イタリア芸術を楽しむ

イタリアの魅力を味わい尽くすには、一生に何度旅をすれば足りるだろう。芸術の宝庫にして、歴史の生きた証であるイタリア。 惹き付けて止まない絵画、彫刻、歴史的建造物、オペラなど、芸術の宝庫であるイタリアを楽しむブログです。 記事は一日に一つアップしています。記事の見方ですが、例えば「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その4)」は2017年10月20日にアップしました。各記事にカレンダーが表示されてますが、カレンダー上の2017年10月21日をクリックして頂ければ「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その5)」になります。(その3)は2017年10月20日となります。 BY:シニョレッリ

2025年05月

1次はサン・マッテオ国立美術館です。


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サン・マッテオ国立美術館については、既に詳しく触れました。ピサに行けば必ず行きますが、訪れるたびに展示作品が変わります。


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サン・マッテオ国立美術館にやってきました。


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美術館の入り口


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サン・マッテオ女子修道院(後に刑務所だった)の建物に美術館があります。


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キオストロ


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キオストロ回廊


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(つづく)

1未だサン・フランチェスコ教会の続きです。


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屋根が危険なので、2018年から立ち入りが禁止されてますが、閉鎖後の写真です。


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信者席が撤去されてます。


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閉鎖後のファサード


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キオストロ


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キオストロ回廊


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外に出ました。


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共和国広場に向かいました。


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市域の拡大によって築かれた新しい城壁(実際は古いですが)


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突き当りが共和国広場です。


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広場にやってきました。


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広場に面して教会が建ってます。ファサードではありません。


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サンタンドレア・フォリスポルタム教会の後陣です。


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ファサード側に回ります。


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ファサード側に出ました。


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サンタンドレア・フォリスポルタム教会です。建設された当時、この場所は城壁外でした。


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1104年の文書に、その存在が初めて記録されたそうですが、11世紀末にはあったとする確実な証拠があるそうです。
1191年、隣接して病院が建設されたそうですが、教会の主たる機能は病院の運営だったそうです。
1839年に聖別されなくなり、建物は魚市場に転用されましたが、1847年に再び聖別されたそうです。
第二次世界大戦の爆撃によって壊滅的な被害を受けて閉鎖されましたが、大修復工事を経て1948年に活動が再開されました。
1986年に聖別されなくなり、建物が劇場に転用されることになり、改造工事後の1987年からサンタンドレア劇場となりました。


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現在のファサードの姿です。


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2011年に修復工事が行われ、ファサード上部が写真のようになりました。バラ窓はバラ窓に見えるように作られたフェイクです。


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鐘楼


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かなり前衛的な演目を上演するようです。


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(つづく)

31引き続きサン・フランチェスコ教会です。


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祭壇画を観て回りました。


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比較的新しいでしょう。


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作品帰属は後の写真で


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作品帰属は後の写真で


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作品帰属は後の写真で


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ナポレオンに盗まれた作品のコピー画でしょう。


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ナポレオンに盗まれた作品のコピー


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詳細不知


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中央礼拝堂


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中央礼拝堂のフレスコ画


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主祭壇


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(つづく)

1サン・フランチェスコ教会です。


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長年の風化によって屋根の損傷が顕著となって、中に入るのは危険とされて2018年に閉鎖されました。2019年から修復と一部再建の工事が開始されましたが、資金難のために工事が進捗せず、扉が閉まったままのようです。


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1233年の文書に、現在地にサン・フランチェスコ教会の存在が初めて記載されたそうです。


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1261年、当時のピサ大司教フェデリーコ・ヴィスコンティ・ディ・リコヴェランツァ(ピサ、1200c-1277)がサン・フランチェスコ教会の拡大を命じ、建築家ジョヴァンニ・ディ・シモーネ(ピサ、1245から活動記録-1298以前没)が起用され、ジョヴァンニの設計、工事監督によって、1265年に工事着工、1270年に一応の完成を見たゴシック様式の建物が現在の外観の原形となったそうです。
ファサード(ルネサンス様式)は未完成のまま放置され、1603年に漸く完成したのです。


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当然大修道院が併設されていました。


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ジョヴァンニ・ディ・シモーネ設計による鐘楼


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左側壁


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左翼廊


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後陣


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ナポレオンによる抑圧令によって、修道士が追放されると共にサン・フランチェスコ修道院教会の複合施設は閉鎖されましたが、ナポレオンの失脚後、宗教活動が再開されました。
1861年、イタリア政府の抑圧令によって建物はピサ市の所有となって聖別されなくなりました。1866年から倉庫として使用されるようになりました。
1899年、ピサ市は礼拝のみに教会を使用する条件でピサ大司教区に譲渡しました。

ナポレオンのイタリア侵攻の際、多くの貴重な作品がフランスに盗まれてしまいました。ナポレオンの失脚後、美術品の返還交渉が行われましたが、サン・フランチェスコ教会の作品は返還されることがありませんでした。
それらは今でもルーブル美術館にありますが、ルーブルに行くと不愉快極まりない私です。
ルーブルで展示されている、サン・フランチェスコ教会にあった作品を3つ紹介しておきます。


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チマブーエ(フィレンツェ、1240-ピサ、1302)の「マエスタ」(1289c)


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ジョット(ムジェッロ、1267-フィレンツェ、1337)の「聖痕を受ける聖フランチェスコ」(1295-1300)


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ベノッツォ・ゴッツォーリ(スカンディッチ、1420-ピストイア、1497)の「聖トマス・アクィナスの勝利」(1470-1475)


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中に入りました。


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単廊式、ラテン十字形、ゴシック様式の内部です。
フランスに盗まれた作品があるものの、今でも多くの美術作品があります。


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ヤコポ・キメンティ・ダ・エンポリ(フィレンツェ、1551-1640)の「キリストの洗礼」(1620)


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ジョヴァンニ・バッティスタ・パッジ(ジェノヴァ、1554-1627)の「キリストの復活」(1599c)


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ドメニコ・クレスティ通称イル・パッシニャーノ(パッシニャーノ、1559-フィレンツェ、1638)の「点後のカギを聖ピエトロに託すキリスト」


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詳細不知


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サンティ・ディ・ティート(フィレンツェ、1536-1603)の「聖痕を受ける聖フランチェスコ」(1592c)


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アレッサンドロ・カソラーニ(カーゾレ・デルザ、1552-シエナ、1606)の「聖ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタの奇跡」(17世紀初頭)


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(つづく)

32引き続き旧サン・パオロ・アッオルト教会内部に設けられた古代美術ギャラリーの展示です。


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ピサ大学の古文書館でもあるので、本があります。


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写真右の多翼祭壇画はタッデオ・ディ・バルトロ作品の複製画です。本物はナポレオンのイタリア侵攻の際にフランス軍に強奪され、現在はグルノーブルにあります。


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外に出ました。


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次はサン・フランチェスコ教会でしたが、この時間は扉が開いていないので暫し時間潰し。


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遠回りしました。


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(つづく)

1次はサン・パオロ・アッオルト教会です。


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サン・パオロ・アッオルト教会 Chiesa di San Paolo all'Ortoです。最早聖別されていない旧教会です。


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1068年の文書にChiesa di San Paolo in Burgoの存在が初めて記載されたそうです。
教会がある地域は当時市の郊外に当たり野菜畑が多かったことから、1120年の文書に初めてChiesa di San Paolo all’Ortoとして記載されたそうです。(Orto=野菜畑、菜園という意味)1120年以降、教会名は常にChiesa di San Paolo all’Ortoとして記載されました。
14世紀になると、市域が拡大され、教会は城壁内の教区教会となり、参事会教会 Collegiataに昇格しました。


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1472年、教会はアウグスティヌス会修道女に託され、女子修道院が併設されました。1472年から1481年に教会は大改修され、現在の外観の原形となりました。


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18世紀なると修道院活動は徐々に縮小されるようになりましたが、その縮小に伴い遂に1785年、女子修道院だった建物はピサ女子大学の学舎として使用されるようになりました。


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1789年、教区教会から格下げされ、参事会教会の地位を失いました。


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1808年、ナポレオンの抑圧令によって活動が停止されたものの、1819年に活動が再開されました。
1950年、聖別停止となり、教会だった建物はピサ市の所有となりました。ピサ市による修復工事が行われ、工事が完了した2005年からピサ大学古文書館として使用されると共に、建物内に古代美術ギャラリーが併設されるようになりました。


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鐘楼


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12世紀に完成した鐘楼は幾度となく修復工事が行われました。


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ファサードを見ます。


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ビドゥイーノ(ピサ、ルッカなどで1173-1194活動記録)による装飾(12世紀)


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中に入りました。


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18世紀に後期バロック様式に改造された内部です。
過って、この教会にあった美術作品を紹介します。


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彩色磔刑像


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サン・マッテオ国立美術館にあります。


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タッデオ・ディ・バルトロ(シエナ、1362-1422)の「サン・パオロ・アッオルト教会の多翼祭壇画」(1395)
ナポレオンのイタリア侵攻の際、フランスに持ち去れられ、一時はルーブル美術館で展示されました。ナポレオンの失脚後、返還交渉が行われましたが、フランス側は作品は行方不明と主張して、イタリアに戻る事はありませんでした。現在はグルノーブルのグルノーブル美術館で展示されてます。


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三廊式の内部です。


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教会としての見どころは皆無と言ってよいかと思います。


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(つづく)

1サンタ・チェチリア教会です。


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大体閉まってます。


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ファサードの装飾を見ます。


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単廊式のシンプルな内部です。第二次世界大戦後に再建に近い形で大修復されたので、オリジナルの姿は垣間見ることさえ困難です。


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銘板


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ヴェントゥーラ・サリンベーニ(シエナ、1568-1613)の「聖チェチリアの殉教」(1607)


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16世紀のタベルナコロ


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17世紀のトスカーナの逸名画家作「聖家族と聖フィリッポ・ネリ」(17世紀)


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詳細不知


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カウンターファサード方向


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ここで一休みしました。


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街角のタベルナコロ


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街角のメディチ家の紋章


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サン・ジョルジョ・デイ・テデスキ教会です。


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1316年、モンテカティー二の戦いで戦死したドイツ兵を悼むために建設された教会です。


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ファサードルネッタのフレスコ画
(つづく)

33サン・フレディアーノ教会の続きです。


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聖水盤


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クーポラのフレスコ画


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カウンターファサード方向


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外に出ました。


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Via Cavalcaの突き当りに塔があります。


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1406年に建設されたTorre del Campanoです。建設された当時はTorre dei Casciaiと呼ばれていたそうです。


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ピサ大学の講義開始、終了などに鐘が鳴らされてます。


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この付近にはユダヤ人街があり、1570年までこの塔はシナゴーグの一部になっていました。


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1785年、ピエトロ・レオポルド大公はピサ大学の時を知らせるために塔を買収し、改修工事を経てピサ大学の所有となりました。


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現在もピサ大学の時鐘です。


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次はサンタ・チェチリア教会です。


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サンタ・チェチリア教会にやってきました。


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1103年、聖ベネデット会カマルドリ修道会によって創建され、1107年に奉献されました。1236年に完成しました。


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幾度となく改造、修復が繰り返されましたが、第二次世界大戦の爆撃によって壊滅的な被害を受け、戦後に殆ど再建と言ってよいほどの大修復工事が行われました。そのため、鐘楼を除いて創建時の姿は全くとどめていないとされてます。


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1236年に建設された鐘楼


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(つづく)

1引き続きサン・フレディアーノ教会です。


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中の祭壇画などを見て回りました。


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翼廊がありません。


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中央礼拝堂


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木製の磔刑像はCosimo Arrighiによって1570年に制作されたそうです。サント・ステファノ・デイ・カヴァリエーリ教会のために制作され、19世紀まで同教会にありましたが、19世紀にサン・フレディアーノ教会に移されました。


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後陣に置かれているパイプ・オルガンは1910年に制作されたものです。


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後陣天井のフレスコ画


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ルティリオ・マネッティ(シエナ、1571-1639)の「父なる神」(1612)


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ルティリオ・マネッティのフレスコ画


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無原罪の聖母礼拝堂


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制作者不明


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ペショリーニ家礼拝堂です。


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12世紀中頃に制作された磔刑像


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制作者が不明です。


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ペショリーニ家礼拝堂左側壁にあるヴェントゥーラ・サリンベーニ(シエナ、1568-1613)の「栄光のペショリーニ家の人々」


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ペショリーニ家礼拝堂右側壁にあるヴェントゥーラ・サリンベーニ(シエナ、1568-1613)の「ペショリーニ家の黄金時代」


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ヴェントゥーラ・サリンベーニ(シエナ、1568-1613)の「受胎告知」(1607)


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ヴェントゥーラ・サリンベーニ(シエナ、1568-1613)の「ご誕生」(1607)


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ルティリオ・マネッティ(シエナ、1571-1639)のフレスコ画


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後陣右礼拝堂


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詳細不知


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アウレリオ・ローミ(ピサ、1556-1624)の「マギの礼拝」


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クレメンテ・ボッチャルド(ジェノヴァ、1620-ピサ、1658)の「天上の聖母を崇める聖カルロ・ボッロメーオ」(17世紀中頃)


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(つづく)

1カヴァリエーリ広場を後にしました。


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ピサ大学の学生が歩いていました。


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次はサン・フレディアーノ教会でしたが、少し遠回りしました。


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道に迷うことはありません。


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路地に入りました。


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突き当りがダンテ広場です。


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ダンテ広場です。


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銀行の建物です。


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ダンテ広場に面したバールで一休み。


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この鐘楼が目立ちます。


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サン・フレディアーノ教会の鐘楼です。


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ファサード側に回ります。


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後陣からファサード側に行きました。


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サン・フレディアーノ教会です。


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1999年からピサ市の大学教会になったので、正式名称がChiesa Universitaria di San Fredianoとなりました。


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11世紀中頃に建設されたロマネスク様式の教会です。1061年の文書に教会の存在が初めて記録されたそうです。


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1076年から1561年までサン・ベネデット会カマルドリ修道会の管理下に置かれました。1561年から1594までサントステファノ騎士団の本拠地でした。
2014年からはイエズス会の教会になっているそうです。


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13世紀に建設された鐘楼が現存します。


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ルネッタのフレスコ画


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拝観します。


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中に入りました。


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三廊式、ロマネスク様式の内部です。


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右側廊方向


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修復された天井


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左側廊


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右側廊


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コリント式列柱


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(つづく)

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