イタリア芸術を楽しむ

イタリアの魅力を味わい尽くすには、一生に何度旅をすれば足りるだろう。芸術の宝庫にして、歴史の生きた証であるイタリア。 惹き付けて止まない絵画、彫刻、歴史的建造物、オペラなど、芸術の宝庫であるイタリアを楽しむブログです。 記事は一日に一つアップしています。記事の見方ですが、例えば「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その4)」は2017年10月20日にアップしました。各記事にカレンダーが表示されてますが、カレンダー上の2017年10月21日をクリックして頂ければ「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その5)」になります。(その3)は2017年10月20日となります。 BY:シニョレッリ

カテゴリ: トスカーナ州

1引き続きカヴァリエーリ広場です。


2
Palazzo della Carovanaの続きです。


3
ファサードの彫刻


4


5
ピエトロ・タッカ(カッラーラ、1577-フィレンツェ、1640)の「コジモ2世の胸像」(1633c)


6
リドルフォ・シリガッティ(フィレンツェ、1553-1608)の「コジモ1世の胸像」(1590-96c)


7
リドルフォ・シリガッティ(フィレンツェ、1553-1608)の「フランチェスコ1世の胸像」(1690-96c)


8


9
ジョヴァンニ・バッティスタ・フォッジーニ(フィレンツェ、1652-1725)の「フェルディナンド2世の胸像」(1681-82c)


10


11
ジョヴァンニ・バッティスタ・フォッジーニ(フィレンツェ、1652-1725)の「コジモ3世の胸像」(1718)


12


13


14
中庭に入ります。


15
中庭です。


16


17
中庭の井戸


18
次は写真右端の建物です。


19
Palazzo del Collegio Puteanoです。


20
Palazzo del Collegio PuteanoはPalazo dell’Orologioに向かって左にあります。


21
この場所には3つの別々の建物が建っていましたが、1594年から1598年にかけて、3つの建物を一つにする改造工事によって出来ました。


22
1605年、当時のピサ大司教がサント・ステファノ騎士団に与えました。それから直ぐの17世紀初頭にピエモンテからの学生を受け入れるために建物が使用されるようになりました。


23
ファサードにフレスコ装飾があります。


32


26


25
ファサードの紋章


27
Palazzo del Collegio Puteanoに隣接して教会があります。


28
サン・ロッコ教会です。教会と思わないで通り過ぎそうです。


29
1028年の文書に記録されているサン・ピエトロ・イン・コルテヴェッキア教会が前身です。1575年に現在の姿にほぼ近い形に改造されましたが、それを機に教会の名称が変更されたそうです。
1782年に活動中止しましたが、1899年に聖別されて現在に至ってます。


30
単廊式の小さな教会です。


31
主祭壇
(つづく)

1サン・シスト教会を後にしました。


2
カヴァリエーリ広場に向かいました。


3
時計がある建物のアーチを潜ります。


4
アーチを潜れば目的の広場に出ます。


5
カヴァリエーリ広場です。写っている教会はサント・ステファノ・デイ・カヴァリエーリ教会です。


6
この場所にはローマ帝国のフォロがあったとされてます。それ以降、中世ピサの政治の中心でした。ロンゴバルド時代にはカスタルドの邸宅がありました。


7
1140年からPiazza delle Sette Vieと呼ばれていたそうです。


8
1406年、ピサはフィレンツェに破れ、フィレンツェの支配下に置かれるようになりましたが、広場と広場にあった建物はフィレンツェから派遣された執政官によるピサ支配の中心地となりました。


9
1558年、トスカーナ大公コジモ1世(フィレンツェ、1519-1574)は、この地をサント・ステファノ騎士団に与える決定を行い、ジョルジョ・ヴァザーリ(アレッツォ、1511-フィレンツェ、1574)に命じて、広場の改造と広場にあった建物の改造や新築に当たらせました。1562年から工事が開始され、17世紀前半に完成した広場や建物が現在見ることが出来る姿の原形になりました。


10
19世紀末、ピサに路面電車が敷設されることになりました。カヴァリエーリ広場は、路面電車システムの本部と車両基地が置かれることになり、20世紀初頭から広場の改造工事が行われ、1912年から1952年までピサ路面電車網の中心地となりました。
1952年に路面電車が廃止されたものの、広場には線路が敷かれ車両が置かれたままになっていました。
2012年から2013年に広場の修復工事が行われ、現在の姿となりました。
広場に面して建つ建物を見て回りました。


11
先ほど、この建物のアーチを潜って広場に出ました。


12
Palazzo dell’Oroligio、またはPalazo del Bonomoと呼ばれてます。
中世に建てられた古い建物で、1357年からCapitano del Popoloが居住するようになりましたが、後にピサの有力貴族グゥアランディ家に買収され、同家の邸宅となりました。
1554年に改造工事が開始され、1607年から1609年にかけて行われた大修復工事を経て、現在の姿になったと言われてます。
1566年以降、サント・ステファノ騎士団の病院として使用されました。1919年、同騎士団が抑圧され、個人所有となりました。
1982年、ピサ高等師範学校に譲渡され、現在は同学校の図書館として使用されてます。


13
ファサードのフレスコ


14
時計


15
アーチ天井のフレスコ


16
次はこの建物です。


17
Palazzo della Carovana、またはPalazzo dei Cavalieriと呼ばれてます。


18
中世のアンツィアーニ宮が前身です。サント・ステファノ騎士団の本部として使用されることになり、ジョルジョ・ヴァザーリの設計によって、1562年から1564年に大改造されて、現在の姿になりました。


19
1846年にピサ高等師範学校の学舎として使用されるようになりました。


20
現在、ピサ高等師範学校の本拠地となってます。


21


22
建物の前にコジモ1世像があります。


23


24


25
外壁のスグラフィート装飾


26


27


28


29


30
(つづく)

1次はサン・シスト教会です。


2
写真左の鐘楼はサン・シスト教会のものです。


3
サン・シスト広場です。


4
広場に面してファサードがあります。


5
この場所には、ピサにおけるロンバルディア時代、カロリング朝時代に重要な存在だったサン・ピエトロ・コルテ・ヴェッキア教会がありましたが、経時劣化によって荒廃して、10世紀頃には活動が停止されていました。
その古い建物を取り壊して、その土地に1087年創建、1133年完成したピサ・ロマネスク様式の建物がサン・シスト教会です。


7
1133年に奉献式が執り行われました。


6
15世紀、17世紀、19世紀に改造や修復が行われましたが、20世紀に元の姿に戻されました。


8
もう少し経つと扉が開くはずですが、今日はどうでしょうか。


9
扉が開きました。


10
現在の外観は創建時の姿にほぼ近いと言われてます。


30


11
拝観します。


12
中に入りました。


29
20世紀に修復された天井


13
三廊式、ロマネスク様式の内部です。


14
右側廊方向


15
右側廊


16
マウロ・ソデリーニ(フィレンツェ、1704-1746)の「光悦のアヴィーラの聖テレーザ」(18世紀)


17


18
ジョヴァンニ・ドメニコ・ピアストリーニ(ピストイア、1680-ローマ、1740)の「聖イグナツィオに顕現するキリスト」(18世紀)


19


20
詳細不知の磔刑像


28


21
ピサの逸名画家作「聖母子」(1290-1300)


22


23


24
主祭壇


26
詳細不知


27
詳細不知


25
外に出ます。


31
(つづく)

1相変わらずの賑わいでした。


2


3
ドイツ人が多かったと思いました。


4
日本人はほとんど見かけません。


5


6


7


8
ドゥオーモ博物館です。


9
展示が何時も同じです。この時は入館せず。


10
人出が多過ぎてウンザリ。


30



11
次は大司教館です。


12
Palazzo Arcivescovile 大司教館です。
ピサが独立した司教区になったのは4世紀頃と言われてますが、1092年にピサ大司教区となりました。


13
現在、大司教館が建っている場所にはトスカーナ辺境伯の小さな宮殿があり、カノッサの屈辱で有名なトスカーナ女伯マティルデ・ディ・カノッサ(マントヴァ、1046-ボンデーノ・ディ・ロンコーレ、1115)が小さな宮殿を所有しており、時々住んでいました。
1115年、マティルデは全財産を教皇庁に遺贈するとの遺言を残し没しましたが、それによって小さな宮殿も教皇庁の所有となり、1207年までフィレンツェのピサ総督の宮殿として使用されていました。


14
その後、宮殿は荒廃して危険になったので、高位聖職者でメディチ家のフィリッポ・ディ・メディチによって1472年に建設され、ピサ大司教館となりました。それから約30年後の1503年、ほぼ全焼する火災に遭い、16世紀前半に再建に近い形で大修復された外観が今の姿の原形とされてます。


19
大司教館の入り口です。


15
中に入ります。


20
キオストロに出ます。


16
キオストロ


17


18
キオストロ中央に彫像が置かれてます。


21
アンドレア・ヴァッカ(カッラーラ、1660/1665-1745)の「モーゼ像」


22
柱廊
大司教館には幾つかの作品があります。


23
トスカーナの逸名画家作「玉座の聖母子と四聖人」(1516)


24
タッデオ・ディ・バルトロ(シエナ、1362-1422)の「聖母子と四聖人」(1396-97c)


25


26


27
外に出ます。


28


29
(つづく)

1教会扉が閉まる時間になったので午前中の教会巡りは終わりです。


2
そうは言ってもドゥオーモは例外で、夕方まで開いてます。


3
柱廊のフレスコ画


4


5
「斜塔に行ってみるか」


6
青空市はそろそろ終わりです。


7



8
一休みします。


9
ここで一休み。


10
ローマ遺跡に来ました。


11
遺跡の左に進みます。


12
ドゥオーモ広場はもう直ぐです。


13


14


15
斜塔に上ります。


16
斜塔の階段


17
斜塔に上ったのは久し振りでした。


18


19
ドゥオーモの後陣は修復工事中でした。


20


21


22


23


24


25


26


27


28


29


30
(つづく)

1サン・ミケーレ・イン・ボルゴ教会です。


2
教会が建っている場所には、エトルリア人やローマ人の遺跡があったそうです。1016年以前にベアート・ボーノによって建設された、聖ミケーレに捧げられたベネデット会修道院教会が前身で、1016年に文書に初めて記載されました。


3
1105年から1111年の間にカマルドリ修道会の所有となり、その所有は1782年まで続きました。1783年から世俗的な管理となり現在に至ってます。


4
現在の建物構造の原形は13世紀から14世紀初頭にかけて行われた一連の拡張と改修の結果と言われてます。
ファサードはフラ・グリエルモ・アニェッリによって建設されたとされてます。


5
1944年に爆撃を受けて、建物の多くが戦後に再建されました。現在の姿は1989年から1990年に行われた最終修復の結果です。


8
メインポータル上にタベルナコロがあります。


6
タベルナコロの彫刻は、ルーポ・ディ・フランチェスコ(ピサ、13世紀から14世紀)の「聖母子と天使と修道院長」(14世紀)のコピーです。
本物はサン・マッテオ国立美術館にあります。


7


9
修道院の扉


10
メインポータル


11
左ポータル


12
右ポータル


13
右ポータル上ルネッタ


14
三廊式、ロマネスク様式の内部です。


15
左側廊


16
右側廊


17
聖水盤


18
中央礼拝堂


21


19
ルネッタの聖ミケーレのフレスコ画


20
フレスコ断片


22
聖ミケーレ


23
カウンターファサード


24
扉が開いていることが少ない教会です。


25
教会巡りを続けました。


26


27


28


29


30
(つづく)

1サン・マルティーノ教会を後にして、サン・ミケーレ・イン・ボルゴ教会に向かいました。


2
アルノ川沿いのガリレオ・ガリレイ通りをメッツォ橋方向に進みます。


3
メッツォ橋です。


4
橋の手前の9月20日広場です。


5
Logge dei Banchi


17



6
旗が掲げられた建物は市庁舎です。


8
Palazzo Gambacorti


14


15


16
Palazzo Gambacortiにある聖母子のモザイク


18
メッツォ橋です。


13
メッツォ橋から見たPalazzo Gambacortiです。


7
橋の下を流れるアルノ川


9


10


11


12


19
橋を渡ってガリバルディ広場に出ました。


20
ガリバルディ広場に立つガリバルディ像


21



22
写真右の柱廊上のルネッタに注目です。


23
聖母子の浮彫があります。


24
Borgo Strettoを進みます。


25
写真右奥に教会があります。


26
サン・ミケーレ・イン・ボルゴ教会です。


27
アルノ川沿いの少し下流にサン・ミケーレ・デリ・スカルツィ教会があります。直ぐ近くに2つのサン・ミケーレ教会があるので、区別するためにイン・ボルゴとデリ・スカルツィの呼称が必須です。


29
参考までにサン・ミケーレ・デリ・スカルツィ教会の写真を載せておきます。


28
ゴシック様式の影響を受けたピサ・ロマネスク様式のファサードです。


30
(つづく)

1引き続きサン・マルティーノ教会です。


2
ジョヴァンニ・ダンドレア通称イル・ソルドの「受胎告知」(1606)


3


4


5


6


7
トスカーナの逸名画家による「聖ボーナ」(1690c)


8


9


10


11
フレスコ断片


12
ジョヴァンニ・ディ・二コラ(ピサ、1326c-1363)に帰属する「キリストの神殿奉献」


13


14


15
ジョヴァンニ・ディ・二コラ(ピサ、1326c-1363)に帰属する「ご誕生」、「マギの礼拝」


16


17


18


19


20


21


22


23
シエナの逸名画家作「聖母子」(1410c)


24
トスカーナの逸名画家による「聖マルティーノ」


25
詳細不知


26
アンドレア・グアルディ(フィレンツェ、?-ピサ?、1476)の「聖母子」


27


28


29
外に出ました。


30
(つづく)

1引き続きサン・マルティーノ教会です。


2
教会内の作品を見て回ります。


3


4
ドメニコ・クレスティ通称イル・パッシニャーノ(フィレンツェ、1560-1638)の「聖母と聖クリストフォロと聖フランチェスコ」


5


6


7


8


9


10


11


12
アントニオ・ファスチェッティの「聖ボーナ」
アントニオ・ファスチェッティは現代の彫刻家です。


13
オルガン


14


15
説教壇


16


17
告解室


18
オラツィオ・リミナルディ(ピサ、1594-1631)の「聖ボーナの着衣式」(1627-29)
着衣式とは修道女になるための儀式です。


19


20


21


22


23


24
ヤコポ・リゴッツィ(ヴェローナ、1547-フィレンツェ、1627)の「悔悛の聖マリア・マッダレーナ」


25


26


27


28


29


30
(つづく)

1引き続きサン・マルティーノ教会です。


2
内部の美術作品を観て回ります。


3


4


5
エンリコ・ディ・テディーチェ(ピサ、1254記録)の「磔刑像」(13世紀)


6


7


8


9


10


11


12


13


14
アウレリオ・ローミ(ピサ、1556-1622)の「聖アンドレア」


15


16


17


18
アントニオ・ヴェネツィアーノ(ヴェネツィア、?-フィレンツェ、1388)のフレスコ画


19


23


24


25


26


27


28


29
ジョヴァンニ・ディ・二コラ(ピサ、1326c-1363)に帰属するシノピエ


30


20
パルマ・イル・ジョーヴァネ(ヴェネツィア、1549-1628)の「聖ベネデット」(1614)


21



22
(つづく)

1次はサン・マルティーノ教会です。


2
サン・マルティーノ広場に建つサン・マルティーノ教会です。


3
1067年からChiesa di San Martino in Cuazzolongo(川の最長の浅瀬という意味)の存在が記録されているそうです。1103年の文書には「教会には病院が含まれている」と記録されたそうです。


4
1135年、聖アウグティヌスの修道士たちに譲渡されました。その後、建物の荒廃が進んだので、1331年に再建されたピサ・ロマネスク様式の建物が現在の外観の原形となってます。
15世紀にクララ会に譲渡されると共に、女子修道院が教会に隣接して建設されました。1786年、クララ会女子修道士たちが退去したそうです。


5
ファサードは大掛かりな修復工事が完了した1610年の姿のままとなってます。


6
ファサードの出入り口上ルネッタに浮彫があります。


11
ルネッタ上の浮彫はアンドレア・ピサーノ(ポンテデーラ、1290c-オルヴィエート、1348)作「貧者にマントを与える聖マルティーノ」の複製です。


8
後陣


7


9
写真左は鐘楼です。


10
左側壁に柱廊が設けられてます。


16
左側壁


15
煉瓦積みの左側壁


14
左側壁にサイドポータルが設けられてます。教会への出入りはファサードのメインポータルではなくサイドポータルが担ってます。


12
紋章


17
サイドポータルです。


13
サイドポータル上ルネッタにフレスコ画があったとされてます。


18
中に入りました。


19
単廊式、ロマネスク様式の内部ですが、17世紀に改装されました。


20
右側壁


21
天井


22
彫刻、祭壇画、フレスコ画などを見て回ります。


23
右側壁にある礼拝堂


24
礼拝堂ルネッタ上の浮彫はアンドレア・ピサーノ(ポンテデーラ、1290c-オルヴィエート、1348)の「貧者のマントを与える聖マルティーノ」


25
ジョヴァンニ・ディ・二コラ(ピサ、1326c-1363)に帰属する「聖ジョヴァンニ・バッティスタの誕生」


26


27
ジョヴァンニ・ディ・二コラ(ピサ、1326c-1363)に帰属する「受胎告知、ご訪問」


28


29
聖水盤


30
(つづく)

1次はサント・セポルクロ教会です。


2
サント・セポルクロ教会です。


3
アルノ川の対岸からも良く見えます。


4
聖ヨハネ病院の騎士団によって1113年に建設されました。この教会の存在が1138年の文書に初めて記載されたそうです。


5
教会に隣接して聖ヨハネ病院があったそうです。


6
後にマルタ騎士団の本拠地となりました。


7
鐘楼


8


9
アルノ川の横に、以前は河原だった場所に建設されたので、地盤が弱く、建物が沈降しまい、大掛かりな工事が行われました。


10
中央ポータル


11
ルネッタの彫像


12
中央ポータル横の浮彫


13


14
左サイドポータル


15
右サイドポータル


17
右サイドポータルの装飾


16


18
中に入りました。


25
17世紀に一部バロック様式に改造されましたが、19世紀に元の姿に戻されました。


19
主祭壇


20
過って主祭壇後方に彩色磔刑像がありましたが、サン・マッテオ国立美術館に移され展示されてます。


32
サン・マッテオ国立美術館の彩色磔刑像の展示室です。ピサの古い教会から集められた磔刑像が展示されてます。


30
サント・セポルクロ教会にあった彩色磔刑像


31


21
装飾が殆どない内部です。


22


23
天井


24


26
詳細不知


27
詳細不知


28


29
外に出ます。


33
(つづく)

1サンタ・マリア・デル・カルミネ教会の続きです。


2
バッチョ・チアルピ(バルガ、ルッカ、1574-ローマ、1654)の「聖エリア」、「聖エリセオ」


3


4


5


6
説教壇


8


7


9
1613年に制作されたオルガン


10
ジュゼッペ・二コラ・ナシーニとトンマーゾ・ナシーニの作品


11
ジュゼッペ・二コラ・ナシーニとトンマーゾ・ナシーニの作品


12
カウンターファサード


14
外に出ました。


15
サンタ・マリア・デル・カルミネ教会の後陣を見ながら川沿い方向に進みます。


13
直ぐに教会があります。


16
写真右手前にサン・ベネデット教会が、通りの突き当りにサン・ジョヴァンニ・デイ・フィエーリ教会が写ってます。


17
サン・ベネデット通りです。


18
先ずはサン・ジョヴァンニ・デイ・フィエーリ教会です。


19
12世紀前半にこの地に建設されたサン・ジョヴァンニーノ教会が前身です。
17世紀初めに聖ヨハネ騎士団の所有となり、1614年に現在の姿に改造しました。それを機にサン・ジョヴァンニ・デイ・フィエーリ教会と改称されました。


20
ファサードの紋章


21
現在、アドベンチズムの教会となっていることからChiesa Avventista del Settimo Giornoと呼ばれてます。


22
サン・ジョヴァンニ・デイ・フィエーリ修道院のキオストロ


23


27
次はサン・ベルナルド教会です。


24
サン・ベルナルド教会です。


25
シトー会修道士によって11世紀に建設された修道院教会が最初の建物でした。最初の建物は1189年に破壊されたので、1279年に再建された建物が現在の外観の原形となってます。


26
1400年、シトー会修道女に与えられ、サン・ベルナルド女子修道院教会となりました。


28
1808年に閉鎖され、それ以後、聖別されてません。


29
後陣


30
修道院だった建物です。
現在、旧サン・ベルナルド教会の建物は若いアーチストの活動拠点として使用されてます。


31
(つづく)

1引き続きサンタ・マリア・デル・カルミネ教会の祭壇画を観て回りました。


2
ジローラモ・マッキエッティ(フィレンツェ、1535-1592)の「磔刑」(1581)


3


4


5
ドメニコ・ブオンジュンティ(ピエトロサンタ?、?‐ピサ、1582)の「妊娠した聖母」


6


7


8


9
詳細不知


10
アレッサンドロ・アッローリ(フィレンツェ、1535-1607)の「キリストの昇天」(1581)


11


17


18


12


13


14
17世紀の逸名彫刻家作「聖セバスティアーノ」


15


16


19
アウレリオ・ローミ(ピサ、1556-1622)の「天上の聖母と聖人たち」(1590c)


20



21


22
ラニエーリ・ボルゲッティ(ピサ、1609-1642活動記録)の「天空のアヴィーラの聖テレーザ」


23


24
クーポラのフレスコ画は、トンマーゾ・トッマージ(ピサ、1700-1749)の「永遠なる父」


25
フランチェスコ・クゥッラディ(フィレンツェ、1570-1661)の「聖アンドレア・コルシーニに顕現する聖母」(1629)


26


27


28


29
ジョヴァンニ・ドメニコ・ピアストリーニ(ピストイア、1680-ローマ、1740)の「聖家族と二聖人」


30
(つづく)

1引き続きサンタ・マリア・デル・カルミネ教会です。


2
内部の祭壇画などを見ます。


3
Crescenzio Gambarelli(シエナ、1591-1622活動記録)の「アヴィーラの聖テレーザの幻視」(1622)


4


8


5


6
アンドレア・ボスコーリ(フィレンツェ?、1560-ローマ、1608)の「受胎告知」(1593)


7


9


10
ジョヴァンニ・アントニオ・ソリアーニ(フィレンツェ、1492-1544)の「聖母子と聖ピエトロと聖ジョヴァンニ・バッティスタ」


31



12


13


14
サンティ・ディ・ティート(ボルゴ・サン・セポルクロ、1536-フィレンツェ、1603)の「聖母被昇天」(1579)


15


16


17


18


19
バッチョ・ローミ(フィレンツェ、1540c-ピサまたはルッカ、1581)の「聖母子と聖人たち」(1576)


20


21


22


23
詳細不知


24


25
後陣左礼拝堂


26
中央礼拝堂


28


27
後陣右礼拝堂


29
磔刑礼拝堂


30
(つづく)

1次はサンタ・マリア・デル・カルミネ教会です。


2
サンタ・マリア・デル・カルミネ教会です。


3
カルメル会によって1324年から1328年に建設されました。


4
16世紀から17世紀に拡張され、現在の大きさになりました。また、17世紀に一部バロック様式に改造されました。


5
歴史ある教会にしては少し新しく見えるファサードです。それは当然で、19世紀になるとファサードの劣化が進んだので、1835年に再建された比較的新しいファサードです。


7
ファサードの前に彫像が置かれてます。


6
サルヴィーノ・サルヴィーニ(リヴォルノ、1824-アレッツォ、1899)の「二コラ・ピサーノ(プーリア,1220c-ピサ、1284c)像」(1862)


13
ピサを代表する彫刻家二コラ・ピサーノを記念する彫像があるのは当然ですが、カルミネ教会のファサード前に設置された理由が分かりません。
この彫刻は元々カンポ・サントに置かれていました。今でもカンポ・サントに置かれていてもまったく問題がないと思われます。


14
ファサードの壁龕に置かれた彫像を見ます。


8
カッラーラの逸名彫刻家作「聖エリア」(1697)
再建される以前のファサードにあった彫刻です。


9
カッラーラの逸名彫刻家作「聖ジョヴァンニ・バッティスタ」(1697)
再建以前のファサードにありました。


10
後陣と鐘楼


11


12


15
拝観します。


16
中に入りました。


17
単廊式、ルネサンス様式、一部バロック様式の内部です。長さが約70メートルあります。


18
右側壁


19
美術的に見どころ豊富な教会として有名です。


20
過去にこの教会にあった有名な作品がありました。


21
この教会にあった作品です。
マザッチョ(サン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノ、1401-ローマ、1428)の「ピサの多翼祭壇画」(1426)

サン・ジュスト出身の公証人セル・ジュリアーノ・ディ・コリーノ・デル・スカルシが所有するカルミネ教会の礼拝堂の祭壇画としてマザッチョに注文した作品です。作品注文にかかわる契約書が残されます。
17世紀から18世紀にかけて分解され、パネル毎に販売されました。現存するパネルは上の写真の通りです。失われたパネルがかなりあることが分かります。
現存するパネルですが、「聖母子」がロンドン・ナショナルギャラリー、「磔刑」がナポリのカポディモンテ美術館、「聖パオロ」がピサのサン・マッテオ国立美術館、「聖アンドレア」がアメリカのゲッティ美術館、サイドパネルとプレデッラがベルリン国立美術館にあります。


22
マザッチョの「聖母子と音楽天使」
ロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵


23
マザッチョの「磔刑」
ナポリのカポディモンテ美術館蔵


24
マザッチョの「聖パオロ」
ピサのサン・マッテオ国立美術館蔵


25
マザッチョの「聖アンドレア」
アメリカのゲッティ美術館蔵


26
多翼祭壇画を分解してパネル毎に販売する気が知れません。


27
全パネルが揃っての多翼祭壇画ですから。


28
聖具室


29


30
(つづく)

1サンタ・マリア・デッラ・スピーナ教会の続きです。


2


3
後陣


5


6
左側壁は対岸から見ることになります。


7


4
中に入ることが出来ます。


8
単廊式、ゴシック様式の内部です。聖別されていない教会です。現代美術品の展示場として使用されることが多いようです。


9
左側壁


10
天井


11
カウンターファサード


12
彫刻が置かれてます。


13
フレスコ装飾が残されてます。


14
オリジナルのものではないと思います。


15


16


17


18
授乳の聖母礼拝堂


22
アンドレア・ピサーノ(ポンテデーラ、1290c-オルヴィエート、1348c)作「授乳の聖母」のレプリカ
本物はサン・マッテオ国立美術館にあります。


23
サン・マッテオ国立美術館で展示されているアンドレア・ピサーノの「授乳の聖母」


24


19
後陣と主祭壇


20
アンドレア・ピサーノ(ポンテデーラ、1290c-オルヴィエート、1348/1349)とニーノ・ピサーノ(ピサ、1315c-1370c)の「聖母子」
恐らくレプリカと思います。


21


25
アンドレア・ピサーノとニーノ・ピサーノによる「聖ピエトロ」のコピー彫刻


26
アンドレア・ピサーノとニーノ・ピサーノによる「聖ジョヴァンニ・バッティスタ」のレプリカ


27
タベルナコロ


28
サンタ・マリア・デッラ・スピーナ教会はこれで終わりです。
オリジナルの構造とは異なる、彫刻はレプリカと割り切って鑑賞すれば、結構楽しめます。


29
教会巡りを続けました。


30
(つづく)

1引き続きサンタ・マリア・デッラ・スピーナ教会です。


4
右側壁です。


5
じっくり見たい右側壁ですが、交通量が多い道路に沿って右側壁があるので事故に遭わないように注意します。





2
見所は彫刻でしょう。


3
しかし、オリジナルの作品はここにはありません。


6
レプリカの出来栄えを見ましょう。


7
この教会を見学している、多くの人はここにはオリジナルの作品が無いのをご存じないようです。


8


9


10


11


12


14
サン・マッテオ国立美術館です。
サンタ・マリア・デッラ・スピーナ教会の彫刻はここで展示されてます。


15
サン・マッテオ修道院回廊に無造作に置かれたサンタ・マリア・デッラ・スピーナ教会の移設の際に使用されなかった教会オリジナルの石材


13
サン・マッテオ国立美術館内のサンタ・マリア・デッラ・スピーナ教会にあった彫刻がこの部屋で展示されてます。


16


17


18


19


20


21


22


23


24


25


26


27


28


29


32


33


30
サン・マッテオ国立美術館の彫刻展示はこのぐらいにしておきましょう。
(つづく)

1アルノ川沿いの道を進みます。


2
サンタ・マリア・デッラ・スピーナ教会が見えてます。


3
川向こうからも良く見えます。


4
良くも悪くも川横に建っているのが特徴です。


5
ピサの有力貴族だったグアランディ家によって1230年に建設されたピサ・ゴシック様式の教会ですが現現在地とは数メートル違った場所に建っていました。アルノ川に架かる橋が教会に繋がっていたことから、サンタ・マリア・デイ・ポンテノーヴォ教会と呼ばれていました。
1333年、荊刑を受けたキリストが被っていた荊の一部が聖遺物として教会に持ち込まれました。


6
1323年から1376年にかけて拡張工事が行われましたが、拡張工事後の姿が現在の外観の原形とされてます。しかし、後述する理由によって現在の姿は当時とはかなり異なるようです。


7
15世紀、教会と繋がる橋が大水によって崩落してしまいました。それ以降、聖遺物に因んで何時しかサンタ・マリア・デッラ・スピーナ教会と呼ばれるようになりました。


8
当時、堤防がありましたが、アルノ川の河原に建設されたと言っても過言ではない場所に建設されたことから、元々地盤が弱く土地の沈下に伴う構造の強化、アルノ川の洪水に伴う深刻な被害の両面から度々修復工事が行われました。
イタリア統一後、ピサ市議会と美術アカデミーを中心とする教会に関する委員会が設置され、教会の抜本的存続策が検討されました。その結果、教会を解体して安定した安全な場所に移設することが決定されました。そうして1871年から1875年にかけて移設工事が行われました。
東に数メートル移動させ、高さを1メートル高くして工事が完了しましたが、階段が新設され、解体されたものの、そのまま残骸として残された部分が数多くあったり、彫刻は修復不十分で設置された一方、移設されない彫刻が数体残るなど、解体前の姿とは大幅に異なるようです。
移設工事後の教会を見た美術史家や美術アカデミーの専門家が怒ったり、呆れた記録が残されてます。


9
それでも一見の価値が十分ある教会です。


10
彫刻などの装飾はピサで活躍した彫刻家が多数参加して行われました。


11
ジョヴァンニ・ピサーノ(ピサ、1248c-シエナ、1315c)、アンドレア・ピサーノ(ポンテデーラ、1290c-オルヴィエート、1348/1349)、アンドレアの息子ニーノ・ピサーノ(ピサ、1315c-1370c)、アンドレアの息子トンマーゾ・ピサーノ(ピサ、14世紀活動)、ジョヴァンニ・ディ・バルドゥッチョ(ピサ,1300c-1365?)などの彫刻家、それらの工房によって装飾されました。
20世紀後半になると彫刻などの劣化進行が深刻になったので、徐々にレプリカに置き換えられ、1996年までにすべての彫像がサン・マッテオ国立美術館に移設されました。


12
移設前のオリジナルの彫像


13
サン・マッテオ国立美術館で展示されているサンタ・マリア・デッラ・スピーナ教会の彫像


14
サン・マッテオ国立美術館における展示


15


16
教会のファサード


19


20



17
ファサードの入り口


18


21


22


23


24


25


26


27


28


29



30
(つづく)

4アルノ川の下流方向です。


1
塔が見えます。


2
チッタデッラ、グエルファ塔です。


3
グエルファ塔が建っている場所は13世紀になるまで城壁外でした。
1261年、経済の拡大と人口増に伴って市域の拡張が図られ、新しい城壁が築かれました。1261年、アルノ川岸辺は軍事的に重要な場所であり、塔が築かれることになり、そうして建設されたのがTorre Ghibellinaでした。
1320年、Torre Ghibellina横にアルノ川に架かるデガシア橋が架けられました。


5
1406年、ピサはフィレンツェの支配下に入りました。1440年、フィレンツェは、塔を要塞化することを決定し、建設されたのが現在の塔の外観原形となりました。何時から塔の名称が変わったのか明確ではありませんが、グエルファ塔と呼ばれるようになりました。


6
塔に繋がってデガシア橋が架かっていました。


7



8
ジャック・ギオー(フランス、シャンベリー、1810-パリ、1874)の「橋」(1858)
風景画を得意にしたジャック・ギオーの作品で、デガシア橋とグエルファ塔が描かれてます。


12
1890年のアルノ川洪水によってデガシア橋が崩落流失してしまいました。それを伝える1890年に制作された木版画です。


9


10


13
Torre Ghibellinaの遺跡


14
Ponte Degathiaの残骸


16
グエルファ塔横の城壁


15


11
グエルファ塔は一般公開されており、上ることが出来ます。塔からの景観


17
次はサン・ベネデット教会です。


18
アルノ川沿いのサン・パオロ・ア・リーパ・ダルノ教会近くにサン・ベネデット教会が建ってます。


19
サン・ベネデット教会です。


20
14世紀末に創建された、小さなゴシック様式の建物でした。現在の建物は17世紀に再建された二代目となるものです。


21



23
この教会は長らくサン・ステファノ騎士団によって所有されていました。そのためポータル上にサン・ステファノ騎士団の紋章があります。


22
サン・ステファノ騎士団の紋章


25
サン・ベネデット教会に隣接して建っている建物です。


24
サン・ベネデット女子修道院だった建物です。


26
女子修道院は18世紀末に閉鎖されたそうです。


27


28


29


30
(つづく)

1引き続きサン・パオロ・ア・リーパ・ダルノ教会です。


2
教会の内部です。


3
ローマ時代の石棺(4世紀)


4
彩色磔刑像です。


5
Maestro della Croce di Calciの「彩色磔刑像」(13世紀前半)


6
数々の墓があります。


7


8


9


10


11


12
碑文


13


14
フレスコ断片(13世紀)


15
オルガン


16
カウンターファサード


17
トゥリーノ・ヴァンニ(リゴーリ、1348c-ピサ、1438c)の「玉座の聖母子と聖人たち」(1397)


18


19


20


21


23
彫刻断片


24


25
ドメニコ・ディ・ニッコロ(シエナ、1362-1453c)の「受胎告知」


26


22


27


28
教会横の道路


30
教会脇を流れるアルノ川


29
(つづく)

1引き続きサン・パオロ・ア・リーパ・ダルノ教会です。


2
左側壁


3
左翼廊


4
右翼廊


5


6
写真左はサンタガタ礼拝堂です。


7
12世紀前半に建設されたサンタガタ礼拝堂です。


8
写真手前は修道院回廊の残骸です。サンタガタ礼拝堂は修道院回廊にありましたが、第二次世界大戦の爆撃によって大きな被害を受け、長らく放置されていましたが、破壊されて回廊は残されていません。サンタガタ礼拝堂は爆撃による被害を奇跡的に免れました。


9
礼拝堂の中に入ることが出来ます。


10
長らく放置されて劣化が進みましたが、2020年から2022年に大掛かりな修復工事が行われました。


11
礼拝堂天井


12
Trifora


13
紋章


14
礼拝堂祭壇


15
Trifora


16
柱頭


17
修復された新しい柱頭?


18


19


20


21


22


23
長らく閉鎖されていましたが、修復を経て中に入ることが出来るようになりました。


24
三廊式、ラテン十字形、ロマネスク様式の内部です。


25
フレスコ画が残されてます。
ブオナミコ・ブッファルマッコ(フィレンツェ、1262c-1340c)に帰属する「聖フランチェスコ」


26
ブオナミコ・ブッファルマッコ(フィレンツェ、1262c-1340c)に帰属する「聖バルトロメオ」


27
列柱の柱頭


28


29


30
(つづく)

1前泊地はラ・スペツィアでした。


2
ラ・スペツィア駅から鉄道でピサに向かいます。


3
普通列車でのんびりと行きました。


4
車中は意外にも混雑していました。


5
ピサ中央駅に到着しました。


6
ピサ中央駅の駅舎


7
この時のお宿です。駅前にあります。


8
ホテルに荷物を預けてから教会巡りに出かけました。


9
斜塔がある地域は敬遠の一手です。


10
歴史的建造物のようですがバスターミナルです。


11
バスターミナルとして使用されている歴史的建造物?


13
この建物の詳細が分かりません。


12
バスターミナル横は城壁です。


14
古い教会です。


15
ファサードの方に回ります。


16
サン・パオロ・ア・リーパ・ダルノ教会です。


17
教会の横にアルノ川が流れてます。


18
ベネデット会修道士によって9世紀、または10世紀に創建されたそうです。1032年の文書にこの教会の存在が初めて記録されたそうです。
12世紀前半に拡張され、1149年に奉献されました。現在の外観はこの拡張後の姿が原形となってます。ファサードは1148年から1165年に建設され、14世紀に完成しました。ピサ・ロマネスク様式教会の傑作とされてます。
12世紀末に教会の南側と後陣の後方に2つの回廊とサンタガタ礼拝堂を中心とする修道院の建物が完成しました。


19
古いドゥオーモ、Duomo Vecchioとも呼ばれてます。


20
ファサードの彫刻


21
ファサードの中央扉


22
向かって左側の扉


23
右扉


24
左翼廊


25


26


27
ファサードの彫刻


28


29


30
(つづく)

1引き続きポンテデーラのドゥオーモです。


2
次の礼拝堂です。


3
フランチェスコ・クゥッラディ(フィレンツェ、1570-1661)の「天上の聖母子と聖人たち」


4


5
カウンターファサード


7
外に出ました。


6
次はミゼリコルディア教会です。


8
ミゼリコルディア教会です。


9
ドゥオーモの直ぐ傍にあります。


10
慈悲慈善同信会によって1883年創建、1892年に完成しました。


11
ドーム状のクーポラが目立ちます。


12
ファサードのタルガ


13
ファサードの紋章


14
第二次世界大戦のドイツ軍の爆撃によってジダンな被害を受け、長い修復期間を経て蘇った建物です。


15


17
六角形のクポーラの下に6つの礼拝堂があります。


16
中央礼拝堂


18


19
美術的な見所は皆無と言ってよいでしょう。


20
詳細不知


21


22
外に出ました。


23
ポンテデーラの城壁は現存しませんが、城壁外に行ってみることに。


24
城壁外にあるマドンナ・ディ・リパイア祈祷所(オラトリオ)です。


25


26
やることがないのでホテルに戻ることに。


27
現代美術品が置かれていました。


28
翌朝です。
天気予報が見事に当たって、前夜半から雷雨となり、気温が下がって氷雨の日になりました。
ストは継続中のようで駅は閑散としていました。


29
ホームにとまったままの電車。


30
ヴォルテッラ行きのバスですが、ストのため学校が臨時休校となったとの事で、学校がある時だけ運行されるバスが運休となりました。
(ポンテデーラ編 おわり)

1プレトリオ宮です。


2
ドゥオーモに向かいます。


3
ジェラート屋のエンブレム


4
ポンテデーラのドゥオーモです。


5
Propositura dei Santi Jacopo e Filippoです。Propositura とは聖堂参事会の権威を持つ、或いは司祭長の権威を持つという意味ですが、教会の格式における適当な日本語訳が私には分かりません。ポンテデーラはピサ大司教区に属してます。

ポンテデーラのドゥオーモは、1193年の文書にその存在が記述された、城壁外にあったサン・マルティーノ教区教会でした。城壁内に新しい教会が欲しいとの要望によって、1270年から1272年にかけて建設されたサンティッシモ・クローチフィッソ教会が長らくポンテデーラ城壁内の主要教会の地位を占めていましたが、人口の増加に手狭となり、19世紀になると大きな教会建設の機運が高まりました。それを受けて建設されたのが、1842年創建、1864年に完成した新古典様式のサンティ・ヤコポ・エ・フィリッポ教区長職教会です。



6
ファサード前にフォンターナがあります。


7
ファサード柱廊壁龕に置かれた彫刻


8


9


10


11
左側壁


12
後陣


13
左翼廊


14
右側壁


15
拝観します。


16
三廊式、ラテン十字形、新古典様式の内部です。


18
Presbiterio


17
クーポラ


19
洗礼盤


20


21
観るべき価値がある祭壇画が幾つかありますが、それらはサン・マルティーノ教区教会にあったものです。


22
ヤコポ・キメンティ・ダ・エンポリ(フィレンツェ、1551-1640)の「受胎告知」


23


24


25


26


27
詳細不知


28
ヴァザーリの強い影響を受けた逸名画家による「十字架降下」(1590-1610c)


29


30
(つづく)

1サンティッシモ・クローチフィッソ教会の続きです。


2
祭壇画などを見て回りました。


3
中央礼拝堂


4
ガスパーレ・マリオットの主祭壇の彫刻(19世紀)


5
左側壁の礼拝堂


6
17世紀の逸名画家による「守護天使」


7
チゴリ(チゴリ、1559-ローマ、1613)の「ロザリオの聖母」(1595)


8


9
16世紀の逸名画家による「聖アポロニアと聖アガタ」


10
ベネデット・ルーティ(フィレンツェ、1666-1724)の「天上の聖母子と煉獄の人々」(1687-89)


11
次の礼拝堂


12
トゥリーノ・ヴァンニ(リゴリ、1348c-ピサ、1438以降没)に帰属する「カルミネの聖母」(14世紀)


13


14
詳細不知の「キリストの洗礼」


15
右側壁の礼拝堂


16
17世紀の逸名画家による「磔刑」


17
詳細不知


18
改造前の建物にあったもの


19


21


22
タベルナコロ


20
カウンターファサード


23
外に出ました。


24
クルタトーネ広場


25


26


27


28
プレトリオ宮が見えてきました。


29


30
(つづく)

2前泊地はピサでした。


3
当初、この日もピサで泊まり、次の目的地であるヴォルテッラに向かう予定でした。ポンテデーラからバスに乗ってヴォルテッラに行くつもりでした。ところがFSのストが予定され、翌朝は豪雨になるとの天気予報だったので、安全を考えて前夜のうちにポンテデーラに行き、ポンテデーラ宿泊に予定変更した次第です。


1
ポンテデーラに行くならば、チゴリなどの作品を観るために少し早めに行こうと思いました。


4
ポンテデーラ駅に到着しました。翌朝大雨の天気予報が信じられないくらいの好天でした。


6
ポンテデーラ駅の駅舎です。


7
駅前広場です。
ポンテデーラは、人口29,779人のトスカーナ州ピサ県にあるコムーネです。
アルノ川とエラ川の合流点にあり、ピサとフィレンツェを結ぶ街道に位置し、中世まで川に架かる唯一の橋があったことから、交通の要衝として繁栄しました。
また、交通の要衝という事で、フィレンツェとピサが領有権を争いました。そのため、フィレンツェ、ピサの戦勝によって度々フィレンツェ領になったり、ピサ領となった歴史がありました。


8
ポンテデーラのバスターミナルです。ヴォルテッラ行きのバスが発着します。


5
この日のお宿です。


9
街歩きに出発しました。


10
20世紀になるとポンテデーラは兵器などを生産する軍事産業都市でした。そのため、第二次世界大戦中、ポンテデーラは徹底的に爆撃され破壊されました。そのため、戦後に再建された建物が大半を占め、街並みが新しく見えます。


11
少し足を延ばして北に向かいました。


12
エラ川に架かる橋


13


15
アルノ川です。


14
旧市街のアンドレア・ダ・ポンテデーラ広場に戻りました。


16
教会巡りをします。


17
カヴール広場です。


18
市庁舎


19


20


21
鐘楼が見えてきました。


22
クルタトーネ広場に面して建つサンティッシモ・クローチフィッソ教会です。


23
13世紀後半になるまでポンテデーラの城壁内に教会が無く、城壁外にあったサン・マルティーノ教会が宗教活動の中心でした。ポンテデーラ住民は城壁内に教会を建てたいとして、当時ポンテデーラを支配していたピサに請願したのです。請願を受け入れられ、1270年に創建され、1272年に完成したのがサンティッシモ・クローチフィッソ教会です。
城壁内にある最古の教会ということで、Chiesa Vecchia 古教会とも呼ばれてます。


24
1612年の火災によって大きな被害を受けたので、1633年に改造工事が行われました。
第二次世界大戦の爆撃によって壊滅的な被害を受けました。1956年から1959年にかけて大規模な修復工事が行われ、建物は映画館として使用されるようになりました。2006年まで映画館でした。その間、教会としての活動は細々を続けられていましたが、2006年以降本格的な宗教活動が再開され、現在に至ってます。


25
外壁の銘板


26
鐘楼


28
紋章


27
拝観できます。


29
翼廊がない単廊式のシンプルな造りです。左右の側壁にそれぞれ三つの礼拝堂が設けられてます。ポンテデーラにあっては美術的に必見の教会でしょう。


30
(つづく)

1大体見終わりました。


2
ホテルに向かいました。


3
預かって貰っていた荷物を受け取ります。


4
ドゥオーモ広場はスキップです。


5


6


7


8


9


10


11
チーノ通りです。


12


13
荷物を引いて駅に向かいます。


14


15


16


17


18


19


20
城壁です。


21


22


23


24


25
城壁の外に出れば、駅は直ぐ傍です。


26
駅に到着しました。


27


28


29
列車に乗車して次の目的地に向かいました。


30
次の目的地はプラートでした。
(ピストイア編 おわり)

1大体見終わったと思ったのですが、重要な教会に行くのを忘れていました。


9
マドンナ通りを目指します。


10
大きなクーポラが目印です。


11
迷うことはありません。


14
クーポラが見えてきました。


12
マドンナ通りに入りました。


13
マドンナ・デルミルタ聖堂です。


15
サンタ・マリア・デルミルタ聖堂とも呼ばれてます。


16
この場所にはサンタ・マリア・フォリスポルタエ教会がありました。サン・マリア・フォリスポルタエ教会の歴史は古く、創建は8世紀に遡ると伝えられてますが、12世紀に教会税の記述が初めて記録されたそうです。
15世紀になると、建物の荒廃が進み、廃教会同然になってしまいました。
1490年、サンタ・マリア・フォリスポルタエ教会の「授乳の聖母」のフレスコ画の聖母から透明な液体が滲みだし、信者から崇拝を集めました。


17
そのことを聞いたロレンツォ・デ・メディチは荒廃したサンタ・マリア・フォリスポルタエ教会を取り壊し、その上に新しい建物を建設して、奇跡を産んだ「授乳の聖母」のフレスコ画を収容して聖域とするように指示しました。
直ぐにコンペが行われ、コンペの結果、ジュリアーノ・ダ・サンガッロ(フィレンツェ、1445-1516)が起用され、ジュリアーノの設計によって1495年に再建工事が着工されました。1568年に完成したルネサンス様式の建物が現在の外観となってます。
1568年、奉献式が行われ、Santuario di Madonna dell’Umiltaとなりました。
また、奇跡のフレスコ画は1579年にSantuarioに移され、主祭壇画として現在も見ることが出来ます。
1931年、Basilica Minoreに格付けされました。


19
直径約25メートル、高さ約59メートルのクーポラは、トスカーナ大公コジモ1世がジョルジョ・ヴァザーリ(アレッツォ、1511-フィレンツェ、1574)に注文して建設させたものです。


18
この後、直ぐに扉が開きました。


20
八角形、ルネサンス様式の内部です。


21
八角形のクーポラ


22
天井の装飾


34


35
主祭壇


23
1490年、奇跡が起きた「授乳の聖母」のフレスコ画が主祭壇画です。


24
ジョヴァンニ・トスカーニ(フィレンツェ、14世紀後半-1430)の作と伝えられる「授乳の聖母」(1382)


25
各礼拝堂の祭壇画を観ます。


26
ラッザーロ・バルディ(ピストイア、1624-ローマ、1703)の「エジプトへの逃避途中の休息」(1665)


27
アレッサンドロ・フェイ(フィレンツェ、1543-1592)の「受胎告知」(1586)


28
ジョヴァンニ・バッティスタ・ナルディーニ(フィレンツェ、1535-1591)の「聖母被昇天」


29


30
フランチェスコ・ヴァンニ(シエナ、1563-1610)の「マギの礼拝」(1605)


31


32
ピエトロ・ソッリ(サン・グズメ、1556‐シエナ、1603)の「羊飼いの礼拝」(1603)


33
フレスコ画もあります。


36



37
(つづく)

1修復中の洗礼堂前を通り過ぎます。


2
次はチェッポ病院です。


3
Palazo Panciatichiです。


4
Palazzo del Baliとも呼ばれてます。


5
キオストロが有名です。


6
キオストロは公開されてます。


7
夕方近くなって人出が増えてきました。


8
朝から動き過ぎで足腰が疲労気味でした。


9
この通りの先にチェッポ病院があります。


10
何となく嫌が感じが・・・・・


11
タベルナコロを見ます。


13
聖母子のタベルナコロ


12
チェッポ病院にやってきました。


14
予感的中です。病院の外壁が修復工事中です。これではお目当ての彩釉テラコッタを見ることが出来ません。


15
1277年にCompagnia di Santa Maria、別称Compagnia del Ceppo dei Proveriによって設立された病院であることが1286年の文書に記載されているそうです。


16
この時に観ることが出来た彩釉テラコッタはサイドドアのルネッタだけでした。


17
ベネデット・ブリオーニ(フィレンツェ、1461-1521)の「聖母戴冠」(1512)


P1180670
病院の出入り口です。今も現役の病院です。


18
修復中では仕方がないので、別の時の写真を載せましょう。


19
ロッジャです。


20
ロッジャの壁が彩釉テラコッタで装飾されてます。


21
チェッポ病院の最大の見どころはロッジャの彩釉テラコッタと言えるでしょう。


23
ジョヴァンニ・デッラ・ロッビア(フィレンツェ、1468-1529/1530)と工房によって1525年に制作されました。


22


24


25


26


27


28


29


30
(つづく)

1市立博物館の最終回です。


2
主に近代画、現代画が展示されている展示室です。


3
フランチェスコ・キアペッリ(ピストイア、1890-フィレンツェ、1947)の「黄色の服を着た女性」(1926)


4
エンリコ・ポッラストリーニ(リヴォルノ、1817-フィレンツェ、1876)の「アレッサンドロ・デ・メディチ公爵の死」(1840)


9
ジュゼッペ・ベッツゥオーリ(フィレンツェ、1784-1855)の「ヴェネツィアのサンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ広場でのロレンツィーノ・デ・メディチ(ロレンザッチョ)の暗殺」(1840)
この作品の前に紹介したエンリコ・ポッラストリーニの作品はメディチ家の衰退を象徴する2つの暗殺事件を描いてます。
1537年、ロレンザッチョは従兄弟でトスカーナの支配者アレッサンドロ・デ・メディチ公爵を暗殺しましたが、その報復として、ロレンザッチョは1548年にヴェネツィアで暗殺されてしまいました。ロレンザッチョの暗殺を命令したのは、長らくコジモ1世と信じられてきましたが、近年、研究が進んでカール5世の命令によって暗殺されたことが分かりました。


5
ジュリオ・ピアッティ(フィレンツェ、1816-1872)の「シチリア晩鐘戦争の発端」(1839)


6
ピストイアの逸名画家による「サン・フランチェスコ広場」(18世紀)


7
リッカルド・マーニ(イタリア、1886-アメリカ、1964)の「静物画」(1927)


8
ニコラス・ディディエ・ボゲ(フランス、1755-ローマ、1839)の「人物がいる風景画」


10
アンジョーロ・ロレンツィ(ピストイア、1908-1945)の「La Fontana」(1932)


11
ピエトロ・ウリーヴィ(ピストイア、1806-1880)の「カストルッチョの剣を受け取るヴィットリオ・エマヌエーレ2世」


12
展示作品数が多過ぎて作品全部の紹介が出来ません。


13
ピストイアの逸名画家によって14世紀末に描かれたモノクロのフレスコ画


14


15


16


17


18


20
ルイージ・マッツェイ(ピストイア、1882-1968)の「サン・ロレンツォ広場」(1932)


21


19
この辺で終わりにしましょう。


22
外に出ました。


23
丹念に見て回ったので時間がかかりました。


24
流石に疲れました。


25
もう夕方です。


26


27
市庁舎


28


29


30
(つづく)

1フランチェスコ・グラツィアーニ通称チッチョ・ナポレターノ(ローマ、ナポリで17世紀後半活動)の「戦闘」(17世紀後半)


2


3


4


5


6


7


8
フランチェスコ・グラツィアーニ通称チッチョ・ナポレターノ(ローマ、ナポリで17世紀後半活動)の「戦闘」(17世紀後半)


9


10


11


12


13


14
フランチェスコ・グラツィアーニ通称チッチョ・ナポレターノ(ローマ、ナポリで17世紀後半活動)の「戦闘」(17世紀後半)


15


16
ピストイアの逸名画家による「聖ヤコポ」(18世紀)


17


19


18


20
ピストイアの逸名画家による「聖アットー」(17世紀)


21
フランチェスコ・ディ・アレッサンドロ・レオンチーニ(ピストイア、1590-1647)の「聖イーヴォと信者たち」(1647)


22
ニッコラ・モンティ(ピストイア、1781-1864)の「ジュリオ・ロマーノ作『寓意画』のコピー画」(1790-1810c)


23
ルイージ・サバテッリ(フィレンツェ、1772-ミラノ、1850)の「ゼノビアを殺そうとするラダミスト」


24
ルイージ・サバテッリ(フィレンツェ、1772-ミラノ、1850)の「ラダミスト」


25
チェッコ・ブラヴォー(フィレンツェ、1601-インスブルック、1661)の「羊飼いとエルミニア」(1659c)


26
アントニオ・ベルトーリ(フィレンツェ、1829-1842活動)の「フィレンツェ軍指揮者フランチェスコ・フェッルッチの死」(1838)


27
フランチェスコ・ガンドルフィ(キアヴァーリ、1824-ジェノヴァ、1873)の「バリック少年団」(1845c)


28
エッチングの展示室です。


29


30
(つづく)

1フランチェスコ・モンティ(ブレーシャ、1646-パルマ?、1712/1713)の「戦闘」(17世紀末)


2


3


4
フランチェスコ・モンティ(ブレーシャ、1646-パルマ?、1712/1713)の「戦闘」(17世紀末)


5


6


7
ジュゼッペ・ガンバリーニ(ボローニャ、1680-1725)の「日常のシーン」(1710-20c)


8


9


10
ジュゼッペ・ガンバリーニ(ボローニャ、1680-1725)の「二人の修道士へのお布施」(1710-20c)


11


12


13
トスカーナの逸名画家による「祭壇」(17世紀末‐18世紀初頭)


14


15


16
ジョヴァン・バッティスタ・ヴォルピー二通称スカラブリーノ(ピストイア、1489-1561?)の「聖母戴冠」(1529-30)


17
メディチ家の紋章


18


19
銘板


20
セバスティアーノ・ヴィーニ(ペシーナ、1515c-ピストイア、1602)の「キリストの死」(1554)


21


22
Maestro della Maesta Civica di Pistoiaの「玉座の聖母子と天使たちと聖人たち」(1345-50c)


23


24


25
聖母子のタベルナコロ(1397-1428)


26
市庁舎の建物の内部にあるタベルナコロです。


27


28


30


29
(つづく)

1セラミック類の展示です。


2
イタリアでは博物館、美術館の区別がなくてMuseoと表示されます。絵画などを主に展示しているとPinacotecaと呼ばれることが多いと思います。(pinacoteca=絵画館)


5


6


7


8


9


3


4


10


11


12


13


14


15
時計も展示されてます。


16


17


18


19


20
ボローニャの逸名画家による「人物がいる風景画」(18世紀前半)


21


24
ボローニャ派逸名画家による「人物がいる風景画」(18世紀前半)


23


24
ボローニャ派逸名画家による「人物がいる風景画」(18世紀前半)


25


26
ボローニャ派逸名画家による「人物がいる風景画」(18世紀前半)


27


28
フランドルの逸名画家による「海の風景」(1690-1700)


29


30
フランドルの逸名画家による「海の風景」(1690-1700)


31
(つづく)

1サン・マルコ派逸名画家による「聖アントニーノの施し」(1515c)


2
サン・マルコ派とはヴェネツィア派のことでしょうか?


3
サン・マルコ派逸名画家による「聖アントニーノの奇跡」(1515c)


4


5
ピストイアの逸名画家による「聖ヤコポ」(18世紀)


6


7


8
ルイージ・クレスピ通称ロ・スパーニョレット(ボローニャ、1708-1779)の「カヴァリエール・ランフレード・チェッレージの肖像」(1732)


9


10
アンドレア・ミケロッツィの「マッダレーナ・ブルノッツィ・プッチーニの肖像」(1843c)


11
ジャチント・ジミニャーニ(ピストイア、1606-ローマ、1681)の「エロとレアンドロ」(1637)


12


13


14
フィレンツェの逸名画家作「大天使聖ミケーレ」(17世紀第2四半世紀)


31


15


16
逸名画家作「光悦の聖フランチェスコ」(17世紀)


17


18


19
逸名画家作「嘲笑されたキリスト」(17世紀)


20


21


22
ピストイアの逸名画家による「聖ヤコポ」(18世紀)


23
アントニオ・ヴィーテ(ピストイア、1379-1407記録)に帰属する「受胎告知される聖母」(1370-80c)


24
アレッサンドロ・ロージ(フィレンツェ、1627-1697)に帰属する「聖ジョヴァンニ・バッティスタ」(1660-70c)


25
アレッサンドロ・ロージ(フィレンツェ、1627-1697)に帰属する「聖セバスティアーノ」(1660-70c)


26
ベネデット・ルーティ(フィレンツェ、1666-ローマ、1724)の「受胎告知」(1710-16)


27
カルロ・サラチェーニ(ヴェネツィア、1579-1620)?の「聖母子」(1610c)


28


29


30
ピストイアの逸名画家による「ピストイアの街を守護する聖ヤコポ」(17世紀)
(つづく)

1トスカーナの逸名画家による「聖ジョヴァンニ・バッティスタ」(17世紀前半)


2


3
ジュスト・スステルマンス(アンヴェルサ、1597-フィレンツェ、1681)に帰属する「紳士の肖像」(1630-40c)


4


5


6
テオドーロ・マッテイーニ(ピストイア、1753-ヴェネツィア、1831)の「シピオーネ・デ・リッチの肖像」


7
トスカーナの逸名画家による「ジュゼッペ・プッチーニの肖像」(17世紀)


8
トスカーナの逸名画家による「若い女性の肖像」(16世紀後半)


9


10


11
トスカーナの逸名画家による「クリスティーナ・コルテージ・プッチーニと娘の肖像」(17世紀)


12
フィレンツェの逸名画家による「若い女性の肖像」(17世紀中頃)


13
ピエール・ダンディーニ(フィレンツェ、1646-1712)の「トンマーゾ・プッチーニの肖像」(1705)


14
逸名画家による「カルロ・マラッタ作『教皇クレメンテ9世の肖像』の複製画」(1669c)


15


16


17
二コラ・モンティ(ピストイア、1781-1864)の「ロレーヌのフェルディナンド3世の肖像」


18
アントン・ラファエル・メングス(チェコ、1728-ローマ、1779)の「フランチェスコ・サヴェリオ枢機卿の肖像」(1773-74)


19
ルイージ・クレスピ(ボローニャ、1708-1779)の「カヴァリエール・ランフレード・チェッレージの肖像」(1732)


20
ジュゼッペ・ヴァリアー二(ピストイア、1731-1800)の「イサベッラ・パッセリーニ・プッチーニの肖像」(18世紀後半)


21
ジュゼッペ・ヴァリアー二(ピストイア、1731-1800)の「手紙を持つ紳士の肖像」(18世紀後半)


22
ジュゼッペ・ヴァリアー二(ピストイア、1731-1800)の「フランチェスコ・ブルノッツィの肖像」(18世紀後半)


23
ジュゼッペ・ヴァリアー二(ピストイア、1731-1800)の「エリザベッタ・チェンティ・ブルノッツィの肖像」(18世紀後半)


24
ジュゼッペ・チアランフィ(ピストイア、1838-フィレンツェ、1902)の「ジュゼッペ・ティーリの肖像」(1860-80c)


25
ジュゼッペ・ベッツゥオーリ(フィレンツェ、1784-1855)の「ニッコロ・プッチーニの肖像」(1843)


26
ジュゼッペ・ベッツゥオーリ(フィレンツェ、1784-1855)の「マッダレーナ・ブルノッツィ・プッチーニの肖像」(1843)


27
ギルバート・スチュアート・ニュートン(カナダ、1795-ロンドン、1835)の「ニッコラ・モンティの肖像」(1817)


28
ジャチント・ジミニャーニ(ピストイア、1606-ローマ、1681)の「紳士の肖像」(1651c)


29
アントニオ・プッチネッリ(カステルフランコ・ディ・ソット、1822-フィレンツェ、1897)の「女性の肖像」(1850-80c)


30
逸名画家による「男の肖像」(1840c)
(つづく)

30ジョヴァンニ・バッティスタ・ナルディーニ(フィエゾレ、1537c-フィレンツェ、1591)の「聖家族と聖ジョヴァンニーノ」(1570-80)


31


32


33


34


35


36


37


1
ジョヴァンニ・マリア・ブッテーリ(フィレンツェ、1540/1550-1606)の「玉座の聖母子と四聖人(聖セバスティアーノ、聖ジョヴァンニ・グゥアルベルト、聖ロッコ、パドヴァの聖アントニオ)」(1596c)


2


3


4


5
ジョヴァンニ・グイディの「聖母子と聖人たち」(1341)


6


7


8


9
チゴリ(チゴリ、1559-ローマ、1613)の「若い男の肖像」(1592c)


10
一部にグイド・レーニ作品説があるようです。


11


12
マッティア・プレティ(タヴェルナ、1613-マルタ、ヴァレッタ、1699)?の「スザンナと長老たち」


13
マッティア・プレティの帰属作品説もあります。


14


15


16


17
ピストイアの逸名画家による「クリストファノ・アッローリ作『聖母子』のコピー画」(17世紀)


18
申し訳ありません。


19


20
逸名画家による「ベルナルディーノ・ルイーニの『アレッサンドリアの聖カテリーナ』のコピー画」(19世紀)


21


22
(つづく)

1チゴリ(チゴリ、1559-ローマ、1613)の「コレッジョ作『アレッサンドリアの聖カテリーナの神秘な結婚と聖セバスティアーノ』のコピー画」(1591-92c)


2


3


4


5


6


7
Maestro di Francoforteの「聖母子と音楽天使たちの三連画」(1500-15c)


8


9


10


11
聖バルトロメオと注文主


12
裏面にも描かれてます。


13
聖クリスティーナと注文主


14
裏面


15
ジョヴァンニ・ディ・バルトロメオ・クリスティアーニ(ピストイア、1366-1398消息)の「玉座の聖母子と音楽天使たち」(1390-1400c)


16


17


18


19
ピストイアの逸名画家による「聖母子と聖ジョヴァンニーノ」(16世紀前半)


20


21


22


23
マーゾ・ダ・サン・フリアーノ(フィレンツェ、1531-1571)の周辺の逸名画家による「受胎告知と燭台を持つ天使」


24


25


26


27
フラ・バルトロメオ(フィレンツェ、1473-1517)?の「聖アントニーノの死」(1515c)


38
ルカ・ペンニ(フィレンツェ、1500-パリ、1556)周辺の画家による「ディアナとアクタイオン」(16世紀前半)


39


40


41
(つづく)

1私一人の展示室でした。


2
ヤコポ・キメンティ・ダ・エンポリ(フィレンツェ、1551-1640)の「ミーダスの判決」(1624)


3


4


5


6


7


8


9


10


11
マッテオ・ロッセッリ(フィレンツェ、1578-1650)周辺の画家(Ambito)による「羊飼いの礼拝」(1630-40c)


12


13


14


15
グレゴリオ・パガーニ(フィレンツェ、1558-1605)とマッテオ・ロッセッリ(フィレンツェ、1578-1650)の「カナの結婚」(1605-08)


16
マッテオ・ロッセッリはグレゴリオ・パガーニの弟子でした。この作品は初めから師弟で描かれたものではなく、グレゴリオ・パガーニが受注して制作を始めましたが、直ぐに体調を崩して亡くなったので、弟子のマッテオ・ロッセッリが制作を引き継いで完成させたのです。


17


18


19
ピストイアの逸名画家による「サン・フランチェスコ広場」(18世紀中頃)


20


21


22


23
逸名画家による「ロザリオの聖母」(18世紀中頃)


24
ポンぺオ・バトーニ(ルッカ、1708-ローマ、1787)の帰属作品説も有力です。


25
画題ですが「シエナの聖カテリーナの神秘な結婚」でも良さそうです。


26


27


28


29


30
逸名画家による「聖家族」(18世紀)


31


32
(つづく)

1フランチェスコ・レオンチーニ(ピストイア、?-1647)の「聖イーヴォと信者たち」(1647)


2


3


4
アレッシオ・ジェミニャーニ(ローマ、1567-1651)の「ピストイア包囲戦」(1643)


5


6


7


8
ヤコポ・デル・ポー(ローマ、1652-ナポリ、1726)の「フェデリーコ・バロッチ作『エジプトへの逃避途中の休息』のコピー画」(1675-76c)


10


9


11


12
アントン・ドメニコ・ガッビアーニ(フィレンツェ、1652-1726)の「キリストの神殿奉献」(1712-19)


13


14


15


16
フランチェスコ・クゥッラディ(フィレンツェ、1570-1661)の「ご訪問」(17世紀前半)


17


18


19


20
入館者が少ない市立博物館です。


21
フランチェスコ・ヴァンニ(シエナ、1563-1610)?の「聖チェチリア」(17世紀初頭)


22


23
保護版に反射して良く見えません。


24


25
エルコーレ・プロカッチーニ・イル・ヴェッキオ(ボローニャ、1515-ミラノ、1595)?の「アレッサンドリアの聖カテリーナの神秘な結婚」(16世紀後半)


26


27


28
ジョヴァンニ・マンノッツィ通称ジョヴァンニ・ダ・サン・ジョヴァンニ(サン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノ、1592-フィレンツェ、1636)の「ピストイアの景観と天使」(1633)


29


30
(つづく)

1展示室となっている部屋のフレスコ画です。


2
アゴスティーノ・ロッケッティの「聖アガタ」(1690-1700c)


3
アゴスティーノ・ロッケッティという画家についてはよく分かりません。


4


5
カルロ・サラチェーニ(ヴェネツィア、1579-1620)の作品説がある「聖母子」(17世紀初頭)


6
カルロ・サラチェーニの帰属作品説もあります。


7


8


9
ピストイアの逸名画家による「聖エウラリア」(17世紀)


10


11


12


13
ジャチント・ジミニャーニ(ピストイア、1606-ローマ、1681)の「ダナエ」(17世紀中頃)


14


15


16
ジャチント・ジミニャーニ(ピストイア、1606-ローマ、1681)の「エウロパの強奪」(17世紀中頃)


17


18


19
カラヴァッジェスキ逸名画家による「聖ジローラモの幻視」(17世紀)


20


21


22


23
ジャチント・ジミニャーニ(ピストイア、1606-ローマ、1681)に帰属する「聖家族」(17世紀)


24


25


26
ジャチント・ジミニャーニ(ピストイア、1606-ローマ、1681)に帰属する「涙の聖ピエトロ」(17世紀)


27


28


29
ジョヴァンニ・フランチェスコ・グエッリエーリ(フォッソンブローネ、1589-ペーザロ、1657)周辺の画家による「サロメ」(17世紀前半)


30


31


32
(つづく)

1ドメニコ・ディ・マルコ・ロッセルミーニ(ピストイア、1497-1529記録)の「聖バルトロメオ」(1530c)


2


3


4


5
逸名彫刻家作「アレッサンドリアの聖カテリーナ」(14世紀末)


6


7


8


9
逸名彫刻家作「聖母子」(16世紀)


10


11
逸名彫刻家作「受胎告知される聖母」(14世紀末‐15世紀初頭)


12


14
二コラ・ピサーノ(プーリア、1220c-ピサ、1284c)に帰属する「聖痕を受ける聖フランチェスコ」(1270-75c)


13


15


16


17
トスカーナの逸名彫刻家作「聖ヤコポの宣教」(12世紀)


18
ピストイアの逸名画家による「授乳の聖母と四聖人(聖フランチェスコ、聖ヤコポ、聖アントニオ・アバーテ、聖バルトロメオ」(14世紀後半)


19


20


21
ベネデット・ブリオーニ(フィレンツェ、1460-1521)の「キリストの復活」(1489)


22


23


24
アゴスティーノ・ロッケッティの「キリストの復活」(1690-1700c)


25


26


27


28
アゴスティーノ・ロッケッティの「磔刑」(1690-1700c)


29


30
(つづく)

1ベルナルド・デッティ(ピストイア、1498-1566以降没)の「ぺルゴラの聖母」(1523)
ぺルゴラの聖ヤコポ祈祷所にあった祭壇画です。そのユニークな表現で有名な作品です。


2
ピストイアに来る最大の目的は、この作品を鑑賞することです。


3
繊細克明に描かれてますが、ややお年を召した、丸々と太った聖母がユニークです。


5
この聖母子表現のために、一旦受け取りを拒否されたそうですが、制作者の論理性ある説明によって納得され、無事祭壇を飾ることが出来たそうです。


6
幼きキリストの腕にとまったハエの写実


7


8


4


9


10


11


12
ジョヴァン・バッティスタ・ナルディーニ(フィエゾレ、1537c-フィレンツェ、1591)の「磔刑と聖人たちと天使たち」(1565-66)
ドゥオーモにあった聖体容器に描かれていたものです。


13


14


15
天使


16
聖マリア・マッダレーナ


17
磔刑


18
聖ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ?


19
天使


20
聖ヤコポ


21
聖ピエトロ


22
聖パオロ


23
聖ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ


24
聖ゼーノ


25
聖ジョヴァンニ・バッティスタ


26


27
物入れ


28


29
ピストイアの逸名画家による「磔刑」(14世紀初頭)


30


31


32
(つづく)

1フィレンツェ派逸名画家による「エジプトへの逃避途中の休息」(16世紀)


2


3
ボッティチェリの強い影響を受けた画風ですね。


5


6


7
ピストイアの逸名画家による「聖会話」(1530-40c)


8


9
玉座の聖母子と四聖人(聖メルクリアーレ、聖ヤコポ、聖フィリッポ、聖ベネデット)


10
玉座の聖母子


11


12
Maestro della Croce 434とMaestro di Santa Maria Primeranaによる「聖フランチェスコとその生涯の物語」(1250-60c)


13


14


15


16


17


18


19


20


21


22
聖セバスティアーノ像が二体並んでます。


23
逸名彫刻家による「聖セバスティアーノ」(16世紀)


24


25


26
アーニョロ・ディ・ポロ(フィレンツェ、1470-1528)に帰属する「聖セバスティアーノ」(1510-20c)


27


28
アーニョロ・ディ・ポロ(フィレンツェ、1470-1528)の「救世主キリスト」(1498)


29


30


31


32
(つづく)

1ベルナルド・シーニョラッチョ(ピストイア、1460-1540)の「聖会話(玉座の聖母子と四聖人)」(1496-97)


3


5


6
聖モニカ、聖ロレンツォ


7
玉座の聖母子


8
トレンティーノの聖二コラ、聖アゴスティーノ


12


9


2
第二室です。


10
ピストイアの逸名画家による「磔刑」(16世紀前半)


11
表裏両面に描かれてます。


13


14
裏面


15


16
ピストイアの逸名画家による「授乳の聖母と注文者」(16世紀前半)


17


18


19


20
フラ・パオリーノ(ピストイア、1488-1547)の「受胎告知」(1525c)


21


22


23


24


25


26
部屋の壁に描かれたフレスコ画です。


27
ピストイアの逸名画家による「聖会話」(1437)


28
玉座の聖母子と聖ヤコポと聖ゼーノ


29


30


31
(つづく)

1ジュリーノ・ジュリーニ(ピストイア、1480-1531以降没)の「聖会話」(1505-10)
聖人たちのプレデッラが付いてます。


3


5


6
玉座の聖母子


7
玉座の台座


8
プレデッラ
非常に横長の裾絵です。


9


10


11


12


13


14
ジョヴァン・バッティスタ・ピストイエーゼ(ピストイア、1509-1535c消息)の「プレセピオ」(1520-30c)


15


16


17


18


19
ドメニコ・ディ・マルコ・ロッセルミーニ(ピストイア、1497-1529記録)の「聖会話」(1530-35)


20


21


22
聖バルトロメオ


23
聖母子


24
聖アントニオ・アバーテ


25


26
ジョヴァン・バッティスタ・ヴォルピー二通称ロ・スカラブリーノ(ピストイア、1489-1561)の「聖会話」(1525c)


27


28


29


30


31
ピストイアの紋章


32
(つづく)

1市庁舎の一角にMuseo Civicoが設けられてます。


3
ロレンツォ・クレディ(フィレンツェ、1459-1537)の「聖会話(玉座の聖母子と四聖人)」(1510-12)


5


6


7
聖ジョヴァンニ・バッティスタ


8
聖マリア・マッダレーナ
画面に向かって左下に香油壺が描かれてます。


12
聖マリア・マッダレーナのアトリビュートは香油壺です。


9


10
聖ジローラモ


11
アレッサンドリアの聖カテリーナ


13


14
リドルフォ・デル・ギルランダイオ(フィレンツェ、1483-1561)の「聖会話」(1510-20c)


15


16


17
聖セバスティアーノ


18


19
聖グレゴリオ・マーニョ


20


21
ジュリーノ・ジュリーニ(ピストイア、1480-1531記録)の「聖会話」(1529)


22


23


24


25


26


27


28


29
ドメニコ・ディ・マルコ・ロッセルミーニ(ピストイア、1497-1529記録)の「聖母子と聖ジョヴァンニーノ」


30


32


31
(つづく)

1次は市立博物館です。


5
中庭から見上げた市庁舎の建物です。


6
中庭に置かれたもの(詳細不知)
市庁舎内に美術館が設けられたのは1922年でした。その当時の展示品は教会や貴族の館などから集められた祭壇画や彫刻が中心でした。1956年に寄贈品などを含めて近代画やセラミック類などが展示される博物館となり、規模が大きくなりました。1982年に市立博物館の再編が行われて、現在に至ってます。


7
階段を上ります。


8
階段から見下ろした中庭


9


32
博物館の見学中に市庁舎内の部屋に入れることがあって、博物館と市庁舎に見所を区別することが困難です。


10
展示室がある中二階へと進みます。


11
フレスコ画に向かって左側に博物館の入り口があります。なお、フレスコ画の詳細が分かりません。


33
詳細不知


3
展示室に入りました。


12
Maestro del 1310の「聖母子と四聖人」(1320c)


13


14
四聖人は左から聖ヤコポ、聖ジョヴァンニ・バッティスタ、聖マリア・マッダレーナ、聖ベルナルドです。


15
聖ヤコポ


16
天使


17
聖ジョヴァンニ・バッティスタ


18
天使


19
聖母子


20
天使


21
聖マリア・マッダレーナ


22
天使


23
聖ベルナルド


24
ピストイアの逸名画家による「授乳の聖母と四聖人」


25


26
両翼上部が切り取られてます。


27
マリオット・ディ・ナルド(フィレンツェ、1388-1425活動記録)の「聖母子と四天使」


28


29
マリオット・ディ・ナルド(フィレンツェ、1388-1425活動記録)とロッセッロ・ディ・ヤコポ・フランキ(フィレンツェ、1377c-1436)の「受胎告知と二聖人(バーリの聖二コラと聖ジュリアーノ)」


30


31
(つづく)

1市庁舎の続きです。


3
市庁舎の一角に市立博物館があるので、博物館の展示と市庁舎内の美術作品巡りは同じように思います。


2


4
博物館の入館前に市庁舎を見て回りますが、公開されている部屋は非常に限定されてます。


5
大広間です。


6


7
フレスコ画断片が残されてます。


8


9
リッポ・ディ・ダルマシオ(ボローニャ、1352/1360-1410c)の「聖母子と天使たち」(1389)


23
リッポ・ディ・ダルマシオ(ボローニャ、1352/1360-1410c)の「聖母子と聖人たち」(1389)


10
逸名彫刻家による「聖アガタ」(16世紀)


11
紋章(1478)


12
紋章(1643)


13
ヴェロッキオ派芸術家による「紋章」(1494)


14
次はギベリーノの間です。


15
モニュメント


16
紋章


17
柱の装飾


18
詳細不知


19
ベノッツォ・ゴッツォーリのフレスコ画(1497c)


20
ベノッツォ・ゴッツォーリのシノピエが見えます。


21
フレスコ断片


22
詳細不知


24
次はサンタガタ礼拝堂です。


25
二代目となるサンタガタ礼拝堂の祭壇(18世紀)


26
祭壇画(1709c)
制作者が分からないようです。


27
ベネデット・ダ・マイアーノ(フィレンツェ、1442-1497)の「聖母子のタベルナコロ」


28
ベネデット・ダ・マイアーノ派芸術家による「ピエタと聖母子」(1510c)


29
ジュゼッペ・二コラ・ナシーニ(カステル・デル・ピアーノ、1657-シエナ、1736)の「栄光の聖アガタ」(1709)


30
聖水盤(1490c)
(つづく)

1そろそろ市立博物館の開館時間です。


2
サン・マッテオ通りを通ってドゥオーモ広場に向かいました。


3
写真中央の建物はピストイアの地方銀行(日本の信用金庫に相当?)です。


4
1898年から1905年に建設されたネオ・ルネサンス様式の建物です。


5
この建物は元々商品取引所でした。


6
ドゥオーモ広場に戻りました。


7
広場に面して市庁舎が建ってます。市立博物館は市庁舎の建物の一角に設けられてます。


8
市庁舎 Palazo Comunaleです。


9
市庁舎はアンツィアーニ宮、またはジャーノ宮とも呼ばれてます。


10
1294年にピストイアのポデスタに就任したジャーノ・デッラ・バック(フィレンツェ、13世紀後半生まれ‐フランス、1306)は、評議会 Consiglio degli Anianiと裁判所を兼ねた建物建設を決め、1294年に創建され、14世紀前半に完成した建物が現在の市庁舎の前身です。
アンツィアーニ宮と呼ばれるのは評議会に由来します。また、別名のジャーノ宮は建設を決めたポデスタのジャーノ・デッラ・バックの名前に由来します。


11
1339年に拡張工事が行われましたが、その後幾度となく拡張、改造、修復が繰り返されました。
1399年に市庁舎内に刑務所が設けられました。17世紀末から18世紀初頭にかけて大改造が行われた後、19世紀前半にはロレーヌ家の要望によってさらに改造が加えられました。
19世紀末に建物の劣化が深刻になったので、大補強工事が行われることになりましたが、その際、元の構造に復元されることになりました。現在の外観は、その補強復元工事後の姿となってます。


12
外観を見ます。


13
ファサードのメディチ家の紋章


14


16
市庁舎とドゥオーモを結ぶ通路


17


20
「聖母子」のタベルナコロ


21
「聖母子」の制作者などの詳細が分かりません。


15
ファサード下の柱廊


18
建物の入口扉


19
入口扉上の装飾


22
中に入ると中庭(第一)に出ます。


23
奇妙なブロンズ像が置かれてます。


24
この街が産んだマリーノ・マリーニのブロンズ像です。


25
マリーノ・マリーニ(ピストイア、1901-ヴィアレッジョ、1980)の「ミラコロ」


27
第二中庭です。


28


26
第二中庭の見どころは皆無です。


29
第一中庭に戻ります。


30
(つづく)

↑このページのトップヘ