イタリア芸術を楽しむ

イタリアの魅力を味わい尽くすには、一生に何度旅をすれば足りるだろう。芸術の宝庫にして、歴史の生きた証であるイタリア。 惹き付けて止まない絵画、彫刻、歴史的建造物、オペラなど、芸術の宝庫であるイタリアを楽しむブログです。 記事は一日に一つアップしています。記事の見方ですが、例えば「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その4)」は2017年10月20日にアップしました。各記事にカレンダーが表示されてますが、カレンダー上の2017年10月21日をクリックして頂ければ「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その5)」になります。(その3)は2017年10月20日となります。 BY:シニョレッリ

2026年01月

P2160790引き続きコルトーナです。

➁エトルリア・アカデミー博物館
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コルトーナの有力貴族カザーリ家の邸宅として13世紀に建設されたPalazzo Casaliです。
初代コルトーナ領主ダニエーレ・カザーリ(コルトーナ、1280c-1351)は、1325年にコルトーナ領主となり、カザーリ宮で政務を行いました。カザーリ家はそれ以降80年以上コルトーナを支配しましたが、政庁舎となったのでPalazzo Pretorioと呼ばれるようになりました。


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この建物は1727年からエトルリア博物館として使用されるようになりました。


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コルトーナはエトルリア人起源の町です。博物館の名称からエトルリア関係の考古学博物館と思われがちです。


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考古学博物館としての一面が強調されがちですが、博物館の実態はMuseo Civocoです。


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絵画の展示も充実しており、ルカ・シニョレッリ、シニョレッリ工房、シニョレッリの影響を受けた逸名画家(恐らくシニョレッリ工房で働いていた弟子)などの作品が展示されてます。


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ルカ・シニョレッリ(コルトーナ、1450c-1523)の「聖母子とコルトーナを守る聖人たちのトンド」(1512)


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作品が何処にあったのか、分からないようです。しかし、1756年の記録にプリオーリ宮の評議会の間にあったことが記されているので、プリオーリ宮のために描かれたと思われてます。


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左から聖ミケーレ、聖ヴィンチェンツォ


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聖マルゲリータ、聖マルコ


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コルトーナの町


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ルカ・シニョレッリとシニョレッリ工房による「羊飼いの礼拝」(1520c)


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ルカ・シニョレッリ派逸名画家による「聖母子と二聖人」


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聖人は聖ロッコと聖オノフリオ


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フランチェスコ・シニョレッリ?の「聖母子と聖アンナと聖マッダレーナ・マリア」


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フランチェスコ・シニョレッリはルカの甥です。


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フランチェスコ・シニョレッリ?の「聖家族と聖ジョヴァンニーノ」


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ルカ・シニョレッリ派逸名画家による「聖母子と二聖人」


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二聖人はバーリの聖二コラとパドヴァの聖アントニオです。


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ルカ・シニョレッリ派逸名画家による「聖母子」


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③サン・フランチェスコ教会
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この教会にはルカ・シニョレッリの作品がありません。


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13世紀に建設されました。


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外壁にあるルカ・シニョレッリの胸像


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ルカ・シニョレッリの墓があります。


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教会内部


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墓があることを示す銘板


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銘板近くのフレスコ断片(ルカ・シニョレッリの作品ではありません)
(つづく)

1.コルトーナ
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引き続きコルトーナです。


①Museo Diocesano
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教区博物館の続きです。


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ルカ・シニョレッリ工房による「聖母子と四聖人」(1515c)


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何処にあったのか不明ですが、1866年にジェズ教会にあったとの記録が残されてます。


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4聖人は左から聖ミケーレ、パドヴァの聖アントニオ、シエナの聖ベルナルディーノ、バーリの聖二コラです。


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ルカ・シニョレッリの筆が入っていると言われてます。


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ルカ・シニョレッリ工房による「羊飼いの礼拝」(1521-24)


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コルトーナのジェズ教会上部教会にありました。


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この頃ルカ・シニョレッリは体の不調から徐々に工房に制作を任せるようになったそうです。


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Museo Diocesanoで展示されている9点の作品のうち、これが最も質が高いとされています。


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ルカ・シニョレッリの「十字架降下」(1501-02)


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裾絵の「園の祈り」


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「最後の晩餐」


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「キリストの逮捕」


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「キリストの鞭打ち」


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コルトーナのサンタ・マルゲリータ教会(前の建物)にありました。
教会の建物が再建される際、以前の建物にあった本作品は取り外され、コルトーナのドゥオーモに移されました。ドゥオーモに移される際、額縁は分解され、移されたのはメインパネルと裾絵だけでした。
この祭壇画の額縁の柱に聖人たちが描かれていました。左に大天使聖ミケーレ、聖ジョヴァンニ・バッティスタ、聖アントニオ・アバーテ、聖バジリオの四聖人、右の柱に上から聖ジローラモ、聖フランチェスコ、バーリの聖二コラ、聖ボナヴェントゥーラが描かれていました。
このうち、大天使聖ミケーレは2009年にロンドンのオークションで127,250ポンドで落札されました。聖フランチェスコとバーリの聖二コラの二聖人は、2016年7月にロンドンのオークションで98,500ポンドで落札されました。それ以外の柱に描かれた聖人たちは情報がありません。
メインパネルと裾絵は1945年にMuseo Diocesanoに移され現在に至ってます。


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ルカ・シニョレッリと弟子による「聖母子と四聖人」(1510-15c)


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制作者の工房と弟子との違いが分かりません。


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四聖人は左から聖フランチェスコ、トローサの聖ルドヴィーコ、聖ボナヴェントゥーラ、パドヴァの聖アントニオとなります。
何処にあったのか不明とされてますが、1866年にジェズ教会にあったことが初めて記録されました。また、四聖人がフランチェスコ会の聖人なので、コルトーナのサン・フランチェスコ修道院教会のために描かれたという説が極めて有力です。


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ルカ・シニョレッリ工房による「羊飼いの礼拝」(1522c)


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コルトーナのサン・フランチェスコ教会にありました。


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ルカ・シニョレッリとは関係ありませんが、コルトーナのMuseo Diocesanoで最も有名な作品に触れておきましょう。


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ベアート・アンジェリコ(フラ・アンジェリコ)の「受胎告知」です。


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これでMuseo Diocesanoを終わります。
(つづく)

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,左がルカ・シニョレッリの自画像です。

欧米の美術館に行くとルカ・シニョレッリの作品を目にすることが多く、1980年の初め頃には私にとってお馴染みの画家の一人でしたが特に印象深くはありませんでした。
それから数年後、オルヴィエート大聖堂に訪れる機会があり、シニョレッリのフレスコ画を初めて観たのです。システィーナ礼拝堂のミケランジェロの力強い表現に似た、解剖学的で筆致に圧倒されました。感銘を受けたので、聖堂内で説明書を買い求めました。恥ずかしい限りですが、ミケランジェロがシニョレッリのフレスコ画を見て制作の参考にしたことが分かりました。それを知り、シニョレッリへの興味が俄かに掻き立てられて、シニョレッリの作品を熱心に観るようになりました。
かくして、シニョレッリの作品を求めてあちこちに行くことになったのです。


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コルトーナの鉄道駅Camucia- Cortonaから見たコルトーナ旧市街です。

1.コルトーナ
ルカ・シニョレッリ所縁の土地と言えば、何と言ってもコルトーナでしょう。
コルトーナは、人口20,877人(2025年1月1日現在)のトスカーナ州アレッツォ県にあるコムーネです。

ルカ・シニョレッリ(本名:ルカ・デジーディオ・ディ・ルカ・ディ・ヴェントゥーラ)は、1441年から1445年の間頃にコルトーナで生まれました。
ルカ・シニョレッリの甥ジョルジョ・ヴァザーリによると、ルカ・シニョレッリは82歳で死去したと記しました。
生地の具体的な場所は不明とされてます。サンタゴスティーノ修道院教会の近くに生まれた家があったと言う説もありますが、不確実です。
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サンタゴスティーノ教会がある通り


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サンタゴスティーノ修道院教会のキオストロ

ルカ・シニョレッリの父エジーディオ・ディ・ベントゥーラ・シニョレッリも画家でした。また、ジョルジョ・ヴァザーリはルカの甥でした。
ルカは、後にピエロ・デッラ・フランチェスカに師事するのですが、画家としての基本的な手ほどきは父から受けたようです。
ルカの師匠については、ピエロ・デッラ・フランチェスコの数学上の高弟ルカ・パチョーリが著した著作と、ルカの甥ジョルジョ・ヴァザーリの記述があるので、ピエロに師事したことは確実です。
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ルカ・パチョーリの肖像


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肖像画はナポリのカポディモンテ美術館にあります。

さて、ルカがピエロに師事した具体的な場所や時期など具体的なことは殆ど分かってません。1460年代にアレッツォ、という説が有力とされているようです。
また、ピエロの自宅があったボルゴ・サン・セポルクロで修業したことは確かとされてます。
ピエロ・デッラ・フランチェスカに師事したルカでしたが、通常の場合、初期の画風は師匠の影響を受けたものになることが多いのですが、ルカの画風もピエロそっくりでした。
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この聖母子の制作者はピエロ・デッラ・フランチェスカ派の逸名画家とされてます。一時期、この作品はルカ・シニョレッリの初期作品説が出されました。(ヴェネツィアのジョルジョ・チーニ美術館蔵)

アレッツォで工房を設けましたが、ルカの作品の制作料がピエロ・デッラ・フランチェスカに支払われた記録が残っているので、ピエロの弟子のルカ・シニョレッリというのが世間的な一般的評価だったようです。
遅くとも1460年代までには故郷コルトーナに戻り、工房を設けて定住するようになりました。
1470年頃、結婚して2男2女の子供に恵まれました。
仕事を受ければ、ローマ、チッタ・ディ・カステッロ、ロレート、フィレンツェ、モンテ・オリヴェート、オルヴィエートなどに長期滞在して作品制作に励みました。
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16世紀前半にルカの工房があった場所(コルトーナ)

ルカ・シニョレッリは、誠実で礼儀正しく、誰とでも親しく接する公平な人柄の人でした。その資質が認められ、1479年にコルトーナの評議会メンバーに選出され(コルトーナの評議会は18人で構成)、政治的に活動し数々の公職に就いて、没するまでその地位を保ちました。

1520年頃を境に体の不調に苦しみ、やがて手足の麻痺が認められるようになりました。それに伴い、徐々に工房の弟子に任せるようになると共に、その作風は古風で従来の繰り返しが多くなって後退するようになりました。

1523年、制作中に足場から転落し重傷を負い、10月16日コルトーナで没しました。フランチェスコ修道会の会員だったので、コルトーナのサン・フランチェスコ教会に埋葬されました。
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コルトーナのサン・フランチェスコ教会

コルトーナはルカ・シニョレッリの本拠地だったことで、重要な作品が揃ってます。

①教区博物館(Museo Diocesano)
教区博物館はドゥオーモ広場にあり、旧ジェズ教会と教会に隣接した建物に設けられてます。
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Museo Diocesanoの入り口


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第4展示室にルカ・シニョレッリとその工房による作品が展示されてます。


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9点の作品が展示されてます。


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ルカ・シニョレッリとシニョレッリ工房による「聖母被昇天」(1519-20)


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コルトーナのサンタ・マリア・アッスンタ司教座教会にありました。
この祭壇画にはプラデッラがありました。1664年までドゥオーモの主祭壇にありましたが、その年に額縁から取り外され、メインパネルは聖歌隊席の壁に掲げられました。その後、プラデッラは分解されて、売られたようです。プラデッラですが、博士たちとの問答(左背景にエジプトへの逃避)はカンザスシティ美術館で展示されてます。あと2つの裾絵、幼児虐殺(左背景に羊飼いの礼拝、右背景にマギの礼拝)と聖母の結婚(右背景に受胎告知)は個人蔵となっており、通常見ることが出来ません。


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「聖母被昇天」の裾絵の一部「博士たちとの問答」(カンザスシティ美術館蔵)


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「聖母被昇天」の聖母の伝統的な表現です。


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昇天した聖母が生きているかのように描くのが当時としては求められていました。


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ルカ・シニョレッリとその協力者による「無原罪の御宿りの寓意」(1521-23)


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コルトーナのジェズ教会の上部教会にありました。
協力者ですが、フランチェスコ・シニョレッリ説が有力です。


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ジェズ教会は上部と下部の二重教会の構造をしていました。


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ルカ・シニョレッリの「聖人たちの聖体拝領」(1512)


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1786年までジェズ教会の主祭壇画でした。1786年に向かいに立っているドゥオーモに移され、1925年までドゥオーモにありました。
聖家族と聖オノフリオを描いたルネッタ、それに裾絵がありましたが、失われて現存していないようです。


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ユダの描写が秀逸です。


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ルカ・シニョレッリ工房の「キリストの神殿奉献」(1521)


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コルトーナのOratorio della Madonnuccia di Piazzoにありました。
このオラトリオはコルトーナのミゼリコルディア病院に付属していました。病院は現存してますが、オラトリオは破壊されました。
制作ですが、工房の助手だったマーゾ・パパチェロと特定されていた時代がありました。しかし、今ではフランチェスコ・シニョレッリの可能性があると言われてます。
1521年4月27日に注文されましたが、この時、ルカ・シニョレッリは老齢だったこともあって工房に任せていたようです。


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Oratorio della Madonnuccia di Piazzoは現存しないようです。


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「キリストの神殿奉献」には裾絵が付いていました。


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メインパネルとプレデッラを別々に展示するのは何故?
(つづく)

1サン・フランチェスコ教会から外に出ました。


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再建前にあった古い作品は何処に?


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残念ながら見所に欠けるサン・フランチェスコ教会でした。


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Municipioの前を通り過ぎます。


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大体見終わってしまったようです。


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これでは時間の潰し様がありません。


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青空市は未だやっていました。


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アックイ・テルメで2泊するのは大失敗と痛感!


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後の祭りです。
仕方がないので、一旦ホテルに戻って日帰り遠足で適当な場所を探すことにしました。


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このような旅の仕方はもう止めないといけないと思いました。時間とお金の無駄ですから。


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La Bollente


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ヴェネツィア、フィレンツェ、ローマ、ミラノならば見所が多過ぎて時間が足りません。このような旅に懲りて有名観光地専念に改めることにしたのです。


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この道は通りました。


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ドゥオーモに向かう道です。


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ホテルがドゥオーモ横にあるので、この道を通るのは当然です。


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この門に見覚えがあります。


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ドゥオーモです。


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ホテルに戻りました。


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カザーレ・モンフェッラートに行くことにしました。


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カザーレ・モンフェッラートには、この2年前に行ったばかりでした。


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駅に向かいます。


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カザーレ・モンフェッラートならば、見所が幾つかあるので、それなりに楽しめます。


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城にもう一度入る気がしません。


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城の城壁


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下れば駅に出ます。


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駅前広場


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アックイ・テルメ編終わり

さて、次回からは、私が大好きなルカ・シニョレッリの作品を訪ねることと、その生涯を辿る編に移ります。それらを書くに当たり、数多くの文献、資料、公文書などを読みました。事実の裏付けがないことには触れないことにしました。ただ、それらの文献資料リスト表記はしないつもりです。

1引き続きサン・フランチェスコ教会です。


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教会内の礼拝堂を見て回ってます。


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グリエルモ・カッチャ通称モンカルヴォ(モンタボーネ、1568-モンカルヴォ、1625)の「無原罪の御宿り」


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詳細不知の主祭壇画


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中央礼拝堂前から見た出入口方向


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左側壁


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右側壁


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詳細不知の「最後の晩餐」


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ラッファエル・アンジェロ・ソレーリ(アレッサンドリアで16世紀後半消息)の作品


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詳細不知の「聖痕を受ける聖フランチェスコ」


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パドヴァの聖アントニオ礼拝堂


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ピエトロ・ベッカリア(カザーレ、16世紀末‐17世紀前半活動)の「エジプトへの逃避」


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次の礼拝堂


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礼拝堂天井


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詳細不知


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逸名画家作「聖母の結婚」(18世紀)


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15世紀のフレスコ画


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詳細不知


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右側壁の礼拝堂


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Presbiterio


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(つづく)

1Municipioから数歩歩けばサン・フランチェスコ広場に出ます。


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広場に面して建つのはサン・フランチェスコ教会です。


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この場所は城壁外のボルゴ・サン・ピエトロです。


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7世紀頃に、キリスト教会の埋葬地として建設されたサン・ジョヴァンニ・バッティスタ教会が前身とされてます。


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13世紀中頃、アックイ・テルメにもフランチェスコ会修道士が現れ定住するようになりますが、1244年に現在地が与えられ、それに伴い教会名がサン・フランチェスコ教会と改称されました。修道院が併設されました。


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1410年頃に建物の再建工事が開始され、広大なサン・フランチェスコ修道院教会の複合施設が16世紀初頭に完成しました。


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1802年、ナポレオンの抑圧令によってフランチェスコ会修道士は追放され、修道院が閉鎖されました。修道院だった建物は温泉施設の一部として整備されてしまいました。
また、教会はサン・ジュゼッペ修道会に与えられ、サン・ジュゼッペ教会に改称されました。


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ファサード横の白っぽい建物は旧修道院です。
1824年、教会は再びフランチェスコ会の所有となり、名称も元に戻されました。


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新古典様式のファサードは、1835年から1854年に建設されたものです。この際、教会内部も新古典様式に改造されました。


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ファサードを見ます。


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壁龕のシエナの聖カテリーナ


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聖ピエトロ


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ファサードのフレスコ画


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「玉座の聖母子と聖人たち」
私には制作者が分かりません。


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メインポータルは開かないようです。


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15世紀に建設された鐘楼


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メインポータル


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聖ピエトロ像下の扉から教会内部に入ります。


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中に入りました。


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単廊式、新古典様式の内部です。


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礼拝堂を結ぶ通路が設けられてます。


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天井


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身廊天井に描かれたフレスコ画


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Pietro Ivaldi detto il Muto di Toreto(ポンツォーネ、1810-アックイ・テルメ、1885)のフレスコ画


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中央礼拝堂


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後陣のフレスコ画


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(つづく)

1教会巡りを続けました。


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次はサンタ・マリア・デッラ・コルテ教会です。


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サンタ・マリア・デッラ・コルテ教会です。


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1005年の文書にその存在が初めて記載されたそうです。
最初の建物は13世紀に拡大され、その後幾度となく修復を繰り返しました。しかし、1647年の洪水によって大きな被害を受けたところに、1651年にフランス軍によって放火されてしまいました。


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現在の新古典様式の建物は1676年に再建された二代目となるものです。


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ファサードの彫刻


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三廊式、新古典様式の内部です。


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中央礼拝堂


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磔刑礼拝堂


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聖職者席


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サン・マルコの有翼のライオン像があります。


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クーパ門


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サン・グイド門


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次は市庁舎です。


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市庁舎にやってきました。


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ルーピ・ディ・モイラーノ伯爵が住居として17世紀に建設したPalazzo Lupiです。19世紀に市庁舎として使用されるようになりました。


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Torre di Palazzo Lupi


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市庁舎の中庭


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市庁舎内に観光案内所があります。


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観光案内所で地図を頂戴しました。


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(つづく)

1人出が多くなってきました。


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青空市の開市日なので賑わっています。


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この通りが町の目抜き通りでしょうか?


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教会巡りを続けます。


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サンタンドレア・アバーテ教会です。この教会は開くと聞いていたので、後でもう一度来る予定です。


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旧サンタ・マリア教会です。


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建物は劇場として使用されてます。


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サント・スピリト教会です。


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サント・スピリト教会のクーポラ
この教会は日曜朝のミサの時だけ開くようです。


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坂上に出ました。


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新しい建物ばかりの所に出てしまいました。


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次はアドロラータ教会です。


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アドロラータ教会です。


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この教会はこの町で重要な教会となってます。
6世紀後半に建設された初期キリスト教会が前身で、当時の町の住民の大部分を埋葬する地下墳墓がありました。


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11世紀前半にバジリカ様式で再建されました。この建物に隣接して10世紀に建設されたベネデット会の修道院がありましたが、11世紀後半に教会はベネデット会の所有となって、それを機に教会と修道院が一体化され、サン・ピエトロ修道院教会の複合施設となりました。


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やがてアックイ・テルメは独立した司教区となりましたが、その際、サン・ピエトロ教会に司教座が置かれるようになりました。この町の最初の司教座教会でした。後に司教座が現在のサンタ・マリア・アッスンタ大聖堂に移されました。それを機にアドロラータ教会と呼ばれるようになったそうです。


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写真は修復前のアドロラータ教会です。改造されて、今の外観とは違うことが分かります。
19世紀になると、建物の荒廃が進み、立ち入りが危険とされて廃教会の一歩手前になりました。


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20世紀に元の姿に復元されました。


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後陣


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鐘楼


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内部
20世紀に大修復されたので新しく見えます。


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磔刑像
(つづく)

1次はLa Bollenteです。


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La Bollenteはドゥオーモの直ぐ傍にあります。


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通りの先にLa Bollenteが見えてます。


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bollenteとは沸騰という意味です。


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アックイ・テルメはその名の通り温泉の町ですが、74.5℃の源泉が毎分560ℓ湧き出ているのがLa Bollenteです。


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ボッレンテ広場にやってきました。


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ボッレンテ広場の中央にあるのがLa Bollenteです。


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La Bollente上部のEdicola(小神殿、小礼拝堂の意味)は、ジョヴァンニ・チェルーティ(ヴァルピアーナ、1842-ミラノ、1907)によって1879年に建設されました。


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温泉の噴出口


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源泉温度は74.5℃とされてますが、時々それよりも高温の源泉が出る場合があります。


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飲料として温泉を汲む場所が設けられてます。


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イタリアの温泉は日本の習慣とはかなり違います。飲む人が非常に多いと思います。


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ボッレンテ広場


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広場の一角に時計塔があります。


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市の塔です。


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12世紀から13世紀に築かれた市壁に設けられた門の上に1763年に時計塔が建てられたそうです。


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ボッレンテ広場


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市の塔の門を潜って城壁外に出ます。


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(つづく)

1次はドゥオーモ広場に建つ建物です。


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ドゥオーモ広場に出ます。


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1755年から1772年に建設された神学校です。以前の神学校の建物が現存しており、そちらの方はSeminario Vecchioと呼ばれてます。


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写真中央の建物は司教館です。1460年から1476年に建設されました。


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司教館です。


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司教館内部の大広間に代々の司教の肖像画が置かれてます。


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ドゥオーモ


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神学校


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神学校の柱廊


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柱廊から見た神学校のファサード


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神学校の建物の一部はホテルになってます。自室に戻ってトイレ休憩


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再び外に出ました。


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Casa del Seminario Vecchio


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(つづく)

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