1アルノ川沿いの道を進みます。


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サンタ・マリア・デッラ・スピーナ教会が見えてます。


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川向こうからも良く見えます。


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良くも悪くも川横に建っているのが特徴です。


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ピサの有力貴族だったグアランディ家によって1230年に建設されたピサ・ゴシック様式の教会ですが現現在地とは数メートル違った場所に建っていました。アルノ川に架かる橋が教会に繋がっていたことから、サンタ・マリア・デイ・ポンテノーヴォ教会と呼ばれていました。
1333年、荊刑を受けたキリストが被っていた荊の一部が聖遺物として教会に持ち込まれました。


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1323年から1376年にかけて拡張工事が行われましたが、拡張工事後の姿が現在の外観の原形とされてます。しかし、後述する理由によって現在の姿は当時とはかなり異なるようです。


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15世紀、教会と繋がる橋が大水によって崩落してしまいました。それ以降、聖遺物に因んで何時しかサンタ・マリア・デッラ・スピーナ教会と呼ばれるようになりました。


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当時、堤防がありましたが、アルノ川の河原に建設されたと言っても過言ではない場所に建設されたことから、元々地盤が弱く土地の沈下に伴う構造の強化、アルノ川の洪水に伴う深刻な被害の両面から度々修復工事が行われました。
イタリア統一後、ピサ市議会と美術アカデミーを中心とする教会に関する委員会が設置され、教会の抜本的存続策が検討されました。その結果、教会を解体して安定した安全な場所に移設することが決定されました。そうして1871年から1875年にかけて移設工事が行われました。
東に数メートル移動させ、高さを1メートル高くして工事が完了しましたが、階段が新設され、解体されたものの、そのまま残骸として残された部分が数多くあったり、彫刻は修復不十分で設置された一方、移設されない彫刻が数体残るなど、解体前の姿とは大幅に異なるようです。
移設工事後の教会を見た美術史家や美術アカデミーの専門家が怒ったり、呆れた記録が残されてます。


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それでも一見の価値が十分ある教会です。


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彫刻などの装飾はピサで活躍した彫刻家が多数参加して行われました。


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ジョヴァンニ・ピサーノ(ピサ、1248c-シエナ、1315c)、アンドレア・ピサーノ(ポンテデーラ、1290c-オルヴィエート、1348/1349)、アンドレアの息子ニーノ・ピサーノ(ピサ、1315c-1370c)、アンドレアの息子トンマーゾ・ピサーノ(ピサ、14世紀活動)、ジョヴァンニ・ディ・バルドゥッチョ(ピサ,1300c-1365?)などの彫刻家、それらの工房によって装飾されました。
20世紀後半になると彫刻などの劣化進行が深刻になったので、徐々にレプリカに置き換えられ、1996年までにすべての彫像がサン・マッテオ国立美術館に移設されました。


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移設前のオリジナルの彫像


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サン・マッテオ国立美術館で展示されているサンタ・マリア・デッラ・スピーナ教会の彫像


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サン・マッテオ国立美術館における展示


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教会のファサード


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ファサードの入り口


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(つづく)