イタリア芸術を楽しむ

イタリアの魅力を味わい尽くすには、一生に何度旅をすれば足りるだろう。芸術の宝庫にして、歴史の生きた証であるイタリア。 惹き付けて止まない絵画、彫刻、歴史的建造物、オペラなど、芸術の宝庫であるイタリアを楽しむブログです。 記事は一日に一つアップしています。記事の見方ですが、例えば「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その4)」は2017年10月20日にアップしました。各記事にカレンダーが表示されてますが、カレンダー上の2017年10月21日をクリックして頂ければ「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その5)」になります。(その3)は2017年10月20日となります。 BY:シニョレッリ

2023年09月

足跡を辿って 22.死の前後と死後
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カラヴァッジョの死の直前に、ナポリでは副王の交代がありました。


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エル・グレコ(ビジャロン・デ・カンポス、1553-マドリッド、1621)の「ファン・アロンソ・ピメンテル・デ・エレーラの肖像」

1603年4月6日にナポリ副王としてナポリに赴任してきたべネベンテ伯爵ピメンテル・エンリケス(ファン・アロンソ・ピメンテル・デ・エレーラは、任期を終えて、1610年7月13日にスペインに向かいました。その際、カラヴァッジョの三作品を携えて帰国しました。その三作品は、「聖アンドレアの磔刑」、「聖ジェンナーロ」、「洗足式」と言われてます。聖ジェンナーロはナポリの守護聖人です。
「聖ジェンナーロ」と「洗足式」の二作品は失われて現存しません。


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ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-パロ・ラツィアーレ、1610)の「聖アンドレアの磔刑」
ナポリ副王ピメンテル・エンリケスが帰任の際にスペインに持ち帰った可能性が高いと言われている作品です。


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逸名画家作「レモス伯爵ペドロ・フェルナンデス・デ・カストロ(レモス、1576-マドリッド、1622)の肖像」

ピメンテル・エンリケネスの後任ペドロ・フェルナンデス伯爵は、任地ナポリに1610年6月26日に到着しましたが、プローチダ島に移り、交代の日である1610年7月13日までプローチダ島に待機していました。


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写真はナポリの王宮です。

1610年7月13日、レモス伯爵ペドロ・フェルナンデス・デ・カストロは、総督としてナポリに入城しました。

詩人兼法律家で、カラヴァッジョの法律関係のゴタゴタをサポートしたマルツィオ・ミレージ(ローマ、1570c-1637)は、カラヴァッジョの死亡日を1610年7月18日と日記に書きましたが、後にカラヴァッジョの碑文にも死亡日1610年7月18日と記しました。


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ローマにあるPalazzo della Rovereです。ローマにおけるウルビーノ公国の公邸でした。


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フェデリーコ・バロッチ(ウルビーノ,1535c-1612)の「ウルビーノ公フランチェスコ・マリア2世・デッラ・ローヴェレ(ペーザロ,1549-ウルバニア、1631)の肖像」


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写真はウルビーノです。

駐ローマのウルビーノ大使は、ウルビーノ公国宛に1610年7月28日付と1610年7月31日付の二通の報告書を送りました。それら二通の報告書にはカラヴァッジョの死の状況が詳述されてます。28日付の書簡には、カラヴァッジョがポルト・エルコレで熱病で病死したことが、31日付では、恩赦を受けたのでナポリからローマに向かったが、その途中で死亡したと書かれてます。


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オッタヴィオ・レオーニ(ローマ、1578-1630)の「シピオーネ・カッファレッリ・ボルゲーゼ枢機卿の肖像」

1610年7月下旬、カラヴァッジョの死の情報を聞いた、ローマにいたボルゲーゼ枢機卿は、ナポリ王国の使徒公使でカゼルタ司教でもあったデオダート・ジェンティーレ宛に書簡を送り、カラヴァッジョが自分用に制作したとされる作品がどうなっているかと問い合わせを行いました。


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カゼルタヴェッキアにあるサン・ミケーレ・アルカンジェロ教会です。
カラヴァッジョが生存していた時代、カゼルタの中心地は現在のカゼルタから離れたカゼルタヴェッキアにありましたが、当時、司教座はこの教会に置かれていました。シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿からカラヴァッジョ作品の問い合わせを受けたデオダート・ジェンティーレ司教は、この教会を管理していました。
司教兼使徒大使デオダート・ジェンティーレがボルゲーゼ枢機卿に宛てた1610年7月29日付の手紙が残されており、「カラヴァッジョはナポリから船でローマに向かい、パロに上陸したが、そこで不慮の事故で投獄されました。カラヴァッジョは最終的にポルト・エルコレで死亡した。カラヴァッジョ作品を載せた船はナポリに戻り、ナポリのPalazzo di Cellammareにいたカラヴァッジョ侯爵夫人コスタンツァ・コロンナの元に戻されました」と報告しました。
さらに、デオダート・ジェンティーレ司教は、ボルゲーゼ枢機卿に宛てた1610年7月31日付の追伸を書き、その中で「カラヴァッジョの作品は最早Palazzo di Cellammareになく、マルタ騎士団のカプア修道院長ヴィンチェンツォ・カラファの手元で保管されてます。」と報告しました。
ヴィンチェンツォ・カラファは、名門貴族カラファ家の一族で、第3代ルーヴォ伯爵ファブリツィオ・カラファ(1515-1554)の次男です。

カラヴァッジョ侯爵夫人コスタンツァ・コロンナは、1610年7月20日頃、ナポリのPalazzo di Cellammareを離れ、ローマに向かいました。

ボルゲーゼ枢機卿は、デオダート・ジェンティーレ司教を介して、ヴィンチェンツォ・カラファに対して、カラヴァッジョ作品の所持希望を伝えました。

デオダート・ジェンティーレ司教は、ボルゲーゼ枢機卿宛に1610年8月29日付と1610年8月31日付の2通の書簡を送り、カラヴァッジョの『聖ジョヴァンニ・バッティスタ』のローマへの発送が遅れたのは、それの複製画制作のためである。」と報告しました。

ボルゲーゼ枢機卿宛のデオダート・ジェンティーレ司教の1611年1月7日付の書簡で、「1610年12月10日、ヴィンチェンツォ・カラファがナポリで死去した。」と報告しました。

カラヴァッジョの「聖ジョヴァンニ・バッティスタ」が1611年8月19日にボルゲーゼ枢機卿の元に発送されました。

カラヴァッジョがローマに向けてナポリを立った時に所持していた「法悦の聖マリア・マッダレーナ」と「横たわる聖ジョヴァンニ・バッティスタ」の2作品は、ボルゲーゼ枢機卿の所有になりませんでした。

ラヌッチョ・トマッソーニを殺害してローマから逃亡したカラヴァッジョですが、恩赦でローマに戻ってこられたとしても逃亡以前のようにカラヴァッジョが人気画家であったかについては、懐疑的にならざるを得ません。
カラヴァッジョが去ってからのローマは、徐々にボローニャ派の古典主義が主流となっていました。ルドヴィーコ・カラッチなどのカラッチ一族、グイド・レーニ、グエルチーノ、ドメニキーノなどが活躍していました。
逃亡後、カラヴァッジョの画風は暗く、深みのある表現である、所謂晩年様式へと画風が変わりました。ボローニャ派の天下になりつつあるローマで、晩年様式のカラヴァッジョが以前のようにローマで大活躍できたでしょうか。
ともあれ、カラヴァッジョが死亡すると、カラヴァッジョの様式は忘れ去られてしまいました。



作品を訪ねて 20.シラクーザ、サンタ・ルチア・アル・セポルクロ聖堂
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シラクーザのサンタ・ルチア・アル・セポルクロ聖堂です。


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聖堂の後陣です。


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アル・セポルクロ聖堂の主祭壇画はカラヴァッジョの作品です。


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ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-パロ・ラツィアーレ、1610)の「聖ルチアの埋葬」


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カラヴァッジョの「聖ルチアの埋葬」は、シラクーザのサンタ・ルチア・アル・セポルクロ聖堂の主祭壇画として制作されましたが、2007年頃に取り外され、シラクーザの州立美術館で展示されるようになりました。


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教会の祭壇画が教会から取り外され、美術館で展示されることは普通なので、カラヴァッジョの作品は美術館所有になったと思っていました。


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写真は、シラクーザのドゥオーモ広場に面して建つサンタ・ルチア・アッラ・バディア教会です。


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サンタ・ルチア・アッラ・バディア教会のファサードに向かって右側の壁にあった銘板です。2012年頃からカラヴァッジョの「聖ルチアの埋葬」は、アッラ・バディア教会の主祭壇を飾るようになりました。


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サンタ・ルチア・アッラ・バディア教会の内部です。

カラヴァッジョの作品は、2020年までアッラ・バディア教会にありましたが、元のアル・セポルクロ聖堂に戻されました。アル・セポルクロ聖堂とカラヴァッジョの作品の修復の関係で、カラヴァッジョ作品の展示場所が変わったそうです。


作品を訪ねて 21.パレルモ、サン・ロレンツォ祈祷所(オラトリオ)
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カラヴァッジョ作品がありませんが、パレルモのサン・ロレンツォ祈祷所を取り上げます。


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サン・ロレンツォ祈禱所です。


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毎日オープンしています。


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祈祷所の中庭です。
カラヴァッジョの「ご誕生」がありましたが、1969年10月17日から18日にかけての深夜、何者かによって盗まれてしまいました。シチリアにあったカラヴァッジョ作品の中で、保存状態が良かったそうですが、今日に至るまで未発見のままなので、状態が懸念されてます。


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現在、主祭壇の後方には、Sky Italiaによって制作されたカラヴァッジョ作品の精巧な複製が置かれてます。


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「ご誕生」はパレルモで制作されたとされてきましたが、近年の研究によって、「1600年頃にローマで制作され、パレルモに運ばれた」が定説となりました。
また、カラヴァッジョ自身もそもそもパレルモに足を踏み入れなかった、またはパレルモに来たとしても短期間であり、作品制作を行うだけに時間がなかったという説が有力とされてます。


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サン・ロレンツォ祈禱所は、ジャコモ・セルポッタ(パレルモ、1656-1732)のスタッコ彫刻があることでも有名です。


作品を訪ねて 22.ローマ、ヴィラ・ルドヴィージ
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カラヴァッジョ唯一の壁画があるヴィラ・ルドヴィージです。


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フレスコ画が得意だったシモーネ・ペテルツアーノツァーノに師事したカラヴァッジョですが、フレスコ画を描けませんでした。


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カラヴァッジョ、グエルチーノ、ドメニキーノなどの作品があることで有名なカジノ・ルドヴィージですが、所有者の相続問題がこじれて、競売にかけられることになったものの競売不成立となりました。
貴重な美術作品などがあるので、公的機関による買収・保存への動きが活発で、2022年1月から2023年1月にかけて非公開で公聴会が数度開催されましたが、進捗がないようです。
カジノに居住し、競売にかけたルドヴィージ家は、2023年4月20日、裁判所からの退去命令を受けて退去したようです。
このような状況からか、この場所は長い間、一般非公開となっています。


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ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-パロ・ラツィアーレ、1610)の「ユピテル、ネプトゥルヌス、プルート(木星、海王星、冥王星)」
フレスコ画が不得意だったカラヴァッジョは、壁に油彩画を直接描きました。


作品を訪ねて 23.モンテプルチャーノ市立美術館
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トスカーナ州モンテプルチャーノの市立美術館です。


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美術館の入り口です。


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カラヴァッジョの帰属作品があります。


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ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-パロ・ラツィアーレ、1610)に帰属する「紳士の肖像」


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「紳士」は、シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿であるという説が有力です。


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イタリア国外にあるカラヴァッジョ作品については省略させて頂きます。

(カラヴァッジョの足跡と作品を訪ねて編 おわり)

作品を訪ねて 13.ミラノ、ブレラ絵画館
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ブレラ絵画館です。


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カラヴァッジョの作品が1点あります。


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混雑していることは稀です。


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ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-パロ・ラツィアーレ、1610)の「エマオの晩餐」


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作品を訪ねて 14.ミラノ、アンブロジアーナ美術館
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アンブロジアーナ美術館です。


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美術館の元となったアンブロジアーナ図書館の創設者フェデリーコ・ボッロメーオ枢機卿(ミラノ、1564-1631)の像が置かれてます。
カラヴァッジョの作品が1点あります。


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カラヴァッジョの作品が目立たぬ場所に置かれてます。


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ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-パロ・ラツィアーレ、1610)の「果物籠」


作品を訪ねて 15.ジェノヴァ、ストラーダ・ヌオーヴァ美術館
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赤の宮殿、白の宮殿、トゥルシ宮の3宮殿からなるストラーダ・ヌオーヴァ美術館です。


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白の宮殿 Palazzo Biancoです。


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白の宮殿の第8展示室にカラヴァッジョの作品が1点あります。


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目立たぬように展示されています。


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ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-パロ・ラツィアーレ、1610)の「この人を見よ」


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作品を訪ねて 16.ナポリ、ピオ・モンテ・デッラ・ミゼリコルディア聖堂
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ピオ・モンテ・デッラ・ミゼリコルディア聖堂です。


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聖堂と画廊がMuseoになってます。


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聖堂の主祭壇です。


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主祭壇画はカラヴァッジョの作品です。


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ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-パロ・ラツィアーレ、1610)の「慈悲の七つの行い」


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画廊から見た聖堂内


作品を訪ねて 17.ナポリ、カポディモンテ美術館
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美術館の入り口です。


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カポディモンテ美術館にはカラヴァッジョの作品が1点あります。


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階上の展示室の突き当りにカラヴァッジョの作品が置かれてます。


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ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-パロ・ラツィアーレ、1610)の「キリストの鞭打ち」


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作品を訪ねて 18.ナポリ、Galleria d’Italia(パラッツォ・ゼヴァロス・スティリアーノ美術館)
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銀行の建物が美術館になってます。


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カラヴァッジョ最後の作品があります。


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カラヴァッジョ作品の展示室


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ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-パロ・ラツィアーレ、1610)の「聖ウルスラの殉教」


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作品を訪ねて 19.メッシーナ、州立美術館
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カラヴァッジョ作品が2点あります。


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メッシーナには、カラヴァッジョの作品が更にいくつかありましたが、災害のために失われて現存するのは二作品となってしまいました。


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ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-パロ・ラツィアーレ、1610)の「羊飼いの礼拝」


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ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-パロ・ラツィアーレ、1610)の「ラザロの蘇生」
(つづく)

足跡を辿って 21.終焉の地、ポルト・エルコレ
200
写真はナポリ港です。

カラヴァッジョが乗船したフェルッカ船は、カラヴァッジョが逮捕されたパロ・ラツィアーレ港を直ぐに出港して、船底にカラヴァッジョの作品数点を乗せたまま、ポルト・エルコレ港に到着しましたが、カラヴァッジョの作品は船底に乗せられたまま、ポルト・エルコレからナポリの復路となり、カラヴァッジョの作品数点はPalazzo Cellammareに居住するカラヴァッジョ侯爵夫人コスタンツァ・コロンナの手元に返されました。
作為的に行われていない限り、このようなことは起きません。


201
写真はフェルッカ船です。

しかし、カラヴァッジョの終焉の地がポルト・エルコレであるとするならば、辻褄が合わないことが幾つもあります。
海が荒れて、オスティア港に着船出来なかったフェルッカ船が、外洋に面してオスティアよりも荒波が予想されるパロ・ラツィアーレ港に着船出来たのは、幸運であり不可思議です。ローマに向かうカラヴァッジョが下船予定のオスティアを通り越し、予定外のパロ・ラツィアーレ港で下船することになったにしても、船を降りる時には大事な作品を持っていなければ道理に合いません。


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でも、カラヴァッジョは作品を手にして下船の準備をするどころか、パロ・ラツィアーレ港で逮捕され、直ぐに収監されました。これが事実とすれば、城の守備兵が船を臨検するために、フェルッカ船を着船させたので、カラヴァッジョが手荷物を用意する暇がなかったと言えるでしょう。


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カラヴァッジョは逮捕手配されていた山賊と間違えられて誤認逮捕されたので、守備隊長に大金を支払って、逮捕の二日後に釈放されたというのが、カラヴァッジョの終焉の地がポルト・エルコレである説の一部です。
パロ・ラツィアーレでカラヴァッジョが下船する時、大事な大事な作品を持たなかったが、大金を入れたバッグは持っていたことになります。
誤認逮捕が事実ならば、カラヴァッジョは逆に迷惑料、若しくは慰謝料を貰う立場であってもおかしくありません。迷惑料を貰う立場であるカラヴァッジョが大金を払って釈放してもらった訳です。
それに(その33)で既に書いたように、「大金の支払い」が第三者に知られたのは何故でしょうか。熱病に罹ってサンタクローチェ同信会病院に入院したカラヴァッジョが「パロ城で誤認逮捕されたので、逮捕した責任者に大金を支払うことによって漸く釈放された」と第三者に言うでしょうか?大金の支払いは贈賄に当たります。守備隊長は大金を収賄したので、容疑者を釈放したとわざわざ第三者に口外するでしょうか。大金の支払いが事実だったとしても、その支払いはカラヴァッジョと守備隊長間での言わば秘匿すべき行為でした。カラヴァッジョは直ぐに死亡しました。守備隊長が汚職となる被疑者からの大金の受領を口外して、汚職の結果被る罪を覚悟しない限り、今日まで伝わる筈がありません。


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地図Aの場所は、ラディスポリのStrada Comunale di Palo,13、つまりパロ城を示します。地図の左上に半島がありますが、アルジェンターリオ岬を示します。ポルト・エルコレは、アルジェンターリオ岬の東端にあります。


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パロ・ラツィアーレ城からポルト・エルコレまで、約80マイル、130kmあります。カラヴァッジョの終焉の地がポルト・エルコレであるとすれば、それを徒歩で向かったのです。


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しかし、パロ・ラツィアーレから、あまり離れていない場所にローマの外港として有名なチヴィタヴェッキアがあります。
カラヴァッジョが乗船したフェルッカ船が他の乗客を乗せた乗合船(その可能性がありますが)だったとすれば、ナポリとポルト・エルコレ間で最大の港であるチヴィタヴェッキアに必ず停泊し、ほとんどの乗客が下船した可能性があります。乗合船の船底に残されたカラヴァッジョの作品数点も遺失物として、チヴィタヴェッキアで発見された可能性が高いでしょう。


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写真はチヴィタヴェッキア港です。今も昔もローマの外港として繁栄してます。

カラヴァッジョが診察を受けたことがある医者で、芸術家とも親密で当時の画家などについてメモを残したジュリオ・マンチーニ(シエナ、1559-ローマ、1630)が「カラヴァッジョはチヴィタヴェッキアで死んだ」というメモを残しました。しかし、その記述は、他の人によってポルト・エルコレに修正されました。


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この写真もチヴィタヴェッキア港です。

パロ・ラツィアーレで斬首されたカラヴァッジョの遺体は、チヴィタヴェッキア港まで運ばれて投棄されたという説があります。
さて、パロ・ラツィアーレから徒歩でポルト・エルコレに向かったカラヴァッジョには、パロ・ラツィアーレからチヴィタヴェッキアまで、Vaccina川、Zambra川、Rio川の3つの川があり、チヴィタヴェッキアからポルト・エルコレまで、Mignone川、Marta川、Fiora川の三河川、全部で6つの川を渡らねばなりませんでしたが、このうち、3つの川には橋がなく、渡し船があるだけでした。
海岸沿いは、無数の蚊が飛ぶ湿地であり、葦が生い茂り、その中を毒蛇が這う悪地でした。靴を履いていても水が滲みて歩くのが困難だった筈です。その中を夏至を過ぎたばかりの灼熱の太陽の下をカラヴァッジョは歩いたわけです。飲料水はどのように手当てしたのでしょうか?途中の食料はどうしたのでしょうか。
このような条件下で、パロ・ラツィアーレからポルト・エルコレに徒歩で向かったとすればその途中の海岸で行き倒れた可能性もありそうです。

私は、6月初旬の好天の日にパロ・ラツィアーレからチヴィタヴェッキア方向に一時間ほど歩いたことがあるのですが、今は海沿いにStradaが走り、歩くのが危険なくらいに車が次々と高スピードで走り抜けて行きましたが、灼熱の太陽が私の身体を焼き、汗が吹き出し、歩くのが嫌になって止めました。あのまま少しでも歩き続けたら、救急車のお世話になっていたかも知れません。


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写真はポルト・エルコレです。

ポルト・エルコレはコムーネではありません。Monte Argentario(コムーネ)の一部がポルト・エルコレです。
モンテ・アルジェンターリオは、人口11,885人(2022年6月30日現在)のトスカーナ州グロッセート県にあるコムーネです。
中世の時代、ポルト・エルコレはオルシーニ家の領地でしたが、16世紀半ばからスペイン領になりました。ナポリ王国はスペインの植民地でしたから、同じスペイン領のナポリとポルト・エルコレを結ぶ乗合船便があったとしてもおかしくありません。


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1610年7月16日頃、漸くポルト・エルコレに到着したカラヴァッジョは重篤な熱病に罹っていました。カラヴァッジョは、サンテラズモ教会(Chiesa di Sant’Erasmo)の裏手にあったサンタ・クローチェ同信会病院(現存しません)に入院し、介護を受けました。
カラヴァッジョは、ナポリからパロ・ラツィアーレまで乗船したフェルッカ船を見つけることが出来ませんでした。


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ポルト・エルコレのサンテラズモ教会です。この教会の裏手に、カラヴァッジョが入院して、治療の甲斐もなく死去した病院がありました。


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件のフェルッカ船は、復路のナポリを目指して出港した後でした。


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1610年7月18日、カラヴァッジョはポルト・エルコレで没しました。
没してから、カラヴァッジョの恩赦の知らせが届きました。
カラヴァッジョは、サンタクローチェ同信会病院に入院した際、「マルタ騎士団の騎士」と名乗ったそうです。マルタ騎士団の復讐を恐れる身だったので、そんなことを言ったのか、大いに疑問です。カラヴァッジョはマルタ騎士団によって殺されることを恐れながら生きていたからです。
カラヴァッジョが死んでしまったので、サンタクローチェ同信会はマルタ騎士団に連絡しましたが、何の連絡がなく、遺体の引き取り手がなかったそうです。カラヴァッジョの遺体はポルト・エルコレの中心部にあるサン・セバスティアーノ墓地に埋葬されました。
1956年に行われた墓地の発掘調査においてカラヴァッジョらしき遺骨が発見されました。遺骨のDNA鑑定が行われ、カラヴァッジョの遺骨とされました。しかし、そのDNA鑑定に対しては、多くの疑義が出されてます。


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ポルト・エルコレは「最も美しい村」にリストアップされてます。


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2015年に作られたカラヴァッジョの推定骨5つが納められた野外石棺です。
以上がカラヴァッジョがポルト・エルコレで没したとされるストーリーです。


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しかし、カラヴァッジョがポルト・エルコレで没したという話には、多くの疑問や矛盾が存在します。
例えば、カラヴァッジョを追い求めていたに違いないマルタ騎士団は、サンタ・クローチェ同信会からカラヴァッジョがポルト・エルコレの病院に入院中と知ったならば、狂喜して刺客を送った筈です。
また、身元不明ということで、騎士団以外にも問い合わせを行ったそうですが、入院した病院ではカラヴァッジョが自分の名前を名乗った筈であり、カラヴァッジョが高名な画家であることは簡単に判明したことでしょう。高名な画家が死んだとあれば、多くの著名人やポルト・エルコレの有力者が見守る中で厳粛な葬儀が行われ、カラヴァッジョの墓を地元が忘れたことはなかった筈です。それが論理的であり、合理的な説明です。

私は、カラヴァッジョがパロ・ラツィアーレの城で処刑されたと思います。故ヴィンチェンツォ・パチェッリ名誉教授のご意見に全面的に支持します。

カラヴァッジョは、マルタ島のヴァレッタで、騎士団員にあってはならない女性と若い男性との性的な原因で、ヴェッツァ伯爵らに殴り込みをかけました。カラヴァッジョは逮捕され、独力では脱獄不可能なサンタンジェロ要塞の地下牢に幽閉されました。しかし、騎士団長の暗黙の了解と、艦隊司令官でコスタンツァ・コロンナ侯爵夫人の息子ファブリツィオ・スフォルツァの助けによって脱獄に成功しました。そしてファブリツィオが手配した船に乗ってヴァレッタからシチリアに逃亡しました。
未決囚で脱獄、そして逃亡したことから、カラヴァッジョが有罪を自認していたとされ、騎士団から除名されました。カラヴァッジョの襲撃によって重傷を負ったヴェッツァ伯爵側は、騎士の名誉にかけて復讐する必要がありましたが、騎士団の規律、秩序に責任を持つ騎士団長アロフ・ド・ウィニャクールにとっても、一旦はカラヴァッジョの脱獄に暗黙の了解を与えたものの、公式的にはカラヴァッジョを糾弾すべき立場にあることから、ヴェッツァ伯爵側の動きに支持するようになったと思います。これに伴いファブリツィオ・スフォルツアの騎士団における立場が次第に悪くなったと思われます。
それを知ったカラヴァッジョ侯爵夫人は、息子ファブリツィオの立場を慮り、カラヴァッジョのパロ・ラツィアーレでの逮捕と処刑の全体のストーリーを構築したのだと思います。
それに、例え赦免されてローマに行ったとしても、カラヴァッジョの性格を考えれば、刃傷、殺人、暴行などの悪行を再び犯す可能性が高いので、カラヴァッジョを見限った可能性もあります。要すれば、再犯確実で「馬鹿は死なきゃ治らない」と判断したのでしょう。

故ヴィンチェンツォ・パチェッリ名誉教授によれば、カラヴァッジョ終焉の地としてポルト・エルコレが選ばれたのは、ローマとパロ・ラツィアーレから可能な限り遠隔の地であり、マルタ騎士団、コロンナ家と無縁の土地であったこと、それに教皇庁の力が及ばないスペイン領であったからだそうです。
(つづく)

足跡を辿って 20.終焉の地、パロ・ラツィアーレ
100
カラヴァッジョは、愈々死出の旅路に出ます。
マルタ騎士団のヴェッツァ伯爵ジョヴァンニ・ロドモンテ・ロエロの復讐を恐れて、カラヴァッジョ侯爵夫人が住むカラファ家のPalazzo Cellammareに留まっていたカラヴァッジョでしたが、教皇庁から恩赦が出そうであるとの情報を得て、ローマに向かうことにしました。
恩赦ばかりを念頭に置いていたカラヴァッジョは、重大なことを敢えて忘れていたようです。
ナポリの酒場前で襲撃を受け瀕死の重傷を負いましたが、その襲撃者がヴェッツァ伯爵が放った刺客だとすれば、重傷を負ったものの一命を取り留めたことを知った刺客側としては、果たして重傷を負わせただけで満足したのかという問題が残ります。カラヴァッジョをこの世から消し去ることによって、復讐が完結すると考えていた可能性があります。相変わらず、カラヴァッジョにとって、マルタ騎士団の刺客は脅威であり、最大限の警戒を払うべきでした。
その上、発見次第、誰でも殺しても良いという布告「バンド・カピターレ」はカラヴァッジョに出されてままで、当然のことながら恩赦の話は教皇領内及び教皇領の官憲には知らされていなかったと思います。この点でもカラヴァッジョが教皇領に足を踏み入れることは危険極まりなかったのです。

101
Palazzo Cellammareです。

ローマへと旅立つ前に、カラヴァッジョは、注文を受けていた作品の完成と、ボルゲーゼ枢機卿などに対して、恩赦に尽力してしてくれた御礼として贈る作品の制作に精を出していました。


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サンタンナ・デイ・ロンバルディ教会です。


103
カラヴァッジョは、サンタンナ・デイ・ロンバルディ教会のために「キリストの復活」、「聖ジョヴァンニ・バッティスタ」、「聖フランチェスコ」の3点の作品を描きました。残念ながら、1805年の地震によって3点共に破壊されてしまい、現存していません。
サンタンナ・デイ・ロンバルディ教会の3点の作品ですが、一回目のナポリ滞在時に描かれた説が有力となってますが、二回目のナポリ滞在中のローマへの出発直前に制作されたという説もあるので、ここで再度触れておきました。


104
ナポリにあるドメニコ会のサンタ・マリア・デッラ・サニタ教会です。


105
サンタ・マリア・デッラ・サニタ教会礼拝堂にある「キリストの割礼」です。

この礼拝堂にカラヴァッジョの「キリストの割礼」がありましたが、現存していません。また、カラヴァッジョは未完成のまま放置してローマに向けて出発したという説も有力です。


117
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-パロ・ラツィアーレ、1610)の「法悦の聖マリア・マッダレーナ」

自作の作品数点を携えてローマに向けて出発したカラヴァッジョですが、その数点の一つがこの作品でした。この作品のオリジナルは、カラヴァッジョがラヌッチョ・トマッソーニを殺害して、ラツィオ山中のコロンナ領地で制作されました。ローマに向けて携えられた作品は、カラヴァッジョ自身によるオリジナルの複製画説が有力です。
なお、カラヴァッジョが没した地ですが、巷間通説のポルト・エルコレではなく、パロ・ラツィアーレとしたのは、ナポリのフェデリーコ2世大学のヴィンチェンツォ・パチェッリ名誉教授が提唱した後者の方が説得力を持つと私が判断したからです。


118
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571‐パロ・ラツィアーレ、1610)の「聖ジョヴァンニ・バッティスタ」

ボルゲーゼ美術館にある、この作品は、シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿の手に渡った経緯が明確なので、カラヴァッジョがローマに向けて乗船した時に携えていたことは確実です。


116
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571‐パロ・ラツィアーレ、1610)の作品である可能性がある「横たわる聖ジョヴァンニ・バッティスタ」

カゼルタ司教デオダート・ジェンティーレがシピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿に宛てた1610年7月29日付の手紙の中で、カラヴァッジョが乗船したフェルッカ船にあったカラヴァッジョの絵画3点があって、それらは「法悦のマグダラのマリア」と2つの「聖ジョヴァンニ・バッティスタ」であるが、2点の「聖ジョヴァンニ・バッティスタ」の一つは横たわる聖ジョヴァンニ・バッティスタと書きました。
ミュンヘンの個人蔵の「横たわる聖ジョヴァンニ・バッティスタ」がそれであるか(上の作品写真)、については、定説にはなっていないようです。


63
1610年7月10日(恐らく)、キアイアのカラファ・コロンナ宮殿(現在のPalazzo Cellammare)を出たカラヴァッジョは、ナポリ港から船でローマに向かいました。
カラヴァッジョ侯爵夫人コスタンツァ・コロンナは、シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿への3枚の作品があれば、ローマに行っても無事で過ごせるだろうとカラヴァッジョに信じ込ませました。


107
フェルッカ船です。

フェルッカ船に乗船したカラヴァッジョは、フェルディナンド・ゴンザーガ枢機卿の署名入りの文書を携えていました。その文書は、教皇パオロ5世の恩赦を示唆する内容が書かれていました。また、船倉に数枚の絵画が積み込まれていました。


108
地図Aは、パロ・ラツィアーレのオデスカルキ城の場所を示します。


109
パロ・ラツィアーレは、現在のラディスポリ市にあります。

ローマに行くのであれば、オスティアで下船するのが普通ですが、カラヴァッジョが乗船したフェルッカ船はオスティアを通り越して、パロ・ラツィアーレに到着しました。
強風のため、オスティア港に着船出来ず、已む無くパロ・ラツィアーレ港になったという説があります。


126
ラディスポリの海岸線です。

海が荒い場合、外洋に面したパロ・ラツィアーレの方がオスティアよりも着港が有利である筈がありません。


113
逸名画家作「海が荒いパロ・ラツィアーレのフェルッカ船とパロ城」


123
パロ・ラツィアーレの小さな港の横に要塞があります。


106
ローマに向かうのであれば、少し遠回りになりますが、パロ・ラツィアーレの港で下船するのも一法です。しかし、パロ・ラツィアーレの少し先に、古代からローマの外港として栄えているチヴィタヴェッキアがあり、チヴィタヴェッキアはローマに向かう交通の要衝だったので、ローマへの乗合馬車など交通手段がありました。オスティアを通り越したならば、チヴィタヴェッキアで下船するのが最適だった筈です。


110
1610年7月11日、または10日、パロ・ラツィアーレで下船したカラヴァッジョは、逮捕手配されていた山賊と間違えられて、要塞の守備隊長によって逮捕されてしまいました。船内で捜索を受け、誤認逮捕された可能性もあります。
顔、頭に傷跡が生々しく残り、剣と短剣を帯び、狂暴な顔をしたカラヴァッジョが山賊と間違えられるのは当然と言えるでしょう。
カラヴァッジョがポルト・エルコレで病死したという説によれば、この誤認逮捕がカラヴァッジョの死の切っ掛けとなりました。
でも果たして、そうなのか、と疑問を禁じ得ないところがあります。
例えば、カラヴァッジョは守備隊長に大金を払うことによって、漸く釈放されたとされていますが、「大金を払った」ことが何故一般的に知られているのでしょうか。大金のやり取りは当事者2人だけの間で行われたと考えるのが自然です。
船倉に積まれたままの作品を求めて、フェルッカ船の最終目的地ポルト・エルコレに向かったカラヴァッジョは、先を急いで焦っていたと思われ、第三者に「釈放金として大金を払った」と言う余裕がなかったと考えるのが普通でしょう。
一方、守備隊長ですが、職務をかさに着て大金を得た訳で、上官に知られると罰せられるか、または分け前を要求される可能性があるので、守備隊長が誤認逮捕の釈放に関して釈放者から大金を払って貰ったと第三者に言うわけがありません。
それに、1606年5月29日にラヌッチョ・トマッソーニを殺害して、バンド・カピターレ(発見されれば、誰でも殺害しても構わない)と布告が出されていたカラヴァッジョですが、パロ・ラツィアーレの要塞にもその布告が来ていたとすれば、逮捕後の取り調べで、殺害から四年を経たとしてもバンド・カピターレの対象であるカラヴァッジョ当人と判明しての逮捕だったかも知れません。逮捕者がカラヴァッジョであり、バンド・カピターレの布告が出されている当人と分かれば、要塞の守備隊がカラヴァッジョを処刑したとしても不自然ではありません。
ともあれ、ナポリのキアイアを出港したフェルッカ船の目的地が、最初からパロ・ラツィアーレであったとしたら。


119
写真は、ナポリのオリエンターレ大学とフェデリーコ2世大学の教授で、定年後はフェデリーコ2世大学名誉教授を務めたヴィンチェンツォ・パチェッリ(サン・サルヴァトーレ・テレシーノ、1939-ナポリ、2014)先生です。


120
ヴィンチェンツォ・パチェッリ名誉教授は、特にカラヴァッジョ研究で知られた美術史家でした。

パチェッリ名誉教授は、国立公文書館の専門家フランチェスカ・クルティとオリエッタ・ヴェルディ、それに歴史家、修復家、医師、放射線科医師、診断医など18名の研究者からなる研究チームと行ったカラヴァッジョの死に関する研究結果を2012年に発表しました。
ナポリ王国の使徒公使で、カゼルタ司教を兼ねたデオダート・ジェンティーレと当時、教皇庁国務長官を務めていたシピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿の間で交わされた未公開の書簡が研究チームによって何通も発見されましたが、それらの往復書簡は、従来の公式歴史書に記載されている「カラヴァッジョはポルト・エルコレで病死した」ということを覆すに足る内容になっていたのです。
また、パチェッリ名誉教授がジャンルカ・フォルジョーネと共同編集した「芸術と科学の間のカラヴァッジョ」という本の中でも、カラヴァッジョはパロ・ラツィアーレ城で処刑されたと書かれてます。


125
パロ・ラツィアーレ港で逮捕されたカラヴァッジョは、パロ城(現在はオデスカルキ城と呼ばれてます)に連行されました。


114
カラヴァッジョは、パロ城内に設けられた刑務所の独房に収監されました。


111
マルタ騎士団一行の到着を待って、1610年7月18日頃、カラヴァッジョは、城の中庭に設けられた処刑場に引き出され、マルタ騎士団によって斬首されました。マルタ騎士団ではなく。この城の守備隊長がバンド・カピターレに基づいてカラヴァッジョを処刑した可能性もあると思います。


123
マルタ島におけるカラヴァッジョとヴェッツァ伯爵ジョヴァンニ・ロドモンテ・ロエロ・ディ・アスティの乱闘に話を戻します。
マルタにおける生活はローマやナポリと明らかに違いました。騎士団には純潔の誓いが課せられていましたが、売春宿や売春婦はマルタには存在しませんでした。その代わりに、騎士たちの性欲処理用として、彼らの自由になる女性と少年を抱えていました。
カラヴァッジョ、ヴェッツァ伯爵を含む7人による乱闘の原因は、性欲処理の女性や少年を巡る争いだった可能性が大いにあり得ます。騎士にとって、純潔の誓いに反する不名誉とされる女性や少年にかかわる問題だったからこそ、乱闘の原因が故意に伏せられました。
騎士団における規律は非常に厳しく、求められる精神は非常に高く、騎士間の犯罪は忘れ去られることはなかった。騎士間の犯罪、特に破廉恥罪に等しい問題は、相手方を殲滅することによってのみ免責されるのです。
カラヴァッジョは、裁判を受ける前にマルタ島から逃亡しました。逃亡は、自己の有罪を認めたに等しいとされ、騎士団から不名誉な追放処分が科されました。

カラヴァッジョ侯爵夫人コスタンツァ・コロンナの次男ファブリツィオ・スフォルツァは、マルタ騎士団に入団しましたが、1602年に決闘で勝利したものの、殺人罪に問われ、マルタ島で懲役生活を余儀なくされました。刑期短縮を求める母コスタンツァの尽力が功を奏したのか、1606年に釈放されて、艦隊司令官に任命されました。

カラヴァッジョは、騎士として不名誉な事由によって逮捕され、サンタンジェロ要塞に投獄されましたが、投獄された地下牢は独力では絶対に脱獄が不可能でした。しかし、カラヴァッジョは、当時、世界で最も有名で最も人気がある画家だったので、カラヴァッジョの作品を求めるパトロンがローマの中枢にいる限り、長期の投獄または処刑は難しいと考えられていました。
そして、騎士団長アロフ・ド・ウィニャクールの暗黙の了解を得て、恐らくファブリツィオ・スフォルツァが地下牢にロープを投げ入れて、カラヴァッジョを脱獄させました。ファブリツィオ・スフォルツァが手配した船に乗船して、カラヴァッジョはシチリア島に到着しました。


124
再びナポリに到着したカラヴァッジョは、コスタンツァ・コロンナ侯爵夫人が滞在していたPalazzo Cellammareに寄宿して、制作に精を出しました。
居酒屋と宿屋を兼ねるチェッリーリオで重傷を負ったカラヴァッジョは奇跡的に一命を取り留めました。そのことを知ったマルタ騎士団は、コロンナ夫人の客人としてPalazzo Cellammareに留まっている限り、カラヴァッジョに手出しできないと理解していました。
しかし、カラヴァッジョを庇護し続けるコスタンツァ・コロンナ侯爵夫人に対する、マルタ騎士団からの圧力は日増しに高くなってきました。
騎士団長アロフ・ド・ウィニャクールは、カラヴァッジョの脱獄、それに手を貸したファブリツィオ・スフォルツァに暗黙の了解を与えたと思いますが、秩序維持が職務の騎士団長としては、脱獄に対しては糾弾するのが立場でした。騎士団におけるファブリツィオの立場は徐々に悪くなったことでしょう。母であるコスタンツァにしても騎士団における息子ファブリツィオの立場を考えると、何時までもカラヴァッジョを屋敷に逗留させるわけにいかないと判断するのが自然です。

何故カラヴァッジョは逮捕されたのでしょうか。カラヴァッジョがパロ・ラツィアーレ到着が意図されており、予期されていたからこそ逮捕されたと考えるのが自然です。
同じ宮殿で身近に接してみて、カラヴァッジョがコロンナ家とその縁戚に対して悪い影響を与えるような行為をやがてするだろうという危険性を感じ取ったコスタンツァ・コロンナ侯爵夫人が、圧力に屈してカラヴァッジョの死を企図したと考えると、すべてのことがジグソーパズルのようにピッタリと収まります。
カラヴァッジョがやがて仕出かす悪行は、これまでの行動から鑑みれば容易に予測されたわけです。ローマに戻れば、売春宿に出入りし、それを縄張りとするトマッソーニ一家と事を起こしそうです。

カラヴァッジョがフェルッカ船の船倉に持ち込んだ絵画数点についても不可思議なことが起きました。カラヴァッジョはパロ・ラツィアーレで逮捕され、船倉に置かれた絵画はフェルッカ船の目的地であるポルト・エルコレで船から降ろされることなく、ナポリに戻るフェルッカ船に乗せられて、ナポリに戻り、Palazzo Cellammareに滞在するコスタンツァ・コロンナ侯爵夫人の許に戻されました。そして、カラヴァッジョの作品は、1610年7月31日までに、ルヴォ伯爵ファブリツィオ・カラファの息子のカプア修道院長のヴィンチェンツォ・カラファの手に渡りました。
そもそも、そうではなく、カラヴァッジョにとって非常に大事であった絵画数点は、パロ・ラツィアーレで下船する時にカラヴァッジョが持っていた、逮捕された時にもカラヴァッジョは絵画数点を持っていたという可能性もありそうです。
カラヴァッジョが処刑された後、カラヴァッジョの作品数点は再びフェルッカ船に乗せられてカラヴァッジョ侯爵夫人のもとに戻されたと考えるのが自然です。
非常に手際よく、物事が進められたことが分かります。このことから、カラヴァッジョのパロ・ラツィアーレでの逮捕と斬首が予期されていて、予め周到に準備されていたという疑いが惹起されるのです。


121
オッタヴィオ・レオーニ(ローマ、1578-1630)の「教皇パオロ5世とシピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿の肖像」
教皇パオロ5世の甥がシピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿ですが、この二人もカラヴァッジョの処刑に対する暗黙の了解を与えたことでしょう。


127
最後にパロ・ラツィアーレ城について触れておきましょう。
1132年、現在のラディスポリ一帯を占領したジェノヴァ共和国軍が築いた要塞が前身です。その後、サン・サバ修道院に所有された要塞は修道院に改造されましたが、海岸沿いの建物は荒波で荒廃し、修道士が立ち去りました。1330年、荒廃した建物はオルシーニ家に預けられ、オルシーニ家が荒廃した建物を取り壊して、現在の城を築きました。
オルシーニ家が所有していた城は、ローマに近いことから教皇の居城として使用されることが多く、教皇アレッサンドロ6世(214代教皇、在位:1492-1503)、教皇パオロ3世(220代教皇、在位:1534-1549)、教皇シスト5世(227代教皇、在位:1585-1590)が居城としていました。カラヴァッジョが逮捕された1610年当時、パロ城は第二代ブラッチャーノ公爵ヴィルジニオ・オルシーニ(イサベッラ・デ・メディチの息子、イサベッラはトスカーナ大公コジモ1世の娘)が所有していました。
その後、城はオデスカルキ家に売却されました。そのため、オデスカルキ城とも呼ばれてます。
このような由緒あるパロ城で、守備隊長が独断でカラヴァッジョを斬首したとは考えられず、処刑は教皇庁の暗黙の了解があったと解釈されるのです。
それに、バンド・カピターレが布告されているカラヴァッジョ当人と判明して、要塞の守備隊によって処刑された可能性も捨てきれないと思います。
(つづく)

足跡を辿って 19.ナポリ再び
99
1609年晩夏から秋にかけて、カラヴァッジョはメッシーナを発ってナポリに向かいました。パレルモに行ったかどうか分からないので、シチリアを離れた具体的な時期が分かりません。


101
「羊飼いの礼拝」で1000scudiの画料を受け取るなど、金回りが良かったカラヴァッジョは、恐らくチャーター船でナポリに向かったものと思われます。

メッシーナでは高名な画家がいて、幾つかの注文を受けて制作したということは、人々によく知られていたことであり、復讐に燃えるベッツァ伯が送った刺客の耳にも容易に届いていたと考えるのが自然です。メッシーナは最早安全ではないと判断したカラヴァッジョにしても、シチリアからの離島は当然の行動と言えるでしょう。
復讐を恐れるには、カラヴァッジョの方でも復讐されるに足る行動を取ったという自覚があったからでしょう。
1608年8月18日の夜にヴァレッタで起きた乱闘ですが、詳細は不明なものの、一部で提唱されている説が真実ではないかとも思えます。そうだとすれば、カラヴァッジョの復讐を恐れる身が理解出来るでしょう。
ここで、その一部で提唱されている説について、触れておきましょう。
カラヴァッジョとフラ・ジョヴァンニ・ピエトロ・デ・ポンテの二人は、銃を手にするなど武装して、サン・ジョヴァンニ修道院教会のオルガニスト、フラ・プロスぺーロ・コピーニの家に押しかけた。その夜、コピーニの家にヴェッツァ伯爵フラ・ジョヴァンニ・ロドモンテ・ロエロ・ディ・アスティがいた。コピーニとヴェッツァ伯の他に3人の騎士・騎士見習がいたが、直ちに応戦したものの、不意を突かれたので、多数側が苦戦した。コピーニは乱闘に積極的に参加しなかったが、6人で乱闘になった。
武器が使用され、発砲され、ヴェッツァ伯爵が重傷を負った。
この説の通りならば、カラヴァッジョはポンテと共にコピーニの家に殴り込んで、ヴェッツァ伯爵を負傷させた訳で、不意打ちの復讐されるに足る行動をしたわけです。しかし、依然としてヴェッツァ伯爵側と乱闘になったかについての理由は分かってません。


102
ナポリに到着したカラヴァッジョは、キアイア地区にあるPalazzo Cellamareに向かったものと思われます。


8
「カラヴァッジョ侯爵夫人コスタンツァ・コロンナの肖像」

カラヴァッジョが再びナポリに到着したとき、Palazzo Cellammareにコスタンツァ・コロンナ夫人が滞在していました。


103
Palazzo Cellammareです。


107
Palazzo Cellammareは、ナポリの丘上のキアイア地区のVia Chiaia 139にあります。地図Aの場所がPalazzo Cellammareです。


104
当時、Palazzo Cellammareはカラファ家が所有していました。コスタンツァ・コロンナの妹ジョヴァンナ・コロンナは1566年にロッカ・モンドラゴーネ公爵アントニオ・カラファと結婚して、Palazzo Cellammareに居住していました。未亡人となったコスタンツァは、妹ジョヴァンナと楽しい時を過ごすために1607年6月14日からPalazzo Cellammareに住むようになりました。


108
Palazzo Cellammareから見たナポリの景観

カラヴァッジョは、Palazzo Cellammareで制作に励んでいたようです。この宮殿に居れば、身の安全は保障されるとして、コスタンツァからの事前根回しがあって、メッシーナからナポリに移ってきたのでしょう。
カラヴァッジョが再びナポリに来たことは直ぐに広まり、注文やオファーが来ましたが、そのことは騎士団の刺客の耳にも届いていた筈です。外出を控えていれば、カラファ家宮殿にまで殴り込みをかけることはあり得ないので、事件は起きなかったと思われますが、カラヴァッジョのことですから、夜間に外出して飲み歩いていたようです。油断していたのでしょう。


1002
タヴェルナ・デル・チェッリーリオです。

ナポリで非常に有名な居酒屋であり、旅館を兼ねていました。旅館では売春も行われていました。


105
ナポリの中心街の危険性がある路地にありました。


106
Via del Gerriglio 3にTaverna di Cerriglioがあります。


1003
1609年10月24日夜、カラヴァッジョはTaverna di Cerriglioの入り口で待ち伏せをしていた四人の武装した男に襲われました。
顔面を酷く傷つけられ、カラヴァッジョは血を流して倒れました。
ナポリからローマに伝えられた情報の中には、カラヴァッジョは市内で殺害されたというものもありました。
この居酒屋は危険性が高いという場所にありながらも、料理とワインのの良さで知られており、繁盛していました。居酒屋前の襲撃ですから、客や店側に直ぐに気付かれたことと思われます。そのために、襲撃が致命的になるまで徹底的にやることから免れたカラヴァッジョは、「顔に重傷を負い、誰なのか認識できないほどだった」という状態だったものの、一命を取り留めることが出来ました。


1000
この宿兼居酒屋は現存しています。

カラヴァッジョを襲撃した四名については不明ですが、マルタ騎士団の刺客だった可能性が高いと思います。
ラヌッチョ・トマッソーニ関連の復讐とするには、ラヌッチョは所詮ポン引きであり、事件から3年を経ているので、それは先ずないのではないかと思います。ポン引きのために恨みを晴らすのは、いくら何でも遣り過ぎです。
カラヴァッジョが死んだという情報が流れたので、刺客たちはその成果に満足して、一旦は矛を収めたのでしょう。


66
カラヴァッジョは瀕死の重傷を負ってPalazzo Cellammareに運ばれ、療養生活を余儀なくされました。少し回復すると以前よりも一層制作に励んだようです。
カラファ家、コロンナ家などからカラヴァッジョに対する恩赦の話が齎されていたと思われ、カラヴァッジョにとって励みになったことでしょう。
しかし、その考えは重大なことを忘れていました。復讐に燃える騎士団の刺客は、カラヴァッジョが生きていると知って、カラヴァッジョを再び刃の標的に定めたことを。


109
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「サロメ」(1609c)

マドリッドの王宮にある、この作品は、ジョヴァンニ・ベッローリが1672年に著したカラヴァッジョの伝記の中で、マルタ騎士団から追放されたカラヴァッジョが騎士団長アロフ・ド・ウィニャクールの好意を取り戻すために、謝罪の意味を込めて騎士団長に送ったと書きました。


110
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「サロメ」

この「サロメ」はロンドンのナショナル・ギャラリーにありますが、最初のナポリ滞在の時に描かれたという有力説があります。


111
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「聖ピエトロの否認」(1609-10)

居酒屋前に襲撃された以降に制作されたと考えられており、暗い背景が益々強烈になってます。襲撃によって視力に損傷を負ったという事実から、暗い背景、集中力がやや欠けた表現となったと考えられてます。
パオロ・サヴェッリ枢機卿(1622-1685)が所有していましたが、スイスの貴族に売却されてから何度も所有者が変わりました。個人コレクターが1997年にメトロポリタン美術館に寄贈しました。


112
この作品をイタリアに戻すべきとの議論が今でもあるようです。


113


114
カラヴァッジョには行方不明の「聖ピエトロの否認」の別バージョンの作品があるようです。


115
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「聖アンドレアの磔刑」(1606‐07 o 1609c)


116
クリーヴランド美術館にあります。


117
1603年から1610年までナポリ副王を務めたファン・アロンソ・ピメンテル・デ・エレーラ伯爵によって注文された作品です。


118
甲状腺腫を患った老婆がモデルになってます。


119
最初のナポリ滞在中に、ナポリの教会から注文されて制作され、副王が入手したという説と、1610年6月に副王はスペインに帰任しますが、その帰任前にカラヴァッジョに注文して制作されたという説があります。


120
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「ゴリアテの首を持つダヴィデ」(1609-10)


121
ボルゲーゼ美術館にあります。


122
教皇パオロ5世の甥であるシピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿に恩赦への尽力を依頼するために描かれたという説が有力です。


123
ダヴィデのモデルは、カラヴァッジョの愛人で、シチリアの逃避行にも同行したかも知れないチェッコ・デル・カラヴァッジョ説がある一方、ダヴィデもカラヴァッジョの若いころの自画像説もあります。


124
ゴリアテはカラヴァッジョの自画像です。


125
ナポリのGalleria d’Italiaです。


126
カラヴァッジョの最後の作品とされる「聖オルソラの殉教」があります。


127
この展示室にはカラヴァッジョの作品1点だけが展示されてます。


129
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「「聖オルソラの殉教」(1610)


130
ジェノヴァの銀行家マルカントニオ・ドーリア(ジェノヴァ、1570c-1651c)によってナポリで注文されました。 
この作品は、非常に素早く完成されました。
マルカントニオ・ドーリアのナポリにおける代理人で弁護士でもあったランフランコ・マッサが1610年5月11日にマルカントニオ・ドーリアの送った手紙が残されており、その中で「絵がニスの乾くのを待っているが、早く乾かすために太陽に当てたら、未だ濡れた絵具が痛んでしまったので、画家と相談して改善する」と書かれてます。


137
ユストゥス・スステルマンス(アルト・ウェルペン、1597-フィレンツェ、1681)の「マルカントニオ・ドーリア(ジェノヴァ、1570c-1651c)の肖像」(1649c)

注文主マルカントニオ・ドーリアの肖像です。


131
修復前の作品写真です。アッティラ王と聖オルソラの間に「手」がありません。
2003年から2004年にかけて行われた修復の際、「手」の存在が確認されました。手はアッティア王の聖オルソラの処刑を反対するかのようです。


133
この作品は1610年5月27日にジェノヴァに向けて送付され、1610年6月18日に注文主のもとに届きました。


134
記録が残る、カラヴァッジョ最後の作品です。


135
カラヴァッジョの自画像が挿入されてます。


136
サッソフェッラート(ローマ、1609-1685)の「フェルディナンド・ゴンザーガ枢機卿の肖像」

カラヴァッジョがPalazzo Cellammareで療養しながら精力的に制作していたころ、ローマではカラヴァッジョの恩赦に向けた動きが具体化しつつありました。恩赦実現に尽力した中心人物は、「聖母の死」を購入したフェルディナンド・ゴンザーガ枢機卿でした。勿論、引き続きコロンナ家もカラヴァッジョの恩赦実現工作を進めていました。
当然、カラヴァッジョはそのことを承知していたことでしょう。コロンナ家、カラファ家からも恩赦に関する教皇庁の動向や情勢を聞いていた筈です。
恩赦が実現しそうだという情報を知ったカラヴァッジョは、パトロンや教皇庁の有力者などに作品を贈るなどして、自らも恩赦の嘆願をしていました。

恩赦が実現してローマに戻ったカラヴァッジョは、多くのパトロンを喜ばす作品を制作する一方で、武器を携帯してローマの盛り場、売春宿を渡り歩き、再び問題行動を起こすであろうことは容易に予想されるところでした。カラヴァッジョの性格から考えると、喉元過ぎれば熱さを忘れるのが地ですから。
(つづく)

足跡を辿って 18.シチリアⅡ
100
前述したようにメッシーナで1608年12月6日に交わされた契約書があるので、その日は、カラヴァッジョはメッシーナに居たことになります。つまり、シラクーザを旅立ったのは、1608年11月下旬、遅くとも12月初頭になるでしょう。


101
「聖ルチアの埋葬」は1608年12月13日までに引き渡す契約でしたが、カラヴァッジョは期限よりもかなり早く仕上げたと思われます。
旅は船に乗ったのか、または、陸路でメッシーナに向かったのか分かりません。復讐の刺客を恐れる旅だったので、この辺の記録は全く残されておらず不明です。


103
陸路だったとすれば、メッシーナからシラクーザに通じるポンペイア街道を北上してメッシーナに向かったことでしょう。


104
レンティー二の全景です。

シラクーザの北西52kmにレンティー二があります。


105
寝ている時でも剣を離さなかったようです。


P1530398
カターニアは、シチリアでパレルモに次いで人口が多い街です。身を隠すには、カターニアは悪くないと思われます。


107
陸路を採ったならば、カターニアを通ったことは確実でしょう。


P1530552
カラヴァッジョが見たかもしれないカターニアと現在のカターニアの姿とは、かなり違っていたと思われます。1669年のエトナ山の大噴火と1693年の大地震によって大きな被害を受けて、建物や道路などが再建されたからです。


P1530543
尤も気が急いていたカラヴァッジョには、カターニアの街並みは目に入らなかった可能性があります。


110
陸路ならば、タオルミーナを通ったことは確実です。


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船を雇って、シラクーザからメッシーナに向かった可能性も捨てきれません。その方が人目を避ける意味では陸路よりも有利です。


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「聖ルチアの埋葬」の画料を手にしていたので、船を雇う十分な金は所持していたと思われます。


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タオルミーナの旧市街には足を踏み入れなかったと思います。


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1608年11月、遅くても12月初頭にはメッシーナに到着したと思われます。


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メッシーナに到着したばかりのカラヴァッジョに早速仕事が入ります。


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写真はサン・カミッロ教会です。前身はサンティ・ピエトロ・エ・パオロ・デイ・ピザーニ教会でしたが、1783年の地震で崩壊してしまい大修復されました。しかし、1908年の地震と大津波によって完全に破壊されてしまいました。
1932年に再建されましたが、その際、サン・カミッロ教会と改称されました。


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写真は、メッシーナの州立美術館におけるカラヴァッジョ作品の展示です。

ジェノヴァの裕福な商人ジョヴァンニ・バッティスタ・デ・ラッザリがサンティ・ピエトロ・エ・パオロ・デイ・ピザーニ教会の礼拝堂祭壇画として、カラヴァッジョに注文し、1608年12月6日に契約書が取り交わされました。


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ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「ラザロの蘇生」(1609)

ジョヴァンニ・バッティスタ・デ・ラッザリの注文によって制作された作品です。
1609年7月7日に引き渡されましたが、大変な評判で大成功を収めました。


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奇跡的に災害からの被害を免れました。


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カプチン会のマドンナ・デイ・ロザーリ教会です。度重なる災害によって崩壊、現存しないカプチン会のサンタ・マリア・デッラ・コンチェツィオーネ教会の後継となる教会がマドンナ・デイ・ロザーリ教会です。
「ラザロの蘇生」の素晴らしい出来に感服したメッシーナの参議会は、カラヴァッジョに「羊飼いの礼拝」を1000scudiという大金で注文しました。


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ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「羊飼いの礼拝」(1609)


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メッシーナの参議会は、完成した「羊飼いの礼拝」をカプチン会に寄贈し、サンタ・マリア・デッラ・コンチェツィオーネ教会の礼拝堂祭壇に置かれました。


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「羊飼いの礼拝」も度重なる天災から被害を免れました。


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メッシーナでカラヴァッジョが目にしたものは、相次いだ災害のために殆ど残っていません。1908年に起きた大地震とその直後に発生した大津波によって壊滅的な打撃を受けました。現在のメッシーナは、都市計画に基づいて新しく築かれた街と言っても過言ではありません。


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メッシーナでは、「ラザロの蘇生」、「羊飼いの礼拝」の他にも注文を受けました。
1609年、メッシーナの貴族ニコロ・ディ・ジャコモからキリストの受難4点の注文を受け、契約書が取り交わされました。1609年8月、4点のうち、「十字架を担ぐキリスト」が完成し、引き渡されました。しかし、「十字架を担ぐキリスト」は天災によって被害を受けたようで、現存していません。キリストの受難の4点ですが、「十字架を担ぐキリスト」を除く3点については、記録が残されておらず、制作されたどうかについても不明となってます。
また、このほかにも聖ジローラモを数点制作したようですが、現存していないようです。


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メッシーナにあるサン・ジョヴァンニ・ディ・マルタ修道院教会です。
マルタ騎士団のメッシーナ修道院です。カラヴァッジョは、怖くてこの場所を敬遠していたでしょうか?


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カラヴァッジョが肖像画を描いたアントニオ・マルテッリ(フィレンツェ、1534-1618)は、メッシーナの修道院長を務めていました。


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メッシーナの画家フランチェスコ・スジンノ(メッシーナ、1670c-1739c)が1724年に書いた「メッシーナの画家の生涯」の中で、カラヴァッジョについて非常に興味深いことを書きました。
なお、この本ですが、スジンノは原稿を書いたものの出版されず、1969年になって漸く出版されました。
「不安に苛まれたカラヴァッジョは服を着たままで、短刀を肌身離さず携えて寝ていました。彼は不安定な精神状態を見せるようになり、狂人のようでした。
完成した作品に対して批判の声を耳にすると、彼は狂ったように短刀を引き抜き作品をズタズタに引き裂きました。暫くして怒りが収まると、何事もなかったように絵を描き始めました。
無鉄砲で喧嘩早く、嵐で荒れたメッシーナの海よりも不安定な精神状態でした。
黒い犬を飼っていて、可愛がっていました。
文法教師のドン・カルロ・ペペが生徒を引率して造船場に来た時、戯れている生徒をカラヴァッジョが熟視していたので、ペペが不審に思ってカラヴァッジョに、「何故熟視しているのか」と尋ねたところ、カラヴァッジョが激怒して剣を抜き、ペペの頭を斬り付けた。
ペペを負傷させてしまったので、カラヴァッジョはメッシーナに居られなくなり、メッシーナから立ち去った。」
カラヴァッジョがメッシーナを離れて100年以上経ってから書かれた本なので、ペペの一件がもとでメッシーナから旅立ったかどうかは分かりませんが、カラヴァッジョのことは地元で言い伝えられていたのでしょう。


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写真はパレルモです。

ジョヴァンニ・バリオーネが1642年に出版した「画家、彫刻家、建築家の生涯」のカラヴァッジョ編によれば、カラヴァッジョはメッシーナからパレルモに向かい、パレルモで数点の作品を描いたと書きました。


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しかし、カラヴァッジョがパレルモに居たという記録が残されてません。


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写真は、パレルモのサン・ロレンツォ祈祷所(Oratorio di San Lorenzo)です。


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サン・ロレンツォ祈祷所の主祭壇にカラヴァッジョの作品がありました。


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サン・ロレンツォ祈祷所の入り口です。

カラヴァッジョの「ご誕生」がサン・ロレンツォ祈祷所の主祭壇にありましたが、1969年10月17日から18日にかけての深夜、マフィアによって盗まれてしまいました。現在も行方不明です。


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現在、主祭壇には作品のカラー写真を基に作られた複製画に見せかけた写真が置かれてます。


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ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571‐ポルト・エルコレ、1610)の「ご誕生」

「ご誕生」は、カラヴァッジョのシチリア時代に描かれた、闇が画面に広がり、荒らしい筆使いが目立つ作品と明らかに画風が異なり、異質に思えることから、1600年頃にローマで制作されてパレルモに送られたと考える美術史家が出てきました。


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「ご誕生」が1600年頃にローマで制作されたという説が出てくるにつれて、そもそもカラヴァッジョはパレルモに足を踏み入れていないという説が浮上してきました。


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カラヴァッジョはシチリアからナポリに向かったのですが、パレルモに行ったにせよ、メッシーナからナポリに旅立ったと考えるのが自然でしょう。
パレルモに行ったとしても、1609年10月にナポリに居た記録があるので、パレルモ滞在は1か月程度の短期間だったでしょう。


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最早シチリアは安全ではないと判断したであろうカラヴァッジョは、ナポリに向かう決心をしました。
カラヴァッジョは有名画家であり、行く先々で作品制作に励んでいたことは、追手の刺客も当然知っていた訳で、最近制作された作品の評判を聞くだけでカラヴァッジョの居所が容易に推察できたというわけでしょう。


137
(つづく)

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