イタリア芸術を楽しむ

イタリアの魅力を味わい尽くすには、一生に何度旅をすれば足りるだろう。芸術の宝庫にして、歴史の生きた証であるイタリア。 惹き付けて止まない絵画、彫刻、歴史的建造物、オペラなど、芸術の宝庫であるイタリアを楽しむブログです。 記事は一日に一つアップしています。記事の見方ですが、例えば「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その4)」は2017年10月20日にアップしました。各記事にカレンダーが表示されてますが、カレンダー上の2017年10月21日をクリックして頂ければ「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その5)」になります。(その3)は2017年10月20日となります。 BY:シニョレッリ

2023年11月

P1260928ドゥオーモ広場です。


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アレッサンドリアのドゥオーモです。アレッサンドリア司教区の司教座が置かれてます。


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正式名称は、サンティ・ピエトロ・エ・マルコ司教座教会 Cattedrale dei Santi Pietro e Marcoとなってます。しかし、サン・ピエトロ大聖堂が前身だったことから、一般的にサン・ピエトロ大聖堂と呼ばれてます。


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アレッサンドリア市の創立日は、1168年5月3日とされ、神聖ローマ帝国に対するロンバルディア同盟を支持した第170代教皇アレッサンドロ3世(1100c‐1181 教皇在位:1159‐1181)に敬意を表して、市の名称をアレッサンドリアと命名したとされてます。アレッサンドリアはロンバルディア同盟に加盟していました。
サン・ピエトロ教会は、アレッサンドリア市の創立以前に既にその地域の中心教会として存在していました。恐らく8世紀頃に建設されたとされてます。
市の創立を機に、宗教的だけでなく、市民のため、政治的、戦略的な意味から、大きな教会を建設する必要性が高まり、その建設が決定されました。
そうして、1170年に最初の建物が取り壊され、その上に2番目のロマネスク様式の建物が1175年に完成し、1175年に奉献式が執り行われました。


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2番目の建物の寓意図(13世紀)
左側に2番目の建物のファサードが描かれてます。


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18世紀半ばに描かれたサン・ピエトロ大聖堂
13世紀後半、サン・ピエトロ教会に司教座が置かれることになり、2番目の建物は一部を除いて取り壊され、1288年から1297年にかけて殆ど再建に近い形態で大改造、増築工事が行われました。
18世紀半ばに描かれたサン・ピエトロ大聖堂の姿は、1288年から1297年にかけて行われた大改造、増築後の姿を留めていると言われてます。


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18世紀半ばに描かれたサン・ピエトロ大聖堂


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1797年、ナポレオンのイタリア侵攻によって、サン・ピエトロ大聖堂はフランス軍の本部として接収されてしまいました。そして、1803年、フランスの軍事的理由からサン・ピエトロ大聖堂は破壊されてしまいました。
フランス軍の撤退後、アレッサンドリアの司教座教会の再建が決定され、1807年から1810年に建設された新古典様式の建物が現在の外観の原形となってます。1810年に新大聖堂の奉献式が執り行われましたが、それを機に奉献する聖人が聖ピエトロに加えて聖マルコの二人となって大聖堂の正式名称が前述のように変わりましたが、それにも拘らず依然としてサン・ピエトロ大聖堂と呼ばれるのが普通となってます。


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現在の外観は、1874年から1879年に行われた大改修後の姿となってます。
聖堂内部は、1925年の火災によって大きな被害を受けましたが、その後、直ちに大修復工事が行われ、1929年に完成した新しいものです。
第二次世界大戦で、大聖堂の周囲は激しい爆撃を受けましたが、大聖堂自体の被害は幸いにも非常に軽微にとどまったそうです。
ファサードは1820年から1822年に建設されました。


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クーポラは1875年から1879年にかけて建設されました。


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1889年に建設された鐘楼です。


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ファサードのフレスコ画は、1889年と1922年に制作されました。


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ファサードのフレスコ画


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ファサードのフレスコ画ですが、私には分かりません。


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中央扉上ルネッタに描かれたフレスコ画


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ファサードに置かれた彫刻は、1803年に取り壊された建物にありました。


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1803年に取り壊された建物のファサードにあった彫刻


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聖堂内に入りました。


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三廊式、ラテン十字形、新古典様式の内部です。


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右側廊方向


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身廊天井の装飾


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クーポラ


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クーポラ


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Presebiterio


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Presebiterio前から見たカウンターファサード方向


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後陣天井


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主祭壇


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詳細不知


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詳細不知


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右側廊


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比較的新しい建物なので、若干見所に欠けます。


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取り壊された建物にあった作品が注目に値します。
(つづく)

P1260903アレッサンドリアは観光客が滅多に行かない街と思います。


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ギリシャ美術館です。この時間は開いていません。


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1931年から1932年に建設されたPalazo della Camera di Commercioにギリシャ美術館が置かれてます。


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Palazo della Camera di Commercioは第二次世界大戦で爆撃を受けましたが、戦後に修復されました。


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この辺は新しい建物が多い地区です。


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カルドゥッチ広場です。


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北に向かって進んでます。


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右折すると直ぐに大きな広場が見えてきました。


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早朝にボローニャを出発したので、未だ9時前でした。早い時間にアレッサンドリアに到着する必要は全くありませんでしたが、その後になると列車の接続が悪くなるばかりか、大回りしないとアレッサンドリアに来ることが出来なかったのです。
街の中心リベルタ広場に来ました。


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この建物は市庁舎です。


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市庁舎は1772年に創建され、途中、工事が中断されましたが、1830年に完成しました。ファサードの色からPalazzo Rossoとも呼ばれてます。3連時計が特徴です。
1944年、連合国軍によって爆撃され、大きな被害を受け、戦後に殆ど再建に近い形で大修復されました。


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かって宮殿内に市立劇場が設けられ、オペラが上演されていました。1944年、爆撃された宮殿内の市立劇場は壊滅的に破壊されてしまい、戦後になって復興計画が立案されたものの、実行されることはなく現在に至ってます。


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リベルタ広場


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リベルタ広場に面して建つ市立劇場です。


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市立劇場


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リベルタ広場は駐車場になってます。


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1732年に創建され、19世紀半ばに完成したPalazzo Ghiliniです。


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アレッサンドリアのギリーニ侯爵家の住居でしたが、19世紀にサヴォイア家の宮殿になりました。1869年に州議会が買収され、アレッサンドリア県の県庁舎として使用されるようになりました。


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県庁舎近くのドゥオーモに向かいます。


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この通りの突き当りにドゥオーモがあります。


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アレッサンドリア司教区の司教座が置かれているサン・ピエトロ大聖堂です。


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アレッサンドリア大聖堂については、(その3)で詳しく触れることにします。


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ナポレオンの命令によって建物が破壊されてしまったので、ナポレオンの失脚後に再建されました。そのため、現在の外観は新しく見えます。


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次は市立美術館です。


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18世紀に建設されたPalazzo Cutticaです。


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Palazzo Cutticaに市立美術館が置かれてます。


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ファサード柱の彫刻


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入館します。
この時、館内が写真禁止だったので、私の写真がありません。以下は外部サイトから拝借した作品等の写真です。


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ガンドルフィーノ・ダ・ロレートの「聖母戴冠」


6
ガンドルフィーノ・ダ・ロレートの「受胎告知」


4
天井の装飾


3


1


2


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外に出ました。
(つづく)

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朝早い時間の旅立ちだったので、ボローニャ駅前のホテルに泊まっていました。


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時刻は4時31分、季節は夏でした。


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ボローニャ駅です。


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車内は非常に空いてました。


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途中駅でアレッサンドリア行きの列車に乗り換えました。


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アレッサンドリア駅に到着しました。


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アレッサンドリアは、人口91,257人(2023年8月31日現在)のピエモンテ州アレッサンドリア県の県都です。


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アレッサンドリア駅の駅舎です。


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駅前の公園を通り抜けて、この日のお宿に向かいました。


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ガリバルディ広場です。


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ガリバルディ広場は青空市の開市日でした。


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この日のお宿はガリバルディ広場の裏手にあります。


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北イタリアの3つの主要都市であるトリノ、ジェノヴァ、ミラノの三角形のほぼ中心に位置しているアレッサンドリアは、鉄道と高速道路のハブとして重要です。


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この日のお宿です。


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大きな荷物をホテルに預けて身軽になって、街歩きに出発しました。


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ガリバルディ広場の柱廊


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ガリバルディ広場全体の写真は青空市の撤去後に撮った方が良いようです。


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時計がある建物は郵便局です。


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交通の要衝のアレッサンドリアは、第二次世界大戦中に徹底的に爆撃されました。ムッソリーニ時代には米英軍に、そして連合国側となった第二次世界大戦後期にはドイツ軍によって爆撃されたのです。


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そのため、多くの建物は大戦後に建設された、比較的新しいものが多いのです。


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街の中心部に向かいます。


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アレッサンドリアの中心はドゥオーモがあるリベルタ広場でしょう。


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サン・ロレンツォ通りです。


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この通りの先にサン・ロレンツォ教会があります。


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平日の朝でした。


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アレッサンドリアに来た目的は、鉄道が便利なのでアレッサンドリアを起点にピエモンテの各地に行くためのベースにするためでした。


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サン・ロレンツォ教会が見えてきました。


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サン・ロレンツォ教区教会はサン・ロレンツォ通りとモデナ通りとの交差点にあります。


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13世紀頃に、この地に既に存在していたサンティ・ロレンツォ・エ・クレメンテ教区教会が前身です。1347年から1350年にかけてサンタ・マリア・デッラ・コルテ教会との合併を機に修道院教会の複合施設として増築され、それと共に参事会教会に格付けされました。
この時は扉が閉まっていたので、後で拝観することにしました。


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1565年、建物の構造に致命的な欠陥があることが分かり、1580年まで大規模な改造工事が行われ、修道院教会の規模が縮小されました。


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街角のタベルナコロ
(つづく)

P1480646写真右の建物はPavaglioneです。


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マドンナ・デル・カルミネ教会の左外壁沿いに進みます。


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ルーゴで最も格式が高い教会に向かいます。


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道路は清掃されて綺麗です。これが南イタリアに行くと違います。


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ルーゴで最も格式が高い教会はCollegiataです。聖堂参事会が管理する教会のことです。


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バラッカ通りです。


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大半の街では、最も格式が高い教会がドゥオーモと呼ばれてますが、ルーゴではドゥオーモと呼ばれている教会がないようです。


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尤も南イタリアに行くと、ドゥオーモと呼ばれている教会が複数存在する街が幾つかあるので、ドゥオーモと呼称する定義がよく分かりません。


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右折すれば参事会教会に出ます。


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参事会教会が見えてきました。


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サンティ・フランチェスコ・エ・イラーロ参事会教会です。
1233年、フランチェスコ会修道士が初めてルーゴに訪れましたが、その直後から当時の城壁外の現在地に修道院建設が開始され、1238年に完成したサン・フランチェスコ修道院教会の複合施設が前身です。
1438年、ルーゴの市当局はサン・フランチェスコ複合施設を城壁内に取り込むと共に、市壁の拡張を決定しましたが、それに伴い1471年に修道院回廊が追加されました。その回廊は、城塞に次いでルーゴに現存する最古の建物となってます。
18世紀中頃になると、建物の経時劣化が顕著となったので、建物の再建が決定されました。そうして、イーモラの建築家フランチェスコ・コジモ・カッシアーノ・モレッリ(イーモラ、1732‐1812)が起用され、1760年に最初の建物が取り壊され、モレッリの設計によって、その上に1762年から1772年に建設された2番目の建物が現在の姿となってます。


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残念ながら教会の扉が閉まっていました。しかし、修道院回廊は開いていました。


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回廊へと続く通路の壁にある浮彫(詳細不知)


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18世紀のもの


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修道院回廊に出ました。


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回廊から見た鐘楼


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回廊の壁に描かれたフレスコ画(15世紀)
回廊の壁はフレスコ画で覆われていたそうですが、現存するのはこの断片だけです。


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19世紀のもの


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回廊に囲まれたキオストロ


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キオストロにある古井戸


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修道院回廊から外に出ました。


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参事会教会の拝観もルーゴに来た目的の一つでしたが、教会の中に入れず残念でした。


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夕暮れを迎えていました。


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大体見終わったと思ったので、駅に向かいました。


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実はロッシーニ劇場に行くのを忘れていました。ロッシーニ劇場はルーゴで重要な見所の一つです。


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電車の時刻は予め調べていたので、発車まで時間がたっぷりあり、ブラブラ歩きで駅に向かいました。


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この道の先に駅があります。


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駅が見えてきました。


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ルーゴ駅です。
(ルーゴ編 おわり)

P1480596広場の突き当りにあるのは、サントノフリオ祈禱所です。


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一見、教会のファサードに見える建物があります。


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教会ではなく共同住宅です。


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次はマドンナ・デル・カルミネ教会です。


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マドンナ・デル・カルミネ教会です。ルーゴの守護聖人聖イラーロの聖遺物が納められてます。


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1480年、カルメル会の修道士によって建設された修道院と教会の複合施設が前身です。1526年に聖イラーロの聖遺物が納められたことからサンティラーロ教会と呼ばれるようになりました。


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1480年創建の建物が荒廃したので、18世紀に取り壊して、その上に新しい建物が建設されることになりました。地元の建築家フランチェスコ・アンブロージョ・ペトロッキの設計によって、1748年に着工、1772年に完成した建物が現在の姿となってます。2代目の建物にはマドンナ・デル・カルミネ教会と名付けられましたが、今でもサンティラーロ教会とも呼ばれてます。


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毎日開く教会なので拝観し易いと思います。


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中に入りました。


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単廊式、ラテン十字形、新古典様式の内部です。


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右側壁


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中央礼拝堂へと進みました。


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新古典様式の柱が目立ちます。


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柱頭の装飾


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こちらのオルガンは普通です。


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中央礼拝堂


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後陣の装飾


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後陣天井のフレスコ画は、ピッコーラ・オルシの「カルミネの聖母」
ピッコーラ・オルシという画家については全く知りません。


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主祭壇


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詳細不知の「聖母子」


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高名なオルガン制作者ガエターナ・アントニオ・カッリートによって制作されたオルガンです。


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ロッシーニが演奏したことで有名なオルガンです。


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主祭壇前から見たカウンターファサード方向


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16世紀の逸名画家作「受胎告知」


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教会内の聖人の彫刻が全部で12体あります。


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制作者など詳細不知です。


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詳細不知


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17世紀の逸名画家作「栄光の聖イラーロ」


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詳細不知の「聖イラーロ」


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サロモーネ・デ・グラッシの「カルミネの聖母」(14世紀末)
サロモーネは、ジョヴァンニーノ・ダ・グラッシ(ミラノ、1350c-1398)の息子です。父に師事したとされており、サロモーネの画風は父にそっくりです。ただ、父と違って、サロモーネの生涯がよく分かっていない謎の画家とされてます。


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グイドッチョ・ダ・イーモラ(イーモラまたはフェッラーラ、1425/1430‐イーモラ,1510)の「カルミネの聖母」(1481)


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「カルミネの聖母と聖イラーロ」のステンドグラス


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詳細不知


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外に出ました。
(つづく)

母が他界して暫く多忙です。落ち着くまでブログ更新を中断します。(2023年11月12日 追記)
P1480573引き続きエステンセ城塞です。


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緑の部分はかって堀であり、城塞の入り口前に跳ね橋があったそうです。


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名残の跳ね橋を思わせる通路を通ってエステンセ城塞内に入ります。


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城塞の入り口


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城塞の中庭
城塞はルーゴ市役所になってますが、その一部は博物館として公開されてます。


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銘板の数々


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絵画はなかったと思います。


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かって堀があった場所


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エステンセ城塞から外に出ます。


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次はPavaglioneです。


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Pavaglioneの中に入りました。
私の知る限りPavagolioneというイタリア語はないと思いますが、建設された当初はPadiglione(イタリア語でパビリオンという意味)と呼ばれましたが、建物の柱廊玄関が蚕の繭市場で有名となったので、「Padiglione de folicelli da seta(蚕のパビリオン)」と呼ばれ、次に「Paviglione」と呼ばれるようになり、やがて、恐らく18世紀後半頃から「Pavaglione」と呼ばれるようになったそうです。


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Pavaglioneは、各辺約100メートルの四柱廊(面積約1ヘクタール)から成ってます。


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四柱廊に囲まれた部分はマッツイーニ広場と呼ばれてます。


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元々、この場所はエステンセ城塞の一部でしたが、エステ家直系の最後のフェッラーラ公爵アルフォンゾ2世・デステ(フェッラーラ、1533-1597)の命によって、年に一度の見本市と週毎に開かれる市場を建設するために、1570年城塞の一部を解体しての工事が着工されました。
最初に建設されたロッジャは、民兵のための避難休息所、毎週の開市日に商人の避難休息所を提供することが目的でしたが、軍事機能が優先されました。
しかし、アルフォンゾ2世・デステ公爵が死去した翌年の1598年に、フェッラーラ公国は教皇領に戻りましたが、それに伴ってルーゴの軍事的機能が必要性が徐々に薄まると共に、ロッジャは商業的機能が優先されるようになりました。


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蚕と繭取引の増大に伴って、一つの柱廊ではスペース不足が深刻となりました。1780年、ルーゴ市議会は柱廊の増設を決定し、1784年に増設工事が完了して現在の姿になりました。
Pavaglioneは、今も完全に機能しています。


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1895年に設置された時計が柱廊玄関にあります。


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(つづく)

1次はRocca Estense エステンセ城塞です。


2
ルーゴの要塞の起源についてはよく分かっていないそうですが、ラヴェンナ大司教区の修道院によって10世紀頃に今の場所の南に建設されたと推定されてます。


3
最初の要塞は1037年の文書にCastrum(軍事防衛拠点の意味)と記載されたそうです。
1202年、ラヴェンナ大司教によってCastrumは増築され防衛機能が強化されました。しかし、その僅か16年後の1218年、ラヴェンナ大司教区の封建領主クニオ伯爵家は、クレモナ領主と同盟を結んで、ルーゴは彼らによって征服され、Castrumは破壊されてしまいました。
その後、ルーゴ要塞は13世紀に何度か再建、破壊を繰り返しました。1296年、クニオ伯爵家の居城であるルーゴ要塞は徹底的に破壊され、要塞があった場所は瓦礫だらけの平地となりました。
14世紀になると、ロマーニャ・ギベリン家、ボローニャ、ミラノのヴィスコンティ家と次々と支配者が変わりましたが、1376年にフェッラーラのエステ家の支配下に置かれ、現在の場所にRoccaが築かれました。しかし、エステ家の支配は長続きせず、ルーゴは混乱に巻き込まれました。
1437年、エステ家は教皇庁からルーゴを購入して、再び支配者となりました。エステ家の統治下、ルーゴはロマーニャにおけるエステ家支配地で最も重要な商業の中心地となりましたが、その防衛のためにエステンセ城塞は整備増強されました。現在の外観は、16世紀頃の姿が原形となってます。
1598年、エステ家直系が断絶すると、フェッラーラ公国は教皇庁領に組み入れられましたが、それと共にルーゴ防衛力の必要性は徐々に低下して、エステンセ城塞はその機能を失うことになりました。


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1830年代に司法事務所と郵便局を造るために改造された建物です。


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1860年、城塞は市庁舎に転用されることになりました。市庁舎になってからも、改造された建物に司法事務所と郵便局が置かれたままでしたが、19世紀末に移転して、改造された建物も市庁舎として使用されるようになり現在に至ってます。


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市庁舎の入り口


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城塞の外を一周します。


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城塞の北側に出ました。


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城塞の北側にガリバルディ広場があります。


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ガリバルディ広場


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ガリバルディ広場は駐車場になってます。


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城塞の東側です。


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東側はマッジョーレ広場と呼ばれてます。


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北東にある塔


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ガリバルディ将軍が演説したバルコニーがあります。


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1859年にガリバルディ将軍が演説したことを示す銘板


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城塞の南側に進みます。


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マッジョーレ広場から見た塔


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カヴール広場角にあるサン・ジミニャーノ・エ・サン・プロスぺロ銀行ルーゴ支店の建物です。同銀行の本店はヴェローナにあります。


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城塞の南側の西端です。


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マルティーニ広場です。


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写真右側の建物はPavagolioneです。


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(つづく)

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