
1565年のマルタ大包囲戦を描いた絵画

1565年3月にコンスタンティノープルを出港したトルコ艦隊は、1965年5月18日、マルタに到着しました。戦いは9月11日までの約4か月間続きましたが、激戦の末にマルタ騎士団は良く持ちこたえ、シチリアの援軍があって包囲軍の撃退に成功しました。トルコ側の支社は3万5千人に上ると言われてます。
マルタ包囲戦に続き、1571年10月7日に起きた「レパントの海戦」で、教皇軍、スペイン軍、ヴェネツィア共和国軍にマルタ騎士団が加わった連合海軍がオスマン帝国軍を破り、地中海におけるスペイン勢力の覇権が確立されました。


135
Torre di Santa Luciaです。

マルタ包囲戦で焦土と化した甚大な被害を受けた騎士団は、直ちに復興と堅固な要塞都市の建設に乗り出しました。
騎士団長ジャン・パリゾ・ド・ラ・ヴァレットは、1568年に死去しましたが、築かれつつある要塞都市は騎士団長の名前に因んでヴァレッタと名付けられました。


136
Torre di San Tommasoです。

マルタ島は、いつ何時トルコ軍が来襲しても戦えるように臨戦態勢にありました。


137
Torre di San Paoloです。

ヴァレッタに新しく建てられた宮殿や教会は、豪華壮麗に装飾される計画でした。それに従事する芸術家の需要が高かった時期と言えるでしょう。


138
Torre di Santa Mariaです。

カラヴァッジョのローマにおける名声はマルタ島でも知られていたようで、歓迎されていたと思われます。


115
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「騎士団長アロフ・ド・ウィニャクールの肖像」(1607-08)


116
カラヴァッジョは、アロフ・ド・ウィニャクールの肖像画を2点描いたとされてますが、現存するのはルーブル美術館にある、この作品だけです。
アロフ・ド・ウィニャクールは、1601年から1622年まで騎士団長を務めました。


117
兜を持って立っている少年は騎士団長の小姓とされてます。

カラヴァッジョのこの肖像画は騎士団長に歓迎されたようです。


118
ヴァレッタにあるサン・ジョヴァンニ大聖堂です。


119
大聖堂にカラヴァッジョの大作があります。


120
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「聖ジョヴァンニ・バッティスタの斬首」


121
斬首された首から流れる血の下に画家の名前が書かれてます。Fはフラを表してます。


122
怖々と斬首を見つめる囚人


123
カラヴァッジョの畢生の大作です。
カラヴァッジョの代表作を1点挙げるとするならば、私は迷わずこの作品にします。


124
ヴァレッタの大聖堂には、カラヴァッジョ作品がもう1点あります。


125
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「書斎の聖ジローラモ」


126
画面に向かって右下端にマラスピーナ家の紋章が描かれてます。この紋章の存在によって、ナポリの修道院長イッポリート・マラスピーナの注文によって制作された説が最有力です。


130
マラスピーナ家の紋章です。



127
ところが聖ジローラモの顔が騎士団長アロフ・ド・ウィニャクールに非常に似ています。聖ジローラモはアロフ・ド・ウィニャクールの肖像画であるという説もあるのです。


128


129
丹念に制作された作品と言えるでしょう。


131
ローマのクイリナーレ宮殿です。

1607年8月20日、モデナ公国の駐ローマ大使ファビオ・マセッティは、モデナ公チェーザレ・デステ公爵の秘書ジョヴァン・バッティスタ・ラデルキに書簡を送り、その中でカラヴァッジョの恩赦についての話し合いが行われていると報告しました。


132
ローマのマルタ騎士団広場です。


133
ローマにあるマルタ騎士団宮殿です。

1607年12月29日、騎士団長アロフ・ド・ウィニャクールは、マルタ騎士団のロメリーニ駐ローマ大使に書簡を送り、画家である人物の騎士団への入団に関して、教皇パオロ5世との交渉を開始するようにと指示しました。


134
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「教皇パオロ5世の肖像」
(つづく)

足跡を辿って 15.ナポリからマルタ島へ
100
カラヴァッジョに関する記録を時系列に紹介します。


104
フォスティノーヴォ(トスカーナ州)侯爵イッポリート・マラスピーナ(フォスティノーヴォ、1540-マルタ、1622)の紋章

イッポリート・マラスピーナは、レパントの海戦で活躍した勇士で、教皇庁司令官を経て、カラヴァッジョがナポリに滞在していた時の1606年10月、マルタ騎士団のナポリの修道院長になりました。また、カラヴァッジョのパトロンであるオッタヴィオ・コスタとは親類でした。
アロフ・デ・ウィニャクールの後を受けて、マルタ騎士団長になります。


101
シピオーネ・プルツォーネ(ガエータ、1544-ローマ、1598)の「カラヴァッジョ侯爵夫人コスタンツァ・コロンナの肖像」

1606年10月4日、コスタンツァ・コロンナ・スフォルツァは、ローマのサンティ・アポストリのコロンナ宮殿を出て、ミラノに戻りました。


105
ローマのコロンナ宮殿です。

コスタンツァ・コロンナは、1600年から6年間、この宮殿に住んでいました。
カラヴァッジョがラヌッチョ・トマッソーニを殺害してから、この宮殿に逃げ込み、コスタンツァから逃亡に関する支援、指示を受けたと思われます。


106
ミラノのカラヴァッジョ宮殿は、サン・ジョヴァンニ・イン・コンカ教会の横にありました。現在は、この教会と共に破壊されて現存していません。

ミラノに戻ったコスタンツァ・コロンナは、1年後にナポリでカラヴァッジョと再会することになります。


107
1606年10月6日、カラヴァッジョは、ニコラ・ラドゥロヴィチから「聖母子と聖人たち」の前払い金として200ducatiの支払いを受けました。


108
1606年10月25日、カラヴァッジョは、ニコラ・ラドゥロヴィチから支払われた前払い金200ducatiのうち、150ducatiをサンタ・マリア・デル・ポポロ銀行(現ナポリ銀行)から引き出しました。


109
ヴェネツィアのサン・ジョヴァンニ・デル・テンピオ教会です。


110
サン・ジョヴァンニ・デル・テンピオ教会は、テンプル騎士団の所有でしたが、1312年にマルタ騎士団の所有となりました。
コスタンツァ・コロンナの三男ファブリツィオ・スフォルツァは、1602年に決闘で人を殺したことがあり、カラヴァッジョと同じ境遇の勇士でした。カラヴァッジョとファブリツィオは幼いころからの遊び友達同士でした。
ファブリツィオは、ヴェネツィアのマルタ騎士団修道院長の任にありましたが、1606年にマルタ騎士団艦隊の司令官に任命されました。


103
逸名画家作「マルタ騎士団長アロフ・ド・ウィニャクール(フランス、1547-マルタ、1622)の公式肖像」(17世紀初頭)

後にカラヴァッジョもアロフ・ド・ウィニャクールの肖像画を制作しました。

1606年11月21日、騎士団長アロフ・ド・ウィニャクールは、ヴェネツィア修道院長ファブリツィオ・スフォルツァに書簡を送り、ナポリの修道院長イッポリート・マラスピーナを騎士団艦隊に乗船させマルタに向かわせることに同意するので、マラスピーナと連絡を取るようにと伝えました。


111
1607年1月9日、ピオ・モンテ・デッラ・ミゼリコルディア聖堂の「慈悲の七つの行い」の制作料400ducatiがカラヴァッジョに支払われました。


1440
1607年2月11日、マルタ騎士団長アロフ・ド・ウィニャクールは、ナポリの修道院長イッポリート・マラスピーナに書簡を送り、ファブリツィオ・スフォルツァ将軍の指揮するガレー船に乗船してマルタ島に来られたし、また艦隊にカラヴァッジョも乗船させると伝えました。


113
フランス・プルビュス(子)(アントワープ、1569c-パリ、1622)の「ヴィンチェンツォ・ゴンザーガ1世の肖像」(1602)

ヴィンチェンツォ・ゴンザーガ1世(マントヴァ、1562-1612)は、1607年2月24日、ルーベンスの助言を受け入れて、カラヴァッジョの「聖母の死」をローマで購入しました。


114
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「聖母の死」

マントヴァに送られてきた「聖母の死」を見たヴィンチェンツォ・ゴンザーガ1世は、カラヴァッジョに制作を依頼しようとしましたが果たせませんでした。


115
1607年4月28日、Geronimo Mastrilliは、カラヴァッジョとバッティステッロ・カラッチョロにそれぞれ作品を注文しました。この注文に基づくカラヴァッジョの作品が特定されてません。また、現存しないようです。


116
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「キリストの鞭打ち」

1607年5月11日、カラヴァッジョは、トンマーゾ・デ・フランキスから「キリストの鞭打ち」の頭金150ducatiを受け取ります。残金の250ducatiは完成納品時に支払いを受けることになっていました。


117
ナポリのサン・ドメニコ・マッジョーレ教会です。

注文主のトンマーゾ・デ・フランキスは、スペイン副王(ナポリ国王)の顧問を務めていました。


102
写真はモデナの王宮です。

1607年5月26日、モデナ公国の駐ローマ大使ファビオ・マセッティは、チェーザレ・デステ公爵の秘書ジョヴァン・バッティスタ・ラデルキに書簡を送り、カラヴァッジョに対する恩赦に向けた交渉が行われていると報告しました。殺人は偶発的であり、カラヴァッジョも重傷を負っているので、恩赦に値すると主張して交渉している、と伝えました。


112
1607年5月28日、トンマーゾ・デ・フランキスは、サンテリージョ銀行(現ナポリ銀行)を通じて、カラヴァッジョに40.09ducatiを支払いました。確証がありませんが、「キリストの鞭打ち」の頭金の追加支払いとされてます。


118
写真はマルセーユ港です。

カラヴァッジョが乗船することになる、ファブリツィオ・スフォルツァ将軍が指揮するマルタ騎士団艦隊は、マルセーユ港にいました。艦隊はマルセールからジェノヴァを経由して一旦ナポリに向かいました。



119
写真はジェノヴァ港です。

ナポリの修道院長イッポリート・マラスピーナは、ジェノヴァ港から艦隊に乗船しました。


120
ジェノヴァ港に係留されているガレー船


121
カラヴァッジョ侯爵夫人コスタンツァ・コロンナは、息子ファブリツィオ・スフォルツァが指揮するマルタ騎士団艦隊に乗船してナポリに向かいましたが、その乗船場所が分かりません。(私が、です)


122
逸名画家作「モデナ公爵チェーザレ・デステ(フェッラーラ、1561-1628)の肖像」

1607年6月2日、モデナ公国の駐ローマ大使ファビオ・マセッティはカラヴァッジョに対して、モデナ公チェーザレ・デステが注文の前払い金32scudiを支払ったが、制作されていないので返金を求める手紙を送りました。しかし、結局、カラヴァッジョから返金されずに終わったようです。
このことから、カラヴァッジョがナポリにいることはファビオ・マセッティが知っていたことになるわけで、恐らくカラヴァッジョのナポリ滞在はローマでは公知だったのでしょう。


123
カラヴァッジョ侯爵夫人コスタンツァ・コロンナの次男ルドヴィーコ・スフォルツァは、ナポリのサン・ジョヴァンニ修道院の修道院長を務めていました。


124
1607年6月14日、ファブリツィオ・スフォルツァ将軍が指揮するマルタ騎士団艦隊は、ナポリに到着しました。カラヴァッジョ侯爵夫人コスタンツァ・コロンナ、マルタ騎士団ナポリ修道院長イッポリート・マラスピーナも乗船していました。


125
ラヌッチョ・ファルネーゼ公爵のナポリにおける代理人アレッサンドロ・ボッカバディーレがパルマに送った1607年6月22日付の手紙が残されており、その中で「5隻のガレー船が8日前にナポリに到着し、カラヴァッジョ侯爵夫人がそれに乗船していた」と報告しました。
この手紙の存在によって、ナポリ到着が1607年6月14日と特定されたのです。カラヴァッジョ侯爵夫人コスタンツァ・コロンナはナポリで下船しました。


126
ナポリのキアイア地区にあるPalazzo Cellammareです。
この宮殿にコスタンツァ・コロンナの妹ジョヴァンナ・コロンナが住んでいました。コスタンツァのナポリでの住まいは、この宮殿だったと思われます。


127
Palazzo Cellammareで、コスタンツァは息子ファブリツィオと共にカラヴァッジョと会い、カラヴァッジョのマルタ島行きが最終的に決まったものと思われます。ローマにおける恩赦に向けた動きなども話し合われた可能性があります。
いずれにしてもカラヴァッジョの乗船とマルタ島行きについては、騎士団長アロフ・ド・ウィニャクールや騎士団関係者との事前根回しが行われていたと思います。
カラヴァッジョがマルタに行くのは、騎士の称号を得たいからと言われてますが、カラヴァッジョのマルタ行きはコロンナ家一族の方針だった可能性があります。


129
1607年6月24日、カラヴァッジョは、ファブリツィオ・スフォルツァが船長を務める騎士団のガレー船に乗船して、マルタ島に向けてナポリを出発しました。
(つづく)

足跡を辿って 14.最初のナポリとカラヴァッジェスキ画家
100
ジョヴァン・フランチェスコ・トマッソーニの剣によって頭部に重傷を負ったカラヴァッジョは、傷が癒えたことに加えて、教皇庁の権力が及ばない外国のナポリに来て、一時の安寧を得たと思われます。


105
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「詩人ジャンバッティスタ・マリーノの肖像」(1600-01)

ジャンバッティスタ・マリーノ(ナポリ、1569-1625)は、史上もっとも偉大なイタリア詩人の一人とされており、特に叙事詩で最も有名です。
この肖像画はローマで描かれましたが、マリーノは同性愛的傾向があったことで、男色的慣行を忌避する反宗教改革の中で、ナポリからの逃亡を已む無きとされてローマへと逃避していた時に描かれました。スペインは反宗教改革を掲げた代表的な国家であり、スペイン統治下のナポリも反宗教改革運動が盛んでした。


106
フランス・プルビュス1世(アントワープ,1569-パリ、1622)の「詩人ジャンバッティスタ・マリーノの肖像」(1621c)
マリーノ52歳頃の肖像です。

マリーノがナポリの注文主やコレクター、貴族、聖職者などにカラヴァッジョを紹介した一人であることは間違いないと言われてます。


107
制作者不詳の「ジョヴァンニ・バッティスタ・マンゾ侯爵の肖像(エッチング)」

ジョヴァンニ・バッティスタ・マンゾ(ナポリ、1569-1645)侯爵は、ヴィララーゴ侯爵でビサッチャのシニョーレ(領主)です。マンゾは、作家、詩人、芸術の後援者で、ピオ・モンテ・デッラ・ミゼリコルディア設立を主導した一人でした。マンゾは、詩人のマリーノとは親友同士でした。
マリーノがマンゾ侯爵にカラヴァッジョを紹介しました。それによって、「慈悲の七つの行い」がカラヴァッジョに注文されたという有力説があります。


101
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「サロメ」(1607/1610)


102
この作品はロンドンのナショナル・ギャラリーにあります。

フランスの個人が所有していましたが、1959年にロベルト・ロンギによって発見され、カラヴァッジョの真作としましたが、一部の美術史家がカラヴァッジェスキ画家による作品説を提案しました。ジョヴァン・ピエトロ・ベッローリが1677年に出版した「現代の画家、彫刻家、建築家の生涯」の中で、カラヴァッジョの伝記を記述していますが、伝記の中でカラヴァッジョのナポリ滞在中に「サロメ」が描かれたと触れてます。その「サロメ」がこの作品である考えている美術史家もいます。
サー・デニス・マホンの提案によって、1970年に10万ポンドでナショナル・ギャラリーによって買収されました。


103
「サロメ」の右端に描かれた死刑執行人は、ジョヴァン・フランチェスコ・トマッソーニの肖像と言われてます。また、カポディモンテ美術館所蔵の「キリストの鞭打ち」の左端に描かれた拷問者もジョヴァン・フランチェスコ・トマッソーニの肖像と言われてます。
このことから、「キリストの鞭打ち」が制作された時と同時期の、カラヴァッジョの一回目のナポリ滞在時の1607年頃に制作されたという説が信じられてます。


104
ナショナル・ギャラリーでは、カラヴァッジョの二回目のナポリ滞在時に描かれた説を採用しています。


140
カラヴァッジョが最初のナポリ滞在以前のナポリ画壇は、やや時代遅れとも思える後期マニエリスム様式が主流でした。
カラヴァッジョがナポリに来たことは、ナポリの画家たちにすぐに知られて大歓迎されました。やがてカラヴァッジョの様式を取り入れる画家たちが出てきました。
次にナポリのカラヴァッジェスキ画家について触れておきます。


112
ルイ・フィンソン(ブルージュ、1580-アムステルダム、1617)の「自画像」(1613)

ルイ・フィンソンは、フランドル出身の画家ですが画商も兼ねていました。1605年から1613年にかけてナポリに滞在し、カラヴァッジョと知り合いました。そして、カラヴァッジェスキの最初のフランドル人画家となりました。
カラヴァッジョの影響を受けた作品を制作するだけでなく、カラヴァッジョ作品の複製画を手掛けました。複製画の中には、カラヴァッジョの真作が既に失われて存在しない作品の複製画が幾つかあり、カラヴァッジョ作品を知る上に貴重な資料になってます。
また、ナポリに到着したカラヴァッジョに対して、援助を申し出たと考えられており、カラヴァッジョに制作する場所を手配したようです。
フィンソンがカラヴァッジョ作品の複製画を多く手掛けたことは、カラヴァッジョの身近にフィンソンがいたこと、自分の画風を真似されるの嫌っていたカラヴァッジョが自分の作品の複製画制作をフィンソンに対して認めていたことから、二人は非常に親密な関係だったことが分かります。


108
ルイ・フィンソン(ブルージュ、1580-アムステルダム、1617)の「カラヴァッジョ作『聖アンドレアの殉教』の複製画」

カラヴァッジョの「聖アンドレアの殉教」は現存していません。


109
ルイ・フィンソン(ブルージュ、1580-アムステルダム、1617)の「カラヴァッジョ作『キリストの復活』の複製画」

カラヴァッジョの作品は、ナポリのサンタンナ・デイ・ロンバルディ教会にありましたが、1805年に地震によって破壊されて現存しません。


110
ルイ・フィンソン(ブルージュ、1580-アムステルダム、1617)の「カラヴァッジョ作『法悦のマグダラのマリア』の複製画」

カラヴァッジョの「法悦のマグダラのマリア」の第一作は、所謂「クラインのマグダラのマリア」であると言われてます。フィンソン自身の署名入りのカラヴァッジョの複製画が二点あります。


113
ルイ・フィンソン(ブルージュ、1580-アムステルダム、1617)の「カラヴァッジョ作『ユディト』の複製画」
ナポリのパラッツォ・セバロス・スティリアーノ美術館にあります。


114
2014年、フランス、トゥールーズの屋根裏部屋で、カラヴァッジョの真作かも知れない、これと同じ図柄の作品が発見されました。
ルイ・フィンソンの作品は、発見された作品の鑑定のためにフランスに貸し出されました。


141
トゥールーズの屋根裏部屋で発見されたカラヴァッジョの作品かも知れない作品です。


111
ルイ・フィンソン(ブルージュ、1580-アムステルダム、1617)の「聖セバスティアーノの殉教」

これはフィンソン自身の作品です。カラヴァッジョの影響が強く出ています。


118
制作者不明の「ジョヴァン・バッティスタ・カラッチョロ通称バッティステッロの肖像」

カラッチョロは、カラヴァッジョと親密だったと思われ、ナポリのカラヴァッジェスキ画家の代表的存在です。
カラヴァッジョがナポリから去って死亡した1610年を過ぎても、カラヴァッジョの強い影響を受けた作品を数多く制作しました。


115
ジョヴァン・バッティスタ・カラッチョロ通称バッティステッロ(ナポリ、1578-1635)の「獄からの聖ピエトロの解放」


116
ピオ・モンテ・デッラ・ミゼリコルディア聖堂にあります。


117
カラッチョロの作品は、ナポリの教会や美術館に沢山あって、ナポリはカラッチョロの街と言っても過言ではありません。


120
ナポリのサンタ・マリア・デッラ・ステラ聖堂です。


121
サンタ・マリア・デッラ・ステラ聖堂にカラッチョロの代表作があります。


119
ジョヴァン・バッティスタ・カラッチョロ通称バッティステッロ(ナポリ、1578-1635)の「無原罪の聖母」


122
ジョヴァン・バッティスタ・カラッチョロ通称バッティステッロ(ナポリ、1578-1635)の「荊刑のキリスト」


123
カポディモンテ美術館にあります。


124
ジョヴァンニ・バッティスタ・カラッチョロ通称バッティステッロ(ナポリ、1578-1635)の「この人を見よ」


125
カポディモンテ美術館にあります。


126
ジョヴァン・バッティスタ・カラッチョロ通称バッティステッロ(ナポリ、1578-1635)の「磔刑」


127
ピオ・モンテ・デッラ・ミゼリコルディアの画廊にあります。


132
ナポリにあるPalazzo Realeに描かれたジョヴァン・バッティスタ・カラッチョロ通称バッティステッロ(ナポリ,1578-1635)のフレスコ画です。
カラヴァッジョはフレスコ画が苦手だったようですが、カラッチョロはフレスコ画も得意でした。


133
カラッチョロは、Palazzo Realeのフレスコ画にカラヴァッジョの肖像を描き入れました。


128
カルロ・セッリット(ナポリ、1581-1614)の「聖チェチリア」


129
カポディモンテ美術館にあります。


130
カルロ・セッリットは、ナポリ派のカラヴァッジェスキ画家です。


131
カルロ・セッリット(ナポリ、1581-1614)の「サロメ」

登場人物の顔までもカラヴァッジョの作品に似ています。


134
アンドレア・ヴァッカーロ(ナポリ、1604-1670)の「ピエタ」

カラヴァッジョが没してからもナポリではカラヴァッジョ様式が盛んでした。


135
ピオ・モンテ・デッラ・ミゼリコルディアの画廊にあります。


136
ジュゼペ・デ・リベラ(バレンシア,1591-ナポリ,1652)の「聖アントニオ・アバーテ」

リベラもナポリ派のカラヴァッジェスキ画家の代表的存在です。


137
ピオ・モンテ・デッラ・ミゼリコルディアの画廊にあります。


138
フィリッポ・ヴィターレ(ナポリ,1585-1650)の「イサクの犠牲」

ヴィターレは、年少のリベラに師事したナポリ派のカラヴァッジェスキ画家です。


139
カポディモンテ美術館にあります。


142
以上がナポリのカラヴァッジェスキ画家の紹介でした。
(つづく)

足跡を辿って 13.最初のナポリ
100
カラヴァッジョがナポリに逃避した時代、ナポリは、スペイン副王がナポリ総督を務めるスペイン領でした。教皇庁官憲の力が及ばない外国だったので、身の安全という点ではラツィオ山中のコロンナ家領地よりもナポリの方が遥かに勝っていました。


101
当時のナポリは、人口約27万人の大都会でした。ローマの人口が約10万人でしたから、約三倍の規模に当たります。
繁栄していましたが、スペインの植民地のようなものだったので、社会的インフラは乏しく、少数の貴族が繁栄を謳歌する一方、一般庶民は貧しく、狭い路地にひしめき合って建てられた薄暗い建物に居住していました。貧民は街にあふれ、不潔極まりない環境の中での生活を余儀なくされ、風紀が乱れていました。
しかし、逃亡生活を送るカラヴァッジョにとっては、身を隠すには絶好の場所でした。


102
ナポリのPalazzo Colonnaです。

カラヴァッジョがこの邸宅に行った記録は残されていません。


103
地図Aはカリタ広場を示します。

カラヴァッジョがナポリに逃亡したころ、カリタ広場周辺に多くの芸術家たちが集まっていました。


104
トレド通りです。

カラヴァッジョが逃亡した時代も今も、トレド通りはスペイン人街の中心です。


105
カラヴァッジョがナポリにいるらしいことは直ぐに噂になりました。これでは、潜伏するためにナポリに逃亡した甲斐がなさそうですが、ナポリがスペイン領だったので大丈夫と判断したようです。


106
写真右はサン・二コラ・アッラ・カリタ教会です。


107
イタリア中に知れ渡っている有名画家がナポリに来たということで、貴族や画家は大歓迎しました。そして、直ぐに注文が舞い込みます。
1606年10月6日、ラグーザの大商人Nicolo Radulovichがナポリのサンテジーディオ銀行に200ducatiを振り込みました。それは、カラヴァッジョに「聖母子と聖ドメニコと聖フランチェスコと聖ニコロと聖ヴィトーと天使たち」の制作にかかわる前払金でした。
その作品は、1606年12月31日までに納品することになってました。期日までに納品出来なかったようですが、返金の記録が残されていないので、この作品は制作されたと考えられてます。しかし、作品は行方不明です。
この件は、カラヴァッジョが1606年10月6日にナポリにいたことを示す最初の確実な記録となってます。


108
写真はナポリにあるナポリ国立銀行です。

1606年10月25日、カラヴァッジョは、Nicolo Radulovichから支払われた前金のうち、別の銀行で150ducatiを引き出しました。
17世紀後半から18世紀初頭にかけて、ナポリでは8つの銀行が設立されましたが、1794年にナポリ国王のフェルディナンド4世の命によって、ナポリ国立銀行に統合されました。
カラヴァッジョが150ducati引き出した銀行もその8銀行の一つでした。


109
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「ロザリオの聖母」
 
ウィーンの美術史美術館にあります。


110
この作品の制作された経緯が分かってませんが、カラヴァッジョの最初のナポリ時代に描かれたとされてます。


111
フランドルの画家フランス・プルビュス1世(アントワープ,1569-パリ、1622)がヴィンチェンツォ1世・ゴンザーガ公爵(マントヴァ,1562-1612)に宛てた1607年9月の報告書で、カラヴァッジョがロザリオを描いた大きな祭壇画を画家兼画商のルイ・フィンソンがナポリで持っていると報告しました。
その報告書によって、1607年9月に「ロザリオの聖母」がナポリに存在していたことが分かるので、恐らく最初のナポリ滞在中に描かれた作品であるとされました。


112
この作品が制作された経緯について、色々と議論、仮設が出されてきました。そのうち、3つの説が有力とされてますが、いずれも定説になってません。

モデナ公国の駐ローマ大使ファビオ・マセッティがモデナ公爵チェーザレ・デステの秘書ジョヴァンニ・バッティスタ・ラデルキに宛てた1606年7月12日付の手紙の中で、「カラヴァッジョはローマに戻るつもりであり、彼が戻ったら絵の代金として前払いした金の返却を要求することができるだろう」と書きました。この手紙がロザリオの聖母が制作された説の根拠となってます。
しかし、エステ家の注文に対してカラヴァッジョが履行した記録がありません。


113
第二の有力説は、作品の左端に描かれたいる柱(コロンナ)がコロンナ家を暗示しているとし、ジョヴァンナ・コロンナ(コスタンツァ・コロンナの実妹)の息子ルイージ・カラファ・デッラ・ステデラがナポリのサン・ドメニコ・マッジョーレ教会のカラファ家所縁の礼拝堂の祭壇画として描かれたというものです。
しかし、これを裏付ける記録がありません。

第三の有力説は、ラグーザの大商人Nicolo Radulovichが200ducatiの前払い金を払って完成したのが、この作品というものです。しかし、指定されていた絵柄と主題が全く異なります。

3つの有力説も説得力に欠け、この作品の制作経緯は今なお不明とされてます。

1617年、ピーテル・パウル・ルーベンスの提案によって、この作品はアントワープの芸術家グループに購入され、フランドルのドメニコ会教会に寄付されました。1781年、フランドルを領有していたハプスブルク家の皇帝ヨーゼフ2世の命によってウィーンに移されました。


114
ナポリのサンタンナ・ディ・ロンバルディ教会です。聖アンナに献じる教会です。


115
ナポリとフィレンツェの密接な関係を示す1411年創建の教会です。
アントニオ・ロッセリーノ、ベネデット・ダ・マイアーノなどのフィレンツェの芸術家の作品やナポリで活躍した芸術家などの作品があって、美術的に非常に見所が多い教会です。


116
カラヴァッジョ好きの美術愛好家にとって、必訪の教会になっていたことでしょう。


117
「聖痕を受ける聖フランチェスコ」、「瞑想する聖フランチェスコ」、「キリストの復活」のカラヴァッジョの三作品がありました。
カラヴァッジョ作品が礼拝堂にありましたが、1805年の地震によって修復不能に破壊され、失われてしまいました。その地震でも問題がなかった礼拝堂、作品が数多く残されているだけに、カラヴァッジョ作品の消滅は非常に残念です。


118
ルイ・フィンソン(ブルージュ、1580-アムステルダム、1617)の「カラヴァッジョ作『キリストの復活』の複製画」

ルイ・フィンソンは、画家でしたが画商を兼ねていました。カラヴァッジョと仲が良く、カラヴァッジョの「マグダラのマリア」、「ユディト」などの複製画を制作したことで知られてます。
失われたカラヴァッジョの「キリストの復活」を伝える唯一の資料になってます。

ナポリ時代になると、カラヴァッジョの画風は、闇がより深くなり、薄塗となって、荒々しい筆使いと光と影のコントラストが鮮明となるとともに、凄絶な感じが強調されるように変わりました。


119
ナポリのサン・ドメニコ・マッジョーレ教会です。


120
アンジュー王カール2世の命によって1283年から1324年に建設されたアンジュー・ゴシック様式の教会です。


121
Cappella della Madonna di Zi Andrea、またはCappella de’Franchisと呼ばれている左側廊第一礼拝堂です。この礼拝堂の祭壇画はカラヴァッジョの作品でした。


122
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「キリストの鞭打ち」


123
「キリストの鞭打ち」はナポリのカポディモンテ美術館にあります。


124
制作されてから1980年まで教会の礼拝堂にありましたが、1980年11月23日に発生したイルピニア地震の後、教会の礼拝堂に置いておくと破壊される危険性があるかもしれない、との安全上に理由から取り外され、カポディモンテ美術館に移されました。


125
サン・ドメニコ・マッジョーレ教会の左側廊第一礼拝堂を所有していたトンマーゾ・デ・フランキスが少なくても200ducatiの頭金を払って制作されました。


126
画面左の残忍な拷問者は、ラヌッチョ・トマッソーニの兄で、カラヴァッジョの頭部を斬り付けたジョヴァン・フランチェスコ・トマッソーニの肖像と言われてます。


127
真ん中に描かれたキリストが直接光によって強調され、微かな光線によってキリストの体を支えっる柱が描かれてます。闇に包まれた処刑人が光沢ある姿と光に照らされたキリストとのコントラストが劇的な表現を高めてます。背景は非常に暗く、黒で仕上げられてます。最初のナポリで描かれた構図は、これと違っていました。
三人目の拷問者が描かれていたのですが、マルタ、シチリアを経て二番目のナポリ滞在中に、三人目の拷問者は削除され、左のジョヴァン・フランチェスコ・トマッソーニの肖像の拷問者のポーズを変更しする削除、加筆修正を行いました。


128
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「キリストの鞭打ち」

別バージョンの「キリストの鞭打ち」です。ルーアンの美術館にあります。


129
カラヴァッジョの最初のナポリ滞在の1606年から1607年頃に制作されたとされてます。

作品制作の経緯は全く分かりません。ルーアンの美術館に初めて所蔵された1955年には、マッティア・プレティ(タヴェルナ、1613-マルタ、ヴァレッタ、1699)の作品とされていました。


130
ナポリのピオ・モンテ・デッラ・ミゼリコルディア聖堂です。


131
教会と画廊がMuseoとして公開されてます。


132
聖堂の主祭壇画がカラヴァッジョの作品です。


133
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「慈悲の七つの行い」


134
生前に7つの慈悲の行いをすると救われるというカトリックの教義があり、それを実行するための慈善団体の教会が建設され、その中央礼拝堂の祭壇画が400ducatiの高額でカラヴァッジョに注文されました。
7つの慈悲の行いとは、飢えた人に食事を与えること、喉が渇いた人に飲み物を与えること、裸の人に服を与えること、巡礼者に宿を与えること、病人を見舞うこと、囚人を慰問すること、死者を埋葬すること、とされていました。


135
カラヴァッジョは慈悲の7つの行い全てを画面に描きました。


136
カラヴァッジョに対する具体的な注文の経緯は不明となってます。


137
注文の経緯については、2つの有力説があります。

カラヴァッジョ公爵夫人コスタンツァ・コロンナの実妹ジョヴァンナ・コロンナの息子ルイージ・カラファの取り成しによる説と、慈善団体創設の7人の貴族の一人で、コロンナ家と親密だったジョヴァンニ・バッティスタ・マンソー(ナポリ,1569-1645)が注文を決定した説があります。


138
14人を登場させ、7つの慈悲を描いた複雑な構図の作品となってます。


139
この作品はナポリの画家に大きな影響を与え、カラヴァッジェスキ画家がナポリで主流を占める原動力となりました。


140
最初のナポリ滞在では、精力的に仕事をこなしました。


141
(つづく)

足跡を辿って 12.コロンナ家領地からナポリへ
50引き続きラツィオ山中に潜伏中に制作された作品です。
写真はローマにあるバルベリーニ宮です。


51
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「瞑想の聖フランチェスコ」


52
バルベリーニ宮の国立古典絵画館で展示されてます。
美術史家のマウリツイオ・マリーニ(ローマ、1942-2011)が2001年のカラヴァッジョ展において、コロンナ家の庇護にあったラツィオ山中に潜伏中の1606年頃に制作されたとしました。
この作品は、ピエトロ・アルドブランディーニ枢機卿(ローマ、1571-1621)によって注文されました。


53
オッタヴィオ・レオーニの「ピエトロ・アルドブランディーニ枢機卿の肖像」


54
写真はカルピオーネ・ロマーノの全景です。当時、カルピオーネ・ロマーノは、アルドブランディーニ家の領地でした。
ピエトロ・アルドブランディーニ枢機卿は、カラヴァッジョの「瞑想の聖フランチェスコ」をカルピオーネ・ロマーノのサン・ピエトロ教会に設置しました。


55
カルピオーネ・ロマーノのサン・ピエトロ教会です。


56
クレモナの市立アラ・ポンツォーネ博物館です。


57
クレモナ市立博物館に「祈る聖フランチェスコ」があります。


58
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「祈る聖フランチェスコ」


59
この作品は、コロンナ家領地のラツィオ山岳地帯に潜伏中に制作された「エマオの晩餐(ミラノ、ブレラ絵画館)」と様式が非常に似ています。


60
ナポリ潜伏中の初期に制作された作品の一つといわれてきましたが、1951年に美術史家サー・ジョン・デニス・マオン(ロンドン、1910-2011)が様式的にブレラ絵画館の「エマオの晩餐」に似ているので、ラツィオ山中に潜伏した時に描かれたという説を発表しました。


310
ラヌッチョ・トマッソーニ殺害事件から、カラヴァッジョの死に至る記録は、逃亡生活という事の性質上極端に少なくなりますが、僅かに残された記録があるので、以下に触れておきます。


301
1606年5月28日の事件に関する記録:
駐ローマのウルビーノ大使からウルビーノ公爵に報告された記録によれば、「ローマでテニスの試合中に、カラヴァッジョがルカ・アントニオ・トマッソーニの息子でカンポ・マルツィオ地区の地区長ジョヴァン・フランチェスコ・トマッソーニの弟であるラヌッチョ・トマッソーニを殺害した。彼がテニスしていた場所はフィレンツェ宮のテニス・コートで、喧嘩の理由はカラヴァッジョがラヌッチョに負った、賭け金10,000scudiの借金だったに違いない。同じ日、ラヌッチョはパンテオンの教会に埋葬された文書があるので間違いない」
1万スクーディは大金です。大作を30点ほど完成させないと得られない金額です。その額ならば、生死をかけたトラブルになるのは必定ですが、誇張のように思えます。


62
フランス・プルビュス(子)(アルトウェルペン、1569-パリ、1622)の「チェーザレ・デステ公爵の肖像」(1606)

モデナ公国の駐ローマ大使ファビオ・マセッティがモデナ公チェーザレ・デステ(フェッラーラ、1562-1628)に宛てた1606年5月31日付けの報告書が残されてます。
マセッティは、「画家のカラヴァッジョはフィレンツェに逃亡し、恐らくモデナ公国にも行くだろう」と報告しました。見当違いも甚だしいと思いますが、カラヴァッジョが最早ローマにはいないことが分かります。
後にジョヴァンニ・バリオーネが書いたカラヴァッジョの伝記によれば、「カラヴァッジョはパレストリーナにいて、当時のパレストリーナ司教は、カラヴァッジョ侯爵夫人コスタンツァ・コロンナの弟アスカニオ・コロンナだったので、パレストリーナに行ったのだろう」と述べてます。


P1810451
写真はモデナです。

モデナ公国の駐ローマ大使ファビオ・マセッティがモデナ公チェーザレ・デステ公爵の秘書ジョヴァンニ・バッティスタ・ラデルキに宛てた1606年7月12日付けの手紙が残されており、その手紙の中でマセッティ大使は「カラヴァッジョはローマに戻るつもりであり、ローマに戻ったらカラヴァッジョに絵の制作費として前払いした金を返すように要求できるだろう」と書きました。
この手紙によって、カラヴァッジョはいずれローマに戻るつもりであること、またモデナ公が制作費を前払いカラヴァッジョに注文したことが分かります。
モデナ公の注文によって制作された作品が「ロザリオの聖母(ウィーン、美術史美術館にある)」であるとの説があります。

1606年7月15日、ファビオ・マセッティは、第三者を通じてカラヴァッジョと連絡を取ることに成功しましたが、マセッティはカラヴァッジョの居場所を明らかにしませんでした。

ファビオ・マセッティ大使が、モデナ公爵秘書ジョヴァンニ・バッティスタ・ラデルキに宛てた手紙が残されており、その手紙の中でマセッティ大使は、「カラヴァッジョはパリアーノにいます。これから公爵が注文をキャンセルした絵画制作の前払い金32scudiの返還を要求します」
この手紙によってモデナ公爵からの注文はキャンセルされたことが分かります。
「ロザリオの聖母」はナポリで1607年に売りに出されたので、この手紙がモデナ公爵が注文して制作された作品が「ロザリオの聖母」の可能性があるとの説の根拠になってます。


70
逸名画家作「アスカニオ・コロンナ枢機卿(マリーノ、1560-パレストリーナ、1608)の肖像」

アスカニオ・コロンナ枢機卿は、カラヴァッジョ侯爵夫人コスタンツァ・コロンナ(ローマ、1556c-1626)の実弟でした。1606年6月、アスカニオは、パレストリーナの枢機卿司祭に任じられると共にナポリ王国の守護枢機卿に就任しました。
また、カラヴァッジョ侯爵夫人コスタンツァ・コロンナの妹ジョヴァンナ・コロンナは、1566年、ローマの名門貴族カラファ家の傍流である、ナポリの有力貴族でロッカ・モンドラゴーネ伯爵のアントニオ・カラファ(1542-1578)と結婚しました。


69
スティリアーノ公爵、サッビオネータ公爵の「ルイージ・カラファ・デッラ・スタデラの肖像」です。

ルイージは、アントニオ・カラファとジョヴァンナ・コロンナとの間に生まれた長男で、1578年、同年に没したアントニオの後継者となりました。
ルイージは、未亡人となった母ジョヴァンナと共にナポリに住んでいました。また、ルイージの伯母コスタンツァ・コロンナも未亡人となってからナポリで滞在したことがありました。

カラヴァッジョは、カラヴァッジョ侯爵夫人コスタンツァ・コロンナ、コスタンツァの実弟アスカニオ・コロンナ枢機卿、コスタンツァの実妹ジョヴァンナ・コロンナ、ジョヴァンナの息子ルイージ・カラファなどによるコロンナ家のサポートとその縁故関係によって、ラツィオ山中のコロンナ家領地からナポリに移ることになりました。
居所を移すに当たって、ラツィオ山中のザガローロ、パレストリーナ、パリアーノは、コロンナ家の領地と言えども、ローマから近く教皇庁の統治下にあったので、安全とは言えなった、潜伏していてもいずれは居場所が知れてしまうという思いがあったのでしょう。


61
地図のAは、パリアーノです。

1606年9月、カラヴァッジョはラツィオ山中のコロンナ家領地を出て、ナポリに向かいました。この頃には頭部負傷は治っていたと思われますが、頭の刀傷は一生残ったことでしょう。


63
ナポリへの逃走経路は明らかになっていません。逃亡の旅ですから記録が残されていません。


68
写真はナポリのキアイア地区を示します。


66
Via Chiaiaに面して建つPalazzo di Cellammareです。


67
ジョヴァンナ・コロンナとその息子ルイージ・カラファは、この邸宅に住んでいました。

ナポリに到着したカラヴァッジョは、先ずPalazzo di Cellammareに向かったことでしょう。


64
カラヴァッジョは、スペイン人街 Quartieri Spagnoliに住むことになりました。


65
カラヴァッジョが住んだ場所は特定されてません。


72
(つづく)

足跡を辿って 11.ラヌッチョ・トマッソーニとの闘い、コロンナ家領地での潜伏
300
(その22)で、従来の説に基づく「カラヴァッジョの殺人」に触れましたが、確実な異説が存在するので、今回はそれについて触れておきましょう。


306
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「マッフェオ・バルベリーニ(後の第235代教皇ウルバーノ8世)の肖像」

カラヴァッジョとラヌッチョ・トマッソーニとの闘いが行われた当時、マッフェオ・バルベリーニ(フィレンツェ、1568-ローマ、1644)は、フランス公使を務めていて任地であるパリに在住していました。
1603年からマッフェオの外交代理人を務めていたフランチェスコ・マリア・ヴィアラルディ(ヴェルチェッリ、1540/1545-ローマ、1613)は、教皇庁やローマで起きた出来事などを逐一マッフェオに報告していました。
フランチェスコ・マリア・ヴィアラルディは、ヴェルチェッリ出身の貴族で、外交官、詩人、作家でもありました。


303
パンテオンの地図です。

ヴィアラルディは、カラヴァッジョの事件を報告する手紙をマッフェオに出しました。マッフェオ・バルベリーニ宛てに出された1606年6月3日付の手紙が残ってます。
事件が起きたのは1606年5月28日ですから、それから6日後に書かれた手紙でした。その点でかなり信頼性が高いと思われます。


304
1606年6月3日付で、フランチェスコ・マリア・ヴィアラルディがマッフェオ・バルベリーニ宛てに書いた手紙の内容:
「私は、ミケランジェロが16時ころ、ラヌッチョの家に行ったと聞きました。ラヌッチョは、カラヴァッジョの姿を見ると武装して、一対一になりました。画家は負傷しました。そしてラヌッチョの兄のジョヴァンニ・フランチェスコ大尉が助けに入ったので、過ってCapitano di Castelloだったペトロニオ・トロッパも画家の助けに駆け付けました。ラヌッチョは躓いて倒れました。倒れたラヌッチョの身体にカラヴァッジョの一撃が入り、ラヌッチョは失血で死にました。ペトロニオは、ジョヴァン・フランチェスコ大尉によって斬られ、重い傷を負いました。」


301
また、ヴィアラルディは、その手紙の中で、「乱闘はラヌッチョの家(da casa del medesimo Ramutio)で起きました。ラヌッチョの家はパンテオンの傍にあります。また、他の者は、ラヌッチョの死はスクロファで起きたと語ってます。ラヌッチョは、彼の教区にあるパンテオンに埋葬されました。」と報告しました。


302
ヴィアラルディの手紙とは別に、事件を目撃した人がいました。
「カラヴァッジョがラヌッチョの家に行くと、ラヌッチョが嘲笑の言葉をカラヴァッジョに吐き、挑発した。挑発されたカラヴァッジョは激怒して、一対一の戦闘になった。
ラヌッチョは一歩後退したとき、カラヴァッジョの剣が届き、致命的な結果をもたらした。ラヌッチョは失血死したに違いなく、大腿動脈が破裂し、息を引き取る前に罪を告白するのがやっとだった。」


305
スクロファ通りには、画家たちの工房が集中していました。ここでラヌッチョの死が訪れたとすれば、画家たちの目撃証言があった筈ですが、そのような記録は残されていません。

さて、ラヌッチョの妻について触れておきましょう。
ラヌッチョの妻ラヴィーニア・ジューゴリの兄弟であるイニャツィオ・ジューゴリとジョヴァン・フェデリーコ・ジューゴリがラヌッチョ側にいましたが、乱闘には加わっていなかったかも知れません。
ラヌッチョの妻だったラヴィーニア・ジューゴリですが、ラヌッチョとの間に3歳の娘がいました。ラヌッチョの死の8日後、ラヌッチョの法律家だったチェーザレ・ポントーニに3歳の娘を預けて、別の男と再婚したのです。ポン引きのラヌッチョは仕事柄トラブルが絶えなかったので、その解決のために法律家と仲良しだったと思われます。
ともあれ、このことから、ラヌッチョとラヴィーニアの夫婦仲は悪かったことが分かります。ジューゴリ兄弟もラヴィーニアの夫婦仲が悪かったことは当然知っていた筈です。カラヴァッジョ側との戦闘において、命を懸けて戦う気が起きなかったことでしょう。
また、妻ラヴィーニアのいる前でカラヴァッジョがラヌッチョに対して女癖が悪いと罵ったことがラヌッチョとの命を懸けた諍いになったとの説もあります。

4人対4人の決闘が行われたとされてますが、オノリオ・ロンギ、カラヴァッジョの4人目の男(ボローニャ出身のパオロ・アルダーティ伍長との説があります)、ジョーゴリ兄弟の4人が戦闘に加わったという記録が残されていません。

また、ペトロニオ・トロッパ隊長、パオロ・アルダーティ伍長、ジョヴァン・フランチェスコ・トマッソーニ大尉は、ハンガリー戦争に参戦した退役軍人だったこと、カラヴァッジョが武装して、剣と短剣の使い方に習熟していたことから、カラヴァッジョのハンガリー戦争参戦説が出てきました。


307
ラヌッチョは、教区教会であるサンタ・マリア・アド・マルティレス聖堂(パンテオン)に埋葬されました。


310
テニスコートは、しばしばフェンシング会場として使用されていました。
フィレンツェ宮殿近くのテニス場が賭け金トラブルで決闘場になったのは、事件をカモフラージュするための方便だったという説があります。
テニス場で賭け金のトラブルが起きたという通説は、事実を隠すための事前に仕組まれた単なる口実だったに過ぎないという説もあります。


311
1570年、当時の教皇ピオ5世は、売春婦があちこちに風紀を乱すということで、ゲットーを作って7000人の売春婦をゲットー内に閉じ込めました。
カラヴァッジョが借りた部屋があったサン・ビアージョ小路は、オルタッチョと呼ばれるゲットーの門と隣接していました。ラヌッチョはオルタッチョのポン引きでした。ジョヴァン・フランチェスコ・トマッソーニ大尉は、オルタッチョを含むカンポ・マルツィオ地区の地区長でしたが、実質はギャングの顔役とも言っても良い存在でした。ジョヴァン・フランチェスコ・トマッソーニ大尉の家は刑務所が付いていたことが分かってます。
売春婦ゲットーからの利益は莫大なもので、その一部は庇護を受けていたファルネーゼ家やアルドブランディーニ家に流れていた可能性があるとされてます。当時のローマ政界は腐敗していました。


308
コロンナ宮のエッチングです。

ジョヴァン・フランチェスコ・トマッソーニ大尉によって頭部を斬られたカラヴァッジョは、デル・モンテ枢機卿のマダマ宮、パトロンのジュスティニアーニ侯爵邸、フィレンツェ宮、またはコロンナ宮に逃げ込んだとされているものの、何処に逃げたのか特定されてません。
重傷を負ったカラヴァッジョは、事件後二、三日のうちにコロンナ家の領地があるローマの南東部に向けてローマを後にしたと言われてます。そのためには、事前交渉が必要だったことから、私はコロンナ宮に逃げ込んだと思ってます。カラヴァッジョにとって、ジェノヴァへの逃亡の際にも頼ったコロンナ家が最も信頼できると判断したのかも知れません。


309
官憲による事件の捜査が開始されたのは、事件後1か月が経ってからでした。これは、フランス系とスペイン系の高位聖職者や貴族からなる両派から、事件関係者の逃亡に必要な十分な時間的余裕を確保するために、官憲への圧力があったからとされてます。

しかし、ジョヴァン・フランチェスコ・トマッソーニ大尉の攻撃によって、瀕死の重傷を負ったペトロニオ・トロッパ隊長は、傷の治療のために訪れた床屋(当時、床屋が外科医を兼ねていました)に怪しまれ、警察に通報されて逮捕されてしまい、トル・ディ・ノーナ監獄に収監されてしまいました。(ジョヴァン・フランチェスコ・トマッソーニの家に付属する牢屋に入れられたとの別説があります)
トロッパは尋問を受け、4番目の男について聞かれましたが知らないと答えました。トロッパ隊長のその後についての記録が残されていません。

オノリオ・ロンギは、妻子を連れてミラノに逃亡しました。

ジョヴァン・フランチェスコ・トマッソーニ大尉、ジューゴリ兄弟は、ファルネーゼ家を頼って、同家の本拠地であるパルマに逃亡しました。

1606年7月17日、欠席裁判が行われ、カラヴァッジョには「Bando Capitale」(見つけたら誰でも殺しても構わないとの死刑宣告)が出され、他の関係者にはローマからの追放刑が科されました。

ジョヴァン・フランチェスコ・トマッソーニ大尉は、嘆願が認められ1606年12月にローマに戻りました。
オノリオ・ロンギは、嘆願したものの、中々許されず、1611年に漸くローマに戻ることが出来ました。


312
Via di Prenestinaです。

この通りを通ってローマから逃亡したと言われてます。
頭部重傷にも拘わらず馬に乗っての必死の逃避行だったと思います。


313
地図AはZagaroloです。

ザガローロは、ローマの南東約34km離れた、小さな山岳町です。


314
カラヴァッジョはVia di Pallacordaを通って、コロンナ家の領地だった山岳都市のうち、最初に向かったのがザガローロと言われています。


315
ザガローロの全景です。

その当時、ザガローロは、マルツィオ・コロンナ公爵(ローマ、1570‐1614)の領地でした。

コロンナ家がカラヴァッジョ援助を行ったのは、ひとえにカラヴァッジョ侯爵夫人のコスタンツァ・コロンナ(ローマ、1555c-1626)の絶え間ない支持とサポートによります。
コスタンツァは、レパントの海戦の英雄マルカントニオ2世・コロンナの娘で、11歳頃の1566年にフランチェスコ1世・スフォルツァ・ダ・カラヴァッジョ侯爵(1550-1583)と結婚しました。
画家カラヴァッジョの父フェルモ・メリージは、レンガ職人ながら、カラヴァッジョ侯爵に仕える執事を兼ねていたので、ミケランジェロ・メリージは幼少の頃からカラヴァッジョ公爵夫人に会っていました。
コスタンツァ・コロンナは、夫であるカラヴァッジョ侯爵と死別するとミラノ、ローマに住むようになり、ローマではコロンナ宮殿に住んでいた時にカラヴァッジョに当然会ったものと思われてます。


316
頭部を負傷して体調不十分だったカラヴァッジョですが、寝ていた訳ではなく、逃亡資金捻出のために作品制作に従事していました。


317
カラヴァッジョがザガローロで滞在していたのは、ザガローロにあるコロンナ家宮殿のPalazzo Rospigliosiでした。


318
カラヴァッジョがローマの山岳地帯に潜伏中に制作した作品として、エマオの晩餐と法悦のマグダラのマリアが挙げられてます。


319
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「法悦のマグダラのマリア(クラインのマグダラのマリア)」

画家自身による複製画が何枚か残されています。また、他の画家による数点のコピー画も残されてます。それらの中で、ローマの個人蔵のクラインのマグダラのマリアがオリジナルであるという説が定説になりつつあります。
また、この作品はパリアーノで制作されたという説があります。


320
ブレラ絵画館にある「エマオの晩餐」です。


321
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「エマオの晩餐」


322
ローマ近郊の山岳地帯に潜伏中に制作されたと言われてます。


324
完成後、ローマに送られてオッタヴィオ・コスタが購入したと言われてます。


325
ザガローロの東方にパレストリーナがあります。


327
パレストリーナの全景です。


326
カラヴァッジョは、山岳地帯に潜伏中、何度も居場所を転々と変えていました。カラヴァッジョを匿ったコロンナ家がその存在をローマの官憲や教皇庁から知られたくなかったからでしょう。


328
パレストリーナにあるPalazzo Colonna Barberiniです。


329
カラヴァッジョは、この宮殿に匿われていました。


330
パレストリーナでも作品を制作していました。


331
町中には行かなかったようです。


332
パレストリーナにあるサンタント二オ・アバーテ教会です。


334
1967年、サンタンと二オ・アバーテ教会でカラヴァッジョの作品と思われる祭壇画が発見されました。


333
1967年に発見された「聖アガピートの斬首」です。
この作品が発見されたパレストリーナでは、カラヴァッジョの作品としています。しかし、作品帰属を巡る定説には至ってません。
潜伏中に描かれた可能性が大いにあり得ると私は思います。


335
パレストリーナのサンタント二オ・アバーテ教会の内部です。


336


337
パレストリーナの東方にパリアーノがあります。


340
パリアーノもコロンナ家の領地でした。


339
パリアーノのPalazzo Colonnaです。


341
カラヴァッジョがPalazzo Colonnaに滞在した記録が残されています。


338
(つづく)

足跡を辿って 10.居候または住所不定時代、ラヌッチョ・トマッソーニとの闘い
200
シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿の調停によってカラヴァッジョが襲撃した公証人との和解が成立した1605年8月26日に、カラヴァッジョにもう一つの問題が発生しました。


201
サン・ビアージョ小路にカラヴァッジョが借りていたアパートがありました。


6
通りに面した教会の名称に因んで、現在はサン・ビアージョ小路はディヴィーノ・アモーレ小路に通りの名称が変更されてます。


202
Vicolo del Divino Amoreの19番地にカラヴァッジョが借りていたアパートが現存しています。


16
和解が成立した正にその日、1605年8月26日、カラヴァッジョは借りていた部屋に戻ることが禁じられるとともに、部屋に残されていたカラヴァッジョの私有物が差し押さえられ、その財産目録が作成されたのです。


7
写真はカラヴァッジョが借りていた部屋です。

この建物を用益権を持っていたプルデンツィア・ブルーニは、カラヴァッジョが家賃を6か月間滞納していたので、家賃保証のために法的手段を取り、カラヴァッジョの私有財産を差し押さえた訳です。
画料が高くなって、家賃支払いに困窮するほど窮乏していたとはとても思えないカラヴァッジョですから、半年間の家賃不払いは、社会規範に反しても何ら痛痒を感じないという彼のどうしようもない性格によるものと思われます。


9
1605年8月26日、カラヴァッジョが借りていた部屋に残されていた全押収物の目録が作成されました。その目録が今でも残されており、当時のカラヴァッジョの生活振りを垣間見ることが出来る貴重な記録となってます。
剣と短剣がそれぞれ二本、決闘用の武具、ベッド、ぼろぼろの服、短刀(短剣とは別です)、ヴァイオリン、ギター、絵画制作用の道具、絵画制作に使われたと思われる大きな鏡、10点の絵画と画布などが目録に書かれてます。
10点の絵画の内訳は、「絵画1点(完成作に近い?)、大きなものでこれから描く絵画2点(描きかけ?)、それ以外の3点の小さな絵画、3点の大きな画布(これから描こうとしたもの?)、1点の大きな板絵」です。
目録に書かれていた絵画は、カラヴァッジョの作品なので、相当な価値があったと思われますが、その行方を含めて何の情報も残されていないようです。しかし、当時注文を受けていた「ロレートの聖母」、「聖母の死」、「ロザリオの聖母」は大サイズの祭壇画であり、借りていた部屋の天井を改造して描かれた可能性があり、目録に記載された10点の絵画の中に含まれた可能性がありそうです。そうなると、それらの未完成の作品は後にカラヴァッジョに返却されたことになります。


13
宿なしで描きかけの作品と僅かばかりの雑多な財産など、すべての財産を失ったカラヴァッジョがやったことは、その復讐でした。
1605年8月31日から翌9月1日にかけての夜、カラヴァッジョは、プルデンツィア・ブルーニの家下に潜んで、投石して家の鎧戸を壊した上に、カラヴァッジョの友人3人と共にギターを夜中に弾き通してブルーニを眠らさなかったそうです。
ブルーニは直ぐに損害賠償を求める告訴状を提出しました。


14
カラヴァッジョは、友人の法律家アンドレア・ルッフェッティの助けを借り、アンドレアを通じてブルーニに対して未払の部屋賃料、部屋の改造に伴う原状回復費用などを含む被害額を支払いました。


4
カラヴァッジョと法律家アンドレア・ルッフェッティとの関係が私には良く分かりません。


203
アンドレア・ルッフェッティの家はコロンナ広場傍にありました。


204
公証人マリアーノ・パスクゥワローネをナヴォーナ広場で襲撃してから、ジェノヴァに逃亡していたカラヴァッジョがシピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿の和解調停によって、ローマに戻ることが出来ましたが、家賃滞納によって宿なしとなって、居候したのが法律家アンドレア・ルッフェッティの家でした。


205
コロンナ広場です。

度々警察沙汰を引き起こしたカラヴァッジョの法律面で知り合ったのが、アンドレアと親密なる切っ掛けだったのでしょうか。
ともあれ、アンドレア・ルッフェッティの家に居候できるほどの親密な関係だったことが分かります。


206
Palazzo Chigiです。

アンドレア・ルッフェッティの家で、アンドレア・ルッフェッティの肖像画を制作した記録が残されてます。作品は行方不明となっており、恐らく失われたようです。


207
アンドレア・ルッフェッティの家に居候と言っても、定住したわけではないようです。カラヴァッジョのことですから、売春宿や悪友の家など度々寝どころを変える住所不定の状態だったと思われます。


208
1605年10月24日付のカラヴァッジョの供述調書が残されてますが、その日、カラヴァッジョはアンドレア・ルッフェッティの家で負傷して寝ていました。
喉と左耳に不審な傷を負ったために、当局の公証人による尋問を受けました。尋問を受けること自体、尋常なことではなく、しかも居候先が当局に知られた訳ですから、異常です。
カラヴァッジョは、道で転んで自分の剣で自傷したと頑強に供述しました。この件は、それで終わりとなったようですが、カラヴァッジョは本当の理由を当局に知られたくなかったと思われます。決闘か、襲撃を受けたか、襲撃して反撃を受けたか、真相は不明ですが、その原因は明らかにそんなところでしょう。


209
Via della Colonna Antoninaです。

この通りのコロンナ広場寄りの建物に法律家アンドレア・ルッフェッティの家があったという説があります。


210
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「ロザリオの聖母」


211
ウィーンの美術史美術館にあります。
縦365cm、横250cmの大きな作品なので、教会の祭壇画として制作された可能性が非常に高いと思われてますが、注文主、設置された教会についての記録が残されておらず、制作の経緯についていくつかの仮説が出されているものの定説になってません。


212
逃亡先のナポリで描かれたという説がある一方、画面左に描かれている柱(コロンナ)がコロンナ家の注文を暗示している説があり、コロンナ広場近くの居候先であるアンドレア・ルッフェッティの家で描かれたとされてます。


213
「ロザリオの聖母」は、1607年秋にナポリにあった記録が残されているので、私はカラヴァッジョの一回目のナポリ滞在中に制作されたと思ってます。


217
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「蛇の聖母(パラフレニエーリの聖母)」

この作品は、居候先のアンドレア・ルッフェッティの家で制作されました。その記録があります。


222
カトリックの本拠地サン・ピエトロ大聖堂です。

1605年10月31日、サン・ピエトロ大聖堂内にある馬丁(パラフレニエーリ)組合の聖アンナ同信会が保有する聖アンナ礼拝堂の祭壇画として、サン・ピエトロ大聖堂の造営部門からカラヴァッジョに注文が出されました。


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サン・ピエトロ大聖堂の内部です。

サン・ピエトロ大聖堂からの注文は、画家にとって大変な名誉であり、カラヴァッジョは制作に励み、1606年4月8日に画料の支払いが行われ、「蛇の聖母」は聖アンナ礼拝堂に設置されました。しかし、直ぐに取り外されました。設置された二日後に取り外されたようです。
取り外された理由についての記録がありません。


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ヴァティカンにあるサンタンナ・デイ・パラフレニエ聖堂です。1565年に創建された教皇庁馬丁組合の教会です。

サン・ピエトロ大聖堂聖アンナ礼拝堂から取り外された「蛇の聖母」は、サンタンナ・デイ・パラフレニエ聖堂に移されました。


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1606年6月、カラヴァッジョの作品はサンタンナ・デイ・パラフレニエ聖堂からも取り外されてしまいました。
その理由はこの時も不明です。しかし、サンタンナ同信会が信じる聖アンナがあまりにも老婆に描かれ、幼きキリストが裸で描かれたからかも知れない、それに聖母のモデルが売春婦のマッダレーナ・アントネッティ通称レーナだったかも知れないことも拒否の理由でしょうか?


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聖母の胸がエロい?のも拒否の理由でしょうか?


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ヴァティカンから拒否されてカラヴァッジョは荒んだ気持ちになったことでしょう。


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「蛇の聖母」はボルゲーゼ美術館にあります。

1606年6月16日、シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿によって買収されました。


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画家として最高の名誉とされるサン・ピエトロ大聖堂の祭壇画制作者という地位を失って大いに落胆したに違いないカラヴァッジョでしたが、サン・ピエトロ大聖堂が次に発注した幾つかの祭壇画の制作者に選ばれることはなく、更に落胆した上に同大聖堂から受注した画家に向けられた嫉妬心に苦しんだと思われます。


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この作品がシピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿によって買収される3週間前に、カラヴァッジョの人生を狂わせる事件が起きたのです、


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地図Aの場所は、サン・ロレンツォ・イン・ルチーナ広場を示します。


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一説ではカラヴァッジョの仇敵トマッソーニ家の家がサン・ロレンツォ・イン・ルチーナ広場の角にあったとされてます。


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サン・ロレンツォ・イン・ルチーナ広場です。

トマッソーニ家は、ナルニ出身の優秀な傭兵隊長を出した家系でした。アレッサンドロ・トマッソーニ(テルニ、1508-ナルニ、1555)は、下層階級から教皇軍の将軍になるまで軍歴を積み、軍事技術者として高く評価されました。
アレッサンドロの弟ルカントニオ・トマッソーニ(テルニ、1511-ローマ、1592)は、1527年のローマ略奪におけるサンタンジェロ城防衛の教皇軍をかわきりに、サン・クエンティンの戦い、フランス宗教戦争、ギリシャのオスマン戦争に参戦するなど、数々の武功を誇る傭兵隊長、軍事技術者であり、教皇軍大佐を務めました。その間、ファルネーゼ家やアルドブランディーニ家出身の上官に仕えて両家との強い繋がりを築きました。また、1566年以降、代々の教皇から信頼され、死の直前の1591年にサンタンジェロ城の副城主職の名誉を得ました。
ローマに移住したルカントニオ・トマッソーニの一家は16世紀後半にローマに移住し、カンポ・マルツィオ地区に住居を構えました。ファルネーゼ家、アルドブランディーニ家とのつながりがより一層深くなり、トマッソーニ家は尊敬される一方、恐れられるようになりました。
ルカントニオ・トマッソーニは、少なくても9人の子供を授かりました。アレッサンドロ、オッタヴィオ、クラウディオ、ジョヴァン・フランチェスコ、ルカントニオ(父と同じ名前)マリオ、ラヌッチョの息子たちと、ヴァルジニア、プラウティラ、オリンピアの3人の娘がいました。
トマッソーニ兄弟は、有力者との繋がりを背景にカンポ・マルツィオ地区の賭場や売春宿を縄張りにして、武装して不謹慎と傲慢が際立つ、警察勢力も迂闊には手出しできない存在でした。それどころか、警察権力も保有していたとのです。


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カラヴァッジョが後に描いた二作品に登場する人物は、ルカントニオ・トマッソーニの四男ジョヴァン・フランチェスコ・トマッソーニの肖像と言われてます。

ジョヴァン・フランチェスコ・トマッソーニは、1573年にテルニで生まれ、洗礼式ではパルマのファルネーゼ家から代理人やパルマの貴族が出席するなど、生まれながらにパルマのファルネーゼ家との強い絆がありました。父と共に長いトルコ戦争に従軍してからフェッラーラの駐屯地で軍務に就きました。ピエトロ・アルドブランディーニ枢機卿が指揮する教皇軍がローマに戻ると、ジョヴァン・フランチェスコは退役軍人となりました。
1598年以降、ローマにおける退役軍人は武装して歩き回ったり、襲撃するなど公序良俗に反する深刻な社会問題を引き起こしました。そのような情勢下、ジョヴァン・フランチェスコは、カンポ・マルツィオ地区の地区長に任命され、警察権を持つようになりました。

ラヌッチョという名前はファルネーゼ家に多い名前であり、それに因んでルカントニオ・トマッソーニが息子に名付けたと言われてます。様々な事業に携わって非常に裕福なトマッソーニ家にあって、ラヌッチョ・トマッソーニ(テルニ、1580c-ローマ,1606)が選んだビジネスは高級売春でした。高級売春はトマッソーニ家の主要ビジネスの一つでした。若くて美人ばかりの売春婦を揃え、聖職者や貴族、金持ちにサービスを提供して収益を上げ、その金で様々な事業に投資して収益を上げていきました。カラヴァッジョの有力パトロンのヴィンチェンツォ・ジュスティニアーニ侯爵もトマッソーニ家管理の高級売春組織の客でした。


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ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「フィリデ・メランドーニの肖像」

フィリデ・メランドーニ(シエナ,1581-ローマ、1618)は、トマッソーニ家が営む高級売春組織の売春婦でした。1594年4月、フィリデとアンナ・ビアンキーニ(ローマ、1579c‐1604 カラヴァッジョのモデル)は買収勧誘の疑いで逮捕されました。フィリデの客にヴィンチェンツォ・ジュスティニアーニ侯爵がいました。ラヌッチョ・トマッソーニと関係があり、ラヌッチョの女と言われていました。フィリデは、勝気な女で、ラヌッチョと密接な関係にあった高級娼婦をナイフで襲い、警察に通報されたことがあります。また、1599年2月11日、ラヌッチョとフィリデは、乱痴気パーティと武器所持の告訴を受け、逮捕されました。その後の同年1599年に、フィリデは、ラヌッチョから渡された武器を不法に所持していたとして逮捕されました。また、フィリデはその職業のために度々検挙され、トル・ディ・ノーナ監獄に収監されましたが、ラヌッチョによって釈放された記録が残されてます。

トマッソーニ家が管理する売春婦をモデルに起用するなど、カラヴァッジョはトマッソーニ家と良好な関係にあった時もありましたが、オノリオ・ロンギなどと徒党を組んで武装してカンポ・マルツィオ地区を派手に遊び歩いていたことから、縄張りを荒らす存在としてトマッソーニ家から見られていたのは間違いないと思います。

当時のローマの高位聖職者や貴族は、フランス寄りとスペイン寄りの二派に分かれて、時には民衆をも巻き込んで激しく対立していました。
1605年5月1日、カンポ・マルツィオ地区でフランス派とスペイン派の激しい乱闘が行われ、多数の死傷者を出しました。カラヴァッジョはそれに加わっていませんでしたが、トマッソーニ兄弟は積極的に乱闘に加わっていました。トマッソーニ家が仕えてきたファルネーゼ家とアルドブランディーニ家は親スペインの代表的存在であり、両家の庇護のもとにカンポ・マルツィオ地区を縄張りにしたトマッソーニ家はスペイン派に属していました。
一方、カラヴァッジョは、その最初のパトロンであるデル・モンテ枢機卿はブルボン家の血を引くフランス派の代表的存在であり、ジュスティニアーニ侯爵もフランス派であり、フランス国立教会であるサン・ルイージ・デイ・フランチェージ聖堂の礼拝堂祭壇画で一躍有名画家になったことから、親フランスの画家と見られていました。

このような状況に於いて、1606年5月28日(29日説もあります)、カラヴァッジョ、オノリオ・ロンギ、ペトローニオ・トロッパ隊長、氏名不詳の男(トロッパ隊長と氏名不詳の男は助っ人としてカラヴァッジョに雇われたという有力説があります)の4名と、ジョヴァン・フランチェスコ・トマッソーニ地区長、ラヌッチョ・トマッソーニ、ラヌッチョの妻の兄弟であるイニャツィオ・ジューゴリとジョヴァン・フェデリーコ・ジューゴリの4人が武装して戦闘に及びます。


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Via di Pallacordaです。Pallacordaとはテニスのことです。Palazzo Firenzeに近い場所にテニス場があったので、それに因んで通りの名称となりました。


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戦闘が行われたと言われているテニス場近くの広場です。

4人対4人で戦われた理由が良く分からないのと、戦闘が行われた場所についても微妙な違いがある2説に分かれてます。
その主な原因とされるのは、この決闘に関する捜査開始が事件発生から1か月後だったからとされてます。これは恐らく関係者全員が当局からある種の保護、つまり逮捕を免れ、逃亡に十分な時間的余裕を与えるためだった。教皇庁の警察権の遅さは、スペイン派、フランス派双方から、或いはカラヴァッジョ支援のコロンナ家などの、所謂高位からの司法への介入があったからでしょう。

この決闘の原因として、最初から言われていたのは賭けテニスの賭け金支払い巡るトラブルでした。


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賭けテニスが行われたテニス場近くに建つPalazzo Firenzeです。

カラヴァッジョとラヌッチョとの賭けテニスの試合中、試合に負けたカラヴァッジョが賭け金10scudiの支払いを拒んだのでトラブルになって決闘に及んだというのが、当時から言われていた原因です。


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フィレンツェ広場です。

現在、広場となっている、この場所で決闘が行われたとされてます。
カラヴァッジョ側は助っ人二人を雇い、トマッソーニ側は妻の兄弟二人を連れて武装していました。たかが10cudiの僅かな賭け金の賭けテニス試合を行い、その賭け金を巡るイザコザで決闘とは大袈裟すぎて辻褄が合いません。
後で逮捕されて尋問される場合の口裏合わせのために、両陣営合意のもとに賭け試合を持ち出したのかも知れません。


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決闘が行われた場所して、トマッソーニ家が住む家近くのサン・ニッコロ・デ・ペルフェッティ教会の前だったという説があります。上のエッチング絵がその場所を示していると言われてます。


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Via di Prefettiです。


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サン・ニッコロ(ニコロ)・デ・ペルフェッティ教会です。

カラヴァッジョ、オノリオ・ロンギ、ペトローニオ・トロッパ隊長、氏名不詳の男の4人が武装してサン・ロレンツォ・イン・ルチーナ広場近くを歩ていたのは見たジョヴァン・フランチェスコ・トマッソーニ、ラヌッチョ・トマッソーニ、イニャツィオ・ジューゴリ、ジョヴァン・フェデリーコ・ジューゴリの4人は武装して家から外に出ました。


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この教会の前当りで4人対4人の激しい乱闘が始まりました。

カラヴァッジョとラヌッチョは、1対1で戦ったようで、カラヴァッジョがラヌッチョの太腿を一突きすると、ラヌッチョの大腿動脈が停止、大出血して直ぐに死亡しました。
ジョヴァン・フランチェスコ・トマッソーニは、ペトローニオ隊長と戦い、重傷を負わせましたが、カラヴァッジョがラヌッチョを殺すと、今度はカラヴァッジョと対峙してカラヴァッジョの頭を斬り付けました。
オノリオ・ロンギとカラヴァッジョ側の助っ人で不詳の男、それにジューゴリ兄弟の4人の戦闘については、記録が無く分かっていません。
やがて警官が現場に駆け付けると、死んだラヌッチョを除いて現場から逃げたと思われます。

しかし、この事件には別の有力説がありました。
(つづく)

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