マルチェッロ(マルケルス)劇場です。
劇場に通じるテアートロ・ディ・マルチェッロ通りを右折してモンタナーラ通りに入ります。
通りの入り口に教会がありますが、それは目指す教会ではありません。
サンタ・マリア・イン・ポルティコ・イン・カンピテッリ教会です。
524年、サンタ・ガッリ宮殿の柱廊にペストで苦しむ民衆がいましたが、その前に聖母が顕現したという伝説が生じ、それを基にガエターニ・ロヴァテッリ宮があった場所に小さな教会が建設されました。それが前身です。
初代の建物が老朽化したので、13世紀に再建されました。
反宗教改革の機運が高まると、1618年、教会付近のパラッツォを取り壊して、大きな教会にすることが決定され、1619年に工事が着工されましたが、度重なるペストと資金難のために、建設工事がたびたび中断しました。1648年のペスト禍によって、遂に工事中止に追い込まれてしまい、やがて計画自体の放棄に至ってしまいました。
1654年頃、教皇アレッサンドロ7世によって、建設計画が蘇り、建築家カルロ・ライナルディ(ローマ、1611‐1691)が起用され、ローマ市当局と教皇庁の資金援助によって、カルロ・ライナルディ設計による工事が1656年に開始され、1667年に一応の完成を見て奉献式が執り行われました。
現在のファサードはカルロ・ライナルディ設計のものです。
1667年に完成したカルロ・ライナルディ設計の教会は小さく、反宗教改革の文化的、政治的、宗教的ニーズに対して不満足との結論が出され、建物を拡大するべく建築家ジョヴァンニ・アントニオ・デ・ロッシ(ローマ、1616‐1695)が起用され、ジョヴァンニ・アントニオ・デ・ロッシの設計によって、拡張工事が開始されました。
ジョヴァンニ・アントニオ・デ・ロッシの死から33年後の1728年に漸く完成し、同年奉献式が執り行われました。
教会の横にあるフォンターナです。
教皇シスト5世が1589年ジョコモ・デッラ・ポルタに作らせたアクアフェリーチェと呼ばれる噴水は、教会のファサード前にありましたが、教会の拡張工事中の1675年に拡張スペース確保のために現在の場所に移動されました。
地味なファサードの装飾
中に入りました。
単廊式、バロック様式の内部です。
写真にパドヴァの聖アントニオ像が写っていますが、その場所から後陣の長さが拡張されました。
現代の彩色磔刑像
右側壁第1礼拝堂
セバスティアーノ・コンカ(がエータ、1680‐ナポリ、1764)の「聖ミケーレ」(1725‐35c)
右側壁第2礼拝堂
ルカ・ジョルダーノ(ナポリ、1634‐1705)の「聖ジョアッキーノと聖アンナと聖母」(1692)
詳細不明
Cappella di San Nicola da Bari
ローマの逸名画家作「聖母子と聖ジョヴァンニ・バッティスタとバリーの聖二コラ」(19世紀)
Cappella di San Nicola da Bariの天井フレスコ画
主祭壇
後陣のフレスコ画は、ジョヴァンニ・バッティスタ・コンティ(ローマ、1878‐1970)の「アレッサンドロ7世に建言する聖母子」
クーポラ
詳細不明
ロレンツォ・オットーニ(ローマ、1658‐1736)の「ベアータ・ルドヴィーカ・アルベルトーニの墓碑」
Cappella Vaselli
詳細不明
Cappella di San Paolo
ミケランジェロ・リッチョリーニ(ローマ、1654‐1715)によって描かれたCappella di San Paoloの天井フレスコ画
ルドヴィーコ・ジェミニアーニ(ジミニャーニとも呼ばれる)(ローマ、1643‐ザガローロ、1697)の「聖母子」
ルドヴィーコ・ジェミニアーニ(ジミニャーニ)(ローマ、1643‐ザガローロ、1697)の「聖パオロの回心」
Cappella di San Giovanni
ジュゼッペ・パッセーリ(ローマ、1654‐1714)によるCappella di San Giovanniの天井フレスコ画
ジョヴァンニ・バッティスタ・ガウッリ通称バチッチャ(またはバチッチョ)(ジェノヴァ、1639‐ローマ、1709)の「聖ジョヴァンニ・バッティスタの誕生」
Cappella Altieri
ロレンツォ・オットーニ(ローマ、1658‐1736)の浮彫
聖水盤
詳細不明のイコン
ファサードの裏にオルガンがあります。
外に出ました。
道を挟んで、教会の向かいにある、16世紀に建設されたアルベルトーニ・スピノーラ宮です。
(この項、おわり)