イタリア芸術を楽しむ

イタリアの魅力を味わい尽くすには、一生に何度旅をすれば足りるだろう。芸術の宝庫にして、歴史の生きた証であるイタリア。 惹き付けて止まない絵画、彫刻、歴史的建造物、オペラなど、芸術の宝庫であるイタリアを楽しむブログです。 記事は一日に一つアップしています。記事の見方ですが、例えば「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その4)」は2017年10月20日にアップしました。各記事にカレンダーが表示されてますが、カレンダー上の2017年10月21日をクリックして頂ければ「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その5)」になります。(その3)は2017年10月20日となります。 BY:シニョレッリ

2025年04月

1広場に面して教会が建ってます。


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サント・ステファノ・デイ・カヴァリエーリ教会です。


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ジョルジョ・ヴァザーリの設計による建物です。


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ミサの時だけ扉が開くようです。


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扉が開きました。


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中に入りました。


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左側壁


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右側壁


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天井


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主祭壇


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外に出ます。


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(つづく)

1引き続きカヴァリエーリ広場です。


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Palazzo della Carovanaの続きです。


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ファサードの彫刻


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ピエトロ・タッカ(カッラーラ、1577-フィレンツェ、1640)の「コジモ2世の胸像」(1633c)


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リドルフォ・シリガッティ(フィレンツェ、1553-1608)の「コジモ1世の胸像」(1590-96c)


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リドルフォ・シリガッティ(フィレンツェ、1553-1608)の「フランチェスコ1世の胸像」(1690-96c)


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ジョヴァンニ・バッティスタ・フォッジーニ(フィレンツェ、1652-1725)の「フェルディナンド2世の胸像」(1681-82c)


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ジョヴァンニ・バッティスタ・フォッジーニ(フィレンツェ、1652-1725)の「コジモ3世の胸像」(1718)


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中庭に入ります。


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中庭です。


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中庭の井戸


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次は写真右端の建物です。


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Palazzo del Collegio Puteanoです。


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Palazzo del Collegio PuteanoはPalazo dell’Orologioに向かって左にあります。


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この場所には3つの別々の建物が建っていましたが、1594年から1598年にかけて、3つの建物を一つにする改造工事によって出来ました。


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1605年、当時のピサ大司教がサント・ステファノ騎士団に与えました。それから直ぐの17世紀初頭にピエモンテからの学生を受け入れるために建物が使用されるようになりました。


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ファサードにフレスコ装飾があります。


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ファサードの紋章


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Palazzo del Collegio Puteanoに隣接して教会があります。


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サン・ロッコ教会です。教会と思わないで通り過ぎそうです。


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1028年の文書に記録されているサン・ピエトロ・イン・コルテヴェッキア教会が前身です。1575年に現在の姿にほぼ近い形に改造されましたが、それを機に教会の名称が変更されたそうです。
1782年に活動中止しましたが、1899年に聖別されて現在に至ってます。


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単廊式の小さな教会です。


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主祭壇
(つづく)

1サン・シスト教会を後にしました。


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カヴァリエーリ広場に向かいました。


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時計がある建物のアーチを潜ります。


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アーチを潜れば目的の広場に出ます。


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カヴァリエーリ広場です。写っている教会はサント・ステファノ・デイ・カヴァリエーリ教会です。


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この場所にはローマ帝国のフォロがあったとされてます。それ以降、中世ピサの政治の中心でした。ロンゴバルド時代にはカスタルドの邸宅がありました。


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1140年からPiazza delle Sette Vieと呼ばれていたそうです。


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1406年、ピサはフィレンツェに破れ、フィレンツェの支配下に置かれるようになりましたが、広場と広場にあった建物はフィレンツェから派遣された執政官によるピサ支配の中心地となりました。


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1558年、トスカーナ大公コジモ1世(フィレンツェ、1519-1574)は、この地をサント・ステファノ騎士団に与える決定を行い、ジョルジョ・ヴァザーリ(アレッツォ、1511-フィレンツェ、1574)に命じて、広場の改造と広場にあった建物の改造や新築に当たらせました。1562年から工事が開始され、17世紀前半に完成した広場や建物が現在見ることが出来る姿の原形になりました。


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19世紀末、ピサに路面電車が敷設されることになりました。カヴァリエーリ広場は、路面電車システムの本部と車両基地が置かれることになり、20世紀初頭から広場の改造工事が行われ、1912年から1952年までピサ路面電車網の中心地となりました。
1952年に路面電車が廃止されたものの、広場には線路が敷かれ車両が置かれたままになっていました。
2012年から2013年に広場の修復工事が行われ、現在の姿となりました。
広場に面して建つ建物を見て回りました。


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先ほど、この建物のアーチを潜って広場に出ました。


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Palazzo dell’Oroligio、またはPalazo del Bonomoと呼ばれてます。
中世に建てられた古い建物で、1357年からCapitano del Popoloが居住するようになりましたが、後にピサの有力貴族グゥアランディ家に買収され、同家の邸宅となりました。
1554年に改造工事が開始され、1607年から1609年にかけて行われた大修復工事を経て、現在の姿になったと言われてます。
1566年以降、サント・ステファノ騎士団の病院として使用されました。1919年、同騎士団が抑圧され、個人所有となりました。
1982年、ピサ高等師範学校に譲渡され、現在は同学校の図書館として使用されてます。


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ファサードのフレスコ


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時計


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アーチ天井のフレスコ


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次はこの建物です。


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Palazzo della Carovana、またはPalazzo dei Cavalieriと呼ばれてます。


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中世のアンツィアーニ宮が前身です。サント・ステファノ騎士団の本部として使用されることになり、ジョルジョ・ヴァザーリの設計によって、1562年から1564年に大改造されて、現在の姿になりました。


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1846年にピサ高等師範学校の学舎として使用されるようになりました。


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現在、ピサ高等師範学校の本拠地となってます。


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建物の前にコジモ1世像があります。


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外壁のスグラフィート装飾


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(つづく)

1次はサン・シスト教会です。


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写真左の鐘楼はサン・シスト教会のものです。


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サン・シスト広場です。


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広場に面してファサードがあります。


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この場所には、ピサにおけるロンバルディア時代、カロリング朝時代に重要な存在だったサン・ピエトロ・コルテ・ヴェッキア教会がありましたが、経時劣化によって荒廃して、10世紀頃には活動が停止されていました。
その古い建物を取り壊して、その土地に1087年創建、1133年完成したピサ・ロマネスク様式の建物がサン・シスト教会です。


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1133年に奉献式が執り行われました。


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15世紀、17世紀、19世紀に改造や修復が行われましたが、20世紀に元の姿に戻されました。


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もう少し経つと扉が開くはずですが、今日はどうでしょうか。


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扉が開きました。


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現在の外観は創建時の姿にほぼ近いと言われてます。


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拝観します。


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中に入りました。


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20世紀に修復された天井


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三廊式、ロマネスク様式の内部です。


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右側廊方向


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右側廊


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マウロ・ソデリーニ(フィレンツェ、1704-1746)の「光悦のアヴィーラの聖テレーザ」(18世紀)


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ジョヴァンニ・ドメニコ・ピアストリーニ(ピストイア、1680-ローマ、1740)の「聖イグナツィオに顕現するキリスト」(18世紀)


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詳細不知の磔刑像


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ピサの逸名画家作「聖母子」(1290-1300)


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主祭壇


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詳細不知


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詳細不知


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外に出ます。


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(つづく)

1相変わらずの賑わいでした。


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ドイツ人が多かったと思いました。


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日本人はほとんど見かけません。


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ドゥオーモ博物館です。


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展示が何時も同じです。この時は入館せず。


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人出が多過ぎてウンザリ。


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次は大司教館です。


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Palazzo Arcivescovile 大司教館です。
ピサが独立した司教区になったのは4世紀頃と言われてますが、1092年にピサ大司教区となりました。


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現在、大司教館が建っている場所にはトスカーナ辺境伯の小さな宮殿があり、カノッサの屈辱で有名なトスカーナ女伯マティルデ・ディ・カノッサ(マントヴァ、1046-ボンデーノ・ディ・ロンコーレ、1115)が小さな宮殿を所有しており、時々住んでいました。
1115年、マティルデは全財産を教皇庁に遺贈するとの遺言を残し没しましたが、それによって小さな宮殿も教皇庁の所有となり、1207年までフィレンツェのピサ総督の宮殿として使用されていました。


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その後、宮殿は荒廃して危険になったので、高位聖職者でメディチ家のフィリッポ・ディ・メディチによって1472年に建設され、ピサ大司教館となりました。それから約30年後の1503年、ほぼ全焼する火災に遭い、16世紀前半に再建に近い形で大修復された外観が今の姿の原形とされてます。


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大司教館の入り口です。


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中に入ります。


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キオストロに出ます。


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キオストロ


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キオストロ中央に彫像が置かれてます。


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アンドレア・ヴァッカ(カッラーラ、1660/1665-1745)の「モーゼ像」


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柱廊
大司教館には幾つかの作品があります。


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トスカーナの逸名画家作「玉座の聖母子と四聖人」(1516)


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タッデオ・ディ・バルトロ(シエナ、1362-1422)の「聖母子と四聖人」(1396-97c)


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外に出ます。


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(つづく)

1教会扉が閉まる時間になったので午前中の教会巡りは終わりです。


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そうは言ってもドゥオーモは例外で、夕方まで開いてます。


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柱廊のフレスコ画


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「斜塔に行ってみるか」


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青空市はそろそろ終わりです。


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一休みします。


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ここで一休み。


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ローマ遺跡に来ました。


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遺跡の左に進みます。


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ドゥオーモ広場はもう直ぐです。


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斜塔に上ります。


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斜塔の階段


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斜塔に上ったのは久し振りでした。


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ドゥオーモの後陣は修復工事中でした。


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(つづく)

1サン・ミケーレ・イン・ボルゴ教会です。


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教会が建っている場所には、エトルリア人やローマ人の遺跡があったそうです。1016年以前にベアート・ボーノによって建設された、聖ミケーレに捧げられたベネデット会修道院教会が前身で、1016年に文書に初めて記載されました。


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1105年から1111年の間にカマルドリ修道会の所有となり、その所有は1782年まで続きました。1783年から世俗的な管理となり現在に至ってます。


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現在の建物構造の原形は13世紀から14世紀初頭にかけて行われた一連の拡張と改修の結果と言われてます。
ファサードはフラ・グリエルモ・アニェッリによって建設されたとされてます。


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1944年に爆撃を受けて、建物の多くが戦後に再建されました。現在の姿は1989年から1990年に行われた最終修復の結果です。


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メインポータル上にタベルナコロがあります。


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タベルナコロの彫刻は、ルーポ・ディ・フランチェスコ(ピサ、13世紀から14世紀)の「聖母子と天使と修道院長」(14世紀)のコピーです。
本物はサン・マッテオ国立美術館にあります。


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修道院の扉


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メインポータル


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左ポータル


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右ポータル


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右ポータル上ルネッタ


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三廊式、ロマネスク様式の内部です。


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左側廊


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右側廊


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聖水盤


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中央礼拝堂


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ルネッタの聖ミケーレのフレスコ画


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フレスコ断片


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聖ミケーレ


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カウンターファサード


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扉が開いていることが少ない教会です。


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教会巡りを続けました。


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(つづく)

1サン・マルティーノ教会を後にして、サン・ミケーレ・イン・ボルゴ教会に向かいました。


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アルノ川沿いのガリレオ・ガリレイ通りをメッツォ橋方向に進みます。


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メッツォ橋です。


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橋の手前の9月20日広場です。


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Logge dei Banchi


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旗が掲げられた建物は市庁舎です。


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Palazzo Gambacorti


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Palazzo Gambacortiにある聖母子のモザイク


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メッツォ橋です。


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メッツォ橋から見たPalazzo Gambacortiです。


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橋の下を流れるアルノ川


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橋を渡ってガリバルディ広場に出ました。


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ガリバルディ広場に立つガリバルディ像


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写真右の柱廊上のルネッタに注目です。


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聖母子の浮彫があります。


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Borgo Strettoを進みます。


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写真右奥に教会があります。


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サン・ミケーレ・イン・ボルゴ教会です。


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アルノ川沿いの少し下流にサン・ミケーレ・デリ・スカルツィ教会があります。直ぐ近くに2つのサン・ミケーレ教会があるので、区別するためにイン・ボルゴとデリ・スカルツィの呼称が必須です。


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参考までにサン・ミケーレ・デリ・スカルツィ教会の写真を載せておきます。


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ゴシック様式の影響を受けたピサ・ロマネスク様式のファサードです。


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(つづく)

1引き続きサン・マルティーノ教会です。


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ジョヴァンニ・ダンドレア通称イル・ソルドの「受胎告知」(1606)


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トスカーナの逸名画家による「聖ボーナ」(1690c)


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フレスコ断片


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ジョヴァンニ・ディ・二コラ(ピサ、1326c-1363)に帰属する「キリストの神殿奉献」


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ジョヴァンニ・ディ・二コラ(ピサ、1326c-1363)に帰属する「ご誕生」、「マギの礼拝」


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シエナの逸名画家作「聖母子」(1410c)


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トスカーナの逸名画家による「聖マルティーノ」


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詳細不知


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アンドレア・グアルディ(フィレンツェ、?-ピサ?、1476)の「聖母子」


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外に出ました。


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(つづく)

1引き続きサン・マルティーノ教会です。


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教会内の作品を見て回ります。


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ドメニコ・クレスティ通称イル・パッシニャーノ(フィレンツェ、1560-1638)の「聖母と聖クリストフォロと聖フランチェスコ」


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アントニオ・ファスチェッティの「聖ボーナ」
アントニオ・ファスチェッティは現代の彫刻家です。


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オルガン


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説教壇


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告解室


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オラツィオ・リミナルディ(ピサ、1594-1631)の「聖ボーナの着衣式」(1627-29)
着衣式とは修道女になるための儀式です。


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ヤコポ・リゴッツィ(ヴェローナ、1547-フィレンツェ、1627)の「悔悛の聖マリア・マッダレーナ」


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(つづく)

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