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サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂からサンタ・プデンツィアーナ聖堂に向かいました。


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大聖堂と聖堂は直線距離で約300mくらいなので、徒歩5分ほどで行けます。


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鐘楼が見えてきましたが、目指すサンタ・プデンツィアーナ聖堂のものです。


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道路よりも低い場所に聖堂が建ってます。


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ローマの教会巡り17でサンタ・プラッセ―デ聖堂を取り上げましたが、この聖堂が献堂する聖プデンツィアーナと先に取り上げた聖プラッセ―デは姉妹で、聖プラッセ―デが姉、聖プデンツィアーナは妹と言われてます。
フィリピン人の国立教会となってます。


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プデンテ元老院議員(聖プデンテ)(ローマ、1世紀‐2世紀)は、現在、この聖堂が建っている場所にドムスを所有していましたが、キリスト教に改宗するとドムス内の目立たぬ場所に教会を建設しました。キリスト教が禁じられていた時代なので、知れは仕方がなかったと思います。
2世紀、伝説に拠れば、プデンテ議員の娘プラッセ―デとプデンツィアーナは、聖ピエトロによって洗礼を受け、キリスト教に改宗しました。


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マルクス・アウレリウス帝とアントニウス・ピウス帝から出されたキリスト教禁止令に背いて、姉妹は殉教しました。
4世紀頃、聖プデンテのドムスだった場所に建設されたのが、この聖堂です。ローマで最古の初期キリスト教会の一つとされてます。


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創建された時期ですが、5世紀説など数説あって、起源と創建年について、今なお議論されているようです。


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4世紀頃、または5世紀頃に創建された建物が、現在の建物の基本構造になってますが、その後に行われた改修や修復によって、外観と聖堂内部は創建時のものとは大きく異なります。
聖堂外観はかなりアンバランスに見えます。ファサードは一見古そうですが、よく見ると新しいものであることが分かります。
現在の外観は、1588年に大きく改修され、1870年に修復復元されたものです。


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聖プラッセ―デの彫刻


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ファサードのフレスコ画は色褪せて落剝も認められますが、長年、太陽と風雨にさらされた結果です。実は、ピエトロ・ガリアルディ(ローマ、1809‐フラスカーティ、1890)によって19世紀に修復されたものです。修復と言っても修復前には、フレスコ画の痕跡があるだけだったので、ガリアルディの作品と言っても過言ではないでしょう。


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彫刻は、11世紀のもので、19世紀に修復されました。


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ロマネスク様式の鐘楼は13世紀に建設されました。


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中に入りました。


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単廊式、バロック様式の聖堂内部です。
元々は三身廊、バジリカ様式の内部でしたが、1588年、柱廊を取り除き、聖歌隊席を撤去し、柱を増加させて強度を増加するために改造したのです。


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祭壇画を見て行きました。
ジョヴァンニ・パオロ・ロッセッティ(1519‐1586)の「殉教者を悼む聖プデンツィアーナと聖プラッセ―デ」


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ローマの逸名画家作「聖プデンテを洗礼する聖ピエトロ」(17世紀)


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アントニオ・タナーリ(ローマ、17世紀中頃活動)の「シエナの聖カテリーナ」


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アントニオ・タナーリ(ローマ、17世紀中頃活動)の「シエナの聖カテリーナ」


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制作者情報不知の「大天使ラッファエーレとトビアス」


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礼拝堂の名称が分かりません。


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ローマの逸名画家作「クレメンツァの聖母」(1590c)


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ラッザロ・バルディ(ピストイア、1624c‐ローマ、1703)の「聖母の誕生」


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ラッザロ・バルディ(ピストイア、1624c‐ローマ、1703)の「ご誕生」


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後陣と主祭壇


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後陣のモザイク(390c)
ローマで最古のモザイクと言われてます。


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修復の際、修復されなかった聖人の下半身がありません。


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左の女性が聖プデンツィアーナです。


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聖プラッセ―デ


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主祭壇後方の3点の作品は、ベルナルディーノ・ノッキ(ルッカ、1741‐ローマ、1812)によって、1807年に制作されました。
左から、「聖ティモテウス」、「聖プデンツィアーナの栄光」、「聖ノヴァトゥス」


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ニッコロ・チルチニャーニ通称イル・ポマランチョ(ポマランチェ、1530c‐1597c)の後陣フレスコ画


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詳細不知


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詳細不知


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ピエタのモザイク


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Cappella Caetani


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外に出ました。


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(この項、おわり)