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16世紀から約200年間、ファルネーゼ家の支配下にあったピアチェンツァですが、ピアチェンツァに於けるファルネーゼ公爵家の住居がファルネーゼ宮殿です。宮殿にピアチェンツァ市立博物館があります。


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宮殿の歴史と、ファルネーゼ家とピアチェンツァとの関りについて触れておきましょう。
ファルネーゼ宮殿入口に向かって左側に古い要塞構造の部分があります。


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街の北部、城壁とポー川から直ぐ傍の現在地に、ミラノ公爵ガレアッツォ2世ヴィスコンティ(ミラノ、1320‐パヴィア、1378)が1352年に要塞を建設しましたが、その要塞がファルネーゼ宮殿の前身です。
写真左の塔を含む部分が1352年に建設された要塞の一部に当たります。


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ミラノは、ヴィスコンティ家からスフォルツァ家の支配になりましたが、それに伴いピアチェンツァもスフォルツァ家の支配下に置かれ、それが1499年まで続きました。1499年からフランスの支配を受け、フランス支配が1521年まで続きましたが、その後、非公式ながら教皇領の一部に組み入れられました。


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第220代ローマ教皇パオロ3世俗名アレッサンドロ・ファルネーゼ(カニーノ、1468‐ローマ、1549)(教皇在位:1534年‐1549)には4人の息子(一生独身とされた教皇ですが、当時の教皇には子供がいたのです)がいましたが、最も愛していた長男ピエル・ルイージ・ファルネーゼ(ローマ、1503‐ピアチェンツァ、1547)のために、公国を設立して、ピエル・ルイージを公爵にしようと考えたのです。


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1545年、教皇パオロ3世は、当時イタリア王でもあった神聖ローマ皇帝カール5世(ヘント、1500‐スペイン、ユステ修道院、1556年)の承認を得て、金を支払って買ったことにより、ピアチェンツァとパルマをミラノ公国から切り離し、ピアチェンツァ公国とパルマ公国を設立して、両公国の公爵位を長子ピエル・ルイージに授けたのです。ピエル・ルイージは、両公国の首都をピアチェンツァに定めました。


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1547年、ピエル・ルイージ・ファルネーゼ公爵は、”ピアチェンツァの陰謀”によって、この古い城塞で殺害されたのです。
第二代公爵を継いだのは、ピエル・ルイージの息子オッタヴィオ(バレンタノ、1524‐ピアチェンツァ、1586)でした。


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1558年、ピアチェンツァとパルマとカストロの公爵オッタヴィオ・ファルネーゼとその妻オーストリア皇女マルゲリータ(1522‐1586)(神聖ローマ皇帝カール5世の娘)は、古い城塞には住み難いということで、新たに宮殿を建設することを決め、建築家フランチェスコ・パチェットが起用されました。
当初の設計では城塞を取り壊し、その上に宮殿を建設することになっていましたが、要塞の西側と2本の塔を残すことに改められました。


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その後、建設工事は建築家ヤコポ・バロッツィに引き継がれましたが、1602年に作業が中断され、未完のまま現在に至ってます。


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未完に終わった部分
宮殿は当初設計の半分の規模で終わったのです。
ここで前述したファルネーゼ家の人々とカール5世の有名な肖像画があります。


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教皇パオロ3世の肖像


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カポディモンテ美術館にあります。


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教皇パオロ3世の肖像


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ファルネーゼ・コレクションの傑作はナポリに移されてしまいました。その経緯については後述します。


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ピエル・ルイージ・ファルネーゼ(パオロ3世の長子)の肖像


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パオロ3世とアレッサンドロ・ファルネーゼ(イル・ジョーヴァネ)枢機卿とオッタヴィオ・ファルネーゼ


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アレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿(ローマ、1520‐1589)とオッタヴィオ・ファルネーゼ(バレンタノ、1524‐ピアチェンツァ、1586)は、ピエル・ルイージの子供です。パオロ3世の孫です。


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アレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿の肖像


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教皇パオロ3世とその孫アレッサンドロ・ファルネーゼ・イル・ジョーヴァネ枢機卿の2人が美術品の収集に熱心でした。2人によって所謂”ファルネーゼ・コレクション”の中核が形成されたのです。


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神聖ローマ皇帝カール5世の肖像


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ファルネーゼ宮殿の中庭から撮った写真です。
宮殿は3階建てですが、回廊によって繋がれてます。各階に中階が組み込まれてます。


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中庭


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中庭の左側


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宮殿の外側に出ました。
ここが以前の入り口です。


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現在は宮殿の入り口扉が開いているので、ここから出入りします。


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展示物が多いので、午前4時間、午後3時間の開館時間に効率良く見て回る必要があります。


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博物館は、絵画館、馬車博物館、考古学博物館、リソルジメント(イタリア国家統一運動)博物館に分かれてます。


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ルネサンス期にファルネーゼ家が収集したものが所謂ファルネーゼ・コレクションです。前述のように、ファルネーゼ家では、特に第220代教皇パオロ3世(カニーノ、1468‐ローマ、1549)とパオロ3世の孫アレッサンドロ・ファルネーゼ・イル・ジョーヴァネ枢機卿(ヴァレンターノ、1520‐ローマ、1589)の2人が美術品収集に熱心でした。
コレクションは、ローマのファルネーゼ宮殿(現在はフランス大使館になってます)、カプラローラ(ヴィテルボ近く)のヴィッラ・ファルネーゼ、パルマのピロッタ宮殿、ピアチェンツァのファルネーゼ宮殿などに分散されていました。


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時代は下り、1731年、ファルネーゼ家直系男子が途絶え、断絶してしまいました。ファルネーゼ・コレクション散逸の危機を迎えたのです。
この辺の経緯とその結幕に触れてみます。
17世紀中頃から後半のパルマとピアチェンツァの公爵だったラヌッチョ2世ファルネーゼ(パルマ、1630‐1694)は、3人の男子に恵まれました。先妻との間にできた公世子オドアルド2世(パルマ、1666‐1693)、後妻との間にできたフランチェスコとアントニオがいました。
公世子オドアルド2世は、父ラヌッチョ2世の公爵在任中の、ラヌッチョ2世死去の前年に死んでしまい、ラヌッチョ2世死後の公爵位は、次男フランチェスコに引き継がれましたが、子供に恵まれないまま、1727年に没したのです。ラヌッチョ2世の3男アントニオが公爵位を引き継ぎましたが、アントニオも子供に恵まれないまま、1731年死去してしまい、ファルネーゼ家は断絶してしまいました。
公世子ラヌッチョ2世ファルネーゼには娘エリザベッタがいましたが、エリザベッタはスペイン王フェリペ5世に嫁ぎスペイン王妃になっていました。
エリザベッタには、フェリペ5世との間に2人の息子カルロスとフィリッポがいました。
1731年、ファルネーゼ家断絶に伴い、ファルネーゼ・コレクションはスペイン王妃エリザベッタに引き継がれ、パルマ公爵はエリザベッタの息子カルロスが襲位したのです。カルロスが引き続きパルマ公になっていれば、コレクションには何の問題もなかったことでしょう。
ところが、1734年、カルロスは、ナポリ公国の王に叙せられ、カルロ3世となりましたが、母エリザベッタから受け継いだファルネーゼ・コレクションの大部分をナポリに持って行ったのです。
新たにパルマ公になったのは、カルロスの弟フィリッポでしたが、コレクションの一部返還を兄に訴え、一部がパルマに戻されました。
ピアチェンツァの宮殿にあったものは、移動が困難なフレスコ画や調度品を除いてナポリに移され、後の返還交渉で一部の大したことない作品はピアチェンツァに戻されたものの、その大部分は戻ることがありませんでした。


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切符売り場は未だ閉まったまま。
ナポリに持ち出された後のファルネーゼ宮殿は悲惨で直ぐに荒廃が始まりました。オーストリア軍や、その後に侵攻してきたナポレオン軍の兵舎などに使用されました。また、第二次世界大戦の爆撃によって家を失った被災者の避難所として使用されました。
1965年に宮殿の大修復工事が開始され、2006年に市立博物館としてオープンしました。


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午後3時になっても切符売り場の扉が開きません。
残念ながら、ファルネーゼ・コレクションのお宝はこの宮殿には殆どありません。
ナポリの王宮、国立考古学博物館、カポディモンテ美術館でファルネーゼ・コレクションのお宝を見ることが出来ます。


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漸く切符売り場が開きました。


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入館しました。


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何処から見て行くか。


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考古学部門から見て行くことにしました。


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ジュリオ・マッツォ―ニの「モーゼの泉」(1560)


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「モーゼの泉」は、ピアチェンツァのサンタゴスティーノ修道院にあったそうです。


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このまま考古学部門を見ていると時間が足りないと思いました。


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已む無く絵画館を先に見て、その次に馬車博物館を見ることにしました。


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ファルネーゼ家の紋章


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絵画館の最初の部屋です。


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部屋のフレスコ
(つづく)