
写真はフィレンツェです。

(その8)で述べたように、1490年11月16日、ロレンツォ・イル・マニーフィコ(フィレンツェ、1449-1492)は「Maestro Luca」宛の手紙を出しましたが、その手紙はルカ・シニョレッリへのフィレンツェ招待状と思われてます。

その書状による招待を受け入れて、ルカ・シニョレッリはフィレンツェへと旅立ったとされてます。

ジョルジョ・ヴァザーリの「ロレンツォ・イル・マニーフィコの肖像」

ロレンツォとルカが出会ったことは間違いありませんが、記録が残されてません。

Villa di Careggiです。

ロレンツォ・イル・マニーフィコは、新プラトン主義アカデミーを主宰し、人文学者や芸術家と交流を深めました。

当初、アカデミーはVilla le Fontanelle(現在ホテルになってます)で行われていましたが、手狭になったのでVilla di Careggiで行われるようになっていました。

ルカ・シニョレッリはVilla di Careggiに滞在してアカデミーの人々と交流を深め、大きな刺激を受けると共に、画風にもさらに深みを増すようになりました。

ルカ・シニョレッリの「パンの教育」
Villa di Careggiに滞在中に制作されたとされてます。第二次世界大戦のベルリン陥落の際、焼失してしまい、作品の白黒写真しか残されていません。

ウフィッツィ美術館のルカ・シニョレッリ作品の展示室です。

この作品はルカ・シニョレッリのフィレンツェ、またはVilla di Careggiに滞在中に制作されたとされてます。

Villa Medicea di Castelloにありました。

フィレンツェ大聖堂のファサードです。

1491年1月5日、ファサードについての意見を聴取するため、フィレンツェにいた芸術家が集められました。
現在のファサードは1876年創建、1887年に完成しました。

当日、ルカ・シニョレッリはその集会を欠席した記録が残されてます。既にフィレンツェを離れヴォルテッラに向かっていたかも知れません。

写真はヴォルテッラです。

1491年2月以降、ルカ・シニョレッリがヴォルテッラにいたことは確実でしょう。

完成後ドゥオーモに設置された「受胎告知」に関するルカ・シニョレッリへの支払い記録が残されてます。

「受胎告知」の制作料が1491年2月6日、2月20日、3月9日、3月26日、3月28日、4月9日、4月17日、4月20日、5月1日、5月5日、5月13日にルカ・シニョレッリに支払いされた記録が残されてます。
11回の分割払いですから、ルカ・シニョレッリがヴォルテッラにいたことを示す証拠とされてます。

1491年6月4日、ヴォルテッラ大聖堂の司祭とルカの「受胎告知」のパトロンが「受胎告知」が設置される前に祭壇を飾っていた古い祭壇画を売却しました。
なお、「受胎告知」の11回分割払いの理由は不明です。

「受胎告知」は市立絵画館で展示されてます。

ヴォルテッラの市立絵画館で展示されているルカ・シニョレッリの作品です。

ルカ・シニョレッリのヴォルテッラ滞在中の1491年に制作されました。

ルカ・シニョレッリの署名と1491と書かれてます。ヴォルテッラのサン・フランチェスコ教会のために制作されました。

ヴォルテッラのサン・フランチェスコ教会です。

現在、ロンドン・ナショナルギャラリーで展示されているルカ・シニョレッリの作品です。ルカのヴォルテッラ滞在中の1491年に制作されました。
ヴォルテッラのサン・フランチェスコ教会にありましたが、売却されたのです。

写真はコルトーナです。

1491年8月25日、ルカ・シニョレッリはコルトーナの法務最高責任者に選出されました。このことから、既に、ヴォルテッラからコルトーナに戻っていたことが分かります。
(つづく)
写真はコルトーナです。

























写真はコルトーナです。


























写真はスポレートです。
























































写真はチッタ・ディ・カステッロです。























