足跡を辿って 2.カラヴァッジョ(コムーネ)Ⅱ
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カラヴァッジョには、画家カラヴァッジョに関する博物館などがありませんが、将来的には旧サンタ・マリア・デリ・アンジェリ修道院の建物にオープンさせる計画があるようです。


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ジョヴァンニ23世通りです。


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モンタニェッタ庭園です。


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カラヴァッジョ町の旧城壁の門が見えてきました。


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Porta Nuovaと呼ばれてます。


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門の前に川が流れてます。堀の役目をしていた川?


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門を潜ります。


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門を潜って旧町域内に入りました。


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ペスト禍のミラノを避けて、カラヴァッジョに移住してきたメリージ一家ですが、父フェルモと祖父がその年(1577年)の秋に避難の甲斐もなくペストで死去してしまいました。フェルモ・メリージは、1577年10月20日に亡くなったようです。
働き手を失った母と、異母姉、ミケランジェロを含む5人の子供は困窮したに違いないと思います。父フェルモが仕えてきた主家のカラヴァッジョ侯爵家が未亡人と残された子供たちを援助したようですが、十分ではなかったようです。
しかし、コロンナ家出身のカラヴァッジョ侯爵夫人コスタンツァ・コロンナの画家カラヴァッジョに対する支持と支援は、終生変わりませんでした。
1584年、13歳になったミケランジェロは、画家を志してカラヴァッジョを離れミラノに行くことになります。


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ミケランジェロは、6歳から13歳までの約7年間、カラヴァッジョで生活したのです。


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画家を志したからには、カラヴァッジョの教会などを巡りながら、宗教画を見て、それらに啓発されたに違いないと思います。


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メリージ一家が住んでいた家が分かりましたが、画家カラヴァッジョに関する具体的なことは一切分かりませんでした。


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町役場に行けば、少しは分かるかもしれないと思いました。


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旧町域内の目抜き通りのローマ通りです。


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サンティ・フェルモ・エ・ルスティーチ教区教会の鐘楼が見えました。


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左折して町役場に向かいました。


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カラヴァッジョの町役場 Palazzo Comunaleです。


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13世紀後半に建設されたPalazzo Gallavresiは、カラヴァッジョ侯爵家の宮殿でした。第二次世界大戦後、個人所有の不動産だった宮殿をコムーネが買収して、修復改造を経て町役場として使用するようになりました。


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町役場内に非常に小さな絵画館が設けられてます。


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Palazzo Gallavresiの柱廊


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Museo Civicoです。


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二コラ・モイエッタ(カラヴァッジョ、16世紀前半活動)の「玉座の聖母子と聖人たち」(1521)
カラヴァッジョのサン・ベルナルディーノ教会にあった祭壇画です。
恐らく画家となるミケランジェロは、この作品を観たことでしょう。


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ジュリオ・チェーザレ・プロカッチーニ(ボローニャ、1574-ミラノ,1625)の「聖人たちに顕現するキリスト」(1624-25)
画家カラヴァッジョの死後に制作された作品です。


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アンドレア・ランツァーニ(ミラノ、1641-1712)の「イサクの犠牲」
画家カラヴァッジョとは全く世代が異なる作品です。
二コラ・モイエッタの作品以外はミケランジェロが見るはずがない作品ばかりです。


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町役場の人から教えられた「メリージ一家の家」に向かいます。


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ローマ通りの外れにあります。


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タバッキの先にある建物がそうです。


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画家カラヴァッジョの肖像画があるので、直ぐに分かります。


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かなり朽ち果ててます。


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今はどうなっているでしょうか。



作品巡り 1.ローマ、ドーリア・パンフィーリ美術館
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ドーリア・パンフィーリ宮殿です。


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宮殿の中庭


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カラヴァッジョの作品が3点あります。


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このように3点の作品が展示されてます。


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ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ,1610)の「悔悛のマグダラのマリア」(1593)

カラヴァッジョが没した地について、取り敢えず従来の定説であるポルト・エルコレと表示することにします。
ナポリのフェデリーコ2世大学の教授で、定年後に同大学の名誉教授を務めたヴィンチェンツォ・パチェッリ氏を中心とした研究グループの調査研究によって、教皇庁の暗黙の了解のもとに、マルタ騎士団によってパロ・ラツィアーレの要塞でカラヴァッジョが斬首されたことが明らかにされました。この辺の詳細については、(その33)で触れることにします。
カラヴァッジョが没した地は、パロ・ラツィアーレ(現在の自治区分ではラディスポリのコムーネに属する)です。


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注文主が不明で作品制作の経緯が分からないとされてます。足元に置かれた宝石類の静物画が描かれていて、果物籠に見られる卓越した技量に感嘆です。宝石類の横にある液体が入ったボトルが聖マリア・マッダレーナのアトリビュートである香油壺を示すのでしょう。
この作品は、ピエトロ・アルドブランディーニ枢機卿(ローマ、1571-1621)の死後の1627年に同枢機卿の遺産にあったことが確認されてます。
作品左上の斜光がカラヴァッジョ独特のものと思います。
なお、モデルは、カラヴァッジョが楽しんだ売春婦のアンナ・ビアンキーニ(ローマ、1579c-1604)だったことが知られてます。
1640年、アルドブランディーニ家のオリンピア・アルドブランディーニ(ローマ、1623-1681)がカミッロ・フランチェスコ・マリア・パンフィーリ枢機卿(ナポリ、1622-ローマ、1666)と結婚する際、この作品を持参したことで、パンフィーリ家の所有となり現在に至ってます。


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ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「エジプトへの逃避途中の休息」(1597c)


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「エジプトへの逃避途中の休息」は、宗教画の定番ともいうべき画題ですが、聖ジュゼッペが掲げる楽譜を見ながら天使がヴァイオリン(多分)を演奏しており、このような着想の作品を観たことがない、非常に斬新な場面構成と思います。演奏している曲は、聖母への讃美歌と言われてます。
聖母マリアのモデルは、前述の売春婦アンナ・ビアンキーニだったと言われてます。
邸宅の壁に飾るために注文されたと思いますが、制作の経緯については諸説あり、その中の一つがピエトロ・アルドブランディーニ枢機卿の注文による説です。しかし、同枢機卿の遺産目録には、この作品が無いので、同枢機卿の依頼主説は否定されています。
17世紀初めにパンフィーリ家がこの作品を買収しました。


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ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571-ポルト・エルコレ、1610)の「聖ジョヴァンニ・バッティスタ(洗礼者聖ヨハネ)」(1602)


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この作品は、カピトリーノ美術館にある「聖ジョヴァンニ・バッティスタ」の複製と言われてます。
カピトリーニ美術館にある作品は、ローマ貴族チリアーコ・マッテイ(ローマ、1545-1614)が息子ジョヴァンニ・バッティスタの名前に因んで注文したと言われてます。当時、カラヴァッジョは最初のパトロンであるデル・モンテ枢機卿の屋敷を出て、マッテイ家の邸宅に移っていました。
洗礼者ヨハネを示すアトリビュートが一切描かれていないため、近年、この作品の画題は「聖ジョヴァンニ・バッティスタ」ではなく。「解放されたイサク」説が出されています。
ドーリア・パンフィーリ版は、カピトリーノ作品のカラヴァッジョ自身による複製ですが、その制作された経緯は分からないようです。また、ドーリア・パンフィーリ版以外にも10点の複製画の存在が確認されているそうです。

(つづく)