
次はダンテの家博物館です。

コルソ通りからサンタ・マルゲリータ通りに入ります。

サンタ・マルゲリータ通りのアーチの上の壁にフレスコ画があります。

これです。

17世紀のフィレンツェの逸名画家作「受胎告知」

サンタ・マルゲリータ・デイ・チェルキ教会通称ダンテ教会を通り過ぎます。

塔が見えます。

Torre dei Giuochi

矢印に従って博物館の入り口に回ります。

塔の下に博物館の入り口があります。

入口です。

入館します。

毎日開館しています。

中に入るとダンテの顔のフレスコ画が迎えてくれます。

この博物館の建物(塔ではありません)は、観光用に新しく建築されたものです。
13世紀中頃、フィレンツェは教皇派(グエルフィ)と皇帝派(ギベッリーニ)の熾烈な抗争が行われていましたが、1267年にグエルフィ支配となりました。しかし、グエルフィ内部では白派(ビアンキ)と黒派(ネーリ)の抗争が激化し、やがて教皇派と皇帝派の抗争を再燃させるような形態となってしまいました。
当時、フィレンツェは、6人のプリオーレ(最高執政官)と「正義の旗手」と呼ばれる議長からなる執政府によって統治されていましたが、ダンテはプリオーリを務めていました。
1300年、執政府は、黒派と白派の指導者を追放して収拾を図ろうとしました。ダンテは白派に属していました。しかし、教皇ボニファチョ8世が抗争に介入すると、1301年、フィレンツェは黒派の勝利となりました。優勢となった黒派は、恐怖政治を布き、白派の人々や建物への襲撃を行いました。
白派に属していたダンテはフィレンツェを追放され、二度とフィレンツェに戻ることなく没するまで亡命生活を送ったのです。
ダンテの家は、黒派によって破壊されたので現存しません。
「現存しないダンテの家を観光用に建てた『ダンテの家』の博物館」ということですから、この博物館の立ち位置が分かると思います。

展示室は階上です。

展示室に入りました。

アンドレア・ピサーノ(ポンテデーラ、1290‐オルヴィエート、1348)の作品です。

この彫刻はダンテ・アリギエーリ(フィレンツェ、1265‐ラヴェンナ、1321)とは直接関係がないようです。
この博物館における美術的な見所はアンドレア・ピサーノの作品に尽きると思います。

アンドレア・ピサーノ(ポンテデーラ、1290‐オルヴィエート、1348)の「画家」

Istvan Madarassy(ブダペスト、1948‐)の現代彫刻


次の展示コーナーです。

ダンテが生きていた時代の武器

詳細不知

ダンテの短剣


ダンテが生きた時代の武装兵

アンドレア・ピサーノ(ポンテデーラ、1290‐オルヴィエート、1348)の「彫刻家」

次の展示コーナーです。


ダンテの最愛の人ベアトリーチェ・ポルティナーリは、ダンテのことを気持ち悪いと感じていた?

次の展示コーナーです。






ブルネット・ラティーニの紋章

ブルネット・ラティーニ(フィレンツェ、1220c‐1294)は、作家、詩人、政治家、公証人でグエルフィに所属して、ダンテの理解者、支持者でした。

ダンテの家系図








次の展示コーナーです。





グイディ家の紋章

グイディ家は、中世の中央イタリアの名家で、Conti palatini di Toscanaとして知られ、トスカーナ、ロマーニャ、エミリアの殆どを支配していました。





ダンテの著作








外に出ました。
(つづく)
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