
ヴォルテッラのサルティ通りを進みます。

サルティ通り1番地のある、写真右先の建物がミヌッチ・ソライーニ宮です。

フィレンツェの建築家アントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ヴェッキオの設計によって、15世紀後半から16世紀初頭にかけてミヌッチ家の邸宅として建築されました。

フィレンツェのストロッツィ宮とグアダーニ宮を模して設計されたと言われてます。

1982年に設けられた市立絵画館はこの建物にあります。

絵画館の他にアラバスター博物館もこの建物内にあります。

絵画館の入り口です。

Maestro della Bibbia di Baltimoraの作品の可能性がある「彩色磔刑」(13世紀)

Maestro di Monterotondo(1320-1340活動)の「聖ウーゴと聖ジュスト」
欠落した部分は「聖母子」の可能性が高いとされてます。

14世紀のシエナ派逸名画家による「聖母子と磔刑」

タッデオ・ディ・バルトロ(シエナ、1362c‐1422)の「トレンティーノの聖二コラと聖ピエトロ」
タッデオは、シモーネ・マルティーニやロレンツェッティ兄弟らが活躍した後に、25歳以下で画家ギルドに加入が認められ、1389年に独立し親方になりましたが、その画風はシエナ派の伝統に忠実で保守的でした。それでも、ギリシャ神話やローマ時代の逸話など従来の枠組みに捉われない画題を取り上げて、初期ルネサンスの先駆けとなる新しい動きを示しました。

タッデオ・ディ・バルトロの「聖母子」

タッデオ・ディ・バルトロの「玉座の聖母子と聖人たちの多翼祭壇画」
タッデオの代表作は、サン・ジミニャーノのドゥオーモにある「最後の審判(フレスコ)」(1393)、シエナ市庁舎の「ローマの歴史からの寓意(フレスコ)」(1413‐14)と「聖母の葬儀(フレスコ)」(1409)などですが、どれも一見の価値があります。



裾絵


詳細不明の作品です。

ヤコポ・ディ・ミケーレ通称イル・ジェーラ(ピサで1371‐1395記録)の「玉座の聖母子と聖ルチアとアレッサンドリアの聖カテリーナ」
ヴォルテッラのフランチェスコ・ネーリまたはジョヴァンニ・ディ・二コラに師事したとされています。典型的な国際ゴシック様式シエナ派の画風で、シモーネ・マルティーニとルーカ・ディ・トンメの強い影響が認められます。
ピサのサン・マッテオ国立美術館やパレルモのシチリア州立美術館に彼の代表作が展示されてます。

チェンニ・ディ・フランチェスコ・デル・セル・チェンニ(フィレンツェで1369‐1415活動)の「聖母子と聖人たち」
チェンニは、14世紀後半から15世紀初頭にかけてヴォルテッラ、フィレンツェで活動した画家ですが、その修行の過程は不明です。活動初期の作風がオルカーニャの強い影響を受けたものなので、オルカーニャに師事したとの説がありますが、それを裏付ける文書などがありません。
親方として独立してから暫く経つと次第にナルド・ディ・チョーネの画風に傾倒し、14世紀末にジョッテスキのリバイバルが盛んになると、チェンニのジョッテスキもどきに画風を変えました。主体性がなかったようで、時代の流行の画風に次々と変え、最終的にはタッデオ・ディ・バルトロの強い影響を受けたものに転じました。

アルヴァーロ・ピレツ・デヴォ—ラ(1411‐1434記録)の「磔刑と聖母と福音書記者聖ジョヴァンニ(ヨハネ)」

フランチェスコ・ネーリ・ダ・ヴォルテッラ(ヴォルテッラ、1310c‐1375c)の「ピエタ」
フランチェスコは、14世紀中ごろにヴォルテッラ、ピサ、サン・ジミニャーノで活動した画家ですが、ヴォルテッラの有力な政治家でもありました。1363年に起きたヴォルテッラとサン・ジミニャーノ間の紛争で、事態解決の仲介を行った記録が残されてます。
画家としての修行の経緯は不明です。その画風はシエナ派国際ゴシック様式に近似していて、中でもシモーネ・マルティーニの強い影響が認められます。また・タッデオ・ガッディと一緒に仕事をした記録が残されてます。

15世紀のフィレンツェの逸名画家による「磔刑」

アルヴァーロ・ピルツ・デヴォーラの「聖母子と聖人たちの多翼祭壇画」
アルヴァーロのことについては良く知りません。

中央パネル

向かって左のパネル

向かって右のパネル

聖人たちの浮彫

裾絵が普通です。


フランチェスコ・ディ・ドメニコ・ヴァルダムグリーノ(15世紀前半に活動)の「受胎告知」

絵画館ですがコインが多数展示されてます。


ステファノ・ディ・アントニオ・ディ・ヴァンニ(フィレンツェ、1405‐1483)の「聖母子と天使たち」

プリアーモ・デッラ・クエルチャ(クエルチェグロッサ、1400c‐シエナ、1467)の「聖母子と聖ヴィットーレと聖オッタヴィアーノ」
初期ルネサンスにシエナで活動した画家で、有名な彫刻家のヤコポ・デッラ・クエルチャの弟です。師匠はドメニコ・ディ・バルトロだったと考えられています。師匠の革新性が全く認められず、旧来の国際ゴシック様式シエナ派の典型的な画風でした。その保守的な画風はシエナ市民の好みに合わせたものと思われ、ルネサンスの新しい動きとは無縁の存在だった。

プリアーモ・デッラ・クエルチャの「聖母子と聖ヴィットーレと聖オッタヴィアーノ」

プリアーモ・デッラ・クエルチャの「シエナの聖ベルナルディーノ」

ピエル・フランチェスコ・フィオレンティーノ(フィレンツェ、1444‐1494以降没)の「ピエタのキリスト」
(つづく)
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