イタリア芸術を楽しむ

イタリアの魅力を味わい尽くすには、一生に何度旅をすれば足りるだろう。芸術の宝庫にして、歴史の生きた証であるイタリア。 惹き付けて止まない絵画、彫刻、歴史的建造物、オペラなど、芸術の宝庫であるイタリアを楽しむブログです。 記事は一日に一つアップしています。記事の見方ですが、例えば「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その4)」は2017年10月20日にアップしました。各記事にカレンダーが表示されてますが、カレンダー上の2017年10月21日をクリックして頂ければ「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その5)」になります。(その3)は2017年10月20日となります。 BY:シニョレッリ

カテゴリ: ロンバルディア州

1サン・フランチェスコ教会から外に出ました。


2
サン・フランチェスコ教会の前にある病院です。


4
15世紀に建設されたサント・スピリト修道院教会の複合施設です。修道院活動の一環として病院が設けられており、その病院が現在の病院の前身なので、ヴェッキオ病院と呼ばれてます。


3
今なお現役?の病院ですが、建物の一部に博物館が設けられてます。


5
病院の中庭です。元々は修道院のキオストロでした。


6
キオストロ回廊に薬局があります。


7
回廊にある銘板


8
薬局の天井や壁にフレスコ画があります。


9
これらのフレスコ画は、19世紀にジュリオ・チェーザレ・フェッラーリ(ボローニャ、1818-1899)によって描かれました。


10


11


12
ヴェッキオ病院の博物館


13
個人的には不気味な展示ばかりで、お勧めしません。


14
サント・スピリト教会です。


15
宗教活動はやっていないと思います。


16
教会の入り口


17
城壁(市壁)


18


19
聖母子のテラコッタがある建物


20
サン・ロレンツォ教会に向かいます。


21


22


23
サン・ロレンツォ教会です。


24
ファサード


25
鐘楼


26
入口扉上ルネッタにあるフレスコ画


27


28
教会内に入りました。


29


30
ローディでは最古の教会の一つです。


31
城に向かいます。


32


33
有名な門です。


34


35
Castello Visconteo


36


40
城の中には入れません。


37


38
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会


39
この辺にしておきます。
(ローディ編 終わり)

1引き続きサン・フランチェスコ教会です。


2
礼拝堂を回りながら、フレスコ画、祭壇画などを見ます。


3
主祭壇


4
贖いの聖母礼拝堂


5
磔刑礼拝堂


6
エネア・サルメッジャ通称イル・タルピーノ(ネンブロ、1565/1570‐ベルガモ、1626)の「聖痕を受ける聖フランチェスコ」


7
ジョヴァンニ・バッティスタ・トロッティ通称イル・マロッゾ(クレモナ、1555-パルマ、1619)の「パドヴァの聖アントニオとエゼリーノ・ダ・ロマーノの邂逅」


8
エネア・サルメッジャ通称タルピーノ(ネンブロ、1565/1570-ベルガモ、1626)の「聖母子」


9
次の礼拝堂


10
詳細不知


11


12


13


36
フランチェスコ・ソンチーニ(ローディ、16世紀後半活動)


37
聖フランチェスコ


38


14
聖ボナヴェントゥーラ


15


16
パドヴァの聖アントニオ


17


18


19


20


21
聖バルトロメオ


22
聖母子と聖ボナヴェントゥーラと信者


23


24


25
聖母子


26


27


28
聖母子


29


30


31
聖母子


32
聖母子


33
聖母子


34


35
聖痕を受ける聖フランチェスコ


39


40


41
(つづく)

1市立博物館に入館する前に、サン・フィリッポ・ネリ教会を拝観としたときの続きです。


2
セバスティアーノ・アレオッティ(フィレンツェ、1675-モンドヴィ、1741)の作品でしょうか?


3
セバスティアーノ・アレオッティの作品がある筈ですが・・・・


4
見つかりません。


5
カルロ・インノチェンツォ・カルローニ(スカリア・ディンテルヴィ,1687-1775)によって描かれた後陣天井のフレスコ画


6
カルロ・インノチェンツォ・カルローニのフレスコ画


7
カルロ・インノチェンツォ・カルローニのフレスコ画


8
カルロ・インノチェンツォ・カルローニのフレスコ画


9
一旦外に出ました。


10
市立博物館に入館しました。
この当時、写真禁止だったので作品写真がありません。今でも写真不可?


11
フランチェスコ・アイエツ(ヴェネツィア、1791-ミラノ、1882)の自画像があるようですが、覚えていません。


12
市立博物館から外に出ました。


13
次はサン・フランチェスコ教会ですが、写真に写っている教会のような建物ではありません。


14
修道院教会だった建物を利用した劇場です。こちらの方は外観は劇場に見えます。


15
こちらは完全に教会の建物です。


16
Teatro alle Vigneです。
サン・ジョヴァンニ・エ・オーニッサンティ・アッレ・ヴィンニェ修道院教会の複合施設が前身です。


17
サン・ジョヴァンニ・エ・オーニッサンティ・アッレ・ヴィンニェ修道院教会は、1810年に閉鎖され、その建物は倉庫、体育館として活用されました。
一方、ローディの劇場は別の場所にありましたが、建物が劣化したので、1939年に取り壊されたそうです。その後、小さな演奏会場が市庁舎内に設けられたまでした。ローディ市民はミラノに行けば、高品質の演劇やオペラを楽しむことが出来たので、地元の劇場に対する関心が低かったようです。
1975年、修道院教会だった建物を改造して劇場を造ることが決定され、1976年に改造工事が開始され、1985年から公演が開始されたそうです。


18
サン・フランチェスコ修道院だった建物にあるColleggio San Francescoです。保育園、幼稚園、小中学校、高校がある学校の複合施設です。学生のための寄宿舎もあるそうです。


19
サン・フランチェスコ教会にやってきました。


20
13世紀後半のローディ司教ボンジョヴァンニ・フィッシラガ(?、?‐ローディ、1289 ローディ司教の在位:1252-1289)の主導によって、1280年から1307年に建設されたゴシックロマネスク様式のサン・ニコロ教会が前身です。
ボンジョヴァンニ・フィッシラガ司教はローディの名門貴族フィッシラガ家出身だったことから、サン・ニコロ教会の建設と教会運営に当たって、フィッシラガ家が多大な寄付を行ったそうです。


21
1527年、フランチェスコ修道士会にサン・ニコロ教会の管理が委ねられ、教会名称がサン・フランチェスコ教会と変更されました。


22
しかし、教会の所有権はローディ司教が所有していました。今なお、ローディ司教が所有権を有する教会となってます。


23
ファサード下に柱廊付きの入口扉があります。


24
柱廊天井のフレスコ画


25
ローディのサン・フランチェスコ教会は、イタリアの国定記念物に指定されてます。


26
鐘楼


27
鐘楼は、現在のColleggio San Francesco(修道院だった建物)の方に立ってます。


28


29
翼廊外観


30
拝観します。


31
教会内に入りました。


32
三廊式、ラテン十字形、ゴシックロマネスク様式の内部です。


33
右側廊方向


34
美術的な見所はフレスコ画でしょう。


35
欠落しているフレスコ画が多いが、それでも、数多くのフレスコ画が残されてます。


36
各フレスコ画断片毎の作品帰属はよく分かっていないようです。


37
毎日開く教会なので、拝観しやいと思います。


38


39


40
(つづく)

41引き続きインコロナータ教会です。


42
次はオルガンです。


43
ルネサンス期の有名なオルガン師ドメニコ・ダ・ルッカによって1507年に制作されたオルガンがオリジナルです。


44
オリジナルのオルガンは経時劣化してしまったので、1775年にオリジナルのリメイクされたオルガンが制作されました。現在はこのリメイクされたものが使用されてます。


45
次の礼拝堂です。


46
ファルヴィオ・ピアッツァの「十字架降下」


47
次の礼拝堂です。


48
有名な多翼祭壇画があります。


49
マルティーノ・ピアッツァ(ローディ、1475/1480-1533)とアルベルティーノ・ピアッツァ(ローディ、1490-1529)のピアッツァ兄弟による「Polittico Berrinzaghi」


50
先に紹介させて頂いたファルヴィオ・ピアッツァもピアッツァ兄弟の一人です。


51


52


53


61
次は聖具室です。


54
聖具室です。


55
内陣に戻りました。「聖パオロの召命」は既に紹介済みです。


56
サン・ジョヴァンニ・バッティスタ礼拝堂です。


57
カッリスト・ピアッツァ(ローディ、1500-1561)の「聖ジョヴァンニ・バッティスタの斬首」


58


59
カッリスト・ピアッツァ(ローディ、1500-1561)の「サロメ」


60
カッリスト・ピアッツァ(ローディ、1500-1561)の「キリストの十字架への釘打ち」


62
フルヴィオ・ピアッツァの作品


63
沢山の祭壇画があります。


64
大体見終わりました。


65
美術ファンにとって必見の教会です。


66
外に出ました。


67
次は市立博物館です。


68
アーチを潜ります。


69
サン・フィリッポ・ネリ教会にやってきました。


70
ここで良いのです。
市立博物館と図書館はフィリッポ・ネリ修道院だった建物にあるからです。博物館に入館する前に教会の拝観をします。


71
この場所には、サンタ・マリア・アッスンタ教区教会がありましたが、荒廃してしまったので、17世紀後半には放置された廃教会になっていました。
廃教会を取り壊して、建築家ジョヴァンニ・アントニオ・ヴェネローニ(パヴィア、1683/1686‐ブローニ,1749)の設計によって、1740年から1758年に建設されたロココ様式のサン・フィリッポ・ネリ修道院教会の複合施設です。


72
しかし、ナポレオンのイタリア侵攻によって複合施設は抑圧閉鎖されてしまいました。ナポレオンの失脚後、教会のほうだけ活動が再開されましたが、修道院は閉鎖されたまま、倉庫などに転用されました。


73
ファサードは、2008年に復元されました。


74
ポータルの装飾


75
教会内に入りました。


76
単廊式、ギリシャ十字形、ロココ様式の内部です。


77
壁がフレスコ画で覆われてます。


78
ジュゼッペ・コドゥーリ通称イル・ヴィニョーリ(コモ、1720-1802)の「天上の聖母子と聖フィリッポ・ネリ」


80


79
(つづく)

1次は鐘楼が見える教会です。


2
Via Solferinoを進みます。


3


4
聖母子のテラコッタ


5
インコロナータ教会にやってきました。


6
正式名称はTempio Civico della Beata Vergine Incoronataとなってます。インコロナータ聖域と呼ばれることもあります。


9
ファサードが面している道幅が狭いので、ファサード全体の写真がうまく撮れません。


8
教会の全景です。


7
この場所には、ローディの売春婦たちに人気の酒場があり、酒場の壁に14世紀に描かれた戴冠した聖母に抱かれる幼きキリストとアレッサンドリアの聖カテリーナのフレスコ画がありました。
1487年10月7日の夜、大勢の売春婦を含む常連客が酒場で楽しんでいると、聖母が泣き始める奇跡が起きました。
それを目にした信者は聖母マリアに捧げられた新教会ッ建設を呼びかけました。


10
それを受けて、市当局と市の有力者は酒場だった場所に新教会建設を決定し、ベラマン手の弟子で地元の建築家ジョヴァンニ・バッタージョ・ダ・ローディ(ローディ、15世紀第4四半世紀‐15世紀初頭活動)が起用され、1488年5月29日に着工されました。奇跡を起こしたフレスコ画は新教会の主祭壇画として保存されることになりました。


11
当時のローディ司教は教会建設費用捻出に尽力したが、司教区管理下には拘泥せず、市当局所有の教会と言う立場を是認したそうです。


12
1494年に完成した八角形、ルネサンス様式の建物です。
1501年に奉献式が執り行われました。


13
ファサードの完成は遅くなり、1879年に完成しました。


14
鐘楼は1503年に完成しました。


16
ローディの建築家ロレンツォ・マッジの設計による鐘楼ですが、この建築家についての記録が殆ど残されていないようです。


15
ファサードの左横に入り口があります。


17
教会内に入りました。


18
主祭壇


19
主祭壇画は、教会設立の切っ掛けとなった、奇跡を起こしたフレスコ画が残されてます。


20
「聖母子とアレッサンドリアの聖カテリーナ」(14世紀)


21
奇跡を起こしたフレスコ画の制作者は不明とされてます。


22


23
後陣のフレスコ画


25


24
クーポラ


26
クーポラのフレスコ画は、エンリコ・カルロ・アウグスト・スクゥーリ(ベルガモ、1806-1884)によって、1840年に制作された「ローディの聖人たちの勝利」です。


27
スクゥーリのフレスコ画がクーポラに初めて描かれたものとは思えないのですが、如何でしょうか。


28
16世紀までにはクーポラのフレスコ画があって、落剝したので描き直されたような気がするのですが。


29


30
美術的な見所豊富な教会として有名です。


31


32


33


34
アンブロージョ・ダ・フォッサーノ通称イル・ベルゴニョーネ(フォッサーノ、1453-ミラノ、1522/1523)の「マギの礼拝」


35


36
アンブロージョ・ダ・フォッサーノ通称イル・ベルゴニョーネ(フォッサーノ,1453-ミラノ、1522/1523)の「キリストの神殿奉献」


37
アンブロージョ・ダ・フォッサーノ通称イル・ベルゴニョーネ(フォッサーノ,1453-ミラノ、1522/1523)の「ご訪問」


38
サン・パオロ礼拝堂です。


39
カッリスト・ピアッツァ(ローディ、1500-1561)の「聖パオロの召命」


40
(つづく)

1ローディの中心であるヴィットリオ広場にある建物を見ます。


2
先ずは、ドゥオーモのファサードに向かって左側に隣接している建物です。


3
市庁舎です。


4
市庁舎の建物は、ブロレットと呼ばれてますが、1284年に建設されました。


13
幾度となく改修改造されましたが、1778年に改造された後の姿が現在の外観となってます。


5
ブロレットの上に紋章があります。


6
ローディの紋章です。


7
ブロレットの壁龕に置かれた胸像


8
ブロレットの中庭


9


10
銀行の建物です。


11
16世紀に建設されました。


19


20


21
銀行の建物壁にある聖母子


12
広場に面した建物の殆どに柱廊が設けられてます。


14
1922年から1923年に建設されたCasa Presazziです。


15


16
建物の名前が分かりません(私が、です)。


17


18


22


23


24


25
次はPalazzo Vistariniです。


26
14世紀に建設されたPalazzo Vistariniです。


27
1698年に改造されて、従来の約半分の大きさになりました。現在の姿は、1698年の改造後のものです。


29


28
Palazzo Vistariniの壁にあるものです。


30


31


32


33


35


36
(つづく)

1引き続きローディのドゥオーモです。


2
「最後の審判」のフレスコ画(15世紀)


3
「嘆き」(16世紀)


4
「タルチショ・ヴィンチェンツォ・ベネデッティ司教の胸像」
ベネデッティ司教は、1952年から1979年までローディ司教を務めました。


5
ベネデッティ司教の銘板


6


7
主祭壇


8
浮彫の一部


9
身廊の柱の彫刻


10
アダムとイヴ(身廊柱の彫刻)


11
靴職人ギルドの彫刻(身廊柱)


12
聖パシアーノ像


13
次はクリプタです。クリプタ入り口の壁にある「最後の晩餐」


14
クリプタ


15
墓が多数あります。


16
クリプタに代々のローディ司教の墓があります。


17


18
カノンの中庭の回廊に出ました。


19
回廊天井


20


21
回廊は1484年に建設されたそうです。


22
回廊に置かれた墓石


23


24


25


26


27


28
詳細不知


29
中庭


30


31
回廊の壁


32
後陣


33


34


35


36
ブロレットの通路


37


38
ドゥオーモの右側壁に当たります。


39


40
(つづく)

1引き続きドゥオーモです。


12
柱廊付きの入口扉です。


17
入口扉上ルネッタの彫刻


13


14


15


16


2
入口扉横の彫刻


3


4


18
入口扉の柱頭


19
扉の大理石彫刻


20
柱頭


21
入口扉の柱


22


23


24


25


26


27
柱頭


28


29


30


31


32


33


34


35


36


37
ライオン像


38


39


5
聖堂内に入ります。


6
三廊式、ロマネスク様式の内部です。


7
右側廊方向


8
見所が多いと思います。


11
Presbiterio


9
Presbiterioのフレスコ画


10
カウンターファサード


40
(つづく)

1前泊地はミラノでした。


2
前夜、スカラ座でトスカを見たので、起床するのが辛かったのを覚えてます。


3
ローディは、人口44,692人(2022年9月30日現在)のロンバルディア州ローディ県の県都です。


4
ミラノ中央駅からローディに向かいます。


5
列車は頻発してます。


6
ローディは、イタリア史上、2つの出来事で有名です。
1454年、この地で結ばれた「ローディの和」が特に有名です。
中世の時代、イタリアは都市国家間で絶えず戦争に明け暮れていました。しかし、長く続いていた東ローマ帝国がオスマン帝国によって滅亡されると、オスマン帝国が都市国家共通の脅威と見做されるようになりました。最早都市国家間で争う時代ではなく、共同してオスマン帝国の脅威に対抗すべきと言う認識のもとに「ローディの和」が結ばれたのです。
ローディの和に参加したのは、フィレンツェのメディチ家、ヴェネツィア共和国、ヴァティカン、ミラノのスフォルツァ家、ナポリ王国の5か国でした。


8
車内は非常に空いてました。


9
ローディ駅に到着しました。


10
1796年5月10日、ナポレオン将軍に率いられたフランス軍がこの地でオーストリア軍を破った「ローディの戦い」でも有名です。


7
ローディの戦いを描いた絵画
フランス軍とオーストリア軍がローディで戦ったわけで、今なら相当な違和感がありますが当時では普通です。


11
ローディ駅の駅舎です。


12
この日のお宿は駅前のここです。


13
大きな荷物をホテルに預けて、身軽になって街歩きに出発しました。


14
ローディはチーズの名産地です。


15
カステッロ広場です。


16
カステッロ広場の端に立つヴィットリオ・エマヌエーレ2世のモニュメント


17
ヴィットリオ広場に向かいます。


18
Corso Vittorio Emanuele 2


19
街角の「聖母子と聖ジョヴァンニーノ」


20
ヴィットリオ広場の入り口にやってきました。


21
ヴィットリオ広場です。


22
ローディのドゥオーモです。


23
正式名称は、Basilica Minore e Cattedrale della Vergine Assuntaとなってます。ローディ司教区の司教座教会です。
1970年、第262代教皇パオロ6世(1897-1978 在位:1963-1978)によってBasilica Minoreに格付けされました。


24
ローディのドゥオーモは、城壁外にありました。市域が拡大すると共に、街の中心が現在のドゥオーモが建っている場所に移動したので、新しいドゥオーモ建設が具体化したのです。


27
城壁外にあった古いドゥオーモの残骸です。


28
古いドゥオーモ、サンタ・マリア・ヴェッキオ聖堂は5世紀に建設されました。司教座が現ドゥオーモに移転するまで司教座教会でした。
移転後も城壁外の最大教会として存続しましたが、1811年に活動が停止されました。建物が危険になったので、旧教会は1879年にダイナマイトで爆破されたそうです。


23
共和制ローマ時代の紀元前3世紀頃に建設された神殿の遺跡の上に、1158年から1284年に建設されたロマネスク様式の教会です。


26
1284年に完成したファサードです。


25
画家カッリスト・ピアッツァ(ローディ、1500-1554)の設計によって1538年から1554年に建設された鐘楼です。


35
鐘楼の先端


36
鐘楼の時計


29
ファサードを見ます。


31
中央扉


30
中央扉上ルネッタの彫刻


32


33
左右のライオン像


34


38
バラ窓


37
柱頭


39
ファサードの彫刻


40
(つづく)

1チェントロ・ストーリコに戻りました。


2
市壁が撤去されたので、厳密には旧市街が分かりません。


3
カステッロに戻りました。


4


5
Piazza Castello


6
ピエタのキリストのタベルナコロがあります。


7
同じ道を歩いても詰まらないと思いますが、同じ道を歩いてしまいます。


8
煉瓦積みの建物はカステッロです。


9


10
この道は既に通りました。


11
サンタ・マリア・ヌオーヴァ聖堂の鐘楼


12


13
Corso Italia


14
Corso Italiaの柱廊


15
市庁舎に来てしまいました。


16


17


19
駐車場とバスターミナルになっている広場です。


18
アンノーニ通りに向かいます。


20
Palazzo Annoniです。


21
Palazzo Annoniは17世紀に建設されました。


22


23
Palazzo Annoniの横を進みます。


24
晴れたり曇ったりの日でした。


25
サン・ベルナルディーノ教会の鐘楼


26
アーチの道を通りますが、その前にフレスコ画を見ます。


27
アーチの前にある建物の壁にあるフレスコ画


28
アーチを潜ります。


29


30
市庁舎の前に出ました。


31
大体見たようです。


32
聖母子があります。


33
日帰り遠足が終わりに近づいたようです。


34
カステッロを経由して鉄道駅に向かいます。


35
カステッロです。


36
カステッロ広場にスケートリンクが設けられてます。


37
滑っている人はいないようです。


38


39
写真左端にスケート場が写ってます。


40
尋ねたいことがあったので、もう一度観光案内所に行きました。


41
古いフレスコ画があります。


42
これです。


43
駅に戻りました。


44


45
(アッビアテグラッソ編 終わり)

1橋にやってきました。


2
橋の下には、中世の堀の名残の小さな川が流れてます。


3
Corso San Pietroです。


7
これを撮っておくと後で参考になります。


4
学校です。


5
「ベツレヘムの娘たち」と言う私立学校のようです。


6
通りの突き当りにサン・ピエトロ・アポストロ教会が建ってます。


8
ロンバルド時代の8世紀頃に建設された礼拝堂が前身のようです。


9
13世紀に礼拝堂が取り壊され、教会として再建されました。


28
現在の建物は、教会としての二代目となるもので、建築家フランチェスコ・クローチェ(ミラノ、1696-1773)の設計によって1753年に創建され、1763年に完成しました。


10
バロック様式の建物です。


11
修道院が併設されていましたが、18世紀に抑圧され閉鎖となりました。


12
簡素な造りと言えるでしょう。


12
修道院が併設されていました。


13


14


29
鐘楼


15


16
バロック様式の内部です。


17
クーポラ


18
チントラの聖母


19


20
修道院だった建物?が映画館に転用されている?


21
街歩きを続けます。


22
サンタ・マリア・ヴェッキア教会です。


23
機能を停止した旧教会です。


24
Corso XX Settembre


25
Piazza Guglielmo Marconi


26


27
ピザの遅い昼食を食べました。


30
昼食には遅い時間だったので、客は私一人だけでした。


31
履いている靴の防水機能がダメなので、運動靴を買わねばなりません。


32
堀だった場所は公園になってます。


33
こんな所に靴屋があるわけがない!


34
靴屋がようやく見つかりました。


35
運動靴を買いました。


36
靴に慣れるまで大変でした。


41
街角のタベルナコロ


38
適当に歩き続けました。


40
地図を見ないので市壁外に出てしまったようです。


39
(つづく)

1引き続きサンタ・マリア・ヌオーヴァ聖堂です。


2
ファサード柱廊天井のフレスコ画


3


4


5
ファサード前に庭が広がり、回廊が庭を囲んでます。


6
銘板


7
回廊の入り口


8


9
聖堂内部


11
三廊式、ラテン十字形、ルネサンス様式の内部です。


10
身廊天井の装飾


12
回廊の壁にフレスコ画が残されてます。


13


14
ユニークな構造をしているサンタ・マリア・ヌオーヴァ聖堂です。


15


16


17
市庁舎手前に外壁にフレスコ画がある建物があります。


18
18世紀に建設された建物ですが、特に名前がないようです。


19


20
街歩きを続けます。


21
次は受胎告知修道院教会の複合施設です。


22
受胎告知教会です。


23
ミラノ公爵ガレアッツォ・マリア・スフォルツァ(フェルモ、1444-ミラノ、1,476)の命によって建設されました。修道院は1469年に創建され、1472年に完成したそうです。教会の方は1477年に完成し、同年に奉献式が執り行われました。


24
1810年に抑圧され、その後、宗教活動が再開されることがありませんでした。
抑圧後、修道院だった建物は病院に改造されました。
複合施設は、1997年にアッビアテグラッソ当局の所有となり、修復工事が行われ2007年に完成しました。現在、展示会、コンサート会場など多目的施設として使用されてます。


25
フレスコ画が残されてます。


26
レオナルドスキ逸名画家によるフレスコ画(1519)


27


28


29
かなり見所が豊富な街です。


30
この街で最古の柱廊と言われてます。


31
天井が木でできてます。20世紀に修復されたので、「最古」感がありません。


32


33
Corso Italia


34


35
市の塔が見えます。


36
Corso Italiaを進みます。


37


38
サンタ・マリア・ヴェッキア教会に向かいます。


39


40
(つづく)

1ミラノ郊外には興味深い街が散らばっており見逃せませんが、アッビアテグラッソもそのうちの一つです。


2
売れるのでしょうか?


3
街の中心では柱廊が多くなります。


4
この通りの先にアッビアテグラッソの地下鉄駅があります。


5
グリエルモ・マルコーニ広場にやってきました。この広場が街の中心になります。


6
グリエルモ・マルコーニ(ボローニャ、1872‐ローマ、1,937)は、無線電話などを開発した発明家で、ノーベル物理学賞を受賞しています。この街とは無関係のようです。


7
単にイタリアの偉人ということで広場の名称になったもので、イタリアでは、このようなことはごく普通です。


8
マルコーニ広場に面して建つPalazzo Comunaleです。


9
市庁舎は17世紀に建設されました。


10
現在のファサードは18世紀に建設されたそうです。


11
市庁舎に立っている塔は、Torre del Comuneと呼ばれてます。


16
Torre del Comuneは、古い中世の塔を17世紀に市庁舎に組み入れられたそうです。


12
市庁舎の建物と塔の境目に1623と刻まれているそうです。1623年に中世の塔が市庁舎に一体化されたそうです。


14


15


17
市庁舎のファサード下の柱廊


13
市庁舎近くに2つの教会があります。


18
サン・ベルナルディーノ教会に向かいます。


19
Chiesa di San Bernardino da Sienaです。


20
シエナの聖ベルナルディーノ(マッサマリッティマ、1380‐ラクイラ,1444)は、1431年にアッビアテグラッソに来て、説教をこないましたが、それに感銘を受けた信者などによって15世紀に建設された教会です。


21
現在の建物は、17世紀前半に再建された二代目となるものです。


22
再建は、当初、建築家アレッサンドロ・マゼンタ(ミラノ、1566-1630)の設計によって1614年に創建されましたが、多忙のためにフランチェスコ・マリア・リチーニに引き継がれ、1631年に完成したそうです。


27
ファサードは、フランチェスコ・マリア・リチーニの設計によるものです。


23
ファサードの彫刻


24


25


26


28
1717年に建設された鐘楼です。


29
扉が閉まっていることが多い教会です。


30
写真右に別の教会が写ってます。


31
サンタ・マリア・ヌオーヴァ聖堂です。


32
1962年、第261代教皇ジョヴァンニ23世(ヨハネ23世)(ベルガモ、1881‐ローマ、1963 教皇在位:1958-1963)によってBasilica Minoreに格付けされた、この街で最も格式が高い教会です。地元の人はドゥオーモと呼んでいないようです。


33
ミラノ公爵ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ(パヴィア、1351‐メレニャーノ、1402)の指示によって1388年に建設されました。


34
ファサード上部は、ドナート・ブラマンテ(ウルバニア、1444‐ローマ、1514)の設計によると言われてます。


35
ファサードの左右にある柱廊が特徴です。


36
鐘楼


39


40


37
後陣


38
写真左がサンタ・マリア・ヌオーヴァ聖堂、道路を挟んで右側の建物がサン・ベルナルディーノ教会。道路の突き当りが市役所です。
(つづく)

1この時、ミラノに泊まっていました。ミラノからアッビアテグラッソへの日帰り遠足です。


2
ミラノ中央駅からアッビアテグラッソへのFS直通列車はありません。


3
地下鉄でミラノ・ポルタ・ジェノヴァ駅に到着しました。


4
ミラノ・ポルタ・ジェノヴァ駅出発の列車は汚いことで有名です。


34
意外にも車内は改装されて新しくなっていました。


5
アッビアテグラッソ駅に到着しました。


6
アッビアテグラッソは、人口32,681人(2021年12月31日現在)のロンバルディア州ミラノ県にあるコムーネです。


7
アッビアテグラッソ鉄道駅の駅舎です。


8
駅前広場


9
駅前横に立つガリバルディ将軍像


10
大部分埋め立てられた城を囲む堀があります。


11
先ずカステッロを見ます。


12
写真右にカステッロの入り口があります。


13
Castello Visconteoです。


14
11世紀にミラノ大司教アリベルト・ダ・インティミアーノ(インティミアーノ、970/980-ミラノ、1045)が築いた城が前身と言われてます。


15
1167年、アッビアテグラッソに攻撃を加えた神聖ローマ皇帝フェデリーコ・バルバロッサ(フリードリヒ1世)(ハーゲナウ、1122-キリキア、アルメニア、1190)によって城は破壊され、アッビアテグラッソは征服されてしまいました。


16
フェデリーコ・バルバロッサ皇帝の死後、アッビアテグラッソはコルベッタ教区教会(ミラノ公国)領となりました。
1339年、ヴィスコンティ家の当主ジョヴァンニ・ヴィスコンティ(ミラノ、1290c-1354)がミラノ大司教になると、アッビアテグラッソはヴィスコンティ家の領地となり、同家によって城が修復されました。
1381年、ミラノ公ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ(パヴィア、1351‐メレニャーノ、1402)は軍事要塞の城から住居用に転用することにして、改造修復工事に着手しました。
1438年、ミラノ公フィリッポ・マリア・ヴィスコンティ(ミラノ、1392‐1447)によって城の装飾が開始されたそうです。


17
城の入り口


18
中に入りました。


19
市立図書館と観光案内所があります。


20


21
キオストロの外壁に残されたフレスコ画


22


23


24


25


26
1523年、ミラノ公フランチェスコ2世・スフォルツァ(ミラノ、1495‐ヴィジェーヴァノ、1535)は自分の忠臣でミラノ貴族のピエトロ・プステリアに対してアッビアテグラッソの半分の領地と城を与えたのです。


27
しかし、その10年後の1533年、イタリアに攻め入ってきたカール5世(1500‐1558)率いるスペイン軍によってアッビアテグラッソは占領され、以後、スペイン領となりました。


30
1668年、ミラノに侵攻してきたフランス軍によって城が占拠され、フランス軍の駐屯地になることを恐れた当局によって城は破壊されてしまいました。


31
破壊された城の遺跡は個人の住居に転用されていましたが、1865年に当時の持ち主がアッビアテグラッソ市に寄贈しました。
1995年から本格的な修復工事が始まり、今の姿になりました。


28
アーチのフレスコ画


29


32
中世時代の姿とは、かなりかけ離れていると言われてます。


33


35
カステッロから外に出ました。


36
ミラノのベッドタウンなので、日中の人通りが少ない街です。


37


38
城壁は残されていないようです。


39
街の中心に向かいます。


40
(つづく)

1王宮の修復工事は中断しているように見えました。


2
この先にF-1コースがあります。


3
寒い日だったせいか、人がいません。


4
キノコ。食べると危険?


5
広大な王宮庭園です。


6
小川が流れています。


7
人の姿がようやく見えました。


8
修復工事が遅れるのは、イタリアではよくあることです。


9
王宮博物館がモンツァの見どころの一つですが、この時は、どうせ工事が遅れて休館中と思っていたので、残念とは思いませんでした。


10
王宮の敷地内にいても意味がないので、中心街に戻ることにしました。


11
ジャンニ・チッテリオ広場です。


12
大幅に時間が余りそうです。


13
サンタ・マリア・イン・ストラーダ教会の鐘楼


14
カッロビオーロ広場です。広場に面して建っているのは、サンタ・マリア・アル・カッロビオーロ教会です。


15
ドゥオーモの鐘楼


16
サンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会です。


17
同じ通りを通っていては詰まらないので、違った道を歩きました。


18
裏通りに入っても迷うことはない。


19
人通りが少ない日中です。


20


21
写真右はアレンガリオです。


22
ホテルに戻ってチェックインしてから一休みすることにしました。


23
昼食の時間ですが食欲がありません。


24
ドゥオーモ


25
この日の前日にミラノ・スカラ座でオペラを観てから、零時過ぎに食事したのが響いて、寝不足に加えて胃の調子が今一つでした。


26
Monumento di Caduti


27
オペラを観ると体調が崩れます。


28


29
サンタ・マリア・イン・ストラーダ教会の鐘楼


30
サンタ・マリア・イン・ストラーダ教会です。


31


32
イタリア通り


33
このまま道をまっすぐ進めば鉄道駅に出ます。


34


35


36


39


37


38
振り返って撮った写真


40


41
ホテルに戻りました。
午後にもチェントロ・ストーリコに行きましたが、内容はほぼ同じです。
(モンツァ編 終わり)

1Palazzo di Giustizia 裁判所です。


2
この場所には、16世紀に建設された神学校があったそうです。その後、神学校の建物は再建されましたが、1786年に神学校が移転して、空き家になっていました。1809年に建物は病院に転用されるようになりました。


3
建物が老朽化したので、病院は他の場所に移ることになり、1932年、神学校、さらに病院だった建物を取り壊し、裁判所建設が決定されたそうです。
そうして、1933年から1934年に現在の建物が建設され、裁判所としての機能が1934年に開始され、現在に至ってます。


4
裁判所前に立っているのは、ジュゼッペ・ガリバルディ像です。


5
ヴィットリオ・エマヌエーレ2世通りを進みます。


6
通りの突き当りにアレンガリオがあります。


7
アレンガリオを過ぎるとサン・パオロ広場に出ます。


8
サン・パオロ広場に面して教会が建ってます。


9
サンタ・マルタ祈祷所です。


10
14世紀後半に建設されたサンタ・マルタ修道院教会の複合施設が前身です。


11
サンタ・マルタ修道院教会に隣接してサン・ミケーレ修道院がありました。


12
ファサード下に小さな柱廊があって、ファサードの左右から柱廊に入ることが出来るようになってます。


13
隣接する2つの修道院は、ナポレオンのイタリア侵攻の際に抑圧され、閉鎖されたのです。
1920年代に、都市計画のためにサン・ミケーレ修道院教会の複合施設とサンタ・マルタ修道院が取り壊されました。
サンタ・マルタ教会の建物の一部が取り壊され、現在の姿になりましたが、それを機に教会から祈祷所になったのです。


14
祈祷所の入り口


15
扉が開いているように見えましたが、施錠されていました。


16
美術的な見所はなさそうです。


17
宗教活動は既に停止?


18
サン・パオロ広場


19
サン・パオロ広場に面して建っている建物にフレスコ画があるのを見つけました。


20
Banco Desio、銀行です。


21
銀行の建物に描かれたフレスコ画


22
観光地図です。


23
主な見所のうち、行っていないのは王宮だけのようです。


24
王宮の建物が修復工事中であることは承知していましたが、一応行ってみることに。


25


26
アレンガリオを経由します。


27
モンツァの主な道はアレンガリオに通じているのです。


28
王宮庭園の入り口に出ました。


29
ジャンニ・チッテリオ広場です。


30
F-1開催時には、この広場は大混雑するそうです。


31
広場の交差点の下に地下道があります。


36
地下道を通りました。


32
王宮庭園に入りました。


33
この先は狩場でした。


34
広い庭園です。


35
ここにもジュゼッペ・ガリバルディ像があります。


37
厩舎だった建物です。


38
王宮は修復工事中でした。


39


40
(つづく)

1引き続きモンツァのドゥオーモです。


2
ドゥオーモ博物館の続きです。


3
キオストロとその回廊です。


4
回廊のフレスコ画です。


5
18世紀に描かれたフレスコ画です。


6
私には制作者などの詳細が分かりません。


7


8
回廊のフレスコ画


9


10


11


12
キオストロ回廊に置かれている、ローマ時代の石棺(3世紀)


13
ローマ時代の石棺(4世紀)
次は博物館の展示作品です。写真不可です。


14
有名な鉄の王冠


15
セバスティアーノ・リッチ(ベッルーノ、1659‐ヴェネツィア、1734)の「ドゥオーモの建設開始](1697)


16
象牙彫刻


17
ドゥオーモは以上で終わりです。


18
塔に向かいます。


19
塔にやってきました。


20
テオドリンダの塔と呼ばれてます。13世紀に建設されました。


22
ランブロ通りです。


21
塔の下を潜ります。


23


25
塔を潜りました。


26
振り返るとドゥオーモの鐘楼が見えました。


24


27
少し進むと川に出ます。


28
ランブロ川に架かる橋にライオン像があります。


29
ライオン像は橋の四隅にあります。


35


30
ランブロ川です。


31


32
この道を進めば鉄道駅に出ます。


33
この先にアレンガリオがあります。


34
ランブロ川沿いに建つ共同住宅です。


36
共同住宅は嫌いです。壁の上、下、右横、左横に住んでいる人たちがいると思うとぞっとします。住宅は庭付き一戸建てに限ります。


37
ヴィットリオ・エマヌエーレ2世通りです。


38
分譲共同住宅は、所有していても本当に所有権があるかどうか、非常に疑わしいと思います。建て替えなどの問題が生じたとき、決められないことがあります。


39
一戸建てなら、俺が決めれば決定です。当たり前ですが。


40
(つづく)

1引き続きモンツァのドゥオーモです。


2
絵画、フレスコ画を描いたのは、ジュゼッペ・アルチンボルド(ミラノ、1527-1593)、フィアメンギーニ(ジョヴァンニ・バッティスタ・デッラ・ローヴェレとジョヴァンニ・マウロ・デッラ・ローヴェレ兄弟の通称)、ジョヴァンニ・ステファノ・ダネーティ通称モンタルト(トレヴィリオ,1612-ミラノ、1690)、エルコーレ・プロカッチーニ・イル・ジョーヴァネ(ミラノ、1605-1680)、ジュゼッペ・アントニオ・カステッリ(モンツァ、1655-1724)などとされてますが、作品毎の帰属が私には分かりません。


3
オルガン


4
身廊を挟んで左右にオルガンが設置されてます。


5
Presbiterioに向かって左側のオルガン


6


9
左側のオルガン下の彫刻


7
Presbiterioに向かって右側のオルガン


8


10
右側のオルガン下の彫刻


16
オルガンの近くに有名な説教壇があります。


11
14世紀後半に彫刻家マッテオ・ダ・カンピオーネ(カンピオーネ,1335-モンツァ、1396)によって制作された説教壇です。


12


13


14


15


17
有名な浮彫です。


18
「戴冠の浮彫」と呼ばれてます。
イタリア王の戴冠式が彫られてます。


19
マッテオ・ダ・カンピオーネ工房によって制作されました。


20


21
バラ窓を見ます。


22
バラ窓のステンドグラスが見ものです。


23


24


25
一旦外に出ます。


26
次はドゥオーモ博物館ですが、聖堂内から入ることが出来ません。


27
博物館には、ここから入ります。


28


29
博物館の入り口


30
中に入りました。


31


32
先ずキオストロ回廊に出ます。


33


34
回廊天井のフレスコ画は保存状態が良くない。


35
キオストロ


36


37
キオストロの古井戸


38
回廊の柱に1729を刻まれた柱がありますが、回廊が創建(再建の創建です)された年を示してます。


39
回廊にある墓


40
(つづく)

1引き続きモンツァのドゥオーモです。


2
フレスコ画は多くの画家によって描かれましたが、作品帰属を明らかにするのは大変のようです。


3


4


5


6
カウンターファサード方向


7
テオドリンダ礼拝堂です。


8
テオドリンダ礼拝堂は閉まっていることが多いようです。


9
1444年に描かれたフレスコ画が残されてます。


10
テオドリンダ礼拝堂は写真不可でした。


11


12
十字架の祭壇です。


13
有名な祭壇です。


14
聖ステファノの殉教?


15
エマオの晩餐


16


17
クーポラ


18
クーポラのフレスコ画


19
身廊天井のフレスコ画


20


21


22
フレスコ画の帰属が分かりません。


23


24


25


26
ご訪問


27


28


29
玉座の聖母子


30


31


32
説教壇を見ます。


33


34


35
説教壇の装飾


36
説教壇の周りに聖人像があります。こちらは聖アゴスティーノ


37
聖アンブロージョ


38
聖ジローラモ


39
聖グレゴリオ


40
(つづく)

1引き続きモンツァのドゥオーモです。


2
モンツァのドゥオーモで代々のイタリア王の戴冠式が行われました。


3
贖いの聖母礼拝堂です。


4
「大天使ラッファエーレとトビオーロ」は既に見ました。


5


6
贖いの聖母礼拝堂天井の装飾


7
「聖ジョヴァンニ・バッティスタの斬首」


8


9
詳細不知


10
後陣のフレスコ画


11
多くの絵画、フレスコ画などで装飾されてます。


12
私には作品帰属等詳細が分かりません。


13
ナポレオンのタルガ


14


15
次の礼拝堂


16


17
この祭壇画の詳細が分かりません。


18


19
詳細不知


20
墓の記念碑


21
後陣右の礼拝堂


22
後陣右礼拝堂の左側壁のフレスコ画


23
右側壁のフレスコ画


25


26


27


24


28


29
この辺の作品帰属が全く分かりません。


30
Presbiterio


31
Presbiterioのフレスコ画


32


33
Presbiterioの天井フレスコ画


34


35


36


37
主祭壇


38


39


40
(つづく)

引き続きモンツァのドゥオーモです。
1
後陣です。


2


3


4


5


6


7
後陣の壁にある銘板


10
メイン・ポータル左右のライオン像を見ます。


8
左側のライオン像


12


9
右側のライオン像


11


13
拝観します。


14
聖堂内に入りました。


15
三廊式、ラテン十字形、ゴシック様式の内部です。


16
14世紀に再建されましたが、その後、改造、修復を何度も繰り返したので、各種様式の折衷様式と言うべきでしょうか。


17
右側廊


18
左側廊


19
中央通路


20
何処から見ていくか、迷うところです。


21
カウンターファサード方向


22
イタリア王の戴冠式が行われた聖堂なので、非常に格式が高いと思います。


23
逸名画家作「玉座の聖母子」(15世紀)


24
洗礼堂


25
洗礼堂のフレスコ画


26
洗礼堂のステンドグラス「キリストの洗礼」


27
洗礼盤上部の装飾


28
洗礼盤下部


29
詳細不知の磔刑像


30
右側廊の礼拝堂


31
「大天使ラッファエーレとトビオーロ」


32
カルロ・フランチェスコ・ヌヴォローネ(ミラノ、1609-1662)またはジュゼッペ・ヌヴォローネ(サン・ジミニャーノ、1619-ミラノ、1703)の作品です。
二人は兄弟です。


33
17世紀のエミリアの逸名画家作「ご訪問」


34
グエルチーノの影響を受けた画家のようです。


35
カルロ・フランチェスコ・ヌヴォローネ(ミラノ、1609-1662)の「エマオの晩餐」


36


37
グリエルモ・カッチャ通称イル・モンカルヴォ(モンタボーネ、1568-モンカルヴォ、1625)の「聖ジョヴァンニ・バッティスタの斬首」


38


39


40
詳細不知
(つづく)

1次はドゥオーモです。


2
ドゥオーモ広場です。この広場にドゥオーモが建ってます。


3
モンツァのドゥオーモ Basilica Minore di San Giovanni Battistaです。


4
モンツァは、ミラノ大司教区に属しており、大司教座はミラノのドゥオーモに置かれているので、この聖堂は司教座教会ではありません。


5
しかし、16世紀までは、モンツァは独立した司教区になっており、このドゥオーモは司教座教会でした。16世紀末、司教区再編によってモンツァ司教区が廃止され、ミラノ大司教区に編入され、モンツァのドゥオーモは格下げとなりました。その後、Basilica Minoreに格付けされ、教会の格式面で何とか往年の面目を保ったと言えるでしょう。


6
モンツァのドゥオーモの歴史は古く、6世紀末に遡ります。


7
ローマ時代、蛮族ゲルマニアの一族にロンゴバルド族がいましたが、ゲルマニア大移動の最後に移動したロンゴバルド人は、東ローマ帝国の領土だった北イタリアに入り、568年にロンゴバルド王国を建国しました。ロンゴバルド王国の首都はパヴィアに置かれましたが、モンツァは王国の主要都市の一つでしたが、夏の離宮を現在のドゥオーモが建っている場所の隣に建設しました。


8
ロンゴバルド王アウタリのテオドリンダ王妃(570c-628)は、王宮の隣に聖ジョヴァンニ・バッティスタを奉じる大聖堂を建設しました。テオドリンダ王妃は、金銀を豊富に使った装飾品を数多く与えると共に十分な収入の裏付けを大聖堂に保証しました。これが現在のドゥオーモの起源です。


9
13世紀後半になると、建物が荒廃したので再建計画が持ち上がりました。
そうして、建築家マッテオ・ダ・カンピオーネ(カンピオーネ、1335-モンツァ,1396)が起用され、マッテオの設計によって、1300年に創建され、1345年に完成した二代目の建物が現在の姿の原形になっているそうです。1365年に奉献式が執り行われたそうです。
その後、更に増築、改築工事が行われ、現在の姿になったのは1681年だそうです。


10
クーポラ


11


21
ファサードのポータル


37


38


39
ポータルの柱頭


40


12
ファサードの装飾


22


23


24
木製の入口扉


25


13
バラ窓


34


35


36


14
ポータル上ルネッタの浮彫


15


26


27


28


29


30


31


32


33


16
1592年から1620年に建設された鐘楼が現在のものですが、鐘楼としては二代目だそうです。


17
鐘楼の高さは78mとのことです。


18
鐘楼の銘板です。
二代目となる鐘楼は、ペッレグリーノ・ティバルディ(プーリア、1527-ミラノ、1596)の原案に基づき、エルコーレ・トゥラティの設計によって建設されました。


19
鐘楼の基礎部分に創建された年である1592と刻まれてます。


20
(つづく)

1サンタ・マリア・アル・カッロビオーロ教会を後にします。


2
鐘楼のある建物に向かいます。


3
通りの突き当りを左折します。


4
この通りの次の交差点を右折します。


5
右折すると、鐘楼が直ぐ正面に見えます。


6
中世の頃、鐘楼がある建物がモンツァの中心でした。


7
ローマ広場に面して鐘楼がある建物が建ってます。


8
未だ午前10時前でした。


9
アレンガリオ Arengarioと呼ばれる建物です。モンツァの古い市庁舎で、この建物がモンツァの中心です。


10
1250年頃に建設されたロマネスク様式のアレンガリオです。


11
横30.3m、縦12.4mの長方形の建物です。


12
鐘楼の高さは27mで、その上に尖塔が追加されて、全部で塔の高さは44mとなっているそうです。


13
鐘楼は13世紀後半に追加されました。


14
現在は催事場やコンサート会場などに使用されてます。


15
右に見える鐘楼はドゥオーモのものですが、見る角度によってはアレンガリオの鐘楼に見えることがあります。


16
ローマ広場です。


17


18


19
ガレンガリオのロッジャです。


20


21
ガレンガリオのロッジャに彫刻が置かれてます。


25
モンツァのローマ時代の遺跡から発見されたローマ時代の彫刻です。


22
ロッジャの柱に置かれている絵画です。


24
制作者等詳細不知の「聖母子と聖ジョヴァンニ・バッティスタ」


23
モンツァの主要道路がガレンガリオに通じてます。


26
ガレンガリオの銘板


27


28


29
ガレンガリオの先はヴィットリオ・エマヌエーレ2世通りです。


30
ロッジャ内部


31
ドゥオーモの鐘楼です。


32
ガレンガリオを後にします。


33
カルロ・アルベルティ通りです。


34


35
ドゥオーモの拝観を後回しにします。


36
この時間、ドゥオーモの扉は開いてますが、ドゥオーモ博物館が開くには、もう少し時間がありました。博物館にある「鉄の王冠」を観ないと、ドゥオーモ拝観が画竜点睛を欠くことになってしまいます。


37
ぶらぶら歩きで時間調整。


38
サン・ピエトロ・マルティーレ教会に来ました。


P1100434
写真左の建物に聖母子を発見。


40
(つづく)

1引き続きサン・ピエトロ・マルティーレ教会です。


2
あちこちにフレスコ画が残されてます。


3
十字架の礼拝堂


4
礼拝堂壁のフレスコ画


5
落剝や退色が認められ、保存状態が良くありません。


6
これらのフレスコ画は、14世紀前半に制作されたそうです。


7
フレスコ画の制作者は、「ロンバルドのマエストロ」とされてます。「ロンバルドのマエストロ」は、複数の逸名画家から成ってます。


8
後陣に設置されたオルガン


9
無原罪の聖母礼拝堂


10
制作者情報等不知の「聖ピエトロ・マルティーレの殉教」


11
14世紀前半のジョットの影響を受けたロンバルドの逸名画家によるフレスコ画


12


13


14


15
詳細不知


16


17
詳細不知


18
詳細不知の磔刑像


19
カウンターファサード


20
キオストロ回廊に出ました。


21
修道院だった建物です。


22
教会内に戻りました。


23
身廊中央の天井


24
大体見終わりました。


25
外に出ました。


26
サン・ピエトロ・マルティーレ広場です。


27
教会巡りを続けます。


28


29
次はカッロビオーロ教会です。


30
教会が見えてきました。


31
地元の人は略称のカッロビオーロ教会と呼んでますが、正式名はサンタ・マリア・アル・カッロビオーロ教会です。


32
教会の隣は、カッロビオーロ修道院です。


33
1260年に建設された教会です。18世紀に修復されたファサードなので、少し新しく見えます。


34
中に13世紀のフレスコ画や13世紀から15世紀に制作された祭壇画があります。


35
扉が閉まっていました。美術的に見たい教会だったので、大変残念に思いました。


36
ファサードの彫刻を観ます。


37


38


39
現在でも修道士が常駐している修道院です。修道院の扉も閉まっていました。


40
修道院の扉上の彫刻
(つづく)

1引き続きサンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会です。


2
初代の建物はこれよりも大規模だったそうで、それを個人資産で建設した訳で、その財力に驚かされます。


3
地元の信者が立ち去ったようです。


4
クーポラ


5
説教壇


6


9
カウンターファサード


7
カウンターファサード上部のステンドグラス


8
受胎告知


10
外に出ました。


11
バルトロメオ・ズッキ通りです。


12
次はサン・ピエトロ・マルティーレ教会です。


13
フランチェスコ・クレスピ通りです。


14
フランチェスコ・クレスピ通りをさらに進みます。


15
壁にフレスコ画がある建物を見つけました。フレスコ画の状態が良くなく、感心しませんでした。


18
少し遠回りになったようです。


19
カルロ・アルベルティ通りに入りました。


16
もうすぐ広場に出ます。


17
サン・ピエトロ・マルティーレ広場です。


20
広場に建っているのは、もちろんサン・ピエトロ・マルティーレ教会です。


21
1280年のモンツァの文書にサン・ピエトロ・マルティーレ修道院の存在が初めて記載されたそうです。


22
サン・ピエトロ・マルティーレ教会は、1288年にモンツァの文書に初めて記載されたそうです。しかし、13世紀中頃にサン・ピエトロ・マルティーレ修道院の教会として建設されたという有力説があるそうです。
また、1369年のミラノ司教区の文書に、この教会が初めて記載されたそうです。


23
ドメニコ会は、聖ドメニコによって1206年に設立され、1216年に修道会として教皇の認可を受けました。認可後、ドメニコ会修道院が各地に建設されましたが、モンツァのサン・ピエトロ・マルティーレ修道院はドメニコ会の最古の修道院の一つと考えられてます。


24
ドメニコ会は戒律が厳しく、それ故に異端者に厳しいことで知られ、時に異端裁判で悪名高き修道士会となってます。
ここモンツァのサン・ピエトロ・マルティーレ教会も異端裁判で悪名が轟く、多くの人から恐れられると共に忌み嫌われる存在でした。
宗教上の異端だけに留まらず、ユダヤ教を信じるユダヤ人を異端の名のもとに、ユダヤ人の財産を奪った負の歴史があるのです。実際は、ユダヤ人の財産強奪が目的で、宗教上の異端判決は単に財産簒奪の手段に過ぎなかったそうです。


25
ファサード前に彫像が置かれてます。


26
地元出身の画家モーゼ・ビアンキ(モンツァ、1840-1908)の彫像です。


27
ビアンキ像は、彫刻家ルイージ・セッキ(クレモナ,1853-ミアッツィーナ、1921)によって1927年に制作されました。


28
モーゼ・ビアンキの作品写真を載せておきましょう。クレモナのアラ・ポンツォーネ市立美術館にあります。


29
ファサード側の扉が開くことは滅多になく、教会の出入りは右側壁のサイド・ポータルで行います。


30
サイド・ポータルのルネッタ上のモザイク


31
修道院教会複合施設の概略図が壁にあります。


32
拝観します。


33
中に入りました。


34
三廊式、ロンバルディア・ゴシック様式の内部です。


35
1960年代に大修復工事が行われたそうですが、そのためでしょうか、新しく見えます。


36
右側廊


37
右側廊天井


38
左側廊


39
左側廊からの眺め


40
(つづく)

1次はサンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会です。


2
1576年、ミラノではペストが大流行して多くの犠牲者が出ましたが、当時のミラノ大司教聖カルロ・ボッロメーオはペストで苦しんでいた人たちを助けることに尽力して、後に列聖されました。ミラノだけではなく、ミラノ近隣の町や村に訪れて、ミラノと同様に多くの人々の救出などの尽力しましたが、モンツァにも1578年に訪れました。


3
モンツァの貴族で科学者、歴史家でもあったバルトロメオ・ズッキ(モンツァ,1570-1630)は、幼少の頃、モンツァを訪れた聖カルロ・ボッロメーオの善行を目のあたりにして、深い感銘を覚えました。
そうして、バルトロメオ・ズッキは聖カルロ・ボッロメーオの功徳に報いるために自分の資産で新しい教会の建設に乗り出し、1608年に創建されたのがサンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会です。創建時の建物は、現在地よりも前方にあったそうです。


4
1630年、バルトロメオ・ズッキは没しましたが、全財産をイエズス会に寄進すると共に、この教会に埋葬するとの遺言を残し、遺言通りに実行されました。


5
教会建設の経緯を示すために、教会の前に聖カルロ・ボッロメーオ像が置かれてます。この彫刻は元々大理石像でしたが、経年劣化のために大理石像が取り外され、その複製のブロンズ像が置かれてます。


6
最初の建物は、ファサード前の道路拡幅と交差点設置のために、19世紀終わりによ取り壊されることになりました。
そうして、建築家スピリト・マリア・キアペッタ(ミラノ,1868-トリウッジョ,1948)が起用され、キアペッタの設計によってネオ・ゴシック様式で再建された建物が現在の教会です。
二代目の建物よりも、取り壊された最初の建物方が大規模だったそうです。


7
ファサードの装飾を見ます。


8
扉が三つありますが、扉上ルネッタにモザイクがあります。


9
大天使聖ミケーレ


10
聖ジョヴァンニ・バッティスタ


11
後陣


12
鐘楼


13
中に入りました。


14
三廊式、ラテン十字形、ネオ・ゴシック様式の内部です。


15
裕福な教会として知られてます。


16
中央通路


17
礼拝堂を見ていきます。


18
19世紀末から20世紀第一四半世紀に制作されたものばかりです。


19
古い作品は皆無です。


20


21


22
次の礼拝堂です。


26
右翼廊に設けられた礼拝堂になります。


23
聖母の死


24
古い美術品を見ようとすると落胆するだけです。


25
右側廊


27
サン・カルロ・ボッロメーオ礼拝堂


28
主祭壇


29
祭壇前飾り


30
次の礼拝堂です。


31
左側壁のステンドグラス


32
左側廊


33


34


35
ポンぺオ・マリアーニ(モンツァ、1857-ボルディゲーラ、1927)の「聖母子と二聖人](1911)


36


37


38
パドヴァの聖アントニオ


39
聖心


40
(つづく)

41引き続きサンタ・マリア・マッダレーナ・エ・サンタ・テレーザ教会です。


42
天井


43
左側壁


44
右側壁


45


46


47


48


49


50
外に出ました。


51
県庁舎の建物です。


52
トレント広場に向かいます。


53
ドゥオーモの鐘楼でしょうか?


54
トレント広場にやってきました。
正式にはPiazza Trento e Triesteと呼ばれてますが、トレントとトリエステのモンツァとの関係が良く分かりません。


55
市庁舎です。


56
この広場がモンツァの中心でしょう。


57
前回来た時、この広場で青空市が開市されていて、大変な賑わいでした。


58
広場の中心に、1932年に造られたMonumento di Cadutiがあります。


63
第一次世界大戦の戦没者慰霊碑です。


66
多くの街で見かける戦没者慰霊碑ですが、その大半が第一次世界大戦の戦没者を悼んでおり、第二次世界大戦のものは少ないように思います。


59
イタリア人の犠牲者は、第二次世界大戦よりも第一次世界大戦の方が多かった?


60
平日の朝にしては、人出が少なかった。


61
高等学校の建物 Palazzo degli Studiです。


62
サン・フランチェスコ教会だった建物だそうです。


64
市庁舎に向かいます。


65
市庁舎内にある観光案内所に行きました。王宮の修復状況を聞きましたが、修復完了の時期は不明との事でした。


67
私の経験では、修復工事が予定通りに終わることは、絶対にないと言い切れると思います。


68
教会巡りを続けます。


69


70
CINEMAの看板が出てますが、映画館にはとても見えない建物です。


71
コルテローニャ通りを進みます。


72
これを撮っておくと後で助かります。


73
写真左は女性用下着ショップです。セクシー路線の店です。


74
この建物は映画館ですね。


75


76
あちこち歩きましたが、結局元の場所に戻ってきてしまいました。


77
18世紀に建設された、バロック様式のリアーリオ邸です。


78
全ての窓が閉まっていましたが、この後、修復工事が行われたそうです。


79
突き当りに教会が見えてきました。


80
(つづく)

1サンタ・マリア・マッダレーナ教会です。


2
正式にはサンタ・マリア・マッダレーナ・エ・サンタ・テレーザ教会と言い、奉献する聖人が聖マリア・マッダレーナと聖テレーザの二人となってます。


3
13世紀に建設されたサンタ・マリア・マッダレーナ修道院が前身です。1343年のモンツァの古文書にサンタ・マリア。マッダレーナ修道院の存在が初めて記載されたそうです。その古文書はモンツァ市立図書館に所蔵されているそうです。


4
1584年、ミラノ大司教聖カルロ・ボッロメーオは、死の直前に古い修道院を取り壊し、その上に新しい教会の建設を承認しました。
その承認に基づき、1610年から1620年に建設された建物が現在の姿の原形となってます。


5
ファサードの銘板


6
1856年、1620年に完成した建物のファサードの壁が崩落してしまいました。
現在のファサードは、モンツァの建築家ルイージ・ポルディの設計によって、1861年に再建されたものです。


7
毎日開く教会です。


8
入口扉上ルネッタのフレスコ画


9
ファサードの壁龕に四体の彫刻が置かれてます。これらの聖人の彫刻は、ルイージ・コッキ・ダ・ミラノによって1861年から1863年に制作されました。
こちらは聖テレーザ像です。


10
聖マリア・マッダレーナ


11
聖ジュゼッペ


12



13
大天使聖ミケーレ


14


15
拝観します。


16
中に入りました。


17
単廊式、ラテン十字形の内部です。


18
右側壁


19
天井


20
主祭壇


21
ジュリオ・チェーザレ・プロカッチーニ(ボローニャ、1574‐ミラノ、1625)の「キリストの施し」


22
ジュリオ・チェーザレ・プロカッチーニの作品


23


24
ジュリオ・チェーザレ・プロカッチーニ(ボローニャ、1574‐ミラノ、1625)の「エマオの晩餐」


25


26


27
18世紀のロンバルディアの逸名画家作「聖家族と聖テレーザ」


28
ジュリオ・チェーザレ・プロカッチーニの作品


29
説教壇


30
ジュリオ・チェーザレ・プロカッチーニ(ボローニャ、1574‐ミラノ、1625)の「聖マリア・マッダレーナ」


31


32
詳細不知


33
内部のフレスコ画は、ジュゼッペ・カルサーナによって描かれました。


34


35


36


37


38


39


40
(つづく)

3前泊地はミラノでした。


1
ミラノ中央駅から鉄道に乗ってモンツァに向かいました。


2
車内は非常に空いてました。


4
モンツァ駅に到着しました。


5
モンツァ駅の駅舎です。


6
駅前の小さな公園があります。


7
公園の噴水


8
Monzaをモンザと呼ぶ人がかなりいますが、ここではモンツァと呼ぶことにします。
モンツァは、人口121,692人(2022年8月31日現在)のロンバルディア州モンツァ・エ・ブリアンツァ県にあるコムーネです。


9
Corso Milano


10
先ず、この日のお宿に向かいました。


11
ホテル(写真左手前)に大きな荷物を預かって貰ってから早速外に出ました。
ミラノから近いモンツァなので、ミラノからの日帰り遠足が可能ですが、行った先で泊まる主義を貫きました。


12
Largo Mazzini


13
この辺が旧市街の入り口になるでしょうか?


14
F-1のサーキットコースで有名なモンツァですが、古い歴史ある街として知られてます。


15
この日は、10月下旬の厚い雲に覆われた肌寒い日でした。


16
昔はほぼ二年毎に訪れていたモンツァですが、王宮の修復工事が始まると、行ったのは、この時だけとなりました。王宮の博物館が私のモンツァ観光の中心でしたが、修復中は休館となり、その修復工事が殆ど進捗せず、何年の博物館が休館となるうちに急に興味が薄れてしまいました。


17
イタリア通りに入りました。


18
ミラノの雑踏と喧騒を避けて、静かな生活を楽しむ人たちのハイソな街です。


19
車の侵入が禁止されているイタリア通りです。


20
道はよく手入れされてます。


21


22
二本の鐘楼が目立ちます。


23
サンタ・マリア・イン・ストラーダ教会の鐘楼です。


24
普通の建物の壁にタベルナコロが設けられてます。


25
タベルナコロのフレスコ画(詳細不知)


26
写真右はサンタ・マッダレーナ教会ですが、ミサ中だったので拝観するのは後回し。


27
サンタ・マリア・イン・ストラーダ教会を先に見ます。


28
ゴシック様式の鐘楼が目印です。


29
サンタ・マリア・イン・ストラーダ教会のファサード


30
フランチェスコ会修道士がミラノの建築家Ambrosoliusに委嘱して、彼の設計によって1348年から1357年に建設されたロンバルド・ゴシック様式の教会です。


31
Stradaの呼称はモンツァからミラノに向かう街道に面して建設されたことに由来します。


39
教会の説明板


32
ファサードの聖母子


33
ファサードの装飾


34
バラ窓


35
ポータル上ルネッタにフレスコ画があったと思いますが、その痕跡さえも認められません。


36
ルネッタ下の彫刻


37
残念ながら教会は閉まっていました。


38
鐘楼を見上げました。


40
(つづく)

引き続きポリローネ修道院です。
P1190912
聖堂の礼拝堂の一つです。祭壇画は詳細不知です。


P1190914
礼拝堂天井の装飾


P1190915
これで聖堂の見学は終わりです。


P1190917
聖堂の見所を記したガイド板がありました。


P1190918


P1190919
オルガンがある場所は修復工事のため立ち入り禁止になっていました。


P1190920


P1190921
身廊隔壁はジュリオ・ロマーノと工房の作品ですが、殆ど見ることが出来ませんでした。


P1190922


P1190923


P1190924


P1190925


P1190926


P1190932
外に出ました。


P1190937
この日の夕方に開くレストランがなさそうだったので、村歩きを続けながら食料調達です。


P1190938
ジャコモ・マッテオッティ広場です。


P1190940
Porta di Ingresso all' Abbazia del Polirone


P1190941
小さな村に泊まる場合、昼食のレストランは簡単に見つかりますが、夕食の食べる所に苦労することが結構あります。特に日帰り観光客が多い村では。


P1190942
村一番の通りであるエンリコ・フェッリ通りです。


P1190943
Palazzo Comunaleも修復工事中でした。


P1190944
旧サン・フロリアーノ教会の鐘楼です。


P1190946
修道院付近は人出が途絶えました。


P1190947
この日はこれで終わりです。
B&Bに戻り、調達した食料を食べながらワインとビールを飲み、飲んだくれて寝ました。


P1190949
翌朝です。


P1190950
この日も快晴でした。


P1190951
駅に向かいます。


P1190952
見所が修道院だけの村なので、同じような写真になってしまいます。


P1190953


P1190954


P1190955


P1190956


P1190958


P1190959


P1190960


P1190961


P1190964


P1190965


P1190966


P1190967


P1190972


P1190973


P1190974
駅が見えてきました。


P1190975


P1190976


P1190977


P1190978
次の目的地に向かいました。
(サン・ベネデット・ポー編 終わり)

P1190864
アントニオ・ベガレッリ(モデナ、1499-1565)の「聖アンドレア」


P1190865
アントニオ・ベガレッリ(モデナ、1499-1565)の「聖ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ(福音書記者聖ヨハネ)」


P1190866
詳細不知


P1190867
マティルデ・ディ・カノッサの墓(18世紀)
これは問題の墓です。1632年、サンタ・マリア礼拝堂に埋葬されていたマティルデの遺体が掘り起こされ、ヴァティカンに高額で売却したポリローネ修道院ですが、その罪滅ぼしのためでしょうか、18世紀にこの墓を造ったのです。中に遺体はありません。


P1190869


P1190868
詳細不知


P1190871
詳細不知


P1190872
ジュリオ・ロマーノ(ローマ、1499-マントヴァ、1546)の「聖ピエトロ」


P1190873


P1190875


P1190876
次の礼拝堂です。礼拝堂の名前を知りません。


P1190877
礼拝堂天井の装飾


P1190878


P1190879


P1190880


P1190881


P1190882


P1190883


P1190884


P1190885


P1190886


P1190887


P1190888


P1190889


P1190890


P1190891


P1190893
詳細不知


P1190894
本堂に戻りました。


P1190895


P1190896
ジュリオ・ロマーノと工房の作品


P1190897


P1190899
詳細不知


P1190900
詳細不知


P1190901
詳細不知


P1190902


P1190904


P1190905


P1190906


P1190907
詳細不知


P1190909
アントニオ・ベガレッリ(モデナ、1499-1565)と工房の「聖ジョヴァンニ・バッティスタ(洗礼者聖ヨハネ)」


P1190910
(つづく)

P1190822
引き続きサンタ・マリア礼拝堂です。


P1190809
壁にフレスコ画が残されてます。


P1190810
12世紀に描かれたフレスコ画です。


P1190832


P1190833


P1190834


P1190814
サンタ・マリア礼拝堂の天井装飾です。


P1190821


P1190815


P1190837


P1190841


P1190823
修復された柱頭でしょうか?


P1190829


P1190830


P1190831
磔刑像(詳細不知)


P1190835
アントニオ・ベガレッリ(モデナ、1499-1565)と工房の「聖ラウレンティウス」


P1190836
アントニオ・ベガレッリ(モデナ、1499-1565)の「聖ベネデット」


P1190839
アントニオ・ベガレッリ(モデナ、1499-1565)と工房の「聖パオロ」


P1190840
アントニオ・ベガレッリ(モデナ、1499-1565)と工房の「聖マルティーノ」


P1190842
聖歌隊席の上にも彫刻があります。


P1190838
詳細不知の祭壇画


P1190843


P1190844


P1190846


P1190845
聖歌隊席は、ヴィンチェンツォ・ロヴェッタと彼が率いる工房によって16世紀に制作されました。


P1190847


P1190848
聖歌隊席の一部はジュリオ・ロマーノのデザインと言われてます。


P1190849


P1190850


P1190851


P1190852


P1190857


P1190858


P1190853
聖歌隊席天井の装飾


P1190854


P1190855


P1190856


P1190859
アントニオ・ベガレッリ(モデナ、1499-1565)と工房の「聖フロリアーノ」


P1190860
アントニオ・ベガレッリ(モデナ、1499-1565)と工房の「聖ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ(福音書記者聖ヨハネ)」


P1190861
詳細不知


P1190863


P1190862
アントニオ・ベガレッリ(モデナ、1499-1565)と工房の「聖マウルス」
(つづく)

P1190780
ガイドさんが入り口扉を開錠して、ガイドさんと共に聖堂内に入りました。


P1190781
1797年、ナポレオンの抑圧令によって修道院が閉鎖されました。それ以来、聖堂の方は公的な宗教施設ではないとされてます。


P1190783
しかし、地元の村人は祈りを捧げるために訪れることが出来るようです。


P1190785
2012年5月29日に発生したマントヴァ付近の大地震によって大きな被害を受け、修復工事が行われていましたが、2014年、2015年に起きた、さほど大きくはなかった地震によって被害が拡大してしまいました。
ポー川とリローネ川に囲まれた島と、島周囲の河原を埋め立てて出来た、元々地盤が弱い土地の上に建設されたので、小地震でも被害を受けることが多く、修復工事が追い付かないそうです。
聖堂内に入ったものの、聖堂内の大部分が修復工事中で見学できないようになっていました。


P1190777
祭壇画は、逸名画家作「信仰の寓意」(16世紀)


P1190778
礼拝堂の祭壇


P1190779
アントニオ・ベガレッリ(モデナ、1499-1565)の「聖シモーネ」


P1190788
アントニオ・ベガレッリ(モデナ、1499-1565)の「聖マリア・マッダレーナ」


P1190786
礼拝堂天井の装飾


P1190787
この礼拝堂は危険ではないので、拝観出来ますが、修復工事が必要との事でした。建物の危険度によって、修復の優先順位を付けているそうです。


P1190789
磔刑の礼拝堂


P1190790


P1190792


P1190793
磔刑礼拝堂天井


P1190794


P1190795
サン・ベネデット礼拝堂


P1190796
通路の左右は修復工事中です。


P1190797
クーポラ


P1190799


P1190800


P1190801


P1190802


P1190804


P1190798
ジュリオ・ロマーノ(ローマ、1499-マントヴァ、1546)と工房の作品


P1190805


P1190806


P1190813
次はサンタ・マリア礼拝堂です。
ボニファチョ・ディ・カノッサ(985-1052)によって、11世紀に再建された修道院ですが、その時にサンタ・マリア礼拝堂も建設されました。


P1190820
トスカーナ女伯爵マティルデ・ディ・カノッサ(マントヴァ、1046-ローマ、1115)は、ポリローネ修道院に多大な寄付を行いましたが、ローマで没した彼女の遺体はポリローネ修道院に運ばれ、サンタ・マリア礼拝堂に埋葬されました。


P1190816
サンタ・マリア礼拝堂の祭壇画(詳細不知)


P1190807
サンタ・マリア礼拝堂の床のモザイク


P1190808
11世紀-12世紀のモザイク


P1190811
モザイクの所にマティルデ・ディ・カノッサの墓がありました。


p1190808
マティルデの墓の跡です。
1632年、マティルデの遺体が掘り起こされ、ヴァティカンに運ばれました。当時の修道院長が教皇に対して、非常な高額でマティルデの遺体を売却したのです。売る方も売る方であり、買う方も買う方です。


P1190812


P1190817


P1190818


P1190819


P1190826


P1190827


P1190828


P1190824
古そうな柱です。


P1190825
(つづく)

P1190740
引き続きワイン醸造所の荷車です。


P1190741
修道院と村人の関係は必ずしも良かったとは言えない時期が続いたそうです。


P1190742
関係が悪かったのは、無給、或いは非常な薄給で村人を徴用したからだそうです。


P1190743
前述のように、カノッサの屈辱で有名なトスカーナ女伯爵マティルデ・ディ・カノッサ(マントヴァ、1046-ローマ、1115)はこの修道院で埋葬され、1632年にローマのサン・ピエトロ大寺院に移されました。
その理由を知ると嫌になります。


P1190744
当時の修道院長が、第235代教皇ウルバーノ8世(フィレンツェ、1568-ローマ、1644 在位:1623-1644)にマティルデの遺体を売ったのです。


P1190745
しかも非常な高額での取引だったと伝えられてます。
キリスト教の初期には、聖人の聖遺物が祭壇の下にないと、教会建設できなかったので、聖遺物の最たるものである聖人の遺体は高額で取引されることがありましたが、マティルデ・ディ・カノッサは聖人ではありません。


P1190746
修道院の荷車に描かれる図柄では異質になります。


P1190747
この半地下の場所は洪水の時にはどうしたのでしょうか?


P1190749
彫刻も見どころです。


P1190750


P1190751
絞り器


P1190756
外に出ました。


P1190596
次は聖堂です。


P1190509
前述のように修道院教会はジュリオ・ロマーノ聖堂とも呼ばれてます。12世紀に再建された教会はロマネスク様式でしたが、後に一部改造されてロマネスコ・ゴシック様式の建物になりました。
そのロマネスク・ゴシック様式を出来るだけ生かして、ジュリオ・ロマーノによって1540年から1545年に拡大改造されて現在の姿になりましたが、ジュリオ・ロマーノの功績をたたえるために1547年にジュリオ・ロマーノ聖堂と呼ばれるようになったのです。


P1190933
聖堂ファサードに向かって右側に塀と門が設けられてます。


P1190934
塀の上に聖人たちの彫像が置かれてます。


P1190935
彫像の制作者等の情報を知りません。


P1190931
ファサード下部に柱廊が設けられてます。


P1190929


P1190930
柱廊天井


P1190927


P1190928
中央入り口扉上ルネッタにフレスコ画があります。


P1190502
ルネッタのフレスコ画は、ジュリオ・ロマーノ(ローマ、1499-マントヴァ、1546)によって制作されました。


P1190504
ファサードの左右の壁龕にアダムとエヴァ(イヴ)の彫刻があります。


P1190503
制作者は不明のようです。


P1190505


P1190506


P1190758
次は木製の入り口扉です。


P1190759
ガイドが熱心に説明してくれたので、芸術性の高い貴重な扉なのでしょう。


P1190760
いくら見ても傑作には思えなかったので、ガイドさんの説明は馬の耳に念仏でした。


P1190761
ジュリオ・ロマーノのデザインによって1547年に制作された扉です。


P1190762
制作したのは、ヴィンチェンツォ・ロヴェッタ工房だそうです。


P1190763


P1190764
熱心な説明をフンフンと頷きながら、さも興味があるように撮った写真です。


P1190765
ガイドさんと一対一は、かなり気を使います。


P1190766


P1190767


P1190768


P1190769


P1190770


P1190771


P1190772


P1190773
(つづく)

P1190693
サン・ベネデットのキオストロに戻りました。


P1190696
サン・ベネデットのキオストロから見た聖堂


P1190556
次は修道院食堂です。


P1190698
現存する食堂は、1478年に建設されました。


P1190757
食堂入り口壁の案内標識


P1190699
食堂の中に入りました。
修道院食堂の定番とも言える最後の晩餐があります。ただ、有り難がって見るべき最後の晩餐ではありません。


P1190701
「最後の晩餐」とそれを取り囲むフレスコ画の制作者が異なります。


P1190700
ジローラモ・ボンシニョーリ(ヴェローナ、1472-マントヴァ、1529)の「最後の晩餐」(1514c)
実は、ここにあるのは本物の精巧な写真です。本物のキャンバス画はロヴィーゴの市立美術館にあります。


P1190702
ジローラモ・ボンシニョーリは、フラ・ボンシニョーリとも呼ばれたドメニコ会の修道士画家で、レオナルド・ダ・ヴィンチの強い影響を受けた画風でした。
この「最後の晩餐」もレオナルドの「最後の晩餐」に酷似しています。


P1190707
トリノ大聖堂にレオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」のコピー画がありますが、技量の点ではトリノの方が勝るように思います。


P1190705
ここの見所としては、「最後の晩餐」を取り囲むフレスコ画です。こちらは本物です。


P1190706
礼拝堂を模した騙し絵です。


P1190704
フレスコ画(1514c)は、アントニオ・アッレグリ通称イル・コッレッジョ(コッレッジョ、1489c-1534)に帰属します。


P1190708


P1190709


P1190710
壁龕、そこに置かれた彫刻などは騙し絵のフレスコ画です。制作者等の情報が分かりません。


P1190711
天井のフレスコ画


P1190712
修復工事が行われていたので、立ち入り禁止になってました。


P1190713


P1190714


P1190715
写真ですが、敬意を表して最後の晩餐をもう一度見てから先に進みます。


P1190717
食堂からワイン醸造所に続く通路です。ここは、ワインの熟成所だった場所です。


P1190718
碑文が展示されてます。
1585年、天正遣欧少年使節の一行がポリローネ修道院に訪れましたが、その記念碑も展示されています。


P1190719
修道院の柱、柱頭、彫刻などが展示されてます。


P1190720


P1190721
聖ロムアルド(制作者情報不知)


P1190722


P1190753


P1190723
アントニオ・ベガレッリ(モデナ、1499-1565)の「聖母子」


P1190727
ワイン醸造所です。ワイン醸造は修道院の主要事業の一つでした。


P1190726


P1190728
ブドウの摘み取り、ワインの移送など様々な用途に使用された荷車が展示されてます。


P1190729


P1190730


P1190731


P1190732


P1190733


P1190734
修道院の荷車らしく聖職者が描かれてます。


P1190735


P1190736


P1190738


P1190739
(つづく)

P1190650
サン・シメオーネのキオストロ回廊です。


P1190658
現存するサン・シメオーネのキオストロ回廊は1458年から1480年に建設されました。


P1190663
後期ゴシック様式の柱廊です。


P1190651
柱廊の壁ルネッタにフレスコ画があります。


P1190652
15世紀後半にフランドルの画家数名によって制作されたと帰属されてます。


P1190655
ルネッタのフレスコ画のテーマは、聖シメオーネの生涯の物語となってます。


P1190653
天井に修道士、司教が描かれてます。
これもフランドルの画家数名の作品です。


P1190654
色褪せてはっきり見えない所は、当初、教皇が描かれていたそうです。


P1190656
暇そうに立っている人は、この日のガイドさんです。客が私一人で、私が熱心に見て回るので、その間、暇を持て余したようでした。


P1190657


P1190659


P1190660


P1190661


P1190662


P1190663


P1190664


P1190665


P1190666


P1190667


P1190668


P1190669


P1190671


P1190672


P1190673


P1190674


P1190675


P1190676
サン・シメオーネのキオストロ


P1190678
サン・シメオーネの柱廊から修道院修士会堂 Sala del Capitoloに入りました。


P1190677
1007年、テダルド・ディ・カノッサ伯爵(?-1012)によって創建された修道院の一部が残されてます。


P1190679
最初に建設された建物の土台


P1190680
ロマネスク様式の建物でした。


P1190681


P1190682


P1190683


P1190684
20世紀に修復された柱頭


P1190685


P1190686
1458年から1459年に改造されたクロスヴォールトです。


P1190687


P1190688


P1190689


P1190690


P1190691


P1190692
(つづく)

次は、民族学博物館 Museo Civico Polironianoです。
P1190609
修道院の僧房が展示室になってます。


P1190610
展示室は10室から成ってますが、同じ僧房でも数室になっている場合があって、僧房が10室ある訳ではありません。
第1室の「穀物の栽培」です。


P1190611
第2室の「馬小屋と牛乳の供給」


P1190612
中世の村人は人形で表現されてます。


P1190614
第3室の「チーズの製造」


P1190613
第4室の「サラミ製造」


P1190615
第5室の「農村社会」


P1190616
僧房のフレスコ画


P1190617
第6室の「村人の生活」


P1190618
第6室です。


P1190619


P1190620
部屋の装飾


P1190621


P1190622


P1190623


P1190624
第7室の「村人の生活」


P1190625
馬車の装飾


P1190626
フレスコ画の詳細等については、私は全然分かりません。


P1190627
第8室の「交易と職業」
展示は特産品のようです。


P1190628
第9室の「農村社会」


P1190630
機織り機?


P1190631
女性の生活


P1190632
農機具


P1190629
第10室の「学校の教室」


P1190633
部屋のフレスコ画断片(詳細不知)


P1190634
個人用の祈りを捧げるもの


P1190635


P1190636
部屋のフレスコ画


P1190637


P1190638


P1190639


P1190640


P1190641


P1190642


P1190643


P1190644


P1190645


P1190646


p1190809
民族学博物館を出ます。


P1190647
柱廊に出ました。


P1190648
聖堂のクーポラ


P1190649
サン・シメオーネのキオストロです。
(つづく)

P1190517
次は、ポリローネ修道院 Abbazia di San Benedetto in Polironeです。
修道院聖堂の複合施設であり、またMuseo Civicoなので、カテゴリーをどうするか迷う所ですが、全部を含めて一枚の切符で見学できることから敢えて「美術館」のカテゴリーに入れました。


p1190806
複合施設の全体像は、航空写真で分かると思います。


P1190527
切符は観光案内所で買うことが出来ます。見学は原則としてガイド付きツアーになってます。
建物の概略図 1は修道院聖堂、教会です。2.修道院食堂 3.サン・シメオーネの中庭 4.サン・ベネデットの中庭 5.在家の中庭 6.ワイン醸造所(修道院の主要産業がワイン醸造でした) 7.修道院修士会堂 8.Museo Civoco Polironiano


p1190807
広大な面積に加えて見所が沢山あるので、全部を見ようとすると、相当な時間と労力が必要となります。


P1190947
ブレーシャ、モデナ、フェッラーラ、レッジョ、マントヴァの伯爵テダルド・ディ・カノッサ(10世紀後半生まれ-1012没)によって1007年に創建された修道院です。
テダルド・ディ・カノッサは、カノッサの屈辱で有名なトスカーナ女伯爵マティルデ・ディ・カノッサ(マントヴァ、1046-ローマ、1115)の祖父です。
修道院は7人の修道士がいるだけの小さなものだったそうです。やがて小さな教会も建設されました。


P1190945
ポー川とその支流リローネ川に囲まれた修道院は、創建以来洪水被害に悩まされていました。
11世紀、テダルドの息子で、マティルデの父ボニファチョ・ディ・カノッサ(985-1052)によって修道院は拡大されると共に教会が再建されました。
教会は、12世紀にさらに再建され、1130年に奉献式が執り行われました。
修道院内に現存するサンタ・マリア礼拝堂はボニファチョ・ディ・カノッサによって建設されました。


P1190514
1077年、修道院はベネデット会に渡されました。


P1190501
トスカーナ女伯爵マティルデ・ディ・カノッサ(マントヴァ、1046-ローマ、1115)は、修道院に対して多大な寄付を行いました。その寄付のお陰で裕福な修道院になりました。
ローマで没したマティルデの遺体は、運ばれてポリローネ修道院のサンタ・マリア礼拝堂に安置されました。現在、マティルデの墓はヴァティカンのサン・ピエトロ大聖堂にありますが、1632年に彼女の遺体がポリローネ修道院から移されました。


p1190808
サンタ・マリア礼拝堂にあるマティルデ・ディ・カノッサの墓跡です。


P1190926
サン・ベネデット・イン・ポリローネ聖堂は、別名ジュリオ・ロマーノ聖堂と呼ばれてます。
1540年、修道院と教会の修復がジュリオ・ロマーノ(ローマ、1499-マントヴァ、1546)に委嘱されましたが、1547年に完成した聖堂です。


P1190520
1797年、ナポレオンの抑圧令によって修道院が閉鎖されてしまいました。
その間、ポリローネ修道院は、政治的にも、文化的にも、宗教的にも、そして経済的にも、この地方一帯における歴史の中で重要な役割を果たしました。


P1190547
修道院は、困窮者の救済に当たるとともに、彼らの一時的な住居となりました。


P1190562
観光案内所兼切符売り場で、ガイドと待ち合わせて見学に出発しました。この日の客は、私一人でした。
最初はサン・ベネデットのキオストロです。


P1190564
写真左が聖堂(教会)、写真右が修道院食堂ですが、その間にあるのがサン・ベネデットの中庭です。


P1190566
中庭を囲んで回廊が設けられてます。


P1190565
サン・ベネデットのキオストロ回廊です。


P1190559
回廊の壁のルネッタ上にフレスコ画があります。


P1190568
フレスコ画のテーマは、聖ベネデットの生涯の物語です。


P1190571
1475年頃に描かれたフレスコ画です。
フレスコ画の制作者は不明とされてますが、絵画を描く修道士の可能性があるそうです。この当時、修道士画家がいる修道士会は珍しくありませんでした。


P1190572


P1190573


P1190574


P1190575


P1190576


P1190577


P1190578


P1190579


P1190580


P1190581


P1190582


P1190583


P1190584


P1190585


P1190586


P1190588
2012年5月29日、マントヴァ地方を襲った大地震によって建物は大きな被害を受けました。また、その2年後の2014年、さらに2016年にも地震に見舞われて、修復工事が追い付かない状況になってます。


P1190589
2つの川の川中島に、その周囲を埋め立てた土地に建設されたので、元々地盤が悪く建物の強度に問題があるとされてます。


P1190567
また、度々洪水に見舞われたので、その影響によって地震に弱いそうです。


P1190569


P1190606
次は在家のキオストロです。


P1190607
キオストロ回廊があります。回廊にはフレスコ画がありません。


P1190601
中庭を囲む建物L'Infermeria Nuovaの彫刻


P1190602
在家の回廊です。


P1190603
修復工事中の回廊の彫刻


P1190605
柱によって建物を支えてます。これから本格的な修復工事が行われるようです。


P1190608
(つづく)

P1190524
Via Eugenio Dugoni


P1190526
村の案内地図が村の入り口にありました。


P1190527
ポリローネ修道院聖堂の案内地図です。


P1190528


P1190530
修道院だった建物です。ここにサン・ベネデット・ポーの民族博物館 Museo Civico Polironianoがあります。物質文化、農村社会、修道院の歴史や産業などが展示されてます。


P1190532
Museo Civoco Polironianoは、修道院だった建物の地下と一階(日本の二階)に主に設けられてます。


P1190533
切符売り場は、観光案内所を兼ねる場所にあるので、旧サン・フロリアーノ教会近くのこちらから入館する人は滅多にいないようです。
私は修道院、聖堂の一環として入館したので、こちらの出入口とは無縁でした。


P1190534
博物館前から旧サン・フロリアーノ教会を撮った写真です。


P1190531
修道院の周りは閑静な住宅地になってます。


P1190535
城壁は築かれたことがなかったようです。


P1190536
荒廃した教会のような建物は、16世紀初頭、当時の修道院長ジョヴァンニ・コルサーロ・ダ・ヴェネツィアによって建設された修道院図書館です。
1797年、ナポレオンの抑圧令によって修道院が閉鎖されてしまいました。図書館の所蔵図書はマントヴァ市図書館に運ばれて、現在でも所蔵されてます。
図書館だった建物はボタン工場に転用されました。建物の隣の煙突は、ボタン工場時代のものです。


P1190540
修道院図書館だった建物の保存計画があるようですが、資金難のため先行き不明のようです。


P1190537
観光客にとっては、この辺は無視しても良さそうです。


P1190538
ポー川とリローネ川の繰り返される洪水によって、疲弊した村でした。


P1190539
この辺は修道院の農園でした。


P1190541
戦争、略奪、洪水によって貧しい修道院として有名だったそうです。


P1190542
この村の見所は、やはり修道院と聖堂だけと痛感できました。


P1190543
幹線道路に囲まれている村です。


P1190544
ポー川の堤防にやってきました。


p1190804
ポー川です。


p1190805
流れが速く、水量が多い川でした。


P1190545
ポー川を見ていても詰まらないので、村の中心に戻ることにしました。


P1190546
村を一周して、観光客にとってのサン・ベネデット・ポーはポリローネ修道院と聖堂に尽きます。


P1190548
グループ・ツアーのご一行様が来ていました。グループの場合、Museoの休館時間でも修道院、聖堂、博物館巡りが可能のようです。


P1190549
観光案内所に向かいます。


P1190551
観光案内所がMuseo(修道院と聖堂を含みます)の切符売り場を兼ねてます。また、ガイドとの待ち合わせ場所になっており、見学はここから出発します。


P1190552
切符を買いましたが、ガイドとの待ち合わせまで時間があったので、それまで適当に歩き回りました。


P1190553
修道院のサン・ベネデットのキオストロです。


P1190555
キオストロは綺麗に整備されてます。


P1190554


P1190591
キオストロの柱廊


P1190595
サン・ベネデットのキオストロと聖堂の間に建っている建物が分かりません。


P1190597
写真左の建物です。


P1190598


P1190599
トレント通りです。


P1190600
Piazza Matilde di Canossaです。


P1190593
Basilica Minoreに格付けされてます。


P1190594


P1190501
Basilica Polironiana


P1190517


P1190587
(つづく)

P1190455
スッザーラは、マントヴァ、モデナなどを結ぶ鉄道支線のターミナル駅です。


P1190456
スッザーラからサン・ベネデット・ポーに向かいます。


P1190457
この辺は、Trenitalia子会社が運行しています。


P1190481
Ferrovie Emilia Romagnaの車両に乗車しました。


P1190482
車内は空気を運ぶような状況でした。


P1190483
電車ではなく、気動車です。


P1190484
サン・ベネデット・ポー駅に到着しました。


P1190486
サン・ベネデット・ポー駅の駅舎です。勿論、無人駅です。


P1190487
村の入り口に通じるアントニオ・グランシ通りです。


P1190488
サン・ベネデット・ポーは、人口6,890人(2019年12月31日現在)のロンバルディア州マントヴァ県にあるコムーネです。


P1190489
ポー川とその支流リローネ川との間の島を基に、その河原を埋め立てて拡張した土地に建設されたポリローネ修道院がありましたが、修道院そのものが村と言っても過言ではありません。
ポリローネの名称は、ポー川とリローネ川に由来します。


P1190490
ローマ通りとの交差点を通り過ぎます。


P1190491
カヴァッロッティ通りとの交差点を通り過ぎます。


P1190492
村の中心入り口の目印となっている旧教会の鐘楼です。


P1190493
ポリローネ修道院教会にやってきました。


P1190494
Piazza Folengo Teofiloは青空市の真っ最中でしたが、人口が少ないので、店の数もそれに比例して少なかった。


P1190494


P1190495
写真左が修道院で、写真中央が聖堂です。


P1190496
こちらは食堂で、中に最後の晩餐があります。


P1190497
Piazza Matilde di Canossa


P1190498
この日のお宿に向かいます。


P1190500
聖堂と修道院はMuseoになっています。


P1190499
後でゆっくりと見る予定です。


P1190507
この日のお宿はB&Bでしたが、鍵の受け渡し、鍵が開かない、所有者との電話がつながらないのトラブルがあって散々な旅となってしまいました。


P1190508
観光案内所がありますが、B&Bのトラブルに際して、その係員に大変お世話になりました。


P1190509
某社ネット予約サイトでB&Bを予約したのですが、その際、予定到着時間連絡必須だったので、ネット予約で予定時間を連絡しました。日本を出発前に、念のために予約サイトとB&Bのメールアドレスに予定到着時間をメール送信しました。予約サイトからは、B&Bにメール連絡したが、確認の連絡を受けていないとのメールがありました。私のB&Bへの直接連絡に対しても、返答がありませんでした。
でも現地に行けば、何とかなるだろうと高を括って、この村に来たのですが、結果、最悪だったのです。


P1190510
B&Bに行ったら無人、施錠されたまま。扉の前に連絡先として固定電話と携帯電話の番号が書いてあったので、電話したら、固定電話の方は室内から呼び出し音がなっているので、どうにもなりません。携帯電話の方は、電源が入っていない(イタリア語でしかも焦っていたので多分ですが)と言うのみ、通じません。


P1190512
仕方がないので、レストランに行き、ゆっくり食事をしていると、レストランのオーナーから観光案内所に行けば必ずB&Bと連絡がつくとの助言がありました。


P1190550
観光案内所が開く時間を待ってレストランから出て、観光案内所に行くと、レストラン・オーナーの助言通り、B&Bと連絡がついてチェックインできました。
B&Bの携帯電話はいたずら電話とスパムメールの標的になっているので、使用していないとの仰せ。


P1190513
赤っぽい塗装の家がこの日のお宿です。
宿泊者は私一人。不便をかけたことに対し、詫びるでもなしの冷たい対応。この分では、何かあるだろうの予感がありましたが、見事予感が当たりました。来たのが、単なるアルバイト(私の想像ですが)の若者だったので、その辺は仕方がないと思いました。
これで問題解決の筈でしたが、外出して戻ったら鍵が開かないのです。蝶のような形をした芸術的な鍵をご存知ですか?渡された鍵が3つあって、ゲート、家、部屋の3つでしたが、ゲートと家の鍵が蝶型で、ゲートの鍵は開きましたが、家の鍵がどうしても開かないのです。
チェックインの際、問題があったら、携帯電話に連絡して欲しいとの仰せだったので、電話を架けると電源が入っていないの音声が聞こえるのみでした。話になりません。
ところが、観光案内所に行った時、案内所の女性が女性の携帯電話番号を教えてくれていたのです。多分、このような種々の問題を生じる常習犯とも言えるB&Bと認識していたのでしょう。(勝手な私の憶測です)
その女性に電話したら解決に向かいました。無事B&B側と連絡が付き、別の係員がやってきて部屋に戻ることが出来ました。表扉は慣れないと空けるのが難しいので、裏の勝手口を使うように鍵を渡されていないかった?と聞くのです。勿論、勝手口の鍵は渡されていないし、そんな話は聞いていないのです。
キッチン付きB&Bがお気に入りでよく利用してましたが、チェックイン、チェックアウト、鍵、電源、自動ロック(ベランダの自動ロックには本当に呆れました。洗濯物を干しにベランダに出たら、部屋に戻れなくなりました)等々の問題に懲りて、近頃ではフロント常駐のホテルに泊まることにしてます。


P1190514
村歩きに出発しました。


P1190515
修道院と聖堂は、Museoになってますが、ガイド付きツアーのみ可能になってます。


P1190516
エンリコ・フェッリ通り沿いの家並みです。


P1190518
ガイド付きツアーは、観光案内所出発ですが、出発まで時間があるので、それまで村歩きです。


P1190519
ゆっくり昼食を食べた店です。B&Bと連絡がつかなくて焦っていたのか、昼食時の写真を撮り忘れました。


P1190520
鐘楼右の建物は、聖堂の聖職者館です。


P1190521
青空市のトラックが広場から一台残らず立ち去りました。


P1190522
旧サン・フロリアーノ教会です。


P1190523
村の中心入り口にある旧教会の鐘楼は、村の目印になってます。2012年の地震によって被害を受け解体の危機にありましたが、修復工事資金調達が可能になって近く工事着工になるようです。


P1190525
旧サン・フロリアーノ教会前の水飲み場


P1190529
(つづく)

142
次はヴィジェーヴァノのドゥオーモ、サンタンブロージョ大聖堂です。


137
963年と967年の文書に、この場所にあった教会が記載されてます。


136
現在の建物は、最後のミラノ公爵フランチェスコ2世・スフォルツァ(ミラノ、1495-ヴィジェーヴァノ、1535)の命によって、1532年に創建されたもので、1606年に一応の完成を見たものです。設計者はアントニオ・ダ・ロナーテ(ロナーテ・ポッツォ―ロ、1456/1457-ミラノ、1541c)でした。


240
バロック様式のファサードは、ヴィジェーヴァノ司教ファン・カラミュエル・イ・ロブコヴィッツ(マドリッド、1606-ヴィジェーヴァノ、1682)の設計によって、17世紀後半に建設されました。
スペイン出身のファン・カラミュエル・イ・ロブコヴィッツ司教は、数学者でもあり、建築にも通じていました。
鐘楼は、14世紀に建設された市の塔がそのまま教会の塔に転用されて現在に至ってます。


244
聖堂内に入りました。


241
三廊式、ラテン十字形、マニエリスム様式の内部です。


242
19世紀に行われた装飾が目立ちます。


245
チェーザレ・マーニ(ミラノ、1492-1534)の「磔刑」


248
フェルディナンド・ガッティ通称イル・ソイアーロ(パヴィア、1495c-クレモナ、1575)の「復活したキリスト」


249
詳細不知


251
詳細不知


253
フランチェスコ・ゴニン(トリノ、1808-ジャヴェーノ、1889)による装飾


254
主祭壇


255
アレッサンドロ・サンクィリコ(ミラノ、1777-1849)による後陣フレスコ画(1828-30)


256
クーポラ


259
詳細不知


257
詳細不知


261
ロンバルドの逸名画家作「磔刑と聖マリア・マッダレーナ」(16世紀)


263
詳細不知


265
ベルナルディーノ・フェラーリ(ヴィジェーヴァノ、1495-1524)の「天上の聖母子と聖人たち」


268
ロンバルドの逸名画家作「ポリッティコ」(16世紀)


270
チェーザレ・マーニ(ミラノ、1492-1534)の「聖母子と聖人たち」


271
詳細不知


273


274
詳細不知


275
詳細不知


276
詳細不知


277
右側廊


278
フェルディナンド・ポルタ(ミラノ、1689-1767)の「キリストの洗礼」


280


281


279


282
ベルナルディーノ・フェラーリ(ヴィジェーヴァノ、1495-1524)の「サンティ・ジャコモ・エ・クリストフォロ礼拝堂の多翼祭壇画」(1510)


285
詳細不知


286
詳細不知


287


289
フランチェスコ・ゴニンによる天井フレスコ画


290
クリプタ


291
詳細不知


288
主祭壇をもう一度見てから外に出ました。
(おわり)

186
次はサンタ・マリア・デッレ・ネーヴィ教会です。


187
サンタ・マリア・デッレ・ネーヴィ教会が見えてます。


189
15世紀に、この場所に建設されたサンタ・マリア・デイ・ペッシ教会が前身です。
ヴィジェーヴァノを流れるティチーノ川から獲れた魚を商う魚市場がこの場所にありました。教会名にPesciが付く由来です。


190
現在の建物は、1559年から1606年にかけて、死の同信会によって建設された二代目となるものです。


188
初代の建物にあった、15世紀に描かれた「聖母子と聖セバスティアーノと聖ロッコ」の祭壇画が見ものとされてます。


191
扉が閉まっていたのは仕方がないと思いました。


192
道の突き当りに新しそうな教会があります。


194
19世紀末に建設されたManostero Suore Sacrametineです。女子修道院です。


197
徐々に涼しくなってきました。


199
Palazzo Merulaです。


198
17世紀にドメニコ会によって建設されたサンタ・マリア・アッスンタ女子修道院だった建物です。


200
中に入るとキオストロ回廊に出ます。


201
ナポレオンのイタリア侵攻に伴う教会活動抑止策に基づき、修道院活動が停止され、1805年に州所有物件となりました。
1809年に孤児院として使用されるようになり、その後、孤児院を併設した市民病院となりました。


202
キオストロ回廊に置かれている彫刻


203
外に出ました。


204
サンティグナツィオ・ディ・ロヨラ教会です。


205
1694年から1708年にかけて建設されました。


206


207


208
扉が閉まっていました。


209
カステッロが開く時間になりました。


210
カステッロ自体には殆ど見所がないようですが、ヴィジェーヴァノに来たからには入らなくては。


211
結論を言えば、見所はなしでした。


1-2


1-3


1-4


212
外に出ました。通りの先にサン・フランチェスコ教会が見えてます。


232
サン・フランチェスコ教会です。


1-1
1397年に建設されました。


231
15世紀中頃に拡張され、現在の姿になりました。


230
ファサード前の「鳥に説教する聖フランチェスコ」の泉


233
ファサード横の小礼拝堂


234
ドゥカーレ広場に戻ります。


213


214
ドゥオーモが開く時間です。


235
扉が開きました。


236
広場の床の模様


238
レオナルド・ダ・ヴィンチ考案と言われてます。


237


239
(つづく)

152
通りの突き当りに教会があります。


153
1363年に建設されたサン・ピエトロ・マルティーレ教会です。


155
現在のロンバルド・ゴシック様式の外観は、1446年から1480年にかけて拡大改造された後のものです。


158
中に15世紀のフレスコ画や16世紀の祭壇画「受胎告知」などがありますが、扉が閉まっていたので拝観出来ず。


156
入口扉上ルネッタの詳細不知の「殉教した聖ピエトロ・マルティーレを悼む修道士たち」


157
サン・ピエトロ・マルティーレ教会ファサード前のベアート・マッテオ広場です。


159
この門からスフォルツェスコ城内に入ります。


161
門を潜って城内に入りました。写真は城内から見た潜ってきた門です。


160
カステッロの中庭です。ブラマンテの塔が目立ちます。


164
中庭は公園として一般開放されてます。


162
ロンゴバルド時代の7世紀から10世紀に建設した城が基になってます。


163
その後、城はミラノ僭主のルキーノ・ヴィスコンティ(ミラノ、1287-1349)とミラノ公爵ルドヴィーコ・イル・モーロ(ミラノ、1452-フランス、ロシュ、1508)によって拡大整備されました。
現在の姿は、イル・モーロの命によって1492年から1494年にかけて建設されたものが中心となってます。


165
城内に入ってみました。


166
フレスコ画がありました。


167
ここはMuseo Civicoの出口でした。


215
城ですが、1535年、スフォルツァ家によるミラノ支配が終わると、ヴィジェーヴァノ城はスペインの支配下に置かれました。その後、オーストリア軍の駐屯地になりましたが、歴史の変遷によって、サルデーニャ軍、イタリア軍の軍事基地となり、1968年まで軍の駐屯地として使用されました。


216
現在は市立博物館などとして公開されてます。


218
ここから城内に入ります。


217
絵画館、靴博物館、工業製品博物館の3部門から成ってます。


219
城内の回廊


220
入館無料でした。


221
ベルナルディーノ・フェラーリ(ヴィジェーヴァノ、1495-1524)の「玉座の聖母子とと聖ピエトロと聖アンブロージョ」(1515)


223
ロンバルドの逸名画家作「聖母子と聖人たち」


225
ロンバルドの逸名画家作「ご誕生」


226
フェルディナンド・ポルタ(ミラノ、1687-1763)の「キリストの洗礼」


228
靴博物館は一見に値します。


168
一旦、ドゥカーレ宮殿に戻りました。


169
ドゥオーモの扉が未だ閉まってます。


170
もう一度城外に出ます。


171
Corso Vittorio Emanuele II


172
写真右はMunicipioです。


173
1474年に建設された病院が前身です。


174
病院の建物が一部取り壊され、1768年から1771年に改築された建物です。


175
Palazzo Civico 市庁舎です。


177
市庁舎の中庭


178
ここでヴィジェーヴァノの地図を頂戴しました。


179
非常に親切な応対をしてくれた職員に感謝です。


176
市庁舎から簡単にドゥオーモに行けます。


180
市庁舎から至近の場所に教会があります。


182
1323年創建のサン・ディオニージ教会です。


181
14世紀のフレスコ画が中にあるそうですが、拝観したことがありません。


183
市立劇場です。


185


184
(つづく)

ヴィジェーヴァノは、人口63,420人(2018年11月30日現在)のロンバルディア州パヴィア県にあるコムーネです。ミラノの支配下に置かれていた中世の頃、靴産業が興り、現在でも数多くの靴を製造してます。
P1620897
ミラノのFSターミナル駅の中で最も冴えないミラノ・ポルタ・ジェノヴァ駅です。この駅始発の普通列車に乗ってヴィジェーヴァノ駅に向かいました。


106
乗車約25分ほどでヴィジェーヴァノ駅に到着しました。


107
駅舎


108


109
駅から街の中心へと通じるカイローリ通りです。


110
カイローリ通りは右にカーブしています。


111
通りの突き当りが街の中心の入り口です。


112
写真右の建物に注目です。


114
Palazzo Saporiti


117
1828年に建設されました。


113
現在、Palazzo Saporitiはベネデット・カイローリ高校の校舎として使用されてます。


116
Palazzo Saporitiの別の入り口


118
日本の夏のような蒸し暑い日でした。


119
サン・ジョルジョ・イン・ストラータ教会です。


121
城壁の一部として10世紀に創建されました。


120
現在の建物は14世紀に再建された二代目となるものです。


122
旧市街の入り口です。


123
ヴィスコンティ城です。


124
Porta di Via XX Settembre


125
門を潜れば、9月20日通りに出ます。


126
現在の門は14世紀に建設されました。


129
門を潜って、9月20日通り側から見た門です。


127
9月20日通りを進みました。


128
雷鳴が聞こえてきたので、この時は天気の急変を心配していました。結局、降ることはなかった。


130
街角のタベルナコロ


131
街の中心の広場に入ります。


132
ドゥカーレ広場


133
ミラノの支配者ルドヴィーコ・イル・モーロ(ミラノ、1452-フランス、ロシュ、1508)の命により、1492年に建設が開始され1494年に完成したドゥカーレ広場です。


134
ブラマンテの塔


135
巷間、レオナルド・ダ・ヴィンチ設計とされているドゥカーレ広場です。


138
縦134m、横幅48mの広場です。


139


140


142
広場の端に建つのは、サンタンブロージョ司教座教会、ヴィジェーヴァノのドゥオーモです。


137
この時間は未だ開いてません。拝観は後程。


143


144
広場に立つ聖ジョヴァンニ・ネポムチェーノ像


145
外壁はフレスコで装飾されてます。


146
高さ約56mの1196年に遡るブラマンテの塔です。イル・モーロの命によって改造されたものが現存の塔です。
この日は、塔に上ることが出来ませんでした。


147
ドゥカーレ広場からポポロ通りに出ました。


149
通りの先に教会があります。


148
サンタ・マリア・デル・ポポロ教会です。


151
平日は閉まってます。


150
(つづく)

P1820252
ミラノ中央駅に到着しました。


P1820254
約25分遅れの到着でしたが、このくらいの遅れはイタリアでは許容範囲?


P2910055


P2910078
この日のお宿に向かいました。


P2910080
今回は写真左のホテルです。


P2910085
チェックインを済ませて夕食に出ました。


P2910054
5月末なので、まだ十分明るい。


P2910056
中央駅西側の店にしました。


P2910075
近頃気に入っている店です。


P2910073
駅近くでは良い方の店になります。


P2910063


P2910059


P2910062


P2910066


P2910069


P2910070


P2910077
お腹一杯になりました。


P2910079
この日はこれで終わりです。


P2890201
翌日です。
例によってトラムで旧市街へ。


P2890193
Porta Nuova


P2890199
サン・フランチェスコ・ディ・パオラ教会


P2890202
ポルディ・ペッツォーリ美術館に行きます。


P2890205
入館しました。


P2890206
この後、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ聖堂の最後の晩餐を見ました。


P2910051
後は大体同じなので省略です。


P1630100
中央駅近くにある教会です。


P1630104
サン・カミッロ・デ・レッリス教会です。


P1630103
20世紀初めに建設された新しい教会です。


P1630062
中に入りました。


P1630064
拝観するのは、初めてです。


P1630063
三廊式、ラテン十字形の内部です。


P1630065
後陣


P1630067
1923年制作の祭壇


P1630074
右側廊


P1630076


P1630079
聖ジュゼッペの死(1935)


P1630084


P1630085
主祭壇


P1630090


P1630091
説教壇


P1630093


P1630095


P1630097
左側廊


P1630099
出入り口


P1630107
外に出ました。


P1820261
帰国日を迎えました。


P2720095
近頃では帰国日を待ちわびてます。


P2720102
マルペンサ空港に到着しました。


P1820267


P2720108
機内食が好きではないので、ここで食べてから搭乗します。


P2660129
直ぐに混雑してきました。


P2660131


P2660132


P2660135


P2720119


P2720125


P2210994
(おわり)

P2660228
雪のミラノです。


P2660230
トラムに乗って旧市街へ。


P2660231
天気予報が雨だったので安心していたら、夜が明けたら雪景色でした。


P2660234
スフォルツェスコ城に向かいます。


P2660236
雪のミラノを経験するのは11年振りです。


P2660238
積雪は2,3㎝くらい?


P2660245
人が多く通る所は雪が解けていました。


P2660246
ミラノの積雪は大したことがありませんでしたが、北イタリアからローマにかけての降雪はかなり酷くて、鉄道の大幅遅れや運休がありました。


P2660248
移動日でなくて良かった!


P2660249
城内に入りました。


P2660250
完全な雪景色


P2660253


P2660255
ミケランジェロの「ロンダニーニのピエタ」を見ます。


P2660257


P2660301


P2660306


P2660308


P2660310


P2660259
市立博物館の本館に入りました。
天井のフレスコ画


P2660287


P2660292


P2660294


P2660333


P2660334
昼食は、博物館内のカフェテリアで簡単に済ますことにしました。


P2660327
足元が悪いので、レストランに行く気がしませんでした。


P2660337
昼過ぎになって、雪が融けてきました。


P2660338
雪の日の噴水はより一層寒さを感じさせます。


P2660340
タクシーでブレラ絵画館に向かいました。


P2660341


P2660346
ブレラ絵画館に入館しました。


P2660353
館内は改修、模様替えの真っ最中でした。


P2660360
半分の展示室が閉鎖されていました。


P2660378
ジョヴァンニ・ベッリーニ


P2660374
アンドレア・マンテーニャ


P2660382


P2660383


P2660385
エルコーレ・デ・ロベルティ


P2660436
雪のため、入館者が数えるほどです。これだけ人を余り見かけなかったブレラ絵画館は初めてです。


P2660437
カラヴァッジョ


P2660443


P2660448
シルヴェストロ・レーガ


P2660445


P2660458
夕方になって雪が強くなってきました。


P2660459
悪天でしたが十分楽しみました。
(つづく)

P2660212
成田空港です。


P2420511
夏時間でも少しづつ出発時間が変わってます。


P2720166
マルペンサ空港に到着しました。


P2720167
中央駅行きにバスは非常に空いていました。これだけ空いていたのは初めてです。


P2720171
今回のホテルはここです。


P2720176
着いた日は寝るだけです。


P2420513


P2420516
翌朝です。


P2420517
この時のミラノは、デントロ・カラヴァッジョ展がお目当てでした。


P2420521
特別展が開催されている王宮に向かいました。


P2420523
デントロ・カラヴァッジョ展については、既に取り上げました。


P2420522


P2420525


P2420524
朝一番に入館出来るように予約していました。


P2420526
特別展の入り口


P2420544
意外にも館内は空いていました。
中は写真不可でした。展示されていた作品の私が撮った写真を載せておきます。


P2220801


P2110451


P2110480


P1560806


P2120513


P2120518


P1580039


144


P2720008


P2720012


P2720013


P2690112


P1560136


P1560156


P1560291


P1560297


P1590684


P2420546
帰路にも特別展を見ます。


P2420547
旅の初日なので、重そうなガイドブックを買うのを控えました。


P2420548
ブックショップ天井の装飾


P2420549


P2420550
中に1時間半いたことになります。


P2420551
帰路に2回見るので、初日は無理をしないで立ち去ります。


P2430305
次はMuseo Diocesanoです。


P2420553
ティチネーゼ門の手前でトラムを下車しました。


P2420552
サンテウストルジョ聖堂が見えます。


P2420554
聖堂の後方に向かいます。


P2420555
Museo Diocesano


P2420556
ムゼオの入り口


P2420557
サンテウストルジョ修道院だった建物がMuseo Diocesanoになってます。


P2420912
入館しました。


P2420908
Museo Diocesanoについては、既に取り上げました。


P2420842
展示作品の差し替えは殆ど行われていないようです。


P2420799
規模の大きいMuseo Diocesanoです。


P2420824
フランチェスコ・アイエツの作品


P2420826


P2430066


P2430304
外に出ました。
(つづく)

P2020434
アリタリア便でミラノに向かいます。


P2020431
イタリア好きの方々にはあまり評価されていないアリタリア航空のようです。
最短の時間で荷物と共に無事に往復出来れば満足なので、アリタリアを利用してます。


P2020437
マルペンサ空港に到着しました。


P2020438
JALは、馴染み客をFクラスに無条件でアップグレードしていることが分かったので、それ以降乗らないことにしました。潰れるわけです。


P2020439
しかし、最近のCクラスのサービス向上が顕著です。一昔前のFクラスよりも今のCクラスの方が断然上です。


P2020440
確かミラノ万博を機に、ミラノ中央駅のマルペンサ空港行きバスターミナルが変わりました。


P2020441
駅西側のホテルは不案内で泊まったことがありません。


P2020442
相変わらず駅東側のホテルを利用してます。


P2020443
鉄道もありますが一回しか利用したことがありません。


P2020444
駅の東側に行きます。


P2720175
この時は、写真右のホテルにしました。


P2020448
チェックイン後、少し外に出ましたが、近くを散策しただけで大人しくホテルに戻って寝ました。


P2020455
翌日です。


P2020892
時差で中々寝られず、寝入ったのが明け方でした。思わず寝過ごしてしまいました。


P2020894
午前の教会巡りを止めて、ホテルから直接ブレラ絵画館に行きました。


P2020896
この時は、ペルジーノの「聖母の結婚」が200年振りにフランスからイタリアに里帰りして、ペルジーノの弟子ラファエッロの「聖母の結婚」と同展示室で展示されていました。それが見所でした。


P2020899


P2020900
何時もと同じでした。


P2020901
この時までは、いつもと同じで・・・・・


P2020904
ジャーン!!! スタッフミーティングのため、12:45から15:15まで途中休館のお達しです。
この時の時間は、11:30頃でした。


P2020903
館内で最短でも5,6時間は必要なので困りました。


P2020905
イタリアは、これだから困ります。


P2020907
仕方がないので、長い長い昼食を食べながら時間潰しをすることに。


P2020908
午後3時頃に戻ったら入館待ちの行列が出来ていました。


P2020909
切符売り場に行ったら、中は模様替えの真っ最中でした。


P2020963
何時もの出口から展示室に入るようになっていました。


P2030035
この辺は空いている筈ですが、この日は人気がありました。


P2030315
何時もなら古い作品から時代順に見るようになっていますが、新しい作品から見て行ったので戸惑いました。


P2030372
観たい作品がかなり取り外されていました。


P2030522
混雑している展示室が逆に空いていました。


P2030881
修復作業中の作品


P2030907
ペルジーノとラファエッロの「聖母の結婚」が展示されていました。


P2030894
ラファエッロの「聖母の結婚」


P2030900
ペルジーノの「聖母の結婚」


P2030897
殆どの人が見ていなかった「聖母の結婚」も同じ部屋に展示されていました。


P2030898
ペルージャのドゥオーモから貸し出されていました。


P2030296
カラヴァッジョの「エマオの晩餐」がなかった!


P2030299
カラヴァッジョ作品の代わりに展示されていた作品です。


P2030300


P2030829
見ることが出来たのは、普段の半分以下でした。


P2030368
閉鎖されていた部屋が10室以上ありました。


P2040033
午後7時近くになると流石に空いてます。


P2040036


P2040041
外に出ました。


P2040043
7時近くになりました。


P2040046
日が傾きました。


P2040050
冴えないブレラ絵画館となりました。


P2040051
サン・ジュゼッペ教会はもう閉まっていました。

P2040055


P2040057
この日の公演はありません。


P2040059


P2040060


P2040064


P2040068


P2040073
(つづく)

P1630365
ミラノ大学を通り過ぎます。


P1630366
次はサン・ナザーロ・マッジョーレ聖堂です。


P1630367
15世紀の建物


P1630130
サン・ナザーロ・マッジョーレ聖堂に戻ってきました。聖堂内に入るには、こちらのトリヴルツィオ礼拝堂の入り口を利用します。


P1630132
ミラノ司教聖アンブロージョの指示によって、382年創建、386年に完成した初期キリスト教会で、386年に奉献された時はBasilica Apostolorumと呼ばれていました。
395年または396年に聖ナザーロの聖遺物(遺体)が教会に移されると、何時しかサン・ナザーロ聖堂と呼ばれるようになったそうです。


P1630131
1075年3月30日に発生した火災によって壊滅的な被害を受けたので、11世紀後半にロマネスク様式に再建された建物が現在の姿の原形となってます。
トリヴルツィオ礼拝堂は、バルトロメオ・スアルディ通称ブラマンティーノ(ベルガモ、1465c-ミラノ、1530)の設計によって16世紀初頭に建設されました。


1
サンタ・カテリーナ礼拝堂は、アントニオ・ダ・ロナーテ(ロナーテ・ポッツォ―ロ、1456/1457-ミラノ、1541c)の設計によって16世紀前半に建設されました。


P1630137
後陣


P1630135
トリヴルツィオ礼拝堂ファサードの碑文


P1630134
トリヴルツィオ礼拝堂ファサード上の浮彫


P1630124
聖堂の構造図


16


P1630127
トリヴルツィオ礼拝堂の天井


P1630368
聖堂本堂に入りました。


P1630370
単廊式、ラテン十字形の内部です。


P1630369
最古のラテン十字形教会と言われてます。


P1630441
ダニエーレ・クレスピ(ブスト・アルシツィオ、1598-ミラノ、1630)の「受胎告知」


P1630376
カミッロ・プロカッチーニ(ボローニャ、1551-ミラノ、1629)の「キリストの神殿奉献」


P1630378
逸名画家作「聖母子と聖マトロニアーノ」(15-16世紀)


P1630382
制作者情報不知の「聖母子と聖ジョヴァンニーノ」


P1630385
詳細不知


P1630387
逸名画家作「我に触れるな」(14世紀)


P1630393
ベルナルディーノ・ラニーノ(モルダウ、1512-ヴェルチェッリ、1578)の「最後の晩餐」


P1630394


P1630399
左側壁の礼拝堂


P1630400
15世紀のフレスコ


P1630404
15世紀のフレスコ


P1630406
15世紀のプレセーペ


P1630408


P1630409
カルロ・ジュゼッペ・メルロ(ミラノ、1690-1760)のAltare di Sant' Ulderico


P1630413
詳細不知


P1630417
詳細不知


P1630418
サンタ・カテリーナ礼拝堂


P1630419
ベルナルディーノ・ラニーノ(モルダウ、1512-ヴェルチェッリ、1578)の「アレッサンドリアの聖カテリーナの生涯の物語」(1548-49)


P1630422


P1630424


P1630426


P1630428


P1630429
もう一度見ました。


P1630436
制作者情報不知の「ご訪問」


P1630444
トリヴルツィオ礼拝堂の出入口方向


P1630445
外に出ました。


P1630447
ゆっくり見ることが出来て満足しました。


P1630448
教会巡りは運です。


P1630449
(つづく)

引き続きサント・ステファノ・マッジョーレ聖堂です。
P1630260
聖アンナの生涯の物語です。


P1630263
私には、フェデリーコ・ビアンキの作品に思えます。


P1630267
作品の制作者について調べましたが確実な所が分かりません。


P1630269


P1630271


P1630273


P1630274


P1630277


P1630280


P1630282


P1630284


P1630289


P1630291


P1630293


P1630168
出入口方向


P1630360
外に出ました。
鐘楼の前にある低い塔は、1642年に倒壊した鐘楼の残骸です。


P1630363
次は、サント・ステファノ広場でサント・ステファノ・マッジョーレ聖堂に隣接して建つサン・ベルナルディーノ・アッレ・オッサ教会です。


P1630310
納骨堂で有名なサン・ベルナルディーノ・アッレ・オッサ教会です。


P1630314
1127年、教会が建っている場所近くにサン・バルナバ・イン・ブローロ病院が建設されました。また、1150年にサント・ステファノ・マッジョーレ複合施設の一つとしてサント・ステファノ病院が建設されましたが、それと同時にサント・ステファノ・マッジョーレ聖堂の敷地内に墓地が設けられました。


P1630361
しかし、ペストの流行があって、墓地は直ぐに一杯になってしまい、1210年に、現在地に死者の遺骨を収容する建物が建設されました。その納骨堂を含む小さな教会が1269年に建設されましたが、それが前身です。


P1630311
1642年、サント・ステファノ・マッジョーレ聖堂の鐘楼が倒壊したのですが、倒壊した鐘楼がサン・ベルナルディーノ・アッレ・オッサ教会の建物に直撃して破壊されてしまいました。1679年に二代目の再建されました。


P1630313
しかし、二代目の建物は、1712年の火災によって消失してしまいました。
カルロ・ジュゼッペ・メルロ(ミラノ、1690-1760)の設計によって、1776年に完成したファサードを持つ建物が現在の姿です。


P1630315
教会内部に入りました。


P1630316
八角形、バロック様式の内部です。


P1630317


P1630318
クーポラ


P1630359
先ず納骨堂に向かいました。


15
不気味な感じがするので、直ぐに納骨堂を後にしました。


P1630319
主祭壇


P1630320
シンプルな後陣の装飾です。


P1630322
主祭壇画は、謎の画家”アマデイ”の「聖母子」


P1630325
ジローラモ・ロットリーニ修道院長作「パラビアーゴの戦いの間に祈る聖アンブロージョ」


P1630327
詳細不知


P1630330
ジローラモ・ロットリーニ修道院長作「ペスト患者に聖体拝領させる聖カルロ・ボッロメオ」


P1630334
詳細不知


P1630336
詳細不知


P1630339
詳細不知


P1630343
詳細不知


P1630346
詳細不知


P1630350
詳細不知


P1630353
詳細不知


P1630358
詳細不知


P1630312
外に出ました。
(つづく)

↑このページのトップヘ