イタリア芸術を楽しむ

イタリアの魅力を味わい尽くすには、一生に何度旅をすれば足りるだろう。芸術の宝庫にして、歴史の生きた証であるイタリア。 惹き付けて止まない絵画、彫刻、歴史的建造物、オペラなど、芸術の宝庫であるイタリアを楽しむブログです。 記事は一日に一つアップしています。記事の見方ですが、例えば「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その4)」は2017年10月20日にアップしました。各記事にカレンダーが表示されてますが、カレンダー上の2017年10月21日をクリックして頂ければ「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その5)」になります。(その3)は2017年10月20日となります。 BY:シニョレッリ

2025年12月

1次はドゥオーモのキオストロです。


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キオストロの入り口


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キオストロに入りました。


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キオストロ上階回廊


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キオストロ上階回廊からの景観


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次はドゥオーモ広場に面して建っている建物です。


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16世紀に建設された病院だった建物です。現在、老人ホームとして使用されてます。


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サンタ・マリア修道院だった建物の一部はレストランになってます。


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病院だった建物の柱廊


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サンタ・マリア修道院


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(つづく)

1ドゥオーモ内部の礼拝堂を見て回ってます。


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詳細不知


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フレスコ断片


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次の礼拝堂です。


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1933年に建造された磔刑礼拝堂


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1932年に制作された磔刑像


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磔刑礼拝堂天井


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「聖ジローラモ」


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告解室


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次の礼拝堂です。


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1621年に建造されたカルロ・ボッロメーオ礼拝堂


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制作者不知の「聖カルロ・ボッロメーオ」


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カウンターファサード


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1874年に制作されたオルガン


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左側廊


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洗礼堂


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ポータル


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聖マッジョーレ像


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聖グイド像


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(つづく)

1ドゥオーモの礼拝堂を見て回ってます。


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次の礼拝堂です。


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ロザリオの聖母礼拝堂です。


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彫刻はジュゼッペ・ガルツォーニの「ロザリオの聖母」(1766-67)
彫刻を囲む15枚の小絵画は、ジョヴァンニ・モネヴィ(ヴィゾーネ、1637-1714)の「ロザリオの秘儀」です。


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ジョヴァンニ・モネヴィ(ヴィゾーネ、1637-1714)の「ロザリオの秘儀」


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次の礼拝堂に移ります。


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1766年に設けられた無原罪の御宿り礼拝堂です。


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次はサン・グイド礼拝堂です。アントニオ・フェッラーリによって1730年に建設された礼拝堂です。


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祭壇下に聖グイドの遺体が置かれてます。


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聖グイド(メラッツォ、1004c-アックイ・テルメ、1070)の遺体


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祭壇画は、ダヴィッド・コルテ(ジェノヴァ、1602-1657)の「聖グイドに顕現する聖母子」(1645)


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サン・グイド礼拝堂天井のフレスコ画


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サン・グイド礼拝堂左側壁のフレスコ画


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サン・グイド礼拝堂右側壁のフレスコ画


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サン・グイド礼拝堂のステンドグラス


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次の礼拝堂です。


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サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ礼拝堂です。


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あれ、どこかで見たことがある。
でも不完全な形です。
ピエモンテの逸名画家による「ラッファエッロ作『フォリーニョの聖母』のコピー画」です。完全なコピー画ではなく、天上の聖母子のみのコピー画です。


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これがラッファエッロの『フォリーニョの聖母」です。


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ヴァティカン絵画館にあります。


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洗礼堂です。


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洗礼盤上部に「キリストの洗礼」の彫刻があります。


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(つづく)

1引き続きドゥオーモです。


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中央礼拝堂を見ます。


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主祭壇


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主祭壇の浮彫


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後陣半ドーム


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ジョヴァンニ・モネヴィ(ヴィゾーネ、1637-1714)の「聖グイド」、「聖マッジョリーノ」、「聖アンブロージョ」(1668)


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中央礼拝堂左側壁


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ジョヴァンニ・モネヴィ(ヴィゾーネ、1637-1714)の「聖グイドの奇跡的治癒」(1668-70c)


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中央礼拝堂右側壁


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ジョヴァンニ・モネヴィ(ヴィゾーネ、1637-1714)の「水の上を歩くキリスト」(1668-70c)


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クーポラのフレスコ画はピエトロ・イヴァルディ通称イル・ムート・ディ・トレート(ポンツォーネ、1810-1885)によって1862年から1864年に制作されました。


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主祭壇後方に聖職者席があります。


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聖職者席後方上に祭壇画があります。


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ジョヴァンニ・モネヴィ(ヴィゾーネ、1637-1714)の「聖母被昇天」(1668)


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聖職者席左上方のステンドグラス


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聖職者席右上方のステンドグラス


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サン・カルロ・ボッロメーオ礼拝堂です。


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祭壇画についての詳細が分かりません。


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説教壇


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(つづく)

1引き続きアックイ・テルメのドゥオーモです。


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クリプタから内陣に戻りました。


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礼拝堂を見て回ります。


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礼拝堂天井


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クーポラ


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1786年に行われた修復の際に描き直されたフレスコ画の詳細が分かりません。


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次の礼拝堂


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ロベルト・ボネッリ(トリノ、1862-1894消息)の「最後の晩餐」(1880)


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礼拝堂左側壁


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右側壁


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次は聖具室に置かれている有名な祭壇画を見ます。


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有名な祭壇画とは、この作品のことです。


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聖具室です。


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バルトロメ・ベルメホ別名バルトロメ・デ・カルデナス(スペイン・コルドバ、1440c-バルセロナ、1500c)の「モンセラートの聖母の三連祭壇画」(1480-90c)
バルトロメ・ベルメホは15世紀で最も重要なスペインの画家です。
しかし、バルトロメが描いたのは中央パネルだけのようです。当時、バルトロメは多くの仕事に追われており、中央パネルの完成後にアラゴンに去り、左右のパネル、およびその裏面はバレンシアのフランチェスコ・オソナなどによって制作されたとされてます。


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祭壇画を閉じると、裏面に描かれた「受胎告知」を見ることが出来ます。


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油彩で描かれた15世紀第4四半世紀のヨーロッパ絵画の傑作です。
当時のアックイの大商人フランチェスコ・デッラ・キエーザが1470年頃に注文して描かれた作品です。
フランチェスコは、アックイと仕事先であるバレンシアを往復しており、バレンシアにも家を持っていました。バレンシアの教会に置くために注文し、完成後、一旦はバレンシアの教会に設置されました。1510年頃、フランチェスコ・デッラ・キエーザは死去するのですが、この作品をアックイの大聖堂に移すとの遺言を残しました。1987年にその遺言書が発見され、事実関係が明らかにされたそうです。16世紀初頭、フランチェスコはアックイ大聖堂に家族礼拝堂を建設中でした。遺言に基づき、フランチェスコの死後に完成した家族礼拝堂に設置されたのです。


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聖母の左に注文主であるフランチェスコ・デッラ・キエーザが祈りの彩色本を手にして描かれてます。


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フランドル絵画の影響を受けた聖母の下の完璧な表現


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フランチェスコの肖像画と聖母の間の下に制作者の署名が挿入されてます。


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幼きキリストはゴシキヒワが結びつけられた紐を持ってます。


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フランチェスコ・デッラ・キエーザが所有していた商船が描かれてます。


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左パネルの「聖母の誕生」と「聖痕を受ける聖フランチェスコ」


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右パネルの「キリストの神殿奉献」と「聖セバスティアーノ」


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扉が閉じられた状態
(つづく)

1引き続きアックイ・テルメのドゥオーモ、サンタ・マリア・アッスンタ司教座教会です。


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教会内に入りました。


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三廊式、ラテン十字形の内部です。


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ロマネスク様式の構造をしてますが、創建後1000年以上を経て改造、修復が何度も行われたので、様式的には一概に言えません。


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新古典様式でしょうか。


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左翼廊


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右翼廊


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天井


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観て回ります。


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説教壇


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1847年に制作された説教壇ですが、その大理石彫刻の大部分は1513年と1520年に制作された、以前の説教壇にあったものが使用されてます。


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Presbiterio


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Presbiterioの下にクリプタの入り口があります。


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クリプタに入りました。


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11世紀に建設されたクリプタです。


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98本の大理石柱があります。


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クリプタの主祭壇


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クリプタのフレスコ画


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制作者不明の「聖アントニオ・アバーテ」(1400c)


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詳細不知


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クリプタの彫刻


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不明


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聖グイドの棺
(つづく)

1パレオロギ城からドゥオーモに向かいます。


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通りの左側にある教会風の建物はMostra delle Attivitaです。


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パレオロギ城の城壁沿いの道を進みます。


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Via Domenico Barone


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Via Domenico Baroneの右側に教会が建ってます。


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サンタ・マリア教会です。


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サンタ・マリア教会の詳細が分かりませんが、聖別されていない旧教会となってます。


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現在、旧サンタ・マリア教会だった建物は劇場として使用されてます。


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主に室内楽などのコンサートが行われているようです。


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旧サンタ・マリア教会の道路向かいにドゥオーモの後陣が建ってます。


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ドゥオーモのファサード側に回ります。


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ドゥオーモ広場に出ました。


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アックイ・テルメのドゥオーモ、サンタ・マリア・アッスンタ(聖母被昇天)司教座教会です。


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アックイ・テルメが独立した司教座の所在地になったのは、非常に古く4世頃とされてます。最初の司教は聖マッジョリーノ(アックイ・テルメ、4世紀)とみなされてます。当時の司教座教会の正確な場所が不明ですが、現在のドゥオーモが建っている場所、またはそれに非常に近い場所だったと信じられてます。


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ドゥオーモの案内板


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現在の司教座教会は、11世紀の聖プリモ司教によって創建され、1067年11月11日に聖プリモ司教の後任聖グイド司教(司教在位:1034-1070)によって奉献されました。創建当時はロマネスク様式の教会でした。
このことについては、1845年にアックイ・テルメの司祭館で発見されたモザイクに記載されており、確実な記録として認められてます。


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創建以来、拡大、改造、修復を何度も繰り返しました。


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ファサード前の新古典様式の柱廊は17世紀初頭に建設されました。


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鐘楼


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現在目にする鐘楼は1479年に再建されたものです。


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後陣


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ゴシック様式の後陣


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左翼廊


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ファサードの丸窓


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ファサードの柱廊に入ります。


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メインポータル


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ポータル上ルネッタの彫刻は、ジョヴァンニ・アントニオ・ピラコルテ(カローナ、1455c-ポルデノーネ、1531)の「聖母被昇天」(1481)
中に入ります。


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(つづく)

1パレオロジ城の城壁です。


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現在地に城の存在が1056年の文書に初めて記録されたそうです。


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城建設の由来が明確になっていないようですが、13世紀半ばまでアックイ司教伯爵の居城だった記録が残されているので、アックイ司教、中でもアックイ・テルメの守護聖人でアックイ司教だったエックエザーナ伯爵家のグイド・ダックイ(聖グイド)(メラッツォ、1004c-アックイ・テルメ、1070)が建設したと思われています。他の北イタリアの多くの都市と同じように、当時、公権力は司教によって主導されていました。


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1168年、ジェノヴァとロンバルディア同盟によって新都市アレッサンドリアが作られました。アレッサンドリアは司教座をアックイから奪おうとして、アックイと敵対するようになりました。
1234年、シュヴァーベン公フリードリッヒ2世の調停によって、アックイとアレッサンドリアとの抗争は一先ず終結したものの、アックイの中で内紛が生じてしまい、国力低下を招きました。


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内部抗争によってアックイはいくつかの勢力に分裂してしまい、アレッサンドリアや他の敵対勢力に抗しきれず、1278年、遂にアックイはモンフェッラートの支配下に置かれてしまいました。


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一方、城ですが、アレッサンドリアとの抗争が始まったころに、この城の持ち主グイド家はアックイから立ち去り、城はアックイの政庁舎として使用されました。
1278年、アックイがモンフェッラートの支配下に入ると、城はモンフェッラート侯爵家が派遣する代官の政庁舎兼公舎として使用されたそうです。


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1306年、モンフェッラート侯爵家は、アックイをパレオロギ家に託すことにして、アックイ侯爵位はパレオロギ家に引き継がれました。パレオロギ家はビザンチン帝国皇族の分家に当たります。
アックイ侯爵パレオロギ家は、この城に居住することになりました。城の名称は1306年のことに由来します。
以降、アックイはモンフェッラートの一部として存在するようになりました。


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現在の城は、パレオロギ家とはあまり関係がありません。
1430年から1431年にかけてミラノのヴィスコンティ家によって、アックイと近隣の侯爵領地は攻撃占領され、その際、城は破壊されてしまいました。1436年にサヴォイア家の援助を受けて、モンフェッラートとその一部だったアックイもミラノからの支配を脱することが出来ました。
モンフェッラート侯爵家はパレオロジ城を再建しましたが、現在の城はこの再建されたものではありません。


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1533年、後継者がいなかったパレオロギ家は断絶し、それと共にモンフェッラート全域がマントヴァのゴンザーガ家に引き継がれました。
しかし、16世紀から17世紀にかけて、スペイン、フランスからの攻撃を受けて、再建された城は幾度となく破壊され、その都度修復を繰り返しました。17世紀半ばには修復不能となってしまいました。


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17世紀半ば、モンフェッラート地区はサヴォイア家の影響が強まっていました。1633年、サヴォイア家はアックイ城の再建工事を開始しました。1708年、アックイを含むモンフェッラート地区はサヴォイア・ピエモンテに併合されました。
パレオロギ城は工事がなかなか進捗しませんでしたが、1815年、ヴィットリオ・エマヌエーレ1世によって完成したのです。この三代目となる建物が現在のパレオロギ城です。


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城の入り口です。


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博物館の入り口に向かいます。


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現在、パレオロギ城は考古学博物館として一般公開されてます。


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博物館の入り口


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中の庭園にある展示物


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博物館の扉


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扉が開きました。


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考古学博物館の展示は大体どこでも同じです。


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(つづく)

3前泊地はアレッサンドリアでした。


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アレッサンドリアから鉄道でアックイ・テルメに向かいました。


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アレッサンドリアは第二次世界大戦で徹底的に爆撃されてしまい、見所が乏しいのですが、交通の要衝なので時々訪れます。


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アックイ・テルメに向かう列車の車中は空気を運んでいるようでした。


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車窓の景色を楽しむにはあまりにも短時間でアックイ・テルメ駅に着いてしまいます。


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アックイ・テルメ駅に到着しました。


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アックイ・テルメは、人口18,973人(2024年11月30日現在)のピエモンテ州アレッサンドリア県のコムーネで、温泉で有名です。
紀元前5500年頃には温泉で魅了された人たち、伝説によればギリシャ人と言われてますが、が住み着いたとされてます。


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駅舎


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駅前広場


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この日のお宿に向かいます。


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戦没者慰霊の記念碑?


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この日のお宿はドゥオーモの横にあります。


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ドゥオーモの横ですから簡単に行けると思ってました。


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道が違うことに気付き、振り出しに。


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駅からやり直し。


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地図を見たら、駅前に林があって、林を上るのが最も簡単にドゥオーモに行けそうです。


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大きな荷物を引いて上ります。それは結構大変で、ドゥオーモまでの写真がありません。


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ドゥオーモです。


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このホテルで2泊します。


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大きな荷物を預かって貰いました。早速町歩きに出かけました。


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城壁です。


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面白そうな建物


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保険局の建物?


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街角のタベルナコロ


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城に行くことにしました。


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この町の高いところに城があります。


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城です。


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(つづく)

1刑務所となっているメディチ要塞です。


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監視カメラがあちこちにあります。


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城壁内に戻ります。


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この先に刑務所の入り口があります。


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刑務所入り口に行こうとしましたが、監視カメラの視線を感じたので止めました。


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Porta a Selciを潜って城壁内に戻るました。通りの右側はサン・ピエトロ・イン・セルチ修道院教会の修道院だった建物です。


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サン・ピエトロ・イン・セルチ教会前を通ります。


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もう夕方です。


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エトルリア博物館が見えてきました。


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エトルリア博物館を通り過ぎます。


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Museo Diocesanoとなっている旧サンタゴスティーノ教会前を通り過ぎます。


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9月20日広場です。


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サンタントニオ祈禱所横を通り過ぎます。


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人通りが多くなってきました。


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メディチ要塞が不気味だったので、この辺の雰囲気が妙に気楽させてくれました。


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歩き過ぎで流石に疲れました。


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タバッキでバスの切符を買いました。


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バスの切符入手が難しいコムーネがあるので、困ることがあります。その辺はヴォルテッラは問題なし。


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市立美術館前です。


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プリオーリ広場です。


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2泊3日のヴォルテッラでしたが、この広場に何度来たことか。


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ホテルに戻る前にバスターミナルに行きます。


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バスターミナルで、翌朝のバスの乗り場と発車時間を確認しました。


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観るべき所には大体行きました。


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ホテルに戻りました。


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(ヴォルテッラ編 おわり)

1サン・ピエトロ・イン・セルチ教会の続きです。


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内部の礼拝堂を見て回ってます。


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ニッコロ・チェルチニャーニ通称イル・ポマランチョ(ポマランチェ、1530-チッタ・デッラ・ピエーヴェ、1597)の「聖母戴冠と聖人たち」


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フランチェスコ・ブリーナ(フィレンツェ、1540-1586)の「無原罪の御宿りの寓意」


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コジモ・ダッディ(フィレンツェ、1575以前生まれ‐ヴォルテッラ、1630)の「天上の聖母子と聖人たち」


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稀にしか扉が開かないと思いますので、扉が開いていればすぐに拝見すべき教会です。


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サン・ピエトロ・イン・セルチ教会を出れば、門と要塞が見えます。


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Porta a Selciです。


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メディチ要塞の監視塔です。


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ヴォルテッラの市壁には7つの門が設けられていました、この門はそのうちの一つです。


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城壁の一部としてエトルリア時代に築かれた門が前身です。当時はPorta del Soleと呼ばれていました。門は東にあったので、太陽が昇ることに因んで名付けられたそうです。


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門から通じる道はシエナに向かっていました。Porta del Soleは重要な防衛地と見做されて、13世紀に門外に掘が設けられて、堀の上は跳ね橋があったそうです。


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門外


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1342年、フィレンツェのポデスタで、アテネ公グアルティエーリ6世・ディ・ブリエンヌ(1304/1305-1356)は、防衛力強化を目的に市壁と門の改造補強工事と要塞建設に着手しましたが、その一環としてPorta del Soleは再建されると共に門横に監視塔が追加されました。
この時に築かれた要塞はRocca Vecchiaと呼ばれてます。


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城壁外の市壁


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門の外は公園になってます。


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1470年、ヴォルテッラで明礬が発見されました。明礬は培染剤、皮革鞣し剤として非常に重要で、それらを使用した産業を主業種にしていたフィレンツェにとっては、ヴォルテッラは完全な支配下に置くべき町となったのです。


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1472年、フィレンツェの支配者ロレンツォ・イル・マニーフィコ(フィレンツェ、1449-1492)は、傭兵隊長ウルビーノ公フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロに率いられたフィレンツェ軍7千人をヴォルテッラに派遣して、ヴォルテッラを征服したのです。
その翌年の1473年、要塞を拡充教会したのです。拡大された要塞はRocca Nuovaと呼ばれてます。Rocca VecchiaとRocca Nuovaはメディチ要塞と呼ばれるようになりました。
また、古いPorta del Soleは埋められ、新たに門が設けられました。新しい門はPorta a Selciと呼ばれるようになりました。


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メディチ家要塞の大部分は今も昔も刑務所として使用されてます。


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城壁外のPorta a Selci


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現在、刑期5年以上の重罪犯を収容する刑務所になってます。


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メディチ要塞の見学は特別な日を除いて許可されてません。


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ヴォルテッラ刑務所のレストランも有名です。


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一部の受刑者がヴォルテッラのレストランで働いているそうです。


30
(つづく)

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