イタリア芸術を楽しむ

イタリアの魅力を味わい尽くすには、一生に何度旅をすれば足りるだろう。芸術の宝庫にして、歴史の生きた証であるイタリア。 惹き付けて止まない絵画、彫刻、歴史的建造物、オペラなど、芸術の宝庫であるイタリアを楽しむブログです。 記事は一日に一つアップしています。記事の見方ですが、例えば「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その4)」は2017年10月20日にアップしました。各記事にカレンダーが表示されてますが、カレンダー上の2017年10月21日をクリックして頂ければ「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その5)」になります。(その3)は2017年10月20日となります。 BY:シニョレッリ

カテゴリ: ヴェネト州

1行ったことがあるところばかりに行きます。


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サンタゴスティーノ門


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写真右の煉瓦の壁は市壁です。


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サンタゴスティーノ教会です。宗教活動を停止した旧教会で、建物は催事場などに利用されてます。


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ドゥオーモに向かってます。


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ドゥオーモ


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ドゥオーモ広場


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市の塔が見えてます。


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Palazzo Roverella


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サンティ・フランチェスコ・エ・ジュスティーナ教区教会に向かいます。


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サンティ・フランチェスコ・エ・ジュスティーナ教区教会


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拝観しました。


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ラ・ロトンダに向かいます。


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広場の先に見えるラ・ロトンダ


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ラ・ロトンダの鐘楼


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拝観したラ・ロトンダ


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やったことはいつもと同じでした。


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二本の塔


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疲れたのでホテルに戻ります。


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ホテルが見えてます。


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ホテルに戻りました。


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ホテルで休憩してから再び外出しました。


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駅近くで買い物


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突き当りが鉄道駅です。


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(ロヴィーゴ編 終わり)

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写真の詳細は(その1)から(その18)に書きましたので、そちらをご参照頂ければ幸いです。


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市庁舎


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Palazzo Roverella


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サン・マルコの有翼のライオン像


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広場の全景


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ファサードなしの教会


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修道院だった建物


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サン・ボルトロ門


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門の壁


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サン・ボルトロ門


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(つづく)

1前泊地はヴェネツィアでした。


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ヴェネツィア・サンタ・ルチア駅から鉄道でロヴィーゴに向かいました。


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途中、パドヴァ駅で乗り換えです。


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前回から3年後のロヴィーゴ再訪です。


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パドヴァからの列車は非常に空いてました。


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ロヴィーゴ駅に到着しました。


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この日は好天に恵まれました。


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ロヴィーゴ駅の駅舎です。


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この日のお宿に向かいます。


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駅前から延びる道を進みます。


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今回のロヴィーゴの旅の目的は前回と全く同じです。教会巡り、Museo巡り、古い門や塔、建物を見て回ります。


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バスターミナルです。


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突き当りのバスターミナルを右折します。


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旧市街に向かう道です。


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この日のお宿が見えてます。


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1泊の予定です。


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こじんまりした居心地の良いホテルです。
荷物を預けてから街歩きに出発しました。


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塔が見えてきました。


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この辺は市壁外に当たります。


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街は静寂に包まれていました。全くの予想外でした。


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市壁横に城があり、見張り塔になっていた二本の塔です。


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Torre Dona


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Torre Grimani


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市壁内に入りました。


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Corso del Popolo


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Palazzo Roverellaが見えてきました。


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振り返って撮った写真


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ロヴェレッラ宮美術館に入館しました。


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ロヴェレッラ宮美術館から外に出ました。


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市の塔


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旧マッジョーレ広場


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3年前と全く同じです。この全く同じが良いのです。


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(つづく)

1疲れたのでホテルに戻ります。


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ホテルに戻る前に昼食を食べました。


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昼に酒を飲んでご機嫌です。


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旧マッジョーレ広場は素通りです。


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右に進めばラ・ロトンダに出ます。


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この日、観光客は私一人だけのようでした。


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ほろ酔い状態でした。


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昼間から酒を飲むのが大好きですが、トイレが近くなるのが困るところです。


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早くもトイレ休憩。


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突き当りはPalazzo Roverellaです。


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この辺はまだ城壁内です。


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一見、古そうな建物です。


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中世の建物を模して、20世紀に建設された新しい建物です。


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教会が見えますが、今はない城壁の横に建設されたそうです。


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ベアータ・ヴェルジネ・ディ・ポンペイ祈祷所です。地元ではChiesetta della Fossaとも呼ばれてます。


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19世紀末、教区の信者たちからの熱心な新教会建設要望を受けて、サンティ・フランチェスコ・エ・ジュスティーナ教区教会の聖職者が建設推進に動いて、実現して、ロヴィーゴの建築家エウジェニオ・ピーヴァ(ロヴィーゴ、1820-1903)の設計によって1900年から1903年にかけて建設されたそうです。


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ファサードの「聖母子」のテラコッタ


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残念ながら見所が乏しいようです。


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中に入りました。


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単廊式の小さな内部です。


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右側壁


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天井


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後陣


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外に出ました。


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駅の方に進みます。


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城壁外に出ました。


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(つづく)

1引き続きベアータ・ヴェルジネ・デル・ソッコルソ教会、通称ラ・ロトンダです。


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ヴェネツィアによるロヴィーゴ支配を称賛する政治的意味合いの強い絵画ばかりです。


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拝観者が少なく、じっくりと鑑賞できます。


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フランチェスコ・マッフェイ(ヴィチェンツァ、1605c-パドヴァ、1660)の「聖母戴冠」(1651)


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フランチェスコ・マッフェイ(ヴィチェンツァ、1605c-パドヴァ、1660)の「ポデスタ・ジョヴァンニ・カヴァッリの至福」(1646)


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ジョヴァンニ・バッティスタ・ロッシ(ヴェローナ、17世紀活動)の「ポデスタ・シピオーネ・ボルドゥの至福」(17世紀)


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逸名画家作「羊飼いの礼拝」(17世紀)


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逸名画家作「大天使ガブリエーレ」(17世紀)


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逸名画家作「ロヴィーゴを庇護する聖母子」(17世紀)


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これだけの作品をよく掲げる気になったものだと感心します。


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ピエトロ・デッラ・ヴェッキア(ヴィチェンツァ、1603-ヴェネツィア、1678)の「ポデスタ・ドメニコ・ゼンの至福」


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ピエトロ・リベリ(パドヴァ、1605-ヴェネツィア、1687)の「ポデスタ・アルヴィーゼ・フォスカリーニの至福」


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ピエトロ・リベリ(パドヴァ、1605-ヴェネツィア、1687)の「ポデスタ・ザッカリア・ヴェンドラミンの至福」


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逸名画家作「ポデスタ・ピエトロ・モルシーニの至福」(17世紀)


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見終わりました。


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満足しました。


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外に出ました。


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写真右に祈祷所があります。


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ベアータ・ヴェルジネ・デッラ・コンチェツィオーネ祈祷所です。


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13世紀前半、フランチェスコ会修道士によって建設されたサンタ・クローチェ教会が前身です。
15世紀末に受胎同信会 Confraternita della Concezioneに譲渡されました。


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現在の建物は、18世紀に再建された二代目となるものです。
現在の鐘楼は、1793年に建設されました。ファサードは、1888年に再建されました。
(つづく)

1引き続きベアータ・ヴェルジネ・デル・ソッコルソ教会、通称ラ・ロトンダです。


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ジュリオ・チレッロ(パドヴァ、1633-1709)の「ポデスタ・バッティスタ・フォスカリーニの至福」(1678)


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アントニオ・セルヴィの「ポデスタ・ジュリオ・ガブリエルの至福」


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彫刻があります。


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作品が沢山あって、目移りして大変です。


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ジョヴァンニ・ブルネッリ(ヴェローナ、1644/1646-クレマ、1722)の「ご訪問」(1650)


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これらの彫刻は、あまり知られていない彫刻家ダヴィデ・アッリエーティによって制作されたそうです。


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ダヴィデ・アッリエーティの「聖シモーネ」


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ダヴィデ・アッリエーティの「聖バルトロメオ」


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ダヴィデ・アッリエーティの「聖母マリア」


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ダヴィデ・アッリエーティの「聖ピエトロ」


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フランチェスコ・マッフェイ(ヴィチェンツァ、1605c-パドヴァ、1660)の「聖母の神殿奉献」(1650)


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出入口扉方向


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扉の上にオルガンがあります。


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このオルガンは、18世紀後半に活動した有名なオルガン制作者ガエターノ・アントニオ・カッリド(エステ、1727-ヴェネツィア,1813)によって1767年に制作されたそうです。


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オルガンの蓋やオルガン周囲の絵画は、ジョヴァンニ・バッティスタ・ノヴェッリ(1592-1631)によって1615年頃に制作されました。


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アントニオ・ブルキエッラーリ(ヴェネト、17世紀活動)の「ポデスタ・ジョヴァンニ・フランチェスコ・サグレドの至福」(1675)


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しかし、アントニオ・ブルキエッラーリが描いたものではなく、ピエトロ・リベリ(パドヴァ、1605-ヴェネツィア、1687)の作品説が有力となっているようです。


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アントニオ・ザンキ(エステ、1631-ヴェネツィア、1722)の「ポデスタ・アントニオ2世・ロレダンの至福」(1673)


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教会中心の床


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(つづく)

1引き続きベアータ・ヴェルジネ・デル・ソッコルソ教会、通称ラ・ロトンダです。


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現在のクーポラは、1773年から1774年に再建されたものです。


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墓地


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拝観します。


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再び柱廊に入りました。


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サイド扉


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メイン扉


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中に入りました。


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八角形、ルネサンス様式の内部です。


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八面ある壁が絵画と彫刻で装飾されてます。


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美術的に必見の教会です。


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主祭壇


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1607年に制作された主祭壇


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中央の聖母子は、1575年のペスト禍の際、地元の信者たちが礼拝堂に集まり、ペストの平癒を祈ったものです。


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「聖母子」を囲む彫刻は、ジョヴァンニ・カラッキオによって1607年に制作されました。


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ジョヴァンニ・カラッキオの「天使」


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ジョヴァンニ・カラッキオの「聖ジョヴァンニ・バッティスタ」


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ジョヴァンニ・カラッキオの「聖フランチェスコ」


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主祭壇の蝋燭立て


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クーポラ


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現在のクーポラのフレスコ画は三代目に当たります。


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創建時のクーポラにもフレスコ画がありましたが、クーポラに構造上の問題が生じて、クーポラが1773年から1774年に再建されました。再建されたクーポラには「ご訪問」のフレスコ画が描かれたそうです。
1866年、第三次独立戦争の際、オーストリア軍の爆撃によってクーポラのフレスコ画が落剝してしまいました。1887年に新たに制作されたフレスコ画が現在のものです。


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ヴィットリオ・エマヌエーレ・ブレッサニン(ムジーレ・ディ・ピアーヴィ、1860-ヴェネツィア、1941)の「助けの聖母の奇跡」(1887)


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次は壁の作品です。
ジョヴァンニ・コリ(ルッカ、1636-1691)とフィリッポ・ゲラルディ(ルッカ、1643-1704)の「聖母被昇天」(17世紀)
ジョヴァンニ・コリとフィリッポ・ゲラルディは、ルッカの画家であるピエトロ・パオリーノに学んだ兄弟弟子で、ルッカでは二人で協力して制作に当たりました。


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逸名画家作「エジプトへの逃避」(17世紀)


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逸名画家作「ポデスタ・ベネデット・ツォルツィの至福」(1655)


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フランチェスコ・マッフェイ(ヴィチェンツァ、1605c-パドヴァ、1660)の「ポデスタ・サンテ・モーロの至福」(1653)


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教会内部の床


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(つづく)

19月20日広場に面して教会が建ってます。


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ベアータ・ヴェルジネ・デル・ソッコルソ寺院(教会)です。


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八角形の教会であることから、ラ・ロトンダと呼ばれてます。単にロトンダと呼ぶ人も多いようです。


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サン・フランチェスコ修道院教会の修道院(取り壊されて現存していません)だった庭を囲む壁に沿って建設されました。


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サン・フランチェスコ教会修道院の修道院の隣に聖母を祀る小さな礼拝堂があり、1575年のペスト大流行の際、ペスト禍終息を願う多くの信者を集めました。
ペストの流行が収まると、聖母の導きによってペスト禍克服が出来たということで、礼拝堂ではなく教会を建設して助けの聖母への感謝を行うべきとの運動が起きました。


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その運動を受けて、当時のアドリア司教ロレンツォ・ラウレティ(1534-1598)が教会建設を決め、建築家フランチェスコ・ザンベルラン(バッサーノ・デル・グラッパ、1529-1606c)の設計によって、1594年に創建され、1606年に完成したルネサンス様式の八角形の教会です。
フランチェスコ・ザンベルランは、パッラーディオの弟子で、パッラーディオの協力者且つ友人でした。


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教会の建設資材として、ロヴィーゴ郊外に流れるアディジェ川に架かる、使われてない古橋の石材や市壁の一部の煉瓦が使用されたそうです。


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八角形の平面構造の内部は、穀物貯蔵や避難所として有用とされました。1882年のアディジェ川大洪水の際には、犠牲者の遺体安置所として使用されたそうです。


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教会本体を囲んで柱廊が設けられてます。


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柱廊です。


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ナポレオンのイタリア侵攻に伴って、ロヴィーゴの修道院や教会の多くが抑圧閉鎖されましたが、それら閉鎖された修道院や教会から集められた碑文、モニュメント、彫刻などが、この柱廊に集められました。


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それらの殆どが博物館に移されましたが、今でも柱廊に残されているものがあるのです。


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勿論、元々この教会にあったものも柱廊の壁にあります。


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紋章


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墓石


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墓石の紋章


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墓石


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紋章


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記念碑


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記念碑の胸像


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記念碑


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記念碑の胸像


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碑文


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サン・バルトロメオ修道院の碑文
サン・バルトロメオ修道院は19世紀前半に破壊されました。


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紋章


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彫刻


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碑文


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柱廊の天井


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柱廊については、このぐらいにしておきましょう。


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次は鐘楼です。


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長らく修復工事が行われていました。


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修復工事後の姿です。


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高さが57mあります。


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ヴェネツィアの建築家バルダッサーレ・ロンヘナ(ヴェネツィア、1596/1597-1682)の設計によって、1665年に建設工事が始まりましたが、工事は数回中断して中々完成しませんでした。
18世紀後半に元の設計図の通りに工事が再開され、1774年に漸く完成したそうです。


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(つづく)

1引き続きサンティ・フランチェスコ・エ・ジュスティーナ教区教会です。


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サン・ロレンツォ礼拝堂です。


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ジョヴァンニ・マリア・モルライター(ヴェネツィア、1699-1781)の「聖ロレンツォ」


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ジョヴァンニ・マルキオーリ(カヴィオラ、1696-トレヴィーゾ、1778)の作品説も有力です。


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次の礼拝堂です。


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ピエトロ・アントニオ・ノヴェッリ(ヴェネツィア、1729-1804)の「神殿奉献」(1759)


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ペンテコステ礼拝堂です。


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ジローラモ・ダ・カルピ(フェッラーラ、1501-1556)の「聖霊降臨」


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Presbiterio


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詳細不知(私がです)の主祭壇画


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Presbiterio左側壁の作品(詳細不知)


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Presbiterio右側壁の作品(詳細不知)


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後陣左の礼拝堂


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古いフレスコ画が残されてます。


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ゴシック様式のフレスコ画


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フレスコ画の制作者は不明のようです。


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次の礼拝堂です。


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フェリーチェ・ボスカラーティ(ヴェローナ、1721-ヴェネツィア、1807)の「コペルティーノの聖ジュゼッペ」(1750)


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アントニオ・ザンキ(エステ、1631-ヴェネツィア、1722)の「幼きキリストを抱く聖ジュゼッペ」(17世紀後半)


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ジョヴァンニ・ファソラート(パドヴァ、17‐18世紀活動)の「パドヴァの聖アントニオ」(1691)


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ピエタ礼拝堂です。


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トゥーリオ・ロンバルド(ヴェネツィア、1460-1532)の「ピエタ」(1526)


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トゥーリオ・ロンバルド(ヴェネツィア、1460-1532)の「聖ステファノ」(1526)


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トゥーリオ・ロンバルド(ヴェネツィア、1460-1532)の「聖ベッリーノ」(1526)


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次の礼拝堂です。


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ピオ・プッリーニ(アンコーナ、1887-ローマ、1955)の「カスチャの聖リータ」(1927)


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ピオ・プッリーニ(アンコーナ、1887-ローマ、1955)の「リージュの聖テレーザ」(1927)


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外に出ます。
(つづく)

1引き続きサンティ・フランチェスコ・エ・ジュスティーナ教区教会です。


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司祭館の続きです。


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司祭館は16世紀前半に建設されました。


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司祭館は、13世紀中頃に建設された修道院の一部がもとになってます。


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壁の紋章


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司祭館の入り口


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煉瓦積み


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もう一つの入口扉


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司祭館はこのぐらいにします。


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拝観します。


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中に入りました。


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三廊式、ラテン十字形、新古典様式の内部です。


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1853年から1896年に大改造されたので、新しく見えます。


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装飾がない天井


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見所は祭壇画と彫刻でしょう。


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洗礼礼拝堂です。


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Maestro dei Dodici Apostoliの「キリストの洗礼」(1542)


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聖母礼拝堂です。


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ドメニコ・パネッティ(フェッラーラ、1460c-1513)の「玉座の聖母子と聖ピエトロと聖アンドレア」(1505)


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聖水盤


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聖痕を受ける聖フランチェスコのステンドグラス


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(つづく)

1次はサンティ・フランチェスコ・エ・ジュスティーナ教区教会です。


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劇場だったと思います。


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サンティ・フランチェスコ・エ・ジュスティーナ教区教会です。
この場所には、サン・フランチェスコ修道院教会の複合施設がありました。別の場所にあったサンタ・ジュスティーナ教区教会が取り壊されることになったので、教区がサン・フランチェスコ教会に移されると共に、現在の教会名に変更された歴史があります。


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13世紀中頃、現在の司祭館がある場所にサン・フランチェスコ修道院が建設されました。
当時、ロヴィーゴはエステ家の支配下にありましたが、フェッラーラ侯爵オビッツォ2世・デステ(ナポリ、1247/1252‐フェッラーラ、1293)の指示によって、修道院に隣接して教会が建設されることになり、1297年から1300年にかけてゴシック様式のサン・フランチェスコ教会が建設されました。


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1413年、拡大工事が行われ、礼拝堂が5つ増えたそうです。
1533年、後陣が拡大され、ほぼ現在の構造になりました。


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1797年、ナポレオンのイタリア侵攻によって、サン・フランチェスコ修道院教会の複合施設は抑圧され、修道士が追放されると共に使用禁止となりました。
1799年、教会は活動再開が許されましたが、修道院は閉鎖されたままで、その建物は他用途に転用され荒廃が進みました。


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一方、サンタ・ジュスティーナ教区教会は、かってのエステ家宮殿の隣の、現在のガリバルディ広場にあって、1195年の創建と言われてます。1206年の文書に、サンタ・ジュスティーナ教区教会の存在が初めて記されたそうです。
エステ家宮殿は、16世紀初頭にヴェネツィア共和国によって破壊され現存していません。
サンタ・ジュスティーナ教区教会は1725年に再建されました。


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1797年、ナポレオンのイタリア侵攻に伴って、サンタ・ジュスティーナ教区教会は閉鎖されてしまいました。
その後、サンタ・ジュスティーナ教会が建っている場所が現在のガリバルディ広場に組み入れられることになり、サンタ・ジュスティーナ教区教会はその活動が再開されることはなくなり、1806年に教区の所在地がサン・フランチェスコ教会に移転することになりました。移転に伴って、サンタ・ジュスティーナ教区教会にあった宝物や由緒ある墓などもサン・フランチェスコ教会に移され、現在の教会名に変更されたのです。
旧サンタ・ジュスティーナ教区教会の建物は、1809年に広場を造るべく完全に取り壊されました。


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1827年から1837年に大改造工事が行われ、現在の建物の外観となりました。
現在のファサードは、1853年から1896年に新たに建設されたもので、16世紀に改造された教会の左側にあった墓地だった場所に建てられたそうです。


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ファサードの紋章


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ファサードの柱頭


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ファサードの装飾


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ファサードに向かって左側壁


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現在のファサードに向かって右側に、旧ファサードがあります。


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旧ファサードの入り口


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旧ファサードの壁


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旧ファサードの窓


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旧ファサードにあった彫刻が残されてます。


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劣化が相当進んでます。


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左側壁から現ファサード


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後陣


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鐘楼と後陣


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1533年に拡大されて現在の後陣の大きさになったそうです。


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現在の鐘楼は1520年に建設された二代目となるものです。


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鐘楼の窓


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ファサードに向かって左側に司祭館があります。


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司祭館は左翼廊に接して建ってます。


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(つづく)

1次はサンタントニオ・アバーテ教会です。


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写真左の建物がサンタントニオ・アバーテ複合施設です。


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複合施設は、病院、修道院、教会から成ってますが、こちらは修道院と病院の入り口でした。


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サンタントニオ・アバーテ教会です。


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キオストロです。


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1413年に建設されたサンタントニオ・アバーテ病院がありましたが、病院内に設けられた礼拝堂が教会の前身です。


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15世紀末、病院は火災によって建物の一部を焼失してしまいました。その後、病院は消失しなかった部分を改修されると共に再建されましたが、教会が1505年から1516年に病院に隣接して建設されました。


8
1542年、病院と教会はドメニコ会修道士に委託されるようになり、病院の一部が修道院として使用されるようになると共に修道院独自の建物が新たに建設されました。
教会は、ドメニコ会によって1543年に奉献式が執り行われました。その後、教会はサン・ドメニコ教会と別称されるようになりました。


9
1770年、ヴェネツィアの宗教方針によって抑圧され、ドメニコ会修道士がロヴィーゴから去りました。18世紀末、ナポレオンのイタリア侵攻に伴い、サンタントニオ・アバーテ複合施設は閉鎖されました。1810年、複合施設はオーストリアに没収され、オーストリアの国有財産となりました。
1815年に教会だけが活動を許されましたが、修道院と病院は再開されることなく、兵舎や倉庫などに転用されました。


10
メインの入口扉です。こちらの扉は通常使用されないようです。


11
メインの入口扉上に彫像があります。


12
ベルナルド・ファルコーネ(ビッソーネ、1620c-1696c)の「聖アントニオ・アバーテ」


13
ドアノブ


14
入口扉がもう一つあります。


15
こちらの扉が通常、使用されているようです。


16
扉上の紋章


17
鐘楼


18


20
毎日扉が開くので拝観し易い教会です。


21
中に入りました。


22
翼廊がない単廊式、ルネサンス様式の内部です。


23
祭壇画や彫刻を見て回ります。


24
セバスティアーノ・ジュゼッペ・デ・ヴィータ(ヴェネツィア、1740-1797)の「ドメニコ会聖人たちの勝利」(1770)


P1010385


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26
ジョヴァンニ・セガーラ(ムラーノ、1662-ヴェネツィア、1717)の「割礼」(17世紀)


27
ヴェネツィア派画家と記されてますが、ジョヴァンニ・セガーラの作品です。


28


29
ヴェネツィア派画家による「ロザリオの聖母」(16世紀)
コッレッジョ(コッレッジョ、1489-1534)の作品説が有力です。


30


31


37
次は彫刻です。


32
ピエトロ・バラッタ(カッラーラ、1668-1729)の「聖バルバラ」


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36


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制作者情報等詳細不知の「聖アントニオ・アバーテ」


35


38
1912年に制作されたオルガン


39
外に出ます。


40
(つづく)

1引き続きロヴェレッラ宮美術館です。


2
ダニエーレ・ヴァン・デン・ダイク(アンヴェルサ、1610-マントヴァ、1670)の「男の肖像」


3
ジュゼッペ・アントニオ・ファブリーニ(フィレンツェ、1748-1795以降没)の「男の肖像」


4
セバスティアーノ・マッツォーニ(フィレンツェ、1611-ヴェネツィア、1678)の「ロトの娘」


5
エリザベッタ・マルキオーニ(ロヴィーゴ、17-18世紀活動)の「花の二天使」


6


7
近代画の展示


8
詳細不知


9
クゥリツィオ・ディ・ジョヴァンニ・ダ・ムラーノ(ヴェネツィア、1460c-1478c活動記録)の「聖ルチアの物語」


10


11


12
ヒエロニムス・ヤンセンス(アンヴェルサ、1624-1693)の「集会」


36
現代画の展示


37


38


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40
ヴェネツィア派の作品が充実してます。


13
美術館は終わりです。


14
Torre Pighin


15
市壁内に残る唯一の塔です。


16
1138年に建設された市壁に設けられた塔です。市域が拡大されると共に1138年の市壁は破壊されましたが、この塔だけは防衛力強化のために維持・増強されました。


17
高さが23mあります。


18
ヴェネツィアの支配下、防衛上の塔の必要性が徐々に薄れ、18世紀に住宅に転用されました。


19
塔は荒廃して20世紀前半に放棄されましたが、第二次世界大戦後に修復されて現在の外観となりました。


20
もう一つの門に向かいます。


21
近代的な柱廊


22
門が見えてきました。


23
門前は公園になってます。


24
サン・ボルトロ門です。


25
城壁に現存する2つの門のうちの一つです。


26
1482年から1486年に建設されました。


27


28


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30


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門の天井


31
門を潜りました。


33


32
(つづく)

1引き続きロヴェレッラ宮美術館です。


2
部屋のフレスコ画


3
部屋の天井


4
フレスコ画の詳細については全く知りません。


5


6


7
展示はヴェネツィア派画家たちの作品が多い。


8
ジョヴァンニ・ベッリーニ(ヴェネツィア、1427/1430c-1516)の「聖母子」(1470c)


9


10
ジョヴァンニ・ベッリーニ(ヴェネツィア、1427/1430c-1516)の「十字架を担ぐキリスト」(1510c)


11
パルマ・イル・ヴェッキオ(シエナ、1480?-ヴェネツィア、1528)の「キリストの鞭打ち」(1525)


12
パルマ・イル・ヴェッキオ(シエナ、1480?-ヴェネツィア、1528)の「聖母子と聖ジローラモと聖エレーナ」(1510-20c)


13
ニッコロ・ディ・ピエトロ(ヴェローナ?、1394-1430活動)の「聖母戴冠」


17


14
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(ピエーヴェ・ディ・カドーレ、1490c-ヴェネツィア、1576)の「若い農民」(1510c)


15
ジローラモ・ダ・サンタクローチェ(ベルガモ、1480-ヴェネツィア、1556)の「聖母子と聖人たちと寄進者」(1510-20c)


16
ヤコポ・ダ・ヴァレンツァ(ヴェネト、1485-1509活動)の「幼きキリストを崇める聖母」


18
ニコロ・ロンディネッリ(ラヴェンナ、1468c-1520c)の「聖母子」


19


20
ジョヴァンニ・バッティスタ・ピアッツェッタ(ヴェネツィア、1682-1754)の「ガスパーレ・カンポ伯爵の肖像」(1740)
ガスパーレ・カンポ伯爵は、Accademia dei Concordiの創設者です。


21


22
ジョヴァンニ・バッティスタ・ピアッツェッタ(ヴェネツィア、1682-1754)の「聖ジョヴァンニ・バッティスタ」


23
ジョヴァンニ・バッティスタ・ピアッツェッタ(ヴェネツィア、1682-1754)の「男の肖像」


24
ジョヴァンニ・バッティスタ・ピアッツェッタ(ヴェネツィア、1682-1754)の「聖ガエターノ」


25
ジョヴァンニ・バッティスタ・ピットーニ(ヴェネツィア、1687-1767)の「バルトロメオ・ロヴェレッラ枢機卿の肖像」


26


27
ルカ・ジョルダーノ(ナポリ、1634-1705)の「Ulisse e Calipso」(1675c)


28
ピエトロ・ネグリ(ヴェネツィア、1628-1679)の「Rebecca riceve doni da Abramo」(17世紀)


29
ヴェネトの逸名画家作「聖ジローラモ」(14世紀)


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33
ミケーレ・ダ・フィレンツェ(フィレンツェ、1385-1455)の「聖母子と四聖人のポリッティコ」(1441c)


34
聖母子


35


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ジャンバッティスタ・ティエポロ(ヴェネツィア、1696-マドリッド、1770)の「アントニオ・リッコボーノの肖像」


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38


39
ジュゼッペ・ノガーリ(ヴェネツィア、1699-1763)の「男の肖像」


40
アレッサンドロ・ロンギ(ヴェネツィア、1733-1813)の「男の肖像」
(つづく)

1旧マッジョーレ広場、現称ヴィットリオ・エマヌエーレ2世広場に面して建つPalazzo Roverellaです。


2
フェッラーラ貴族のロヴェレッラ家出身のバルトロメオ・ロヴェレッラ枢機卿(ロヴィーゴ、1406-ローマ、1476)が1474年に建設の注文を行った邸宅です。


3
設計はフェッラーラの建築家ビアージョ・ロセッティ(フェッラーラ,1447c-1516)と言われてますが、それを裏付ける記録が残されていないようです。しかし、それでもロセッティの設計説が信じるに足ると言われてます。
注文後、建設工事は直ぐに着工されたものの、バルトロメオ・ロヴェレッラ枢機卿が1474年に死去してしまったので、1477年に工事中断となってしまいました。フェッラーラのロヴェレッラ家が工事再開を望み、15世紀末にルネサンス様式のPalazzo Roverellaが完成しました。


4
16世紀後半、Palazzo Roverellaはロヴェレッラ家の所有から離れ、建物は分割所有されて様々な用途に使用されました。そのため、建物は改造され、不適切な使用によって劣化が進んだそうです。


5
第二次世界大戦直後にファサードの修復が開始されましたが、それ以外の部分は放置され、更に荒廃が進みました。


6
1985年、ファサード以外の部分の修復が立案されましたが、資金難のために実行されませんでした。
2000年、ロヴィーゴ市、銀行と財団によって修復工事が開始され、2010年に一応の完成を見ました。しかし、更なる修復工事が必要とされる箇所があると言われてます。


13
広場に面した柱廊


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14
壁にある銘板


15


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「聖母子と聖ベッリーニの浮彫」


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劣化している柱廊天井


19
更なる修復が必要とされてます。


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紋章と浮彫


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柱頭


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中庭


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7
Palazzo Roverellaは美術館になってます。


8
便宜上レヴェレッラ宮美術館としましたが、正式名称はPinacoteca dell’Accademia dei Concrdi e del Seminario Vescovileとなってます。
司教神学校の所有作品約200点がAccademia dei Concordiに委託され、Accademia dei Concordiの所有作品と共に展示されてます。


9
美術館の入り口です。


12
中に入りました。


10
切符売り場


11
Accademia dei Concordiの所有作品が多過ぎて、限られた展示スペースでは展示しきれないので、展示作品が頻繁に変わります。
中は写真不可となってます。
(つづく)

1引き続き旧称マッジョーレ広場、現称ヴィットリオ・エマヌエーレ2世広場に面した建物です。


2
次はPalazzo Bosiです。


3
18世紀に建設されました。


5
薬屋がPalazzo Bosiを使用していました。


6
薬屋は閉店となりました。


4
現在はAccademia dei Concordiが所有する美術品の美術館になってます。それに伴って薬屋が閉店となったようです。


7
Palazzo Cezzaです。


8
旧マッジョーレ広場に面する建物は柱廊で繋がってます。


9
次はサン・マルコの柱の後方に映っている建物です。


10
Palazzo del Corpo di Guardiです。


11
ロヴィーゴがオーストリアの支配下にあった時代、オーストリア軍の兵士がロヴィーゴに駐屯していました。兵士は各地に分散していましたが、それらを一か所に纏めて兵士を駐留すべきの考えのもとに建設されたのが、この建物です。


12
建築家ジョヴァンニ・バッティスタ・メデューナ(ヴェネツィア、1800-1886)の設計によって、1853年から1854年に建設されたPalazzo del Corpo di Guardiです。
メデューナはヴェネツィアのフェニーチェ劇場を設計したことで有名です。


13
現在、Palazzo del Corpo di Guardiは会議室や展示会など多目的に使用されてます。


14


15
Palazzo del Corpo di Guardiの装飾です。


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Palazzo内のあちこちに、このPalazzoに関する銘板や胸像などが置かれてます。


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33
次は城門です。


31
ロヴィーゴの市域を囲む城壁(市壁)は、12世紀から14世紀に築かれましたが、ロヴィーゴに通じる主要道路に城壁を管理する門が設けられました。サンタゴスティーノ門も、その内の一つです。


32
現在のサンタゴスティーノ門は1713年に再建されたものです。


34


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38
サンタゴスティーノ門の横に城壁が残されてます。


39


40
(つづく)

1引き続き旧マッジョーレ広場、現称ヴィットリオ・エマヌエーレ2世広場です。
この辺では、Piazza Omonimaと呼ばれているようです。


2
広場にジュゼッペ・ガリバルディのモニュメントがあります。


3
彫刻家エットーレ・フェッラーリ(ローマ、1845-1887)の「ジュゼッペ・ガリバルディのモニュメント」(1887)


4
エットーレ・フェッラーリは、政治家でもありましたが、イタリア統一を強く支持してガリバルディ将軍に心酔していたそうです。


5
モニュメントの土台


6


7
ロヴィーゴのこの騎馬像は、エットーレ・フェッラーリの代表作です。


8


9


10


11


12
次はPalazzo Roverellaです。


13
エステ時代の代表的な建物です。


14
エステ家がロヴィーゴを支配していた時代の1474年、フェッラーラの帰属ロヴェレッラ家出身のバルトロメオ・ロヴェレッラ枢機卿(ロヴィーゴ、1406‐ローマ、1476)(次に彼の肖像画を載せておきます)に建設されました。


15
ジョヴァンニ・バッティスタ・ピットーニ(ヴェネツィア、1687-1767)の「バルトロメオ・ロヴェレッラ枢機卿の肖像」


16
Palazzo Roverellaは、絵画館になってます。「バルトロメオ・ロヴェレッラ枢機卿の肖像」はこの美術館で展示されてます。


17
絵画館については、項を改めて触れることにします。


18
旧マッジョーレ広場に面して建つ建物を続けます。


19
Palazzo dell Accademia dei Concordiです。


20
ガスパーレ・カンポ伯爵が自宅として1580年に建設しました。


21
ガスパーレ・カンポ伯爵は、人文学に通じた文化人でしたが、この邸宅に地元や近隣の学者や文化人を集めて、文学、音楽、美術などについて話し合ったそうです。


22
ガスパーレ・カンポ伯爵の死後もカンポ家は文化を愛し、カンポ家は17世紀後半まで地元と近隣の文化的活動の中心を担ったそうです。
カンポ家がロヴィーゴを去ると、その文化的活動はヴェネツィア共和国に引き継がれ、旧カンポ家邸宅はその活動の本拠地となりました。


23
Palazzo dell Accademia dei Concordiの銘板
ヴェネツィア共和国がナポレオンによって滅亡すると、この場所における活動が衰退しましたが、1814年、遂に活動停止、終了してしまいました。


24
しかし、1836年、ロヴィーゴ市主導のもとにAccademia dei Concordiが設立され、その本拠地がこの場所に置かれるようになりました。


25
Palazzo dell Accademia dei Concordiの入り口
現在、この建物は29万点の文書を有する図書館でもあり、400点強の美術品を保有する美術館として一般公開されてます。


26
図書館と美術館の入り口


27
カンポ家の紋章


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美術部門の展示作品


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作品帰属が全く分かりません。


31
詳細不知の肖像画


32
詳細不知の胸像


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37
広場の名称の境界が良く分かりません。


38
ロヴィーゴは、あまり知られていないようですが、見所豊富な街です。


39


40
(つづく)

1
ポポロ大通りです。


2
街角のタベルナコロ


3
ポポロ大通りを左折して広場に向かいます。


4
ヴィットリオ・エマヌエーレ2世広場です。


5
長らくマッジョーレ広場と呼ばれていましたが、イタリア統一後に名称が改められました。


6
広場にヴィットリオ・エマヌエーレ2世のモニュメントがあります。


7
ジュリオ・モンテヴェルデ(ビスターニョ、1837‐ローマ、1917)の「ヴィットリオ・エマヌエーレ2世のモニュメント」(1881)


8
ジュリオ・モンテヴェルデの「ヴィットリオ・エマヌエーレ2世のモニュメント」はイタリア各地にありますが、ロヴィーゴのものはその最初に制作されたものです。


9
「サン・マルコの柱」です。


10
ヴェネツィアのシンボル「有翼のライオン像」


11
1482年、ロヴィーゴはヴェネツィア征服され、ヴェネツィア領に編入されました。


16
有翼のライオン像の土台


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12
土台の紋章


13
1519年、ヴェネツィア領を示す「有翼のライオン像」がこの場所に造られました。


18
18世紀末にナポレオンのイタリア侵攻まで、ロヴィーゴはベネツィア領でした。


19


14
広場に面して塔が建ってます。


15
市の塔 Torre Civicaです。


20
時計塔にもなってます。


21
ピエトロ・プッティーニの設計によって1763年から1769年に建設されたそうです。


22
鐘楼


23
1790年に時計が追加されました。


24
Torre Civicaの銘板


25
市の塔がある建物が市庁舎です。


26
1428年から1429年に建設されたPalazzo Nodariが市庁舎になってます。


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聖母子像があります。


29
ジュリオ・マウロの「聖母子」(16世紀)


30
Palazzo Nodariを見ます。


31
ダンテの浮彫があります。


33
Palazzo Nodariの壁にある紋章


32
Palazzo Nodariのロッジャ


34
市庁舎内に小美術館?があります。


35
これらの作品については全く知りません。


36


37


38


39


40
(つづく)

1引き続きロヴィーゴのドゥオーモです。


2
聖堂内に入りました。


3
単廊式、ラテン十字形、新古典様式の内部です。


4
礼拝堂を結ぶ通路が左右にあるので、三廊式の変形と言ってもおかしくないと思います。


5
礼拝堂を見て回ります。


6
「マドンナ・デッレ・グラツィエ」(15世紀)


7
ロレンツォ・マスゥッチ(ヴェネツィア?、1726-ローマ、1785)の「磔刑」(1772)


8


9


10
Fra Santo de Venezia(ヴェネツィア派領域の逸名画家)の「パドヴァの聖アントニオ」(1651)


11


12
次の礼拝堂です。


13
パルマ・イル・ジョーヴァネ(ヴェネツィア、1549-1628)の「贖いのキリストと二聖人」


14


15
Presbiterio


16
1858年制作のオルガン


17
詳細不知


18
アンドレア・ミキエーリ通称アンドレア・ヴィチェンティーノ(ヴェネツィア、1542c-1618)の「カルメロの聖母」(16世紀)


19


20


21


22
フランスの逸目画家作「聖会話」(17世紀)


23


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25
「アンドレア・アヴェッリーノに顕現する聖母」


26


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28
パルマ・イル・ジョーヴァネの作品をもう一度見ました。


29
次の礼拝堂です。


30
パルマ・イル・ジョーヴァネ(ヴェネツィア、1549-1628)の「マギの礼拝」


31


32


33


35
詳細不知


34
カウンターファサード


36
外に出ました。
(つづく)

1次はドゥオーモです。


2
通りの突き当りの建物がドゥオーモです。


3
ロヴィーゴのドゥオーモ Basilica Concattedrale di Santo Stefano Papa e Martireです。
アドリア・ロヴィーゴ司教区の司教座教会ですが、何故かConcattedraleです。


4
8世紀から9世紀に建てられたサント・ステファノ教区教会が前身ですが、964年の文書に初めてサント・ステファノ教区教会の存在が記されたそうです。


5
1067年から1073年に再建されロマネスク様式の建物になりました。


6
ロヴィーゴの直ぐ傍に流れるポー川の度重なる洪水と洪水に伴う土砂の堆積によって建物が劣化したので、15世紀半ばに再建され三番目の建物となりました。1461年に三番目の建物の奉献式が執り行われたそうです。
1630年頃に5つの礼拝堂が追加増築され、教会の規模が大きくなりました。


8
しかし、17世紀末にはポー川の洪水などによって、建物が劣化して深刻な状態となりました。
1691年、当時の司教が市当局に再建の提議を行い、それを受けて四番目の建物が建設されることになりました。


P1960072
貴族で伯爵位を持つ建築家ジェロラーモ・フリギメリカ(パドヴァ,1653-モデナ、1732)の設計によって、1696年から1791年に建設された四番目の建物が現在の姿の原形となってます。
建物の一応の完成を見た1711年に奉献式が執り行われました。


9
ファサードは1825年に設計されましたが、工事未着工のまま放置され、煉瓦積みのまま現在に至ってます。


10


11
入口扉上のキリストの彫刻


12


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入口扉上


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クーポラと鐘楼


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鐘楼


17


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鐘楼


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鐘楼の窓


20


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鐘楼に接して映画館があります。


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後陣


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後陣の窓


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右側壁


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左側壁


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ファサード側に回ります。


34
毎日開くので、拝観し易いと思います。


35
聖堂内に入ります。
(つづく)

1前泊地はモンタニャーナでした。


2
モンタニャーナのドゥオーモにあるジョルジョーネのフレスコ画を楽しみました。


3
ジョルジョーネにはいつも圧倒されます。


4


5
モンタニャーナから鉄道で次の目的地ロヴィーゴに向かいました。


6
途中のモンセリーチェ駅が乗り換えました。


7
モンセリーチェ駅からロヴィーゴ駅に向かう列車は非常に空いてました。


8
ロヴィーゴ駅に到着しました。


9
ロヴィーゴは、人口49,976人(2022年10月31日現在)のヴェネト州ロヴィーゴ県の県都です。


10
ロヴィーゴ駅の駅舎


11
駅前広場


12
この日のお宿は駅近くのこのホテルです。


13
ホテル前にあるマドンナ・ペッレグリーナ・エ・サンティラリオ聖域教区教会です。


14
教会前にバスターミナルがあります。


15
この場所には、マルタ騎士団の古い病院がありましたが、1860年に取り壊されたそうです。


16
1949年、当時のロヴィーゴ司教は、古い病院の跡地を聖域と定め、新教会の建設を決めました。


17
そうして1951年に創建され、1957年に完成したのがマドンナ・ペッレグリーナ・エ・サンティラリオ聖域教区教会です。


18
中に入りました。


19
単廊式の現代的な内部です。


20
装飾が殆どなく簡素です。


21
右側壁


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天井


23
注目すべき作品はこの一点だけ。


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25


26
チェントロ・ストーリコに向かいました。


27
旧市街の入り口の目印となっている塔の先端が見えてきました。


28
城壁(市壁)内に入りました。この街の市壁はその殆どが取り壊されました。


29
城壁に築かれた監視塔、砦が僅かに残されてます。
写真左がTorre Dona、右がTorre Mozza(Torre Grimani)です。


30
Torre Mozza


31
高さ21.26mです。元々はTorre Donaと同じ高さだったと言われてます。


32
ロヴィーゴの城壁は、1139年から1160年に築かれましたが、13世紀から14世紀にかけてエステ家によって拡張整備されました。


33
Torre Dona


34
高さが51.26mあります。


35
Torre Donaの土台


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Torre Donaの入り口


37
Torre Donaの窓


38
エステ家支配の後、ロヴィーゴはヴェネツィア共和国領となりました。ヴェネツィア領時代になると、城壁の必要性は薄れていきました。


39


40
(つづく)

1丘の下に下ります。


2
ヴェネツィアの統治下に置かれるようになると、住民は次第に安全性を謳歌するようになって町の中心が丘上から丘下に移ったそうです。


3
丘下です。


4
サン・ルイージ教会だった建物です。


5
現在、Cinema Coralloと言う映画館になってます。教会だった建物が映画館に転用されているのを、イタリアではよく見かけます。


6
トルトリーニ通りです。


7
トルトリーニ通りに面して、サント・ステファノ教会が建ってます。


8
13世紀から14世紀に建設されたサント・ステファノ修道院教会の教会です。修道院はナポレオンのイタリア侵攻に伴って抑圧され閉鎖されてしまいました。教会の方は細々と活動が続けられていましたが、1810年に閉鎖されました。


9
教会としての機能停止後、兵舎として使用されていました。その後、モンセリーチェの自治体の所有となり、倉庫として使用されていました。


10
2017年になって漸く修復工事が行われるようになりました。教会閉鎖から200年間、ほとんど放置されていたので、痛みが相当あると言われてます。


11


12
次はサンタ・ローザ教会です。


13
門の手前にサンタ・ローザ教会があります。


14
1683年、ドメニコ会によって建設されたサンタ・ローザ教会です。


15
通りを挟んでファサード前に、ヴェネツィア貴族のベンボ家の別荘が建っていました。そのため、ベンボ家が教会に対して多額の寄付を行ったそうです。


16
中に入りました。


17
単廊式、バロック様式の内部です。


18
翼廊がなく、単純な構造をしています。


19
この教会の祭壇画などについては全く知りません。


20


21


22
主祭壇画


23
Porta di Sacro Riposoです。


24
門を潜りました。


25
次は新ドゥオーモ Duomo Nuovoです。


26
ドゥオーモに行く前にサン・マルコ広場にあるBar Sportで一休みしました。


27
サン・ジュゼッペ・オペライオ教区教会、モンセリーチェの新ドゥオーモです。


28
1950年から1957年に建設された新しい教会です。


29
建物は新しいドゥオーモですが、モンセリーチェの古い教会から集められた作品が祭壇画として使用されており、さながらMuseo Diocesanoのようです。美術的な見所が多い教会です。


30
ローマ通りです。


31
次は市の塔です。


32


33
振り返ると新ドゥオーモが見えました。


34
市の塔です。


35
市の塔は1239年に建設されました。


36
大体見終わったようです。


37
市壁(城壁)を見ながら運河沿いの道を進みます。


38
鉄道駅に向かいました。


39
日帰り遠足に最適なモンセリーチェでした。


40
結構歩き疲れました。


41
(おわり)

1引き続きドゥオーモ・ヴェッキオです。


2
17世紀のヴェネツィア派逸名画家作「十字架降下」


3
この作品はヤコポ・バッサーノ作品のコピー画です。


4
マッティア・ボルトローニ(カンダ・ディ・ロヴィーゴ、1696-モンドヴィ、1750)の「磔刑」


5


6
後陣


7
ジャンバッティスタ・クロサート(トレヴィーゾ、1697-ヴェネツィア、1758)の「聖ジュゼッペの死」


8


9


10
フランチェスコ・ブリオーニ(ヴェネトで18世紀活動)の「聖ピエトロ](1730c)


11


12
フランチェスコ・ブリオーニ(ヴェネトで18世紀活動)の「聖パオロ](1730c)


13


14
16世紀のヴェネトの逸名画家作「永遠なる父」


15


16
17世紀のヴェネツィアの逸名画家作「聖ジュゼッペとファラオの夢」


17


18
カウンターファサード


19
外に出ました。


20
次は聖域です。


21
聖域はドゥオーモ・ヴェッキオよりも少し高い場所にあります。


22
ドゥオーモ・ヴェッキオ後陣の左を進みます。


23
聖域の入り口です。


24
Santuario Giubilare della Sette Chieseが正式名称です。


25
聖域の入り口前から見たモンセリーチェの町です。


26
聖域内に入りました。写真左に小さな礼拝堂が6つ建ってます。6番目の礼拝堂が7番目の礼拝堂を兼ねており、7つの教会と称します。
6つの礼拝堂が建っている場所は、ロッカの丘の斜面に当たります。写真の道路の先にヴィッラと教会がありますが、その場所には古いサン・ジョルジョ教会がありました。
16世紀第4四半世紀、ヴェネツィア貴族デュオド家のフランチェスコとドメニコの兄弟がロッカの丘斜面と荒廃したサン・ジョルジョ教会を購入しました。その場所に別荘と私有教会を建設するためとされてます。
土地を購入した直後から、ヴィッラの建設が建築家ヴィンチェンツォ・スカモッツィ(ヴィチェンツァ、1548-ヴェネツィア、1616)の設計によって始まったそうです。
1592年、第231代教皇クレメンテ8世(ファーノ、1536-ローマ、1605 教皇在位:1592-1605)は荒廃したサン・ジョルジョ教会を取り壊し、その上にデュオド家の私立教会建設を許可しました。


27
ヴィッラと私立のサン・ジョルジョ・マルティーレ教会です。
サン・ジョルジョ・マルティーレ教会は、建築家ヴィンチェンツォ・スカモッツィの設計によって1592年に創建され、1597年に完成しました。


28
6つの礼拝堂は、ヴィンチェンツォ・スカモッツィの設計によって、1605年から1615年に建設されました。6つの礼拝堂の祭壇画を見ます。


29
サンタ・マリア・マッジョーレ礼拝堂の祭壇画


30
サン・ジョヴァンニ・バッティスタ礼拝堂の祭壇画


31
聖十字架礼拝堂の祭壇画


32
サン・ロレンツォ礼拝堂の祭壇画


33
サン・セバスティアーノ礼拝堂の祭壇画


34
サンティ・ピエトロ・エ・パオロ礼拝堂の祭壇画
この礼拝堂が6番目と7番目を兼ねてます。


35
ヴィッラと私立教会に向かいます。


36
サン・ジョルジョ・マルティーレ教会です。今も私立教会のようで、簡単に中に入ることが出来ないようです。


37
デュオド家のヴィッラ


38
聖域には巡礼路が設けられてますが、巡礼路の扉が閉まっていました。


39
巡礼路です。


40
道を下ります。
(つづく)

40次はサンタ・ジュスティーナ教区教会です。


2
1957年、モンセリーチェの新しいドゥオーモとしてサン・ジュゼッペ・オペライオ教区教会が建設され、奉献されましたが、それまでは、このサンタ・ジュスティーナ教区教会がモンセリーチェのドゥオーモでした。


3
そのため、ドゥオーモ・ヴェッキオと呼ばれてます。


4
先史時代に遡るモンセリーチェですが、6世紀から8世紀にかけて、侵略や洪水の脅威から逃れるために、丘の斜面に定住するようになった住民によって建設された小さな教会が前身です。


5
人口の増加と建物の経時劣化に対応するために、1122年に建物の再建が決定され、二番目の建物が1155年に完成し、奉献式が執り行われたそうです。最初の建物と二番目の建物は現在地よりも少し下にあったようです。


6
1239年、イタリア王を兼ねる神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世(イエージ、1194-トッレ・マッジョーレ、1250)がモンセリーチェにやってきて、要塞と町の中心を堅固な城壁で囲むことを決めました。それに伴い二番目の教区教会は取り壊され、現在地に新しいサンタ・ジュスティーナ教区教会が建設されることになりました。
1256年に完成したロマネスク様式の建物が現在の姿の原形となってます。


9
後陣


10


11


12
後陣前にライオン像があります。


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左右のライオン像


15
鐘楼


7
ファサードの入り口上ルネッタに描かれたフレスコ画「聖母子と聖サビーノと聖ジュスティーナ」(詳細不明)
聖サビーノはモンセリーチェの守護聖人です。


8
ファサードの柱廊


17
中に入りました。


18
左側壁
単廊式、ロマネスク様式の内部です。


19
右側壁


20
翼廊はありません。


21
Domenico Finaciの「十字架降下」(18世紀)


22
Domenico Finaciと言う画家については全く知りません。


23
バルトロメオ・リッテリーニ(ヴェネツィア、1669-1731)の「キリストの神殿奉献」(1774)


24
バルトロメオ・リッテリーニの署名と制作年が記されてます。


25
Lodovico Vernasal(パドヴァで1713-1729活動記録)の「マギの礼拝」


26


27
Lodovico Vernasal(パドヴァで1713-1729活動記録)の「羊飼いの礼拝」


28


29
制作者情報等詳細不知の「チントラの聖母」


30
Presbiterio


31
後陣右の礼拝堂


32
Presbiterioの多翼祭壇画


33
15世紀のヴェネツィア派逸名画家作「サンタ・ジュスティーナの多翼祭壇画」


34
14世紀前半にヴェネツィア派逸名画家によって描かれた中央礼拝堂左側壁に残るフレスコ画


35
中央礼拝堂右側壁のフレスコ画


36


37


40
後陣左の礼拝堂
15世紀のヴェネツィア派逸名画家作「授乳の聖母」


38
17世紀のヴェネツィア逸名画家作「聖ジョヴァンニ・バッティスタの誕生」


39
(つづく)

1マッツィーニ広場です。


2
旧サン・パオロ教会が広場の端に建ってます。


3
ロッカの丘は雲の中でした。


4
マッツィーニ広場に立つ時計塔です。


5
マッツィーニ広場が町の中心に当たります。


6
次はカステッロです。


7
モンセリーチェ城 Castello da Monseliceです。


8
11世紀から14世紀に建設されたモンセリーチェ城です。


9
城は主な四つの建物と要塞から成ってます。


10
モンセリーチェは、1405年にヴェネツィア共和国領になりました。ヴェネツィア領になってから間もなく、城はヴェネツィア貴族のマルチェッロ家の所有となりました。


11
15世紀末、マルチェッロ家は住宅への改造工事を行い、現在の姿の原形になりました。


12
エゼリーノの塔と呼ばれている建物です。


13
第一次大戦において、城はイギリス軍に接収され、1919年に破壊されてしまいました。


14
エゼリーノの塔にある紋章の浮彫


20
城の前に置かれたライオン像


32
1933年、モンセリーチェ伯爵でイタリア王国上院議員で大臣を務めたヴィットリオ・チーニ伯爵は、破壊された城を買収したのです。破壊された城を復元して元の姿に戻す計画を持っていました。


33
1935年から復元工事が行われ、1942年に完成した複合施設が現在の姿です。


34
ほぼ元の姿に戻されたと言われてます。
チーニ伯爵に因んで、別名チーニ城と呼ばれてます。


15
写真左の建物は、城を構成する四つの建物のうちの一つです。


16
現在、この建物は図書館と博物館になってます。


17
Museo della Raritaです。


18


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28
城内にある礼拝堂です。


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30


24
城らしく見える場所から撮った写真です。


25
この辺は高い城壁に囲まれてます。


26
道を下ります。


27
下り道から振り返って撮った写真です。


31
邸宅に改造されたので、堅固な城とは異なる雰囲気があります。


35
下り道の途中で近代的なドゥオーモが見えました。


36
さらに道を下ります。


37
ツタが絡まった家


38
下り道の左に階段があります。


39
階段の先に聖域 Santuarioがありますが、そこに行くのは後回しにして重要な教会の拝観を先にします。


40
写真の教会の拝観を先にします。
(つづく)

1この日はパドヴァに泊まっていました。


2
パドヴァからモンセリーチェへの日帰り遠足です。


3
鉄道でモンセリーチェ駅に向かいました。車内は非常に空いてました。


4
モンセリーチェ駅に到着しました。


5
モンセリーチェ駅の駅舎です。


6
モンセリーチェは、人口17,330人(2021年8月31日現在)のヴェネト州パドヴァ県にあるコムーネです。


7
鉄道駅からトレント・トリエステ通りを少し進むと、直ぐに教会が見えてきます。


8
この辺は城壁(市壁)外に当たります。


9
マドンナ・デル・カルミネ教会です。単にカルミネ教会と呼ばれることが多いようです。


10
建設された年が明らかになっていませんが、1421年の司教区の文書にこの教会の存在が初めて記載されたそうです。1421年以前に存在したカルメル会修道院の隣に建設された教会と記されているそうです。


11
鐘楼


12
ファサード側のメイン扉


13
サイドポータルだった場所。


14
1652年、隣接するカルメル会修道院が閉鎖されましたが、その数年後、教会は火災に遭い消失sh他ので、再建され1791年に完成した新古典様式の二代目の建物が現在の姿の原形となってます。


15
1953年に宗教活動が停止された旧教会となってます。


16
町の中心を目指して進みます。


17
ビサット運河 Canale Bisattoです。


18
運河の横に城壁(市壁)があります。


19
ビサット運河は、1175年から1318年に存在していたパドヴァ共和国によって、1209年から1314年に掘削されて完成したそうです。


20
商業面と軍事面で重要な運河でした。


21
モンセリーチェは、五重の城壁に囲まれた堅固な要塞都市として知られていました。


22
運河沿いの城壁は、五重の城壁のうち、もっとも外側に当たります。


23
カステッロがロッカの丘上にあります。


24
市壁内に入りました。この辺はチェントロ・ストーリコの入り口に当たります。


25
モンセリーチェの歴史は古く、既に先史時代に集落があったそうです。


26
この町が要塞都市になったのは、ビザンチン帝国がロッカの丘に初めて要塞を築いた5,6世紀と言われてます。


27
1405年、モンセリーチェはヴェネツィア共和国領になりましたが、それ以降、軍事的重要性が薄められ、ヴェネツィア貴族のヴィッラが建設される保養的色彩が強い町に転じました。


28
旧サン・パオロ教会です。


29
7世紀頃に建設された町で最古の教会の一つでした。


30
その後、幾度となく改築、改修が繰り返されたそうです。


31
町の中心にあったので、信者が多い教会でした。


32
鐘楼は三代目となるものです。


33
現在の鐘楼は、三代目となるのもので、19世紀末に再建されました。


34
1836年、サン・パオロ教会に隣接して市庁舎が建設されました。市庁舎の隣にある教会だったので、増築してドゥオーモにする計画が持ち上がりましたが、ドゥオーモは別の場所に新築されることになり、サン・パオロ教会の地位は急速に衰えました。


35
1965年から1966年に隣にあった市庁舎の建物が取り壊されましたが、それと共に教会は活動が停止されてしまいました。1956年、サン・パオロ教会だった建物はモンセリーチェ自治体の売却されました。


36
建物は暫く放置されましたが、20世紀末に建物が博物館として再出発することが決定され、大掛かりな改造工事を経て、Museo San Paoloが2001年にオープンしたのです。
写真はMuseoの入り口です。


37
Museo San Paoloの実態は考古学博物館です。


38
先史時代、ローマ時代の遺跡からの出土品が展示の中心です。


39
考古学博物館の展示はどこでも似たり寄ったりです。


40
(つづく)

P1010787引き続きドゥオーモの祭壇画です。


P1010788
私には作品帰属が全く分からないものばかりです。


P1010790


P1010791


P1010792


P1010793


P1010794
ドゥオーモはこれで終わりです。


P1010766
ドゥオーモから外に出ました。


P1010797
サン・フランチェスコ門です。


P1010798
南から町の中心に入る入口として、1581年に建設されました。門を潜れば、直ぐに運河の上に出ます。


P1010799
門の外に出ずにVia Massimo d’Azeglioを進みました。


P1010800
突き当りにサン・ロッコ教会があります。


P1010801
写真右にヴぇッキア門があります。


P1010802
この店で果物を買いました。


P1010824


P1010825


P1010803
サン・ロッコ教会です。


P1010814
最初の建物は1480年に建設されました。現在の建物は1767年に再建された二代目となるものです。


P1010815
1751年に建設された鐘楼です。


P1010812
20世紀初めに宗教活動が停止され、その後、コムーネ所有の建物になりました。


P1010813
中に入るとパーティーをやっていました。


P1010804
Porta Vecchiaです。市の塔、時計塔とも呼ばれてます。


P1010805
エステに城壁が築かれると同時に、この場所に入口門が設けられたとされてますが、具体的な時期が分からないようです。
1238年の文書に、門についての記述があるそうです。


P1010806
門を潜ると、直ぐに橋があります。橋の下にパドヴァからの運河が流れてます。


P1010807
城壁外から見たPorta Vecchiaです。


P1010809
1238年の文書に記載された石造りの門は、1688年の地震によって倒壊してしまいました。その門の残骸土台を利用して、1690年に再建された門が現在の姿になってます。


P1010810
門を潜ります。


P1010808
城壁内に戻ります。


P1010811


P1010816
マッジョーレ広場へと進みました。


P1010817


P1010818
Palazzo Municipale(写真右端の建物)


P1010819
エステ家がフェラーラに去ってから、何処となく寂れたような気がしました。


P1010760


P1010759
ドゥオーモが見えました。


P1010761
大体見終わったようです。


P1010820
写真右奥にサン・マルティーノ教会があります。


P1010821
サン・マルティーノ教会の後陣


P1010822
サン・マルティーノ教会の鐘楼


P1010823
ヴェネツィア領だった筈ですが、有翼のライオン像が見当たりませんでした。


P1010832
(おわり)

P1010762次はドゥオーモです。


P1010763
エステのドゥオーモ、サンタ・テクラ教区教会です。


P1010796
2012年のエミリア地震によって被害を受け、修復工事中でしたが、拝観ができました。


1536
4世紀または5世紀頃に、異教の建物、恐らく異教の寺院だった建物の残骸を一部利用して建設された初期キリスト教会が前身とされており、エステの最古の教会でした。


P1010764
1034年の文書に、この教会の存在が初めて記録されたそうです。


P1010765
12世紀に二番目の建物が再建されました。


P1010795
三番目の建物が、建築家ヴィンチェンツォ・スカモッティ(ヴィチェンツァ、1548‐ヴェネツィア、1616)の設計によって、1583年から1592年に建設されました。


1535
現在、地震による被害に対する修復工事が完了したようです。


1537
さて、地震による被害ですが、1688年に地震によって三番目の建物は瓦礫になってしまいました。修復は不可能と判断されて、四番目となる建物が再建されることになりました。


1538
そうして、建築家アントニオ・ドメニコ・ガスパーリ(アントニオ・ガスパーリと呼ばれることもある)(ヴェネツィア?、1660c‐トレヴィーゾ、マゼール、1723)が起用され、彼の設計によって1690年から1720年に四番目の建物が建設されました。1748年に四番目の建物の奉献式が執り行われたそうです。
四番目の建物が現在の姿になってます。
ファサードは未完成のまま現在に至ってます。


1539
1896年、第256代教皇レオーネ13世(1810‐1903 教皇在位:1878‐1903)によってArcipretale di Este a Chiesa Abbazialeに格付けされました。


1540
8世紀に建設された鐘楼を一部使用して、1724年から1730年に建設された鐘楼です。


P1010767
中に入りました。
この時は後陣が修復工事中でした。


1541
後陣修復後の写真です。


P1010769
楕円形、バロック様式の内部です。


P1010768
右側壁


1543
Presbiterio


1542
後陣に置かれた祭壇画がこの教会の最大の見どころです。


1544
ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロ(ヴェネツィア、1696‐マドリッド、1770)の「ペスト禍のエステを解放する聖テクラ」(1759)


P1010783
修復工事のため、後陣左側壁の祭壇画がよく見えませんでした。


P1010784
後陣右側壁の祭壇画


P1010785
磔刑の礼拝堂


1545
フランチェスコ・テリッリ(フェルトレ、1584‐1635)の「磔刑像」
ベルナルド・ファルコーニ(ビッソーネ、1620‐1696c)の「嘆きの聖母と聖マリア・マッダレーナ」


P1010770
天井


1546
楕円形の天井


P1010771
天井のフレスコ画(詳細不知)


P1010773
パドヴァの聖アントニオ礼拝堂


P1010774
詳細不知の祭壇画


P1010775
ベアトリーチェ・デステの礼拝堂です。


P1010776
ミケランジェロ・グリゴレッティ(ポルデノーネ、1801‐ヴェネツィア、1870)の「ベアータ・ヴェルジネと聖ジョヴァンニ・バッティスタとベアータ・ベアトリーチェ・デステ」


1547
ミケランジェロ・グリゴレッティは、宗教画も制作しましたが、肖像画家として非常に有名です。


1548


P1010777
詳細不知


P1010778


P1010779
サンティッシモ・サクラメント礼拝堂です。


P1010780
アントニオ・コッラディーニ(エステ、1688‐ナポリ、1752)の「聖体の勝利」


1549


P1010781
詳細不知


P1010782
詳細不知


P1010786
(つづく)

P1010741市の塔の見学は後回しにしました。


P1010740
城の方に向かいました。


P1010744
Villa Mocenigoです。
ヴェネツィア貴族のモチェニーゴ家がエステ城の一部を組み入れて16世紀末に建設したヴィッラです。


1514
18世紀に火災で破壊してしまったので、ヴィッラの建物の大部分が再建されました。


P1010743
エステの考古学博物館と思われてますが、正式名はMuseo Nazionale Atetinoと言い、国立の博物館です。当初、エステのコムーネの博物館として開館しましたが、後に国立の博物館になりました。


1515
エステ周辺の遺跡は13‐14世紀に発見され、19世紀以降を中心に発掘調査が行われましたが、その際に出土した発掘物が展示の中心です。


1517
考古博物館の展示は、どこの博物館でも似たり寄ったりです。


1516
私にとって、興味ある作品が一つだけありました。


1518
チーマ・ダ・コネリアーノ(コネリアーノ、1459c‐1517c)の「聖母子」
モチェニーゴ家が所有していた作品でしょうか?


P1010745
Castello Carrarese di Esteと呼ばれる城の中に入りました。


P1010746
Colli Euganeiの南端に当たり、周囲を見渡す絶好の地にあったことから、何時しか壁に囲まれた住居が建てられたと考えられてます。壁に囲まれた住居は589年の洪水によって流されましたが、その後、同じような建物が建設されました。しかし、その建物は次第に砦に強化されたようです。


P1010747
最初の城は、オベルテンギ家の一員で、エステ家最初の当主で、ミラノ侯爵アルベルト・アッツォ2世・デステ(ヴァンガディッツァ、1009‐1096)によって、1056年頃に築城されました。
エステ領主は、アルベルト・アッツォ2世・デステの三男であるフォルコ1世・デステに引き継がれましたが、フォルコ1世によって城は拡大整備されました。


P1010750
13世紀の度重なる戦争によって、城は深刻な被害を受けました。


P1010752
エステはエステ家の支配下にありましたが、1239年、エステ家はその本拠地をフェラーラに決め、フェラーラに宮殿を移しました。


P1010754
現在の城は、パドヴァ領主のウンベルティーノ・ダ・カッラーラによって1339年から1340年に建設されました。


P1010755


P1010753


P1010749


P1010748


1519


1520


1521


1522


1523


1524


1525


1526


1527


1528


1529


P1010751
庭園に出ます。


P1010756


P1010757


P1010758


1530


1531


1532


1534
城は、これで終わりです。


1533
(つづく)

引き続き、エステ家発祥の地エステです。
P1010723
Via Principe Umbertoです。


P1010724
この辺は、13世紀頃には城壁外でしたが、16世紀に城壁内に組み入れられました。


P1010725
サン・マルティーノ教会です。


P1010727
6世紀頃に建設された、エステで最古の教会とされてます。
日曜日しか開きません。


1493 (2)
11世紀初めの文書に、この教会の存在が初めて記載されたそうです。


1494
高さ23mの鐘楼は、1293年に建設されました。
14世紀初め、隣接していたサン・ロレンツォ礼拝堂を組み込んで拡大されました。



1495
1600年、ファサードが西側に4mほど移動して、ファサードが左右非対称となりました。


1496
クーポラ


1502
後陣


1497 (2)
三廊式、ロマネスク様式の内部です。
教会内部の写真は外部サイトから拝借しました。


1498 (2)
主祭壇


1499 (2)
制作者情報不知の「聖母子と聖ジョヴァンニ・バッティスタと聖ジュゼッペ」(1680‐90)


1500 (2)
Maestro di Ispirazione Giottescaの「磔刑」(14世紀中ごろ)


1501 (2)
Maestro di Ispirazione Giottescaの「聖アガタの殉教」(14世紀中頃)


P1010726
拝観するのが大変な教会です。


P1010728
町の中心の広場に向かいました。


P1010729
修道院だった建物のようですが、すでに解体されたかもしれません。


P1010730
アーチを潜って、町の中心である広場に出ます。


P1010731
エステの中心、マッジョーレ広場に出ました。


P1010734
11世紀には、この広場の原形が存在していたそうです。


P1010735
マッジョーレ広場のライオン像


1503
このライオン像の詳細が分かりません。


1504


P1010736


P1010737
町役場 Palazzo Municipaleです。


1505
17世紀に建設されたPalazzo Municipaleです。


1506
18世紀に改造され、現在の姿の原形になったそうです。


1507
20世紀末に復元されて18世紀の姿に戻ったそうです。


P1010732
Palazzo Scaligero del Capitanoです。


1509
Palazzo Scaligero del Capitanoは、14世紀にスカラ家によって建設されました。


1510
スカラ家が退去すると、フェラーラのエステ家から派遣された代官の宿舎兼事務所として使用されました。


1511
Palazzo Scaligero del Capitanoの碑文


1512
ロッジャ


1513
現在、Palazzo Scaligero del Capitanoは文書館として使用されてます。


P1010739


P1010738


P1010733
(つづく)

P1010706エステ駅に到着しました。


P1010707
エステは、人口15,980人(2021年11月30日現在)のヴェネト州パドヴァ県にあるコムーネです。


P1010708
エステ駅の駅舎です。


P1010709
チェントロ・ストーリコに向かいました。


P1010710
鉄器時代の紀元前10世紀には、この地に村が形成されていたとされてます。紀元前3世紀から紀元前2世紀頃にローマの植民地になりました。


P1010711
中世初めの5,6世紀、エステは東ゴート王国の支配下にありましたが、後にビザンチン帝国領に組み入れられました。
10世紀頃、ロンゴバルドのオベルテンギ家の支配下に置かれるようになりましたが、11世紀になるとオベルテンギ家の一族であるエステ家が支配するようになりました。
ミラノ侯爵のアルベルト・アッツォ2世・デステ(1009‐1097)がエステに城を築き、エステ家の本拠地になりました。
1240年、エステ家はフェラーラに遷都しました。それを機に、エステはエステ家にとっての重要性が急速に薄らぐようになり、徐々に繁栄から取り残されるようになりました。
写真左の建物はサン・ジュゼッペ教会です。


P1010713
パドヴァからの運河であるFiume Frassineです。


P1010712
川を渡った先にサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ聖堂があります。


P1010714
フェラーラ侯爵の次男で傭兵隊長だったタッデオ・デステ(エステ、1390c‐モッツァーニカ、1448)の遺言によって1478年に建設されたドメニコ会の修道院教会が前身です。初代の建物は現在の建物に隣接して建っていました。


P1010716
現在のバロック様式の建物は、1717年に創建され、1745年に完成しました。初代の建物は1736年に取り壊されました。
この場所は、エステの分離集落サン・マルティーノに当たりますが、1776年にサン・マルティーノ分離集落の教区教会となり、奉献式が執り行われました。


P1010826
未完成のファサードです。


P1010717
鐘楼


1489
初代の建物の土台の上に建設された鐘楼です。


1490


P1010715
1924年、第259代教皇ピオ11世(デージョ、1857‐ローマ、1939 教皇在位:1922‐1939)によってBasilica Minoreに格付けされました。


1482
クーポラ


1483
再建の完成時にはクーポラはなく、1889年に追加されました。


P1010718
ファサードを見ます。


1484


1485


1486


1487
拝観します。


P1010827
聖堂内に入りました。


P1010828
単廊式、ラテン十字形、バロック様式の内部です。


P1010829
右側壁


P1010830
天井の装飾


1491


P1010831
主祭壇画の「グラツィエの聖母」は初代の建物にあったものです。


1492
作品帰属が分からない聖堂でした。


1488
外に出ました。


P1010720
Via Principe Umberto


P1010719
旧市街に向かいました。


P1010721
この辺は城壁外に当たります。


P1010722
(つづく)

P2490355
聖ビアージョ?


P2490356
カンポサンピエトロのサン・ビアージョ教区教会にありました。


P2490357
トンマーゾ・ダ・モデナ(モデナ、1326-1379)の「聖オルソラの物語」(1355-58c)のフレスコ画が展示されてます。


116
トレヴィーゾのサンタ・マルゲリータ・デリ・エレミターニ教会です。
「聖オルソラの物語」のフレスコ画は、この教会にありました。


117
現在は、教会活動を停止しています。
トンマーゾ・ダ・モデナは、トレヴィーゾに少なくても10年滞在しました。その間、幾つかの教会でフレスコ画などを制作しました。


P2490358
サントルソラ礼拝堂にあったフレスコ画は、11場面に分割されて展示されてますが、その展示は聖オルソラの物語の順番通りになっていません。
「大使に結婚申し入れを渡すイングランド王」
イングランド王は、ブルターニョ王の娘オルソラを息子の嫁に迎えようとして、大使を派遣して、その申し入れ文書をブルターニョ王に渡すように命じます。


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この場面がサントルソラ礼拝堂の何処にあったのかを示してます。


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イングランド王からの文書を読むブルターニョ王


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P2490363
聖オルソラの船出


124


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ローマに到着して教皇に歓迎される聖オルソラ


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教皇チアリ―コの夢


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教皇帽を放棄する教皇


123


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P2490375
聖オルソラの母との別れ


118


119


120


121


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この人がここから去りません。


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話す、話す、話す


P2490379
お手上げです。私が観ているのは当然気が付いてます。それでも立ち止まってます。呆れました。


122
イングランド王の息子、王子の洗礼
聖オルソラと結婚するために異教を放棄してキリスト教の洗礼を受ける王子です。


P2490303
栄光の聖オルソラ(写真再掲)


125


P2490301


P2490306
ローマへの巡礼(写真再掲)


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P2490309
聖オルソラの殉教(写真再掲)


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P2490381
キオストロ回廊に出ました。


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回廊の壁に描かれたフレスコ画を見ます。


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墓石の展示


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P2490391
外に出ます。


P2490393
絵画部門の展示室が未整備のようで、見ることが出来た作品が相当限定されました。それが残念でした。


P2490394
柱廊のフレスコ画を見ます。


P2490395
これです。


P2490396
非常に充実した市立美術館です。
(おわり)

旧サンタ・カテリーナ教会の続きです。
P2490311
磔刑の礼拝堂です。


P2490312
サンタ・カテリーナ教会にあった、この教会オリジナルのフレスコ画です。


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トリッティコ(1352)


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トレヴィーゾのサン・パオロ修道院にありました。


P2490316
永遠なる父(1525-50c)


P2490317
何処にあったのか、は不明のようです。


P2490319
磔刑像(14世紀末-15世紀初頭)


P2490320
サン・テオニスト教会にありました。


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小作品が展示されてます。


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象牙細工の磔刑像です。


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「聖人たち」(14世紀後半-15世紀初頭)
左端はアレッサンドリアの聖カテリーナです。


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聖ルチア


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詳細不知


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聖アガタ


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天井


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P2490332
三位一体


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受胎告知


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アレッサンドリアの聖カテリーナ


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14世紀後半のフレスコ画


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騙し絵


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ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノ(ファブリアーノ、1370-ローマ、1427)の「聖母子と聖マルゲリータ」(1412)
何処にあったのか、分からないようです。


P2490346
聖母子と四聖人
サンタ・カテリーナ教会にあったフレスコ画です。


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磔刑(1450-55c)


P2490348
ダーリオ・ダ・トレヴィーゾ(ポルデノーネ?、1420c-コネリアーノ、1498)の作品は、トレヴィーゾのサンタ・マルゲリータ・デリ・エレミターニ教会にありました。


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磔刑


111
天井


P2490351


112


P2490350


P2490352


113
詳細不知


P2490353
聖ビアージョ


P2490354
(つづく)

100
絵画、彫刻部門です。


101
ロレンツォ・ロット(ヴェネツィア、1480c-ロレート、1556/1557)の「ドメニコ会修道士の肖像」


102
パリス・ボルドン(トレヴィーゾ、1500-ヴェネツィア、1571)の「玉座の聖母子と聖ジョヴァンニ・バッティスタと聖ジローラモ」


103
パリス・ボルドン(トレヴィーゾ、1500-ヴェネツィア、1571)の「キリストの復活」


104
ジョヴァンニ・ベッリーニ(ヴェネツィア、1430-1516)の「聖母子」


105
ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノ(ファブリアーノ、1370-ローマ、1427)の「聖母子と聖マルゲリータ」(1412)
現在は旧サンタ・カテリーナ教会で展示されてます。


106
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(ピエーヴェ・ディ・カドーレ、1488/1490-ヴェネツィア、1576)の「スペロ―ネ・スぺローニの肖像」(1544)


107
フランチェスコ・アイエツ(ヴェネツィア、1791-ミラノ、1882)の「家族の肖像」(1807)


108
ジャンドメニコ・ティエポロ(ヴェネツィア、1727-1804)の「聖ジョヴァンニ・バッティスタの説教」


109
ロザルバ・カッリエーラ(ヴェネツィア、1673-1757)の「女性の肖像」(1720-21c)
ロザルバ・カッリエーラは、パステルによる肖像画を得意にした女流画家です。


110
ロザルバ・カッリエーラ(ヴェネツィア、1673-1757)の「若い女性の肖像」(1720-21)


P2490273
旧サンタ・カテリーナ教会の中に入りました。


p1320615
旧サンタ・カテリーナ教会の構造図


P2490272
「サン・マルコの有翼のライオン」(15世紀)


P2490274
「磔刑像」(15世紀初め-中頃)


P2490275


P2490276
旧教会内にあるフレスコ画は、元々サンタ・カテリーナ教会にあったものと、他の教会にあったものを剥離して移設されたものが混在しているので、注意が必要です。


P2490277
「受胎告知される聖母」


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P2490282


P2490281
詳細不知


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トレヴィーゾにあったサンタ・マルゲリータ・デリ・エレミターニ教会にあったトンマーゾ・ダ・モデナ(モデナ、1326-1379)のフレスコ画「聖オルソラの物語」(1355-58c)が展示の中心です。


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相当イタミがあるフレスコ画です。


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トレヴィーゾのサンタ・マルゲリータ・デリ・エレミターニ教会のサントルソラ礼拝堂にあったフレスコ画です。


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「最後の審判」


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トレヴィーゾのサン・バルトロメオ教会にあったフレスコ画です。


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サンタ・カテリーナ教会のフレスコ画(14世紀)


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柱のフレスコ画(14世紀)はサンタ・カテリーナ教会に元々あったものです。


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ここでも剥離フレスコ画が展示されてますが、サンタ・カテリーナ教会サントルソラ礼拝堂にあったものです。


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トンマーゾ・ダ・モデナ(モデナ、1326-1379)の「玉座の聖母子」(1355-57c)


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「栄光の聖オルソラ」


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P2490303


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P2490306


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P2490309


P2490310
(つづく)

P2490263
引き続き考古学部門の展示です。


P2490264


P2490265


P2490266


P2490267


P2490268


P2490269


p1320617
ローマ時代の肖像頭像です。


p1320618
有名な皇帝頭像もあります。


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P2490270
皇帝ネロ


P2490271


p1320643
女神フォルトゥーナ像(2-3世紀)


p1320644
女性の頭像(3世紀中頃)


p1320645
若きマルクス・アウレリウスの頭像(130-138c)


p1320646
男の頭像(2世紀)


p1320620
ローマ時代の「ヴィーナス」


p1320621
ローマ時代のボウル


p1320622
モザイク(2-3世紀)


p1320623
モザイク(3世紀)


p1320624
モザイク(3世紀)


p1320625
モザイク(3世紀)


p1320626
モザイク(2世紀中頃)


p1320627
ローマ時代の副葬品


p1320628
ローマ時代の副葬品


p1320629
副葬品(1世紀)


p1320630
副葬品(1世紀)


p1320631
副葬品(1世紀)


p1320632
ローマ時代のガラス製品


p1320633
墓碑(1世紀)


p1320634
墓石(1世紀)


p1320635
墓石(1世紀)


p1320636
墓石(1世紀)


p1320637
ローマ時代のランプ


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ローマ時代のランプ


p1320639
ローマ時代のランプ


p1320640
碑文(1世紀)


p1320641
ローマ時代のブロンズ製品


p1320642
解放奴隷の墓(1世紀)


p1320647
ローマ時代のガラス製品


p1320648
これで考古学部門を終わります。
(つづく)

P2490222
引き続き考古学部門の展示です。


P2490223


P2490224


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ローマ時代のモザイク


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P2490262
(つづく)

134
カルロ・アルベルト通りの突き当りにサンタ・カテリーナ教会修道院があります。


137
サンタ・カテリーナ教会です。1772年に閉鎖されてから宗教活動が再開されることがない旧教会です。


136
こちらはサンタ・カテリーナ修道院だった建物です。


138
サンタ・カテリーナ教会修道院が建っている場所に、1283年からトレヴィーゾのシニョーリを務めるダ・カミーノ家の宮殿が建っていました。


p1320608
1306年、ダ・カミーノ家当主がその長男に宮殿内で殺害され、その長男も宮殿のロッジャで反乱軍によって暗殺され、ダ・カミ―ロ家はトレヴィーゾから追放されました。
追放後、ダ・カミ―ロ宮殿は放置され、荒廃しましました。


P2490210
1346年、マリアの下僕托鉢修道会が修道院建設を当時のポデスタに願い出ました。ポデスタは、荒廃したダ・カミーノ宮殿の土地と建物を与えました。
宮殿だった建物の一部を利用して、1346年、修道院と教会の建設が開始されました。


P2490204
1348年、ペスト禍によって建設工事が中断しましたが。ペストの流行が落ち着くと工事が再開され、15世紀初頭に完成しました。
当初は、サンタ・マリア修道院教会と呼ばれていましたが、後にサンタ・カテリーナ教会修道院と改称されました。


P2490212
1772年、修道院抑圧政策によってサンタ・カテリーナ教会修道院は閉鎖され、ヴェネツィア共和国の国有財産となりました。同年、競売が行われ、ベルフィオーレのフランチェスコ会三次尼僧の所有となりました。修道院抑圧政策で修道士を追放したにも拘らず、尼僧に落札させたのは矛盾のように思えます。


p1320609
1806年、ナポレオンの抑圧令によって、サンタ・カテリーナ教会修道院の建物はフランス軍に接収されて、軍事施設に転用されました。フランス軍の撤退後も国有の軍事施設として継続使用され、その状態は第二次世界大戦の終戦まで続きました。


p1320610
1944年4月7日と1945年3月10日の、ドイツ軍によるトレヴィーゾ空爆の際、修道院教会の建物は爆撃を受けて大きな被害を受けました。
戦後になっても建物の修復は未着手のまま放置されました。


P2490213
1974年、サンタ・カテリーナ修道院教会の建物に市立美術館の設置が決定されましたが、資金難のために建物の修復が中々進捗しませんでした。


P2490211
修復が済んだ建物の一部を使用して、市立美術館が2003年に部分開館しました。本格的な開館は2015年のことでした。
現在も建物の修復工事が継続されており、美術館は更に拡大されることになってます。


P2490205
修道院のファサード


P2490206
市立美術館の入り口です。


P2490207
月曜日が休館ですが、月曜以外は開館するものの毎日昼休みがあります。


144
サンタ・カテリーナ修道院教会の鐘楼です。


140
後陣


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修復が少し進んだ後陣


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サンタ・カテリーナ教会ファサードの隣にあるCappella degli Innocentiのファサードです。


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Cappella degli Innocentiファサード上部にあるモノグラム


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サンタ・カテリーナ教会の構造図


152
美術館の扉が開きました。


151
入館します。


153
美術館は、考古学部門、絵画彫刻部門、サンタ・カテリーナ教会の三部門構成です。


154
入館すると先ずキオストロ回廊に出ます。


155
長期間、軍事用に転用され、第二次世界大戦における二度の爆撃を受けたので、20世紀後半に復元された回廊です。


156
それでもフレスコ画が僅かに残されてます。


157
回廊の壁のフレスコ画断片


158
回廊を経由して展示室に向かいます。


159
現代抽象画が回廊にありました。


160
現代抽象画は特別展示であって、常設ではないと思います。


p1320616
この日は階上で展示されていました。


P2490214
考古学部門から見て回りました。


P2490215
石器時代の展示


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青銅器


P2490219
鉄器


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P2490221
(つづく)

P2490184
Palazzo dei Trecentoです。


P2490185
この日、食のフェスタが開催中でした。


P2490186
ヴェネツィア領だったことを示す「有翼の獅子像」


P2490188
次はサン・フランチェスコ修道院教会です。


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サン・フランチェスコ修道院教会の鐘楼です。


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サン・フランチェスコ修道院教会です。


p1320586
1216年、聖フランチェスコ(アッシジ、1182-1226)から派遣された修道士たちがトレヴィーゾに到着しました。すぐに定住して修道院を建てることが許され、聖母に捧げられた小さな修道院と礼拝堂が、現在の場所に建設されました。


p1320592
しかし、信者や修道士希望者が増える一方になり、建設されたばかりの聖母に捧げられた修道院と礼拝堂は手狭になってしまいました。


p1320587
教会のファサード
従来の建物が取り壊され、1231年から修道院と教会の建設が始まり、1270年完成した建物が現在の姿の原形となってます。


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1797年、フランス軍によって修道士が追放され、建物は接収されて兵舎に転用されました。


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フランス軍の撤退後、1806年、今度はイタリア王国の所有となり、イタリア王国軍の軍馬の厩舎として使用されることになりました。その際、修道院の回廊が半分破壊されたそうです。


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1920年頃から修復工事が行われ、1926年の工事完了を待って再び宗教活動が再開されました。少し新しく見える箇所は、修復された部分です。


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聖フランチェスコのブロンズ像が置かれてます。


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聖フランチェスコのブロンズ像は、ロベルト・クレメシーニ(ロヴィーゴ、1944-)の作品です。


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キオストロ


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キオストロ回廊


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1920年台に修復されました。


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回廊の壁は綺麗に塗装されてます。


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フレスコ画の痕跡すらもないようです。


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美術的な見所は全くないキオストロ回廊です。


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二廊式、ゴシック様式の内部です。


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美術的な見所が多い教会です。


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T字形の後陣、二廊式の珍しい構造をしています。


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制作者不明の「パドヴァの聖アントニオ」


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ピエトロ・アリギエーリの墓
ピエトロはダンテの弟です。


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アルヴィーゼ・ヴィヴァリーニ(ヴェネツィア、1446-1502)の「聖会話」(1480)


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ヴィットーレ・カルパッチョ(ヴェネツィア、1465-1520)の「聖ジョアッキーノと聖アンナの邂逅」


P2490187
次は市立美術館です。


P2490189
サン・レオナルド教会を通り過ぎます。


P2490191
この日、水量が多く、流れが急でした。


P2490192
水車が動いていました。


P2490197
水車の目的が分かりません。


P2490198
動いていないことが多かったと思います。


P2490193
魚市場が営業中でした。


P2490194


P2490195


P2490196


P2490202
写真右の道を進みます。


P2490203
突き当りが市立美術館が置かれているサンタ・カテリーナ教会修道院です。


P2490206
美術館の入り口です。


P2490207
入館しました。


P2490208
キリがないので、この辺で終わりにしましょう。
(トレヴィ―ゾの街歩き おわり)

168
サンタ・マリア・マッジョーレ広場にやってきました。


170
サンタ・マリア・マッジョーレ教会です。


p1320572
この場所に1世紀から3世紀に建設されたエジプトの女神イシスを祀る異教の寺院がありましたが、キリスト教が国教となるに伴い、初期キリスト教会に転用されました。


p1320573
899年、マジャール人の侵攻によって初期キリスト教会は、破壊されてので、11世紀に再建されました。


172
15世紀中頃、二代目の建物は経時劣化のため破壊され、三代目の建物が1473年に創建され、16世紀に完成しました。そのヴェネツィア式ゴシック様式の三代目の建物が現在の姿です。


174
左側壁です。


173
後陣


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19世紀の制作されたエッチングです。鐘楼が低いことが分かります。


171
ファサードよりもかなり高い現在の鐘楼です。時計塔にするために20世紀に鐘楼が改造されたのです。


p1320575
20世紀に追加された時計


169
美術的な見所は、トンマーゾ・ダ・モデナに帰属するフレスコ画でしょう。


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三廊式、ゴシック様式の内部です。


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マドンナ・グランデ礼拝堂です。


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礼拝堂の祭壇


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トンマーゾ・ダ・モデナ(モデナ、1326-1379)に帰属する「マドンナ・グランデ」


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マドンナ・グランデ礼拝堂の上にもフレスコ画があります。


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15世紀のフレスコ画


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他にも見所が沢山あります。


175
古そうな建物にフレスコ画があります。


176
かなり出来が良い「聖母子」ですが、制作者や制作された時期などが分かりません。


177
洪水の心配がありそうですが・・・・・


178
水位が低い場所が大部分です。


179
ホテルに戻りました。


001
トレヴィーゾの城壁です。


001
ホテルの部屋からの眺めです。


002


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この日は快晴でした。


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トレヴィーゾの紋章が壁にあります。


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非常に心地よい日でした。


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見慣れた光景です。


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サン・マルティーノ・ウルバーノ教会です。ラ・スペツィア大聖堂の小型版の建物に見えます。


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街の中心に向かいます。


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ポポロ通りです。


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マリオ・デル・モナコ像を見ます。


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イタリアの名オペラ歌手マリオ・デル・モナコ(ガエータ、1915-メストレ、1982)像です。


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フィレンツェ生まれとされていたマリオですが、後にマリオ自身がガエータ生まれと言ったそうです。晩年、腎臓を患ったモナコはトレヴィーゾ郊外の別荘で腎透析などの治療を受けていましたが、心臓発作を起こし、メストレの病院に運ばれて、そこで没したのです。


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トレヴィーゾのシンボル、時計塔です。


P2490183
(つづく)

127
次は市立美術館です。


133
カルロ・アルベルト通りを進みます。


134
通りの突き当りがトレヴィーゾ市立美術館です。


137
サンタ・カテリーナ教会修道院だった建物が市立美術館になってます。


153
入館しました。


154
旧修道院のキオストロ


P2490226
美術館は、考古学部門、絵画・彫刻部門、教会のフレスコ画の三部門構成です。


p1320561
ジョヴァンニ・ベッリーニの「聖母子」


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サンタ・カテリーナ教会の建物です。


156
キオストロ回廊
市立美術館については、項を改めて詳しく取り上げます。


136
外に出ました。


135
市立美術館の周囲を見て回ります。


140
旧サンタ・カテリーナ教会の後陣です。


141
サンタ・カテリーナ教会後陣前は広場になってます。


143
ジャコモ・マッテオッティ広場です。


142
街の中心に向かう通りです。


144
写っている鐘楼は、サンタ・カテリーナ教会修道院のものです。


145
サン・トンマーゾ門です。


146
1516年、市域の拡大によって新たに築かれた城壁の門として建てられました。


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門の名称は、門の直ぐ傍にあった、今は破壊されて存在しないサン・トンマーゾ・ベケット教会に因んでます。


147
サンタ・マリ・マッダレーナ教会です。


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13世紀に建設された元の建物は城壁外にありましたが、16世紀初頭、市域の拡大に伴って新しい城壁が築かれることになりました。元の建物は、新城壁に当たる場所にあったので、破壊されることになりました。


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その代わりに城壁内の現在の場所に新しい建物が建設されることになりました。


148
1576年に完成した二代目の建物が現在の外観です。1588年に奉献式が執り行われました。16世紀末に修道院が併設されました。
1772年、教会修道院はウルスリン(尼僧)の所有となりました。修道院は1810年に閉鎖され、修道院だった建物は2012年まで養老院として使用されていました。
1925年、教区教会になりました。


149
ファサードの聖マリア・マッダレーナのフレスコ画(17世紀)


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単廊式、ラテン十字形の内部です。


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後陣左の祭壇画は、カルレット・カリアーリ(ヴェネツィア、1570-1596)の「磔刑」
カルレット・カリアーリは、パオロ・カリアーリ通称パオロ・ヴェロネーゼの息子です。


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Presbiterio


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左側壁


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ファサード裏にオルガンがあります。


150
夕方になってきました。


161
古い建物が建ち並んでいる一角です。


162


163
一旦、川に出ました。


164
次はサン・ガエターノ教会です。


165
サン・ガエターノ教会です。


166
13世紀に創建されたロマネスク様式の教会でしたが、1509年に再建されました。


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現在は、宗教活動を休止しているようです。コンサートや展示会などの会場に転用されてます。


167
(つづく)

引き続きドゥオーモです。
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美術的に必見のCappella del Malchiostroです。


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ティツィアーノの祭壇画とポルデノーネのフレスコ画で有名です。


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トゥッリオ・ロンバルド(ヴェネツィア、?-1532)とアントニオ・ロンバルド(ヴェネツィア、1458-フェッラーラ、1516)兄弟(トゥッリオが兄です)によって1520年に造られた礼拝堂です。


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祭壇画は、ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(ピエーヴェ・ディ・カードレ、1488/1490-ヴェネツィア、1576)の「受胎告知」(1519-20)です。


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後ろで顔を見せているのは礼拝堂の発注者でしょうか?


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033
「聖リベラーレ」を除いて、Cappella del Malchiostroのフレスコ画はポルデノーネの作品(1519)です。


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ジョヴァンニ・アントニオ・デ・サッキス通称イル・ポルデノーネ(ポルデノーネ、1483-フェッラーラ、1539)の「アウグストゥスの夢」(1519)
クーポラの、この部分のフレスコ画は、1944年4月7日のドイツ軍の爆撃によって被害を受けました。


034
写真右が「聖リベラーレ」のフレスコ画です。ポルデノーネの作品ではありません。


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ポンポニオ・アマルテオ(モッタ・ディ・リヴェンツァ、1505‐サン・ヴィトー・アル・タリアメント、1588)の「聖リベラーレ」
ポンポニオの妻は、ポルデノーネの娘です。その関係で、ポンポニオによって描かれたのでしょう。
そうは言っても、ポンポニオ・アマルテオは、生涯に5人の女性を妻帯したと言われ、相当な浮気者だったようです。なお、ポルデノーネの娘は、ポンポニオの二番目の妻でした。


p1320550
ジョヴァンニ・アントニオ・デ・サッキス通称イル・ポルデノーネ(ポルデノーネ、1483‐フェッラーラ、1539)の「聖パオロ」(1519)


035
ジョヴァンニ・アントニオ・デ・サッキス通称イル・ポルデノーネ(ポルデノーネ、1483‐フェッラーラ、1539)の「マギの礼拝」(1519)


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036
ジョヴァンニ・アントニオ・デ・サッキス通称イル・ポルデノーネ(ポルデノーネ、1483‐フェッラーラ、1539)の「ご訪問」(1519)


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ジョヴァンニ・アントニオ・デ・サッキス通称イル・ポルデノーネ(ポルデノーネ、1483‐フェッラーラ、1539)の「聖ピエトロ」(1519)


031
サンティッシモ・サクラメント礼拝堂です。


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p1320557


043
ドゥオーモ広場に面して建っている建物です。


111
面白い形をした南瓜が並んでます。


112


116
ロマネスク様式の歴史的建造物です。


p1320560
1276年から1277年に建設されたLoggia del Cavalieriです。


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1944年4月7日、ドイツ軍の爆撃を受けたので、戦後に修復されました。


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ロッジャの中に入ります。


118
展示場、コンサート会場などに利用されてます。


117
中に入っても特に見所がなさそうです。


119
次はサン・レオナルド教会です。


121
サン・レオナルド広場です。


120
サン・レオナルド広場に面して建つサン・レオナルド教会です。サンタ・リータ教会とも呼ばれてます。


123
現在地には、サン・レオナルド病院がありましたが、病院付属の礼拝堂が前身です。礼拝堂から規模拡大されてサン・レオナルド教会になりました。サン・レオナルド教会は、1330年の文書に初めてその存在が記載されました。


122
1657年に再建された建物が現在の姿の原形となってますが、ファサードは20世紀に新造された新しいものです。


124
「水の都」、「小さなヴェネツィア」と呼ばれているトレヴィーゾです。


125
水車があります。


126
魚市場です。


128
閉店時間が早い魚市場です。


129
流れが速く、水量が多い川です。


130


132


131
(つづく)

引き続きドゥオーモです。
p1320511
クリプタから本堂に戻ります。


p1320506
新しい建物ですが、美術的に見所が多い大聖堂です。


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クーポラ


p1320512
左側壁にオルガンがあります。


028
1915年に制作された比較的新しいオルガンです。


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現在のオルガンは四代目となるものです。


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扉があります。


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扉がありますが、使用されていないようです。


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ロマネスク様式の二代目の建物時代の入り口扉で、15世紀に制作されたものが聖堂内に保存されてます。


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入口扉上のルネッタが見所です。


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ルネッタの「ピエタのキリスト」(13世紀)


p1320514
Altare del Beato Enrico da Bolzano


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ベアート・エンリコ・ダ・ボルツァーノの墓


032
祭壇画の詳細が分かりません。


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Cappella della Madonnaを見ます。


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制作された時代が異なる彫刻があります。


p1320517
フェルディナンド・ストゥフレッサー(ドイツ、1855-1926)の「聖母子」(19世紀)


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ヴェネツィア派逸名彫刻家作「聖リベラーレ」(16世紀後半)


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アレッサンドロ・ヴィットリア(トレント、1525-ヴェネツィア、1608)の「聖ジョヴァンニ・バッティスタ」(1570)


p1320520
ロレンツォ・ブレーニョ(オステノ、1475/1485-ヴェネツィア、1523)の「ご訪問」


p1320525
Altare dei Santi della Diocesi di Treviso


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ピオ10世のブロンズ像(1954)


p1320527
Pala d'Altare di Safet Zec
祭壇画の詳細が分かりません。


p1320529
Altare del Beato Andrea Giacinto Longhin


p1320528
詳細不知


p1320530
Cappella Santa Guistina


027
サンタ・ジュスティーナ礼拝堂の祭壇画


p1320531
フランチェスコ・ビッソロ(トレヴィーゾ、1470/1472-ヴェネツィア、1554)の「聖ジュスティ―ナと聖ジョヴァンニ・バッティスタとアレッサンドリアの聖カテリーナ」(1530)


p1320522
Cappella dell'AnnunziataにあるMonumento di Vescovo Castellano Salomone(1322)
この礼拝堂に4点の祭壇画があります。


p1320536
パリス・ボルドン(トレヴィーゾ、1500-ヴェネツィア、1571)の「羊飼いの礼拝」(1550c)


p1320532


p1320537
パリス・ボルドン(トレヴィーゾ、1500-ヴェネツィア、1571)の「聖ロレンツォと四聖人」(1562)


p1320533


p1320534
ジローラモ・ダ・トレヴィーゾ・イル・ヴェッキオ(トレヴィーゾ、1451-1497)の「花の聖母」(1487)


p1320535
ドメニコ・カプリオーロ(ヴェネツィア、1494-トレヴィーゾ、1528)の「聖母被昇天」


p1320538
フランチェスコ・ドミニーチの「トレヴィーゾのドゥオーモ(ロマネスク様式の建物時代)」


p1320540
パリス・ボルドン(トレヴィーゾ、1500-ヴェネツィア、1571)の「キリストの物語」


p1320541


p1320539
(つづく)

020
次はドゥオーモです。


071
ドゥオーモにやってきましたが、ファサード側に回ります。


044
ドゥオーモ広場です。


042
広場に面して建つサン・ピエトロ・アポストロ大聖堂 Cattedrale di San Pietro Apostolo、トレヴィーゾ司教区の司教座教会です。


p1320482
現在、ドゥオーモが建っている場所は、ローマ時代、寺院、劇場、幾つかの浴場があった街の中心地でした。


p1320483
6世紀頃、現在地に建てられた初期キリスト教会が前身です。


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初期キリスト教会は、11世紀初めに取り壊され、11世紀から12世紀にかけてロマネスク様式の二代目の建物が再建されました。
しかし、18世紀初め、経時劣化が進み建物が荒廃したので、18世紀中頃に作家で政治家であり外交官だったアンドレア・メンモ(ヴェネツィア、1729-1793)などを中心とする人々からドゥオーモ再建が建議され、物理学者、建築、数学者、音楽理論家だったジョルダーノ・リッカティ(カステルフランコ・ヴェネト、1709-トレヴィーゾ、1790)の企画立案に基づき、新古典様式建築家ジャンアントニオ・セルヴァ(ヴェネツィア、1751-1819)によって、1760年から1782年にかけて建設された新古典様式の三代目の建物が現在の姿の原形となってます。
現在のファサードは、建築家フランチェスコ・ボンベン(トレヴィーゾ、1801-1875)とガスパーレ・ペトロヴィチによって1836年に建設されました。


p1320485
1944年4月7日、ドイツ軍の爆撃を受け大きな被害を受けたので、戦後に大修復されました。


046
ファサードに向かって左に教会のような古い建物があります。


023
このロマネスク様式の建物は、ドゥオーモの洗礼堂です。サン・ジョヴァンニ洗礼堂は13世紀に建設されました。


p1320486
サン・ジョヴァンニ洗礼堂の後方に鐘楼があります。


022
鐘楼は時計塔を兼ねてます。


p1320487
トレヴィーゾは長らくヴェネツィア領でしたが、ヴェネツィア支配下の時代、この鐘楼はヴェネツィアのサン・マルコ寺院の鐘楼よりも、規模や装飾の点で、下にしないといけないという規制を受けていました。


024
左外壁です。


p1320488
クーポラ


021
二代目の建物の一部が現存しています。


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ファサードの左右にライオン像があります。


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ファサードに向かって左側のライオン像


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ファサードに向かって右側のライオン像


045
拝観します。


025
聖堂内に入りました。


p1320493
三廊式、ラテン十字形、新古典様式の内部です。


026
主祭壇とPresbiterio


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ピエトロ・ロンバルド(カローナ、1435c-ヴェネツィア、1515)の「祭壇」


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アッリンゴ・ダ・ボルツァーノの墓(14世紀)


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Presbiterioは立ち入り禁止でした。


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マリオ・ルデッリ(チニセッロ・バルサモ、1938-)の「聖書台」(1999)


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Presbiterio左側壁にあるビアージョ・ビアゲッティ(ポルト・レカナーティ、1897-マチェラータ、1948)の「ピオ10世の黙示録」(1914-15)


038
クリプタに入りました。


039
現存する大聖堂の中で、最古の部分がクリプタと言われてます。


040
11世紀から12世紀に建設されたクリプタです。


041
現在のクリプタは、15世紀に行われた改造後のものです。


p1320500
聖リベラーレの聖遺物(1403)


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ミストロリゴ司教の墓


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クリプタの所々にフレスコ画の断片が残されてます。


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フレスコ画の最古のものは13世紀から14世紀に遡ります。


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比較的新しいフレスコ画は、ヴェネツィア派逸名画家によって16世紀に制作されました。


p1320504
(つづく)

引き続き旧サン・ニコロ修道院の聖堂参事会室に描かれたドメニコ会修道士たちの肖像画です。
トンマーゾ・ダ・モデナ(モデナ、1326-1379)と、トンマーゾの弟子と協力者によって1352年に描かれました。
p1320464
Matteo Orsini


p1320465
Guglielmo Anglico


p1320466
Tommaso Anglico


p1320467
Nicolo di Rouen


p1320468
Gualtiero Winterbourne


p1320469
Nicolo Alberti


p1320470
Nicolo Boccasino


p1320471
Ugo di Billom


p1320472
Latino Malabranca


p1320473
Roberto Kilwardby


p1320474
Pietro di Tarantasia


p1320475
Annibaldo Annibaldi


p1320476
Ugo da San Caro


p1320477
Benedetto XI


p1320478
Innocenzo V


094
旧サン・ニコロ修道院の建物にIstituto Diocesano di Musicaがあります。


019
何か食べなくては。


P2490199
時間的に昼食を食べないと夕食まで持ちませんが、それ程お腹が空いていなかった。


P2490200
手軽に食べるため、日本語が通じない奇妙なお店に入りました。


P2490201
トレヴィーゾで初めて寿司もどきを食べました。


083
ビールで流し込んだ昼食でした。


084
柱廊を歩きました。


082
日差しが出てきました。


081
古い建物ですが、特に名前がないようです。


080
Monumento Ai Caduti di Tutte Le Guerre 戦争記念碑です。


p1320479
コンペで制作者が選ばれ、1926年から1931年に造られました。
第一次世界大戦の戦争記念碑です。


p1320480
第二次世界大戦の爆撃によって大被害を受けたので、戦後の復元されました。


079
シーレ川とソーレ川の合流点です。


078
Piazza Tretin


077
Piazza San Vito


076
Palazzo dei Trecento


074
再び街の中心にやってきました。


073


075


072
ベネトンの事務所です。


109
先ほどと同じ場所に来てしまいました。


110
サント・ステファノ教会です。


p1320481
サント・ステファノ教会の存在は、1000年頃の記録に初めて記載されたそうです。


115
二代目の建物が16世紀に倒壊してしまいました。


114
現在の建物は、1738年から1744年に建設されたものですが、第二次世界大戦の爆撃によって甚大な被害を受け、戦後に修復され、更に2011年から2012年にかけて行われた修復後のものです。


113
ファサードの聖ジョヴァンニ・バッティスタ像
(つづく)

p1320426
トンマーゾ・ダ・モデナ(モデナ、1326-1379)の「聖ジローラモ」


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トンマーゾ・ダ・モデナ派逸名画家作「大天使聖ミケーレ」(14世紀中頃)


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トンマーゾ・ダ・モデナ(モデナ、1326-1379)の「聖アグネス」


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制作者情報不知の「子供」


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オルガン


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ベアータ・ヴェルジネ礼拝堂


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ダニエル・ヴァン・デン・ダイク(アントワープ、1610-マントヴァ、1670)の「十字架を持つ聖ドメニコとシモン・デ・モントフォルト」


p1320433
教会から外に出て、隣の旧修道院に行きます。


092
修道院の入り口です。
1221年創建の修道院は、1810年にナポレオンの抑圧令によって閉鎖されました。修道院だった建物は、1812年から神学校に転用され現在に至ってます。


095
神学校 Seminario Vescovile Maggioreの入り口です。


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旧修道院に入ります。


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入口扉上の紋章


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修道院のキオストロ回廊


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キオストロ回廊の壁にある日時計
修道院の聖堂参事会室のフレスコ画が必見です。


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聖堂参事会室 Sala del Capitoloです。


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部屋の壁にフレスコ画が描かれてます。


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修道士たちが描かれてます。


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トンマーゾ・ダ・モデナ(モデナ、1326-1379)と、トンマーゾの弟子や協力者によって、1352年に制作された40人のドメニコ会修道士の肖像画です。
肖像画の下に名前が書かれているので、誰の肖像画なのか、全て分かってます。


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Giordano di Sassonia


p1320443
Raimondo de Penafort


p1320444
Giovanni di Sassonia


p1320445
Alberto Magno


p1320446
Giovanni da Schio


p1320447
Isnardo da Chiampo


p1320448
Gualtiero d'Alemagna


p1320449
Pietro Sendre


p1320450
Pelagio di Spagna


p1320451
Bernardo di Traversers


p1320452
Vincenzo da Beauvais


p1320453
Ambrogio da Siena


p1320454
Giacomo da Venezia


p1320455
Agostino di Trau


p1320456
Pietro de la Palude


p1320457
Maurizio d'Ungheria


p1320458
Guido Maramaldi


p1320459
Giovanni de Molendini


p1320460
Gerardo da Limoges


p1320461
Tommaso de Molendini


p1320462
Bonifacio da Pisa


p1320463
Guglielmo di Bayonne
(つづく)

101
この小川はボッテニガと呼ばれているようです。


102
この辺は街の西方に当たります。


103
小魚が泳ぎ、鳥が沢山います。


104
Via Lungo Sileに面して建つ、非常に目立つ建物です。民家のようです。


096
次はサン・ニコロ教区教会です。


105
サン・ニコロ教区教会です。


085
ファサード側に回ります。


087
1221年、Frati Domenicaniの修道士たちがトレヴィーゾに現れ、街の南西部に当たる城壁内の土地(現在の場所)が与えられました。


091
与えられた土地に聖二コラに捧げられた礼拝堂がありましたが、その礼拝堂が修道士たちの活動拠点になりました。


p1320402
直ぐに修道院と教会の建設が決まりました。
13世紀第2四半世紀に創建され、1282年奉献式が執り行われたので、それ以前に一応の完成を見たようです。


p1320406
ニッコロ・ディ・ボッカッショ、後の第194代教皇ベネデット11世(トレヴィーゾ、1240-ペルージャ、1304 教皇在位:1303-1304)が1257年から7年間、このサン・ニコロ修道院で修業した記録が残されているので、1257年頃にはゴシック様式の建物は一応完成したとされてます。


p1320404
奉献式時点の建物は、縦49メートル、横14メートルの大きなものでした。


106
後陣です。


107
13世紀末まで拡張工事が行われ、ほぼ現在の規模の大きさになりました。


108
鐘楼


093
現在の建物の大きさは、長さ88メートル、高さ33.35メートル、幅27.5メートル、左右の翼廊全長38.32メートルです。


086
よく見ると新しそうに見える外観です。


090
1944年、ドイツ軍の爆撃を受け、大部分が崩落するなど大きな被害を受けてしまいました。そのため、戦後に修復、復元されたので新しく見えるのです。


089
美術的な見所が豊富です。


p1320403
ファサード側の扉は閉まっていることが多いようです。


p1320405
通常、左側壁の入り口が開きます。


p1320407
三廊式、ラテン十字形、ゴシック様式の内部です。


p1320411
ゴシック様式の天井は、戦後に復元されたものです。


p1320408Presbiterio


p1320410
主祭壇画です。


p1320409
ジョヴァンニ・ジローラモ・サヴォルド(ブレーシャ、1480-ヴェネツィア、1548)の「聖会話」(1521)


p1320412
オルガンよりも、その下にあるフレスコ画の方に興味があります。


p1320413


p13209423
作品帰属が分かりません(私が分からないという意味です)。


p1320414
その横に大きな聖クリストフォロのフレスコがあります。


p1320424
アントニオ・ダ・トレヴィーゾの「聖クリストフォロ」(1410)


p1320415
アンドレア・ダ・ムラーノ(ムラーノ、1462-カステルフランコ・ヴェネト、1512)の「聖母子と聖ピエトロと聖パオロ」(1510)


p1320416
ロザリオ礼拝堂


p1320417


p1320418
トンマーゾ・ダ・モデナ(モデナ、1326-1379)の「聖ジローラモ」


p1320419
トンマーゾ・ダ・モデナ(モデナ、1326-1379)の「聖アグネスと聖ジョヴァンニ・バッティスタ」


p1320420
トンマーゾ・ダ・モデナ(モデナ、1326-1379)の「聖ニコロ」


p1320421


p1320422
右側廊


p1320425
制作者情報不知の「聖痕を受ける聖フランチェスコ」
(つづく)

サンタグネス教区教会の続きです。
061
単廊式、ラテン十字形、新古典様式の内部です。


060
1729年に施されたスタッコ彫刻による装飾が目立ちます。


p1320380
Presbiterio左


p1320381
Presbiterio右


p1320382
主祭壇画と聖歌隊席


063
主祭壇画は、オッタヴィオ・コッキ(トスカーナ、17世紀中頃活動)の「四十聖人の殉教」


p1320383
左側壁の礼拝堂です。


064
逸名画家作「救世主」(20世紀)


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右側壁の礼拝堂です。


065
ジュリオ・エットーレ・エルラー(オデルツォ、1876-トレヴィーゾ、1964)の「聖母子」


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右側壁の礼拝堂です。


062
ジョヴァンニ・アントニオ・デ・ピエリ通称ロ・ゾッポ(ヴェネツィア、1671-1751)の「聖アグネスの殉教」


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左側壁の礼拝堂の祭壇画は、フランチェスコ・フェデーリ通称イル・マッジョット(ヴェネツィア、1738-1805)の「女性を解放する聖ウバルド」


p1320387
詳細不知


p1320388
外に出て、道路を挟んで教会の向かいにあるMuseoに行きます。


057
Musei Luigi Bailoです。


055
この時は、大改修工事待ちで長期休館中でした。


056
現在は、大改修されて近代美術館になってます。


p1320389
このように一新されました。


p1320390
Museo Civico Luigi Bailoです。綺麗に改修されたのは、建物の半分だけです。資金不足のため、完成の目途が立たないようです。


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近代美術館(Museo Civico Luigi Bailo)の中庭


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修道院だった建物です。


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19世紀の作品が展示の中心です。


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ルイージ・セレーナ(モンテベッル―ナ、1855-トレヴィーゾ、1911)の「花市場」(1880-82)


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ルイージ・セレーナ(モンテベッル―ナ、1855-トレヴィーゾ、1911)の「禁じられた果実の物語」(1897)
ルイージ・セレーナは、ヴェネツィア・リアリズムの画家です。


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ルイージ・セレーナ(モンテベッル―ナ、1855-トレヴィーゾ、1911)の「農家の日常」


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ルイージ・セレーナ(モンテベッル―ナ、1855-トレヴィーゾ、1911)の「幸福な時代」(1884-86)


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ルイージ・セレーナ(モンテベッル―ナ、1855-トレヴィーゾ、1911)の「自画像」


p1320399
彫刻の展示です。


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古そうに見えますが、19世紀の作品です。


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トレヴィーゾは、美術館や博物館の整備拡充に注力しています。


066
城壁上の遊歩道に出ます。


067
写真左が城壁です。


068
遊歩道が設けられてます。


069
城壁は高くありません。


070
街のあちこちに水が流れてます。


097
城壁外に出ました。


098
綺麗な水です。


100


099
(つづく)

002
前泊地はブレーシャでした。


004
ヴェネツィア・メストレで乗り換えます。


P2490399
トリエステ行きRVは空いてました。


002
トレヴィーゾ駅に到着しました。


P2490397
トレヴィーゾ駅の駅舎です。
トレヴィーゾは、人口85,760人(2019年12月31日現在)のヴェネト州トレヴィーゾ県の県都です。ベネトンを始めとしてイタリア主要企業数社が本社を置く、財政豊かで安全な街として知られてます。また、ティラミス発祥の地として有名です。


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駅前のホテルにチェックインしました。


005
ホテル前に置かれた石造りの椅子です。


006
街歩きに出発しました。


007
トレヴィーゾは、Fontanassiと呼ばれる多くの泉が湧く水資源が豊富なことで知られてます。


008
旧市街をシーレ川と、その支流ソーレ川が流れ、運河もあって、風光明媚な街です。


009
シーレ川に架かるサン・マルティーノ橋を渡って旧市街に入ります。実は、この旅のお宿も城壁の外にあるように見えますが城壁内にあります。


010
サン・マルティーノ・ウルバーノ教会です。
6世紀半ばに創建された、トレヴィーゾで最古の教会の一つでした。現在の建物は1960年から1970年に建設された三代目となるものです。


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外観と同様に、内部も斬新的でついていけません。


011
駅から延びるローマ通りです。


012
ローマ通りの突き当りを右折してポポロ大通りに出ました。


013
広場に見えないのですが、ボルサ広場と呼ばれてます。旧市街の中心シニョーリ広場に向かいます。


014
ポポロ大通りを左折して、9月20日通りに入りました。


015
旧市街の中心シニョーリ広場です。


016
Palazzo dei Trecentoです。


p1320371
Palazzo della Ragioneとも呼ばれてます。


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市の様々な会議を行うために1185年頃に建設されました。


p1320373
Palazzo dei Trecentoに隣接した建物は、刑務所として1268年に建設されました。


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その後、裁判所や市民のための集会所として使用されました。


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20世紀初頭に時計塔が追加されました。


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1944年4月7日、ドイツ軍の爆撃を受け、大きな被害を受けました。


018
戦後に大修復工事が行われ蘇りました。現在は市議会の議場になっている他、市の様々な用途に使用されてます。


017
この日はシニョーリ広場で青空市が開市されていました。


047
市立博物館に向かいました。


048
市立博物館です。この時は休館中でした。


049
フレスコ装飾された歴史的建造物です。この建物ですが、最近、やる気が失せているので調べる気がありません。ブログを書くのは自己満足感からですから。


050
ベアート・エンリコ教会です。この日も開いていませんでした。


051
サン・○○教会は普通ですが、ベアート・○○教会は珍しいと思います。


p1320377
1835年に建設されました。


052
サン・リベラーレ通りです。


053
サンタグネス教会(聖アグネス教会)にやってきました。


058
1268年の記録に、この教会の存在が初めて記載されました。


p1320378
アンドレア・パニョッシン(トレヴィーゾ、1576c-1642c)によって1613年に二代目の建物が完成しました。


054
19世紀に教区教会になりました。


059
中に入りました。


p1320379
(つづく)

P2820057
次の部屋です。


P2820059
Cerchia del "Maestro delle Mezza Figure"の「祈るキリスト」(1530‐50c)


P2820061
Cerchia del "Maestro delle Mezza Figure"の「祈る聖母」(1530‐50c)


P2820064
フランチェスコ・セガーラ(パドヴァ、1535c‐1592)の「寓意像」


P2820067
フランドルの逸名画家作「マギの礼拝」(16世紀)


P2820070
フランドルの逸名画家作「神殿奉献」(16世紀)


P2820072
ブリュッセルのタペストリ工房作「ダヴィデ」(16世紀前半)


P2820077
製作者情報不詳の「ロヒール・ファン・デア・ウェイデン作『十字架降下』のコピー画」(1500‐10c)


P2820081
Cherchia di Albreght Altdorferの「聖ジョヴァンニ・バッティスタの斬首」(16世紀前半)


P2820083
ヴェネトの逸名画家作「磔刑」(15世紀後半)


P2820087
Maestro degli Anni 40の「女性の肖像」(1530‐40c)


P2820089
次の部屋です。


P2820090
ジローラモ・テッサーリ通称ダル・サント(パドヴァ、1509‐1561消息)の「磔刑のポリッティコ」


P2820091
十字架降下と聖ベネデットと聖ジュスティーナと予言者ブスティと永遠なる父


P2820095
ジローラモ・ダ・ロマーノ通称ロマニーノ(ブレーシャ、1484/1487-1560)の「聖母子と聖人たち」


P2820098
ジローラモ・ダ・ロマーノ通称ロマニーノ(ブレーシャ、1484/1487-1560)の「最後の晩餐」


P2820101
ステファノ・ダッラルツェーレ(パドヴァ、1540-1575消息)の「聖ピエトロ」


P2820104
ステファノ・ダッラルツェーレ(パドヴァ、1540-1575消息)の「聖パオロ」


P2820106
ドメニコ・カンパニョーラ(ヴェネツィア、1500?-パドヴァ、1564)の「永遠なる父」


P2820110
ステファノ・ダッラルツェーレ(パドヴァ、1540-1575消息)の「羊飼いの礼拝」


P2820112
ステファノ・ダッラルツェーレ(パドヴァ、1540-1575消息)の「天上の聖母子と聖アントニオ・アバーテと聖バルバラと聖ジョヴァンニ・バッティスタ」


P2820116
ルドヴィーコ・フィウミチェッリ(1527から消息-トレヴィーゾ、1581没)の「聖母子と聖人たち(聖プロスドチモ、聖ジュスティーナ、聖アントニオ、聖ダニエーレ)」


P2820119
ヤコポ・ロブスティ通称ティントレット(ヴェネツィア、1519-1594)の「磔刑」


P2820121
ヤコポ・ロブスティ通称ティントレット(ヴェネツィア、1519-1594)の「シモーネ邸の晩餐」


P2820124
パオロ・カリアーリ通称ヴェロネーゼ(ヴェローナ、1528-ヴェネツィア、1588)の「聖プリモと聖フェリチャーノの殉教」


P2820127
パオロ・カリアーリ通称ヴェロネーゼ(ヴェローナ、1528-ヴェネツィア、1588)の「聖ジュスティーナの殉教」


P2820131
ドメニコ・カンパニョーラ(ヴェネツィア、1500?-パドヴァ、1564)の「聖ジョヴァンニ・バッティスタの斬首と永遠なる父」


P2820133
ヤコポ・ティントレット工房作「聖霊降臨」(1570-80c)


P2820136
ヤコポ・ロブスティ通称ティントレット(ヴェネツィア、1519-1594)の「男の肖像」


P2820140
ルカ・ロンギ(ラヴェンナ、1507-1580)の「聖ジュスティーナ」


P2820142
ランベルト・スストリス(アムステルダム、1515-ヴェネツィア、1595c)の「磔刑」


P2820145
ランベルト・スストリス(アムステルダム、1515-ヴェネツィア、1595c)の「カルヴァリオへの上り」


P2820148
会議室の展示です。


P2820150
ランベルト・スストリス(アムステルダム、1515-ヴェネツィア、1595c)の「ツボを持つ女」


P2820152
ランベルト・スストリス(アムステルダム、1515-ヴェネツィア、1595c)の「本を読む老人」


P2820154
パオロ・カリアーリ通称ヴェロネーゼ(ヴェローナ、1528-ヴェネツィア、1588)の「最後の晩餐」


P2820158
パオロ・カリアーリ通称ヴェロネーゼ(ヴェローナ、1528-ヴェネツィア、1588)の「磔刑」


P2820161
ヤコポ・ダ・ポンテ通称バッサーノ(バッサーノ、1512c-1592)の「聖パオロの説教」


P2820164
レアンドロ・ダ・ポンテ通称バッサーノ(バッサーノ、1557-ヴェネツィア、1622)の「羊飼いの知らせ」


P2820168
ステファノ・ダッラルツェーレ(パドヴァ、1540-1575消息)の「磔刑」


P2820171
ドメニコ・カンパニョーラ(ヴェネツィア、1500?-パドヴァ、1564)と弟子の「キリストの復活」


P2820173
ジャンバッティスタ・ツェロッティ(ヴェローナ、1526-マントヴァ、1578)の「受胎告知」


P2820176
ヤコポ・ネグレッティ通称パルマ・イル・ジョーヴァネ(ヴェネツィア,1549-1628) の「ヤコポ・ソランツォとジョヴァンニ・ソランツォの祝福」


P2820180
ジローラモ・ダ・ポンテ通称バッサーノ(バッサーノ、1566-ヴェネツィア、1621)の「羊飼いの礼拝」


P2820183
フランチェスコ・アポッロドーロ通称イル・ポッチャ(パドヴァ、1532‐1612)の「聖母子と聖二コラと聖ジュぜっぺとニッコロ・ヴィッソーニ司祭とジュスティアーノ・ジュストティニアニーニ司祭」


P2820186
ヤコポ・ネグレッティ通称パルマ・イル・ジョーヴァネ(ヴェネツィア、1548c‐1628)の「少女の訪問にお返しを贈る聖フランチェスカ・ロマーナ」


P2820190
ヤコポ・ネグレッティ通称パルマ・イル・ジョーヴァネ(ヴェネツィア、1548c‐1628)の「寓意的3人」


P2820193
ヤコポ・ネグレッティ通称パルマ・イル・ジョーヴァネ(ヴェネツィア、1548c‐1628)の「磔刑」


P2820195
ダーリオ・ヴァロターリ(ヴェローナ、1539‐パドヴァ、1596)の「この人を見よ」


P2820199
ダーリオ・ヴァロターリ(ヴェローナ、1539‐パドヴァ、1596)の「聖母子とアレッサンドリアの聖カテリーナと聖ルチアを前にする聖ジュスティーナとベネデット会修道士」


P2820202
フランチェスコ・アポッロドーロ通称イル・ポッチャ(パドヴァ、1532‐1612)の「作曲家コスタンツォ・ポルタの肖像」
これで終わりです。
ここは展示室番号表示がないので、順路が分かりません。この時は閉鎖されている部屋がかなりあったと思います。


P2820204
雨が降り始めました。


P2820207
(おわり)

P2810951次は旧修道院1階(日本の2階)の回廊の展示です。


P2810952
回廊のニッチに描かれたフレスコ画(詳細不明)


P2810954
ヴェネトの逸名画家作「聖母子と聖ジョヴァンニーノ」(16世紀初め)


P2810957
逸名画家作「ジョヴァンニ・ベッリーニ作『死せるキリストと聖母と聖ジョヴァンニ・バッティスタ』の複製画」(16世紀初め)


P2810960
バルトロメオ・ヴェネト(ヴェネツィア、1502‐1530消息)の「聖母子」


P2810962
ジローラモ・ダ・サンタクローチェ(ヴェネツィア、1503‐1556消息)の「三位一体と聖ジャコモと聖ジローラモ」


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ジローラモ・ダ・サンタクローチェ工房の「瞑想の聖ジローラモ」


P2810968
フランチェスコ・リッツォ・ダ・サンタクローチェ(ヴェネツィア、1505‐1545)の「聖母子と聖シメオーネとアレッサンドリアの聖カテリーナ?」


P2810972
ジローラモ・ダ・サンタクローチェ(ヴェネツィア、1503‐1556消息)の「聖ジローラモ」


P2810975
ジローラモ・ダ・サンタクローチェ(ヴェネツィア、1503‐1556消息)の「聖ジョヴァンニ・バッティスタ」


P2810978
アントネッロ・ダ・メッシーナ工房作「聖母子とアレッサンドリアの聖カテリーナ?と聖ドロテア」


P2810982
ボッカッチョ・ボッカッチーニ(フェラーラ?、1466以前‐クレモナ、1525)の「聖母子」


P2810984
アンドレア・プレヴィターリ(ブレンバト・ソプラ?、1470/1480-ベルガモ、1528)の「聖母子と信者」


P2810988
ベルナルド・ゼナレ(トレヴィーリオ、1460/1465-ミラノ、1526)の「受難のシンボルと3天使」


P2810991
アルベルティーノ・ピアッツァ(ローディ、1490-1528c)の「キリストと聖ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタと聖ピエトロ」


P2810994
ベルナルディーノ・ルイーニ(ルイーノ?、1480c-1532)の「聖母子と聖ピエトロとアレッサンドリアの聖カテリーナと聖ルチアと聖パオロと2信者」


P2810997
マルコ・パルメッツァーノ(フォルリ、1459c-1539)の「聖家族と聖ジョヴァンニーノ」


P2810999
マルコ・パルメッツァーノ(フォルリ、1459c-1539)の「聖母子と聖ジョヴァンニーノ」


P2820004
ニッコロ・デ・バルバリ(ヴェネツィア、16世紀前半活動)またはヴェネトの逸名画家作「キリストの逮捕」


P2820006
バルトロメオ・アンマナーティ(セッティニャーノ、1511‐フィレンツェ、1592)の「イルカとネプチューン」


P2820008
アントニオ・ミネッリ(パドヴァ、1465c-ヴェネツィア、1529)の「聖バルトロメオ」


P2820010
アンドレア・ブリオスコ通称イル・リッチョ(トレント、1460-パドヴァ、1532)の「嘆きの聖母」


P2820012
アンドレア・ブリオスコ通称イル・リッチョ(トレント、1460-パドヴァ、1532)の「嘆きの聖母」


P2820014
アンドレア・ブリオスコ通称イル・リッチョ(トレント、1460-パドヴァ、1532)の「聖母の首」


P2820016
ジョヴァンニ・デ・フォンドゥーリ(クレマ、1420/1430-パドヴァ、1497以降没)の「聖ピエトロ」


P2820019
ジョヴァンニ・デ・フォンドゥーリ(クレマ、1420/1430-パドヴァ、1497以降没)と工房の「イエス・キリスト」


P2820021
ジョヴァンニ・デ・フォンドゥーリ(クレマ、1420/1430-パドヴァ、1497以降没)と工房の「聖ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ」


P2820023
ジョヴァンニ・ミネッロ(パドヴァ、1440c-1528)の「碑紋を支える2天使」


P2820025
グイド・マッツォーニ(モデナ、1450c-1518)の「死せるキリストへの哀悼」


P2820026
聖ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ


P2820029
聖マリア・マッダレーナ


P2820031
死せるキリスト


P2820033
グイド・マッツォーニ(モデナ、1450c-1518)の「サロメのマリア」


P2820036
ドメニコ・カンパニョーラ(ヴェネツィア、1500c-パドヴァ、1564)の「聖母子と聖人たち(聖マルコ、聖ルチア、聖ジュスティーナ、聖プロスドチーモ、パドヴァの聖アントニオ、聖ダニエーレ、2聖人(特定困難))」


P2820040
ジャンピエトロ・シルヴィオ(?、1485c-ヴェネツィア、1551)の「十字架降下」


P2820043
ジャンピエトロ・シルヴィオ(?、1485c-ヴェネツィア、1551)の「玉座の聖母子と聖ジュスティーナと聖ベネデット」


P2820045
ドメニコ・カンパニョーラ(ヴェネツィア、1500c?-パドヴァ、1564)の「女性の肖像」


P2820049
ロッコ・マルコーニ(トレヴィーゾ、1470/1475-ヴェネツィア、1528以前没)の「祈るキリスト」


P2820051
セバスティアーノ・フロリジェリオ(コネリアーノ、1500/1505-チヴィダーレ?、1550)の「聖セバスティアーノ」


P2820054
セバスティアーノ・フロリジェリオ(コネリアーノ、1500/1505-チヴィダーレ?、1550)の「聖ロッコ」
(つづく)

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