イタリア芸術を楽しむ

イタリアの魅力を味わい尽くすには、一生に何度旅をすれば足りるだろう。芸術の宝庫にして、歴史の生きた証であるイタリア。 惹き付けて止まない絵画、彫刻、歴史的建造物、オペラなど、芸術の宝庫であるイタリアを楽しむブログです。 記事は一日に一つアップしています。記事の見方ですが、例えば「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その4)」は2017年10月20日にアップしました。各記事にカレンダーが表示されてますが、カレンダー上の2017年10月21日をクリックして頂ければ「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その5)」になります。(その3)は2017年10月20日となります。 BY:シニョレッリ

2026年02月

8.フィレンツェ
1
引き続きフィレンツェです。


①ウフィッツィ美術館
2
ウフィッツィ美術館の続きです。


5


6


7
ルカ・シニョレッリの「磔刑と聖マリア・マッダレーナ」(1502-03c)


8
この作品はフィレンツェの旧サン・ヴィンチェンツォ・ダンナレーナ修道院(アンナレーナ修道院)にありました。1810年に旧修道院からフィレンツェのアカデミア美術館に移されましたが、1814年にウフィッツィ美術館の所蔵となりました。1853年に再びアカデミア美術館に移されましたが、1919年にウフィッツィ美術館の所有となり、現在に至ってます。


7
「磔刑とマグダラのマリア」があった旧サンタレーナ修道院です。
修道院の創設者アンナレーナ・マラテスタ(?、1416‐フィレンツェ、1491)は、1440年のアンギアーリ戦いの英雄バルダッチョ・アンギアーリ(アンギアーリ、1400c‐フィレンツェ,1441)の妻でした。夫バルダッチョがフィレンツェで惨殺されると、悲しみのあまりコジモ・デ・メディチ所縁の家に閉じこもりました。アンナレーナはオッタヴィアーノ・ディ・ヴィエーリ・デ・メディチの養女だったので、コジモが少女時代のアンナレーナに寄贈した家でした。
その家が核となって、1454年に女子修道院が設立され、1474年に修道院教会の複合施設に拡大されました。アンナレーナは初代女子修道院長となりました。メディチ家の後援があって、修道女100人以上の大きな修道院となりました。


9
オルトラルノ地区のサンタ・マリア通りに面した旧修道院の入り口
サン・ヴィンチェンツォ・ダンナレーナ修道院教会は1786年にフランス軍に接収され、閉鎖されました。


8
旧修道院の建物は劇場や映画館として使用されました。
さて、「磔刑とマグダラのマリア」に戻ります。


9
前述のようにアンナレーナは、メディチ家の養女だったので、この作品は、メディチ家がルカ・シニョレッリに注文して、アンナレーナ修道院に寄贈したものと考えられてます。
今となっては不思議なのですが、この作品は長らくアンドレア・デル・カスターニョ(フィレンツェ、1421c-1457)によって制作されたとされていました。ルカ・シニョレッリの作品と帰属が変更されたのは漸く1864年になってからでした。


14


12


10
ルカ・シニョレッリの「肥沃と豊穣の寓意」(1500-02c)


11
この作品の制作に関することは全くの不明となってます。
この作品はコルトーナのCasa Tommasiにありましたが、その所有者Girolamo Tommasiからウフィッツィ美術館が1894年に購入したものです。Girolamo Tommasiは美術品収集家で、他にルカ・シニョレッリの「バチェの聖母」も所有していました。
現在、Casa TommasiはB&Bとして使用されているようです。


13


15
ルカ・シニョレッリの「三位一体と聖母子と聖人たち」(1510c)


16


17


18
ルカ・シニョレッリと工房による「裾絵」
何の裾絵だったのか不明とされてますが、これの前に紹介した「三位一体と聖母子と聖人たち」の裾絵説がかなり有力視されてます。


19


20
最後の晩餐


21
園の祈り


22
キリストの鞭打ち


23


24
ルカ・シニョレッリの「聖母子」(1490c)


25


10
この作品があったメディチ家のVilla di Castelloです。


26


27


28
この他に非常設展示となっている作品が2つあるそうです。


29
(つづく)

8.フィレンツェ
1
フィレンツェを見尽くすには、何回足を運べば良いでしょうか。


2
1490年頃、ルカ・シニョレッリはフィレンツェに滞在していたことが分かってます。


3
メディチ家のVilla di Careggiです。
ロレンツォ・イル・マニーフィコの時代、コジモ時代の様にヨーロッパ1の富豪とは言えず、そのパトロネージには経済的弱体化が反映されて、イマイチともいえる状況でした。


4
それでもロレンツォの新プラトン主義の中心地の一つが、このVilla di Careggiでした。


5
多くの芸術家や学者などがVilla di Careggiに集まって意見交換などを通じて、互いに刺激し合ったのです。


6
1490年頃、ルカ・シニョレッリはロレンツォに招かれて、このVilla di Careggiに滞在したのです。
この時期、Villa di Careggiに出入りしていた芸術家として、ボッティチェリ、ペルジーノ、ドメニコ・ギルランダイオ、フィリッピーノ・リッピなどがいました。


7
滞在中のルカ・シニョレッリが描いたのが大型神話画「パンの勝利」でした。
この作品については既に「シエナ編」で触れました。第二次世界大戦のソ連軍のベルリン進軍による火災によって消失してしまいました。



①ウフィッツィ美術館
8
ウフィッツィ美術館は何時も混雑しています。


9
それでも比較的空いていることがあります。


28
ボッティチェリの展示室はいつも大盛況です。


29
廊下から見えるアルノ川


30


10
シニョレッリの展示室


11
この時は第31室となっていました。
展示される作品や展示室が変わることが結構あるのです。


13
ルカ・シニョレッリの「グエルファの聖家族」(1485-90c)


14
この大きなトンドは、フィレンツェのグエルファ党の宮殿 Palagio di Parte Guelfaの集会所のために描かれました。


90
フィレンツェのPalagio di Parte Guelfa


91
Palagio di Parte Guelfaは、フィレンツェの中心部、ベリッチェリア通りに建ってます。


92
Palagio di Parte Guelfa内の集会所


3
この作品は1802年にウフィッツィ美術館に移されました。


4


15


16


17


12
第31室からの窓越しの景観


18
次の展示室です。


19
第32室もルカ・シニョレッリ作品だけの展示でした。


20
モンテプルチャーノのネーリ・デッラ・ミゼリコルディア同信会の祭壇画裾絵(1492-96c)


21
モンテプルチャーノのサンタ・ルチア教会から1831年にウフィッツィ美術館が取得しました。
この裾絵のメインパネルは、近年までモンテプルチャーノのサンタ・ルチア教会の主祭壇にありましたが、現在はモンテプルチャーノ市立美術館で展示されてます。


22
受胎告知


23
ご誕生


24
マギの礼拝


1
裾絵があった、モンテプルチャーノのサンタ・ルチア教会です。


6
サンタ・ルチア教会の案内板にルカ・シニョレッリの「聖母子」があると書かれてます。


2
サンタ・ルチア教会の主祭壇
主祭壇画のルカ・シニョレッリの祭壇画が取り外されたままになっていて、空です。
ルカ・シニョレッリの時代、祭壇画はメインパネルに裾絵付きが多かったようです。メインパネルと裾絵が分離された理由や時期は不明です。


3
ルカ・シニョレッリの「聖母子」
祭壇画の裾絵がウフィッツィ美術館にあるのです。


4
モンテプルチャーノ市立美術館の説明版


5
モンテプルチャーノ市立美術館
(つづく)

1写真はチッタ・ディ・カステッロです。

システィーナ礼拝堂のフレスコ画制作によって、他派の画家たちから多くを学び、独自の画風を確立して円熟期を迎えたルカでした。高まる名声によって、あちこちから注文依頼を受けることになりました。
チッタ・ディ・カステッロに工房を構えながら、注文をさばくために各地を巡る多忙な生活を送っていました。
この時期に制作された作品は、イタリアに残されたものは少なく、海外に流失したようです。また、多翼祭壇画の中には、分解されてパネル毎に売られて各国の美術館で展示されているものがあります。


2
ルカ・シニョレッリの「聖ジョヴァンニ・バッティスタの誕生」(1485-90c)
ルーブル美術館で展示されていますが、制作された経緯など全く不明とされてます。


23
ルカ・シニョレッリの「パンの教育」(1490c)の白黒写真

この作品は、フィレンツェのロレンツォ・イル・マニーフィコの注文によって制作されたことが分かってます。長い間、行方不明となっていましたが、再発見されてベルリンのカイザー・フリードリッヒ美術館で展示されていました。第二次世界大戦のベルリン陥落に伴う美術館火災に見舞われ、焼失してしまいました。


25
ヴォルテッラのサン・フランチェスコ教会です。


26
美術的に今でも見所が多いサン・フランチェスコ教会です。


24
ルカ・シニョレッリの「割礼」(1490c)

「割礼」はロンドン・ナショナル・ギャラリーの所有作品です。ヴォルテッラのサン・フランチェスコ教会にありましたが、金に目がくらんだ修道士が秘かに祭壇から取り外し売却してしまったのです。


7.シエナ
5
見所が豊富過ぎるのがシエナの欠点でしょうか。

①サンタゴスティーノ教会
3
シエナのサンタゴスティーノ教会です。


27
美術的に今なお必訪の教会として有名です。


4
サンタゴスティーノ教会におけるルカ・シニョレッリ作品は、何となく虐げられたような感じがします。


6
Cappella Bichiです。


7
礼拝堂天井のフレスコ画です。
ルカ・シニョレッリによって1488年頃から1491年頃にかけて制作されたフレスコ画です。


8
Cappella Bichiはビーチ家の個人礼拝堂でしたが、同家の没落によって個人礼拝堂ではなくなりました。
1747年、サンタゴスティーノ教会は火災に遭い、その修復の際、教会内部は新古典様式に改造されました。その時、ルカ・シニョレッリのフレスコ画は塗りつぶされてしまいました。
近年の修復の際、下の層にあったルカのフレスコ画の一部が20世紀後半に再発見されたのです。


9
Cappella Bichiの祭壇には、ルカ・シニョレッリの多翼祭壇画がありました。


10
ルカ・シニョレッリの「Pala Bichi」(1489-90)

現存するパネルを組み合わせて、多翼祭壇画を再構成したものです。多翼祭壇画の中央には聖母子のパネルがあったと考えられてますが、行方不明です。
多翼祭壇画の前には彫刻が置かれていたそうです。


28
フランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニ(シエナ、1439-1501)の「聖クリストフォロ」


11


12
多翼祭壇画の分解されたパネルは、トレド美術館、ベルリン国立美術館、グラスゴー美術館、アイルランド国立美術館などに分散されてます。


13


29


14


15


16
裾絵の「アレッサンドリアの聖カテリーナの殉教」


17
シモン家の饗宴


18
嘆き


➁Palazzo del Magnifico
20


19
ドゥオーモ近くにあるPalazzo del Magnificoは、現在ホテルになっているようです。


21
ルカ・シニョレッリのフレスコ画が大広間にありましたが、1840年に剥されロンドン・ナショナル・ギャラリーの所有となりました。


22
酷いものです。
(つづく)

システィーナ礼拝堂のフレスコ画制作を終えて、ルカは恐らくチッタ・ディ・カステッロに戻ったと思われます。フレスコ画制作を通して、ペルジーノからウンブリア絵画やボッティチェリなどからフィレンツェ派の大きな刺激を受けて、ルカの画風は最新技術の高みへと成熟しました。

6.ペルージャ
1
ペルージャは、人口162,526人(2025年3月31日現在)のウンブリア州の州都でもあり、ペルージャ県の県都です。ウンブリア芸術の中心地です。


①ドゥオーモ付属博物館 Museo del Capitolo Cattedrale San Lorenzo
2
ペルージャのドゥオーモ、サン・ロレンツォ大司教座教会です。


3
ドゥオーモでの出入りは通常左側壁のサイド・ポータルが担います。


4


5
ドゥオーモ付属博物館があります。


6
ここから中に入ってキオストロに出ます。


7
キオストロ


8
博物館の入り口


9
ルカ・シニョレッリの祭壇画が展示されている部屋


10
第19室になります。


11
ルカ・シニョレッリの「聖オノフリオの祭壇画」(1484)


12
当時のペルージャ司教ヤコポ・ヴァンヌッチ(コルトーナ、1416-コルチャーノ、1487)が同郷出身の画家ルカ・シニョレッリに依頼したものです。
ローマでの制作を通して、ウンブリア、フィレンツェ、ローマなどの技術を吸収しながら独自の画風を確立した、ルカの成熟期を象徴する作品として有名です。ルカ・シニョレッリの現存する作品のうち、最古の大祭壇画です。
ペルージャ大聖堂の右翼廊サントノフリオ(聖オノフリオ)礼拝堂の主祭壇画でした。オリジナルの額縁は現存しませんが、1648年の大聖堂記録が残されており、その記録には額縁に刻まれた碑文があり、その碑文に「サントノフリオ礼拝堂はペルージャ司教ヤコポ・ヴァンヌッチによって創建され、ルカ・シニョレッリの祭壇画はヤコポの甥でペルージャ司教ディオニジオ・ヴァンヌッチ(ヤコポの後継ペルージャ司教)によって1484年に設置された」と記されているそうです。


13
この祭壇画は1608年までサントノフリオ礼拝堂にありました。1608年に礼拝堂が改修されることになり、その際、取り外され大聖堂の別の場所に移設されました。1923年に大聖堂内部から付属美術館に移設され、現在に至ってます。


14


15


16


17


18


19



➁ウンブリア国立美術館
20
プリオーリ宮です。


21
プリオーリ宮に国立ウンブリア美術館があります。


23
第18室にルカ・シニョレッリの作品があります。


24
ルカ・シニョレッリの作品です。


22
部屋のフレスコ画も見所です。


25
ルカ・シニョレッリと工房による「パチァーノの祭壇画」(1517)


26
パチャーノ・ヴェッキオのパドヴァのサンタントニオ修道院にありました。


27
プレデッラが付いてます。


28
プレデッラの「シエナの聖ベルナルディーノ」


29
教皇インノチェンツォ3世の夢 聖ロレンツォの殉教


30
パチアーノのサンタントニオ修道院


31
守銭奴の心


32
聖アントニオ・アバーテの死


33
マルカのベアート・ジャコモ



34
この祭壇画の額縁はかなり痛みがあるものの、オリジナルのもので、額縁にルカ・シニョレッリの名前と1517と記されてます。
メインパネルの一部とプレデッラはシニョレッリ工房で制作されたという説が有力です。
パチャーノ・ヴェッキオのサンタント二オ・ディ・パドヴァ修道院は、18世紀末にナポレオンの抑圧令によって修道士が追放され閉鎖されました。その後、ナポレオンの失脚後、活動が再開されたものの1818年に再び閉鎖となりました。建物が荒廃し、1864年に廃墟となり、その際、「パチャーノの祭壇画」は1865年にペルージャ市に売却されました。その後、国立ウンブリア美術館の所有となりましたが、同美術館に保管されたままで展示されるのは特別な機会に限られていたようです。2012年に修復され、その後は一般公開されるようになりました。
(つづく)

5.ローマ
1153
ルカ・シニョレッリはローマでは本領発揮とならなかったようです。

①システィーナ礼拝堂
27
ヴァティカンは何時も混雑しています。


1
最も混雑しているのがシスティーナ礼拝堂でしょう。


2
システィーナ礼拝堂の描いたルカ・シニョレッリのフレスコ画を見ます。


3
礼拝堂の壁がフレスコ画で覆われてます。

1481年10月27日付の契約に基づいて、ルカ・シニョレッリはシスティーナ礼拝堂のフレスコ画制作に従事することになりました。
最初はペルジーノの助手として仕事を始めましたが、ペルジーノが去ると、当初ペルジーノに依頼されていた仕事はルカが引き継ぐことになりました。
1479年、ペルジーノがフレスコ画制作を開始しました。


4
ペルジーノの「モーゼのエジプトへの旅」


5
「エジプトへの旅」のうち、この部分をルカ・シニョレッリが担当したと言われてます。


6
左がルカ・シニョレッリの作品、右がボッティチェリの作品です。


7
ルカ・シニョレッリの「モーゼの遺言と死」
ペルジーノが構想し、バルトロメオ・デッラ・ガッタが手伝ったそうです。


8


9



➁サンタンジェロ城博物館
10
サンタンジェロ城です。


11
サンタンジェロ城は博物館として一般公開されてます。


12
Sala dell’Adrianeoです。


13
絵画が展示されてます。


14
ルカ・シニョレッリの「聖母子と四聖人」(1515-20c)


15
ルカ・シニョレッリと工房によって、コルトーナのサン・ミケランジェロ修道院のベネデット会修道女のために1515年から1516年頃に描かれたという説が有力です。


16
この作品は、コルトーナの貴族トマージ家がサンタンジェロ修道院から買い取り、後にフィレンツェの画商エリア・ヴォルピに売却されました。
1928年にコンティーニ=ボナコッシ・コレクションの一部としてサンタンジェロ城に寄贈されました。


24
プレデッラが付いてます。
しかし、このプレデッラには問題があるのです。プレデッラのテーマは聖ジョヴァンニ・バッティスタの生涯となっており、コルトーナのサン・ミケランジェロ修道院のベネデット会修道女のために描かれたにしては、相応しくないのです。そのため、鋭意調査が行われ、その結果、このプレデッラは別の祭壇画から持ち込まれたことが分かりました。
オリジナルのプレデッラは、現在コルトーナのMuseo Diocesanoに収蔵されている「聖ベネデットの生涯の物語」である可能性が高いという説が有力です。


17
初めに、現在サンタンジェロ博物館にあるルカ・シニョレッリの祭壇画の裾絵(他から持ち込まれたもの)を紹介します。
聖トンマーゾの不信


18
聖ジョヴァンニ・バッティスタの誕生


19
キリストの洗礼


20
サロメ


21
天国のカギを聖ピエトロに託すキリスト


22


23

次にコルトーナのMuseo Diocesanoに収蔵されているプラデッラ、ルカ・シニョレッリと弟子による「聖ベネデットの生涯」(1515‐16)を紹介します。


70
下段が「聖ベネデットの生涯」です。


71


73





74


75


76


78


79


80


72
コルトーナのMuseo Diocesanoです。


25


26
(つづく)

4.ロレート
1
ロレートは、人口13,066人(2025年3月31日現在)のマルケ州アンコーナ県にあるコムーネです。


2
聖なる家の聖堂の有名なロレートは、カトリックの重要な巡礼地の一つで、世界中から多くの巡礼者が訪れる宗教都市です。


3
フランチェスコ・メンゾッキ(フォルリ、1502-1574)の「天使たちに担がれて移動する聖なる家」(ロレート大聖堂付属美術館蔵)

聖母が生まれ育ち、やがて受胎告知を受けた「聖なる家」はナザレにありましたが、イスラム教徒などの迫害を受けて、13世紀末には存続が困難となりました。
1291年、天使たちが「聖なる家」を担いで運び、いくつかの土地を巡った末、やがてロレートに運び込まれました。


4
その伝説に基づいて建設されたのが聖なる家の聖堂です。


6
身廊中央通路の先に「聖なる家」があります。


5
大理石でできた聖なる家


7
1476年、ジローラモ・バッソ・デッラ・ローヴェレ(アルビッソラ・マリーナ、1434-ローマ,1507)はマチェラータとレカナーティの司教に任命されました。当時、ロレートはレカナーティ司教区に属しており、サンタ・マリア・ディ・ロレート教会(現在の聖なる家の聖堂)は、ジローラモの管理下にありました。」
1477年、第212代教皇シスト4世(1419-1484 教皇在位:1471-1484)は、ジローラモ・バッソ・デッラ・ローヴェレを枢機卿に任命しました。


8
サン・ジョヴァンニ聖具室です。聖なる家の聖堂には4つの聖具室があります。


9
1477年、新たに枢機卿となったジローラモ・バッソ・デッラ・ローヴェレは、その記念としてサン・ジョヴァンニ聖具室の装飾に着手して、フレスコ画装飾をルカ・シニョレッリに依頼したのです。
また、1477年2月に聖母の聖堂の守護者に任命されたジローラモの紋章がアーチ天井の中央に描かれてます。


10
ルカ・シニョレッリは、ロレートに赴任し、1477年から1480年にかけてフレスコ画制作に従事したのです。
しかし、このフレスコ画の制作年については幾つかの異説があります。
ヴァザーリによれば、ロレートのフレスコ画はルカのシスティーナ礼拝堂フレスコ画よりも前に制作されたとしてますが、一部の美術史家や研究者は1480年代半ばから1480年代後半に制作されたとしています。


11
サン・ジョヴァンニ聖具室の銘板


12
当時、ルカ・シニョレッリは、師匠のピエロ・デッラ・フランチェスカの影響を脱し、独自のスタイルを確立した気鋭の画家として名声を築きつつありました。


13
サン・ジョヴァンニ聖具室のフレスコ画によって、ルカ・シニョレッリはその地位を揺るぎないものにしたのです。


15
ジローラモ・バッソ・デッラ・ローヴェレ枢機卿の紋章


16
ベネデット・ダ・マイアーノ(マイアーノ、1442-フィレンツェ、1497)の「Lavado(洗面台)」(1480c)


14
サン・ジョヴァンニ聖具室は八角形をしています。


17
八角形の聖具室の形に合わせて、天上から伸びる壁は8つに分かられてます。


18
8つに分かられた壁は、天上の中心から天使が描かれ、天使の下は四福音書記者と四教会博士が交互に描かれてます。


19
天使


20
聖マルコ


21
聖ジローラモ


22
福音書記者と教会博士の下は、5組の二人の使徒、聖パオロの回心、聖トンマーゾの不信となってます。


23
聖パオロの回心


24
聖トンマーゾの不信


30


25


26


27


28


29
(つづく)

2.チッタ・ディ・カステッロ
1
引き続きチッタ・ディ・カステッロです。


①市立絵画館
2
市立絵画館の続きです。


3
ルカ・シニョレッリ派逸名画家による「聖母子と聖人たち」(1520-25)


4


5
以前は「サンタ・チェチリアの祭壇画」はこのように展示されていました。
これについての修復後の現在は(その5)に前述した通りです。また、裾絵が残されているので、いずれ修復されることを期待します。


6
ルカ・シニョレッリの「聖マリア・マッダレーナ」(1508-10)


7
ルカ・シニョレッリに帰属するサン・クレチェンティーノ・モッラ祈祷所のフレスコ画


8
サン・クレチェンティーノ・モッラ祈祷所の「磔刑」


9
サン・クレチェンティーノ・モッラ祈禱所の「鞭打ち」


➁大聖堂付属博物館
10
チッタ・ディ・カステッロのドゥオーモです。
1458年の地震によって大きな被害を受けました。ルカ・シニョレッリがチッタ・ディ・カステッロに居住していた時代、ドゥオーモから制作打診を受けたようです。しかし、地震被害深刻ということで建物が再建されることになりました。1494年創建、1527年に完成した建物が現在のドゥオーモですが、結局ルカへの注文はなされずに終わったようです。


P1720439
ドゥオーモのファサード右側に大聖堂付属美術館があります。


12
ジョヴァンニ・バッティスタ・ダ・カステッロの「聖母子と聖人たち」(1492)


13
ルカ・シニョレッリの影響が強いことが分かります。


14
この作品からジョヴァンニ・バッティスタ・ダ・カステッロはルカ・シニョレッリの弟子だった可能性があるとされています。



3.ウンベルティデ
15
ウンベルティデ Umbertideは、人口16,230人(2025年3月31日現在)のウンブリア州ペルージャ県にあるコムーネです。チッタ・ディ・カステッロの南に位置して、隣接してます。


16
ルカ・シニョレッリがチッタ・ディ・カステッロで工房を構えていた時に、制作依頼があっても当然ですが、そのような話は伝わっていないようです。


17
ウンブリティデのサンタ・クローチェ教会からルカ・シニョレッリに制作依頼する件に関する1515年7月8日付の公正証書が残されているのです。その当時、ルカはコルトーナにいました。
作品が完成して1516年7月末にサンタ・クローチェ教会の主祭壇後方に設置された記録が残されてます。制作費支払いに関する証書は支払いの都度作成され、最後の支払いは1517年に行われました。


18
サンタ・クローチェ教会です。


19
14世紀に建設されましたが、その後数度の改造、修復を経て、18世紀初めに改造された建物が現在の外観となってます。
第二次世界大戦後に聖別されなくなり、修復を経て1998年に美術館になりました。


20
美術館の入り口です。


21
美術館になってますが、中は殆ど教会のままです。


22
中央礼拝堂


23
主祭壇


24
ルカ・シニョレッリの「十字架降下」(1516)
1516年7月に完成しました。
最初の額縁は何らかの理由で使用されなくなり、1611年に制作された額縁に作品が入れられてます。


25


26


27


28


29


30
プレデッラ


31
裾絵は恐らくフランチェスコ・シニョレッリによって制作されたという説が有力です。
裾絵のテーマは「聖十字架伝説」で、ルカの師匠ピエロ・デッラ・フランチェスカがアレッツォのサン・フランチェスコ教会に描いた有名なフレスコ画から借用したと考えられてます。


32


33


34
(つづく)

2.チッタ・ディ・カステッロ
1
チッタ・ディ・カステッロは、人口37,830人(2025年3月31日現在)のウンブリア州ペルージャ県にあるコムーネです。


2
写真はアルノ川で、城壁の横をアルノ川(上流)が流れてます。


3
1470年頃、結婚したルカ・シニョレッリは、程なくして(1472年頃)チッタ・ディ・カステッロに工房を構えて定住したそうです。


4
写真はチッタ・ディ・カステッロのサン・ドメニコ教会です。


5
写真右端に写っているのがサン・ドメニコ教会ですが、教会横にルカ・シニョレッリ通りがあります。


6
ルカ・シニョレッリ通りの表示


7
通りに面してルカ・シニョレッリ工房がありましたが、工房があった建物は現存してません。
ルカ・シニョレッリは、チッタ・ディ・カステッロで5つの祭壇画を制作したと言われてます。

ルカは、1479年にコルトーナの18人評議会の評議員に選出されたので、それ以前にチッタ・ディ・カステッロからコルトーナに引っ越ししたことが分かります。また、ロレートの聖母の家の聖堂フレスコ画制作のため、1477年からロレートに長期滞在したことが分かってます。


①チッタ・ディ・カステッロ市立絵画館
8
Palazzo Vitelliです。


12
Palazzo Vitelliの庭園


9
Palazzo Vitelliのスグラフィート装飾


10
Palazzo Vitelliにコムナーレ絵画館が置かれてます。


11


13
ルカ・シニョレッリの展示室


14
ルカ・シニョレッリ(コルトーナ、1450c-1523)の「聖セバスティアーノの殉教」(1498)


19
14


15


16


17


18


32
「聖セバスティアーノの殉教」は、チッタ・ディ・カステッロのサン・ドメニコ教会にありました。


20
サン・ドメニコ教会


22
ルカ・シニョレッリの作品は主祭壇にありましたが、取り外され絵画館で展示されるようになりました。


21
サン・ドメニコ教会のメインポータル。滅多に開かない教会です。


23
ルカ・シニョレッリの「聖母子と聖人たちのフレスコ画」における「聖パオロ」部分の剥離フレスコ(1474)


24


31


25
Stendardo(旗)の表面 表裏両面に描かれてます。


28
Stendardoの裏面


26
ルカ・シニョレッリと弟子による「キリストの洗礼」(1498c)


27


29
ルカ・シニョレッリと弟子による「聖ジョヴァンニ・バッティスタ」(1498c)
チッタ・ディ・カステッロのサン・ジョヴァンニ・デコッラート教会(聖別されていない旧教会)にありました。


33


34


51
次は2024年12月頃から新たに展示されるようになったルカ・シニョレッリの「サンタ・チェチリアの祭壇画」です。
チッタ・ディ・カステッロのサンタ・チェチリア修道院にあったもので、1516年に制作されました。
ナポレオンのイタリア侵攻の際、ナポレオンの側近で初代ルーブル美術館の館長ヴィヴァン・ドゥノンの命によって、この作品は接収対象となり、メインパネルと裾絵が額縁から取り外され別々になってしまいました。
しかし、メインパネルは縦3メートル、横2メートルの大きなものだったので、輸送上の困難さから接収が断念され、長い間放置されました。
裾絵は、第二次世界大戦中にドイツ軍によって接収され、1945年、オーストリアのリンツで発見されました。リンツにあったヒトラーの美術館に寄贈される予定でした。
その裾絵と端絵がこの美術館にあるので、そのうちに裾絵と端絵が修復されることを期待します。(修復前の祭壇画の写真は(その6)に掲載)


42
この祭壇画は1912年からチッタ・ディ・カステッロの市立美術館に所蔵されるようになりました。
長らく放置されている間に作品の劣化が進みました。また作品帰属もルカ・シニョレッリ派逸名画家の作品とされるようになり、それが信じられてきました。
修復作業の結果、アレッサンドリアの聖カテリーナが着ている服の裾にルカ(LV-CA)の名前と1516の表記があるのが発見され、ルカ・シニョレッリの真作とされたのです。
写真左が修復前、右が修復後の祭壇画です。


66
ルカ・シニョレッリの「サンタ・チェチリアの祭壇画」(1516)
(画面左下がアレッサンドリアの聖カテリーナ)


43
(つづく)

1.コルトーナ
1
引き続きコルトーナです。

④サン・ドメニコ教会
4
城壁外にあるサン・ドメニコ教会です。


2
1258年の文書に初めてその存在が記録されました。


3
現在の建物は、1412年創建、1438年に完成した二代目となるものです。


5
美術的に見どころが豊富な教会として知られてます。


6
ルネッタのフレスコ画「聖母子と聖人たち」は・ベアート・アンジェリコ(ヴェッキオ、1395c-ローマ、1455)によって1439年から1440年に制作されました。
経時劣化によって何が描かれているのか殆ど分からない状態でしたが、修復によって何とか蘇りました。


7
単廊式の内部です。


8
後陣


9
後陣左礼拝堂にルカ・シニョレッリの祭壇画があります。


10
ルカ・シニョレッリの「聖母子と聖人たちと寄進者」(1515)


11
1515年、コルトーナの司教ジョヴァンニ・セルニーニのために描かれました。



12


⑤ドゥオーモ
13
次はコルトーナのドゥオーモです。


14
現在ルカ・シニョレッリの作品はありません。


15
ドゥオーモの主祭壇画はこの作品でした。
ルカ・シニョレッリの「聖母被昇天」(1519-20)


16
「聖母被昇天」はドゥオーモの向かいにあるMuseo Diocesanoに移されました。
シニョレッリ工房にいた弟子、またはシニョレッリの影響を受けた逸名画家による作品が二点あります。


17
ルカ・シニョレッリ派逸名画家による「聖トンマーゾの不信」


18


19
ルカ・シニョレッリ派逸名画家による「磔刑」


20


21
ドゥオーモの中央礼拝堂


⑥サン・ニッコロ教会
22
次はサン・ニッコロ教会です。


23
15世紀に建設されたサン・ニッコロ教会です。


24
ルカ・シニョレッリの作品があります。


25
小さな教会の内部です。


26
主祭壇画はルカ・シニョレッリの「Stendardo di San Niccolo」(1510)
Stendardoとは旗と言う意味で、表裏両面に描かれてます。
表はルカ・シニョレッリの「死せるキリストへの哀悼」


27
Stendardoが電動によって、両面が見えるようになってます。


28
裏面はルカ・シニョレッリの「聖母子と聖ピエトロと聖パオロ」


29
コルトーナのサン・ニッコロ信徒会によって創建されたサン・ニッコロ教会ですが、1440年頃にシエナの聖ベルナルディーノの信奉者によって設立された信徒修道会が活動の中心となりました。ルカ・シニョレッリは、その信徒修道会の一員だったと言われてます。


30
その信徒修道院が解散した後の1784年に、このStendarioはコルトーナのジェズ教会に移されましたが、1792年にサン・ニッコロ礼拝堂(この時、常勤の聖職者がいなかったので教会ではなく礼拝堂と呼ばれたようです)に戻されました。
1784年のジェズ教会の作品目録には、このStendarioに聖二コラの奇跡を描いたプレデッラが存在すると記されています。
Stendarioの裾絵は3枚の小パネルから成っており、そのうち2枚がアトランタのハイ美術館にあります。残りの1枚は個人蔵でしたが、2022年1月のニューヨークのサザビーズで競売に掛けられ落札されました。落札者はオープンになっていないようです。


31
この両面画のStendarioには、信徒修道会教会の主祭壇画として、また行列の旗としての2つの役割がありました。


32
ルカ・シニョレッリ工房によるフレスコ画「聖母子と8聖人」


33
ルカ・シニョレッリは、この修道会の一員だったため無償でこのフレスコ画を描いたそうです。


34
コルトーナを終わります。
(つづく)

↑このページのトップヘ