イタリア芸術を楽しむ

イタリアの魅力を味わい尽くすには、一生に何度旅をすれば足りるだろう。芸術の宝庫にして、歴史の生きた証であるイタリア。 惹き付けて止まない絵画、彫刻、歴史的建造物、オペラなど、芸術の宝庫であるイタリアを楽しむブログです。 記事は一日に一つアップしています。記事の見方ですが、例えば「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その4)」は2017年10月20日にアップしました。各記事にカレンダーが表示されてますが、カレンダー上の2017年10月21日をクリックして頂ければ「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その5)」になります。(その3)は2017年10月20日となります。 BY:シニョレッリ

カテゴリ: トスカーナ州

1橋を渡ります。


2


3
岸壁に出ました。


4
リヴォルノ港の灯台


5
バーリのScintu号


6


7
海岸沿いに築かれた市壁です。


8
ヨットハーバーの横にも市壁があります。


9


11
橋を渡ってホテル前に戻ります。


12
古要塞


13
Hotel Gran Duca


14
見所が少ないリヴォルノでした。


15
フォンターナがあります。


16
ピエトロ・タッカ(カッラーラ、1577-フィレンツェ、1640)によって制作されたフォンターナです。


17
フォンターン前にあるレストランがお勧めです。


18
第二次世界大戦後の復興した中心街です。


19
日曜日でも開店しているスーパーで果物を買いました。


20
大体見終わりました。


21
鉄道駅前にある、この日のお宿に一旦戻ることにしました。


22
ドゥオーモ


23
街の中心の広場


24


25
パドヴァのマックには、大変お世話になりました。(暴風雨の夜に外に出られず食事に困りましたが、ホテルの一階にマックがあったので、飢えずに済みました)


26


27
ドゥオーモの後陣を通り過ぎてプロテスタントの教会に向かいます。


28


29
この辺は歩いていても退屈なだけです。


30
この写真を見てもリヴォルノとは絶対に分からないと思います。無個性な街並みですから。


31
左折して運河に出ます。


32
運河沿いの道を進みます。


33
オランダ会衆の教会です。


34
16世紀後半、自由港のリヴォルノに多くの外国商人が定住するようになりました。リヴォルノに定住したオランダ人によって1632年頃に建設されたプロテスタントの教会です。


35
時代を経るうちにリヴォルノのオランダ人は少なくなり、20世紀初頭にはオランダ会衆は大幅に縮小され、教会所有の財産が次々と売られるようになりました。遂に20世紀後半にオランダ人会が解散されました。それに伴い、教会は放棄され、荒廃しました。
1997年、オランダ会衆の子孫によってリヴォルノのオランダ会が再結成され、教会のファサードだけが2014年に修復され保存されるようになりました。


36
ドゥオーモの後陣に戻りました。


37
バスターミナル


38


39
道草しないでホテルへの近道を通ります。


40


41
共和国広場


42


43
(リヴォルノ編 おわり)

1サン・フェルディナンド教会が見えます。


2
港へと続く運河は、レジャーボートの係留地になってます。


3
運河の先の海に古い要塞があります。


4
ヴェッキア要塞(古要塞)Fortezza Vecchiaです。


5
古要塞は三つの核から成ってます。


6
古要塞の最初は、1103年、トスカーナ辺境伯マティルデ・ディ・カノッサ(1046-1115)によって建設されたとされてますが、それを記録した文書が残されていません。


7
しかし、12世紀頃には海岸からすぐ近くリヴォルノ港内に防御用の海中砦が存在したとされてます。


8
Quadratura dei Pisaniと呼ばれる要塞の核の一つは、1377年頃にピサ共和国によって建設されました。当時のリヴォルノはピサ共和国領でした。


9
1405年、リヴォルノは、ピサに代わってジェノヴァ共和国の支配下に置かれるようになりましたが、ジェノヴァ共和国によって古要塞は拡大整備されたのです。


10
今日見ることが出来る古要塞の原形は、ジェノヴァに代わってリヴォルノを支配するようになったメディチ家が、建築家アントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ヴェッキオ(フィレンツェ、1455‐1534)に命じて、1519年に工事着工され、1534年に完成した海上要塞です。


11
完成時、フィレンツェはアレッサンドロ・デ・メディチ(フィレンツェ、1510‐1537)の時代でしたが、アレッサンドロはリヴォルノに興味がない上に直ぐに一族のロレンザッチョに暗殺されてしまいました。


12
古要塞横にヨットハーバーがあります。


13
アレッサンドロの暗殺後、メディチ家の後継者となった後のトスカーナ大公コジモ1世・デ・メディチ(フィレンツェ、1519‐1574)は、門戸となるリヴォルノに多大な興味を抱き、度々訪れるようになり、その居住地として古要塞内に宮殿建設を図り、1546年にメディチ宮殿が完成しました。


14
やがて、地中海に平和が訪れるようになると、古要塞は無用となり、18世紀には刑務所として使用されるようになりました。


15
第二次世界大戦の爆撃によって多くの個所が破壊されました。 


16


17


18
 

19


20
この辺は危険と判断されて立ち入りが禁止されてます。


22


21


23
客船が発着する港の方に向かいます。


24


25
税関など公的機関がある一角です。


26
海岸沿いの道を進みます。


27


28
このホテルはお勧めです。


29
ミケーレ広場に有名なモニュメントがあります。


30
サント・ステファノ騎士団が海賊に勝利したことを記念して作られたモニュメントです。


31
四人のムーア人 Monumennto di Quattro Moriと呼ばれてます。


32
モニュメントは、トスカーナ大公フェルディナンド1世・デ・メディチ(フィレンツェ、1549-1609)像の上部と台座と下部の四人のムーア人像から成っており、制作者が異なります。


33
ジョヴァンニ・バンディーニ(フィレンツェ、1540c-1609)の「フェルディナンド1世・デ・メディチ像」(1595c)
ジョヴァンニ・バンディーニの作品はカッラーラで制作され、1601年にリヴォルノに到着しましたが、そのまま放置されていました。


34
台座と下部の四人のムーア人


35
1621年、彫刻家ピエトロ・タッカにモニュメント完成が依頼されたのです。


36
それを受けて、ピエトロ・タッカ(カッラーラ、1577-フィレンツェ、1640)によって「四人のムーア人」が制作されて、台座の上にフェルディナンド1世大公像が置かれてモニュメントが完成したのです。
台座は、ピエトロ・タッカの弟子マッテオ・ディ・ミケーレによって作られたそうです。


37
台座


38


39
ミケーレ広場から見た古要塞


40
(つづく)

1ルオーゴ・ピオ教会の前に出ました。


2
ルオーゴ・ピオ教会を通り過ぎて直ぐの場所に別の教会が建ってます。


3
サン・フェルディナンド教会です。


4
一般的にクロチェッタと呼ばれてます。


5
トスカーナ大公コジモ3世の長子で、大公子のフェルディナンド・デ・メディチ(フィレンツェ、1663-1713)は政治的に無関心でしたが、その反面、華麗なパトロン活動で知られていました。その一環として、リヴォルノの三位一体同心会の新教会建設を熱心に推進することになります。


6
建築家ジョヴァンニ・バッティスタ・フォッジーニ(フィレンツェ、1652-1725)の設計によって、1707年に創建され、1714年に完成したバロック様式の教会です。
フェルディナンド1世・デ・メディチのパトロネージに感謝するために、その名前に因んで聖フェルディナンドに奉献する教会とすることなり、サン・フェルディナンド教会と命名されました。


7
第二次世界大戦の爆撃によって大きな被害を受けたので、戦後に大修復工事が行われました。


8
創建時の鐘楼は第二次世界大戦の爆撃によって破壊されてしまいました。


9
現在の鐘楼は戦後に再建されたものです。


10
ファサード側のメイン扉は閉まっていることが多いようです。


11
サイドポータルが開くことがあります。


12
単廊式、ラテン十字形、バロック様式の内部です。


13
この教会の美術的な見所はジョヴァンニ・バラッタ(カッラーラ、1670-1747)の彫刻でしょう。


14
主祭壇はジョヴァンニ・バラッタ(カッラーラ、1670-1747)の彫刻で装飾されてます。


15
主祭壇の彫刻:ジョヴァンニ・バラッタ(カッラーラ、1670-1747)の「解放された奴隷](1710-17)


16


17


18


19
こちらの礼拝堂祭壇もジョヴァンニ・バラッタの彫刻があります。


20
ジョヴァンニ・バラッタ(カッラーラ、1670-1747)の「天国のカギを聖ピエトロに託すキリスト」(1720-30)


21
「天国のカギを聖ピエトロに託すキリスト」上部の「聖ピエトロの逆さ磔」のジョヴァンニ・バラッタ(カッラーラ、1670-1747)の作品(1720‐30)です。


22
ジョヴァンニ・バラッタの彫刻が教会内のあちこちに置かれてます。
これはジョヴァンニ・バラッタ(カッラーラ、1670-1747)の「Virtu」(1720-30)


23
ジョヴァンニ・バラッタ(カッラーラ、1670-1747)の「Obbedienza」(1720-30)
ジョヴァンニ・バラッタの彫刻の製作費は、フランチェスコ・テッリージ(フィレンツェ、1635-リヴォルノ、1715)のパトロネージによるものです。
フランチェスコはこの時代の有名人ですから、ご存知の方が多いことでしょう。


24
ジョヴァンニ・バラッタ(カッラーラ、1670-1747)の「Prudenza」(1720-30)


25
ジョヴァンニ・バラッタ(カッラーラ、1670-1747)の「Speranza」(1720-30)


26
クーポラ


27


32
こちらの礼拝堂祭壇の彫刻は、ジョヴァンニ・バラッタの作品ではないようです。


28
制作者等詳細不知の「三位一体」


29
詳細不知


30
詳細不知


31
詳細不知


33
制作者等詳細不知の「アンニーバレ・カラッチ作『聖母被昇天』のコピー画」
本物はローマのサンタ・マリア・デル・ポポロ教会にあります。


34


39


40
墓の数々


35
カウンターファサード


36
フェリーターミナルに向かいます。


38


37
(つづく)

1サンティッシモ・サクラメント礼拝堂です。


2


3
逸名画家作「天上の聖母子と聖ドメニコとシエナの聖カテリーナ」(18世紀末)


4
サンティッシモ・サクラメント礼拝堂の左側壁にあるジュゼッペ・マリア・テッリーニ(リヴォルノ、1739-1811)の「天上の聖母子にレパントの海戦を報告するピオ5世」


5
サンティッシモ・サクラメント礼拝堂の右側壁にあるジュゼッペ・マリア・テッリーニ(リヴォルノ、1739-1811)の「天上の聖母子と聖トマス・アクィナス」


6
これはジュゼッペ・マリア・テッリーニの作品で、だまし絵で彫刻に見えるように描かれてます。


7
ジュゼッペ・マリア・テッリーニ(リヴォルノ,1739-1811)の作品


8
ジュゼッペ・マリア・テッリーニ(リヴォルノ、1739-1811)によるサンティッシモ・サクラメント礼拝堂の天井装飾


9
ジュゼッペ・マリア・テッリーニ(リヴォルノ、1739-1811)の「天使に導かれるシエナの聖カテリーナ」


10
説教壇


11
次の礼拝堂です。


12
モンテローネの聖母礼拝堂


13


14
製作者情報不知の「モンテローネの聖母」


15
モンテローネの聖母礼拝堂の左側壁の祭壇画(詳細不知)


16
モンテローネの聖母礼拝堂の右側壁にある祭壇画(詳細不知)


17
モンテローネの聖母礼拝堂の天井装飾


18


19
「聖母子」(詳細不知)


20
次はサンタ・カテリーナ礼拝堂です。


21


22
ジュゼッペ・マリア・テッリーニ(リヴォルノ、1739-1811)のフレスコ画


23
チェーザレ・タッリーニ(ピサ、1885-リヴォルノ、1953)のフレスコ画


24
チェーザレ・タッリーニ(ピサ、1885-リヴォルノ,1953)のフレスコ画


25
チェーザレ・タッリーニ(ピサ、1885-リヴォルノ、1953)のフレスコ画


27
次の礼拝堂です。


28
次はサン・ジュゼッペ礼拝堂です。


29


30
ドメニコ・クレスティ通称イル・パッシニャーノ(パッシニャーノ、1559-フィレンツェ、1638)派逸名画家作「エジプトへの逃避途中の休息」


34
一時期、ヤコポ・キメンティ・ダ・エンポリの作品とされていたことがあるようです。


31
ヤコポ・テッリーニとアントニオ・テッリーニ兄弟によるフレスコ画


32
ヤコポとアントニオのテッリーニ兄弟によるフレスコ画


33
ヤコポとアントニオのテッリーニ兄弟の「聖母の結婚」


35


36
詳細不知


37
詳細不知


38
詳細不知


42


43


44


45


39
大体見終わりました。


40


41
外に出ます。
(つづく)

1サンタ・カテリーナ教会に戻りました。


2
扉が開いていました。ホッとしました。


3
ドメニコ広場に面して建ってます。
なお、シエナの聖カテリーナを奉献する教会です。


5
写真右手前の建物がサンタ・カテリーナ教会です。教会に隣接して建っている白い建物は、ドメニコ会のサンタ・カテリーナ修道院でした。


4
17世紀後半、サンタ・カテリーナ修道院が建設されましたが、修道院に隣接して建設された小さな教会が前身です。
小さな教会はヴェネツィア・ヌオーヴァ地区の住民の信仰を集めたので、本格的な教会建設計画が具体化しました。


6
そうして、建築家ジョヴァンニ・デル・ファンタジア(フィレンツェ、1670-リヴォルノ,1743)が起用され、ジョヴァンニの設計によって、1720年に創建されました。ファサードが未完成なものの、建物の一応の完成を見た1753年に奉献式が執り行われました。


7
八角形のクーポラが目立ちます。


8
クーポラの上にLanternaがあります。


9
ナポレオンのイタリア侵攻に伴って、サンタ・カテリーナ修道院教会の複合施設は抑圧され、宗教活動が禁止されてしまいました。建物はフランス軍に接収されました。


10
フランス軍の撤退後、修道院だった建物は刑務所に転用されました。刑務所は1871年に拡充されました。1980年台に刑務所がサルヴィアーノに移転するまで刑務所でした。
刑務所に隣接していた教会の方は一般信者の足が遠のいて寂れていました。


11
フェルディナンド・フーガ(フィレンツェ、1699-ナポリ、1782)の設計による鐘楼


12
旧修道院で刑務所だった建物は内部が改造され、2005年からリヴォルノ国立公文書館となってます。
教会の方は、刑務所がサルヴィアーノに移転してから、修復が行われました。


14
ファサードに向かって左側にサイドポータルが設けられてます。


13
拝観します。


15
中に入りました。


16
内部は八角形で、その上に八角形のクーポラがあるバロック様式の教会です。


17
メインポータルを除き、八角形の各辺に当たる場所に礼拝堂が設けられてます。


18
八角形のクーポラ


19
クーポラにフレスコ画が描かれてますが、保存状態があまり良くない。


20
クーポラのフレスコ画は、チェーザレ・マッフェイ(シエナ、1805-?、1876)によって1855年から1858年に制作されました。


21
チェーザレ・マッフェイの「聖母戴冠」


22


23


24


25


26
まず中央礼拝堂に足を向けましょう。


27
中央礼拝堂です。


28
主祭壇画を見ます。


29
主祭壇画は、ジョルジョ・ヴァザーリ(アレッツォ、1511-フィレンツェ、1574)の「聖母戴冠](1571)です。


30
ヴァザーリの作品は元々この教会にあったものではありません。


31
ヴァティカンのサン・ミケーレ礼拝堂の祭壇を飾るために制作され、18世紀末まで同礼拝堂にありました。
1797年、ナポレオンのイタリア侵攻の際、戦利品として持ち去られ、一時はルーヴル美術館で展示されていました。
ナポレオンの失脚後、ヴァティカンに返還されるはずでしたが、何故か所有者が変わりました。
1818年、リヴォルノの資産家であるフィリッキ家の当主アントニオ・フィリッキ(1764‐1847)が競売でこの作品を手に入れ、リヴォルノのサンタ・カテリーナ教会に寄贈し、それ以降、この教会の主祭壇を飾ってます。


32


33


34


35


36
主祭壇は彫刻家バルトロメオ・カッザリーニの作品です。


37
バルトロメオ・カッザリーニという彫刻家はまったく知りません。(私が)


38
バルトロメオ・カッザリーニの彫刻


39


40
(つづく)

1新要塞 Fortezza Nuovaです。


2
16世紀後半、メディチ家のトスカーナ大公国はリヴォルノの拡大整備を進めることになり、建築家ベルナルド・ブオンタレンティ(フィレンツェ、1531-1608)に計画立案が委嘱されました。


3
1576年、ベルナルド・ブオンタレンティは、五角形の要塞に囲まれた居住エリアを有する新都市計画を立案しました。これがベルナルドの立案した原図のコピーと言われてます。


4
1577年、リヴォルノの新街区とその防御システムの建設工事が着工されました。しかし、当初計画では防衛機能が十分ではありませんでした。


5
1589年、防衛機能強化のためにFortezza Nuovaと呼ばれる要塞建設が決定されました。


6
それを受けてベルナルド・ブオンタレンティ、ドン・ジョヴァンニ・デ・メディチ(フィレンツェ、1567-ムラーノ、1621)、クラウディオ・コゴラーノ(パルマ、?-リヴォルノ,1618)、アレッサンドロ・ピエロニ(インプルネータ、1550-リヴォルノ、1607)の設計によって、1590年から1604年に建設された新要塞です。


7
17世紀後半、リヴォルノの軍事機能の重要性が薄れたため、新要塞の3分の2が解体されることになりましたが、それとともに要塞に隣接するヴェネツィア・ヌオーヴァ地区の経済的重要性が高まったことから、同地区の防衛力強化のために第二の防御システムとしてサン・ピエトロ要塞が建築されることになりました。現在の姿は、この強化工事完了後の姿が原型となってます。


8
第二次世界大戦の爆撃によって新要塞内部の殆どの建物が破壊されてしまいました。破壊された建物は戦後の解体されて、僅かにその残骸が残されているだけです。


9
爆撃を受けて破壊された建物ですが、戦災を受けた他地区の住民たちの避難所となったそうです。
現在、内部は公園として一般公開されてます。


10
16世紀初めにッ建設された当初は、この橋は跳ね橋だったそうです。


11


12


13


14


15


16


17
ヴェネツィア・ヌオーヴァ地区


18


19


21
サンタ・カテリーナ教会に向かいます。


22
サンタ・カテリーナ教会はヴェネツィア・ヌオーヴァ地区にあります。


23
サンタ・カテリーナ教会です。拝観するには少し早すぎたようです。


24
サンタ・カテリーナ教会の拝観は後ですることにして、サン・フレディナンド教会の方に進むことにしました。


25
サンタ・カテリーナ教会横の運河です。


26


27


28


29


31
運河沿いの道を進みます。


30


32
サン・フレディナンド教会の手前にも教会があります。


33
ルオーゴ・ピオ教会です。
ジョヴァンニ・デル・ファンタジア(フィレンツェ、1670-リヴォルノ,1743)の設計によって1713年から1715年に建設されました。
第二次世界大戦の爆撃によって破壊されましたが、その後、修復工事が行われず荒廃してしまいました。1980年台になってリヴォルノ市の所有となり、漸く修復工事が行われ、1990年に工事が完了しました。
2012年から旧教会の建物はリヴォルノ市立博物館となってます。


34
旧教会の修復後の内部


35


36


37


38


39


40
サンタ・カテリーナ教会の扉が開く時間になりました。サンタ・カテリーナ教会に戻ります。
(つづく)

1お腹が空いてました。


2
リヴォルノに来た最大の目的は、この料理をワインとともにゆっくりと食べながら食事を楽しむことでした。


3
Cacciuccoと呼ばれる料理は通常四人前からの注文が普通です。


4
レストランの予約なしでリヴォルノに来てしまったので、先ず食堂を探します。


5
この日は日曜日とあって、開店しているレストランが少ないうえに、新鮮な魚介類の入手困難なので、Cacciuccoを楽しむには悪条件であることは承知していました。


7
リヴォルノの市場です。


7
日曜日休業は当然の市場ですが、市場周辺ならば、開店している食堂があるだろうとの淡い期待がありました。


8
読みが甘かった! 開店している所は一つもありません。


9
変なものがありました。


10
開店しているどころか、人通りが途絶えていました。


11
港の方に行けば何とかなるだろうと思ってました。


12
人通りが多い場所がねらい目です。


13
この通りは望み薄です。


14
第二次世界大戦の戦災後に整備された一角は味気ない。


15
写真を撮るのを止めてレストラン探しに注力しました。


16
ここで食べました。何とか二人前のオーダーを受けてもらいました。
手で食べたので、食事中の写真は無理でした。


17
お腹一杯になりました。夕食は無理な感じです。


18
結局、この日の夕食はスキップとなりました。


19
新要塞に向かいます。


20
運河に出ました。


21
運河の横は、共和国広場です。


22
新要塞は中に入ることが出来ます。


23
新要塞の入り口はどこでしょうか?貰った地図を見ればよいのですが、よぱらっているので適当にぶらぶら歩きを続けます。


24
Via de Larderelを進みました。


25
裁判所の建物です。


26
修復工事が行われていました。但し、日曜日は休工です。


27
ファサードの装飾


28
サンタンドレア教会に出てしまいました。道を戻ります。


29
トイレ休憩しました。


30
共和国広場に戻りました。どうやら無駄に道を一周したようです。


35


31
新要塞です。


33
運河です。


32


34


36


37
運河が新要塞の堀のような役目を担えるように設計されてます。


38


39


40
(つづく)

1ドゥオーモの後陣に向かって右側にサンタ・ジュリア教会があります。


2
写真右がドゥオーモです。ドゥオーモのファサードに向かって、道を挟んだ左側にサンタ・ジュリア教会が建ってます。


3
リヴォルノの守護聖人聖ジュリアを祀る教会です。


4
9世紀頃、ピサ寄りの市壁外にサンタ・ジュリア教会があったとされてます。


5
13世紀後半、サンタ・ジュリア教会が市壁内に移されることになり、13世紀末から14世紀初めにかけてリヴォルノ旧要塞近くに建設されました。16世紀初めまで教区教会でした。


6
しかし、16世紀後半になると、メディチ家のリヴォルノ整備計画が立案され、新たに運河が造られることになりました。運河建設計画にサンタ・ジュリア教区教会が建っている場所が含まれていたので、教区教会は取り壊され、その代わりに運河横に小さなサンタ・ジュリア礼拝堂が建設されました。
しかし、取り壊されたサンタ・ジュリア教区教会の有力信者だったサンティッシモ・サクラメント同心会は、新礼拝堂に満足せず、教会建設を強く希望したのです。


7
それを受けて、大公国は現在地に教会新造を認可しました。そうして、建築家アレッサンドロ・ピエロニ(インプルネータ、1550-リヴォルノ、1607)が起用され、アレッサンドロの設計によって1602年に建設されたサンティッシモ・サクラメント同心会の教会です。
第二次世界大戦の爆撃によって破壊されたので、戦後著しく荒廃しましたが、20世紀末からようやく修復工事が本格的に行われ、2008年に漸く工事完了したのです。


8
ファサードの碑文


9
ファサードにあるサンティッシモ・サクラメント同心会の紋章


10
ファサードの浮彫


11
鐘楼です。写真左はドゥオーモの後陣です。


12
毎日ミサが行われている教会です。


13
中に入ったらミサ中でした。


14
翼廊がない単廊式、バロック様式の内部です。


15
天井の装飾


16
新しい「磔刑」の祭壇画があります。


17
エンリコ・コラッツィ(リヴォルノ、1887-1952)の「磔刑」(1952)


18
制作者等詳細不知の「聖母子」


19
「Madonna di Montenero」と呼ばれてます。


21
落剝したフレスコ画が残されてます。


20


22


23
主祭壇
ここにある主祭壇画はコピー画です。本物の主祭壇画は教会内のMuseoに置かれてます。


24
「無原罪の聖母」


25
制作者等詳細不知


26
サンティッシモ・サクラメント同心会の紋章


27
フランチェスコ・クゥッラディ(フィレンツェ、1570-1661)の「聖家族と聖アンナと聖ジョヴァンニーノ」


28


29


30
ジョヴァンニ・マリア・モランディ(フィレンツェ、1622-ローマ、1717)に帰属する『聖ジュリアの殉教」


31


32


33
Museoとなっている部屋です。


34
Maestro di San Torpeの「聖ジュリアとその生涯の物語](1300-20c)
この作品のコピー画が主祭壇画になってます。


35


36


37


38
詳細不知


39


40
カウンターファサード方向


41
外に出ました。
(つづく)

1引き続きドゥオーモの内部です。


31


2
「聖母子」(詳細不知)


3
トンマーゾ・ガッツァリーニ(リヴォルノ、1790-フィレンツェ、1853)の「エジプトへの逃避途中の休息」


4


5


6


7
トンマーゾ・ガッツァリーニ(リヴォルノ、1790-フィレンツェ、1853)の「聖体拝領の制定」


8


9
「聖母子」(詳細不知)


10
「キリストの洗礼」(詳細不知)


11
洗礼盤


12


13
トンマーゾ・ガッツァリーニ(リヴォルノ、1790-フィレンツェ、1853)の「聖マルゲリータ・アラコクゥエの顕現する聖心」


14


15
詳細不知


16
Presbiterioの左側壁にある祭壇画を見ます。


17
ジュゼッペ・ペッツォーリ(フィレンツェ、1784-1855)の「溺死した男を復活させる聖フランチェスコ」


18
Presbiterioの右側壁の祭壇画です。


19
トンマーゾ・ガッツァリーニ(リヴォルノ、1790-フィレンツェ、1853)の「聖ジュリアの遺体の搬送」


20


21
ジュゼッペ・マリア・テッレーニ(リヴォルノ、1739-1811)の「聖ジローラモ」
ジュゼッペ・マリア・テッレーニが描いた沢山の聖人を描いた作品がありましたが、第二次世界大戦の爆撃によって破壊されたものが多く、現存しているのは4点だけだそうです。


22


23
ジュゼッペ・マリア・テッレーニ(リヴォルノ、1739-1811)の「聖アンブロージョ」


24


25
ジュゼッペ・マリア・テッレーニ(リヴォルノ、1739-1811)の「聖アゴスティーノ」


26


27
ジュゼッペ・マリア・テッレーニ(リヴォルノ、1739-1811)の「聖グレゴリオ」


28
中央通路床の紋章


29


30


34
ベアート・アンジェリコ(フラ・アンジェリコ)の作品をもう一度見ます。


35


36


37


39


38


32
カウンターファサード方向


33
外に出ました。


40
(つづく)

42引き続きドゥオーモの内部です。


43
次は天井の小絵画です。


44
天井の小絵画は全部で4つあります。


45
天井の四つの小絵画は、1610年から1614年にかけてフィレンツェ派の逸名画家によって制作されたそうです。


46


48
後陣


47
主祭壇


49
ジョヴァンニ・バッティスタ・フォッジーニ(フィレンツェ、1652-1725)の「マルコ・アレッサンドロ・デル・ボッロの葬儀記念碑」


50
マルコ・アレッサンドロ・デル・ボッロ(アレッツォ、1626-リヴォルノ、1701)は、1678年から1701年に没するまでリヴォルノ総督を務めました。


51


52


53


54


55


65


82


56
フランチェスコ・クゥッラディ(フィレンツェ、1570-1661)の「磔刑」


57


58
ピエトロ・ソッリ(サン・グズメ、1556-シエナ、1622)の「聖母被昇天](1605)


59


60


61
二点とも詳細不知です。


62
トンマーゾ・ガッザッリーニ(リヴォルノ、1790-フィレンツェ、1853)の「キリストの変容」


63


64
ジュゼッペ・ボッターニ(クレモナ、1717-マントヴァ、1784)の「無原罪の御宿り」


66


67
ピエトロ・ソッリ(サン・グズメ、1556-シエナ、1622)の「天上の聖母子と聖人たち」(1605c)


68


69


70
右翼廊です。


72
サンティッシモ・サクラメント礼拝堂です。


74
この礼拝堂に有名な作品があります。


71
ベアート・アンジェリコ(ヴィッキオ、1395c-ローマ、1455)の「荊刑のキリスト」


73


75


76


77
天使の彫刻も見逃せません。


78
ジョヴァンニ・バラッタ(カッラーラ、1670-1747)工房作「天使」


79


80


81
(つづく)

1グランデ広場に面して建つドゥオーモです。


2
リヴォルノは、ピサ共和国の重要な港でしたが、アルノ川の土砂堆積によって河口のピサ港はその繁栄を失い、さらに重要性を増すことになりました。
ピサ共和国の衰退によって、リヴォルノはミラノの支配下に置かれ、さらにジェノヴァ領となりましたが、1421年、ジェノヴァはフィレンツェにリヴォルノを売却し、リヴォルノはフィレンツェの海への主要な出入り口とされるようになりました。
16世紀後半、トスカーナ大公のメディチ家によってリヴォルノの整備要塞化が進められることになり、その一環としてドゥオーモ建設が計画されました。


3
リヴォルノの整備拡張計画は、建築家ベルナルド・ブオンタレンティ(フィレンツェ、1531-1608)に委ねられ、ドゥオーモ建設もブオンタレンティの設計によって、1594年に着工の運びとなりました。


5
しかし、ブオンタレンティが設計したドゥオーモは1596年に一応の完成を見ましたが、当時のトスカーナ大公フェルディナンド1世・デ・メディチ(フィレンツェ、1549-1609)はその規模が小さいことに不満を抱き、フェルディナンド1世の指示によって拡大されることになりました。
新たに建築家アレッサンドロ・ピエロニ(インプルネータ,1550-リヴォルノ、1607)が起用され、ピエロニの設計によって、1596年から1606年に完成したルネサンス様式の教会は、サン・フランチェスコ参事会教会と命名されました。
ファサード下のポルティコは、アントニオ・カンタガッリーナ(ボルゴ・サン・セポルクロ、?‐リヴォルノ、1616)の設計によって、1606年に完成後に新たに付け加えられました。


4
20世紀前半に撮影されたグランデ広場の写真です、広場の先にドゥオーモが写ってます。


6
ファサード下の柱廊


7
1716年から1727年に拡大工事が行われました。
また、1806年にリヴォルノは独立した司教区に昇格され、それに伴って司教座教会に格上げされました。


8
大公家のメディチ家、ロレーヌ家の庇護を受け、両家からの高価が寄贈品があることで知られていました。


9
第二次世界大戦中の1943年に爆撃を受け、大きな被害を受けましたが、迅速な修復工事が行われ、一時、教会活動が再開されたものの、1944年に再び爆撃を受けて建物は修復不能なまでに崩壊してしまい、荒廃が進むだけの建物になってしまいました。


10
1953年に奉献された現在の建物は、戦後に再建されたものですが、戦災前の元の姿に戻す努力がされたものの完全ではなく、依然として未完成のままとなってます。


11
写真右の建物はサンタ・ジュリア教会です。


12
後陣横の広場にバスターミナルがあります。


13
後陣


14
後陣横に鐘楼があります。


15
鐘楼


16
高さ約50メートルの鐘楼


17
1856年、鐘楼に時計が追加されました。


18


19
左翼廊にロッジャが設けられ、聖堂への出入り口が設けられてます。


20
洗礼堂


21
ファサードにメディチ家の紋章があります。


22
カイローリ通りから見た後陣と鐘楼


23
爆撃されたにも拘らず、貴重な美術品が残されています。


24
拝観します。


25
聖堂内に入りました。


29
毎日開くので拝観しやすいと思います。


26
単廊式、ラテン十字形、ネオ・ルネサンス様式の内部です。


27
戦後に再建された建物なので、やはり新しく見えます。


28
爆撃される前の天井は木製で、Vincenzo Rememberによって1604年から1614年に制作された彫刻がありましたが、それらの彫刻は全て失われてしまいました。


30
しかし、天井の絵画は初代の建物にあったオリジナルの作品です。


31
ヤコポ・キメンティ・ダ・エンポリ別称ヤコポ・ダ・エンポリ(フィレンツェ、1551-1640)の「聖母から幼きキリストを受け取る聖フランチェスコ」(1610-14)


32


33
天井の作品は必見です。


34
ドメニコ・クレスティ(またはクレスピ)通称イル・パッシニャーノ(パッシニャーノ、1559-フィレンツェ、1638)の「聖母被昇天」(1610-14)


41


35


36


37


38
ヤコポ・リゴッツィ(ヴェローナ、1547-フィレンツェ、1627)の「聖ジュリアの勝利」(1619-23)


39


40
(つづく)

1サン・グレゴリオ・デリ・アルメーニ教会です。


2
17世紀、交易のためにリヴォルノに定住するようになったアルメニア人は信仰の場として教会の建設を希望していましたが、アルメニア人の日常的に使用しているグレゴリオ暦に対する警戒感から、リヴォルノの市壁内における教会建設の話は中々進捗しませんでした。
しかし、トスカーナ大公コジモ3世の長子で、大公子のフェルディナンド・マリア・デ・メディチ(フィレンツェ、1663‐1713)のパトロネージの一環としてグレゴリオ暦に興味を抱き、アルメニア人のための国立教会建設の許可に向けて力を貸し、教会建設が実現することになりました。


3
そうして、ジョヴァンニ・バッティスタ・フォッジーニ(フィレンツェ、1652-1725)の設計によって1701年から1714年に建設されたバロック様式の教会です。


5
ファサードの銘板
第二次世界大戦の爆撃を受け、大きな被害を受けましたが、修復工事の話が進まず、その間、盗難、襲撃、破壊行為が続きました。
その一方、リヴォルノのアルメニア人コミュニティの縮小、更には消滅によって、結局、教会の修復工事断念が決まり、ファサードだけを残して、残りの建物はすべて破壊、撤去されて現在に至ってます。
残されたファサードは、アルメニアの総主教庁によって維持管理されてます。


4
ファサードとファサードの敷地内に彫刻などが残されてます。


6
ジョヴァンニ・バラッタ(カッラーラ、1670-1747)の「美徳」


7
ジョヴァンニ・バラッタ(カッラーラ、1670-1747)の「美徳」


9
パオロ・エミリオ・デーミ(リヴォルノ、1798-1863)の「聖ジョヴァンニ・バッティスタ](1825-50c)


9
パオロ・エミリオ・デーミ(リヴォルノ、1798-1863)の「聖マリア・マッダレーナ」(1825-50c)


10
ヴェネツィア地区にやってきました。


11
港へと続く運河です。


12
この付近の佇まいがヴェネツィアに似ているので、ヴェネツィア街と呼ばれてます。


13
ピサとリヴォルノ港を結ぶために、1563年から1575年に造られた運河です。


14
運河に架かる橋に置かれたモニュメントです。


15
Monumennto di San Giovanni Nepomuceno


16
市庁舎広場にやってきました。


17
市庁舎広場に面して建っているPalazzo Grandeです。


18
1950年から1952年にかけて建設された映画館の建物です。映画館は2013年に廃業となりました。


19
現在は、色々な店舗が入居してます。


20
旧映画館のカフェテリアはマックが入居しているようです。観光案内所もこの建物の一角にあります。


21
この場所には第二次世界大戦の爆撃によって破壊された教会があったようです。


22
市庁舎広場に面して建つPalazzo Granducaです。


23
Palazzo Granducaは、トスカーナ大公フェルディナンド1世・デ・メディチ(フィレンツェ、1549-1609)がリヴォルノにおける大公の宮殿として建設されたものです。1605年に建設工事が着工され、1612年に一応の完成となりましたが、1629年に大拡張されたそうです。


24
1796年のナポレオンのイタリア侵攻の際には、フランスの公邸として使用されましたが、後にフランス軍の兵舎に転用されるようになりました。


25
Palazzo Granducaは、1871年から学校の校舎として使用されるようになりましたが、1931年からトスカーナ州リヴォルノ県の県庁舎に転用され、現在も県庁舎です。
現在の建物は旧Palazzo Granducaというべきもので、初代の建物は第二次世界大戦の爆撃によって完全に破壊されたしまったので、1950年に殆ど新造という形態で再建された建物です。
Palazzo Granducaには、リヴォルノ出身の画家Plinio Nomellini(リヴォルノ、1866-フィレンツェ、1943)の作品があることで知られてます。


26
プリーニオ・ノメッリーニ(リヴォルノ、1866-フィレンツェ、1943)の「Saluto alla Bandiera」(1927)


27
Plinio Nomelliniの「La Glorificazione」(1911)


28
Plinio Nomelliniの「Il Cannone dei Lupi」(1911)


29
Plinio Nomelliniの「La Liberta」(1911)


30
市庁舎広場です。


31
市庁舎です。


32
オリジナルの市庁舎は、ジョヴァンニ・マリア・デル・ファンタジア(フィレンツェ、1670‐リヴォルノ、1743)の設計によって1720年頃に建設されました。


33
1742年の地震によってジョヴァンニ・マリア・デル・ファンタジアが設計した建物は大被害を受けてしまい、一部の建物が残される形で、ベルナルディーノ・チウリーニ(カステルフィオレンティーノ、1695‐フィレンツェ、1752)の設計によって再建された建物が現在の姿の原型です。


34
第二次世界大戦の爆撃によって壊滅的に被害を受けてしまい、1949年に大修復された建物が現在の姿となってます。


35
鐘楼


41
広場に面した建物は第二次世界大戦の爆撃によって徹底的に破壊されたことが分かります。


38
市庁舎の碑文


36
正門


37
リヴォルノの紋章


40
歴史ある建物が新しい建物に置き換わってます。


39
(つづく)

1マドンナ修道院教会です。大きく写っている建物は旧修道院です。


2
フランチェスコ会の修道院です。修道院だった建物は学校などに転用されてます。キオストロとキオストロ回廊を見ることが出来ます。


3
マドンナ修道院教会の複合施設の中庭です。


9
回廊の壁にフレスコ画が残されていたそうですが、現在はすべて塗りつぶされて残されていません。


11
第二次世界戦中にイギリス軍の爆撃によって、破壊された回廊です。その際、フレスコ画も粉々に砕けると共に崩落して修復断念となりました。


12
回廊に墓石が残されてます。


13


14


15
回廊から出てマドンナ教会に向かいます。


4
マドンナ通りに出ました。


5
この場所には元々サンティ・コジモ・エ・ダミアーノ祈祷所がありましたが、それが前身です。同祈祷所は、16世紀後半に火事に遭い、焼失してしまいました。


6
建物が再建されることになりましたが、それを機に教会への格上げすることが決まりました。
建築家で画家でもあるアレッサンドロ・ピエロニ(インプルネータ,1550-リヴォルノ、1607)が起用され、アレッサンドロの設計によって、1607年から1611年に建設されたバロック様式の教会です。


16
1611年の完成時には、サンティ・マドンナ・フランチェスコ・コジモ・エ・ダミアーノ教会と呼ばれていました。
1638年までに修道院の建物が完成すると共に教会の建物が拡張されましたが、それを機にマドンナ修道院教会と改称されました。


7
1860年の修復では建物の一部が改造されたものの、1638年の姿を保っていたそうです。


8
第二次世界大戦の爆撃によって、建物が崩落してしまったので、戦後に再建された建物です。2013年に漸く完成したファサードは元の姿とは非常に異なるそうです。


43
マドンナ教会の鐘楼です。


17
教会内に入りました。


18
単廊式のシンプルな構造の内部です。


19
建物は新しいのですが、祭壇画や彫刻などは爆撃にも拘らず修復が可能な状態で残されて、幸運にも今なお見ることが出来ます。


21
磔刑の礼拝堂です。


29
磔刑礼拝堂の「磔刑像」はフェルディナンド・タッカ(フィレンツェ、1619-1686)の帰属作品です。


22
1620年頃に制作された主祭壇


23
主祭壇のタベルナコロ(1620c)


24
フランス国民の礼拝堂です。


25
フランス国民礼拝堂の祭壇画です。


26
マッテオ・ロッセッリ(フィレンツェ、1578-1650)の「聖ルイージ」(1613-14)
聖ルイージは、フランス王ルイ9世(1214-1270)のことです。この作品はトスカーナ大公コジモ2世から1615年に寄贈されたものです。


27
オランダのマレマン礼拝堂です。


28
マレマン礼拝堂の祭壇画は、ドメニコ・プリアーニ(ヴァーリア、1589-フィレンツェ、1658)の「聖アンドレアの殉教」


30
マドンナ・ディ・モンテローネ礼拝堂です。


20
マドンナ・ディ・モンテローネ礼拝堂の「聖母子」(詳細不知)


31
マドンナ・ディ・モンテローネ礼拝堂側壁に置かれた、逸名画家作「アヴィーラの聖テレーザ」(18世紀)


32
マドンナ・ディ・モンテローネ礼拝堂側壁に置かれた、逸名画家作「無原罪の御宿り」


33
ブイエーリ礼拝堂です。


34
ブイエーリ礼拝堂の祭壇画は、トスカーナの逸名画家による「ピエタ](1733)です。


35
コルシカ礼拝堂の祭壇画:フランチェスコ・クッラディ(フィレンツェ、1570-1661)の「天上の聖母子と聖ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ(福音書記者聖ヨハネ)」(1629)


36


37


38
シチリア・スペイン礼拝堂


39
「聖母子」(詳細不知)


40
Alberto Carliniの「フランチェスコ会衆の奇跡](1750-75c)
Alberto Carliniという画家についてはまったく知りません。


41
外に出ます。


42
(つづく)

1引き続き後陣祭壇のイコンです。


2
祭壇ドアにもイコンがあります。


3
逸名画家による「受胎告知」(1750)


4


5


6
Antimos Kolasの「祈るキリスト」(1610)


7


8


9
Antimos Kolasの「聖母子](1610)


10


11


12


13
プレデッラ


14


15
Porta


16


17
逸名画家による「羊飼いの礼拝](1750)


18
Porta


19


20


21
逸名画家による「マギの礼拝](1750)


22


23
左右の側壁に置かれたイコンを見ます。


24
「聖母子と聖ジョヴァンニ・バッティスタ」(制作者等詳細不知)


25


26
「受胎告知」(制作者等詳細不知)


27


28


29
「聖母子」(制作者等詳細不知)


31
「聖人」(制作者等詳細不知)


32
聖人は特定されていません。


33
「聖スピリドーネ」(制作者等詳細不知)


34


35
アンドレア・ヴァッカ(カッラーラ、1660-1745)の彫刻(1708-10)
アンドレア・ヴァッカの彫刻数点が教会内に置かれてます。これらの彫刻は第二次世界大戦の爆撃によって破壊されたファサードにありました。戦後、ファサードが新造再建されたことに伴い、崩落した元のファサードにあった彫刻が教会内に置かれるようになりました。


36
アンドレア・ヴァッカ(カッラーラ、1660-1745)の彫刻(1708-10)


37
アンドレア・ヴァッカ(カッラーラ、1660-1745)の彫刻(1708-10)


38


40
「聖母子」(詳細不知)


39
外に出ます。


41
(つづく)

1マドンナ通りです。


2
マドンナ通りに面して教会が建ってます。


3
統一ギリシャ教会、またはサンティッシマ・アンヌンツィアータ教会と呼ばれてます。


4
16世紀後半、多くのギリシャ人がリヴォルノに定住するようになり、市壁外にギリシャ人集落を作るようになりました。集落の信仰の場として、直ぐにギリシャ正教の小さなサン・ヤコポ礼拝堂が建設されましたが、それが前身です。


5
16世紀末、当時のトスカーナ大公フェルディナンド1世・デ・メディチ(フィレンツェ、1549-1609)は、市壁内のマドンナ通りにギリシャ人のための教会建設を認めると共に、現在、教会が建っている場所を与えました。


6
そうして、建築家であり画家でもあったアレッサンドロ・ピエロニ(インプルネータ、1550‐リヴォルノ、1607)の設計によって、1601年から1606年に建設されたバロック様式の教会です。
ファサードは、教会の建物の完成後の18世紀前半に建設されました。


11
しかし、第二次世界大戦中に爆撃を受け、建物の一部を除き崩壊してしまったので、戦後に元の姿を模して再建されました。


7
ファサードの再建工事が2012年に漸く終わりました。現在の教会の外観は、2012年のファサード完成後の姿となってます。


8
ファサードの受胎告知の浮彫


10
メディチ家の紋章


12
こちらの鐘楼は、直ぐ傍にあるマドンナ教会のものです。


9
この街の教会の中で、必見の教会の一つでしょう。


13
中に入りました。


14
単廊式、バロック様式の内部です。


15
一部を除き、戦後に再建された内部です。


16
イコンの宝庫です。第二次世界大戦の爆撃で損傷を受けましたが、戦後に大掛かりな修復を受けて、再生されたイコンです。


17
木製の天井と天井装飾


18


19
「キリストの神殿奉献」の祭壇画


20
制作者、制作された時代などの詳細が不明です。


21
主祭壇は、ギリシャ人画家Antimos Kolasによって1610年頃に制作されました。


22


23


24


25


26


27


28


29


30


31


32
磔刑の下段にイコンが左右に並んでます。


33
磔刑下のイコンは、ギリシャの逸名画家?によって1640年から1643年に制作されました。


34


35


36


37


38


39


40
(つづく)

1第二次世界大戦後、都市計画に基づいて復興された街並みです。


2
共和国広場に向かいます。


3
共和国広場にやってきました。


4
中心部と19世紀に造成された地区を結ぶ広場として、19世紀前半に作られました。市内の主要道路を結んでます。


5
リヴォルノは、かってトラム路線が充実していましたが、現在、トラムが残されてません。トラム・システムの中心が共和国広場で、大きなターミナルがありました。


6
共和国広場の場所は、かって港の一部でした。


7
共和国広場は埋め立てではなく、実は巨大な橋というべきもので、広場の下は海水です。


8
共和国広場に2つのモニュメントがあります。


9
「トスカーナ大公フェルディナンド3世・ハプスブルク=ロレーヌ(フィレンツェ、1769-1824)のモニュメント」


11
フェルディナンド3世のモニュメントは、フランチェスコ・ポッツォ(ポルトフェッライオ、1790-フィレンツェ,1844)によって、1847年に制作されました。


18
フェルディナンド3世のモニュメント台座の浮彫


10
フェルディナンド3世の台座


12
もう一つは、「レオポルド2世(フィレンツェ、1797-ローマ、1870)のモニュメント」です。
レオポルド2世は、フェルディナンド3世の息子です。


13



14


16


15


17
共和国広場の先に要塞(新要塞)があります。


19
新要塞 Fortezza Nuovaには午後に行きました。


20
共和国広場の直ぐ傍に水道タンクがあります。


21
市壁(城壁)外にある水道タンク Cisternoneと区別するためにCisternino (di Citta)と呼ばれてます。


22
パスクゥアーレ・ポッチャンティ(ビビエーナ、1774-フィレンツェ、1858)によって、1837年に創建され、1848年に完成しました。


23
折角完成した水道タンクですが、一度も使用されずに現在に至ってます。


24
水道タンクの後部


25
1840年頃、新要塞の一部解体と共和国広場の造成が決まりましたが、それに伴って、Cisternino di Cittaに通す水道化の敷設が技術的に困難になったので、使用が断念されたそうです。


26
現在は、市当局所有の建物として、様々な用途に使用されてます。


29
リヴォルノ出身の画家ジョヴァンニ・ファットーリ(リヴォルノ、1825‐フィレンツェ、1908)のモニュメントが水道タンクの前にあります。


27
映画館だったTeatoro Lazzeriの建物です。2008年、本屋さんが買収しましたが、イタリアでも本屋さんの経営が難しいようで、2015年に閉店となり、現在はレストランなどになっているようです。


28
新しい建物が続きます。


30
Palazzo del Picchettoです。


31
リヴォルノ港の貿易と軍事の重要門だったピサ門を警護する兵士のための兵舎として建設されました。


32
ピサ門は、19世紀半ばに破壊されて現存しません。これはピサ門のエッチングです。


33
第二次世界大戦で破壊を免れた、数少ない建物の一つです。


34
Palazzo del Picchettoの碑文


35
メディチ家の紋章があります。


36


37
扉上の装飾


38
建物内部に崩落があって、危険と判断されて使用が中止されていたPalazzo del Picchettoですが、2016年に不法占拠されていました。2019年に不法占拠者が警察によって退去させられました。
大掛かりな修復工事が必要とされていますが、資金難のため工事が具体的になっておらず、先行きが悲観視されているようです。


39
この通りには面白い建物がありません。


40
(つづく)

2前泊地はグロッセートでした。


1
グロッセート駅から列車でリヴォルノに向かいます。


3
ピサ中央駅行普通列車に乗り込みます。


43
車内は非常に空いてました。


4
リヴォルノ駅に到着しました。


5
リヴォルノ駅の駅舎です。


6
先ず、この日のお宿に向かいました。


7
この日のお宿です。コロナのせいなのか、現在は廃業?


8
大きな荷物を、この日のお宿に預かってもらい、身軽になったので、早速外出しました。


9
チェントロ・ストーリコに向かいます。


10
鉄道駅から旧市街まで、約1㎞の距離でしょうか。何時ものように徒歩です。


11
リヴォルノは、人口153,443人(2022年4月30日現在)のトスカーナ州リヴォルノ県の県都です。フィレンツェ、プラートに次いで、トスカーナ州で三番目に人口が多い街です。
アルノ川河口のピサは海洋都市として栄えましたが、アルノ川の土砂堆積によって港としての機能が衰退すると共に、その重要性が増していったのがリヴォルノ港でした。トスカーナ大公国の貿易港としてメディチ家、その後を継いだロレーヌ家によって港は整備されました。
イタリア統一後、リヴォルノ港は海軍司令部が置かれ、最重要の軍事都市の一つとしてリヴォルノは発展を遂げました。
第二次世界大戦では、ドイツ海軍の重要港でしたから、連合国から徹底的に爆撃を受け、破壊されてしまいました。そのため、貴重な古い建物、美術品なども失われてしまい、美術的な見所には欠ける街となってます。


12
ペルティー二公園にやってきました。


13
建築家パスクゥアーレ・ポンチャンティ(ビビエーナ、1774-フィレンツェ、1858)の設計によって1830年から1854年に造園された公園です。


14
パスクゥアーレ・ポンチャンティ(ビビエーナ、1774-フィレンツェ、1858)の「女神ヒュギエイア像](1838c)


15
ペルティー二公園の近くに建っている建物です。


16
パスクゥアーレ・ポンチャンティ(ビビエーナ、1774‐フィレンツェ、1856)の設計によって、1829年から1842年に建設された新古典様式の水道タンクです。Cisternoneと呼ばれてます。


17
リヴォルノから18㎞離れた場所にコロニョーレというコムーネがありますが、コロニョーレは綺麗で豊富な水量の泉が湧いていました。その水をリヴォルノの水道水として利用するべく、1816年から水道橋の建設が開始されましたが、それに伴う水道タンクがこの建物になります。


18
水道橋は、1912年まで使用されました。


19
水道タンクは現在も使用されてます。


20
道路を挟んで水道タンクの向かいに教会があります。


21
サンタンドレア教会です。


22
市壁外にリヴォルノの墓地がありましたが、その場所にあったサンタンドレア教区教会が前身です。しかし、18世紀後半に新たに市営墓地が別の場所に開設されると、サンタンドレア教区教会は次第に廃れて、やがて放棄されてしまいました。


23
1806年に現在地の一角に小さな礼拝堂が建設されました。1840年、その礼拝堂の隣に神学校が創建されましたが、それを機に教会が建設されることになり、建築家ガエターノ・ゲラルディ(フィレンツェ、1799-1891)が起用され、ガエターノの設計によって、1850年に完成したのが新古典様式のサンタンドレア教会です。1887年に奉献式が執り行われたそうです。


24
私が中に入ったらミサ中でした。


25
単廊式の比較的新しい教会です。


26
美術的な見所はありません。


27
神学校だった建物に行きます。


28
神学校だっ建物で、現在は大司教館となってます。


29
大司教館の一部が教区博物館 Museo Diocesanoになってます。


30
この街では、唯一の見るべき場所なので、暇つぶしにどうぞ。


31
ジョッテスキ(ジョットの影響を受けた追随者)逸名画家による「二聖人」(1310c)


32
聖ヤコポ?


33
アゴスティーノ会殉教聖人?


34
トスカーナの逸名画家作「聖アガタ」(17世紀)


35
トスカーナの逸名画家作「磔刑」(1770-90c)


36
トスカーナの逸名画家作「無原罪の聖母と聖ピエトロと聖カテリーナ」(1770-90c)


37
交唱唱歌集


38


39
トスカーナの逸名画家作「聖ジローラモ」(17世紀後半)


40
式服


41


42
(つづく)

1「三聖人(聖ステファノ、聖マリア・マッダレーナ、聖アントニオ・アバーテ)」


2


3


4
「大天使聖ミケーレ」


5


6


7
「聖母子」


8


9


10
「聖母子」


11


12
「聖母子」


13


14


15
「受胎告知」


16


17


18
「聖ベルナルディーノの説教、聖人の遺体の移送」


19


20


21
「磔刑像」


22


23
「聖アントニオ・アバーテ」


24


25
「聖アンブロージョ」


26


27
「受胎告知」


28


29
「金庫」


30


31


32
テラスに出ました。


33
テラスからの景観


34


35


36


37


38


39


40
プッブリコ宮から外に出ました。


41
(おわり)

P2320616次はSala del Mappamondoの側壁のフレスコ画です。


P2320630
ロレンツォ・ディ・ピエトロ通称イル・ヴェッキエッタ(シエナ、1410‐1480)の「シエナの聖カテリーナ」(1460)


3
リッポ・ヴァン二(シエナ、1340‐1375活動記録)の「栄光のシエナ軍」


4


5
ソドマ(ヴェルチェッリ、1477‐シエナ、1544)の「べアート・ベルナルド・トロメイ」(1533)


6


7
制作者情報不知の「トリグランマ」


8


9
サーノ・ディ・ピエトロ(シエナ、1405‐1481)の「シエナの聖ベルナルディーノ」(1450)


40
次の部屋に入りました。


10
Sala del Noveです。


41
この部屋のフレスコ画は必見です。


11
シエナの模型が置かれてますが、その意味が私にはわかりません。


12
アンブロージョ・ロレンツェッティのフレスコ画で覆われてます。


13
アンブロージョ・ロレンツェッティ(シエナ、1290c‐1348)の「善政の寓意」(1338‐39)


14
善政の効果


22


15
田舎の善政の効果


16


17


18
アンブロージョ・ロレンツェッティ(シエナ、1290c‐1348)の「悪政の寓意」(1338‐39)


19


20


21


23


24


25


26


27


28


29


30


31
Sala del Pilastriです。


33
市立美術館の最奥の部屋となります。


32
彫刻、絵画などが展示されてます。


34
臨時の修復作業部屋になっていることがあり、作業中は立ち入り禁止となってます。作業していないときは中に入ることが出来ます。


35
「磔刑」


36


37
「彩色磔刑像」


38


39
(つづく)

1引き続きAnticappellaです。
タッデオ・ディ・バルトロ(シエナ、1362c‐1422)の「聖クリストフォロ」(1415c)


2
ドメニコ・ディ・ニッコロ(シエナ、1362‐1453)の「聖歌隊席の彫刻」(1415‐28)


3


26


4
タッデオ・ディ・バルトロ(シエナ、1362c‐1422)によって描かれたAnticappellaのフレスコ画


6


5


7


8


9


10


11


12


13


14


15


16


17
次はVestiboloです。


25


18
ショーケースの展示物


19
アンブロージョ・ロレンツェッティ(シエナ、1290c‐1348)の「聖母子」


20


27


24
ジョヴァンニ・ディ・トゥリーノ(シエナ、1385c‐1455以降没)の「双子と雌狼」(1429‐30)


21


22


23
Vestiboloから見た礼拝堂


28
Sala del Mappamondoに入りました。市立美術館の最大の見どころの部屋です。


29
シモーネ・マルティーニの「マエスタ(荘厳の聖母)」をまず見るべきでしょう。
写真付加のマークがありますが、2014年頃から写真可(ノーフラッシュ)となりました。


30
シモーネ・マルティーニ(シエナ、1284c‐アヴィニョン、1344)の「マエスタ」(1312‐15)


31


32


33


34


35
Sala del Mappamondoの「マエスタ」の対面にある壁です。


36
この壁にもフレスコ画が描かれてます。全部で4場面ありますが、左右両端下のフレスコ画は同じ画家によって制作されましたが。最上段とその下段中央の制作者は異なります。


37
最上段は、シモーネ・マルティーニの「グイドリッチョ・ダ・フォリアーノの騎馬像」と言いたいところが、実は異なります。


38
1330年頃にシモーネ・マルティーニ(シエナ、1284c‐アヴィニョン、1344)によって描かれた「グイドリッチョ・ダ・フォリアーノの騎馬像」がこの場所にありましたが、15世紀に劣化してしまい(劣化の理由は不明)、当時の画家によってリメイクされたフレスコ画が現存しているのです。
リメイクした画家については不明とされてます。


39
ソドマ(ヴェルチェッリ、1477‐シエナ、1549)の「聖アンサーノ」(1530)


40
下段中央は、ドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャ(シエナ、1255c‐1318/1319)の「城の区画」(1314)


41
ソドマ(ヴェルチェッリ、1477‐シエナ、1549)の「聖ヴィットーレ・センプレ」(1530)


42
(つづく)

1次は礼拝堂です。


2
美術的に礼拝堂は必見です。


3
礼拝堂の壁一面にフレスコ画が描かれてます。


5
素晴らしい礼拝堂の祭壇画はフレスコ画ではありません。


4
ソドマ(ヴェルチェッリ、1477‐シエナ、1549)の「聖家族と聖レオナルド」(1530)
元々はドゥオーモにありましたが、17世紀にプッブリコ宮礼拝堂に相応しい祭壇画が必要という理由で移されたそうです。


6
礼拝堂のフレスコ画は、タッデオ・ディ・バルトロ(シエナ、1362c‐1422)によって、1406年から1408年に制作されたそうです。


7
タッデオ・ディ・バルトロ(シエナ、1362c‐1422)の「聖母の死」


11
天井のフレスコ画「音楽天使たち」


8
天井のフレスコ画もタッデオ・ディ・バルトロの作品です。


18


9
タッデオ・ディ・バルトロ(シエナ、1362c‐1422)の「聖母の遺体の移送」


10
タッデオ・ディ・バルトロ(シエナ、1362c‐1422)の「聖母の使徒たちとの暇乞い」


12


13


14


15


16


17


19
タッデオ・ディ・バルトロ(シエナ、1362c‐1422)の「聖ジョヴァンニ・バッティスタ」


20
タッデオ・ディ・バルトロ(シエナ、1362c‐1422)の「聖アゴスティーノ」


21


22


23
タッデオ・ディ・バルトロ(シエナ、1362c‐1422)の「聖母への死のお告げ」
「受胎告知」と混同しないようにしましょう。
死のお告げをする大天使は聖ミケーレです。


24
聖歌隊席です。


25
聖歌隊席の彫刻は見逃せません。


26


27


28


29


30


31


32


33


34
礼拝堂からAnticappelleに出ました。鉄柵の左が礼拝堂になります。


37
Anticappella(古代礼拝堂)の案内板


35
ここの壁もフレスコ画で覆われてます。


36
Anticappellaのフレスコ画もタッデオ・ディ・バルトロによって描かれました。


38
タッデオ・ディ・バルトロ(シエナ、1362c‐1422)の「聖クリストフォロ」(1415c)


39


40


41
(つづく)

1次の部屋です。


2
Anticamera del Concistoroです。


3
プッブリコ宮にあったものではなく、他の場所から集められた雑多なものが展示の中心です。


4
14世紀後半のシエナ派逸名画家による作品です。


5
上のフレスコ画のシノピエ


7
「聖母子とアレッサンドリアの聖カテリーナと聖人」(14世紀末)


6


8
マッテオ・ディ・ジョヴァンニ(ボルゴ・サン・セポルクロ、1428c‐シエナ、1495)の帰属作品です。


15
「聖母子」(1470)


16
聖母の顔がマッテオの描く聖母に酷似しているので、マッテオの真作と思います。


9
アンブロージョ・ロレンツェッティ(シエナ、1290c‐1348)に帰属する「三聖人と寄進者」


17
三聖人は、左から聖アゴスティーノ、聖ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ、アレッサンドリアの聖カテリーナです。


10
制作者情報不知の「聖母子と聖人たち」


18


11
15世紀のシエナ派逸名画家作「聖セバスティアーノ」


20


12
15世紀のシエナ派逸名画家作「聖母子」


21


13
マルティーノ・ディ・バルトロメオ(シエナ、1370/1375c‐1434c)の「聖パオロ」


19
これは移設されたフレスコ画ではありません。


14
14世紀のシエナ派逸名画家作「聖母子と二聖人」


31


22
次の部屋の天井です。


23
Concistoroです。


24
Concistoroの天井フレスコ画は、ドメニコ・ベッカフーミ(モンテアペルティ、1486‐シエナ、1551)によって1529年から1535年に描かれました。


25
フレスコ画のテーマは、共和政時代のローマの逸話となってます。


26


27


28


29
ルカ・ジョルダーノ(ナポリ、1634‐1705)の「ソロモンの判決」(1680c)


30
「ソロモンの判決」は、Concistoroの出入り口扉の上にあります。


32


33


34


35


36


37


38


39


40
(つづく)

P1390292次の部屋です。


P1390290
Sala di Baliaです。


P1390285
部屋の壁全体がフレスコ画で覆われてます。


P1390286
天井以外のフレスコ画は、スピネッロ・アレティーノ(カポロナ、アレッツォ、1350c‐アレッツォ、1417)とスピネッロの息子パッリ・スピネッリ(アレッツォ、1387c‐1453)の父子によって、1407年から1408年に制作されました。


P1390287
フレスコ画のテーマは、シエナ出身の第170代教皇アレッサンドロ3世・ロランド・バンディネッリ(シエナ、1100c‐チヴィタ・カステッラーナ、1181 教皇在位:1159‐1181)の生涯の物語となってます。


P1390288
アレッサンドロ3世の生涯が13場面に渡って描かれてます。


P1390289
アレッサンドロ3世の生涯については全く知識がないので、各場面の意味するところが分かりません。


P1390291
ここで買い求めた本に各場面の詳述があるのですが、アレッサンドロ3世のことを知りたいとも思わないので、訳す気がしません。


P1390292


P1390293


P1390294


P1390295


P1390296


P1390297


P1390298


1


2
四福音書記者などの天井のフレスコ画


3
天井のフレスコ画は、マルティーノ・ディ・バルトロメオ(シエナ、1370/1375c‐1434c)によって、1408年に描かれたそうです。


4
フレスコ画は比較的色鮮やかなので、近年に修復されたのでしょう。


5


6


7


8


9


10


11


12


13


14


15


16


17


18


19


20


21


22


23


24


25


26


27
(つづく)

1「聖家族と天使」


2
複製画です。


3
「聖ステファノの殉教」


4


5
「聖母子と聖ジョヴァンニーノ」


6
聖ジョヴァンニーノとは、幼き洗礼者ヨハネのことです。


7


8
「聖ガルガーノ」


9


10
「フォンテブランデの景観」


11
Fontebrandeはシエナにある噴水の一つです。シエナ城壁内の北部Terzi地区に噴水があります。


12
「クロドヴェオの戦い」


13


14


15
「シエナの聖ベルナルディーノと寄進者」


16


17
「農民を蛙に変えるロトーナ」


18


19
「紋章」


20


21
「プッブリコ宮正門扉」


22


23
「紋章」


24


25
次の部屋です。


37
Sala del Risorgimentoです。(イタリア国家統一独立運動の間)


26
「ガリバルディ将軍像」


27


28
「ヴィットリオ・エマヌエーレ2世が着用していた軍服」


29
「ソロモン」


30


31
「バルダッサレ・ペルッツィ像」


32


33
「若い女性」


34


35
「ヴィットリオ・エマヌエーレ2世の肖像」


36


37


38


39


40


P1390401


P1390402
(つづく)

1「ライオン像断片」


2


3
「柱を支えるライオン像」


4


5
「フォンターナの口」


6


7
「柱を支えるライオン像」


8


9
「磔刑」


10


11


12
「盾」


13


14
「墓石」


15


16
「フランチェスコ・ディ・チェッコの墓石」


17


18
「フランチェスコ・キャントゥッチの墓」


19


20
「双子と雌狼」


21


22
次の部屋です。


23
陶器類の展示


24
「キリストの前で朗読するシエナの聖カテリーナ」


25


26
「ご訪問」


27


28
「聖パオロ」


29


30
「聖ガルガーノ」


31


32


33
「我に触れるな」


34


35


36
「十字架を担ぐキリスト」


37


38


39
「リッカルド・ペトラーニ枢機卿の遺体の移送」


40


41
(つづく)

1000「父なる神」


1001


1002
「聖セバスティアーノ」


1003


1004
「聖母子」


1005


1006
「聖セバスティアーノ」


1007


1008
「寓意的人物」


1009


1010
「寓意的人物」


1011


1012
ドメニコ・ベッカフーミ作品の複製画です。


1013


1014
「11月の寓意」


1015


1016
「1月の寓意」


1017


1018
「聖母子と聖ジョヴァンニーノと聖エリザベッタ」


1019


1020
「チントラの聖母」


1021


1022


1023
「聖母子と聖ジョヴァンニーノとシエナの聖ベルナルディーノと聖人」


1024


1025
「5月の寓意」


1026


1027
「6月の寓意」


1028


1029


1030
「9月の寓意」


1031


1032
「10月の寓意」


1033


1034


1035
「聖アンサーノ」


1036


1037
「燭台」


1038


1039
「バスタブ」


1040
(つづく)

P1390243「聖母子と二天使」


P1390245


P1390244


P1390246
「聖母子と聖アンナ」


P1390248


P1390247


P1390249
「ピエタ」


P1390251


P1390250


P1390253
「磔刑」


P1390254


P1390252


P1390255
「聖母子と聖人たち」


P1390257


P1390256


P1390258
「聖母子と聖ジョヴァンニーノと二聖人」


P1390260


P1390259


P1390261
「聖母子と聖人たち」


P1390263


P1390262


P1390264
「シエナの聖カテリーナの神秘な結婚」


P1390266


P1390265


P1390268
「聖母子」


P1390272


P1390267


P1390269
「ピエタ」


P1390270
「聖ロレンツォ」


P1390271
「聖ステファノ」


P1390273
「聖オノフリオ」


P1390281


P1390274


P1390275
「聖母子」


P1390277
「ピエタ」


P1390278
「聖アンドレア」


P1390276


P1390279


P1390280


P1390282
「聖母子と二天使」


P1390284


P1390283
(つづく)

P1390201カンポ広場に入ります。


P1390202
シエナに来たならば、この場所に必ず訪れます。


P1390203
マンジャの塔が目に飛び込んできます。


P1390204
カンポ広場です。


P1390205
見覚えのある広場に面した建物。


P1390207
数えきれないほど何度も来ているシエナです。


P1390440
ガイアの泉


P1390441


P1390442


P1390443


P1390216


P1390210
プッブリコ宮に向かいます。


P1390206
プッブリコ宮です。


P1390209
ゴシック様式のプッブリコ宮は、政庁舎として1297年から1310年に建設されました。


P1390213
現在も市庁舎として使用されてます。


P1390214
市庁舎の一部がMuseoとして一般公開されてます。


P1390215
シエナ市立美術館については、すでに詳しく書きました。ご興味のある方は、そちらをご参照いただければ幸いです。


P1390217
プッブリコ宮の壁に描かれたフレスコ画が見所です。


P1390220
修復中の板絵などを除いて、展示作品の差し替えが殆どありません。


P1390221
マンジャの塔に上ることが出来ます。


P1390445
マンジャの塔は、市立美術館には含まれていません。塔に上るには別に料金が必要です。


P1390222


P1390227
プッブリコ宮に向かいます。


P1390228
ロッジャとなっているCappella della Piazzaです。


P1390232
Cappella della Piazzaです。


P1030908


P1030905
柱の彫刻が見事です。


P1030904


P1030906
フレスコ画は聖母子?


P1030921
中庭に入りました。


P1030917
切符売り場と間違える人が多いようです。


P1030918


P1030919


P1030920


P1030922


P1030924


P1030925


P1030927
中庭から広場が見えます。


P1030926
入館します。


P1390240
「聖家族とシエナの聖カテリーナ」


P1390242


P1390241
(つづく)

476「堕天使を駆逐する大天使聖ミケーレ」


480


477


481
「リンボのキリスト」


484


483


485
「園の祈り」


488


487


489
「聖家族と聖ジョヴァンニーノ」


492


491


494
「リンボのキリスト」


497


496


498
「ヴィットリア・デッラ・ローヴェレの肖像」


500


499


501
「ダンテとヴェルジリオ」


504


502


10117
「聖母被昇天」


10118


10119
「マギの礼拝」


10120


10121
女性の肖像画


10122


1904
外に出ました。


1905
日没を過ぎていました。


P1410801
(おわり)

425「砂漠の聖ジョヴァンニーノ」


427


426


428
「シエナの聖カテリーナの神秘な結婚」


431


429


434
「アレッサンドリアの聖カテリーナの殉教」


435


432


436
「復活したキリスト」


438


437


439
「銭の貢ぎ」


442


441


443
「無原罪の聖母」


446


444


447
「ピエタ」


449


448


450
「聖母子とシエナの聖ベルナルディーノとシエナの聖カテリーナ」


453


451


454
「聖母子」


457


456


460
「改悛の聖フランチェスコ」


462


461


463
「フランチェスコ・ヴァン二の自画像」


465


464


467
「父なる神とキリストと聖母マリア」


470


468


471
「天上の聖母子と信者たち」


473


472


474
「悲しみの聖母」


475
(つづく)

370「光悦のべアート・ジョヴァッキーノ・ピッコロミーニ」


373


371


374
「聖マッテオ」


376


375


377
「トリグランマをデザインするシエナの聖ベルナルディーノ」


380


379


381
「シエナの聖カテリーナ」


383


382


384
「砂漠の聖ジョヴァンニーノ」


386


385


387
「聖母子と天使と聖女」


389


388


390
「聖家族と聖ジョヴァンニーノ」


392


391


393
「スザンナの水浴」


397


395


398
「聖母戴冠」


402


400


403
「聖アンサーノの殉教」


407


405


408
「聖サヴィーノの幻視」


412


409


413
「聖ジャコモ・ミノーレの殉教」


417


416


418
「カルメル会聖人」


420


419


421
「聖アグネーゼ」


424


423
(つづく)

10086
「四人の頭」


344


10087
「Partenza da Canaan」


10088


10089
「死せるキリストを支えるジュゼッペ・ダリマテア」


10090


10091


10092
「聖フランチェスコ」


10093


10094
「男の肖像」


10095


10096
「フローラ」


10097


10098
「十字架降下」


10099


10100
「放蕩息子の帰還」


10101


10102
「イサクの犠牲」


10103


10104
「男女の頭」


10105


10106
「この人を見よ」


10107


353


10108
「聖ルチア」


10109
10109


10110
「プットたち」


10111


357


10112
「聖母子と天使と聖女」


10113


388


10116
「聖ジャコモの説教」


10115


10114
詳細不知


362
「リュート弾き」


365


364


366
「シエナの聖ベルナルディーノ」


369


367
(つづく)

321「平和の寓意」


322


10062


323
「聖家族と聖ジョヴァンニーノ」


326


325


327
寓意画です。


331


328


329
寓意画です。


330


332
これも寓意画です。


334


333


335
「聖ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ(福音書記者聖ヨハネ)」


338


337


10063
「聖ジローラモ」


341


10064
「ニッコロ・ブオンシニョーリの肖像」


10065


10066
カラヴァッジェスキ逸名画家の作品です。


10067


10068


10069


10070


10071
「聖ジローラモ」


10072


10073
「聖オルソラ」


10074


10075
「男の肖像」


10076


10077
「女性の肖像」


10078


10079
「聖女」


10080


10081
「ミネルヴァの扮したマリア・デ・メディチの肖像」


10082


10083
「バテシバの水浴」


10084


10085
(つづく)

266「聖家族とシエナの聖カテリーナ」


268


267


273
「荊刑のキリスト」


272


274


275
「アレッサンドリアの聖カテリーナ」


278


276


279
「聖マリア・マッダレーナ」


281


280


282
「ご誕生」


285


283


286
「聖母子と聖ジョヴァンニーノとパドヴァの聖アントニオ」


289


288


290
「十字架降下」


303


292


293
メインパネル


295
プラデッラ


296


298


300


302


294


10059
「聖ピエトロの逆さ磔」


306


10060
「教皇アレッサンドロ3世・バンディネッリ」


309


310
「聖母の教育」


313


312


314
「Ghismunda」


316


315


317
「聖マリア・マッダレーナ」


319


318


10061
(つづく)

217「聖母子と二聖人」


219


218


220
「聖ロッコ」


221


222
「ピエタのキリスト」


224


225
「聖母の誕生」


227


226


228
「キリストの洗礼」


230


229


231
ジョルジョ・ディ・ジョヴァンニの4作品


233


232


236
「聖母戴冠」


237


234


241
ドメニコ・ベッカフーミのカルトーネ


242


243


245


244


246
「聖アントニオ・アバーテ」


248


247


249
「聖母子」


250


251
「ピエタのキリスト」


253


252


254
「聖アントニオ・アバーテ」


255


256
「磔刑」


259


258


10058
3点の彫刻


261


262
「受胎告知とご訪問」


265


264
(つづく)

172「聖母子」


174


173


175
「聖ガルガーノ」


178
表裏両面に描かれてます。


177


179
裏面の聖アゴスティーノ


181
「聖パオロ」


184
表裏両面に描かれてます。


182
裏面のピエタのキリスト


180


183


185
「トリッティコ」


187


186


188
「聖痕を受けるシエナの聖カテリーナ」


195


189


191
メインパネル


192
裾絵


193


194


196
「ヴィーナス」


199


198


200
「聖家族と聖ジョヴァンニーノ」


203


202


204
ドメニコ・ベッカフーミの4作品


207


206


208
「アレッサンドリアの聖カテリーナの神秘な結婚」


210


209


211
多翼祭壇画の左右両端の聖人たち


213
左右両端は、Pilastriniと呼びます。覚えておきましょう。


212


214
「聖母子と二聖人」


216


215
(つづく)

134「エルコーレとオンファレ」


10052


135


130
「改悛の聖マリア・マッダレーナ」


10053


131


137
「聖母戴冠」


10054


139


138


141
「羊飼いの礼拝」


143


142


144
彫刻の展示室です。


145


146


147
彫刻の展示室からの景観


149


150


151


152


154


153


155
「玉座の聖母子と聖人たち」


158


157


156


159
「シエナの聖カテリーナ」


161


160


162
「聖母子と二聖人」


164


163


165
「三位一体のトリッティコ」


10055


166


167


10056


169
「聖母子」


10057


170
(つづく)

81「キリストの昇天」


84


83


85
「聖母戴冠と四聖人」


10051


86


90
「聖母被昇天」


93


92


94
「ご訪問」


97


96


98
「トロイアからのエネアの脱出」


101


100


102
「ハンニバルの前のクゥイント・ファビオ・マッシモの息子」


105


103


106
「ご訪問」


111


107


108


109
大天使聖ミケーレ


110
聖フランチェスコ


112
「公正」


114


113


115
「信念」


117


116


118
「羊飼いの礼拝」


120


119


121
「La Fortezza」


123


122


124
「羊飼いの礼拝」


126


125


127
「慈愛」


129


128
(つづく)

30「聖母子と聖ジョヴァンニーノ」


33


31


34
「天国」


37


35


38
「聖母子と聖ジョヴァンニーノ」


41


39


42
「聖母子とシエナの聖カテリーナと聖ジョヴァンニーノ」


45


44


46
「キリストの復活」


50


48


49


51
「聖母子」


54


53


55
「聖家族と聖エリザベッタと聖ジョヴァンニーノ」


58


57


59
「ご誕生」


62


61


63
「聖母子と聖マリア・マッダレーナと聖アントニオ・アバーテ」


66


64


67
「玉座の聖母子と二聖人」


77


68


69
メインパネル


71
ルネッタのピエタのキリスト


73
裾絵


74


75


76


70


78
「聖母子」


80


79
(つづく)

1870
「Il diluvio di Deucalione」


1873


1872


1874
「エウロパの強奪」


1875


1876
「Il serpente di bronzo」


1878


1877


1879
「悲しみの聖母」


1880
「荊刑のキリスト」


1881


1882
「受胎告知」


1884


1883


1885
「十字架を崇める聖フランチェスコ」


1887


1886


1888
「若い男の肖像」


1890


1889


1891
「ソフォニスバ・アングイッソーラの肖像画を描くベルナルド・カンピ」


1893
自分の肖像画を描く師匠の肖像画を描いているわけです。


1892
つまり、自画像と師匠の肖像画というわけです。


1894
「男の肖像」


1896


1895


1897
「井戸のサマリア女」


1898


1899
「スパンノッキ家の紋章」


1900


1901
「寓意画」


1903


1902
下の展示階に移動します。


20
「受胎告知」


10050


21


23
「聖母子と四聖人」


25


24


26
「幼きキリストへの崇拝」


29


28


27
(つづく)

1826「聖母子と二信者」


1828


1827


1829
「シエナの聖カテリーナ」


1831


1830


1832
「アレッサンドリアの聖カテリーナの神秘な結婚」


1834


1833


1835
「聖家族と聖ジョヴァンニーノ」


1838


1837


1839
「スザンナの水浴」


1841


1840


1842
「若い男の肖像」


1844


1843


1845
「Madonna della pappa」


1846
pappaという単語は、流動食とか売春宿という意味です。


1849
「男の肖像」


1851
肖像画の大家モローニの作品です。


1850


1853
「受胎告知」


1855


1854


1856
「聖家族と聖アンナと聖人たち」


1857


1858
「サロメ」


1859


1860
「聖会話」


1862


1861


1863
「羊飼いの礼拝」


1865


1864


1866
「トロイアからのエネアの脱出」


1867


1868
「十字架を担ぐキリスト」


1869

1779「聖ロレンツォ」


1781


1780


1782
「聖母戴冠」


1784


1783


1785
「十字架降下と玉座の聖母子と聖人たちの祭壇画」


1790


1791


1786


1787
十字架降下


1788
玉座の聖母子と聖人たち


1792
「パドヴァの聖アントニオ」


1794
「シエナの聖ベルナルディーノ」


1796


1793


1795


1797
「キリストの昇天」


1799


1798


1800
「ピエタのキリストを支える二天使」


1802


1801


1807
「Arliquiera」


1810
表裏両面に描かれてます。


1809


1811
裏面


1808


1812


1814
「花の静物画」


1815


1816
「プットたち」


1817


1818
「井戸のサマリア女」


1819


1820
「聖ジローラモ」


1822


1821


1823
「ご誕生」


1825


1824
(つづく)

1727「玉座の聖母子と聖人たち」


1735


1728


1730


1731
1731


1732
裾絵


1733


1734


1740
「聖母子」


1741


1745
「聖母子と二聖人」


1747


1746


1748
「受胎告知」


1750


1749


1751


1752


10049


10047


10048


1753
「聖パオロ」


1755


1754


1756
「聖バルトロメオ」


1758


1757


1759
「ピエタ」


1762


1760


1761


1763
「聖母子と聖人たち」


1766


1765


1767
「ドゥオーモのタベルナコロのモデル」


1770


1768


1772
「聖母戴冠」


1775


1774


1776
「カルヴァリオの丘」


1778


1777
(つづく)

1687「スクロフィアーノの祭壇画」


1700


1688


1690
聖母子


1691
聖ビアージョ、聖ジョヴァンニ・バッティスタ


1692
聖ロレンツォ、聖アナトリア


1693
クスピデ


1694
裾絵


1695


1696


1697


1698


1699


1701
「玉座の聖母子と四聖人」


1709


1702


1704
聖母子


1706
聖フランチェスコ、聖マルゲリータ


1707
アレッサンドリアの聖カテリーナ、シエナの聖ベルナルディーノ


1708


1710
「シエナの聖ベルナルディーノ」


1712


1711


1713
「聖母被昇天の多翼祭壇画」


1726


1714


1715
聖母被昇天


1716
アレッサンドリアの聖カテリーナ、聖ミケーレ


1717
聖ジローラモ、聖ペトロニッラ?


1718
プレデッラ


1719


1720


1721


1722


1723


1736
「聖母子と聖人たち」


1739


1737


1742
「シエナの聖ベルナルディーノ」


1744


1743
(つづく)

1642「聖母子と四聖人のポリッティコ」


1651


1644


1645
聖母子


1646
聖ドメニコ、聖ジローラモ


1647
聖アゴスティーノ、聖フランチェスコ


1648
クスピデの祈るキリスト


1649


1650


1652
「聖母戴冠」


1657


1653


1654
聖母戴冠


1655
聖フランチェスコ、聖ジローラモ


1656
シエナの聖ベルナルディーノ、聖アゴスティーノ


1659
「聖母子と聖人たちの多翼祭壇画」


1667


1658


1660


1661


1662


1663
裾絵


1664
プレデッラのテーマは、聖コズマと聖ダミアーノの物語となってます。


1665


1666


1670
「サンタ・ボンダのポリッティコ」


1686


1672


1673


1674


1675


1676
クスピデ


1678
プレデッラ


1679


1680


1681


1682


1683


1684


1685
(つづく)

1601「聖痕を受ける聖フランチェスコ」


1604


1602


1605
「シエナの聖ベルナルディーノ」


1607


1606


1608
「聖痕を受ける聖フランチェスコ」


1610


1609


1611
「プレデッラ?の聖人たち」


1615


1612
左から聖ルドヴィーコ、聖バルトロメオ


1613
聖母、ピエタのキリスト、聖ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ


1614
シエナの聖ベルナルディーノ、聖アントニオ


1616
「玉座の聖母子と二聖人」


1618


1617


1619
「受胎告知と四聖人」


1621


1620


1622
「聖母からシエナの安寧を託される教皇カッリスト3世」


1625


1623


1626
「聖母子と四聖人のポリッティコ」


1631


1627


1628
聖母子


1629
聖ジローラモ、聖ジョヴァンニ・バッティスタ


1630
聖グレゴリオ、聖アゴスティーノ


1632
「聖母子と二音楽天使」


1634


1633


1635
「聖母子」


1638


1637


1639
「聖母子と二天使」


1641


1640


1668
「聖ジョヴァンニ・バッティスタ」


1669


10046
(つづく)

1560「聖セバスティアーノ」


1562


1561


1563
「玉座の聖母子と二聖人と二天使」


1565


1564


1566
「聖母子と二聖人」


1568


1567


1569
「聖母子と二聖人」


1571


1570


1572
「羊飼いの礼拝」


1574


1573


1575
「羊飼いの礼拝」


1577


1576


1578
「授乳の聖母と聖ジローラモと天使」


1580


1579


1581
「授乳の聖母と二聖人」


1583


1582


1584
「Desco da Parto」


1586
画題の適当な日本語訳が私にはわかりません。


1585


1587
プレデッラでしょうか?


1588


1589
聖バルトロメオの殉教


1590
ピエタのキリスト


1591
聖バルトロメオの斬首


1592
「聖バルトロメオと聖フランチェスコ」


1594


1593


1595
「聖母子」


1597


1596


1598
「聖母子」


1600


1599
(つづく)

1516「聖母子と四聖人」


1518


1517


1522
「聖母子と二聖人と二天使」


1524


1523


1525
「キリストの生誕」


1527


1526


1528
「聖母子と二聖人と二天使」


1530


1529


1531
「三聖人」


1534


1533


1532


1535
「聖母子と二聖人と天使」


1537


1536


1538
「聖母子と二聖人」


1540


1539


1541
「聖母子と六聖人」


1543


1542


1544
「聖母子と二聖人」


1547


1545


1548
「受胎告知」


1550


1549


1551
「受胎告知」


1553


1552


1554
「アレッサンドリアの聖カテリーナ」


1556


1555


1557
「羊飼いの礼拝」


1559


1558
(つづく)


1477「キリストの忍耐とキリストの審判」


1479


1478


1480
「聖母の神殿奉献」


1481
「割礼」


1482
「エジプトへの逃避」


1483


1484
「小マエスタのトリッティコ」


1485


1486


1487
「聖母子と二聖人」


1489


1488


1490
「聖母子と二聖人」


1492


1491


1493
「聖母子と二聖人」


1495


1494


1496
「玉座の聖母子と四天使」


1498


1497


1499
「聖母子」


1501


1500


1502
「聖母子と天使」


1504


1503


1505
「聖母子と二聖人」


1507


1506


1510
「聖母子と四聖人」


1512


1511


1513
「聖母子と四天使」


1515


1514


1520
「プット」


1521


1519


1508
「聖母子と二聖人」


1509
(つづく)

1440「聖ドメニコ」、「聖ジョヴァンニ・バッティスタ」


1442


1441


1443
「ウミルタの聖母」


1445


1444


1446
「聖二コラ?」


1448


1447


1449
「キリストの神殿奉献」


1452


1451


1453
「マエスタ」


1458


1454


1456
受胎告知


1457
玉座の聖母子と聖人たち


1459
「アルテ・デッラ・ラーナの祭壇画」


1461


1460


1462
「聖母子と四聖人」


1470


1469


1463


1465
玉座の聖母子


1466
聖ドメニコ、聖トンマーゾ


1467
聖キアラ、聖オルソラ


1468
父なる神


1471
「キリストの神殿奉献」


1473


1472


10038
「羊飼いの礼拝」


10039


10040
「マギの礼拝」


10041


10042
展示室からの眺め


10043


10044
「書斎の聖ジローラモ」


10045


1474
「ウミルタの聖母と天使たち」


1476


1475
(つづく)

↑このページのトップヘ