イタリア芸術を楽しむ

イタリアの魅力を味わい尽くすには、一生に何度旅をすれば足りるだろう。芸術の宝庫にして、歴史の生きた証であるイタリア。 惹き付けて止まない絵画、彫刻、歴史的建造物、オペラなど、芸術の宝庫であるイタリアを楽しむブログです。 記事は一日に一つアップしています。記事の見方ですが、例えば「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その4)」は2017年10月20日にアップしました。各記事にカレンダーが表示されてますが、カレンダー上の2017年10月21日をクリックして頂ければ「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その5)」になります。(その3)は2017年10月20日となります。 BY:シニョレッリ

カテゴリ: マルケ州

P1670765ピア門です。


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アンコーナ駅前のホテルに戻ります。


P1670767
アンコーナ駅が見えてきました。


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遅い昼食を食べます。


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昼食時間が終わっているので、店内は空いていました。駅前のレストランなので、平日は昼休み無しの通し営業をしています。


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疲れていたので、この日はこれで終わりです。


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翌朝です。


P1670974
午前6時過ぎでした。


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ローマ行きの列車に乗って次の目的地スポレートに向かいました。


P1670977
この時の旅はこれで終わりです。


P2380114
車中から見えたドゥオーモです。次の旅です。


P2090622
アンコーナ駅に到着しました。


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駅前のホテルにチェックインしてから、チェントロ・ストーリコに向かいました。


P2380126
ピア門


P2380130
市立絵画館入館後にドゥオーモに行きました。


P2380132
サンティ・ペッレグリーノ・エ・テレーザ教会の緑色のクーポラ(写真右端)です。この時は扉が閉まっていました。


P2380135
写真下に旧アンコーナ・マリッティマ駅の屋根が写ってます。この時は、全列車の運行が停止されていました。


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夏休み中のミューズ劇場でした。


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プレビシート広場とサン・ドメニコ教会


P2380146
Palazzo del Governoと市の塔


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市立絵画館に向かいます。


P2380170
チリアーコ・ピッツェコッリ通り


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こちらから入館できると思ったのですが、扉が閉まっていました。美術館の再開館後、こちらの扉は出口専用となっていて、中から外に出ることは可能ですが、こちらの扉からの入館は出来なくなりました。


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入口はサンタ・マリア・デッラ・ピアッツァ教会の方にあります。


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出口専用扉前のサン・フランチェスコ・アッレ・スカレ教会です。


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ロレンツォ・ロットの主祭壇を見逃すわけにはいかないので、拝観しました。


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ロレンツォ・ロットの主祭壇画「聖母被昇天」


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市立絵画館に入館しました。


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チーロ・フェッリの作品


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サッソフェッラートの作品


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カルロ・クリヴェッリの作品


P2380463
オリヴゥッチョ・ディ・チッカレッロの作品


P2380454
オリヴゥッチョ・ディ・チッカレッリの作品


P2380501
セバスティアーノ・デル・ピオンボの作品


P2380504
ティツィオアーノの作品


P2380521
繰り返しになるので、この辺で終わりにします。
(おわり)

P1670724サンティッシモ・サクラメント教会から外に出ました。


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このままホテルに戻っては時間が余り過ぎなので、ぶらぶら歩きをすることに。


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Corso Garibaldi


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振り返って撮った写真です。


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サンティッシモ・サクラメント教会が見えます。


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サン・ビアージョ教会です。


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建築家ジョヴァンニ・バッティスタ・ウルビーニの設計によって1745年から1748年に建設されました。


P1670734
ファサードが面しているジュゼッペ・マッツィーニ通りの道幅が狭いので、ファサード全景がうまく撮れません。


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Fontana del Calamoに向かいます。


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Fontana del Calamoが見えてきました。


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次はローマ広場です。


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ローマ広場


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馬の噴水


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Corso Garibaldi


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サン・ドメニコ教会の鐘楼が見えます。


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マルケ大学の学舎


P1670755


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ホテルです。


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写真右の建物に注目です。


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1929年に建設されたCasa del Mutilatoです。


P1670761
運が悪い建物なのか、この建物を所有すると経済状態が悪くなる持ち主が続いてます。現在も競売にかけられてますが、競売不調のようで売れません。


P1670762
ホテルに戻ることにしました。


P1670763
トラヤヌス帝のブロンズ像


P1670764
(つづく)

P1670669Palazzo Benincasaです。


P1670671
建築家ジョルジョ・ディ・マッテオ別称ジョルジョ・オルシーニ(クロアチア、1410c-1475)の設計によって15世紀の建設されたゴシック様式の建物です。


1000
三階建て、長さ50メートルの細長い建物です。


P1670670
1669年、建物を所有していたルチアーノ・ベニンカーサ侯爵は、図書館として一部を一般公開しました。1749年、ベニンカーサ公爵家は、建物と図書館をアンコーナ市当局に寄贈し、図書館はアンコーナ市立図書館になりました。
しかし、建物と図書館の維持管理費に苦労していたアンコーナ市は、1924年に民間会社に売却しました。その後、持ち主が数度変わりました。
2008年、図書館は私立アマトリ図書館として再出発した一方、図書館以外の建物の一部はマルケ州の裁判所として使用されてます。


P1670672
次はサンティッシモ・サクラメント教会です。


P1670673
サンティッシモ・サクラメント教会については既に取り上げましたが、今回再度触れるのは、祭壇画の作品帰属が明らかにされるようになったからです。


P1670674
レプッブリカ広場です。


P1670675
元々、1538年に建設されたルネサンス様式の建物です。


P1670676
18世紀後半に殆ど再建に近い工事によって後期バロック様式の建物になりました。


P1670677
建築家フランチェスコ・マリア・チャラッフォーニ Francesco Maria Ciaraffoni(ファーノ、1720-アンコーナ、1802)の設計によって、後期バロック様式に改造されました。


1004
ファサードは、1538年に建設されたものです。


1001


1002
クーポラ


1003
鐘楼


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拝観します。


P1670680
中に入りました。


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左側壁


P1670681
右側壁


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単廊式、ラテン十字形、バロック様式の内部です。


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Presbiterio


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クーポラ


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左翼廊


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主祭壇画


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フランチェスコ・カッチャニーガ(ミラノ、1700-ローマ、1781)による主祭壇画です。


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チェーザレ・ダンディーニ(フィレンツェ、1596-1657)の作品です。


P1670700


P1670701
フランチェスコ・ポデスティ(アンコーナ、1800-ローマ、1895)の「聖マッテオ」


P1670702
フランチェスコ・ポデスティ(アンコーナ、1800-ローマ、1895)の「聖マルコ」


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「無原罪の御宿リ」


P1670707
18世紀中頃の逸名画家による作品です。


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「聖アントニオの幻視」


P1670712
フランチェスコ・カッチャニーガ(ミラノ、1700-ローマ、1781)の作品


P1670715
「聖ジョヴァンニ・バッティスタの説教」


P1670717
フィリッポ・ベッリーニ(ウルビーノ、1550c-マチェラータ、1603)の祭壇画です。


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「大天使ラッファエーレとトビオーロ」


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パスクゥアーレ・チャランポ―ニ(トレイア、1734-1792)の祭壇画


P1670689
カウンターファサード


P1670723
外に出ます。


P1670725
外に出ました。
(つづく)

P1670649ファサードだけでも十分見所に値します。


P2380164
拝観します。


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中に入りました。


1027
このように展示会が行われていることがあります。


P2380158
1928年にルイージ・セッラによって復元された内部です。


P2380513
この教会の主祭壇画は、長らくこの作品でした。


P2380515
ロレンツォ・ロットの作品です。


P2380520
現在は、市立絵画館に移され、そこで見ることが出来ます。


P2380517


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P2380161
初期キリスト教会のフレスコ画を除けば、現在、この教会で残されているフレスコ画はこれだけです。


P2380160


1028
1980年にも内部の復元工事が行われました。


1029
新しく見える所は復元された箇所でしょう。


1030


1031


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1033
次は初期キリスト教会の遺跡です。


1034
初期キリスト教会の上にサンタ・マリア・デッラ・ピアッツァ教会が建ってます。


1035
クリプタではありません。


1036


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モザイクの断片


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フレスコ画


1040


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床のモザイク


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外に出ました。


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見上げるとドゥオーモが見えました。


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写真右の緑色のクーポラは、サンティ・ペッレグリーノ・エ・テレーザ教会のものです。


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ローマ広場の方に進みます。


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Loggia dei Mercantiです。


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建築家Giovanni Pace detto il Sodoの設計によって1442年に創建されたゴシック様式の商人の集会場です。後にアンコーナ商工会議所となりました。


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ヴェネツィア・ゴシック様式のファサードは、建築家ジョルジョ・ディ・マッテオ別称ジョルジョ・オルシーニ(クロアチア、1410c-1475)の設計によって1451年から1459年に建設されました。


P1670666
現在はマルケ州の州政府組織が使用しているようです。


P1670667
マルケの騎士


1045


1044


1046
こちら側の扉は閉鎖されてます。海岸側の扉から出入りします。


1047
(つづく)

P1670647階段の途中でサンタ・マリア・デッラ・ピアッツァ教会の後陣を見ることが出来ます。


P1670648
サンタ・マリア・デッラ・ピアッツァ教会のファサード側に回りました。


P1670650
長らく修復工事が行われていました。既に活動を停止した旧教会で、多目的ホールとして使用されているようです。


P1670651
4世紀に創建され、6世紀に修復された初期キリスト教会が前身です。6世紀に建設された隣接する2つの初期キリスト教会が前身という、もう一つの有力説があるそうです。


P1670660
初期キリスト教会は劣化し廃墟となりましたが、その上に11-12世紀に建設されたロマネスク様式の建物が現在の姿の原形となってます。
この場所は、港近くの湿地帯だったので、当初はサンタ・マリア・デル・カンネート教会と呼ばれていたそうです。Canneto=葦原、葦の茂った場所という意味です。その後、教会前の広場で魚を中心とした市場が出来たので、やがてサンタ・マリア・デル・メルカート教会と呼ばれることになりました。
17世紀には現称になっていたことが記録から確認されてますが、具体的な改称時期は分からないようです。


P2380168
後陣
右側壁にサイドポータルがあります。


P2380169
後陣は11-12世紀に建設されたオリジナルです。


P2380156
オリジナルの鐘楼は、1690年の地震によって倒壊してしまいました。現在の鐘楼は18世紀初めに再建されたものです。


P2380163
ファサード上部は、1690年の地震によって崩落してしまいました。煉瓦造りのファサード上部は、地震後の再建されたものです。


1004
ファサード下部は、Maestro Filippo(アンコーナ、フォリーニョで1191-1231活動記録)によって1210年に建設されました。


1005
ファサードのポータルは、Maestro Leonardoによって制作されました。


1006
Maestro Leonardoによる彫刻


1007


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1008
右側壁のサイドポータル


1009
サイドポータルのルネッタ


1010
サイドポータル・ルネッタの彫刻


1026
初期キリスト教会の入り口


1011
初期キリスト教会の遺跡


1012
右側壁の窓


1013
ファサード・ポータルの装飾を見ます。


1014


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1024


1025
(つづく)

P1670561次は市立絵画館です。


P1670562
今回のアンコーナの最大の目的が市立絵画館の入館でした。


P1670563
どうも開いている感じがしません。


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やはり扉が閉まっていました。


P1670564
当初の予定では、開館している筈でした。


P1670640
物音が全然聞こえません。工事している様子が全く感じられない。


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絵画館が目的でアンコーナに来て、これでは流石にガックリ!!


P1670565
2011年に休館になり、再オープンが2013年の予定でした。結局、この後、更に2年間休館が続き、2017年に再オープンの運びになったのです。
丘を登ってドゥオーモに行く気力が失せました。


P1670566
ここまで来たからには、サン・フランチェスコ・アッレ・スカレ教会の拝観くらいはやっておかないと。細い道を挟んで市立絵画館の斜め前に教会があるのですから。


P1670568
サン・フランチェスコ・アッレ・スカレ教会については既に触れたので、説明を省きます。


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ファサードのポータルが見所です。


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鐘楼の中のフレスコ画


P1670570
中に入りました。


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左側壁


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右側壁


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後陣


P1670609
主祭壇


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主祭壇画:ロレンツォ・ロットの「聖母被昇天」


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カウンターファサード


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外に出ました。


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サン・フランチェスコ広場


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広場に下りて一休みすることに。


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ここでトイレ休憩


P1670636
特にやることがありません。


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このまま進めばPalazzo del Governoです。


P1670644
プレビシート広場に行っても退屈なだけです。


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階段を下りてサンタ・マリア・デッラ・ピアッツァ教会に行ってみることに。
(つづく)

P1670517街歩きに出発しました。


P1670519
徒歩で旧市街に向かいました。


P1670520
フラミニア通りです。


P1670521
チェントロ・ストーリコまで約2kmの距離があります。


P1670522
天気が良い6月某日でした。


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アンコーナは海に面した街なので、夏至近くの強烈な日差しにあっても猛暑にはなりません。


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この頃は足腰が強かった!


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日差しを避けて柱廊を歩きました。


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ピア門です。


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ピア門を潜ります。


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ピア門を潜りました。


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ドゥオーモが見えてきました。


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ドゥオーモは丘の最高地点に建ってます。


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サン・フランチェスコ・アッレ・スカレ教会の鐘楼が見えます。


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サンティ・ペッレグリーノ・エ・テレーザ教会の緑色のクーポラが目立ちます。


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ドゥオーモ


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写真左はアンコーナ・マリッティマ駅です。


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この時は、減便になっていたもののまだ列車が運行されていました。


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トラヤヌス帝のブロンズ像


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チェントロ・ストーリコの入り口です。


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ミューズ劇場


P1670548
劇場は夏休みでした。


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市の塔


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プレビシート広場


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サン・ドメニコ教会


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Palazzo del Governoのアーチ


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アーチを潜ります。


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Palazzo del Governoのロッジャ


P1670560
(つづく)

246次は、通りの突き当りに見えてる教会です。


247
サンティッシモ・サクラメント教会です。


250
1538年に建設されたルネサンス様式の教会です。


249
1771年から1776年にかけて、建築家Francesco Maria Ciaraffoni(ファーノ、1720-アンコーナ、1802)の設計によって後期バロック様式に改造されました。


1000
ファサードは改造されず、16世紀のもの。


1001
鐘楼


P1020057
右翼廊と後陣


251
中に入りました。


266
単廊式、ラテン十字形、後期バロック様式の内部です。


267
Gioacchino Varle(ローマ、1734-アンコーナ、1807)によって1775年頃に制作された10体の使徒たちの彫刻があります。


255
クーポラ


265
クーポラの四隅にフランチェスコ・ポデスティ(アンコーナ、1800-ローマ、1895)によって1880年に描かれた四福音書記者のフレスコ画があります。


256
聖マッテオ


257
聖マルコ


1002
聖ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ


1003
聖ルカ


254
Gioacchino Varle(ローマ、1734-アンコーナ、1806)によるスタッコ彫刻(1775c)


252
祭壇画を見て回ります。


253
主祭壇画は、Francesco Caccianiga(ミラノ、1700-ローマ、1781)の「キリスト使徒たち」です。


259
主祭壇画以外の作品の作品帰属が分かりません。


260


261


262


263


264
見終わりました。


268
外に出ました。この日のミューズ劇場の公演予定はなし。


269
ホテルに戻ります。


270
1787年から1789年に建設されたピア門です。


271
ホテルに戻りました。


005
夕食のため、外出しました。


001


002


003


004
この時の旅は、これで終わりです。


P1670465
前泊地はフォルリでした。前のアンコーナから2年後でした。


P1670466
フォルリの鉄道駅に向かいます。


P1670514
フォルリからアンコナ行きのRVに乗車しました。


P1670515
アンコーナ駅に到着しました。


P1670516


P1670518
駅前の今回の旅のお宿です。
(つづく)

209ドゥオーモから外に出ました。


1108
ドゥオーモ広場からトラヤヌス帝の凱旋門が見えます。


211
アンコーナの住宅地


212
雲がかなり出てきました。


213
階段を下りてクーポラの教会に向かいました。


214
サンティ・ペッレグリーノ・エ・テレーザ教会です。


218
この場所には、1213年から1224年に建設されたサンティッシモ・サルヴァトーレ教区教会がありました。しかし、経時劣化と16世紀後半と17世紀初頭の二度の地震によって、建物が危険になったので、教会は閉鎖され荒れるがままに放置されるようになりました。


1109
1642年、アンコーナ市当局から活動認可を受けた跣足カルメル会は、その活動拠点を探していましたが、18世紀初頭、廃教会となっていた旧サンティッシモ・サルヴァトーレ教区教会の敷地を購入しました。


216
跣足カルメル会の修道士で、建築家でもあったジョヴァンニ・バッティスタ・バルトーリの設計によって、1706年に完成した後期バロック様式の教会です。そのあと、直ぐに修道院の建物が建設されました。


1110
市内何処からでも見える銅製の緑色のクーポラが目立ちます。


215
この日は扉が開く筈でしたが、未だ閉まったままでした。
1798年、フランス軍によって跣足カルメル会修道士が追放され、教会と修道院の建物は接収され、フランス軍の兵舎に使用されるようになりました。


217
扉が開きました。


230
フランス軍が撤退しても跣足カルメル会修道士は戻らず、1820年に地元住民のための教会として活動が再開されました。
1943年、第二次世界大戦の爆撃、1972年に地震によって被害を受けましたが、資金不足のため、修復されず、被害を受けてない部分を使用しての教会活動が続けられました。
20世紀末に漸く元の姿に復元されたのです。


219
中に入りました。


229
八角形、ギリシャ十字形、後期バロック様式の内部です。


228


223
クーポラ


224


221
主祭壇後方のビザンチン様式の十字架(13世紀)


227
主祭壇後方の十字架の陰に隠れて主祭壇画がよく見えませんが、フランチェスコ・ソリナーメ(カナーレ・デル・セリーノ、1657-バラ、1747)の「聖テレーザの顕現するキリスト」です。


220
ペッレグリーノ・ティバルディ(ヴァルソルダ、1527-ミラノ、1596)の「無原罪の聖母と二聖人」


222
逸名画家作「聖母の結婚」(17世紀)


225
制作者情報不知の「ロザリオの聖母」


226
制作者情報不知の「天上の聖母子と二聖人」


1111
外に出ました。


231
ローマ時代の公衆浴場の遺跡


232


233


234
ローマ広場に向かいます。


235
ローマ広場に行っても特に予定がある訳ではありません。


236


237


238


239
ローマ広場です。


240
馬の噴水


241


242


243


244


245
(つづく)

199引き続きドゥオーモの内部です。


201
右翼廊の礼拝堂です。


1083
天井


200
ヴェネツィア様式の天井(15世紀)


1084
クーポラ


1085
13世紀の建設されたクーポラ


205
マルガリトーネ・ダレッツォ(アレッツォ、1240c-1290)によって1270年に建設されたクーポラです。


1086


1087


1088


1090
次は祭壇仕切りです。


1089
祭壇仕切りに装飾が施されてます。


1091
このような仕切りをPluteo(=装飾のある祭壇仕切り)と言います。
左右二箇所にPluteoがあります。
Pluteoの制作者はMaestro Leonardoで、1189年に制作したと言われてます。


193
左のPluteo


194


1093
左のPluteoの浮彫は、ダヴィデ王、受胎告知される聖母、大天使ガブリエーレ、エレミア、ハバクク書


1094


1092
右のPluteoです。


1095
図柄は、フェニックス、鷲と兎、孔雀、グリフィン


1096


1097


1098


197
次はクリプタです。


198
クリプタには幾つかの墓が並んでます。


1099
誰の墓なのか、分かりません。


1100
誰の墓なのか、全て明らかになってます。


1101
墓にはあまり興味がないので、調べなかったのが真相です。


1102
聖チリアコの墓がクリプタにあります。


1103
クリプタのフレスコ画


182
内陣に戻りました。


1104
次は祭壇画です。


1105
古いものは残されていません。


183


184
逸名画家作「最後の晩餐」(17世紀)


185
ドメニコ・シモネッティ通称イル・マガッタ(アンコーナ、1685-1759)の「聖チリアコ」


186
エルコーレ・ファーヴァ(ボローニャ、1669-1744)の「復活したキリスト」(1731)


1106
ペッレグリーノ・ティバルディの作品のコピー画です。


187
ドメニコ・シモネッティ通称イル・マガッタ(アンコーナ、1685-1759)の「聖母戴冠」


188
ドメニコ・シモネッティ通称イル・マガッタ(アンコーナ、1685-1759)の「聖十字架と聖チリアコ」


189
詳細不知


191
逸名画家作「フランチェスコ・ポデスティ(アンコーナ、1800-ローマ、1895)作『聖ロレンツォの殉教』のコピー画」


1107
フランチェスコ・ポデスティの作品は、1943年、第二次世界大戦の爆撃によって消失したので、代わりにコピー画が掲げられてます。


192
詳細不知


195
ルカ・ダンコーナ(Luca d’Ancona)(ペーザロ、1825-フィレンツェ、1884)の「聖母と聖チリアコと聖プリミアーノ」


196
フィリッポ・ベッリーニ(ウルビーノ、1550c-マチェラータ、1603)のキリストの鞭打ち」
ドゥオーモはこれで終わりです。
(つづく)

172引き続きアンコーナのドゥオーモです。


1050
後陣を見ます。


1051


1052


1053


1054


1055


1056


207
次はクーポラです。


1057
13世紀後半にマルガリトーネ・ダレッツォ(Margaritone d’Arezzo)(レッツォ、1240c-1290)によって建設されたくポーラ


1058
クーポラの緑色の屋根は銅製で、16世紀に覆われました。


206
身廊側に扉があります。


1059
通常開けられるのは、こちらの扉です。


1060
この写真で、身廊側の扉の位置がお分かりになると思います。


1061
地元の信者は通常この扉を通って聖堂内に入ります。


1062


1063
サイド・ポータルの装飾を見ます。


1064
サイド・ポータルの装飾


1065
ジョルジョ・ダ・コモ(1222-1256活動記録)による装飾(1228)


1066


1067


1068


1069


1070
次は鐘楼です。


175
1314年に建設された鐘楼です。


1071
聖堂から少し離れた場所に鐘楼が建ってます。


1072
16世紀の火災によって鐘楼の中の一部が破壊されました。


1073
しかし、鐘楼自体の役割を果たす箇所は火災の被害を免れたので、約400年間修復されずに放置されました。


1074
1960年代に漸く元の姿に復元されました。


1075
13世紀後半まで、鐘楼がある場所には軍事塔がありました。鐘楼の土台は、この軍事塔の土台が転用されてます。


178
サイド・ポータルから中に入ります。


179
聖堂内に入りました。


180
三廊式、ギリシャ十字形、ロマネスク様式の内部です。


181
一部はビザンチン様式です。


1076
10世紀から12世紀に建設された部分です。


1077
ローマ時代の柱が転用されてます。


1078


1079


1080


1081


1082
(つづく)

174引き続きドゥオーモのファサードです。


1011
ファサード側の扉は通常閉まっています。


1012
ファサードの装飾を見ます。


1013
ポータルの装飾は、ジョルジョ・ダ・コモ(1222-1256活動記録)によって1228年に制作されました。


1014


1016


1017


1018


1019


1020


1021


1022


1023


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1025


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1029


1030


1031


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1033


1034


1035


1036


1037


1038


1039


1040


1041


1042
ファサードに丸窓と2つの窓があります。


176
ファサードの入り口扉左右に置かれたライオン像を見ます。


177
右のライオン像


1043
13世紀に制作されたライオン像は、経時劣化したので、18世紀にルイージ・ヴァンヴィテッリ(ナポリ、1700-カゼルタ、1773)の作品に差し替えられました。


1044


1045


1046


1047


1048


1049
(つづく)

143前回の旅から2年経ちました。アンコーナ駅に到着しました。


144
駅前のホテルのチェックインしてから、直ぐに街歩きに出発しました。駅前のホテルを選んだのは、アンコーナを拠点にイエージ、ロレートなどに日帰りしたかったからです。


145
今回も徒歩で旧市街に向かいました。


146
旧市街は高台にあります。


147
フェリーターミナル


148
アンコーナ・マリッティマ駅を発着する列車がかなり少なくなっていました。


149
市立絵画館に入館してから、ドゥオーモの拝観がこの日の予定でした。


150
トラヤヌス帝のブロンズ像


152
台座の碑文


151
旧市街の入り口に立ってます。


153
この日は快晴でしたが、夕方になると曇ってきました。


154
Teatro del Muse


155
Palazzo del Governoの門が見えてきました。


156
Palazzo del Governoと市の塔


158
プレビシート広場


159
サン・ドメニコ教会


157
Palazzo del Governoの門を潜ります。


161
Palazzo del Governo


160
Palazzo del Governoのロッジャ


162
Palazzo del Governoのもう一つの門を潜ってPalazzo del Governoから外に出ます。


165
サン・フランチェスコ・アッレ・スカレ教会


163
市立絵画館の扉が開いていました。


164
中に入ると修復工事中でした。この後、長い休館に入りました。


166
ドゥオーモ方向に進みます。


167
アドリア海の方から曇ってきました。


169
アンコーナは天気が変わりやすいと思います。


168
Palazzo degli Anziani


171
円形闘技場が見えてきました。


170


173
ドゥオーモに向かう階段からの景観


1000
アンコーナのドゥオーモです。


1001
サン・チリアコ大司教座教会です。
1904年、アンコーナ司教区は単独のアンコーナ大司教区に昇格しました。司教区再編によって1986年にオージモ司教区を併合して、新たにアンコーナ₌オージモ大司教区となりましたが、その大司教座が置かれている教会です。


1002
1926年、第259代教皇ピオ11世(1857-1939 教皇在位:1922-1939)によってBasilica Pontificia (=Basilica Minore)に格付けされました。


1003
現在、建物が建っている場所の一部にアフロディーテ神殿がありました。その神殿については、紀元前4世紀にギリシャ人によって建設された、紀元前3世紀にローマによって建設されたなど諸説がありますが、いずれにしても、キリスト教が普及するようになると何時しか神殿がキリスト教徒の信仰の場となり、初期キリスト教会の役割を果たすようになりました。現在の大聖堂の前身は異教の神殿とされてます。


1004
6世紀頃、旧神殿の教会の建物が取り壊され、その上に建てられたのがサン・ロレンツォ大聖堂でした。
10世紀末から11世紀初めに、アンコーナは海事共和国の道を歩むことになりましたが、それを機に建物が拡大されることになりました。996年に拡大工事が着工され、1017年に完成したロマネスク・ビザンチン様式の建物が現在の姿の原形となってます。
12世紀末から13世紀初頭にかけて、更に拡大工事が行われ、ほぼ現在の形となりました。


1005
聖チリアコ(エルサレム、?-363)は、アンコーナ司教でしたが、聖地であり、自分の生地でもあったエルサレムへの巡礼の途中に捕縛され、拷問の末に殉教しました。
418年、聖チリアコの聖遺物(遺体)がアンコーナに戻され、サン・ロレンツォ大聖堂近くにあったサント・ステファノ聖堂に安置されました。聖チリアコは、アンコーナの守護聖人として深く崇拝されていました。
1097年、聖チリアコの遺体は、サン・ロレンツォ大聖堂のクリプタに安置されるようになりましたが、それを機に教会の名称が現称に変更されたのです。


1006
ファサードのポータル装飾を見ます。


1007


1008


1009


1010
(つづく)

P1020144セナート広場です。


P1020145
Palazzo del Senatoです。


1068
13世紀第一四半世紀に上院評議会として建設されたPalazzo del Senatoです。


1069
Palazzo Ferrettiに隣接して建ってます。


1070
第二次世界大戦中に爆撃され深刻な被害を受けましたが、ファサードは無事でした。
現在、マルケ州政府の建築、環境、遺産部門が入居しています。


P1020147
サンティ・ペッレグリーノ・エ・テレーザ教会です。


P1020148
カルメル会によって18世紀に建設された後期バロック様式の教会です。


1071
中にフランチェスコ・ソリナーメの「聖テレーザ」があります。


P1020146
この時は、扉が閉まったままでした。


P1020151
サンティ・ペッレグリーノ・エ・テレーザ教会横の階段を上ってドゥオーモに向かいました。


P1020149
階段途中からの景観


P1020150


P1020152
ドゥオーモの鐘楼


P1020155
アンコーナのドゥオーモです。


P1020162
ドゥオーモの後陣


P1020159
大司教館です。


P1020160
大司教館に教区博物館があります。


P1020165
ドゥオーモについては改めて詳しくやります。


P1020153
ドゥオーモ広場から遺跡が見えます。


P1020154


P1020158
ファサード左右のライオン像


P1020157


P1020156


P1020163
拝観しました。


P1020164
ドゥオーモ広場にいたニャーゴ


P1020166
しばらく遊んでいたら、何を思ったのか、急に立ち上がり疾走。


P1020161
ファサード下にアンコーナの古い港が見えます。


P1020167
下に下りてトラヤヌス帝の凱旋門に行きます。


1072
堤防兼城壁とトラヤヌス帝の凱旋門


1073


1074
ドゥオーモが見えます。


1075


P1020168
徒歩で回ったので疲れました。


P1020169
ホテルに戻ります。


P1020170
じっくりと見るべき建物ですが、疲れてしまって、その気力がありません。


P1020171


P1020172
鉄道でアンコーナ駅に戻りました。


P1020404
ホテルの自室に蚊が沢山いたので、用意のヴァーぺを点けました。


P1020405
その夜の食事


P1020406


P1020407
(つづく)

P1670601サン・フランチェスコ・アッレ・スカレ教会の続きです。


P1670618


P1670605


P1670617


P1670607


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P1670612


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P1670611


P1670613


P1670629
外に出ました。


P1020125
ドゥオーモの方に向かいます。


P1020127
Chiesa del Santissimo Nome di Gesuです。


P1020128
普通ジェズ教会と呼ばれてます。


1055
1605年から1743年に建設されたバロック様式の教会です。修復のため、長い間閉鎖されていました。


1056
ジェズ教会の有名な祭壇画です。
オラツィオ・ジェンティレスキ(ピサ、1563-ロンドン、1639)の「割礼」(1605-07)


P1020129
ジェズ教会ファサード前からの景観


P1020130
Palazzo degli Anzianiです。


1058
道を挟んで、ジェズ教会ファサードの向かいにあります。


1057
11世紀、アンコーナ共和国が成立しましたが、その成立直後に建設された市庁舎が前身です。


1060
現在のPalazzo degli Anzianiは、1270年に再建された二代目の建物です。


1059
ゴシック様式です。


P1020131
中世の頃、ストラッカ広場はアンコーナの政治の中心でした。


P1020132
ローマ時代の浴場の遺跡です。


P1020137


P1020133


P1020134


P1020135


P1020136


P1020138
フォロの遺跡です。


P1020139


P1020140


1061
Palazzo Ferrettiです。


P1020143
16世紀のアンコーナ貴族だったアンジェロ・ディ・ジローラモ・フェッレッティ伯爵が、建築家アントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ジョーヴァネ(フィレンツェ、1484-テルニ、1546)に委嘱して、1540年に創建されました。


P1020142
アントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ジョーヴァネは、設計した後、初期工事を見ただけで終わり、ペッレグリーノ・ティバルディ(プーリア、1527-ミラノ、1596)に建設工事が引き継がれました。


1062
画家でもあったペッレグリーノ・ティバルディは、パラッツォの装飾も担当しました。1566年に完成しました。
18世紀半ば、侯爵となったクリストフォロ・フェッレッティは、改装工事に着手して、1759年に完成しましたが、その改装後の建物が現在の姿の原形になってます。第二次世界大戦中に爆撃され、1759年の改修直後の姿とは少し違うようです。


P1020141
現在、Palazzo Ferrettiはマルケ国立考古学博物館として使用されてます。


1063
Palazzo Ferretti内の装飾


1064


1065
ペッレグリーノ・ティバルディによるフレスコ画


1066


1067
(つづく)

P1020117次は、市立絵画館の斜め前にあるサン・フランチェスコ・アッレ・スカレ教会 Chiesa di San Francesco alle Scaleです。
scaleとは、この場合、正面の大階段という意味です。


1038
この教会の名称ですが、単にサン・フランチェスコ教会と呼ばずに必ずalle Scaleを付ける必要があります。
何故ならば、アンコーナには、サン・フランチェスコ教会がこの教会を含めて3つあるからです。


1039
こちらは、Chiesa di San Francesco d’Assisiです。美術ファンにとっては、改めて行く必要がないかも知れません。


1040
こちらは、Chiesa di San Francesco ad Altoです。カルロ・クリヴェッリの作品があるので、美術ファンにはお馴染みの教会です。


1041
アド・アルト教会にあるカルロ・クリヴェッリ(ヴェネツィア、1435-アスコリ・ピチェーノ、1495)の「ベアート・ガブリエッロの幻視」(1489c)です。


1043
脱線してしまいました。話を元に戻します。
ご覧のように教会は港を見下ろす高台にあります。


P1020122
聖フランチェスコの没後直ぐの1235年頃に、見晴らしのよい高台に建設されたサンタ・マリア教会が前身です。フランチェスコ会の修道院教会でした。


1047
1323年、フランチェスコ会所属のニコロ・デル・ウンガリ司教によってサンタ・マリア・マッジョーレ教会に変更されました。


1042
1447年、大階段が建設され、それを機に教会名が現称に改称されたのです。


P1020124
ファサード前から見下ろしたサン・フランチェスコ広場です。


P1020126
ファサード前から港が見えます。


1044
ファサード下の壁に入り口があります。


P1020119
教会の入り口ではありません。


1045
Canale Sottostanteの入り口です。


1046
水路が通っています。Canale Sottostante₌下の水路


1048
教会の建物の横後方に修道院がありました。


1049
修道院入り口のニッチ


1050
修道院だった建物はかなり劣化しています。


P1020121
ファサードを見ます。


P1020120
ファサードのポータルが見所です。


P1020118
ジョルジョ・ディ・マッテオ別称ジョルジョ・オルシーニ(ダルマチア、1410c-1475)によるポータル(1454)です。


1051


1052


1053


1054


P2380180


P2380188
拝観します。この時、中は写真不可でした。
2013年頃から写真撮影可能となりました。


P1670595
この時ではなく、後で撮った写真を掲載します。


P1670597
1953年の修復の際、内部の壁が塗り直されたので新しく見えます。その際、微かに残っていたフレスコ画は塗り潰されたそうです。


P1670596
単廊式、新古典様式の内部です。


P1670620


P1670580
主祭壇


P1670581
後陣


P1670575
主祭壇画


P1670579
ロレンツォ・ロットの「聖母被昇天」


P1670582


P1670588
詳細不知


P1670592
詳細不知


P1670598
詳細不知


P1670599
(つづく)

P1020102サン・ドメニコ教会から外に出ました。


1028
サン・ドメニコ教会ファサード下横に博物館があります。


P1020092
Museo della Citta 市立博物館です。


1029
先史時代からイタリア統一までのアンコーナの歴史に関することが展示されてます。


P1020091
入館しました。


P1020090
展示されているギリシャ時代の浮彫です。
当時、中は写真不可でした。係員の許可を受けて撮った写真です。中の写真はこれ一枚だけしかありません。


P1020103
次はプレビシート広場に面して建つ写真右の建物です。


P1020105
Palazzo del Governo、現在はアンコーナ県の県庁舎として使用されてます。


P1020106
Palazzo del Governoの初代の建物は、13世紀後半には既に存在していましたが、1348年の火災によって消失したので、二代目の建物が再建され、1381年に完成しました。


P1020104
しかし、直ぐに手狭になり、1418年から改造増築工事が行われ、1450年に完成しました。現在の建物は、改造増築工事完了後の姿が原形になってます。


1030
Palazzo del Governoの塔は「市の塔」と呼ばれてます。


1031
初代の塔は、14世紀に建設されましたが、落雷のために崩落したので、1581年に再建されました。


1032
1596年、塔の上に鐘楼が追加されました。1611年、市の塔に時計が追加されました。


1033
1690年の地震によって、塔の装飾が落剝してしまい、復元工事が行われました。現在の塔の姿は、この復元工事完了後の18世紀初め頃のものです。


1036



P1020107
Palazzo del Governoのアーチです。


1037
アーチを潜ります。


P1020108


P1020109
柱廊がある小中庭に出ます。


1035
柱廊


1034


P1020110
次は市立絵画館です。


P1020113
市立絵画館の入り口です。当時、入り口はここでしたが、現在は下の方に入り口があります。


P1020114
この後、長い間、改修工事のため、休館となりました。


P1020111
入館しました。


P1020112
この当時、中は写真不可でした。
修復工事後、美術館は再開館されましたが、再開館後は写真撮影がOKとなりました。
再開館後の市立美術館については、既にアップしました。ご興味のある方はそちらをご参照願います。
再開館後の撮った作品写真を一部掲載しておきましょう。


P2380379
美術館の正式名称は、フランチェスコ・ポデスティ市立美術館ですが、アンコーナが生んだ画家フランチェスコ・ポデスティに因んでます。


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P2380403


P2380402


Crivelli,_madonna_d'ancona
(つづく)

P1020085プレビシート広場です。


1001
広場に面してサン・ドメニコ教会が建ってます。


1000
1216年、第177代教皇オノリオ3世(ホノリウス3世)(1150c-1227 教皇在位:1216-1227)によって、ドメニコ会が認可されましたが、その直後に建てられたロマネスク様式の教会です。


P1020086
1253年の文書に、サン・ドメニコ教会の存在が記録されてます。


P1020101
18世紀中頃、風化によって建物が危険になったので再建されることになり、その際、最初の建物の左右にあったサン・エジーディオ教会とインコロナータ教会を取り壊して、規模の大きい教会にすることが決定されました。
そうして、建築家カルロ・マルキオーニ(ローマ、1702-1786)に委嘱され、1759年、最初の建物が両隣の2つの教会と共に解体されました。


1002
1761年に創建され、1778年に完成したバロック様式の二代目の建物が現在の姿の原形となってます。1788年、二代目の建物の奉献式が執り行われました。
ファサード上部が未完成となってますが、ファサード工事中の1798年、フランス軍のイタリア侵攻に伴って、教会活動が停止され、兵舎に転用されてしまい、ファサード工事が中断されました。教会活動は1816年に再開されましたが、ファサード工事はそのまま放置され、現在に至ってます。
1943年、第二次世界大戦の爆撃によって屋根が崩落し、戦後に修復されましたが、1972年の大地震によって大きな被害を受けたのです。現在の姿は、1980年代から1990年代にかけて行われた大掛かりな復元工事後のものです。


P1020089
ファサード前の階段途中に教皇クレメンテ12世像があります。


1004
教皇クレメンテ13世は、サン・ドメニコ教会と直接の関係はありません。
第246代教皇クレメンテ12世(フィレンツェ、1652-ローマ、1740 教皇在位:1730-1740)は、1732年にアンコーナの自由港を宣言しましたが、それによって多大な利益を得たアンコーナ当局が教皇の宣言に対する感謝の意を表するためにクレメンテ13世像を造りことにしたのです。


1003
彫刻家アゴスティーノ・コルナッキーニ(ぺーシャ、1686-ローマ、1754)によってローマで制作された教皇像は、1738年にアンコーナに運ばれ、現在の場所に設置されたのです。


P1020087
クレメンテ12世像の背後にFontanaがあります。


P1020088
19世紀に造られたFontana


1005
後陣右横に鐘楼があります。


1006
鐘楼の先端


1007
拝観します。


P1020094
中に入りました。


1008
単廊式、バロック様式の内部です。


1009
左右の側壁にそれぞれ3つづつの礼拝堂があります。


1010
この教会の必見は、ティツィアーノとグエルチーノの祭壇画です。


1011
地味な天井装飾


P1020098
主祭壇と後陣


P1020100
必見の主祭壇画


1012
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(ピエーヴェ・ディ・カドーレ、1488/1490-ヴェネツィア、1576)の「磔刑」(1558)


1013
左第一礼拝堂です。


1014
こちらの祭壇画も必見です。


P1020096
ジョヴァンニ・フランチェスコ・バルビエーリ通称グエルチーノ(チェント、1591-ボローニャ、1666)の「受胎告知」(1662)


P1020095


P1020097


1015


1016
聖心礼拝堂


1017
ジョアッキーノ・ヴァルレ(ローマ、1734-アンコーナ、1806)の「栄光と音楽天使」


1018
ジョアッキーノ・ヴァルレ(ローマ、1734-アンコーナ、1806)の「ベアート・アゴスティーノ」


1019
ジョアッキーノ・ヴァルレ(ローマ、1734-アンコーナ、1806)の「ベアート・テルモ」


1020
サンツィオ・ブラージ(アンコーナ、1895-1972)の「ピエタ」


1021
Raoul Petettiの「聖アンナと幼き聖母」


1022
フランチェスコ・コンティ(フィレンツェ、1681-1760)の聖ピエトロ・マルティーレ」


1023
フランチェスコ・コンティ(フィレンツェ、1681-1760)の「聖ヴィンチェンツォ・フェッレーリの奇跡」


1025
ジョアッキーノ・ヴァルレ(ローマ、1734-アンコーナ、1806)の「ロザリオの聖母」


1024


1026
オルガン


1027
外に出ます。
(つづく)

P1020068サンタゴスティーノ教会です。


P1020069
1341年、アゴスティーノ会によって建設された教会です。


P1020067
1860年、イタリア統一に伴って世俗化された旧教会です。現在は、グリエルモ・マルコーニ美術館になってます。


1009
この教会にあった作品です。現在は市立美術館で見ることが出来ます。
ロレンツォ・ロット(ヴェネツィア、1480-ロレート、1556/1557)の「アラバルダの祭壇画」(1539c)


1010
この教会の見所はファサード入口の彫刻でしょう。


1011
ジョルジョ・ディ・マッテオ(1410c-1475)によって1460年に制作されたポータル


1012


1013


1014


1015


1016


1017


1018


1019


P1020076
Corso Mazziniです。写真右に噴水があります。


P1020077
Fontana del Calamoです。


P1020078
この場所には、古代ギリシャ時代に造られた噴水がありました。


P1020079
風化による劣化が顕著だったので、1503年に取り壊されました。
その代わりに噴水を新造することになり、ペッレグリーノ・ティバルディ(プーリア、1527-ミラノ、1596)に委嘱され、1559年から1560年に制作された噴水です。


P1020075
13の蛇口があります。


1000
水を飲むと共に、ペット・ボトルに水を入れました。


1001


1003


1004


1005


1006


1007


1008


P1020080
ローマ広場です。


P1020081
サンティッシモ・サクラメント教会の後陣を見ながら、ドゥオーモの方向に進みました。


P1020082
サン・ピエトロ門です。


P1020084
1221年に築かれた門です。


P1020083
門を潜ります。


1020
門の直ぐ傍にサン・ピエトロ教会がありました。これは教会の残骸です。


1021
門の名称はサン・ピエトロ教会に因んでます。


1022
サン・ピエトロ教会は、第二次世界大戦中の1943年と1944年に二回爆撃を受けて、完全に破壊されてしまいました。


1023
再建が断念され、僅かに後陣の残骸だけが残されてます。


1024
アンコーナ港がイタリアの主要港だったので、爆撃の標的にされたのです。


P1020173
昼食を食べることにしました。


P1020174


P1020175
(つづく)

P1020176アンコーナ駅に到着しました。


P1020042
アンコーナ駅の駅舎


P1020043
駅前のホテルにチェックイン後、直ぐに町歩きに出発しました。


P1020044
ピア門 Porta Piaです。


P1020046
アンコーナ港の入り口として、フィリッポ・マルキオーニ(ローマ、1732-アンコーナ、1805)の設計施工によって1787年から1789年に造られたピア門です。


P1020047
門を潜りました。


P1020045
門の横はアンコーナ港です。


P1020048
フェリーの定期便で賑わってます。


P1020049
丘上に広がるアンコーナの旧市街です。


P1020050
アンコーナは、人口98,785人(2021年10月31日現在)のマルケ州の州都でもあり、同州アンコーナ県の県都です。


P1020052
今も昔もアドリア海の主要港として栄えてます。


P1020053
アンコーナ・マリッティマ駅です。多くの列車が行き来する駅でしたが、利用客の減少によって駅が閉鎖されました。


P1020051
旅客駅は閉鎖されましたが、アンコーナ駅と港を結ぶ貨物線は運行されているようです。


P1020054
アンコーナ港は、トラヤヌス帝によって114年から115年に築かれました。トラヤヌス帝に感謝するために造られた像です。


P1020055
アンコーナの中心街に入りました。


P1020056
1827年に建設されたミューズ劇場です。


P1020059
ここのオペラ上演は定評があります。


P1020057
サンティッシモ・サクラメント教会です。


P1020061
1538年に建設されたルネサンス様式の教会でしたが、18世紀後半に殆ど再建に近い形で大改造されました。


P1020058
1986年に、アンコーナ司教区はオージモ司教区と合併してアンコーナ₌オージモ大司教区となりましたが、それまではConcattedraleの格式を持つ教会でしたが、それを機に普通の教会に格下げされてしまいました。


1006
1771年から1776年に建設された鐘楼


P1020062
中に入りました。単廊式、ラテン十字形、バロック様式の内部です。


P1020063
クーポラ


1007
クーポラの四隅にフランチェスコ・ポデスティ(アンコーナ、1800-ローマ、1895)によって描かれた四福音書記者のフレスコ画があります。この時、フランチェスコ・ポデスティは80歳だったそうです。


1008
聖ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ


1009
聖ルカ


1010
聖マルコ


1011
聖マッテオ


P1020064
主祭壇


P1020065
詳細不知


P1020066
詳細不知


1012
ジョアッキーノ・ヴァルレ(ローマ、1734-アンコーナ、1806)によって制作された12使徒の彫刻があります。こちらは聖フィリッポ


1013
聖ジャコモ・ミノーレ


1014
聖バルトロメオ


1015
聖歌隊席


P1020070
外に出ました。


P1020072


P1020073
ローマ広場です。


P1020074
ローマ広場にある「馬の噴水」です。別の場所にありましたが、1908年に現在の場所に移設されたそうです。
(つづく)

189引き続きイエージの城壁です。


190


191


193
ドゥオーモの鐘楼が見えます。


192
次はヴァッレ門です。


194
Ports Valle


196
鉄道駅に最も近い門です。


195


197


198


1011
Ports Valle近くの城壁がかなり低いようです。


1012
稜堡


1013
1920年代に道路拡張のために城壁が取り壊された部分


1014
西側の城壁


1015


1016


1017
城壁が低い部分


1018


1019
次はガリバルディ門です。


1020


1021
ガリバルディ門です。


1022
イタリア統一以前は、サン・フロリアーノ門と呼ばれていました。


1023
城壁内から見たガリバルディ門


1024


206
ヴァッレ門から城壁内に戻りました。


207
ヴァッレ門の内側は一部破壊されてます。


208
サン・ピエトロ・アポストロ教会に向かいます。


209
夕刻を迎えて、人出が増えてきました。


210
階段を上ればサン・ピエトロ・アポストロ教会に出ます。


211
サン・ピエトロ・アポストロ教会です。


213
ロンゴバルド時代に建設された、この街で最古の教会の一つです。13世紀頃、ゴシック様式で再建されましたが、1720年に火事のため、天井が崩落してしまいました。


214
碑文
現在の後期バロック様式の建物は、1746年から1784年に建設された三代目となるものです。


212
扉が閉まっていました。


215
これで大体見終わったようです。


216
一旦ホテルに戻ります。


319
夕食を食べるために外出しました。


318
この日の公演はありません。


321


320


323


322


324


024
翌朝です。駅に向かいました。


025
列車で次の目的地に向かいました。
(イエージ編 おわり)

164
Porta Bersaglieriから城壁外に出ました。


1000
イエージの城壁は、マルケ州で最も保存状態が良いものの一つです。


1001
Porta Bersaglieri


1002
Porta Bersaglieriの碑文


1003
城壁外から見たPorta Bersaglieri


165
台形の旧市街を囲む城壁は、周囲約1.5キロメートルあります。


166
先ほど潜ってきたPorta Bersaglieriです。


167
イエージは、ローマ時代に築かれたCastrum(ローマ軍の駐屯地)が前身です。
大半のCastrumと同じように、イエージのCastrumは長方形の形をしていて、その周囲に堀が巡らされ、城壁で囲まれていました。


168
イエージの街の発展に伴い、人口が増えると共に、市域が拡大され、城壁も少しづつ広がりました。


169
13世紀から14世紀にかけて、街の防衛力向上のために、城壁内を拡大して城壁が要塞化され、整備されました。


170
15世紀になると、さらなる防衛力向上の必要性が高まり、建築家で特に軍事要塞を得意にしていたバッチョ・ポンテッリ(フィレンツェ、1450-ウルビーノ、1492)に城壁整備が委嘱されました。
バッチョは、ヴァティカンのシスティーナ礼拝堂を設計したことで有名です。


171
防衛塔と角塔が点在してます。


1004
バッチョ・ポンテッリが多忙のため、要塞整備が中々進捗しませんでした。
そのため、同時期に活躍していた建築家フランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニ(シエナ、1439-1501)にも城壁建設が委嘱されました。


1006
後にイエージは教皇領となりましたが、17世紀以降、徐々にその軍事的な重要性が薄まりました。それに従って、城壁や砦などの軍事的重要性を薄めるための改竄や、城壁を利用した高架住宅の建設が行わるようになりました。


1007
防衛上の中心だったRoccaは、1890年に取り壊されました。


172
モンティロッツォの塔です。


173
バッチョ・ポンテッリ(フィレンツェ、1450-ウルビーノ、1492)の設計と工事監督によって、1454年に建設されたモンティロッツォの塔です。


1008
街のシンボルとなっているモンティロッツォの塔です。


1009


174
道路整備のために、1920年代に城壁の一部が取り壊されました。


175
城壁内の最高点が海抜96メートル、最低部が海抜66メートルあります。


176
旧市街は、高低差が30メートルある台形なので、防衛上の理由から、城壁の形状と高さが土地の高低によって異なります。


177
防御力がありそうな高い壁


178
ロトンドの塔に向かいます。


179
城壁が保存されているので、城壁内外との行き来が制限されてしまいます。


182
この辺の壁を取り壊して出入口を造っても良さそうに思えます。


180


181


183
ロトンドの塔です。


185


184


1010


187


186


188
(つづく)

221
よく見えませんが「聖母子」の祭壇画があります。


1022
マルケの逸名画家作「聖母子」(15世紀)


222

フィリッポ・ベッリーニ(ウルビーノ、1550c-マチェラータ、1603)の「聖ジョヴァンニ・バッティスタの説教」(1590c)


1023


1024


1025


1026


224
セバスティアーノ・コンカ(ガエータ、1680-ナポリ、1764)または、コンカ周辺の画家による「聖母子と二聖人」


227
クリストフォロ・ウンターペルガー(カヴァレーゼ、1732-ローマ、1798)の「聖体拝領」(1782)


1027


228


1028


1029
次はサン・ロレンツォ礼拝堂です。


229
ガエターノ・ラピス通称イル・カッラッチェット(カーリ、1706-ローマ、1773)の「聖ロレンツォの殉教」(1745c)


232


1030


233
ジョヴァンニ・オダッツィ(ローマ、1663-1731)に帰属する「聖ビアージョ」


1031
オダッツィはエッチングが得意でした。


1032
洗礼盤


1033
アンジェロ・リパンティの墓


1034
聖書置台


230
クーポラの四隅にフレスコ画が描かれてます。


231
1750年頃にプラチド・ラッザリーニ(ペーザロ、18世紀活動)によって描かれた「四福音書記者」です。


1035
「聖ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ」


1036
「聖ルカ」


1037
聖マルコ


1038
聖マッテオ


1039
ビアージョ・ビアゲッティ(ポルト・レカナーティ、1877-マチェラータ、1948)の「聖セッティミオ」(1937)


238
外に出ました。


155
Porta Bersaglieriに向かいます。


156
城壁外に出て、城壁を見る予定です。


157


158
Palazzo Marcelliです。


160
18世紀半ばに建設されました。


159
後期バロック様式のPalazzo Marcelliです。


161
Porta Bersaglieriです。


162
15世紀に建設されました。


1040
門を潜って城壁外に出ました。


163
(つづく)

154引き続きフェデリーコ2世広場です。


135
Palazzo Ripanti Vecchioです。
フェデリーコ2世広場に面して、リパンティ家の所有する建物が2つありました。区別するために古い方のPalazzo Ripanti はPalazzo Ripanti Vecchioと呼ばれてます。Museo Diocesanoが置かれている建物がPalazzo Ripanti Nuovoです。


1001
Palazzo Ripanti Vecchioは、15世紀に建設されたサンタ・ルチア病院でした。


1002
18世紀前半、サンタ・ルチア病院は他の建物に引っ越すことになりました。1724年、エミリオ・リパンティ伯爵は空き家となった旧病院を購入し、同家の住居にしました。それ以降、建物名称が減少に改められました。


136
19世紀初めに後期バロック様式に改造され、現在の外見となりました。


1003
19世紀後半、リパンティ家の直系子孫が途絶えてしまい、同家が所有していた2つのPalazzo Ripanti が空き家となりましたが、イエージ司教によって買収されました。


1004
Palazzo Ripanti Vecchioは司教館になりました。


1005
司教館の入り口


1006
中庭があります。


1007
司教館の階段


1008


1009


134
次はイエージのドゥオーモです。


146
イエージのサン・セッティミオ司教座聖堂です。


1010
1969年にBasilica Minoreに格付けされました。ということで正式名称は、Basilica Minore e Cattedrale di San Settimioと呼ばれます。


149
現在地には、ローマ時代の異教の寺院があり、キリスト教がイエージで広まりを見せると、やがて初期キリスト教会に転用されるようになりました。
4世紀初頭、サン・セッティミオ・ディ・イエージ(ドイツ、3世紀後半-イエージ、307)が初代イエージ司教に任じられると、聖セッティミオは司教座を一時的にその初期キリスト教会に置くことにし、Cattedrale di Santissimo Salvatoreと命名しました。初期キリスト教会だった建物を取り壊し、その上に新しい建物を建設することを考えていたからです。


147
新しい建物の建設が始まりましたが、307年9月5日、サン・セッティミオ・ディ・イエージは、斬首され、殉教しました。キリスト教が禁教だった時代だったので、新しい建物の建設時期は分からないようです。
Basilica di Santtisimo Salvatoreの存在が初めて公式文書に記録されたのが1119年のことでした。
1469年、聖セッティミオの遺体が発見されました。


1011
1208年、三廊式、ロマネスク・ゴシック折衷様式の三代目の建物が建設されました。
1227年、ジョルジョ・ダ・コモ(コモ、13世紀活動)の設計によってファサードが完成しました。
1469年、大改造工事が行われ、単廊式、ルネサンス様式の建物に変わりました。


1012
現在の後期バロック様式の建物は、フィリッポ・バッリジョーニ(ローマ、1672-1753)の設計によって1732年に創建され、1741年に完成した四代目となるものです。


217
ファサードは19世紀に完成しました。


1013
ルイージ・ヴァンヴィテッリ(ナポリ、1700-カゼルタ、1773)の設計によって、1782年から1784年に建設された鐘楼です。


148
ファサードを見ます。


150
入口扉


153


151


152
拝観します。


220
聖堂内に入りました。


235
単廊式、ラテン十字形、後期バロック様式の内部です。


234
三代目の建物にあった作品が一部残されてます。


237
聖水盤が三代目の建物にありました。


1014
ヴェローナ産の赤大理石が使われてます。


1015
ジョルジョ・ダ・コモ(コモ、13世紀活動)によって制作された、向かって左側の聖水盤(1227c)


1016
ジョルジョ・ダ・コモ(コモ、13世紀活動)によって制作された、向かって右の聖水盤(1227c)


1017
派手とは言えない天井装飾


1018
祭壇画などを見て回ります。


1019
Presbiterio


223


226
ビアージョ・ビアゲッティ(ポルト・レカナーティ、1877-マチェラータ、1948)の「贖い主」(1937)


225


1020
主祭壇の浮彫は、逸名彫刻家によって17世紀に制作された「ロレートの聖母」です。


1021
後陣左右のオルガンは、17-18世紀に制作されました。
(つづく)

117Piazza Colocciに面して建っている建物です。


1001
Palazzo Bisaccioniです。


118
1992年からCassa di Risparmio di Jesiの建物となってます。


1002
同財団が所有する美術品を展示する部屋があります。


119
この日は休館でした。


1003
ヴァザーリ、グエルチーノなどの作品が展示されてます。


120
この建物右に門があります。


122
写真右が門です。


121
Palazzo Chislieri Scalamontiの門です。


124


123
Palazzo Chislieriはフェデリーコ2世広場から見た方が分かりやすいと思います。


125
Palazzo Honoratiです。


127
16世紀に建設されました。


126
フェデリーコ2世広場に入ります。


128
フェデリーコ2世広場に来ました。


132
先ほどの門を潜って中に入ると、この建物に出ます。


133
Palazzo Chislieriです。


138
フェデリーコ2世広場に面して建っているPalazzo Ripanti Nuovoです。


140
扉が閉まっていました。


141
教区美術館が置かれているPalazzo Ripanti Nuovoです。


1004
開いていればなあ。落胆しました。


1005
展示されている作品が充実しています。


1006
教区美術館は開いていたり、閉まっていたり。


1007


129
写真左の教会に向かいます。


143
サン・フロリアーノ教会です。


1008
12世紀に建設されたロマネスク様式の建物が初代です。


1009
1512年から1532年に再建されました。再建された時は、ルネサンス様式でしたが、1743年に改造され、現在のバロック様式のたてものになりました。


137
未完成のファサードです。
1860年に宗教活動が停止され、イエージ市当局の所有不動産になりました。市立図書館、市立絵画館として建物が利用されましたが、図書館と絵画館は別の建物に移り、現在は劇場になってます。


144
劇場の入り口


1010
鐘楼


1011
旧サン・フロリアーノ教会のファサード前にオベリスクがあります。


130
オベリスクの噴水です。


131
元々ここにあったものではなく、他の場所から移設されたのです。


1012
1844年に完成したオベリスクは共和国広場に設置されました。1949年に現在の場所に移設されました。


1014
旧サン・フロリアーノ教会の斜め横に立っている建物です。


142
Palazzo Balleaniです。


145
12世紀頃からイエージに定住するようになったバッレアーニ家が住居として、1720年から1722年に建設させたロココ様式のPalazzo Balleaniです。


1013
ファサードの彫刻が特徴です。


1015
(つづく)

100スポンティ―ナ広場です。


101
スポンティ―ナ広場に面して建つ古そうな建物です。賃貸物件になっているようです。


102
フェデリーコ2世広場の方向に進みます。


103
Arco della Casa dei Verroni


106


104
ジョヴァンニ・ディ・ガブリエーレ・ダ・コモによって1513年に制作されました。


1001
勿論、通ることが出来ます。


107
Arco della Casa dei Verroniの隣にある建物


108
Piazza Colocciに向かいます。


1002
Piazza Colocciです。


1003
広場に面して歴史的建造物が建ってます。


113
サンタゴスティーノ教会、その隣(写真右端)の建物がPalazzo Colocciです。


1004
先ずサンタゴスティーノ教会です。


114
サン・ルカ教会とも呼ばれてます。


115
12世紀にベネデット会によって建設されたサン・ルカ教会(修道院の教会)です。


116
1400年、アゴスティーノ会の所有になり、程なく名称が変更されました。


1005
18世紀に行われた改造の際、ファサードが煉瓦造りとなりました。
現在は活動を停止た旧教会になってます。


1006
サンタゴスティーノ修道院教会のキオストロ


1007
次はサンタゴスティーノ教会に隣接するPalazzo Colocciです。


1008
広場の名称は、Piazza Colocciを所有していたColocci家に由来します。


1009
1435年の文書に、現在地にColocci家の邸宅があったことが記されているそうです。


1010
1513年、当時のColocci家の当主で、教皇レオ10世の秘書アンジェロ・コロッチ(イエージ、1474-ローマ、1549)がイエージ当局に対して、邸宅の拡大工事申請を提出しました。直ちに申請が認められ、拡大工事が開始され、1596年に完成したルネサンス様式の建物が現在の姿の原形になってます。


1011
1735年、ローマの建築家ピエル・パオロ・アルフィエーリの設計によってバロック様式に改修されました。現在の姿はその改修後のものです。


1012
Piazza Colocciの入り口


1013
コロッチ家の紋章


1014
現在はMuseo di Palazzo Colocciとして一般公開されてます。


1015
邸宅内の階段


1016
バロック様式の装飾


1017
家族の食堂


1018
コロッチ家の収集物


109
次はPiazza Colocciに面して建っている、この建物です。


112
Palazzo della Signoriaです。


111
この場所は、ローマ時代に建てられたローマ劇場の跡地でした。


110
13世紀頃には、政庁舎のプリオーリ宮がありました。


1019
15世紀後半、当時イエージを支配下に置いていたウルビーノ公フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ(グッビオ、1422-フェッラーラ、1482)によって、プリオーリ宮を取り壊し、新しい行政庁の建物建設の指示が出され、それに基き1486年から1498年に建設されたルネサンス様式の建物が現在の姿の原形となってます。


1020
1586年にイエージは教皇領となり、教皇庁から派遣されたMagistrato Pontificioの政庁舎となり、その状態がイタリア統一まで続きました。


1021
1616年に建物の一部が改造されました。


1022
1860年、イエージはイタリア王国に併合され、それ以降、この建物は裁判所、刑務所として使用されるようになりました。
1930年から1939年に復元工事が行われました。
現在は市立図書館として使用されてます。


1023
ファサードのイエージ市の紋章


1024
鐘楼


1027
中庭から見た鐘楼


1026
中庭にある井戸


1025
(つづく)

066共和国広場近くに門があります。


067
Porta Mazziniです。


068
16世紀に造られた門です。


069
門を潜って城壁外に出ました。


070
城壁の下の景観。この先に鉄道駅があります。


071
Museo Diocesanoに向かいます。


072
昼下がりは人通りが少ない時間です。


073
Palazzo Bettiniです。


075
17世紀末から18世紀初頭にかけて建設されました。


074
Palazzo Bettiniの一部はB&Bになってます。


077
Palazzo Bettiniの中庭


076
B&Bになっている一角


078
9月15日通り
私は〇月〇日通りが苦手です。9月でも日にちが異なる通りやら広場があるので、覚えていませんから。


079
城壁の下の景観


080
城壁


081
要塞化された城の外壁になります。


083
監視塔


082
門を潜ります。


084
共和国広場に戻りました。


087
Palazzo Magagniniです。


086


085


088
Arco del Magistrato


089
アーチを潜ってPiazza Indipendenzaに出ました。


090
Palazzo Comunaleです。


098


096
Piazza Indipendenzaは、イエージの最高地に当たります。


097
ファサードにガリバルディ像があります。


1005
最高地なので、1282年に要塞が建設されましたが、防御力増強のため、1423年に破壊されて再建されることになり、新要塞が1433年に建設されました。


1007
しかし、イエージの防衛上の重要性が薄れてきたので、新要塞は1527年に解体されたのです。


1006
その解体された要塞の跡地に、16世紀終わりに建てられたのがPalazzo Comunaleです。


092
Palazzo Comunaleのアーチ


091
Palazzo Comunaleの隣に建っている建物です。


093
Palazzo Ricciです。


094
リッチ家の邸宅として、1544年から1547年に建設されました。


1002
1773年に大改修を受けましたが、現在の姿は、この大改修工事後のものです。


1003
外壁の形状からPalazzo Diamantiとも呼ばれてます。


1004


099
Piazza Indipendenzaに記念碑があります。


095
戦争犠牲者記念碑のライオン像


1000
(つづく)

045共和国広場に面して建つPalazzo Magagniniです。(写真右端の建物)


1001
建築家マッティア・カッポーニ(イエージ、1720-1803)の設計によって、1787年に建設されたPalazzo Magagniniです。


044
共和国広場の模様


061
Corso Giacomo Matteottiに戻りました。次はサン・ジョヴァンニ・バッティスタ教会です。


062
サン・ジョヴァンニ・バッティスタ教会です。サン・フィリッポ教会とも呼ばれてますが、その理由は後述します。


063
神聖ローマ帝国皇帝フェデリーコ2世(イエージ、1194-フィオレンティーナ・ディ・プーリア、1250)の命によって、現在サン・ジョヴァンニ・バッティスタ教会が建っている場所に建設されたフォンテ・アヴェッラ―ナ修道院が前身です。同修道院は、1221年の文書に、その存在が初めて記載されたそうです。


020
聖アゴスティーノ騎士団の修道士たちによって、1590年、現在地に教会の建物が再建され、サン・ジョヴァンニ・バッティスタ教会と命名されました。


021
1659年、聖アゴスティーノ騎士団は教会から去ることになり、当時のイエージ司教が聖フィリッポ・ネリ修道士会に教会の管理を委嘱しました。


064
現在のバロック様式の建物は、Frati Filippiniによって1694年に建設された三代目となるものです。


1002
そのため、サン・フィリッポ・ネリ教会とも呼ばれてます。寧ろ、サン・フィリッポ教会と呼ばれることが通常のようです。


065
ファサードの「キリストの洗礼」(16世紀)(制作者不詳)


023
「キリストの洗礼」の下に、Frati Filippiniの紋章があります。


022
扉が開いたので拝観します。


002
中に入りました。


1003
単廊式、ラテン十字形、バロック様式の内部です。


018
左側壁


019
右側壁


1004
説教壇


1005
裕福なFrati Filippiniだったので、装飾に金をかけました。


013
スタッコ彫刻とサン・フィリッポ・ネリ礼拝堂の装飾は、トンマーゾ・アマンティーニ(アルバニア、1625-ローマ、1675)の作品です。


014
フレスコ画は、アルカンジェロ・アクィリーニ(イエージ、1562-スポレート、1552)の作品です。


1006


1007


1008


1009


017
祭壇画を見て回ります。


003
逸名画家作「天上の聖母子と聖人たち」(16世紀前半)


006
ジャチント・ブランディ(ポーリ、1621-ローマ、1691)の「無原罪の御宿リ」(1679)


005
ローマの逸名画家作「グイド・レーニ作『聖フィリッポ・ネリの幻視』(1614-15)のコピー画」(1666)


1010
サン・フィリッポ・ネリ礼拝堂の彫刻は、トンマーゾ・アマンティーニ(アルバニア、1625-ローマ、1675)の作品です。


007
リミニの逸名画家作「Sange Giusto」(14世紀)


1011


008
ジャンジャコモ・ドゥーティの「我に触れるな」(1602)


009
ジャンジャコモ・ドゥーティの「キリストとサマリア女」


010
ジャンジャコモ・ドゥーティの「最後の晩餐」


1012
主祭壇画


012
ジョヴァンニ・ペルッツィーニ(アンコーナ、1629-ミラノ、1687)の「天上の聖母子と聖ジョヴァンニ・バッティスタ」(1687)


1013


015
詳細不知


1014
1887年制作のオルガン


001
外に出ました。
(つづく)

025Corso Giacomo Matteottiに面して建っている建物です。


026
病院と教会の建物です。


028
Ospedale Fatebenefratelli e Chiesa di San Giovanni di Dio


027
18世紀に建設されました。現在は市民病院となってます。


029
Arco Clementino


1019
バロック様式の凱旋門です。


030
建築家で画家でもあったドメニコ・ルイージ・ヴァレーリ(イエージ、1701-カメリーノ、1770)の設計によって1734年に建設されました。


031
Arco Clementinoの手前に歴史的建造物があります。


033
旧孤児院の建物です。


034
サン・ウバルド教会もありました。


032
この場所には古い修道院がありましたが、それを取り壊して、その上に孤児院が建設されました。


035
この近くにある門に行きます。


1020
Porta Farina


1021
市域が拡大され、1524年に建設されたPorta Farinaです。


036
Corso Giacomo Matteottiに戻りました。


037
この道を真直ぐ進めば、教区博物館に行けます。


038
教区博物館はフェデリーコ2世広場にありますが、その前に見逃せない広場があるので、その広場を経由します。


039
先ず共和国広場に向かいます。


041
共和国広場にやってきました。


042
共和国広場に面して建つペルゴレージ劇場です。


1023
1790年に建設された市立劇場です。


043
この日の公演はなし


1024
共和国広場に面して教会が建ってます。


060
Chiesa dell’Adorazione Eucaristica Perpetura(永遠の聖体崇拝教会)、略してChiesa dell’Adorazione(崇拝の教会)とも呼ばれてますが、Chiesa della Morteとも呼ばれてます。


046
初代の建物はConfraternita dei Poveriによって1585年に建設されました。


1025
1744年、Collegiata(参事会教会)に昇格したので、それを機に拡大再建されることになり、1755年に完成した後期バロック様式の二代目の建物です。


1028
鐘楼


040
拝観します。


048
中に入りました。


1026
単廊式、後期バロック様式の内部です。


057
左側壁


058
右側壁


049
祭壇画、彫刻を見ます。


1027
ドメニコ・ルイージ・ヴァレーリ(イエージ、1701-カメリーノ、1770)の「聖家族と聖アンナとパドヴァの聖アントニオ」(1742)


056
「ピエタ」(詳細不知)


052
後陣


054
主祭壇画は、ドメニコ・ルイージ・ヴァレーリ(イエージ、1701-カメリーノ、1770)の「聖母誕生」(1742)


050


055
詳細不知


051
ドメニコ・ルイージ・ヴァレーリ(イエージ、1701-カメリーノ、1770)の「羊飼いの礼拝」


059
外に出ました。
(つづく)

239
外に出ました。


240
ロレンツォ・ロットの作品4点が素晴らしかった。


024
次はマドンナ・デッレ・グラツィエ聖域です。


016
マドンナ・デッレ・グラツィエ聖域です。


015
マドンナ・デッレ・グラツィエ聖域のファサード前に広場がありますが、その広場に「ジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージ記念碑」があります。
ジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージ(イエージ、1710-ポッツォ―リ、1736)は、「奥様女中」などのオペラ作曲家です。有望なオペラ作家として将来が嘱望されていましたが、僅か26歳の若さで夭逝してしまいました。


019
ペルゴレージ生誕200年を記念して、アレッサンドロ・ラッツェリーニ(カッラーラ、1860-1942)に制作依頼された作品(1910)です。


017
この建物の直ぐ近くにサン・ニコロ教会があります。サン・ニコロ教会近くに農家がありましたが、14世紀末、その農家の壁にリッポ・ディ・ダルマシオ(ボローニャ、1360-1410)が「聖母」のフレスコ画を描きました。リッポの「聖母」は次第に近隣の人々の信仰を集めるようになりました。
1448年、「聖母」を収容するために小さな礼拝堂が建設され、Oratorio di Santa Maria Assuntaと名付けられました。


1001
オラトリオが完成した当時、ペストが流行してましたが、1456年頃に流行がようやく終息しました。


018
ペスト流行の終息を記念して、オラトリオを収容して新たに聖域を建設することになりました。そうして、1456年に創建され、1509年に完成したのがマドンナ・デッレ・グラツィエ聖域です。
1486年、Frati Carmelitaniの所有となりました。
カルメル会によって、修道院が1550年から1621年に建設されました。



014
リッポ・ディ・ダルマシオによって描かれた「聖母」は、農家の外壁にあったため、経時劣化が顕著でした。そのため、地元の画家アンドレア・ディ・バルトロによって1470年に制作された「慈悲の聖母」が「聖母」の代わりにされました。
同名のシエナ派の有名な画家がいますが、「慈悲の聖母」の制作者は全くの別人です。


302
18世紀前半、初代の建物は地震と経時劣化によって危険になったため、破壊して、その上に新しい建物の建設が決まりました。
地元の建築家Nicola Maiolatesiに設計、建築が委嘱され、1751年から1756年に再建された後期バロック様式の建物が現在の姿になってます。


304
中に入りました。


1002
単廊式、ラテン十字形、バロック様式の内部です。


308
主祭壇画を見ます。


313
主祭壇画は、二コラ・べルトゥッチ(アンコーナ、1710-1777)の「聖母子と聖人たち」(1759)です。


317
ルイージ・ランチ(ファブリアーノ、1769-イエージ、?)の「天井フレスコ画」(1795-98)


310
暗くてよく見えません。


306
マドンナ・デッレ・グラツィエ礼拝堂です。


1003
Oratorio di Santa Maria Assuntaが前身とされてます。


1004
元々は、リッポ・ディ・ダルマシオの「聖母」があったとされてます。


1005
アンドレア・ディ・バルトロ(イエージ、15世紀後半活動)の「慈悲の聖母」(1470)
リッポ・ディ・ダルマシオの「聖母」は痛みが激しかったので、1470年にこの作品に差し替えられたそうです。


1006
他の作品を見ます。


305
アンジェロ・ソーナの「磔刑像」(1843)


314
ルイージ・マンチーニ(イエージ、1819-1881)の「我に触れるな」(1850)


316
二コラ・べルトゥッチ(アンコーナ、1710-1777)の「受胎告知」(1759)


303
外に出ました。


020
次はサン・ニコロ教会です。写真左端に写っている建物がサン・ニコロ教会です。


1008
サン・ニコロ教会は、ペルゴレージの記念碑近くにあります。


021
サン・ニコロ教会のファサードです。イエージ最古の教会の一つとされてます。


022
12世紀後半に建設されたロマネスク様式のサン・ニコロ教会です。
1219年の文書に、その存在の記録が初めて記載されたそうです。14世紀に一部ゴシック様式に改造されました。


1007
テンプル騎士団の教会でしたが、後にカラメル会の教会になりました。


1009
1798年、ナポレオンの抑圧令によって閉鎖され、フランス軍の倉庫に転用されました。
ナポレオン軍の撤退後、一時期宗教活動が再開されましたが、間もなく閉鎖され、軍関係の倉庫として使用されました。


1010
第二次世界大戦後、荒廃した建物が修復され、イエージ市の所有物件になりました。現在は、展示会、会議室などに使用されてます。


023
身廊外壁


1011
後陣


1012
第二次世界大戦後に修復された後陣


1014


1013


1015
サン・二コラ教会の内部


1016
フレスコ画が僅かに残されてます。


1017


1018
(つづく)

292アレッサンドロ・ティアリーニ(ボローニャ、1577-1668)の「磔刑」(17世紀前半)


1001


294
フィリッポ・リッチ(フェルモ、1679-1764)の「天上の聖母子と聖アポロニアと聖ルイージ」


287
展示室天井の装飾


288
プラチード・ラッザリーニ(ペーザロ、1746-1820)によって1781年から1786年に制作されたフレスコ画


289
私には彫刻の制作者が分かりません。


290
ロココ様式の建物はイタリアでは少ないと思います。


1002


1003
カルロ・マラッタ(カメラーノ、1625-ローマ、1713)の「羊飼いの礼拝」


1004
ジャコモ・デル・ポー(パレルモ、1654-ナポリ、1726)の「聖母子と聖人たち」(1710)


1005
ジャコモ・デル・ポー(パレルモ、1654-ナポリ、1726)の「三位一体」(1710)


1010
ピエトロ・パオロ・アガビティ(サッソフェッラート、1470-クプラモンターナ、1540c)の「聖痕を受ける聖フランチェスコの祭壇画」(1528)
裾絵が付いてます。


1011
聖痕を受ける聖フランチェスコ


1012
裾絵の砂漠の聖ジローラモ


1007
裾絵のご誕生


1006
裾絵のマギの礼拝


1008
裾絵の聖セバスティアーノと聖ロッコ


1009
ピエトロ・パオロ・アガビティ(サッソフェッラート、1470-クプラモンターナ、1540c)の「三聖人(聖フランチェスコ、パドヴァの聖アントニオ、シエナの聖ベルナルディーノ)」


1013
17世紀前半のマルケの逸名画家作「磔刑と聖フランチェスコと聖ドメニコ」(1610c)


1014
逸名画家作「火刑される聖ルチア」(1800-10c)


1015
エミリアの逸名画家作「授乳の聖母と聖ジョヴァンニーノ」(17世紀後半)


1016
フィレンツェの逸名画家作「光悦の聖フランチェスコ」(17世紀)


1017
ドメニコ・グイディ(カッラーラ、1625-ローマ、1701)の「十字架降下」(17世紀後半)
彫刻家として名高いドメニコですが、大変珍しい絵画です。


1018
フランチェスコ・トレヴィサーニ(スロベニア、1656-ローマ、1746)の「洗礼を施す聖フィリッポと聖ピエトロ」


1019
フランチェスコ・トレヴィサーニ(スロベニア、1656-ローマ、1746)の「イリ―デとモーゼ」


1020
ジョヴァンニ・バッティスタ・ランゲッティ(ジェノヴァ、1625-ヴェネツィア、1676)の「聖アグネスの殉教」


1021
アントニオ・グアルディ(グアスタッラ、1796-1865)の「騎馬戦」(1840c)


1022
アントニオ・グアルディ(グアスタッラ、1796-1865)の「砲撃」


1023
アントニオ・ヴィヴィアーニ通称イル・ソルド・ディ・ウルビーノ(ウルビーノ、1560-1620)の「聖フランチェスコ」


1024
二コラ・ディ・マエストロ・アントニオ・ディ・アンコーナ(アンコーナ、1465-1511)の「死せるキリストを支える二天使」(1490c)


1025


1026


1027


1028
ベネデット・テーセイ(イエージ、1898-1953)の「自画像」(1935)


1029
フランチェスコ・ポデスティ(アンコーナ、1800-ローマ、1895)の「四つの肖像画」(1863)


1030
ルイージ・マンチーニ(イエージ、1819-1881)の「自画像」(1837)


1031
ジョヴァンニ・ファツィ(クプラモンターナ、1838-ローマ、1926)の「幼児の肖像」(1890c)


1032
レオポルド・バッティスティーニ(イエージ、1865-リスボン、1936)の「ファーティマ」(1888)
ファーティマはムーア人の姫です。


1033
レオポルド・バッティスティーニ(イエージ、1865-リスボン、1936)の「アラブの戦士」(1887)


1034
レオポルド・バッティスティーニ(イエージ、1865-リスボン、1936)の「静物画」
(つづく)

272ロレンツォ・ロット(ヴェネツィア、1480c-ロレート、1556/1557)の「ご訪問と受胎告知の祭壇画」(1531-32)


1001
イエージのサン・フランチェスコ・アル・モンテ教会のロッキ家礼拝堂にありました。


1002
受胎告知


1003
ご訪問


1004
聖ザッカリア


1005
聖エリザベッタ
聖ザッカリアと聖エリザべッタの子供が聖ジョヴァンニ・バッティスタ(洗礼者聖ヨハネ)です。


1006
聖母マリア


1007


1013


1008
聖母マリアの姉妹


1010


1011


1009


1012


274
ロット作品がある展示室の天井装飾を見ます。


265
フレスコ画が描かれてます。


266
カルロ・パオルッチ(ウルビーノ、1738-ペーザロ、1803)によって1781年から1786年に制作されたフレスコ画です。


267


276
ジョヴァンニ・フランチェスコ・バルビエーリ通称グエルチーノ(チェント、1591-ボローニャ、1666)またはグエルチーノ工房による「聖マリア・マッダレーナと二天使」(17世紀)


1014
グエルチーノ工房作が定説となってます。


278
ジョヴァンニ・バッティスタ・サルヴィ通称イル・サッソフェッラート(サッソフェッラート、1609-ローマ、1685)の「祈る聖母」


1015


283
フランチェスコ・アルバーニ(ボローニャ、1578-1660)の「Teodora Passeri Griziに顕現するパドヴァの聖アントニオ」(1611)


1016
イエージのサン・フロリアーノ教会のグリツィ家礼拝堂にありました。
テオドーラ・パッセリは、詩人アンニーバレ・グリツィ(イエージ、1550-1612)の妻です。


284
ピエル・シモーネ・ファネッリ(アンコーナ、1641-チンゴリ、1708)の「天上の聖母子とアンティオキアの聖マルゲリータ」


286
ミケーレ・ロッカ通称イル・パルミジャニーノ・イル・ジョーヴァネ(パルマ、1670c-ヴェネツィア、1751)の「アレッサンドリアの聖カテリーナ」(18世紀後半)


1017


279
展示室天井の装飾


280
フレスコ画は、プラチード・ラッザリーニ(ペーザロ、1746-1820)によって1781年から1786年に制作されました。


281
私には彫刻の制作者が分かりません。


282


1018
ピーテル・パウル・ルーベンス(ジーゲン、1577-アントウェルペン、1640)の「ヘラクレスとネッサス」(1636c)


1019
カルロ・チニャ―リ(ボローニャ、1628-フォルリ、1719)の「慈愛」


1020


1021


1022


1023
クリストフォロ・ロンカッリ通称イル・ポマランチョ(ポマランチェ、1552-ローマ、1626)の「聖家族と聖ジョヴァンニーノ」(1609)


1024
アントニーノ・サルティ(イエージ、1580-1647)の「聖母子と三聖人(聖アンナ、アレッサンドリアの聖カテリーナ、司教聖人)」


1025
アントニーノ・サルティ(イエージ、1580-1647)の「天上の聖母子と三聖人(聖セバスティアーノ、トレンティーノの聖二コラ、聖ロッコ)」(1628)


1026
(つづく)

260ロレンツォ・ロット(ヴェネツィア、1480c-ロレート、1556/1557)の「聖ルチアの祭壇画」(1523-32)


262
プレデッラ


263
異時同図法によって描かれている珍しいプレデッラです。


264


1001
イエージのサンタ・ルチア同信会がロレンツォ・ロットに注文した作品です。同信会とロットの間で、1523年12月11日に制作契約が結ばれたそうです。契約書が残っているようです。
サン・フロリアーノ教会のサンタ・ルチア礼拝堂に置かれていました。サン・フロリアーノ教会は、1870年に閉鎖され、この作品はマルケ州の所有となりました。1981年のイエージ市立博物館のオープンに合わせて、現在の場所で展示されるようになりました。


1002
執政官(裁判官)の前の聖ルチア


1003
執政官(裁判官)


1004
反駁する聖ルチア


1005
聖ルチア


1006
子供を抑えようとするメイド


1007
聖ルチアを引き留める男たち


1008
聖ルチアを引き留める男たち


1010



1009
主画面とプレデッラがほぼ同じ主題となってます。


1013
向かって左のプレデッラ


1011
母の平癒を祈る聖ルチア


1012
聖アガタの墓に祈る聖ルチア


1014



1015


1016


1018
執政官の前の聖ルチア


1017
刑(売春宿に連行)の宣告をする執政官


1019
売春宿に連行される聖ルチア


1020
牛の力による聖ルチアの連行


1021


1022


1023


1024
ロレンツォ・ロット(ヴェネツィア、1480c-ロレート、1556/1557)の「イエージの受胎告知」(1525)


1025
受胎告知する大天使ガブリエーレ


1026


1027


1028
受胎告知される聖母


1029


270
ロレンツォ・ロット(ヴェネツィア、1480c-ロレート、1556/1557)の「サン・フランチェスコ・アル・モンテの祭壇画」(1525-27)


1030
イエージのミノリ・リフォルマーティ教会(Chiesa di Minori Riformati)にありました。同教会は、1866年に閉鎖され、この作品はマルケ州の財産となりました。
本市立博物館のオープンに伴い、1981年から展示されてます。


1031
聖フランチェスコと聖キアラ


1032
聖ジュゼッペ


1033
聖母


1034
聖ジローラモ


1035
制作年の1526年と記されてます。


269
(つづく)

296廊下です。


297
スタッコ、フレスコで装飾されてます。


298
華美華麗なロココ様式の装飾です。


299


300
全長76メートルの廊下です。


1001
1767年から1770年に制作されたスタッコです。


1002
フレスコ画は、1771年から1779年に制作されました。


1003


1004


1005


1006


1008


1009


1010


1011
絵画の展示室です。


252
ジュリアーノ・ぺレスッティ通称ジュリアーノ・ダ・ファーノ(ファーノ、1490c-アンコーナ、1557)の「天上の聖母子と聖ルチアと聖マリア・マッダレーナ」(16世紀第二四半世紀)


1012


254
ピエトロ・パオロ・アガビティ(サッソフェッラート、1470c-クポラモンターナ、1540c)の「玉座の聖母子と聖ジョヴァンニ・バッティスタとパドヴァの聖アントニオ」(1528)


1013


1014


1015


1016


1017


255
ピエトロ・パオロ・アガビティ(サッソフェッラート、1470c-クプラモンターナ、1540c)の「砂漠の聖ジローラモ」(1500-30c)


1018


1019


256


1020
ロレンツォ・ロットの作品が展示されている部屋です。


1021


258
ロレンツォ・ロット(ヴェネツィア、1480c-ロレート、1556/1557)の「十字架降下」(1512)


1022


1023


1024


1025


1026


1027


1028


1029


1030


257
(つづく)

019前泊地はフォリーニョでした。


275
次の目的地がイエージでした。


279
フォリーニョ駅に向かいます。


001
フォリーニョ駅です。


007
アンコーナ行き快速列車でイエージに向かいます。


026
車内は非常に空いてました。


203
イエージ駅に到着しました。


204
イエージは、人口39,082人(2021年8月31日現在)のマルケ州アンコーナ県にあるコムーネです。


205
イタリアの歴史上、重要な街です。


008
神聖ローマ帝国皇帝フェデリーコ2世(イエージ、1194-フィオレンティーノ・ディ・プーリア、1250)の生誕地として知られてます。


p1001
私にとってのイエージはロレンツォ・ロットに尽きます。
ロレンツォ・ロットは少し前まで私が好きな画家の一人でした。しかし、年を取るに従ってロットの悲しい生涯が気が滅入るようになって、ロット熱が冷めるようになりました。ティツイアーノに匹敵する画才を発揮し、華やかで脚光浴びていたティツィアーノよりもニヒルなロットに肩入れをしていたのでした。


009
イエージの旧市街は城壁によって囲まれてます。


202
駅周辺は店がなく、見所も全くありません。


201
列車の車窓から旧市街がよく見えますが、駅からは見えません。この交差点から旧市街が見えるようになります。


199
城壁と旧市街が見えます。


200
この日のお宿は、城壁の北端にあって駅から少し遠かったので、タクシーでホテルに向かいました。


010
この日のお宿です。


011
街歩きに出発しました。


013
目抜き通りのVia Matteottiです。


012
ロレンツォ・ロット作品が展示されている市立博物館に向かいました。


p1002
市立博物館が置かれているPalazzo Pianettiです。


241
イエージ貴族のピアネッティ侯爵夫人がピアネッティ家の邸宅として建設されたパラッツォです。


242
マルケのカルド―ロ・マリア・ピアネッティの原案に基づき、地元出身の建築家で画家でもあったドメニコ・ルイージ・ヴァレーリ(イエージ、1701-カメリーノ、1770)の設計によって、1748年から1786年に建設されたロココ様式の建物です。


243
1859年に大規模な改修工事が行われ、現在の姿になりました。


301
博物館の入り口


p1003
宮殿と庭園の玄関ホール


p1004


244
中に入りました。


246
大改修工事後、ピアネッティ家は次第に財政悪化に陥り、1891年にパラッツォの一部を賃貸するようになり、それでも財政が改善するには至らず、1901年にTesei家に売却しました。
新たに所有者となったTesei家も財政に苦しみ、パラッツォの一部をイエージ市当局に売却しました。市当局のパラッツォ所有部分は年を経る毎に増え、分割売却が約40年ほど続きました。そうして、1970年代にはイエージ市がパラッツォ全部を所有することになりました。
改修工事を経て、1981年に市立博物館がオープンしました。


245
展示室に入る前に庭園を見ました。


p1005
ロココ様式の庭園です。


p1006
庭園には見るべきものがありません。


247
玄関ホールに戻りました。


248
階段下にイエージ旧市街の模型が置かれてます。


p1008
展示室に向かいます。


p1009
展示室は階上にあります。


p1010
階段の踊り場に浮彫があります。


250
ミケランジェロの浮彫


251
ダンテの浮彫


p1007
ピアネッティ家の紋章
(つづく)

234
ドゥオーモの横にあるサヴォイア広場です。


236
次はサン・フランチェスコの柱廊横にあるサン・フィリッポ教会です。


237
サン・フィリッポ教会です。


p1360
1313年創建ですが、1628年に再建されることになり、ミケーレ・ブーティの設計によって1646年から1649年に再建されました。


238
しかし、1741年の地震によって大きな被害を受けたので、ピエトロ・マリア・ローニの設計によって現在の建物が建設されました。


250
ファサード上部の煉瓦造りの荒々しい部分は14世紀の創建時のものですが、下部は18世紀に建設されました。


p1366
何処となくちぐはぐした感じがするファサードは、上部と下部が建設された時期が異なることから来ています。


239
中に入りました。


246
単廊式、バロック様式の内部です。


247
翼廊がありません。


248
装飾が乏しい天井です。


245
祭壇画を見て回ります。


243
主祭壇画は、セバスティアーノ・コンカ(ガエータ、1680-ナポリ、1764)の「聖フィリッポ・ネリ」(1762)


244
後陣のフレスコ画は、地元の画家ジュゼッペ・マラテスタ(ファブリアーノ、1650-1719)によって制作されました。


240
ジョヴァンニ・バッティスタ・ロレーティ(ファーノ、1686-ファブリアーノ、1760)の「天上の聖家族と聖フィリッポ・ネリ」


241
ジョヴァンニ・マルケージ(ファブリアーノ、1699-1771)の「聖ジュゼッペの死」


242
セバスティアーノ・コンカ(ガエータ、1680-ナポリ、1764)の「法悦の聖マリア・マッダレーナ」


249
外に出ます。


251
サン・フィリッポ教会の横にロッジャがあります。


252
ここについては、既に書きました。


253
ロッジャにもう一度入りました。


254
ロッジャから見たコムーネ広場です。


255
市庁舎の時計塔


256
次はサン・ニコロ教会です。


p1367
サン・ニコロ教会です。


p1368
12世紀にベネデット会によって建設されました。現在の建物は1630年に再建された二代目のものです。


257
次はサンタゴスティーノ教会です。


258
迷いそうになりましたが、見覚えがあるアーチが見えてきたので安心しました。


259
アーチの先にサンタゴスティーノ教会があります。


260
自分の現在地が確認できたので、寄り道しました。


261
道を間違えそうになったので、慌てて教会に行くことにしました。


262
サンタゴスティーノ教会です。


264
扉が閉まっていました。


265
美術館になっているので、開館していると思ったのですが、残念でした。


266
仕方がないので外観だけ見ました。


267
この時間は、教会は閉まってます。


268
教会が開く夕方まで、特にやることがありません。


269
サン・ドメニコ教会に行ってみることにしました。


p1369
サン・ドメニコ教会です。


p1370
ホテルに戻って昼寝をすることにしました。
この辺でファブリアーノ編を終わりにしましょう。


270
(おわり)

131
城壁近くの道を進みます。


132
次はサンタ・マルゲリータ修道院です。


133
サンタ・マルゲリータ修道院は城壁(修道院近くの城壁は取り壊されて現存しません)近くにあります。


134
サンタ・マルゲリータ修道院が写ってます。


135
サンタ・マルゲリータ修道院です。


136
ベネデット会女子修道士のために、1408年に建設された尼僧のためのサンタ・マルゲリータ修道院です。


137
道路に面した建物は、15世紀初頭に建設されたものを17世紀に改造され、現在の姿になりました。


138
修道院の敷地内に入ります。


p1345
修道院の敷地内です。


p1346
広い敷地です。


p1347
今でも尼僧が生活しています。


p1340
教会の方に進みます。


p1344
サンタ・マルゲリータ教会は一般公開されていないようです。


p1343
教会の内部


p1348
聖職者席


p1341
キオストロ


p1342


139
外に出ました。


140
写真左は、サンタ・マリア・デル・ブオン・ジェズ病院だった建物です。


141
アーチの先を右折します。


218
次はサン・ベネデット教会です。


219
教会が見えてきました。


222
サン・ベネデット教会です。


223
1244年、ファブリアーノ市政庁からベネデット会修道士の聖シルヴェストロ・グゥッツォリーニ(ネージモ、1177-ファブリアーノ、1267)に対して、現在、教会が建っている場所が与えられました。


p1349
与えられた土地に、聖シルヴェストロ・グゥッツォリーニによって小さな礼拝堂の建設が開始されました。聖シルヴェストロ・グゥッツォリーニ死後の1287年、奉献式が執り行われ、サンティ・フィリッポ・エ・ジャコモ礼拝堂と命名されました。


220
1290年に修道院が建設されましたが、それに伴い礼拝堂は拡張され、サン・ベネデット教会となりました。
1323年、教区教会になりました。


221
最初の建物が荒廃したので、1590年に再建工事が始まり、1605年に完成し、同年、奉献式が行われました。この二代目の建物が現在の姿です。


p1350
キオストロ


p1339
修道院だった建物は、1861年から学校に改造され、現在に至ってます。


p1351
美術的な見所は、オラツィオ・ジェンティレスキの作品でしょう。


p1352
オラツィオ・ジェンティレスキ(ピサ、1563-ロンドン、1639)の「聖ベネデット」


p1353
オラツィオ・ジェンティレスキ(ピサ、1563-ロンドン、1639)の「聖カルロ・ボッロメオ」


p1354


p1356
主祭壇


p1355
華美な装飾


p1357
バロック様式です。


p1358


p1359


224
教会の前に古い建物があります。(詳細不知)


229
(つづく)

204
タペストリが展示されている部屋です。


205
13点の作品が展示されてます。


p1309
約半数のタペストリは、アレキサンダー大王の逸話が織られてます。


p1310
これらは、フランドルで16世紀から17世紀に織られました。


p1311
何処にあったのか、明らかになってません。しかし、マルケの貴族ステファノ・モンタ―ニ侯爵がこれらのタペストリを所持していましたが、19世紀にファブリアーノのドゥオーモに寄贈しました。
1911年から1913年の間に、ドゥオーモがファブリアーノ市に売却したそうです。


p1312


p1313


p1314


p1315


208
画面が光るので、横から撮った写真です。


p1316
アンドレア・ボスコーリ(フィレンツェ、1560c-1607)の「キリスト降誕」(1600)


p1317
旧サン・ジュゼッペ教会にありました。


p1318
制作者の署名入り


p1319


p1320


p1321


209
オラツィオ・ジェンティレスキ(ピサ、1563-ロンドン、1639)の「ロザリオの聖母」(1613-17)


p1322
サンタ・ルチア教会にありました。


p1323


p1324


p1325


p1326


p1327


211
制作者情報不明の「最後の審判」


212
フランチェスコ・ポデスティ(アンコーナ、1800-ローマ、1895)の「天上界」


213
近代画、現代画も展示されてます。


214
有名画家の作品もあります。


215


p1328
カルロ・マリア・マリア―ニ(ローマ、1931-)の「裸の不滅」(1985)


p1329
アフロ・バサルデッラ(ウーディネ、1912-チェ―リッヒ、1976)の「国旗」(1968)


p1330
ジャコモ・バッラ(トリノ、1871-ローマ、1958)の「エリかの肖像」(鉛筆画)(1932)


p1331
作者の署名


p1332
額縁


p1333
エミリオ・ヴェドヴァ(ヴェネツィア、1919-2006)の「Allegro Natale」(1950)


p1334
ジャコモ・マンズー(ベルガモ、1908-ローマ、1991)の「肘掛け椅子の少女」(1984)


p1335


p1336
ジョルジョ・デ・キリコ(ギリシャ、ボロス、1888-ローマ、1978)の「二頭の馬」(1930)


p1337
署名入り


p1338
外に出ます。


216
外に出たら、ドゥオーモの扉が閉まっていました。
(つづく)

193
ヴェナンツィオ・ダ・カメリーノ(マルケ、1515-1530消息)とピエルジェンティーレ・ダ・マテーリカ(16世紀前半活動)の「天上の聖母子と聖ピエトロと聖パオロ」(16世紀前半)


194
サンタ・マリア・デル・ブオン・ジェズ教会にありました。


195
裾絵


197


198


p1281


p1282


p1283


p1284


p1285


p1276
アントニオ・ダ・ファブリアーノ(ファブリアーノ、1420c-1490c)の「聖母子と聖ジャコモ・マッジョーレと聖アントニオ・アバーテと寄進者」(15世紀後半)


p1277
サン・フランチェスコ・ディ・パオラ教会にありました。


p1278


p1279


p1280


199
16世紀のマルケの逸名画家作「聖母子と四聖人」(16世紀)


p1286
四聖人は、バーリの聖二コラ、聖クレア、聖ピエトロ、聖フランチェスコです。


p1287
サン・ニコロ教会にありました。


p1288


p1289
16世紀の工芸家作「行列の十字架」(1560)


p1290
何処にあったのか、不明です。


p1291


p1292


201
16世紀のマルケの逸名画家作「聖母子と聖パオロとトレンティーノの聖二コラ」


p1293
何処にあったのか、不明です。


p1294


p1295


p1296


p1297


202
16世紀のマルケの逸名画家作「聖母子と四聖人」(16世紀前半)


p1298
四聖人は、聖フランチェスコ、聖ルイージ、ヴィテルボの聖ローザ、聖キアラです。


p1299
旧サン・フランチェスコ修道院にありました。


p1300


p1301


p1302


206
シモーネ・デ・マジストリス(カルダローラ、1538c-1613)の「幼きキリストへの崇拝とトレンティーノの聖二コラとシモーネ・デ・マジストリス」(1570)


p1303
サンタ・マリア・ノーヴァ教会にありました。


p1304


p1305
シモーネ・デ・マジストリスの自画像が描かれてます。


p1306


p1307


p1308
(つづく)

182
ベルナルディーノ・ディ・マリオット(ペルージャ、1497-1566消息)の「聖母子」


180


179
15世紀のマルケの逸名画家作「聖アグネス」


p1249
何処にあったのか、不明です。


p1252


p1250


p1251


185
15世紀のマルケの逸名画家作「聖セバスティアーノ」


p1253
カプリーレのサン・ビアージョ修道院にありました。


p1256


p1254


p1255


183
15世紀のマルケの逸名彫刻家作「聖母子」(15世紀)


1257
サンタ・マリア・デル・ブオン・ジェズ病院にありました。


p1258


p1259


184
15世紀のマルケの逸名彫刻家作「聖母子」(15世紀)


p1260
何処にあったのか、不明です。


p1261


p1262


p1263


186
16世紀のファブリアーノの逸名画家作「ファブリアーノの勝利を祈願するベアータ・ビアンカとベアータ・ルフィーナ」(16世紀)


p1264
サン・ドメニコ教会にありました。


p1265


187
ボケ写真でスイマセン。


p1266
フィリッポ・ダ・ヴェローナ(ヴェローナ、1510-1530消息)の「天上の聖母子と聖ピエトロとバーリの聖二コラ」(1514)


p1267


p1268


p1269


p1270


188
フランチェスコ・メンゾッキ(フォルリ、1502-1574)の「聖母子と聖ジョヴァンニ・バッティスタとトレンティーノの聖二コラ」(1545)


189
ドゥオーモにありました。


190
裾絵


191


192


p1271


p1275


p1272


p1273


1274
制作年が描かれてます。
(つづく)

174
15世紀のマルケの逸名画家作「ロレートの聖母と二聖人」(15世紀後半)


p1213
二聖人は、聖セバスティアーノと聖ロッコです。


p1214
サンタ・マリア・マッダレーナ礼拝堂にありました。


p1215


p1216


p1217


p1218
Maestro dei Magiの「Re Mago」(14世紀後半)


p1219
旧サンタ・マリア・デッラ・ミゼリコルディア教会にありました。


p1220


p1221


p1222
Maestro dei Magiの「聖ジュゼッペ」(14世紀後半)


p1223
旧サンタ・マリア・デッラ・ミゼリコルディア教会にありました。


p1224


p1225


p1226
Maestro dei Beati Becchettiの「悲しみの聖母」(14世紀後半)


p1227
サンタゴスティーノ修道院にありました。


p1228


p1229


p1230
Maestro dei Beati Becchettiの「死せる聖母」(14世紀後半)


p1231
サンタゴスティーノ修道院にありました。


p1232


p1233


175
ビッチ・ディ・ロレンツォ(フィレンツェ、1373-1452)の「玉座の聖母子と聖ジョヴァンニ・バッティスタと聖ジャコモ・マッジョーレ」(15世紀)


p1234
何処にあったのか、不明です。


p1239


p1235


p1236


p1237


p1238


177
ネーリ・ディ・ビッチ(フィレンツェ、1419-1492)の「聖母子と四聖人」(15世紀)


p1240
サン・ヴィットーレ・デッレ・キウーゼ修道院にありました。


p1241
四聖人は、聖ヴェナンツィオ、聖ヴィットーレ、聖フロレンツォ、聖アンドレアです。


p1242


p1243


p1244


178
15世紀のマルケの逸名画家作「聖セバスティアーノ」(15世紀)


p1245
何処にあったのか、不明です。


p1246


p1247


p1248
(つづく)

173
ロレンツォ・ダレッサンドロ・ダ・サン・セヴェリーノ(サン・セヴェリーノ・マルケ、1445/1455c-1503)の「ロレートの聖母」(15世紀末)


p1173
取り壊されて現存しないサン・ジョヴァンニ・デル・カント―ネ教会にありました。


p1174
Maestro dei Beati Becchettiの「磔刑像」(14世紀後半)


p1175
サンタゴスティーノ修道院にありました。


p1176


p1177


p1178


p1179
Maestro dei Beati Becchettiの「死せるキリスト」(14世紀後半)


p1180
サンタゴスティーノ修道院にありました。


p1181


p1182


p1183
Maestro di San Emilianoの「聖母子と聖人たち」(14世紀前半)


p1184
聖人たちは、聖ルチア、アレッサンドリアの聖カテリーナ、聖エミリアーノです。


p1185
スケッジャの旧サン・エミリアーノ修道院にありました。


p1186


p1187
14世紀のファブリアーノの逸名画家作「恵みの聖母」(14世紀後半)


p1188
旧マドンナ・デッラ・ミゼリコルディア教会にありました。


p1189


p1190
Maestro dei Beati Becchettiの「ピエタ」(14世紀後半)


p1191
サンタゴスティーノ修道院にありました。


p1192


p1193


p1194
14世紀のファブリアーノの逸名画家作「四人の男」(14世紀後半)
左上の王冠を被った男がダヴィデと特定されてますが、他の男が誰なのか、特定されていないようです。


p1195
取り壊されて現存しないサン・ジョヴァンニ・デル・カント―ネ教会にありました。


p1196
ダヴィデ


p1197
オッタヴィアーノ・ネッリ(グッビオ、1375-1444)の「葬儀用カッソーネ」(15世紀)


p1198
カッソーネに描かれた絵画がオッタヴィアーノ・ネッリの作品です。


p1199
Maestro dei Magiの「Re Mago」(14世紀後半)


p1200
旧サンタ・マリア・デッラ・ミゼリコルディア教会にありました。


p1203
Maestro dei Magiの「Re Mago」(14世紀後半)


p1206
旧サンタ・マリア・デッラ・ミゼリコルディア教会にありました。


p1204


p1205


p1207
14世紀のファブリアーノの逸名画家作「聖母子と聖アンナ」(14世紀後半)


p1208
聖母子


p1209
聖アンナ


p1210
Maestro dei Beati Becchettiの「聖ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ」(14世紀後半)


p1211
サンタゴスティーノ修道院にありました。


p1212
(つづく)

163
プッチョ・ディ・シモーネ(フィレンツェ、14世紀中頃活動 1362没)の「聖アントニオ・アバーテと信者たち」(1353)


p1141
城壁外にあったサンタントニオ修道院にありました。


p1142
サンタントニオ修道院は閉鎖され、荒廃しています。


p1143
制作者の名前が入ってます。


p1144


p1145


p1146


164
第2室になります。


165
フランチェスコ・ディ・チェッコ・ギッシ別称フランチェスクゥッチョ・ディ・チェッコ・ギッシ(マルケ、1359-1395活動)の「聖母子と四聖人」(14世紀後半)


p1147
フランチェスコ・ディ・チェッコ・ギッシは、アッレグレット・ヌーツィの協力者でした。


p1148
この作品は、ヴェナンツィオのサンタ・マリア・デッラ・ペンニーノ修道院にありました。


p1149


p1150


166
フランチェスコ・ディ・チェッコ・ギッシ別称フランチェスクゥッチョ・ディ・チェッコ・ギッシ(マルケ、1359-1395活動)の「ウミルタの聖母」(1359)


p1151
サンタ・ルチア・ノヴェッラ教会にありました。


p1152


p1153


p1154


p1155


167
フランチェスコ・ディ・チェッコ・ギッシ別称フランチェスクゥッチョ・ディ・チェッコ・ギッシ(マルケ、1359-1395活動)の「天使」


168
Maestro di San Verecondoの「磔刑」(15世紀前半)


p1156
サン・ニコロ教会にありました。


p1157


p1158


p1159


169
Maestro di San Verecondoの「聖母子と二聖人」(15世紀前半)


p1160
二聖人は、聖アゴスティーノと聖ヴェレコンドです。


p1161
サン・ヴェレコンド礼拝堂にありました。


p1162


p1163


170
Maestro del Staffolo(マルケ、1420-1470活動 1474没?)の「聖母子と二聖人」(15世紀中頃)


p1164
Correto d’Esiのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会にありました。


p1165
二聖人は、聖ジョヴァンニ・バッティスタとアレッサンドリアの聖カテリーナです。


p1166


p1167


p1168


172
アントニオ・ダ・ファブリアーノ別名アントニオ・ディ・アゴスティーノ(ファブリアーノ、1420c-1490c)の「聖母の死」(1452c)


p1169
サン・ニコロ教会にありました。


p1170


p1171


p1172
(つづく)

153
展示室に入りました。


154
アッレグレット・ヌーツィ別名アッレグレット・ディ・ヌーツィオ(ファブリアーノ、1315c-1373)の「聖母子」


p1108


p1109
Maestro di Sant’Agostinoの「マラヴァッレの聖グリエルモ」(13世紀後半)


p1111
詳細部分


p1110
旧サンタゴスティーノ修道院にありました。


p1112
ライナルデット・ディ・ラヌッチョ・ダ・スポレート(スポレート、1265-1272活動記録)の「彩色磔刑像」(13世紀後半)


p1113
サンタ・マリア・デル・ブオン・ジェズ礼拝堂にありました。


p1114


p1115


155
アッレグレット・ヌーツィ別名アッレグレット・ディ・ヌーツィオ(ファブリアーノ、1315c-1373)の「聖ジョヴァンニ・バッティスタと聖エレーナ」


156
アッレグレット・ヌーツィ別名アッレグレット・ディ・ヌーツィオ(ファブリアーノ、1315c-1373)の「聖アントニオ・アバーテと聖ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ」


p1116
Maestro di Sant’Agostinoの「磔刑」(13世紀後半)


p1117
旧サンタゴスティーノ修道院にありました。


p1118


p1119
スポレートの逸名彫刻家作「聖母子」(13世紀後半)


p1120
サンタ・マリア・デル・ブオン・ジェズ病院にありました。


p1121


p1123
Maestro di Sant’Agostinoの「修道士たちに教則を授ける聖アゴスティーノ」(13世紀後半)


p1124
旧サンタゴスティーノ修道院にありました。


p1125


158
アッレグレット・ヌーツィ別名アッレグレット・ディ・ヌーツィオ(ファブリアーノ、1315c-1373)の「聖母子と四聖人」(14世紀)


p1126
四聖人は、左から聖マリア・マッダレーナ、聖ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ、聖バルトロメオ、聖ヴェナンツィオです。


p1127
ドゥオーモにありました。


p1128


p1129


p1130


p1131


159
アッレグレット・ヌーツィ別名アッレグレット・ディ・ヌーツィオ(ファブリアーノ、1315c-1373)の「Redentore in trona adorato della Vergine」(14世紀)


p1132
サン・ジョヴァンニ・デル・カント―ネ教会にありました。


p1133
サン・ジョヴァンニ・デル・カント―ネ教会は取り壊されて現存しません。


p1134


160
アッレグレット・ヌーツィ別名アッレグレット・ディ・ヌーツィオ(ファブリアーノ、1315c-1373)の「三聖人」(1375c)


p1135
左からトレンティーノの聖二コラ、聖アゴスティーノ、聖ステファノ


p1136
サンタ・マリア・ノーヴァ教会にありました。


p1137


161
アッレグレット・ヌーツィ別名アッレグレット・ディ・ヌーツィオ(ファブリアーノ、1315c-1373)の「アレッサンドリアの聖カテリーナの神秘な結婚」(14世紀)


p1138
サン・フィリッポ通りにあったタベルナコロでした。


p1140


p1139
(つづく)

130
ドゥオーモのファサードに向かって右にある建物です。


058
サンタ・マリア・デル・ブオン・ジェズ病院だった建物です。


p1095
旧サンタ・マリア・デル・ブオン・ジェズ病院はウンベルト1世広場に面して建ってます。


p1096
15世紀中頃、ファブリアーノ旧市街に幾つかの病院がありました。1456年、聖ジャコモ・デッラ・マルカ本名ドメニコ・ガンガラ(モンテプランドーネ、1393-ナポリ、1476)は、それらの病院を集めて一か所に統合することしました。この場所には、ファブリアーノの有力者の庭園がありましたが、その土地が寄進され、病院が建設されました。


127
1983年まで、病院だった建物は女児孤児院、心理教育施設として使用されました。


128
現在、サンタ・マリア・デル・ブオン・ジェズ病院だった建物は、市立絵画館として使用されてます。


p1107
ファブリアーノの市立絵画館は、市庁舎とPalazzo Chiavelli(現在はジェンティーレ・ダ・ファブリアーノ劇場になってます)内に展示室が設けられ、1862年にオープンしました。
1952年、市立絵画館はPalazzo Vescovileに移転されましたが、1990年に現在の病院だった建物への移転が決定されました。その際、絵画館は閉鎖されました。


p1106
1991年から病院だった建物の改造、修復工事が開始されました。それらの工事完了後の1994年12月に市立絵画館が再オープンしました。
しかし、1997年9月26日の地震によって大きな被害を受け、絵画館は閉鎖されてしまいました。建物の大修復工事を経て、2006年に再開館されました。


p1100
タベルナコロがあります。


p1101
タベルナコロのフレスコ画はMaestro del Staffolo(マルケ、1420-1470活動 1474没?)の「幼きキリストを崇拝する聖母」



126
先ずSantuarioに拝観です。


117
病院付属の礼拝堂が前身ですが、現在は絵画館とは無関係の教会となってます。


118


p1098
病院設立に関する碑文


p1099
ピエタのシノピエ


119
教会の中に入りました。


120


121
「受胎告知」があります。


122
主祭壇


p1097
主祭壇画は、Maestro del Staffolo(マルケ、1420-1470活動 1474没?)の「La Madonna del Buon Gesu」(1460)


124
生憎、ミサ中でした。


125
信者の数が多いとは言えませんが、熱心に祈りを捧げていました。


123
ミサの邪魔をするわけにはいかないので、直ぐに退散することに。


142
ファサード下の柱廊に出ました。


143
次は市立絵画館です。


144
1988年、名称にブルーノ・モラジョリが加わり、ブルーノ・モラジョリ市立絵画館となりました。
ブルーノ・モラジョリ(ファブリアーノ、1905-ローマ、1985)は高名な美術史家で、ナポリ。ローマ、フィレンツェ各大学で教授を務めました。


146
絵画館の入り口です。


145
入口扉上ルネッタにフレスコ画があります。


p1102
Maestro del Staffolo(マルケ、1420-1470活動 1474没?)の「聖母子と聖人たち」


p1103
入館します。


147
ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノの聖母が出迎えてくれます。


148
切符売り場です。


149
一旦中庭に出ます。


151
キオストロに八角形の井戸があります。


p1104
1483年に制作された井戸


p1105


150
展示室に向かいます。


152
展示室は階上にあります。
(つづく)

111
サンタ・クローチェ礼拝堂の続きです。


p1062
Maestro di Verecondo(ファブリアーノとグアルド・タディーノ、15世紀前半活動)の「聖フランチェスコ」と「聖ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタの殉教」


112
ジョヴァンニ・ディ・コッラドゥッチョ(フォリーニョ、1404-1437活動記録)の「聖エレーナ」


p1052


p1053


p1054


p1075
聖具室です。


p1076
サルヴァトール・ローザの作品があるそうです。


p1077
サルヴァトール・ローザの作品が見つかりません。


p1078
聖堂内に戻ります。


p1063
まだ見ていない礼拝堂が幾つかあります。


p1064


p1065
授乳の聖母(14世紀)


p1066


p1067


p1068
次の礼拝堂です。


p1069
ピエタの彫刻があります。


p1070
詳細不知


p1071


p1072


p1073


p1074


p1079
聖体容器


p1080


p1081


p1082


p1083
Presbiterioにある「聖クリストフォロ」


p1084


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p1086


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p1088


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p1090


p1091


p1092


p1093


p1094
教皇ジョヴァンニ・パオロ2世が1991年3月19日に行幸されたことを示す記念碑


064
拝観終了です。


129
外に出ました。
(つづく)

098
次はサン・ロレンツォ礼拝堂です。


097
現在のドゥオーモの建物は1607年から1617年に再建されましたが、サン・ロレンツォ礼拝堂はそれ以前の建物にありました。再建の際、大部分が解体されずに残されました。


101
サン・ロレンツォ礼拝堂のフレスコ画が残されてます。


100
フレスコ画は、アレグレット・ヌーツィ別名アレグレット・ディ・ヌーツィオ(ファブリアーノ、1315c-1373)の「聖ロレンツォの生涯の物語」(1365c)


099
サン・ロレンツォ礼拝堂のフレスコ画は、アレグレット・ヌーツィの代表作と言われてます。


p1124


p1125


p1126


p1127


p1128


p1129


p1130


p1131


p1132


p1133


p1134


p1135


p1136


p1137


p1138


p1139


p1140


113
次の礼拝堂です。


p1142
ジョヴァンニ・フランチェスコ・グエッリエーリ(フォッソンブローネ、1589-ペーザロ、1657)の「キリストの洗礼」


p1143


p1144
次の礼拝堂に進みます。


p1141
サンタ・クローチェ礼拝堂です。


106
サンタ・クローチェ礼拝堂はフレスコ画で一杯です。


p1045
サンタ・クローチェ礼拝堂のフレスコ画は数名の画家によって描かれました。


p1046
アレグレット・ヌーツィ別名アレグレット・ディ・ヌーツィオ(ファブリアーノ、1315c-1373)の「磔刑」


p1047


p1048


p1049


p1050


110
14世紀後半の逸名画家による「羊飼いの礼拝」


p1055


p1056


109
ジョヴァンニ・ディ・コッラドゥッチョ(フォリーニョ、1404-1437活動記録)の「磔刑と聖エレーナ」


p1057


p1058


p1059


p1060


p1061
(つづく)

引き続きドゥオーモの各礼拝堂を見て回ります。
076
グレゴリオ・プレティ(タベルナ、1603-ローマ、1672)の「聖セバスティアーノを介抱する人々」
グレゴリオは、マッティア・プレティの弟です。リベラに師事しました。


077
詳細不知


p1100
次の礼拝堂です。


p1101
この礼拝堂の作品帰属などが全く分かりません。


p1102


077
詳細不知


079
礼拝堂天井


p1103
次の礼拝堂です。


p1104
この礼拝堂はオラツィオ・ジェンティレスキの作品で装飾されてます。


p1105


080
オラツィオ・ジェンティレスキ(ピサ、1563-ロンドン、1639)の「磔刑」


081


p1106


082
オラツィオ・ジェンティレスキ(ピサ、1563-ロンドン、1639)の「キリストの鞭打ち」


085
オラツィオ・ジェンティレスキ(ピサ、1563-ロンドン、1639)の「荊刑のキリスト」


086
オラツィオ・ジェンティレスキ(ピサ、1563-ロンドン、1639)の「園のキリスト」


089
オラツィオ・ジェンティレスキ(ピサ、1563-ロンドン、1639)の「キリストの逮捕」


p1107
次の礼拝堂です。


p1108


p1109


p1110
ジュゼッペ・プーリア(ローマ、1600-1636)の「授乳の聖母と聖人たち」


090


091


092
Presbiterio


p1111


094
主祭壇


p1113
後陣にフレスコ画があります。


p1114
主祭壇画


p1115
主祭壇画は、バッティスタ・フランコ(ヴェネツィア、1510c-1561)の「天上の聖母子と聖人たち」


102


p1116
ジュゼッペ・プーリア(ローマ、1600-1636)の「聖エレーナ」


104


p1117
ジュゼッペ・プーリア(ローマ、1600-1636)のフレスコ画


p1118
ジュゼッペ・プーリア(ローマ、1600-1636)の「聖母戴冠」


105


p1119
次の礼拝堂です。


p1120
最後の晩餐礼拝堂とも呼ばれてます。


095
17世紀の逸名画家作「最後の晩餐」


p1121


096
最後の晩餐礼拝堂天井にある17世紀の逸名画家作「聖母被昇天」


p1122


p1123
(つづく)

219
自分の現在地が漸く分かりました。


128
何のことはない、ドゥオーモの直ぐ傍にいたのです。


059
ファブリアーノのドゥオーモです。


p1084
正式名称は、Basilica Minore e Cattedrale di San Vernazio Martireと言います。ファブリアーノ₌マテーリカ司教区の司教座教会です。


p1085
教会の起源は不明です。
1047年の文書に、この教会の存在が初めて記載されているそうです。
1253年、教区教会となりました。


p1086
14世紀後半、ファブリアーノのPriore Capitolare(支配者)だったGioioso Chiavelliの命によって、建物が拡張されました。
1444年、当時の教皇ニコロ5世(第208代教皇)(サルザーナ、1397-ローマ、1455)は、疫病が流行していたローマを逃れて、ファブリアーノに移ってきました。その際、この教会が教皇の活動拠点となり、整備されました。


062
16世紀末、建物が経時劣化したので、再建されることになりました。建築家で数学者のムツィオ・オッドィ(ウルビーノ、1569-1639)が起用され、ムツィオ・オッディの設計によって、1607年から1617年に再建された建物が現在の姿の原形となってます。1663年に奉献式が執り行われました。


217
1728年、ファブリアーノは単独の独立司教区になったことに伴い、司教座教会に格付けされました。
また、1963年、第261代教皇ジョヴァンニ23世(ソット・イル・モンテ、1881-ローマ、1963 教皇在位:1958-1963)によってBasilica Minoreに格上げされました。


232
右側壁


230
後陣と鐘楼


231
14世紀後半に建設された後陣


233


p1087


p1088
1825年、二代目の古い鐘楼が解体され、19世紀中頃に再建された鐘楼です。


235
ファサード側に戻ります。


061
ファサード前の広場にフォンターナがあります。


p1089
Fontana Adiacente


060
扉が開いていました。拝観します。


063
聖堂内に入りました。


116
単廊式、ラテン十字形、バロック様式の内部です。


115
左右の側壁にそれぞれ5つの礼拝堂があります。


p1090
左右の翼廊にも礼拝堂があります。


p1091
左側壁


p1092
右側壁


123
祭壇画を見て回ります。


066
残念ながら、私には殆どの作品の帰属が分かりません。


065


p1094


067
ご訪問


068
詳細不知


p1095
次の礼拝堂です。


p1096


p1097


070


074


073
礼拝堂右側壁の祭壇画


072
礼拝堂天井のスタッコ彫刻はフランチェスコ・セルヴァの作品です。


071
礼拝堂左側壁の祭壇画


p1098
1959年に制作されたオルガン


p1099
(つづく)

042
柱廊があります。


p1067
柱廊の前には、1291年から1398年に建設されたサン・フランチェスコ修道院教会がありました。
第208代教皇ニコロ5世(サルザーナ、1397-ローマ、1,455 教皇在位:1447-1455)の指示によってサン・フランチェスコ修道院教会の建物に沿って柱廊が建設されることになりました。ニコロ5世の時代に創建されましたが、柱廊の完成は教皇の死後200年以上経った17世紀末となってしまいました。


p1068
柱廊の一部は市庁舎に組み入れられてます。


049
柱廊自体は階上にあります。


056
サン・フランチェスコ修道院教会の建物の殆どは取り壊され現存していません。


p1069
広場に面して建つPalazzo Vescovileです。


054
この建物の後方にドゥオーモがあります。


055
17世紀に建設されました。


p1070
コムーネ広場に面している建物の中で、Palazzo Vescovileは比較的新しい建物になります。


047
Palazzo Podestaです。


057
1255年に建設された、ゴシック様式のPalazzo Podestaです。


050
内部は一般非公開となってます。


p1082
Palazzo Podestaの裏側


p1075
Palazzo Podestaの外壁にあるジェンティーレ・ダ・ファブリアーノの記念碑


p1080
Palazzo Podestaを貫くアーチの通路があります。


p1077
アーチの壁にフレスコ画があります。


p1076
アーチのフレスコ画は痛みと落剝があって、何が描かれていたのか判然としない箇所が殆どです。


p1078
修復されて、この状態です。


p1071
Palazzo Podestaの前にフォンターナがあります。


053
Fontana Sturinaltoと呼ばれてます。


p1072
sturinaltoとは、水を押し上げるという意味です。


p1073
Fontana Sturinaltoは、ヤコポ・ディ・ガロンダロによって1285年に制作されました。
ヤコポは、フォンターナの制作に際して、ペルージャのフォンターナ・マッジョーレを何度も見て参考、模倣したと言われてます。


P1700810
少し脱線してペルージャのフォンターナ・マッジョーレの写真を再掲します。


P1700812
ニコラ・ピサーノ、ジョヴァンニ・ピサーノ兄弟によって1277年から1278年に制作されました。


P1700821
完成直後から大評判となって、その後のフォンターナ制作に大きな影響を与えたと言われてます。


P1700814
ペルージャのフォンターナと比べると、ファブリアーノのものはかなり小規模です。


p1074
ファブリアーノのFontana Sturinaltoに戻ります。
制作されてから何か不具合があったようで、1351年に大修復工事が行われ、現在の形になったそうです。


048
市立劇場です。


p1079
ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノ劇場とも称されてます。


p1081
コムーネ広場を後にします。


p1083
Palazzo Podestaのアーチを潜ります。


218
直ぐにドゥオーモに行くべきでしたが、寄り道をしました。


226
裏道を選んで歩きました。


227
ホテルで貰った地図があるのですが、それを見ないで適当に歩いていたら見事に道に迷いました。


228
自分の現在地が地図上で分からず、大いに難儀しました。


225
(つづく)

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