イタリア芸術を楽しむ

イタリアの魅力を味わい尽くすには、一生に何度旅をすれば足りるだろう。芸術の宝庫にして、歴史の生きた証であるイタリア。 惹き付けて止まない絵画、彫刻、歴史的建造物、オペラなど、芸術の宝庫であるイタリアを楽しむブログです。 記事は一日に一つアップしています。記事の見方ですが、例えば「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その4)」は2017年10月20日にアップしました。各記事にカレンダーが表示されてますが、カレンダー上の2017年10月21日をクリックして頂ければ「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その5)」になります。(その3)は2017年10月20日となります。 BY:シニョレッリ

2024年10月

1次はサン・フランチェスコ教会です。


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サン・フランチェスコ教会です。


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聖フランチェスコ(アッシジ、1182-1226)がピストイアにやってきたのは1220年のことでした。やがてフランチェスコ会修道士たちがピストイアに定住するようになり、1232年にサンタ・クローチェ教会(場所が不明)が与えられました。


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ファサードに隣接して写真右連なるのは修道院だった建物です。
1249年5月21日、司教座教会の参事会は、フランチェスコ会修道士たちに対して、サンタ・クローチェ教会の代わりに、現在サン・フランチェスコ教会が建っている場所にあったサンタ・マリア・アル・プラート教会を与えました。


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1289年8月25日付のピストイア当局の文書に、サンタ・マリア・アル・プラート教会の古い建物を取り壊して新しい建物の建設を認めたとの記録があるそうです。
1289年に新しい建物の工事着工が行われ、1374年まで工事が続きました。新しい建物の奉献を機にサン・フランチェスコ教会(修道院併設の複合施設)と命名されました。


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最終的に1707年に完成したロマネスク様式のファサードです。


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メインポータル上ルネッタのフレスコ画


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後陣と鐘楼


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左翼廊


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左側壁


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左側壁のサイドポータル


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1808年、ナポレオンによって抑圧され、修道士たちが追放されると共に宗教活動が禁止されてしまいました。ナポレオン失脚後の1819年に活動が再開されましたが、1808年以前の状態には戻らず、細々と活動が行われていました。
1866年、イタリア統一伴い、再び抑圧され、建物はピストイア市の所有となりました。1926年、建物はフランチェスコ会の会衆の管理に戻されましたが、2016年、会衆が属していた教区から立ち去り、空き教会となってしまいました。
そのため、2000年頃から滅多に開かない教会となっていましたが、最近になってミサが行われるようになったようです(司祭の所属は私には分かりません)。


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単廊式、ラテン十字形、ゴシック様式の内部です。


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ルネサンス期に内部の修復改造が行われたので、ゴシック・ルネサンスの折衷様式の内部とも言えます。


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受胎告知礼拝堂、またはマラテスタ礼拝堂です。


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別々の場所にあったフレスコ画を剝がして、一つの祭壇画のようにしたように見えます。取って付けたような感じがします。


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レオナルド・マラテスタ(ピストイア、1483から活動記録‐1518没)の「受胎告知される聖母」(1490-1500)
左に受胎告知する大天使があったと思います。


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バルトロメオ・ディ・ヤコポの「聖ジュリアーノ」(1424)
バルトロメオ・ディ・ヤコポはポントルモの父です。
「聖ジュリアーノ」と「受胎告知される聖母」が描かれた時期が異なります。


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アレッサンドロ・アッローリ(フィレンツェ、1535-1607)の「ラザロの蘇生」(1594)


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フランキー二の祭壇です。


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適当に詰め込んだように見える祭壇画です。


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ボナッコルソ・ディ・チーノ(14世紀中頃にフィレンツェで活動)の「聖十字架の物語」(14世紀)


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マーゾ・ディ・バンコ(フィレンツェ、?-1348)と弟子の「嘆き」(14世紀)
マーゾはジョとの弟子で、ジョットの強い影響を受けた画風でした。


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ピストイアの逸名画家による「聖フランチェスコ」(1390c)


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マーゾ・ディ・バンコ(フィレンツェ、?-1348)と弟子による「三聖人(聖アントニオ・アバーテ、聖ジョヴァンニ・バッティスタ、聖フランチェスコ」
(つづく)

1鐘楼が写ってます。


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次はサンティ・プロスぺロ・エ・フィリッポ教会です。写真の通りの右先に教会が写ってます。


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ベネデット会修道士によって12世紀に建設された、ロマネスク様式のサン・プロスペロ教会が前身です。1134年に文書にサン・プロスペロ教会の存在が初めて記録されているそうです。


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1500年まで元の構造を維持していたそうですが、教会の建物は干し草室として使用されるようになり、非常に荒廃しました。


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1565年、フィリッポ・ネリ会衆に教会が委託されるようになりました。1622年、ロスピリオージ家の資金によって、レオナルド・マルカッチが起用されて建物が大修復されました。


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1666年に教会はフィリッポ・ネリ会衆に与えられました。それを機に聖プロスぺロに加えて聖フィリッポ・ネリにも献じる教会となり、名称が現在のようになりました。


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1722年、カルロ・アゴスティーノ・ファブローニ枢機卿(ピストイア、1651-ローマ、1727)は自分が所有する蔵書を寄贈し、そのための図書館をこの教会に隣接して建設することにしました。フィレンツェの建築家ジョヴァンニ・バッティスタ・フォッジーニ(フィレンツェ、1652-1725)の設計によって教会の建物の改造拡大と図書館の建設が行われました。


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教会の入り口


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教会内部


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ジョヴァンニ・ドメニコ・フェッレッティ(フィレンツェ、1692-1768)の後陣フレスコ画(1726)


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図書館の入り口


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図書館の一室


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ファブローニ枢機卿像


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ジャン・ドメニコ・ピアストリーニ(ローマ、1680-1740)の「カルロ・アゴスティーノ・ファブローニ枢機卿の肖像」


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次はサン・フランチェスコ教会に行きたいのですが、遠回りをしました。


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(つづく)

1カルミネ広場です。


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広場に面してサンタ・マリア・デル・カルミネ教会が建ってます。


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1291年、カルメル会修道士によって建設されたゴシック様式のサンタ・マリア・デル・カルミネ修道院教会の複合施設が前身です。


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カルミネ教会は16世紀に拡大、改造されました。さらに1741年に後期バロック様式に改造修復され、現在の外観の礎となりました。
1803年、ナポレオンによって抑圧され、美術アカデミーが設立されました。また、1883年から貧者の避難所として使用されるようになりました。


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キオストロ


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教会ではありませんが、内部の保存状態が良いと思います。


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観光客などに一般公開されてませんが、時々中に入ることが出来ます。


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後期バロック様式の華美な内部です。


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創建時の13世紀の装飾は、その痕跡さえも認めることが出来ません。


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礼拝堂や祭壇画などが残されてます。


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フランチェスコ・ルピチーニ(フィレンツェ、1590-スペイン、1656)の「マナの落下」(1625c)


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次の礼拝堂です。


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イグナツィオ・ハグフォード(ピサ、1703-フィレンツェ、1778)の「天上の聖母と聖人たち」(1741-45)


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次の礼拝堂です。


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ピエトロ・マルケジーニ通称ロルトラニーノ(ピストイア、1692-1757)の「聖母子と二聖人」(1740c)


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告解室


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ピエトロ・マルケジーニ通称ロルトラニーノ(ピストイア、1692-1757)の「聖家族と二聖人」


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ヴィンチェンツォ・メウッチ(フィレンツェ、1694-1766)の「ご誕生」(1741-45)


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トンマーゾ・ゲラルディーニ(フィレンツェ、1715-1797)の「フェーデ」


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トンマーゾ・ゲラルディーニ(フィレンツェ、1715-1797)の「スペランツァ」


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トンマーゾ・ゲラルディーニ(フィレンツェ、1715-1797)の「イサクの犠牲」(1741-45)


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適当に街歩き


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(つづく)

1サピエンツァ広場にやってきました。スピリト・サント広場に隣接しています。


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広場の見どころは2つの教会(2つとも旧教会)と図書館でしょう。


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スピリト・サント教会の鐘楼の手前にサン・ミケーレ・イン・チョンチョ(Cioncio)教会が写ってます。


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サン・ミケーレ・イン・チョンチョ教区教会です。


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ピストイアで最も小さな教区の教区教会でした。Cioncioですが、中世の頃、ピストイアにおける有力ギルドの一つだった羊毛ギルドCionci、またはCiompiを指す可能性があるとされてます。


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鐘楼はスピリト・サント教区のものです。


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教会の歴史は古く、確実な記録がないものの1000年以上前のロンゴバルド時代に遡ると言われてます。現在の建物は12世紀末から13世紀初頭にかけて再建されたロマネスク様式のものです。


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1722年、イエズス会に配慮すべきとの当時の司教の判断によって、この教会はイエズス会の聖イグナツィオ・デ・ロヨラ教会(スピリト・サント教会)の教区に組み入れられることになり、教区教会から格下げされてしまいました。
1796年、教会から礼拝所(聖職者が常駐しない)に格下げとなり、さらに19世紀初めには聖別されなくなってしまいました。
現在、この建物は文化的な催事場などとして使用されてます。


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ファサード


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後陣と鐘楼


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内部


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かってファサードにあった「聖ミケーレ像」〔13世紀初頭)


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サピエンツァ広場に面して建つサピエンツァ宮です。


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フィレンツェで活動した建築家ナンニ・ウンゲーロ(ハンガリー?、1480c-フィレンツェ、1546)の設計によって1530年に建設されました。


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ピストイア生まれで司教を務めたことがあるニッコロ・フォルティグエッラ枢機卿(ピストイア、1419-ヴィテルボ,1473)は、1473年、ピア・カーサ・フォルテ・ディ・サピエンツァを設立し、貧しい人々のための学校と図書館を寄贈しました。最初、その場所は別の場所にありましたが、やがて、このサピエンツァ宮に移転して、現在に至ってます。


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現在、市立図書館になってます。


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ロッジャ


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ロッジャの柱頭


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サピエンツァ広場にある、もう一つの教会、旧サン・ヤコポ・イン・カステッラーレ教会です。


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サン・ヤコポ・イン・カステッラーレ修道院だった建物は文書館になってます。


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サピエンツァ広場を後にしました。


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(つづく)

1引き続きスピリト・サント教会です。


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内部の祭壇画などを見て回りました。


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ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ(ナポリ、1598-ローマ、1680)によって1668年に設計され、1670年にマッティア・デ・ロッシ(ローマ、1638-1695)によって制作された主祭壇です。


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主祭壇画はピエトロ・ダ・コルトーナ(コルトーナ、1597-ローマ、1669)の「聖イグナツィオに顕現するキリスト」(1670)


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主祭壇と主祭壇画は第238代教皇クレメンテ9世(ジュリオ・ロスピリオージ枢機卿)(ピストイア,1600-ローマ、1669 教皇在位:1667-1669)の指示によって制作されました。


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後陣天井


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ロレートの聖母礼拝堂


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オットー・ファッブローニの「ロレートの聖母」(1670c)


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ロレートの聖母礼拝堂側壁の祭壇画


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ピストイアの逸名画家作「無原罪の御宿り」(1710c)


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ロレートの聖母礼拝堂左側壁の祭壇画


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ピストイアの逸名画家作「羊飼いの礼拝」(1710c)


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次はバンキエーリ礼拝堂です。


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オッタヴィオ・ダンディーニ(フィレンツェ、1680c-1750)の「十字架降下」(1726以降)


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オッタヴィオ・ダンディーニはイエズス会の修道士画家でした。


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オッタヴィオ・ダンディーニ(フィレンツェ、1680c-1750)の「光悦の聖フランチェスコ」(1726以降)


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オッタヴィオ・ダンディーニ(フィレンツェ、1680c-1750)の「メッシーナのマンテッロ縦断を祈願するパオラの聖フランチェスコ」(1726以降)


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詳細不知


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オルガン


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アンドレア・ヴァッカの「ジョヴァンニ・ヴィスコンティの記念碑」(1716)


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外に出ました。


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スピリト・サント広場はスピリト・サント修道院教会の中庭でした。修道院の建物を取り壊して広場にしました。駐車場として使用されていましたが、駐車場ではなく他の有効活用が具体化しつつあるようです。


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スピリト・サント広場に立つ、チェーザレ・シギノルフィ(モデナ、1833-1902)の「ニッコロ・フォルティグエッラ枢機卿の記念碑」(1863)です。


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記念碑の台座

ニッコロ・フォルティグエッラ枢機卿(ピストイア、1419-ヴィテルボ、1473)は、ピストイア司教を務めていたころ、ピストイアの貧しい人々の学校と図書館を寄贈しました。
19世紀の慈善活動家ニコロ・プッチーニがニッコロ・フォルティグエッラ枢機卿の記念碑を造るために多額の金を遺贈しました。


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(つづく)

1一旦ドゥオーモ広場を後にします。


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スピリト・サント広場に向かいました。


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スピリト・サント教会の鐘楼が見えてきました。


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スピリト・サント広場の青空市は靴が専門です。


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広場の名称の由来は、広場に面してスピリト・サント教会が建っているからです。


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1641年、ピストイア出身の貴族ロスピリオージ家がこの地にイエズス会を立ち上げましたが、やがてジュリオ・ロスピリオージ枢機卿(後の第238代教皇クレメンテ9世:在位1667-1669)(ピストイア,1600-ローマ、1669)を中心とする同家が教会建設を熱心に進めました。


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そうして1647年に創建され、1685年に完成し、1685年に奉献式が執り行われたバロック様式のサンティグナツィオ・ディ・ロヨラ教会が前身です。


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しかし、1773年にイエズス会が抑圧されてしまい、教会は1774年にスピリト・サント会の所有となると共に、教会の名称もスピリト・サント教会と変更されました。
このような歴史があるため、サンティグナツィオ・ディ・ロヨラ教会とも呼ばれてます。


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1783年、スピリト・サント会が抑圧され、長い間、教会は次々と変遷する歴史を刻みましたが、1988年に宗教活動が正式に再開され現在に至ってます。
ファサードは未完成の荒壁になっていることから、バロック様式ながら古い建物と誤解を受けることがあるようです。


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鐘楼


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右側の外壁


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芸術的に見どころが豊富です。


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拝観します。


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中に入りました。


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単廊式、ラテン十字形、バロック様式の内部です。


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右側壁


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ジュリオ・ロスピリオージ枢機卿(後のクレメンテ9世)が内部装飾に尽力したとされてます。


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祭壇画などを見て回りました。


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ルドヴィーコ・ジミニャーニ(ローマ、1643-ザガローロ、1697)の「天上のキリスト、聖母、聖ジュゼッペと聖人たち」(1664/65)


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次の礼拝堂です。


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アンドレア・ポッツォ(トレント、1642-ウィーン、1709)と工房の「聖フランチェスコ・セヴェリオの説教」(1702)


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(つづく)

1プレトリオ宮の続きです。


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中庭柱廊のフレスコ画です。


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代々のポデスタを務めた人の紋章です。


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中庭にある、石で出来た中世の裁判官席です。


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二階(日本の)に向かう階段


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興味深い中庭でした。


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外に出ました。


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この時間は未だMuseo Civicoは開館してません。


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ドゥオーモ広場の建物を見ました。


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写真左に低い鐘楼があります。今は存在しない教会の鐘楼です。


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旧サンタ・マリア・カヴァリエラ教会だった建物です。


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Palazzo Bracciolini Api


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Palazzo dei Vescovi


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建物の外壁に建物名が書かれています。


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(つづく)

1ドゥオーモ広場です。


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次はプレトリオ宮ですが、ドゥオーモ広場に面して建ってます。


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写真右の建物がプレトリオ宮です。代々のポデスタ(行政長官)の公邸だったことからポデスタ宮とも呼ばれてます。


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1367年から1389年に建設されたゴシック様式の建物です。14世紀の建築家チェッリーノ・ディ・ネーゼの設計及び工事監督によって建設されたという有力説があります。また、アンドレア・ピサーノ(ポンテデーラ、1290c-オルヴィエート、1348/1349)の設計によるとの説もありますが、ピサーノの設計にするには、その死から工事開始まで長期間開きすぎているので、今ではピサーノ設計説は取り上げないのが普通となっているようです。


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ドゥオーモ広場の説明板です。


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プレトリオ宮は裁判所として使用されてます。時々特別な催事場としても使用されてます。


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19世紀前半に裁判所として使用するために大規模な拡張工事が行われましたが、構造の多くは変更されず14世紀の姿を殆ど見ることが出来ると言われてます。


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ゴシック様式の窓


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ファサードの紋章


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中庭に入りました。


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中庭から見上げたプレトリオ宮


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中庭の壁に掲げられた彩釉テラコッタの紋章


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中庭の柱廊にフレスコ画があります。


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フレスコ画は15世紀に描かれました。


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代々のポデスタの紋章が追加されました。


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壁の紋章も代々のポデスタのものです。


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28(2)


29(1)


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(つづく)

1ドゥオーモの最終回になります。


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芸術的に優れた作品が多く楽しめます。


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アンドレア・デル・ヴェロッキオ(フィレンツェ、1435-ヴェネツィア、1488)の「ニッコロ・フォルデリ枢機卿の記念碑」(1477)


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地元ピストイア生まれのニッコロ・フォルデリ枢機卿(ピストイア、1419-ヴィテルボ、1473)が没したことを知ったピストイア総評議会は、1473年にヴェロッキオに記念碑の制作を依頼したのです。


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ロレンツォ・ロッティ通称イル・ロレンツェット(フィレンツェ、1490-ローマ、1541)の「ニッコロ・フォルデリ枢機卿像」(1511)


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制作者不明の「バロンド・リッチャルディ司教の墓」(1348)


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洗礼盤です。


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ベネデット・マイアーノ(マイアーノ、1442-フィレンツェ、1497)のデザインに基づきアンドレア・ディ・ピエトロ・フェッルッチ(フィエゾレ、1465-フィレンツェ、1526)が制作しました。


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ジュゼッペ・ベッツゥオーリ(フィレンツェ、1784-1855)の「聖フィロメーナ」(1840)


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フィリッポ・タルキアーニ(フィレンツェ、1576-1645)の「ピエタ」(1618)


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ブロンズィーノの追随者作「聖ジョヴァンニ・バッティスタ」(1610c)


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聖ヤコポの銀の祭壇


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非常に貴重な作品とされてます。


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カウンターファサード


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外に出ます。


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(つづく)

1ドゥオーモの続きです。


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カッラーラ派逸名彫刻家作「ゲラルド・ゲラルディ司教の墓」(1703)


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ピストイア司教を務めていました。


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奇跡の聖母礼拝堂です。


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シエナ派逸名画家による「奇跡の聖母」(14世紀)


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最後の審判礼拝堂に残るフレスコ画の一部です。


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ジョヴァンニ・ダ・ポンテ(フィレンツェ、1385-1457)の「最後の審判」(1417-20c)


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フィレンツェの逸名画家作「聖ゼーノ」(1250c)


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フィレンツェの逸名画家作「キリストと聖ヤコポと聖ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ」(1250c)


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エミリアの逸名画家作「聖ジョヴァンニ・バッティスタ」(1250c)


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磔刑礼拝堂です。


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サンテ・ブルネッティの「磔刑像」(17世紀)


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サン・バルトロメオ礼拝堂です。


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礼拝堂の祭壇画


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マッテオ・ボネーキ(フィレンツェ、1669-1756)の「聖バルトロメオの殉教」


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サン・バルトロメオ礼拝堂祭壇下の彫刻


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(つづく)

1引き続きドゥオーモです。


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この聖堂で最も有名な作品です。


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コッポ・ディ・マルコヴァルド(フィレンツェ、1225c-1280c)とサレルノ・ディ・コッポ(13世紀後半活動)の「聖ゼーノの磔刑像」(1274)


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サレルノ・ディ・コッポはコッポ・ディ・マルコヴァルドの息子です。


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コッポ・ディ・マルコヴァルドに注文されましたが、未完成でしたが息子のサレルノが仕事を引き継いで完成させました。キリストの部分はサレルノによって制作されたと言われてます。


6(1)
磔刑像の左右に「キリストの受難の物語」があります。


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サレルノ・ディ・コッポによって描かれたキリスト


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ユダの接吻


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キリストの鞭打ち


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十字架降下


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右上の大祭司の前のキリスト


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キリストの埋葬


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墓の前の敬虔な女性たち


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これも有名な作品です。


16
アンドレア・デル・ヴェロッキオ(フィレンツェ、1435-ヴェネツィア、1488)とロレンツォ・ディ・クレディ(フィレンツェ、1459-1537)とヴェロッキオ工房の「玉座の聖母子と二聖人」(1475-83)
この作品が制作した当時、レオナルド・ダ・ヴィンチがヴェロッキオ工房にいた時期に重なっており、制作に参画した工房の一人としてレオナルドがいたかも知れないとされてます。


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玉座の聖母子


18
聖ジョヴァンニ・バッティスタ


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聖ゼーノ、またはアレッツォの聖ドナート


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詳細不知


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堂内にジョヴァンニ・バルドゥッチ(フィレンツェ、1560-ナポリ、1631)の「聖フェリーチェの物語」、「聖ヤコポの物語」のフレスコ画があります。


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麻痺者を治す聖フェリーチェ


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聖フェリーチェの遺体の移送


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聖フェリーチェの誕生


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聖フェリーチェの奇跡


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ジョヴァンニ・バルドゥッチ(フィレンツェ、1560-ナポリ、1631)の「聖ヤコポの物語」(1582)


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(つづく)

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