とうとう雨が降ってきました。
イタリアのゴミ出しは、家毎に出すのが普通です。
南の方に進みました。
廃墟となったサンタンドレア教区教会だった建物です。
1000年頃に創建されたサンタンドレア教区教会でした。1177年の文書にその存在が詳しく記載されたそうです。
13世紀後半、サンタンドレア教区教会(修道院が併設されていた複合施設でした)はFrati Eremitani di Sant’Agostinoによって運営されていましたが、フェラーラ、モデナ、レッジョのシニョーレ(支配者)だったアッツィ7世・デステ(フェラーラ、1263‐エステ、1308)の娘ベアトリーチェはFrati Eremitani di Sant’Agostinoの修道女になりました。それを機に、アッツィ7世・デステはサンタンドレア教区教会の拡張を命令しました。それ以降、サンタンドレア教区教会はエステ家の庇護のもとにおかれ、1501年までにさらに拡張されました。
1796年、ナポレオンによって抑圧され、修道士は追放され、建物は没収され、フランス軍の兵舎に転用されました。
1806年、サンタンドレア教区教会は再開されましたが、併設の修道院は閉鎖されたままでした。
1823年、第252代教皇レオ12世(1760‐1829 在位:1823‐1829)は、イエズス会修道院をフェラーラに建設すること命じましたが、その資材をサンタンドレア教区教会の修道院から調達するように指示しました。そうして修道院だった建物は資材調達のため破壊されたのです。
1866年、教区教会は閉鎖されました。閉鎖後、建物は放置して、1938年に屋根の一部が崩落、1969年に屋根の殆どが崩落したので、建物は破壊されることになりました。
サンタンドレア教区教会の建物はそのごく一部が残されているにすぎません。
南を流れるポー川に向かって進みました。
道の左奥に城壁があります。
次はサンタ・テレーザ教会です。
サンタ・テレーザ・トラスヴェルベラータ教会にやってきました。
この場所に地元の人たちが詣でる信仰の小さな祠がありましたが、1739年頃から跣足カルメル会のサン・ジローラモ修道院の修道女5人が小さな祠に毎日通って信仰を捧げました。
やがて信仰の輪が広がり、18世紀後半になると教会建設の話が持ち上がり、具体化の運びとなりました。
フェラーラの建築家ガエターノ・バルビエーリ(フェラーラ、1711‐1797)の設計によって、1781年から1788年に建設されました。
しかし、建設されてから9年後の1797年にナポレオンによって抑圧され、閉鎖されてしまいました。
1821年に活動が再開されました。
修道院だった建物の外壁
サンタ・テレーザ・トラスヴェルベラータ教会の左側壁
毎日開く教会です。
Via Carlo Mayr
Via Borgovadoを通ってサンタ・アポッロニア教会に向かいました。
Via XX Setembreに入りました。サンタ・アポッロニア教会はこの通りに面して建ってます。
サンタ・アポッロニア教会です。
Confraternita della Morte(死の同信会)によって15世紀に建設された小さな教会が前身です。
15世紀末には手狭になったので、フランチェスコ・マッツァレッリの設計によって1612年から1668年に再建された八角形の建物が現在の姿の原型です。
1975年に教会は閉鎖されました。つまり旧サンタ・アポッロニア教会というわけです。
閉鎖されて数年後に建物の一部が解体されたそうです。
旧サンタ・アポッロニア教会に隣接して、フェラーラの国立考古学博物館があります。
今世紀になると、国立考古学博物館の一部として旧サンタ・アポッロニア教会の建物を転用する計画が具体化しました。
そのための修復工事が行われていましたが、2012年のエミリア地震によって被害を受けたようで、その後、計画が進捗した話が聞こえてこなくなりました。
コロナ禍以降、イタリアに行ったことがないので現在の最新状況については知らないのです。
ポータル
ポータルの彫刻
サンタ・アポッロニア修道院だった建物
城壁近くに閉鎖された旧教会が多いように思います。
(つづく)
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