

アレッサンドリアのドゥオーモです。アレッサンドリア司教区の司教座が置かれてます。

正式名称は、サンティ・ピエトロ・エ・マルコ司教座教会 Cattedrale dei Santi Pietro e Marcoとなってます。しかし、サン・ピエトロ大聖堂が前身だったことから、一般的にサン・ピエトロ大聖堂と呼ばれてます。

アレッサンドリア市の創立日は、1168年5月3日とされ、神聖ローマ帝国に対するロンバルディア同盟を支持した第170代教皇アレッサンドロ3世(1100c‐1181 教皇在位:1159‐1181)に敬意を表して、市の名称をアレッサンドリアと命名したとされてます。アレッサンドリアはロンバルディア同盟に加盟していました。
サン・ピエトロ教会は、アレッサンドリア市の創立以前に既にその地域の中心教会として存在していました。恐らく8世紀頃に建設されたとされてます。
市の創立を機に、宗教的だけでなく、市民のため、政治的、戦略的な意味から、大きな教会を建設する必要性が高まり、その建設が決定されました。
そうして、1170年に最初の建物が取り壊され、その上に2番目のロマネスク様式の建物が1175年に完成し、1175年に奉献式が執り行われました。

2番目の建物の寓意図(13世紀)
左側に2番目の建物のファサードが描かれてます。

18世紀半ばに描かれたサン・ピエトロ大聖堂
13世紀後半、サン・ピエトロ教会に司教座が置かれることになり、2番目の建物は一部を除いて取り壊され、1288年から1297年にかけて殆ど再建に近い形態で大改造、増築工事が行われました。
18世紀半ばに描かれたサン・ピエトロ大聖堂の姿は、1288年から1297年にかけて行われた大改造、増築後の姿を留めていると言われてます。

18世紀半ばに描かれたサン・ピエトロ大聖堂

1797年、ナポレオンのイタリア侵攻によって、サン・ピエトロ大聖堂はフランス軍の本部として接収されてしまいました。そして、1803年、フランスの軍事的理由からサン・ピエトロ大聖堂は破壊されてしまいました。
フランス軍の撤退後、アレッサンドリアの司教座教会の再建が決定され、1807年から1810年に建設された新古典様式の建物が現在の外観の原形となってます。1810年に新大聖堂の奉献式が執り行われましたが、それを機に奉献する聖人が聖ピエトロに加えて聖マルコの二人となって大聖堂の正式名称が前述のように変わりましたが、それにも拘らず依然としてサン・ピエトロ大聖堂と呼ばれるのが普通となってます。

現在の外観は、1874年から1879年に行われた大改修後の姿となってます。
聖堂内部は、1925年の火災によって大きな被害を受けましたが、その後、直ちに大修復工事が行われ、1929年に完成した新しいものです。
第二次世界大戦で、大聖堂の周囲は激しい爆撃を受けましたが、大聖堂自体の被害は幸いにも非常に軽微にとどまったそうです。
ファサードは1820年から1822年に建設されました。

クーポラは1875年から1879年にかけて建設されました。

1889年に建設された鐘楼です。

ファサードのフレスコ画は、1889年と1922年に制作されました。

ファサードのフレスコ画

ファサードのフレスコ画ですが、私には分かりません。


中央扉上ルネッタに描かれたフレスコ画

ファサードに置かれた彫刻は、1803年に取り壊された建物にありました。

1803年に取り壊された建物のファサードにあった彫刻

聖堂内に入りました。

三廊式、ラテン十字形、新古典様式の内部です。

右側廊方向

身廊天井の装飾

クーポラ

クーポラ

Presebiterio

Presebiterio前から見たカウンターファサード方向

後陣天井



主祭壇


詳細不知

詳細不知

右側廊



比較的新しい建物なので、若干見所に欠けます。

取り壊された建物にあった作品が注目に値します。
(つづく)