
シラクーザのドゥオーモ広場です。

広場に面して建ってるのがドゥオーモです。

かって、シラクーザは大司教区でした。その大司教座がこの教会に置かれていたので、Cattedrale Metropolitana della Nativa di Maria Santissimaが正式名称でした。しかし、司教区の見直しによって、シラクーザは普通の司教区に格下げされ、現在の正式名称は旧名からMetropolitanaが外されている様です。

紀元前5世紀に建てられた古代ギリシャのアテナ神殿がこの地にありましたが、キリスト教がローマ帝国によって公認された後、何時しか神殿はキリスト教徒の祈りの場所として転用されるようになりました。
7世紀、神殿の建物を利用しながら教会の建物が建設されましたが、それが前身です。
9世紀、シチリアは侵攻したアラブ人によって徐々にアラブの支配下に置かれるようになりました。878年、この教会はモスクに転用されることになりました。

11世紀になると、シチリアはノルマン人の支配下に置かれましたが、ノルマン王ルッジェーロ1世によって建物が再建されることになり、1093年から1100年にかけて建設されました。

ところが1693年の大地震によって建物は大被害を受けてしまいました。
建物は再度再建されることになり、アンドレア・パルマの設計によって1725年から1753年にかけて建設されたシチリア・バロック様式の建物がほぼ現在の姿になってます。

バロック様式は宗教改革で動揺した教皇庁がカトリック教会の優位性を示すための反宗教改革として発展しました。ところが宗教改革の波がローマに及ばないことがはっきりした17世紀中ごろには、バロック様式は急速に廃れて行きました。

しかし、絶対王政が確立したスペイン、フランス、オーストアリアなどでは王政の優位性を示す手段としてバロック様式が利用され、豪華、華美をより強調した、バロック様式の発展形である後期バロック様式の花が咲きました。シチリアは、絶対王政国家のいわば植民地でしたから、その影響を受けた、シチリア式後期バロック様式が独自の発展を遂げたのです。

シチリア・バロック様式の傑作とされるシラクーザ大聖堂ですが、20世紀になると、その行き過ぎの反省がおこり、パオロ・オルシによって1907年から1910年にかけてアテナ神殿の痕跡を示すように改造工事が行われました。現在の姿はこの改造後のものです。

ファサードの聖母

昼休みなしで朝から夕方まで開いているようです。

三廊式の内部です。

20世紀初頭に行われた改造工事のせいでしょうか、後期バロック様式の派手さが薄められてます。

ギリシャ神殿の列柱を利用したので、華美さよりも重々しさを感じます。

主祭壇と後陣

後陣天井

後陣への立ち入りが禁止されていました。

主祭壇画はアゴスティーノ・シッラ(メッシーナ、1629‐ローマ、1700)の「聖母の誕生」

後陣の右壁にある祭壇画(詳細不明)

後陣の左壁にある祭壇画(詳細不明)

説教壇

説教壇の浮彫

Cappella della Madonna della Neve

アントネッロ・ガジーニの「雪の聖母」

アテナ神殿の柱


歴史の重みを感じさせる列柱です。



アントネッロ・ガジーニの「聖ルチア」(1527)

ドメニコ・ガジーニの「聖母子」(15世紀)

ガジーニ派の無名彫刻家の「アレッサンドリアの聖カテリーナ」(16世紀)

左側廊に彫刻があります。

洗礼盤

ノルマン時代のモザイク


ここは写真禁止だったような・・・・・

サンタ・ルチア礼拝堂です。

イグナツィオ・マラビッティの「聖ルチア」(18世紀)

磔刑の礼拝堂です。この礼拝堂は見逃せません。

アントネッロ・ダ・メッシーナの「聖マルチャーノ」(15世紀)

アントネッロ・ダ・メッシーナ派の無名画家の「聖ゾージモ」(15世紀)

磔刑礼拝堂祭壇

ビザンチン様式の無名画家の「磔刑像」(13世紀)

礼拝堂天井のフレスコ画


「聖ルチアの遺骨」

Cappella del Sacramento

右側廊の奥にある礼拝堂は写真禁止でした。


主祭壇前から見た入口方向です。

外に出ました。

外観よりも聖堂内部の方が落ち着きがありました。

司教館

(おわり)