
今回はカンピテッリ地区にあるサンタ・マリア・デッラ・コンソラツィオーネ教会を取り上げます。

ローマ市庁舎です。

カンピドーリオ広場から崖下の道に下ります。

モンテ・タルぺオ通りに下りると直ぐにサンタ・マリア・デッラ・コンソラツィオーネ教会の建物が見えます。

アーチを潜ると、写真右は崖下になります。

Rupe Tarpeo、タルペーイアの岩です。

タルぺーイアの岩は、共和制ローマ時代から1550年まで処刑場でした。

岩のことに触れているのは、教会の歴史と関係があるからです。
タルペーイアの岩の麓に教会があります。

1385年、ローマ貴族ジョルダネッロ・デリ・アルベリーニは死刑判決を受け、タルペーイアの岩から突き落とされることになりました。
死刑に臨んで、ジョルダネッロは金貨2枚を払って、現在教会が建っている場所に聖母像を置いてもらい、生前の最後を慰めました。
また、当時、聖母像を置いてもらった場所に隣接して病院が建っていました。
15世紀中頃、死刑囚を慰めるためと病院に関係する人々のための信仰の場所として教会が建設されることになり、15世紀後半に工事着工、1506年に完成した慰めの聖母教会です。1470年に奉献されました。
病院とタルペーイアの岩と関係なさそうですが、精神を病んだ病人や回復の見込みがない重病人や伝染力が高い病気に罹患した病人も時に崖上から突き落とされたという忌まわしい事実があるのです。

1505年、ローマの有力貴族のマッテイ家、コロンナ家、サンタクローチェ家、フランジパネ家によって慈善事業団体「Compagnia di Gentiluomini」が設立され、貧しい人々の救済と病院への資金援助を行いました。
その慈善事業団体は財政が豊かだったので、完成してから年月が経っていない教会の再建を決めました。建築家マルティーノ・ロンギ・イル・ヴェッキオ(ヴィッジ、1534‐ローマ、1591)に建設が委嘱され、マルティーノの設計、工事監督によって1583年から1606年にかけて、バロック様式の建物が再建されました。

パスクゥアーレ・ベッリ(ローマ、1752‐1833)によって1827年に完成したファサードです。

預言者イザヤとゼカリアの彫像

ファサード前の階段は20世紀になって追加されました。
聖ルイージ・ゴンザーガは、教会に隣接する病院(現在は市役所となっています)でペスト患者を救済中に死んだのです。
財政的に豊かな教会だったので、制作費用が高い画家などに祭壇画などを注文した経緯から美術ファンにとっては嬉しい教会です。

観光客はあまりいません。

この教会に展示されるようになったのだ!
現代の宗教画が得意な画家パオロ・ガッリナーロです。

中に入りました。

三廊式、バロック様式の内部です。

左右に5つづつの礼拝堂、主祭壇を含めて後陣に3つの礼拝堂があります。

天井は地味です。

後陣の装飾

左側廊

左側廊の礼拝堂から見て行きます。

ラッファエッロ・ダ・モンテルーポ(モンテルーポ、1505‐オルヴィエート、1566)の「アレッサンドリアの聖カテリーナの神秘な結婚」(1530)

ルイージ・カッポーニ(ミラノ、1450c‐1506)の「磔刑」

パオロ・ガッリナーロの作品を見るのは初めてですが、ビックリしました。

「大天使聖ミケーレ」ですと!

詳細不知

詳細不知

17世紀の逸名画家作「聖痕を受ける聖フランチェスコ」

Cappella Sacchiのプレセピオ
「聖痕を受ける聖フランチェスコ」の下にあります。

Cappella dei Carzoni degli Osti
祭壇画の下半分が切り取られてます。

フランチェスコ・ナッピ(ミラノ、1565c‐ローマ、1630)の「聖母被昇天」(1620)

フランチェスコ・ナッピ(ミラノ、1565c‐ローマ、1630)の天井フレスコ画

フランチェスコ・ナッピ(ミラノ、1565c‐ローマ、1630)の「幼きキリストへの崇拝」

Cappella dei Pescatori
逸名彫刻家作「この人を見よ」(17世紀)

マルツィオ・ディ・コラントニオ・ガナッシーニ(ローマ、1560‐1623以降没)の「聖アンドレア」

マッティア・プレティ(タベルナ、1613‐マルタ、ヴァレッタ、1699)の「聖アンドレアの殉教」

マルツィオ・ディ・コラントニオ・ガナッシーニ(ローマ、1560‐1623以降没)の「聖ピエトロの逆さ磔」
(つづく)
コメント