
次は白の宮殿です。

白の宮殿は、道路を挟んで、赤の宮殿の斜め向かいにあります。

10年ほど前は、もう少し白かったと思いますが、この辺は修復の際の外壁の磨き方と関係があるのかも知れません。
白の宮殿は、1530年から1540年にかけて、ジェノヴァ有数の貴族だったルーカ・グリマルディによって建設された邸宅です。
その後、1658年と1711年に、所有者が変わりました。

この絵画は、マッテオ・ピカッソによって描かれた「マリーア・ブリニョーレ=サーレ・ダ・フェラーリ(ジェノヴァ、1811‐パリ、1888)の肖像」(1829)ですが、マリーアはブリニョーレ=サーレ公爵夫人で、同家最後の相続人でした。マリーアは赤の宮殿で生まれました。
マリーアの遺言によって、マリアの死後、白の宮殿と宮殿にあった全てのものがジェノヴァ市当局に遺贈されました。
なお、マリーアの肖像画は赤の宮殿にあります。また、赤の宮殿と宮殿内にあったものは、マリーアによって生前にジェノヴァ市当局に寄贈されたのです。

1892年、白の宮殿は美術館として一般公開されるようになりました。
白の宮殿美術館は通称で、正式名称はGalleria di Brignole-Sale de Ferrariと言います。

ストラーダ・ヌオーヴァ美術館は、赤の宮殿、白の宮殿、トゥルシ宮の3つから成りますが、展示されている作品の質と言う点では、この白の宮殿が最も勝ると思います。

入館しました。
ピエッレ・フランクゥエヴィッレ通称ピエトロ・フランカヴィッラ(フランス・カンブレ―、1553‐パリ、1615)の「ユピテル」

詳細不明

最初の展示室にある作品です。
ランベルト・サストリス(アムステルダム、1515c‐1584)の「ピエタと天使たち」

パオロ・カリアーリ通称イル・ヴェロネーゼ(ヴェローナ、1528‐ヴェネツィア、1588)の「磔刑」

次の展示室に移動しました。

部屋によって、このような表示があります。展示室番号の表示はあったりなかったりです。

ヤコポ・ニグレティ通称パルマ・イル・ジョーヴァネ(ヴェネツィア、1548‐1628)の「キリストとサマリア女」

ヤコポ・ニグレティ通称パルマ・イル・ジョーヴァネ(ヴェネツィア、1548‐1628)の「キリストと姦通女」

パオロ・カリアーリ通称パオロ・ヴェロネーゼ(ヴェローナ、1528‐ヴェネツィア、1588)の「スザンナの水浴」

アレッサンドロ・ボンヴィチーノ通称イル・モレット(ブレーシャ、1498‐1554)の「聖母子」
作品を一瞥しただけでモレットの作品と分かります。モレットらしさ?が非常に出ています。

次の部屋です。

第8室になります。
この部屋まで7つの部屋があったとは思えません。恐らく5室ほど閉鎖されていたのではないでしょうか?

カラヴァッジョの作品が目立ちます。

ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ通称イル・カラヴァッジョ(ミラノ、1571‐ポルト・エルコレ、1610)の「この人を見よ」

日本に来ていましたね。

ピエル・フランチェスコ・マッツゥッケッリ通称モラッツォーネ(モラッツォーネ、1573‐ピアチェンツァ?、1626)の「聖ジョヴァンニ・バッティスタの斬首」

ジュリオ・チェーザレ・プロカッチーニ(ボローニャ、1574‐ミラノ、1625)の「砂漠の聖ジョヴァンニ・バッティスタ」

ジョヴァン・バッティスタ・クレスピ通称イル・チェラーノ(チェラーノ、1565/1570-ミラノ、1632)の「聖ジョヴァンニ・バッティスタの斬首」

ヘンデリック・ファン・ソマー(ベルギー・ローケレン、1607-ナポリ、1656)の「聖ジローラモ」

ルチアーノ・ボルツォーネ(ジェノヴァ、1590-1645)の「キリストの洗礼」

マティアス・ストーマ―(オランダ・アメルスフォールト、1600-シチリア、1655没)の「サロメ」

ジュゼッペ・ヴェルミーリオ(アレッサンドリア、1585c-1635c)の「イサクの犠牲」

次の部屋に、このような説明プレートがありますが、展示されているのは1作品だけです。

ルーカ・カンビアーソ(モネーリア、1527-エル・エスコリアル、1585)の「父の肖像画を描く自画像」

1階(日本の2階)の展示が終わりです。

一旦、1階のテラスに出て一休みしました。小雨が止んでいました。

道路を挟んで、向かいに建つ赤の宮殿です。

2階(日本の3階)の展示室に向かいました。

階段の先にフィリッピーノ・リッピの作品が見えます。

フィリッピーノ・リッピ(プラート、1457-フィレンツェ、1504)の「フランチェスコ・ロメッリーニの祭壇画」

聖母子と2天使

聖セバスティアーノと聖ジョヴァンニ・バッティスタと聖フランチェスコ



(つづく)
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