

サン・フランチェスコ教会です。

聖フランチェスコ(アッシジ、1182-1226)がピストイアにやってきたのは1220年のことでした。やがてフランチェスコ会修道士たちがピストイアに定住するようになり、1232年にサンタ・クローチェ教会(場所が不明)が与えられました。

ファサードに隣接して写真右連なるのは修道院だった建物です。
1249年5月21日、司教座教会の参事会は、フランチェスコ会修道士たちに対して、サンタ・クローチェ教会の代わりに、現在サン・フランチェスコ教会が建っている場所にあったサンタ・マリア・アル・プラート教会を与えました。


1289年8月25日付のピストイア当局の文書に、サンタ・マリア・アル・プラート教会の古い建物を取り壊して新しい建物の建設を認めたとの記録があるそうです。
1289年に新しい建物の工事着工が行われ、1374年まで工事が続きました。新しい建物の奉献を機にサン・フランチェスコ教会(修道院併設の複合施設)と命名されました。

最終的に1707年に完成したロマネスク様式のファサードです。

メインポータル上ルネッタのフレスコ画

後陣と鐘楼

左翼廊

左側壁

左側壁のサイドポータル


1808年、ナポレオンによって抑圧され、修道士たちが追放されると共に宗教活動が禁止されてしまいました。ナポレオン失脚後の1819年に活動が再開されましたが、1808年以前の状態には戻らず、細々と活動が行われていました。
1866年、イタリア統一伴い、再び抑圧され、建物はピストイア市の所有となりました。1926年、建物はフランチェスコ会の会衆の管理に戻されましたが、2016年、会衆が属していた教区から立ち去り、空き教会となってしまいました。
そのため、2000年頃から滅多に開かない教会となっていましたが、最近になってミサが行われるようになったようです(司祭の所属は私には分かりません)。

単廊式、ラテン十字形、ゴシック様式の内部です。

ルネサンス期に内部の修復改造が行われたので、ゴシック・ルネサンスの折衷様式の内部とも言えます。

受胎告知礼拝堂、またはマラテスタ礼拝堂です。

別々の場所にあったフレスコ画を剝がして、一つの祭壇画のようにしたように見えます。取って付けたような感じがします。

レオナルド・マラテスタ(ピストイア、1483から活動記録‐1518没)の「受胎告知される聖母」(1490-1500)
左に受胎告知する大天使があったと思います。


バルトロメオ・ディ・ヤコポの「聖ジュリアーノ」(1424)
バルトロメオ・ディ・ヤコポはポントルモの父です。
「聖ジュリアーノ」と「受胎告知される聖母」が描かれた時期が異なります。

アレッサンドロ・アッローリ(フィレンツェ、1535-1607)の「ラザロの蘇生」(1594)


フランキー二の祭壇です。

適当に詰め込んだように見える祭壇画です。

ボナッコルソ・ディ・チーノ(14世紀中頃にフィレンツェで活動)の「聖十字架の物語」(14世紀)

マーゾ・ディ・バンコ(フィレンツェ、?-1348)と弟子の「嘆き」(14世紀)
マーゾはジョとの弟子で、ジョットの強い影響を受けた画風でした。


ピストイアの逸名画家による「聖フランチェスコ」(1390c)

マーゾ・ディ・バンコ(フィレンツェ、?-1348)と弟子による「三聖人(聖アントニオ・アバーテ、聖ジョヴァンニ・バッティスタ、聖フランチェスコ」
(つづく)