2024年03月
アマルフィの町歩き (その9 ドゥオーモⅣ)


次はクリプタです。

13世紀初頭に造られたクリプタですが、その後、二回改造と修復が行われたそうです。

壁、梁、天井などがフレスコ画で覆われてます。

クリプタの天井

フレスコ画の大部分は16世紀に制作されたものです。

フレスコ画のテーマは「聖アンドレアの物語」、「キリストの物語」となってます。

フレスコ画の制作者ですが、私には分かりませんが聖堂側は分かっていると思います。













クリプタの主祭壇です。

主祭壇の彫刻が有名です。

ミケランジェロ・ナッケリーノ(フィレンツェ、1550-ナポリ、1622)の「聖アンドレア(ブロンズ像)」
ミケランジェロ・ナッケリーノはジャンボローニャの弟子と言われてます。師匠ジャンボローニャと意見の相違があって、1573年にフィレンツェを離れナポリに移住してナポリ王国で活動した彫刻家でした。

聖アンドレアのブロンズ像の左右に「聖ロレンツォ」と「聖ステファノ」の大理石像が置かれてます。それらはピエトロ・ベルニーニ(セスト・フィオレンティーノ、1662‐ローマ、1629)の作品です。ベルニーニ一家は彫刻家一家として有名ですが、中でもピエトロの息子ジャン・ロレンツォ・ベルニーニが特に優れた彫刻家でした。


クリプタの礼拝堂

礼拝堂の祭壇画

クリプタの礼拝堂


(つづく)
アマルフィの町歩き (その8 ドゥオーモⅢ)


洗礼礼拝堂です。

洗礼盤

左後陣礼拝堂です。

左後陣礼拝堂の祭壇画「聖母子と聖人たち」

シルベストロ・ミッラ(カンパニアで18世紀活動)の作品です。この画家の作品がドゥオーモにありますが、彼のことについては全く知りません。

右後陣礼拝堂です。

右後陣礼拝堂の祭壇画はシルヴェストロ・ミッラ(カンパニアで18世紀活動)の「最後の晩餐」

左右の側廊にそれぞれ4つの礼拝堂があります。

詳細不知の「ご誕生」

右第三礼拝堂

シルヴェストロ・ミッラ工房の「聖母子と二聖人」

右側廊の礼拝堂

シルヴェストロ・ミッラ(カンパニアで18世紀活動)の「聖ミケーレ」

次の礼拝堂です。

シルヴェストロ・ミッラ(カンパニアで18世紀活動)の「無原罪の聖母」

左側廊の礼拝堂に映ります。

シルヴェストロ・ミッラ(カンパニアで18世紀活動)の「聖人に顕現する聖母子」

次の礼拝堂です。

シルヴェストロ・ミッラ(カンパニアで18世紀活動)の「聖母子と聖人たち」

次の礼拝堂です。

シルヴェストロ・ミッラ(カンパニアで18世紀活動)の作品ですが、聖人が誰なのか私には特定できません。

詳細不知


制作者不知の「クント大司教の墓」(1503)


18世紀の逸名画家による作品



(つづく)
アマルフィの町歩き (その7 ドゥオーモⅡ)


入口扉です。

ポータル上ルネッタのモザイク

「聖アンドレアの殉教」

入口扉上部


「聖母被昇天」のフレスコ画

ブロンズの入口扉はコンスタンティノープルで制作されたそうです。

入口扉の聖人

三廊式、ラテン十字形、バロック様式の内部です。


天井の装飾


「聖アンドレアの殉教」


説教壇


次はPresebiterioです。

中央礼拝堂

主祭壇画は「聖アンドレアの殉教」です。
アマルフィ大聖堂の主祭壇画はかなり有名ですが、地元の画家による複製画です。名の知れた画家に注文しなかったのは何故?
少し脱線しますが、この複製画の元になった作品に触れておきましょう。

ローマにあるサンタンドレア・デッラ・ヴァッレ聖堂です。

サンタンドレア・デッラ・ヴァッレ聖堂の後陣です。後陣の祭壇画がアマルフィ大聖堂の主祭壇にある複製画の元になった作品です。

マッティア・プレティ(タヴェルナ,1613-マルタ、ヴァレッタ、1699)の「聖アンドレアの殉教」(1650-51)

アマルフィ大聖堂に戻ります。これはPresebiterioの装飾です。


祭壇前飾り

礼拝堂の彫刻

15世紀に制作された彫刻

(つづく)
アマルフィの町歩き (その6 ドゥオーモⅠ)


聖アンドレアに捧げられたアマルフィのドゥオーモです。

アマルフィ=カヴァ・デ・ティッレーニ司教区のサンタンドレア司教座教会です。

アマルフィ司教区の起源は不明ですが、596年の文書にアマルフィ司教区の存在が初めて記載されたそうです。そのことによって、6世紀には現在の場所に司教座教会があったと推定されてます。

現在の建物は恐らく二代目となるものとされており、アマルフィ公爵マンソン1世(?、10世紀‐アマルフィ、1004)(アマルフィ公爵在位979-1004、サレルノ公爵在位981-983)の命によって、987年に創建され、1065年頃に完成しました。ロマネスク様式の教会です。

18世紀にバロック様式に改造されましたが、19世紀になるとロココ様式に改造されました。ところが経年劣化によってファサードなどの一部が崩落したので、19世紀末に新ムーア様式に一部再建と改造が行われ1900年に完成した建物が現在の姿になってます。

この地方独特の鐘楼が印象的です。

先端部分が新ムーア様式と呼ばれてます。

1108年から1276年の間に建設された鐘楼は、その先端部分が経時劣化によって傷んだので、19世紀に今の形になりました。

鐘楼は遠くからでも目立ちます。

オリジナルの部分と19世紀再建された部分との境界がよく分かりません。

時計が付いてます。

ファサードのモザイク

1065年頃に完成した建物のファサードは18世紀に崩落してしまいました。

現在のファサードは19世紀に建設されたもので、モザイクもその時期に制作されたそうです。


ドゥオーモに行くには階段を上ります。


階段を上ると柱廊に出ます。

現在の柱廊は19世紀に建設されました。

柱廊から見たドゥオーモ広場方向


柱廊の柱頭を見ます。

二代目の建物の柱廊は残されていないようです。

新しい柱頭ばかりです。



柱廊の壁にある銘板


柱廊のフレスコ画(19世紀)

(つづく)
アマルフィの町歩き (その5)


海で遊ぶ人向きの観光地でしょう。

新鮮な魚介類が自慢です。

崖崩れが心配な箇所が幾つもあります。

海洋都市アマルフィが衰退して理由の一つが崖崩れと聞いてます。



町の中心の遠望







遊覧船が出航しました。



この日のお宿です。



やることが無くて困りました。

山の頂上にある見張り塔。


海の水が綺麗です。




場所を移動しました。


(つづく)
アマルフィの町歩き (その4)


道を下ります。

賑やかな方に向かいました。


美術ファンなので、美術豊富とは言えないアマルフィに来たのが問題でした。


岩を刳り貫いた細い道が多い。


町の中心に戻りました。

アマルフィ特産のレモン


海岸に来ました。

海岸に来てもやることがありません。

海水が綺麗です。




この日のお宿です。

昼下がりになって、海水浴を楽しむ人が減りました。











(つづく)
アマルフィの町歩き (その3)


トンネルの壁の「聖母子と二聖人」


アマルフィはレモンの産地として有名です。

日当たりのよい斜面を利用してレモンの栽培がおこなわれてます。






特に書くことがありません。

撮った写真を並べてます。

涼しかったけれど、急な細い道を上ったり下りたりの連続で汗だらけ。


「無原罪の聖母」


足腰が弱った老人は困るでしょうね。

車椅子は使えないでしょうね。

バジルでしょうか。


この辺には観光客がいません。









(つづく)
アマルフィの町歩き (その2)


カラヴァッジョの作品巡りをしておけば良かったと後悔しきりです。

この当時、四大海洋国家に全部行きたいと思っていました。


6月でした。

快晴でしたが、6月にしては涼しい日でした。

町の中心来ました。


ドゥオーモです。

拝観することにしました。

観光客(私も観光客ですが)が多いので、嫌な予感がしていました。

ファサード下の柱廊

中に入ってビックリ! 観光客のグループだらけで、拝観どころではありません。

直ぐに外に出ました。聖堂内でガイドさんがマイクを使って説明。そのガイドさんが4,5人いました。聖堂内でマイクで説明というのをあまり見たことが無かったのですが、ここだけは例外でした。

昼下がりに再び拝観にトライすることに。


広場に戻りました。

聖アンドレア像



魚屋を覗きました。





近距離バスです。


階段だらけのアマルフィです。


(つづく)
アマルフィの町歩き (その1)


ナポリ中央駅から鉄道でサレルノに向かいました。

車内は非常に空いてました。

サレルノ駅に到着しました。

アマルフィ行バスの発車時間まで時間潰し。

バスでアマルフィに向かいました。

アマルフィに到着しました。

アマルフィのバスターミナル

この日のお宿にタクシーで向かいました。

この日のお宿です。

町の中心に戻ります。

アマルフィは、人口4,645人(2023年10月31日現在)のカンパニア州サレルノ県のコムーネです。

アマルフィは観光地中の観光地です。

美術的にはドゥオーモ以外に見所が乏しいと思います。

イタリアでは海水浴の経験がありません。

ドゥオーモの鐘楼

私にとってアマルフィのMuseo Civicoは魅力がありません。

何故かアマルフィに3回来たことがあります。



撮った写真を並べるだけ?









(つづく)