イタリア芸術を楽しむ

イタリアの魅力を味わい尽くすには、一生に何度旅をすれば足りるだろう。芸術の宝庫にして、歴史の生きた証であるイタリア。 惹き付けて止まない絵画、彫刻、歴史的建造物、オペラなど、芸術の宝庫であるイタリアを楽しむブログです。 記事は一日に一つアップしています。記事の見方ですが、例えば「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その4)」は2017年10月20日にアップしました。各記事にカレンダーが表示されてますが、カレンダー上の2017年10月21日をクリックして頂ければ「ボルゲーゼ美術館の展示作品(その5)」になります。(その3)は2017年10月20日となります。 BY:シニョレッリ

カテゴリ: ローマの教会巡り

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テヴェレ川に架かるファブリチョ橋を渡ってティベリーナ島に向かいます。


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ティベリーナ島からチェスティオ橋を渡ります。


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チェスティオ橋の上から振り返ってティベリーナ島を見たところです。


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チェスティオ橋を渡れば、直ぐにトラステヴェレのピシヌーラ広場に出ます。広場の突き当りに小さな教会の建物が見えますが、それがサン・ベネデット・イン・ピシヌーラ教会です。


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ピシヌーラ広場です。写真右は、14世紀に建設されたPalazzo Matteiです。


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Palazzo Mattei
マッテイ家は、中世の頃、この教会の守護者でしたが、17世紀になると相続人がいなくなってしまい、教会の財政面が困難となりました。


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piscinulaは、ラテン語のpiscinaから派生した単語で、piscinaとは「魚がいる池」という意味だそうです。
広場は、魚市場があった場所で、生きた魚ための池があったのが広場の名称の由来されてます。また、18世紀に、この場所から発掘された遺跡からローマ時代の浴場が発見され、浴場の遺跡の上に魚市場があったことが明らかになりました。


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教会の起源について、文書化されていないので不明とされてます。しかし、幾つかの有力説があるようですが、定説とされるものは一つもないようです。
伝説に拠れば、聖ベネデット・ダ・ノルチャ(ノルチャ、480c‐モンテカッシーノ、547)は、5世紀末にローマに到着し、現在、教会が建っている場所に居を構えて修行に励んだと言われてます。聖ベネデットの死後、間もなくして教会が設立されたとされてます。現教会が発行している資料には、この説が教会の起源として書かれてます。
しかし、聖ベネデットの宗教的評価を高めたいとの意図から、中世の頃に作られたフィクションであるというのが定説になってます。


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教会の建物の基礎部分は8世紀のものであるという確実な証拠があるそうですが、その建物が教会であったかについては不明のようです。
鐘楼の小さな鐘に1069年と刻印されているので、1069年以前に教会が建設されたという説がある一方、他の教会の鐘を転用したという別説があるようです。
1192年の記録に、この教会の存在が初めて記されているそうです。
1386年、教区教会になりました。


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小さな鐘楼は、数あるローマの教会の中で最小と言われてます。


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トラステヴェレのこの地区には貧しい人々が多く住んでおり、教会は絶えず財政面で問題を抱えていましたが、マッテイ家の援助が途絶えると、急速に荒廃が進みました。18世紀前半、機能が停止され廃教会となりました。
19世紀に修復されたものの、機能回復は一時的で、直ぐに宗教活動は停止され、再び忘れられた存在になってしまいました。漸く2007年になって復元されたのです。


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中世のアトリウムだった入口ホールに入りました。


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入口ホール壁の剥離フレスコ「聖母子」(14世紀)


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入口ホール壁の剥離フレスコ



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教会内に入りました。


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教会の構造図
かなり複雑な構造です。


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新しく見える部分は2007年に復元されたからです。


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右側廊方向


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2007年に復元された天井


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主祭壇と後陣


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19世紀初頭に修復されました。
聖母子の下の聖ベネデットは中世のものです。
その左右のフレスコ画は、フランチェスコ・ジャンジャコモ(ローマ、1783‐1864)の「バーリの聖二コラ(左)」、「セバステの聖ビアージョ(右)」(19世紀初頭)


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「聖母子」(14世紀)


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フランチェスコ・ジャンジャコモ(ローマ、1783‐1864)の「聖母戴冠」(19世紀初頭)


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逸名彫刻家作「ジョヴァンニ・デ・プレディス・ディ・タヴェルナの記念碑」(1691)
「聖母子と聖アンナ」(15世紀)


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逸名彫刻家作「司祭アントニオ・ピアペナンジの記念碑」(1720‐30)
フレスコ画は「聖エレーナ(フラヴィア・ジュリア・エレーナ)」(1500c)


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詳細不知


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レオポルド・アンシリオーニ(トリノ、1832‐ローマ、1894)の「玉座の聖母子と聖ベネデットと聖ロレンツォ」(19世紀)


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祭壇画の下に置かれている、逸名彫刻家作「聖ロレンツォ像」(19世紀)


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逸名画家作「カンタベリーの聖アンセルム」(19世紀)
逸名彫刻家作「パドヴァの聖アントニオ」(19世紀)


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13世紀末のフレスコ画


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12世紀のフレスコ画


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13世紀に造られたCappella della Vergine


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礼拝堂の建物は8世紀に建設されたそうです。


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礼拝堂祭壇の「慈悲の聖母」(14世紀)


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ノルチャの聖ベネデットが修行したとされる部屋です。


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コスマテスク様式の床


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コスマテスク様式の床部分は、この教会の創建時のオリジナルとされてます。


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伝説では、聖ベネデットがこの床を歩き回って瞑想に耽ったとされてます。


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床の石ですが、古代ローマ人がエジプト、ギリシャなどから持ってきた石が使用されているそうです。


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柱頭は新しい?


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主祭壇前から見た教会入り口


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外に出ました。


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(この項、おわり)
キリがないのでローマの教会巡りはこれで終わりにします。

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チェンチ川岸通りからサン・パオロ・アッラ・レゴラ通りに入ります。


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この一帯は、アグリッパによって整備されたそうです。


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ローマ時代の家、パラッツォ・スペッキです。


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この時は中に入りませんでしたが、共和制ローマ時代に建てられた、古い構造を持つ建物です。現存する建物の基本構造は3世紀初頭のものです。


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パラッツォ・スペッキを通り過ぎると、直ぐに教会の建物が見えてきます。
写真左の赤茶色の建物は、巡礼者をサポートするために建てられたホスピスです。
この通りの先にスパーダ宮殿、ファルネーゼ宮殿があります。


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サンティッシマ・トリニータ・デイ・ペッレグリーニ教区教会です。
この場所に、14世紀に建設されたサン・ベネデット・デ・アレヌラ教区教会がありました。


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1548年、貧者と病人に救済するための組織「L'Arciconfraternita dell Pellegrini e Convalescenti della Santissima Trinita」が聖フィリッポ・ネリによって設立されました。
その大信心会(Arciconfraternita)の活動拠点は別の場所にありましたが、直ぐに民衆の圧倒的な支持を集めました。
1558年、第223代教皇パオロ4世(在位:1555‐1559)は、大信心会に対して、その活動拠点としてサン・ベネデット・デ・アレヌラ教区教会の永久使用を認めました。それを機に、教会の名称が現称に改称されました。
1559年、大信心会は教会近くの土地を購入して病院ホスピスを建設しました。
1575年の聖年には、18万人の巡礼者がその病院ホスピスを利用しました。


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ファサードに向かって左側にある赤茶色の建物が旧病院ホスピスの一部です。
大勢の巡礼者が病院ホスピスを訪れるようになると、古くて狭い教会の建物では対応が困難になったので、16世紀後半、大信心会は教会の建物の再建を決めました。
建築家マルティーノ・ロンギ・イル・ヴェッキオ(ヴィッジュ1534‐ローマ、1591)の設計によって、1587年創建、1612年に完成し、1616年に奉献された二代目の建物が現在の姿の原形です。この時、ファサードは工事未着工でした。


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建築家ジュゼッペ・サルディ(サンタンジェロ・イン・ヴァード、1680‐ローマ、1753)の設計によって、1722年に完成したファサードです。


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ファサードに、彫刻家ベルナルディーノ・ルドヴィージ(ボローニャ、1693c‐ローマ、1749)の「4福音書記者」の彫刻(1723‐24c)があります。


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下段左の「聖ルカ」


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下段右の「聖マルコ」


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ファサード上段の彫刻は、左から「聖ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ」、「聖マッテオ」


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毎日開く教会なので、拝観が容易です。


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単廊式、ラテン十字形の内部です。


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コリント式列柱が目立ちます。


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1847年から1853年にかけて復元された内部です。


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クーポラは1612年頃に完成しました。


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ジョヴァンニ・バッティスタ・リッチ(ノヴァーラ、1537‐ローマ、1627)によって描かれたクーポラのフレスコ画「4福音書記者」


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クーポラの装飾は19世紀に修復されたものです。


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クーポラ突端の「永遠なる父」は、グイド・レーニの作品ではなく、レーニに触発された逸名画家によって制作されました。


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主祭壇を見ます。


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主祭壇画は、グイド・レーニ(ボローニャ、1575‐1642)の「三位一体」(1625‐26)


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外部サイトから拝借した作品画像


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ヤコブ・コルネリス・コバール(ベルギー、1535?‐ローマ、1615)の「聖マッテオと天使」


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天井画(外部サイトから拝借した作品画像)


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ギョーム・コートイス通称イル・ボルゴニョーネ(フランス、1628‐ローマ、1679)の「幼きキリストを聖フィリッポ・ネリに差し出す聖母」


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バルダッサーレ・クローチェ(ボローニャ、1558‐ローマ、1628)の「煉獄で魂を介抱される教皇グレゴリオ1世」


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逸名彫刻家作「磔刑像」(18世紀)


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Cappella dei Santi Agostino e Francesco


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ジュゼッペ・チェーザリ通称カヴァリエール・ダルピーノ(アルピーノ、1568‐ローマ、1640)の「聖母子と聖アゴスティーノと聖フランチェスコ」


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ジョヴァンニ・バッティスタ・リッチ(ノヴァーラ、1537‐ローマ、1627)の「聖母子と聖ベネデットと聖ジュゼッペ」


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アントニオ・ビアンキ―ニ(ローマ、1803‐1884)の「聖母子と聖人たち」


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バルダッサーレ・クローチェ(ボローニャ、1558‐ローマ、1628)の「グレゴリオ1世」


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主祭壇前から見た出入口方向


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外に出る前に、もう一度主祭壇を見ました。


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グイド・レーニとカヴァリエール・ダルピーノの作品が秀逸です。


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外に出ました。


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(この項、おわり)

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Cappella dei Vignaroliの祭壇画です。
17世紀の逸名画家作「聖母子と聖ジョヴァンニ・バッティスタ」


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アントニオ・チルチニャーニ通称イル・ポマランチョ(ポマランチェ、1560‐ローマ、1620)の「カナの結婚」
通称がイル・ポマランチョと呼ばれた画家は3人いたので、通称だけではなく本名を併記しないと区別できません。


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アントニオ・チルチニャーニ通称イル・ポマランチョ(ポマランチェ、1560‐ローマ、1620)の「ラザロの蘇生」


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後陣左の礼拝堂


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中央礼拝堂(主祭壇)


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この主祭壇画が有名です。


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アントニアッツォ・ロマーノ(ローマ、1430c‐1508c)の「慰めの聖母」


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後陣天井の装飾


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中央礼拝堂左壁にある作品です。  
クリストフォロ・ロンカッリ通称イル・ポマランチョ(ポマランチェ、1552‐ローマ、1626)の「聖母被昇天」


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中央礼拝堂右側壁です。


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クリストフォロ・ロンカッリ通称イル・ポマランチョ(ポマランチェ、1552‐ローマ、1626)の「聖母の誕生」


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後陣右の礼拝堂


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「聖母のイコン」(13世紀)


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パオロ・ガッリナーロの「受胎告知」(2016)
パオロの宗教画は高く評価されているそうです。(事実ですが、私見ではホンマカイナ?)


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ジョヴァンニ・バリオーネ(ローマ、1566‐1643)の「貧者に施す聖パオロ」


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ジョヴァンニ・バリオーネ(ローマ、1566‐1643)の「聖母の神殿奉献」


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「最後の晩餐」だそうです。


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定型的で陳腐な宗教画を脱して、個性的で新しい宗教画の境地を開く傑作だそうです。うーん、そうですか。


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詳細不知


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右の礼拝堂に行きます。


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リヴィオ・アグレスティ通称イル・リッチゥチィーノ(フォルリ、1505‐ローマ、1579)の「聖母子と聖人たち」


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Cappella dei Pastori


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リヴィオ・アグレスティ通称イル・リッチゥチィーノ(フォルリ、1505‐ローマ、1579)の「聖母子」


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Cappella Mattei


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フェデリーコ・ズッカリ(サンタンジェロ・イン・ヴァード、1539‐アンコーナ、1609)の「磔刑」


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フェデリーコ・ズッカリ(サンタンジェロ・イン・ヴァード、1539‐アンコーナ、1609)の「キリストの鞭打ち」


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フェデリーコ・ズッカリ(サンタンジェロ・イン・ヴァード、1539‐アンコーナ、1609)の「ピラトの前のキリスト」


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右側廊


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この礼拝堂は不知です。


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中央礼拝堂前から見た出入口方向です。


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外に出ます。


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教会設立の経緯を知らないと理解が難しい拝観になりそうです。


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(この項、おわり)


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今回はカンピテッリ地区にあるサンタ・マリア・デッラ・コンソラツィオーネ教会を取り上げます。


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ローマ市庁舎です。


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カンピドーリオ広場から崖下の道に下ります。


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モンテ・タルぺオ通りに下りると直ぐにサンタ・マリア・デッラ・コンソラツィオーネ教会の建物が見えます。


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アーチを潜ると、写真右は崖下になります。


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Rupe Tarpeo、タルペーイアの岩です。


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タルぺーイアの岩は、共和制ローマ時代から1550年まで処刑場でした。


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岩のことに触れているのは、教会の歴史と関係があるからです。
タルペーイアの岩の麓に教会があります。


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1385年、ローマ貴族ジョルダネッロ・デリ・アルベリーニは死刑判決を受け、タルペーイアの岩から突き落とされることになりました。
死刑に臨んで、ジョルダネッロは金貨2枚を払って、現在教会が建っている場所に聖母像を置いてもらい、生前の最後を慰めました。
また、当時、聖母像を置いてもらった場所に隣接して病院が建っていました。
15世紀中頃、死刑囚を慰めるためと病院に関係する人々のための信仰の場所として教会が建設されることになり、15世紀後半に工事着工、1506年に完成した慰めの聖母教会です。1470年に奉献されました。
病院とタルペーイアの岩と関係なさそうですが、精神を病んだ病人や回復の見込みがない重病人や伝染力が高い病気に罹患した病人も時に崖上から突き落とされたという忌まわしい事実があるのです。


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1505年、ローマの有力貴族のマッテイ家、コロンナ家、サンタクローチェ家、フランジパネ家によって慈善事業団体「Compagnia di Gentiluomini」が設立され、貧しい人々の救済と病院への資金援助を行いました。
その慈善事業団体は財政が豊かだったので、完成してから年月が経っていない教会の再建を決めました。建築家マルティーノ・ロンギ・イル・ヴェッキオ(ヴィッジ、1534‐ローマ、1591)に建設が委嘱され、マルティーノの設計、工事監督によって1583年から1606年にかけて、バロック様式の建物が再建されました。


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パスクゥアーレ・ベッリ(ローマ、1752‐1833)によって1827年に完成したファサードです。


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預言者イザヤとゼカリアの彫像


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ファサード前の階段は20世紀になって追加されました。
聖ルイージ・ゴンザーガは、教会に隣接する病院(現在は市役所となっています)でペスト患者を救済中に死んだのです。
財政的に豊かな教会だったので、制作費用が高い画家などに祭壇画などを注文した経緯から美術ファンにとっては嬉しい教会です。


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観光客はあまりいません。


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この教会に展示されるようになったのだ!
現代の宗教画が得意な画家パオロ・ガッリナーロです。


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中に入りました。


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三廊式、バロック様式の内部です。


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左右に5つづつの礼拝堂、主祭壇を含めて後陣に3つの礼拝堂があります。


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天井は地味です。


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後陣の装飾


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左側廊


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左側廊の礼拝堂から見て行きます。


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ラッファエッロ・ダ・モンテルーポ(モンテルーポ、1505‐オルヴィエート、1566)の「アレッサンドリアの聖カテリーナの神秘な結婚」(1530)


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ルイージ・カッポーニ(ミラノ、1450c‐1506)の「磔刑」


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パオロ・ガッリナーロの作品を見るのは初めてですが、ビックリしました。


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「大天使聖ミケーレ」ですと!


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詳細不知


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詳細不知


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17世紀の逸名画家作「聖痕を受ける聖フランチェスコ」


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Cappella Sacchiのプレセピオ
「聖痕を受ける聖フランチェスコ」の下にあります。


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Cappella dei Carzoni degli Osti
祭壇画の下半分が切り取られてます。


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フランチェスコ・ナッピ(ミラノ、1565c‐ローマ、1630)の「聖母被昇天」(1620)


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フランチェスコ・ナッピ(ミラノ、1565c‐ローマ、1630)の天井フレスコ画


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フランチェスコ・ナッピ(ミラノ、1565c‐ローマ、1630)の「幼きキリストへの崇拝」


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Cappella dei Pescatori
逸名彫刻家作「この人を見よ」(17世紀)


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マルツィオ・ディ・コラントニオ・ガナッシーニ(ローマ、1560‐1623以降没)の「聖アンドレア」


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マッティア・プレティ(タベルナ、1613‐マルタ、ヴァレッタ、1699)の「聖アンドレアの殉教」


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マルツィオ・ディ・コラントニオ・ガナッシーニ(ローマ、1560‐1623以降没)の「聖ピエトロの逆さ磔」
(つづく)

010
ナツィオナーレ通りです。


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通りに面して建っているサン・ヴィターレ聖堂です。


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ナツィオナーレ通りよりも低い場所に建ってます。長年に渡る土砂の堆積に拠るのか、初期キリスト教会を前身とする教会は現在の地表の高さよりも低い場所に建っていると思います。


011
正式名称は、Basilica dei Santi Vitale e Compagni Martiri in Foveaとなってます。
4世紀、現在聖堂がある場所に聖ヴィターレの二人の息子聖ゲルヴァシオと聖プロタシオに捧げる礼拝堂が建設されましたが、その礼拝堂が前身です。
4世紀後半、礼拝堂は取り壊され、三身廊のバジリカが再建され、402年、第40代教皇インノチェンツォ1世(在位:401‐417)によって奉献式が執り行われました。


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三身廊のバジリカ様式の二代目の建物は、8世紀終わりから9世紀初めにかけてと中世の時代(具体的な世紀は不明)に修復されました。
1475年、第212代教皇シスト4世(在位:1471‐1484)によって再建され、更に1595年、第231代教皇クレメンテ8世(在位:1592‐1602)によって再建されました。修復、再建を繰り返しましたが、二代目の建物の基本部分の一部は今も留めているそうです。
1859年、第255代教皇ピウス9世(在位:1846‐1878)によって、道路から聖堂に下りる階段が追加されると共に内部が大修復されました。
1937年から1938年にかけて入り口などが修復されましたが、現在の姿は、この修復後のものです。


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ファサードの柱廊


013
柱廊の出入り口


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初期キリスト教時代の柱廊が今でも残ってます。


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柱廊から見た階段


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17世紀に制作された木彫りの扉


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柱廊の柱の柱頭


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この部分は古い造りです。


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聖堂内に入ります。


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バジリカ様式風ですが、何処となく新しい感じがします。


050


016
後陣の構造は初期キリスト教会風で、当初はモザイクがあったと思われます。


023
1859年に1595年の再建時の姿に復元された内部です。


022
木の床は1934年のものです。


503
木の天井も1934年のものです。


036
主祭壇と後陣


500
後陣にはモザイクがあったと思います。


039
後陣のフレスコ画は、アゴスティーノ・チャンペリ(フィレンツェ、1565‐ローマ、1630)の「聖ヴィターレの殉教」


035
タルクイニオ・リグスティ(ヴィテルボ、1564‐1621)とアンドレア・コモディ(フィレンツェ、1560‐1638)によって描かれたフレスコ画


037
タルクイニオ・リグスティ(ヴィテルボ、1564‐1621)とアントニオ・コモディ(フィレンツェ、1560‐1638)のフレスコ画


043
アゴスティーノ・チャンペリ(フィレンツェ、1565‐ローマ、1630)のフレスコ画


045
アゴスティーノ・チャンペッリ(フィレンツェ、1565‐ローマ、1630)のフレスコ画


046
タルクイニオ・リグスティ(ヴィテルボ、1564‐1621)のフレスコ画


047
タルクイニオ・リグスティ(ヴィテルボ、1564‐1621)のフレスコ画


048
不知の紋章
祭壇画を見て行きます。


018
ジョヴァンニ・バッティスタ・フィアッメーリ(フィレンツェ、1530‐ローマ、1606)の「聖人たちの告解」


501



020
アンドレア・コモディ(フィレンツェ、1560‐1638)のフレスコ画


021
タルクイニオ・リグスティ(ヴィテルボ、1564‐1621)のフレスコ画


026
ジョヴァンニ・バッティスタ・フィアッメーリ(フィレンツェ、1530‐ローマ、1606)の「殉教聖女たち」


502


028
タルクイニオ・リグスティ(ヴィテルボ、1564‐1621)のフレスコ画


029
タルクイニオ・リグスティ(ヴィテルボ、1564‐1621)のフレスコ画


031
ジョヴァンニ・バッティスタ・フィアッメーリ(フィレンツェ、1530‐ローマ、1606)の「無原罪の聖母」


032
礼拝堂の祭壇


033
タルクイニオ・リグスティ(ヴィテルボ、1564‐1621)のフレスコ画


034
主祭壇と後陣をもう一度見てから外に出ました。


055
(この項、おわり)

051
サン・ベルナルド広場にやってきました。
写真左がサンタ・マリア・デッラ・ヴィットリア広場、写真右がモーゼの噴水です。


242
写真左がサンタ・スザンナ聖堂、右がサンタ・マリア・デッラ・ヴィットリア教会になります。



243
ドメニコ・フォンターナ(スイス、メリデ、1543‐ナポリ、1607)の「モーゼの噴水」(1587)


033
折角来たので、素通りしないで噴水を見ます。


034
巨大なモーゼ像


035
ライオン像を見ながら教会へと進みました。


036
9月20日通りに面して建っているサンタ・マリア・デッラ・ヴィットリア教会です。
1605年、カルメル会がこの場所に教会を新設することを決め、建築家カルロ・マデルノ(カポラーゴ、1556‐ローマ、1629)に設計と建築工事を委嘱して、1608年から1620年に建設されたバロック様式の教会です。当初、聖パオロに捧げる教会で、サン・パオロ教会と呼称されていました。1620年時点では、ファサードは工事着工されていませんでした。
カルロ・マデルノが起用された理由ですが、道を挟んで隣接するサンタ・スザンナ聖堂のファサードをカルロが1597年から1603年にかけて改修したからだという説があります。


037
30年戦争における白山の戦いで、敗色濃厚だったカトリック教徒でしたが、皇帝軍総司令官が首にかけていた「キリストを崇拝する聖母」像が敵を幻惑させる鮮やかな光線が出て、勝利したという伝説から、1622年に改称され、勝利を導いた聖母に奉献する教会になったのです。


241
ファサードは、建築家ジョヴァンニ・バッティスタ・ソリア(ローマ、1581‐1651)の設計によって、1624年から1626年にかけて建設されました。
隣接するサンタ・スザンナ聖堂のファサードから強い影響を受けていると言われてます。


213
ファサードの建設費用を負担したのは、美術品収集で有名なシピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿(アルテーナ、1577‐ローマ、1633)でした。
この教会の建設工事中に古代の大理石彫刻が出土したのですが、それが欲しくなったボルゲーゼ枢機卿はカルメル会と交渉して、大理石彫刻と引き換えにファサードの資金負担をするという条件を出したのです。条件が受け入れられ、ボルゲーゼ家お抱えの建築家ソリアが起用されたという訳です。
ファサードの建築費用は相当高額だった筈ですから驚きです。


038
教会扉横にいる物乞いの縄張りが凄いと聞いたことがあります。


049
最近、観光客に大人気のようで、何時も混雑しています。


039
中に入りました。


217
単廊式、バロック様式の内部です。


041
主祭壇


240
カトリックの優位性を示すために造られた豪華な祭壇です。


220
後陣のフレスコ画ですが、教会内部は1833年の火災によって被害を受けたので、19世紀後半に改めて描かれました。
ルイージ・セッラ(ボローニャ、1846‐1888)の「白山の戦いで勝利したカトリック軍のプラハ入城」(1885)


215
天井のフレスコ画です。
ジョヴァンニ・ドメニコ・チェッリ―ニ(ペルージャ、1609‐ローマ、1681)の「聖母の勝利とプロテスタントの追放」(1675)


244
ジョヴァンニ・ドメニコ・チェッリ―ニ(ペルージャ、1609‐ローマ、1681)の「地獄に追放されるプロテスタント」(1675)


046
クーポラのフレスコ画は、ジョヴァンニ・ドメニコ・チェッリ―ニ(ペルージャ、1609‐ローマ、1681)の「駄天使の落下」(1654‐55)


225
Cappella Cornaro


040
この彫刻だけでも見る価値があります。


218
ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ(ナポリ、1598‐ローマ、1680)の「聖テレーザの法悦」(1651)


245
ベルニーニの最盛期の作品の一つです。傑作です。


214
ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ(ナポリ、1598‐ローマ、1680)の「Parchetti」(1644‐52)


226
Cappella di San Giuseppe
この彫刻をベルニーニの作品と間違える人が多いとか・・・・・


228
ドメニコ・グイディ(とラーノ、1625‐ローマ、1701)の「聖ジュゼッペの夢」


239
見所が多いので目移りしてしまいます。


224
詳細不知


221
オルガン


246
祭壇画を見て回ります。


229
ジョヴァンニ・フランチェスコ・バルビエーリ通称グエルチーノ(チェント、1591‐ボローニャ、1666)の「三位一体」(1642c)


233
グイド・レーニの作品です。


234
グイド・レーニ(ボローニャ、1575‐1642)の「ベルリンギエロ・ゲッシ枢機卿の肖像」(1641)


048
ドメニキーノの作品です。


227
ドメニコ・ザンピエーリ通称ドメニキーノ(ボローニャ、1581‐ナポリ、1641)の「聖母子と聖フランチェスコ」(1630)


230
ドメニコ・ザンピエーリ通称ドメニキーノ(ボローニャ、1581‐ナポリ、1641)の「光悦の聖フランチェスコ」(1630)


231
ドメニコ・ザンピエーリ通称ドメニキーノ(ボローニャ、1581‐ナポリ、1641)の「聖痕を受ける聖フランチェスコ」(1630)


232
ヘラルト・ファン・ホントホルスト(ゲラルド・デッレ・ノッティ)(ユトレヒト、1592‐1656)の「聖パオロの恍惚」(1620)


236
ニコラス・ロライン(シャルマーニュ、1600‐ローマ、1682)の「クローチェの聖ジョヴァンニに顕現するキリスト」(1667c)


237
ニコラス・ロライン(シャルマーニュ、1600‐ローマ、1682)の「クローチェの聖ジョヴァンニの魂を救う聖母」(1667)


238
ニコラス・ロライン(シャルマーニュ、1600‐ローマ、1682)の「クローチェの聖ジョヴァンニの死」(1667)


053
外に出ました。
(この項、おわり)

097
サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂からサンタ・プデンツィアーナ聖堂に向かいました。


100
大聖堂と聖堂は直線距離で約300mくらいなので、徒歩5分ほどで行けます。


101
鐘楼が見えてきましたが、目指すサンタ・プデンツィアーナ聖堂のものです。


102
道路よりも低い場所に聖堂が建ってます。


103
ローマの教会巡り17でサンタ・プラッセ―デ聖堂を取り上げましたが、この聖堂が献堂する聖プデンツィアーナと先に取り上げた聖プラッセ―デは姉妹で、聖プラッセ―デが姉、聖プデンツィアーナは妹と言われてます。
フィリピン人の国立教会となってます。


266
プデンテ元老院議員(聖プデンテ)(ローマ、1世紀‐2世紀)は、現在、この聖堂が建っている場所にドムスを所有していましたが、キリスト教に改宗するとドムス内の目立たぬ場所に教会を建設しました。キリスト教が禁じられていた時代なので、知れは仕方がなかったと思います。
2世紀、伝説に拠れば、プデンテ議員の娘プラッセ―デとプデンツィアーナは、聖ピエトロによって洗礼を受け、キリスト教に改宗しました。


280
マルクス・アウレリウス帝とアントニウス・ピウス帝から出されたキリスト教禁止令に背いて、姉妹は殉教しました。
4世紀頃、聖プデンテのドムスだった場所に建設されたのが、この聖堂です。ローマで最古の初期キリスト教会の一つとされてます。


104
創建された時期ですが、5世紀説など数説あって、起源と創建年について、今なお議論されているようです。


107
4世紀頃、または5世紀頃に創建された建物が、現在の建物の基本構造になってますが、その後に行われた改修や修復によって、外観と聖堂内部は創建時のものとは大きく異なります。
聖堂外観はかなりアンバランスに見えます。ファサードは一見古そうですが、よく見ると新しいものであることが分かります。
現在の外観は、1588年に大きく改修され、1870年に修復復元されたものです。


268
聖プラッセ―デの彫刻


105
ファサードのフレスコ画は色褪せて落剝も認められますが、長年、太陽と風雨にさらされた結果です。実は、ピエトロ・ガリアルディ(ローマ、1809‐フラスカーティ、1890)によって19世紀に修復されたものです。修復と言っても修復前には、フレスコ画の痕跡があるだけだったので、ガリアルディの作品と言っても過言ではないでしょう。


106
彫刻は、11世紀のもので、19世紀に修復されました。


269
ロマネスク様式の鐘楼は13世紀に建設されました。


113
中に入りました。


270
単廊式、バロック様式の聖堂内部です。
元々は三身廊、バジリカ様式の内部でしたが、1588年、柱廊を取り除き、聖歌隊席を撤去し、柱を増加させて強度を増加するために改造したのです。


114
祭壇画を見て行きました。
ジョヴァンニ・パオロ・ロッセッティ(1519‐1586)の「殉教者を悼む聖プデンツィアーナと聖プラッセ―デ」


115
ローマの逸名画家作「聖プデンテを洗礼する聖ピエトロ」(17世紀)


116
アントニオ・タナーリ(ローマ、17世紀中頃活動)の「シエナの聖カテリーナ」


117
アントニオ・タナーリ(ローマ、17世紀中頃活動)の「シエナの聖カテリーナ」


118
制作者情報不知の「大天使ラッファエーレとトビアス」


119
礼拝堂の名称が分かりません。


271
ローマの逸名画家作「クレメンツァの聖母」(1590c)


120
ラッザロ・バルディ(ピストイア、1624c‐ローマ、1703)の「聖母の誕生」


272


133
ラッザロ・バルディ(ピストイア、1624c‐ローマ、1703)の「ご誕生」


273



121
後陣と主祭壇


122
後陣のモザイク(390c)
ローマで最古のモザイクと言われてます。


127
修復の際、修復されなかった聖人の下半身がありません。


274


275
左の女性が聖プデンツィアーナです。


276
聖プラッセ―デ


124
主祭壇後方の3点の作品は、ベルナルディーノ・ノッキ(ルッカ、1741‐ローマ、1812)によって、1807年に制作されました。
左から、「聖ティモテウス」、「聖プデンツィアーナの栄光」、「聖ノヴァトゥス」


123
ニッコロ・チルチニャーニ通称イル・ポマランチョ(ポマランチェ、1530c‐1597c)の後陣フレスコ画


126


130
詳細不知


131
詳細不知


277


278


128
ピエタのモザイク


125
Cappella Caetani


129


112
外に出ました。


135
(この項、おわり)

P1360704
教会はトラステヴェレ地区にあります。
サン・フランチェスコ広場が見えてきました。


P1360705
サン・フランチェスコ・ダッシジ・ア・リーパ教会またはサン・フランチェスコ・ア・リーパ教会です。
リーパの名称は、この教会のファサードの先約200mにテヴェレ川が流れており、ポルテーゼ門からメルカンティ広場にかけてのテヴェレ川岸にPorto di Ripa Grandeと呼ばれる河港がありましたが、それに由来してます。


P1360757
サン・フランチェスコ広場


P1360707
10世紀頃に建てられた小さなサン・ビアージョ・デ・クルテ教会と病院がこの場所にありました。その教会、病院、修道院は巡礼者の宿泊所を兼ねていました。


P1360708
1219年、第177代教皇オノリオ3世(ホノリウス3世)(在位:1216‐1227)に謁見するため、ローマを訪れた聖フランチェスコは、サン・ビアージョの巡礼者宿泊所に泊まったとされてます。
1229年、第178代教皇グレゴリオ9世(在位:1227‐1241)は、聖フランチェスコが宿泊して祈りを捧げたサン・ビアージョ・デ・クルテ教会をOrdine dei frati minori(フランチェスコ会)に与えることを命じました。
それ以降、その教会はローマにおけるフランチェスコ会の活動拠点となりました。
1231年、教会の建物は拡大、修復されましたが、それを機に教会名が改称され、現在の名称となりました。


P1360706
1535年、狭隘で老朽化した建物を取り壊して、その上に新しい建物の再建が決まり、建築家で画家のバルダッサレ・ぺルッツィ(シエナ、1481‐ローマ、1536)に設計と建築が委嘱されましたが、その翌年にペルッツィが死んでしまったので、計画が頓挫してしまいました。ペルッツィの設計が豪華過ぎて、フランチェスコ会の清貧に相応しくなかったとの頓挫の別説があります。
再建工事が中々進捗しませんでしたが、1603年、改めて建築家オノリオ・ロンギ(ヴィッジ、1568‐ローマ、1619)に設計が依頼され、1656年、一応の完成を見ました。
しかし、ファサードは未完成であり、その他の部分も不完全だったので、17世紀後半に建築家マッティア・デ・ロッシ(ローマ、1637‐1695)に建物の完成が委嘱され、1701年、漸く完成しました。
ファサードは、マッティア・デ・ロッシの設計によって、1682年から1689年にかけて建設されました。


P1360709
中に入りました。


P1360711
三廊式、ラテン十字形、バロック様式の内部です。


P1360710
この教会における、美術面での最大の見所はベルニーニの彫刻でしょう。


P1360712
装飾が殆ど施されていない天井


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主祭壇の彫刻:フラ・ディエゴ・ダ・カレリの「天使に支えられる光悦の聖フランチェスコ」(1588以前)


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磔刑の礼拝堂


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シモン・ヴーエ派逸名画家の「天上の聖フランチェスコ」(17世紀前半)


P1360718
詳細不知


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詳細不知


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ステファノ・マリア・レニャーニ(ミラノ、1660‐ボローニャ、1715)の「三位一体と聖家族」(1685)


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ジョヴァンニ・バッティスタ・リッチ通称イル・ノヴァーラ(ノヴァーラ、1537‐ローマ、1627)の「エジプトへの逃避」


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ステファノ・マリア・レニャーニ(ミラノ、1660‐ボローニャ、1715)の「エジプトへの逃避途中の休息」


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ジュゼッペ・バルトロメオ・キアーリ(ローマ、1654‐1733)の「アルカンタラの聖ピエトロとバイロンの聖パスクゥアーレ」


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うわっ、グイド・レーニの作品だ!!


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暫し注視しました。
資料がないので、作品帰属が不明ですが、私の観ではグイド・レーニ作品のコピー画と思います。


2
こちらがグイド・レーニ作「大天使聖ミケーレ」の作品画像です。(外部サイトから拝借しました)
本物は、バルベリーニ近くの骸骨寺(ここにはカラヴァッジョ作品もあります)にあります。


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ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ(ナポリ、1598‐ローマ、1680)の「ベアータ・ルドヴィーカ・アルベルト―ニ像」(1671‐75)


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バルニーニ晩年の作品です。


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ジョヴァン・バッティスタ・ガウッリ通称イル・バチッチョ(ジェノヴァ、1639‐ローマ、1709)の「ベアータ・ルドヴィーカ・アルベルト―ニに顕現する聖母子」


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詳細不知


P1360739
詳細不知


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フランチェスコ・サルヴィアーティ(フィレンツェ、1510‐ローマ、1563)の「受胎告知」(1534c)


P1360743
非常に良い。


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ジョヴァンニ・バッティスタ・リッチ通称イル・ノヴァーラ(ノヴァーラ、1537‐ローマ、1627)とクリストフォロ・グレッピ(コモ、?‐ローマ、1590c‐1635記録)の「父なる神と音楽天使たち」(1617‐20)


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マールテン・デ・フォス(アンヴェルサ、1532‐1603)の「無原罪の御宿リ」(1555c)


P1360751
アントニオ・デッラ・コルニア(ミラノ、1584c‐ローマ、1654)の「聖母被昇天」


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シモン・ヴーエ(パリ、1590‐1649)の「聖母の誕生」


P1360755
外に出ました。
ベルニーニとサルヴィアーティの作品が心に残りました。


P1360758
(この項、おわり)

P2400709
バルベリーニ宮に向かってクアットロ・フォンターネ通りを進むと、クイリナーレ通りの交差点左横にサン・カルロ・アッレ・クアットロ・フォンターネ教会があります。


P2410551
交通量の激しい交差点にあるので、写真を撮るのが大変です。


P2100615
17世紀初頭、教会が建っている土地の一部をマッテイ家が買い取りました。
この教会とは関係ありませんが、マッテイ家はカラヴァッジョのパトロンで、1601年頃、カラヴァッジョはマダーマ宮からマッテイ家の邸宅に移り住みました。
マッテイ家が買い取った土地に、1611年、スペインの三位一体修道会が小さな礼拝堂を建設しました。この礼拝堂が現在の教会の前身です。


P2110558
礼拝堂建設から数年後、三位一体修道会は、小さな礼拝堂を取り壊し、本格的な教会を建設することに決め、1630年頃、近隣の土地を購入しました。
教会建設については、フランチェスコ・バルベリーニ枢機卿が推進していましたが、1634年、バルベリーニ枢機卿からフランチェスコ・ボッロミーニ(ビッソーネ、1599‐ローマ、1667)に教会建設が依頼されました。


P1560451
1638年に創建され、1641年に一応の完成をみました。1646年に奉献式が執り行われました。
しかし、バルベリーニ家の資金援助が続かず、本堂以外の部分やファサードなどの建設は、資金不足のため中々進捗しませんでした。


P1560394
ファサードの建設は、フランチェスコ・ボッロミーニ(ビッソーネ、1599‐ローマ、1667)の設計によって、1664年に漸く着工されましたが、1667年にボッロミーニが自殺してしまい、ファサード建設は中断してしまいました。
フランチェスコの甥のベルナルディーノ・ボッロミーニが1670年にファサード建設を引き継ぎ、1680年に漸く完成しました。


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ファサード上部の左右に置かれた三位一体修道会の十字架


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ファサードの壁龕の彫刻は、エルコーレ・アントニオ・ラッジ通称イル・ロンバルド(ヴィ―コ・モルコテ、1624‐ローマ、1686)の聖ジョヴァンニ・デ・マサ、聖カルロ・ボッロメオ、聖フェリーチェ・ディ・ヴァロア


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ファサードのモザイク


P1560393
身廊外観
ここで、教会の名称となった、交差点の四隅にあるフォンターナを見ておきましょう。


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ドメニコ・フォンターナ(スイス、メリーデ、1543‐ナポリ、1607)の「女神ジュノ」


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ピエトロ・ダ・コルトーナ(コルトーナ、1596‐ローマ、1669)の「女神ディアナ」


222



223


221
ドメニコ・フォンターナ(スイス、メリーデ、1543‐ナポリ、1607)の「テヴェレ川」


220
ドメニコ・フォンターナ(スイス、メリーデ、1543‐ナポリ、1607)の「アニアニ川」


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中に入りました。


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左右非対称です。


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限られた狭い土地の有効利用という点から、少し変な形状をしています。
ここで簡単な教会図を載せておきましょう。


1
本堂は楕円形です。


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縦20m×横12m


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楕円形の天井


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三位一体修道会の紋章


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主祭壇


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主祭壇画は、オラツィオ・ボルジャンニ(ローマ、1574‐1616)の「三位一体と聖カルロ・ボッロメオの礼拝」


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詳細不知
この教会の作品帰属が殆ど分かりません。


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プロスペロ・マッレリーニ(ローマ、18世紀末‐19世紀第1四半世紀活動)の「Estasi di San Giovanni Battista della Concezione」(1819)


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アマ―リア・デ・アンジェリス(ローマ、1851‐1871活動)の「Estasi di San Michele dei Santi」(1847)


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キオストロ


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詳細不知


P1560421


P1560446
クリプタに行きます。


P1560438
クリプタ


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クリプタのフレスコ画


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祭壇前飾り


P1560444


P1560445
本堂内に戻ります。


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詳細不知


P1560425
詳細不知


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聖具室?に行きます。


P1560429
詳細不知


P1560432
詳細不知


P1560433


P1560436
詳細不知


P1560437


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出入口方向


P1560455
外に出ました。


P1560457
(この項、おわり)

ローマにおける各国の教会があるのですが、日本国の教会はサンタ・マリア・デッロルト教会なんです。
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トラステヴェレにあるサンタ・マリア・イン・カッペッラ教会を通り過ぎれば、目指すサンタ・マリア・デッロルト教会は直ぐ傍にあります。


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アニシア通りとマドンナ・デッロルト通りの交差点に教会の建物が見えてきました。サンタ・マリア・デッロルト教会 Chiesa di Santa Maria dell'Ortoです。


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教会が建っている場所は菜園でした。菜園の入り口横に聖母像が立っていました。
伝説に拠れば、1488年頃、不治の病に苦しむ男が病の治癒を聖母像に祈願したところ、奇跡が起こって次第に回復して、やがて完治したのです。
男は、ご利益のある聖母像に感謝するため、「大学」と呼ばれる芸術と工芸のギルドから資金援助を受け、菜園入り口に小さな礼拝堂を建てました。


P1360605
その話を聞いた第214代教皇アレッサンドロ6世ボルジア(在位1492‐1503)は、1492年に教会の建設を許可しました。1494年、ローマの逸名建築家の設計によって創建されましたが、資金不足のため、工事が中々進捗せず、1513年に工事中断の已むに無き至りました。
12の「大学」と呼ばれるギルドが資金負担をして、1523年に工事が再開され、1567年に完成したルネサンス様式の教会です。


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ファサードは、ヤコポ・バロッツィ通称イル・ヴィニョーラ(ヴィニョーラ、1507‐ローマ、1573)の設計に基づき、建築家フランチェスコ・カプリアーニ・ダ・ヴォルテッラ(ヴォルテッラ、1535‐ローマ、1595)の工事監督によって1576年から1578年に建設されました。


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中に入りました。


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教会内部は、ミケランジェロの弟子グイデット・グイデッティ(フィレンツェ、?‐ローマ、1595)の設計によって1555年から1559年にかけて建設されました。


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三廊式、ラテン十字形、ルネサンス、バロック様式の内部です。


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身廊天井


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ガブリエーレ・ヴァルヴァッソーリ(ローマ、1683‐1761)のスタッコ彫刻(1750c)


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ジャチント・カランドルッチ(パレルモ、1646‐シチリア、1707)の天井フレスコ画「聖母被昇天」


P1360615
Cappella dell'Annunciazione


P1360618
フェデリーコ・ズッカリ(サンタンジェロ・イン・ヴァード、1539‐アンコーナ、1609)の「受胎告知」(1561)


P1360624
フィリッポ・ズッケッティ(ローマ、1648‐1712)の「アレッサンドリアの聖カテリーナの神秘な結婚」(1711)


P1360628
Cappella dei Santi Giacomo, Bartolomeo e Vittoria


P1360630
三牧樺ず子の「ベアート・ジュリアーノ中浦の肖像」(2009)
三牧樺ず子さんは、長崎在住の聖画家です。殉教した日本人福者の肖像画188点を仕上げたことで有名です。


P1360631
ジョヴァンニ・バリオーネ(ローマ、1566‐1643)の「聖母子と聖人たち」
カラヴァッジョ、オラツィオ・ジェンティレスキなどを訴えた「バリオーネ裁判」で有名なジョヴァンニ・バリオーネですが、彼の作品が多くあるのがこの教会です。


P1360635
ジョヴァンニ・バリオーネ(ローマ、1566‐1643)の「聖アンドレアの殉教」


P1360633
ジョヴァンニ・バリオーネ(ローマ、1566‐1643)の「司祭聖人の殉教」


P1360637
ジョヴァンニ・バリオーネ(ローマ、1566‐1643)のCappella dei Santi Giacomo, Bartolomeo e Vittoriaの天井フレスコ画


P1360639
アンドレア・プロカッチーニ(ローマ、1671‐スペイン、1734)の「聖霊降臨」(1704)
レオナルド・レッティのスタッコ彫刻「天使」


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Cappella dei Santissimo Crocifisso
17世紀の木製磔刑像


P1360641
ジャチント・カランドルッチ(パレルモ、1646‐シチリア、1707)の「キリストの復活」


P1360642
ニッコロ・マルティネッリ通称イル・トロメッタ(ペーザロ、1535‐ローマ、1611)の「キリストの受難の物語」(1591‐95)


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フルタローリ大学の碑板(1747)


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主祭壇


P1360652
ガブリエーレ・ヴァルヴァッソーリ(ローマ、1683‐1761)による後陣のスタッコ彫刻


P1360655
ジャコモ・デッラ・ポルタ(ポルレッツァ、1532‐ローマ、1602)による主祭壇(16世紀後半)


P1360654
タッデオ・ズッカリ(サンタンジェロ・イン・ヴァード、1529‐ローマ、1566)とフェデリーコ・ズッカリ(サンタンジェロ・イン・ヴァード1539‐アンコーナ、1609)の「聖母の物語」のフレスコ画


P1360655


P1360656


P1360657


P1360658
後陣天井のフレスコ画


P1360660
ジャチント・カランドルッチ(パレルモ、1464‐シチリア、1707)の「聖母被昇天」


P1360661
Cappella di San Francesco


P1360663
祭壇の「磔刑像」は、17世紀の逸名彫刻家の作品です。


P1360662
Cappella di San Francescoの天井フレスコ画:マリオ・ガルツィ(ローマ、17世紀後半‐18世紀前半活動)の「聖フランチェスコの栄光」(1721)


P1360666


P1360664
ニッコロ・マルティネッリ通称イル・トロメッタ(1550‐1622)の「聖フランチェスコの生涯の物語」


P1360665
ニッコロ・マルティネッリ通称イル・トロメッタ(1550‐1622)の「聖フランチェスコの生涯の物語」


P1360668
Cappella dei Santi Carlo Borromeo, Ambrogio e Bernardino da Siena


P1360670
ジョヴァンニ・バリオーネ(ローマ、1566‐1643)の「聖母子と聖人たち」(1640‐41)


P1360672
ジョヴァンニ・バリオーネ(ローマ、1566‐1643)の「聖アンブロージョの物語」


P1360675
ジョヴァンニ・バリオーネ(ローマ、1566‐1643)の「聖カルロ・ボッロメオの物語」


P1360677
ジョヴァンニ・バリオーネ(ローマ、1566‐1643)の天井フレスコ画


P1360679
Cappella di San Giovanni Battista


P1360680
レオナルド・レッティ(コモ、1630c‐ローマ、1714)のスタッコ彫刻


P1360683
コッラード・ジャクイント(モルフェッタ、1703‐ナポリ、1766)の「キリストの洗礼」(1750)


P1360684
ジュゼッペ・ラヌッチ(ローマ、18世紀後半活動)の「聖ジョヴァンニ・バッティスタの斬首」(1779)


P1360687
ジュゼッペ・ラヌッチ(ローマ、18世紀後半活動)の「聖ジョヴァンニ・バッティスタの説教」(1779)


P1360690
Cappella di San Sebastiano
祭壇画:ジョヴァンニ・バリオーネ(ローマ、1566‐1643)の「天使に介抱される聖セバスティアーノ」(1624)


P1360694
Cappella di San Sebastiano
ジョヴァンニ・バリオーネ(ローマ、1566‐1643)の「パドヴァの聖アントニオ」


P1360692
Cappella di San Sebastiano
ジョヴァンニ・バリオーネ(ローマ、1566‐1643)の「聖ボナヴェントゥーラ」


P1360697
ジョヴァンニ・バリオーネ(ローマ、1566‐1643)の天井フレスコ画


P1360698
祭壇をもう一度見ました。


P1360701
左側廊


P1360702
右側廊


P1360649
出入口方向


P1360703
外に出ました。
(この項、おわり)

066
コロンナ宮殿が見えてきました。


067
コロンナ宮殿に隣接して建っているのが、サンティ・ドーディチ・アポストリ聖堂 Basilica dei Santi Dodici Apostoli (12使徒聖人聖堂)です。


119
4世紀、第35代教皇ジュリオ1世(在位:337‐352)によって、現在の場所に建設されたユリア聖堂が前身です。6世紀に再建されました。
聖フィリッポと聖ジャコモ・ミノーレの聖遺物があります。


068
1348年、地震によって二代目の建物が倒壊してしまい、三代目の建物が建設されることになりました。工事が着工されたものの、中々進捗しませんでした。
隣接するコロンナ家と同家出身の第206代教皇マルティーノ5世(在位:1417‐1431)によって、工事が進められ、15世紀に教会として使用可能な状態になりました。


120
ファサード下の柱廊は、15世紀に建設されました。


118
しかし、三代目の建物は中々完成しませんでした。
第243代教皇クレメンテ11世(在位:1700‐1721)は、1702年、完成を期して建築家フランチェスコ・フォンタナ(ローマ、1668・カステル・ガンドルフォ、1708)を起用して、早期完成を命じました。ところが、フランチェスコは体調を崩して任に堪えられない状態になったので、フランチェスコの父で建築家カルロ・フォンタナ(スイス、1638‐ローマ、1714)に引き継がれました。しかし、カルロも体調を崩してしまったので、1712年、教皇クレメンテ11世は、建築家二コラ・ミケッティ(ヴェネツィア、1675‐ローマ、1758)を起用したのです。
完成後の姿を見たいとのクレメンテ11世の願いは叶わず、同教皇の死後の1724年に漸く完成しました。献堂式は1724年に執り行われました。
柱廊上の新古典様式のファサードは、ジュゼッペ・ヴァラディエールの設計によって19世紀前半に建設されました。


069
ファサード下の柱廊です。


070
柱廊には、墓碑、碑文、墓石、彫像など聖堂所縁のものが置かれてます。


115
柱廊に置かれた彩色磔刑像(詳細不知)


116
主入り口左右に置かれたライオン像(1190c)


117
1348年の地震によって倒壊した二代目の建物の入り口にあったとされるライオン像です。


489
アントニオ・カノーヴァ(ポッサーニョ、1757‐ヴェネツィア、1822)の「ジョヴァンニ・ヴォルパートの墓碑」(1807)


111
聖堂内に入りました。


073
左右の側壁にそれぞれ3つの礼拝堂があります。


110
如何にもバロック様式と思わせる天井装飾です。


490
ジョヴァンニ・バッティスタ・ガウッリ通称バチッチョ(ジェノヴァ、1639‐ローマ、1709)の天井フレスコ画「聖フランチェスコの秩序の勝利」(1707)


092
主祭壇


094
主祭壇にミーノ・ダ・フィエゾレの彫刻があります。


095
主祭壇画は、ドメニコ・マリア・ムラトーリ(ヴェドラーナ、1662‐ローマ、1744)の「聖フィリッポと聖ジャコモ・ミノーレの殉教」(1713‐17)


097
後陣のフレスコ画
この場所に、メロッツォ・ダ・フォルリの有名なフレスコ画がありました。剥がされた状態の良いものはヴァティカン絵画館で展示されてます。


P2130842
ご参考までにヴァティカン美術館で展示されているフレスコ断片を載せておきましょう。


P2130829


P2130833


P2130838


P2130794
道草はこのぐらいにしておきましょう。


077
礼拝堂の祭壇画を見て回ります。


078
ニッコロ・ラピッコーラ(クロトーネ、1730‐ローマ、1790)の「聖母と聖ボナヴェントゥーラとベアート・アンドレア・コンティ」(1775)


080
アントニアッツォ・ロマーノ(ローマ、1430/1435c-1508)の「聖母子」(15世紀)


491
外部サイトから拝借した作品画像


085
Cappella dell'Imamacolataの祭壇画:コッラード・ジャクィント(モルフェッタ、1703-ナポリ、1766)の「無原罪の聖母と天使たち」(1749-50)


089
Cappella di San Antonioの祭壇画:ベネデット・ルーティ(フィレンツェ、1666-ローマ、1724)の「幼きキリストを崇めるパドヴァの聖アントニオ」(18世紀)


088
Cappella di San Antonioのクーポラのフレスコ画:ジュゼッペ・ナシーニ(カステル・デル・ピアーノ、1657-シエナ、1736)の「聖アントニオの栄光」(18世紀)


090
詳細不知


091
詳細不知


099
Cappella di San Francescoの「聖母子」(詳細不知)


492


102
Cappella di San Francescoの祭壇画:ジュゼッペ・バルトロメオ・キアーリ(ローマ、1654-1727)の「聖フランチェスコと天使たち」(1727)


104
ジュゼッペ・カデス(ローマ、1750-1799)の「コペルティーノの聖ジュゼッペの光悦」


108
フランチェスコ・マリーノの「十字架降下」(18世紀)


493
アントニオ・カノーヴァ(ポッサーニョ、1757-ヴェネツィア、1822)の「教皇クレメンテ14世のモニュメント」(1789)


109
詳細不知


112


113
外に出ます。


121
(この項、おわり)

078サンタ・プラッセ―デ聖堂は、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂の近くにあります。


257
サンタ・プラッセ―デ聖堂 Basilica di Santa Prassedeです。ファサード側の出入り口は、通常使用されていないようです。
元老院議員プデンテは、この場所にヴィッラを所有していました。プデンテは、キリスト教に改宗し、家の一部ドムスを教会に転用しました。やがてプデンテの二人の娘プラッセ―デとプラッセ―デの妹プデンツィアーナもキリスト教徒になりました。


258
伝説に拠ると、プデンテ家のヴィッラの地下に、教皇ピオ1世の承認のもとに洗礼堂が142‐145年に建設されました。その洗礼堂で多くのローマ市民が洗礼を受け、キリスト教徒になりました。
165年、ヴィッラに匿われていた信者と共にプラッセ―デがローマ兵士に発見され、殉教しました。
プラッセ―デの遺体はヴィッラの井戸に葬られました。
720年、プラッセ―デの遺体を聖遺物にする小さな教会が建設され、817年に教皇パスクゥアーレ1世によって拡張改修されましたが、その建物が現在の姿の原形となってます。


259
Via San Martino ai Monteに面して、聖堂の入り口が設けられてます。


075
普通の建物に入り口があるので、目立たないと思います。


260
Via Santa Prassedeに面した出入り口です。


074
聖堂の名称と同じ名前の通りにあるので、この出入り口を利用するのが良いと思います。


033
住宅に隣接して聖堂があって、ファサードが目立たぬ場所にあり、しかもファサード側の入り口は閉まっていることが多いので、初めて行く方は要注意です。


034
堂内に入りました。


036
13世紀に行われた改修によって、アーチを支える柱が設けられました。


035
翼廊がない三廊式です。
その後に行われた改修によってバロック様式が色濃い内部となってます。


037
格子天井


038
アゴスティーノ・チャンペッリ(フィレンツェ、1565‐ローマ、1630)の「キリストの鞭打ち」


039
バルダッサレ・クローチェ(ボローニャ、1558‐ローマ、1628)の「荊刑のキリスト」


040
ジョヴァンニ・バルドゥッチ通称イル・コスチ(フィレンツェ、1560‐ナポリ、1600)の「殉教聖女」


261
主祭壇と後陣


065


067


041
9世紀に制作されたモザイク


042
ビザンチンの影響が強いモザイクです。


043
主祭壇画は、ドメニコ・マリア・ムラトーリ(ブドリオ、1661‐ローマ、1744)の「聖プラッセ―デ」(18世紀前半)


044
Cappella San Zenoのモザイク「聖母子と聖プラッセ―デと聖プデンツィアーナ」


049
Cappella Cesi


050
グリエルモ・コルテーゼ通称イル・ボルゴニョーネ(スペイン、1621‐ローマ、1676)の「マギの礼拝」


263
外部サイトから拝借した「マギの礼拝」


051
グリエルモ・コルテーゼ通称イル・ボルゴニョーネ(スペイン、1621‐ローマ、1676)の「聖母の誕生と聖ジョアッキーノ」


264
外部サイトから拝借した「聖母の誕生と聖ジョアッキーノ」


052
詳細不知


053
アゴスティーノ・チャンペッリ(フィレンツェ、1565‐ローマ、1630)の「ピラトの前のキリスト」


054
Cappella di San Carlo Borromeo
祭壇画は、ステファノ・パッロチェル(アヴィニョン、1696‐ローマ、1775)の「キリストの磔刑像を崇める聖カルロ・ボッロメオ」


056
ルドヴィーコ・スターン(ローマ、1709‐1777)の「瞑想の聖カルロ・ボッロメオ」


057
ルドヴィーコ・スターン(ローマ、1709‐1777)の「天使に支えられる光悦の聖カルロ・ボッロメオ」


058
フェデリーコ・ズッカリ(サンタンジェロ・イン・ヴァード、1539‐アンコーナ、1609)の「カルヴァリオへの上り」


265
外部サイトから拝借した作品画像


059
ジュゼッペ・チェーザリ通称カヴァリエール・ダルピーノ(アルピーノ、1568‐ローマ、1640)の「キリストの昇天」


061
礼拝堂の名称が分かりません。


063
ジュリオ・バルジェッリ―ニ(フィレンツェ、1875‐ローマ、1640)のモザイク「聖母被昇天」


062
ジュリオ・バルジェッリ―ニ(フィレンツェ、1875‐ローマ、1936(の「聖ジョヴァンニ・グアルベルト」(1933)


064
ジュリオ・バルジェッリ―ニ(フィレンツェ、1875‐ローマ、1936)のモザイク「聖ジョヴァンニ・グアルベルト」


066
クリプタ


068
詳細不知


069
Cappella di San Zeno


070
見応えのあるモザイクです。


071


072


073


045


046


047


048


076
外に出ました。
(この項、おわり)

026
プッチーニ作曲のオペラ「トスカ」第1幕の舞台となったサンタンドレア・デッラ・ヴァッレ聖堂です。第2幕の舞台がファルネーゼ宮殿、第3幕の舞台がサンタンジェロ城ですから、今流行りの奇妙奇天烈な演出とは無縁と思えるのですが、それを物ともせずに「トスカ」のヘンテコな新演出が続くのでガックリしています。


064
サンタンドレア・デッラ・ヴァッレ聖堂 Basilica di Sant'Andrea della Valleです。
1965年、第262代教皇パオロ6世(在位:1963‐1978)によってBasilica Minoreに格付けされました。


065
ヴィットリオ・エマヌエーレ2世通りに面したヴィドーニ広場に、アマルフィ伯爵夫人ドンナ・コスタンツァ・ピッコロミーニ・ダラゴーナがパトロンになって建設された小さなサン・セバスティアーノ教会がありました。
1524年、教皇クレメンテ7世によって承認されたChierici regolari teatiniの活動の一環として、サン・セバスティアーノ教会がある場所に新教会建設令が出されました。それに基づき、アマルフィの守護聖人聖アンドレアに献じる新教会が建設されることになりました。


066
1590年、ジェスアルド枢機卿がパトロンになって、ジャコモ・デッラ・ポルタ(ポルレッツァ、1532‐ローマ、1602)、ピエル・パオロ・オリヴィエ―リ、フランチェスコ・グリマルディ(オッピード・ルカーノ、1543‐ナポリ、1613)に設計が依頼され、建設工事が着工しました。
ファサードは、カルロ・レイナルディ(ローマ、1611‐1691)によって、1655年から1663年に追加されました。


183
1608年、カルロ・マデルノ(カポラーゴ、1556‐ローマ、1629)に建物完成が命じられ、翼廊が拡張されると共にクーポラが建設されました。


184
完成は1650年とされてます。


027
入口


028
聖堂内に入りました。ラテン十字形、バロック様式の内部です。


185
ジェズ教会に似ています。最初に設計した建築家ジャコモ・デッラ・ポルタがジェズ教会を完成させたので、ジェズ教会に似ているのでしょう。


186
高さ80m、直径16mのクーポラ


046
ジョヴァンニ・ランフランコ(パルマ、1582‐ローマ、1647)のクーポラのフレスコ画「聖母被昇天」(1625‐27)


047
ドメニキーノ(ボローニャ、1581‐ナポリ、1641)の後陣フレスコ画「4福音書記者と聖アンドレアの物語」(1622‐27)


053


029
主祭壇と後陣を見ます。


031
マッティア・プレティ(タベルナ、1613‐マルタ、ヴァレッタ、1699)の「聖アンドレアの殉教」


033
マッティア・プレティ(タベルナ、1613‐マルタ・ヴァレッタ、1699)の「十字架に架けられる聖アンドレア」


035
マッティア・プレティ(タベルナ、1613‐マルタ、ヴァレッタ、1699)の「聖アンドレアの埋葬」


036
詳細不知


037
詳細不知


039
詳細不知


040
詳細不知


041
サン・ガエターノ・ディ・ディエーネ礼拝堂の祭壇画:アレッショ・デリア(ナポリ、1717‐1755活動)の作品


044


048
フランチェスコ・マンノ(パレルモ、1754‐ローマ、1831)のCappella Rucellaiの祭壇画


052


054
Altale di Sant'Andrea Avellino
ジョヴァンニ・ランフランコ(パルマ、1582‐ローマ、1647)の「聖アンドレア・アヴェッリーノ」


055
詳細不知


056
詳細不知


187
ローマの逸名画家作「大天使ラッファエーレ」


188
カルロ・チニャーニ(ボローニャ、1628‐フォルリ、1719)の作品


189
バルベリーニ礼拝堂


190
アントニオ・ラッジ(スイス、1624‐ローマ、1686)の「聖家族」(1675)


067
外に出ました。
(この項、おわり)



307
ミネルヴァ広場からパンテオンが見えます。


313
パンテオンです。


369
長年にわたる土砂の堆積によって、現在の地表とパンテオンの高さが違うことが分かります。


176
ローマの様々な神を祀る万神神殿のパンテオンのファサードです。
ファサードにアグリッパが建てたと書かれてますが、アグリッパによって建設された初代の建物は失われ、現在見ることが出来るのは二代目の建物です。
紀元前25年に建設された初代の建物は、80年の火災によって大きな被害を受けましたが、修復され使用が継続されていました。ところが110年の落雷によって壊滅的な被害を受けて、そのまま放置されていました。
ハドリアヌス帝によって、115年から127年にかけて再建されたものが現在の姿となってます。


175
ファサード前の広場にパンテオンのオベリスクがあります。
ドミティアヌス帝の時代(治世:81‐96)、イシス神殿前に置くためにエジプトからオベリスクを移設しました。イシス神殿はミネルヴァ聖堂後陣近くにあったとされてます。
オベリスクは、1473年、Piazza di San Macutoで発見され、その場で再建されました。


314
1575年、ジャコモ・デッラ・ポルタ(ポルレッツァ、1533‐ローマ、1602)の設計によって彫刻家レオナルド・ソルマーニ(ローマ、1550‐1590c記録)が製作したFontana del Pantheonです。
1711年、第243代教皇クレメント11世(在位1700‐1721)によって、Fontanaの上にオベリスクが置かれるようになりました。


319
現在、ロトンダ広場に置かれているFontanaは、コピー作品です。本物はローマ博物館にあります。


315
7世紀、パンテオンは教会に転用され、現在に至ってます。
Basilica Minoreで正式名称は、Basilica Collegiata di Santa Maria ad Martyres サンタ・マリア・アド・マルティレス参事会聖堂と言われてます。サンタ・マリア・デッラ・ロトンダ聖堂とも呼ばれてます。


320
入口にプロナオス Pronaoがあります。


322
列柱と柱頭


323


321
柱廊天井


325
聖堂内に入りました。


326


324
クーポラ


329
詳細不知


330
Cappella dellAnnunciazione


332
メロッツォ・ダ・フォルリ(フォルリ、1438‐1494)の「受胎告知」


336
詳細不知


338
詳細不知


341
Cappella della Madonna Clemenzaの祭壇画:ウンブリア・ラツィオ派逸名画家作「聖母子と聖フランチェスコと聖ジョヴァンニ・バッティスタ」(15世紀)


343
詳細不知


345
詳細不知


347
主祭壇


346


351
Cappella Crocifissoの「磔刑像」(16世紀)


353
ラファエッロ・サンツィオの墓


355


361
Cappella San Giuseppe da Terrasanta
ヴィンチェンツォ・デ・ロッシ(フィエゾレ、1525‐フィレンツェ、1587)の「幼きキリストと聖ジュゼッペ」


358
詳細不知


360
詳細不知


364
詳細不知


365
混雑してきました。


367
もう一度受胎告知を見ました。


368
クーポラ直下の床


1261
外に出ました。


318
街角の聖母子
(この項、おわり)

P1360349
マルチェッロ劇場を越えて、テアトロ・ディ・マルチェッロ通りをさらに進みます。


P1360350
テヴェレ川方向にテアトロ・ディ・マルチェッロ通りを少し進めば、通りの右側に教会が見えてきます。


P1360351
サン・二コラ・イン・カルチェーレ聖堂です。


P1360359
共和制ローマ時代の紀元前3世紀から紀元前2世紀に建設されたヤヌス、スペランツァ、ユーノー・ソスピータの3つの神殿が、現在聖堂がある場所にありました。また、聖ピエトロが投獄されたという伝説を伝えるCarcer Tullianumが神殿に近い場所にありました。
6世紀頃、神殿を一部転用した教会が出来ましたが、それが前身です。


P1360357
11世紀頃、教皇パスクゥアーレ2世によって建物が再建されました。


P1360360
1599年、建築家ジャコモ・デッラ・ポルタ(ポルレンツァ、1532‐ローマ、1602)によって大修復されましたが、その修復後の姿が現在の外観です。


P1360355
ファサードに向かって右の側壁です。
ヤヌス神殿の柱が側壁に組み込まれてます。
また、塔のような鐘楼は、11世紀にマルチェッロ劇場(マルケルス劇場)が所有していたユダヤ系のピエルレオーニ家によって要塞化されましたが、ピエルレオーニ要塞の一部だった塔をこの場所に移動させて鐘楼として転用されたものです。
また、鐘楼の鐘は、1286年にグイドット・ピサーノによって製作されました。


P1360411
ファサードの向かって左の側壁です。
壁にスペランツァ神殿の柱が組み込まれてます。


P1360358
後陣近くに第4の神殿があったという説があります。
14世紀頃、刑務所に転用されました。


P1360412
後陣


P1360361
聖堂内に入りました。


P1360363
三廊式、バジリカ様式の内部です。


P1360362
ヤヌス神殿の列柱が天井を支えてます。


P1360364
天井


P1360365
ファサードの裏の壁


P1360367
ジョヴァンニ・フランチェスコ・バルビエーリ通称グエルチーノ(チェンと、1591‐ボローニャ、1666)の「三位一体と天使たち」


P1360369
この聖堂の基となった3つの神殿の模型


P1360370
アントニアッツォ・ロマーノ(ローマ、1435‐1508)の「聖母子」(1490c)


P1360371
1470年に制作されたという説もあります。


P1360373
右側廊


P1360374
右側廊からの眺め


P1360375
詳細不明


P1360376
オラツィオ・ジェンティレスキ(ピサ、1563‐ロンドン、1639)の「天使に支えられる聖フランチェスコ」


P1360378
後陣


P1360379
新型コロナウィルスによるイタリアの惨状に心を痛めてます。それと無関係に毎日更新していることに対して心苦しく思ってます。言葉がない、と言うのが私の率直な思いです。


P1360381
主祭壇


P1360394
ヴィンチェンツォ・パスクゥアローニ(オルヴィエート、1820‐1885)によって描かれた後陣のフレスコ画


P1360396
「天上のキリスト」


P1360395


P1360383
ロレンツォ・コスタ(フェラーラ、1460-マントヴァ、1535)の「キリストの昇天」(1500‐10)


P1360385


P1360390
後陣左の礼拝堂


P1360392
フェデリーコ・バロッチ(ウルビーノ、1528/1535-1612)の「聖二コラ」


P1360397


P1360398


P1360399
天蓋


P1360400
クリプタに入ることが出来ません。伝説では、聖ピエトロが入獄した牢があります。


P1360401


P1360402
左側廊


P1360403
左側廊からの眺め


P1360404


P1360407
ヤヌス神殿の柱


P1360408


P1360382
主祭壇前から見た出入口


P1360410
外に出た。


P1360356
(この項、おわり)

P1360249
マルチェッロ(マルケルス)劇場です。


P1360252
劇場に通じるテアートロ・ディ・マルチェッロ通りを右折してモンタナーラ通りに入ります。
通りの入り口に教会がありますが、それは目指す教会ではありません。


P1360253
サンタ・マリア・イン・ポルティコ・イン・カンピテッリ教会です。


P1360254
524年、サンタ・ガッリ宮殿の柱廊にペストで苦しむ民衆がいましたが、その前に聖母が顕現したという伝説が生じ、それを基にガエターニ・ロヴァテッリ宮があった場所に小さな教会が建設されました。それが前身です。


P1360257
初代の建物が老朽化したので、13世紀に再建されました。


P1360261
反宗教改革の機運が高まると、1618年、教会付近のパラッツォを取り壊して、大きな教会にすることが決定され、1619年に工事が着工されましたが、度重なるペストと資金難のために、建設工事がたびたび中断しました。1648年のペスト禍によって、遂に工事中止に追い込まれてしまい、やがて計画自体の放棄に至ってしまいました。


P1360263
1654年頃、教皇アレッサンドロ7世によって、建設計画が蘇り、建築家カルロ・ライナルディ(ローマ、1611‐1691)が起用され、ローマ市当局と教皇庁の資金援助によって、カルロ・ライナルディ設計による工事が1656年に開始され、1667年に一応の完成を見て奉献式が執り行われました。
現在のファサードはカルロ・ライナルディ設計のものです。


P1360262
1667年に完成したカルロ・ライナルディ設計の教会は小さく、反宗教改革の文化的、政治的、宗教的ニーズに対して不満足との結論が出され、建物を拡大するべく建築家ジョヴァンニ・アントニオ・デ・ロッシ(ローマ、1616‐1695)が起用され、ジョヴァンニ・アントニオ・デ・ロッシの設計によって、拡張工事が開始されました。
ジョヴァンニ・アントニオ・デ・ロッシの死から33年後の1728年に漸く完成し、同年奉献式が執り行われました。


P1360255
教会の横にあるフォンターナです。


P1360256
教皇シスト5世が1589年ジョコモ・デッラ・ポルタに作らせたアクアフェリーチェと呼ばれる噴水は、教会のファサード前にありましたが、教会の拡張工事中の1675年に拡張スペース確保のために現在の場所に移動されました。


P1360264
地味なファサードの装飾


P1360265


P1360267
中に入りました。


P1360269
単廊式、バロック様式の内部です。


P1360268
写真にパドヴァの聖アントニオ像が写っていますが、その場所から後陣の長さが拡張されました。


P1360270
現代の彩色磔刑像


P1360271
右側壁第1礼拝堂


P1360275
セバスティアーノ・コンカ(がエータ、1680‐ナポリ、1764)の「聖ミケーレ」(1725‐35c)


P1360276
右側壁第2礼拝堂


P1360281
ルカ・ジョルダーノ(ナポリ、1634‐1705)の「聖ジョアッキーノと聖アンナと聖母」(1692)


P1360279
詳細不明


P1360282
Cappella di San Nicola da Bari


P1360286
ローマの逸名画家作「聖母子と聖ジョヴァンニ・バッティスタとバリーの聖二コラ」(19世紀)


P1360287
Cappella di San Nicola da Bariの天井フレスコ画


P1360288
主祭壇


P1360292
後陣のフレスコ画は、ジョヴァンニ・バッティスタ・コンティ(ローマ、1878‐1970)の「アレッサンドロ7世に建言する聖母子」


P1360293
クーポラ


P1360295
詳細不明


P1360297
ロレンツォ・オットーニ(ローマ、1658‐1736)の「ベアータ・ルドヴィーカ・アルベルトーニの墓碑」


P1360298
Cappella Vaselli


P1360302
詳細不明


P1360303


P1360306
Cappella di San Paolo


P1360307
ミケランジェロ・リッチョリーニ(ローマ、1654‐1715)によって描かれたCappella di San Paoloの天井フレスコ画


P1360310
ルドヴィーコ・ジェミニアーニ(ジミニャーニとも呼ばれる)(ローマ、1643‐ザガローロ、1697)の「聖母子」


P1360313
ルドヴィーコ・ジェミニアーニ(ジミニャーニ)(ローマ、1643‐ザガローロ、1697)の「聖パオロの回心」


P1360317
Cappella di San Giovanni


P1360320
ジュゼッペ・パッセーリ(ローマ、1654‐1714)によるCappella di San Giovanniの天井フレスコ画


P1360322
ジョヴァンニ・バッティスタ・ガウッリ通称バチッチャ(またはバチッチョ)(ジェノヴァ、1639‐ローマ、1709)の「聖ジョヴァンニ・バッティスタの誕生」


P1360324
Cappella Altieri


P1360325
ロレンツォ・オットーニ(ローマ、1658‐1736)の浮彫


P1360336


P1360339
聖水盤


P1360342
詳細不明のイコン


P1360315
ファサードの裏にオルガンがあります。


P1360259
外に出ました。
道を挟んで、教会の向かいにある、16世紀に建設されたアルベルトーニ・スピノーラ宮です。


P1360344
(この項、おわり)

P1360523
Maestro dolenti del 1390の「磔刑」


P1360527


P1360524
これは何でしょうか?
ステファノ・マデルノの「聖チェチリアの死」は主祭壇下にあります。その複製彫刻でしょうか?


P1360529
右側廊


P1360533
右側廊天井


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セバスティアーノ・コンカのフレスコ画?


P1360531
詳細不明の礼拝堂


P1360534
詳細不明の墓碑


P1360535
セバスティアーノ・コンカ(ガエータ、1680‐ナポリ、1764)のフレスコ画


P1360537
Cappella Ponziani
アントニオ・デル・マッサ―ロ・ダ・ヴィテルボ(ヴィテルボ、1450‐1516)の「慈悲の聖母と聖ステファノと聖チェチリア」


P1360540
ジュゼッペ・ゲッツィ(コムナンツァ、1634‐ローマ、1721)の「聖ベネデット」


P1360541
セバスティアーノ・コンカ(ガエータ、1680‐ナポリ、1764)のフレスコ画


P1360542
ローマの逸名画家作「悔悛のマグダラのマリア」(18世紀)


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後陣右の礼拝堂


P1360545
逸名彫刻家の作品


P1360546
逸名彫刻家作「聖チェチリア」


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逸名画家作「教皇パスクゥアーレ1世に顕現する聖チェチリア」(12世紀)


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左側廊


P1360575
主祭壇と後陣


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主祭壇下に置かれているステファノ・マデルノ(カポラーゴ、1576‐ローマ、1636)の「聖チェチリアの死」(1599‐1600)


P1360582


P1360581
アルノルフォ・ディ・カンビオ(コッレ・ディ・ヴァル・デルザ、1240‐フィレンツェ、1310)の天蓋(1293)


P1360580


P1360552
後陣のモザイク


P1360554
822年、第98代教皇パスクゥアーレ1世(ローマ、?‐824)によって再建されましたが、その際、制作されたモザイクと言われてます。


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左端から教皇パスクゥアーレ1世、聖アガタ、聖パオロ、キリスト、聖ピエトロ、聖ヴァレンティアーノ、聖チェチリア


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聖人の光輪は黄金色ですが、左端の教皇パスクゥアーレ1世だけは青色になってます。これは、モザイクが制作された時にパスクゥアーレ1世が生存中であったことを示してます。
モザイクや祭壇画を見る際、光輪が青色になっていた場合の解釈ですから、表現の約束事として覚えておくと良いと思います。


P1360560


P1360561
次の礼拝堂です。


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ジョヴァンニ・バリオーネ(ローマ、1573c‐1643)の「聖ピエトロと聖パオロ」


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礼拝堂天井のフレスコ画


P1360562


P1360569
詳細不明の礼拝堂祭壇画


P1360570
その礼拝堂の天井


P1360571
ジョヴァンニ・バリオーネ(ローマ、1573c‐1643)の「聖アンドレア戴冠」


P1360574
ジュゼッペ・ゲッツィ(コムナンツァ、1634‐ローマ、1721)の「聖ステファノと聖ロレンツォ」


P1360584
ミーノ・ダ・フィエゾレ(ポッピ、1429‐フィレンツェ、1484)の「ニッコロ・フォルテグエッリの墓碑」(1473)
この日は、クリプタに入ることが出来ませんでした。


16
プリプタ(外部サイトから拝借した写真)
最後は、ピエトロ・カヴァッリ―ニの「最後の審判」を見ることですが、修道院への扉が閉まっていて、聖歌隊席に行くことが出来ませんでした。
ピエトロのフレスコ画は、聖歌隊席にありますが、聖堂の左側にある修道院への扉から修道院経由で聖歌隊席に行くのです。
仕方がないので、外部サイトから拝借したピエトロの作品画像を載せておきます。


11
ピエトロ・カヴァッリ―ニ(ローマ、1250c‐1330c)の「最後の審判」(1293)


12


13


1


14


15


P1360550
主祭壇前から見た出入口


P1360594
外に出ました。


P1360596
(この項、おわり)

P1360486
写真左に聖堂が見えてきました。


P1360487
聖チェチリア(ローマ、2世紀‐230)は、自分がキリスト教に改宗させた夫、友人たちと共に230年頃に殉教した聖人で、伝説に拠れば楽器を奏でながら讃美歌を歌ったとされており、音楽家の守護聖人となってます。盲人の守護聖人でもありますが、その由来が私には分かりません。
なお、176年から180年にかけてシチリアで殉教した別説があるようです。


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聖堂は高い壁に囲まれてます。


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こちら側は聖堂の後陣と修道院に当たります。


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道を挟んだ聖堂の向かいに、サン・ジョヴァンニ・バッティスタ・デイ・ジェノヴェーゼ教会が建ってます。


P1360493
少し大回りして、聖堂の入り口があるファサード側に出ます。


P1360494
ファサード側に来ました。


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4本柱の柱廊付きの建物は、18世紀初めにフランチェスコ・アクゥアヴィーヴァ・ダラゴーナ枢機卿が建築家フェルディナンド・フーガ(フィレンツェ、1699‐ナポリ、1782)を起用して建てさせたものです。


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聖堂の建物への門です。


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門を潜ると中庭に出ます。


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中庭もフェルディナンド・フーガ(フィレンツェ、1699‐ナポリ、1782)によって設計されました。


P1360501
この場所は、ローマ貴族だった聖チェチリアの家がありました。聖堂のクリプタに、彼女が拷問を受けた部屋があります。
5世紀半ばころ、この場所に聖チェチリアを称える小さな教会が建てられましたが、恐らくローマで最初に建設された公式な教会と言われてます。


P1360595
820年、第98代教皇パスクゥアーレ1世(ローマ、?‐824 在位:817‐824)によって、最初の建物が取り壊され、再建されました。
1599年、パオロ・エミリオ・スフォンドラーティ枢機卿(彼の墓碑がこの聖堂のファサード柱廊にあります)によって改築されました。
ファサードは、フェルディナンド・フーガによって1725年に改築されましたが、改築後のファサードが現在の姿となってます。


P1360499
鐘楼は12世紀に建設されたもので、1725年建設のファサードと比べると、アンバランスな感じが否めません。


P1360502
ファサードのモザイクが見逃せません。


P1360591
FRANCISVSと書かれている下にモザイクがあります。


P1360592
古いものではありません。


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フェルディナンド・フーガによるファサード再建の際に造られたモザイクです。


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ファサードの柱廊を見ます。


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18世紀前半の柱頭


P1360587
柱廊の壁に墓石が並んでます。


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ジローラモ・ライナルディ(ローマ、1570‐1655)の「パオロ・エミリオ・スフォンドラーティ枢機卿(ミラノ、1560‐ティヴォリ、1618)の墓碑」


P1360505
パオロ・エミリオ・スフォンドラーティ枢機卿は、1591年から1618年までCardinale presbitero di Santa Ceciliaの任にありました。


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聖堂内に入りました。


P1360509
三廊式、バジリカ様式の構造ですがバロック様式の内部です。


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古さを生かした改修でも良かったのではないか、と思います。


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身廊天井にフレスコ画があります。


P1360579
セバスティアーノ・コンカ(ガエータ、1680‐ナポリ、1764)の「聖母戴冠」


P1360515
パオロ・ロマーノ(セッツェ、1445‐ローマ、1470)の「アダム・イーストン枢機卿の墓」


P1360511
墓の上のフレスコ画


P1360512
セバスティアーノ・コンカが制作に参加したようですが、どの部分を描いたのか分かりません。


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P1360516


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P1360517


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P1360521
(つづく)

1564つあるBasilica papali maggioriの最初の教会です。


157
アウレリアヌス城壁に通じる、1574年に着工されたサン・ジョヴァンニ門です。


159
ローマ皇帝アウレリアヌス帝とプロブス帝治世の271年から275年にかけて建設されたアウレリアヌス城壁です。


160
アジナリア門
戦争や風化などによって荒廃が進んでいる箇所が散見されます。


158
アジナリア門を経由して大聖堂に向かいました。


281


171
サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ広場にやってきました。


163
Triclinium Leorinumです。第96代教皇レオ3世(ローマ、750c‐816 在位:795‐816)によって、コンスタンチノープル宮殿を模して、ラテラーノ宮殿内に建てられた宴会場の端に当たります。
現在の姿は、16世紀終わりころに、第227代教皇シスト5世(グロッタマーレ、1521‐ローマ、1590 在位:1585‐1590)によって、ラテラーノ宮殿が取り壊された後のものです。


164
モザイクが残されてますが、数度の修復を経ています。


168
広場に面して建つPapale arcibasilica maggiore cattedrale del Santissimo Salvatore e dei Santi Giovanni ed Evangelista in Laterano、略してBasilica di San Giovanni in Laterano サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ大聖堂です。


161
312年、キリスト教に改宗したローマ皇帝コンスタンティヌス帝は、313年のミラノ勅令によって、ローマ帝国におけるキリスト教の公認を行いました。(この辺の事情や正確な西暦年については諸説ありますが、ここでは通説を採用します)
コンスタンティヌス帝は、聖堂建設を当時の教皇でローマ司教だった第32代教皇ミルティアデス(在位:311‐314)に指示し、その用地としてこの地を与えたとされてます。この付近の土地は、ラテラーノ一族の所有でしたが、ネロ帝の時代に帝国の所有となり、当時はコンスタンティヌス帝の所有地となっていました。
324年、第33代教皇シルヴェストロ1世(在位:314‐335)によって奉献式が執り行われました。(318年説もあるようです)


166
10世紀と14世紀の2回、建物が再建されました。1309年、教皇庁がアヴィニョンに移転するまで、教皇座教会でした。しかし、それ以降は、2度に渡る火災や寂れによって荒廃が進みました。
アヴィニョンからローマに教皇座が戻されましたが、荒廃が進んだラテラーノ大聖堂が教皇座教会になることはなく、ヴァティカンのサン・ピエトロ大聖堂建設へと話が進みました。
ラテラーノ大聖堂は、建築家ドメニコ・フォンターナ、ジャコモ・デッラ・ポルタなどによって徐々に修復が進みました。1650年の聖年を目指して、建築家フランチェスコ・ボッロミーニ(ビッソーネ、1599‐ローマ、1667)が起用され、身廊の再建が行われました。
現在のファサードは、建築家アレッサンドロ・ガリレイ(フィレンツェ、1691‐ローマ、1737)の設計、工事監督によって1734年に完成しました。


174
ファサードのポルティコ天井


172
柱廊端にあるコンスタンティヌス帝像


173
柱廊にある浮彫


176
美術的には、見るべきものが然程多くない聖堂と思います。


177
1300年の聖年にジョットが描いたフレスコ画が必見です。


175
コルシーニ家の紋章


179
イタリア美術界が下降期にあった時期に大修復が行われたこともあって、どことなく冴えません。


180
聖堂内に入りました。


182
5廊式、ラテン十字形、バロック・新古典様式の内部です。


181
縦140m、横73m、身廊の高さ65mの内部です。


183
12使徒の彫刻があります。
これは、ピエール・レグロス・イル・ジョーヴァネ(パリ、1666‐ローマ、1719)の「聖トンマーゾ」(1703‐11)


184
カミ―ロ・ルスコーニ(ミラノ、1658‐ローマ、1728)の「聖アンドレア」(1705‐09)


227
ピエール・レグロス・イル・ジョーヴァネ(パリ、1666‐ローマ、1719)の「聖バルトロメオ」(1705‐12c)


228
カミッロ・ルスコーニ(ミラノ、1658‐ローマ、1728)の「聖マッテオ」(1711‐15)
後の8体は省略します。


282
ジョット・ディ・ボンドーネ(ムジェッロ、1267‐フィレンツェ、1337)の「1300年の聖年を宣するボニファチョ8世」


283


231
Cappella Torloniaの祭壇彫刻:ピエトロ・テネラーニ(カッラーラ、1789‐ローマ、1869)の「十字架降下」


232
詳細不明


233
詳細不明


234
ラッザロ・バルディ(ピストイア、1624‐ローマ、1703)の「パトモスの聖ジョヴァンニに顕現する聖母」(1660‐65)


236
Cappella Massimoの祭壇画:ジローラモ・シチョランテ・ダ・セルモネータ(セルモネータ、1521‐ローマ、1580)の「磔刑」(1575)


226
Cappella Antonelliの祭壇画:ジョヴァンニ・オダッツィ(ローマ、1663‐1731)の「聖母被昇天と聖ドメニコと聖フィリッポ・ネリ」


229
Cappella Orsini


230
プラ―チド・コスタンツィ(ローマ、1702‐1759)の「聖母被昇天」(1729)


218
グリエルモ・コルテーゼ通称イル・ボルゴニョーネ(フランス、1628‐ローマ、1679)の「三位一体を幻視する聖イラリオ」


220
Cappella Lancellottiの祭壇画:ジョヴァンニ・バッティスタ・プチェッティ(1593‐1670)の「聖痕を受ける聖フランチェスコ」


221
詳細不明


224
詳細不明


195
沢山の作品があります。


196
これらの詳細については、ガイドブックをご参照願います。


199


200


203


204


206


210
適当に切り上げて外に出ました。


237
次はScala Santaです。


238
中に入ります。


239
28段の階段を膝行して進みます。


240
私は普通に上りました。


243
このオベリスクも有名です。


244
(この項、おわり)

216
ジョヴァンニ・ディ・コズマ(?、?‐ローマ、1305c)の「グリエルモ・ドゥランド枢機卿の墓」(1296c)


048
聖母子と2聖人のモザイク


051
フランチェスコ・ナッピ(ミラノ、1565‐ローマ、1630)の天井フレスコ画(1600c)


052
ジュゼッペ・オビチ(スピランベルト、1807‐ローマ、1878)の「聖ジョヴァンニ・バッティスタ」(1856)


053


217
Cappella di Ognissanti


057
カルロ・マラッタ(カメラーノ、1625‐ローマ、1713)の「聖ピエトロと福者たちに顕現する聖母」(1671)


218
Cappella Capranica


059
ミケランジェロ・チェッルーティ(ローマ、1663‐1749)の「ロザリオの聖母」(18世紀)


060
ジョヴァンニ・デ・ヴェッキ(ボルゴ・サン・セポルクロ1536‐ローマ、1615)の「シエナの聖カテリーナの生涯の物語」(1586)


061


062


063


064


065


066
19世紀のステンドグラス「シエナの聖カテリーナの戴冠」


068
フランチェスコ・ナッピ(ミラノ、1565‐ローマ、1630)の後陣のフレスコ画(1600c)


069


070


071


072
ミケランジェロ・ブオナローティ(カプレーゼ、1475‐ローマ、1564)の「ミネルヴァのキリスト」(1521)


074


076


077


078
Vestibolo


079
ジャコモ・デッラ・ポルタ(ポルレッツァ、1532‐ローマ、1602)の「ミケーレ・ボネッリ枢機卿の墓碑」(1598‐1611)


082
Cappelle Frangipane


083
ベノッツォ・ゴッツォリ(スカンディッチ、1420‐ピストイア、1497)に帰属する「聖母子」(1449)


219


088
Cappella di San Domenicoの祭壇画:パオロ・デ・マッテイス(ピアーノ・ヴェトラレ、1662‐ナポリ、1728)の「聖ドメニコのイコンを手にする聖母と聖カテリーナと聖マリア・マッダレーナ」(1723‐26)


089
カルロ・ロンカッリの「天上の聖母子と聖ドメニコ」


094
アンドレア・プロカッチーニ(ローマ、1671‐スペイン、1734)の「ピオ5世」(1710‐20)


097
Cappella Giustinianiの祭壇画:ベルナルド・カステッロ(ジェノヴァ、1557‐1629)の「聖ヴィンチェンツォ・フェッレール」(1584c)


099
ドゥッチョ・ブオニンセーニャ(シエナ、1255/1260c-1319c)の「聖母子」


220


102
フランチェスコ・ナッピ(ミラノ、1565-ローマ、1630)の「聖ジョヴァンニ・バッティスタの説教」(1600c)


104
Cappella del Sacro Cuore


106
コッラード・メッザーナ(ローマ、1890-1952)の「キリストとシエナの聖カテリーナと聖マリア・アラコクエ」(1922)


109
シエナの聖カテリーナの墓


114
ベアート・アンジェリコの墓


112
この辺で終わることにします。


115
外に出ました。
(この項、おわり)

307
オベリスクの先にパンテオンが見えてます。


310
オベリスクの後にサンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ聖堂があります。聖堂はパンテオンの至近にあります。


309
ミネルヴァ神殿の上に築かれたと誤解されていたので、サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ聖堂と名付けられました(sopra=上に、という意味)。
現在、聖堂が建っている場所には、ポンペイウスが紀元前50年に建設した、エジプトの女神イシスを祀ったイシス神殿がありましたが、8世紀中頃、使用されなくなって廃墟となっていた神殿が教会として転用されることになりました。それが現在の聖堂の前身です。
ということで、本来ならば、サンタ・マリア・ソプラ・イシス聖堂と称されるべきですが、間違いが正されることなくソプラ・ミネルヴァとなってます。ミネルヴァ神殿は、イシス神殿近くにあったことが分かってますが、その場所は特定されていないようです。


486
1275年、教会はドメニコ会の所有となりましたが、ドメニコ会は古い神殿転用の教会を取り壊し、その上に新しい建物建設を決めました。
そうして、1280年創建、1370年完成の建物が現在の姿の原形となってます。
17世紀前半、カルロ・マデルノ(スイス、カポラーゴ、1556‐ローマ、1629)の設計によってバロック様式に改修されましたが、19世紀にゴシック様式へと改修され、その改修後の姿が現在の外観となってます。


487
ミネルヴァ広場にあるオベリスクですが、紀元前589年から570年にエジプトで制作されたものを、284年から305年にかけて、ディオクレティアヌス帝によってイシス神殿前に設置されました。


312
現在、オベリスクは象のモニュメントの上に置かれており、「Pulcino della Minerva」(ミネルヴァのひよこ)と呼ばれてます。
オベリスクが乗っている象は、ジャン・ロレンツォ・ベルニーニの設計に基づき、エルコール・フェッラータ(ペッリオ・インテルヴィ、1610‐ローマ、1686)によって1667年に制作されました。
エルコーレ・フェッラータは、ベルニーニの弟子です。


1258
教皇アレッサンドル7世の即位を記念して象が制作されたそうです。


306
ファサード扉上ルネッタのフレスコ画「聖母子と聖ドメニコ」


308
こちらの扉上ルネッタのフレスコ画ですが、1848年から1855年にかけて行われたバロック様式からゴシック様式へと改修された工事の際に制作された新古典様式のものです。
Basilica Minoreです。


004
聖堂内に入りました。


005
先ずペルジーノの作品を見ました。


007
ピエトロ・ディ・クリストフォロ・ヴァンヌッチ通称ペルジーノ(チッタ・デッラ・ピエーヴェ、1448c‐フォンティニャーノ、1523)の「祈るキリスト」


488
写真写りが悪いので、外部サイトから作品画像を拝借しました。


009
三廊式、ゴシック様式の内部です。


010
縦101m、横41mの内部です。


011
左側廊に7つの礼拝堂、右側廊に8つの礼拝堂があります。


013
Cappella Caffarelli


211
ジョヴァンニ・バッティスタ・ガウッリ通称バチッチョ(ジェノヴァ、1639‐ローマ、1709)の「光悦の聖ルドヴィーコ・ベルトランド」(1673)


016
Cappella Colonnaの祭壇画:ラッザロ・バルディ(ピストイア、1624‐ローマ、1703)の「リマの聖ローザ」(1668)


019
ボナヴェントゥーラ・ランベルティ通称イル・ボロネーゼ(カルピ、1653‐ローマ、1721)の「聖ピエトロ・マルティーレの死」(1690‐93)


020
ジョヴァンニ・バッティスタ・フランコ通称イル・セモレイ(ヴェネツィア、1510‐1561)の「羊飼いの礼拝」(1550)


021
ジョヴァンニ・バッティスタ・フランコ通称イル・セモレイ(ヴェネツィア、1510‐1561)の「キリストの復活」(1550)


022
Cappella Colonnaの天井フレスコ画:ジローラモ・ムツィアーノ(ブレーシャ、1532‐ローマ、1592)の「キリストの生涯と4福音書記者」(1550c)


024
Cappelle Annunziata


026
アントニアッツォ・ロマーノ(ローマ、1430c‐1508)の「トルクエマーゾ枢機卿と受胎告知」(1500)


212
トルクエマーゾ枢機卿は、この祭壇画の注文主です。


029
Cappella Aldobrandini


214


213
フェデリーコ・バロッチ(ウルビーノ、1535‐1612)の「Istifuzione dell'Eucaresia」(1607)


032
Cappella San Raimondoの祭壇画: Nicola Magnj に帰属する「聖パオロとぺナフォルトの聖ライモンド」(17世紀)


035
ジローラモ・シチョランテ・ダ・セルモネータ(セルモネータ、1521‐ローマ、1580)の「聖ルチアと聖アガタ」(1550c)


037
Cappella Carafa


042
フィリッピーノ・リッピ(プラート、1457‐フィレンツェ、1504)の「聖トマス・アクィナスの勝利」(1489‐91)


043


038


046


040


041


044


047
(つづく)

316
アンドレア・ポッツォの傑作を見るために、パンテオンから聖イグナツィオ・ディ・ロヨラ・イン・カンポ・マルツィオ教会に向かいました。


371
大した距離ではありませんが、それでも近道しました。


434
Chiesa di Sant'Ignazio di Loyala in Campo Marzioです。
ファサード両端の渦巻きは、フィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂を真似したと言われてます。


372
イエズス会の創始者イグナツィオ・ディ・ロヨラ(アズペイディア、1491‐ローマ、1556)は、1622年、第234代教皇グレゴリオ15世(ボローニャ、1554‐ローマ、1623)によって列聖されました。
教皇グレゴリオ15世と教皇の甥ルドヴィーコ・ルドヴィージ司教(当時は司教でしたが、後に枢機卿になりました)は、聖イグナツィオ・ディ・ロヨラに捧げる教会建設を企画しました。


374
新教会の建設場所として、Collegio Romana(ローマ大学)に隣接する受胎告知教会が選ばれました。その理由は、教会の建物が古くて狭いので、大学生などの収容力に問題があったからとされてます。
設計、建築は、オラツィオ・グラッシ、ドメニキーノ、ジローラモ・ライナルディ、アレッサンドロ・アルガルディなどのコンペとなりましたが、ルドヴィーコ・ルイージ司教は、数学者で建築家のオラツィオ・グラッシ(サヴォーナ、1583‐ローマ、1654)を選びました。
オラツィオ・グラッシは、ガリレオ・ガリレイとの彗星に関する論争で有名です。


435
1626年に創建されたバロック様式のイエズス会の教会です。


375
毎日開くので、拝観が容易な教会です。


373
アンドレア・ポッツォ好きにはたまらない教会と言えるでしょう。


377
中に入りました。


384
単廊式、ラテン十字形、バロック様式の内部です。
左右、それぞれ3つの礼拝堂があります。


383
縦81.5m、横43mの大きな教会です。


429
アンドレア・ポッツォ(トレント、1642‐ウィーン、1709)の直角位相 La Quadratura で有名です。


379
アンドレア・ポッツォ(トレント、1642‐ウィーン、1709)の「聖イグナツィオの栄光」(1685)


380


381
アンドレア・ポッツォ(トレント、1642‐ウィーン、1709)の後陣フレスコ画


392
ルイージ・ガルツィ(ピストイア、1638‐ローマ、1721)によるクーポラフレスコ画「聖ジュゼッペの栄光」


386
Cappella di San Cristoforoの祭壇画:ローマの逸名画家作「聖母子と2聖人」(18世紀初め)


390
Cappella di San Giuseppeの祭壇画:フランチェスコ・トレヴィサーニ(スロベニア、1656‐ローマ、1746)の「聖ジュゼッペの死」


389
詳細不明のモザイク


395
ステファノ・ポッツィ(ローマ、1699‐1768)の「聖母と聖ジョアッキーノに顕現する父なる神」


393
ステファノ・ポッツィの弟子による作品


398
Cappella di San Luigi Gonzagaの天井フレスコ画:アンドレア・ポッツォ(トレント、1642‐ウィーン、1709)の「聖マリア・マッダレーナの幻視」


400
ピエール・ル・グロ(パリ、1666‐ローマ、1719)の「聖ルイージ・ゴンザーガの栄光」(1698)


401
ピエール・ル・グロ(パリ、1666‐ローマ、1719)の「清純」(1698)


402
ピエール・ル・グロ(パリ、1666‐ローマ、1719)の「悔悛」(1698)


406
Cappella Ludovisi


405
ピエール・ル・グロ(パリ、1666‐ローマ、1719)の「教皇グレゴリオ15世とルドヴィーコ・ルドヴィージ枢機卿の墓碑」(1709‐17)


404
詳細不明


409
中央礼拝堂


407
アンドレア・ポッツォによる後陣フレスコ画


413
中央礼拝堂の祭壇画は、アンドレア・ポッツォ(トレント、1642‐ウィーン、1709)の「聖イグナツィオの生涯」


415


411



419
ジュゼッペ・ルスコーニ(スイス、トレモナ、1687‐ローマ、1758)の「聖イグナツィオ」(1728)


418
詳細不明


421
Cappella Annunziata


422
フィリッポ・デッラ・ヴァッレ(フィレンツェ、1698‐ローマ、1768)の「受胎告知」(1750)


423
ピエトロ・ブラッチ(ローマ、1700‐1773)の「天使」(1749)


424
ピエトロ・ブラッチ(ローマ、1700‐1773)の「天使」(1749)


427
Cappella Vergineの祭壇画:ピエール・デ・ラットレ(フランス、1606‐ローマ、1683)の「聖フランチェスコ・サヴェーリオと聖フランチェスコ・ボルジア」


428
アンドレア・ポッツォは凄い!!


430
バロック芸術を堪能できました。


432
詳細不明


433
外に出ます。


370
(この項、おわり)

175
テルミニ駅からコロッセオ方面へと通じるカヴール通りです。


176
カヴール通りから聖堂がある丘に行くため階段を上ります。


174
階段を上り、建物の下を潜ります。


142
サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ聖堂の後陣横を進みます。


143
サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ広場に出ました。


144
ファサードの柱廊が印象的なサン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ聖堂です。
この場所は、Domus Transitoria Neronianoと呼ばれた建物の西端にあり、キリスト教がローマ帝国に広まるにつれて近隣住民のキリスト教崇拝の場所となりました。
4世紀後半、Domus Transitoria Neronianoは取り壊され、現在の聖堂がある場所にバジリカ様式の教会が建設されましたが、5世紀初めに取り壊されてしまいました。取り壊された理由は分かっていないようです。
取り壊された場所の上に改めて教会の建物が再建されることになり、422年創建、470年に完成した二代目の建物が現在の姿の原形となってます。奉献式が439年に執り行われました。


145
完成後、780年、1471年、1503年に大掛かりな改修工事が行われました。現在の外観は、教皇ジュリオ2世の命によって行われた最後の大改修工事後のものです。


146
聖堂の入り口です。


147
「Vincoli (vincolo)」とは、制約、制限という意味ですが、聖ピエトロがエルサレムの獄中で、鎖に繋がれていましたが、その鎖のことを差します。その鎖を聖遺物として祀るのが、この聖堂です。


148
聖堂内に入りました。


168
三廊式です。建物の基本構造はバジリカ様式ですが、その後に行われた改修工事によってルネサンス様式、バロック様式が混在してます。


169
ドーリア式列柱が目立ちますが、ギリシャから持ち込まれた列柱を使用していたローマ時代の建物から移設されたものだそうです。


149
ジョヴァンニ・フランチェスコ・バルビエーリ通称グエルチーノ(チェント、1591‐ボローニャ、1666)の「聖アゴスティーノ・ディッポーナ」


augusti3
私の写真では不鮮明なので、外部サイトから作品画像を拝借しました。


151
ピエトロ・サンティ・バルトーリ(ペルージャ、1635‐ローマ、1700)の「ドメニキーノ作『牢から解放される聖ピエトロ』の複製画」(1683)
この作品は縦長ですが、ドメニキーノが描いた作品は横長です。


san pietro
ドメニキーノの作品です。
外部サイトから拝借した作品画像です。


152
ボケ写真で申し訳ありません。
ジョヴァンニ・フランチェスコ・バルビエーリ通称グエルチーノ(チェント、1591‐ボローニャ、1666)の「アンティオキアの聖マルゲリータ」(1644)


margueri
外部サイトから拝借した作品画像:グエルチーノの「アンティオキアの聖マルゲリータ」


153
教皇ジュリオ2世の墓です。


154
1505年、教皇ジュリオ2世はミケランジェロに墓の制作を委託しました。制作が開始されたものの、肝心のジュリオ2世が墓に興味がなくなって、何度も制作が中断されて、ジュリオ2世の死から32年後の1545年に漸く完成したのです。


155
ミケランジェロ・ブオナローティ(カプレーゼ、1475‐ローマ、1564)の「モーゼ」(1513‐15、1542)
モーゼの角は、ヘブライ語で書かれたモーゼをミケランジェロが誤って解釈した結果とされてます。


171


157
ジャコモ・コッピ通称イル・メーリオ(ペレトーラ、1546‐フィレンツェ、1591)によって、1573年に制作された後陣フレスコ画


158
ラファエッロ・サンツィオの影響が色濃いようです。


156
7世紀のベイルート再建がフレスコ画のテーマです。


159
左後陣の礼拝堂


160
ジュゼッペ・ブラヴォ(ミラノ、1862/1868c-1901)の「無原罪の聖母」(19世紀)


161


162
逸名画家作「ヴィンコリの聖母」


bambino
外部サイトから拝借した作品画像


163
クリストフォロ・ロンカッリ通称イル・ポマランチョ(ポマランチョ、1540/1545-カステル・デッラ・ピア―ヴェ、1597)の「十字架降下」(17世紀)


165
身廊の天井画は、ジョヴァンニ・バッティスタ・パロディの「奇跡の連鎖」(1706)


170


172
アントニアッツォ・ロマーノ(?,1430/1435c-ローマ、1508)の「シスト4世の行進」


sisto
外部サイトから拝借した作品画像


tomb
ポッライオーロ兄弟の墓


141
(おわり)

余り知られていませんが、ミケランジェロ、ベルニーニ、フィリッピーノ・リッピ、チゴリなどの作品がある聖堂を取り上げます。
964
テヴェレ川に架かるPonte Principe Amedeo Savoia Aostaです。


962
橋の直ぐ傍に教会の建物が見えますが、それがサン・ジョヴァンニ・バッティスタ・デイ・フィオレンティーニ聖堂、ローマにおける都市国家フィレンツェの教会です。


218
街の中心からヴァティカンに向かう、教皇ジュリオ2世によって作られたジュリア通りに教会があります。


296
この場所には、フィレンツェ人が多数居住していて、大規模なコミュニティを形成していました。コミュニティ内では、フィレンツェの法律が施行され、フィレンツェ独自の刑務所があるなど、まるで独立国のような状態でした。当然、フィレンツェ独自の教会もありましたが、16世紀初めにそれを廃棄して現在の場所に大規模な教会に再建されることになりました。
1508年、ドナート・ブラマンテ(フェルミニャーノ、1444‐ローマ、1514)に設計が依頼されましたが、ブラマンテの体調不良、やがての死によって、ブラマンテによる設計は完了しないで終わってしまいました。
その後、設計は、ヤコポ・サンソヴィーノ、ラファエッロ、ジュリアーノ・ダ・サンガッロ、バルダッサレ・ペルッツィらのコンペとなりましたが、教皇レオ10世デ・メディチの裁定により、ヤコポ・サンソヴィーノ(フィレンツェ、1486‐ヴェネツィア、1570)が勝利者となりました。
ヤコポ・サンソヴィーノの設計によって、1523年に創建されましたが、教会横を流れるテヴェレ川のため、地盤の問題が深刻となり、その解決策に苦慮していたヤコポ・サンソヴィーノは解任され、建築家アントニオ・ダ・サンガッロ(フィレンツェ、1484‐テルニ、1546)が起用されました。
教会は完成するのに1世紀を要し、ファサードが完成した1734年に工事が終了したのです。


297
ジャコモ・デッラ・ポルタ(ポルレッツァ、1532‐ローマ、1602)によって建設されたクーポラ


298
カルロ・マデルノ(ポルレッツァ、1532‐ローマ、1629)によって建設された後陣と身廊の一部


219
Basilica Minoreに格付けされてます。また、教区教会でもあります。


220
聖堂内に入りました。


222
三廊式、バロック様式の内部です。


221


223
各礼拝堂の祭壇画、フレスコ画を見て回ります。


224
ファントーニ礼拝堂の祭壇画:ローマの逸名画家作「聖ヴィンチェンツォ・フェッレールの説教」(16世紀末)


226
フィオレンツォ―ラ礼拝堂の祭壇画:ローマの逸名画家作「聖フィリッポ・べヌッツィ」


227
フィオレンツォ―ラ礼拝堂のフレスコ画:オラツィオ・ジェンティレスキ(ピサ、1563‐ロンドン、1639)の「聖フィリッポ・ベニッツィの物語」


228


229
オラツィオ・ジェンティレスキによるフィオレンツォ―ラ礼拝堂天井の絵画


244
マンチーニ礼拝堂の祭壇画:サンティ・ディ・ティート(ボルゴ・サン・セポルクロ、1536‐フィレンツェ、1603)の「聖ジローラモ」(1599)


245
マンチーニ礼拝堂右側壁:ルドヴィーコ・カルディ通称チゴリ(チゴリ・ディ・サン・ミニアート、1559‐ローマ、1613)の「書斎の聖ジローラモ」(1599)


246
マンチーニ礼拝堂左側壁:ドメニコ・クレスティ通称パッシニャーノ(パッシニャーノ、1559‐フィレンツェ、1638)の「修道院建設を監督する聖ジローラモ」(1599)


249
Cappella Nerliの祭壇画:サルヴァトール・ローザ(ナポリ、1615‐ローマ、1673)の「聖コズマと聖ダミアーノ」


251
1936年に制作された「祈る聖母」のコピー画


252
アレッサンドロ・アルガルディ(ボローニャ、1595‐ローマ、1654)の「オッタヴィアーノ・コルシーニ大司教の記念碑」(1641)


254
Cappella Vergine Misericordia


264
フィリッピーノ・リッピ(プラート、1457‐フィレンツェ、1504)に帰属する「聖母子」


258
Cappella Vergine Misericordiaの左側壁:アゴスティーノ・チャンペッリ(フィレンツェ、1568‐ローマ、1630)の「聖母の誕生」


256
Cappella Vergine Misericordiaの右側壁:アナスタシオ・フォンテブオーニ(フィレンツェ、1572‐1642)の「聖母の死」


261
アゴスティーノ・チャンペッリ(フィレンツェ、1568‐ローマ、1630)のCappella Vergine Misericordia天井フレスコ画


255


260


259


257


265
Cappella di San Giovanni Battista


266
アントニオ・ラッジ(ヴィ―コ・モルコテ、1624‐ローマ、1686)の「キリストの洗礼」


268
Cappella Sacchettiの彫刻:プロスペロ・アンティ―キ通称ブレーシャーノ(ローマ、1578‐1591活動)の「磔刑」


269
Cappella Sacchettiの左側壁:ジョヴァンニ・ランフランコ(パルマ、1581‐ローマ、1647)の「カルヴァリオへの上り」


270
Cappella Sacchettiの右側壁:ジョヴァンニ・ランフランコ(パルマ、1581‐ローマ、1647)の「園の祈り」


271
ジョヴァンニ・ランフランコによるCappella Sacchettiの天井フレスコ画


274
Cappella Capponiの祭壇画:アストルフォ・ペトラッツィ(シエナ、1580‐1653)の「悔悛の聖マリア・マッダレーナ」


276
Cappella Scarlattiの祭壇画:ルドヴィーコ・カルディ通称チゴリ(チゴリ・ディ・サン・ミニアート、1559‐ローマ、1613)の「祈る聖フランチェスコ」


277
Cappella Scarlattiの右側壁:ニコロ・チルチニャーニ通称ポマランチョ(ポマランチョ、1540/1545-カステル・デッラ・ピア―ヴェ、1597)の「スルタンの前の聖フランチェスコ」


278
Cappella Scarlattiの左側壁:ポマランチョの「教皇オノリオ3世に請願する聖フランチェスコ」


279
ジュゼッペ・ゲッツィ(コムナンツァ、1634-ローマ、1721)によるCappella Sacchettiの天井フレスコ画


282


283


286
Cappella Cavalcantiの祭壇画:「パッツィの聖マリア・マッダレーナに顕現する聖母」


287
Cappella Cavalcantiの右側壁:ジョヴァンニ・バルドゥッチ通称イル・コスチ(フィレンツェ、1560-ナポリ、1603)の「聖母と聖ルカと聖パオロ」


288
Cappella Cavalcantiの左側壁:ジョヴァンニ・バルドゥッチ通称イル・コスチ(フィレンツェ、1560-ナポリ、1603)の「聖エジーディオとフランス王」


289
ジョヴァンニ・バルドゥッチによるCappella Cavalcantiの天井フレスコ画


291
Cappella Montautiの祭壇画:ジョヴァンニ・バッティスタ・ヴァンニ(フィレンツェ、1599-1660)の「聖セバスティアーノの殉教」


292
Cappella Montautiの右側壁:ローマの逸名画家作「聖ステファノ」


294
もう一度中央礼拝堂を見てから、付属美術館となっている聖具室に向かいました。


231
ミケランジェロ・ブオナローティ(カプレーゼ、1475-ローマ、1564)の「聖ジョヴァンニ・バッティスタ」(1495)


233
ピエリーノ・ダ・ヴィンチ(ヴィンチ、1529-ピサ、1553)の「聖母子と聖アンナ」
ピエリーノは、レオナルド・ダ・ヴィンチの甥です。


235
ダニエーレ・ダ・ヴォルテッラ(ヴォルテッラ、1509-ローマ、1566)の「聖母子」


234
詳細不明


236
ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ(ナポリ、1598-ローマ、1680)の「アントニオ・チェッパレッロ像」


237
ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ(ナポリ、1598-ローマ、1680)の「アントニオ・コッポラ像」


239
スペインの逸名画家作「この人を見よ」


241
ポンぺオ・バトーニ(ルッカ、1708-ローマ、1787)の「聖母子」


243
ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ(ナポリ、1598-ローマ、1680)の「磔刑像」


300
外に出ました。
(この項、おわり)

P1370009
第16礼拝堂、Cappella di San Francescoです。


P1370011
ロープが張られて、信者席の先に行けないようになっていました。


P1370010
身廊中央から見た出入口方向


P1370012
中央礼拝堂後陣のフレスコ画


P1370013
主祭壇


P1370014
誰の墓でしょうか?


P1370016
不明


P1370018
不明


P1370020
翼廊の第12礼拝堂、Cappella di San Gregorio Magnoの祭壇画は、ジョヴァンニ・ジャコモ・セメンツァ(ボローニャ、1580‐1638)の「聖母と聖グレゴリオ・マーニョと聖フランチェスコ」(17世紀)


P1370024
左翼廊のマッテオ・ダクアスパルタ枢機卿の墓


P1370022
ピエトロ・カヴァッリ―ニ(ローマ、1250c‐1330c)の「玉座の聖母子と2聖人」


P1370026
第11礼拝堂、Cappella Bambinelloです。


P1370027
Il Bambinello dell'Aracoel
本物は盗難にあったので、ここにあるのは1994年以降に作成された複製です。


P1370028
詳細不明(私が分からないだけです)


P1370031
詳細不明(私が分からないだけです)


P1370032
詳細不明(私が分からないだけです)


P1370034
左側廊の礼拝堂に移ります。
第9礼拝堂、Cappella della Madonna di Loretoです。


P1370035
第9礼拝堂の祭壇画は、マルツィオ・ディ・コラントニオ・ガナッシーニ(ローマ、1580c‐ヴィテルボ、1623c)の「ロレートの聖母」


P1370037
第9礼拝堂のフレスコ画は、マルツィオ・ディ・コラントニオ・ガナッシーニ(ローマ、1580c‐ヴィテルボ、1623c)の「聖母の物語」


P1370038
第9礼拝堂のフレスコ画


P1370040
第7礼拝堂、Cappella di San Michele Arcangeloです。


P1370041
17世紀の逸名画家作「大天使聖ミケーレ」


P1370043
第6礼拝堂、Cappella dell'Ascensioneです。


P1370044
第6礼拝堂の祭壇画は、ジローラモ・ムツィアーノ(ブレーシャ、1532‐ローマ、1592)の「キリストの昇天」(16世紀)


P1370046
第6礼拝堂の天井フレスコ画は、二コラ・トロメッタ・ダ・ペーザロ(ペーザロ、1540c-ローマ、1610/1611)の「天国」(16世紀)


P1370048
第5礼拝堂、Cappella di San Paolo Apostoloです。


P1370049
第5礼拝堂の祭壇画は、ジローラモ・ムツィアーノ(ブレーシャ、1532-ローマ、1592)の「聖パオロ・アポストロ」(16世紀)


P1370051
第5礼拝堂のフレスコ画は、クリストフォロ・ロンカッリ通称イル・ポマランチョ(ポマランチョ、1552-ローマ、1626)の「聖パオロの物語」(17世紀)です。


P1370052
ポマランチョのフレスコ画


P1370053
ポマランチョのフレスコ画


P1370055
第3礼拝堂、Cappella di Sant'Antonio di Padovaです。


P1370058
第3礼拝堂の祭壇画は、ベノッツォ・ゴッツォリ(フィレンツェ、1420c-ピストイア、1497)の「パドヴァの聖アントニオ」


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第3礼拝堂の天井フレスコ画は、ニコラ・トロメッタ・ダ・ペーザロ(ペーザロ、1540c-ローマ、1610/1611)の「天国」(16世紀)


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第2礼拝堂、Cappella dei Presepio(16世紀後半)です。


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第1礼拝堂、Cappella di San Francesco Solanoです。


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第1礼拝堂の祭壇画は、マルツィオ・ディ・コラントニオ・ガナッシーニ(ローマ、1580c-ヴィテルボ、1623c)の「天上の聖母」(17世紀)


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第1礼拝堂のフレスコ画は、ニコラ・トロメッタ・ダ・ペーザロ(ペーザロ、1540c-ローマ、1610/1611)の「無原罪の聖母の寓意」(16世紀)


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第1礼拝堂のフレスコ画


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左側廊


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左側廊からの眺め


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Altare della Madonna del Rifugio


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La Madonna della Clonna


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柱に描かれたフレスコ画


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説教壇


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詳細不明(私が分からないだけです)


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横梁に描かれたフレスコ画を見て行きます。


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受胎告知(私には制作者が分かりません)


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聖母被昇天


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聖母戴冠


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聖母の死


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エジプトへの逃避


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マギの礼拝


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詳細不明(私が分からないだけです)


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主祭壇


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中央礼拝堂後陣のフレスコ画


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中央礼拝堂前から見た出入口方向


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聖水盤


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外に出ました。


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鐘楼


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(この項、おわり)

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カンピドーリオの丘です。


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聖堂は、ヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂の隣にあります。


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聖堂に向かう階段横に緑地に彫像があります。


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二コラ・ガブリーニ通称コーラ・ディ・リエンツォ(ローマ、1313‐1354)像です。
コーラ・ディ・リエンツォは、中世ローマの政治家で護民官を務め、コーラ改革と呼ばれる市政改革を行ったことで有名です。


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サンタ・マリア・イン・アラチェリ聖堂 Basilica di Santa Maria in Ara Coeliです。
Ara Coeliとは、Mirabilia Urbis Romaeにある、アウグストクス帝が現在教会がある場所で、キリストを抱く聖母を見た時に、巫女が現れてイエス・キリストの出現と神の子の祭壇(アラ・チェリ)が出来ることを予言した、という伝説の「神の祭壇」に拠るとされてます。


119
Tempio di Giunone Monetaの遺跡の上に6世紀に建設された教会が前身です。しかし、その場所については確実なことが分からないようですが、現在の場所に近い場所であったことは明らかとされてます。
聖堂に向かう階段は、護民官コーラ・ディ・リエンツォによって1348年に造られました。


120
1250年、第180代教皇インノチェンツォ4世(マナローラ、1195c‐ナポリ、1254 在位:1243‐1254)は、初代のサンタ・マリア・イン・アラチェリ教会をフランチェスコ会に与えました。
現在の場所に、13世紀に創建されたゴシック様式の二代目の建物が現在の姿となってます。


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入口扉上のルネッタ
フレスコ画が僅かに残ってます。


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聖堂内に入りました。


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三廊式、ゴシック様式の内部ですが、一部、バロック様式の箇所があります。


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中央礼拝堂を含めて、全部で25の礼拝堂があります。


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天井の装飾


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右側廊


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右側廊から眺め


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写真右手前は、教皇グレゴリウス13世像です。
右側廊の礼拝堂から見て行きます。


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第25礼拝堂、シエナの聖ベルナルディーノ礼拝堂、別名Cappella Bufaliniです。


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シエナの聖ベルナルディーノ礼拝堂のフレスコ画は、ベルナルディーノ・ディ・ベット通称イル・ピントゥリッキオ(ペルージャ、1454‐シエナ、1513)によって1485年に制作されました。


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フレスコ画のテーマは「シエナの聖ベルナルディーノの物語」です。


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天井


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第24礼拝堂、Cappella della Pietaの祭壇画は、マルコ・ピーノ・ダ・シエナ(シエナ、1525c‐ナポリ、1587c)の「ピエタ」(16世紀)


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第24礼拝堂のフレスコ画です。
クリストフォロ・ロンカリ通称イル・ポマランチョ(ポマランチョ、1553c‐ローマ、1626)の「十字架降下」(16世紀)


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クリストフォロ・ロンカリ通称イル・ポマランチョ(ポマランチョ、1553c‐ローマ、1626)の「キリストの埋葬」(16世紀)


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第23礼拝堂、Cappella di San Girolamo o San Bonaventuraです。デルフィーニ家の礼拝堂です。


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ジョヴァンニ・デ・ヴェッキ(ボルゴ・サン・セポルクロ、1536‐ローマ、1615)の「聖ジローラモ」


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第23礼拝堂の横壁は、フランツ・ローデン(1817‐1903)の「聖ボナヴェントゥーラ」


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フランツ・ローデンの作品


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第22礼拝堂、Cappella dei Crocifissoです。
フラ・ヴィンチェンツォ・ダ・バッシアーノの「磔刑像」(17世紀)


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第22礼拝堂の、ジローラモ・シチョランテ・ダ・セルモネータ(セルモネータ、1521‐1580c)の「キリストの変容」


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第21礼拝堂、Cappella di San Matteoです。マッテイ家の個人礼拝堂です。
祭壇画は、ジローラモ・ムツィアーノ(ブレーシャ、1532‐ローマ、1592)の「天上の聖母子と天使たちと聖マッテオ」


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第21礼拝堂の、ジローラモ・ムツィアーノ(ブレーシャ、1532‐ローマ、1592)の「聖マッテオの召命」


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第21礼拝堂の、ジローラモ・ムツィアーノ(ブレーシャ、1532‐ローマ、1592)の「聖マッテオの殉教」


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第20礼拝堂、Cappella di San Stefanoです。



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ミシェル・マイレ(フランス、1643‐ローマ、1703)の「アルカンタラの聖ピエトロの光悦」


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第20礼拝堂の天井フレスコ画とスタッコ彫刻


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第19礼拝堂、Cappella di San Lorenzoです。


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第19礼拝堂の祭壇画は、ジョヴァンニ・デ・ヴェッキ(ボルゴ・サン・セポルクロ、1536‐ローマ、1615)の「聖ディエゴ」


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第19礼拝堂のフレスコ画は、ヴィンチェンツォ・ストラーダの「聖ディエゴの物語」


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第17礼拝堂で最近発見されたフレスコ画
ピエトロ・カヴァッリ―ニ(ローマ、1250c‐1330c)の「聖母子」
(つづく)

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サンタ・マリア・アンティクア教会の外に出ました。


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教会の外ですが、依然として皇帝の邸宅内に当たります。


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この先は邸宅の外になります。邸宅の外に出ても見どころがなさそうなので、邸宅内に戻りました。


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博物館のような展示がある一角に行きます。


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これらの展示は教会と直接関係のあるものではなさそうです。


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フレスコ断片


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モザイク原材料


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先に進むと、写真右に展示用ボードがあり、そこで剥離フレスコが展示されてます。


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教会の前庭に出て、さらにアーチを潜りました。


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次は40人の殉教者礼拝堂 Rampa di Domiziano e Oratorio dei Quaranta Martiriです。


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礼拝堂の中に入ります。


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40人の殉教者礼拝堂は、サンタ・マリア・アンティクア教会の一部ではなく、別の宗教施設のようです。


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キリスト教信仰が禁止されていた時代、ローマ帝国の兵士であっても、キリスト教信者になる兵士が徐々に増加していきました。


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キリスト教信者になった兵士に対して、皇帝から棄教命令が度々出されましたが、命令に従う兵士が著しく減ることがありませんでした。


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320年、皇帝の棄教命令を拒否して殉教した40人の兵士がいました。所謂「セバステの40人の殉教者」です。その時の殉教図絵がこの礼拝堂の壁に描かれてます。


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外に出ました。


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教会とは直接関係がない展示が気になりましたが、当時の教会の姿を自分の目で見ることが出来たので満足でした。


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(この項、おわり)

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スライド投影によって不鮮明なフレスコ画を補足説明しています。


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Cappella del primicerius Teodotoです。


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スライド投影が始まりました。


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(つづく)

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子供の石棺(3世紀)
サンタ・マリア・アンティクア教会の床下から発掘されました。


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クロディア・セクングの石棺(207)


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石棺(3世紀後半)


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フレスコ断片が残る壁にスライド投影されています。


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フレスコ断片の元々の図柄はこのようなものであった、ということを示すスライドです。


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それなりにためになるスライドでした。


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床の装飾


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Cappella dei Santi Medici
教皇ジョヴァンニ7世の時代(705‐707)に造られた礼拝堂です。


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(つづく)

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左側壁のフレスコ画です。


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状態はかなり良いと思います。


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ビザンチンのフレスコ画は。人物の目玉が大き過ぎ。マンガの女の子の目玉の大きさも相当なものですが・・・・・


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柱のフレスコ画


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中央身廊のフレスコ画「大天使ガブリエーレ」(8世紀)


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「聖アガタ」(7世紀末‐8世紀初め)


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ニッチの「聖母子」


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男の彫像断片(500‐550)


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ローマのMuseo dell'Alto Medievoの所蔵作品で、元々この教会になかった作品のようです。


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どうしても写真が撮れなかったメダリオン


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(つづく)

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サンタ・マリア・アンティクア教会は、遺跡から発掘された古い教会です。勿論、宗教活動は行われておらず、博物館の扱いです。


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ガイドブックなどで、フォロ・ロマーノとパラティーナの丘の地図にサンタ・マリア・アンティクア教会が記載されてますが、1980年台中頃から修復のため、長期間閉鎖されていました。2016年、約30年振りに一般公開されるようになりました。


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サンタ・マリア・アンティクア教会に行くには、フォロ・ロマーノに入る必要があります。


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サンティ・コズマ・エ・ダミアーノ聖堂の一部ロムルス神殿です。


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サンタ・マリア・アンティクア教会が見えてきました。


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ロムルス神殿の方に少し道草をしましたが、道を間違えることなく教会に来ました。


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2016年でした。


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これは何でしょうか? 墓碑?


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到着しました。写真の建物は教会の礼拝堂です。


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先ほどの案内板は、9月11日まで公開となっていましたが・・・・・


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6世紀、フォロ・ロマーノのアウグスト神殿、アウグスト帝の邸宅だった建物群を改修して、教会にしたと言われてます。


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847年の大地震によって、教会の建物が倒壊してしまいました。被害が非常に大きく、教会の存続は無理と判断され、放棄されてしまいました。


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13世紀に、サンタ・マリア・アンティクア教会の廃墟の上に小さな教会が建設され、1617年、小さな建物が取り壊され、再建された教会はサンタ・マリア・リベラトリーチェ・アル・フォロ・ロマーノ教会と称することになりました。
18世紀、サンタ・マリア・リベラトリーチェ・アル・フォロ・ロマーノ教会周辺で偶然、古代フレスコの痕跡が発見され、19世紀末に本格的な発掘調査作業が行われました。
その結果、1899年、芸術的に価値がないサンタ・マリア・リベラトリーチェ・アル・フォロ・ロマーノ教会は破壊され、元のサンタ・マリア・アンティクア教会の復活作業が始まったのです。
修復作業は現在も進行中です。


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40人の殉教者の礼拝堂です。


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礼拝堂の見学は後回し。


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アーチを潜って、教会の前庭に入りました。


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ガラスがある所が教会の入り口です。
一見前庭ですが、前庭ではなく、元々教会の建物一部でした。前庭に見える所の上にあった教会天井が屋根もろとも崩落して、前庭のようになったのです。


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”前庭”の壁龕


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フレスコの痕跡が認められました。


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この場所は、1世紀末頃に建設された皇帝邸宅の一部です。


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壁龕に描かれた、かなり鮮明なフレスコ画


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墓碑?


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教会内部に入ります。
ガラス扉がが閉まってますが、自動扉になっていて、内部の温度湿度を一定に保つためでしょう。


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皇帝邸宅の玄関とロビーになっていた所です。6世紀に改修して教会として転用しました。


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博物館としての公開なので、この教会のオリジナルではないものも展示されてます。


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主祭壇だった場所


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約850年間、土砂に埋もれていたことが幸いしたのか、かなり保存状態が良いと思います。


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右側廊?


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ビザンチン様式の教会です。


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主祭壇画あったと思われる場所に置かれた聖母のイコン


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保護のガラス板に光が反射するので、少し横から写真を撮ってみました。


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少しはマシ?


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(つづく)

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パドヴァの聖アントニオ礼拝堂です。


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ジョヴァンニ・アントニオ・ガッリ通称ロ・スパダリーノ(ローマ、1585‐1652)の「パドヴァの聖アントニオ」(1603c)


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フランチェスコ・アッレグリーニ・ダ・グッビオ(グッビオ、1587‐ローマ、1663)によって描かれたパドヴァの聖アントニオ礼拝堂の天井フレスコ画(1640‐50)


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フランチェスコ・アッレグリーニ・ダ・グッビオ(グッビオ、1587‐ローマ、1663)の作品(パドヴァの聖アントニオ礼拝堂左側壁)(1640‐50)


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フランチェスコ・アッレグリーニ・ダ・グッビオ(グッビオ、1587‐ローマ、1663)の作品(パドヴァの聖アントニオ礼拝堂右側壁)(1640‐50)


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アッシジの聖フランチェスコ礼拝堂です。


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ジローラモ・ムツィアーノ派逸名画家作「法悦の聖フランチェスコ」


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ジローラモ・ムツィアーノ派逸名画家によるフランチェスコ礼拝堂左側壁のフレスコ画


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ジローラモ・ムツィアーノ派逸名画家による聖フランチェスコ礼拝堂右側壁のフレスコ画


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聖バルバラの礼拝堂です。


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カヴァリエール・ダルピーノ派逸名画家作「聖バルバラと天使」(1650c)


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カヴァリエール・ダルピーノ派逸名画家によって描かれた聖バルバラ礼拝堂天井のフレスコ画


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カヴァリエール・ダルピーノ派逸名画家によって描かれた聖バルバラ礼拝堂左側壁のフレスコ画


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カヴァリエール・ダルピーノ派逸名画家によって描かれた聖バルバラ礼拝堂右側壁のフレスコ画


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聖アレッサンドロ礼拝堂です。


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ルーベンス派逸名画家作「聖アレッサンドロの殉教」(1640c)


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フランチェスコ・アッレグリーニ・ダ・グッビオ(グッビオ、1587‐ローマ、1663)によって描かれた聖アレッサンドロ礼拝堂天井のフレスコ画(1640)


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聖アレッサンドロ礼拝堂左側壁の、フランチェスコ・アッレグリーニ・ダ・グッビオ(グッビオ、1587‐ローマ、1663)の「聖アレッサンドロの有罪判決」(1640)


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聖アレッサンドロ礼拝堂右側壁の、フランチェスコ・アッレグリーニ・ダ・グッビオ(グッビオ、1587‐ローマ、1663)の「聖アレッサンドロの殉教」(1640)


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ヴィテルボの聖ローザとパレルモの聖ロザルタの礼拝堂です。


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17世紀中頃のローマの逸名画家作「ヴィテルボの聖ローザとパレルモの聖ロザルタ」


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礼拝堂左側壁


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礼拝堂右側壁


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この日、クリプタは閉まったままでした。


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詳細不明


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ドメニコ・カステッリ?の墓


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聖堂内部から回廊に出ました。


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回廊は17世紀に建設されました。


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中庭のフォンターナ


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回廊の壁にフレスコ画があります。


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17世紀中頃にローマの逸名画家によって描かれました。


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見所がもう一つあるので見逃さないように。


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これが必見とされてます。


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大きなプレセピオです。


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18世紀にナポリで作られたものです。


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イタリアで最大のプレセピオと言われてますが、事実?


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教会の扉を閉める鉦の音が聞こえてきました。


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回廊に出て、出口に向かいました。


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外に出ると直ぐに扉が閉められました。


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ロムルス神殿の中に入ることが出来ず、それが残念でした。


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(この項、おわり)

P1370109
Basilica dei Santi Cosma e Damiano、サンティ・コズマ・エ・ダミアーノ聖堂はフォロ・ロマーノにあります。


218
聖堂の入り口は、コロッセオに向かうフォーリ・インペリアーリ通りの右側にあります。


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聖堂の入り口とその上にある鐘楼が見えてます。


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聖堂は、ヴェスパシアーノのフォロの上にあります。


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6世紀、恐らく527年に建設されたとされてますが、5世紀建設の別説もあります。
現在の外観は、1632年、当時の教皇ウルバーノ8世の命によって、17世紀に改修された後の姿です。


P2110653
ロムルス神殿側の出入り口は、1947年に閉鎖され、現在の出入り口から出入りするようになりました。


P1360780
現在の出入り口から中に入ると中庭に出ます。


P1360781
中庭回廊から聖堂内に入ります。


P1360782
単廊式、バジリカ様式の内部です。


P1360783
左側壁


P1360785
右側壁


P1360784
17世紀に改修された天井
写真下にモザイクがありますが、モザイクの上に3匹の蜂のベルベリーニ家の紋章があります。バルベリーニ家の紋章があるのは、改修を命じた教皇ウルバーノ8世がバルベリーニ家出身だからでしょう。


P1360866
天井のフレスコ画「天上の聖母子と聖コズマと聖ダミアーノ」
私には制作者等の詳細が分かりません。


P1360786
主祭壇と後陣


P1360788
530年に制作された後陣のモザイク


P1360794


P1360795
キリストを挟んで、向かって右の聖人たちは、右端から聖テオドーロ、聖ダミアーノ、聖ピエトロです。


P1360796
向かって左は、左端から教皇フェリーチェ4世、聖コズマ、聖パオロです。


P1360827


P1360789


P1360859


P1360830
聖職者席上部の壁に修道女が描かれてます。


P1360793
主祭壇の「聖母子」(13世紀)
制作者情報不詳


P1360828
主祭壇を横から見たところです。


P1360829


P1360876
内陣と後陣を仕切る梁にもモザイクが施されてます。


P1360868


P1360869


P1360871


P1360872


P1360798
磔刑の礼拝堂です。


P1360799
磔刑の礼拝堂左側壁のフレスコ画
制作者等を調べましたが、分かりません。


P1360800
磔刑の礼拝堂右側壁のフレスコ画


P1360801
磔刑の礼拝堂天井の装飾


P1360802
「Kyrios」と呼ばれているフレスコ画(8世紀)
長い衣を纏ったキリストの磔刑像です。東方系の磔刑像です。
これと似た磔刑像があるのをご存知でしょうか?


P2680121
ルッカのドゥオーモにある磔刑像(彫刻)です。こちらも長い衣を纏ったキリストです。


P1360803
聖母マリアの礼拝堂です。


P1360805
ジョヴァンニ・バリオーネ(ローマ、1566‐1643)の「麻痺の病人を治す聖ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ」


P1360807
聖母マリアの礼拝堂天井のフレスコ画もジョヴァンニ・バリオーネ(ローマ、1566‐1643)によって描かれました。


P1360809
ジョヴァンニ・バリオーネ(ローマ、1566‐1643)の「キリストの神殿奉献」


P1360810
ジョヴァンニ・バリオーネ(ローマ、1566‐1643)の「マギの礼拝」
(つづく)

107
Cappella Sant'Agostinoの天井フレスコ画は、ジョヴァンニ・バッティスタ・スペランツァ(ローマ、1600‐1640)によって1640年に制作されました。


104
Cappella Sant'Agostinoの祭壇画は、ジョヴァンニ・フランチェスコ・バルビエーリ通称グエルチーノ(チェント、1591‐ボローニャ、1666)の「聖ジョヴァンニ・バッティスタと聖アゴスティーノとエレミータの聖パオロ」(1636‐37)


106
Cappella Sant'Agostinoの右側壁にある、ジョヴァンニ・ランフランコ(パルマ、1582‐ローマ、1647)の「異端者を糾弾する聖アゴスティーノ」(1639c)


163
Cappella Sant'Agostinoの左側壁にある、ジョヴァンニ・ランフランコ(パルマ、1582‐ローマ、1647)の「聖アゴスティーノに顕現するキリスト」(1639c)


109
ジョヴァンニ・バッティスタ・スペランツァ(ローマ、1600‐1640)の「聖アゴスティーノと聖霊降臨」(1640c)


114
トレンティーノの聖二コラ礼拝堂の天井フレスコ画は、ジョヴァンニ・バッティスタ・リッチ(ノヴァーラ、1537‐ローマ、1627)の「聖二コラの生涯」(1585c)です。


111
トンマーゾ・サリーニ(ローマ、1575‐1625)の「トレンティーノの聖二コラ」(17世紀初め)
トンマーゾ・サリーニは、ジョヴァンニ・バリオーネの友人です。バリオーネがカラヴァッジョ、オラツィオ・ジェンティレスキなどを訴えた、有名なバリオーネ裁判において、バリオーネ側の証人として出廷し、カラヴァッジョ側と争った画家です。カラヴァッジョ、ジェンティレスキの足元にも及ばない凡庸な画家でしたが、自己評価だけは非常に高かったという面白い存在です。


112
Cappella San Nicolaの、ピエトロ・ガグリアルディ(ローマ、1809‐フランスカティ、1890)の「ペスト禍」(19世紀中頃)


113
ピエトロ・ガグリアルディ(ローマ、1809‐フラスカティ、1890)の「聖二コラの幻視」(19世紀中頃)


115


117


160
中央礼拝堂


120
Cappella Santa Monicaの天井フレスコ画、ジョヴァンニ・バッティスタ・リッチ(ノヴァーラ、1537‐ローマ、1627)の「聖モニカの生涯」(16世紀第1四半世紀)


119
ジョヴァンニ・ゴッタルディ(ファエンツァ、1733‐ローマ、1812)の「聖母子と聖アゴスティーノと聖モニカ」(1760c)


122


125
ジャチント・ブランディ(ポーリ、1621‐ローマ、1691)の「三位一体の幻視」(1660c)


126
ローマ派逸名画家作「悪魔に取りつかれた人を救出する聖人」(1660c)


127
ローマ派逸名画家作「病人を癒す聖人」(1660c)


128
ローマ派逸名画家によって描かれたCappella Santo Spiritoの天井フレスコ画(1660c)


131
聖アポッロニア礼拝堂の祭壇画は、ジローラモ・ムツィアーノ(ブレーシャ、1532‐ローマ、1592)の「獄中の聖アポッロニア」(1585c)


132
聖アポッロニア礼拝堂左側壁にある、フランチェスコ・ローザ(スイス、ジュネーヴ、1638‐ローマ、1687)の「無垢」(1660c)


133
聖アポッロニア礼拝堂右側壁の、フランチェスコ・ローザ(スイス、ジュネーヴ、1638‐ローマ、1687)の「殉教」(1660c)


134
フランチェスコ・ローザ(スイス、ジュネーヴ、1638‐ローマ、1687)によって1660年頃に描かれた天井フレスコ画「天上の聖アポッロニア」


137
聖キアーラ礼拝堂の祭壇画は、セバスティアーノ・コンカ(ガエータ、1680‐ナポリ、1764)の「モンテファルコの聖キアーラに顕現するキリスト」(1751c)


138
逸名画家によって18世紀中頃に描かれた、聖キアーラ礼拝堂のフレスコ「聖キアーラの物語」


146
Cappella Pio


147
Cappella Pioの祭壇


148
ジローラモ・ナンニ(ローマ、?‐1642)のCappella Pioの天井フレスコ画


150


155
右側廊


156
左側廊


157


158


172
見所が豊富です。


164


170
外に出る前に、もう一度「ロレートの聖母」を見ました。


159
外に出ました。


160
カラヴァッジョ作品がある3つの教会のうち、ここが最も人出が少ないのは何故でしょうか?


161
(この項、おわり)

067
次はサンタゴスティーノ聖堂です。サン・ルイージ・デイ・フランチェージ聖堂から歩いて数分の距離の、ナヴォーナ広場近くにあります。


068
しかし、少し遠回りしてサン・イーヴォ・アッラ・サピエンツァ教会に来てしまいました。


071
教会が開くのは日曜日の午前中のみで、この日は平日でした。


069
閉まっていても、この見事な柱廊は見る価値があります。


070


073
道草を適当に切り上げて、いよいよサンタゴスティーノ聖堂です。


074
サンタゴスティーノ・イン・カンポ・マルツィオ聖堂、略してサンタゴスティーノ聖堂です。


154
1999年、第244代教皇ジョヴァンニ・パオロ2世(教皇在位:1978‐2005)によってBasilica Minoreに格付けされました。


152
14世紀にアウグスティヌス会がこの地に教会の建設を決め、14世紀末に工事着工、1420年に完成しました。しかし、修道院活動する教会としては規模が小さく、テヴェレ川の洪水の影響を受け易い低地だったので、土地をかさ上げすると共に大規模な建物にするべく、直ぐに再建されることになりました。そうして、1479年創建、1483年に完成したルネサンス様式の二代目の建物が現在の姿の原形となってます。


075
ファサードは、レオン・バッティスタ・アルベルティ(ジェノヴァ、1404‐ローマ、1472)によって設計されましたが、アルベルティが先に設計したフィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂のファサードを模したと言われてます。建築家ヤコポ・ディ・クリストフォロ・ダ・ピエトラサンタ(ピエトラサンタ、?‐ローマ、1495)の工事監督によって、1483年に完成したファサードです。


076
ファサードの両サイド端の渦巻きは、新しい修道院が建設された際に、建築家ルイージ・ヴァンヴィテッリ(ナポリ、1700‐カゼルタ、1773)の設計によって、1746年‐1750年に追加されたものです。


078
ファサードのフレスコ画


077
中央扉は大体閉まってます。ファサードに向かって右の扉から出入りするのが普通です。


155
三廊式、ラテン十字形、ルネサンス様式の内部です。


080
お目当ては左側廊の最初の礼拝です。


151
カヴァレッティ礼拝堂です。
16世紀末、または17世紀初頭、カヴァレッティ家がこの礼拝堂を買い取り、当時のカヴァレッティ家の当主が、礼拝堂の祭壇をロレートの聖母で飾るとの遺言を残して没しました。
サンタゴスティーノ聖堂は、サン・ピエトロ大聖堂に通じるサンタンジェロ橋に向かう道路上にあり、巡礼地になっていました。


154
聖堂に入って直ぐの所にある、ヤコポ・サンソヴィーノ(フィレンツェ、1486‐ヴェネツィア、1570)の「妊娠帯の聖母」(1516)
巡礼者は、この聖母を見てから、左のカヴァレッティ礼拝堂に向かうのが普通でした。


800px-S_Agostino_-_Sansovino
私の写真がボケなので、鮮明な写真を外部サイトから拝借しました。


140
カヴァレッティ礼拝堂の祭壇画は、ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571‐ポルト・エルコレ、1610)の「ロレートの聖母」(1604‐06)


144
1603年、カラヴァッジョは、死去したエルメーテ・カヴァレッティの遺言執行人から「ロレートの聖母」の注文を受けました。
カラヴァッジョは、制作のためにマルケのアスコリ・ピチェーノ、トレンティーノに行った記録が残されてます。(そこで祭壇画を制作しましたが、失われてしまいました) ロレートを訪れた記録がありませんが、恐らくロレートに行ったものと考えられてます。


800px-Michelangelo_Caravaggio_001
「ロレートの聖母」の鮮明な作品画像(外部サイトから拝借しました)


141
カヴァレッティ礼拝堂天井


142
カヴァレッティ礼拝堂の左側壁


143
カヴァレッティ礼拝堂の右側壁


083
身廊の柱に描かれたラファエッロ・サンツィオの「預言者イザヤ」


158



sansovino-raffaello-isaia
イザヤの下にあるサンソヴィーノの「聖母子と聖アンナ」


086
Cappella di Santa Caterina d'Alessandriaの天井フレスコ画は、マルチェッロ・ヴェヌスティ(マッツォ・ディ・ヴァルテッリーナ、1510‐ローマ、1579)によって1550‐60年頃に描かれました。


085
マルチェッロ・ヴェヌスティ(マッツォ・ディ・ヴァルテッリーナ、1510‐ローマ、1579)の「アレッサンドリアの聖カテリーナ」(1550‐60)


090
サン・ジュゼッペ礼拝堂のフレスコ画は、アヴァンツィーノ・ヌッチ(グッビオ、1552c‐ローマ、1629)によって1587‐88年に制作されました。


089
ドメニコ・スパニョーロの「バラの聖母」(1589)


092
アヴァンツィーノ・ヌッチ(グッビオ、1552c‐ローマ、1629)の「聖ジョヴァンニ・バッティスタ」(1587‐88)


095
Cappella San Ritaは、ベルニーニの弟子ジョヴァンニ・バッティスタ・コンティ―ニ(モンタルチーノ、1642‐ローマ、1723)の作品です。


094
ジャチント・ブランディ(ポーリ、1621‐ローマ、1691)の「聖リータの光悦」


096


097


100
ジュゼッペ・ヴァスコニオのサン・ピエトロ礼拝堂の天井フレスコ画(17世紀初め)


099
サン・ピエトロ礼拝堂祭壇は、ジョヴァンニ・バッティスタ・コティニョーラの「天国のカギを聖ピエトロに託すキリスト」(1569)


101
ジュゼッペ・ヴァスコニオの「無原罪の御宿リ」(17世紀初め)


102
ジュゼッペ・ヴァスコニオの「聖母被昇天」(17世紀初め)
(つづく)

145
中央礼拝堂を見ます。


009
カラヴァッジョの作品以外にも見るべき作品が幾つかあります。


010
主祭壇画は、フランチェスコ・バッサーノ・イル・ジョーヴァネ(バッサーノ、1549‐ヴェネツィア、1592)の「聖母被昇天」(1589)です。


004
Cappella San Sebastianoの祭壇画は、ヌーマ・ブコイラン(フランス、ニーム、1805‐1875)の「聖セバスティアーノの殉教」


005


149
Cappella San Dionigioの祭壇画は、レイノー・ルヴェー(フランス、ニーム、1613‐ローマ、1699)の「聖ディオニージョ」
レイノー・ルヴェーは二コラ・プッサンの弟子でした。


151
サンタ・チェチリア礼拝堂の祭壇画は、グイド・レーニ(ボローニャ、1575‐1642)の「ラファエッロ・サンツィオ作『聖チェチリア』の複製画」


154
サンタ・チェチリア礼拝堂のフレスコ画は、ドメニコ・ザンピエーリ通称ドメニキーノ(ボローニャ、1581‐ナポリ、1641)の「聖チェチリアの物語」


155


156
サンタ・チェチリア礼拝堂の天井のフレスコ画もドメニキーノによって描かれました。


160
Cappella Santa Giovanna di Franciaの祭壇画は、エティエンヌ・パロセル(フランス・アヴィニョン、1696‐ローマ、1775)の「天上の聖ジョヴァンナ」(1742)


164
Cappella San Remigioの祭壇画は、ヤコピーノ・デル・コンテ(フィレンツェ、1510‐ローマ、1598)の「クロヴィス1世と聖レミージョ」


165
Cappella San Remigioの右側壁の、ジローラモ・シチョランテ・ダ・セルモネータ(セルモネータ、1521‐ローマ、1598)の「クロヴィス1世の戦闘」


166
Cappella San Remigioの左側壁の、ジローラモ・シチョランテ・ダ・セルモネータ(セルモネータ、1521‐ローマ、1580)の「クロヴィス1世の洗礼」


167
Cappella San Remigioの天井フレスコ画もジローラモ・シチョランテ・ダ・セルモネータ(セルモネータ、1521‐ローマ、1580)によって描かれました。


192
Cappella della Santa Vergine


196
チャールズ・メリン(フランス、ナンシー、1597‐ローマ、1649)の「幼きキリストへの崇拝」


193
Cappella della Santa Vergineの左側壁の、ジョヴァンニ・バリオーネ(ローマ、1566‐1643)の「マギの礼拝」


198
Cappella della Santa Vergineの右側壁の、チャールズ・メリン(フランス、ナンシー、1597‐ローマ、1649)の「受胎告知」


201
Cappella San Luigiの祭壇画は、プラウティッラ・ブリッチ(ローマ、1616‐1705)の「フランスの聖ルイージ」


202
Cappella San Luigiの左側壁の、ジャチント・ジミニャーニ(ピストイア、1606‐ローマ、1681)の「天上の聖ルイージ」


205
Cappella San Luigiの右側壁の、二コラ・プッサン(フランス、レ=ザンドリ、1594‐ローマ、1665)の「十字軍の指揮権を授かる聖ルイージ」


207
Cappella San Nicolaの祭壇画は、ジローラモ・ムツィアーノ(ブレーシャ、1522‐ローマ、1592)の「バーリの聖二コラ」
その左右は、ジローラモ・マッセイ(ルッカ、1540‐1620)の「アレッサンドリアの聖カテリーナ」、「聖バルバラ」


208
Cappella San Nicolaの左側壁の、バルダッサレ・クローチェ(ボローニャ、1558‐ローマ、1628)の「バーリの聖二コラの誕生」


209
Cappella San Nicolaの天井フレスコ画は、バルダッサレ・クローチェ(ボローニャ、1558‐ローマ、1628)の「栄光のバーリの聖二コラ」


210
Cappella San Nicolaの右側壁の、バルダッサレ・クローチェ(ボローニャ、1558‐ローマ、1628)の「無実の人の死に際して神の加護を授けるバーリの聖二コラ」


025
外に出ました。
(この項、終わり)

141
マダーマ宮近くにサン・ルイージ・デイ・フランチェージ聖堂があります。
カラヴァッジョの作品があるので、サン・ルイージ・デイ・フランチェージ聖堂によく立ち寄ります。しかし、普通のイタリアの教会とはどことなく異なる雰囲気が醸し出されているので、ある種の戸惑いを感じてしまいます。
勿論、聖堂はローマにあるのですが、その名称の通り、イタリア在住のフランス人のためのフランス国有教会なのです。カラヴァッジョ作品目当ての大勢の観光客や美術ファンが訪れますが、本来の宗教目的の訪問者はフランス人が殆どなので、ちょっと違う感じが否めません。


142
サン・ルイージ・デイ・フランチェージ聖堂です。聖堂に隣接して建っている建物は、サン・ルイージ・デイ・フランチェージ宮です。


143
ローマから60㎞離れた場所に有名なファルファ修道院がありましたが、898年、侵入してきたサラセン人によって焼き打ちされてしまいました。難を逃れてローマに避難してきたファルファ修道院修道士が、10世紀頃、現在の聖堂がある場所にサンタ・マリア教会を建設しましたが、その教会がサン・ルイージ・デイ・フランチェージ聖堂の前身とされてます。


023
創建以来、サンタ・マリア教会はファルファ修道院の所有でしたが、1480年、メディチ家に譲渡されました。譲渡の際、教会の名称がフランスの守護聖人聖ルイ(ルイージ)を奉献するサン・ルイージ教会と変更されました。
聖ルイ(フランス、ポワシー、1214‐チュニス、1270)は、第7回十字軍の指揮を執ったフランス王ルイ9世(在位:1226‐1270)のことで、1297年、第193代教皇ボニファチョ8世(在位:1294‐1303)によって列聖されました。


020
1518年、ジュリオ・デ・メディチ枢機卿(フィレンツェ、1478‐ローマ、1534)は、サン・ルイージ教会を取り壊して、その上にフランス人のための新しい教会の建設を決めました。ジュリオ・デ・メディチ枢機卿は、後の219代教皇クレメンテ7世(在位:1523‐1534)です。


021
ジャコモ・デッラ・ポルタの設計、建築家ドメニコ・フォンターナの工事監督によって、1518年創建、1589年に完成したルネサンス様式のサン・ルイージ・デイ・フランチェージ教会です。献堂式は1589年10月8日に執り行われました。


022
メディチ家からフランス王家に嫁いだカテリーナ・デ・メディチが、この教会の建設に際して財政面を含む多大な援助を行ったとされてます。


024
Basilica Minoreに格付けされたので、Basilica di San Luigi dei Francesiと呼ばれてます。


142
ファサードの彫刻を見ます。
ジャコモ・デッラ・ポルタ(ポルレッツァ、1532‐ローマ、1602)の「フランス王ルイ9世」


143
ジャコモ・デッラ・ポルタ(ポルレッツァ、1532‐ローマ、1602)の「カール大帝」


140
この教会の見所は何といってもカラヴァッジョの作品でしょう。


144
混雑していることが多いと思います。


017
堂内に入りました。


018
三廊式、バロック様式の内部です。


019
建設当初はルネサンス様式の内部でしたが、フランス人建築家Antoine Derizetによって1749年から1756年にかけて修復工事が行われ、その際バロック様式に改築されました。


015
身廊天井のフレスコ画は、フランス人画家シャルル=ジョゼフ・ナトワール(フランス、ニーム、1700‐カステル・ガンドルフォ、1777)の「聖ルイージの栄光」(1754‐56)です。


006
先ずカラヴァッジョ作品があるコンタレッリ礼拝堂です。誰もいません。


007
混雑を避けて、ゆっくりと鑑賞するには、1月から3月の朝に行くと、誰もいないことが多いと思います。ただし、中国人がイタリアに押し掛ける旧正月の時期は避けた方が無難です。


188
1565年、フランス人マッテオ・コンタレッリ枢機卿は、左側廊奥にある礼拝堂を買収しました。自分の名前に因む聖マッテオ主題の絵画、彫刻で礼拝堂を装飾することにしました。


190
当初、画家ジローラモ・ムツィアーノ(ブレーシャ、1532‐ローマ、1592)に制作委嘱されましたが、多忙のために仕事に取り掛かることが出来ずに断念となりました。
ところが、1585年、マッテオ・コッタレッリは死去したのですが、礼拝堂装飾を切望する遺言を残しました。マッテオの遺言執行人は、カヴァリエール・ダルピーノに礼拝堂装飾を委嘱したのです。


184
ジュゼッペ・チェーザリ通称カヴァリエール・ダルピーノ(アルピーノ、1568‐ローマ、1640)によって描かれたコッタレッリ礼拝堂天井のフレスコ画


177
しかし、当時の売れっ子画家カヴァリエール・ダルピーノは、天井画を制作したものの、多忙過ぎて祭壇画の制作に取り掛かることが出来ませんでした。
代わって選ばれたのが、ベルギーの彫刻家ヤコブ・コルネリス・コバートとカラヴァッジョでした。コンタレッリ礼拝堂の正面に彫刻、左右の側壁に絵画の配置が決まり、2点の絵画がカラヴァッジョに注文されたのです。
当時、無名だったカラヴァッジョが選ばれたのは、カラヴァッジョの最初で最大のパトロンだったフランチェスコ・マリア・ブルボン・デル・モンテ枢機卿(デル・モンテ枢機卿)がフランス大使をしていて、この教会に対する発言力があったからとされてます。


169
コンタレッリ礼拝堂左側壁の、ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571‐ポルト・エルコレ、1610)の「聖マッテオの召命」(1600)


180


182


23conta0
外部サイトから拝借した作品画像


185
この作品で聖マッテオが誰か、という点が議論の的になってますが、私は、この作品写真左端の金を数えてる若者が聖マッテオであると思います。


172
右側壁の、ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571‐ポルト・エルコレ、1610)の「聖マッテオの殉教」(1600)


179


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外部サイトから拝借した「聖マッテオの殉教」


186


187

さて、礼拝堂正面の「聖マッテオと天使」に触れるのを後にしたのは理由があるのです。
「聖マッテオと天使」は、ヤコブ・コルネリス・コバートに注文され、納品され、コッタレッリ礼拝堂に召命を飾った彫刻がありました。


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これがヤコブ・コルネリス・コバート(ベルギー、アンギャン、1530?‐ローマ、1615)の「聖マッテオと天使」(1602)です。
死去したマッテオ・コッタレッリ枢機卿の甥で、この教会の司祭を務めていたフランチェスコ・コッタレッリは、この作品が愚作として気に入らず、礼拝堂から外すことを決め、礼拝堂正面も絵画にすることにして、改めてカラヴァッジョに注文したのです。
取り外されたコバートの彫刻は、現在、ローマのサンティッシマ・トリニータ・デイ・ペッレグリーニ教会のサン・マッテオ礼拝堂にあります。


171
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(ミラノ、1571‐ポルト・エルコレ、1610)の「聖マッテオと天使」


181
しかし、これは第二作なのです。


26conta
外部サイトから拝借した作品画像


25conta
これがカラヴァッジョの「聖マッテオと天使」の第1作です。
この第1作は不評で取り外されて、直ぐに第2作が制作されて差し替えされたのです。
第1作は、ベルリンのカイザー・フリードリッヒ美術館にありましたが、第二次世界大戦の爆撃によって消失してしまいました。残念ながら、第1作のカラー写真はありません。


174
(つづく)

800px-Cappella_montermirabile,_altare
次はCappella Montemirabileです。


036
パスクゥアーレ・ロッシ(ヴィチェンツァ、1641‐ローマ、1722)の「キリストの洗礼」


038
詳細不明


800px-Cappella_del_presepe_02
次はCappella della Rovereです。


043
ベルナルディーノ・ベット通称ピントゥリッキオ(ペルージャ、1454‐シエナ、1513)の「羊飼いの礼拝」


045
ピントゥリッキオと弟子によって描かれたルネッタのフレスコ画


047
ピントゥリッキオと弟子によって描かれたルネッタのフレスコ画


800px-Santa_maria_del_popolo,_cappella_cybo
次はCappella Cyboです。


048
カルロ・マラッタ(カメラーノ、1625‐ローマ、1713)の「無原罪の聖母と教会博士たち」


050
ルイージ・ガルツィ(ピストイア、1638‐ローマ、1721)の「永遠なる父」


051
ダニエル・セイタ―(ウィーン、1647‐トリノ、1705)の「聖ロレンツォの殉教」


052
ダニエル・セイタ―(ウィーン、1647‐トリノ、1705)の「アレッサンドリアの聖カテリーナの殉教」


800px-Cappella_basso_della_rovere_01
次はCappella Basso della Rovereです。


054
祭壇画はピントゥリッキオの作品です。


056
ベルナルディーノ・ベット通称ピントゥリッキオ(ペルージャ、1454‐シエナ、1513)の「玉座の聖母子と聖人たち」


057
ピントゥリッキオの「聖母被昇天」


061
ルネッタのフレスコ画


060


059


800px-Costa_Chapel
次はCappella Costaです。


063
ピエトロ・フォスカリの墓


064
ピントゥリッキオの弟子によって描かれた天井フレスコ画


067
ジョヴァンニ・マリア・モランディ(フィレンツェ、1622‐ローマ、1717)の「ご訪問」(1659)


800px-Santa_Maria_del_Popolo_Kapellen_im_rechten_Seitenschiff
次はCappella Feoliです。


069
詳細不明


071
カジミロ・デ・ロッシ(トリノ、1818‐ローマ、1876)の「ヴィッラノーヴァの聖トンマーゾ」(1860)


070
カジミロ・デ・ロッシ(トリノ、1818‐ローマ、1876)の「ヴィッラノーヴァの聖トンマーゾの奇跡」(1860)


072
カジミロ・デ・ロッシ(トリノ、1818‐ローマ、1876)によって描かれた天井フレスコ画「4福音書記者」(1860c)


074
主祭壇


077


079
「ポポロの聖母」のイコン


080


081
もう一度中央礼拝堂を見ました。


082
詳細不明


085
外に出ました。


091
この項、終わり。

092
ローマのポポロ広場です。


032
昔、フラミニア門と呼ばれたポポロ門です。


087
ポポロ広場からポポロ門に向かって右側に、サンタ・マリア・デル・ポポロ聖堂があります。


089
1099年、第160代教皇パスクゥアーレ2世(ブレーダ、1050‐ローマ、1118)の命によって、フラミニア門の横に小さな教会が建設されましたが、それが前身です。
その際、ローマ市民が資金負担をしたので、それが教会の名称の由来となってます。(popolo=人民、住民)


084
しかし、建物の経時劣化と手狭になったので、1472年、当時の教皇シクストゥス4世の命によって、最初の建物を取り壊し、その上に新しい建物が建設されることになりました。


083
そうして、1472年創建、1477年に完成したルネサンス様式の二代目の建物が現在の姿です。


005
再建された建物の献堂式が1477年に行われました。


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堂内に入りました。


042
三廊式、ラテン十字形、ルネサンス様式の内部です。


041
バロック様式で装飾された礼拝堂が目立ちます。


015
左側廊
この聖堂の最大の見所は後陣左のチェラージ礼拝堂です。真っ先にチェラージ礼拝堂に向かいました。


011
チェラージ礼拝堂です。


003
チェラージ礼拝堂の主祭壇画は、アンニーバレ・カラッチ(ボローニャ、1560‐ローマ、1609)の「聖母被昇天」(1600‐01)


008
チェラージ礼拝堂の装飾は、全てアンニーバレ・カラッチに委嘱されていました。
アンニーバレは、当時ファルネーゼ家のお抱え絵師でしたが、この「聖母被昇天」と天井のフレスコ画の完成直後に、ファルネーゼ家に呼ばれ、ファルネーゼ家の仕事に専念するようにと言われてそうです。


Carracci-Assumption_of_the_Virgin_Mary
外部サイトから拝借した鮮明な作品画像
アンニーバレは、チェラージ礼拝堂の装飾の仕事を已む無く中断して、ファルネーゼ家の仕事に従事することになりました。
アンニーバレは天才でしたが、仕えていたファルネーゼの冷遇によって鬱病を発症して、絵画制作を殆どすることなく失意のうちに病死しました。


009
チェラージ礼拝堂天井のフレスコ画
アンニーバレ・カラッチと弟子のインノチェンツォ・ダッコーニによって制作されました。
チェラージ礼拝堂の左側壁と右側壁、2つの作品は、ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ通称カラヴァッジョ(ミラノ、1571‐ポルト・エルコレ、1610)に注文されました。


006
チェラージ礼拝堂右側壁にあるカラヴァッジョの「聖パオロの回心」(1601‐05)


800px-Conversion_on_the_Way_to_Damascus-Caravaggio_(c_1600-1)
実は、これは第2作なのです。
これの前に描かれた「聖パオロの回心」があり、カラヴァッジョ自身が第1作に不満足で描き直したのか、注文主であるチェラージ家の意向だったのか、差し替えられた理由が判然としないようです。


Caravaggio_-_Conversione_di_San_Paolo_(Odescalchi)
カラヴァッジョの「聖パオロの回心」の第1作
ローマのオデスカルキ=バルビ・コレクション蔵


009
チェラージ礼拝堂左側壁にある、カラヴァッジョの「聖ピエトロの逆さ磔」


800px-Caravaggio_-_Martirio_di_San_Pietro
実は、「聖ピエトロの逆さ磔」にも第1作が描かれ、こちらは第2作という訳です。
第1作は現存してませんが、当時の文書に存在していた記録が残されているそうです。第2作に差し替えられた理由は不明です。


013
次はCappella Theodoliです。


014
礼拝堂天井のフレスコ画は、ジュリオ・マッツォ―ニ(ピアチェンツァ、1525‐1618)によって描かれました。


015
ジュリオ・マッツォ―ニ(ピアチェンツァ、1525‐1618)の「受胎告知する大天使」


018
ジャコモ・トリガー(ローマ、1674‐1746)の「受胎告知される聖母」
「聖パオロ」の制作者が分かりません。


017



019
詳細不明


021
次はCappella Cybo-Soderiniです。


022
ピーテル・ヴァン・リント(ベルギー、アンヴェルサ、1609‐1690)による天井フレスコ画(1636‐37c)


025
ピーテル・ヴァン・リント(ベルギー、アンヴェルサ、1609‐1690)の「聖十字架の発見」


023
ピーテル・ヴァン・リント(ベルギー、アンヴェルサ、1609‐1690)の「聖十字架称賛」


028
Cappella Melliniの主祭壇画は、アゴスティーノ・マスッチ(ローマ、1691‐1758)の「聖アゴスティーノとトレンティーノの聖二コラに顕現する聖母」


029
Cappella Melliniのフレスコ画は、ジョヴァンニ・ダ・サン・ジョヴァンニ(サン・ジョヴァンニ・ヴェルダルノ、1592‐フィレンツェ、1636)の「栄光のトレンティーノの聖二コラ」


030
ジョヴァンニ・ダ・サン・ジョヴァンニのフレスコ画


032
次はキージ礼拝堂です。


010
キージ礼拝堂の祭壇画は、セバスティアーノ・デル・ピオンボ(ヴェネツィア、1485‐ローマ、1547)とフランチェスコ・サルヴィアーティ(フィレンツェ、1510‐ローマ、1563)の「聖母の誕生」(1555完成)


033
キージ礼拝堂クーポラのモザイクはラファエロの原画に基づきます。


012
ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ(ナポリ、1598‐ローマ、1680)の「預言者ハバスク」


011
ロレンツォ・ロッティ通称ロレンツェット(フィレンツェ、1490‐ローマ、1541)の「預言者ヨナ」(1540c)


013
ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ(ナポリ、1598‐ローマ、1680)の「預言者ダニエル」


014
ロレンツォ・ロッティ通称ロレンツェット(フィレンツェ、1490‐ローマ、1541)の「預言者エリア」(1540c)
(つづく)

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