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Porta Nuovaを潜って城壁外に出ます。


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城壁内と城壁外の門の雰囲気がかなり異なります。


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城壁外に出ました。


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写真右の建物については、全く分かりません。


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Porta Nuovaの名称とは異なり、要塞のような造りです。


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実際は要塞でした。その理由ですが、この街の歴史を知れば分かります。


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15世紀後半、コッレ・ディ・ヴァル・デルザは、フィレンツェの統治下にありました。
当時、フィレンツェは、ロレンツォ・イル・マニフィコ(フィレンツェ、1449-1492)の実質的支配下にありました。


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Porta Volterranaとも呼ばれてます。


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ロレンツォ・イル・マニフィコの権力の源泉たるメディチ銀行は衰退の途にありました。ロレンツォ自身が銀行業にあまり熱心ではなかったのが原因とも言われてます。
1478年4月26日、フィレンツェのドゥオーモで、所謂パッツイ家の陰謀事件によってロレンツォと弟ジュリアーノが襲われ、ロレンツォは傷を負いながらも辛くも難を逃れましたが、弟ジュリアーノは暗殺されてしまいました。
陰謀事件については、このブログで何度も触れたので、改めて触れることはしませんが、事件後のロレンツォのパッツィ家など関係者への報復は凄まじく、過度な報復に激怒した教皇シスト4世(シクストゥス4世)(在位:1471-1484)は、ロレンツォ・イル・マニフィコとフィレンツェ政庁を破門すると共にフィレンツェに対して宣戦布告したのです。
所謂パッツィ戦争が勃発しました。
教皇庁は、ナポリ王国とシエナ共和国と同盟関係にありました。
コッレ・ディ・ヴァル・デルザは、ナポリのアルフォンソ2世(ナポリ、1448-メッシーナ、1495)に包囲され、現在、Porta Nuovaがある場所にあったPorta Selvaとその周囲の城壁が攻撃を受け、破壊されてしまいました。
ナポリ王国軍がコッレ・ディ・ヴァル・デルザから撤退すると、ロレンツォ・イル・マニフィコは要塞風の新門の建設を、お抱えの建築家ジュリアーノ・ダ・サンガッロ(フィレンツェ、1445-1516)に命じたのです。
ジュリアーノ・ダ・サンガッロが多忙だったため、ジュリアーノの師匠フランチェスコ・ディ・ジョヴァンニ通称イル・フランチョーネやジュリアーノの友人フランチェスコ・ダンジェロ通称イル・チェッカ(フィレンツェ、1446-1488)、パオロ・ディ・フランチェスコの協力を仰いで、1481年に完成したPorta Volterrana o Porta Nuovaです。


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城壁内に戻ります。


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門を潜り、Via Gracco del Seccoに出ました。


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写真左は四つ星ホテル、写真右は旧サン・ピエトロ修道院です。


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サン・ピエトロ教会です。


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1606年から1610年に建設されました。


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ファサードの碑文


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来た道をそのまま戻るのは詰まらないですが、城壁内を貫く道はこれしかないので仕方がないのです。


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すっかり夕方になりました。


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夕方になると人出が増えるイタリアですが、この街では例外のようです。


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Piazza Baiosに戻りました。


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共同洗濯場(写真左奥)を通り過ぎます。


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道草をしないでアルタに戻ります。


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市庁舎(写真左)を通り過ぎ、Palazzo Campanaのアーチを潜ります。


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Palazzo Campanaのアーチを潜り、カステッロに入りました。


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Via del Castelloです。


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カステッロ内も人出が殆どありません。


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歴史的建造物に挟まれた道を歩くのは実に楽しいひと時でした。


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ドゥオーモにも寄り道しないで、先を急ぎます。


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サンタ・マリア・イン・カノーニカ教会にも寄り道しません。


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写真右がサンタ・マリア・イン・カノーニカ教会です。


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エレベーターに乗ります。


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地上階に下りました。
(つづく)