足跡を辿って 22.死の前後と死後

カラヴァッジョの死の直前に、ナポリでは副王の交代がありました。

エル・グレコ(ビジャロン・デ・カンポス、1553-マドリッド、1621)の「ファン・アロンソ・ピメンテル・デ・エレーラの肖像」
1603年4月6日にナポリ副王としてナポリに赴任してきたべネベンテ伯爵ピメンテル・エンリケス(ファン・アロンソ・ピメンテル・デ・エレーラは、任期を終えて、1610年7月13日にスペインに向かいました。その際、カラヴァッジョの三作品を携えて帰国しました。その三作品は、「聖アンドレアの磔刑」、「聖ジェンナーロ」、「洗足式」と言われてます。聖ジェンナーロはナポリの守護聖人です。
「聖ジェンナーロ」と「洗足式」の二作品は失われて現存しません。

ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-パロ・ラツィアーレ、1610)の「聖アンドレアの磔刑」
ナポリ副王ピメンテル・エンリケスが帰任の際にスペインに持ち帰った可能性が高いと言われている作品です。

逸名画家作「レモス伯爵ペドロ・フェルナンデス・デ・カストロ(レモス、1576-マドリッド、1622)の肖像」
ピメンテル・エンリケネスの後任ペドロ・フェルナンデス伯爵は、任地ナポリに1610年6月26日に到着しましたが、プローチダ島に移り、交代の日である1610年7月13日までプローチダ島に待機していました。

写真はナポリの王宮です。
1610年7月13日、レモス伯爵ペドロ・フェルナンデス・デ・カストロは、総督としてナポリに入城しました。
詩人兼法律家で、カラヴァッジョの法律関係のゴタゴタをサポートしたマルツィオ・ミレージ(ローマ、1570c-1637)は、カラヴァッジョの死亡日を1610年7月18日と日記に書きましたが、後にカラヴァッジョの碑文にも死亡日1610年7月18日と記しました。

ローマにあるPalazzo della Rovereです。ローマにおけるウルビーノ公国の公邸でした。

フェデリーコ・バロッチ(ウルビーノ,1535c-1612)の「ウルビーノ公フランチェスコ・マリア2世・デッラ・ローヴェレ(ペーザロ,1549-ウルバニア、1631)の肖像」

写真はウルビーノです。
駐ローマのウルビーノ大使は、ウルビーノ公国宛に1610年7月28日付と1610年7月31日付の二通の報告書を送りました。それら二通の報告書にはカラヴァッジョの死の状況が詳述されてます。28日付の書簡には、カラヴァッジョがポルト・エルコレで熱病で病死したことが、31日付では、恩赦を受けたのでナポリからローマに向かったが、その途中で死亡したと書かれてます。

オッタヴィオ・レオーニ(ローマ、1578-1630)の「シピオーネ・カッファレッリ・ボルゲーゼ枢機卿の肖像」
1610年7月下旬、カラヴァッジョの死の情報を聞いた、ローマにいたボルゲーゼ枢機卿は、ナポリ王国の使徒公使でカゼルタ司教でもあったデオダート・ジェンティーレ宛に書簡を送り、カラヴァッジョが自分用に制作したとされる作品がどうなっているかと問い合わせを行いました。

カゼルタヴェッキアにあるサン・ミケーレ・アルカンジェロ教会です。
カラヴァッジョが生存していた時代、カゼルタの中心地は現在のカゼルタから離れたカゼルタヴェッキアにありましたが、当時、司教座はこの教会に置かれていました。シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿からカラヴァッジョ作品の問い合わせを受けたデオダート・ジェンティーレ司教は、この教会を管理していました。
司教兼使徒大使デオダート・ジェンティーレがボルゲーゼ枢機卿に宛てた1610年7月29日付の手紙が残されており、「カラヴァッジョはナポリから船でローマに向かい、パロに上陸したが、そこで不慮の事故で投獄されました。カラヴァッジョは最終的にポルト・エルコレで死亡した。カラヴァッジョ作品を載せた船はナポリに戻り、ナポリのPalazzo di Cellammareにいたカラヴァッジョ侯爵夫人コスタンツァ・コロンナの元に戻されました」と報告しました。
さらに、デオダート・ジェンティーレ司教は、ボルゲーゼ枢機卿に宛てた1610年7月31日付の追伸を書き、その中で「カラヴァッジョの作品は最早Palazzo di Cellammareになく、マルタ騎士団のカプア修道院長ヴィンチェンツォ・カラファの手元で保管されてます。」と報告しました。
ヴィンチェンツォ・カラファは、名門貴族カラファ家の一族で、第3代ルーヴォ伯爵ファブリツィオ・カラファ(1515-1554)の次男です。
カラヴァッジョ侯爵夫人コスタンツァ・コロンナは、1610年7月20日頃、ナポリのPalazzo di Cellammareを離れ、ローマに向かいました。
ボルゲーゼ枢機卿は、デオダート・ジェンティーレ司教を介して、ヴィンチェンツォ・カラファに対して、カラヴァッジョ作品の所持希望を伝えました。
デオダート・ジェンティーレ司教は、ボルゲーゼ枢機卿宛に1610年8月29日付と1610年8月31日付の2通の書簡を送り、カラヴァッジョの『聖ジョヴァンニ・バッティスタ』のローマへの発送が遅れたのは、それの複製画制作のためである。」と報告しました。
ボルゲーゼ枢機卿宛のデオダート・ジェンティーレ司教の1611年1月7日付の書簡で、「1610年12月10日、ヴィンチェンツォ・カラファがナポリで死去した。」と報告しました。
カラヴァッジョの「聖ジョヴァンニ・バッティスタ」が1611年8月19日にボルゲーゼ枢機卿の元に発送されました。
カラヴァッジョがローマに向けてナポリを立った時に所持していた「法悦の聖マリア・マッダレーナ」と「横たわる聖ジョヴァンニ・バッティスタ」の2作品は、ボルゲーゼ枢機卿の所有になりませんでした。
ラヌッチョ・トマッソーニを殺害してローマから逃亡したカラヴァッジョですが、恩赦でローマに戻ってこられたとしても逃亡以前のようにカラヴァッジョが人気画家であったかについては、懐疑的にならざるを得ません。
カラヴァッジョが去ってからのローマは、徐々にボローニャ派の古典主義が主流となっていました。ルドヴィーコ・カラッチなどのカラッチ一族、グイド・レーニ、グエルチーノ、ドメニキーノなどが活躍していました。
逃亡後、カラヴァッジョの画風は暗く、深みのある表現である、所謂晩年様式へと画風が変わりました。ボローニャ派の天下になりつつあるローマで、晩年様式のカラヴァッジョが以前のようにローマで大活躍できたでしょうか。
ともあれ、カラヴァッジョが死亡すると、カラヴァッジョの様式は忘れ去られてしまいました。
作品を訪ねて 20.シラクーザ、サンタ・ルチア・アル・セポルクロ聖堂

シラクーザのサンタ・ルチア・アル・セポルクロ聖堂です。

聖堂の後陣です。

アル・セポルクロ聖堂の主祭壇画はカラヴァッジョの作品です。

ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-パロ・ラツィアーレ、1610)の「聖ルチアの埋葬」

カラヴァッジョの「聖ルチアの埋葬」は、シラクーザのサンタ・ルチア・アル・セポルクロ聖堂の主祭壇画として制作されましたが、2007年頃に取り外され、シラクーザの州立美術館で展示されるようになりました。

教会の祭壇画が教会から取り外され、美術館で展示されることは普通なので、カラヴァッジョの作品は美術館所有になったと思っていました。

写真は、シラクーザのドゥオーモ広場に面して建つサンタ・ルチア・アッラ・バディア教会です。

サンタ・ルチア・アッラ・バディア教会のファサードに向かって右側の壁にあった銘板です。2012年頃からカラヴァッジョの「聖ルチアの埋葬」は、アッラ・バディア教会の主祭壇を飾るようになりました。

サンタ・ルチア・アッラ・バディア教会の内部です。
カラヴァッジョの作品は、2020年までアッラ・バディア教会にありましたが、元のアル・セポルクロ聖堂に戻されました。アル・セポルクロ聖堂とカラヴァッジョの作品の修復の関係で、カラヴァッジョ作品の展示場所が変わったそうです。
作品を訪ねて 21.パレルモ、サン・ロレンツォ祈祷所(オラトリオ)

カラヴァッジョ作品がありませんが、パレルモのサン・ロレンツォ祈祷所を取り上げます。

サン・ロレンツォ祈禱所です。

毎日オープンしています。

祈祷所の中庭です。
カラヴァッジョの「ご誕生」がありましたが、1969年10月17日から18日にかけての深夜、何者かによって盗まれてしまいました。シチリアにあったカラヴァッジョ作品の中で、保存状態が良かったそうですが、今日に至るまで未発見のままなので、状態が懸念されてます。

現在、主祭壇の後方には、Sky Italiaによって制作されたカラヴァッジョ作品の精巧な複製が置かれてます。

「ご誕生」はパレルモで制作されたとされてきましたが、近年の研究によって、「1600年頃にローマで制作され、パレルモに運ばれた」が定説となりました。
また、カラヴァッジョ自身もそもそもパレルモに足を踏み入れなかった、またはパレルモに来たとしても短期間であり、作品制作を行うだけに時間がなかったという説が有力とされてます。

サン・ロレンツォ祈禱所は、ジャコモ・セルポッタ(パレルモ、1656-1732)のスタッコ彫刻があることでも有名です。
作品を訪ねて 22.ローマ、ヴィラ・ルドヴィージ

カラヴァッジョ唯一の壁画があるヴィラ・ルドヴィージです。

フレスコ画が得意だったシモーネ・ペテルツアーノツァーノに師事したカラヴァッジョですが、フレスコ画を描けませんでした。

カラヴァッジョ、グエルチーノ、ドメニキーノなどの作品があることで有名なカジノ・ルドヴィージですが、所有者の相続問題がこじれて、競売にかけられることになったものの競売不成立となりました。
貴重な美術作品などがあるので、公的機関による買収・保存への動きが活発で、2022年1月から2023年1月にかけて非公開で公聴会が数度開催されましたが、進捗がないようです。
カジノに居住し、競売にかけたルドヴィージ家は、2023年4月20日、裁判所からの退去命令を受けて退去したようです。
このような状況からか、この場所は長い間、一般非公開となっています。

ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-パロ・ラツィアーレ、1610)の「ユピテル、ネプトゥルヌス、プルート(木星、海王星、冥王星)」
フレスコ画が不得意だったカラヴァッジョは、壁に油彩画を直接描きました。
作品を訪ねて 23.モンテプルチャーノ市立美術館

トスカーナ州モンテプルチャーノの市立美術館です。

美術館の入り口です。

カラヴァッジョの帰属作品があります。

ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-パロ・ラツィアーレ、1610)に帰属する「紳士の肖像」

「紳士」は、シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿であるという説が有力です。

イタリア国外にあるカラヴァッジョ作品については省略させて頂きます。
(カラヴァッジョの足跡と作品を訪ねて編 おわり)